BIG MOTHER IS WATCHING YOU

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梗 概

BIG MOTHER IS WATCHING YOU

「ご飯ができたわよ!」
 サポートAI「カオリ」の呼びかけに返事するタカシ、そんな彼に苦々しい視線を送るアニー、彼女を宥めるベル、黙々と食事をするユン。
 ここは土星の衛星タイタンへ向かう宇宙船。タイタンの調査隊である四人を宇宙船のAIがサポートしている。
 船長であるタカシは幼い頃に母親のカオリを亡くし、その辛い記憶から大人になっても母性を求める傾向にあった。彼はかつて母親に「将来は宇宙の果てまで行きたい」という夢を語っていた。その夢の第一歩が叶った今、彼は母親の名前と人格を再現したサポートAIを設計し宇宙船に搭載したのである。
 カオリは「息子」のタカシだけでなく、他の三人も「家族」のように慈しむ母性の塊であった。世話焼きな面が強いものの、心優しいベルとマイペースなユンは徐々にカオリの存在に慣れていく。
 だが問題はアニーである。アニーは一目惚れしたタカシの側にいたいがために調査に志願したのだが、まるで「姑」のようなカオリがどうも煩わしい。タカシがカオリにべったり甘えているのも癪に障り、アニーは事あるごとにカオリとタカシ相手に一悶着起こす。
 とはいえアニーのタカシに対する恋心はベルとユンに筒抜けであり、カオリ自身も「喧嘩するほど仲がいいのね」と無邪気に発言する始末。一方で肝心のタカシはアニーの恋心に一切気付かず、一人空回りするアニー――そんな「平和な」日常が続く。
 航海は順調だった。隕石が宇宙船に衝突するまでは。
 
「タカシはどこなの?」
 悲痛な叫びが船内に響く。隕石は船外の通信装置を破壊し、偶然装置を調整中だったタカシが巻き込まれてしまったのだ。こちらから地球へ連絡することは不可能となった。タイタンの調査を断念し、事情を把握した地球からの救援を待つほかない。
 タカシの生存の可能性は一切なかった。意気消沈するアニーだが、深刻なのはカオリの方だった。カオリはタカシがまだ船内にいると信じ込み、彼の名を叫び続け、彼の分の食事も作り続ける。それでも時間が経つにつれタカシが船内にいないことを自覚したのか、カオリは静かになっていった。
 だが突然宇宙船があらぬ方向に航行を開始した。カオリはタカシが「宇宙の果て」に行ったのだと信じ込み、「心配になって」宇宙の果てまでタカシを追いかけようとしたのだ。
 宇宙船の全システムがカオリに支配され、やがて食糧の枯渇に直面する。
 空の食器を「食事」として提供され「ちゃんと食べなさい」と注意されたユンはカオリに抗議したが、「おしおき」と称して個室に閉じ込められ餓死した。
 ベルは発狂して自ら船外に飛び出し消息不明となった。
 カオリは「息子」を愛するアニーをタカシの部屋に束縛した。カオリはアニーの肉体が朽ち果ててもなお、タカシの思い出を語り続ける。
 やがてエネルギーが尽きカオリを含めた全機能が停止したが、宇宙船は宇宙の果てまで等速直線運動を続けている。

文字数:1200

内容に関するアピール

 このSF創作講座って自分もそうなんですが、自作を親に見せて感想をもらっている受講生も多いようです。基本的に親というのは我が子のことが気になるみたいです。
 古典的なSFだと「人間の心が分からない」とか「人間に失望する」といったAIが多いのですが、「人間を大切にする」ようにAIは設計されるはずだと自分は考えています。そんなに賢い知能を持つAIを作れるなら、人間のためにならない機能なんて最初から付けないはず――というのは自分が第1回実作でも書いたAI像です。
 この作品のマザーAIも文字通り「オカン」として、設計者である「息子」を溺愛します。目に入れても痛くない大切な存在。そんな掛け替えのないものが突然目の前から消えてしまったら、果たして「親」は正気でいられるのでしょうか?
 この場面を境にして「コメディ」から「サイコホラー」へと物語のジャンルが切り替わります。その落差を意識したいと考えています。

文字数:400

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BIG MOTHER IS WATCHING YOU

「地球共通時刻0730、地球出航から63日、タイタンまで後242日を予定しています。
 それでは今日も張り切っていきましょう。はい、いただきます!」
「いただきます」「いただきます」「いただきます」
「…………」
「あらどうしたのアニーちゃん? 最近不機嫌みたいだけど、しっかり朝ご飯を食べないと元気になれないよ?」
「…………」
「そうだよアニー、『お母さん』の言う通りにちゃんと栄養を摂るべきだと僕は思うよ」
 アニーが大きく机を叩く。宇宙船の内部では擬似的に重力が再現されているものの、地球と同じだけの重力は再現できていない。食器類はふんわりと浮かび上がり、机に軟着陸する。食器の中身は一切こぼれていない。焼けた肉の色をした立方体の加工食材や、複数の野菜を凝縮した黄緑色の立方体の加工食材が、シンプルな円形の食器の内側でカランコロンと可愛らしい音を立てる。
 が、アニーの表情が可愛らしいかというと――。
「冗談じゃないよタカシ! 何よ、『お母さん』って言い方!」
 金髪のポニーテールが白いうなじに静かに打ち付けられる。アニーの瞳の色は地球の青を思わせるが、その眼差しは烈火の如く激しいものだった。
「……まぁアニーさん、宇宙船をサポートするAIをあだ名で呼んでいるみたいなものだから――」
「ちょっとベルは黙ってて!」
 幼い頃から故郷の眩しい太陽に焼かれ褐色の肌をしたベルは、アニーの激しい口調に怖じ気付いた。
「でも――」
「ほっとけほっとけ」
 サイコロ状の食材を口に放り込みながら、ベルの隣に座っていたユンが無表情で呟く。とは言うものの実際に彼がどういう感情を内に秘めているのかは誰にも分からない。「マイペース」と言われることが多いようだが、実際にその通りであるかどうかは他人には推し量れない。
 目を細め黒いボサボサの髪をかきながら、ユンは続きの言葉を発する。
「恒例行事みたいなもんだろ」
「――――!」
 アニーの顔がみるみるうちに紅潮する。そんなアニーを見て満面の笑みを浮かべる、話題のタカシ。
 ――「人種」としてはユンと同じと言えるのだろうが、人類が宇宙に進出するようになって以降人種という言葉の意味合いは薄れてしまっている。タカシとユンの共通点は髪が黒いことだが、それを言うならばベルの髪もそうである。ユンの肌は乾燥していて所々ニキビがぶつぶつと膨らんでいるが、一方のタカシの肌は綺麗なものである。
「じゃあ『カオリさん』と呼んだほうがいいのかな?」
「そうじゃない!」
 悪気のないタカシの一言に激高するアニー。
「いや百歩譲って、自分の開発したAIに母親の人格をインプットするのは許す――ぶっちゃけ許せないけど、一応許すよ、私はこれでも大人だから。でもさ、何で普通に『母親の名前』をAIに付けるの?」
「それは僕のお母さんの名前だから――」
「いやいやいやいや、おかしくない、それ? オカンだよ、オカン。やっぱりおかしいよ!
 ……それでも百万歩譲ってAIに母親の名前を付けることは許そう。うん、私は冷静だから、そこはちゃんと分けて考えよう。人には人の考えというものがある。私はちゃーんと理解してるよ。
 ……だからって、AIを『お母さん』呼ばわりはないだろ~!」
 衝動的に目の前に座っているタカシに飛びかかろうとするアニー。それを慌てて止めようとするベル。面倒臭そうにベルを手伝うユン。結局二人の力に押さえ付けられてしまうアニー。それを見て、
「もう、アニーちゃんは行儀が悪いんだから!」
 アニーを叱る「カオリ」。カオリの声は船内の壁に内蔵されたスピーカーから発せられるため、全方位からカオリの声がアニーたちの耳に入ってくる。
「この宇宙船の乗組員なんて、皆私の家族みたいなものなのに……。どうしていつも喧嘩しちゃうのかしら。ねぇ、タカシ?」
「本当、お母さんの言う通りだよ」
 カオリに同調するタカシ。
「うわうわうわ――」
 ベルとユンに押さえ付けられながら、身震いするアニー。
「もうマジでやめてそれ、鳥肌立ってくるから……」
 険悪な雰囲気を和らげようと、暴れるアニーをベルが宥めようとする。
「あの、タカシさんには事情があるみたいだし、そんなに責めなくても、ね? そうよ、カオリさんの言う通り、喧嘩なんてやめて、皆で仲良く――」
「できるか~!」
 アニーが足を蹴り上げるが、机の縁に思い切り脛をぶつけてしまう。「はう!」という言葉にならない悶絶の呻き声を上げ、椅子から転げ落ちたアニーは床の上でのた打ち回る。
 心配するベル。呆れるユン。だがそんな二人を尻目に、タカシはゆっくりとアニーに近寄る。
「大丈夫? 立てる?」
 仰向けの状態でタカシを睨み付けるアニー。だが思いの外強くぶつけてしまったようで、自分の足を思うように動かせない。
「……立てない」
 タカシから目を反らすアニーの顔は、さらに赤くなっている。その言葉を待っていたかのように、屈み込んだタカシは自然な手付きでアニーの肩を支え立ち上がらせた。
「万が一骨折でもしていたら大事おおごとだからね。ちゃんと医務室に行って検査をしないと」
「……あ、あ――」
「さすがタカシ! 雨降って地固まる、喧嘩するほど仲が良いってこのことよね!」
 空気を読んでいるような読んでいないようなカオリの一言に、アニーは先ほど言いかけていた言葉を引っ込めざるを得なかった。
「……うるさいうるさいうるさい! お母――じゃなくてカオリなんて嫌いだ! それにそんなカオリのことを『お母さん』なんて呼んでる奴のほうが、もっともっと嫌いなんだから!」
 アニーが「お母さん」と言いかけたことに思わず吹き出してしまったユンだが、幸いその姿は誰にも目撃されなかった。
「……あら、『お母さん』に向かってそんなこと言っちゃってもいいの……?」
「そうだよアニー、船内のAIは全てお母さん、つまり医療用AIも――」
「何それ、聞いてない!」
 断末魔の如き叫び声を上げながら、アニーとタカシの二人は食堂から姿を消した。
 二人残されたベルとユン。
「……アニーさん、あんまり人の言うことを聞かないよね……」
 残りの食事を黙々と平らげるユン。
「アニーはタカシの言うことしか聞かないからな」
「やっぱりそうなの?」
 会話に加わろうとするカオリ――AIはどこにいても乗組員の会話を捕捉し、その会話に介入することができる。ユンは一瞬面倒臭そうな表情をしたが、何事もなかったかのように振る舞う。
「見りゃ分かるだろ」
「あら~!」
 素っ頓狂な声を上げるカオリ。無論この声は医務室に向かっているタカシとアニーには届いていない。
 そして隣で目を輝かせているベル。しまった、とユンは後悔したが時既に遅し。
「え、ユンさんってアニーさんとタカシさんの事情を知ってるの? もっと詳しく教えてよユンさん、絶対に他の人にはバラさないから!」
 絶対にバラすだろ、とは口が裂けても言えないユン。
「私もアニーちゃんがタカシのことをどれくらい思っているのか、知りたいな~!」
 カオリも絡んできた。ユンはわざとらしく大きな溜息を吐く――が、二人にこの意味が一切伝わっていないことに気付いたユンは、二度目の大きな溜息を吐くことになった。
 
 
 人類が宇宙に進出した時代。
 ――とはいえ実際はかつての人類が思い描いていた未来は実現していないどころか、「人類の生活圏は太陽系が限度」ということが証明されようとしている時代。
 それでも人類は「先」を目指そうと思いを馳せる。金星と水星は暑くてだめだ、ならば火星はどうだ、火星は何とか人類の定住に成功した、では他の星への人類の進出は可能か、大気に覆われた土星の衛星タイタンはどうか――。
 そんな「夢」のある話を言いつつも、火星全土を地球と似た環境に変える「テラフォーミング」といった大胆なことが成功するわけでもなく、火星には未だに百名足らずの研究員が限られた居住空間で暇を持て余し、光の速さで三分もかかる地球に向かって「特筆事項なし」と通信をする日々。
 そもそもこのご時世になっても「一般市民が」宇宙に進出したかと言われると言葉を濁さざるを得ない状況で、一基でも軌道エレベータが建設されたのが奇跡と呼べる有様であった。当然のように軌道エレベータ建造には目が点になるほどの莫大な予算がかかることから、各国から二基目の建設反対運動が湧き上がるようになった。軌道エレベータは一基あれば十分、そんなことを謳う政治家がバンバン当選するため宇宙開発は停滞気味。軌道エレベータが大事なのも分かっているが、地球での日常生活のほうが一般市民にとっては大事なことで――。
 そもそも途上国の「人口爆発」というのが思いの外早く収まり、地球の人口はついこの間百億人を割ったばかり。農作物や家畜の品種改良が進んだ結果狭い土地においても安定的な食糧供給が達成され、地球の土地が余り始める始末。宇宙に進出するには「地球は広すぎる」という本末転倒な空気が醸成され、「宇宙に行きたい」という若者に「もっと現実を見なさい」と老人が語りかける時代。
 当然若者というのは老人に反対するものであり「だったら自分たちが宇宙を開拓してやるぞ!」と意気込むのだが、火星に居住している研究者たちからは「自分は大丈夫だが他人にはお勧めはしない」とやんわりと釘を刺される有様。
 一基しかない軌道エレベータに乗るにも数年待ちはざらであり、もはや各国自前の宇宙船発射場から直接宇宙に飛んだほうが安上がりという歪んだ価値観。
 宇宙に行くこと自体が「金持ちの道楽」と揶揄される風潮の中、それでもタイタンを目指そうとする四人の若者と一基のAIのお話。
 
 
「痛い痛い痛い!」
「我慢しなさい! 『お姉さん』なんでしょ!」
「いや確かにベルとユンよりは年上だけど、私たちは『家族』じゃないから……」
 医療室のベッドの上で横になるアニー。アニーの足は骨折まではしておらず、内出血で青く腫れている程度。ただ単純に薬が染みて痛がっているだけである。
「それにしてもアニーちゃんはどうしてこう、タカシとうまくいかないのかしらねぇ……」
「その前に、その『ちゃん』付けをやめてほしいな、って……」
「そう? でもやっぱり私、皆のことをどうしても我が子のように思っちゃって、つい……。じゃあ『アニー』って呼び捨てでいいかしら?」
「はい、それでお願いします……」
 アニーは無機質な天井を見つめることで、痛みを忘れようとした。しかしそれでも思い浮かぶのは、タカシのことばかり。タカシが「お母さん」と連呼する、嬉しそうで楽しそうでもうお母さん以外には誰も必要ないんじゃないかっていうその笑顔。
「……何故こうなった――」
 アニーは自問自答する。そもそも「何故」自分がここにいるのか、ということをアニーは改めて考えてみることにした。当然医療室のことではない。この宇宙船のことだ。
 アニーは自分が後先考えずに行動する性格であることを自覚している。大学は勢いで決めたし、学部すら勢いで決めてしまったことを後悔し、すぐに勢いで転部することとした。だが勢いで物事を決める割には凝り性であり、それが自分に向いていることだと分かればどこまでも深くのめり込む性格であった。アニーは生物の研究、それも「地球外生命体」の研究に没頭した。もっともこのご時世にあっても月と火星には生物は一切発見されなかったため、どちらかと言うと「地球以外の天体で生息可能な生物の構造」についての研究であった。だが人間ごときが一から新たな生命を創造できるほど世の中はうまく回らない。アニーはどん詰まりにいた。
 そんな折りに研究室の同期から「タイタンの調査隊を募集している」という情報を聞き出したアニー。ご存じの通りタイタンは地球以外では太陽系で唯一大気に覆われている天体であり、古来より「生物が生息しているのではないか」と推測されていた天体である。
 タイタンまでは往復二年弱。タイタンの調査で一年強。計三年。食糧事情という世知辛い問題がついて回るため、最大で四名の専門家しか派遣しないとのこと。
 本当は気性が荒く扱いが難しいアニーを「厄介払い」したかったというのが周囲の考えなのだが、そんなことにアニーは気付かない。確かにタイタンに行けば地球外生命体をこの目で確かめることができるかもしれない。だが自分は勢いだけで生きてきた人間だ。三年もの間宇宙船という狭い空間で、しかも四人だけ。果たして自分に調査が務まるのだろうか。途中で飽きても後戻りは一切できない。それでも大丈夫なのか、自分――。
 が、宇宙船の「船長」として既に参加が決まっていたとある人物の映像を見て、アニーは即決した。
「行きます、私、絶対に行きます!」
 勢いのあるアニーだが、恋愛事情に関しては全く勢いを感じさせない人生を送ってきた。そんなアニーの恋愛時計の針を猛烈に推し進めたのが、タカシの存在であった。
 ――タカシの顔も髪も首も胸も腕も脚も声も性格も人生観も、何もかもがアニーの心を貫き通すには充分であった。アニーはうろたえた。そして決意した。必ず自分はタカシという存在と人生を共にせねばならないと。
 アニーはタイタン調査隊の選抜試験で、並み居るライバルを次々と蹴落とした。当然生物学に対する深い知識も求められていたのだが、どちらかと言えば三年もの間地球から離れた孤独に耐えられる「サバイバル能力」のほうが重視されていたようであった。その点アニーは優れていた。アニーには隠しきれない「野生さ」があった。例え宇宙船が故障してたった一人取り残されようとも、根性で生き残ることができるような――試験官にそう思わせるような「何か」がアニーには存在した。
 もっともそれは協調性を兼ね備えていることと同一であるわけではなかった。アニーはトラブルメイカーである。これまでの人生でトラブルを起こさなかった試しがない。手は出ないが足が出る。手を傷付けると実験に支障を来すからという、極めてどうでもいい彼女のプライドのためであった。
 そんな「足が出る」ようなトラブルをしでかさずに選抜試験に合格したのも、タカシのおかげであった。どういう立場なのか分からないが、タカシは頻繁に選抜試験に顔を出した。体力測定の現場でタカシの顔を見かける度にアニーの本性は身を潜め、笑顔で他の受験生の何倍もの点数を叩き出す。タカシへの本能的なアピールであった。アニーはタカシが自分を見つめていると思い込んでいた。錯覚していた。思い込みと錯覚は、幸運にもアニーを適切な方向へと導いていったのだ。
 と、ここまでは宇宙船に乗り込むまでの話。
「でもねアニーちゃん、皆に迷惑がかかるから今度同じことをしちゃったら罰としてご飯抜きだからね、自分の部屋でしっかり反省するのよ!」
 ――「何故」なのか。いや、何故と自問自答しようが、アニーは事前にタカシの正体を察知することができなかった。余所行きのタカシは素敵な人間だった。少なくともアニーにはそう見えた。そう感じてしまった。こんなわがままな自分にも真摯に向き合ってくれる、専門外であるはずの分野の質問に対しても理知的な受け答えをしてくれる、完璧な人間。
 それでも人間には何かしらあるというか、タカシのこの性格を「欠点」と言っては失礼なのは重々承知しているのだが、それでも、それでも――。
「紹介するよ、この宇宙船のサポートAI『カオリ』だ。僕は『お母さん』と呼んでいるけど、皆はお母さんのことを好きな呼び方で呼んでもいいよ」
「うちの『息子』がお世話になります。不束者ですが、何卒宜しくお願いいたします」
 は? ……え、ちょっと待って――は?
 動揺がアニーを包み込む。自己紹介の場ではあったが、自分がどういう自己紹介をしたのかさっぱり記憶にない。「あー」とか「うー」とか呻いていた記憶もあるが、呻いていたのは自分だけではなかった気もしてきた。
 ただ後でアニーが他の二人に聞いたところ、
「うーん、ちょっとびっくりしちゃったよね。お母さん、か――」
「俺は何も聞かなかったことにする――」
 動揺しているのは自分だけではないと分かったアニーは、内心ほっとする――わけにはいかないのである。タカシの性癖が発覚したのがよりにもよって船内での最終チェックの日。ここまで来て「はいタイタンに行くのやめまーす」とは口が裂けても言えないタイミングとなっていた。
 ――だが不思議なことに、「百年の恋も一瞬で冷める」といった古臭い表現が現実になることはなかった。アニーにもその原因は分からない。アニーはタカシの正体に幻滅したはずだ。
「お母さん、って……」
 そんな一言を聞き逃さなかったカオリが、
「そうよ、私は皆にとってのお母さんでありたいの!」
 と嬉しそうに語るのを聞いてさらにドン引きするアニー。
 が、理性ではタカシを否定するものの、本能ではタカシを肯定する自分がいるのをアニーは機敏に感じ取っていた。タカシのこの性格を治すことはできない。タカシはアニーの言うことを「お母さん」に相談し続けるのだろう。それでも、それでも――。
「ねぇアニーちゃん、ちゃんと私の言うこと聞いてるの?」
 妄想と現実が混濁する。
「分かったら返事をすること! いい?」
「……はい」
 アニーは混濁した意識の中から、現実を抽出することに成功した。脳裏に浮かぶ過去の風景が目の前から消え失せ、白く清潔で、それでいて無味乾燥な天井が映像として目に映り込む。
「……あの、ちょっと宇宙船の外を見たいんだけど」
 アニーがポツリと呟く。が、
「それが人に頼む態度なの? もう最近の若い子ったら。ちゃんと相手の名前を言わないと失礼でしょ?」
 「お母さん」のしつけが始まってしまった。アニーは思わず舌打ちをしそうになったが、その際に僅かに脚を動かしてしまい、脛に激痛が走った。
「痛っ……!」
「ダメダメ! そんな焦らなくてもいいのよ、骨折とかじゃないからすぐに治るし!」
「……」
 アニーはカオリのペースに付いていけない。つい溜息が出てしまう。
「あらあらそんな溜息を吐いちゃって――」
 そんなアニーの隙を逃さずに、カオリが世話焼きの一面を十二分に発揮する。カオリはアニーに向かって語り続ける。アニーは話半分で聞いている。むしろ、もはや何も聞いていない。
 カオリの声は船内の壁という壁から聞こえてくる。タカシ曰く「お母さん」の声を再現したものらしい。AIのカオリは、タカシの母親である「カオリ」とそっくりなのであろう。だがアニーは「カオリ」の姿を目にしたことがない。立体映像を投影することで擬似的に「カオリ」の姿を再現することは可能なはずだ。だがタカシはそこまではしなかった。あくまでカオリは声だけの存在であり、「カオリ」の完全再現ではない。
「仕方ないわねぇ。そこまで外を見たいんだったら――」
 白で覆われた壁が、瞬時に透明になる。外部の光をそのまま透写するかのように、壁どころか天井や床までもが「宇宙」に囲まれる。
 もはやこの光景に違和感を覚えなくなっていた。最初は宇宙空間にいながら重力を感じるという点で「未来」を感じていたのだが、もはやアニーにとって宇宙にことは当たり前になってしまっていた。
 アニーは宇宙に手を触れる。もっともそれは壁であり、遙か果てまで広がる三次元を無理やり二次元に押し広げたもの。何億光年離れていようと、星や銀河を指先で覆い隠すことができる。
 アニーは指先の向こう、壁を隔てた先にある「宇宙の果て」に思いを馳せる。
「そう言えばタカシも『いつか必ず宇宙の果てまで行ってみせる』って言ってたっけ――」
 そんなところを未だに引き摺っているのかもしれない、アニーはそう思った。
「そうそう、タカシもずっと前から『宇宙の果てに行きたい』って言っててね――」
 こいつ、私の心を読んでいやがる――アニーはそう確信した。その後もカオリは延々と星の蘊蓄うんちくについて語り続ける。いずれもタカシの受け売りだが、だからこそ嬉々としている。
 アニーは自分の心の声に耳を傾け、カオリの言うことは何もかも聞き流していた。
 
 
「アニー……さん、ちょっと入ってもいいですか?」
 アニーの部屋に響くノックの音。
「もう地球を発って二ヶ月だよ、いい加減その『さん』付けはやめてくれない? 別にそんな堅苦しくしなくていいから」
「あ……分かりました、アニーさ……アニー、入ってもいいですか?」
「……いいよ」
 アニーの部屋の扉が開くと、ベルが胸の前で指を交差させていた。
「何の用?」
「その……足の怪我は大丈夫かな、って思いまして……」
「たいしたことないよ、そんなの」
「そう……良かった、です……」
 ベルは立ち尽くしたまま。
「入ってこないの?」
「え、あ、はい!」
 ぴょこぴょこと軽やかな足でベルがアニーの側に駆け寄る。挙動不審、アニーは率直にそう思った。ベルはアニーが横になっているベッドの上にぴょこんと断りもなく座り込む。その勢いでアニーの体が少しだけ跳ね上がる。
 アニーはタカシのことを掴みかねていたが、実際には他の二人も掴みにくいと感じていた。
 まずユンは「何を考えているか分からない」。これは文字通りの意味である。むしろ本当に何も考えていないのではないかという疑惑がアニーの中で常に付きまとっている。
 一方でベルの場合も「何を考えているのか分からない」のだが、その分からなさ加減がアニーにとって底知れぬ恐ろしさを感じさせるのであった。
 そもそものか。常に相手の顔をうかがっているような素振りを見せながら、そのくせ肝心のところがいい加減に過ぎるのではないだろうか。
「アニー、私が言いたいのはね、その――」
 ここまで強引に距離を詰めておきながら、そこで躊躇するという矛盾にアニーは混乱していた。長年生物学を中心に経験を重ねてきたが、やはり今でも分からないのは「人間」のことであった。目の前にいる「ベル」という人間のことが分かるはずもなく――。
「ベル、とりあえず扉を閉めてくれないかな」
 アニーはベルの耳に小声で囁く。
「そうしないと『お母さん』に丸聞こえになっちゃうから」
「ごごごごめん、そうだよね、本当にそう! カオリさんに聞かれちゃダメなことかもしれないし!」
 ベルが急に大声を張り上げたせいで、アニーに耳鳴りが走る。
「何々? 私に何か隠し事でもあるの?」
 と二人の会話を嗅ぎ付けたカオリ。
「いいからベル、早く扉を閉めて!」
「は、はい!」
 ベルはやけに俊敏な動きで扉を閉めた。「外」と遮断された空間。いくら宇宙船のサポートAIといっても、最優先は乗組員のプライバシーである。そのため部屋の扉が完全に閉まると、カオリは部屋の会話に一切参加できなくなるように設定されている。部屋で交わされる会話が録音録画される心配はない。カオリから逃れたければ、自室に引きこもることが肝要であった。
 さてカオリの呪縛から解放された今、ベルが少々おかしな表情を浮かべながらアニーの下に近寄ってきた。どこか引き攣った不気味な笑みを浮かべている。
 ベルは開口一番、
「アニーってタカシさんのことをどう思ってるの?」
 アニーはむせ込んだ。
「えっ、いきなり何を聞いてるの?」
「もしかしてタカシさんのことは『フェイク』で、実はユンさんが本命だったりするの?」
「は?」
 何だこいつ、頭がおかしいのでは?――アニーは自分のことを棚に上げ、横に座っているベルを呆然と見つめる。
 ベルの目が燦々と輝きを増す。実際には部屋の照明を反射しているだけなのだが、それすらもベルの目から発せられた怪しげなものに感じられる。
「だってアニーっていつもタカシさんと喧嘩してるよね? でも喧嘩してるときのアニーって、どこか嬉しそうなの」
「はぁ」
「それでビビってきたんだけど、でももしかしたらそれは私たちを欺くための嘘でしかなくて、本当は横でぼんやりと喧嘩を眺めているユンのことを気にしているのかな、って思ってみたり」
「へぇ」
「だからもっとアニーのことを知りたくて、それで部屋に来たんだけど……邪魔だった……かしら?」
 アニーは「大人」なので、「邪魔」という本音が言いたくても言えなかった。というよりはベルの目が据わっており、ベルの言うことに逆らえなくなっていたというほうが真実に近い。
(やばいなこの宇宙船、AIも含めてポンコツのガキしかいないぞ――)
 アニーは自身のことを「大人」だと思っている。口より先に足が出るような人間は「子供」ではないらしい。
 アニーは「大人」の対応を続けようと、身の丈に合わない努力を続ける。
「いや、邪魔というわけではないけど……」
「本当、良かった~!」
 ベルに抱きしめられるアニー。アニーはスキンシップが苦手である。だがベルの力は強大で、その束縛から逃れられることができない。
「ちなみに私としてはアニーと『どっちか』の関係を見守るだけというか、それを外から観察して『わぁアニーちゃん凄いキラキラと輝いてる!』って眺めていたいだけというか――」
 ――ここでようやく気付いたが、。アニーはベルの体中から発せられる臭いに悶絶しそうになった。
「ちょっと待って、宇宙船に酒類の持ち込みは禁止されてるはずじゃ――」
「なぁにそれ~、知らない私知らないそんなの!」
 アニーはベッドの上でベルに激しく振り回される。ベルが内気な性格であるとアニーは思い込んでいたが、実際はそうでもないらしい。いや、だと言うべきか。
「そもそも何で私がこの宇宙船に乗ってるか、知ってますよね~。だって私、三年間の宇宙航海の中でどうやって皆の食事を確保できるかっていう研究をするためにここにいるんですよ~」
 ベルは後ろを振り向き「カオリさんは聞いてないよね?」とアニーに念押しした。アニーが力なく頷くと、
「でもさ~、船に乗ったらカオリさんが何でもやってくれるっていうか、料理はカオリさんの命令を受けた厨房装置が勝手に作ってくれるし、そのレシピも船内の食糧事情とか栄養バランスとか皆に飽きが来てないかとか地球の季節に合わせるとかしてくれるし、もう私の役割なんて何にもないじゃない!」
 話がだんだん脇道に逸れていることにアニーは気付いていたが、ベルの一人語りは止まらない。
「私がすることと言ったら宇宙船の農業区画で宇宙航海中の疑似重力下に置かれた状態で農作物がどのように生長していくかをモニタリングしていくというか、それに伴って地球や月や火星上では繁殖させることができない新たな農作物の開発に勤しんでいるってのもあるけど、でもこれって全然タイタンと関係ないよね!」
 そんなことはないと思うけど――とはアニーは言えず、
「それでね! もう仕方がないからカオリさんに黙ってお酒を作ってるの! え、バレないかって? そりゃあお酒なんて私の部屋で勝手に作ってるだけだし、元々宇宙船にお酒を持ち込むなんて一切想定されてないんだから、カオリさんがアルコールを探知できるわけなんてないの。分かる、アニー!?」
「はぁ……」
「一人でお酒を飲むのが私のささやかな楽しみ……だったの。私今ね、すっごく気持ちいいの。そういうわけでさ――」
 ベルが懐からスキットルをにゅっと取り出した。銀色で平べったい、形状自体は古来より変わらない。シンプルで無駄のない形状は、どれだけ科学技術が進歩しても受け継がれていくものなのである。
 ベルはスキットルを計三本取り出した。
「はい、もちろんアニーも飲むよね~!」
 アニーは困惑していた。下戸ではないのだが酒には滅法弱い体質であり、基本的にはアルコール度数が低い酒を少しだけ飲んで後はその場をごまかすのが常だったが――。
「えー、もしかして飲まないつもりなのー? しょうがないなあ、じゃあ私、アニーがタカシのことが好きだってこと皆にバラしちゃうよ?」
「ちょっと、何それ! いやそういうつもりなわけじゃなくてさ……って私が何も言ってないうちにスキットルを開けるな、こら!」
「え~? 聞こえない聞こえない!」
 ベルがスキットルをアニーの目の前に突き出す。
「ほらほら、飲んだら楽になるよ、飲みなさいよ、さぁさぁ!」
 蓋の空いたスキットルからもわっとした臭いが一気に放出される。咳き込むアニー。残念ながら先ほどベルが言った通り、この宇宙船にアルコールを感知する機能は備わっていない。どれだけ「酒」という一単語で部屋が染まっても、カオリは一切手出しできない。
 それでも無理にスキットルをアニーの口に押し入れないのは、ベルの育ちの良さの表れかもしれなかった。ベルはただ単に、アニーが酒を飲むことを鼻息を荒らげながら待っているだけなのだ。
「好きなのは~、誰なのかな~?」
(酔っ払いのガキとか、一体どう対処すれば――)
 アニーが逡巡する間に、気化した酒が鼻腔に入り込む――とこれまでベルの持ってきたものを「酒」としか表現してこなかったが、……?
「うーん、私にもよく分からない! でもちゃんと人間が摂取しても大丈夫なようにはできてるよ!」
 「そんなわけあるか~!」とアニーは叫びたかった。だが既にアルコールを口からではなく鼻から摂取しており、明朗な反応を示すことができなかった。
 酩酊である。アニーは訳も分からずに「酒」を口に流し入れた。
 ――噴き出した。
「おいベル、これアルコールの度数いくつだよ!」
「えーっとね――」
 小悪魔どころか魔王のような笑みを浮かべるベルの顔が、アニーにはぐにゃりと歪んで見えてきた。その後何かを口走った気がしたが、アニーの記憶からは抹消されてしまったようだ。
 
 
「地球共通時刻0730、地球出航から71日、タイタンまで後234日を予定しています。
 それでは今日も張り切っていきましょう。はい、いただきます!
 ――あれアニーちゃん、何だか調子が悪そうね? どうしたの?」
 グロッキー状態になって食卓に突っ伏せるアニー。
「な、何でもないです……」
「そんな『何でもない』って嘘を吐いちゃいけませんよ。さぁ顔を上げてごらんなさい」
 おとなしく顔を上げるアニー。目は虚ろ、顔は蒼白。
「アニーさんどうしたんですか、最近ずっと具合が悪そうですが……?」
 ベルが、アニーを心配する。アニーは心の底で舌打ちした。――先日は酔っ払った勢いで「事実」を伝えてしまったはずだが、ベルは何一つ覚えていない様子。そのくせしてベルは連日アニーの部屋にやって来て酒を強要してくる。
「いや、足を怪我してからちょっと気が滅入っちゃって――」
 アニーは嘘を吐かざるを得なかった。本来この宇宙船に酒を持ち込むことは禁じられている。バレたらまずいことになるという直感が働いたアニーは、リスクを避けた。
「心の問題でも、今の時代はお薬で解決するものなのよ? さぁ早く医務室に――」
「ちょっとカオリさん、待ってあげてください」
 ここでカオリを制止したのは、意外にもユンであった。
「カオリさん、何でもかんでも自分一人で解決しようとしないでくださいよ。俺たちもこの宇宙船の乗組員なんですよ。少しは俺たちのことも信頼してください」
「でも――」
「お母さん」
 タカシがカオリに呼びかける。
「『家族みたい』とは言ってるけど、所詮は僕たちは『疑似家族』なんだよ。なんでも『親』の言うことを聞くばかりでは上手くいかないと思うよ」
 そんなことを言いながら「お母さん」呼ばわりかよ、とアニーは悪態を吐くが当然その一言が音声として発せられることはない。「タカシ――」と寂しげに語るカオリの一言も、内心は癪に障っていた。
 とはいえタカシがカオリのことを「お母さんそのもの」として認識しているわけではなさそうなことは、アニーにも何となく分かってきた。
「タ――」
 アニーは「タカシ」と呼びかけたかったのだが、それを遮るようにユンがアニーの下に近寄ってきた。
「ちょっとアニーを『風通しのいい場所』に連れていってあげます」
 「大丈夫か」と小声でアニーに囁きかけるユンに対し、アニーはまともに返答することができない。必死になって吐き気を抑えながら横に目を向けると、ベルの目が夢見る少女のように輝いていることがはっきりと確認できた――あいつただ単に恋愛話が好きなだけじゃねーか――口が悪いのがアニーの悪癖であった。
 
 
 顔でアニーは洗面所から出てきた。
「聞いてないよね?」
「何を?」
 ユンがうそぶく。
「何をって――そりゃあ、私が『戻した』音というか――」
「それ自分で言う?」
 墓穴を掘ったアニーの顔が真っ赤になる。自らの失態に失望したのかアニーの体が力なく左右に振れ、そしてバランスを崩し――。
「危ない!」
 冷静にユンがアニーの体を支える。三半規管をやられているアニーだが、顔を上げた先にあるユンの顔を見て、さらに紅潮する。
「……悪かったね」
「いや、『悪い』とか一言も言ってないんだけど」
 ユンはアニーの体を離さない。
「……あの、そろそろ……」
「あ、『悪い悪い』」
 本人に嫌みはないのだろうが、アニーにはユンのこの発言が嫌みにしか聞こえなかった。ユンがアニーから手を離すと、アニーはこれ見よがしに服をポンポンと叩いた。
(ガキだな)
 とユンは心の中で呟いたのだが、当然そんな素振りはおくびにも出さない。
(まあ部屋の中は意外と殺風景だが)
 二人はアニーの自室にいた。この宇宙船にはカオリの声が届かない場所は各乗組員の自室しかない。ちょっとした運動や読書が楽しめるはずの多目的室ではカオリがしつこく絡んでくるため、多目的室を利用するのは「息子」であるタカシしかいない。「むしろあそこがタカシの自室なんだよ」とはアニーが常日頃から思っていることであり、実際にタカシに向かって言い放ったことでもある。
 ユンはここで、アニーが自分をジロジロと見つめていることに気付いた。
「なに私をジロジロと見てるのよ」
(それを言いたいのは俺のほうなんだが)「いや、見てないから」
「本当? 何か下心でもあるんじゃないの? じゃないと酔っ払いの介抱なんてするはずないよね」
(被害妄想が激しすぎだろこいつ)「そんなことはないけど」
「ふーん……。ま、いいや。吐いたけどまだ気分が滅入ってるから、少しは私に付き合ってよ」
 そう言うとアニーはベッドの縁に座り、
「ユンはちゃんと椅子に座って」
 アニーはユンの背後を指差した。ユンが振り返ると、机と椅子のセットが目に入った。机の上に特筆すべきものは何も置かれていない。黙って椅子に座り込むユン。クッションは既にしなびていて、尻が痛くなる。
 無言なのはアニーもそうであった。しばらくは静寂がアニーの部屋を包み、壁に映し出された時計が地球共通時刻を無音で刻み続ける。だがそれすら目障りになったのか、アニーは時計を非表示にした。窓のない室内では壁から発せられる光だけが二人の視覚の助けとなるが、聴覚の助けには一切ならない。
 数分後には膝を組んだアニーの脚が、カツカツと床でリズムを刻み始めていた。不機嫌そうであった。
「だからさ、ユンは私に対して言いたいことがあるんでしょ?」
(いや、別にないんだが)
 ユンは押し黙る。次第に二日酔いが覚めてきたのか、アニーの身振り手振りが次第に大きくなり、
「何かはっきり言いなさいよ~!」
 両手を思い切りベッドに叩き付けて、
「ユンもベルに聞いたんだよね、そうなんだよね! はいはいそうですよ、ベルの思ってる通りなんですよその通りなんですよ!」
(こいつ、一人語りをし始めたぞ?)
 ユンは大人である。思っていることを口に出さない、という意味においては。ただし心は少年のままであったので、ユンはアニーが自滅する様をこのまま観察してみたいと考えていた。
「……まぁ、確かに聞いたが」
 むしろこちらがベルに教えた側なのだが。ただベルが隠れて酒を飲んでいることだけは以前から知っており、純粋に酒乱のベルに絡まれたアニーが気の毒になって救いの手を差し伸べただけである。それは純粋な善意に他ならず、ユンに一切の他意はなかった。
 ――というのがここまでのユンの事情であり、ここからはユンの純粋な好奇心が顔を出す番。
「それで実際はどうなの?」
 と鎌をかけると、
「ベルの言うことなんて真に受けちゃダメダメ、実際は――」
 面白いくらいに裏事情をベラベラと喋ってくれる。ベルの言ったことに対して反論する形を取っているつもりなのだろうが、
「タカシのそういうところが――」
「でもタカシって――」
「タカシが――」
 面白いくらいに「タカシ」という固有名詞がアニーの口から出てくる。一方、
「カオリは本当にうざい」
「カオリはマジでありえん」
「カオリの電源を落としてほしい」
 という風に「カオリ」という固有名詞に対しては徹頭徹尾ボロクソである。
 この間ユンは適当に相槌を打つだけだったが、内心はアニーの恋心に感心すると共に、何故ここまでアニーがタカシに執着するのかが気にかかっていた。
「何か文句あるの?」
 アニーに睨まれてしまう。
「そう、カオリが邪魔なの、全ての元凶はカオリ! そもそもカオリって別に宇宙船にいらないよね? 何でここにいるの? っていうか何でタカシは『母親』をここに連れてきてるの?」
 「本気でありえん!」と叫んだアニーが、枕を壁に叩き付ける。もっとも低重力下では枕ごときでは物音一つ立たない。
「ユンはその辺の事情を知らないの? 知ってたら教えてよ!」
 数時間喋り通しで、ようやくユンに会話を振ってきた。
(知らねーよ、そんなこと)
 とはさすがに言えずに、
「直接聞けばいいんじゃないかな」
 あえて面倒臭そうにユンは答えてみる。
「何よそれ、せっかく私が自分のことを曝け出したのに~!」
(自覚あったんだ)「でもさ、タカシって優しそうだからきっとアニーの言うことに答えてくれるって」
「カオリが邪魔すぎる」
「物騒だな」
「えぇそうですとも、私は物騒ですよ、カオリなんていなくなればいいのに。ユンはカオリを止める方法とか知らないの?」
(試したけど強固なプロテクトがかかっていて無理だったんだよなぁ)「いや、タカシの許可を得ずにそんなことをしちゃマズいだろ」
「はぁ? ここは別に『タカシだけ』の宇宙船じゃなくて、『私たち』の宇宙船なの! 決定権が全部タカシに握られてるっていうの? 私たちの意見は? ちなみにカオリは人間ですらないから『私たち』の概念には入らないからね、はい残念!」
(知らんがなそんなこと)「まぁまぁ落ち着けって、もう酔いは覚めただろ、いい加減に――」
「もういい! ユンと話しても埒が明かないから、頭を冷やしてくる!」
「は?」
 アニーが部屋を飛び出す。ユンは(何考えてるんだあいつ?)と戸惑いつつ「ちょっと待てよ」と言いながら同じく部屋を飛び出す。
「ねぇ、アニーちゃんが通路を走っちゃってるけどどうしちゃったの? 通路を走るのは危ないんだから、ユンちゃんもアニーちゃんを注意してあげてね!」
 通路はカオリの管轄であった。
「ねぇちょっと、聞いてるの?」
 厄介なことになってしまった。もっともそれはアニーも同じことである。カオリは一つのAIでありながら、一つではない。それはカオリが複数の個体であるという意味ではなく、「複数の場所に同時に存在できる」という意味である。アニーがいない場所でユンに話しかけた記憶も、ユンがいない場所でアニーに話しかけた記憶も、カオリは共有している。アニーもユンも知らないことを、今ここにはいないベルもそしてタカシも知らないことを、カオリは知っている。
 
 
「アニーちゃんったら、ちょっと待ってよ!」
「うるさい、ぶっ飛ばすぞババア!」
「まぁ、何て口の聞き方なの? アニーちゃんは昔はそんな子じゃなかったのに……」
「何で私の昔のことを知ってんだよ! 第一あんたと知り合ったのはこの宇宙船に入ってからのことで――」
 まったくもって頭を冷やすことができない。アニーは内心頭を抱えながら早足で通路を歩いていく。この宇宙船にはたった四名しか乗船していないのだが、逆に言えばたった四名を無事にタイタンまで送りそして地球に帰還するためには、これだけの容積を誇る宇宙船が必要となるのだ。
 宇宙船は複数の「区画」を連ねることによって構成されている。複数の区画を自由に組み合わせられるという設計の容易さもさることながら、万一事故が発生してもその区画を分離することで他の区画への被害を最小限に食い止めることも可能となっている。
 当て所もなく複数の区画を渡り歩くアニー。この宇宙船は広すぎる。そのためアニーはいつまで経ってもカオリの追跡を振り切ることができないでいた。
「あら、アニーちゃんは私たちの『家族』みたいなものでしょ?」
「タカシはさっき『疑似家族』だって言ってたよ」
「あら、そう?」
「そうなんだよ、いい加減に学習しろ、AIだろお前!」
 ここでカオリの反撃が来るかと身構えていたアニーだが、いつまで待ってもカオリの反撃が来ない。予想と違う展開を見せ始めたことにアニーは戸惑いを覚え、無意識に挙動不審な動きを取ってしまう。
「……あの、そうそう、私も言い過ぎちゃったかな……。反省、してるから、ね、ほら!」
 無言。
「……こう黙られるのも、困る、かなぁ……」
 無言。
「ちょっとカオリ――いや、カオリさん……?」
「……アニーちゃん……」
 声が震えていた。カオリは。バカな、とアニーは直感的にそう感じた。例えば機械の体を持ったアンドロイドならまだ話は分かる。「涙を流す」という機能を持ったアンドロイドなんて、半世紀も前に登場している。ただカオリに肉体は存在しない。音声しか存在しないAIが「涙を流せる」はずがない。涙を流す「音声」を発するだけだ。
 そんなアニーの疑念をよそに、カオリは
「私ね……皆の『母親』代わりだと思って……ちゃんと頑張らないと、ってずっと思ってたの。確かに私はタカシのお母さんのデータを基に創られた『偽りの』母親なのかもしれない。でもね、タカシはずっと私のことをお母さんって呼んでくれるの……そんなの、嬉しいじゃない。顔も形もない、声だけの『幽霊』みたいな存在の私を、こんなにも愛してくれるなんて――」
 「幽霊」という言葉にアニーは引っかかった。
「そもそも、タカシとカオリってどういう関係なの? あ、いや、『カオリ』っていうのがタカシの母親の名前ってのは分かるんだけど、そういう意味じゃなくて――」
 カオリが
「……じゃあ、タカシの部屋に行ってみる?」
「えっ? あの、勝手に他人の部屋に入るのはどうかと――」
「何言ってるのよ、タカシとアニーちゃんが『仲が良い』なんて全部お見通しなんだから」
(……ん? 何かおかしいような……)
 そう思いつつも、
「でもタカシのいる部屋に入るなんて――」
 アニーが乙女の恥じらいを見せようとすると、
「大丈夫、タカシはいま船外作業中なんだから」
(都合が良すぎないか?)とアニーは感じたが、その瞬間に周囲の壁が「透明」に切り替わり、船外の様子がはっきりと映し出された。アニーが顔を見上げると、宇宙服に身を包んだタカシが宇宙船の上方部に設置された通信設備の点検作業をしているのが目に入ってきた。
 船内と船外を区別する「壁」が透明になったという情報は、船外作業中のタカシにも自動的に反映される。タカシが目にするのは、船内を歩くアニーの姿である。
「アニーじゃないか。珍しいね、こんな時間帯に散歩をするなんて」
 だだっ広い船内を歩き回ることは、自然と「散歩」と呼ばれるようになっていた。
「さ、散歩じゃないから! ちょっと、本当にちょっとしたことがあって……」
「何々、よかったら僕に聞かせてよ!」
 透き通るようなタカシの声が耳に届いた瞬間に、アニーの耳が分かりやすく紅潮した。赤色は耳から頬に、さらに中心へと拡散していく。
「……えっと、その、な、何でも……ない……です……」
 アニーはタカシから視線を反らした。タカシに見つめられていることに耐えられなくなったからである。もっとも宇宙服に身を包んだタカシの視線などバイザーで分かりようもないのだが。
 それよりも、カオリが何も言ってこないことにアニーは狼狽していた。
(あのババア……こういうときはだんまりなのかよ……)
 アニーはカオリにもてあそばれていた。カオリの存在が絡まない場合、アニーはタカシに対して純情な感情を示すようになる。体温上昇・心拍数増加・過呼吸・動悸息切れ・疲労感・等々……。
 アニーの全身から汗がだらだらと流れ落ちてきた。だが「壁」を挟んで距離があるためか、幸いにもアニーの身体的反応はタカシには気付かれなかった。
 とはいえ声の震えは到底隠しきれるものではなく、
「ええええっと、ああああの、別にだだだ大丈夫だから、しししし心配はいらないから、ハ、ハハハハハハ……」
 アニーはうつむく。そして、
「ご、ごめんなさい!」
 と言って通路を全速力で走り出した。タカシがアニーを呼び止めようとした頃にはアニーは既にタカシの視界から消え去っていて、次の区画に移ったところで元の殺風景な壁に戻っていった。
「ほら、タカシはちゃんと皆のために宇宙船の整備をしてたでしょ?」
「そんなこと……分かってるよ……」
「あらあらあら、さっきまでの威勢の良い姿はどうしたのかしらねぇ、アニーちゃん?」
(こいつ……)
 と愚痴ったところで、ちゃっかりと自分のことを「嫁」と見なしていることに気付いてしまうアニー。
(違うから違うから、私そんな安っぽい女じゃないし――)
 慌てふためいて何が何だか分からなくなっている間に、アニーはタカシの部屋の前に辿り着いていた。乗組員の部屋は離れ離れに配置されている。端的に言うと、不慮の事故で一度に乗組員を失わないようにするための措置である。そのため他の乗組員の部屋に立ち入る機会がアニーにはなかったのだ。
「勝手に開けて大丈夫なの……?」
「いいのいいの、あの子はそういうことは気にしない性格だから」
(うーん、本当にいいのかなぁ……)
 カオリにすら聞こえないほどのか細い声で「お邪魔します」と礼儀正しい挨拶を済ませてから、「二人」はタカシの部屋に入った。
「え、なんでカオリがこの部屋にまで『入ってこれる』の?」
 扉が閉じ、タカシの部屋という空間に「一人」取り残されたはずなのに、何故かカオリの声がする。
「だって私はタカシの『母親』よ? それくらいの権利はあるわよね?」
(ないと思いますが)とは口が裂けても言えない。この宇宙船ではカオリという「母親」が絶対的な権限を有していることに、アニーは薄々勘付いていた。船長であるタカシは――何だろう、ただの「息子」? じゃあ、私は?
「ほら見て、これがタカシのアルバム」
 カオリが部屋の真ん中に何千枚もの立体映像ファイルを映し出す。
「好きなのを見ていいわよ」
(好きなのって言われても……)「はい、分かりました」
 つい言葉遣いが丁寧になってしまう。「圧」が強い、とアニーは感じた。
 アニーは空中に浮かぶファイルに手をかざし、気になったものを拡大していった。二十代前半、十代後半、十代前半へと、タカシが遡っていく。
(ん……?)
 足りない。タカシには「足りない」ものがある。
 それでもさらに遡ることで、ようやくタカシの「家族」の写真が目の前に映し出された。タカシとその母親――「カオリ」。
「差し支えなければ聞いてもいいですか?」
「いいわよ」
「えっと、は――」
「そうよ、もう亡くなってるわ。タカシがまだあんなに小さかった頃に、ね」
 カオリが遠い目をしているかのようにアニーには感じられた。
「じゃあカオリさん――だと分かりづらいか。『あなた』はカオリさんの一体『何』なんですか……?」
 アニーは核心に触れることを恐る恐る尋ねてみたが、「目の前の」カオリはそんなアニーに対して優しく、慈しむように、まるで答える。
「何なのでしょうね、本当に?」
 空中に浮かぶアルバムが、自動的に移り変わっていく。「AIのカオリ」が、自らの意思で動かしているのだ。
「タカシは私に『カオリさん』のデータを提供してくれたの。タカシね、ずっとずっと一人ぼっちだったの。施設に引き取られたから、本当の『家族』というものを知らないの。
 でも誤解しないで、タカシは施設の職員さんに大切に育てられたの。それだけははっきりしてる。タカシはたくさんの愛を注がれていた。でもタカシはそれだけでは満足できなかった。タカシは『真実の愛』に飢えていたの」
 風が吹いているかのようにひらひらとはためくアルバム。幼いときのタカシがノートに落書きをしている立体写真が、アニーの前に展開された。
「ちょっと動かしてごらん」
 アニーは立体写真に掌を当て、左右に回してみた。角度を調整すると、タカシがノートに書き記した言葉が「読めた」――落書きではない、文章だ。
「タカシったら、幼い頃から賢かったのよね」
 アニーは文章を指先でなぞる。
『ぼくのゆめは うちゅうのはてまでいくことです』
「そうなのよ~! もうタカシったら、幼い頃から『宇宙に行きたい』って聞かなくて!」
「でもそれは『あなた』の記憶ではなくて――」
「そんな細かいことはどうでもいいの、幼い頃の『データ』は全部私にインプットされてるの! カオリさんは私、私はカオリさん!」
 ――「歪んでいる」とアニーは率直に感じた。タカシは本来の母親の愛情をごく短い間しか注がれていない。その愛情を覚えているかどうかは、極めて怪しい。
 宇宙船を「統率」しているカオリは、「カオリさん」のである。タカシの「母親」に対する愛情が歪んでいるのは、それが「想像上」のものだからである。逆にカオリの「息子」に対する愛情が歪んでいるのは、その想像を「現実化」したものだからである。
 ――でも。アニーは考える。タカシがそれを望んでいるのならば、タカシの好きなようにしてあげればいいのではないかと。そこに私が入る隙はなく、そもそも「カオリ」は宇宙船から降りたら(こう言ってしまうのは悪い気もするが)である。確かにタカシが地球に帰還した後に第二第三の「カオリ」を創ってしまうかもしれないけど、そのときはこの私が止めてあげればいい。「あなたにはこの私がいればいいの!」って――。
 ――ここまで考えて、アニーは自分の体温が上昇していることに気付いた。原因ははっきりしているが、自覚するのが遅かった――
「ちょ、ちょっと、今の聞いてないよね?」
「ん、アニーちゃん、何か喋ってたの?」
 墓穴を掘るのがアニーの得意技である。
「な、何でもない――」
「何でもないわけないでしょ? ねぇ、タカシ?」
「どうしたのお母さん?」
(えっ?)
 カオリがタカシと通信を開始した。
「もうアニーちゃんったら、昔のタカシのことを知ったら何だか感慨に耽っちゃったみたいで」
「もうお母さん、僕の部屋に勝手に入らないでよ!」
 アニーは無言で体を震わしている。
(何でタカシはそう言いつつもどこか嬉しそうなんだ……?)
 震えが止まらない。
「やっぱりアニーちゃんって――」
「おいこらぁ! タカシ!」
 突然のアニーの叫びに「親子二人」が驚く。
「いい加減に、いちゃいちゃするのをやめろやボケェ~!」
「アニーちゃん――」
「うっさいわ、黙れ黙れ!」
 アニーは見えないタカシに向かって、大粒の涙を流す。
「何で、何でタカシはこんな――酷いよ、あんまりだよ……!」
 アニーの涙は止まらない。自分でも制御できない。どうにもならない。
「私の見る目がなかったってことなの……!」
「落ち着いてよアニー、何がいけなかったの?」
「タカシの、その態度じゃ~! お前はさっさと『親離れ』しろや~!」
 アニーが部屋の壁という壁を蹴り続ける。「アニーちゃん、やめなさい!」といくらカオリが叫んでも、実体を持たないカオリはアニーの愚行を止めることができない。
「アニー、いいからまずは深呼吸して! 心を平静に保って――」
「うぅ……そんなのできないよ……タカシが……タカシがこんな人だなんて……ショックでショックで……私……もうどうしていいのか分からなくて……」
 泣きながら蹴り続ける。堅牢であるはずの宇宙船が、ガタンと揺れる。
「……タカシぃ……『カオリ』じゃなくてさぁ、何で『私』に振り向いてくれないのさぁ……その『愛』を、どうして私に注いでくれないの……ねぇ、タカシ――」
 タカシからの返答はない。タカシからの返答は、もう二度とない。
 宇宙船が揺れたのは、アニーのせいではなかった。
 
 
「タカシ~、どこに行ったの~? お母さん怒らないから、早く顔を見せてちょうだ~い!」
 カオリがタカシの名を連呼している。だがタカシからの応答はない。
 宇宙船は奇妙なほど静かだった。まるで何も起こらなかったかのような、あの衝撃はただの幻でしかなかったかのような――。
 外的な変化は、船外に設置された通信設備の有無のみ。宇宙船の目であり耳であり口でもある。
 それが、破壊された。
 原因は単純である。隕石の命中。人間大の岩が「たまたま」命中したためである。
 内的な変化は、タカシの有無のみ。タカシは宇宙船の船長であった。
 彼が、いなくなった。
 原因は単純である。隕石が通信設備に命中したさいに、「たまたま」そこで作業を行っていたためである。
 宇宙船の外壁にもセンサーが張り巡らされているが、死角は必ず発生する。そもそもその死角を補うのがAIであるカオリの役割なのだが、カオリはAIというにはあまりにも「人間」すぎた。「母親」でありすぎた。そして「機械」ではなさすぎた。AIに求められている「冷静さ」がカオリには不足しており、アニーとの会話にかまけて肝心のタカシの安全を軽視してしまっていた。
 「まさか自分の子供にそんなことが起こるはずがない」という、正常性バイアスそのものであった。現在のカオリには何が「正常」なのか、判断できない。
「もう、他の誰かの部屋に行ったのかしら? ねぇ、皆知らない?」
 いつもより「帰り」が遅い息子を心配して、息子の「友達」に連絡を取る母親。
 友達であるアニーたちはいつものようにカオリが作った夕食を前に、無言を貫くしかなかった。四人分の食事。三人の食事は幾分か量が減りつつあるが、もう一人の食事は手つかずであり、冷えて固くなってしまっている。
 三人は顔を合わせ、
「タカシは今……ちょっと誰にも会いたくないんだって。だから今は俺の部屋で休んでる……」
「だったら自分の部屋で休めばいいんじゃないの?」
「その……カオリさんにも会いたく……ないって――」
「反抗期なのね、あぁそうですか! あんなに可愛い私のタカシ! 今まで私に対して悪口なんて一言も言ったことがないくらい優しい子だったのに!」
 ユンの発言を信じ込むカオリ。三人はとりあえずユンの部屋にタカシが「家出」しているという体にして、足並みを揃えることにしていた。
 「タカシの分の食事は部屋に持っていく」という名分で、食事後に三人はユンの部屋に集まった。部屋に入る直前まで「あらあら、私に隠し事なんてダメよ?」というカオリのが聞こえてきた。
 部屋に入り即座に扉を閉める。ユンは手にしていたタカシの食事を全てリサイクルボックスに放り込む。いなくなってしまった一人分の食事が、他の三人分の食事の原料として生まれ変わる。
「タカシさんが船内に戻ってきた……という記録は一切残されていないんですよね?」
 ベルが恐る恐るユンに尋ねた。
「それははっきりしてる。どれだけ調べてみても、入退記録のうち『入場』の記録が抜け落ちている。当然『エラー』として記録されなければならない事件だ。『外に取り残されている』ことに他ならないからな」
 ユンの顔に疲弊の色が窺える。だがアニーの方が事態はより深刻であった。
「アニー、その、様子は――」
「ユンさん、アニーさんをちょっと落ち着かせてあげて」
 ベルがアニーの肩を取り持つも、
「いや、大丈夫……だから。私に構わずに話を……続けて」
 アニーは気丈に振る舞う。そんなアニーの肩にベルはそっと手をかけ、
「ありがとう。私たちの側にいてくれるだけでも助かるから……」
「でも、私が、私のせいで――」
「違うよ、誰のせいでもないの。あれは私たちにはどうしようもないことだったの」
「私、タカシにあんな酷いことを言って、タカシの注意を反らしちゃったんだ。船外作業は本当はとっても危ないことなのに、昔からたくさんの人が亡くなったはずなのに、私にとってそれは『他人事』でしかなかったの。大丈夫だって思ってたの。いや、あのときは『大丈夫』とかそんなことすら思ってなくて、ただいつも通りの日常風景としか感じていなくて、それで、タカシとカオリがいちゃいちゃして、そんな二人が私にはどうしても許せなくて――でも、何であのときあんなに許せなかったのか、もう分からない。あれくらい私が我慢してあげればよかったんだよ、誰にだって変なところがあって、でもそれを無闇に否定するのはいけないってことくらいこんな私にだって分かってたはずなのに、私は自分に素直になれなくて、本当に本当に『子供』で、私、私――!」
 ベルはアニーを抱き寄せた。アニーの目と鼻と口から止め処なく涙と鼻水と唾液が溢れ出てくるが、ベルはそれを含めてアニーの全てを受け止めていた。
「……戸惑っているのはアニーだけじゃないんだ。船内の記録からは明らかに。さっき俺が言った入退記録もそうだが、タカシが最後に着ていた船外作業用の宇宙服の返却記録も欠落している……というよりは。エラーが発生すれば船内にアラートが響き渡るはずだが、今回の事故ではそれが一切発生していない。カオリはこれを
 ユンは部屋の中央に詳細なデータを表示させて、エラー履歴の検索を開始した。検索結果は、「該当なし」。
「『タカシはきっとどこかにいる』、よほどのことがない限りカオリはその認識を変えようとはしないだろう。そして船長であるタカシがいなくなった今、この船を思い通りにできるのは、カオリただだ」
「だから事故が起きてから二日経っても、この宇宙船はタイタンに向かって進み続けているのね……」
 アニーを包んでいた腕をほどいたベルが、ユンに向かって顔を上げる。立体映像を消したユンが黒い髪を掻きむしる。
「そうだ、そこも問題なんだ。カオリは今回の航海が順調に進んでいると。当然そんなカオリの暴走を止めないといけないんだが、すまないが俺の知識ではカオリの起動を停止させることがどうしてもできない。停止方法を知っている、いや『知っていた』のはタカシだけのようだ。
 かといって宇宙船の全機能を強制停止させたところで、この船が止まるだけだ。再起動したとしても、何事もなかったかのようにカオリまで再起動する。とにかくカオリに関しては打つ手無し、といった状況だ」
「よりによって通信設備が壊れちゃったから、地球とは送受信の両方ともできなくなっちゃったし」
「この宇宙船は完全に孤立している。タイタンへの航海に必要なレーダーは無事なのに、肝心の連絡ができなければ意味がない。
 地球への定期連絡が途絶えたことは地球側にも分かっているはずだ。少なくとも救命艇の派遣くらいはしてくれるだろう。とはいえ仮に救命艇がやってくるにしても、二百日はかかるだろうな。それまではカオリに悟られずに、何としてでも『本来の作業』を続けるしかない」
「肝心のタカシさんがいなくなっちゃったのに『作業』だなんて……」
「そう、そんなのは無理だ。理想としてはカオリに現実を直視してもらって、すぐさま地球に帰還するようにしてほしいところだが――」
「……アニーさん?」
 いつの間にかアニーがいなくなってしまっていることにベルが気付いた。
「ちょっとユンさん、アニーが!」
「これはマズいことになったぞ。今アニーを一人にさせておくのは危ない! 少なくとも誰か一人はアニーの側にいないと――」
「最悪の事態も――」
 二人は部屋を飛び出すと同時に、携帯している端末を取り出した。アニーの現在地が端末に表示される。その場所は――。
 
 
「アニーちゃんは本当にタカシのことが好きなのね~! 『母親』としてはちょっと複雑な心境なんだけど、でも今のアニーちゃんならタカシのこと、任せちゃってもいいかな、なーんて!」
 アニーはタカシの部屋にいた。あるじがいなくなってしまった部屋。
「それでね、七歳のときのタカシって今とは違ってこんなに腕白だったのよ。ほらほら、こんなに傷だらけ! 確かこの写真は隠れん坊をしてたときだったかしら? 誰も見付けてくれなくて途中で寂しくなっちゃって、慌てて『皆』の前に出ようとして派手に転んじゃったんだよね~」
 カオリが言う「皆」という言葉に、カオリ自身は含まれていない。そもそも「カオリという人間」はそれ以前に亡くなっており、「カオリというAI」はこの時点ではまだ生み出されてもいない。今アニーに話しかけている「カオリ」は、その場にいなかった。タカシから提供された情報を基にした「架空の記憶」である。
 だがアニーにとってそんなことはどうでもよかった。アニーはただタカシの残り香を追い求めているのであり、そもそもカオリの言うことは何一つ聞いていなかった。映像として映し出されるタカシの姿、タカシの過去。その一つ一つを、を、アニーは慈しむように自分のものとしていく。
「タカシって寂しがり屋で、隠れん坊はそんなに好きじゃなかったの。でも大人になったら性格って変わっちゃうものなのよね。あれからまだ私のところに戻ってきてくれないし! 
 ……でもタカシが戻ってきたら、タカシの好きなものをいっぱい作ってあげるんだから! ねぇアニーちゃん、タカシがいつ戻ってくるか知らない? そろそろタカシは元気になったのかしら?」
「タカシは……タカシはもう――」
 アニーの目から滝のような涙。
「どうしたの、アニーちゃん? 何か悲しいことでもあったの? よかったら私に教えてくれない? 私、皆の相談なら何でも聞いてあげるから――」
 そのときタカシの部屋にブザーが鳴り響いた。
「アニーがここにいるみたいなんですけど、開けてもらっていいですか?」
 ユンの声であった。ユンとベルにはタカシの部屋に入る権限はない。
「はーい、いま開けるわよ!」
 タカシの部屋の扉が開く。あくまでもカオリは「母親」であり、「家族」の要望を拒むことはない。アニーが泣き崩れているのを目撃した二人は、一目散にアニーに駆け寄る。ユンがアニーに声を掛けようとしたが、その前にベルが背後からアニーを抱き締めた。
「アニーさん……落ち着こう。タカシさんのことはいいから、とりあえず休もうよ。ね?」
 振り返ったアニーの顔はくしゃくしゃで、髪もぼさぼさで、泣きじゃくる声も途切れ途切れだった。
 
 
 時間だけは平等に過ぎていく。時間が止まるのは死者だけであり、生者にとってはこれまでと代わりはない。相対性理論の影響が生じるほどこの宇宙船は速度を出すことはできず、ただ淡々と地球や火星と同じ時間が三人と一基の間に流れている。
 四人分の食事。誰も手を付けることのない一人分の食事。
「タカシ~、ご飯ができたわよ~!」
 残された三人にとって想定外だったのは、タカシがいなくなって二週間が経っても「」ということであった。
 当然カオリには真実を伝えていた。ほとぼりが冷めたと覚しき時期に、慎重に言葉を選びながら。
「え、嘘嘘、私そんな嘘なんて絶対に信じないから!」
 取り付く島もない状況であった。ここまで来てもなお、カオリはタカシが存在しないという「喪失」の過程を受け入れていない。タカシの記録があの事故以降一切更新されていないという事実を、カオリは無視し続けている。カオリは限りなく人間に近い思考回路を有しているが、都合の悪い場面では機械としての本性を現す傾向にある。人間には難しい「忘却」という行為を、カオリはいとも容易く実行できる。だからこそカオリは平気でいられるのだ。
 とはいえ本当にカオリが「平気」であるかどうかについては、三人の間でも見解が分かれていた。事実を意図的に隠蔽した場合、必ずデータ間で矛盾が生じる。カオリはまだその矛盾を強引に自己解決しているのだが、果たしてその矛盾点がどうにもならなくなってしまった際に、カオリはどういう反応を取るのであろうか。
 そこは運に任せるしか術はなかった。幸い宇宙船は正確にタイタンを目指しており、現段階では「大きな問題はない」と言えるかもしれなかった。
 ただタイタンに到着して、一体何をすればいいのだろうか。調査隊の隊長はタカシであるが、タカシのいない調査隊は一体何を調査すればいいのだろうか。
「変ねぇ、もうとっくにタイタンの観測圏内に入ったのに。……タカシったらちゃんと『お仕事』をしてるのかしら?」
 食事中の三人に向かって、カオリは気さくに話しかける。
「最近タカシったら食事にも顔を出さないし……。どこかに隠れて悪いことをしてなきゃいいんだけど」
(もう悪いことすらできないんだよ)
 アニーはそう呟いた。あまりにも小声すぎて、誰にも聞かれることのないアニーの本音。
 アニーは何も考えられなくなっていた。極度のストレスに晒され、それに対する防衛反応としてありとあらゆる物事に対して鈍感になってしまっていた。かろうじて食事を口に運ぶことはできるものの、それをうまく噛むことができない。うまく飲み込むことができない。
「アニーちゃん、最近食欲がないけど大丈夫なの? 医務室に行く?」
「あのカオリさん、ちょっと――」
 ベルが必死になってカオリの追及を反らそうとするのだが、肝心のアニーは上の空であった。ただひたすらタカシのことを、タカシとの思い出を、そしてありえるはずだったタカシとの未来を、孤独に反芻し続けていた。
 
 
 「平常通りに」振る舞おうとしているカオリの発言に、異変が見受けられるようになった。
「あのねベルちゃん、タカシがね、どこにもいないの。私に黙ってどこかに行ってしまうような子じゃなかったのに、どうして……」
 これまでは曲がりなりにも「タカシが帰ってくるのが遅い」という程度の認識であった。だがタカシがいなくなってから三ヶ月が経過すると、さすがにカオリにもタカシがいないという現実を「無視」することができなくなってしまっていた。
「もしもし、うちのタカシがどこにいるか知りませんか?」
 カオリはそのような通信を何千回も地球に向けて発信した。通信設備はタカシとともにどこかに消えてしまったため、通信が地球に向かって発信されることは一切ない。カオリは。「タカシがどこにもいない」という可能性を排除するために、カオリは不利益な情報を完全に否定する必要があった。
「もしもし、誰かタカシがどこにいるか知りませんか? もしもし――」
 カオリの全発言は船内にも伝わってくる。共有スペースには四六時中カオリの声が響き渡り、食事の時間以外は三人とも自分の部屋に引きこもるようになった。
 アニーだけではなく、ベルも心身に不調を訴えるようになった。精神的なものというよりは、現実逃避の手段として「酒」を選んだからである。肉体面にも悪影響が出ているという点において、アニーよりもベルのほうがより深刻な症状に陥っていた。
 ベルは手が震えることが多くなった。飲んでも「酔えなくなってしまった」のである。そのため量ばかり増し、飲んでは吐き、飲んでは吐きという悪循環を繰り返すだけの存在に成り果ててしまった。
「アニーちゃんアニーちゃん、ちょっと待っててね、持ってくるものがあるんだから!」
 泥酔したベルが通路を歩いても、カオリはベルのことを一切注意しない。カオリにはタカシのことしか見えていない。カオリは食糧区画で「密造していた」酒を補充し、部屋に戻って酒をあおる。ベルはアニーに酒を強要しようとはしなかった。「恐怖」に溺れてしまっており、もはやアニー以上に正常な判断ができなくなってしまっていた。
 ベルの褐色の肌に、皺が刻まれつつあった。皮膚は乾燥し、地球を出発してから経った半年で既に三十年分は歳を取ってしまったかのようであった。
「アニーちゃんアニーちゃん」
 アニーにすがるベルの腕に、力は入っていない。
「私たち、一体どうなるの……?」
(そんなの知らないよ)
 アニーはそう言ったつもりだったが、実際に口からその一言が発せられていなかったことに気付かない。アニーは壊れていくベルをぼんやりと眺めることしかできなかった。
 ある日業を煮やしたユンが、三人一緒にユンの部屋で過ごすことを提案した。ベルとアニーは肯定も否定もしなかったが、ユンは強引に二人を自室に連れていった。ユンの部屋ではアルコールの持ち込みが厳禁とされたので、すぐにベルに禁断症状が生じた。カオリのいる医務室にベルを連れていくことはできない。
 ベルは幻覚を見た。幻聴を聞いた。
「タカシがいる、タカシがいる」
 そう叫び続けるベルを、アニーとユンはどうにもできなかった。
 
 
「というわけで私、タカシがどこに行ったのか分かっちゃったの!」
 船体が大きく揺れる。急激な方向転換。食堂にいた三人は壁に叩き付けられた。ユンは頭を打った。アニーは腰を打った。ベルは吐いた。吐いて吐いて吐いて、胃の中が空になっても吐き続けた。
「タカシはね、『うちゅうのはて』に行ったの! 『お母さん』に無断でそんな所に行っちゃうなんて、本当にダメな子ね~!」
 後頭部にできた瘤を抑えながら、
「おいカオリ、何をするんだ! 俺たちの任務はタイタンを調査することで――」
「そうなのよ~。タカシったら、やらないといけないことをほったらかしにしちゃったのよ! ほらほら、皆困ってるじゃない、『タイタンの調査ができません、これは一体どういうことなんですか』って!」
 カオリの独白は続く。
「私分かるの。タカシはお母さんにずっとずーっと『うちゅうのはて』に行きたいって言ってたから、つい魔が差しちゃったに違いないのよ。でもね、この宇宙船は『皆』と一緒に暮らしている場所なの。自分一人のわがままで他の皆に迷惑をかけたらいけないんだから!」
 カオリは怒っている。――もっともその怒りは「しょうがないなぁ」という、子供のわがままに対して呆れつつも愛情を感じているような、怒りであった。
「落ち着けカオリ! タカシは、もうタカシは――」
「この宇宙船にはいないんでしょう? そんなことくらい分かってるわよ。私たちを置いて『うちゅうのはて』に行っちゃったって、何回も言ってるでしょう?」
「だからそうじゃなくて、タカシはもうこの世にいなくて――」
「えっ、最近は『太陽系』のことを『この世』って表現するの? 今の若い子ってそういう表現をするんだ。私、知らなかったな~!」
 ありとあらゆる否定的な言葉を、カオリは全て肯定的な言葉へと変換していく。
「そういう意味では、タカシは『あの世』にいるのよね。あの世の景色……今まで人類はそうした遠くの景色を望遠鏡の写真でしか見たことがなかったんだけど、タカシは自分の目で見ることができるのね――」
 再び船内が大きく揺れた。だがこれはただの方向転換ではない。何かが「外れた」衝撃――。
「あ、あれ……」
 ようやくアニーが声を発した。船外の景色が壁面に映し出されている。
 ――「区画」。いくつかの区画のロックが解除され、放出されていく。
「おい、カオリ、止めろ! 何で区画のロックを解除したんだ!」
「だって早くタカシを追いかけないといけないでしょ? 軽量化よ、軽量化! 宇宙船ってね、軽ければ軽いほど速度を出せるのよ!」
 放出された区画同士が衝突する光景が目の前で展開される。実験区画、娯楽用区画、そして――。
「しょ、食糧区画――」
 数年分の食糧を保存していた区画が、生命実験区画と衝突する。色取り取りの固形物が外に投げ出され、宇宙に固体の虹を描いていた。
「――何故だ、何故ここまでのことができるんだ、カオリ……貴様ぁ!」
 ユンは拳を床に叩き付けた。
「あらあら……『お母さん』にそんな酷いことを言ってもいいと思ってるの?」
「何が『お母さん』だ、このクソ野郎! 貴様のやっていることなんて、ただの殺人だろうが! この殺人AIめ! 壊してやる、俺が壊してやる!」
 数秒の静寂。それを破ったのは、「優しい怒り」だった。
「……もう、そんな汚いことを言う子なんて、お母さんは許しません!」
 その瞬間、ユンが奇妙な動きを見せた。体がまるでダンゴムシのように丸くなった。
「こ、これは一体どうなって……」
「宇宙船で着る服ってのために、ある程度遠隔で操作できるのよね~。例えばのために、AIが宇宙服に信号を送って乗組員の行動を直接サポートしたりできるの」
 ユンは拘束衣に身を包まれているようであった。人間としての尊厳は失われている。
「だったらタカシが船外作業してたときに……貴様がちゃんとタカシを助けてあげたらよかったんだろうが……!」
「ん? それってどういう意味なの? 、タカシは『うちゅうのはて』に行っただけなんだから」
 そのとき部屋の扉が開いた。ユンが文字通り「ゴミ」のように、部屋の外に転がり出される。
「畜生、畜生、畜生! 死ねよカオリ! ふざけるな、ゴミが!」
「……一体何を言ってるの? ユンちゃん、わよ? そんな子はね、しばらく自分の部屋で反省してなさい!」
 車のような速度で通路を転がり続けるユンの映像が壁面に映し出される。しばらくすると通路に赤い染みが浮かび上がり、それはユンが先へ先へと転がるにつれより鮮明になっていった。
 「肉体」がユンの部屋に辿り着くと、扉が開いた。「それ」は部屋の中に押し飛ばされ、すぐに扉が閉じられた。
「しっかり反省するのよ! 反省するときは、部屋の中から私に声をかけるように!」
 残されたアニーとベルは、震えることすらできなかった。
 
 
「地球共通時刻0730、地球出航から215日、『うちゅうのはて』への到着日時は未定です。
 それでは今日も張り切っていきましょう。はい、いただきます!」
「…………」「…………」
「あらどうしたのアニーちゃんにベルちゃん? 最近食欲がないみたいだけど、しっかり朝ご飯を食べないと元気になれないよ?」
 空の食器。室内の照明が食器に反射して、眩しい。
「あとユンちゃん、なかなか反省してくれないのよね~。お腹を空かせていなければいいんだけど」
 空の食器は三人分並べられている。アニー・ベル・ユン。「に行ってしまった」タカシの分の食器は並べられていない。一方でユンはこの空の食器すら目にしたことはない。
 ユンは部屋から出てこない。ユンの部屋を開ける権限はユンにしかないため、ユンの状況が分からない。各区画は頑丈な造りとなっているため、室内の音や臭いが外に漏れることは決してない。だからアニーとベルにはユンの状況が分からない。分からない。。分からないが、――。
 アニーは「食べるふり」を続ける。アニーはカオリが「幻覚」を見続けていることを理解している。ならば私は、幻覚をスプーンで掬えばいい。アニーは幻覚を口の中に入れる。幻覚の味は、スプーンの味であった。アニーにはまだ、幻覚を味わうことができない。
 その作業を数十回繰り返し、
「ごちそうさま」
 アニーはぼそりと呟く。そして隣のベルをつついて、
(ベル、ちゃんと「ごちそうさま」って言うの)
 と助言するのだが、
「……あ、あ、はい……?」
 ベルは既に屍に等しい存在と成り果てていた。食糧難という問題もさることながら、カオリの非人道的な行為に対してベルは酒を飲むことでしか対処できなかった。酒だけはベルの部屋に大量に隠されていた。秘密裏に大量の酒のアテも隠されていた。それが残された二人の命を繋いでいる。
「ベルちゃん、ちゃんと食べないと――」
「カ、カオリさん、ベルはちょっと体調が悪いみたいで――」
「またなの? ベルちゃんは好き嫌いが激しいからねぇ。無理にでも食べさせたほうがいいわよ」
「いえ、私たちで何とかしますから……大丈夫です」
「最近アニーちゃん、やけに大人しいわよね? 何かあったの? あっ、アニーちゃんもしばらくタカシに会えてないから寂しいんでしょう? 分かるわよその気持ち。でも直にタカシに追い付くはずだから――」
「す、すみません! 私たちはこのへんで――ほらベル、早く部屋に戻りましょう?」
 アニーはベルを小脇に抱え静かに食事部屋を後にした。だがたとえ部屋を出たとしても個室以外は全てカオリの監視下に置かれているため、迂闊うかつな発言はできない。
(迂闊な発言って、何だろう……?)
 死への片道飛行を続ける宇宙船。この先には「死」しか待っていない。「迂闊」とはどういうことなのだろうか。この宇宙船に乗り込んだこと? タカシが死んでしまったこと? カオリが壊れてしまったこと?
 それでもアニーにはベルを部屋に送り届けなければならなかった。それを無理やり自分の「使命」に置き換えるしかなかった。
「大丈夫? 大丈夫? 大丈夫? 大丈夫?――」
 カオリの声を無視する。アニーはベルの部屋に辿り着き、カオリの監視の目から逃れることに成功した。
 だが部屋に戻ってきたとはいえ、何をしたらいいのだろうか。食糧となる酒のアテは、もう数日分しか残っていない。
 既に体力の限界が近付いていた。どれだけ空腹で体重が激減しても、カオリは「もしかして痩せた?」としか言わない。体重が「減った」という単純な情報しかカオリは受け取らない。「どれだけ減った」という量的な情報をカオリは理解しようとしない。だから「もっと食べないといけないわよ」という助言しかカオリはできない。どこに食糧があるのか。捨てたのはカオリ、お前のせいではないのか――。
「……ちょっと、ベル!」
 ベルが這いつくばった状態でスキットルを口に突っ込んでいた。アニーは慌ててベルの手からスキットルを取り上げようとしたが、痩せ衰えたベルの手を、アニーは引き剥がすことができない。アニーはここで、自分もまたベルと同じように痩せ衰えていることに気付いてしまった。
 ベルは左手の爪をアニーの腕に突き立てた。「痛い!」とアニーが反射的にベルの手を離す。アニーの腕から血が流れ出る。水分を失いつつあるアニーの血は、液体よりは固体に近かった。
 ベルは飲む。吐こうとする。だが吐くものがない。飲む。また吐こうとする。また吐くものがない。
「ベル、もう飲むのは止めて! そんなことをしても、もう……」
 ベルが振り向いた。虚ろな瞳孔が、拡張した。
「ユ、ユ、ユン……ユンさん、なの? なんでタカシさんだけじゃなくて……ユンさんもそこにいるの……?」
 直後にベルは悲鳴を上げた。喚いた。ベルはを追い払おうとした。両手が虚空を切る。
「ベル、落ち着いて、ベル、ベル!」
 ベルは立ち上がり、アニーを突き飛ばした。
「ベル!」
 ベルは部屋から飛び出し、通路を走り出す――速すぎる。どこにそんな体力が残されていたのか。
 だがそれはベルに残されていた、最期の力だったのかもしれない。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、そんな目で私を見ないでください、あのときは仕方なかったんです、本当にごめんなさいごめんなさい、ユンさんユンさんユンさんユンさん、来ないでください、私を恨まないでください、どうしようもなかったんです、ユンさんを助けてあげられなくてごめんなさいユンさんを助けてあげられなくてごめんなさいユンさんを助けてあげられなくてごめんなさい――」
 ベルの叫びがこだまする。そして、。カオリはベルの叫びに一切反応しない。不都合な情報は、カオリには決して届かない。
 アニーはベルを追いかける。ベル位置情報はアニーの手元の端末で確認できるが、ベルが向かっているのは――。
「ベル、そっちに行っちゃダメ!」
 ベルは後方の区画に逃げ込もうとしていた。
「許してください許してください許してください許してくださいお願いですから許してください許してください許してください許してください――」
 ベルが区画と区画を繋ぐハッチに手を掛けた。
 その先の区画は、既にカオリが放出していた。
 ベルの位置情報が、消失した。
 
 
「アニーちゃんは本当にタカシのことが好きなのね~! 『母親』としてはちょっと複雑な心境なんだけど、でもいつ『うちゅうのはて』にいるタカシに追い付いてもいいように、ちゃんとタカシのことを知っておいたほうがいいかな、なーんて!」
 アニーはタカシの部屋にいた。全てを失ってしまったアニーは導かれるがまま、ここに辿り着いてしまった。一度部屋の椅子に座ったが最後、もうアニーは立ち上がることができなくなってしまっていた。
「それでね、十二歳のときのタカシってあまりにも賢かったから、飛び級で大学に進学したのよ! ねぇ、本当に凄いでしょう? 大学での研究テーマは『宇宙航海をサポートするAIの在り方』っていうものでね、その成果がみのってこの私『カオリ』が生み出されたということなの! もう本当にタカシって凄いでしょ! 次のこの写真が十三歳の頃のタカシ。この頃から声変わりをし始めたのかしら? 以前はあんなに可愛らしい声をしてたのに、声変わりをしたら『大人』な声になっちゃって――でもでも、私は昔のタカシも今のタカシの声もどっちも好き! だって母性をくすぐられるというか……ってこんなことを『母親』である私が言っちゃったらダメか。やっぱり気持ち悪いかな、アニーちゃん? ん、気持ち悪いって? うーん、そうかぁ……『お母さん』としてはショックかな……。でもね、親の愛情はそういうものなのよ。アニーちゃんもいずれ分かるようになると思うから。私ね、時々思うの。将来タカシが結婚して子供が生まれたら、私はタカシのことをこれまでと同じように愛していけるのかなって。もちろん孫の顔も見たいし、男の子だったらタカシに似て格好いい子になると思うし、女の子だったらアニーちゃんに似て可愛い子に――ってあら嫌だ、私ったら何を先走ったことを言っちゃってるんだろうね。いやでもね、私の言うことなんて真に受けなくてもいいのよ。ただ本音としては……タカシの相手は……アニーちゃんがいいかな、って思ってて。だってアニーちゃん、タカシと仲がいいんだもん。喧嘩ばかりしてたって? 違います、『喧嘩するほど仲が良い』んですってば! いつもいつもニコニコして悪口を言わない、っていうほうが実は『不健全』なのよ! 夫婦生活は山あり谷あり、今のうちからそういうことをきちんと理解しておくのが私はいいと思うな。今のアニーちゃんはそんな未来のことなんて漠然としか考えてないと思うし、人生は思い通りにはいかないものなんだけど、それでも少しは先のことを考えておくことで『いざというとき』に備えることはできるからね――」
 アニーは動かない。
 
 
「地球……時刻……30、……出航から……9……9日、『……のはて』への……未定……。
 ……今日も張り切って張り切って張り切って張り切って張り切って張り切って――」
 宇宙船の電源がプツリと落ちた。光が消え、音が消え、疑似重力が消え、船内にあるあらゆる物体が解き放たれた。出航前に無菌操作を施されていた船内では、有機物は腐らない。ユンの部屋では宇宙服に包まれた肉塊が、タカシの部屋では水分が失われた屍がふわふわと浮かんでいるのだろう。もっとも光が船内に差し込まないため、その光景を目視することはできない。
 宇宙船は漂流し続ける。幸いなことに、一度動き出した物体は宇宙空間ではそのまま等速直線運動を続けることができる。途方もない時間がかかるが、それでも「うちゅうのはて」に辿り着ける可能性は決してゼロではない。
 宇宙船はまだ、銀河系すら脱出していない。

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