梗 概
青い海、昏い空
藤澤悠は、生まれ育った寒村で漁業を営む。資源調整のため、厳格に漁獲量が決められている中、毎日割り当てられた分だけ、魚を獲る。趣味が高じて作成したバイオマイクロチップが、養殖から放流、捕獲まで、全ての水産資源を管理してくれた。ある日、突然の不漁が襲う。漁場予定水域外にも魚群は見られない。調べてみれば、魚のえさになるプランクトンが減少しているという。
幼馴染の桜井沙紀が、海洋調査のために地元を訪れた。藤澤が自分の夢をあきらめ、家業を継いで漁師になったのとは対照的に、沙紀は環境省の環境監視員として活躍していた。何気なくプランクトンの話を聞いた沙紀は、海洋汚染が原因ではないと断言する。プラスチック製造・廃棄禁止条約により、プラスチックフリーの環境が維持されて半世紀。魚類や動物の体内からもマイクロプラスチックは見つからなくなっていた。
その回答は、小惑星探査に赴いている二人の友人、極限環境下生物研究者の岩見隼人からもたらされた。沙紀が持参した惑星間通信機が、深宇宙の岩見と一漁村の藤澤をつないだ。見慣れない探査船内部に心を奪われる藤澤。気づくそぶりさえ見せずに、岩見は淡々と解説する。プラスチックをエネルギー源にしている細菌群は、想像以上に多岐にわたっていた。プラスチックがなくなったせいで、急速に数を減らしたと考えられる。食物連鎖の底辺に位置しているから、いずれ生態系への影響は避けられないと考えていた。その影響が漁獲量の減少として表れてきている。人間が考えるよりもはるかに生物の変化は早い。
求めていた不漁の原因が推測できた。しかし、藤澤は苦い思いをかみしめていた。幼いころから淡い思いを抱いていた沙紀は、岩見の婚約者となっていた。夢だった宇宙飛行士への道は閉ざされ、辺境の漁村で海に出る日々。手慰みに作ったマイクロマシンの成功が、せめてもの救いだ。
さらに岩見は、小惑星の岩石中に核酸を検出した、と報告した。うまくつながればDNAのような働きをするかもしれない。太陽系の生命は他の恒星系が起源ということも十分に考えられる、と。
折しも藤澤は、プログラムをDNAメモリに乗せ、自律的に作動するマイクロマシンの開発に目処をつけていた。適切な環境を自ら判断し、プログラムを展開すれば、思い通りの生命が発生する。
岩見から送られてきた核酸の結合を調べ、藤澤は愕然とした。同じようなコンセプトで作られたプログラムが仕込まれている。その結果を岩見に報告した。小惑星探査船内に持ち込んでいたら危ない、と……。返事はない。
海岸に大量の魚が打ち上げられるようになった。沙紀の調査で、小惑星で発見された核酸と同じ配列が見つかった。さらに、自律的に自らを変化させるプログラムも含まれていた。地球上の生物が持つ可変性の遥か上を行く系外生命。環境の奪い合いが、今、幕を開けようとしていた。
朝早く、海辺で藤澤が見上げた空は昏かった。
文字数:1200
内容に関するアピール
この作品のテーマは二つあります。
① 簡単に生物(特に微生物)は環境の変化に対応できる。
② DNAは太陽系外の高度に発達した文明がつくったナノマシンかも。
課題の「シーンの繋ぎ」ですが、漁村から宇宙に目が転じたところ(探査船内部がでてきたところ)に、ドラマ(幼馴染三人の関係と主人公の気持ちが明らかになる)と驚き(太陽系の生命は、他の恒星系で生まれたのかも)を乗せました。このシーンから後半は、これからの不安を言外ににおわせるようにしたいと考えています。
なお、プラスチックを分解する細菌はもちろん、DNAを記憶装置にする、宇宙で核酸が作られている、などの設定は、現時点で明らか、または、実現可能なことばかりです。オリジナリティは登場人物が作ってくれると信じたい!
文字数:328
青い海、昏い空
不漁の原因がわからない。
農林水産省から派遣されてきた海洋調査の担当者は、一週間も滞在しているのに、まだ手掛かりさえつかんでいない様子だ。漁港の奥に建つ閑沢漁業協同組合の研究室で、サンプルを目の前にずらりと並べたまま、微動だにしない。
突然の不漁が漁村を襲っていた。じわりじわりと漁獲高は減っていたが、ここまでの不漁は予想外だった。漁場予定水域外にも魚群は見られない。
「何か、わかったか?」
藤澤勇治は、しびれを切らして背後から呼びかけた。振り向きもせず、担当者は頭の後ろで手を組み、椅子の背に持たれた。
「わかりませんねぇ。……だって、そうでしょう? 不漁の原因を調査するって言われて、海水のサンプルばかり並べられても、ねぇ」
「プランクトンが減少している。原因は見えないところにあるのじゃないかと推測したんだがね」
「いろいろやってはみているんですよ」
担当者はのっそりと立ち上がって壁際のインキュベーターに向かう。だらしなく広がった白衣の裾が、ペタペタと響くスリッパの音にあわせて、左右に揺れる。やる気がないのは一目瞭然だ。素人の分際で調査に口を出すな――訪ねて来た時から、そういう態度だった。
だから、藤澤も期待はしていなかった。別の手を、密かに打っていた。
「本省にもサンプルは送っておいたよ。ここの設備じゃ、細菌培養にも同定にも時間がかかる。なかなか結果が出ないようなのでね」
インキュベーターのドアを開けたまま、担当者は厳しい顔で振り返った。
「勝手なことをしてもらっては困る。これは私が解決する事案なのだから……」
「みんなで考えたほうが、早いじゃないですか」
穏やかな声にさえぎられて、担当者の顔色が変わった。いつの間に来たのか、一人の青年が研究室の入り口に立っていた。眉をひそめる藤澤に、小さくお辞儀をして近づいてくる。
「環境監視員の桜井です。農水省から話が回ってきて、――おそらく僕の得意分野だから、なんですけど、急遽お邪魔しました」
「さ、桜井さん。あなたがわざわざ出てくるほどのことじゃないですよ。不漁の原因調査なんて、簡単な仕事ですから」
明らかに動揺している。担当者は、一歩二歩と後ずさり、インキュベーターのドアに阻まれて止まった。藤澤も農水省に連絡はしたものの、こうも早く人が来るとは思っていなかった。しかも、環境監視員とは畑違いもいいところだ。大きな顔をしていた担当者が思いがけずうろたえているのを見るのは、胸がすく思いだが。
桜井と名乗った青年は、藤澤の前に立つと深々とお辞儀をした。
「藤澤さん、ですね。連絡も差し上げずに失礼いたしました。調査依頼を受けまして、明日、伺う予定でしたが、たまたまこちらに向かう都合がありましたので、早いほうがいいかと」
差し出された名刺には、環境省 環境監視員の肩書のほかに、国立極域研究所 極限環境下生物研究室 室長と記載されていた。なるほど。一介の海洋調査担当者は、この若者に頭が上がらない、というわけか。
桜井は担当者に現状を確認して、二、三、指示をする。打って変わったように、きびきびと動き出す担当者を、藤澤は苦々しく見た。
「申し訳ありません。どうも、調査の方向性が間違っていたようで、今、修正させましたから、結果が出るのもすぐだと思います。とはいっても」
言葉を切って、桜井は窓に目を向けた。晴れた日なら素晴らしい眺めが望める研究室の大きな窓の外には、荒れた冬の海に重く垂れこめる鼠色の雲が見えるだけだ。
「とはいっても?」
藤澤は続きを促した。
「もう、結果は出ているんですけどね。送っていただいたサンプルで」
「もう、出ている? それじゃあ」
桜井の背後では、担当者がせわしなく手を動かしている。そちらをちらりと見た桜井が、にっこりとほほ笑んだ。
「追試ですよ。このまま結果を出せなければ、彼の立場もないでしょう」
藤澤は小さく笑った。
「では、その結果は、向こうでお聞きしましょう。遠くまでおいでいただいて、お疲れでしょうから、お茶でもご一緒に」
ありがとうございます、と桜井は頭を下げた。
さわやかでいい青年だ。仕事もできる。年頃は、沙紀と同じぐらいか。応接室で向かい合って座り、熱いコーヒーを手にしながら、藤澤は思った。藤澤の娘、沙紀は今日の夕方帰省してくる予定だ。久しぶりの再会を心待ちにしているからか、どうも意識がそちらに向いてしまう。思わず苦笑が漏れた。
「冬は厳しい場所ですね。ここは」
桜井はここでも窓の外を見ていた。
「オホーツク海だからね、もうすぐ、一面の流氷だ。桜井さんは、寒いのは苦手かな?」
「そうですね。どちらかというと、暖かいほうが。でも、時々はいいですね。身が引き締まります。なかなかこういう自然の環境には身を置けませんから」
そういって桜井は笑った。
この時代、人口の大部分は故郷を離れて都会に住む。インフラ整備のコストを削減するために、地方、特に辺境の地に住むことは奨励されず、居住区と定められた大都市、あるいは中核都市に移住していた。閑沢村のような小さな村に住むのは、第一次産業に従事する者と、田舎に住むコストを度外視でき、かつ先祖代々の地を離れないという決断を下した家系のみとなった。
かつてはこの地の盟主だった藤澤家は、都会に移住することを拒み、家業である漁業を継続することを選んだ。藤澤も若かりし頃にはそれなりの夢があった。それを心の底に抑え込み、長い年月を寒村で漁師として過ごしてきた。かつての自分にもあったかもしれない可能性の片鱗を桜井に見て、かすかなめまいを覚えた。
「環境監視員、といいましたね。どうして環境省にこの話が行ったのか、教えていただけますか?」
動揺を気取られないよう、藤澤は話を本筋に戻した。冬の海と空がよっぽど物珍しいのか、気が付けば窓に視線がいっている桜井は、あわてて返事をした。
「今日は荒れていますけど、とてもきれいな海ですね。このあたりは。……見ただけでは、何か異変が起きているかどうかはわからないのですが」
「農水省にはプランクトンの減少が一因であることは伝えた。だが、それ以上の原因はわからない。おそらくは、海中の微生物が原因かと疑っているところなのだが」
「だから、海水のサンプルが送られてきてたんだ」
自ら納得させるように、桜井はつぶやいた。
「プランクトンの減少からそこまで推定されたのは素晴らしいです。ほかの水域でも水揚げが減っているのですが、そこまで調査されているところはありません。プランクトンの減少は、どのように確認されたのですか?」
かすかにはにかんで、藤澤はこたえた。
「ほんのお遊びでね、水質調査用の自動観測ブイに海洋生物観測装置をつけてみた」
「海洋生物観測装置?」
あっけにとられた表情でつぶやく桜井を見て、藤澤は少し口角を上げた。
「大したものじゃないさ。マイクロファイバーにレンズを付けた、海の中の内視鏡のようなものと思ってもらっていい。自走性があるから、狙った生物を追って、海中を自由自在に動き回ることもできる」
「でも、それでプランクトンが見えるんですか?」
藤澤は窓に目をやり、小さく息を吐いた。
「海の中の景色が、変化していた。魚が少なくなったこともあるが、海藻やほかの生物も目に見えて減っていて、そして、海の透明感が増した。何かある、と思ってね。たまたま、引き出したレンズに付着していたプランクトンが気になって、微生物用の拡大レンズを装着してみた」
桜井がヒューと小さく口笛を吹いた。
「まあ、物好きな漁師の手慰みだ。それ以上はわからないのでね。お上に相談したってことだ」
謙遜してはいるが、藤澤の自作の装置は国から求められる効率的な漁業に貢献している。ほとんどの漁師はきっかり七時間の漁獲作業の後、自由な時間を持て余している。まだ明るいうちから飲みに繰り出す同業者から距離を置いて、藤澤は電子工学を独学した。件の海洋生物観測装置も魚群探査用ソナーに飽き足りず、手当たり次第に集めた部品から一年がかりで作ったものだ。
「資源調整のため、漁獲量は厳格に決められている。漁業は、毎日割り当てられた分だけ魚を獲る、言ってみれば、面白みのない、ルーチン作業になり果てた。漁師でさえ、海に注目する人もいないのが現状だ。だが、私には未知の世界だからね。海の中は」
ひとりごとのようにつぶやいた。ちらりと向けられた桜井の視線を感じる。
「漁労長から聞きました。藤澤さんの作られたバイオマイクロチップは使い勝手がよくて、水産資源の管理に使われているそうですね。それこそ、稚魚の養殖から放流、捕獲まで」
藤澤は苦笑する。ふらりと現れたようでいて、この若者は下調べに抜かりがないようだ。
「国に上がってくる大部分の苦情や相談は、根拠資料が乏しくて、まずは現状調査から必要なんです。でも、ここの漁労は違います。日々、科学的な検証を行って、それに基づいて問題点を挙げています。そういう方々にならわかってもらえると思うのですが」
桜井は、一瞬のためらいを見せた。
「例えば、見えない海洋汚染を疑っていらっしゃるかもしれませんが、実は、その逆の可能性を、私たちは疑っています。それも、かなり高い確度で」
「海洋汚染の、逆の可能性?」
大気中の二酸化炭素濃度上昇に伴う海水のpH低下は顕著だ。植物プランクトンの一部に生育不良や絶滅を引き起こすと考えられている値に、近づきつつある。いや、すでに絶滅が始まっているという可能性は、ある。藤澤も恐れている事態だ。
「それは、海水のpH低下、ということかね?」
確かめるように藤澤が低く声に出す。
「いいえ」
きっぱりと、桜井が否定した。
意外な反応に、藤澤が桜井の顔をまじまじと見つめる。
「それでは、この急激な変化を説明できないのです。我々の推測は」
桜井は一つ大きく息を吸った。
「この、ごみ一つない海」
「?」
「プラスチック製造・廃棄禁止条約により、プラスチックフリーの環境が維持されて半世紀がたちました。海や陸地のみならず、魚類や動物の体内からもマイクロプラスチックは見つからなくなっています。でも、百年ほど前までは、いたるところにプラスチックは存在し、エネルギー源にしている微生物も発見されました。人類がプラスチックを産生し始めてから、プラスチック分解細菌群は、想像以上に繁栄し、多岐にわたっていたのです。それが、プラスチックがなくなったせいで、急速に数を減らしたと考えられます」
全く予期しない方向に、研究者の目は注がれていた。
「その、プラスチックをエネルギー源にしている細菌がいなくなったせいで、プランクトンが減少したと、そういっているんだな?」
桜井が、わが意を得たり、と言わんばかりにほんの少し目を細めた。
「微生物は、ご存じの通り、食物連鎖の底辺に位置しています。いずれ生態系への影響は避けられないと考えていました。それは海洋でも同じこと」
「その影響が漁獲量の減少として表れてきている、か」
「はい」
人間が考えるよりもはるかに生態系の変化は早い。腕組みをしながら、藤澤はどこまでも青い、透明な海に思いをはせた。
「送っていただいたサンプルからは、プラスチック分解細菌がほとんど検出されていません。採取場所は違うのですが、保存してあったサンプルには存在するのです。ただ、その数は過去のサンプルのほうが断然多くて、近年は減少している」
桜井も遠くを見るような目つきをした。
プラスチック分解細菌の分解性能は、発見されたときには微々たるものだった。それが、遺伝子操作で格段の分解性能を持つ種を開発し、自然界に放った。その数は指数関数的に増加し、目論見通り、プラスチックごみの処理に一躍買うようになった。
「プラスチックが製造されなくなって、細菌の栄養源がなくなった、か」
苦笑いを浮かべた桜井が、ゆっくりうなずいた。
「特に微生物は、環境に順応するのが早いです。人間の影響で急速に変化した環境に、驚くべきスピードで対応できます。だから、プラスチックがなくなった今、著しく数を減らして、それが生体ピラミッドの一次消費者、二次消費者と次々に影響を与え、そして、漁獲量の減少という形で目に見えるようになった、ということです」
人間が都合よく使った細菌の逆襲。なるほど。それは自業自得だ。さて、どうするか……。窓の外は気づけば薄暗くなっていた。短い冬の日が落ちようとしている。
「桜井さん、よくわかった。それが原因なら、対策も大掛かりになると思うが、あいにく、今日は用事があってね。これで帰らなくてはならない。また意見交換をお願いできるかね?」
「もちろんです」
さわやかに答える桜井を残して、藤澤は足早に出て行った。
海を臨む高台のバス停に、藤澤は一人たたずんでいた。
海を渡る北からの風は冷たい。羽織ったカーキ色のコートの襟を強く握った。あたりはすでに暗く、バス停の灯が海から立ち上がる断崖の斜面を淡く照らしていた。這うように生える植物の乾いた枝が、激しくしなる。見下ろす小さな湾には、海沿いの道に数えるほどの灯が並ぶ。その向こう、湾の最奥には、周囲の景観に不釣り合いなほど近代的な漁港が、鎮座している。その研究所から、藤澤は車を飛ばしてきた。
モノクロの海と空しか存在しない、北のはずれの寒村。ともに育った仲間たちは、夢を求めて村を去った。一人残って漁業を営む藤澤は、ここで家族を得、一人娘は立派に成長して都会に職を得た。
その娘が、今日、戻ってくる。
身を切るような寒風をものともせず、藤澤は待っていた。もうかれこれ十五分は立っている。日に二本しかないバスは、時間に正確だ。バス停の向かいには寂れたコンビニがあって、いつも時間を持て余している店員が、時折藤澤のほうを見るともなく見ていた。
藤澤の凝視する道のはるか向こうに、小さな光点が現れ、乗用車ではなく、大型の車――バスであると認識ができるようになり、やがて、藤澤の前に止まるとドアが開いた。
が、誰も降りてこない。
「お客さん、乗らないんですか?」
「あ、ああ」
藤澤の目の前でドアが閉まり、バスは走り去った。
乗っているはずの娘が、いない。さては、スケジュールの都合がつかずに帰れなかったか。それも、仕方がない。そう自分に言い聞かせながらも、少し肩を落として車に戻ろうと一歩を踏み出した時、ポケットの携帯が鳴った。
「お父さん。どこにいるんですか?」
妻の順子の声が聞いた。
「どこって、お前、今日は沙紀が帰ってくる日だろう。バス停だよ」
バスには乗っていなかったけど、とは言えなかった。沙紀の帰りを心待ちにしている順子を、がっかりさせたくない。
「なに言ってるんですか。沙紀ならもう家に着いてますよ。お父さん、沙紀からのメッセージ、読まなかったんですか?」
メッセージ? そういえば、ばたばたと研究所から出てきて、確認していなかった。
「気を付けて帰ってきてくださいね。もう、夕ご飯も準備していますから」
なんてことだ。――それでも、表情は自然と緩む。勢いよく車を発進させると、急な坂道を海辺に向かって降りて行った。
家の前に車を止めると、弾むような声とともに、バラ色のセーターを着た沙紀が飛びだしてきた。
「お父さん、ごめん。いつもみたいに迎えに行ってくれてたんだね」
ああ、いいよ。何気ない風を装って発した藤澤の声も心なしか明るかった。
「疲れたか?」
「全然。お父さんこそ、ずいぶん待ったでしょ」
藤澤の腕に手をまわしながら、沙紀は鮮やかに笑う。沙紀は藤澤の世界を彩る、唯一の存在だ。大切に育てた。沙紀の望む人生を送らせたいと、言われるまま、海外の大学にやった。地元に戻らないということも、十分承知で。
来週、沙紀はフォボスに赴任する。火星探査の基地となる実験室を完成させ、地球‐火星循環航路の運用実験。初めての宇宙飛行で、しかも長期滞在となる。隣で生き生きと話す沙紀と次に会えるのは、三年先だ。
沙紀が宇宙飛行士を志望するきっかけとなったのは、育ったこの地の暗い夜空だ。夏空にとうとうと流れる天の川、寒い冬空にきらめく豪華な一等星。暗くなって外に出れば、否が応でも目に入る、宇宙の姿。いつしか小さな沙紀は宇宙への憧れを語り、その、熱を帯びたまあるい頬を藤澤はまぶしく見ていた。
「お母さーん、お父さん、帰ってきたよ!」
思いがけず感傷にふけっていた藤澤は、我に返った。はあい、と順子が中から答える。ふと見ると、玄関に見知らぬ靴がある。来客の予定はなかったはず。
「誰か、来てるのか?」
「うん。今日は、大学時代の友だちに送ってきてもらってね……」
そうか。どうりでバスに乗っていなかったはずだ。しかし、こんな辺鄙な場所までご苦労なことだ。まずは挨拶を、と藤澤は居間を覗いて、目を見張った
「きみは……」
「お邪魔しています。先ほどは、ありがとうございました」
桜井がさわやかな笑顔で答えた。
「……きみが、沙紀を送ってくれたのか?」
それならそうと、会ったときに言ってくれればいいものを。
「お急ぎのようでしたので、言いそびれてしまいました。すみません」
頭を下げる桜井の隣で、沙紀が驚きの声を上げた。
「二人とも、もう会ってたの? 言ってくれればよかったのに~。いやだなぁ、もう。緊張して、損した」
緊張して、損した?
「お父さん、ちょっとお願い」
あっけにとられる藤澤を、キッチンから順子が呼んだ。テーブルには来客用に準備した数々の手料理が並ぶ。
「お前、今日、沙紀があの男と帰ってくるって、知ってたのか?」
小声で順子に確かめた。
「そんなことはいいですから、まずは食事を運んでもらえますか」
取り付く島もない。藤澤は言われるままに居間に皿を運ぶ。居間に入るたびに、沙紀と桜井が楽しそうに話している姿を確認する。三年間留守をする沙紀が、出発間近のこの時期に連れてきたということは、もしかして、……あれか。け、……いやいや、それは考えすぎだろう。たまたま、調査に来る予定と重なっただけだ。そうだ。……そうだ。
「お父さん、何ぶつぶつ言ってるんですか。みんな待ってますよ」
一人勝手な妄想を抱いては消し、を繰り返していれば、居間から順子に呼ばれた。混乱を悟られてはならない。いそいそと席に着く。
「お父さん、黙ってないで、何か言ってくださいよ」
再度順子に促され、もごもごと口を動かした。
「あー、桜井くん、いらっしゃい。わざわざ娘を送ってきてくれて、ありがとう。調査の件も、助かった」
気もそぞろに、思いついたことを話し続ける。テーブルを囲んでいる誰もが、いい加減飽きてきたころ、
「お父さん! まずご飯食べようよ。おなかすいたよ!」
若干の抗議口調で沙紀が遮った。
「お、おう。じゃあ、食べようか」
「いただきますでしょ」
「……いただきます」
和気藹々と食事が進む。藤澤は一人、憮然としたまま。こんなはずではなかった。沙紀の出発前の最後の食事は、家族水入らずで楽しく過ごすはずだった。それを……
「桜井くんは、いつ帰るんだ?」
無意識に声に出ていた。
その場の空気が凍って、沙紀と順子が目を剥いた(ような気がした)。
ちょっと、お父さん。立ち上がった順子が藤澤をキッチンに引っ張っていった。
「あのね。いろいろ言いたいことはあると思うけど、今晩は我慢して。これから火星に行かなくっちゃならない沙紀のために。気持ちよくいかせてあげて」
一気にまくしたてられて、ひるんだ。気圧されて、わ、わかった、と答えるのが精いっぱいだ。そうこなくっちゃ、と瞬時に笑顔になって戻っていく順子の背中を目で追いながら、しばらく呆然として立ちすくんだ。何が起こっているのか、わかっているような、わかりたくないような、こんな複雑な気持ちは初めてだ。
そうだ。しばらく会えない沙紀のために、今日は楽しく過ごすべきだ。そう自分を納得させようと無駄な努力をする藤澤を、沙紀がキッチンに迎えに来た。お父さん、お話があるの、と。
居間に戻れば、居住まいを正した桜井が目に入った。これは……。
沙紀が、桜井の隣に座った。
「お父さん。火星から帰ってきたらね、私たち、結婚しようと思ってるの」
それからのことは、ほとんど覚えていない。順子はずっと上機嫌だった。桜井と沙紀は、相変わらず楽しそうに話していた。そして、あっという間に時間は過ぎた。沙紀は、近くの駅まで桜井が送っていくと言った。じゃあ、甘えさせてもらいますね、と順子が応じる。
玄関を出て見送る藤澤に、沙紀は窓を開けてほほ笑んだ。
「ちょっと行ってくるけど、お父さん、元気でね。火星から戻ったら、今度はゆっくり帰ってくるから!」
ああ、とだけ答えた。――情けない。
翌日、桜井が追試を命じた担当者は、予想通りの答えを出していた。
結果を見て、桜井は各所に忙しく連絡を取っている。その姿をぼぉっと見ながら、藤澤は昨晩のことを考えていた。
大切に育てた沙紀が、嫁に行く。いつかはそういう日が来るだろうとは思っていたが、あまりにも唐突だ。それも、事前に親に相談もなく、いきなり結婚する、はないだろう。それに、――結婚する、ということは、あいつが義理の息子ということか。
はぁぁぁ、とため息が漏れる。
こんなことをしている場合ではない。いくらルーチンと化したとはいえ、やらなくてはならない作業は山のようにある。と、何度言い聞かせても、身体は動かない。今日は、休みにしたほうがいいのかもしれない。
のろのろと帰り支度をする藤澤に、背後から桜井が声をかけた。
「藤澤さん、必要な調整をしました。この件はいったん、国の研究機関に預けてください。これからも解決に向けて協力しますので」
こっちの気持ちも知らず、こいつは昨日と変わらず涼しい顔で言いやがる。大人げないとはわかっていたが、このまま負かされっぱなしなのもしゃくに障る。振り向きもせずに、言い放った。
「解決するまで、結婚はお預けだ」
食物連鎖の底辺が小さくなっているのであれば、自然に任せていては、食糧不足は逃れられない。おそらく、農業、畜産業でも同じこと。この危機を回避するためには、何か、根本的な解決法が必要だ。どのぐらいかかるか、わからない。沙紀が帰ってくるのと、この問題が解決するのと、どっちが早いか……。
そんな藤澤の心の中を知ってか知らずか、桜井はさわやかに答えた。
「わかりました。一日も早く、お義父さんと呼べるように、がんばります」
むっとしたまま、藤澤は研究所を後にした。
藤澤の足はゆっくりと自宅へ向いた。
昨日の悪天候が嘘のように、青空が広がっている。風は身を切るほどに冷たいが、歩いていれば、次第に気持ちよく感じられるから不思議なものだ。
自宅まで徒歩で約三十分。次第に冴えてくる頭の片隅で、一つの可能性を感じていた。数年前、手を付けてはみたものの、うまくいかなくて投げ出した研究があった。再開しても成功するとは限らない。だが、何もしないで待つよりは。せめて気持ちだけは、何かをしていたい。
いつしか、早足になっていた。
DNAメモリに環境調査用プログラムと微生物複製プログラムを載せる。自律的に作動するナノマシンで、適切な環境を自ら判断し、メモリを展開すればプログラム通りに生命が発生する。必要な元素を集めて単純な微生物を発生させるナノマシンを、藤澤は水産管理の合間を縫って研究していた。
例えば、地球の生命が絶滅に瀕したときには、このナノマシンを宇宙空間にばらまいてみる。遠い将来、どこかの惑星で、あるいは他の恒星系で、地球生命が再興する日が来るかもしれない。そんな、SFじみたナノマシンを、どうして作ろうと思ったのか、定かではない。ただ、DNAがメモリとして使えると知ったときから、そんなプログラムができたら面白いだろう、と思っていた。しかし、何の気なしに初めてみたものの、今一歩のところで行き詰った。最後のピースがうまくはまらない。何かが足りない。いつしか投げ出してしまっていた。
この不漁を目の当たりにし、そして桜井の話を聞き、藤澤は再度研究に手を付けた。
火星軌道上に到達した。
窓いっぱいに赤い惑星が広がる。鼠色の月を伴った青い惑星がどんどん離れて小さくなって、宇宙に輝く星の一つとなった。反対に、赤く輝いていた小さな星がどんどん大きくなって、今、目の前にある。約半年ぶりにみる大地は、別の惑星だというのに、なぜか懐かしさを感じさせた。
――生物は、やっぱり大地に足をつけていたいのかもね。
このまま着陸してしまいたい衝動が湧き上がってくる。だが、それはかなわない。沙紀の仕事場は火星ではない。
火星軌道上に目を移せば、漆黒の宇宙にぽっかりと大きな岩の塊――フォボスが浮いている。火星探査の基地となる実験室がすでに建築されていた。その運用が沙紀たちの仕事の一つだ。
宇宙船はフォボスに向けてアプローチを開始しており、ゆっくりだが、その小惑星のような火星の月は見かけの大きさを増していた。大気が邪魔をしないため、細部までくっきりと見える。ともすると距離感を失ってしまいそうだ。
着陸準備に慌ただしいクルーを横目に、沙紀は船内の整備にかかった。フォボスに着陸した後、この宇宙船は帰還用としてはもちろん、基地に何かがあった場合の非常用シェルターとなる。搬出するもの、保管しておくものを整理しなくてはならない。着陸要員がランディングチェックリストを読み上げる。その声を聞きながら、沙紀は黙々と仕分けを続けた。
背後から火星の反射光が差し、手元に自分の影が映っている。赤い惑星を振り返った。
フォボスは火星上空六千キロという、太陽系内でも一番地表に近いところを回る衛星だ。潮汐ロックされ、実験室のある地点は常に火星を向いている。一日にフォボスは火星を二周する。窓の外に目を転じれば、赤く埃っぽい地表を切り裂いたような、巨大なマリネリス峡谷の模様がくっきりと見えていた。
そうだ。せっかくだから……
ナノマシンの開発に没頭する藤澤の元に、沙紀からのプライベートビデオ通信が送られてきた。
満面の笑みを浮かべて語り掛ける沙紀に、思わず目を細める。半年も狭い宇宙船に閉じ込められていた割には、元気そうだ。沙紀は、コックピットからストレージまで、宇宙船内を移動する。背景に見える最先端の宇宙船内部は目新しいものばかりで、目が離せない。沙紀は無重力でもスムーズに移動し、おどけたようにくるくる回る。藤澤は沙紀と一緒に船内を飛び回っているような錯覚に陥った。
思えば、藤澤もまた宇宙に憧れていた。だが、先祖代々の家業を継ぐという使命のために、断念せざるを得なかった宇宙飛行士への夢。その夢にまで見た宇宙を、沙紀は藤澤に画面を通じて体感させてくれている。こんな寒村にいてさえも、娘を通して身近に感じられる。子どものころから恋焦がれていた宇宙を。
気が付けば、何度も再生を繰り返していた。
窓から、赤い大地がせりあがってくる。かと思うと、一転して真っ暗な宇宙空間になり、そして、灰色のいびつなフォボスが、手を伸ばせば届くような近さで迫る。画面に映し出されるもの、沙紀とともに存在するすべてのものを、藤澤は目に焼き付けた。
目を閉じて、沙紀のいる宇宙を近くに感じながら、藤澤はナノマシンの研究を再開した。
沙紀を含む第九次フォボス実験基地建設部隊の活動は、逐一、伝えられた。ある時はニュースで、あるいは、家族あての私信で、そして、国を通しても、情報共有がされた。
第九次隊がフォボスに着陸して一か月がたとうとした頃。
桜井が藤澤を訪ねてきた。暑い夏を乗り越えて、小さな漁村では秋の気配が感じられるようになっていた。
「環境調査に隣の県まで来たものですから、ご無沙汰してしまっているので」
そういって玄関先に現れた桜井は、沙紀さんも活躍していますね。と付け加えた。まあな。と藤澤は低く返事をし、ここでもなんだから、と桜井を奥へ通した。
不漁対策については、なにも状況は変わらない。漁労からも各地の状況が逐一報告されているが、危機的状況は相変わらずだ。桜井からも頻繁に情報が送られてくる。ただ挨拶をしにわざわざ足を向けてきたのか。
しかし、藤澤の予想は見事に裏切られた。
藤澤の向かいに座るなり、これは極秘事項なのですが、と桜井は切り出した。
「フォボスの岩石中に核酸を検出した、と宇宙生物研究所から報告がありました」
「宇宙空間に核酸が存在することは、すでに知られているが」
それが、なぜ極秘事項になる? 藤澤の疑問に、桜井は他の恒星系が起源ということも十分に考えられる、と答えた。
「核酸のデータを分析したのです。最初はどのようなアミノ酸をコードしているかに注目していたのですが」
「うまくつながればDNAのような働きをするだろう?」
「それは、そうなのですが、……実は、隠されたプログラムみたいなものが見つかったのです」
――プログラム?
藤澤の心臓がドクンとはねた。
「文字通り、生命のプログラム、です」
「プログラムが働けば、そこに生命が発生する、と?」
「はい。地球上の生命が長い間たどってきた進化の歴史を飛ばして、プログラムが意図した生命そのものを作るようなのです」
「生命そのもの……」
――そのコンセプトには、心当たりがある。
桜井には一言も告げたことがない、藤澤自身の開発するナノマシンのコンセプトと、似ている。
「どのような環境で起動するか、わかったのか?」
「それは、まだわかりません。ただ、生命を発生させるプログラムとは別に、サブプログラムが載っているようなのです。残念なことに、その部分は採集されたサンプルの中には断片しか見つからなくて」
そのサブプログラムが、環境を判定するためのものなら、それはもう、藤澤の考え方と恐ろしいほど似ている。自然にできたものとは考えにくい。
うつむいて考えを巡らせる藤澤に、桜井がおずおずと声をかけた。
「沙紀さんが」
思わず顔を上げた。
「藤澤さんなら、きっとわかるはずだと。そう伝えてきました。だから、今日、伺ったのです」
沙紀が?
藤澤の目の前に、小さなメモリが差し出された。
「持ち出しがばれたら処分されます」
桜井は真剣なまなざしを藤澤に向けた。フォボスで見つかった核酸のデータが、すべて入っています、と。
「お父さんに早く、と沙紀さんが……。彼女の勘は、よく当たるのです」
ゆっくりと手を伸ばし、藤澤は小さなメモリをしっかりとつかんだ。
桜井から受け取った核酸のデータは、藤澤にも扱いやすいように解析されていた。といよりは、おそらく同じ意図をもって作られたとしか考えられないような配列であった。驚くほど洗練されている。しかも生命発生については完成形だ。求めてやまなかった最後のピースまで、きっちり詰められているようだった。
自分の求めたものの回答がそこにある。藤澤は水を得た魚のようにデータを漁った。そして、研究中のプログラムと突き合わせてみては、改良を続けていった。
どうしても乗り越えられなかった課題の箇所についても、正解にたどり着いた。考えられないことだが、フォボス由来の核酸データを、そっくりそのまま入れこむと、プログラムは問題なくスムーズに動作した。In silicoでの検証では、単純な微生物が短時間で無数に発生した。生物を一から発生させることのできる藤澤のプログラムは、こうして確立した。
フォボス由来の核酸プログラムからは、さらに進んだコードが見つかった。発生させた微生物が一定量を超えたときに個体を集合させることで、組織に似た集合が短時間でできる。さらに時間を進めれば、器官に、そして、複雑な生命を誕生させることができるかもしれない。果てしない可能性を秘めた、まさに宇宙空間に生命を拡散させるために作られたプログラムだ。
となると、サブプログラム、と桜井が呼んだもう一つのデータは、おそらく、環境調査用プログラム。
フォボス由来の核酸からは、すべてのコードを読み取れない。ある一定の箇所で、切断されている。その切断の仕方は、どのプログラムでも画一的で、人為的なものを感じさせる。
藤澤は考えた。
もし、このプログラムを開発した系外の知的生命体が自分と同じコンセプトで作ったとしたら、藤澤のプログラムもそのまま外挿可能ではないか。ダメもとで試してみた。
総当たり戦で、終わりの見えない試みが続くように思えた。しかし、結果はあっけなく出た。しかも、その結果は驚愕すべきものだった。藤澤は、桜井に連絡を入れた。
「フォボス基地から、返信がありません!」
水を打ったように静かな管制室に、悲痛な叫びが響き渡る。それを合図と司令官が指示を次々と飛ばす。各種データを持ち寄って、あちらこちらで検討が開始された。管制室の中は、一瞬にしてアリの巣をつついたような様相を呈した。
ガラス越しの見学ブースで、藤澤は額にこぶしを当て、じっと下を向いていた。沙紀のこぼれるような笑みが目に浮かんでは消える。絶望が足元から這い上がってきて、動けない。
ふと、目の前にコーヒーの入ったカップが差し出された。
「あ、ああ、ありがとう」
隣に座った桜井に、小さく礼を言う。
「今、情報収集をしている最中です。火星軌道とのやりとりは時間がかかりますから、詳細が分かるまではまだ時間が必要です」
桜井の言葉に小さくうなずき、カップを両手で包むように受け取った。口もとに持っていくわけでもなく、ゆっくりとまわしたまま、立ち上る湯気を顔に当てた。
桜井に連絡を入れてから、丸二日。二人とも寝ていない。といっても、何をするというわけでもないのだが、とても寝てはいられない。どうせなら、と、桜井が管制室への入室許可をもらってくれた。そして、今、目の前で最悪の可能性が進行している。
フォボス基地に滞在している他の宇宙飛行士の家族には、まだ何も知らされていない。確実なことが分からない限り、不安を募らせるだけ、との上の判断だ。
それだけではない。もし、それが本当なら、火星軌道に滞在している宇宙飛行士だけではなく、全世界がパニックになる可能性がある。
藤澤は、一口、コーヒーをすすった。疲れ切った頭に、In silicoでの検討結果を見た時の衝撃が、徐々によみがえってきた。
もう一つのプログラムは、予想通り、生命発生に都合の良い環境を見つけるプログラムだった。それも、最悪なことに、すでに起動した後だった。同じ箇所で切れたコードが、それを明確に物語っていた。
藤澤の調査で、環境の適合性を判定した後、生命発生プログラムが起動すれば、環境調査プログラムはコードの切り離し、サポートプログラムとして働くことが分かった。不要になって切り離されたコードが、途切れた核酸様物質として見つかっていただけだった。
桜井も、疲弊した表情を隠せない。藤澤の隣で、押し殺すように小さくため息をついている。
「桜井くんには、世話をかける。申し訳ない」
藤澤の声には苦痛がにじんでいる。
「そんなことはありません。私にはこのぐらいしかできなくて、申し訳ないです」
あの冬の日に、突然訪ねてきて、沙紀と結婚したいといった桜井。それが、優秀な極限環境下生物の研究者である桜井のもちこんできた核酸データで、不漁対策のナノマシン研究が、一瞬にして重大な事件の糸口となった。不思議な縁だ。この柔和な表情をした青年の能力は、底が知れない。
「沙紀さんは、大丈夫でしょうか」
桜井が、ポロリとこぼした。今まで、弱音を吐くようなことは一切なかった。年のせいか、ともすれば、最悪の事態を考えてしまう藤澤を励まし続けていた。フォボス基地からの応答がないという事実で、かなりまいっているのかもしれない。
「フォボスの核酸プログラムが起動する環境は、例えば基地の中とおっしゃっていましたが」
「まだ、そうとは決まっていない。可能性の話だ」
その外来ナノマシンがフォボス上にあるだけなら、当面は問題がなかった。人間が発見し、自らの生存環境に持ち込んでしまったら、遅かれ早かれプログラムは起動する。
核酸が見つかったという報告があった時点で、基地内に運び込まれていた可能性は否定できない。塩基配列まで解析したのだ。おそらくは、基地内の実験室で、誰かが解析したはずだ。それは、沙紀かもしれない……。
可能性に思いをはせるだけで、背筋が凍った。
藤澤の報告は、待ったなしでフォボス基地に伝えられた。核酸が見つかったという岩石には手を触れないこと。万が一、接触した可能性があるなら、基地内に持ち込むことのないよう、厳重に処分すること。なぜなら、その核酸は、地球上の生命を脅かす可能性が高いから……。しかし、返事はない。
地球と火星の間では、通信にかかる時間は距離によって異なる。現在は片道約十分。地球からの呼びかけから二十分で、火星からの返事が届く。だが、すでに二十五分経過して、まだ何もない。たまたま、通信機の近くにだれもいない可能性もある。しばらくして、何事ですか? とのんきな返事が返ってくる。そんな、楽観的な見通しも、通信装置の沈黙が長引くにつれて、だれも口にしなくなった。
やがて、フォボス基地からの通信が途絶した、と正式に発表があった。
基地内のモニターから、生命反応も感知されなかった。
その知らせを、藤澤は満天の星空のもとで聞いた。南天に赤く輝く火星を凝視し、その惑星表面から六千メートル足らずを周回するであろう、沙紀に思いをはせていた。近づいてきた桜井の気配を感じ、かすかに肩を落とした。良い知らせがくることはない、とわかっていた。
二人は何も語らず、だが、同じ思いを抱えて佇んだ。そのまま、まんじりともせずに、夜が明けた。三日目の朝日には、絶望の影が差していた。
一連の経緯は、フォボスで不測の事態とだけ報じられた。
ナノマシンの研究はもとより、日々の仕事も手がつかない。沙紀が死んだなんて、信じられない。何も手がつかない。生きるしかばねと言われれば、それもそうだと答える、灰色の薄汚れた老人になり果てた。
桜井は、頻繁に連絡をよこすが、もうそっとしておいてほしいと、告げた。
藤澤の目には、青い海も昏い空も、もう何の意味もなさなかった。閉ざされたドアの向こうで、冬の海がうなりを上げていた。
年が明けて、フォボスの事故が人々の口に上らなくなったころ、ひょいと桜井が顔を出した。
「外来ナノマシンの核酸のデータですが、実はお渡ししていなかったものがあるんです」
「もう、何の興味もないよ」
話を切り出したとたん、桜井から目をそらし、藤澤は冷たく言い放った。
「……」
桜井が目を伏せて、口をつぐんだ。ひざの上で握られたこぶしが、小刻みに震えている。重い空気が二人を包んだ。
「僕は、もしかすると沙紀さんは生きているのではないかと、思っているんです」
ふいに、桜井が告げた。希望的観測を口にするのはやめてくれ。そう口をついて出る寸前で、言葉が止まった。いままでの桜井を見ていれば、わかる。根拠のないことを言ったことが、果たしてあったか。
「フォボス基地から、かすかな信号を継続して受信しています。人為的なものか、それとも、装置が自動的に送っているものか、判別はつかなかったのですが、最近まとまった量を解析したところ、核酸データの続きのようで」
核酸データの続き?
「それは、誰かが生きていて送っているのか?」
「わからないのです。以前送信したものの一部が送信されていなくて、何かのきっかけで再送信が始まったとか、いろいろ推測はしているのですけど。……ただ、核酸のデータが今までのものとは、ちょっとコンセプトが違っているようで」
藤澤を見つめる桜井の目にも、力強い光が宿った。
「藤澤さんのナノマシンに入れてみたら、何かわかるのではないかと思って」
桜井から渡されたデータは、確かに今までのプログラムでは動かなかった。プログラムの動作を妨害するコードが仕組まれているようだ。例えば、がん細胞に対する分子標的薬のような……。
「そうか!」
藤澤は力強く膝を叩いた。
これはナノマシンが際限なく自己増殖を続ける、いわゆるグレイ・グーを阻止するためのプログラムだ。フォボスで見つかった外来ナノマシンには搭載された形跡がない。ということは、フォボス基地には生存者がいて、このプログラムを開発し、知らせてきているという可能性が高い。改良すれば、ナノマシンを停止させることができるかもしれない。
桜井に、大急ぎで連絡を入れた。その知らせを受けて、藤澤に桜井から一つの依頼が入った。
「こちらで一緒に作業をしていただけますか」
外来ナノマシンの弱点も解明できた。ナノマシンの量産が成功すれば、たとえ地球に外来ナノマシンが到着していても、地球生命の存続が可能になる。火星まで到達しているなら、それは時間の問題だ。
桜井の研究室に設けられた藤澤の部屋で、二人は寝食を忘れて研究に没頭した。地球上の生物が持つ可変性の遥か上を行く系外生命との環境の奪い合いが、今、幕を開けようとしている。負けるわけにはいかない。
火星軌道の沙紀の消息は分からない。不安につぶされそうになりながら、真剣に議論をし、設計検証を続けた。やがて、一つの可能性が実現した。
朝早く、まだ明けない空のもと、波打ち際に歩を進める。沖がほのかに発光している。見つめていれば、こぼれるように近づいてくる無数の光。藤澤の設計した対系外生命用のプログラムが起動した魚だった。身体全体が、発現したタンパクにより緑色に発光している。
「このプログラムがあれば、地球上の生命は守られますね」
となりで見ていた桜井がしみじみ言う。感情を抑えきれず、声が震えている。
まず、守りを固めた。残るは、火星軌道上のナノマシン。そして、生存しているかもしれない数十名の宇宙飛行士たちの救出。
「もうひとがんばり、だな」
「はい」
桜井が力強く答えた。藤澤も新たな力がみなぎるのを感じていた。
こいつに、お義父さん、と呼ばれる日がくるだろうか。いや、来てほしい。祈るような気持ちで、光る魚に埋め尽くされた水面を眺めていた。
空は、まだ昏い。
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