足跡

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梗 概

足跡

“ぽろぽろと自分がこぼれていく感覚を知っていますか?”
ある日、郵便ポストに入っていた手紙には柔らかい文字でそう書かれていた。差出人のないその手紙を机において僕はバイト先の図書館へ向かった。小さな商店街を抜けると縦に長い公園がある。その中を歩きながら振りむいて見た。何の変哲もない、薄い足跡が細かい砂を敷き詰めた道に残っているだけで、そこに僕から零れ落ちたものは何も見あたらなかった。
帰り道夕暮れの公園を歩きながら僕は想像した、僕の足跡からぽろぽろと昨日の晩御飯の献立が大好きだった本の名前が、昔飼っていた犬の鳴き声が零れ落ちていくところを。そのこぼれてしまった僕はどこにいくのだろう。きっと足跡の底はどこかの街の空に繋がっているんだ。

「今日は雪が降るのね」
私たちの町は、どんなに晴天の日も満天の夜空でもいつも何かが降っている。その1つ1つは雪のようだったり、花びらのようだったり、蛍みたいに光っているものもあった。そのどれもが降り出すと私たちは傘をささなくてはいけなかった。その美しい落下物には誰かの思い出か詰まっていて、不用意に触れるとその想い出に呑まれてしまうのだ。私の母は夕ご飯の買いだしに行ったまま帰ってこなかった。その日は昼間から羽が降っていた。きっとその羽に触れてどこかの誰かの食卓へ夕ご飯の献立を作りに行ってしまったのだろう。わたしもいつかそんな風に大切なものを置いてどこかに行ってしまうのだろうか。思い出を降らせる誰かへ向けて、私は手紙を書いていた。宛先のない手紙を落下物の集積場に捨てると、見る間に埋もれて見えなくなった。私はきっと私をここに捨てているのだ。

空想はいつの間にか僕が眠る夢の中で淡く発光を続けた。僕は僕の記憶が降る街で少しずつ誰かの中にしみこんでいく。
目が覚めると代わり映えのしない部屋の中で、毎日のように届く手紙が机を埋め尽くしている。僕は図書館へと向かう。些細なことから図書館の名前までこぼれ落ちて、それと同時に僕という存在が薄くなっていく。夕暮れの公園を好きだと言った僕はきっともうここにはいない。僕の中心はもうすぐ足跡の街に行くだろう。

今日は空から白い糸が降っている。私は窓辺に座って手紙の中に捨ててしまった思い出の輪郭に浸っていた。空間を占めようときそいあってのびる根や茎や葉を眺めた初夏の陽光。おだやかな波うちぎわになげうったうつくしい脚。ふりしきる花びらの海で深呼吸する喉のまっさらなストローク。ふりかえる頬、たまらなくやさしい音の洪水。街角に母の後ろ姿を見た気がして、私は窓を押し開けた。
「母さん」
開け放った窓から手を伸ばした人差し指はなめらかに白い糸をからめとった。
ひとすじの雲を、私はあの春の日を昨日のことにように思い出した。どこかの誰かに思い出を返すために夕暮れの町のあの公園へ向かって私の足は動きはじめていた。

文字数:1183

内容に関するアピール

自分の好きな時間や風景の中で変わり映えのしない毎日をおくる少年。1通の奇妙な手紙を受け取ってから足跡から記憶が零れ落ちていく、彼と人の記憶が降る街の少女の話をそれぞれの視点で書いていきます。
起承転結まで書いたつもりなのですが、これは起承転結していますか?

文字数:127

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足跡

◇宛名のない手紙 

 目を開ける。薄明かりの中の部屋は静かで、始発の走る前、窓の外も何の音もしない。冷たい匂いのする空気を肺から吐き出すと、ベッドで柔らかい毛布にくるまって朝が来るのを待っている。誰かが「おはよう」と声をかけてくれたら、僕はすっきりと目を覚まして、最高の笑顔でその人に挨拶をかえすだろう。焼きたてのトーストに、少し焦げた目玉焼きを頬張りながら、今日の予定を話して、夕食の献立について話し合う。明るい部屋の中で幸せそうに笑う僕の影で、もう一人の僕がため息をついている。一人きりの静かで穏やかな、ゆっくりと呼吸ができる僕だけの楽園に帰りたい僕――
”コトン”
 郵便受けの方から乾いた小さな音が聞こえた。耳を澄ましても走り去るバイクの音も車の気配もない。僕宛の手紙。これもきっと僕の空想の一部だろう。

――今日は20日ぶりに落下物が観測されています。お出かけの際は傘をお忘れにならないように 
 街のてっぺんから響いてくる声を聞きながらカーテンを開けると、窓の外には白いものがちらついていた
「今日は雪がふるのね」
 見下ろすと色とりどりの傘が道の上を動いている。降るともいえない量の雪にも私たちはカサをささなければいけない。この雪に触れると私たちは、この町を捨ててどこか遠くに行ってしまうのだ。この話を馬鹿みたいと笑う人はこの街にはだれもいない。今日みたいに落下物が降る日には、窓辺においた籐椅子に腰掛け、私を抱いた母が話してくれたことを思い出す。
「カティナ、私たちの町にはときどき何かが降ってくるのよ。その1つ1つは花びらのようだったり、雪のようだったり、蛍みたいに光っているものもあってね。そのどれもが空から降ってくると、カサをささないといけないのよ。その美しいものたちには誰かの思い出が詰まっていて、それに触れると想いに呑まれて私たちどこか遠くに行ってしまうのよ・・・・・・」
 おとぎ話のような母の話と頬にふれるあたたかな温度に私はうっとりとまどろんで、窓の外を舞う雪を見ていた。その光景を思い出すたびに、落下物がどうしてあんなにも美しいのかその理由がわかる気がした。喉元までこみあげた感傷を胸から追い出すために、テーブルの上に広げた便せんを見つめた。降り積もっていく言葉で一杯になった手紙に封をして、母が大切にしていた箱の中にしまった。さっき入れたヒーターで一階の工房は暖まっているはずだ。もう仕事をはじめてしまおう。落下物の降る日には新しいカサがよく売れる。

 朝日がカーテンの隙間から差し込むのと同時に起き出して、僕はいつもと同じ手順を守ってゆっくりと身支度をはじめる。冷たい水で顔を洗うと、跳ねた水ですこしだけぬれた足の裏をマットでふく。ガスコンロのつまみをひねるとチッチッチッチッチと規則的な火花。ケトルからマグカップにお湯を注ぐと、湯気と一緒にコーヒーの香ばしい匂い。トースターの前で真っ赤な伝熱管に照らされてじりじり茶色になっていく食パンを観察しながらちびちびコーヒーを飲む。窓辺のテーブルで朝食を手早く済ますと、残りの身支度を終えて、靴箱から取り出したスニーカー履いて家を出た。
”コトン”
 ドアから数歩離れたとき、昨日と同じ音が背後から聞こえた。振り替えると銀色の郵便受けがいつもの通りドアの側で朝日を反射していた。足音を立てないように近づくと、フックに指をかけて開くとそこには薄水色の一通の封筒が入っていた。指先でつまむように引き出して眺めると、裏にも表にも宛名も差出人の名前さえなかった。透かしてみると、中には二つに折りたたまれた紙が入っていた。僕は、その怪しい封筒をポケットに入れると、バイト先の図書館へ向って歩き出した。腕時計を見るといつも家を出る時間を三分過ぎていた。少し急いで家を出てすぐの踏切をわたった。「三分ぐらいどうってことないよね」つぶやきながら、小さな商店街の入り口に差し掛かる。お気に入りの古書店のシャッターはまだ閉まっていて、その先にある豆腐屋さんからは挽いた大豆の独特の香りがする。骨董品みたいな瓶の中の金魚を眺めている少年は今日も早起きで、ベーカリーのそばには毛の長い白い猫が気持ちよさそうにひなたぼっこをしている。何も変わらない景色に満足しながら、三叉路を左に曲がってなだらかな石段の先の公園を進む。鉄棒の前に並んだベンチを通り過ぎて、朝露に湿った地面を踏みしめる。ふと振り返ると何の変哲もない僕の薄い足跡が、細かい砂を敷き詰めた道に残っていた。ムクドリの巣になっている木の下を通りすぎてスロープを下ると図書館が見えてきた。
 古いマンションのような四角いフォルムと薄汚れた外壁、ひと昔前に流行ったらしいゆるやかなアールを描いた連なる窓に日に焼けたレースのカーテンがかかっている。いつも通りこの街の片隅にひっそりと佇んでいる図書館の前のクスノキの木陰にあるベンチに座って、僕は目をつむった。入り口を入ったところのデスクにはいつも眼鏡をかけたおじさんか、図書館のエプロンを着けた僕がいる。コンクリートの箱がぽっかりと口を開けたような開架書庫へと続くスロープは、むきだしのベニヤ板でできている。どんなに足音を立てないようにしたって、ノックのような小気味良い音がフロア中に響く。書棚に合わせて天井の低い書庫の中に用意されたスツールにはクッションが乗っていて、明かり取りの窓のない空間に気持ちよく整列した背表紙と年を経た紙の匂いに包まれて本を読んでいると、時間が経つのはあっという間だ。閉架書庫の壁という壁に誰かの覚え書きが書かれていて、すごく賑やかだ。いつかペンキ消すと言いながら一度も消されたことのないメモの中には、本を虫干しするときのコツや好きな作品や作家について書いてあるものもあって、どれだけ眺めていても飽きなかった。仕事の合間には僕は西階段の踊り場でのんびりすごす。三階の倉庫へ続く西階段にはめったに人が来ない。窓からは僕が通ってくる公園が見えた。階段に腰をかければ、窓の外には空だけが広がる。壁に体を寄せて、僕はゆっく深呼吸する。閉架書庫の隅で見つけた本の赤い表紙を指でなぞりながら、僕はいつまでもこの日々が続けばいいと思っていた。幸福が永遠じゃないことなんて、とっくの昔に知っているけれど、それでもその永遠について考えるほど、僕はひどく満たされていた。
「おはようエリ」
「エリ、今日も元気そうだね」
「おはようございます」
 出勤してきた同僚たちの声に僕はまぶたを上げた。クスノキの葉と太陽が、ベンチの上にやわらかな陰影を作っていた。革靴の堅い音が近づいてくる。公園に続くスロープからのんびりとした足取りで、ゆるくしめたネクタイの結び目を触りながらやってくる人は、開架書庫のベニアをいつも楽しそうにならしながら歩く館長だ。その顔が逆光のせいでやけに沈んでみえた。
「そろそろ時間だよ」
 いつもの言葉に、僕は小さくうなずいて立ち上がった。
 裏口のドアを開ける、短い行列の先、”カシャン” タイムカードを押す乾いた音が僕の一日の始まりの音だ。

◇西階段の踊り場 

”カシャン” 
 僕の手から滑り落ちたCDケースの破片が床に散った。僕は踊り場の隅で小さく小さく体を丸めて、泣き出しそうになる自分を抑えていた。頭の中には、さっき館長が言った言葉がぐるぐる回っていた。
「昨日、図書館の建て替えが決まったと連絡が来ました。工事期間中ここは閉館することになるそうです」
 僕たちと同じくらい青白い顔をして、館長は続けた。
「閉館中はみんな他の図書館へ出向することになる。各自リストの中から希望を上げてほしい。不安があると思います。順次面談を予定しているから、何でも相談してください」
 いつもはまっすぐに伸びている背中を丸めて話す館長と部屋にあふれ出した重苦しい空気に耐えきれなくなって、返却棚から数冊の本とCDケースをつかんで僕は逃げ出すように事務室から飛び出していた。
 西階段の踊り場からは晴れ渡った青い空が見える。壁にもたれたまま大きく深呼吸をして目を閉じると、僕は数日前に閉架書庫の隅で見つけた一冊の本のことを思い出していた。朱色の布張りの表紙の一人の作家の短編集だった。その中に、僕と同じように図書館で泣く男がいた。図書館の非常階段で赤いスカートの少女の幽霊に出会う男は、何もかもが悲しいと泣いていたっけ。あふれそうな涙を抑えようと両手で目元を覆うと、ポケットの中で何かが潰れるような音が聞こえた。手を入れるとくしゃくしゃになった薄水色の封筒が出てきた。間違いでも何でももう誰にも送れそうにない手紙の封をそっと開けると、金糸で縁取りのされた便せんに几帳面そうな文字が並んでいた。
”ぽろぽろと自分がこぼれていく感覚を知っていますか”
 言葉が胸を切り裂いて、血があふれた。その血と一緒に僕の体中にひしめいていた感情がこぼれだして床の奥、もっと下の方へ落ちていった。泣きたいほど苦しかった理由をすっかり忘れた僕は、事務室に戻って館長に壊れたCDケースのことを謝った。館長は「これは返却ポストに入れてあってもとから壊れていたんだよ」と苦笑いをした。「お腹が痛かった」という嘘に軽く頷いくれた同僚と入れ替わるように僕は窓口のデスクに座って淡々と仕事をこなした。その夜ベッドに潜り込むまで、僕は一度も図書館がなくなることを思い出さなかった。

 
 
◇羽が降った日

「カティナ、明日は羽根が降るって」
 工房の外から聞こえた声に手を止めて扉をあけると、アポロが得意げな顔をして立っていた。
「明日の天気の話でしょ、通信技師をクビになりたいの?」
「違うよ!もう放送が入る。明日の羽根はしばらく降り続くことになりそうだから、放送だけじゃなくて通信技師で手分けして町中に伝えてるんだよ。何かに夢中になって全然放送を聞いてない人がいるからさ。僕の父さんみたいにね」
「・・・・・・ねえ、まだ伝える人は残っているの?もしよかったらうちで何か食べていってよ。あちこち回って疲れたでしょ」
「そう言ってくれると思って、カティナを最後にしたんだ」
 私たちは胸を塞いでいく冷たい気配を振り払うように、積み上がった焼きたてのふわふわのパンケーキにかぶりついた。口の中に広がる蜂蜜とバターの風味を噛みしめながら、たわいもない話をして涙が出るほど笑った。この街に住む人は、誰もが落下物に触れた大切な人を失っているから、羽根が降り続く前の今夜は、どの家でも誰かと一緒にお腹いっぱいおいしいものを食べて、笑って、幸せを胸いっぱいに詰め込んで冬眠中のクマみたい悲しみを乗り越えるのだ。
 目が覚めるとアポロの言っていたとおり羽根が降っていた。ここ数年で予報の精度は飛躍的に上がっている。羽根はしばらく降り続くのだろう。窓の外を白く柔らかい羽根が糸を伝うようにまっすぐ降りてくる。落下物には特有の法則があって、花びらも雪でさえ風になびくことなく一直線に落下する。私たちにできることはその落下物を軌道をやさしくいなすだけだ。カサは私たちがなめらかに落下物の軌道の下をくぐり抜けるために作られている。部屋中に散らばった数式を書き付けた紙を拾い上げながら、私は母のことを思い出していた。
 母の栗毛色の髪の毛は絹のように細くやわらかで、その髪を鏡のとかす母の後ろ姿が大好きだった。まるで絵を描くようにおどろくほど美しい母の刺繍は繊細で、私の作った不格好なカサでも母が刺繍を入れるとあっという間に売れた。刺繍入りのカサをなつかしむような目で見る人たちから距離を取るように、友人たちとも距離を置いていたから、母は私だけを深く深く愛した。とほうもないほどの愛情と寛容に包まれて、私の幸福はきっとあの時期に使い果たされてしまったのだろう。
 羽根の降る日に母は消えてしまった。夕飯の買い出しに行くと、私の作りたてのカサをうれしそうにさして出かけていった母はそのまま帰ってこなかった。日差しが栗毛色の髪をキラキラ反射して、まばらにふる羽根の中、振り返って私に笑いかけた母を忘れられない。どうして母は羽根に触れたのだろう。どうしてカサは母を守ってくれなかったのだろう。答えのない問いがいつも胸の奥にわだかまった。きっと羽根に触れた母は、羽根を振らせた誰かのために夕飯を作りにいってしまったのだ。繊細な指を持つ母は、あれでいてひどく大胆なのだ。
 こんなにも激しく羽根が降っていては今日は誰もどこにも出かけられない。雪や花びらは地面に落ちてしばらくすると溶けるように消える。けれど羽根だけは、いつまでも消えずに町に降り積もる。どんなに降り積もっても翌朝にはすっかり消えているのは、夜のうちに町が集積場に羽根を集めてしまうからだ。羽根がやむまで店も工房も閉めてしまおう。店と工房の電気を落とすと、私はもう一度ベッドに潜り込んで柔らかい毛布に顔を埋めた。あっという間に幸せな夢の香りに包まれていた。

 退勤のタイムカードを押して図書館を出ると、町は夕焼けの色をしている。夕暮れの公園を歩きながら深く息を吸い込むと晩秋の匂いがした。公園を囲むように植えられた木々の向こう、グラデーションのように赤く染まる雲と空といくつもの路地がみえる。街灯に照らし出されたあらゆるものは放射線状にいくつもの影を持って夜の隙間をさまよっている。西階段の踊り場で、自分を引き裂いてから僕は胸が苦しくなる度に想像する。僕の足跡からぽろぽろと自分が零れ落ちていくところを。誰かの家の玄関の下で明かりが灯るその瞬間、僕を迎え入れるためではない明かりが作る僕の影が長く伸びるとき。通り過ぎれば、すぐに明かりは消えて僕の影も消え去っていく。誰かの軒下に並べない僕の影。幸福な食卓で屈託無く笑える人とそうじゃない人。それを分けるものがわからないまま、僕は夜の公園のベンチに座って、グラウンドのネット越しに、揺れる木々と点滅する街頭を見つめている。僕の世界を作る寂しさが、誰かの街に降って、この景色をこの空洞を共有してくれたらいいのに。街を歩く僕の足跡は鏡のように夜空を写すから、僕のぐちゃぐちゃな想いも全部、街の空から降るときには美しいといいと心から思った。

 羽根が降り始めてから幾日か経ち、私は昼と夜の境目を眠りの中ですごしていた。いつぶりかはっきり目を覚ますと、部屋は真っ暗でストーブも消え、吐く息の白さが、夜がかなり深いことを告げていた。カーテンを開けると、空には白い月が光っていて、羽根はすっかりやんでいた。羽根の降った日の夜は、集積場が稼働するため外出が禁止されている。と言っても出かける人もいるが、私は出かけもせずにいつも眠っていた。だから集積場が稼働するのは見るのはこれが初めてだった。道路も階段も、石畳も地面という地面が細かくさいの目状に口をあけて、町中が気づかないほどゆっくりとかすかに揺れ、ふるいのように羽根を地下に落としている。月の光を浴びて柔らかく光る羽根の群れがゆっくりと地面に吸い込まれていく。その不思議な光景を眺めていると、階段の隅や街路樹の根元、石畳の境目を羽箒で掃きながら移動する小さな背中が見えた。
「掃除屋さん・・・・・・?」
 集積場を管理する掃除屋の話をいつだったか聞いたことがあった。何年も、もしかしたら何十年も落下物を管理してきた掃除屋なら、落下物について誰も知らないことを知っているかもしれない。突き動かされるように私は、ベッドから起き出しだ格好のまま家から飛び出した。

「待って!」 
 掃除屋は駆け寄る私を見て、顔を覆っていたマスクを外した。そして私の格好に眉間のしわを深くした。
「羽根の夜に、そんな格好で」
「イヴァンさん・・・・・・?」
 彼は両親の古くからの友人だった。母の刺繍入りの私のカサを買いに来た彼を母はこわばった表情で私に紹介してくれた。帰り際母と何かを言い争って以来、一度も顔を合わせていなかった。
「イヴァンさん教えてもらいたいことがあるんです」
「君のお母さんのことなら、私にも何もわからないよ。もうすぐ羽根が降りだしそうだ。今すぐ家に帰りなさい」
「・・・・・・聞きたいことがあるんです」
 子供のようにうずくまって動かない私に息をつくと、イヴァンさんは私の腕をつかんで、大通り脇の路地の奥に向かって歩き出した。突き当たりにある銀色の扉の鍵を開けて私をその中に引き入れた。
「ここは私の家だよ。今日はそんな格好で立ち話ができる日じゃない」
 イヴァンさんはミルクを注いだ鍋を火にかけると、ストーブの近くに置いた椅子に私を座らせた。コートを脱ぎ、鍵の束を壁にかけると、飴色に使い込まれた椅子に腰をかけた。
「言ってごらん、掃除屋に何が聞きたいんだい」
「落ちている羽根に触れても・・・・・・ちがう。落下物はどうして降る日が・・・・・・ちがう」
 尋ねようと思えば思うほど、私は母のことだけが知りたいのだと気づいて息が詰まった。
「落ち着いて考えなさい。だけど、僕は君が思うほど落下物については何も知らない。残念だけれど。君はきっと君のお母さんの話がしたいんじゃないかな。答えを返せなくても、聞くことなら僕にもできる」
 ずっと胸にわだかまった想いを、このときイヴァンさんの優しさに甘えて堰を切ったようにあふれだすことができていればきっと、私は楽になれたと思う。だけど、現実はうまくいかない。私の口からこぼれたのはノーという答えの分かりきった問いだけだった。
「母さんいなくなった理由が知りたいんです。羽根が降ると私も羽根に触れてみたいと」
「やめておきなさい。落下物が人をどこに誘うかなんて誰も知らない。試したって無駄だよ。大昔、死後の世界を見て帰ってくると言って死んだ人がいたそうだけど、結局その人は戻ってこられなかった。落下物に触れようなんて思わないことだよ。自分が自分でなくなるってのは死ぬことと同じなんだよ、きっとね」
 コトコトを沸騰しはじめた鍋をストーブからおろすと、彼は食器棚から取り出したマグカップにミルクを注いだ。1つには自分用にたっぷりと蜂蜜をたらして、もう1つには夕焼け色の液体を2、3滴たらして優しくゆすり、私の手に握らせてくれたミルクは明け方の朝陽に光る雲のような薄い赤色をしていた。湯気の中で呼吸をするとラベンダーやカモミールの穏やかな香りがした。この液体が毒ならいいのに。こんなやさしい香りに包まれたまま死んでしまいたいと思うほどに、私は母との美しい思い出の中で溺れていた。
「外の街でも、突然何もかもを捨てて、大事なものを置き去りにしてどこかへ逃げ出す人はたくさんいるよ。むしろ僕たちは幸せかもしれない」
逃げ出す理由と置き去りにされた理由の天秤は、美しい落下物によって釣り合っていると彼は言った。私は落下物の降る夜の窓辺、母の横顔を思い出していた。
「・・・・・・帰ります。何か服を貸してもらえませんか?」
 彼がが席をはずした隙に、壁につるしてある鍵の束から一番小さくて汚れた鍵を抜き取ってポケットにしまった。それは集積場の敷地に忍び込んで遊んでいた頃、よく落書きをした古ぼけた扉の小さな鍵穴に入りそうな鍵だった。イヴァンさんが持ってきた服を着込むと私は家に帰って、手紙を書いた。それをポケットに入れると古ぼけた扉のある集積場の空き地に向かった。

 
 

◇砂時計の回転

つづく

文字数:7870

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