推しのいない世界

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梗 概

推しのいない世界

 会社の同期に誘われて始めたダイビングだったが、ライセンスを取ったあと、実家に帰るついでに潜りに行くくらいにはダイビングにはまっていた。
 ある日、2本目のダイビングを終えた後の休憩で奇妙なことが起きた。ケータイの待ち受けが変わっている。
 とりあえず元の画像に戻そうと、画像フォルダを開いた来本は目を見開いた。推しの画像が一枚もないのだ。単なる故障にしては奇妙だが、とりあえずインターネットなどから画像を再度ダウンロードすることにした。
 タイトルにキャラクター名で検索してでてきたのは、”一致する条件は見つかりませんでした。”この一文に、来本は絶望した。
 予定していた3本目のダイビングをキャンセルして、来本は実家に帰ったが、別のキャラクターのフィギュアが部屋を占領していた。

 ダイビングから帰ってくることで、推しのいない世界線に迷い込んでしまったと考えた来本は、暇を見つけてはダイビングに行くことにしたが、推しに再会することはできなかった。

 ある日、ダイビングのログブックを眺めてた来本はあることに気が付いた。
 ケータイのデータやSNSのつぶやきは全て違うものに変わっているのに、ログブックに書かれている推しの落書きは消えていなかったのだ。ログブックに忘れたくないことを書いておけば、ダイビングから上がってもそれについては改変から免れるかもしれない。来本は覚えている限り、推しの情報やアニメのストーリー、曲の歌詞などを書き込んだ。
 次のダイビングでも、書かれた内容が消えることはなかった。
 その日から来本は、推しが出てくるはずだった枠のアニメを記録することにした。

 ある日、ダイビング中に奇妙な空間に迷い込んだ。
 推しと瓜二つの女性がにらんでくる。インストラクターの亀田はなぜか平然としている。
「アンタ、いい加減あきらめなさいよ!」
 何事かと思っていたが、どうやら推しそっくりな女性は神様的なもので、うっかり人間に見られたうえ、アニメのヒロインにされてしまったそうだ。
 黒歴史を消すがごとく、人間の世界線を移動させているが来本があきらめなかったので、しびれを切らして出てきたらしい。
 もう見られないのならと、来本は女神のデッサンを申し出た。
 あきれ顔の女神はしぶしぶ了承した。

 ログブックに書かれていた内容の改変を確認するために、ブログも併せて書いていたところ、何かでバズったらしく、敬愛する推しを生み出した(はず)の監督のキャリア40周年の企画展に招待された。
 監督と二人きりになったとき、我慢できなくなった来本は不審者扱い覚悟で、どこかの世界で産みだされていたはずの作品について監督に話した。
 監督は思っていたよりも面白がってくれて、それを創ろう!とまで言ってくれた。
 苦節10年、ダイビングした回数ももう思い出せないが、推しが再び生まれる瞬間に立ち会えた。
 そういえば、脚本家の名前は同姓同名だなぁとぼんやり思っていたことを思い出した。

文字数:1221

内容に関するアピール

 マンデラエフェクトという世界線の移動のようなものを知りました。
 自分が移動しているのか、量子力学的に?自分の認識で再構成されているのかはわからないのですが、現在も過去も未来もない、調べれば調べるほどわからんものでした。

 シーンの切り替えがわからん、世界ごと変えてしまおう。となったのはいいのですが、主人公がダイビングして帰ってくるたびに世界が変わっていて、書いてはみたものの…という状態です。

文字数:196

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推しのいない世界

 推しは消える。
 作中死?絶版?規制?まだマシだ。生きていて元気だった時の記録は残っているし、インターネットを血眼で捜せば画像や商品を見つけ出せる、ネットオークションで大枚をはたけばそれを手に入れることだってできる。それができればどんなにいいか……
 この世界では真実は必ずしも本当のことじゃない。人間は自分の見たい願望や欲望だけを真実という。この世界を受け入れられなかった。だから、真実を作ったんだ。
――超時空戦艦F製作委員会,スタッフインタビュー シリーズ構成・脚本 来本永利(くるもとえいり),『超時空戦艦F 設定資料集-azul-』,2022年11月27日,p.114-118

 

 高知の支店から戻ってきた同期は、ダイビング沼にはまって帰ってきた。
 ダイビングといえば、あのベネチア風癒し系漫画を描いた作者の最新作。アニメが面白かったので原作も購入した。主人公たちの成長をハラハラ見守りながら、学校のプール以上も知らない水の中の感覚や景色に思いを馳せる。水中から見上げ水面のようにキラキラしている世界……は待っていたけれども、その先がヤバかった。ダイビングは沼だった。
 海なのに沼とはこれ如何にという感じだが、採寸してオーダーしたスーツに一眼レフのカメラを売って揃えた水中撮影用の機材一式、ヒマさえあればどこかに潜りに行こうと計画している同期の様子は、完全に沼の住人の挙動(それ)だった。見た感じ、聞いた感じ、どう考えても金がかかりそうな感じに躊躇していたし、実際に講習を受けに行った先のダイバー達は、思っていたよりもずっとヤバい人間の集団だった。
 しかし、講習が始まって海の中に潜ってみると、それだけのものを費やしてでも追い求めたくなる気持ちも分かった。手の届くほどの距離にいる魚は色鮮やかで、一瞬たりとて同じ表情は見られない。大樹のようなサンゴ礁とその周りにいる小魚たちの生命の営み。潜れば潜るほど行動できる範囲は広がって、出会う生物も増えていき、感じられるスケールも上がっていく……レベリングはきついが、ご褒美の大きいRPGみたいな世界だった。
 金額面でかなりの躊躇をしていたが、かかるお金よりも大きなリターンが得られた気がした来本は、気が付いたら毎シーズン、実家に帰るついでに潜りに行くくらいにはダイビングにはまっていた。
 来本の実家は県の半島の南端の漁師町にある。このあたりの気候は一年中温暖で、波も穏やか。潜れば四季折々の魚を見ることができる。実家から歩いて10分、自転車で5分、漁協の建物と建物の間、倉庫と見間違うような建物のダイビングショップ『魚々瀬-ナナセ-』を発見したときには嬉しさのあまり店の前で大声をあげてしまった。出会いは微妙だったが、店主の亀田は年が近く話も合い、来本が通うのは必然だった。

 少し遅いお盆休みを取ったある日、亀田が餌付けしているサメと戯れること2回、撮った写真を同期しようとケータイを手に取った来本は、目を見開いた。ペンギン帽子に長い髪、やたらに居丈高な目線の少女、ケータイの待ち受け画面が数年前に設定していたものに変わっていたのだ。潜る前、とくに何か設定を変えた覚えはない。首をひねりながら画像フォルダを眺めていると、そのまま90度に首を捻りそうになった。
 推しの画像がない。何かの間違いじゃないかとケータイを再起動するが、やはりない。ファイル管理アプリのアップデートを確認してから、本体、SDカードとありとあらゆるフォルダをくまなく探したが見つからない。ハードディスクだとか機械の本体ならいざ知らず、特定の画像データのみがクラッシュするなんてことはまずないはずだ。ウイルスに感染したにしても、時限式に特定の(キャラクターの)データを消去するなんて嫌がらせじみたことをするだろうか。いや、ウイルス自体が嫌がらせじゃないか。余計なことが頭をよぎり始めた矢先、背後から亀田の能天気な声が響く。ブリーフィングの開始時間はとうに過ぎていた。
「来ちゃん、次どのポイントにするー?」
 肺活量に比例した声量が来本の雑念を吹っ飛ばした。ちょっと待ってくれ、今それどころじゃない。と、来本が制止するように手のひらを向ける。ケータイを必死な形相で見つめている様子に、今度は何のチケットだろうかと小首をかしげながら亀田は近くの椅子に腰かける。ほかのショップであればブリーフィングの遅延は迷惑になるが、この店は違う。いつ何時行っても、客は来本のみ。夏の繁忙期、帰る予定を伝えていなくても、なぜかすぐにダイビングができる。
 とりあえずデータを取り直そう。誰にも迷惑をかけない環境で、来本は深呼吸をする。検索エンジンを開いて検索ワードを入力する。1日に1回は必ず使っているワードなのに、予測変換に残っていない。ケータイのいつもと違う挙動に不審を覚えながら、検索ボタンを押す。
 悪い夢を見ているようだった。かすかに塩気が残っている腕で何回も目を擦る。塩分が目に染みて涙がにじむのをタオルでまた擦る。どれだけ目を擦っても、タブを作り直して予測変換が再び単語を学習しても、“超時空戦艦F キャロル・ローズ に一致する情報は見つかりませんでした”という検索結果が変わることはなかった。
「悪い、亀田。急用ができた」
 青い顔に真っ赤な目、ウェットスーツを半分脱いだ状態で力なく立ち上がった来本の姿はゾンビのようだった。よっぽど行きたかったライブかなにかのチケットが定員に達してしまったのだろうか。亀田は何も言わず、着替えもせずふらふらと店を出ていく来本の背を見送った。
 ウエットスーツ半脱ぎの怪しい風体のまま誰にも会わず実家にたどり着いた来本は、昼間はカギの掛かっていないステンレスの格子戸を思いっきり右に薙ぐ。居間でテレビを見ているであろう母親の「うるさい!!」という怒鳴り声を尻目にドタドタと階段を上がる。ファスナー式の裾とブーツを取り外す時間すらも惜しい。土足で海水をところどころポタポタと床や壁に撒き散らしながら自室のドアを開けた来本はその場で崩れ落ちた。
「無い……全部無くなってる……」
 やっとのことで絞り出した声で目に映っている光景を確認する。見慣れていたはずの自分の部屋が、他人の部屋のようになっていた。部屋の一画に祀られるようにして並べられていたラズベリーブロンドに青い瞳のキャラクターのフィギュアは根こそぎなくなっており、彼女のいた場所にはペンギン帽子の無駄に偉そうな少女や宇宙海賊女子高生、全身義体のサイボーグにスピリチュアルスクールアイドル、見知っているはずのキャラクターが知らないフィギュアとなって、どことなく誇らしげなドヤ顔で陣取っている。推しが消えるドッキリを願った(うたがった)来本は、カメラがどこかに隠されているのではないかと部屋の隅々を調べ始めた。お気に入りの漫画に海水と砂利が飛ぶのも目に入らない。床に壁に、ありとあらゆるものをひっくり返して水浸しにした来本は、部屋の中心に静かにへたり込んで涙を流した。カメラどころか、推しの痕跡一つ見つからなかった。
 来本が帰ってきてからの家の惨状に、母親は飛び出んばかりに見開いた目を充血させながら怒った。来本の趣味に辟易して3年に1回部屋に入ってくるかこないかの母親であったが、この日ばかりは床に転がっていたフィギュアを踏みつぶしながら入ってきて、来本の首根っこを鷲掴みにして引き摺り1階の風呂場にぶち込んだ。一種の達成感を感じさせる荒い呼吸と、定年したとたんに増えた体の重みを強調するような足取りで部屋に戻った来本の母は、血圧が急激に上がりすぎたのか、この日から3日間寝込んだ。
 シャワーを浴びながらウェットスーツを身体から剥ぎ取って浴槽に放り込んだ来本は、タイルの床に座り込む。バタバタと落ちる湯が来本の髪の毛を自身の顔や背中に張り付けていく。温水を被りながら、甘え切った修行僧のような恰好でここ数時間の出来事の反芻を始めた。
 朝、ケータイにセットされたアラームで目覚め、階段を降り、ダイニングのテーブルにいくつか置いてあった菓子パンのうちの一つをかじりながらショップに向かう。亀田と軽い挨拶を交わした後すぐに着替えて1本目のダイビングに向かった。上がってからは、久しぶりに会った亀田と互いの近況報告を1時間ほどしながら休憩。2本目を潜ったあとの休憩時間に推しの消失が起きていた。この間、ケータイに触れたのは目が覚めた時と店の貴重品保管庫に入れた時だけで、半目でアラームを止めたあとのロック画面にはまだ彼女はいた。朝起きてからのおよそ3時間の間に何かが起こったと考えて間違いない。
 まっさきに誰かのケータイと入れ違いになった可能性を考えたが、すぐに却下した。二人分の貴重品しか入っていないのに、亀田が来本のケータイを間違えるはずがなかった。そして、亀田が意図的にケータイの入れ替えや設定の変更を行ったとして、来本が店に着いてからの3時間、着替え以外はずっと一緒にいたので人のケータイをどうこうできるタイミングは無いはずだった。ショップ勤めのくせに着替えが遅い亀田は、来本よりも先に着替えを始め、来本が着替えを終えて機材の確認が終わる頃にいそいそと店の奥から出てくる。来本自身が亀田のアリバイを保証することができた。
 思考に煮詰まった来本は、風呂にぶち込まれるまで掴みっぱなしだった自身のケータイを手に取る。ふやけた親指では指紋認証は反応しない。ぼんやりとロック画面を眺めている間に顔が認証され、シャワーの水滴が画面をスワイプしてロックを解除した。顔認証に昨日まで来ていた会社からのメール、これほどまでに自分のケータイであるにもかかわらず、入れ替えや設定の変更など、考えれば考えるほど馬鹿らしくなってきた。彼女がいないだけなのに。
 失意のまま風呂から上がり、玄関や階段の床と壁に撒き散らした海水と砂利をふき取った来本は、明かりもつけずに湿気って少し磯臭いベッドに倒れこんだ。ベッドに行きつくまでに何かを踏んだ気がするが、何を踏んだのかを確認する気にさえならなかった。

 昨日と同じ時間、違うイントロで目を覚ました来本は、目覚まし時計のアイコンをスヌーズ側にスワイプして目を閉じた。昨日のことは夢であって欲しい、そう願いながらの行動だった。
 10分後、ついさっき聞いたばかりのイントロで再び目を開ける。推しの消失は、紛れもなく現実だった。こんな世界があってたまるか……!!と言わんばかりにケータイを睨みつける来本に、鳴り続けてサビに到達したメロディーがロック画面のペンギン帽子の少女の視線と重なって、カミナリを落とした。『イマージーン!!』
 検索エンジンからたった数時間で人気作品に関するすべてを消すことはできるだろうか?消えたら消えたことそのものが話題になるのではないか?彼女が登場している作品が見つからないのならば、此処がそういう世界であるならば、それに成り代わっている作品やキャラクターが存在するはずだ。来本の目に少しだけ光が戻ってきた。
 昨日、ショップで絶望したきりネットの検索はしていないが、まだ確認するべきことは残っていた。来本が愛してやまない“超時空戦艦F”はシリーズ物で、末尾の数字やアルファベット、記号で個々の作品が認識されている。見落としていた事実に来本の心が震える。もしかしたらタイトルやキャラクター名が違うだけで、そこに彼女は存在するかもしれない。祈るようにゆっくりと検索フォームにキーワードを入力する来本の意に反して、予測変換は迅速に検索候補を示した。来本の瞳に生気が戻ってくる。“超時空戦艦”シリーズはこの世界にも存在していた。公式サイトのシリーズ一覧から、最新作・通称“△(さんかく)”の一つ前の作品ページを期待に満ちた眼差しで開いたが、そこに彼女の似姿はなかった。彼女が出ている作品だけが、来本の知らない作品になっていた。
 消沈した来本は、家から出てすぐのところにある堤防に腰かけた。彼女の存在だけがぽっかりと抜け落ちた世界線では、生きていくうえでのすべての楽しみがなくなってしまったようだった。等身大フィギュアのために貯蓄した300万円の使い途も、来本の視線とともにぼんやりと宙に浮いた。堤防のわずかなスペースに無気力に横たわった。
 気を抜いたら熱中症になりそうな陽気のなか、様変わりした世界に思いを馳せてみる。しかし、推しが消えていたこと以外、さしたる変化もなかったことに気付いた来本は、自身がこの世界における“異物”なのだとぼんやり思った。日が昇りきる少し前、まどろみながら目を閉じる。彼女がいない世界なら、どうなったって知ったことじゃない。
「来ちゃん!!こんなところで寝てたら干からびちゃうよ」
 だだっ広い海岸に無駄に響く声と、亀田の持っていたペットボトルから零れ落ちた冷たい刺激に目を開いた来本は投げやりに答える。
「干からびたっていいさ。キャロルのいない世界なんて」
「なんの話?きのう死にそうになってたのと関係あるの?」
 大アリだ。前日、急に帰ってしまったことへの申し訳なさもあって、まだ受け入れ切れていない自身の現実を説明することにした。亀田だけでも彼女を覚えていてくれれば、ありとあらゆる希望が打ち砕かれた今、ほんの少しの希望にすがっていたい気分だった。
「来ちゃんの好きなキャラクターって、あのペンギンのお姫様じゃなかったの?」
 無邪気に来本の最後の希望を打ち砕きながら、亀田は来本の話に相槌を打っていた。
 この世界での来本が推しているというペンギンのアニメさながらの世界線移動を説明されても、亀田は動じなかった。少し抜けているところがあるとは思っていたが、こんな形で救いになるとは、そこそこの付き合いになる来本自身にも予想がつかなかった。びっくりするぐらいいつもと変わらない様子の亀田を見て冷静さを取り戻しはじめたのか、ワケの分からない話を聞かされている亀田を気遣う余裕が少し出てきた。
「亀田……お前、引かないのか?」
「来ちゃん、ちょっとだらしないとこあるけど、ウソはつかないでしょ?だからまあ、そうなのかなって」
 亀田に恋人ができたら、そいつに一目会って騙されていないかを確認してやろう。この一瞬だけは来本も自身の状況を忘れて亀田の心配をした。
「でもさ、不思議なこともあるもんだよね~。潜ってる間に来ちゃんが、違う来ちゃんになっちゃってるんでしょ?あれ、来ちゃん以外の世界が変わっちゃったのかな?」
 亀田は無意識に来本にとって重要なことを言った。
「そうだ。ケータイの入れ替わりだとか、情報操作だとかそんなことでキャロルが消えるわけがないんだ。潜っている間に何かあったんだ!!」
「何かって?サメに囲まれてたくらいじゃない?」
「それだよ!!サメだよ!!」
 要領を得ない顔をしている亀田に、来本がまくしたてる。
「手品の早着替えとか、瞬間移動あるだろ!?マジシャンが入ってるカーテンみたいに、サメにグヮーって取り囲まれたとき、何かが起きるんだよ!!」
 自分で言っておいてどうかと思ったが、彼女が存在する世界に還るためには、どんな藁でも縋って掴んで引き寄せたかった。
「じゃあ、今日も潜れる?」
「ああ、昨日借りっぱになってたスーツとか持ってくる」
「分かった、機材準備して待ってるね!!」
 前日とは打って変わって元気になった様子に、亀田が嬉しそうに応える。元の世界だなんだの突飛な仮説なんて忘れてしまうくらい、一緒に潜りに行けることが亀田には嬉しかった。
 普段なら、ダラダラと歩いて店にやってくる来本が、自転車でダッシュして、息せき切らしながら飛び込んできた。
「早く潜りたいでしょ?乾いてるやつ一式使っていいよ」
「わるい」
 言うが早いかパタパタとビーチサンダルを鳴らしながら来本は準備に取り掛かった。更衣室の外から亀田の小さな独り言が聞こえた。
「さっきのサメの話が本当なら、陸に上がってからお話する来ちゃんは、今こうして一緒にいる来ちゃんじゃなくなっちゃうかもしれないんだよね。来ちゃんはどんな来ちゃんでもきっと来ちゃんだけど、どこかに行っちゃうかもしれないのに挨拶もできないなんて、ちょっと寂しいな……」
 あとにする世界のことなんて考えていなかった来本の胸が少しだけ傷んだ。きっとどこの世界の亀田とも仲良くなれると思うが、この世界の亀田とはお別れかもしれないのだ。
 着替えが終わった来本はこの世界を忘れない方法考えながら、亀田の長い着替えを待った。
「ログブックに店とかインストラクターのサイン書くところがあったろ。あそこになんか書いてくれよ」
 いつもより少しだけ遅く出てきた亀田に、来本が視線を変えずに告げた。
「えー、サインのところだけ~?ケチケチしてないでメモ欄全部ちょうだいよ~」
「そしたら、何があったか書けなくなるだろ」
 結局、調子に乗った亀田と二人で一回分の記録スペースを無駄にした。ページが真っ黒になる頃には、いつも通りに戻っていた。
「ほかにも忘れちゃいけないこといっぱい書かないといけないんじゃない?えっとー、キャロルさん?が何と入れ替わってたかーとか、来ちゃんがどんな行動したのかー?とか」
「今日はやけに冴えてるな」
「ひどーい、いつも冴えてますー!!」
 振り返りもせずどこか違うところに行ってしまいそうな来本を、少しでも引き留めようと亀田はつづけた。
「昨日のあの感じじゃどうせログ付けもまだなんでしょ?2本分のスペースがあれば全部書けるんじゃない?」
「今日は本当にいいこと言うな」
 ものすごく前向きに進んでいた来本の動作はすぐに止まった。ペンを放り出して、後ろにひっくり返りそうなくらいの背伸びする。
「どうしたの?」
「ショックが大きすぎて陸に上がってからのことを思い出せない」
「さっき説明してくれたじゃん」
 昨日の死にそうな様子、ついさっきまで防波堤でたどたどしく語っていたことを順番に伝えていく。こうしてペンが捗ることで別れが加速していくことに来ちゃんはこれっぽっちも気づいていないんだろうな。助けちゃう自分も自分なんだけど。レジ台に腰かけて、亀田が人知れずにこっそりと零した涙は、ウェットスーツに吸い込まれて、あっという間に乾いた。

「それじゃあ来ちゃん。違う世界でもよろしくね」
 互いにマスクで顔が見えないまま頷いて、ボートの両ヘリから鏡合わせに海に吸い込まれていった。
 海中には、いつもと変わらない光景が広がっていた。いつもより遅かったエサの時間に、サメたちは少し気が立っているようだった。亀田がサメに埋もれて見えなくなる。亀田がさっきと違う亀田になるかもしれない。不安が脳裏をよぎるが、それは来本が違う世界に行くこととも同じことだった。
 食事に満足した魚たちが来本にも寄ってくるようになった。そろそろこの世界ともお別れかもしれない。最後の挨拶に手でも振ろうと亀田のほうに手を伸ばすと、掴んでこっちに来た。亀田と二人、タンクの空気がもつ目一杯サメごみに紛れて海面へと上がる。途中、亀田に見せられた磁気性ボードのメッセージに吹き出して死にそうになったが、ボートに上がってからは転覆しそうなくらい、思いっきり笑っていた。
「味方は多いほうがいいでしょ?これからもよろしくね。来ちゃん」
 彼女以外の変わらないものより、亀田がいてくれることの方が心強かった。マスクの中で、少しだけ来本は泣いた。亀田は何も言わずに、ボートを運転した。
「ケータイ確認ターイム!!わーぱちぱちぱちぱち」
 これほどまでに緊張感のない運命の瞬間があるだろうか。来本はため息をついた。
「世界が変わっているか確かめるんだぞ。もっと緊張感を持てないのか」
「だって、来ちゃんの推し以外はとくに何も変わらないんでしょ?」
 船と店のカギが束ねられたキーホルダーを人差し指でくるくる回しながら、亀田が店の中を見て回る。金庫と帳簿をレジ台に乗せて、細かい確認を始めた。
「船のカギも店のカギも暗証番号も変わってなかったよー」
「売り上げは?」
「売り上げはねー、昨日はねー、赤字。来ちゃんもついにツケるようになったかー」
「悪かったよ。っていうか、サイフも保管庫に入ってただろ。支払う意思はあったさ」
「んで?推しふぁ?」
 語尾にアクビが混じっていた。ウジウジしていても仕方がないので、来本はケータイの電源ボタンに手をかける。
「潜る前と変わっては…いる」
 待ち受け画像はまたも変わっていた。自宅の書庫にあった魔法のカードをうっかりぶちまけて回収することになった魔法少女が、羽の生えた杖にまたがって夜空を飛んでいた。
「来ちゃん……ペンギンのお姫様の時も思ったんだけど、もしかしてそういう……」
「違う。だんじて違う。キャラクターはもちろん可愛いが、ペンギンもこの作品もストーリーとか設定とかそういうのがとにかくいいんだ。お前も見ればわかる」
 自分は誰に向かってこんなに早口で言い訳をしているのかわからないが、来本自身、昨日よりも焦りがないことを感じていた。
「ほらほら、次は検索、検索」
 推しだとかアニメだとかに全く興味のない亀田にせかされて、検索エンジンを開く。文字入力の予測変換機能はリセットされていて、作品もキャラクターもヒットしなかった。シリーズ一覧の結果も昨日と同じだったが、ただ何となく、入れ替わっている作品が昨日よりも面白そうな感じがした。
「来ちゃんはさー、見ればわかるっていうけど、キャロルさん?以外が変わらないからって、ペンギンのやつも今の待ち受けのやつも変わってないとは限らないんじゃない?だって、世界変わっちゃってから観てないんでしょ?」
 その指摘はもっともだった。昨日からテレビはおろか、インターネットすらもまともに見ていない。
「お前、今回どんだけ冴えてるんだよ……」
 彼女がいない世界なら、そんなに長居する必要はないと思っていた来本だったが、どの程度の改変が身の回りに起きているのかくらいは、ログブックに記録することにした。
「待ち受けと、シリーズが変わってること、フィギュアが何と入れ替わっていたか……」
 ぶつぶつうんうん唸りながら記録を取る来本に、亀田が来本のケータイで超時空戦艦シリーズのサイトを読んでいるとは思えないスピードでスクロールしながら、メニューのページを指で止める。
「入れ替わっちゃったアニメ、あらすじ書いといたほうがいいんじゃない?」
「どうせ移動したら改変されるだろ?意味あるのか?」
「むかし先生に書けば覚えるって言われたじゃん?」
「いつの時代だよ」
 確かに小学校の歴代の担任たちは、ノートにズラズラ漢字やテストに出るキーワードを書かせるのが好きだった。
「何個も書かせると、欄を埋めることに集中しだして実際大して覚えられないんだってな」
「来ちゃんがログに書くのは一回でしょ?」
「そうでした」
 亀田が興味なさそうにいじっていた自分のケータイを取り返すと、“△”の一つ前の作品ページに戻りそのあらすじを書き始めた。テレビシリーズ版と劇場版前後編、地味にいっぱい書くことがある。
「ペンギンとカードのあらすじも書いとかないとな……」
「んー、その超時空……ナントカ?ってやつ以外何も変わらないんだったら、あらすじ読むだけにして変化してたかどうかだけ書いとけばいいんじゃない?この先何回も潜ることになったら続かないよ?」
「縁起でもないこと言わないでくれ」
 亀田が一緒にいてくれることで少し忘れかけていたが、すぐに彼女に再開できるとも限らないのだ。ペンを握る手に力が入る。
「書き終わったらすぐ行けるようにタンクとか変えてくるねー」
 一言一句見逃すまいとあらすじを書き始めた来本の耳に、亀田の掛け声は入らなかった。
「んじゃ、2本目行くよー」
 今度はこの亀田と別れる必要がない。それだけで何か心強かった。二人で頷きあって、ボートの両ヘリから左右対称に背後に倒れこむ。さっきより海の水は暖かかった。
 さきほどエサをもらって満足したのか、サメ達は人懐っこく来本と亀田にくっついてきた。慣れているやつは鼻先を擦り付けてじゃれてくるものもいる。できるだけ離れないようにサメに囲まれ、時間いっぱい空気いっぱいサメ達と過ごす。また、きっと違う世界に来た。今度は無言で陸に戻った。
「来ちゃーん、ケータイはー?」
 1本目のあとと同様、亀田が店の中のチェックを始める。来本も、自分が思っていたよりもすんなりとケータイの電源ボタンに指をかけられた。
「ん……さっきと一緒だ」
「ホントだ。んじゃ、検索」
 ああ、とうなずいて検索を始める。彼女はこの世界にもいない。
「あらすじは?」
「さっきと全く一緒だ」
「一日に一回しか移動できないのかな」
「昨日は一回目の休憩でケータイ触らなかったから、確認はできないな」
 変わらなかったことも書いておけば何かの役に立つかもしれない。前のページの書き方に倣って、今確かめたことを記録した。
「一日一回かー……便利なんだか不便なんだか」
「まあまあ、とりあえず着替えてこの世界を楽しもうよ。とくに何も変わらないけど」
 変わって楽しめるものに一つだけ心当たりがあった。
「亀田。観るぞ」
「何を?」
「この世界の“F”だ」
「全部?」
「決まっているだろ」
「いや、でもほら、船とか機材とか片付けないといけないし……ああ、ロビーのテレビ使っていいよ。大きいから」
 亀田は来本の背中を押しながら、シャワー室に押し込んだ。
「来ちゃん早く観たいでしょ?ウェットとブーツ置いといてくれたら洗っとくから!!」
 亀田に逃げられた来本は、面白いのに、と少し不貞腐れながら蛇口をひねった。
 ネット配信がある世の中でよかった。レンタルしかなかったら、この田舎でアニメを確認する手段がなかったかもしれない。普段から撮影した映像の確認用として、客も自由にテレビを使うことができるようになっている。一つ一つのケーブルを確認しながら、ケータイに使えるものを探していく。一番小さいコネクタを端子に接続すると、テレビの大きい画面に来本のケータイの待ち受け画像が表示された。そこからは手慣れた動作でネット配信サービスにアクセスする。アカウントやラインナップは昨日、おとといとほとんど変わらないのに、彼女が出ている作品だけは何処にもなかった。
 テレビシリーズ1話から再生を始める。シリーズ新作が出るたび下馬評を確認してからハードディスクに録りだめしたものを一気に観るタイプだったが、今回は全く予想がつかなかった。ここまで新鮮に作品を見られたのは、初めてかもしれない。どんな評判でも、結局好きになるに決まっている。でも、やっぱり“F”が一番好きなのだ。変わりはてたテレビアニメ1話、主人公たちの紹介に割かれた日常パートに涙がこぼれた。
 ストーリーが進むにつれて、来本はどんどん夢中になっていった。亀田が店を閉める時間になると、テレビに接続したケーブルだけ引っこ抜いて、画面を見ながら家路についた。途中何度か転びかけた気がする。静かに玄関のドアを開け、自室に戻る。部屋には魔法少女のフィギュアと、偉大なる闇の魔法使いの眷属が並んでいた。昨日、目につくものをひっくり返して荒らしていたのが嘘のように、きれいな室内だった。

 徹夜でテレビシリーズと劇場版を一気見した来本は、寝不足ながらも満足そうに船に揺られていた。お盆休暇の最終日、帰ってからはゆっくりアニメを見られる。世界の変化が少し楽しみになっていた。
「行くよ。来ちゃん」
 マスク姿で頷きあって、海に入る。時間通りに来たご飯にサメ達も満足そうだった。一日一回。この瞬間に世界が変わる。サメの目隠しが取れても、海の中は変わらず穏やかだった。
「来ちゃーん、ちぇーっく」
 まだ3回しか潜っていないのに、雑になった亀田の号令でケータイを確認する。今回の待ち受けは、全国に群雄割拠するスクールアイドルのうちの1グループの集合絵だった。
「この中で来ちゃんが一番好きな子はー?」
 紫髪のゆるいおさげと、セミロングの赤髪を指さす。
「ふ~ん。こういうのがいいんだ~」
 にやにやしてくる亀田を肘でどついて、検索画面に切り替えた。変わらず彼女はいない。
「このショックにもそのうち慣れてくるのかな……」
「それでも、忘れられないんだったら、来ちゃんが覚えている限りまた会えるんじゃない?」
 シリーズの一覧から、入れ替わった作品を見つける。帰りの電車ではこれを観よう。
 2本目のダイビングは、世界が変わらない安心感からか純粋に楽しむことができた。サメにエサをやって、人懐こいものを撫でてやる。いつもより少し移動して、小さい魚を見に行ったりした。
「じゃ、行けそうになったらまた連絡するから。変わったことがあったら教えてくれ」
「わかった。来ちゃんも気を付けてね」
 しばしの別れになるが、いつもと変わらぬ様子で言葉を交わす。
「サメにエサをやってる間に、違うところに行っちゃってたらどうしよう」
「それは次に会ってのお楽しみだな」
 亀田の軽トラで駅まで送ってもらった来本は、その日の晩に東京のアパートに戻った。

 観ている間はどんなに楽しくても、一番と比べてしまう。金曜日、定時に会社をダッシュで抜け出して来本が新幹線に駆け込んだのは、あれから2週間後のことだった。
 実家の母は驚いていたが、なんとなく嬉しそうだった。見たことがない衣装やポーズのアイドルたちを感心の目で眺めながら、明日は彼女に再開できることを願って眠りについた。
 翌日、潜ってからケータイの待ち受けとシリーズ作品を確認したが、芳しい結果は得られなかった。今回は麻雀で切磋琢磨する女子高生が、来本を部屋で待っていた。

 9本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:セーラー服で戦う美少女戦士

 11本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:戦う美しい宝石たち

 13本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:国民的ロボットアニメシリーズの平和を愛する名家の歌姫

 15本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:数字のプロダクションのアイドル。天才肌の居眠り少女と大家族を支える頑張り屋さん

 17本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:記憶をなくした仮面の男を支える姉妹

 19本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:命を削りながら、知性を持つケイ素生命体と戦う少年少女

 21本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:電気鼠の国民的ゲームに出てくるエレクトリックシティのスーパーモデル

 23本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:ガールズバンド界のトリックスター

 25本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:アイドル界に革命を起こしたプロデューサーとのコラボレーション作品

 27本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:特別な能力をもつ思春期の少年少女が世界中の能力と不幸を消し去るために奮闘する作品

 29本目・キャラクター・作品名:ヒットなし 待ち受け:人気ゲームシリーズの巫女狐とガラスの踵のプリマドンナ

 潜り続けること半年、彼女のいる世界にはたどり着けずにいた。
 彼女を見ることができないのも十分ストレスだが、改変世界の作品をチェックしたときに似たような設定や観たことのある世界観が増えてきたことがじわじわと来本の精神を削っていった。退屈だし先も見えているのに、どこが違うかを確認するために集中しなくてはならない。射手座の彼女の誕生日を3か月も過ぎて、行き場のない思いが来本の焦りを加速させる。気分を替えようと背筋を伸ばすと、ログブックの山に手がぶつかりノートが机に床に散乱した。いつのものかは中身を見ないとわからない。パラパラと日付を確認する来本の目に、ありえないと思っていたものが映った。
 来本が求めているものとはだいぶクオリティが異なるが、来本自身がログに落書きした彼女の絵が残っていた。キャロルはいる。失ったものの大きさに涙が落ちてくる。こぼれた涙でインクがにじまないように、ログブックを大事に抱きかかえた。
 ほかにも彼女のいた証明となる落書きや、小ネタが書いていないか、日付を整理してから改めて読み返した。SNSのつぶやき、お気に入りはその世界の作品に準じたものに変わっていたが、ログブックに書かれているあらすじや、改変の記録を書き始めたころの微に細に行った感想は、改変の影響を受けていないようだった。これなら、彼女を忘れずにいられる。来本は彼女たちのことを一番新しいページに書き始めた。“超時空戦艦F”のあらすじ、登場人物、キャロルに至っては落書きをもとに精一杯のイラストを描いた。曲ごとに違う衣装、刺激的な歌詞、圧倒的なステージ。改変された世界に塗りつぶされていく記憶を守るよう、一筆一筆に魂を込めた。

 きわめて私的なものながら彼女の痕跡を見つけた来本は、次の週末に亀田に会いに行った。ログブックに彼女の記録が残っていたことをとにかく伝えたかった来本は、ライセンス講習を受けてから現在に至るまでのログブックすべてを紙袋に抱えてやってきた。
「何その大荷物?」
「メールで言ったろ。ログの中に落書きが残ってたんだよ」
「だからって全部持ってくる?これウェイトくらいあるじゃん」
 来本が必死に抱えて持ってきた紙袋をひょいと持ち上げる。
「広げてどっか行っちゃっても知らないよ~?」
 亀田は来本がいま使っているログブックだけを取り出し、あまり使われていない貴重品保管庫の一番上の段にしまう。
「見ないのかよ」
「変わってないんだったら上がってきてからでもいいでしょ?」
 着替えに時間がかかる亀田が店の奥に引っ込む。痕跡を見つけたいま、来本は無敵になった気分だった。
「じゃあ行くよ、来ちゃん」
 互いに頷いて、ボートのヘリから海面に背中から落ちていく。1年のうち、海水温が最も下がる季節。陸上での出来事からか、今日の海はなんだか一味違うように感じた。
 寒さで海中の食糧が減ったのか、サメ達は亀田たち二人を待っていたようだった。来本は空腹で気が立っているサメ達を刺激しないように、亀田のエサやりが終わるまで傍らでぼんやり眺めていた。ここ最近、二人でエサやりに来ているからか、小物たちが来本がエサを持っているんじゃないかと寄ってくるようになった。エイやブダイがのそのそと近寄ってくる。サメにまみれるのもなかなかすごいが、エイに囲まれるのもスリリングだった。白い顔に見える腹部を見せながらぐるぐると来本を取り囲む。そのうちの一匹が顔にぶつかって、来本から視界を奪った。

 外れてしまったマスクを取ろうと、口だけで深呼吸をしてから目を開ける。覚悟していた塩水の刺激も、ぼんやりと白い顔が舞っている光景もそこにはなかった。思わず鼻で息を吸い込んでしまい、むせることを覚悟したがそれもなかった。
 水色の空間。タンクの重みが陸上と同じくらいのしかかる。後ろに転びそうになるのを何とかこらえて周りを見渡すと、目の前に探し求めていたキャロル・ローズがそこに立っていた。ラズベリーブロンドのふわふわとした長い髪、晴れた空のように青い瞳。衣装がだいぶ和風というか、竜宮城みたいな着物に羽衣を付けているが、彼女の曲には演歌もあったので、違和感は感じなかった。それが、目の前に、実体を伴って立っている。情報量の多さに、陸と同じように呼吸できたことを忘れて、口にくわえたレギュレーターをシューシュー鳴らしていた。
「ちょっと、いい加減うるさいのよ!!呼吸できるんだからソレ、外してちょうだい」
 アニメのセリフとは違う。それでも100%キャロル・ローズだとわかる声、喋り方。胸がいっぱいになって、こみ上げたものをキャロルが遮る。
「いつまでアタシを探す気?いい加減あきらめなさいよ!!」
 彼女はキャロルであってキャロルでない。来本は我に返った。
 きちんと話をするために、来本は座って機材を取り外し始めた。その様子を見たキャロル(仮)が淡々とどこかに向かって呼びかける。
「蘭亀ちゃん。手伝ってあげなさい」
 ほかにも誰かいるのかと周りを見回したが、魚がフヨフヨと浮いているばかりで手伝ってもらえそうになかった。ここには亀田もいない。それなのに、誰もいないはずの背後から、「はいっ!!トヨヒメさま!!」と知らない少女の元気な声が聞こえた。
「ほら、来ちゃん。またベストゆるめ忘れてるよ。これやっとかないと、また着るときに時間かかっちゃうんだから」
 来本の右側から、高校生くらいの緑髪の少女がひょっこりと顔を出した。超時空戦艦Fに出てくる“アンナ・ルー”にそっくりだった。それにしてもこの呼び方と、ベストを脱ぐときのクセ、知っているやつは一人しかいない。
「お前……亀田なのか?」
「えへへ、びっくりした?」
 おそるおそる訊ねた来本の緊張感を吹き飛ばす無邪気な返事、彼女は紛れもなく亀田だった。
「ずっと黙ってて……ゴメンね?」
 来本よりも長身で、仕事柄よく日に焼けた肌。潜りすぎて少しだけ傷んだ髪。タンクを両脇に二本ずつ抱えられる筋力。タンク一本で3~4回潜れる肺活量と、それに比例した大きな声。自分が知っている亀田とはあまりにもかけ離れた姿に、言葉を失う。
「蘭亀ちゃん。アナタ甘やかしすぎなのよ。アタシのいない世界に連れて行くだけでいいって言ったじゃない」
「ごめんなさい……でも……」
 蘭亀(亀田)が両の人差し指をつんつんと合わせながらうつむく。叱られてショックだったのか、耳が少し赤い。しょんぼりしている友人も気になったが、トヨヒメの言葉が来本の頭にこびりついた。
「“アタシのいない世界”……?どういうことなんだ?」
 トヨヒメと蘭亀を交互に見遣る。呆れたような表情で、トヨヒメが口を開いた。
「アナタが生活している世界だけでも、いろいろな所がある。それはもう体験したでしょう?」
 頷く来本、蘭亀が嬉しそうに続ける。
「トヨヒメ様はね、世界の色んな境界を管理しているの」
 つまりあれか、神様的なやつなのか。
「日々のメンテナンスもアタシの仕事。生垣と電信柱のスキマとかによく繋がっちゃうのよ。あの男に会ったのも、そういうところを修繕していた時だったわ」
 あの男というのはつまり、来本は息をのむ。
「スキマを塞いでたら、あの男と目が合ったのよ。人間と目が合うなんて久しぶりだったから一瞬固まっちゃったけれど、それでもすぐに塞いだわ。なのに、あんな一瞬目が合っただけなのに、あのコーモリって男、あそこまで大ゲサなアニメを作るなんて……!!」
 あの男とは、やはり来本が敬愛してやまないコーモリ監督だった。トヨヒメは悔しそうに片足で地団駄を踏んでいる。
「わたしもね!!トヨヒメ様が固まってるからどうしたんだろう?って穴の向こう側を覗き込んだの。そしたら一緒に……」
 蘭亀はトヨヒメにあこがれているようだった。一緒にモチーフにしてもらったのがうれしかったのだろう。顔の横の髪の毛がピョコピョコと弾んでいる。見た目だけではなく、二人の関係性すら見抜いて作品にした監督に来本は心からの感謝を送っていた。
「やっぱり、自分たちが使われたら気になるのか?」
「そりゃ気になるわよ。くだらない作品なんかにアタシたちを使ったら、マンホールからあいつを攫ってサメのエサにしてやろうと思ってたんだから」
 神様である分、スケールがでかくて恐ろしいが、なんとなくキャロルが言いそうなセリフだった。彼女は監督をサメのエサにしなかった。ということは、彼女自身もそのクオリティを認めているのだろう。感想が気になった来本は、ドキドキしながらトヨヒメに訊く。
「それで……作品はどうだった?」
「アタシも仕事が違うとはいえプロよ。一流の仕事がわからなくてどうするのよ」
 トヨヒメは悔しそうに続ける。
「アニメなんて……アニメなんて1~2年で旬は過ぎて徐々に忘れられていくモノでしょう!?なのに何なの?作品10周年って。しかも地上の探査に遣わした蘭亀ちゃんに嬉々としてアタシの絵を見せてくるやつまで出てきたのよ!!ただでさえ人間に見られてネタにされているのに、その上アニメなんて……!!」
 人間に見られたのは悔しかったがプロ意識ゆえに作品を否定することはできず、忘却されるのを待っていたトヨヒメに火をつけたのは来本だった。蘭亀が亀田だったとき、キャロルだけじゃない。超時空戦艦Fの画像を見せたり、来本がその作品への愛を語っているのを嬉しそうに聞いていた。蘭亀はトヨヒメとお揃いで嬉しかったのだろう。女神の機嫌を損ねぬように気を付けてはいたが、彼女のことだ、何かのはずみでバレてしまったに違いない。
 ということは、来本の世界からキャロルを消したのは、来本自身、ということになる。
 作品への愛からとはいえ、自身の軽率さに打ちひしがれた。しかし、誰が友人が神の眷属であるだなんて考えるだろうか。自らの過ちを確認するかのような、やっとのことで声を絞り出してトヨヒメに尋ねる。
「俺が……俺が蘭亀にキャロルの画像を見せたから……だから、世界を変えたのか?」
「当り前じゃない。これ以上、恥ずかしい思いはもうカンベンだわ」
 せいせいとした口ぶりで、来本の世界を変えた理由を語りだす。
「あの作品に、アタシに思い入れのある人間が減っていけば……それは、そのうちなかったことになるわ。だからあの世界から特に思い入れの強そうなヤツを間引いたのよ。みんな最初の数日はアナタみたいに頑張ったわ。周りに作品の存在を訴えて病院に連れていかれたヤツ。無いなら無いで作ってやろうと意気込んで、自分に都合のいい展開で話を破綻させて筆を折ったヤツ。いろいろ視てきたわ。それでもそんなに粘ったのはアナタだけだったわ。アタシの蘭亀ちゃんが優秀にサポートしてくれてたからでしょうけど」
 最後にじろりと蘭亀を見る。反省はしているのだろうが、思っていたよりも根に持たれていて蘭亀はタジタジだった。しかし、蘭亀がトヨヒメ側の人間(?)であったことで、今回やたら見せた冴えに納得することができた。本来ならば、シラを切ってあきらめさせるのが彼女の役割だったのだろう。しかし、怒ってキャロルことトヨヒメが出張ってくるまで、助けてくれた。そこまでする動機は何だったんだろう。
「亀じゃない……蘭亀、なんで俺のこと助けてくれたんだ?」
「だって……来ちゃんとわたし、友達でしょ?」
 耳まで真っ赤にして答えられると、来本も恥ずかしい。最初から怒る気はなかった。ただただ、一緒にいてくれた友人に感謝した。
「その……あんたの嫌な部分に触れたのは悪かった……と、思う。けど、それでもあの作品は素晴らしかった。探し続ける価値はあったんだ。まさかモデルになった人?……カミサマに会えるとは思ってなかった。俺は、世界で一番幸せなファンだと思う。あんたを……あの作品を追いかけるのはもうやめる。俺だけの記憶にとどめる。だから、その代わり、あんたの絵を描かせてくれないか?」
 来本が彼女を追い求めるのをあきらめる代わりに求めたことは、世界の改変を逃れられるログブックに、その姿を永遠にとどめておくことだった。
「これが最後よ……こんなサービス滅多にしないんだからね!!」
 蘭亀はトヨヒメの眷属だけあって、この空間と地上を行き来できるのだろう。来本の目の前にぽっかりと開いた穴に飛び込んで、同じところからぴょんと出てきた。ログブックとボールペン、子供が使うような色鉛筆まで、来本に悔いが残らないように蘭亀なりに配慮してくれたのだろう。ログブックの見開き2ページを余すことなく使って、来本はトヨヒメを描いた。彼女の不思議なラズベリーブロンドの髪を描くのに、蘭亀が持ってきてくれた色鉛筆が大活躍した。来本の絵の出来を確認しようと覗き込んだトヨヒメが満足そうに、来本からボールペンを奪い、ショップ・インストラクターのサイン欄に署名をしてくれた。漢字よりももっと古そうな字に、達筆があわさって、正直何が書かれているかよくわからなかった。
 この場に何時間いたかはわからない。海に戻ったら真っ暗で、夜行性のサメ達にどつきまわされるのだろうか。
「今回だけは特別よ。そこの横穴から船に戻りなさい。荷物を忘れないようにね」
「ありがとう。あと、なんか悪かった」
 もっと言いたいことが出てきてもおかしくないはずだが、それ以外の言葉は思いつかなかった。
「蘭亀ちゃんに友達ができたっていうから、どんなヤツか一目見てみたかったの。アナタが悪いヤツじゃなくってよかったわ。これからも仲良くしてやってね」
 来本があきらめることで、怒りも収まったのだろう、最後にトヨヒメは微笑んだ。見るものすべてを魅了する美しさ、時空の妖精という呼び名を考えた監督は、やっぱり天才だと思った。

 来本と蘭亀が船に戻ってくると、辺りはすっかり暗くなっていた。異空間にいた時と同じ見た目の蘭亀が心配になる。
「お前、その姿で大丈夫なのか?」
「来ちゃんにかかってたフィルターがとれただけ。普通の人には、ちゃんとマッチョの亀田が見えるようになってるよ」
「今までもそうだったのか?」
「うん。隠しててゴメンね」
「いや、なんか難しい立場だったのに、友達でいてくれてありがとう。蘭亀が一緒じゃなかったら、きっとあきらめてたと思う」
 蘭亀が嬉しそうに鼻歌を歌いながら舵を取る。その歌声は、アンナ・ルーそのものだった。
 船を桟橋につけて、荷物を運ぶ。少女の姿になっても、蘭亀は軽々しくタンクを持ち上げて運んでいく。そもそもが人間とは異なるのだろう。その現実に少しさびしさを感じた。
 着替えを済ませ、料金を支払いにカウンターまで行くと、蘭亀は頬杖をついて月を眺めていた。ドアが開いた音に反応して、寂しそうに来本に話しかける。
「さすがに……こんなことになっちゃったし、来ちゃんの目的も達成したし、ここにはもう来てくれないよね……?」
「俺があきらめたんだから、もう世界は変わらないんだろ?いままでよりは頻度が落ちるかもしれないけど、絶対にまた来るよ」
「うん、待ってるね!!」
 月よりも眩しい笑顔で蘭亀は来本を見送った。

 トヨヒメに会うまでの間、ダイビングを楽しめなかったこともあり、来本は月に1回くらいのペースで蘭亀の店に通っていた。キャロルの捜索をあきらめたことで、サメに囲まれるたびに起こる世界の改変もなくなった。もう、待ち受け画像や部屋のフィギュアが勝手に変わっていたり、自動変換機能がリセットされることもなくなった。そんな来本の待ち受けは、あの異空間で描いたトヨヒメになっている。その存在を失うことはもう懲り懲りなので、このことは蘭亀と来本だけの秘密だった。潜る以外にも、二人で街に遊びに行ったりするようになった。あの日から、本当の友達になれた気がしていた。
 水温もすっかり温まってきて、ウェットスーツでもいいかなと思い始めた時期、すっかりクセになってしまったダイビング後の待ち受けの確認を始める来本の手が止まる。
「なんだこれ」
 SNSやブログの通知がたくさん来て、潜る前は100%あった充電がもう20%を切っている。確認しようにも、通知に次ぐ通知がポップアップと画面上部に垂れ下がってきてロクに確認もできない。はあ、と短くため息をつき、電源ボタンを長押しして強制終了する。壁際に垂れ下がっている充電ケーブルから、自分の機種に対応したものを選び、コンセントにつなぐ。1本目の片づけを終えた蘭亀が戻ってきた。
「来ちゃん、どうしたのー?」
 相変わらずの能天気な声に、本音も漏れる。
「帰ってきたらなんか通知が止まらなくって……目覚まし止めてからロクにいじってないのに残り15%。確認しようにもポップアップが湧いてきて、なんも見れやしねえ。電源切って充電することにしたわ」
「わたしのケータイで見てみようか?」
 蘭亀のケータイから、来本のアカウントを確認する。どうやら必死にログブックにいろいろ書いていた時に、ウェブ上でどの程度改変が起きているか確認するため、同じ内容を書いて人知れず投稿していたブログがバズったらしい。世間になにが響いたのかはわからないが、いきなりケータイが使えなくなるようじゃ、とんだ迷惑だ。
「なんかすごいねぇ」
 他人事の蘭亀がコメント欄をスクロールしていく。偶然指を止めたところで、人差し指の横から水色のベースに白抜きのチェックマークが顔を出した。
「誰だ。誰からだ」
 これには来本もミーハー心を抑えられない。蘭亀の指をどかして見た名前に、来本はその場で腰を抜かした。コーモリ監督の企画展の公式アカウントで、監督本人から直々に引用コメントをいただいていた。これはなんとしても自分のケータイで確認しなければならない。通知に負けず、通知の設定を切る。バズるということは、良いコメントも悪いコメントもそれなりに受け止めること。確認する勇気が出なかった来本は、蘭亀を急かして、2本目のダイビングに向かった
 海水で頭を冷やしてそれなりに冷静になった来本は、再びケータイを手に取った。コーモリ監督のコメントを最初に確認する。内容は、ここまで細かく見てくれてうれしいということだった。彼に悪いところを指摘されては生きていけない。来本は一安心した。
 拡散やお気に入りの通知は止められた来本は、ダイレクトメッセージの存在を忘れていた。偶然目に飛び込んだ通知に促されるままメッセージを開き、さらに信じられない物を目にした。
「蘭亀!!監督が!!コーモリ監督が、キャリア40周年の企画展に来てほしいって!!直接案内してくれるって!!」
 興奮状態のまま、桟橋までやってきた来本をなだめると、着替えを促した。
「来ちゃん、落ち着いて。潜るどころじゃなくなっちゃったみたいだから、今日はこの辺までにして、もう着替えてきたら?」
「ああ、すぐに返信したいんだけどなんて書けばいいのかわからないから手伝ってくれ。ロビーで待ってる」
 早口で言い終えた来本は、蘭亀のもとに来た時よりも足早にショップに戻っていった。待っているであろう来本のためにできるだけ早く着替えて、自身の機材をとりあえず水に漬けてロビーに戻った。待っている間にいろいろと文章を考えていたのだろう、来本は頭を抱えて机に突っ伏していた。
「それで?監督のメッセージはなんて?」
 救いを求めるような目で蘭亀を見上げ、自身のケータイを差し出す。内容はファンである来本への感謝と、企画展への招待と、それを来本の目線でレポートしてブログに書いてほしいというものだった。監督へのあふれんばかりの思いが来本の思考を逆に鈍らせているようだった。そんな様子がかわいらしくて、蘭亀はからかうように解決法を示した。
「来ちゃん、何のために会社行ってんのー?まずは失礼なヤツって思われないようにしないと」
 ああ、と大きく息を吐いて来本はメッセージの返信に取り掛かる。途中不安になったのか、蘭亀のケータイのブラウザからビジネスメールの構文や敬語を何回も検索した。たった数行の文章を何十回と確認して、メッセージの返信が完了したのは夕方だった。
「よし、大分固くなったけど、失礼はないだろう」
「どれだけ確認してたのー?もう夕方だよ」
 窓から射す夕陽を見て、時間の経過にびっくりする。
「まだ1時間くらいのつもりだったんだけどな……すっかり陽も高くなったな」
「ほら、着替えておいてよかったでしょ?」
「ああ、今日もありがとな」
 来本が椅子から立ち上がる。
「ねぇ来ちゃん。本当に監督の企画展行くの?」
「ああ」
 来本に迷いはなかった。来本が監督とつながることで、もうここには来なくなるような気がした。蘭亀も立ち上がって、店の入り口まで出る。
「あのね、来ちゃん。わたしね……ずっと来ちゃんのこと……」
 見たことがない蘭亀の表情に、来本は今になって、彼女の思いに、来本を助けた動機に気が付いた。しかし、来本はそれに応えることができない。どうすればいいのかわからない来本は、超時空戦艦Fの劇場版のシーンを連想した。蘭亀を抱きしめる。
「蘭亀……すまない……俺は……」
「うん、わかってる。頑張ってね。来ちゃん」
 蘭亀に言葉を遮られ、これ以上何も言えなかった来本は店を後にする。振り向くと、蘭亀がアニメのキャラクターと同じ、右手の人差し指・親指・小指を立てた「ピカッ」のサインを返してくれた。
 蘭亀の予想通り、来本が『魚々瀬-ナナセ-』に訪れるのは、この日が最後となった。

 突然の監督のメッセージから数か月が経った蒸し暑い日、来本は会議室のようなところでお茶を飲んでいた。コーモリ監督のキャリア40周年の企画展。ついに、生の監督に会えるのだ。失礼があってはいけないと早くに家を出た結果、予定の時間よりもだいぶ前に到着してしまい、こうしてスタッフの控室となっている会議スペースで一人、出されたお茶を啜っている。伝えたいことをまとめた紙は、乗り換えの途中でポケットからいなくなっていた。来本を支えているのは、トヨヒメが書かれたログブックだけだった。
 不安のあまり立ち上がってウロウロしている最中に、ノックもなしにドアが開く。控室にやってきたのはコーモリ監督ご本人だった。あ。と口を開けてから、うまく声が出ない。とりあえず90度くらいのお辞儀をする。椅子の背が額を掠った。
「こんにちは、来本くん?待たせちゃったね」
「こ、こんにちは」
 監督に話しかけてもらえて、ようやく言葉が出てきた。
「メッセージではやり取りしてたけど、こうして会うのは初めましてだね。改めまして、コーモリ マサハルです」
「く、来本永利ですッ」
 声が上ずる来本に、監督は微笑みながら名刺をくれた。混乱して会社の名刺を出そうとするのをやさしく止めて、座らせてくれた。正面ではなく、隣。
 監督は、来本が思っていたよりもブログを読んでくれた。意図したことに気が付いてくれてうれしかった。今日のこのやり取りがブログになるのが楽しみだなんて世間話をしてくれているうちに、ハイ、イイエ、トンデモナイ、アリガトウゴザイマス以外の会話もできるようになっていた。ようやく緊張がほぐれてきた来本は、きちんと自分の言葉を伝える。
「こうして実際にお会いして、何を言えばいいのか……伝えたいことをメモにまとめてきたんですけど、途中で失くしてしまって……」
「言いたいことは、ブログから受け取りましたよ」
 あれだけのブログを書いたのにメモまで用意してきたのかと、監督は笑った。ひとしきり笑ったところで、監督の顔がフラットになる。急激な変化に来本も真剣な顔になる。
「僕が今日君を呼んだのはね、君がブログに書いていないことを聞きたかったんだ。あれだけ熱心に見て、微に細に嬉しい感想をくれた。でも君の中にはそれ以外にもあると思うんだ」
 思ったことは確かにある。ただし、ダイビングをするたびに世界が変わるという特殊な条件下での話だ。さて、これをどう濁すか。大好きな監督に嘘はつきたくない。
「感想はノートに書いています。そこから色んな感想を膨らませたり、考察をして、ブラッシュアップした文章をブログに載せています」
「今日それ持ってきてる?」
「はい」
 しまった。条件反射で正直に答えてしまった。あるといった以上、出さないわけにはいかない。おそるおそるログブックを監督に差し出した。
 はじめは出されたログブックに戸惑い首を捻りながらページをめくっていた監督だったが、フリースペースに事細かにアニメの感想が書かれているのを見つけると、1ページ1ページを真剣に読み始めてくれた。ほぅとか、ああ~とか、時たま声が漏れてくる。これを読み終わった監督は何を語るのか、来本は生きている心地がしなかった。
 やがて、監督のページをめくる手が止まる。「これは?」と差し向けられたのは、見開きのページいっぱいに書かれたトヨヒメだった。
「その……これを読んでる間にもわけがわからない部分がいっぱいあったと思います。これからするのも……その夢みたいな話で、監督にどう伝えればいいのかわかりません。途中で頭のおかしい奴だと思われてもかまいません。それでも、最後まで聞いてもらえないでしょうか……」
 来本の必死な様子につられて、監督も真剣な表情で頷いた。来本は夢みたいな、駆け足で過ぎていったここ1年近くの出来事を順番に話した。
 世界の改変、監督と目があったトヨヒメ……途中で飽きて机に肘をついて居眠りされるんじゃないかと思っていた来本は、監督の食いつきぶりに目を見張った。
 来本を制止した監督は、壁にかかっていた自身の企画展のポスターからスタッフへの注意書きまで、紙という紙をすべて机に集め、来本からペンをひったくってすべてを記録しようとペンを走らせる。トヨヒメの異次元ワープはとくに面白かったらしく、ただ何となく通っただけの来本は監督からの質問に答えられなかった。この日、来本だけでなくすべての関係者への案内をキャンセルした監督は、施設の閉館時間まで来本を質問攻めにした。他のログブックも読みたいという監督たっての要望に画像データを送る約束をしようとしたが、熱が冷めない監督はわざわざ来本の家について来て、朝までログブックを読み漁った。不思議な現象に目を輝かせ、ログブックを読んでいる姿は少年のようだった。

 監督という嵐が過ぎ去ってから3日後、登録したばかりの監督から着信が来た。仕事よりも大事な電話に席を立って受話ボタンを押した。
「この前の来ちゃんが忘れないように書いてた内容と、不思議な話をブラッシュアップして上に出したら企画にオッケーが出たよ!!」
 自分の与太話から企画を出されることなど露ほども考えていなかった来本は、しばらく口をあけたまま絶句していた。監督自身も次回作のアイデアに煮詰まっていたものがあり、マニアの意見を聞いてみようと思って呼んだ人物がアイデアの塊だった。というようなことを話している。耳もアタマもうまく働かない。
「それでね、来ちゃん。構成とか脚本やってみない?」
 2番目の衝撃に来本は「はい!!やります!!ありがとうございます!!」と反射で返答していた。
 監督から電話が来た日から、来本の夢のような忙しい日々が再開した。仕事の傍ら、企画の打ち合わせや会議に参加して、監督とともにコンテから脚本を起こしていく。初心者ゆえに、躓くところはあったが、あの作品をも言う一度見ることができる。それだけを糧にひたすら走り続けた。

 企画から3年。超時空戦艦シリーズ40周年記念作品として“超時空戦艦F”は再び世に出ることになった。シロバコのオープニングアニメーションに流れる映像を眺めながら、脚本家の名前は自分と同姓同名だなぁ……なんてことをぼんやり思っていたことを思い出した。

文字数:23894

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