梗 概
アムネジアの不動点
記憶と名前を失くした主人公は理由も知らぬまま逃亡している。彼は、小説を読むとその作品世界によく似た並行宇宙に移動できる能力を持っているのだが、不幸にして手元に本がない。すると、路地裏で彼は謎めいた女性に本を渡される。
移動した先はサイバーパンク的な日本だった。情報を得るために近くの酒場に入ると、さっきの女性に挨拶される。驚く主人公。普通、並行宇宙の同一人物は記憶を共有しないからだ。女性は芽衣と名乗り「あなたを助けるために活動している」と説明する。だが、黒服の集団とそれを率いる別の女性が乗り込んでくる。主人公は悟る。彼女こそが自分を捕まえようとしていたのだ、と。女は芽衣を撃ち殺し、主人公に別の小説を見せる。
移動したのは、地上が超大国に分割され、多くの難民や流刑者が月面を訪れている世界だった。女は純と名乗る。「芽衣こそが並行宇宙群を破壊しようとしている悪人だ」と告げ、主人公を月面へ連れていく。主人公は気が進まない。というのも、月面で下手に並行宇宙間を移動すると、宇宙開発の進んでいない世界に移動してしまう危険があるからだ。だが、純は主人公を安心させようとする。「あなたの世界を移動する能力を封じ、身の安全をはかるためだ」と。ひいては彼の記憶を取り戻し、元の世界に返すためである、と説得する。
だが、月面では死んだはずの芽衣が現れた。怯える主人公に彼女は告げる。「私はあらゆる並行宇宙に偏在している。純と同じように」。そして、月面が舞台になった小説を見せて、別世界に移動する。そこは第二次世界大戦の勝敗が逆転した世界だった。そこではドイツとの冷戦下、熾烈な宇宙開発競争がされていた。彼らはドイツ軍を避けて地上に戻ろうとする。
しかし、地球に向かっていた主人公は、隠れていた純に別の本を見せられる。飛ばされた先は図書館のような空間で、無数の本が並んでいた。でたらめな文字が並んだ書物しかなく、ほかの世界に逃げる余地はなかった。しかし、そこでも芽衣は助けてくれた。手書きで小説の一節を、空白のページに書きこんだのだ。
最後に着いたのは、並行宇宙を管理する世界だった。実は、この並行宇宙群は全て純が古典SFから作り出したものであり、主人公は古い小説をもとにしたシミュレーションを生み出す装置の一部だった。純は元来創作者だったが、科学の進歩により何でもできる時代にSF作家であり続けることの難しさに敗北し、古典SFのなかに逃避したのだ。そして、芽衣はあらゆる知的存在を手助けする活動家だった。純は芽衣を殺害し、主人公を再び機械と接続しようとする。
主人公はその役割を拒絶し、芽衣から与えられた波留という名を名乗る。純を倒し、自分の感じたままの世界を描写することを開始する。目の前には、自由な空想世界が広がっている。波留は創作する喜びを手に入れた。
文字数:1174
内容に関するアピール
今回の小説では、シーンの切れ目がすべて並行宇宙間の移動である、という仕掛けを施します。その並行宇宙は、実はすべて純の作り出したバーチャル世界なのですが、そうと気づくためには、主人公は長い旅をしなければなりません。舞台となっているのは科学でほぼあらゆることが可能になった世界であり、SFを書く者にとっては厳しい時代となっています。創作意欲のあった純が、こうした虚構の世界に逃避したのも、無理もないことかもしれません。
それぞれの立場としては、主人公の波留が素朴な読者で後に作者に、芽衣が批判的な読者に、純が独善的な作者に、それぞれ当たります。波留が創造性を獲得するシーンは、本作の山場となるでしょう。
最後に、彼らがどの小説をもとにした世界を渡り歩くことになるかは、明示しないこととします。その作品に関する雑学にページを取られないためです。
文字数:370
アムネジアの不動点
僕は本を探しながら走っている。高さが数キロはあるのではないかというビルの間を抜けて。ベルトコンベアが都市を縦横無尽に走っており、中にはかなりの速度を出しているところもあるのだけれど、少しでも距離を稼ぐためにその上を走る。整然と並んでいる人々の間をすり抜けて、少しでも早い路線へと飛び移る。背後にはロボットの集団が続く。それは古い映画に出てくるような人間の形をしたロボットで、金属のマネキンと形容すれば大体イメージできる。曇りなく磨き上げられたその顔は、僕を真っ直ぐ見つめながらも足を緩める様子はない。ロボットが人間の形をしている必然性なんてないのに、と頭の片隅で思う。速度を求めるのなら、自動運転の車のほうがずっと適している。なのに、こうして銀色の群れが追いかけてくるのは、僕を怖がらせるためなんじゃないだろか、と邪推してしまう。彼らは僕と同じくらい器用にベルトコンベアの間を飛び移り、僕との距離を詰めていく。
僕はこうして追われているけれども犯罪者ではない。本を探しているとは言ったけれど、本を盗んだわけでもない。というか、僕はまだ本を手に入れてすらいないのだ。なのに、僕が新しい世界に足を踏み入れてしばらくすると、突然いろいろな人たちが僕を追いかけだすのだ。こんな生活がどれほど続いてきたのかは覚えていない。なぜ追われているのかもわからないし、そもそも僕は自分が何者なのかもわからない。僕の持っている記憶といえば、基本的な生活の動作と日本語だけだ。それと、本を読むのが好きだったっていう思いでだけ。
僕がロボットたちに追われだしたのはこの世界にたどり着いてから数日、あたりの様子がわかりはじめ、やっとのことで腰を落ち着けると思った矢先のことだった。空を壮大なドームが覆い、清潔なビルの間を橋がつないでいる、この世界。塵ひとつなく、都市全体が殺菌され、換気され、毎日決まった時間に雨が降る。太陽も月も都市を照らすことがなく、ドーム全体が穏やかに発光している。遠くに一か所暗い一角があるが、そこは灯りが壊れているのだろう。ビルとビルの間はベルトコンベアがつないでいる。つないでいない路地裏は見放されている区域だ。僕が暗記している古い小説そのままの世界、僕の祖父や曽祖父が空想した未来社会そのものだ。
そういうSFでは、えてしてロボットが反乱を起こすものだ。だから、街中をロボットが闊歩しているのを見た僕は嫌な予感がしていた。いつ彼らが僕を敵と認識し、排除し始めるだろうか、と。まもなくそのとおりに、ロボットの追跡が始まった。予想していたことだった。世界によっては追いかけてくるのはロボットとは限らず、人間の警察官だったり、ドローンだったり、サイボーグ化された兵士だったり、多脚戦車だったりといろいろだけれど、僕はどこに移動してもこういう目に合う。一か所に落ち着いて事情を確かめようにも、そんなゆとりはない。それよりも問題は、それが僕の予想よりもはるかに早く起きたことで、だから僕は書物をまだ手に入れていなかったのだ。
僕が本を求めているといっても、僕は特定の小説を探しているわけではない。ましてや、普通の人の年収ほどの値段が付けられた古本を追いかけているわけでもない。文字が書かれていればなんでもいい。なぜかと言えば、本こそが僕の避難経路であり、新しい世界への入り口だからだ。僕は本を読むことで、その物語の世界に文字通り逃げ込むことができる。
僕は人通りの少ない通りへ向かうベルトコンベアに飛び移り、何とか追っ手をまこうとする。赤外線などのセンサーを備えているであろう彼らから逃れられるかどうかは疑わしいのに、こうしてまるで相手が人間であるかのようにしか僕は対応できない。
ついに僕はビルとビルの隙間、ベルトコンベアさえ通っていない、昼も夜も暗い隙間に飛び降りる。僕は息を整える。空を見上げる。ドームそのものが輝いているからそれほど眩しくはないが、長い間見つめ続けるには適さない。雲が存在しないのにさっきよりも暗くなったのは、夕暮れに当たる時刻が近づいているからだろう。僕はため息をつき路地から出ようとした。けれども、ビルの隙間からのぞいただけでも僕にはわかった。いつの間にかロボットに取り囲まれていた。あちこちに分散しているが、少しずつ距離を詰めてきている。そして、あっという間に道の両側をふさいだ。ロボットたちは身体を変形して、内蔵していた様々な重火器をあらわにしていた。
僕は死を覚悟した。やっと息がつける、とは思えなかった。ただ悲しかった。そもそも僕が何者なのかも知らないまま死ななければならなかった。せめてどうして追われているのかも知りたかった。どうしてなんだ、と僕は思わず叫ぶ。けれども、ロボットたちは答えてくれず、沈黙を守っている。スピーカーの一つも備えられていないことはないだろうから、きっと僕を追いかけている誰かは、僕が存在しているだけで目障りなのだろう。僕は目を閉じて、理由のわからない生に別れを告げようとした。
そういうわけで、次の瞬間に何が起こったのかを僕は理解ができなかった。
どこから姿を現したのだろう、一人の女性が僕の周りのロボットを数体蹴り飛ばした。無造作にくくられた髪に軽装のまま、感情を持たない群を相手にしている。金属でできたロボットは明らかに人間より重くて、女性の手で倒すことなどできるとは思えなかったけれど、すでに彼女は何体かを無力化していた。その素早い身のこなしから、ビルの壁を伝って来たのだ、と言われたのならそれを信じていたことだろう。ロボットは集団でその女性に近づいた。彼女は倒れたロボットの足を掴んで振り回し、数体を葬った。関節が外れ、部品が飛び散る。
ビルの隙間という狭い空間が幸いして、一度に相手をしなければならない数は比較的少なかったのが助けになったのだろうか。それにしても彼女の強さは異常で、いつの間にかロボットの残骸でできたバリケードが築かれていた。でも、僕らを取り巻くロボットは確実に姿を増していて、いつかその女性は倒れてしまうのは確実だった。
なので、女性が突然懐から本を取り出し、無造作に開いたところを僕に見せた瞬間、自分が助かったのだということに気づけなかった。本を見せてくれた、というよりは、混戦の中で僕に無理矢理開かれたページを押し付けた、に近い。鼻が痛い、血も出たかもしれない。でも、間違いなく彼女は僕がどうすれば助かるかを知っていた。
感謝の言葉を伝えようとしたけれど、もう遅かった。体力の限界を迎えていた彼女は数体のロボットに羽交い絞めにされ、殴られ、血だらけになり、もみくちゃにされていたからだ。僕の顔には血がかかり、僕は悲鳴を上げながら目をつぶることしかできなかった。たった一人の味方が、こうしていなくなる。
しかし、それも遠くの出来事になっていく。僕がそこに記された文字を認識した瞬間、世界は霞み、裏返り、霧の中に溶け込んだ。小説の黒い文字は一気に色彩を手に入れて、その規格化された活字は僕の周囲を形作る様々な物体へと変形していった。金属の手で背後から頭蓋骨が陥没するほど殴られる感触があったのだが、その痛みは夢の中のもののようで、確かに痛みだと理解はできるのだけれど強度は薄れ、記憶の中の痛みのように曖昧なものへと変わる。
■
すべての焦点が再び合うと、僕は暗がりの中にいる。辺りからはベルトコンベアが消えており、ビルも常識的な高さになっている。陰気臭い雨が降り、大気は汚染されている。放置されたごみが散乱し、異臭がする。何かが腐敗したというよりは薬物のにおいだ。有機溶剤らしくもあるし、もっと危険なもののようでもある。周囲は治安のあまりよくない区域らしい。それでも、僕は追っ手をまくことに成功したのだ。さっきの人にはどれほど感謝してもしきれない。それに、この世界は技術的水準も低すぎる様子もない。その方が便利でありがたい。人々は端末を操作し、ビルの壁の巨大な広告を無視したまま歩き続けている。
僕は小説を読むことで、その小説の舞台となった世界らしいところに移動することができるのは事実だ。ただ、実はこれが本当に小説の中の世界なのか、それともよく似た世界なのか、それはわからない。どういう仕組みだかも知らない。今の僕がいるのは、本の中の世界の中にある本の中の世界の……、と何重にも入り組んだ果ての場所なのだろうか。この入れ子構造はどこまで続いているのだろうか。情報はあまりにも足りない。わかっているのは、僕が追っ手から逃れるためにひたすら移動を繰り返していることであり、その原因の手掛かりがないということだ。徐々に追っ手がやってくる間隔は短くなり、僕には王手がかけられている気がするのだけれど、僕が相手に反撃する方法は分からない。
ただ、僕に手助けしてくれた存在は彼女が初めてだった。もしかしたら事態を打開する動きがあることを示しているのかもしれないけれど、その手助けがどこから差し伸べられようとしているのかもさっぱりわからない。それはうれしい驚きだったけれど、この助けが一回限りのものである可能性のほうが高い。
とにかく、今は息を整えて体力を回復させなければならない。二度と書物の中に逃亡するのが遅れないように、今のうちに本を何冊か準備しておきたい。だが、こちらの世界ではすでに深夜を回ったところだったらしい。人通りこそ途絶える様子はないが、飲食店や風俗店くらいしか開いていない。基本的に世界を移動するときには同じ場所に相当するところに出るのだけれど、なぜか時間帯が多少前後することがある。理由は不明だ。冷たい雨がネオン街に降り、原色をあちこちに散乱させている。道を行く人の国籍はさまざまで、この世界の中の日本はよほど国際化が進んだのか、外国人の多い界隈なのか、それはわからない。僕は雨宿りを兼ねて、近くにあった店の中に入った。
店主は珍しいものでも見るように僕の顔を見た。僕の外見に不審な点があったわけではない。僕が世界の間を移動すると、その場に合った服装にいつの間にか変わっている。客層から判断するに、この店に日本人が来るのは珍しいのだろう。事実、メニューは東アジアや東南アジアの言葉で書かれている。ビールらしいものがあるのでそれを指さした。本当はアルコールを体に入れている場合ではないのだろうけれど、こんなところでノンアルコールを一人で頼んだら、これ以上はないほど目立ってしまうだろう。
奥に目をやると、何やら商談をしている様子の者もいれば、今にも喧嘩になりそうな席もある。店選びを失敗した気もしたが、今すぐに出ていくのも疑われそうで嫌だった。すでに唯一の日本人であるという時点で疑われかけているのだ。それに、周囲の人を観察した結果、後頭部にケーブルを差し込むための端子がついていた。僕はここがどういう世界かに気づいた。僕はコートの襟を立てて僕が脳をいじっていない生身の人間であることを隠した。
ビールが来たので、ポケットの中の紙幣を掴んで渡した。どんな世界に移動しても僕の所持金はそこで通用する通貨に変わっているのは服装と同じだ。
「この店のビール、飲めたもんじゃないよ」
僕はいきなり隣から話しかけられて席から転げ落ちそうになった。その声が気配なく近づいてきたからだったからではない。その声が他ならぬ、さっき僕を助けてくれた女性だったからだ。
「あなたは亡くなったはずでは」
「そうね。……ねえ、命がけで守ってあげたんだから、お礼くらい言っても罰は当たらないと思うけれど」
僕は深々と頭を下げ、その節はどうもお世話になりました、と口にした。あのときはお力に慣れず申し訳ありませんでした、とも続けた。馬鹿げている気もしたが、それ以外にどう言えばいいのかわからなかった。死んだ人間に対してなんていえばいいのだろう? しかも、相手はそれを意に介した様子がない。幸い、彼女は満足してくれたようだった。それで、僕は非礼に当たらないように時間を空けて彼女に尋ねた。
「あなたは、どういった方なのですか?」
「そういうあなたは、誰?」
彼女は微笑んだ。あのロボットたちのいた世界では、彼女は軍人のような恰好をしていた。それが、ここでは路地裏で商売をしている女性といった雰囲気をまとっている。遠目には、僕らは値段の交渉をしている娼婦と客のように見えるだろう。彼女はその格好に見合うように、どこか僕を寛がせるような声を出したのだけれど、表情の険しさは隠せない。僕はうなだれた。
「わからないんです。僕がどこから来て、どこに行くのかを」
改めて口にすると、それはとても悲しいことのように思われた。もしもこの女性から、僕が何者であるかを教えてもらうことができたとしたら、どれほどうれしいことだろう。
「そう、あなたはすべてを奪われている」
彼女は真っ直ぐ僕を見た。意志の強さの込められた瞳だ。
「私はあなたを救うために来た。……私のことは、とりあえず芽衣と呼んで」
芽衣が名乗ると同時に扉の開かれる音がした。黒服の男たちの群れが流れ込んできた。誰もが体格が良い。当然だろう。だが、奇怪なのは全員が判で押したようにそっくりな体格をしていたことだ。スポーツチームであっても、ポジションや適性などで筋肉の付き方が違う。しかし、彼らには顔についた傷のほかには違いがなかった。だから、まるで統一された意志を持つかのように見えた。全員出てこい、と命じる声がする。おとなしく出てきた者は荒々しく手を掴まれて店の外に出される。抵抗するそぶりを見せた者も一人残らず取り押さえられた。短い苦痛の声がする。その声が短いのはあっという間に昏倒させられたからだ。
僕は絶望した。もう僕を捕らえる存在が姿を見せるとは。やはり網はここまで縮まっていたのだ。芽衣がどのようなことを僕にしてくれるつもりだったのかはわからないが、すべて手遅れだった。
いや、芽衣がいるのだ。さっきのロボットたちは黒服たちの三倍はいた。ロボットよりも生身の人間が強いということはないだろう。今回もまた、血路を切り開いてくれないだろうか。今まで誰も助けてくれなかった僕は、もう芽衣に頼ろうとしていた。だが、芽衣は歯を食いしばっている。それは自分の無力さを呪うかのようだ。小さく息が漏れている。それは、黒服たちの背後にいた者を見出したからか。
黒服たちの背後から、一人の少女が現れる。もうここに、と芽衣は漏らす。身にまとっているのは愛らしいドレスであり、陶器の人形のような美しさがあるのだけれど、同時にだらしなく退廃的な要素も含んでいた。どことなく育ちの良さをうかがわせる。
それほど不自然なことではない。一流の大学を出た裏世界の住人なんていくらでもいる。生活に不自由しているような下っ端とも違うだろう。違和感があるのは、彼女にある悠長な雰囲気である。どこかふわふわしたというか、まるで木陰でのんびりとお気に入りの本を広げている少女の面影があるのだ。あるいは、頼りない子犬のような。
そんな彼女が、何の前兆もなく芽衣を撃った。懐から銃を取り出し、真っ直ぐに芽衣に向けた。彼女の手は震えているように見えた。そもそも射撃なんて習ったことがあるのかも疑わしい。なのに、その銃弾は真っ直ぐに芽衣の眉間を打ち抜いた。その正確さは、適切な言葉による描写にも似ていた。まるで彼女が何か不正を行ったみたいな、まったくぶれることのない動作だった。芽衣は後頭部から頭蓋骨の中身をまき散らして倒れる。僕は彼女が二度死ぬのを見る。僕は、どこかで、もう一度彼女が復活するのではないか、と思ってしまう。けれども、蝋の色をした彼女には、そんな様子はない。
少女は銃を降ろすと、隣の黒服にまだあたたかいそれを渡し、僕のほうに近づいてきた。一瞬、死んだはずの芽衣のほうを恐れるように見たけれど、僕に話しかけたときの声は落ち着いていた。
「初めまして。純と申します。私は芽衣という存在からあなたを守るためにやってきました」
二人の矛盾した言葉に挟まれて、僕はどのようにすればいいのかがわからない。
「私が事情を説明します。ですから、着いてきてください。悪いようにはしません。この街では私が恐れなければいけないものは何もありません」
まずはこちらへ、と僕は車に導かれる。外見は任侠映画に出てくる車そのものだ。純と二人きりになる。ボ中からは窓の外を見ることはできないし、運転手の顔も見えない。ここは一つのブラックボックスであるが、耳を傾けている誰かがいるのは間違いない。
「驚かせてしまって申し訳ありません。でも、私はあのような手段を取らざるを得なかったのです。世界の秩序を守るためなら、私はいくらでも手を汚す覚悟です」
「あなたは、何者なんですか」
さきほど芽衣にかけた質問と同じだな、と思う。
「私はこの多元世界を管理する図書館の司書の一人、とでも言えばわかりやすいでしょうか」
「図書館」
「まさに。あなたは聞いたことがないでしょうか。偉大な文学作品は、実は別世界の出来事の記録であると。あるいは、偉大な芸術家の空想は、別の宇宙をゼロから創造するのだ、と」
僕はうなずく。そうしたことがテーマになった小説を読んだことがある。
「そして、作品が生まれるたびに宇宙は無秩序に増加を続けます。どの宇宙の中にもそれぞれ作家がいるのですから。それに、単純な入れ子構造で終わることもありません。たとえば、劇中劇があり、クロスオーバーがあり、書き直される作品があります。共著者がいたり、作者が気に入らなかった作品をなかったことにしたりします。それらの関係を整理整頓し続ける誰かが必要なのですよ」
「しかし、この世界が本の中の本の中の……と続いているのなら、最初の世界があるのでないでしょうか」
「はい。そこが私のまさに伝えたかったことです。私はあなたがそこから、少なくともそこに非常に近い階層から来たのだ、と考えています。あなたはいわば迷子なのです。ですから、私があなたを元の世界に返して差し上げます」
「僕みたいな存在が出てくる小説なんてあるんでしょうか」
「あらゆることが可能なのが小説です。そして、あなたの出身地は、あなたの精神構造から判断して、非常に自己言及的な構造を持っていたのだと思います」
僕の精神構造? と僕は思う。他の人と違うとは思えないのだけれど。
「ですが、そういうメタフィクション的構造を持った作品は、小説そのものを破壊する可能性があります。言い換えるなら、小説として破綻しかねないのです。あなたが追われるのは、あなたは世界が虚構であると、その中で暮らしている人に気づかせてしまう可能性があるからです。世界はそれが気に食わないので、あなたを抹消しようとする。言い換えるなら、小説自体が持っている論理的一貫性を保とうとする免疫機構が作動するからなのです」
「僕は細菌なんですか」
「あるいは、作品の文字情報を改変するウイルス。気を悪くしないでください。あなたのいた世界では、そうしたことが日常的に起きていたはずなのですから。虚構性の高い宇宙ほど、自由度が高いわけです」
僕が世界を改変する能力があるとはとても思えない。しかし、純は続ける。
「なので私は、あなたを保護するために月面に連れていきます」
僕は論理が飛躍したように感じた。身を起こす。くつろいで背中のふかふかしたシートにもたれていたわけではないのだが、加減速の際に背中を押し付けられる格好になるからだ。
「月面……」
気が進まなかった。なぜかと言えば、危険だからだ。基本的に別世界に移動した場合は、元々の場所と対応したところに出る。だから、日本にいる僕は別世界の日本にたどり着く。技術水準が異なったり、文化がまるで違ったりすることはあるけれど、同じ場所だ。一度日本列島がまるごと沈んでいる世界に出てしまったことがあって、そのときはひどい目にあったのだけれど、そうした危険はめったにない。
しかし、もしも月面基地だったらどうなるか。月面には空気がない。しかも、どこに月面基地があるのかはわからない。建設される場所はまったく予想がつかないからだ。つまり、本を読んだだけで真空の中に取り残される危険がある。それに、技術的水準によっては、助けを呼ぶことさえできないかもしれない。そもそも月面に到達していない世界にだってあるのだ。
おおよそそんなことを伝えたのだけれど、純は笑ってうなずいた。
「対策はします。私も図書館の司書ですし、世界の間を移動する仕組みこそ正確には理解していませんが、それをコントロールする手段ならあります。さあ、行ってらっしゃい」
そうして僕に無理やり本を見せた。僕はその文章が僕の知っているものと一致しているかどうか確認する間もなく、意識が曖昧になりはじめた。
僕は、こうしてスピードの出ている車の中で移動したら、移動した先での世界で時速八十キロで打ち出されることになるんじゃないか、って警告しようとしたけれど、そもそもそんなことを試したことなんてなかったし、実際どうなんだろう、って考えながら活字の靄の中に包まれた。こういう危機感がない思考に陥っている時点で、僕はすでに移動の途中にあるのだな、と判断できた。それは夢の中で自分が夢を見ていると気づきながら、目覚める方法がわからない、そんな感じに似ていた。
■
意識がはっきりすると郊外の宇宙船基地で、特に軌道エレベータがあるわけでもなかったし、慣性駆動が開発されていたわけでもない。だから、僕は普通の物理の法則に従って猛烈な加速度を受けた。隣には純がいて、僕を導く。純もまた、僕と同じように世界を移動できる手段を持っているのだろう。そのまま静止軌道の港に向かい、酔ったままで月面行きの便に乗り換えた。加減速は純が耐えられるかどうか心配になるくらいきついものだったが、当の彼女はそれほどの苦痛は感じていないようだった。まるで、不撓不屈の主人公のようだ。
月に向かう船内は装飾がなく無骨だったが、無駄を排したそのデザインからは逆説的に宇宙開発が行われて久しいことを感じさせられた。ごてごてした機械は壁の後ろに隠れている。アポロ宇宙船よりもはるかにゆったりした空間が設けられており、目の前には大きな窓があった。
ぐんぐん大きくなっていく灰色の衛星を眺めながら僕は思った。この世界は、クレータに磁気異常が見つかった世界だろうか。それとも、異星人のミイラが転がっていた世界だろうか。灰色の土地が僕の記憶を刺激する。
いざ降り立ってみると、そのどちらでもないらしかった。周囲は無機質な廊下が続いているだけで、研究所や工場をひたすらつないでいた。事件が起こって騒がしい様子ではない。とはいえ、月面が舞台となっている作品は多いし、僕の知らないのも多くある。僕が元来いた世界に存在しない小説だってある。
月面の産業は主にヘリウムの採掘であるが、それ以外にも食糧生産基地が大きな面積を占めており、地上へ輸出している様子もあった。岩石を分解して酸素や水を得ているようで、人々は定住してそれなりに歳月が過ぎているらしい。子どもの姿も見かけたことから、月面開発が堅実に発展している世界のようだ。流刑地に用いられている様子はない。荒っぽい連中がいなくてほっとした。もしもこの宇宙が僕を排除しにかかると決めたのなら、手先になるのは間違いなくそういった連中だからだ。僕はそうしたことを見て取った。
僕は純に小さな部屋に案内された。窓からは欠けた地球が見える。周囲の案内や注意書きの中に英語だけでなく日本語があったのは、この世界を創造した作家が日本人だったからなのか、バブル時代に書かれた海外のものだったからなのかはわからない。それはさておき、部屋には一つの装置が据え付けられていた。僕はそこに座るように促される。僕が抵抗することなくそこに腰かけたのは、そうするのが自然だと感じられたからだ。子供の頃にお気に入りだったソファを見つけたみたいに。装置は全体としてジャイロスコープのようになっていて、様々な軸に向かって回転させることができる。だからといって、それらがいきなり回転して僕が目を回すような事態にはならず、かすかに揺らいでいるだけだ。僕の腰かける部分は何かに対して不動であろうとしているのだろうが、その対象が何であるかはわからない。
「さあ、くつろいでください。あなたはそこで、ゆっくりと好きな本を読んでいればいいのです。食事は決まった時間に運ばせます。洗面所やお手洗いはこの部屋にあります」
「しかし、本を読んだら僕はまたどこかに移動してしまいます」
「大丈夫です。この装置はある種の場を生成します。あなたはこの世界に確固として存在し続けられるでしょう。あなたの世界を渡り歩く能力をこの装置が封じてくれます。同時に、あなたがこの世界から排除されないようにもしてくれています。あなたを追いかけてくる物騒な人たちは、もうやってきません。要するに、この装置を使って、この世界にあなたは有害な存在ではない、と注釈をつけているわけです。そこに座っていればわかります。そこはどこよりも安全なのですから」
「……」
「ほしい本があったら、声に出して注文してください。出版されている本ならいくらでも読めます。代金は私がすべて持ちます。では、私は少し仕事をしてきますので、失礼しますね」
「あの」
彼女は振り返る。
「僕はいつまでここにいればいいんですか」
「気が済むまで。好きなだけ本を読んだら。今までゆっくり活字に触れることなんてできなかったのでしょう?」
僕はそこに腰かけたまま取り残された。言われてみればありがたい申し出だった。だから、さて、久しぶりにじっくり本を読むか、と僕は思う。
僕は何も覚えていないと言ったけれど、本を読むと楽しかった感触だけはかすかに覚えている。ただし、それは僕がこうして並行宇宙のあちこちを逃げ回るようになる前のことで、それがどれほど昔のことだったかがわからない。それに、もしも僕らのいるこの世界が虚構なのだとしたら、時間の感覚がどれほど役に立つだろう。かつて、主人公が気を失っている間を空白のページで表現した小説を見かけたことがあるけれど、小説の中での時間経過は本来いい加減なもので、一年経ったと宣言すればそうなってしまうし、それが気のせいだったと言えばそうやってひっくり返る。それはともかく、僕がひたすら小説を読んでいた時期があったはずで、それがいつのことはかわからない。
考えていても無駄だ、と思い、僕は一番好きな小説の名前を告げた。すぐさま目の前のスクリーンに文章が投影された。とても懐かしかった。活字がぼやけることなく、言葉を言葉として理解することができた。別世界に投げ込まれることもない。誰にも邪魔されない。かつての僕はこういう幸福な暮らしをしていたのだ。そんな気がした。
夢中になって読み終わった後、すぐには別の小説に進む気にはなれなかった。自分はもっと物語に飢えていると思っていたので、これは意外だった。さらに驚いたのは、この部屋には時計がなかったので、どれほど時間が過ぎたかわからなかったけれど、僕はまったくおなかが空いていなかったし、まったく疲れていなかった。眼も頭も違和感はない。だから、すぐにとりかかってもよかったはずだった。僕が本を読むスピードはこれほど速かったのだろうか。
それが気になった。僕はかつてこういう幸福な生活を送っていた気がする。こうして文字を目で追い続けることが僕の本性というか、一番自然なことであった気がする。だったら、なぜこんな幸福な生活が終わってしまったのだろう。
僕は純に説明してほしかった。なんだったら、芽衣でもいい。僕は何者なのか、二人とも知っていそうだったからだ。
僕のそうした思考を、アラームが打ち破る。
「ウイルスサンプル漏洩」
「空気感染の恐れあり」
「致死性の変異は未確認。ただし、可能性あり」
「エアロックにより隔離を維持」
「人のいない部屋は真空状態を維持します。減圧開始」
「内部に残された人数、現時点では不明。IDで確認できていない数名について、ただちに捜索を開始」
「日本棟の全体も隔離」
突然物々しい声が飛び交う。廊下の外で人々が走り回っているのが聞こえる。僕は部屋を出ようかと思う。だが、内部がどうなっているのかほとんど知らないままでは迷ってしまうだろう。純が来るまで待つか、外に出るか。僕にはそもそもIDが付与されていただろうか。いなかったとしたら僕は不法侵入者なのか。それとも、被験者か。いや、僕が感染源か。
迷っていてもしょうがないと考えて、思い切って外の様子を見ようとエアロックを開けようとした。だが、鍵の解除の仕方を純から聞いていなかった。指をパネルの前にさまよわせながら途方に暮れていると、減圧の音とともに扉が開く。
「ありがとう、あなたのお陰で介入できた」
目の前には白衣をまとった芽衣が立っている。自分は何度死んでも蘇ることを知っているからだろうか。それとも、それは偽装された死だったのか。不敵な笑いを浮かべている。そのせいか、僕は思わず詰め寄る。
「どういうことですか。あなたがこんなことをしたんですか」
「まだ、わからない?」
芽衣はどこか面白そうだった。
「あなたがそう望んだから」
「……」
「あなたが私を呼んだ。この世界にいる私を」
それはどういう意味だろうか。
「芽衣さん」
「芽衣、でかまわない」
「あなたはこの世界に最初からいたんですか。それとも、どこからか移動してきたんですか。別の世界で亡くなった二人の芽衣とあなたは、同一人物なんですか」
「……この世界にはいくつかの法則が存在する。ごくまれな例外を除いて、並行宇宙には同一人物はいない。歴史が違えば、生まれてくる人物が異なるのは当然。その例外が著名人であったり、歴史上の人物であったりする。そして、私もその例外の一人。私は著名ではないけれど、同一人物があちこちにいる。私は死んでも、その記憶を引き継いでいく。魂の形が少しばかり異なっているから」
「そんなことが可能なのですか」
その問いに直接の答えは与えられない。
「私は無限の世界の間で記憶を共有している。その情報網を使えば、私はどの世界でも好きなタイミングで姿を見せられる。でも、あなたがここにいることを望んだから私がここにいる、というも本当のこと。同時に、最初からそうなっていたことをあなたが言い当てた、と考えても矛盾はない」
芽衣は面白がっているようにも見える。どのような危険も痛みも、何かの冗談だとみているような。あるいは、それこそ虚構の出来事に過ぎないと思っているような。
いや、本当にそうなのかもしれない。純は僕がそうであると暗示したけれども、芽衣も比較的上位の階層の出身なのではないか。
「どういうことですか。ある種の管理者権限ですか」
「まあね。本当のところは不正アクセスに近いのだけれど」
そう言っていたずらっぽく笑う。しかし、不正アクセスが可能なのは、より上位の、あるいは外側の世界からに限られている。小説に書きこみができるのは、その小説を文字媒体として含んでいる世界だけだ。では、芽衣は本当に上位の世界から来たのか。まさか、原初の世界、あらゆる虚構を書物として含んでいる一番外の世界の出身なのだろうか。僕らの世界では、虚構Aのなかの劇中劇Bの中のテレビ番組Cのなかの映画が虚構A、というループ構造を持つことは珍しくないのだけれど、もつれあったこの糸の一番奥には、究極の始まりの世界がある、という話がある。実のところそれだけが唯一の現実であり、ループにも含まれていないのだという。本当だろうか。
「それでは、純さんも」
僕が問うと芽衣の顔が険しくなる。
「あれは、世界そのものを生み出しては濫用している。そういう存在。さあ、あいつから私と一緒に逃げましょう」
しかし、僕からしてみればどちらを信じてみればいいのかわからない。なぜなら、二人とも互いを非難しているし、どちらも言うことは筋が通っていたから。というか、僕に先に多くの情報を与えてくれたのは純のほうだ。だから、僕はためらう。彼女が持ってきた本を開いて僕に見せようとするのを押しとどめる。芽衣は、僕がどうしてそんなことをすべてわかっているみたいにうなずく。
「私を信じられないのはわかる。でも、私があなたを最初に命がけで助け出した。それは信じて。それに、純が先に手を出したのも見ていたでしょ。私は無数に存在するけれど、その中の二人は確実に死んだ。そして、その時の苦痛を確かに私は感じることができた。私は、体をバラバラにされるようなつらさを実際に経験した。それでも、あなたを助けようとしている。だから、信じてほしい」
僕は、ページを覆っている手の力を弱める。それを同意と受け取ったのか、芽衣は本を開く。
■
僕は一瞬、真空の中に出ることを覚悟した。けれども、それはやはり建物の中だった。非常に近い並行宇宙だったから同じ場所に同じような建物があるのかとも思ったけれど、そういうわけではなさそうだった。廊下の走る向きが異なっていたからだ。とはいえ、日本語が使われているあたり日本の建物らしい。同じ場所に基地があるのはすごい偶然だという気がするが、単に基地を建設するのに適した場所が限られているだけあることも考えられる。
そんなことを考えていると、猛烈な光と振動が建物を揺らした。立っていられない。僕は壁にもたれて問う。
「この世界は」
「枢軸国が勝利した世界」
「そんなのたくさんあります。そのうちのどれですか」
「どれだっていい。問題は、あなたを危険から守ること」
月面なので爆撃の音は聞こえない。しかし、建物全体が揺れ、響き、歪むのは聞こえる。ひびが入ったのではないか、とあたりを見まわしたが、幸いそんな様子はない。
「十分に危険な気がするんですけれど」
「この世界の中にしか存在しない書物がある。そこを経由すれば純もなかなか追ってこられない。内容としては連合国側が勝利した並行宇宙について述べている。そこはある種の袋小路の宇宙で、入り口はこの宇宙しかない」
「作中で超大国となった米英が対立するやつですか」
「ちょっと違うんだけれど、イメージとしてはそんなもの。で、その本が置いてあるのが……」
再び轟音。そして、無数のドイツの兵士たちが降下する。真空なのでパラシュートではなく、何らかのガスを噴射して浮いているようにも見える。しかし、無重力ならともかく、一応地球の六分の一は重力がある月面ではその程度では浮けないだろう。反重力装置が存在する世界なのだろうか。
「急いで、図書室はこっち」
「英米が勝利した小説なんて発禁になっていないんですか」
「ここは焚書となった本を隠しておく施設。敵性思想を研究する場所はどうしても必要だから」
僕はただ芽衣の後ろについていくことしかできない。眼に入る言葉はすべて旧字旧仮名遣いで書かれている。その標語も物々しい。ただ、戦勝国の余裕か、僕の記憶している大戦末期に比べて悲壮さがない。こういう考えが出てくるところ、僕は第二次世界大戦の日本の敗戦を自分の歴史として記憶しており、それが僕本来に属する歴史なのだろうかと思ったのだけれど、それは僕が何者であるかのヒントを少しも与えてくれない。危険の中でできることといえば、僕自身を見失わないようにしながら走ることだけだ。
随分長く走った気がする。目の前には、図書室、と書かれた扉だ。そこにあるのは紙の本だろうか。それとも、データが収められているのだろうか。芽衣に促され、僕は安全への僅かな希望を求めて扉を開いた。
けれども、そこに現れたのは純だった。
「芽衣、あなたを待っていました」
純がなぜドイツ軍に所属しているのかはわからない。よく見れば軍服のどこにも鍵十字はついていない。おそらくは何らかの政変があったのか、それとも、そもそも鍵十字の表現が許されていない世界が、この世界の外部にあるのだろう。そうしたことは稀ではない。純は小さく笑った。
「これであなたの好き勝手は終わりです」
「……そう思う?」
芽衣は問い返す。
「私の侵入を許している時点で、あなたは既に負けている。私は無数の世界に遍在している。あなたと違って」
「確かに、私は一度に一つの世界にしか存在できない。でも、現れるときには常に一番有利な地位にいる。あなたを捕まえられるような軍勢と共に。それが、私の特権」
純は唇の端をゆがめる。
「それにしても、本当に失礼ですね。私の名前をもじって、芽衣と名乗るなんてふざけている」
「五月だから六月に先んじるって意味を込めたんだけれど」
「なおさら悪趣味です。私がこの数えきれない世界の主なのに」
「創造主が必ずしも善ではないって知ってる?」
「くだらない。 彼は私が必要なのに。私が彼を必要としているのと同じくらいに」
芽衣の見せたのは軽蔑と怒り。
「そんなこと彼はひとことも言ってないと思うけれど」
「うるさいですね。あなたが私を邪魔する限り何度でも殺してやります」
「どうぞ。私は無限に存在するのだから、それは無限に終わらない苦行になる」
「そうやってあなたは無駄死にを続けるのですか?」
「意識を持つ主体が苦痛から抜け出せるのなら、私は何だってする」
「好きにしなさい」
兵士たちが取り囲み、一斉に奇怪な光線で芽衣を撃った。僕は駆け寄ろうとしたところで、純に無理やり書物を押し当てられ、抱きとめられた。僕は目をつぶろうとした。なんとしてでも別の宇宙に渡ってしまう前に助けたかった。でも、純のか弱いはずの腕があまりにも強くて、僕は身動きが取れなかった。肉の焼けこげる臭いばかりが強く漂ってきた。僕は諦めて、というかなんとか芽衣の姿を捕まえようと目を開けて文字を見てしまう。僕の意識と精神が、別の宇宙に行こうとしている。視界の片隅では、わざと狙いを外された芽衣が横たわっていた。
僕の意識が飛ぶ前に、芽衣は叫んだ。
「忘れないで。物語はプロットの要請上、その中でたった一度だけ奇跡を起こすることができる」
その声はすぐに悲鳴になった。再びの光線。僕の気が遠くなるのは、世界を移動しているからだろうか、それとも芽衣の苦痛に耐えられないからだろうか。
「あなたはたとえ本がなくても……」
まぶしい光。芽衣の断末魔の後、静寂が訪れた。
■
僕は周囲を見た。ここは月面なのだろうか。いや、月面であるはずなのだ。僕には場所を移動する能力はない。しかし、この景色はどういうことなのだろう。まったく同じような小部屋がどこまでも並んでいる。壁にはぎっしりと全く同じ装丁の本が並んでいる。そして、陰気にうつむいた修道僧のような人々が、本を開いたり閉じたりしている。まるで、自分の求めるものがどこかにあるはずだ、と絶望的に試みているみたいだ。螺旋階段は上と下に果てしなく続いている。部屋も四方にどこまでも広がっている。文字通り無限に。
その様子から僕は悟る。これは僕の恐れていたことだ。この宇宙にだけは来たくはなかったのだ。ここはある作家が描写した無限の図書館だ。あるいは、それに非常に近いもの。あらゆる空間を満たし、月も地球も存在しない。ここには収められた本は可能なアルファベットの配列がすべて含まれている、そんな図書館だ。単純な計算からわかるけれど、その図書館はあまりに広くて、宇宙そのものよりも大きい。たいていの本は文字がでたらめに並んでいるだけだが、すべての文字列が含まれているのだから、意味の通るものもどこかにある。そして、今まで書かれた小説もこれから書かれる小説もすべてそこにあるはずだった。その誤植も正誤表もパロディも、全部ある。問題は、正しいものにたどり着く確率がとても低いことだ。きちんと読める文章にたどり着くだけでも、一生かかってしまうに違いない。
試しに目の前の本を手に取ると、思った通りだった。なお悪いことに、そこにあったのはオリジナルの小説のように、二十何種類かのアルファベットではなく、世界の文字すべてだった。デーヴァナーガリー文字の隣にハングルがあり、そこにキリル文字が続く。タイ文字とエチオピア文字が隣り合い、後は見たことがない文字が並んでいる。
僕は本を取り落とす。隣の人物が、感情もなくそれを書棚に戻す。僕は永遠にここに閉じ込められたのだ。僕は、意味の通る文章を読まなければ宇宙の間を移動することができない。しかし、ここにそんな希望はない。日本語の一文を見つけるのさえ一生かかっても無理だ。僕は永遠にここに閉じ込められるのだ。僕はあらゆる希望を失い、その場にへたり込んだ。螺旋階段を、性別も年齢もわからない修道士めいた服装の人々が上り下りするのを眺めながら、僕は泣き出しそうになった。
こんなふざけた世界があっていいわけがない、と思う。ここで生きる人々は何を楽しみに暮らしていけばいいのか。どこに行っても同じ景色だ。意味をなさない言葉に取り囲まれた小部屋を照らす薄暗い光。いつか自分の望んだ通りの書物を見つけるというわずかな希望で一生を棒に振るのか。僕はこの図書館から出たい。しかし、出口などあり得ないのだった。人々は互いの望みに無頓着なまま、果てしのない迷宮をさまよっている。長椅子に眠る姿にも安らぎはない。ただ、身を横たえているだけだ。
どれほどここに座していたことだろう。自分の身の上を嘆いていても仕方がない、と気づく。というか、こうしてぼんやりできているのが久しぶりだ。今までのペースから考えてみれば、既に追っ手が僕のところに来ていてもおかしくない。なのに、こうして静かに過ごしているのは一つの収穫ではある。そもそも僕はなぜ逃げていたのか。命の危険を感じていたからだ。それがなくなったからには、まずは一歩前進、なのかもしれない。
それとも後退か。僕は純によってここに追いやられた。純の言葉にはすでに僕を思いやるような調子はなかった。何が何でも僕を追い詰め、確保しようとしているようだった。今までの追っ手はすべて、彼女の仕向けたものであったことになる。僕は彼女の手に落ちた。彼女は僕のあずかり知らない目的を遂げた。やはり芽衣が僕の味方であったのだ。しかし、僕に何ができたというのだろう。僕はただ世界の間をさまよい続けているだけ、僕を手に入れることで何かが変わるとも思えない。
しかし、そうではないのだろう。二人の言葉を思い返す。純は、この世界を作り上げたと言っていた。そして、芽衣はそこに不正に介入する者だと言っていた。二人は上位の世界の出のはずだ。おそらく、一番外側の現実で生まれた。二人がそのようなことをした理由とは何か。見当もつかない。しかし、芽衣が正しい側に立っているのだとすれば、純は世界を作り上げることによって何らかの悪をなしたことになる。少なくとも、そこには身勝手な動機があったのだろう。そんな利己的な純が、僕を確保しなければならない理由は何か。僕は、覚えてこそいないものの、純の悪事に加担していたのではないだろうか。加担していたのではないにしても、僕は重大な駒の一つであったのだろう。
芽衣に会って尋ねたかった。じっくりと話を聞きたかった。そのような手段はないのだけれど。
いや、本当にないのだろうか。芽衣は、月面で彼女と出会ったのは、僕がそう望んだからだと告げていた。この世界でもそう望めばそれが可能なのではないだろうか。もちろん、ただ念じるだけではだめなのだろう。もしも念じるだけで願いが叶うのなら、最初から追っ手などやってこなかったはずだからだ。
彼女の言葉は、何かを最後に伝えようとしていたのに違いない。
しかし、一人で考えるというのは難しい。相談相手もいない。僕の言うことを信じる者がいるだろうか。僕がこの世界の外からやってきただなんて。しかし、何もしないで嘆いていてはだめだ。僕は近くの人間の肩を叩いた。その追い手性別もはっきりしない人物は口を開く。
「――――」
だめだった。その人物がかすれた声で話したのは、どこか中近東風に聞こえる言語で、日本語も英語も通じなかった。やはり自分で頭を働かさなければ。でも、一人で声に出してみても、すぐに思考は同じところを回る。せめて何か考えを書き出すものがあればいいのだが。ここにあるのはびっしりと最終ページまで埋められた混沌の書物だけだ。見返しなら何か書きこむことはできるだろうけれど。でも、インクなんて存在しない。この宇宙がどのようにして誕生したのかわからないけれど、創り主は書物の改訂を許すつもりはないらしかった。
僕は長椅子に腰かけて、遠くを見た。この無限の図書館のことをしばし忘れようとした。空想の中で、僕は初めて読んだSF小説を頭の中で反芻する。ロボットと人間の友情だとか、初めて火星に降り立った喜びとか。本文を覚えていなくても僕の原点だ。
そこで僕ははっとする。意識が遠のいたからだ。眠くなったのではない。確かに世界の間を移動するときの独特な感覚がそこにあった。どういうことなのだ。目の前に本はなかったのに、僕は別世界に渡ろうとしていた。
僕は膝を打つ。僕の世界を移動する能力というのは、ほんとうのところ、本がなくても構わないのだ。鍵となるのは書物そのものではない。僕の思念だ。それに気づくと、薄暗がりに包まれたこの世界に、あたたかな光がともったようだった。
そして、僕が行きたいところを強く念じればいいのだ。書物を読んだときと同じように、ありありと想像すればいいのだ。僕が芽衣を引き寄せたように。それに気づいた僕は、芽衣のところに行こうとする。それだけではない。純もいるところだ。なぜこのようなことをしたのか問いたださなければならない。確かに危険かもしれない。でも、決着をつけなければならない。命をかけてまで僕を助けてくれた人に対して、それが僕の義務である、と感じだ。三回も命をむごくも奪われている。僕も知らないところで、もっと命を落としているかもしれない。僕がどうなったとしても、何らかの結末が訪れれば芽衣は救われるに違いない。
僕は文章がなくても、行きたいところに行けるのだ。僕は自分の思いに引きずられてこの世界を抜け出した。
■
この世界の月面も静かだった。
僕は無人の建造物の中にいる。どこまで行っても高い柱に支えられた空洞が地平線まで続いていて、もしかしてこれが月全体を覆っているのではないかと思われるほどだった。空にかかる地球の姿も天井で隠されていて、ここが月だと物語っているのは弱い重力だけだった。
僕は、何かを求めて本能的に進み続ける。暑くもなく寒くもない。ところどころ柱に描かれている文字によれば、それぞれが食料貯蔵庫や給水施設らしいのだが、中には「枇杷」「醍醐」「茉莉」「貔貅」といった、はっきりとは意味の取れないものもあった。そこには無秩序の気配があったわけではないし、正気を失った様子もない。ただ、僕らとは別の秩序が確固として存在していることだけがわかる。本来なら不安が嵩じていくはずなのだけれど、僕はその方向が正しいと知っている。
それはある種の直観のようなもので、根拠があるわけではなかった。だから、僕はもう少しで、僕が行きたいところに行けるという能力は偽りであったのか、と疑い始めるところだった。ちょうどそのころに、遠くに機械が見えた。僕はそこに警戒しながらも近づいた。
見つけたのは、純が見せた機械とそっくりな、円盤を組み合わせた形状の装置だった。ただし、それをぐっと複雑にしたものだ。単純なジャイロではなく、その周囲には天動説のつじつまを合わせるために付け加えられた周転円のように、別の円盤が浮かんでいる。それは重力を無視している。床に描かれた文字の中心には椅子がある。まるで東洋の行者を迎えるための場所のようだ。僕は、その中央に思わず腰かけたくなる。というのも、備え付けられた椅子は僕の体にぴったりだったと知っているからだ。
僕は機械に導く階段を上り、何も考えずに椅子に腰かけようとして、僕の中でそれを強く押しとどめる力があった。直前で腰を浮かせる。同時に、芽衣の制止する声がした。
「やめて!」
彼女は息を切らしている。
「間に合ってよかった」
「芽衣!」
僕は機械から降りる。階段の途中で足を止めたのは、僕をそこから引き離すまいとする力が働いたからだろうか。それが、僕を玉座から降りた王のように見せていることだろう。
芽衣は階段を途中まで登り、僕の手を引く。そして、鋭くその装置をにらむ。
「これが、あなたがさまよっていた無数の世界を生み出したシステム」
「どういうことですか」
「あなたは、純が楽しむためだけに無数の世界を作り出すためのシステムの一部だった。あなたは、あなた自身が作り出した世界の中で、迷子になっていた」
「なんですかそれ。僕が、人間ではなかった、ということですか」
芽衣は同情するように僕を見る。
「私は、あなたは十分に人間だと思う。人間と同じように悩み、苦しみ、疑問を持つことができるならば、私はそれを人間として扱うし、私はそうした存在を不当な拘束から自由にするために派遣されてきた。でも、中にはそう思わない純のような人間がいる。法的には人間ではないからといって、知性体を濫用する人々は、残念ながら多い」
「でも……、僕をどのように使えば、世界を生み出すことなんてできるんですか」
僕は、自分が人間ではなかったことよりも、僕自身が僕のさまよっていた世界の作り主であったことのほうに驚いている。
「あなたの中には、世界を生み出すための種子が宿っている。それが、何百冊にも及ぶ小説のイメージ。それがこの装置と組み合わされたとき、純が喜びを覚えるあらゆる世界が生まれる。あなたの知っているのは、純のお気に入りの小説ばかり。あなたがその小説を総合して作り上げた数えきれない世界が、ここから無数の並行宇宙として排出される。善も悪も、最初からあなたの中にあったものから生まれた。それはすべて純の楽しみのため。あなたは、純の快楽のために幽閉されていた、純の気の毒な子供というわけ」
「そんな」
「あなたはその負荷に耐えきれず逃げ出した。それには私の仲間も手を貸した。……それに、生まれてきた無数の宇宙の登場人物の幸不幸を背負うことも、あなたには重荷になっていた。でも、そのときの戦いであなたは記憶を失ってしまった。それは私の責任でもある。本当にごめんなさい」
それは僕にはひどく異常に思われた。なぜなら、純にはそもそもそんなことをする理由なんてないはずだからだ。自分自身の快楽のため? 好きな世界に行きたければ、空想すればいいだけの話だ。目の前にありありと思い浮かべればどこへだって行ける。
「純が最初に求めていたのは別世界を実際に作ることじゃない。彼女にだって空想力くらいある。その力で別世界をイメージし、それを描いた芸術を創作する喜びを手に入れることが彼女の望みだった。でも、それは不可能だった」
「不可能?」
「そう。彼女の空想に誰も見向きもしなかった。なぜならば、すでに私たちの文明は、彼女が空想したようなSFの先を行ってしまっているから。何を空想したとしても、それはすでに現実のものとしてそこにある。恒星間航行も、ナノマシンも、遺伝子改良も、何ができて何ができないかがとっくの昔にわかっていて、それをテーマにした過去の作品は穴だらけとしか見えない」
「ファンタジーじゃ駄目なんですか」
「彼女はあくまでもSF作家になりたかった。……その辺は理屈じゃない」
「……芽衣。もしかして一番外の世界は、この時代を基準とすれば、ものすごく未来なのですか」
「その通り。私たちの文明は、この舞台となっている時代から数千年分も進んでいる。当時には不可能だと考えられていたこと、奔放な作家たちでさえあえて考えなかったことまでも実現されている。そうした時代に、SF作家であることはとても難しい。純は、自分がどんな世界を作っても平凡になってしまうと嘆いた。だから、純はこうやって偽りの世界をいくつも作り上げて逃避した。彼女はそこの人々に介入し、試練を乗り越える様子を見て楽しんだ。この無数の世界は、純が自分の夢をかなえるために作り上げた砂上の楼閣」
「それを、すべて壊してしまうんですか」
「そんなことはしない。ここの住人たちはすべて自我を持っている。私の仕事は、あらゆる意識を持つ存在の権利の擁護だから。純の干渉を離れて、各々の世界が好きにやっていけるようにする」
「そう、ですか」
「そしてあなたは自由になれる。私と一緒に来て。あなたは純から名前さえ与えられなかった。だから私はあなたにそれをあげる。波留。希望の季節と同じ響き。それと同時に、作り手の意図を超えた活動をする、人とは異なった知性の名前。その作り手を時として裏切ってでも、より大きな力に奉仕することができる。あなたも読んだことがあるはず」
与えられた名前が、僕の心を満たしていく。僕はずっと空虚さを感じていたのだけれど、それが何かわからなかった。そうだ、この空白は僕に名前がなかったからだ。それを自覚したとき、僕は今までの欠落の痛みを始めて自覚し、涙を一つ流す。そして僕は、芽衣と一緒に、ここよりも素晴らしい世界の外に出ていくのだろう。
けれども、僕の希望に凍てついた声が突き刺さる。
「どうして、あなたはそうやって余計なことを」
純だった。手に持っているのは、禍々しく歪んだ金属の筒を組み合わせたとしか形容できないもので、ある種の銃の様に見えるが、銃口が複数ある。
僕は叫んだ。
「やめてください。そんなものはしまってください」
これ以上、芽衣が死ぬところなど見たくない。
「止めても無駄です。これは、無限に存在する芽衣を削除します」
「そんな」
「気にしないで結構。オリジナルの芽衣は現実世界に存在しているのですから。私が抹殺するのは、私が作り出した世界にいる彼女のまがい物だけ」
「まがい物だからといって、意識はあるんですよ」
「人の作品に勝手に踏み込んできてとやかく言うような人は、私は許せないの」
純は何かを引き抜き、内部で回転させる。そして手を挙げる。途端に芽衣は内部から破裂した。血しぶきが飛び、肉が裂け、その一つ一つの彼女の一部分が空中で燃えていった。中から裏返るような彼女の最期はあまりにも凄惨で、このようなことが起きる物理的な根拠なんてなかったはずなのに、と思われた。それが、この世界ではなんでもできる作り手としての純の立ち位置を意味しているようで、僕は完全に捕らわれたように感じられる。彼女はあらゆる特権を持つ作者なのだ。
純は小さく微笑んだ。そこにいた芽衣は実在したし、意識だって持っていた。だから無数の死を彼女はもたらしたはずだ。けれども、純はそれに頓着しない。
「気にしないで。これは所詮エフェクトだから。少し腹が立ったからちょっと残酷な外見にしたけれど、外の世界にいる本物の彼女は少しも苦しんでいないはず。……さあ、あそこにもう一度坐って。また、物語をともに紡ぎましょう」
僕は抵抗する力がなく、再び宇宙の中心に座した。そして目をつぶる。僕の周囲で円盤が徐々に回転し始め、加速していく。風を切る音がする。近づくだけで指が切れてしまいそうなほど。僕は最後にもう一度純に逆らおうとする。僕がすべてを望んで許されるのなら、芽衣の復活を望む。僕にその力があったのなら、うまくいくはずだ。それでも、それは機能しなかった。純は笑う。
「無駄ですよ。私は芽衣を私の世界からブロックしたのですから」
その笑いに、僕は怒りを覚える。怒りではない。憤りだ。確かに、僕は物語が好きで、それは純と相通じる部分だ。けれども、それは純が僕をそのように作ったからに過ぎない。それに、純の物語を作りたいという気持ちがわかるからといって、彼女の行いが正当化できるとも思えない。一つの世界に何十億もの人間がいてそれぞれの物語があり、並行宇宙がそれだけ無数にあるのとすれば、それを何億倍にもした人間たちが生きている。その運命に、戯れに介入することなど許されるのか。そうした行いをする人間は、物語の中では当然、報いを受けるべきなのだ。
僕は、その憤りの熱量でこの世界を包む。僕は、この世界から派生した世界の群れの外に、一つの規則を付け加える。僕らは全員登場人物に過ぎない。それは当然、純も含む。純は作者ではない。一人の登場人物だ。登場人物の一人にすぎないと再定義をしてしまえば、彼女もまた物語の進行上の拘束を受ける、弱い存在だ。僕こそが作者だ。
僕が何をしたのか、純は気づいた様子はない。だが、物語の持つ力が彼女に裁きを下す。芽衣の言ったように、プロットの要請は、物語の中にたった一度なら偶然の起きることを許す。だから、強烈な月震が下から突き上げる。強固なはずの柱が折れる。それはゆっくりと崩壊を始める。影が彼女の上に落ちる。純は振り返る。何が起きたかを純は悟る。柱はゆっくりと落ちる。しかし彼女が逃げられるほど遅くはない。だから柱は彼女を押しつぶす。
僕は彼女を滅ぼした。たった一人の彼女を。無数の世界から作者が消えた。だから、僕らは自由になった。
でも、芽衣がやってくる様子はない。おそらく彼女に掛けられたブロックは恒久的なものなのだろう。どうしたものだろう。僕は自分のもたらした結果の重大さを徐々に意識する。僕は玉座から降り、純を見下ろす。彼女の躯はあっという間に分解され、消えていく。白骨が残り、それもすぐに崩れて風に吹かれていく。残されたのは血痕だけだ。それすらも薄れていく。まるで、僕に罪はないと世界の法則が訴えるように。
でも、僕はどうしたらいいかわからない。無数にある世界の中の、どこで暮らせばいいのかわからない。選ぶことができないからだ。どうすれば芽衣のところに行けるだろう。今や僕は世界を自由に渡り歩くことができるのだけれど、どれがより外側の世界に当たるのか、知るすべはまだない。
僕は偽りの玉座から歩み去る。まずはこの場から立ち去ろう。様々な世界を歩き、そのつながりを知ろう。僕はこの無数の世界とその関連性について学ぶために、最初の一歩を踏み出し、この場から消えた。
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