6.2026天文単位の孤独

選評

  1. 【新井素子:1点】
    タイプミスが多く、書いたあとに読み返していないように見受けられた。自分で直せる欠点は直したほうがいい。また、一人称の区別もややわかりづらく、少し工夫するだけでずいぶん読みやすくはなると思う。また、鳩の孤独の話などは、それそのものを直接説明するのではなく、描写によって理解させる工夫がほしい。

    【鈴木一人:0点】
    鳩側の都合で知能が上がったのなら、人語を理解しないほうが自然なのではないかという点が疑問。またラブストーリー(甘口の小説)として成立させるのであれば、もう少し読むのにストレスがかからないような書き方をしないと、読者のほうがついてこれないのではないか。ピジョンレースの設定や情景描写、緊張感などのディテールを描き込んだうえで、一人称よりは三人称にし、全体像を明かさないほうが読者の興味を持続できるかもしれない。どこまでを書きどこからを想像に委ねるのか、さじ加減を大事にしたい。

    【大森望:1点】
    おなじ作者のこれまでの通過作と比べると、少しつまずいてしまった印象。SF的な設定で勝負するというよりも、エンタメ王道のものを描く筋力が求められる話だったことが裏目に出たのかもしれない。こういう話は盛り上がるべきどころできちんと盛り上がることが大事。レースのシーンでは、SF設定を活かしたドラマを作ってほしかった。

    ※点数は講師ひとりあたり8点ないし9点(計26点)を4つの作品に割り振りました。

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梗 概

6.2026天文単位の孤独

遠未来、人間は科学技術によって太陽系の外縁まで移住圏を広げていた。
一方で鳥類は、人間が地球に(うっかり)持ち帰った宇宙生物と交配することで宇宙空間を克服した。
しかも人語をしゃべるようになった。今では宇宙空間を鳥たちは飛び交っている。

地球に暮らす中学生の勇人と遥渦はパートナー鳩のブラド、サブレとともに太陽系最大の鳩レース、ガニメデ・モースリードに参加することを目標に鍛錬に励んでいた。

勇人は鳩に学校をサボって鳩をそだてていた。
エサを管理し、繰り返し繰り返しトレーニングする。
週末には遥渦とともに月まで行って帰郷の実施トレーニングをした。

二人はガニメデ・モースリードに申し込み、当選した。
ガニメデ・モースリードの出発点は木星の衛星ガニメデ。ここに太陽系中の鳩を集め、一斉に放す。鳩達はそれぞれ自分の鳩舎へと太陽系中に散らばって帰っていく。
スタートからそれぞれの鳩舎までの距離を正確に測り、到着時間でわった平均の移動速度で順位をつける。

勇人と遥渦は大会に望む。
「地球で待ってろよ」とブラドは勇人に言った。

しかしレース開始一ヶ月後に太陽嵐が発生する。
太陽嵐によって、勇人と遥渦の鳩を含むおおくの鳩が消息不明になった。

受けてレース運営から今回が最後の大会になることが告知される。

多くの消息不明の鳩を出したからということもあるが、背景には
鳩の帰郷本能が年々弱まり、レース開催の度に帰還率がどんどん低くなっていることがあった。
レースの運営維持が難しくなっていた、やむを得ない判断だった。
勇人と遥渦は鳩たちを待ち続けるが、しかし1年待っても帰ってこない。
やがて遥渦は地球を離れ火星に移住する。
珍しい事じゃない。人間もまた、地球への望郷の念を忘れて宇宙に出て行った。
勇人たちもまた地球を故郷と体感する、最後の世代だった。

4年の歳月が過ぎた頃、ようやく鳩が勇人の家に帰ってくる。
大会レースで唯一の、帰還した鳩だった。

文字数:799

内容に関するアピール

今回は宇宙モノにしようと思い、宇宙鳩レースという題材にしました。
お題としては遊戯ですが、チェスがオリンピックの種目になるそうですし、スポーツやレースのたぐいも広く遊戯のくくりに入ると考えました。

テイストとしては競技を通した青春モノを予定しています。

また鳩の帰郷本能と宇宙に進出した人間たちが地球への思い入れが薄れていく様子を重ねあわせて描くことで、
太陽系全体を舞台に鳩レースをする必然を持たせることをねらっています。

リオオリンピックが終わって東京オリンピックに向かっていく昨今ですが、
競技で勝ち取られる真の栄光とは何なのかを、薄れゆく帰郷本能の描写とともに描きたいと思います。

 

文字数:288

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石垣島に着陸したころには、すでに太陽が水平線から顔を出していた。
鳩舎から西に約2000km。一人乗りのロケット – ドルフィナス- に乗れば20分とかからない。
ロケットから降りるとすぐに荷台からゆっくりと籠を取り出す。
籠の中で蠢くは二羽のレース鳩。
「いつでもいいぞ」
籠の中からブラドが言った。ブラドは雄鳩で俺のパートナーだ。
「オーナーから伝言。明日はおまえが鳩舎掃除やれ。だってさ、勇人」
「遥渦のやつ…」
サブレは遥渦のパートナーの鳩だ。
サブレとブラドは競技レースのために交配されたレース鳩だ。
かつて人類が地球に持ち帰った地球外生物と交配した結果、
宇宙空間に適応した身体を手に入れた。知能もついて人語を話すようになった、交配種だ。
「いつもの通りだ」
「方角も距離も秘密、だろ」
ブラドもサブレもうなづいた。
日課で毎朝行っている帰巣訓練。
放鳩地点の方角は日によってランダムに変えるが、どちらにするかは二羽には教えないし、移動中も外は見せないようにする。
太陽の位置や惑星の磁気感覚のみから鳩舎の場所へと帰る訓練だからだ。
籠の蓋をあけるとブラドとサブレが飛び出した。
飛び立つと同時にブラドとサブレの翼がみるみる形態を変えていく。
翼が根元から裂けて、左右それぞれ3枚、計6枚の皮膜が広がる。
薄く血管が浮き出たその皮膜の羽ばたく様は、さながら昆虫にも似ていた。
羽ばたく風圧に土埃が舞う。次の瞬間。そこにはもう姿はなく、弾丸のように彼方の高みを飛んでいた。
ああ、あいつらはこの星の重力の軛から自由なんだ。そう思うと胸が高鳴った。
すぐさま籠をしまい、ドルフィナスに乗って後を追う。
ドルフィナスのスペックなら、本来は10分程度で帰れるはずだが、
大気圏内は速度制限があるので実際は20分くらいかかる。
高度がますごとに空気が薄くなり空がだんだん暗くなる。成層圏にとどくころ、ナビに通知が入った。
ブラドとサブレはもう鳩舎についたようだ。
放鳩から7分と20秒。上々だ。
鳩舎のそばにそっと着地する。
鳩舎はもともと廃墟だった集合住宅の一室を俺が勝手に改造したもので、周囲は手入れをする人がなく、鳩舎の周囲は宇宙外来の草木が侵食している。
かすかにオゾン臭のするフラクタル図形の草を踏み歩いく。
地球原生にもこんな形の野菜があったな。名前は、たしかロマネスコ。あんなのがワラワラと生えている。
遥渦が八極拳の片足の構えをして出迎えた。
太眉、伸ばしっぱなしの髪にだるっとしたジャージ。寝巻きなんじゃないか?
花盛りのとしごろだっていうのに、それには関心がないと喧伝するような適当なかっこうだ。
「水飲んでる、今」
「そうか。助かるわ」
遥渦は15歳だから、まだ一人乗り普通ロケットの免許は取れない。
二人乗りもできないので、朝の帰巣訓練の間は留守番して鳩舎の水の交換と食事の用意をする係をしている。
鳩舎に入るとブラドが羽を広げた。
「よう勇人、遅かったな」
「っせえなてめえ」
わしゃわしゃ羽をなでてやると、クぅルルと鳴いた。
遥渦が飼料をの袋を持って鳩舎に入ってきた。
「はい」
アルミプレートに飼料を入れる。
とうもろこし、大麦、大豆、麻の実といった地球原生の穀物類に、隕石の粉末、銀麦などの宇宙外来の飼料をまぜてある。
愛鳩家は、飼料に一段と気を使う。いろいろ創意工夫の結果、この飼料の配合に落ち着いている。
一通り片付けが終わって、学校に行く準備をしていると、遥渦に背中からどつかれた。
「ってぇな、なにしやがる」
「鉄山靠」
平生の顔で言った。
「おまえなあ…」
不意に遥渦と目があった。蕩けたような大きな目に長い睫毛、潤んだ瞳。
遥渦は何か言ったが、声が小さくてよく聞こえなかった。
「…じゃあ行くわ」
ドルフィナスに乗り、学校へ向かった。
遥渦とは同じ中学だったが、話すようになったのは最近のことだ。
中2のころ金星から転校してきた。クラスは別々で面識がなかったし、その後この区域で一番学力の高い高校に進んだんで、関わる機会はすっとなかった。
最近になって学校をさぼってブラブラしてることが増えていった。
遥渦にどういう事情があったのかはよく知らないし、関心もなかった。
けれども、鳩舎がわりと遥渦の家の近所だったということもあって顔をあわす機会がふえたし、そのうち会えば挨拶を交わすくらいにはなった。
そんなこんなでだんだん鳩にも興味を持ち始めたようで、ある日、自分の鳩を飼い始めた。
「サブレっていうの」
「いやおまえ、そのネーミングセンスどうなのよ」
あたしは気に入ってるよぉ、とサブレ(と名付けられた鳩)が言うので、俺もそれ以上口を出さないことにした。
優等生かと思っていたが、実際に関わってみたらよくわからない変なやつだった。
遥渦、顔はそこそこ整ってるのに、もったいないなあと思う。
本人には言わないけど。調子に乗りそうだしな。照れくさいし。
教室についたときには、すでに授業が始まっていた。
「しっかり聞いておかないと後で困ることになるぞ」
「ええ、はい」
曖昧な返事をして席に着く。
先生は俺を当てておきながら、何事もなかったように授業を進めていた。
朝が早いので授業が眠い。
やれ400年前に新粒子を発見されて技術革新がおきただの、
宇宙進出が進んでオールト雲の領域まで人が移住するようになっただの、
そのころ宇宙生物が発見されただの、うっかり地球に持ち帰ってしまって生態系が侵食されているだの。
そんなのあらためて習わなくても知ってるっつうの。
学校なんてのは人間未満の毛のない猿どもを入れる箱。社会から隔離して画一管理するための施設。
つまりはケージだ。こんな制度も数百年続けば守るべき伝統にすりかわる。
学校教育なんてのはそんなもんだ。
小さくあくびををして、窓の外をながめた。
林立する廃墟の隙間を、渦巻きや斑点や、奇っ怪な造形の草木たちがおおい隠している。
空は宇宙が透けて見えそうな深い青をしていた。
四階の教室から見える景色は、地平線の上と下で対照的だ。二つの境界に今俺はまどろんでいる。
青い空を、人知れずゆるやかに雲が流れていった。
うつらうつらとしていたところに、拡張視覚にメッセージが現れて目が覚めた。
『舎外訓練させておく』
遥渦からか。
メッセージを読み終わると同時に、空にふたつの白い点があらわれた。
あのふたつの空を横切る点、ひょっとしてブラドとサブレか。
『授業中なんだよ。バレたらまた学校に通信止められる』
マジメな奴、と返信がきた。
まじめなわけじゃない。
窮屈さに慣れようとしてるだけだ。
学校に。
この惑星に。

籠の隙間から入ってくる空気潮の匂いがして、翼が疼いた。

こっちはいつでもいいぞと言って勇人を急かす。

となりでサブレが遥渦の伝言を伝える。

「おまえはオーナーと仲いいよな」

「ブラドはもうちょっと素直になった方が可愛げあるよぉ」

「うげっ」
勇人が口上のように、帰巣訓練の説明をした。 毎度毎度、じれったい。
息を大きく吸い込んでその時を待つ。

「方角も距離も秘密、だろ。わかったから早く開けろボケ」

「てめークソみたいなタイムだったら焼き鳥にしてやるからな」

籠が開いた、と同時に飛び立つ。わずかに後をサブレが追いかける。

さしこむ朝日とともに右目が地磁気をとらえた。電磁波のノイズが混じっているが、どうやら緯度はそれほど鳩舎と変わっていない。

翼を一度、はばたかせる。目の前、水平線の上に太陽をとらえた。思ったより高度が高い。

ということは鳩舎は東か。勇人のやつ、鳩舎とは反対に向けて籠を開けたんだ。

次の羽ばたきで急旋回をして背中側にに向きなおす。ここまで3秒。

メキメキと翼が裂けて6枚の羽に姿を変える。ただ純粋に、より速く飛ぶための姿へ。

大きく吸い込み、気嚢にプラナを溜め、体の隅々に行き渡らせる。加速…

思考が沈んでいく。トラスト構造の骨格が軋む。音速の壁を砕き、一気に加速/第一宇宙速度まで…

最高速度に達したときには、高度は熱圏に達していた。ここまでで3分と9秒。

天と地の境界線は地球の丸さをよく表している。降りそそぐ宇宙線がつくる大気蛍光の軌跡が時雨のようにふりそそいでいる。下界に見える島は今、と夜の境目だ。山々が長く影を落とし、この島国の形を際立たせている。

ここからなら磁気覚にたよらなくても目視で正確に目的地を把握できる。

6枚の羽で方向を微修正しながら今度は減速をかける。気をつけないと、勇人の言ったように本当に焼き鳥になっちまう。

3枚の羽で右巻きトルクを、もう3枚の羽で左巻きのトルクをつくり、相殺させて減速をかける。羽に負荷がかかり、みるみる高度が降りていった。陸が、平野が、川が、街が、建物が見えてくる、鳩舎は…もう目の前だ。すぐそこに見える。
十分減速をしてから羽をたたみこみ、翼でブレーキをかけて。ふわり、と、鳩舎の入り口に着地した。入り口のセンサーが到着時刻を記録して、勇人に通知を飛ばす。
大きく吸い込んで少し息を止め、吐き出した。
振り向くと彼方にサブレが見える。数秒ののちサブレが到着した。

「7分と、19秒。サブレは40秒」

遥渦がかけよって言った。
「まだまだだな」
「ぼちぼち、いいなじゃない?」
サブレが言った。
「そんなこと勇人には絶対言うなよ」
まだまだタイムは縮められる。
遥渦がもじっとして、小声で何か言っている。

「どうした遥渦ちゃん」

「新鮮な水があるから飲みなって」
遥渦がサブレに耳打ちをした。

「水浴び用の水も用意してあるってさ」

遥渦がコクコクと頷いた。

「通訳かおまえは」

「どういたしましてぇ」
サブレは楽しそうだった。
朝練が終わって勇人たちが学校に行ったあとも、
遥渦は鳩舎のまわりで本を読んだり、動画を見て八極拳の練習をしたり、宇宙外来種の草を引っこ抜いたりして暇をつぶしている。
そんな様子を横目で見えてると、サブレが壁越しに話しかけてきた。
「遊ぼうよ」
「舎外訓練なら一人でしたいけどな」
「ちがうよ。はるちゃんとだよ」
サブレが優しい声で言った。
「はるちゃんはさ。家が引っ越し多いんだって」
「あー、勇人から聞いたことある」

たしか中2のとき金星から引っ越してきたと言っていた。

遥渦はの商人の一族で、星を渡って商いをしているらしい。
一族の絆は強くて束縛が大きいが、その分一族の外側の社会には頓着がない。
地球の学校にあまり行かないのはそこから来ている気がする。
「そう珍しくはないんじゃないか。人間の事情はしらないけど」

「金星の前は火星、その前はまた別の星に住んでたって。だから人と関わるのに関心が薄いんじゃないかな」

「どういうことかわからない」

「ほら、引っ越すたびに人間関係リセットしちゃうから」

連絡取り合う手段がないわけじゃない。 けれど星間ほどの距離を離れるとなると、どうしても友だちはできにくいようで。

人間ってのは、技術をいくら進歩させても、お互い理解し合うのはちっとも簡単にならないらしい。

遥渦が鳩舎の扉を開けた。
「いいよ。舎外訓練しよ、だって」
サブレが言った。
天頂目指してはばたく。旋回し見下ろす街の中に、勇人の学校がみえた。
鳥類は人間よりも格段に目がいい。こちらから勇人は見えるけど、むこうからこっちは見えないだろう。

勇人は遥渦のことどれくらい理解してんだろう。

俺のことわかった気になってるだろう。

あいつはすぐにわかった気になって自己完結するからな。
なあ勇人。俺はいつも渇いてる。いつも帰らなきゃっていう本能にとりつかれているんだ。
こんな俺を、おまえは自由だとでも思ってるのか。
空をひるがえって、はやぶさのように真っ逆さまに、鳩舎へと帰った。

月レースを週末のある夜に、はるちゃんは天文情報を調べては唸っていた。
「どうしたの?」
<レース当日は流星群のピーク>
レースに危険ってこともないだろうけど。
「心配?」
ぶんぶんと首を振った。
<サブレの見る景色、わたしも見てみたいなって思ったの>
「でも無理でしょ。遥はロケット乗れないじゃん」
「勇人に頼んでみる」
<でも…そんなのみんなが許さないよ>
はるちゃんの家の束縛は大きいだけど最近は反抗期みたいだ。
「うちの人たちが心配するよ」
<…それでも見てみたいの>

レースの当日の早朝。
サブレと勇人の鳩舎に行くと、すでに勇人がいた。
「おう来たな。いそいで籠に入ってくれ」
勇人が急かした。
「まって、遥も連れていけない?」
サブレが言った。わたし、まだ何も言ってないのに。
大きなレースなら共催の業者が輸送してくれるのだが、月レースくらいの小規模だと参加者自身が鳩を放鳩地点を放鳩地点までつれていかないといけないんだけど、
遥渦はまだ免許をとれないので、サブレは勇人にロケットで連れてってもらうことになっていた。
「ドルフィナスは無理だって。一人乗りだぞ」
「…お願い」
声を絞り出した。
「お前のうちの人にバレたら俺が責められるんだぞ」
「うちの人はいいって言ってる」
嘘をついた。
「…わかったよ」
勇人がロケットに乗ってエンジンをかけた。
ロケットのエンジンにプラナが巡り、ゆっくりと上昇を始める。
地上10mまで飛んだところで、一気に加速し、大気圏の外へ出た。
空はやがて宇宙の中に溶けていき、星々があらわれる。
背には青緑の惑星。眼前には月に火星。あそこに見えるのは土星かな。
 ひかりけだかくかがやきながら
 その清麗なサファイア風の惑星を
 溶かそうとするあけがたのそら
「なに?」
頭に浮かんだ言葉が声に出てた。
「えっと、詩だよ。わたしの好きな」
「ふうん」
勇人はなんとも思ってないみたいで安心した。
わたしはこころの中で続きを読んだ。
 …ぼくがあいつを恋するために
 このうつくしいあけぞらを
 変な顔して 見ていることは変わらない
 変わらないどころかそんなことなど云はれると
 いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる
「勇人」
「どうした?」
「勝とうね。レース」
「…飛ぶのはブラドとサブレだよ。俺たちじゃない。どれだけがんばっても、俺たちができるのはレースが始まるまでのサポートだけだ」
「でも。それでもわたしはサブレに入賞してほしいよ?」
今しかない。そう思った。勇人の気持ちが聞きたいと思った。
「勇人はレースの勝ち負けとか、どうでもいいの?」
「…入賞してほしいよ。ブラドにも」
ロケットのナビが地球-月のラグランジュポイントを通過したことを知らせた。もうすぐ月に着く。
「遥渦さ」
「うん」
「今日はよく話すね」
「…うん」
ああ、もうすぐ月についてしまう。
もうすこしだけこの時間が続けばいいのに。

太陽の影にかくれ、ツォルコフスキークレーターの中心でレース開始の準備が進められている。
レース開始までは時間がある。先に地球に帰っててもいいんだが。
「遥渦」
宇宙服の無線越しに話しかけた。
「なに?」
「レース開始を見てから帰ろうと思うんだけど」
「うん」
受付で量子暗号の入った足輪が配布され、これを鳩につける。
鳩が鳩舎につくと足輪の量子暗号を読み取り、時刻と位置情報が大会記録のサーバに送信される。
位置情報発信機もついているが、長距離レースの場合、宇宙線でレース中に壊れることが多かった。
長距離レースの期間率が今なお低い一因はこれにある。
足輪をつけた後、ブラドとサブレは鳩舎で待機。スタートとともに放鳩されるという手順だ。
レース開始までそこらを歩き回ることにした。
放鳩ポイントのまわりには出店もたくさん出ていて、そこそこ賑わっている。
不意に遥渦がぼやいた。
「わたしも、勝ちたい。サブレに勝ってほしい…」
「サブレは勝機はあると思う。血統がいいし」
レース鳩は血で才能の大部分が決まる。
必然的に血筋のよいレース鳩は価格跳ね上がり、
高いものは地球の平均月給の半年分にもなる。
庶民が趣味で手を出すには贅沢品だけど、遥渦は商人の一族だし、金はたくさん持ってる。
親に頼んで高いものを勝ってもらったんじゃないかと俺は考えていた。
「サブレは特別。母親がね。遺伝子操作がされてるの」
「えっ? 禁止されてるんじゃ」
「サブレのお母さんは、禁止される前のやつ」
「マジかよ」
いったいいくらで買ったんだ。
レース鳩の遺伝子操作は、2,3年か前に禁止になった。
それ以前は遺伝子改良された鳩がレースの上位を独占する事態が当たり前だったらしい。
レースに特化して改良された鳩に対抗できる鳩は決して多くはなかった。
遺伝子操作の鳩とその子どもはピジョンレースへの出場は禁止されたけど、孫までは禁止されていない。
表にはあまり出てこないけど、相当な高額で売り買いされているんだろう。
「でもさ、放鳩訓練だとサブレよりブラドの方が速くない?」
「距離が短いってのもあるのかな」
鳩には向き不向きがある。長距離が得意な鳩もいれば、短距離を得意とする鳩もいる。
「ブラドって、どこで買ったの?」
「買ったんじゃないよ。拾ったんだ」
歩きまわっていたら会場エリアの縁まできてしまった。
ここから先は荒野が広がっている。
月の裏側は今も入植がそれほど進んでいなくて、こういった荒野がまだそこここに残ってた。
荒野の上に、ひとつ動く影が見えた。
白い影は旋回し、月面に降りていった。
「行ってみよう」
俺が走り出すと、遥渦が後を追った。
走っても走っても近づかない。
目視では近くに感じられたのに、実際歩いてみたら相当離れていた。
大気が希薄な分、地球よりも遠くまで見通せるみたいだ。
「まってよー」と無線から遥渦の声が聞こえたので、いったん立ち止まった。
むこうに見える人影は宇宙服越しで、背丈以外性別も人種もわからない。
「何なのあれ」
ぜぇぜぇ息を切らして遥渦が行った。
「やっぱりあれはレース鳩だ」
「もうすぐレースだよ? 無駄に疲れさせてどうすんのさ」
「わからない」
ふたたび人影に向かって走りだす。
こちらが声をかけるより早く、あちら側が気づいて通信してきた。
「やあ。きみたちもレース参加者かい?」
「え、あ、はい」
無線の声から察するに男、歳はやや上、といった印象だ。
やっぱり空を鳩が飛んでいる。
「そもそもさ。なんで空気ないのに飛べるんだろ」
遥渦が言った。
「光を漕いでるんだ」
男が言った。
「宇宙は光で満たされているから、光圧で推進力が得られるのさ」
「光なんてどこにあるんだよ」
俺は言い返した。
「宇宙背景放射。ビッグバンの名残だよ。
 鳩が形態変化して羽を羽ばたかせるとき、羽の速度は亜光速に達している。
 それほどの速度になると、宇宙背景放射の光子であっても粒子性を持つ。
「なんだかよくわからない」
「GZKカットオフって言葉を調べてみな。実際に超高エネルギーの宇宙線は背景放射の光子に衝突するんだ」
わかったような、わからないような。
男が腕を伸ばすと、宙を飛んでいた鳩がとまった。
その鳩は、ブラドにそっくりだった。
「この鳩は」
「ああ、僕の鳩だよ」
そういって男は腕を差し出した。
「クランだ。よろしく」
鳩が言った。
「どうしたの?」
「ブラドにそっくり」
遥渦が言った。
男が首をかしげた。
「ブラドというのは?」
「俺の鳩です」
「ブラドは拾ったって言ってたよね、勇人」
「本当ですか? クランには行方知れずの弟がいたんですよ」
男が言った。
「レースで帰還できなかったんです」
ピジョンレースは過酷なスポーツだ。帰還率が半分を割るようなレースはざらにある。
多くは途中で力尽きて死んでしまうか、帰る場所を忘れて野生化してしまう。
「あなたが鳩を拾ったのはいつごろでしょうか」
「2年前、5月」
「フレッチャー…わたしの弟の行方がわからなくなったのはちょうどそのころだ」
クランが言った。
「じゃあやっぱり、ブラドはクランの弟だったってこと?」
遥渦が俺に聞いた。そんなの俺もわからない。
「ブラドを拾ったとき、あいつは記憶喪失だったんだ」
ジャックの言うことが本当なら、ブラドはあいつの鳩だったかもしれない。
ちょっと考えればわかるのに考えないようにしてた。ブラドがレース鳩なら前の持ち主がいる。当たり前のことだ。
「もしそうなら、あなたに返すべきなのかな」
男の答えを待った。
「それは返してほしい。でもそれはフレッチャー…いえ、ブラドさん自身が決めることだと思います」
「うん、わたしも、そう思うけど」
遥渦が相槌をした。
「…そうだな」
それ以上言葉が続かない。
ブラド。お前には帰るべき場所が別にあるのか。

開始を目前にして、緊張が高まっていた。
俺以外の、他のレース鳩を鳩舎の中も同様で、みな翼をさざなみ立たせて、ホウホウと鳴いている。この鳩舎には500羽程度がいるが、他にも同じような鳩舎がたくさんあり、レースに参加する鳩は合計2万にも及ぶと聞く。サブレは別鳩舎のようだ。
帰る。ただ純粋に、それだけに意識を集中させよう。
宇宙生物と交配されたレース鳩は、体内にプラナ機構をもっている。
遥渦から聞いたところによると、
2世紀前に太陽系の外縁で発見された宇宙生物は未知の粒子をエネルギー源としていることが発見されたという。
未知の新粒子は宇宙空間に満ちているが、相互作用をほとんどしないためにいままで発見されなかった。宇宙生物は効率よくその粒子をとりこみエネルギーに変換する生体システムを持っていた。
人類は未知の粒子をプラナ粒子、生エネルギー変換システムをプラナ機構と名付けて、宇宙工学に応用させて、居住圏を宇宙に広げた。
勇人のロケットもプラナ粒子が崩壊するときに出されるエネルギーを利用して推進している。
宇宙空間に適用した体とはいえ、ずっといられるわけじゃないんだ。
このプラナ機構は、水と大気のある場所でないとまともなパフォーマンスを発揮しない。そのためレース鳩たちはスタート前にプラナ粒子を取り込み蓄える。
人間で言えばさながら、素潜りの前に深呼吸をするようなものだ。
意識を集中させ、プラナ粒子を取り込む。深く、十全に、体の隅々にまで行き渡らせる。
準備はOK。レース開始は次の瞬間かと待ち構える。
ガシャンと鳩舎の天窓が開いた。レース開始だ。50におよぶ鳩舎から2万の鳩が飛び立つ。
月の空に浮かぶ鳥たちの帯帯は束ねられ、川のようになって地球へと流れて行く。
サブレも無事に出発できただろうか。
放鳩の混乱に巻き込まれて早々にリタイアする鳩も中にはいる。
だめだ、無駄なことに意識をさかない。そんなのに意識を割く余裕はない。思考を鈍化させ無駄な代謝を抑えろ。
目視で地球の位置を確認。まずはそこめがけて加速する。
翼から6枚の羽へ、そしてさらに形態変化をする。羽が縮んで、より複雑な形態へ。無数の襞が広がり、その一つ一つの襞が回転する。
この形態は何もない宇宙空間でも推進力が得られる。原理はよく知らない。前に遥渦が説明してくれた気もするが忘れた。
月の衛星軌道に乗った。今のところは先頭集団だ。次の周回でさらに加速をつけて、スイングバイで地球に向かう。
月の衛星軌道から見た地球は、ほとんどが太陽の陰だった。夜の地球に灯る文明の明かりには、かつて栄華を極めた頃ほどの輝きはない。らしい。太陽系全体に人が住めるようになった今、資源を取り尽くし干からびた惑星にしがみつこうなんて人は決して多くない。ネイティブの地球人は今もうほとんどいない、と勇人は言っていた。
月のラグランジュポイントを通過するころには、先頭集団は徐々にばらけてきた。それぞれに帰る場所がある。それぞれに向かう場所がある。
宇宙の中、帰るべき場所を求める衝動が俺を突き動かした。
暗闇の中にただひとつ、自分の鼓動だけが響いていた。
体が孤独に包まれる。まわりには何もない。変化のない緩慢な時間が流れた。
帰る場所。帰るべき場所。それは何処だ…。
そのとき、何かが追い越していった。すぐにそれが何なのかわかった。
レース鳩。俺とそっくりの。
クソッ、負けられるか。必死にその鳩を追いかけた。
前の鳩をピタリと追いかけながら、地球に近づいていく。
もう少しで大気圏に突入する。
大気に無数の光の筋が明滅している。そういえば今日は流星群のピークだって、出発のときサブレが言っていたな。
 前を飛ぶ鳩が形態を変えて速度を落とした。
合わせて自分も羽を広げた形態に戻り速度をおとす。
突然、前を進む鳩が急に軌道を翻した。同時に、そいつが通るはずだったところを黒い影が横切った。何かが襲ってきている。一度旋回してぐるりと見回した。視界の隅に黒い、ぶよぶよした影を捉えた。宇宙生物。クリトルリトルと呼ばれる種族だ。俺たちレース鳩にもあいつらの遺伝子が混じっているが、俺たちにとってはご先祖の血縁者というよりは捕食しようとする狩人だ。
やばいぞ、奴がこっちにくる。
思うや否や、数キロの距離を一気に詰めてきた。引きつけてから軌道を反転させてかわす。
ギリギリだ。羽先が掠った。
宙を反転しながらも目は逸らさない。一瞬でも視界から逃したら命取りになる。奴がこっちにくる前に体勢を整えないと…だめだ間に合わない。
鳩が、クリトルリトルの前を横切った。前を飛んでた奴。挑発して引きつけている。
助かった。今のうちに距離を取ろう。でがあいつはどうするんだ。
流星が、クリトルリトルを貫いた。
5センチ大の流星の破片が当たったようだ。誘導してぶつけたのならすげえ奴だ。
クリトルリトルがひるんだ隙に、一気に高度を落とす。
もう一人の鳩も、クリトルリトルも。体が焼けるギリギリの速度で大気圏を落下する。
下に雲が見えた。あそこに身を隠そう。羽をギリギリまで閉じて減速をゆるめ、雲につっこんだ。
✳︎
雲の下に出ると、赤い雨が降っていた。
どうやら振り切れたようだ。あいつは、あの鳩は逃げ切れただろうか。
雨の中飛ぶのは体力を使う。それでも今は帰ろう。帰る。元いた場所へ勇人のところへ。
それにしても、こんな雨は見ことがない。
羽が染まりそうなほどの赤い雨の中を、鳩舎めがけて飛んでいった。

地球に帰るロケットの中、
ロケットが大気圏に入る直前に、ディスプレイにブラドが鳩舎に帰還した表示された。
「ほら! ブラドは帰ってきたよ」
遥渦が言った。
「だとしても、これからのことはわからないだろ」
「いままで勇人とずっと、一緒だった、じゃん」
「言葉が通じるっつっても種族が違うんだぞ。
あいつらの帰巣本能は人間とはまるで違う。
帰るべき場所が別にあると知ったらそっちに帰るのが普通かもしれない」
遥渦もそれ以上何も言わなかった。
ロケットが雲の下に抜けると、窓がピンク色に濡れているのにきづいた。
「雨自体が赤いみたいだ」
「…ケーララの赤い雨」
「なんだそれ」
「ううん。昔ね。赤い雨が降ったことがあるんだって。ケーララの赤い雨って呼ばれてる。雨が降る前に流星が空中で爆発して、それで赤くなったんだって」
「ああ、今日は流星群のピークなんだっけ」
「うん。流星の破片が雨を赤くしたの。でもその赤い色は、微生物の細胞の色だったんだて。宇宙にも生き物がいた。当時は大発見だったらしいよ。生命の起源は宇宙なんじゃないかって説が有力になったの」
「すべての生き物は宇宙から来たってのか?」
「かもしれない。どうして宇宙生物と鳥が交配できたの? そもそもの起源は同じ生き物だったって考えるほうが自然な気がする」
「でも…」
ブラドの帰る場所はどこなんだろう。帰るべき場所は? 頭が混乱するばかりだった。
赤い雨が、いつまでも降り続いていた。
レースの結果、ブラドは36位。サブレは48位だった。

ブラドとサブレがガニメデレースに当選した。公には公平な抽選によって選ばれることになっているが、レース成績が優良な鳩が優遇されることは公然の事実だ。
月レースでそれなりの成績を出したことが功を奏したのだろう。
だけど、俺は迷っていた。
いつもの日課で鳩舎に向かうと
鳩舎ではブラドが、羽を繕っていた。
「お前との付き合いも結構長くなるよな」
「なんだよ急に」
「俺と会う前のオーナーにあった」
「本物かよそれ」
「実はな。お前の抜けた羽からDNA解析させてもらった」
まともに見れない。ブラドの赤い目を。
「間違いなさそうだ。」
「そうか…」
ブラドはピョンピョンと鳩舎を歩き回った。
「おまえはどうしたいんだ?」
「俺は、お前に帰ってきてほしい」
「勇人」
「なんだよ」
「地球で待ってろよな」
迷いのない言葉に、背中を押された気がした。
「ガニメデレースは帰還率、2割だぞ」
ピジョンレースは過酷なスポーツだ。多くの鳩は行方が毎回のレースで行方知れずになる。その多くが死んでいるのは想像にかたい。また、レースの帰還率は回を追うごとに下がって行っていた。これはレース鳩の帰巣本能が年々弱まっているためと考えられた。
人と関わる中で本能を失ったのか。あるいは宇宙生物の遺伝子がそうしているのか。
「ああ、わかってる」
「必ず」
そう言って鳩舎の扉を開けた。
ブラドが飛び立つ。日課の舎外訓練。上空で大きく円を描いて、いつまでも旋回していた。

ガニメデにせり立つ渓谷の端に立つ鳩舎。その窓から望む地平線から今、巨大な木星が現れる。
窓から見える渓谷の端に幾百もの鳩舎が並んでいた。その鳩舎に太陽系中から集うレース鳩、その数優に10万超。太陽系最大のピジョンレースが今始まる。
太陽系のかなた、6天文単位の先に帰る場所がある。帰ろう。
音もなく窓が開いた。マーブル模様の木星を背景にいっせいに飛び立つ10余万の鳥たち。
いくつかの群れが支流をなしてとんでいく。迷いなく飛ぶレース上位者たちに他の鳩がついていき、それが大きな流れになっていくようだ。
俺はどの支流に入って行こうか迷っていた。しかししばらくして、自分の後ろにたくさんの鳩がついてきていることに気づく。
ガニメデ、木星とスイングバイを繰り返す。わずかでもタイミングがずれると星の重力にとらわれる。
木星の影でさらに加速する。木星の向こうから太陽が顔を出す頃には、地球時間ですでに6時間が過ぎていた。鳩の数はすでに半分以下になっている。襞を回転させ、加速、さらに加速。トップスピードまで駆け上がり、太陽磁場にそって落ちて行く。レース上位の鳩のトップスピードは高速の1.67%で横並びだ。特殊相対論の効果で光速に近づくほど加速に多くのエネルギーが必要になるからだ。
勝負を分けるのは加速力。先んじて最速に進んだ者が勝負を制する。前へ。さらに前へ…。まる一日が過ぎたころには後ろに続く鳩はなく、ただひとり宇宙の中にいた。
体力も十分残してる。このまま地球に帰る。勇人のところへ。記憶のない俺は、自分が何者なのか、どこからきたのかずっとわからないでいた。自分が何者なのかずっと考えてきた。宇宙を飛ぶ姿は鳥とはあまりにかけ離れてる。さりとて自分が宇宙生物の眷属だと居直るには、人と関わり過ぎた。勇人、お前が帰る場所をくれたんだ。俺が何者かを教えてくれた。俺はレース鳩だ。それを証明し続ける。だから待ってろよ。
はるか先にある太陽がいつになく輝いて見えた。気のせいでないとわかったのはその一瞬後だった。磁場の断層。そうとしか形容できないものが身体を通り抜けていった。磁気覚の混乱。猛烈な眩暈に方向を失った。

そのとき、北極圏の夜空をオーロラの光が包み、地球各地で停電がおきた。
太陽嵐。太陽コロナから爆発的に放射された電磁場と荷電粒子の嵐は、人類の機械文明のインフラを一部機能停止にするほどの威力だった。
すぐにブラドの位置を検索したが捕捉できない。太陽嵐に足輪の発信機も壊れたようだった。レースの主催本部にも問い合わせたが、参加しているすべての鳩の位置情報をロストして、探しようもないという答えが返ってきた。
ブラドもサブレも行方がわからなくなった。

方向を見失って、どこに向かえばいいかわからなくなった。もう少しでアステロイド帯だ一際おおきい小惑星に避難した入植はある程度進んでいたようだが、あるのは無人となった研究施設だけだった。惑星に着地して無人の施設に飛び込んだ。施設の中には先を飛んでいたレース鳩が何羽かいたが、そのうちほとんどが生きたえていた。
生きているうちの一羽が目を引いた。鏡のように自分に瓜二つだ。そいつは何も言わず、外へと飛んでいった。あいつは大丈夫なのか。
くそ、未だに眩暈がおさまらない。とても飛べそうにない。
「ブラド」
名前を呼ぶ声が聞こえた。
死んだと思った鳩の声だった。サブレだ。
「おまえ、大丈夫か」
「無理そう」
「いいの。ブラドだけでも帰って」
「遥渦から伝言。勇人に伝えてほしいの」
「ああ、わかったから死ぬな」
サブレがかすれた声で伝言を言葉にする。
たしかに受け取ったと俺が言うと。サブレは息を引き取った。

レースから三週間が経って、主催から参加者に連絡が届いた。
ガニメデレースは最速で7日。2週間でほとんどの鳩が帰還するが、
参加した鳩は未だに一羽も帰還していない。主催側は今回の自体を重く受け止め、責任をとってガニメデレースは今回をもって終了する、とのことだった。
ふざけるな。レースはまだ終わっちゃいない。
ピジョンレースには公式記録期間がというものがある。定められた期限以内に帰還すれば公式記録として記録が残る。ガニメデレースの公式記録期間は30日間。まだ1週間ある。
1週間以内に帰ってくれば、ブラドの優勝だ。
✳︎遥との別れ
半年がすぎて、一年が過ぎた。ブラドのいない鳩舎は、伸びきった宇宙外来植物で覆われている。
無心にぼんやりしていると、遥渦がやってきた。
「ひさしぶり」
「…こんど、火星に引っ越すの」
「そっか」
「なんか言うことないの」
「別に。めずらしいことじゃない」
こんな資源の搾り尽くした惑星に、いつまでも住み続けてる方が圧倒的に少数だ。それに一年前の災害がきっかけになって、さらに輪をかけて地球外への移住がすすんだ。元いた場所への思いが薄れたのは鳩だけじゃない。人類もだ。俺たちが親父の歳になる頃には、地球から人はほとんどいなくなってるだろう。
「懸命だと思うよ」
遥渦は辺りを見回した。
「わたしは今でもサブレは生きてるって信じてる」
いたたまれなくなって、鳩舎のまわりの草をひたすら毟った。
✳︎
ガニメデレースから1年と半年が過ぎた。今でも暇を見つけては廃屋になった鳩舎を掃除している。ブラドは待ってろと言った。遥渦はまだ生きてると信じてると言った。返ってきたとしても、もはや記録には残らない。だけど、ブラドの生き様に、俺たちの栄光に何の関係がある。レースで飛ぶこと自体にブラドの、俺たちの栄光がたしかにあったんだ。
気がつくと、あたりは暗くなっていた。鳩舎のそばで眠ってしまったらしい。
その時、白んだ地平線の雲の切れ間を飛んでいる何かが見えた。
鳩の姿。見間違いじゃない。
気付いた時には走り出していた。ブラドはみるみる近づいてくる。
羽はちぎれ、ふつうの鳩のように羽ばたいている。あとすこし、もうすこし。
伸ばした手に、翼が触れた。
「…わるい…待たせたな」
「ああ、おかえり」
そうして、待ち焦がれた相棒を抱きしめた。

空港にアナウンスが響き、ガニメデに向かうロケットが発車の準備に入ったことが伝えられた。ガニメデレースに参加するレース鳩たちが、このロケットで送られる。
今日はサブレの、最後の見送りだ。
「あたし、遥渦がオーナーでよかった」
サブレが言った。
「わたしも、サブレと会えてよかったよ」
両手で体を包んで、羽を指でなぞってやると、サブレはケラケラわらった。
「ピジョンレース、初めて本当によかった」
すこしばかりの踏み出す勇気と踏み込む勇気をもらった。
「勇人に伝えてほしいことがあるの」
「それは自分でいいな」
その言葉だけはいつもと違って芯の通った声だった。
まっすぐにサブレを見つめ返した。
「サブレに、伝えてほしいの」
「…わかった」
勝ってほしい。無事に生きて帰ってきてほしい。
純粋な思いと虚栄が共立する、ピジョンレースは業の深い競技だ。
「『勇人。ありがとう。好きだった』」
発射したロケットが、煙をたなびき空を駆け上がって行く。
見えなくなったロケットの、その先の空に幾千幾万の星々が瞬いていた。
   滅びる鳥の種族のやうに
   星はもいちどひるがへる
おきにいりだった詩の最後の言葉が、心に浮かんで消えていった。

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