家庭内枕返し

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梗 概

家庭内枕返し

暁(さとる)は、両親と高校生の弟と共に実家で暮らしている。朝、暁が目を覚ますと、枕がベッドの下に転がっていた。特に気にすることもなく大学に行くと、友人の手足が異様に長い、同じゼミの女子の声が電子音になっている、など奇妙なことが起こる。 あまりの奇妙さにこれが夢だと気づいた暁は、目を覚まそうと試行錯誤するがうまくいかない。そのまま家に戻ると本が鳥のように飛んでいる。本が飛んでいるのをおかしいと思わないか、と弟に問うが、何もおかしくないと返されてしまう。孤独を感じながら、仕方なく眠りについた。

目覚めると、また枕が転がっている。出かけると、食パンが道路を歩いている、人の腕が生えたトンボが飛んでいる、など昨日よりも奇妙なことが立て続けに起こった。その後も夢の中で眠るたびに枕は転がり、暁はより奇妙な夢に落ち込んでいく。

そんなことを繰り返し、ある時一際奇妙な夢に迷い込む。靴だらけの空間や、真っ白なジクソーパズルが降ってくる部屋を通り抜けて、砂漠で潜水艦の大きさを測っている男に会う。男は「ここはあなたの夢ではない、出て行ってもらわないと困る」と言って、暁に、元の夢に戻るか目を覚ますかの二択を迫る。男と話しているうちに、現実世界での自分が家族を事故で亡くして一人きりだと思い出した暁は、家族のいる始めの夢に戻ることを選ぶ。そう告げると、男は暁の肩を地面に向かって押した。暁の体は砂漠の砂に沈んでいった。

気づくとベッドにいて、枕はきちんとベッドの上にあった。始めの夢に戻ってきたようだ。暁は奇妙なことが起こる夢の中で、家族と日々を過ごす。いつまでたっても反抗期の弟は大学生になって実家を出て行ったが、この夢の中で生きているならそれでいいと思っていた。枕が転がることはもうなく、奇妙で穏やかな五年間が過ぎた。そんな時、里帰りしてきた弟が暁に話し合いを求めてくる。

暁の部屋で、弟は日々の生活の違和感を語り、自分の死を思い出したと言って、暁が何か知っているのではと問い詰める。しらばっくれる暁の肩に、飛んできた本が止まる。

「本が飛ぶのはおかしいと思わないか。おかしいと、兄貴が言ったんじゃないのか」

しつこく問い詰めてくる弟に観念した暁は、この夢の中なら家族はみんな生きて楽しく暮らせる、このまま一生を過ごしたいと言うが、弟は反発する。暁は「僕の夢の中なのだから、文句を言われる筋合いはない」と言うが、弟は「兄貴の夢の中だろうが、俺は兄貴の思う通りにはならない。目を覚ませ」と言い返す。そして取っ組み合いの喧嘩になり、二人がベッドに倒れこんだ拍子に枕が転がる。

そして、暁はベッドの上で目覚めた。部屋に弟はいないし、枕は床に落ちている。誰もいない実家で、暁は夢が終わったことを知る。日付を確認し、たった一晩の夢であったと理解した暁は、顔を洗い、歯を磨いて朝食を食べ、着替えて大学へ向かった。

文字数:1188

内容に関するアピール

枕返しって、シーン切り替えのためにいるような妖怪だなあ、と思ったので。枕を返す度に夢が次々と切り替わる話です。あいつ、枕を転がすだけのお茶目な奴かと思いきや、伝承によってはあっさり人を殺してたりもする、なかなかに物騒な奴なんですよね。やはり枕というのは、夢という異世界への入り口というか、そんな感じなのだと思います。きっとその異世界は、死後の世界と近い位置にあるのでしょう。

とはいえ、この話の枕返しは妖怪ではなく主人公自身です。現実から逃れるために枕を返し、無意識にどんどん深い夢に潜っていって、筋違いの夢に迷い込む。そこで自分の目的に気づき、浅い夢に戻って幸せな生活を送ることを望む。しかしその浅さ故に、弟に気づかれて枕を返されてしまう。そんな話です。

途中で出てくる男は、世界中の人の夢に現れる男「This Man」の都市伝説をイメージしています。夢の中で過ごす五年間は、邯鄲の夢の短縮版です。

文字数:398

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枕返し・枕返し・兄弟喧嘩

 朝起きると、枕が床に転がっていた。横たわったままぼんやりとその枕を見て、自分の寝相はそんなに悪かっただろうかと考える。しかし寝起きの頭で考えても結論は出ない。
 暁は枕元からスマートフォンを取り上げ、時間を確認した。眠気で重い体を起こしてベッドから降り、枕を拾い上げてベッドの上に置く。
 少し寝坊した。火曜日は必修の授業が一コマ目にあるから早起きしなければならないのに。そう思いながら暁(さとる)は着替えた。寝間着のジャージとリュックを持って部屋を出て、一階に降りる。
 階段の一段目にリュックを置き、洗面所の扉を開けると先客がいた。弟の慶(けい)が、洗面台の鏡に向き合って髪を弄っている。この時間だと慶の起床時間と被ってしまうのだ。暁は仕方なく慶を避けて、洗濯機の横にある籠に寝間着を投げ入れると、洗面所を出た。
 トイレで用を足して洗面所に戻るが、慶はまだ鏡を睨みつけて髪を触っている。
「慶、顔洗いたいんだけど」
 声をかけるが返事が帰ってこない。振り向きすらしない。
「慶」
 もう一度呼びかけると、チッ、と舌打ちした慶が体をずらした。暁が顔を軽く洗って拭き、歯ブラシに歯磨き粉をつけた後身を引くと、慶がまた鏡の前に戻る。
 暁は歯を磨きながら、慶の様子を興味深く眺めた。しつこく髪を弄っているが、全く変わっているように見えない。そもそも暁が通っていた三年前と校則が変わらないなら、ワックスは禁止だろうに。一体どうして教師と喧嘩してまで、こんなに髪を跳ねさせる必要があるのだろう。学ランだってそんなに着崩して。
 暁は不思議に思いながら、慶の肩をつついた。振り向いて嫌そうな顔をする慶に、そろそろ変われと仕草で示す。
 慶を押しのけて、口をゆすぎ、歯ブラシを所定の位置に置いた。洗面所を出て、居間に入る。牛乳でも飲んでから出かけようか、と冷蔵庫に近づくと、母親から声がかかった。ちゃんと朝ごはん食べて行きなさい。
 仕方なく四角い座卓に寄って、座椅子に腰を下ろす。正面では父親が新聞を読んでいた。テレビはお堅いニュース番組を付けっ放し。
 座卓の上には、玄米入りのご飯と塩ジャケと味噌汁とべったら漬け、そして緑茶が並んでいる。食べる時間ないからパンかシリアルでいいし、なんならいらないとほぼ毎日言っているのに、ほぼ毎日しっかりとした朝ごはんを出してくるのは何故なのだろう。意地だろうか。
 急いで食べよう、とは思うのだが、暁はどうにも早食いが苦手だった。結局丁寧に噛んでいる間に時間が過ぎていく。その間に弟は朝飯抜きで家を出て行こうとしていたが、母親に朝食用のおにぎりと昼食用の弁当を持たされていた。
 やがて食べ終わり、食器を流しに置いた後、暁はリュックを背負って家を出た。

 大学の銀杏並木を歩いていく。はらはらと落ちてくる黄色い葉を眺めていると、背後から、おはよ、と声がかかった。振り向くと、同じ学科の内藤がいた。
「お前もうちょっと急ぐ気ないの? 遅刻だぞ」
 こんな時間にこんなところを歩いているお前も遅刻だろう、と言い返しながら、暁はまじまじと内藤の顔を見上げた。
 記憶よりずいぶん高い位置にある。背が伸びたのだろうか。優に三メートルはありそうだ。どうも身長が伸びたというより、手足だけが長くなっているらしい。そういえば、お釈迦様も常人の二倍以上ある長身で、手のひらが膝に届くほど腕が長かったということだ。暁の知らぬうちに内藤は仏に近づいたのかもしれない。
「内藤、最近悟りとか得た?」
「そう見える?」
「見える」
「そっか。やっぱシャンプー変えたからかな」
 内藤は、落ちてくる銀杏の葉を長い腕ではらいながら早歩きで進んでいく。それに着いて行きながら、歩幅が広いと早く歩けていいな、と思った。

 講義室に入り、カードリーダーに学生証をかざす。なんとか間に合ったようだ。授業開始時間から三十分以内であれば出席扱いになる。遅刻の履歴は残るが。入口に置いてあるレジュメを回収し、講義室の一番後ろ、三人掛けの席の両端に暁と内藤は座った。内藤は手足が長いので座り辛そうだった。
 そこから大人しく講義を受けて三十分。助教授の声をぼんやりと聞きながら、暁は違和感を覚えていた。なんだろう。どこがおかしい。中国語の授業のはずなのに、セイラム魔女裁判の話をしていることがおかしいのだろうか。いや、違う。この助教授の話がずれていくのは今に始まった事ではない。
 声だ。声が嫌に甲高い。三十代後半と思しきこの助教授は、女性とは思えない程低い声をしていたはずだ。酒焼けだと本人が言っていた掠れた声は跡形もなくなり、複数の女性の声を合成した電子音声の様な声になっている。
 そう気付いた頃には、講義内容は中国語に戻っていた。助教授の読み上げる例文を、学生たちがやる気のない声で繰り返す。流麗な電子音に続いて、暁も口を動かした。この石碑はいつの時代のものですか。日本語ではそういう意味の言葉らしかった。

「そうか、これは夢か」
 暁は居間で座椅子に座ったまま呟いた。現実でこんなにおかしなことばかり起こるはずがない。そうと気付かずに真面目に講義を受けてしまった。損をした。夢ならばサボったって良かったのだ。そうすればもっと早く家に帰ってこられたのに。
 そう考えながら白い表紙の単行本を閉じて、座卓の上に置いた。リモコンを手に取りスイッチを押せば、夕方のワイドショーが流れ出す。それをぼうっと眺めている間に、慶が帰ってきた。随分早い。今日はバイトがない日なのだろう。
「おかえり」
 声をかけたが、返事はなかった。こちらを見ることすらせず、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。手は洗ったのか、などと問えば鬱陶しがられるのだろうな、と考える。
「手は洗ったのか」
 言ってみたが、案の定無視されただけだった。慶が注ぎ口に直接唇をつけて、牛乳パックを傾ける。
「コップ使いなさいよ。お行儀の悪い」
 暁が揶揄うように言うのにも反応せず、慶は喉仏を上下させて牛乳を飲んでいく。そうやって牛乳ばかり飲んで、既に暁より三センチ背が高いのに、まだ伸びる気だろうか。
 暁が何の気なしに見ている間に、慶は牛乳を飲み干していた。まだ半分以上残っていたはずなのだが。
 一滴も零れていないのに、慶は手の甲で口元を拭った。それからやっと暁の方を見る。口元を歪めて、何かを言おうとした、その時、座卓の上に置いておいた本が舞い上がった。
 ページの真ん中を開いた形で、表紙を背にして飛んでいる。両の羽をパタパタと動かすように、表紙とページを動かして、鳩の様に部屋中を飛び回った。それに反応するように、居間の様々な位置に置かれたいくつもの本が浮き上がる。
 文庫本はセキセイインコのような軽やかさで旋回している。広辞苑は体が重いのか、バサバサと音をたててぶつかるような勢いで飛んでいた。
 その広辞苑が電子レンジに激突して地面に落ちたのを拾い上げて、慶は苦々しい声色で言った。
「だから、本は自分の部屋に置けって言ってんだろ」
「……広辞苑は母さんが使ったんだろ」
「他の本は全部兄貴のだろ。片付けろ」
 そう言われたので、暁は飛び回る本を捕まえようとした、しかし暁のもののはずの本たちは、暁の事を馬鹿にするように手をすり抜けていく。
「ほら、おいでー、怖くないよ、本棚に帰りましょうねー」
 ちちちちち、と舌を鳴らして、本を呼んでみる作戦に出たが、一向に降りて来てくれない。途方に暮れて、読みかけの白い本が飛んでいく様を眺めていると、その本がふいに捕まった。本を閉じながら、慶が言う。
「何やってんだアンタは」
 手渡された本を受け取って、暁は慶の顔をまじまじと見た。視線を受けた慶は、戸惑いを顔に浮かべて問いかけてくる。
「……何」
「なあ、慶、本って普通飛ばないよな」
「飛ばねえよ。ちゃんと本棚にしまっとけば」
「そうじゃなくて、本が飛ぶ、その現象そのものがおかしいって言ってるんだ」
 慶は数秒沈黙した後、答えた。
「本は、飛ぶだろ」
 そして、付き合ってられないとばかりに踵を返した。居間を出て行きながら、こう言い捨てる。
「変な言い訳してないでさっさと片付けろ」
 暁は立ち尽くしたまま、慶の反応について考えた。やはりこれは夢だ。この夢の中では、本が空を飛ぶのは当たり前のことなのだ。なかなか愉快な夢だが、少し疲れてきた。早く目を覚まして現実に帰りたいところだ。
 暁はそう思いながら、居間を出た。いまだに飛び回っている四冊の本も、目が覚めれば消えるはずなのだから別に捕まえなくてもいいだろう。

 少し困っている。目を覚ますことができない。あの後自分の頬をつねってみたり、シャワーで冷水をかぶって見たり、逆立ちしてみたりしたが、まったくもって目を覚ませない。
 しかたなく自分の部屋をでて居間に戻ると、母親が回収した本を輪ゴムで縛って手渡してきた。恐る恐る食べた夕飯の生姜焼きはいつも通りの母親の味だったし、慶は反抗的な態度のまま大量の肉と米を腹に納めていた。いつも通り、父親がテレビをみながら感想を言うのに、適当な言葉を返すのは暁だけだった。
 夕飯は何事もなく終わったので、暁は歯を磨いて自分の部屋に戻った。いつもなら、後はだらだらと過ごしてから寝るだけなのだが、そんな場合ではない。早く目を覚まさなければならないのだ。
 ミントガムを口に入れる。刺激が口内に広がるが、それで目が覚める訳でもない。仕方がないので、暁は気分転換をすることにした。本でも読んでいるうちに目が覚めるかもしれない。 
 居間を飛び回っていたとは思えない程大人しく本棚に収まっている本を取り出す。その白い本には、戯曲が書かれている。本を開いて、読んでいたところに戻る。二人の浮浪者が誰かを待ち続ける。それだけの話。
 ベッドに寝転がってそれを読みながら、暁は安心した。この話は前にも読んだことがあるが、夢の中でも展開に変わりはないようだ。安心したら眠くなってきた。
 寝ている場合ではない。目を覚まさなければならない。そう思いながら、暁は目で文字を追う。しかしまったく頭に入ってこない。暁はガムを吐き出して紙に包み、寝そべったままゴミ箱に投げ入れた。枕元に本を置いて目を閉じる。寝返りを打って、自分の頭が枕の中心になるように調整する。
 首元に風がかかる。空を切る羽音が聞こえる。そう言えば本は飛ぶものだった、と思いながら、暁はもう動けなかった。

 朝起きると、枕が床に転がっていた。なんだか前にもこんなことがあったな、と思いながらスマートフォンで時間を確認する。昼に近い時間。水曜日。水曜日? 今日は火曜日ではなかっただろうか。しばらくぼんやりと考えてから起き上がる。水曜日の授業は二コマ目からだが、今からではもう間に合わない。三コマ目もサボろうかと思ったが、あの講義は講師が厳しいのだ。無用な休みは避けたい。
 暁は簡単に準備を済ませ、一階に降りた。慶はとっくの昔に高校に行っているから、洗面所を独り占めすることができる。こんな時間だというのに律儀に母親が用意してくれた食事をとり、暁は家を出た。

 家の近くの田んぼ道を歩いていると、赤トンボが飛んできた。そのトンボには人の腕が生えていたので、暁はとても驚いた。ブロック塀に止まったトンボをしげしげと眺める。大きな複眼。細かな毛の生えた胸部。四枚の羽。長い尾部。それらはまったく普通のトンボなのに、胴体から生えているのは六本の人の腕だった。トンボの体に見合った大きさの腕は、それぞれがまるでバラバラで、繊細な爪を備えた女の腕の横に筋肉質な男の腕があり、白くて柔らかそうな子供の腕の横には血管の浮いた老人の腕がある。
 もう一対は、と顔を近づけて観察しようとしたところで、トンボが飛んだ。トンボが飛んでいく空に目を移す。イワシ雲の浮かぶ空を背にして、沢山のトンボが行きかっている。そのどれもが、人の腕を備えているようだった。
「そうか、これは夢か」
 暁は呟いた。結局の所、自分は夢から覚めることに成功していないのだ。納得して、また歩き出した。大学はサボることにした。どうせ夢なのだから。

 見知った家の近所、畑の合間を埋めるように家が建っている道を歩いて行く。目覚める手がかりを探しながら、散歩することにした。風は冷たくなり始めている。マフラーくらいは巻いてくるべきだったかもしれない。
 並んでいる地蔵を過ぎると、小学校が見えてくる。今は休み時間なのか、元気に遊ぶ子供たちの声が聞こえる。校門の向こうにある二宮金次郎像を何の気なしに眺めて、また道路に視線を戻した時、暁は笑い出しそうになった。
 まったく、自分の夢ながら馬鹿馬鹿しい。道の向こうから食パンが歩いてくる。それも一斤。細長くて白い、粘土細工の様な手足を振りながら、低い位置を食パンが歩いている。
 暁は道の端によって、食パンが堂々と歩いて行くのを眺めた。前の方は切られているのかふわふわとした白い部分が見えていたが、後ろ側はこんがりとしたきつね色だった。このまま見過ごしてしまうのがもったいない気がして、暁は食パンの背後に忍び寄って、拾い上げてみた。
「おい、何をするんだ!」
 食パンが声を発して手足をバタバタと動かしたので、暁は食パンを取り落としてしまった。地面に白い部分から落ちた食パンを見て、これはもう食べられないなと思う。食パンは重そうに体を起こして暁に向き直ると、腕を振り上げて低い男の声で言った
「一体何なんだ! いきなり持ち上げたりして、失礼だとは思わないのか!」
「ええと、すみません。つい」
 暁は反射的に答えながら、言葉が発される度に皺が寄る食パンの白い表面をジッと見た。
「ついですむか。何だ、君は私が誰かわかっているのか」
「……食パンですか」
「そうだ。わかっているじゃないか。どうせあれだろう。大方、私の事を食べようと思っているのだろう。おい、私の事をどうやって食べるつもりだ」
「え? そうですね、フレンチトーストとかが好きですが」
「フレンチトーストだあ? 話にならんな。これだから最近の若者は」
 そう言うなり、食パンは暁に背を向けて歩いて行った。早歩きで暁から離れていく。
「フレンチトースト、美味しいのにな……」
 暁は呟いた。食パンと反対方向に歩いて行く。まだ家を出てそんなに時間が経っていないが、もう帰ろう。なんだか疲れた。こうも無茶苦茶なことが起こると、自分の頭が心配になってくる。これ以上おかしなことが起こらないか辺りを見渡しながら、暁は歩いた。

 講師の都合で休講になった、と母親に嘘をつき、暁は自分の部屋でだらだらと過ごした。夜になって、家族で食事をとり、風呂に入ってまた自分の部屋に戻っても、目が覚める気配がない。
 放っておいてもいずれ目覚めるだろうか、と考えながら、ベッドに座ってスマートフォンでゲームをする。ゲーム内容に異常はない……かと思いきや、ダメージ計算式が無茶苦茶になっているようで、ありえない数字が画面に現れた。ゲーム内のキャラクターが敵にもう一撃食らわせると、数字が画面を覆い尽くしてそれ以上動かなくなった。ゲームを強制終了して、スマートフォンの他の機能が問題なく使えることを確認する。
 暁はスマートフォンを枕元に置いて起き上がった。地面に白い本が落ちているのに気が付いて拾い上げる。今日は本が飛ばないようだ。昨日の夢とは違っている。
 暁はベッドに寝転がって、本を開いた。本の内容が変わらないことに安心する。読んでいるうちに訪れた眠気に、暁は従うことにした。

 そんなことを、何度繰り返しただろうか。少なくとも十何回とやったはずだ。始めは連続していた日付と曜日も次第に狂っていったから、正確にはわからない。
「おい、起きろよ」
 慶の声が聞こえる。暁はうっすらと目を開けた。大げさな表現でなくぐにゃぐにゃと歪む部屋の中に、学ランを着て髪を逆立てた慶が見える。案の定枕が床に落ちているのを確認して、暁はまた目を閉じた。それと同時に慶が言う。
「起きろって。遅刻すんぞ」
「なんだ、起こしに来てくれたのか」
「起こして来いって言われたから」
 その答えを聞いて、暁はくつくつと喉の奥で笑った。反抗的な態度を見せるくせに、時折こうやって母親の言う事を素直に聞いてみたりする慶がおかしかった。
「笑ってんじゃねえよ……なあ、兄貴最近おかしいぞ」
「ん? 別におかしくないよ。普通だ普通」
「おかしい。ここ最近大学に行ってる様子も無いし。アンタいつもふざけた態度だけど、こんなに目に見えてサボったりしなかっただろ。いつも要領よくやってきたはずだ」
 暁は横目でチラリと慶を見た。真剣な表情。心配しているのだろうな、と思いながら体を起こす。
「慶。学校は楽しいか」
 ふと、そんな言葉が口をついて出た。慶は困惑の色を一瞬顔に浮かべた後、いつも通り眉をしかめて言った。
「まあまあ、だな。楽しくねえの、兄貴は」
「楽しいよ」
 暁がそう言った途端、天井からどろりとした黄色の液体がしたたり落ちた。
「今が最高に楽しいんだ」
 固体に限りなく近い液体がぼとりと音をたてて背後で落ちたのに、慶は振り向きもしない。目を見開いて暁を見ている。
「ずっとこうしていたいと思ってる。そうだ。夢から覚めなくたっていいじゃないか。ずっとここにいればいい。慶だって、そう思うだろう」
 そう言いながら、慶の腕を掴んだ。
「何、言って……」
 慶は一歩引いて、暁の腕を振り払った。
「アンタ、やっぱおかしいよ」
 強張った顔と声音で言って、慶は踵を返した。早歩きの慶に踏まれて、黄色いどろどろとした液体が床に広がっていく。
 バタン、と扉が閉まった。暁は膝を抱える。自分はいったい何を言っているのだろう。夢から覚めなくていいなんて、そんな訳ないじゃないか。こんな異常な夢からは、さっさと目覚めたい。
 暁が眠り、起きる度に夢は異常性を増していく。おかしな夢の中で、暁の家族だけが平常のようにふるまっている。それも不気味だった。今部屋から出れば、きっと母親が完璧な朝ご飯を用意していて、父親はスーツの上着を着て出かける準備をしているだろう。慶は兄に構っていたせいで遅刻だ、とでも思いながら家を出ようとしているはずだ。
 暁は起き上がって、枕を拾い上げた。変わり続ける夢の中で変わらないもの。暁の家族と、毎日ベッドの下に落ちている枕。この枕が夢から覚める鍵かもしれないと思ったこともある。眠らなければ奇妙な夢にこれ以上嵌まり込むことも無いのではないかと思ったこともある。
 しかしできない。夜になると猛烈な眠気に襲われる上に、この枕でないと眠れない。眠気を我慢することも出来ない自分の意思の弱さを反省するべきなのかもしれないが、本当に抗いがたい眠気なのだ。どうあっても眠らなければならない。眠ってしまいたい。そう思わせるほどの強烈な眠気。
 暁は枕をベッドの上に置いた。カーテンが少し開いているのが気になって、閉めるために窓に近づく。床がぐにゃぐにゃしているから歩きにくい。
 閉めるだけのつもりだったのに、つい窓の外を見た。見慣れた景色。家の周辺の田んぼと畑。少し離れた所に店が並ぶ大通り。その向こうに長く連なる紅葉した山の稜線。
 空は珍しく晴れ渡っていて、刃先の丸い巨大なハサミが宙に浮かんでいる。誰が操るでもないハサミはチョキチョキと機敏に動いて、爽やかな青空をレースの様な模様に切り刻んでいく。切られて穴の開いた空は覗き込むほどに暗い。余った空は細切れにされて田舎町に降り注いだ。
 暁はカーテンを完全に閉めた。振り向くと、べとべととした黄色い、スライムの様な塊が暁の足元にあった。どうも先程天井から落ちてきた液体が固まったもののようだった。暁はその塊をまたいだ。追いかけてくる塊に触れたくなくて、とっさにベッドの上に飛び乗る。塊は跳ねるように暁を追いかけたが、ベッドの上には登れないようだった。
 暁はしばらくそれを眺めていたが、やがて飽きて暇つぶしを考え始めた。スマートフォンを起動してみたが、見たことも無い珍妙な文字が並んでいて使えたものではなかった。
 すぐに諦めて、枕元に置いてあった白い本を手に取る。開いて、低く呻いた。文字が流れるように本の上を動き回っていて読めない。今まで、何が使えなくなっても、本が読めなくなることだけはなかったのに。
 本を枕元に戻す。どうすることもできずベッドの上でぼんやりしていると、跳ねるようにしてベッドに上がろうとしている黄色い塊がなんだか憐れに思えてきた。腕を伸ばしてやると、黄色い塊は腕にまとわりつくようにして登ってくる。
 ベッドの上にのせてやる。塊の通った跡は黄色く汚れてしまったが、暁は気にしなかった。急に眠気が襲ってきて、暁は寝ころんで枕に頭を乗せた。黄色い塊が首にまとわりついてくる。ひんやりしていて気持ちいい。
 まだ夜にもなっていないのに二度寝してどうするのだ。これ以上寝て、もっとおかしな夢になったらどうするつもりだ。そう頭の隅で思うが、そんなことはどうでもよくなるくらいに眠い。暁は、あっさりと意識を手放した。

 目を開ける。赤い床に枕が落ちている。暁はゆっくりと辺りを見渡した。異様に広い空間だ。赤い床、灰色の天井。無機質なスチール製の棚が無数に並んでいる。
 体を起こす。どう見ても自分の部屋ではない。こうまで自分の夢は狂ってしまったのかと、呆れ果てた気持ちになる。ベッドから降りて歩いてみる。どこまでも並ぶ棚。その中に陳列されている靴の数々。
 革靴、スニーカー、ピンヒール。下駄にサンダル、編み上げブーツ。男もの、女ものの区別なく、サイズすらもバラバラの靴が大量にある。暁はそれを興味深く眺めながら、あてもなく進んでいった。
 よくもこんなにと思う程にいろいろな種類の靴がどこまでも並んでいる。合間合間に下半身だけ、脚だけのマネキンが置かれていて、白タイツやバックシームの黒ストッキング、ソックスガーター付きのハイソックスなどを履いてポーズをとっている。
 何の気なしにソックスに指を入れて引っ張ってみたりしながら、自分の家族はどこにいるのだろうと考える。これが自分の夢なら、弟が、母が、父がいるはずだ。
 ふいに、小さな物音がした気がして、そちらを見上げた。高い棚の上に、青いチャイナドレスを着た女が座っていた。木製の扇で口元を隠し、長い素足を見せつけるように足を組み替えている。それに一瞬見惚れて、はっと我に返った。
「こ、こんにちは」
 女は答えなかった。冷め切った視線を暁に注いでいる。
「ええと、うちの家族を知りませんか。四十代の夫婦と、不良っぽい見た目の男子高校生なんですけど」
 女はじっと暁を見ていたけれど、やがて首を振った。そして暁に向かって、扇を投げた。薄い木製の扇がひらり、暁の眼前を掠めて、地面に落ちる。落ちたところを目で追うと、扇は無く、白いジグソーパズルが重なるようにいくつも落ちていた。不思議に思って顔をあげる。そこにチャイナドレスの女はおらず、靴の並ぶ棚も消えていた。
 そこは、ただただ白い空間だった。天井も壁も無く、石造りの床も、広い空も白いだけ。その白い空から、白いジグソーパズルが牡丹雪のようにはたはたと降ってくる。
 少し離れた所に、何かがあることに気が付いて、暁はそれに近づいた。地面に散らばっているジグソーパズルを踏みつけていく。
 そこにあったのは、垂直に立てられたまっ白のパラソルだった。その側には見慣れない生き物がいる。狸に似ているが、どうも狸とは少し違うように思える。その生き物が、長い爪のある前足で器用にパズルを拾い上げ、宙にかざすようにして見ている。
 その長い鼻、目を黒く縁どる模様を見て、暁は思い出した。恐らく、これはアナグマと言う生き物だ。思い出せて少し嬉しくなってしまった暁は、アナグマに声をかけた。
「こんにちは」
「ん? ああ、どうも」
 アナグマは暁を一瞥しながらそう答えて、またパズルに目を移した。手に持っていたパズルを置いて、また別のパズルを拾い上げる。
「うちの家族を知りませんか。さほど会話はしないけれどそこそこ仲のいい四十代の夫婦と、不良っぽい見た目だけどそんなに不良でもない男子高校生なんですが」
「さあ……知らんねえ」
 アナグマは答えながら、次々とパズルを拾い上げて、すぐに地面に投げ捨てた。
「何か探してらっしゃるんですか」
「ええ? 探してるかって? 探してるよ。ほらあれだ」
 暁が問いかけると、アナグマはうんざりしたような声色で答えた。鼻先でパラソルの下の地面を指す。パラソルが作るグレーの影、その中に完成間近のジグソーパズルがあった。ノートパソコンほどの大きさに、まっ白なパズルが整然と並んでいる。どうやら、後一ピース嵌め込めば完成するようだった。
「昔はこんなに大変じゃなかったんだけどねえ。ほっといたらどんどん増えちまって。後一つが、どうしたって見つからねえのさ」
「手伝いましょうか」
「ああ? そりゃありがたいけどねえ。いや、いいよ。もとはと言えば自分のせいだし、こんなことに付き合わせちゃ申し訳ねえわ」
 アナグマはそう言って、またパズルのピース探しに戻った。絶え間なく降りしきるパズルがあたりに積もっていく。暁はしゃがみ込んで、パズルを一つ拾ってみた。そして、パラソルの下に入り、完成間近のパズルの欠けた穴の上に置いてみる。それはあっけなく嵌って、完成したパズルは四角い板のようになった。
 背を向けるアナグマに声をかけようとした時に、何か違和感を覚えた。パラソルの影を受けてグレー一色に見えるパズルの板。そこに染みの様な物がある。染みはどんどん広がっていって、模様を作り出していく。そして浮き上がった模様は、砂漠の景色のように見えた。どこまでも広がり、波のように連なる膨大な量の砂。
 暁はその小さな枠に囲まれた砂漠に手を伸ばした。さらりとした砂に手が触れる。すくい上げる。掌から砂が零れ落ちていく。暁が顔をあげると、そこには一面の砂漠が広がっていた。
 立ち上がる。夜のようだ。空にはやけに明るい金色の三日月が浮かんでいて、オレンジ色の砂漠に光を注いでいる。暁は歩き出した。裸足の指の隙間に砂が入り込んでくる。冷たい風が吹いて、砂が目に入らないように目を瞑った。
 目を開けても、景色は変わらない。暁は歩いて行く。砂に足を取られて歩きづらい。それから、一時間は歩いたように思う。暁は疲れ切っていたので、一面の砂漠の遠くに何か大きな塊が見えた時、ほっと息をついた。それこそが自分が目指していた目的地のような気がした。
 重い足を引きずって、その塊に近づいていく。それは遠目には、大きな鯨のように見えた。近くに寄って観察して、それが潜水艦だということに気が付く。なるほど、クジラも潜水艦も海を泳ぐものだから、似ていてもしようがないと思った。
 半ば程砂に埋まっている潜水艦の周りをぐるりとまわる。尻尾の辺りに人がいた。黒いスーツを着た若い男だった。男はメジャーを長く垂らして、必死に背伸びしながら潜水艦の尻尾の長さを測っているようだった。
「こんにちは」
 声をかけてみたが、返事はなかった。もう少し近づいて問いかけてみる。
「うちの家族を知りませんか」
「知りませんよ!」
 イライラとした声が飛んできた。男は振り返らず、尚もメジャーを繰っている。
「そうですか。すみません」
 思わず謝って、暁は立ち尽くした。これ以上話しかけてもいい反応は得られなさそうだが、ここから離れてまた話の出来るものに会えるかはわからない。逡巡している間に、男が振り返った。暁の事をじろじろと見る。正面から見ると、かっちりと撫でつけられた髪と言い、銀縁眼鏡の向こうの吊り上がった目と言い、嫌に神経質そうに見えた。暁の苦手なタイプだ。
「ちょっと、あなた、なんでこんな所にいるんですか」
 男はピリピリとした声音で問いかけてくる。
「なんで、というか。ええと、迷ってしまって。ここはどこなんですか?」
「困りますよ、勝手に入ってこられちゃあ。ここはあなたの夢じゃないんですよ」
「すみません」
 なんだか、とても怒っているようだった。謝った後、男の発言が気になって問いかける。
「僕の夢じゃないというのはどういう」
「早く出て行ってください」
「わかりました」
 暁が反射的に言うと、男はまた背を向けてメジャーを伸ばした。よく見るとそのメジャーはところどころ歪んだり捻じれたりしていて、とても何かを測れそうなものではなかった。
 その場を離れようとして、何処から出て行っていいかがわからずに立ち止まる。この男なら出口を知っているのだろうか。
「すみません」
「まだ何かあるんですか!」
 声をかけると、噛みつくような勢いで男が振り向いた。
「帰り道はどちらでしょう」
「自分できたんですから、わかるでしょう」
「それが、わからなくて」
 男は呆れたように腕を組んだ。ため息をついて、幾分トーンダウンした声で言う。
「仕方ない……送っていきましょう。こういうサービスは本来しちゃいけないことになってますから、よそで言いふらさないでくださいよ」
「ありがとうございます」
 暁が軽く頭を下げると、男はメジャーを投げて、潜水艦の尾部にひっかけた。暁に向き直っていう。
「じゃあ、どこに帰りますか。あなたの夢ですか。現実ですか」
「現実……? 夢から覚めることができるんですか」
「できるに決まってるじゃないですか」
「では現実に」
 帰してください、と言おうとして、言えなかった。それだけは言ってはいけない気がした。
「現実に帰りますか」
 男が指先で眼鏡をかけ直しながら聞いてくる。暁はどう言っていいかわからぬままに緩く首を振った。男がまた苛つきを声音に滲ませて問いかけてくる。
「じゃあどうするんですか」
「僕の夢に」
 言うと同時に、額から汗がにじみ出してくる。全てがわかった。どうして夢から目覚めることができなかったのか。どうしてこんな所に迷い込んでしまったのか。
「僕の始めの夢に、帰してください」
 そうだ、始めの夢に帰して欲しい。少し奇妙な所はあっても、まだまだ平穏で、家族と一緒にいられる夢に。
 思い出した。家族が事故で死んだこと。現実に戻れば自分は独りきりだということ。現実が辛くて夢に逃げ込んで、夢が覚めてしまわないようにどんどん深い夢に潜っていって。むやみに潜り続けて道を見失い、知らない夢に迷い込んだ。
 浅くて優しい夢に帰ろう。目を覚ますなんて馬鹿のやることだ。ずっと夢の中にいれば、辛い現実なんて無いも同じことだ。
 黒いスーツの男は数歩踏み込んで、暁の真ん前に立った。窺うように暁の顔を覗き込んで、腕を伸ばした。暁の肩に、男の手がポン、と置かれた。それと同時に、脚が沈み込んでいく。じわじわと、体が砂に埋まっていく。暁は強い安心感を覚えて目を閉じた。ありがとうございます、と言ったが、返事はなかった。鼻まで砂に呑まれて息ができない。重たい砂に溺れながら、暁は落ちていった。

 朝起きると、枕が床に転がっていた。横たわったままぼんやりとその枕を見て、暁は一人、口元を緩める。
 枕元からスマートフォンを取り上げ、日時を確認する。初めて枕が落ちていた日と全く同じ日にち、曜日、時間。暁はゆっくりと体を起こしてベッドから降り、枕を拾い上げてベッドの上に置いた。
 少し寝坊した。火曜日は必修の授業が一コマ目にあるから早起きしなければならないのに。そう思いながら暁は着替えた。寝間着のジャージとリュックを持って部屋を出て、一階に降りる。
 階段の一段目にリュックを置き、洗面所の扉を開けると先客がいる。弟の慶が、洗面台の鏡に向き合って髪を弄っている。この時間だと慶の起床時間と被ってしまうのだった。暁は、ひんやりとした廊下に突っ立ったまま、慶を眺める。始めは気にしない様子だった慶も、やがて暁の視線に気づいて問いかけてきた。
「……何だよ」
「顔を洗いたいんだけど」
「洗えばいいだろ」
 慶が不機嫌そのものの声でそう言って、体をずらした。暁は洗濯機の横の籠に寝間着を投げ入れた後、洗面台の前に立ち、顔を軽く洗ってタオルで拭いた。歯ブラシに歯磨き粉をつけた後身を引くと、慶がまた鏡の前に戻る。 
 暁は歯を磨きながら、慶の様子を眺めた。しつこく髪を弄っているが、全く変わっているように見えない。暁は歯ブラシを動かしながら、忍び笑いをもらした。我慢しきれずに、笑い声はどんどん大きくなっていく。慶は体を傾けて振り返り、暁を睨み付けた。
「何なんだよアンタは、さっきから」
「いや、だって、はは、さっきから全然髪、髪形変わってない、変わってないじゃん、く、ふふ」
「変わってるし、全然違えし」
 ムキになって言い返す慶がおかしくて、笑いが止まらない。歯磨き粉の混ざった唾液が口から零れないように口元を手で抑える。慶は無言で鏡に向き直り、軽く髪を触ると、手を洗って洗面所を出て行ってしまった。
 いまだ止まらない笑いを噛み締めて、暁は壁に背をつけた。呼吸を整える。思い出したように歯ブラシを咥えなおして、ずるずると座り込んだ。
 帰ってきた。自分の望んだ世界、家族が生きている夢。弟を揶揄いながら歯を磨き、居間で新聞を読む父親の向かいに座って、母親の作った朝ご飯を食べる。これ以上何を望むことも無い。
 座り込んだまま、歯を磨く作業に戻る。いい加減出かける準備を進めなければならない。講義に大幅に遅刻するのは良くない。これからずっと夢の中で暮らすのだから、必修の単位は落とさない方がいい。

 友人の手足が異様に長いのも、助教授の声が電子音になっているのも、全てが嬉しく思えて、暁は一日を浮ついた気持ちで過ごした。そして家に帰りつき、居間で座椅子に座って本を読む。ちらりと壁掛け時計を見上げて、呟いた。
「そろそろかな」
 白い表紙の単行本を閉じて、座卓の上に置いた。リモコンを手に取りスイッチを押せば、夕方のワイドショーが流れ出す。そわそわとする気持ちを静めようと眺めている間に、慶が帰ってきた。
「おかえり」
 声をかけるが、返事はない。こちらを見ることすらせず、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。手は洗ったのか、などと問えばうっとうしがられてしまう。
「手は洗ったのか」
 案の定無視される。慶が注ぎ口に直接唇をつけて、牛乳パックを傾けた。
「コップ使いなさいよ。お行儀の悪い」
 暁は薄く笑いながら、かみしめるような気持ちで言った。それにも反応せず、慶は喉仏を上下させて半分以上残っているはずの牛乳を飲んでいく。
 一滴も零れていないのに、慶は手の甲で口元を拭って、それからやっと暁の方を見た。暁の顔を見て、眉をひそめる。そして何かを言おうとした、その時、座卓の上に置いておいた本が舞い上がった。
 ページの真ん中を開いた形で、表紙を背にして飛んでいる。両の羽をパタパタと動かすように、表紙とページを動かして、鳩の様に部屋中を飛び回った。それに反応するように、居間の様々な位置に置かれたいくつもの本が浮き上がる。
 文庫本はセキセイインコのような軽やかさで旋回している。広辞苑は体が重いのか、バサバサと音をたててぶつかるような勢いで飛んでいた。
 その広辞苑が電子レンジに激突して地面に落ちたのを拾い上げて、慶は苦々しい声色で言った。
「だから、本は自分の部屋に置けって言ってんだろ」
「広辞苑は母さんが使ったんだと思うけどな」
「他の本は全部兄貴のだろ。片付けろ」
 そう言われたので、暁は飛び回る本を捕まえようとするそぶりをみせた。しかし本たちは、暁の手をすり抜けていく。
「ほらほらおいで、怖くないよ、本棚に帰りましょうねー」
 ちちちちち、と舌を鳴らして、本を呼ぶが、一向に降りて来ない。読みかけの白い本が飛んでいく様を眺めていると、その本がふいに捕まった。本を閉じながら、慶が言う。
「何やってんだアンタは」
 本を手渡して、慶は暁の顔をまじまじと見た。視線を受けた暁は、首を少し傾けて慶を見返す。慶は少しためらった後、口を開いた。
「アンタ、どうした?」
「どうって、何が」
「何か、おかしい、朝から」
「おかしくなんてないさ、何も」
 暁は、本の背表紙を確かめるように指で撫でた。
「これが正しいんだ」
 慶がぐっと息をつめて、暁を睨む。違う。暁を注意深く見て、何がおかしいのか探ろうとしている。でも駄目だ。弟っていうのは、構ってくるうっとうしい兄をやり過ごすのに忙しい生き物だから、兄の感情を読んだりするのには慣れてない。
 暁はふっと笑って、右手に持った白い本を肩にのせるようにして持った。
「じゃ、慶、他の本も片付けといて」
「は? 自分で片付けろよ」
「あー、無理無理。捕まえらんない」
 そう言いながら居間を出て行く。引き留めようとする慶の声を無視して廊下に出て、階段を登っていく。
 少し調子に乗りすぎたようだ。これからは慶が疑念を抱くことの無いよう、慎重に接しなければならない。
 暁は自分の部屋に入り、白い本を開いた。そこには一文字の狂いも無く、よく知った戯曲が書かれている。

 それから一度も、朝起きた時に枕が床に落ちているようなことは無かった。日々はただ平穏に過ぎていく。友人の手足が伸びていたり、助教授の声が電子音になったり、本が飛んだり、ぶどうジュースが光ったり、近所で見かける狸の尻尾が格子模様だったりはするが、それによる生活への大きな支障はない。
 暁は毎日を何の問題も無く過ごし、そのうちに五年が過ぎた。五年と言ったら大したもので、高校一年生だった慶が大学二年生になる程の年数だ。その慶はと言えば、高校卒業と共にさっさと田舎を抜け出し、一人暮らしをしながら都会のキャンパスライフを送っているらしい。
 暁は大学を卒業しても相変わらずの実家暮らしで、車が無ければ不便極まりない田舎で免許もとらず、さほど本数も無い電車で職場へ通っている。
 そんな、ある日。慶が実家に帰ってきた。お盆の時期だった。大学一年生の時は盆も正月も連絡の一つもなかったくせに、二年生になって突然に。連絡もなく。
 急な里帰りに、母親はえらく喜んでいた。父親は何も言わないが、そわそわと落ち着かない様子で慶に話しかけたりしているから、喜んでいるのだろう。
 その日の夕飯は急遽すき焼きになった。暁はすき焼き用の脂っこい肉があまり好きではないので、お麩や白菜をちまちまと食べながら、肉ばかりをかきこむ慶を眺めた。野菜も食べなさい、という母親に反抗的な態度を示す弟を見て、笑ってしまった。もう二十歳になっているはずなのに、まったくもって反抗期が終わらないようだ。
 笑った暁を、慶が睨み付けてくる。さて、なんと噛みついてくるかな、と思いながら慶の言葉を待っていたが、慶は何も言わなかった。母親がおたまで勝手に皿に入れた春菊をまずそうに噛んで、煮立つすき焼き鍋を睨みつけていた。

 夕食の時間も終わったので、暁はうつぶせで自室のベッドに寝転がり、ソーダアイスを食べながら本を読んでいた。そんな時に、ノックの音がした。入っていいよ、と声をかけると、慶が入ってくる。暁は寝転がったまま問いかけた。
「どうした? 何か用か?」
「話がある」
 真剣な声音で言われたので、流石に暁も体を起こした。ベッドの上のクッションを慶に向かって投げる。受け取った慶は、床にクッションを置き、その上に胡坐をかいた。
「で、何」
 暁は問いかけたが、慶は黙り込んでしまった。ベッドに座ってシャクシャクとアイスを食べながら、慶の言葉を待つ。残ったアイスの棒をゴミ箱に投げ入れたところで、やっと慶が口を開いた。
「おかしい」
「何がおかしい?」
「ホワイトチョコレートが木になっていたり、ハリネズミが海の生き物だったりする」
 確かに、それはおかしなことだ。それが現実世界での出来事であったならば。しかしここは夢の中だ。何が起きても、それが常識として許容されるはずの世界だ。それなのに、何故、慶はこんなことを言い出したのか。
「それの何がおかしいんだ」
 暁は内心で焦りながら、静かな声で言った。何がおかしいのか、と。何もおかしくないだろう、と。しかし慶は納得してはくれなかった。
「おかしい。全てがおかしい。何よりもおかしいのは」
 慶は真っ向から暁を見上げて、落ち着いた声で言った。
「オレがこうして生きていることだ」
 心拍数が一気に上がる。額に噴きだす汗を感じながら、暁は答えた
「何を、言うんだ。お前が生きててなんでおかしいんだ」
「思い出したんだ。オレはあの日死んだはずだ」
 慶は淡々と続ける。
「丁度、五年前の今日だったはずだ。婆ちゃんの家に車で行くとこで、オレは後部座席で寝てた。急に車が酷く揺れて、母さんの悲鳴が聞こえて。わけもわからず後ろを見たら、やけにでかいトラックが」
「やめろ」
 暁が震える声で言っても、慶はやめなかった。
「痛くて苦しくて、どっちが上かもわからない中で、父さんが叫ぶ声が聞こえたよ。とても人の声には聞こえなかったな。そんで、なんとか目を開けてわかった。自分の腰から下はもうぐしゃぐしゃで、到底助かるもんじゃねえって」
「やめてくれ!」
 暁が叫ぶと、慶はやっと口を閉じた。暁は額を抑えて、ガンガンと痛む頭をなんとか抑えようとした。
 夏休みの時期に、母方の祖母の元に行くのは毎年の事だった。夏休みは友達と遊ぶ予定がある、とごねながらも結局慶は例年通り車に収まり、暁は追試をくらったせいで、一人だけ遅れて夜行バスでいく予定だった。
 あの時、もう少し時間がずれていれば、暴走した大型トラックに巻き込まれて家族が命を落としたりなんてしなかったのに。慶がもっと我を張って、夏休みの家族旅行を拒否していれば、慶だけは助かったのに。追試なんてくらわなければ、自分も車に乗っていれば、一人取り残されることもなかったのに。
 沈黙が広がる中、ふいにバサバサとけたたましい羽音が聞こえた。先程まで読んでいた白い本が、何度も繰り返し読んだ戯曲の本が部屋の中を、円を描いて飛んでいる。慶が腕を空中に向かって伸ばすと、本は大人しく慶の掌の上に乗った。慶は本の背表紙を撫でた後、そっと本を閉じた。立ち上がって本棚に歩み寄り、本をしまう。
「本は普通飛ばない。本が飛ぶ世界は間違ってる」
 振り返り、相変わらずの真っすぐな目で暁を見て、慶は続けた。
「全部思い出せる。アンタ、言ったな。ずっとこうしていたい。夢から覚めなくたっていい。ずっとここにいればいい。間違ってるよ。夢はいつか覚めるものだ」
「ふざけんな」
 暁は低く掠れた声で言った。目の前がチカチカと明滅している。
「間違ってるなんて、どうして言える。母さんが、父さんが、お前が死んだ現実が正しいなんて、なんでそんなこと言えるんだ。この平和で幸せな夢が間違ってるなんて、何の権利があってそんなことを言うんだ。そうだ、ここは……ここは僕の夢だ。僕の夢の中で勝手なことを言うな」
 暁は衝動的にベッドから立ち上がった。ぐらりと揺れる体をなんとか支えて、慶に背を向ける。部屋から出ようとした時に、慶に腕を掴まれた。
「逃げんなよ」
「もう話すことは無い」
「オレはある」
「お前はっ……一体何が不満だって言うんだ!」
 暁は慶から顔を背けて、叫ぶような勢いで言った。
「慶、こないだ誕生日だっただろ。友達に祝ってもらった? それとも彼女と過ごしたのかな。このまま何回だって誕生日を迎えられるのに、何の不満がある? お前、大学で何の勉強してるんだっけ。将来の夢はなんだ? これからいくらでも叶えられるのに、どうして全部ドブに捨てようとする? 帰れ。もう僕に会いに来るな。それでせいぜい、幸せに暮らしたらいいだろう」
 暁は慶の腕を振り払おうとした。しかし慶の右手はしっかりと暁の腕を掴んでびくともしない。
「手を放せ」
「嫌だ」
「放せって言ってるだろ」
「オレは……オレは、アンタの言う事なんかきかない」
 ここまでずっと冷静な様子だった慶の声が、震えていた。暁のシャツの襟首を左手で掴んで、早口で言いつのる。
「アンタ、いつも勝手だ。オレの知らないところで好き勝手やって兄貴面して、お前のためだって、だから言う事を聞けって、勝手だ。アンタの言う事なんかきいてやるか。アンタの夢の中だろうが、オレはアンタの言いなりにはならない!」
 吊り上げられるように襟首を引っ張られる。暁は抗議の声をあげながら、逃れるように身を引いた。揉みあいになっているうちに、ずっと掴まれていた腕が自由になったから、それを隙と見て逃げようとしたが甘かった。慶が腕を振りかぶるのが見えたかと思えば、顔面に重い衝撃。ベッドの上に倒れ込む。
 殴られたのだ、と理解する。早鐘のように打つ心臓に合わせて断続的に痛む頬と顎。鼻から液体が流れる感覚がして、手を唇に触れさせた。手に赤い液体が付いた。鼻血だ。
 血を見て急に冷静になり、暁は慶を見上げた。そして呆れ果てた気持ちになった。慶が泣いている。顔をくしゃくしゃにして、流れる涙を拭いもせずに棒立ちになっている。
 そういえばこいつは、自分で殴っておきながら泣く奴だった。何度も繰り返した兄弟喧嘩で、度々慶は手を出してきた。しかし暁の方は、五歳も下の弟にやり返すわけにもいかない。その上慶がボロ泣きに泣くから、弟を泣かすんじゃないと怒られるのはいつも暁の方なのだ。
 慶が数歩分よろめいて、膝から崩れ落ちた。ベッドの淵に腕を置いて顔を伏せる。そのすぐ横に、枕があるのに暁は気が付いた。暁がベッドに倒れ込んだ時に転がったようで、ベッドの淵に差し掛かった枕は今にも床に落ちそうだった。
 慶は、尚も泣いている。不明瞭な声を漏らし、何度もしゃくりあげている。
「……泣くなよ」
 無駄だとわかっていたが、言ってみた。やっぱりそんな言葉一つでは泣き止みやしない。暁は深く、深くため息をついて起き上がった。ベッドの上に膝を立てて座り、壁に背をつける。
「僕はただ、慶に生きてて欲しいだけなのに」
 呟く。泣き声交じりの返事が返ってくる。
「オレだって……兄貴に生きて欲しいと、思ってる」
 暁は天井を見上げた。わかっている。弟という生き物を泣き止ませるためには、結局兄が要求をのんでやるしかないのだ。それがどれだけ辛いものだとしても、弟は許してくれない。
 顎を上げて天井の蛍光灯を見ていると、鼻血のぬるりと濡れた感触が喉に流れ込んでくる。口の中を満たす錆びきった味はこんなに生々しいのに、熱をもった頬はズキズキと痛み続けているのに、どうしてこれが現実ではいけないのだろう。
 暁は左手で、ベッドの上に敷かれたシーツを握りしめた。所々鼻血で汚れている。
「わかったよ。わかったから。もう、泣くな」
 慶が顔を上げた。涙で濡れた目で、暁を見上げてくる。目を細めてそれを眺め、暁はシーツを引いた。引かれたシーツがピンと張って、シーツの上に乗っていた枕がぐらりと揺れて、枕はベッドの下に落ちていく。暁はただ、最後の瞬間まで、何度も瞬きしながら見上げてくる慶の顔を見ていた。

 朝起きると、枕が床に転がっていた。横たわったまま、ぼんやりとその枕を見る。
 暁は枕元からスマートフォンを取り上げ、時間を確認した。眠気で重い体を起こしてベッドから降り、枕を拾い上げてベッドの上に置く。
 少し寝坊した。火曜日は必修の授業が一コマ目にあるから早起きしなければならないのに。そう思いながら暁は着替えた。寝間着のジャージとリュックを持って部屋を出て、一階に降りる。
 階段の一段目にリュックを置き、洗面所の扉を開ける。暁は洗濯機の横にある籠に寝間着を投げ入れて、洗面台の前に立った。顔を軽く洗って拭き、歯ブラシに歯磨き粉をつける。
 鏡を眺めながら、手を動かして歯を磨く。寝起きでむくんでいる自分の顔。慶には似ていない。暁は父親似で、慶は母親似だった。口をゆすいで、歯ブラシを所定の位置に置いた後、寝ぐせで跳ねた髪を整えようとして、すぐに諦めた。
 洗面所を出て、トイレで用を足した後、居間に入る。台所の冷蔵庫に近づいて、牛乳を取りだすと、ガラスのコップに牛乳を注いで、一息に飲み干した。買っておいたバターロールにハムを挟んでかじりつく。
 やがて食べ終わり、軽く水で濯いだコップを流しに置いた後、暁はリュックを背負って家を出た。

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