梗 概
歩けない蝶の献身あるいは鹵獲
──私は死んだことを思い出した。
少女たちは、街の地図を作ろうと決心していた。
手児奈ともよは重度の自己免疫性関節炎で痛覚にマスキングが施されており、可能な限り自室のベッドから動くべきではないと診断されていた。ずっと昔から死を待つだけの心身に嫌気がさしていたこともあって、自室の外──この街規模の巨大病院である療養都市のどこに何があるのかを知りたがった。
有正幸恵は、心的外傷後ストレス障害を患い、医師によって療養のために特定の記憶を分離させられていた。そのくせ、失った記憶を取り戻したいと願い、街中でその手掛かりを探している。
そして、この街の特例が、二人の目的の手助けになった。脳の神経結節を読み取り、解析された脳機能を選択的に分離・増強・交換可能にする経頭蓋神経インタフェース(tNI)を、未成年の頭皮にも印刷する許可が与えられていることだ。
ともよは、鼻梁から両頬にかけて翅を広げたような蝶型紅斑のある顔で微笑む。
「幸恵の記憶が取り上げられる前に、私の記憶に交換するのよ」
一日の記憶が医師によって分離させられる前に。ともよは必ず毎回そう言って、幸恵の記憶を自分のものと交換した。ベッドに横になっているだけの記憶と外の記憶を。
そして、地図を描く。例えば、三丁目の散髪屋は、髪の毛とtNIの整備のために営業している、とかの情報を差し挟みながら。代わりに取り上げられるともよの記憶といえば、ベッド脇に座った幸恵がバタフライナイフをぱたぱた羽ばたかせるようにもてあそぶ手癖などの些細なものだ。
記憶のほかにも、地図作りが進めば進むほど、ともよからは健康が取り上げられていった。日に日に、関節炎症が悪化していったのだ。
地図作りも佳境に差し掛かったころ、ふいに幸恵が言った。
「記憶を取り戻せるかもしれない」
それが、幸恵の最後から二番目の言葉だった。
幸恵は首を括っていた。
そして、tNIは機械の正確さで首を括った時の記憶までもを正確に吸いだしていた。
tNIが吸いだし他者の脳内に生成する記憶は、単純な視覚や聴覚などの五感だけではない。その記憶とともに芽生えた情動も、再現される。
ともよはオンラインでバタフライナイフを買う。ともよの中で再現される幸恵の記憶で、ともよ自身を幸恵であると認識させるため。当人が永遠の不在ゆえに。
自室で横になっているともよの中で仮想された幸恵が、ベッドサイドのバタフライナイフを手に取る。いつものように中に刃を羽ばたかせようとした。けれど、記憶だけでは手癖までは再現できない。肉体──筋肉や神経の発達──が個々人で異なるから。
思うように動かない手が、ナイフを取り落として切り傷を作る。痛覚を抑制された傷を見て、自殺を経た幸恵の記憶から生まれた情動が、自殺後の世界を探索しようとしていた。
ともよの中で。
歩けない蝶は、その肉体を友人に与える事で──あるいは友人の魂を鹵獲することで──ようやく、痛むからだを生かし続ける理由を手に入れ、脱出のための街の地図を作ろうと決心した。
文字数:1274
内容に関するアピール
他者の記憶を存続させるために肉体を差し出したのか、それとも肉体をわずかでも生存へと向かわせる情動を得るために他人の記憶を利用したのか。どちらも救いではあると思うのだけれど、現実は後者が正しいのだろう。で、その正しさは非常に露悪的である。反省点は無数にあるが、ありきたりだと思っていた記憶の入れ違えトリックがこんなに難しいとは…… 説明不足にもほどがある。どうしても説明しなければならないのに梗概に入れられなかったこととしては、記憶の交換と分離は可能でも『複製』や『譲渡』や『改竄』は不可能であるという点。ここら辺は分散台帳型の記憶管理システムと脳内の情報量の上限下限などを根拠に説明するはずだった……
文字数:301