梗 概
喪われた影を重ねて
目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。
「どうやら無事目覚めたようだね。」
頭越しに低い男の声がして、柚木は思わず声が聞こえた方へ顔を向けようとする。
(え?なにこれ…?)
顔を動かした瞬間、目に飛び込んできたのは銀色の光沢で、柚木はそれが自分の右腕なのだと悟るのに時間がかかった。
男の名は白河といった。なんでもある犯罪捜査に協力してもらうべく瀕死の状態だった柚木に仮初の身体を与えたのだという。
「君はその犯罪に巻き込まれた被害者であり、犯行を目撃した唯一の証人たり得る存在なんだ。どうか力を貸して欲しい。」
まさかとは思ったけれど、完全に機械と化した自身の肉体を前にして、柚木はそれ以上言葉を発することが出来なかった。
初め、柚木はその犯罪はおろか生前自分が何をしていてどのような人物だったかさえ上手く思い出せずにいた。白河が柚木に新しい身体を与え捜査中柚木が暮らしていたという町で生活するよう指示したのもそうした方が記憶の想起がされやすいと踏んだからだという。
柚木の生まれ故郷であるらしいその町で暮らしてみると、柚木は暫し不思議な感覚に陥った。例えば確かに町並みに見覚えはあるものの、家や道や木々や人々の姿に何か漠然とした違和を感じてしまうのだ。一つ一つの風景は何となく覚えているのにそれらに少しずつ齟齬があるような。柚木はその意味について考えてみたが、やはり分からなかった。
ある時、柚木は白河からテープレコーダーに録音された声をいくつか聞かされた。その中の一つを聞いた瞬間柚木は酷い頭痛に襲われる。
「たぶん、こいつです。」
柚木の言葉に白河が頷くと、白河はどこかへ連絡し部屋を後にした。
“わたしには愛すべき神様がいた。神様は私のすべてだった。でもある日突然わたしの知らない黒い靄がやって来て、あろうことかそれは神様に襲い掛かった。わたしは必死に抵抗し神様を守ろうとしたけれどダメで…。そのまま靄は灰色に光る何かを振りかざして神様を…。”
目が覚めると、柚木はすべてを思い出していた。後悔と懺悔の気持ちが柚木の心を締め付ける。
(そうか、わたしは…。)
そしてこの日、柚木の証言によって発見された証拠が決定打となり犯人は逮捕された。
「わたし、神様に何もしてあげられなかった…。」
「君らは自分の飼い主のことをそういう風に見ているんだね。」
白河の言葉に柚木は空を仰ぎ見る。
「不思議です。わたしは今、神様と同じ姿形をしているんですよね。」
「捜査手続上、人型を採用し言語や意識の感覚をより強く芽生えさせる必要があった。初めから君の正体を隠していたのも一度芽生えさせた感覚にどのような影響が及ぼされるか未知数だったからだ。君には済まないと思っているよ。」
「いいんです。おかげで神様と同じ景色を見ることが出来たから…。」
そう言うと、かつて犬だった頃の名残か柚木は、少し寂しそうに今はなき尻尾を振るような動作を見せた。
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内容に関するアピール
犬にとって人とは何か、また犬が人の形を取った時にどのような戸惑いを覚え、自らを変遷させることになるのか、ということについて物語という形式を通して考えてみたいと思いました。シーンの切れ目に夢を採用したのは、そうした動物的な無意識が強化された人としての意識の後で改めて立ち現れること自体に深い意味があると思われたからです。(強い意識が獲得されるからこそ夢が夢として、あるいはかつて自分が犬であったという確固とした同定が得られるわけですから。)
実作では知性にとってそれを縁取る身体の形がどのような意味を持ち得るのかという普遍的な問題についても出来る限り深めて描いていく予定です。
文字数:286