こわれたカメレオン

印刷

梗 概

こわれたカメレオン

石造りの建物の間を狭い路地が入り組む古い町、彩園サイエン。区画ごとに異なる色で壁が塗られている。城壁の北辺には森が隣接し、その奥にはピラミッド型の白亜の神殿。人類亜種のカメレオントライブが建設した、聖なる町。

学校が終わると少年たちの群れが町を往く。小柄なジュンはリーダー格のレオンや長身のサシャ達の後ろを大人しくついて行く。熱帯の町、若者たちは半裸だ。カメレオン族は周囲の色に合わせて肌も髪も変色する。区画から区画へ色を変えながら練り歩き、女の子に声を掛けたり他のグループと喧嘩したり、時に本気でナイフを交える。

ブルーの区角。旅行者の往来が多い。黄昏時の壁に身を潜め、裕福そうな老夫婦を襲おうと待ち構えるレオンたち。しかし、ジュンは緊張で青い色を維持できず、壁に黄色い人型が浮き上がる。警戒した老夫婦は去ってしまう。ジュンは周囲と色を合わせることが自然にできない異常者。腹いせに、少年達のいつものイジメが始まる。倒され蹲るジュンにレオンが容赦無く蹴りを入れ、見兼ねたサシャが止めに入る。その隙にジュンは逃げ出す。路地を逃げ回り、偶然見つけた門をくぐる。レオンとサシャは門の先の区画に誰がいるかを知っていて入らない。

オレンジの区画。逃げ込んだのは医師のマーナが住む区画だった。治療を受け、優しさに惹かれ翌日も訪れる。彼はジュンの体質を理解できる医師だった。変色障害。部族の千人に一人程度はいるらしい。隠れているから見かけないし、医学の知識が広まっていないため常に異常者扱いされ暴力で排除される。その暴力も、変色障害に対するアレルギー反応に過ぎないという。マーナ自身も変色障害であると教えられ、身を守るための毒薬を受け取る。
やがて、ずっと出てこないジュンを気にしてサシャが迎えに来る。神殿に誘われる。

グリーンの区画。北門を囲む一角は森と同じ緑の壁だ。門を出て森へ分け入る。サシャは自分が来た理由を語る。色が変わるジュンの異常な肌に興奮した、イジメられ怯える姿に欲情した、人の苦痛を歓ぶ自分を恥じた、全部レオンに見抜かれた。落とし前をつけて来いと送り出された。この町を捨てて二人で逃げる選択もあるけどどうする? ジュンは軽蔑して相手にしない。

白亜の神殿。ピラミッドの上部は約十メートル四方の矩形だ。神に供物を捧げることは殺人ではない。同じ得物を持つ二人が登り、一人は神に捧げられ一人は帰還する。合法で神聖な行為。二人はナイフを構える。喧嘩慣れしていないジュンは追い詰められる。青、黄、赤、緑、鮮やかな原色の模様が肌に浮かんでは消える。だが反撃して切りつけるとサシャの肌の色が変わり倒れた。ナイフに塗ったマーナの毒が、神経を麻痺させ変色障害を引き起こしたのだ。ジュンは致命傷を与えず台座を降りる。残りのことは自分には関係無い。

サシャは神にも捧げられず、情欲も恥も裁かれないまま生き残ってしまった。

文字数:1199

内容に関するアピール

区画ごとに異なる色に塗り分けられた町を設計し、移動による色の切り替えがシーンの切り替えとなるように考えました。

町を行き交う住人は、周囲の色に合わせて肌の色を変えるカメレオン族。壁と同じ色になって群れる少年たちの中、変色障害の主人公は周りと同じようには生きられません。

城壁に囲まれたメディナ全体の壁が青く塗られたシェフシャウエンという町がモロッコにあります。その町からヒントを得て、区画毎に違う表情を見せる色鮮やかな町と森と神殿を創りました。舞台の背景と登場人物達の色の変化で、少年たちの思いを伝えるようにして、物語りたいと思います。

文字数:266

印刷

こわれたカメレオン

白亜の神殿――その上で行われる営みを誰か人が咎めることはない。ただ神が見ているだけである。
 ピラミッド型の構造物の最上部は十メートル四方ほどの正方形でその中央に二人の若者がしなやかな身体を絡ませていた。大柄な方が組み敷かれ、小柄な少年が馬乗りになっている。お互いに握ったナイフは離していない。上になった少年が息を喘がせながら言う。
「ぼくは、ぼくの色のままで生きていくことしかできない。あなたが、あなたの色でしか生きられないのと同じだ」
 ふたりの肌は神殿の石のように白いかと思うと、青や緑や赤や黄の原色が、飛び散った絵の具のように点々とあるいはねっとり流れるようにあらわれては消えてゆく。その色の鼓動は息遣いや脈拍や感情の変化をそのまま表現しているようだった。
 変わってゆく肌の上を流れる血だけが、変わらず赤い。

       ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

熱帯の森と乾いた荒野の境界に位置するその町に、真上から降り注いでいた恒星の光は午後遅くになってようやく傾き、殴りつけるような熱量も弱く優しくなってきた。狭く入り組む路地は石の壁が作る日影に覆われ、住人たちは活動を再開する。
 サイエンは古い町だ。カメレオントライブの入植初期に建設された町である。石造りの城壁が土地の高低に合わせたいびつな楕円形に町を囲み、一周数キロの城壁の内部はやはり石造りの低い建物が連なる。建物の壁は区画ごとに異なる色で塗り分けられていて、その鮮やかさで知られる町だ。南には岩ばかりの土地にまばらに草が生える乾燥地帯が広がり、一方、城壁の北辺には森が隣接し奥にはピラミッド型の神殿が隠れされている。神殿を守る、古く聖なる町なのだ。今となっては辺境に位置するが、神殿と、迷宮のような路地の市場を目当ての観光客が訪れ、その賑わいが町を維持している。
 大人たちが午後の活動を再開しさらに数刻が過ぎると、子供たち若者たちが校門の外に吐き出されてきた。初等から中等教育までの年代の子供がすべて押し込められているサイエン唯一の学校は、北辺の門の周囲を囲む緑の区画の端にあり、つまり、校舎も学校を囲む塀も明るい緑色に塗られている。熱帯の町である。少女たちは肌を守るように腕も足もゆったりとした長衣に隠しているが、一方の少年たちは短いズボン一枚で、上半身もたいてい裸だ。その肌は周囲の壁と同じ緑色に染まっている。
 それぞれに群れをなして散っていく子供たちの中に、彼ら七人の少年のグループもあった。全員が少年から大人といっていい体格で、中等教育の特に上級生組であろう。先頭を中でも体格の良い二人が堂々と歩き、その後ろをやや子供っぽさを残す四人が互いの体をつつき合ったり話したり怒鳴ったりしながら続き、さらに小柄で細身の少年が一人、無言で大人しくついていく。全員の肌の色は他の子供たち同様に、周囲に染まった緑色だ。
 最後尾の少年が周囲をぼんやりと見ながら仲間の後を歩いていると、不意に、先頭から声をかけられた。
「ジュン、どこに行きたい?」
 先頭の二人のうち、肩幅も広く体格がしっかりしているリーダー格のレオンが問いかけた。横に並ぶ頭一つ長身のサシャと二人で、後ろを向いて立ち止まっている。いつもどこで遊ぶのかなんて決めるのはレオンとサシャの二人で、ジュンにも他の四人にも希望を募るなんてことはしない。きっと二人の話しの流れの気まぐれで、たまにはジュンに訊いてみようなんてことになったのだろう。他の四人、ジュンより年下で引き締まった筋肉と目つきが攻撃的なハントとマリオ、同い年の肥満体型のギブーと一見大人しそうなオー・ケンもジュンを振り返って注目する。
 しかし急に訊かれてもみんなが喜びそうな気の利いたアイデアも、自分がどうしても行きたい場所も無く、答えに詰まる。
「え? 特には……」
「何だよ。せっかくレオンが聞いてくれてるんだから遠慮するなよ。オレだったら黄の区画の――」
「バーカ、あの店の彼女、お前のこと全然相手にしてねーだろ。それより市場のカフェの――」
 答えられないジュンに代わって、ハントとマリオが勝手に言いたいことを言う。
「相手してねえってことは無いだろ。来月、カーニバルに誘ってねって」
「真に受けてんじゃねえよ」
「何だと?」
 ハントがムキになって手を上げる。マリオは一歩下がって避けると寄ってきたハントに肘を返し、二人はじゃれあい始めた。ぜんぜん本気では無いが鍛えている二人のやりとりは型通りのしっかりした構えで、動きが徐々に速く鋭くなっていく。ハントのジャブがマリオの胸に強く当たると、二人は同時に下がって距離を取り、腰を落として構えナイフをベルトから取り出した。
「二人とも止めろ!」
 レオンが一喝する。リーダーの一声で、二人とも大人しくナイフをしまう。
「遊びで許されるのは素手だけだ。ナイフを見せていいのは、殺る覚悟と殺られる覚悟がある時だけだっていつも言ってるだろうが!」
 レオンはこの町のルールには厳格だった。ジュンは、ハントとマリオのじゃれ合い、そしてレオンの制止までの速い流れについていけず、答えも無く黙ったままだ。
 それを見て、サシャが助け舟を出した。
「明日は休みで観光客も多い。青の市場の方に行かないか?」
 言外の意味を察してレオンが楽しそうに頷いた。

       ◆ ◆ ◆ ◆ 

学校のある緑の区画から青の市場に向かうには黄の区画を突き抜けるのが近道で、つまりハントとマリオの希望を順番に叶えることになった。黄の区画に入れば路地の壁は全て黄色で、少年たちの肌は自然と黄色に変わってその場に同化する。大人は服を着ているし女たちは肌を隠しているけれど、少年たちは区画の色に合わせて変色した肌を目立たせるように上半身裸だ。カメレオントライブの肌はその場の色に合わせて変色する。壁に同化してあるいは町に同化して、自分の姿を隠すかのように。人間が遺伝子を編集して多様な姿を目指した時代に派生した部族トライブの一つだと、子供たちは学校で自分たちのルーツを学んでいる。
 いかにも面倒な悪童たちが来たと言うように目を背ける大人たちの黄色い顔を気にせず、ハントの目当ての娘のいるカフェに行ってみるがすでに他の学生たちで混雑していて相手にされない。レオンもサシャも立ち止まらずにその先へ向かう。ジュンは相変わらず最後尾を大人しく付いていく。七人はそのまま抜け道を通って、青の区画へ出た。
 青の区画は市場を中心にした商業地区だ。黄や緑の区画よりは広めの通りを買い物客が行き交う。来月のカーニバルと違っておとなしいが、それでも人の行き来は多い。道の両側は大小さまざまな店が並び、日用品から旅行者向けの土産物、宝飾品、大時計から墓石まで何でも売っている。ひとまずいつもの食堂のテラス席に陣取った。夕食時の混雑にはまだ間がある。
「狙いは?」
「暗くなってからだろ。端の行き止まりのところで待ち伏せよう」
「逃げ場がないんじゃ?」
「回り込んで、相手が混乱しているうちに来た道を――」
「いや、あそこ裏に回れる扉があるよ」
「だいたい閉まってるだろが。レオンの言う通りにしとけよ」
 サシャが青の区画を選んだのは、夜遊びのための賑わいが理由では無い。それをレオンも理解している。
 ひとしきりバカ話に興じ、目の前を通る同族の少女や他所から来た旅の女たちを目で追い、タジンを平らげる。この後のことは仲間たちにとっては単なる娯楽で、成功すれば儲けもの、ダメなら捕まらないようにムリせず諦めて逃げれば問題無しとしか思っていない。ジュンだけが気乗りしないまま、黙って夕食を食べていた。
「大丈夫だよ。上手くやれるって」
 サシャが気にかけて優しく声を掛けてくれる。ジュンは諦めたような笑みを浮かべる。陽が落ちて来て濃青色に包まれる周囲に合わせて、少年たちや地元の部族トライブたちの色も変わっていく。ジュンの肌も同様に暗くなっているが、少々、仲間たちよりもまだ明るい青だ。その色も、時間が経つにつれて落ち着いてきた。
「そろそろ行こうか」
 勘定を済ませて、七人は夜の通りに消えていった。

青の区画の端に路地が行き止まりになる狭い広場がある。部屋の扉のような幅の入り口を除くと、全て青い壁に囲まれ、ぼんやりとした街灯が一つと立木が植えられているだけの屋台ひとつない終端だ。その壁に、七人は散らばって身を潜めていた。旅行者など外部の者にもわかりやすく整備された青の市場の区画でも、入り組んだ道に不慣れな旅行者にとっては迷宮だ。何人か部族トライブの外の人間がやってきたが、人数が多かったり若くて体力がありそうだったりあるいは金目の物を持ってなさそうな者たちをやり過ごす。七人に気付くものはいなかった。ジュンは全く気乗りはしなかったが、レオンやサシャに反抗する気もなく、ただ大人しく隅にうずくまっていた。そこに裕福そうな身なりの白い肌をした恰幅よくほろ酔い加減の老夫婦が入ってきた。夫人のバッグをひったくり、大声を出される前に絞め落とし、速やかにこの場を離れる。簡単そうな相手だ。入り口すぐの壁に背を預けるレオンが手を振って合図する。老夫婦からはレオンは背後の死角になっている。ハントとマリオが左右から足音を立てずに近づく。老夫婦は、ジュンのいる方に気づかず近づいて来る。
 犯罪の緊張に、ジュンは耐えられなかった。壁に同化していたはずの濃青色の肌が、黄色く、さらに白く変わる。身体が、肌が、制御できないパニックを起こしているのだ。カメレオントライブの他の者たちが自然にできる、周囲の色に合わせて肌と髪の色を変化させるということが、ジュンにとっては難しかった。気を静めたり集中したり意識的に実行してようやくできる、難易度の高い行為なのだ。
 街灯の弱い光でも、突然目の前の浮かび上がった白い人型は、老父婦を驚かせ警戒させるのには十分だった。夫人はバッグをしっかりと抱え、夫は左右を見て夫人の腰に回した手に力を込め、入ってきた方向に反転した。ここで大声をあげられたら、自分たちの方がまずい。狭い町だ。自分たちだとバレるかも知れない。遊びで身を滅ぼすようなことはしない賢明さをレオンとサシャは持っていて、逸る他の仲間を制止する。ヤバければ諦める。
 老夫婦が去った狭い空間に、白けた空気と苛立ちが充満する。レオンとハントとマリオとギブーとオー・ケンと、そしてサシャが共有する気分だ。白けと苛立ちの比率のグラデーションはあり、気の短いハントとマリオは強く苛立ちジュンを鋭い目で睨む。ジュンだけが同じ空気を共有できない。ギブーはさりげなく入り口の方へ下がり、太い体で塞ぐ。オー・ケンは自分から手を出すつもりはなく、腕を組んで動かない。レオンには仲間内の喧嘩を止めるつもりはなかった。
「てめえ、何やってんだよっ!」
「せっかくの楽しみが」
「お前がおかしいせいで!」
 ハントのパンチが飛び、顔と腹に二発づつ喰らってジュンは膝をつく。マリオの足の裏に頭を蹴られ、倒れたところを腕を掴まれ引き起こされる。無抵抗なジュンに遠慮することなくマリオの平手が何発も頰を打ち、右肩を引っ張られて後ろを向くと、腹にハントの膝が突き刺さった。意識が一瞬飛んだ。
 上体を起こすとジュンの目の前にレオンがいた。ギブーもオー・ケンも寄って来ていて、まだ興奮しているハントとマリオがサシャに首を掴まれて下がっている。自分の腕を見ると、白とピンクの斑になっている。痛みを感じる箇所が薄いピンク色をしているのが分かる。そこまで確認する間を与えられたところで、言葉も予備動作もなくレオンの脚が飛んできた。かろうじて両手でガードするが、身体ごと吹き飛ばされる。飛んだ方向は入り口の方で、自分が一番近かった。
「レオン、それでいいだろ」
 サシャがレオンを制止した。レオンだけでなく、全員が気を緩める。その隙を見て、ジュンは残った力を振り絞って立ち上がり狭い空間から逃げ出した。
 足は動く。広い空間では無いから、六人に追われても囲まれることはない。右に左に、追ってくる仲間の足音を気にしながらジュンは路地を駆け抜けていった。ギブーより自分の方が足が速い。オー・ケンは真面目に走らない。猪突猛進のハントとマリオの追跡は撒ける自信があった。

レオンとサシャは並んで、ジュンの後を追っていた。全力で追いかけっこをやるつもりは二人には無く、ゆっくりとジュンが逃げたと思しき方向へ歩を進めていく。
「お前が止めたから、面倒なことが増えたじゃ無いか」
「仲間に大怪我させてどうする? 手加減しないからだ」
「当てる前に力抜いてるだろうが。ハントやマリオと一緒にするな、気づけよ――――お、ジュンじゃないか?」
 少し先の道をピンクの肌のジュンが曲がって行くのが見えた。子供たちだけならば青い区画の中でその色は目立つが、部族トライブでも服を着た大人たち、外部からの来訪者たちが多い区画では、遠目にはさほど目立たない。曲がり角まで駆けて行くと、その先でジュンが別の区画への門をくぐるのが見えた。
「ややこしいところに逃げてくれたな、今日は引き上げるか。サシャ、お前が迎えにいけよ」

       ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

ジュンは自分が逃げ込んだ場所がどこなのか、分かっていなかった。門をくぐってすぐに倒れこみ、壁に背をあずけて息を整えながら周りを見る。暗かった場所が、突然入り込んできた闖入者を明らかにするために灯った光によって照らされる。柔らかなオレンジ色の光、石畳も、正面の家の壁もオレンジ色で、左右を見ればもちろん背をあずけている壁もオレンジ色だ。普段であれば、入り込まない。仲間たちと一緒であれ、一人で訪れるのであれ、気後れする区画だった。
 向かいの壁に細長い扉が開いて、長衣を身にまとった大人が現れた。
「こんな夜遅くに、侵入者かい? おや、珍しい色の子がいるね」
 そう言われて、まだオレンジ色に変われないままの肌に気づいたジュンは、両腕で上半身を搔き抱く。その腕も肩も、白とピンクの斑のままだ。顔もおそらく同じなのだろうと思い、相手から身を隠したくなってきた。
「こわれたカメレオン、しかも痣だらけだ。肌の色より痣の青さと腫れを気にしたほうがいいよ。何発やられた?」
 問われても、もちろん数えてなんかいないので答えようがない。それより、初対面でこんな色をした相手に、普通に接してくる相手に戸惑った。
「自分で立てるか? 私はマーナ、医師だ。治療するからうちに来なさい」
 立ち上がるのも苦しかったのだが、手助けされることに抵抗を感じ自分で立つ。ジュンはマーナの後ろをついて、〈マーナ治療院〉と装飾的な文字が書かれた細長い扉をくぐった。

興奮が収まってみれば顔も胸も腹も痛い。腕も腿も脛も痛い。ハントとマリオは手加減一切無しだったのだから無理もない。患部に塗られた薬がしみるが、ジュンは黙って耐えた。治療室は壁こそ区画に合わせた優しいオレンジ色だが、むしろ白が目立つ医療現場らしい色合いだ。白いベッドに寝かされて腹部の傷の手当てをされている間、白い天井をぼんやりと見つめる。ひととおりの傷口に薬を塗ってもらった頃には、全身で疲労が意識されて起き上がる気力が無くなっていた。
「一晩、休んでいっていいよ。家に連絡しておこう、IDを」
「いいです、自分で」
「私は医者だよ、信じて。治療の記録だって必要なんだよ」
 そういってマーナは寝ているジュンの右手を取り、手のひらを広げて自分の右手と重ね合わせた。部族トライブの全員が手のひらに識別斑がある。乳飲み子の頃に認証チップを埋め込まれているのだ。手と手を重ね合わせることには抵抗があった。IDを交換することが裸を全て晒すように感じるし、肌が直接触れ合うことにも慣れない。裸同然の格好で徒党を組んで遊んているのに矛盾していると、自分でも思う。マーナはデスクの上の端末に自分の右手を当て、読み取ったIDからジュンの自宅を呼び出す。応答がないので、音声で自分の名前と治療院の所在、治療のために息子さんを一晩泊めると伝えて切った。そう言えば名乗ってもいなかった事に気づく。今の手のひらの接触が自己紹介になってしまっていた。小声で礼を言う。おそらく母親が気づくのは、明日の朝に自分が帰宅してからだろう。

治療室のベットから何とか起き上がったジュンは、マーナの私室のほうへ案内され来客用の寝室に寝させてもらうことになった。余分の部屋があるような豊かさは、ジュンには無縁の世界だった。オレンジの区画には医者や建築家や芸術家といった技能に長けて裕福な人たちが住んでいるのだが、そこの住人とはっきり分かる相手と言葉を交わしたのは、初めてだった。マーナのこともレオンやサシャたちのことも、色々思うことはあったけれど、それ以上、何も考えることなく眠りに落ち夢も見ずに熟睡した。

翌朝、目が覚めた時には寝室の温度もずいぶん高くなっていて、明かり窓から入る光が強かった。起きて廊下を探索すると、ダイニングにマーナがいた。茶を飲みながら、大きな書物をテーブルに広げて読んでいる。
「おはようございます。泊めていただいて、ありがとう」
「おはよう。痛みはひいたかな?」
 マーナは書物を閉じてテーブルの隅に置いた。細密な幾何学模様とカリグラフィが素敵で、重そうな表紙だ。ジュンにも座るように促すので、言われたとおりに従って向かいの席に座る。
「朝食、食べるだろう?」
 立ち上がって朝食を揃えるマーナに対して、遠慮するタイミングもなかった。あっという間に目の前に皿が並ぶ。
「いただきます。あ、おかげさまで痛みも引きました」
 薄く切ったパンとジャムにチーズ、果肉の熟した果物とサイエン山羊のミルク。シンプルだがどれも普段食べているものよりずっと新鮮だ。
 テーブルに乗せた自分の腕に目をやると薄くオレンジ色に、テーブルクロスの色と同じに染まっている。痣になっていたところも一晩でだいぶ引いていた。
「薬より、若い身体の回復力だね。それと、だいぶ痛めつけられていた割には、ガードすべきところはガードしているね」
 身を守るのに必死だっただけだが、一方的に殴られ蹴られていた中でも、身についた技術が自然に出ていたのだろうとジュンは思う。仲間たちのように喧嘩好きではないが、とは言え身体をぶつけ合うのは日常茶飯事だし、体を動かすことは嫌いではなかった。体を使う訓練はしていたし、サシャはよく相手をしてくれる。ハントとマリオは訓練でも何でも本気で削ってくるので苦手だが、サシャはこちらの技倆に合わせて付き合ってくれるので体を動かしていて楽しい。
 テーブルの横に除けられた書物が気になっているので、聞いてみる。
「その立派な書物、医学書ですか」
「そう——いや、書物ではなくノートというのが正解――――変色障害という言葉を聞いたことはある?」
「いえ、初めて聞きます」
「これは変色障害についての記録や研究をまとめたノートだ。つまり、君のような身体についてのノート。私が書いてる。私の他に詳しい医師も少ないから、聞いたことがないのも無理はない。ジュンは自分の体のことを周りからどのように言われてきた? 聞かせてもらってもいいか?」
「変な奴とか、頭おかしいとか身体おかしいとか、色が合っていないと蹴りたくなるって言われたこともあります。医者に診てもらったことはありますけど、たまに異常な子も生まれるから、一生そのままだから諦めろって言われただけで。診てもらった意味がないというか、傷ついただけでした。医者が患者を異常って突き放して堂々としているのって……」
「申し訳ないが、正しく理解している医師はほとんどいないのでね。私たちカメレオントライブは、周囲の色に溶け込むように肌の色を変えることができるよね。「できる」というより「そうなっている」というのが適切かな。特に変えようなんて意識していないから」
「そうなんですか?」
「周りの人がどうやって色を変えているか、聞いたことがある?」
「あります。納得できる答えは無かったですけど。聞かれること自体が意味がわからないとか、普通できるだろとか、あげく、できないお前が異常だって怒られて殴られそうになったこともある。だからどうすればできるのか教えて欲しいのに。自分が説明できないことを相手に求めるのって勝手じゃないですか」
 マーナは優しく声を上げて笑うと、ノートを広げた。白紙のページにペンを持って向かい、ジュンに尋ねる。
「それじゃあ、ジュンが肌の色を周囲に合わせるときはどうしてる? それから周りと色が合わないときはどうしてそうなる?」
 いつの間にか自分の方が質問されているのが気に障って、ジュンは聞き返した。
「答えたら、ぼくがどうすればいいかマーナは教えてくれるんですか? そんなノートを録っているのなら、他の医者とは違って————答えを持っているんですか?」
「結論だけ言うと、変色障害そのものを治療する方法はない。けれど、もう少し楽になる道を示してあげることはできるかもしれない。なぜなら――――」
 マーナが袖をまくると、左腕に黒と赤の斑点がいくつも浮かび上がり、大きくなって、腕全体を黒と赤が包んだ。
「君ほど辛い境遇で生きてこなかったかもしれないけれど、私自身に変色障害がある。教えてあげられることは少しはあると思う」
 自分と同じような人がサイエンに一人でもいるなんて知らなかった。ずっと自分だけが異常だと思っていたし周りからもそう言われ続けていた。色々な記憶が溢れてくる。頭の中の思考も感情も、肌の色も混乱して、顔も涙でくしゃくしゃになった。

自分の肌の色をどうやって制御するか。周りの色を感じ、体内で肌の色を適切に調節する準備を行い、実際にその色が表れたら維持できるように意識する。インプットがありプロセスがありアウトプットがある。ジュンは機械のように自分の身体を考えてみることがよくある。数理系の勉強が得意なせいか、自分自身を物のように見つめる視点が心地良いからか、両方だろうと思っている。インプットについては、自分なりには分かっているつもりだ。
「肌が、温度として色を感じます。例えばオレンジだったら少し暖かい感じ? 実際の気温や、直接恒星の光を浴びていればその熱を感じていて、その温度の暖かい寒いと言った感覚と並行して、もう一つ色からくる温度が存在して同時に両方を感じます。今だったらオレンジ色の少し暖かい感じと室内の少し暑くなってきた温度の両方を同時に感じています」
 自分の色を変えることをどう捉えているか語るジュンの説明を、マーナは興味深そうに見つめながら聞く。
「それで、そのもう一つの温度? その色に肌が合うように心の中で意識して――――でもそれは、落ち着いて集中を逸らされないようにしないと難しくて。他の人たちは、できるだろって言うけど、どうやってるのか教えてくれないし」
「温度として色を感じられるというのは、独特だね。私の感覚とも違うし、きっと周りの人たちにすれば意味がわからない。理解できなくて、どうすれば良いかなんて答えようもないだろうな。実のところ標準的なカメレオントライブは、どうやって肌の色を周囲に合わせようかなんて、意識していないんだよ。自然にできる、あたりまえ。そう言って君を異常だと否定する人たちにとっては、本当に何も考えなくても無意識にできている事なんだ。それこそ、呼吸をしたりするのと同じ事。ジュンも平穏にしていて、周りの色を特に意識していなくても肌の色が勝手に周りに合ってることはあるだろう?」
 ジュンは頷く。確かにそのとおりで、意識していない時間だって長いのだ。特別な場所に移動したり、そこの色に合わせることを意識しないとならない時――――例えば、昨晩のように旅行者を襲うような時だ――――に緊張から、肌の色が変わってしまう。
「何も気にせず、周囲の目も無視して平静でいられるのが、結局のところ身体にも心にも一番なのだけど、君たちのような若い男たちは、常に全身をさらけ出して肌を見せようとしているからね。一人だけ女性のように服で身体を隠すのは――」
 どんなことになるか想像して、ジュンは全力で否定した。変色障害だけでも辛いのに、女の子たちの、あるいは大人の男たちの真似をしたら、グループの中から、いや、学校中の男グループからはじかれてしまうだろう。

翌週、ジュンは学校へ行かなかった。毎朝家を出て、学校に行かずにマーナの元へやってきて、そのまま夕方まで過ごしていた。治療院の仕事があるので、マーナはずっと患者の相手をしている。サイエンには医師の数が少ないのだという。医師になるには大学で医学を学ぶ必要があるが、サイエンには高等教育を受ける場が無い。だから必然的に医師のなり手が少ないのだ。
「ここは保護区でも飛び地だろう? 部族トライブの中心はやはりカメレオン・シティだが、あそこの大学だって大したことが学べるわけでは無い」
「マーナはどこで学んだんですか?」
「保護区の外。首都のブランカだよ、だいぶ北の方にある寒い街だ。そこまで行って、初めてカメレオントライブの特性について学ぶことができた。つまり標準体のことも変色障害のことも、客観的に、他の部族トライブとも比較しながらね。カメレオン・シティでは、私たちのことしか学べない。そこでは変色障害なんて医学の対象にはなっていないんだ」
 患者が来なければ話し相手になってもらえるが、だいたい私室の方でマーナが書いた変色障害のノートを読んでいた。専門用語を始めジュンの知らない言葉も多かったが、それでも頑張って読み続けた。マーナが今まで診た患者たちのことや、医師になる以前の古い記録の写しもある。様々な薬を試してみて効果がなかったことも書かれている。マーナの見立てでは、サイエン全体で千人に一人ほどの割合で変色障害の人がいるらしい。女は肌を隠しているし、大人の男だって服を着ていれば目立たない。それに障害を持った人たちは人前の目立つところに出ようとはしないから、お互いの存在にはほとんど気づくことがないだろうと考察されている。この町のどこかに同じ苦しみを持つ人が他にもいるのだと知って少しは救われた気持ちになったけれど、お互いに知り合うことなく、あるいは知り合っても同じ障害を持っていると気づかず、すれ違ってしまうのだと思うとやはり自分は孤独なのだと寂しさを感じた。

マーナ自身に対する自らの所見も書かれていて、障害のことだけでなく私的なことも書かれているようだったので、本人に許可を貰って読ませてもらった。ジュンのようには辛い境遇ではなかったとマーナは語っていたけれど、実際には手酷い暴力を受けた経験もあったようだ。幼少時からの肉体的、精神的、性的に蹂躙された過去が、第三者の視点で、それこそ医師が患者を記録するような視点で客観で記述されている。その日は、何も言わずにそっと帰った。緑の区画を学校を迂回するように歩き、北門を出て、誰もいない森の中で動物の気配に囲まれながら泣いた。誰も見ていなかったが、体は森に同化していた。
 翌日、暴力を受けることについて聞いてみると、意外な答えが返ってきた。研究者らしいと言うべきか。
「ある種のアレルギー反応らしい。カメレオントライブはその場の色に溶け込んだ相手を同じ部族トライブの仲間だと認識する。頭で考えて理解するのではなく、もっと本能的で動物的な反応としてね。変色障害に対する彼らが————いや、私やジュンもその一員だけれど————向ける暴力衝動は一人ひとりの性格や人間性、差別意識みたいなところから来るのではなく敵に対する自動的な反応みたいなもので、変色が原初的な部分を刺激するトリガーになった結果のようなんだ。君を蹴ったり殴ったりした連中も、原初の部族トライブの本能に突き動かされているということだ」
「それで、納得したりできません」
「それはそうだよ。お互い、人間として生きているんだから。アレルギー反応で本能を刺激されれば何をしてもいいということにはならない。だいたい、原初と言ったって人工的に遺伝子に手を加えた結果だ」
「でも、あなたは平然としているように——」
「もう、だいぶ昔のことになるからね。保護区の外に出て、様々なものを見て、医学を学んで帰ってきたら過去はどうでもよくなっていた」

マーナのように大人になって何年も経てば自分の辛さも消えるのだろうかと思っても、今の困難がなくなるわけでは無い。何か解決策はないのかと、薬についての記述を丹念に追った。だんだんと難しい記述も読めるようになってきて、マーナがどれだけの事を試みてきたのか分かってきた。どうやら、皮膚や精神に効く既存の薬を試すだけでなく、それらを自在に調合したり新たな化学物質を生成したりとかなり実験していたらしい。最初から患者に試すのは責任が取れないから、すべて自分の身体を実験材料にしてだ。効果が無いだけでなく、身体を痛めるようなものもあったが実権をやめることは無いようだ。
 その中に、変色障害を引き起こす薬について書かれているのを見つけた。
「ずいぶん、しっかり読みこんでいるんだね。それは、薬というよりは毒薬だ。治療の手段を見つけることはできないのに毒の作り方を発見できたというのは、医師としてどうなのかと思うよ。
 人の血液の中にその毒が入れば、神経系に作用して一時的に変色障害を引き起こして精神的にもパニックになる。急な発汗や一時的な視野狭窄を伴うこともある。効き目の程度は何とも言えないけれどね。何しろ被験者が何人もいるわけでは無いから」
 これも、自分で試したのだろうか。

       ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

学校に行かず仲間たちと顔を合わせない日々を続けて、十日経った。この間、夜は家に戻る日もあれば治療院に朝までいた日もあったけれど、母親からは何も言われなかった。出掛けている先が学校なのか別の何処かなのかにも興味が無いのだろう。
 十日経って、サシャが治療院に顔を出した。行方を捜していたのか居場所が分かった上で放っておいたのか、今まで放置してくれていたのか、サシャや仲間たちの事情をジュンには知らなかったけれど、迎えに来たのがサシャなのが彼らしいなと、また自分たちのグループらしいなと思った。
 カーニバルが近いと言う事情もあるのだろう。サシャは祭りも近いし皆も心配していると言ってきた。皆ってのは嘘だろうと思う。
 それでも、仲間たちも学校も家族も騙し通しておくことはできない。マーナからも言われる。
「これからも遠慮なく来てもらって構わないけれど、この部屋にずっと籠ったままではジュンの道は見えてこないよ」
 仲間を大事にしろと言われたわけでは無い。学校に行きなさいと言われたわけでは無い。家族に正直に話せと言われたわけでも無い。どこも今までのジュンにとっては孤独さを強調するだけの場所だったことを、マーナはよく分かってくれている。休んだら、立ち止まらずに進みなさいと言ってくれているのだ。どちらに進むのか考えなさいと。

顔を合わせるのは気まずかったが、翌日は朝から学校に行った。レオンたちと顔を合わせても特別な会話は無く、お互い遠慮がちだった。しかし授業が終われば以前と変わらず、いつものように町中をうろつく。とは言え時間を浪費するだけでなく、話題はシリアスだった。カーニバルの準備の話だ。
 サイエンの入り組んだ路地を辿ると中央の広場に出る。五つの区画すなわち青と黄と紫と赤と黒の区画が面していて、それらの区画につながる五本の路地が広場に面している。広場の石畳は、それぞれの路地の色がながれだして中央でぶつかっている。中央広場はサイエンの城壁の中で特定の色に染まっていない唯一の場所だった。大勢の見物人が集まるには広いとは言えない広場だが、カーニバルの夜には人で埋め尽くされることになる。その中央広場の黒色が流れてくるあたりの店の、広場に広げたテーブルを囲んで漆黒の肌の七人が座る。レオンが、ジュンがいなかった間に決まった事を語る。
「今年は、黒のグループなんだ。俺たちの他に、ルーセル、キニョール、ヴィリエの連中。女はライアとかミエヴィとかあの辺の子。それにもちろん黒の区画の大人たち、ゴート商会の若旦那が仕切ってる。あの旦那はけっこう本気で広場を全部黒く塗ってやるって意気込んでる。もちろん、相手もあるんだからそんな都合よくは行かないが、俺たちの頑張り次第で広場の黒い場所が増えるってわけだ」
 サイエンのカーニバルは広場の陣取り合戦だ。広場に面した五つの区画が戦って広場にどれだけ自分たちの色を広げられるかを競う。もちろん武器を持って戦うわけでは無い。踊りを競う。カメレオン部族トライブは男も女もみな、身体を動かすこと、踊ること、舞うことが大好きだ。カーニバルの夜は広場に舞台が設営され、そこで区画ごとに順番に踊っていく。その場の熱狂の度合いと、市長や有力者たちの審査で勝ち負けが決まる。審査は公正だ。何しろ周りの観客の盛り上がりと異なる結果を出せば、暴動になる。過去百年の中で、愚かにも二人の市長と一人の神官が任を解かれ、三人の区画の有力者が失脚した記録がある。
「出遅れた分、練習で取り戻してくれよ」

           

カーニバルの夜は瞬く間にやってきた。
 昼間から様々アトラクションに町中の人々と外からの旅行者で賑わった祝祭は、夜が本番だ。広場には舞台が設置されている。何灯ものスポットライトに明るく照らされた舞台は、背後に何枚も幕が重ねられている。色とりどりの幕だ。五色の区画ごとのグループの踊りがここで順々に披露されていくのだ。事前に籤引きで決められた順で進められ、最初は赤の区画からだった。
 別段、赤の区画だからといって踊りの間全て赤で通すわけではない。幕が次々に変えられてゆき、その度に違った色を見せる。照明の色も切り替えられる。その前で、それぞれの踊りを競うのだ。赤、黄、紫、青の順で踊りが披露され、それぞれに盛り上がった。それでも最初に強烈な印象を与えたからか、ここまでは赤の区画が一番だという声が見物客たちからは聞かれる。深夜近くになり、黒の区画の出番がようやく始まった。
 少年たちはいつものパンツ姿に仮面を着け、首と腕、足首に銀や真鍮の飾りを巻き、晴れの舞台に華やかさを演出する。少女たちはいつものように全身を隠す衣装だが、薄衣を重ね合わせ、何色もの色が重なり合うようにした華やかな衣装だ。成人を過ぎた若い男たちは、子供たちとは反対に服を着て肌を隠すことで色気を振りまき、一方、女たちはこの日だけに許された肌を露出する衣装で背景の幕や照明に合わせて腕や脚や腹の色が変わっていくのを見せつける。
 少年と少女に成人した男女がそれぞれ二十人ほどの大所帯で、舞台の上に上がったり下がったり、前に出たり後ろに回ったりを繰り返す。その揃った一糸乱れぬ中でも上手い下手はあ理、観客からも明らかに目立つものがいる。少年組にレオンとサシャのコンビがいるのは、黒の強みだった。力強さ、長い手足の大きな動き。
 サシャに鍛えられて間に合わせたジュンの動きもリズム感があって、小柄で華奢な身体が舞台の前に出ると沸き立つ。いつものおとなしさとは異なる面だ。一心不乱に踊るジュンは、音楽と他のメンバーの踊りだけに集中して、自分の全身を動かしていた。

サシャは最前線に出たジュンの斜め後ろにいて、自分も全力で踊りながら見守っていた。背後の幕は赤く、正面からの照明も赤一色だ。ジュンの体もきれいに赤く、汗だくになってきた身体が光をぬらりと反射する。緊張したり怯えたり余計なことを考えずにいるときのジュンの体は正常な色をしていて、普通の少年だとサシャは理解している。リズムのテンションが高まり、場面転換が近づく。工場の機械が回転するような金属音が停止し正面も暗転する。強い照明を浴びていた舞台の上のサシャからは、完全に暗闇になったと感じられた。
 一拍おいて、照明が灯され、後ろの幕が一枚落とされて切り替わる音がする。照明は明るい青だ。舞台一面が青に染まる。少年たちの四肢も、女たちの腕や腹も青く変わった。今度は眩し過ぎて、サシャはちょっとふらついた。自分だけではなく、何人かがポジションを見失っているのが分かる。サシャが前に出てジュンと入れ替わり、女性の踊り子とからむ場面だ。後ろを振り向いて下がろうとしたジュンと自分の体が交錯した。
「ごめ————」
 サシャと目を合わせたジュンが小さく謝ったその時、ジュンの紫の身体——赤から青に変わろうとしていた身体——の表面に水滴のように小さな白い楕円が浮き上がり、水が跳ねるように腹から胸へ動いた。白い水滴は集まって大きな斑になり、さらに全身を白く覆う。二人のすぐそばにいた男が、それを見て興奮した。ジュンに向かって殴りかかろうとする。間に割って入ったサシャの腹を拳がかすめる。相手は大人だがサシャの方が背は高いのでガードは容易だが、反対から太腿をあらわにした女が脚を振り回してジュンを蹴り飛ばそうとした。一歩下がり蹴りをかわすが、もはやステージの上はそれどころでは無くなった。
 サシャの目の前で怯えるジュンは、もう肌の色を周りに合わせられなくなってパニックに陥っていた。白の上に黒の細い縦縞が走る。それを見て嫌悪と興奮を露わにしているのは、舞台の上の者たちだけではなかった。スポットライトを舞台の中央で浴びているジュンは広場中から見られていて、興奮で手がつけられない状態になっていた。それに気づいたジュンは怯え、肌の色が次々に変わってしまう。
 舞台の上に上がってくる者が出てきた。何人もの男女に囲まれたら逃げ場がない。サシャが硬直していると、舞台の端のほうにいたレオンが駆けつけてジュンを守ろうとした。しかしカーニバルの興奮からいきなりジュンの変色する肌を見せられた者たちは、もはや暴徒としか言いようがなかった。レオンがジュンを庇いならサシャに向かって叫ぶ。
「ぼうっとしている場合じゃない! みんな慣れてないんだよ。俺たちと違って知らないんだ、見境ないぞ!」
 レオンがいつか言っていたことが急にサシャの意識に上ってきた。思い出す。ジュンの肌が変わっている時、無性に暴力を振るいたくなる。押し倒してぶん殴りたくなる。衝動に身を任せるのがなんか気に入らなくて耐えてるが、サシャはどうだ? お前はいつもジュンに優しいけどさ。ハントとマリオは自覚がないから見境ナシだな。俺たちはそれでもジュンのことを知っているからいいが、急にあんな異常なものを目の前で見せられたら、おかしくもなるよな。
 サシャは違った。殴りたいとか蹴りたいとか思ったことは無い。その異常に変色する肌を、抱きたいと思った。細身の体も、薄い筋肉も、困ったり怯えたりしている表情も、ぜんぶ欲しいと思った。華奢なジュンの体が魅力的なわけではない。いや、可愛いとはいつも思っているが、そういうことではなく————異常な肌に欲情した。ジュンの肌は異常だ。それは分かっている。だからと言って、嫌ったり、暴力を振るう理由にはならない。特に自分たちは仲間だ。でも、異常なものを見て暴力で排除したいと思うのは、正常な反応だろう。自分の反応に気づいて律しようとするレオンは普通じゃないが、大した奴だと思う。レオンや、今、ジュンに襲いかかろうとしている連中が正常なら、やはり自分は異常なのだろうか。自分の欲望に邪なものを自覚して、サシャは恥じた。

混乱の中から、自分がどうやって逃げだせたのかジュンはよく覚えていなかった。レオンたちが守ってくれたらしいというのは分かった。レオンとハントと自分、後ろからオー・ケンとサシャが追いかけていた。どうやら黒の区画のどこからしい。漆黒の壁、街灯はあったが、周囲は黒いままだ。レオンたちの肌の色も漆黒だ。自分だけが白と黒の細い縦縞のままだった。
「滅茶苦茶にしてくれたな、おい!」
 仲間たちが味方というわけでも無かった。ハントがいつものように遠慮なく地面に体を投げ出しているジュンを蹴り飛ばしてくる。カーニバルをぶち壊してくれたことを怒っていて、しかも何が起こったのか分からず混乱しているようだ。マーナが教えてくれた変色障害に対する暴力衝動というのは、こういうものかと思った。
 少し離れた壁際にバケツがあった。ハントはそれを見つけて持ってくる。
「お前は肌を見せるな、こうしてろ!」
 バケツの中身は黒の区画の塗料だった。ハントは全部ぶちまけてジュンを真っ黒にして去っていった。

ジュンはそのまま放置された。レオンもサシャも何も言わずに帰って行った。
 しばらくして、近いづいてくる足音があった。
「カーニバルが大変なことになったと聞いたが、君が襲われたのか」
 マーナだった。なんとか返答する体力は残っていた。
「ぼくが元凶ですから」
「理由があれば殴られていいというものでは無いだろう? 君が何かをしたわけでも無い。立てるか?」
 骨に異常があるわけでは無い。肩を借りて立ち上がると一人で歩き、マーナとともにオレンジの区画へ戻って行った。
「マーナ、あの毒薬、今もありますよね?」

       ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

大混乱となったカーニバルは、そのまま幕を閉じた。騒動による損害の全てを黒の区画が責任を負うことが市議会で決定された。中央広場への入り口を除いて黒く塗られた場所は無くなり、一年間、広場は青、黄、紫、赤の四色に塗り分けられることになった。ゴート商会は営業を続ける許可こそ守ったものの、金策に奔走し、方々に頭を下げ、商売人たちの中での発言権は大いに弱まった。
 黒の区画の漆黒の壁に隠されて、ゴート商会の本店近くに会長の邸宅はある。若旦那、などと呼ばれているがれっきとした会長であり、その威光は一時的に落ちたものの商会の中では結束力を強くし、それまでどおり十も二十も年上の男女が頭を下げる存在だった。使用人に案内されて細い通路を通って邸宅に招かれたレオンとサシャは、外からは想像もつかない贅を尽くした家の造りに声もなく、客間に通されて高級な家具に囲まれソファの上で緊張していた。二人にはまったく縁のない世界だ。
 やがて客間に入ってきた、若旦那の言葉はシンプルだった。
「責任を取れ」
 二人とも、議会での経緯は聞いている。損害の規模が金銭的にどれほどのものなのか、貧しい家の二人には想像できない。何をすれば責任を取ったことになり許しが得られるのか、想像もつかない。
「お前たちに金の責任を取れと言うつもりなど無い。そんなのは五十年掛かったって無理だ。あの少年とお前たちのグループの誰かが、神殿に行け。結果は神の采配次第だ。あれが死んでも、お前たちの誰かが死んでも、その結果に意を唱えることはしない」
 サイエンの北の森の中にある神殿は、決闘が許された場所だ。二人で神殿に登り、ひとりが帰還する。その結果には誰も異を唱えないし、殺した事が罪に問われることもない。
 勝手に暴れた連中の責任を取ることも、責任と称して命のやり取りをさせられることも、理不尽でしかないのだが、すでにサイエンの町全体がそんな正論とは遠いところで動いていた。レオンは反論もできず、首を縦にふることもできず黙ったまま相手を睨み続ける。
「分かりました。俺が引き受けます」
 サシャが答えた。

       ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

レオンもサシャも学校には顔を出していた。ジュンが出てこないのは承知している。同じ黒の区画グループだった男たちからは散々文句を言われた。女たちからは反対に無視された。ライアとミエヴィがジュンに襲い掛かった連中の中にいたのをレオンは見たというが、サシャは今更それをとがめる気にもならないし、反対に自分たちの方が謝る必要も感じなかった。
「お前は昔から、ジュンのことを気に入ってたよな」
「そうだな。俺がグループに引き込んだようなものだし」
「あいつが可愛いから気に入ってた、頭も良くて素直だし、そう思っていた。けど違うんだな?」
「違う?」
「ジュンの異常な肌に惚れてたんだろう? カーニバルの混乱で気づいた」
 小さい時からレオンとはずっと一緒だった。自分の奥底にある醜いものを見抜かれたと、サシャは悟った。
「それで、どうする気で引き受けた? 殺すつもりか、それとも殺されるつもりか」
 引き受けたわけではない。レオンと違って、若旦那に脅されたつもりはなかった。自分の感情の問題だ。誰から言われなくても、同じ選択をしたように思う。しかし、そのあとどう決着を付けたいのか。答えようがなかった。迷っていた。たぶん、神殿の上でジュンの正面に立っても分からないままだろう。

マーナ治療院を訪れる。やはりジュンはそこにいて、呼べばあっさりと出てきた。
「二人で神殿に行く、拒絶する権利はある」
 作法とは随分違った雑な申し込み方だったが、主旨はとおっていた。「二人で神殿に行く」その言葉が何を意味するかは子供の頃から知っているし、断ることができるのも知っていた。ジュンに、断るつもりはなかった。
「いつ——?」
「明日の朝。夜明け前に北門で待つ」

北門を囲む一角は森と同じ深い緑の壁で囲まれている。緑の区画は、彼らの通う学校や、神官たちのいる寺院がある。門の外は森が広がり、行き先は神殿しか無い。翌朝まだ暗い時刻、サシャが先に来て待っていると、薄暗い中をジュンがやって来た。夜明け前は門の正面は閉じられたままだ。脇の狭い通用門をくぐって、外へ出た。その先はすぐ森だ。神殿までの道は土が踏み固められていて、二人で並んで歩くには窮屈なくらいの幅ではあるが間違えようが無くなっている。他の町からも来る信仰篤いカメレオントライブも、観光目当ての他の部族トライブも合わせて、昼間の往来は少なくない。
 まだ暗い道を木の根に気をつけながら、無言のまま並んで歩く。先に口を開いたのはサシャだった。
「なぜ神殿に呼ばれたのか、聞かないのか?」
「カーニバルの夜。でも、レオンの考えや、混乱に関する町のいろんな事情には興味ない。誰が何を考えてるとか、聞いたって仕方がないよ」
「それもそうだな」
「ただ、サシャが来た理由は察しがつく。だからといって、理解を深めようとか思わない。勝手にすればいい」
 ジュンに何を知られているか、何を見られているか、サシャは、それ以上何か言うのをやめた。

       ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

薄明の中を細い道を進んでいった二人は、黄色い恒星が完全に姿を見せた頃に神殿に辿り着いた。約百メートル四方の白い巨石を組み上げて造られたピラミッド型の構造物だ。神殿はサイエンの真北に位置し、正方形の四辺は正確に東西南北を向いている。二人がいるのは神殿の南正面の中央あたりで、ピラミッドの頂上まで、段差の大きい階段がある。下部はまだ森の影になっているため日が差さないが、上部は真横から射す強い光で眩しく輝いていた。お互いに何の言葉もなく、無言で頂上に向かって登っていく。昼になれば部族トライブの者も外部の旅行者も自由に登ることができるが、今はまだ神聖な時間帯だ。
 頂上まで来たのは、ジュンは初めてだった。十メートル四方の矩形は四方の辺が中を囲むように一段高くなっている他は何の飾りもなく平らな空間だ。神に供物を捧げる祭壇と教えられていたが、特別な台座や神像のようなものは何もない。この平らな空間そのものが祭壇なのだろうとジュンは理解する。光の角度が少し高くなってきて、石に反射する光が眩しい。その空間の中央まで無言のまま歩を進めると、ジュンとサシャは十分に間合いを取って相手を見つめた。腰に差しているナイフを抜いて、腰を落とす。ナイフを見せていいのは、殺る覚悟と殺られる覚悟がある時だけ。レオンがいつも言っているとおり。そして、殺すことが法で裁かれないのはサイエンの町と周囲の保護区全体でこの十メートル四方の空間だけだ。
「流れる血は、神への捧げ物」
 サシャが、儀式の型どおりの言葉を発する。
「一人は神に捧げられ、一人は帰還する」
 ジュンがそれを受けて続ける。合法かつ神聖な行為――――神に捧げる決闘が始まった。

ここで生き残らなければ、決闘を受けた意味は無い。ジュンだってもちろん、殺されるつもりで神殿に登ってはいないのだ。ナイフを構えてお互いに少しづつ回り込んでゆく。身体はサシャの方が長身で、それだけ腕も長くナイフで戦うには有利だ。身体が接触すれば、体重差も向こうが有利だ。そんなことは最初からわかっている。しかも、体術もナイフの使い方も、サシャがいつも練習相手だった。手の内を晒している。
 所詮自分は喧嘩慣れしていない。でも、今の自分は誰に対してでも殺意を持てると感じている。そしてマーナに授けてもらったものがある。
 間合いを詰めてはナイフを突き、また離れる、お互いの刃を避けながらも僅かに傷をつけ合う。少しずつ時間が経過し、緊張と疲労が高まってくる。目はサシャから離せない。だから自分の肌が今どんな色なのか確認する余裕はなかった。ナイフを持った腕は白い。低い角度から強い光を刺す恒星を背後にする方が今は有利だが、ぐるぐると回っているため、常にその位置を保持できるわけでは無い。むしろ、サシャの方がポジション取りが上手い。完全に恒星を背後に取って、攻めて来た。光が目に入る。長い腕が伸びて来て、ナイフに左腕を切られた。傷は浅いが出血する。自分の両腕が白地に幾筋も糸のような赤い線を走らせ、地の白が赤に埋め尽くされるのが見えた。おそらく他の部位も色が変わっているだろう。その変色がサシャの感情を揺さぶることは分かっていた。捨て身のやり方だが、勝機はそこにある。低く飛び込んで切りつける。サシャの太腿に傷を付け、自分は肩に深い傷を負った。ナイフの傷の深さならば、ダメージは自分の方が大きい。
 だが、サシャの肌の色が黄色と青の模様に変わり、その場で足をついた。ナイフに塗ったマーナの毒が、変色障害を引き起こし神経を麻痺させたのだ。これで、五分だとジュンは思う。

戦い続ける中でお互い流血は増え、サシャは変色のショックと神経も麻痺してきた影響で動きが著しく落ちて来た。毒の効力がどの程度かジュンには分からない。何度か切りつけて毒が回っているのは確かだと思うが、効き目も持続時間も不明なのが不安だ。しかし、サシャが片膝をついた。見逃さず、倒れたところを蹴り飛ばし、ジュンは馬乗りになり上から攻める。お互いに握ったナイフは離していない。ジュンは息を喘がせながら言う。

「ぼくは、ぼくの色のままで生きていくことしかできない。あなたが、あなたの色でしか生きられないのと同じだ」
 周りの色に合わせて、変わっていく肌の色。あなたは、あなたたちは、そう生きていくしかない。
 ふたりの肌は神殿の石のように白いかと思うと、青や緑や赤や黄の原色が、飛び散った絵の具のように点々とあるいはねっとり流れるようにあらわれては消えてゆく。その色の鼓動は息遣いや脈拍や感情の変化をそのまま表現しているようだった。
 変わってゆく肌の上を流れる血だけが、変わらず赤い。

サシャは馬乗りになったジュンの軽い体重を跳ね除けることもできなくなって来た。マーナの毒がかなり効いている。そのまま、ジュンが首なり腹なりを切りつけて致命傷を与えれば、サシャは絶命するだろう。
 一人は神に捧げられ、一人は帰還する
 神殿の掟に従えばそうすべきだし、カメレオントライブの法ではそれは罪にはならない。しかしジュンはサシャの体から離れ、距離を取ってからナイフをしまった。マーナの毒の効力がどれほど保つのか、それは誰にも分からない。致死性は無いという言葉を信じれば、いずれ一時的な変色障害も納まり身体も動くようになるだろう。返り討ちにしてやろうという気持ちはあった。明確に殺意を持った。周囲の暴力への憎しみを、サシャに向けて吐き出してしまおうという衝動もあった。けれども、今はその気持ちも冷えて無くなっていた。
 仲間に受け入れてもらうために興味の持てない遊びについていく。嫌になって逃げ回る。無理して皆の前で裸を晒す。狂気を煽ったという理不尽な理由でその狂気の暴力に飲み込まれる。自分を制御できない人間の本能と感情による勝手な理屈で。そんな状況にこれ以上振り回されるのはごめんだし、自分がどうするかは自分の意思で決めたい、できる限り。
 自分の意思で選んだ終わらせ方で、決闘を終わりにする。今、そうしたいと考えた。
 神殿の上は神の領域だ。そこから地上に戻ってくることが許されるのは一人だけ。自分が生き残る権利は、先に下りることで勝ち取れる。殺すことで相手を楽にする必要は無い。サシャは死なずとも、サイエンの町にそのまま生きて戻ってきたらどう扱われるかジュンには分からない。死ねなかった男、神に捧げられ損ねた男として生きていくのか、何事もなく受け入れられるのか。サシャ自身の中にある欲望や、罪の意識はどうなるのか。

自分には関係のないことだ。ジュンは何も言わずにその場を離れ、上ってきた階段を下りていった。

       ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

その後については、マーナのノートに記録が残されている。
 マーナはサイエンにとどまり治療院を開き続け、死の直前まで医師として生きた。医師として、変色障害の同胞の記録を最後まで書き記し、弟子に託した。
 ノートには、もちろんジュンについても詳しく書かれている。決闘の日の夜、ジュンはマーナに別れを告げに来たという。そして、ブランカへ行くと言って町を出たと書かれている。この夜の挨拶が、ジュン本人についての最後の記述となっている。その後の一生、ジュンはサイエンに戻ってくることは無かった。
 カーニバルの事件に関係した者たちのその後についても記録されていて、その部分は変色障害の研究というよりは町の年代記のようであった。レオンはゴート商会に入り見習いから這い上がって、四十年後には黒の区画の名士と呼ばれる存在になった。多くの抵抗と戦いながら神殿の決闘の法を廃止させた。その過程で、かつて若旦那と呼ばれた会長との確執もあった。それはサイエンの住人の多くの者が知るところだ。
 ハントは拳闘で名を上げ、カメレオン・シティまで名を知られる男になった。マリオも同じ道を目指していたが、試合中に片眼を失明して挫折した。その後若くして亡くなったが死因については曖昧であり、その場にいたレオンは口を閉ざしたままだ。ギブーは職人として、オー・ケンは商人として、青の区画に看板を構えた。
 生死を問わず、その後のサシャを見た者は誰もいなかった。

(了)

文字数:22257

課題提出者一覧