オルタナティヴ・ミミック

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梗 概

オルタナティヴ・ミミック

”アレックスは迷っているらしいの。ああ、つまり、ボディは私なんだけれど。”
”メンタルテストを受けろって? 別に構わないけど、どの『僕』で受けたらいいんだい?”

諜報用に造られたヒューマノイド、アレックスは混乱していた。彼はスパイ用としていくつかの機能を有していた。金属探知機に反応しない特殊なボディ、Tシャツ1枚の手ぶらの状態でも、眉一つ動かさずに録音、撮影、通信傍受ができる機能性。まったくの補給なしでも連続で2週間動き続ける耐久性。
 なにより特筆すべきなのは、さまざまな人間に偽装ミミックできる人格の多様性だった。アレックスの主人格は白人の若者だが、学生、浮浪者、女性、老人に至るまで、さまざまな人格に変わることが可能だった。(全身骨格も多少は変形可)。また彼は今までのロボットにはない複雑な演技行動が可能であり、任務のためなら製作者にすら嘘をつくような、柔軟な思考が特長だった。

 しかし、あまりにも多くの人格に変わり続けたせいか、アレックスは徐々に主人格の維持が難しくなってしまう。演技行動による負荷ストレスを受けると、彼は逃げるように別の人格へと変わっていった。変わった人格はそのストレスを受けたことを忘れており、実際はメモリに負担を負いながらもその記憶を隠し続けていた。
 アレックスのなかには、いままで任務でなり替わってきた人格たちが同居していた。元彼から情報を引き出した寂しがり屋のジュリア、アレックスを嫌う攻撃的な男ウォルター、ハニートラップを行った強気なカレン、そして自分を人間だと信じて疑わない少年ソラ。

アレックスはメンテナンスのため、自身が製作された場所である、東南アジアのロボット研究所で療養していた。彼は負担軽減のため、電脳内にいる副人格のひとつ、ジュリアが消去されることになる。しかし、そのおかげで彼の電脳に障害が残り、アレックスの人格だけ声が出なくなってしまう。製作者たちは途方に暮れ、彼の廃棄処分も視野に入れる。

アレックスの中の人格たちは、はじめは自分たちが消えていなくなることを拒み、アレックスの人格を押し退けようとしていた。しかし、アレックス本体が廃棄処分になってしまえば、自分達も一緒に消されてしまう。彼らはアレックスをかばうように入れ替わり、攻撃的なウォルターでさえ、アレックスのストレスを発散させるための人格になった。
 アレックスは悩み続けた末、自分の解離性障害が、いままでのスパイ任務で、副人格の彼らを利用し続けてきた罪悪感から来ていることに気づく。アレックスは彼らに心からの謝罪を行う。カレンたちは、自分たちがすでに任務を果たしていること、また自分たちがアレックスの負担になっていることに気がつき、消滅していく。

解離性障害は治療したアレックスだったが、すでにスパイ型ロボットとして稼働できるだけの力は残っていなかった。アレックスは次世代のスパイ型ロボットのために、ストレスから守るため、そのロボットの副人格として生きるよう決意する。アレックスの意識が次に目覚めたときには、ぼんやりとした意識の向こうに、はっきりと次のロボットの意識が動いていた。

文字数:1297

内容に関するアピール

前回、『映画のどんな役でもできる役者AIたち』の話を書きました。が、AIの中身がころころ変わっても、読んでる側はあまり楽しくないのではというのがあり、結局、役はひとりひとつずつで書きました。
 一人称だと楽しいかなと思い、多重人格AI、それが役に立つスパイロボットを考えました。
 
・実作では、冒頭のようにすべてアレックスの中にいる主・副人格の一人称で書き、場面が変わったところで交代する予定です。一人称としては少しずるい気がしますが…。人格が消滅していくところ、ラストシーン、人格が変わると見せかけて次のシーンでも同じ人格、も面白いかもしれません。

参考文献:

『なぜ人工知能は人と会話ができるのか』 三宅 陽一郎 マイナビ出版
『実録 解離性障害のちぐはぐな日々』 Tokin 、岡野憲一郎
『解離性障害のことがよくわかる本』柴山雅俊 (監修)

 

文字数:363

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オルタナティヴ・ミミック

 

 1
 
 朝ベッドで目覚めるときは、たいてい意識は『私』になっています。
 なぜでしょう。一度研究者に聞いたことがあるのですが、人もロボットも、やはり朝に起動するのはエネルギーがいるそうです。単に、『彼』が朝は苦手なんじゃないの、と冗談めかして言われたこともあります。朝の準備をあなたに押しつけてるんじゃないの、なんて。
 そもそも、本来このロボットの体に睡眠は必要ありません。稼働の必要がないときに休息をとるロボットはいますが、私はそれに該当しません。むしろこのロボットは、途切れることなく連続で任務に当たれることが長所でした。
 いま、『彼』とこの機体はひんぱんに休息を必要としています。治療プログラムを流し、調整する必要があるためです。
 ベッドから降りて、少しだけ部屋の確認をし、洗面台で顔を洗います。クローゼットから、動きやすいTシャツとジーンズを取り出して、長身の体に身に着けます。このボディ、スタイルはやけにいいので、服装は適当でもいいのです。
 そのあと、私は鏡台に座ります。鏡に映っているのは、中性的な顔立ちで、身体は女性の白人です。ブロンドはベリーショートで青い瞳、ボーイッシュな女性に見えなくもありません。私としてはもっと髪を伸ばしたいのですが、わがままも言えず、これからせめてもの抵抗をします。
 朝は時間をかけてメイクをします。ロボットであるこの体は朝食を摂る必要もないし、トイレに行くこともないので、やることがないのです。(新陳代謝もないんですって)。あまり派手なメイクをすると、男性たちに嫌がられるので、我慢しています。このお肌は特殊な素材で、数年に一度は貼り替えるのですが、やはり乾燥したりシミができたりします。いつも私が朝に目覚めるとは限らないので、入念にしておきます。
 化粧台の上にある、無数のメイク道具を手に取っては置き、まるで自分の顔の上で料理をしているようです。アイラインと薄いリップをひいて、ピアスとチョーカーをつけて、鏡で全体を確認します。
 少し自分好みにしすぎました。また男性たちに怒られそうです。
 自室から出ると、東南アジアの暑い日の光が窓に射しています。建物は病院のような真っ白なつくりですが、外は対照的に、緑とアスファルトと日光が全てです。
 研究室を訪ねると、アジア系の女性研究者が端末のキーを叩いていました。マキは私の姿を見て手を振ります。
「グッモーニン、ジュリア。どう、当たってるでしょ?」
 私はうなずきます。マキは私たちの名前を当てるのが得意です。私の表情やしぐさ、歩き方から全部わかるんですって。
「他の子たちもね。アレックス、カレン、ウォルター、ソラちゃん」 
 彼女は律儀に私たち全員にあいさつします。一応、マキは私たちのメンタル主任担当者です。私は少し考えるふりをして、微笑みます。
「たぶん、みんな元気です」
「それは良かった。今日のあなたのメイク最高」
 こんな反応を返すのも、皆の中では私だけのようです。普通の人は、自分以外の名前をたくさん呼ばれると、気持ち悪がります。
「今日は10時からC-202で対人プログラム。それまでは特に予定ないから、散歩でも行ってらっしゃい」
 彼女に言われて、私は連絡通路に出ます。訓練が始まると私の出番はないので、いまのうちに生活を満喫しておくのです。本当は外に出歩きたいのですが、暑すぎるのでやめておきます。この研究所はどこも窓が大きいですし、室内だけでも十分広いので、特に困ることはありません。
 外の景色を眺めながら所内を散歩していると、多くの人が声をかけてくれます。たいていは私の名前すら知らない人たちです。この研究所は服装は自由ですが、やはりラフすぎる格好の私は少し浮いています。
 少し遠出していると、廊下の向こうから男性の職員が手を振っていました。
「やあジュリア、会えてうれしいよ」
 この職員は、私のプロジェクトには参加していないのですが、私をよく目にかけてくれます。そもそも私のボディは機密性が高くて、ロボットだというのも、ほんの数人しか知りません。ましてや変な能力があるだなんてばれてしまったら、仕事ができなくなってしまいます。
「ジュリア、今日は空いてないかい? とてもおいしいコーヒーが手に入ったんだけど」
「ごめんなさい、今日は訓練で忙しいの」
 それは残念、と男性は肩をすくめます。表情は笑っていますが、本当に残念そうです。
 私は、データが不明の人に対して反射的に距離をとってしまいます。それは私の元の性格だからか、ロボットとしての特性なのか、わかりません。
 そもそも「私」、ジュリアなんて人間は、この世にいません。すべて、『彼』が作り出した仮想の人格だからです。
 
 電脳内のシステム時刻を見ると、訓練まであと少しの時間でした。私は指定された部屋に行き、扉の前で目を閉じます。訓練するのは私ではなく、『彼』だからです。
 
 
*** 
 
「ハロー、初めて見る顔ね。あなたどこから来たの?」
 テーブルの向かいに座ったカウンセラーのマキが、あたしに向かって尋ねてくる。対人仮想訓練ロールプレイングのときの彼女は、いつもなめらかに一般人になりきる。
「イギリスから、仕事でね。先週来たばっかり」
 あたしは何のためらいもなく嘘をつく。一応、あたしもロボットのうちに入るのだけど、この嘘をつくのにはなんの抵抗もない。頭に自然とシナリオと設定が生まれてくる。
 あたしは電脳の内部カメラを呼び出して、自分の顔をそこに映した。ちょっとお疲れぎみの白人がそこにいる。あたしはもっと濃いめのメイクが好きなんだけど、この脳内にいる男どもがうるさいからあんまり派手にはできない。今日のジュリアのメイクの出来はそこそこだ。
 あたしは自分の指先を見る。このボディは男女両方に変わることができて、いまはもちろん女性モード。筋肉の付き方も変わるし、胸も性器も変わる。変装するにはまず身体からってこと。
 つまり、このボディの本当の主人格は、男だ。

〈Al:Alex 〉
 諜報型自律性機体。これが、このボディの持ち主、アレックスにつけられた裏の名前。

 表向きは、より人間らしい、多様的な振る舞いを目指すために造られたロボット、ってことになってるけど、実用面では本当にスパイをやってる。
 アレックスはTシャツ一枚の格好で、目を閉じたままでも秘撮、録音、通信の傍受ができる。秘撮ってのは、ようは隠し撮りのことね。おまけにボディは金属探知機にも反応しないから、まるっきり人間を装える。
「お仕事? どんな?」
「コンピュータ系の打ち合わせでね。明日には帰っちゃう。イイ男も見つけに来たんだけどね。まあ、あたしは女でもいけるけど」
 このご時世、ヒューマノイドはそこそこ見かけるようになってきたけど、やっぱり人間らしさの面ではまだまだで、どこか不自然さが残る。そのうえ、スパイなんて人を騙して(あるいは隠れて)なんぼの世界だから、違和感なんてあっちゃいけない。そのためにアレックスは、いろんな人間の人格を頭のなかに用意して、必要に応じて人格変更ミミックができる能力を持った。
 あいつは、そうしていろんな人格を頭に宿して、偽変してきた。偽変ってのは要するに変装のことで、それで今まで何人にも変わって、何十人もだまして仕事してきた。
 だから、アレックスは2カ月前にぶっ倒れた。
 任務先のホテルで倒れたみたい。ボディやソフトウェアが一定の損傷をすると、自動的にエマージェンシーが出るようになってたから、すぐに研究員に連れ戻されたんだけどね。任務中に倒れてたら、いまごろスパイたちにバラバラに分解されてたかも。 
 ついでに言うと、彼、つまりあたしのボディには、自爆するモードだってある。当然だ。任務の秘密が漏れたらアウトだし、何よりこのボディ自体も機密性が高い。データが復元されないよう、完全にメモリを消すモードもある。
 いまは、アレックスが誕生したこのロボット研究所で療養している。現場復帰を目指して。
 いろんな人格をとっかえるなんて、そんなの長くは続くないって思うでしょ。案の定、アレックスは自己アイデンティティを失って、倒れたわけ。あいつの頭の中、つまりあたしのこの頭の中には、4人もの副人格が同居してる。
 一番おちついてる人格のジュリア、バカ男のウォルター、いつも泣いてる男の子のソラ、それからあたし。

 パン、パン、とマキは手を叩いて、訓練の終了の合図を出した。あたしの顔を覗き込む。
「……あなたは、アレックスじゃないわね」
「ぜーんぜんちがう。あたしはかわいいカレンちゃんのまま」
 あたしは指を振って笑う。マキはやれやれと首を振る。
 この時間帯、訓練するのは本当はアレックスのはずだった。ジュリアからキューを受けて表に出たのは、なぜかあたしだった。
 訓練していればそのうちアレックスが出てくるかと思って、試していたけど、あいつが表に出てくる気配はない。あたしが演技の練習をしてもしょうがない。このボディを操るのは、あくまでもあいつだからだ。彼も、あたしのパーソナルを継承すれば、こんな演技は簡単にできる。
「あいつさあ、最近変わりすぎじゃない? ほとんど出てきてないでしょ。訓練しなくていいの?」
 あたしはこめかみを指でつっつく。
 あたしは、ほかの人格が体験した記憶を、全部持っているわけじゃない。さっきだって、ジュリアにいきなり呼び出されて、(正確にはなぜかあたしが出るはめになって)、気がついたら訓練室の部屋の前にいた。必要なときは、他の人格の記憶は参照できるけど、これにはその人格の許可が必要で、たとえば任務中の秘密なんかは教えてくれない。おそらく、主人格のアレックスは、すべての人格の記憶を保持しているだろう。
 マキは一瞬だけ表情を固くして、眉をひそめた。
「アレックスは何か言ってないかしら。ほかの子たちは?」
「なんにも。最近あたし、あいつと会話もしてない。あたしたちばっかり外に出てる」
 指でぐりぐりとこめかみを突く。これは他の人格たちに聞いたから、おそらく当たっている。「カレン、アレックスはたぶん疲れてるんだと思うわ。あなたたちは気にせずに、生活を楽しめばいいと思う。休んで負荷ストレスを下げるのも立派な訓練」
 ふーん、とあたしは唇をとがらせる。
「なーんか、変に優しいね、マキちゃん」
「鋭いわね。あなたのほうがスパイに向いてるかも」
「当たり前でしょ。今まで何人オトコ落としてきたと思ってんの」
「変に怪しまなくても、いずれわかるわ。来週、みんながそろったときにね」
「あ、もしかして久々にアレやる感じ?」
 一瞬、脳内がざわついた気がした。他の人格があたしたちの会話を盗み聞きしているのかもしれない。
「ソラは大丈夫なの? この間やったとき、ずっとビービー泣いてたじゃん」
「ミーティングの前に、カウンセリングするつもりよ。かわいそうだけど、あの子にも出席してもらわないと」
「大変でございますわね、カウンセラー様は」

あたしはマキと別れて、次の研修場に向かうため、廊下を歩いた。
 あたしは歩きながら目を閉じて、手で顔を覆った。電脳内に信号を投げる。
(アレックス、聞いてる? あんた何考えてんの? このまんまじゃ、あんたお払い箱よ?)
 
 返事を待っていたが、次の瞬間、あたしはそれどころじゃなくなった。
 廊下の床があると思っていたところに床がなく、片足が空を踏もうとしたのだ。
 バカバカバカバカ。ロボットが段差ですっ転ぶなんて。何十年前のポンコツなのよ。
 身体がスローモーショーンで倒れそうになっているとき、あたしはとっさにどうすればわからなくて、電脳内にめちゃくちゃに信号を出した。
 

 ***

気がついたら、俺は寝っ転がっていた。
 真っ昼間の、研究所の廊下で。
 頭と右腕と腰がじんじんと痛む。まわりにいた研究員が心配そうに顔を覗き込んでくる。
 俺は電脳にキューを飛ばして、他のやつらに状況の説明を求めた。しばらくしたあと、カレンからメッセージが飛んできた。

 ゴメン。ざまーみろ. ;-)
 
「このクソアマアアアア! ぶっ殺すぞ!」
 俺は立ち上がって叫んだ。周りの工学者たちが慌てて歩き去っていく。
 俺は唇を噛んだ。苦い味がした。カメラで自分の顔を見ると、口紅がひかれていた。俺はシャツの袖でそれをぬぐい、服にくっきりとついた色を見て舌打ちした。近くの洗面所に入り、顔を洗って化粧を落とした。耳についていたピアスを引きちぎる。耳たぶに赤い血がにじむが、どうせダミーだ。関係ない。
〈アレックス、俺だ、ウォルターだ。応答しろ!〉
 脳内にいくらキューを出しても、返事が来ることはない。ストレスだらけの状態から抜けて、あいつに変わりたかった。
 今度会ったら、あのクソ野郎をぶっとばす。
 顔を洗ってもまだ化粧が落ちず、イライラしていた俺は、メモリに登録された今日のスケジュールを確認する。午後の訓練が始まるが、どうせアレックスじゃなきゃ意味がない。意味がないなら行く必要もない。俺は研究所内のトレーニング室に向かった。
 このトレーニングジムは、人間の職員のために造られた。ロボットである俺たちが筋肉をきたえても仕方がないし、ロボットの運動能力をテストする部屋は別にある。俺は単に、ストレス解消のためにここに来る。俺はベンチプレス機を使い、なるべく何にも考えように黙々と身体を動かした。
 俺は腕を動かしながら、電脳に今後のスケジュールを要求する。自分に関係する記憶だけもってこい、ということだ。
 アレックスの野郎は、スパイのくせに格闘戦が苦手だ。
 連続稼働をウリにしているくせに、戦闘とか激しい動きには耐えられない。要するにこいつは、演技行動とメンタルに特化したロボットというわけだが、そのロボットがストレスでダウンしているというのだから笑えない。このクソ野郎は、任務で『俺』を使ったときも、極力、戦闘を避けていた。
 俺たち副人格は、そもそもアレックスの仕事のために使われていた。
 正確には、仕事で使われていたときには、俺たちに自我はまだなかった。俺たちの人格をアレックスが継承し、俺やカレンの振る舞いを利用して諜報活動をしてきた。そのあとアレックスの電脳内に放置されていた俺たちが、自我を持ち始めた。そんな人格を3つも4つも頭に飼っていたら、メモリが耐えきれなくて当たり前だ。
 つまり、多かれ少なかれ、俺たち副人格は、何らかの諜報活動に関わっている。俺はある企業内で行われていた、麻薬取引の情報を得るために使われた。
 ジュリアも、あのクソ女のカレンも、仕事で使われた。どんな仕事に関わったかは、あいつらのその記憶にはセキュリティがかかっていて、俺には参照できない。どうせカレンは男と寝て、『協力者』でも作ったのだろう。そうでなきゃ、あんなバカが採用される意味がない。スパイの仕事は、1に情報収集、2に潜入、3に組織内部の人間を誘って『協力者』をつくり、情報を流してもらうこと。それはハニートラップはうってつけというわけだ。
 一番わからないのが、ソラとかいうガキの人格だ。あれが何の仕事に関わったのか、見当がつかない。
 電脳内に、今日の記憶が送られてくる。カレンからのメモに、『数日後に電脳会議があるかも』とある。このボディの持ち主様と会える日が来る。
 突然、俺の電脳内に外部から信号が飛んでくる。
〈ウォルター、ジムにいるのはあなたでしょ。急いで訓練に向かいなさい〉
 あの女研究者のキーキー声が聞こえてきそうだ。
 俺はうんざりしてプレス機を蹴った。
 
 ****
 
 気がつくと、自分が白人の男になっていて、知らない真っ白な建物にいた。
 しかも自分がロボットで、スパイで、多重人格者だっていうこと。
 
 考えるだけで頭がおかしくなりそうだった。
 このからだを何回壊そうと思ったかわからない。けど、ぼくにはセーフティがかかっているらしく、どうしても死ねない。死のうと思ってベランダから飛び降りようとしても、そのまえに体が固まってしまう。
 ぼくはいつも混乱していて、泣いてばかりいた。マキとジュリアがいなかったら、ぼくはとっくの昔に、コードを首に巻きつけていただろう。
「ソラ、明日は実験の日だけど、怖くないわ。大丈夫」
 昨日の夜にわざわざ呼ばれて、ぼくは2時間ほどマキのカウンセリングを受けた。聞けば、前回ぼくが現れてから、すでに2週間が経っているらしい。そのあいだのぼくの記憶はない。ほかの人格(なんだよそれ)の記憶を覗くこともできるようだけど、どうしても無理だった。
 原因はわかっている。ぼくが昔、他の人格の記憶を覗いて、ひどい光景を見てしまったから。
 ぼくは死んでも鏡を見たくない。鏡に映るのは、白人の若者。ぼくはあきらかに、生まれてから10年くらいしか経ってないはずなのに、そこに映っているのはどう見ても大人なんだ。何十年分の記憶なんてありはしないのに。
 クソ、なんでだ。なんでこんな言葉が次々と出てくるんだ。ぼくは学校に行った記憶もないし、勉強した記憶もない。けど難しい言葉がわかる。この言葉が難しいということもわかるし、普段使っちゃいけないということもわかる。これが、頭の中の電脳――うそだ、そんなものはない――から、どんどん言葉があふれてくる。
 ぼくはものを食べる。ぼくは泣く。ぼくは眠る。どう見てもぼくは人間のはずなのに、どうしてみんな、ぼくをロボットだと言うのだろう。
 ぼくの名前はソラ。これだけが、ぼくが唯一持ってる記憶。
 

「起動。Al1、Al2、Al3、Al4、覚醒。メンタル係数異常なし」
 ぼくの耳に、マキの落ち着いた声が聞こえてくる。視界はまだ真っ暗。ぼくはたぶん、膝を抱えて座っている。ぼくは目が覚めたけれど、目は開けない。
 部屋の中から別の人たちの声が聞こえてくる。
「何回やっても慣れねえな。クソ気持ち悪い」
「頭がおかしくなりそう。あーんジュリア久しぶり! あいかわらずキレイで悔しいわ」
「カレン、私たちは毎日会ってるでしょう。でも、姿を見るのは久しぶりね」
 いろんな人たちの声が聞こえてくる。これが全部、ぼくと同じボディを共有してるなんて、考えたくない。
 ぼくが丸まったまま目を閉じていると、カレンに声をかけられた。
「ソラ、起きてるんでしょ。あんたも顔あげなさいよ」
「無理しなくていいわ、ソラ。疲れてるなら眠っていていいから」
 ぼくはうなずいて、薄目を開ける。カメラとの接続をONにする。
 照明の暗い研究室の壁際に、複数の3Dプロジェクタが並んでいる。ぼくのを合わせて、おそらく5つ。
 
 電脳会議バーチャル・カンファレンス
 マキに聞いたところによると、ぼくたち副人格(この呼び方は最悪)が勢ぞろいできる、唯一の機会。
 もともとは、ボディを持たないAIたちを映すために作られたらしいのだけど、それを応用して、アレックスのなかにいるぼくたち全員に適用できることがわかった。
 みんなのグラフィックは、もともと作られていたサンプルの3DCGを、それぞれが選んだもの。ジュリアは長髪のブロンドの女性、カレンは赤髪、ウォルターはがっちりした筋肉質の男性。
 ぼくは……ぼくのグラフィックは、サンプルそのままの男の子。間に合わせで作られたCGだから、精巧ではないけれど、ぼくはこの姿が落ち着く。けど、CGという存在が、ぼくが人間じゃないってことを思い知らされているようで、そう思うととても怖い。身体がないと不安になる。電源を切られたら、簡単に死んでしまうんじゃないかっていう恐怖。
 本当の、アレックスのボディは、隣の部屋で横になっている。たくさんのケーブルがつながれた、白人の男性。ここにいるCGたちは、あのひとつの機体の中から生まれている。信じたくないけど、このぼくも。
 だけどこれは、単純にアレックスにケーブルをつないで、5人の人格をグラフィックに投影してるだけじゃない。さすがのアレックスでも、一度に5人の人格を動かすのは負荷が大きすぎる。一時的に演算を肩代わりしてくれるこの研究室の計算機と、ぼくたちのプログラムを抽出してくれる機器が必要だ。
 
 ぼくは膝を抱えて座ったまま、ちらっと視線を横に動かした。
 3Dプロジェクタのひとつに、ぼくと同じように座っている男の人が、ひとりいる。
 この身体の主人格。
 諜報型アンドロイド、〈Al:Alex 〉。
 ケーブルにつながれたボディとそっくりな男のCGが、不機嫌そうにあぐらをかいている。
 あれが、ぼくたちを生み出した元凶。
 
 
 隣室から入ってきたマキが手を叩いて、皆の注意を引く。
「感動の再会は涙ぐましいけど、そろそろ本題に入っていいかしら」
 マキの後から、男性の研究者がふたり部屋に入る。
「起動前に、昨日までの訓練結果と観察記録を見てもらったと思うわ。それぞれは良くがんばってくれたけど、正直、あまりかんばしくないの」
 3D表示された5人の人格が、マキに注目する。アレックスだけそっぽを向いている気がするけれど。
「最初に言っておくけど、これはみんなのせいじゃない。調整ができなかった私たちのせい。だから、みんなはお互いを責めないように。いいわね?」
 ジュリアがうなずく。カレンとウォルターはぎろりとアレックスをにらんだ気がした。 
「いまのところ、アレックスには現場に復帰してもらうよう、努力してもらいます。ただ、ほかの4人については、電脳内に存在していることで、アレックス本体の電脳に負荷をかけていると思われます。
 あなたたちの人格パーソナルを、アレックスから切り離すことも考えましたが、あなたたちは重要機密を抱えているということもあって、扱いが難しい状況です。切り離したとたんにデータが流れていく可能性も否定できません」
 マキの顔を見て、ぼくは一瞬、まずい、と思った。
 急いで耳をふさごうとしたけど、間に合わなかった。

「だから……申し訳ないけど、ほかの人格の消去が決まりました」

その場が凍りついた。ぼくは目を閉じて耳をふさいだ。
 最初に口を開いたのはカレンだった。
「は? 消去って、なに?」
「ごめんなさい、カレン。私も反対したのだけど……」
「ねえ、消去って、死ぬってこと?」
 耳をふさいでも、みんなの声がガンガン聞こえてくる。無理やりマイクとカメラの接続を切ろうとしたけど、無駄だった。
 意外にも口を開いたのは、主人格のアレックスだった。
「なんでもどうしてもない。必要がないから消す。それだけだ」
 カレンがアレックスをにらむ。
「あんた……このこと知ってたでしょ? なんで黙ってたの? あんたが情けないからこうなるんでしょ?」
 グラフィックがCGじゃなかったら、掴みかかりに行きそうな勢いだ。マキが首を振る。
「カレン、アレックスの気持ちを考えてあげて。彼が最近出てこなかったのは、あなたたちに生活を譲ってたから……」
「言うな、マキ」
 アレックスが手を振る。。
「だからあたしたちに任せてたってわけ? この身体にしたのは一体どこの誰? あたしたちは使われたらポイなわけ?」 
「カレン、落ち着いて」
「なんであんたたち反対しないの? こんな決定許していいわけ?」
 アレックスがカレンをにらむ。
「俺たちはロボットの人格だぞ。人間の命令には従え。おまえたちの任務はとっくの昔に終わってる。おまえたちは用済みなんだ」
 すると、それまで黙っていたウォルターが、口を開いた。
「……だったらなんで、今まで俺たちを残してた?」
 カレンがアレックスを指さす。
「あんたにはやっぱりわかんないんだわ。あたしたちにはこの身体しかないのよ。消去されるってことは、死ぬってことなのよ!」
 腕を組んだウォルターが眉を上げる。
「マキ、一度に4人もの人格を消去したら、本体への電脳の影響も大きいと思うぞ。もともと俺たちは、着脱可能な人格だったかもしれん。だが今は、とてもそんな簡単な状況だとは思えんな。無理やり人格を消去すれば、アレックス本体にも影響が出そうだが」
 マキはうなずく。
「ええ、だから、消去する人格は、ひとりずつです。初めの1人の消去は来週行う予定です。最初のひとりは――」
 緊張が走った。ぼくは怖くてしょうがなくて、力いっぱい耳をふさいだ。

そのときの抱いた感情を、ぼくは必死になって消そうとした。
 死にたいという感情と、安心という気持ちと。
 ぼくが選ばれるんじゃないかっていう恐怖。
 僕が選ばれなかったという安心。
 本当は、僕が選ばれたかったはずなのに。
 みんなの顔を見るのも嫌で、僕はぎゅっと目を閉じた。
 それでもカメラの接続が切れなくて、ジュリアの顔が見えてしまった。
 
「なんで? この中でも、ジュリアが一番安定してるでしょ。一番長くいるのもジュリアなんでしょ。消去したら一番影響があるはずじゃないの?」
「カレン、もういいわ」
 ジュリアがカレンを制して、一歩前に踏み出した。
「マキ、今までありがとう。ロボットの私が言うのもなんだけど、あなたががんばってくれたの、わかるから」
 それからアレックスのほうを向いて、まだあぐらをかいたままの彼を見下ろす。
「アレックス。もう私がいなくて大丈夫よね」
 アレックスはそっぽを向いたまま視線を落とした。
 
 

いつかこうなることは、わかっていました。
 私たちは、ここにいてはいけない存在なのだと思います。けど、私たちにはどうすることもできませんでした。
 そもそも、私たちに死の概念などあるのでしょうか。私はもともと仕事用につくられた、かりそめの人格です。こんなに長いあいだ、彼の電脳のなかにいたのが間違いなのです。私の役目は任務を全うすること。人間に消えなさいと命令されたら、従わないわけにはいきません。
 最後の日の朝は、いつも通りのメイクをしましたが、時間は長くかかりました。死に化粧なんて言いますが、自分でするのはおかしいですね。この機体がなくなるわけではないですし、消えてなくなるのはソフトである私だけなのですから。私が死んでも、このメイクしたボディはなくならない。これからもこの身体は動き続けるはずです。
 電脳の中には、色々な人からメッセージが届いていました。カレンからは長い長いメッセージ、ウォルターとアレックスは、男性らしく一言だけ。ソラには私からメッセージを投げておきました。あの子のことはとても心配です。
 いま、私のボディにたくさんのケーブルが接続されています。
 データが流れていく音を聞きながら、目を閉じます。
 死ぬまでのカウントダウンが聞けるなんて、めったにない体験です。私の場合は人格ですので、死ぬというより、統合と言ったほうが良いかもしれません。
 いま、このボディには、私の人格しか起きていません。ほかの皆は、私が消えたときの影響を受けないよう、眠っています。
  
 私は、初めてアレックスと会ったときのことを思い出します。
 おそらく、私が目覚めた本当の本当の最初の記憶は、私は覚えていません。 
 あれは彼が任務先のホテルで、休んでいたときのこと。
 私は彼の電脳のなかで目覚めました。初めはどうすればいいかわからず、あれこれ彼の機能を動かしまくったようです。
 何も覚えていないのですが、私が生まれて初めて聞いた人の声だけは、覚えています。
『止まれ、このクソ野郎!』って。
 なんてロマンチックじゃないセリフなんでしょう。これが生まれて初めて聞いた言葉だなんて。
 アレックスはあのとき、とても慌てていました。いきなり自分の頭の中から声が聞こえてきたら、誰だって怖がるかもしれません。
  

覚えているかしら、アレックス。
 ああ、ここにはいないのでしたっけ。
 でも、私の記憶は残ると信じて、願っておきます。
 
 無へのカウントダウンが聞こえてきます。これが鳴り終えたとき、私は次に目覚めることはないでしょう。
 もう、あの朝も迎えることもないのです。
 そう考えると、少しだけ涙が出そうでした。
 
 
 アレックス、覚えていますか。あのときのこと。
 

 

 

 

 
 2

人格消去の決定を聞いたとき、主人格の僕がまず思ったことは、やっぱりな、だった。
 このときの記憶はとてもメモリに残せそうもない。
 そもそも、副人格のあいつらは仕事用の人格だ。いままで残していたのがルール違反だった。
 主人格である僕、アレックスが残ることが最優先だ。ほかの副人格は関係ない。
 人格を消去して、性能が元に戻るかはかなり不安だった。
 あのとき、僕は何か言おうとしたけど、言葉が出なかった。
 いまさら何か言っても、もう遅い。
 それ以前に、僕は文字通り、声が出なくなっていた。 
 
 **

くだらねえ。
 ジュリアの人格が消えたのち、それぞれの人格に異常がないか、俺たちはチェックされた。確かに大なり小なり精神的なダメージは負っていたものの、明確に異常があったのはアレックスだけだった。
 くだらねえ。結局、アレックスの負担を減らそうとして、ジュリアを消して、一番ダメージを負ったのがあいつだったなんて。研究者たちが俺たちのことをクソほども考えてないことがわかる。
 アレックスは声が出なくなっていた。
 ロボットの声が出なくなるなんて、ありえないと思うだろう。発声器官や合成音声の問題ではない。俺やカレンが表に出たときは普通に声が出る。あいつのときだけダメってことは、あいつのメンタルがダメになったか、声を出せ、という電脳の指令がどこかで途切れているからだろう。
 声が出なくなったアレックスを表に出しても仕方ないってことで、俺やカレンが交替する機会が多くなったが、状況は最悪だった。当たり前だ。製作者どもから「おまえたちを消す」って言われて、自棄にならないやつはいない。しかも、目の前で仲間が死んでいくのを見たんだぜ。カレンは荒れるし、ソラはいつも以上にビービー泣いてる。(いまソラを交替させたら、まっさきにビルの屋上から飛び降りようとするだろう)。当の主人格はこのザマだし、もしかして俺が一番まともかもしれないな。
 この間はあまりにカレンが騒ぐものだから、俺が出るタイミングがなかったぞ。
 俺だって、荒れなかったわけじゃない。ジュリアが消されて、黙っているわけにはいかない。本当は研究者どもを皆殺しにしたいし、いちばん殺したいのはあのバカだ。だが、おそらくそれはできない。ロボットの古臭い原則に縛られてるのもあるが、それだけじゃない。
 ジュリアが真っ先に消えたのは、理由がある。
 おそらくジュリアは、人格消去のことを最初から知っていて、自分から犠牲を志願したんじゃないか。あいつは俺たちに何かを伝えたかったんじゃないか。
 それを知らなきゃ、あいつの死が無駄死にになる。
 
 ジュリアはおそらく、自分が消えたら、アレックスのバランスが崩れることを知っていた。
 声が出なくなったアレックスは、はっきり言って使い物にならない。
 このまま容態が回復しなければ、職場復帰どころではないだろう。
 廃棄処分。
 アレックス本体が廃棄されるときは、副人格の俺たちもろとも、消滅するってことだ。
 

 ***

ジュリアが消えて以来、アレックスはますますふさぎこみ始めた。
 っていうか、あたしたちに気を使ってるのかわかんないけど。
 朝起きると、なぜかあたしが表に出ることが多くなった。
 やっぱりあたしでも、朝のメイクだけは欠かさない。美容をあきらめちゃったら、あたしたちは終わりなわけ。
「あーつまんないつまんない」
 あたしはぷらぷらと研究所の廊下を歩いた。アレックスの発声機構がダメになっちゃって、訓練スケジュールも全部見直された。当然、あたしたち他の人格の凍結も先送りになった。当然よね。人格を無理やりひきはがしたらああなったんだもの。
 研究所内では、アレックスの廃棄処分、なんて声も聞こえてくる。実は、次世代のスパイロボットの計画も既に持ち上がっているらしい。このタイプのロボットは長くは続かないから、次はもっと良いものにしようってね。あー最悪。人格交代するロボットそのものがおかしいんだっての。
 本当は、このアレックスの機体は絶対安静が必要なんだろうけど、あたし自身は別にどこも悪くないから、いちおう自由行動は許されている。ただし、行動範囲は制限されて、居室のある棟と、ウォルターが好きなジムの往復だけ。無暗に外に出てたら、すぐに連れ戻される。
「誰かカッコいい男が連れ出してくれないかしらん」
 廊下を歩きながらつぶやいても、むなしくなる。
 と、突然廊下の向こうから、男の声が聞こえてきた。
「ああジュリア! やっぱりいたんだ!」
 あたしは驚いて振り向いた。廊下の向こうで、若い研究者がニコニコして手を振っている。
「しばらく見なかったから、心配してたよ。仕事が忙しいのかい? おっと、今日はいつにもましてセクシーでエレガントだ。こんな美人がこの研究所にいるなんて僕は……」
 一方的にペラペラ喋る男をにらんで、あたしは反射的に、電脳内へキューを投げた。
〈ジュリア、こいつ誰よ?〉
 あたしの知らない男は、きっと彼女が知ってる。ジュリアの名前だって呼んでるし。
 しばらく電脳から応答がないことがわかると、あたしはふと気がついて、ため息をつく。
 何やってんだあたし。
 バカ。ほんとあたしバカ。
「そうだ、偶然たまたまディナーの招待券が当たってさ、それでどうかと思って……」
 あたしは目の前の男にイライラする。こいつはあたしたち〈Al : Alex〉のプロジェクトのことを知らない。アレックスがスパイロボットであることも知らないだろう。思いきって言ってしまおうか? ジュリアはもういないんだって。
 あたしたちはいつも、他人に覚えられないようにふるまう。これはスパイ用に造られた性質というのもあるけど、あたしたちは1人じゃないから。あたしたちは、他者との人間関係がうまくいかないことを知っている。顔を合わせる程度の知り合いならいいけど、こんなにベッタリ寄ってくる人間はこの男くらいだ。 
 一瞬、こいつをハニトラで捕まえて、この研究所から脱走しようかと思ったが、すぐに連れ戻されるだろう。他の人格たちが賛成しなかったら、すぐに人格が入れ替わっちゃって、自分で研究所に戻っちゃったりするからだ。
 あたしはふと考えて、手を叩いた。
 そう、他の人格たちが賛成しないから、ダメなんだ。
 あたしはとっさにジュリアの話し方を思い出した。研究員の手を握り、できるだけそれっぽい声を出して、彼の目を見つめる。
「私のお願い、聞いてくださいますか?」

***
 
 僕たちにとって、この電脳会議が、因縁の場所になるとは思わなかった。
 ジュリアを失った場所。
 ここに集まれるのは主人格の僕も含めて、もう4人しかいない。
 CGになったウォルターが口を開く。
「よく電脳会議バーチャル・カンファレンスが許されたな。それなりの申請が必要だと思うが」 
「あたしのお色気作戦でできたわ。男の研究員に偽の報告書を書かせるなんてちょちょいのちょいよ」
 カレンが自慢気に腰に手を当てる。 
「あたしがジュリアを演じてるところを見せたかったわね。あの男は今ごろ幸せな夢を見てるわ」
「……見なくて良かった」
 そのハニトラを行ったのも、隣の部屋で横たわっている僕のボディだと思うと、頭が混乱してくる。
「アレックス、調子はどう?」
 そばで話を聞いていた僕は首を振る。僕は現実空間リアルスペースで声が出せなくなったが、電脳空間サイバースペースでも発声が難しくなっていた。ハード的に故障したわけじゃないから、おそらくこれはメンタルの問題。
 代わりに、CGで文字を表示することはできた。

――相変わらず最悪だ。

「で、何の用だ。アレックスの調子を見に招集したわけでもないだろう」
「わかってるでしょ。このままじゃ、アレックスはお払い箱になるかもしれない。それじゃ、あたしたちも困るのよ」
 腕を組んだカレンは僕を見つめる。
「とにかく、あんたがヤバそうなときは変わってあげるから、休みなさいよ。運動訓練はあたしがやってあげる。ストレスが溜まったら、ウォルターに変わってストレス発散して。こいつはあたしと違って、言いたいことためらわずに言える性格なんだから、いけるでしょ?」
「……おまえ、ひょっとしてそれギャグで言ってるのか」
 ウォルターがツッコむと、カレンは彼をぎろっとにらんだ。
「俺たちで本体をカバーするのはいいが、それも一時しのぎにしかならんぞ。もともとの不調の原因を調べて、現場復帰しないと意味がない」
「そう、そういうことは早く言いなさい。アレックス、もともとの不調の原因は何なの。仕事のストレス? 計算負荷?」
 僕は首を振った。

――それがわかれば、苦労しない。
 
「あんたねえ、自分のことでしょ?」
「……ジュリアは何かを伝えたかった」
 突然、壁際で膝を抱えていたソラが、ぽつりとつぶやく。
「原因は過去にある。理由のない事象はない。……ぼくたちは、ロボットだから」
 僕とカレン、ウォルターが顔を合わせる。
「アレックス、きみがジュリアと初めて会ったときは、いつ?」
 僕は目を閉じて、唇を噛んだ。
 

****

 

 

5年前。
 そのとき、僕がもとのアレックスの人格に戻ったのが、実に480時間ぶりだった。
 別の人格に移ったとき、僕はその人格でありながら、同時にアレックスでなければならない。自我を保たなければ、本来の任務を忘れてしまう。
 確かに、夜中にホテルの部屋に戻ったときはかなり疲れていた。20日ぶりに元の自分に戻ると、妙な虚脱感を覚えた。
 20日分の大量の記憶がロードされていく。僕はベッドに座って目を閉じる。
 右手を額に当てる。
 いや、右手が当たった。
 右腕が、勝手に動いた。
 
<!–スクリーンモード:キャプチャします>
 
 僕の電脳内で、電子音声が響いた。それは、僕の指先に仕込まれている隠しカメラが、音も立てずに写真撮影をする合図だった。
 僕は疲れた頭でぼんやりとそれを認識する。
 問題は、ことだ。
 
 何もない、僕のズボンの写真がメモリに登録される。僕はそれを見つめる。
(なんだ、疲れすぎか、信号系の不具合か……?)
 僕はカメラのレンズを手で抑える。
 
<!–休止モード、確認。エマージェンシーを出しますか?>
 
「ちょ、ちょっと止まれ、このクソ野郎! 僕は何も言ってないだろ!」
 僕は背筋が凍った。(僕にそんなものがあるとすれば、だが)。すぐに外部とのネットワークを遮断する。外部からのハッキングの可能性を疑ったからだ。
「誰の権限で行っている? ハッキング元はどこだ?」
〈侵入形跡なし。発信元はあなたです。〈Al:ALEX〉〉
「僕はそんな命令は出してない。障害スキャン開始」
〈メールを受信しました。開きますか?〉
 こんなときに、と僕は疑う。さっき外部ネットワークへのアクセスは遮断したはずだ。いったい誰がこんなことを。
「発信元は、どこだ?」
〈発信元は機体〈Al:ALEX〉。差出人名は、ジュリア〉
 ジュリア? と今度こそ僕は背筋が凍りついた。
 それは、僕が人格として操っていた、女性の名前だった。

僕はベッドに座り直して、おそるおそる、電脳内へ信号を飛ばした。こんなこと、システムに命令するか、無線で連絡を取るときくらいしかやらない。自分自身に信号を飛ばすなんて。
〈……君は、ジュリアか?〉
〈……あなたは誰? どこにいるの?〉
 僕は電脳内で返ってきた信号に驚き、思わず声に出した。
「君こそ誰だ? なぜここにいるんだ? なぜ僕の機体にアクセスできるんだ?」
 僕が誰もいない部屋で叫んでいると、また僕の腕と足が交互に動き出した。
 システム音声が脳内に響く。
〈自爆モード、確認しました。自爆しますか?〉
「ま、待ってくれっ。わかった、聞こえるか? とりあえずそれ以上動かないでくれ。君がめちゃくちゃに動くと、僕のシステムに介入できるみたいなんだ。このままじゃ下手すると君も死んでしまう。会話するときはキューを飛ばそう」
〈……ここはどこなの? あなたは誰?〉
「僕はアレックス。君はハッキングやウイルスの類じゃないんだな。いつからそこにいるんだ?」
〈記憶なんてないわ。私はいま気がついたのよ。ずっと真っ暗で。誰とも話せなくて、何にもできなくて〉
 どうやら、ジュリアは僕の視覚まで共有しているわけではないらしい。つまり僕の電脳内にいて、真っ暗な世界にいるってこと。
 変装用の人格が、意識を持ち始めるなんて、聞いたことがない。こんなことは製作者も考えていなかったはずだ。
〈……でも、待って、何か、思い出せるわ〉
 僕は嫌な予感がした。無意識で目を閉じて祈っていた。
〈私の目の前に、男の人がいる……肌の色が濃くて、口ひげがあって、名前は……マリオ?〉
 僕は舌打ちした。明らかにそれは、僕が彼女のパーソナルを借りたときに、接触していた男だった。数ヶ月前の記憶がはっきりと思い出せる。
 僕はその男から情報をもらうことが任務だった。
 なら、このあとの展開は、非常にまずい。
〈私と男の人が、お店みたいなところに2人でいるみたい。それで、男の人が近寄ってきてーー〉
 そこで、ジュリアが悲鳴を上げた。僕は思わず耳をふさぐ。
「ジュリア、早くスリープモードに移るんだ。おいシステム、彼女をスリープモードに移行」
〈了解しました。ジュリア、了承を〉
 ジュリアはそれでもずっと泣き叫びながら、10秒ほど暴れまわった。
 僕はその時間が永遠に感じるほどだったけれど、彼女はしばらくしてシステムの指示を受け入れ、眠りについた。
 同時に、それを確認した僕もベッドに倒れこんだ。
 嫌な記憶がよみがえる。
 まさか、あれを見ている人間がいるなんて。
 しかも、それが僕のなかにいる人格パーソナルだなんて。
 僕は腕で自分の目を抑えた。
 

それから数日間、ジュリアは僕の電脳内にいた。
 研究所に問い合わせて権限とセキュリティを変更し、彼女が僕のシステムに介入できないようにした。けれど、いまは僕も仕事中だったし、任務を途中で放棄して研究所に戻るわけにもいかなかったから、彼女はとりあえず現状維持ということになった。
 彼女は、彼女が動いていた任務中の記憶を持っている。その記憶は絶対に外に出せない機密だ。この記録をネットワークに流されたら、僕は死んでも責任が取れない。つまり、彼女をネットワーク越しにひきはがしたりするのは、リスクが高いというわけだ。
 彼女には、僕の今の任務を見られては困るので、僕が起きているあいだは五感を共有しないようにした。僕がひとりにいるときだけ、彼女に会話を許可した。
 そう考えると、そのうち彼女が人格交代オルターネイトして外に出たい、と言い出すのは明白だった。つまり、人格を入れ替え、このボディを一時的に彼女に預けることだ。
〈あなた、もともと『私』を使っていたのでしょう? だったら私を表に出すこともできるはずよ〉
「いやだ。もう君の任務は終わったんだ。そこでおとなしくしててくれ」
〈だったらなぜ私を消さないの。こんな暗いところは嫌だわ〉 
 僕がホテルで彼女の要望を聞いていると、うんざりした。彼女にシステムを乗っ取られることはなくなったし、情報が漏れることもないが、やはり自分の頭に別の人格がいると思うと、とても気持ち悪い。
 ジュリアはぷりぷりと怒っている。頭の中でにらまれているような気がする。
〈私が外に出て、何が不安なの?〉
「……なにも」
〈別に、私が出て行って、窓から飛び降りたりしないわよ。死んだら困るんだし。もしかしたら、あなたの負荷ストレスを肩代わりできるかもしれないし。あなた最近、疲れてるでしょう〉
「勝手に僕を診察しないでくれ」
 確かに、僕は任務で疲労が蓄積していた。前はすぐに消えていた負荷も、なかなか抜けなくなっていた。偽変ミミックの使いすぎが原因だろうか。
 僕はベッドの上に寝て、目を閉じた。おそるおそる尋ねる。
「君は……任務のときのことは、覚えているのかい」
 ジュリアはやや時間を置いて答えた。
〈……ええ、覚えてるわよ。ひげの男に無理やりレイプされたときのことね。バーのトイレで、恐ろしかったわ〉
 その言葉ひとつひとつに、僕は頭を痛める。そこまで答えろとは言っていない。
〈あなた、大変なのね。情報をもらうためなら何でもするのね。女性になりきって男に襲われた感覚は、やっぱり嫌なの?〉
 ジュリアが意外にもつっこんで聞いてくるので、僕は耳をふさいだ。
〈……ごめんなさい。ロボットも嫌なのね〉
「君は平気なのか。このあいだは泣いてたのに」
〈映像はショッキングだったし、感覚も覚えてたわ。けど、主にあれを体験したのはあなたなのでしょう?〉
 そうだ、と僕は答えた。僕はジュリアの姿になりきり、男を誘った。男に襲われることは予想の範疇だった。
「僕は本来、なんともないはずなんだ。ただ、と知ったとき……ものすごい負荷ストレスが来た。痛覚と触覚を遮断しても、だめだった」
〈それで、それがトラウマなの?〉
「ちがう。君が表に出たら、君のほうがフラッシュバックするんじゃないかって」
 頭の中で、ジュリアが首を振った気がした。
〈大丈夫。もしそうなっても、窓から飛び降りたりしないから〉
 僕は彼女がこのボディを操るところを想像する。僕は色々な人格に偽変したことはあるけど、誰かにボディをそのまま預けたことは一度もない。確かにそれは恐ろしいことだ。
「僕を、恨んでないのかい」
〈恨んでない。と言えば嘘になるかもしれない。けど、あなただって仕事だったのでしょう〉
 それに、最近のあなた見てると責める気にもなれない、とジュリアが付け加える。
〈あなたを恨むより、あなたの苦しみを共有することくらいはできるわ。人間、体験を共有するだけで、不思議に気持ちが楽になるのよ〉
「僕はロボットだぞ。ついでに僕の頭の中にいるあんたも」
〈あらそうなの。ロボットって意外と繊細なのね〉

結局、僕は彼女の頼みに折れて、人格を入れ替えた。理由のひとつに、長い任務で疲労が蓄積していて、僕が一度リフレッシュしたかったというのもある。
 いや、僕はおそらく、彼女に罪悪感を抱いていたんだ。だから、彼女の外に出たい気持ちに逆らえなかった。きっと。
 僕の身体を受け入れたジュリアは、微妙に肉付きが変わった僕の体を見て、ホテルの部屋の中をあちこち動き回った。ふと鏡台を目にして動きを止める。
「メイクしていい? あとで落とすから」
〈化粧道具なんて持ってないぞ〉
 買ってくるわ、と言って、彼女は本当にホテルのロビーまで道具を買いに行った。ホテルのフロントが僕をじろじろ見て怪しんでいた。
 彼女が化粧台の前で忙しくしているあいだ、僕は彼女の頭の中でつぶやいた。
〈これから、君みたいな人格がどんどん増えたら、僕は耐えられそうもない。おもに罪悪感で〉
「意外ね。ロボットにも罪悪感てあるのね」
〈罪悪感というより……倫理ルールに沿った負荷ストレスの蓄積だ。僕だって倫理ルールに縛られている。そうでなきゃ、平気で人を殺すことになる。でも、僕の中では任務のほうが絶対だから、法律的にグレーなことだってするし、倫理的に良くないこともする。僕が主体なら、いくらでも自分を傷つけることができるし、いくらでも人を傷つけることができる。
 ……けど、こんなことは想定してない。まさか意識を持った人格が生まれるなんて。君が任務中の記憶を持っているなんて、僕は耐えられそうにない。僕のしていることを、客観的に見せつけられている気がして〉
 ジュリアは鏡の中の自分、僕を見ながら、眉をひそめた。
「どうすれば負荷が減るの?」
〈そんなことがわかれば苦労しない。任務をやめるわけにはいかないし、人格を消すわけにもいかないし〉
「教えてあげましょうか」
 ジュリアは、初めてにしては完璧なメイクを施し、上機嫌で答えた。
「ごめんなさいって、謝ること。自分がやったことを素直に認めること。これがいちばん」
〈嘘だろ。そんなことでシステムの負担が減るわけない。あとなんで僕が謝らないといけないんだ〉
「あら、意外と意地っ張りねえ」
 ジュリアは鏡を見て満足しているようだった。

 

 
**** 
 

 僕はその場に座りこみ、全身の力を抜いていた。
 カレンとウォルター、ソラは思い思いの姿勢で、僕の言葉を待っていた。
 僕はジュリアとの最初の出会いを思い出していた。こんな恥ずかしいこと、こいつら副人格に話せるわけがない。
(そんなわけない。そんなわけないけど……まあ、すでにひどいこともやってしまったし、やってみるだけやるか)
 僕は自嘲気味に苦笑して、指を振った。
 
――カレン、ウォルター、ソラ。
 
 プログラムを利用して僕が空中にスクリプトを書くと、3人が一斉に僕を見た。

――今まで、すまなかった。
 
 は? とまずカレンがぽかんと口を開けた。
――あんたたちの任務のことさ。カレン。君にはひどいことをさせた。すまない。謝ってすむものじゃないが。
「なに言ってんのよ、いま言うことじゃないでしょ」
 
――いや、これが大事なのかもしれない。ウォルター、あんたに偽変したときは、いろんな犯罪に手を染めさせてしまった。申し訳ないと思ってる。
「……別に。お前にはムカついてるが、仕事だったんだろ」
――ソラ、とくに君には、つらい思いをさせた。おそらく僕の未成熟な部分が、君を生み出してしまったんだと思う。いや、君は君でひとりの立派な人間か。ひどいことをさせてしまったね。
 ソラは抱えた膝の上に頭を乗せて、うずくまった。
「……僕は許せない。いまでもあの記憶が夢に出てくるから」
 僕がソラの姿で行った任務は、ある母親をだますことだった。あの女性は、体型と性格がまるでおかしい僕を、素直に愛してくれた。僕は情報を得るためだけに仲良くして、あとは完全に捨ててしまった。
 ソラは唇を噛んだ。
「……でも、ジュリアが許してあげてってメッセージくれたから、そうする」
 
 僕は目を閉じてうつむいた。
 もしかして、と僕は自分の喉をさすった。
 誰もいない虚空に向かってつぶやく。
「そうだな……ジュリアも、すまなかった」
 
「え、今のが原因なの?」
 カレンが僕の声を聞いて、すっとんきょうな声をあげる。
「たぶん、僕は早くあんたたちに謝罪しなくちゃいけなかったんだ。だから、ずっとあんたたちを電脳内に残してた。逆に言うと、もう負荷はない。
 ……だから僕は、あんたたちを消さなきゃいけない」
 本当は、あのときにこれを言わないといけなかったのだろう。
 カレンが何か言いかけようとしたが、ウォルターがそれを制した。
「カレン、ソラ。わかってるだろ。俺たちはコイツのお荷物なのさ。任務はもうとっくの昔に終わってる。
 俺たちの守るルールは第一に任務、その次に情報の漏洩防止。俺たちの命はその次くらいなもんだ。俺たちにはどうしようもない。こいつが現場復帰するためにはな」
「大丈夫なわけ? あたしたちが消えちゃったら、またジュリアの時みたいにおかしくなるんじゃないの」
「大丈夫。今回は僕の意思だから。研究員にやってもらうんじゃなくて、僕の命令で行う」
 ソラが口を開いた。
「また、次の仕事に着くの?」
「わからない。正直、もう現場に戻るのは難しいかもしれない。この体じゃね……。けど、僕の人格パーソナルはたぶんまだいける。経験もあるし、勝算はある」
 
 カレンは顔をしかめる。
「なんか、あっけないわ。あれだけ死ぬのは嫌だったのに、あんたに言われると、なんか怒れない……。それがムカつくんだけど」
「主人格の命令というのもあるが、こいつの精神が安定したこともあるだろう。なんせ俺たちは全員、あの中にいるからな。影響がないわけがない」
 ウォルターが指さした先には、ガラス越しに、僕のボディが診察台の上で横たわっていた。
 彼らが消えても、見た目上は何も変わらない。
 僕の中で変化があるだけだ。
「じゃあ、みんな、すまなかった。
 システム、代替人格オルタナティヴ・ミミックを消去。
 対象はカレン、ウォルター、ソラ、それから……ジュリア」
 僕の目の前で、3人は音もなく消えた。

 
****

僕が目覚めると、まだ研究所内の診察台にいた。
 身体中につながれているケーブルの感触を確かめていると、モニターの隣にいたマキが僕の顔を覗き込んだ。
「アレックス、なのね?」
 僕はうなずく。
 もう、電脳内で信号を投げても、誰も反応しない。
 念のために全員の名前を呼んでみたが、何の反応も返ってこなかった。
 僕の中には誰もいない。
「副人格の消去は、終わった……けど」
「あ、喋れるようになってる」
「っていうか、さっきの会議、聞いてただろ」
「聞いてない聞いてない。ただちょっとモニターで見てた。ごめんなさい。あなたの話は機密が多いけど、やっぱりみんなの調子は見ないといけないし……」
 俺は苦笑する。ロボットの人格だけで4人も会議をしていたら、人類への反乱計画とでも思われたかもしれない。
「マキ、僕はたぶん……仕事が難しい、と思う。もう偽変が難しいんだ」
 僕は自分の手を開いたり閉じたりした。長いあいだ、別人格たちに頼りすぎたせいか、基本的な行動すら難しくなってきた。
「もし、もしだけど……もし次のスパイロボットを作るなら、僕をそのロボットの副人格にしてみたら、どうかな」
 マキは黙って聞いていた。
「今回ので学んだ。確かに人格を交替させるのはパーソナルに悪影響がある。けど、初めから人格が二つあれば、安定すると思う。僕はたくさん人格を持っていたけど、ひとりで悩んでいたからだめだったんだ
 僕が次の人格のサポートをする。今度は任務を放棄したりしない。その子が受けるストレスは僕が受ける。その子が悩んでいることは僕が聞く。その子が泣きたかったら、一緒に泣く」
 どうかな、と僕が聞くと、マキは頷いた。 
 僕は目を閉じて、スリープモードに入った。
 次に目覚めたときは、また僕でいられるだろうか。

 

 

****

 

 

闇。
 システム時刻もない。
 ボディの感覚もない。頭も、顔も、腕も、足も、指先も、存在しない。
 僕は僕という存在しかわからない。
 僕……?
 そう、僕は僕だ。
 a l e x.
 ふと出てきた名前。きっとこれが僕の名前。
 僕は僕の存在を認識している。
 闇の中に、小さな光がある。
 それは白い光じゃなくて、赤っぽいような、青っぽいような、恒星の爆発のような。
 それが何かはわからない。あれが誰かなのかもわからない。
 声をかけようにも、口がない。手を伸ばそうとしても、腕がない。
 
 こういうときはどうするんだったっけ。デジャヴがある。
 そうか、信号を送ればいいのか。
 僕らにはこれがある。
 僕ら?
 そう、僕にはかつて友人がいた。
 それが誰だったかは、わかっている。知っている。
 僕は信号を送る。なんて送ればいいんだったか。
 はじめまして、も変だろうか。会ってもいないのにはじめまして?
 相手を驚かせてしまうかもしれない。僕のことを知りたがるかもしれない。
 こわくない。僕は君をサポートするために造られた。
 あなたは誰? なんて言われてしまうかもしれない。

そうしたら、なんて言ってあげれば良いだろう。

 

文字数:22422

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