梗 概
ちいさな夜警
マルコとモモは小さな漁村に棲んでいる。村の周りは海に囲まれ、長く伸びた岬の先には燈台があり、陸側は暗い森に飲み込まれるようにして消えている。
村には今、6歳から12歳までの子どもは11人いる。子どもたちの仕事は交代で燈台に上り、灯台守のヴィゴールおじさんの手伝いをして、流れ星を探すことだ。子どもが流れ星に願いをかけると、願いはかならず叶い、贈り物が波に乗って浜辺に打ち寄せてくる。村で自給自足できないものを得るためのたいせつな役目だ。
ある日、ひとつ年下の妹のモモと一緒に流れ星探しの当番をすることになっていたマルコに、村はずれで薬やシロップを打っているヨランダおばさんは薬草チンキに使う強いお酒が欲しいと願ってくれと頼む。
けれど前からヨランダおばさんのケーキやクッキーを食べたがっていたモモが先に星を見つけ、願いをかけてしまう。翌日、浜辺に打ち寄せてきたのは砂糖やチョコレートの入った箱だった。マルコはモモのわがままを責めて喧嘩になってしまう。子どもたちは皆マルコを心配して探し回り、結果、その晩は誰も夜警の役を果たさなかった。
その夜、浜辺に贈り物が打ち寄せる代わりに、海から怪物がやってくる。
海から這いあがってきた怪物は、村人を食い荒らしてゆく。夜明けと共に怪物はようやく姿を消すが、マルコを探していた村人は皆犠牲になってしまった。マルコを探していたモモもまた怪物にくわれてしまい、翌日発見されたのは、足首が付いたままの靴の片方だけだった。生き残った子どもは怪物について語るが、同じものを見たはずなのに、証言にはただひとつとして同じものはなかった。
怪物を目撃した子供たちは、もう、夜警の役目を果たすことができなくなった。モモの仇を取るために海へと行こうとするマルコを止めたヴィゴールおじさんは、怪物の正体は流れ星なのだということを明かす。怪物は星の姿でやってきて、その姿を見たものが想像した通りのかたちに姿を変える。かつて初めてあの流れ星が降り注いだ時、その姿に不吉なものを感じ取った人々により、星はすべて、怪物に変わってしまった。夜警の子どもたちは流れ星は願いをかなえると信じ、贈り物に変えることによって、村の人々を防衛していたのだ。
それでは他の人々はどうなったのかと聞くマルコに、ヴィゴールおじさんは首を横に振る。大人たちにもすでに、この村の外のことはとうにわからなくなっている。
もう村の人々は皆流れ星の正体を知ってしまい、次の星を防衛する手段はない。皆が弔いの準備をする中、マルコはひとり燈台に上る。その晩、ふたたび降り注いだ星にマルコは願いをかける。あの星は怪物ではない、願いを叶えてくれる星だ。お願いします、モモを返してくださいと。
翌日、怪物にさらわれたはずの子どもたちが浜辺に流れ着き、戻ってくる。戻ってきたモモは腕に赤ん坊を抱いている。マルコは赤ん坊を抱きあげ、皆に言う。この子たちは皆星の子ども、あたらしい夜警なのだと。
文字数:1229
内容に関するアピール
海辺の村を舞台に暮らしているひとりの子どもが、想像力だけを頼りにちいさな世界の終わりを食い止めようとするお話です。同時に、すでに滅亡してしまった人類の想像力だけが残って海辺にゆらいでいるような、たよりない世界観を描きたいと思います。
この世界では、すでに人間の世界は海によって包囲され、細かに分断されています。ストーリーラインは童話的に進行していますが、ラストでは、この世界はもはや維持されているといっても良いのか否か? というオチによって、流れ星と海によって作り出される『外の世界』の圧倒的な大きさと海辺の村の小ささを比較させます。
またモチーフとして、人間が暮らしていた最小の環境の一つである『燈台守』を用いようと思います。燈台守は生涯夫婦で燈台に暮らし、自分自身は絶海の孤独の中に棲みながら、夜の海をゆく船に向かって燈火を示し続ける役割を果たしました。
広大な嵐の海、灯りに照らされる刹那にだけ浮かび上がる航路、燈台にしがみついて必死に灯りをともし続ける燈台守、といった絵を作中で描いていきたいと思います。
文字数:453
夜警
晩秋の朝、浜辺にうちよせる波はさめた青緑色をして冷たい。夜じゅう強い風が吹いた次の日には、マルコは他の子どもたちと一緒に石ころだらけの浜辺を歩き回り、黒い海藻の間に転がった流木を拾い集める。
左右を黒く切り立った岩に囲まれた湾には、朝ごとに、様々な漂着物が流れ着く。黒くもつれたような海藻、白い貝殻、それに、骨のように白くなった流木。いよいよ寒さが厳しくなるころまで薪を温存しておくためにも、焚きつけにする流木を集めておくのは子供たちのための大切な仕事だ。でも、流木拾いは子供の仕事だと思われているから、すこし年かさの男の子たちにはやる気というものがまるでない。
中でも今年で10歳になるそばかすのジャンは、さっきからすぐ立ち止まっては死んだ魚を足でひっくり返してみたり、岩にこびりついたムール貝をこそげおとしている。フェルトで出来たブーツの中にちっちゃなナイフを入れていて、ナイフで岩からはがしたムール貝をおやつ代わりに生のまま口に運んでいた。せいたかのっぽのジャンが上を向き、塩辛くて美味い汁といっしょに貝をつるっと呑んでしまうところを横目で見ながら、いいなあ、とマルコは思った。マルコはまだ子どもだし、貧乏なおばあさんと妹のモモと一緒に暮らしているものだから、ジャンみたいなナイフをもらえるあては今のところない。骨のように白くなった流木を腕いっぱいに拾い集めたマルコは腰を伸ばして立ち上がり、しずかにうちよせる波の向こうへと目をやる。
ゆるくカーヴしながら続く片端はそのまま長く伸びて岬となり、黒っぽい石を積み上げた堤防につながっている……
この湾とは逆の方向にはもう少し大きな湾がひとつあり、古くからの漁港となっている。今頃の時間は暗いうちに漁に出た男たちが戻ってきて、にぎやかになりはじめているころ合いだろう。海に背を向けて振り返れば、そこには青灰色のスレートを積み上げた家々が軒を寄せ合っている。マルコたちの、村がある。そして港とは逆の方向、長く長く伸びた岬の先端には、もう何百年も前から打ち付ける波にさらされつづけていたかのような塔がひとつ立っている。
白いドーム。
まるで一塊の石花石膏から切り出したかのように、継ぎ目ひとつなく見える姿。
ドーム状の丸い屋根は銀色をしていて、夜中に見ると内側から光を放っている。丸い塔の壁に等間隔で並んだ縦に細長い窓。昨日は一晩中、あの灯台に明かりがついていた、とマルコは思う。でも今朝、浜辺で流木を拾っているのは子どもたちだけ。残念ながら昨晩の夜警も流れ星を捕まえることができず、天からの贈り物を受け取ることもできなかったようだ。
「マルコ。今日はお前とモモも夜警なんだろ」
低い声でジャンが言う。ジャンはマルコよりも二つも年上なのに、流木集めがはかどっている様子はさっぱりない。やる気がないのだ。マルコはもう木っ端をあつめるような子どもの仕事をするのは馬鹿らしいと思っているし、だいたい、村で誰よりも大きな家に住んでいるマルコは、焚きつけにする流木を集める必要なんてたいしてないんだろう。やめなさいよ、ジャンのばか、と向こうでスカートいっぱいに木っ端を集めていたリナが怒鳴る。声は冷たい海風に千切れ千切れに吹き飛ばされ、ジャンは耳に指をつっこんで聞こえなかったふりをした。
「雑貨屋のヨランダばあさんが、薬草チンキの材料に使うアルコールが欲しいんだってさ。軟膏用の蜜蝋も、上等な石鹸の材料に使う薬も足りないってよ。でもお前、ちゃんと『お願い』できるのかよ?」
ジャンはにやにやしながら、小さなナイフを振ってみせた。銀色の刃がきらきらする。マルコは黒くもつれた海藻の間に目を落として、ジャンのことなんて見ていないふりをした。でも、ジャンのナイフがどんな風なのかぐらい、そっちを見なくったってわかる。刃は大人の中指ぐらいの長さがあって、柄は赤く染めた鹿の角で作ってある。ジャンはそのナイフが自慢で、林檎の皮を剥くときや、硬いチーズの表面をこそげるとき、何の用事もないときにもいちいちブーツの中から引っ張り出してくる。大人が使うにはちっぽけで、そう太くもない紐か、小枝を切るぐらいにしか使えない。だからわざわざジャンのような年頃の男の子のためだけ作ったのだということが一目でわかる。
「気にするんじゃないわよ、あいつ、ガキっぽいだけなんだから」
こっちまで歩いてきたリナが、マルコに耳打ちする。リナはもう12歳、赤っぽい髪を二本の三つ編みに結んで、毛織の肩掛けの上に垂らしている。マルコは黙ってうなずいた。「あんたのほうがずっと働き者だし」とリナはちょっと心配そうに続ける。
「あんな玩具なんて持ってなくても、大人になれば、すぐ、本当のナイフがもらえるでしょ。大人の男の人が使うやつ。ロープを切ったり、木を削ったりするのに使う、本当のやつよ」
でも、マルコが大人になるには、あと十年はかかるだろう。産まれてから今までよりもずっと先の未来なんて、永遠にやってこないような気がする。
マルコの村は岩だらけの海岸から山に向かっての切り立った斜面の上に広がっている。
青灰色のスレートを敷き詰めた石畳の路地があり、同じ石を積み上げた背の低い家々は海からの風に吹き飛ばされないように軒を連ねて身を寄せ合っている。大人の男たちはひとりを除いて皆漁師で、朝早くまだ暗いころに船を出して海に出て、明け方ごろには網いっぱいに魚をとって戻ってくる。大変な仕事だ。冷たい海に落っこちて死んでしまうことだってありえる。だから男たちは漁に出る以外の仕事は何もしない。そこから後の時間はずっと、のんびりと網を繕ったり、船の面倒をみたりしながらおしゃべりをして過ごす。急な斜面にぎりぎりへばりついた土を耕しジャガイモや麦を育てるのは女の仕事、牛や山羊の面倒を見るのも女の仕事。籠いっぱいに流木をあつめて浜辺から戻ってくると、ちょうど、男たちが漁から帰ってきたところだった。今日は大漁だったらしい。船の上からお互いに呼び交わす塩辛声も明るい。
マルコはそっちに背中を向けて、石階段になった細い路地をのぼってゆく。
港からも浜辺からも離れたところ、複雑に入り組んだ路から石畳がやがて剥げて、赤土がむき出しになった路の一番奥のどん詰まりにマルコの家がある。こけら葺きの屋根の上を苔や草が覆った小さな小屋が見えてきたところで、マルコはやっとほっとした。戸口のすぐ隣がもう小さな菜園になっている小さな家。煙突からはほそく煙が上がり、おばあさんが朝食の準備をしているのだということがわかる。
それに、入り口のところの釘には、アザラシの皮で作った重たい外套が引っかけてあった。ヴィゴールじいさんがいるのだ!
「ただいま、ばあちゃん!」
木の扉を開けると、中にいた牝鶏がせわしなく鳴きながらあわてて逃げてゆく。おかえり、とばあちゃんの声が聞こえる。大きなペチカがひとつ、ばあちゃんの寝台の他にマルコとモモのための寝台がひとつ、足がガタガタになった木のテーブルがひとつ。そんな何もない貧しい家の中いっぱいに、豆のシチューを煮る良い香りが漂っている。ばあちゃんは部屋の奥にある鋳鉄のストーブの上にかがみこみ、豚の脂を入れた豆のシチューがこげないように、木の匙でゆっくりとかき混ぜている。そうしてベンチの前に置かれた長椅子の上に腰かけた大柄な男がひとり。もう灰色になった髪、陰鬱だけれど知的な水色をしたひとみ、もじゃもじゃの頬髯。灯台守のヴィゴールじいさん。
「おかえり、マルコ。先にお邪魔していたよ」
ヴィゴールじいさんの声は深く、穏やかで、耳障りがよい。とたんに恥ずかしいような気持ちになってしまい、もじもじと黙り込むマルコに、ヴィゴールじいさんは水色の目をした目だけで微笑った。
「ヴィゴールさん、モモは?」
「モモだったらさっき、卵を取りに行ったよ。君もここにかけなさい。一緒に朝食にしよう」
ヴィゴールじいさんは村の中で唯一漁師ではない男だ。独身で、家族はおらず、普段はひとりで灯台の中で暮らしている。けれど男の独り暮らしは何かと不便なので、こうやって、ときどきマルコの家に食事を食べに来るのだ。孫ふたりをかかえたやもめ暮らしのばあちゃんに、お礼という形で何かと援助をするためでもあるのだろう。
今朝の朝食は挽き割りそら豆の粥に豚の脂を入れたもの、じゃがいもと豆がいっぱい入ったずっしりとしたパン、それに、灰に埋めて蒸し焼きにしたガチョウの卵だった。たっぷりとした温かい食事で朝から体が温まる。エプロンの中に卵を入れて戻ってきたモモは、朝ご飯を平らげるとさっそく、ヴィゴールじいさんの膝の上に居座った。
「昨晩はたいへんな寒さだったでしょう。灯台のなかで、ひとりで…… クリームを入れたお茶でも作りましょうか」
「いえ、ありがとうございます、奥さん。それに大したことでもないのですよ、あの中は案外に暖かいので。子どもたちの方がよっぽど大変だ」
「ヴィゴールじいちゃん、昨日は、星は降ってこなかったの!?」
モモが大声を上げてヴィゴールじいさんとばあちゃんの話に割り込む。乳歯が二本抜けて、前歯にピンク色のすきまができていた。
「モモ、うるさいよ」
マルコのほうが恥ずかしい気持ちになる。ヴィゴールじいさんはにっこり笑うと首を横に振り、まだ細くやわらかく、ぺったりと頭に張り付いたモモの髪をなでる。
「いやマルコ、いいんだよ。そうだね、昨日は星降りはなかった。おとといも、その前も」
「今年はもう、星降りはないのかしら」
「そうかもしれませんね。もう、以前よりもずいぶんと星降りが穏やかになった」
マルコはじれったくなる。本当に? ほんとに星は降ってなかったのだろうか。昨日の当番は確かハンナとヨハン、それにのろまのアニエッロ。リナみたいにしっかりした頭のいい子どもはいない、ヴィゴールじいさんが目をそらしているうちに、うっかり居眠りをしていたりするんじゃないかしら。
「でも、星降りがないと困るでしょ」
マルコが声を上げると、ばあちゃんもヴィゴールじいさんも、同時にこっちを見る。マルコは思わず肩をすくませるけれど。
「……だって、ヨランダおばさんの店で、薬草チンキをつくるためのアルコールが必要なんでしょう? だったらはやく星を捕まえなきゃ。カルロの家のじいさんが、リューマチが痛むっていつもこぼしてるって言うし……」
ちいさな声でいうマルコをしばらくじっと見つめて、それから、ヴィゴールじいさんは手を伸ばす。マルコの頭をなでる。
「よくおぼえていたね、ヨランダ奥さんの番だって」
マルコは天にも昇るような気持ちになる。うっかりにやにやしてしまいそうなのを、奥歯をぎゅっとかみしめてこらえた。ヴィゴールじいさんには、そんなの、マルコだったらおぼえていて当たり前だったんだ、と思ってもらいたい。
「でもね、私は星降りなんてないほうがよいと思っているんだよ」
「どうして? 皆、順番待ちがつかえているでしょう」
「どうしても、だよ。……まあ、君たちのような子どもに、この寒い中一晩中起きていてもらいたくはないからね」
不満そうな顔でヴィゴールじいさんの膝の上にのっかっていたモモが、「どうしてぇ?」と声をあげる。
「もう、お砂糖がないんでしょ。チョコレートもないってヨランダおばさんが言ってた。ずーっと、ずーっとないんだって」
「モモ!」
「だって、ないものはないんだもん。モモはお酒よりお砂糖のがいい」
さっきまでの得意な気持ちはぜんぶ吹っ飛んでしまって、今は、顔から火が出そうなぐらい恥ずかしい。すぐにモモの手を引っ張って外に追い出してやりたかったけれど、体をゆすりながらワガママを言っているモモに、ヴィゴールじいさんは何故かにこにこ笑っている。
「でも、今順番待ちリストがすごいことになってるって……」
釘もないし、木綿もないし、家の屋根を塗るペンキだって。
「釘は急がないし、やぶれたシーツやシャツは女衆が繕ってくれる。あたらしく建てる家だって急がないだろう?」
「そうだけど……」
「砂糖はないかもしれないが、塩はまだたっぷりある、ビタミン剤も。そういえば前にあたらしい鏡を願ってくれたのは、きみだったね、マルコ」
そうだった。あのとき星を捕まえたのはマルコで、鏡を割ってしまって苦労していた女衆にはたいそう感謝されたものだった。ヴィゴールじいさんにも褒めてもらった。きみはとても目がいい、それに、集中力があるんだね、と。……あのときぐらい嬉しかったことは、他には一度もなかった。
この村は、海と森との間に挟まれて、孤立している。
村で手に入るものは、海で取れるもの、畑で採れるもの、それに森からとることができるものぐらい。羊の毛を紡いで毛糸をとることはできるし、魚を絞って灯り用の油を取ることもできる。灰と脂をつかって石鹸を作ることも、木を削って皿を作ることも。でも、灯油や眼鏡、ステンレスのフライパンや船べりに塗るためのペンキは、村で作ることはできない。だから全部、星降りを待つことになる。子どもがあの灯台に交代で籠って当番をし、流れ星を捕まえ、願いをかけて手に入れることになる。
流れ星は、子どもの願いをかなえることができる―――
ときおり、夜空に降ってくる流れ星は、子どもがかけた願いをかならず叶えてくれる。だから子どもたちは灯台で夜通し夜警につき、星をさがす。あたらしい皿が欲しいと願えば翌日には皿を入れた木箱が浜辺に流れ着いたし、漁の時に切る服が欲しいと願えばフリースや防水素材の衣料がいっぱいに詰まった箱が浜辺に届いた。これは子どもにしかできない大切な役割、星降りの仕事だった。けれども星降りは年に何十回もある年もあれば、一度もおこらない年もある。大人たちは慎重に相談して必要なもののリストを作り、何から願えばいいのかを子どもたちに指導したけれど、星降りの瞬間にうっかり自分の願いが出てしまい、まるで関係のないものを手に入れてしまうことだってしょっちゅうだ。あちこちの家にはそういう間違いの結果で降ってきたものの恥ずかしい痕跡が残っている。プラスチックの玩具、小屋ひとつがいっぱいになるくらいのコミック本、箱いっぱいの珈琲や紅茶、他にもいろいろ。
「おにいちゃんのワガママ。いっつも、モモにばっかりいじわるいう」
「モモ!」
口をとがらせるモモを、マルコは今度こそひっぱたいてやろうかと思った。ワガママだって? どこが! 自分勝手なのはモモじゃないか。「こら、こら」と言ってヴィゴールじいさんは抱き上げたモモをマルコから遠ざけ、「あんまり、お怒りじゃないよ」とばあちゃんはマルコをたしなめる。
「今夜はお前がモモを夜警につれていかなきゃいけないんだから」
「でも、ばあちゃん!」
「お前が小さかった時には、リナが手をひっぱって連れて行ってくれただろう? 今日はお弁当に、林檎を煮たものをパンにはさんであげるから。甘くておいしいよ、だからあんまり怒るものじゃないよ」
そうやって、ばあちゃんはいつもモモをあまやかす。マルコばっかり損をするのだ。ぎゅっと口を横に引き結んで、マルコはそっぽを向く。ばあちゃんはやれやれとため息をつきながら、火のそばに置いた薬缶を持ち上げて、マルコのカップに熱い紅茶をあたらしく注いだ。
夜。
海はわだかまる闇となり、しずかに打ち付ける波の稜線だけが細い銀色の線のように浮かび上がる。昼にはまだしも薄日が射していたものが、太陽が沈んでしまえば、あたりは凍えるほどに寒くなる。マルコはラッコの襟がついたコートの上からぐるぐるとマフラーを巻き付け、ばあちゃんはモモの頭を毛織のスカーフできっちりと包んでやった。カンテラを片手に外に出れば、見下ろす村はもうすっかり夜の闇の中に沈んでいる。見えるものと言えば、閉じた雨戸の隙間から細く漏れる灯りだけ。
「気を付けるんだよ、マルコ。モモのことを気にかけてやるんだよ」
「わかってるよ、ばあちゃん」
ばいばい、とモモは上機嫌で、桃色の手袋をはめた手を振る。はあっと吐き出したため息が白くけぶる。マルコは片手に妹の手を握り、もう片手に夜食を入れたバスケットをかかえて、身長に坂を下り始めた。
昼にはまだしも活気のあった路地が、太陽が降りる頃にはすべての窓もドアも締め切られ、村は完全に無人となってしまう。ヴィゴールじいさんの測量の結果、星降りがあるかもしれないと思った夜は、大人たちが外に出ることはけして無い。うっかり見当違いに星を見てしまわないため、と大人たちは説明をしていた。夜警につくのは子どもだけ、間違えて大人が星を捕まえてしまってはいけない。
岬へと続く細い道には白い石英の砂が敷かれ、どんな暗がりの中でもそこだけはくっきりと浮かび上がってみえるようになっている。細い路地の間にカンテラが見え、またチラチラと誰かが道を下ってくる。リナだ。赤いショールをきっちりと頭に巻き付けた下から、太い三つ編みが見えていた。
「今日はモモも一緒だったの?」
「うん。途中で寝ちゃうかもしれないけど」
「そんなことないもん」
リナがにっこりと笑いかけると、モモは前歯の欠けた口でにいっと笑った。厄介なことに、ならなきゃいいけど。リナは腕にさげていたバスケットを軽く揺らして見せる。
「マルコ、あんたんちの弁当はなあに?」
「ばあちゃんが、林檎を煮た奴とヤギのチーズとを、柔らかいパンにはさんでくれたよ」
「あら、いいじゃない。うちは母さんと一緒にそば粉のクレープを焼いて、酢漬けの茸と目玉焼きを包んだの」
あとで交換しましょ、とリナが言う。こくんとうなずきながら、マルコはぼんやりと思う。リナはもう半分大人の仲間入りをしている。刺繍のオーバードレスをピンでとめ付けた胸元が、ふっくらとやわらかくふくらみはじめている。たぶん、一緒に夜警につくのも、あと数回もないだろう。
だいたい11歳から13歳の間で、子どもや夜警の役割を卒業する。5歳からずっと夜を守り続けてきたリナも、もうすぐ役目を降りることになる。でも、小さな子供たちにやさしくて、強く頼りになったリナの代わりを、誰が務められるというのだろう。
広場のところまで降りてゆくと、誰かが、門扉代わりに二つ建てられた石の柱に寄りかかって、口笛を吹いていた。ジャンだ。
「遅かったな、リナ。てっきりどっかの誰かと干し草小屋の中にでも寝っ転がってて、夜警を忘れちまったのかと思ってた」
「自分でも意味分かってないことを言うのはやめといたほうがいいわよ、バカみたいに見えるから」
リナはツンと鼻をそびやかして、ジャンの横を素通りする。二人が何の話をしているのか、マルコにはさっぱり分からない。「ねえねえ何の話?」と騒ぐモモの手をひっぱって、マルコも黙って横を通り過ぎる。
ぶすっとした顔になったジャンも、すこし離れて三人の後からついてきた。今日の夜警はこの四人だ。波が繰り返し打ち付ける堤防の上、岬の先端へと長く長く続いた白い道の果てに、丸屋根を持った白い塔が立っている。灯台がある。
ヴィゴールじいさんは、灯台の中を温めて、四人を待っていてくれた。
灯台の中の作りは、村の他の家とはまるで違っている。どこに灯りをつけているようにも見えないのに昼間のように明るく、ペチカを焚いているわけでもないのにとても暖かい。灯台の地下一階にはベットが持ち込まれてヴィゴールじいさんがひとりで寝泊まりをしており、二階には大量の書付けを入れたキャビネット、真鍮製の機械、他にも用途がよくわからないものがいろいろ。
ヴィゴールじいさんは、「よく来たね」と子どもたちを迎え、二階のホールで熱い珈琲を振舞ってくれた。
継ぎ目の見えない床も、乳白色をした壁も、内側からぼんやりと光を放つ天井も、この灯台以外のどこでも見たことがないもの。想像したこともないようなものだ。モモは灰色の目をおおきくしたまま黙り込んでしまい、珈琲を口にもつけずに、ぴったりとマルコのとなりに張り付いて一言も口を効かなくなってしまう。一方で、夜警について長いリナやジャンは、馴れてすっかりくつろいだ態度だった。
「昨日もおとといも何にもなかったんだろ。今日も何にもねえんじゃねえのかよ」
「そんなにイヤだったら、帰って兄さんたちと一緒に寝てればいいじゃない」
とたんにジャンは黙る。ジャンの三人の兄さんは皆漁師だ、胸も肩も分厚い強靭な若者たちで、らっこの帽子の上で凍り付く冷たい潮にもびくともしない。けれどもまだようやくひょろひょろ背が伸び始めたばかりのジャンには、兄の手伝いはまだまだ荷が重い。
「マルコ。あたしがモモに、見張り部屋を見せてあげようか?」
「ううん、ありがとう、リナ。僕が行くよ」
珈琲の香り高さにごまかされているけれど、デミダスカップ入りの熱い飲み物の中には、異質な苦みがかすかに混じっている。これがないと朝まで居眠りをせずに夜警を勤めるのはむつかしい。でも今日は初日だ、少しぐらいモモが居眠りをしたって怒るわけじゃない。マルコが目配せをすると、ヴィゴールじいさんはうなずいた。マルコは「おいで」とモモを抱き上げた。
一番上のフロアまでゆくと、そこは、天文台になっている。部屋の中央には砲塔のような望遠鏡がそびえ立っているが、今では役目を果たさなくなって久しい。傍らから見ると、まるで枯れて斜めにかしいだ木のようだ。代わりに持ち込まれているのが背中がリクライニングになったクッション入りの椅子が四つ。それぞれ望遠鏡のほうへと頭を向けて、四つの方角に向かって置かれている。
今、ドーム状の丸い天井は、乳白色の硝子のように白い色をしている……それが、全員が席に着いたところで、ヴィゴールじいさんが灯りを落とすと、霧が吹きはらわれたかのように一気に透明へと変化する。そうなれば頭上に広がるのは星空、一面の、針の先で突いたような星の輝く空となる。
「モモはここかな。ここに寝て、一晩中、星が落ちてくるのを探すんだ」
「にいちゃんといっしょじゃダメなの?」
ぎゅっと腕にしがみついてくるモモに、図らずも、マルコは愛おしさのようなものを感じる。頭にぺったりと張り付いてしまう細い金髪を、手で撫でてやった。
「兄ちゃんは隣の椅子にいるから平気だよ。ヴィゴールじいさんもいるしね。ただ一晩中起きていなきゃいけない、それが決まりだ。星を見落としてはいけないから」
確実に拾わないといけない。だって、ヴィゴールじいさんが見せてくれた帳面には、村の人たちが必要としているものの長いリストが出来上がっていた。この順番待ちのリストは、厳密で公平なルールの元、作られている。だからこそ私利私欲で願いをかなえようとすることも、星を見逃して贈り物をもらいそこなうことも、けっして、許されはしないのだ。
「モモが失敗したらどうなるの?」
「ほかの誰かが見つけるよ。だから四人もいるんだから。さ、モモ。下に戻ろう? さっきの珈琲もちゃんと飲まなきゃ、飲まないとねむくなっちゃうよ」
「あれ、苦いから、やだぁ……」
「がまんしろよ、兄ちゃんが半分飲んでやるから。モモだって、立派な夜警になりたいだろ?」
オーバースカートの膝のあたりをぎゅっと握りしめて、モモはうつむいていた。けれどもやがて、かすかに頭を建てにふる。マルコはにっこりとすると、「さ、戻ろ」とモモの手を引いて歩き出した。
夜。
ヴィゴールじいさんが天文台の灯りをおとす。「じゃあ、頼んだよ」と言いおくと、両開きになったホールの扉を閉める。ほんの一呼吸ほどの間をおいて、さっきまでは乳白色をしていた頭上のドームが一気に透明になった。寝椅子に横たわったマルコは、頭上のドームが掻き消えてしまったのではないかと疑った。それぐらいに完璧に、さえぎるものの一つもなく、頭上に広がった夜の星空。
星々の間をうす白い天の川が流れ、凍り付くように冷たい大気は硝子のように透き通り、またたくことのない星々が銀砂を撒いたように頭上いっぱいに広がる。赤く燃えるアンタレス、青白く光るのはシリウス。白く、薄緑がかって、あるいは金色に、けれども、総じて冬の大気に洗われたように清らかにきらめく星々。
「あっ!」
モモが大声を上げる。
「ながれぼし!」
間もなく、こたえるようにくすくすと笑い声が聞こえた。「違うよ、モモちゃん」とやさしく言い聞かせるのは、リナの声だ。
「あれは、普通の流れ星。宇宙に浮いている小石やチリが何かの拍子に地球に落ちてくると、スッと燃えて、ああいう風に光るの」
そう、普通の流れ星だったら、いくらでも見つかる。でも、『星拾い』の星は、そうではない。
あっ、とため息のようにあえかな声が聞こえた。四人の子どもたちは同時に星空を見上げた。そして、スピカの傍らにその星を見つけた。水銀の粒のようにかすかに震え波立つ星。今しも雫となって窓ガラスを滑り落ちようとしている露の珠のような、その星を。
「モモ、あれだよ!」
星は震え、銀から淡い桃色がかった色へと変わり、そして、まぶしい金色へと変じた。そして夜の天蓋を滑り落ちるようにして、スッと地へと流れ落ちてゆく。ぱちぱちと金の火花を振り撒きながら。
マルコは寝椅子の肘を握りしめた。薄緑の目を大きく見開き、頭の中で何回も唱えた。ヨランダおばさんのためのアルコール、アルコール、アルコール!
長い時間が過ぎたように思えたけれど、実際は、ほんの一瞬だったのだろう。星が海の彼方へと落ちたとき、誰ともなく、ため息が漏れた。「今回は俺だったなあ!」と陽気な声を上げたのはジャンだった。
「何を頼んだのよ、ジャン」
「何って、冬用の長靴やジャケットだよ。兄貴たちが去年のやつを引っ張り出して来たら、ずいぶん痛んでたみたいだったしな」
「それじゃリストと違うよ!」
思わずマルコは大声をあげる。その超えは丸天井に反響して、びっくりするほど大きく響いた。
「なんだよ、だったら次はヨランダばあさんのにするよ。それならいいんだろ?」
「そういうことじゃないよ!ちゃんと順番守れよ、横入りするなよ!」
二人のシートは望遠鏡を真ん中に、ちょうど、向かい側にある。さもなければマルコもジャンも立ち上がり、取っ組み合いをはじめていたかもしれない。リナが「やめなさいよ」と穏やかな声でなだめる。
「じゃあ、次はみんなでヨランダおばさんの欲しがってたお薬を頼むってのはどう? 今日は幸先がいいじゃない、たぶん、あと二個や三個はすぐ落ちてくるわよ」
リナにそういわれて、しぶしぶとマルコはシートに元通り背を預けた。星空をきつくにらみつける。
願いをかなえる流れ星は、ふつうの流れ星とは違う。普通の流れ星の正体は、宇宙に浮かんだ小さな岩やチリなんだ、とヴィゴールじいさんは教えてくれた。ばあちゃんからの弁当だとか、洗濯したばかりのシーツやタオルやなんかを届けにゆくたび、目をまあるく見開いて壁に貼られた星図やら本棚に詰まった色付きの本やらをながめているマルコに、そのたびにヴィゴールじいさんはいろんなことを教えてくれた。この星の周りを覆う幾層にもなった空気や地磁気の層のこと、この星の周りをまわる月のこと、太陽のまわりをめぐる星々のこと、その間を雲のようにただよう小惑星のこと……
普通の流れ星は、地球の周りに浮かんでいるチリが何かの拍子で地球に向かって落ちてきたものだ。それが大気とこすれ合う瞬間に燃え上がり、空に一瞬の光を残してきえてゆく。
星拾いの星は、それとは違う。
月のまわりをめぐるように浮かんでいる『星の巣』の一部が地球に向かってしずくのように落ちてくる、特別の星だ。
星の巣から落ちてくる星には、人の願いを叶える力がある。星をみたひとが願いをかければ、願った通りの贈り物になって降ってくる。それこそ、どんな願いだって叶う。想像することが出来る限りの贈り物を届けてくれる。
けれども、星は、いつも当たり前に降ってくるわけではない。星の巣は太陽の光から隠れて、月と地球の周りをぐるぐる回っている。一晩中空を見上げていたって、何の収穫もない日なんていくらでもある。だいたい夜遅くまでずっと起きていると、途中から眠くなっていってしまう。だからヴィゴールじいさんは夜警の子どもたち全員が寝てしまわないように交代に寝かせてくれたり起こしてくれたりもするし、眠気覚ましのコーヒーも入れてくれる。
でも……とマルコは思う。さっきジャンが声を上げてから、ずっと、それこそまばたきもしないぐらいのつもりで空を見張っていた。なのに今ではまぶたが重くて仕方がない。ヴィゴールじいさんがそっとやってきて、体に薄い毛布をかけてくれようとする。腕をつっぱって嫌がりながら、重たいまぶたをこすりこすり、不思議な気持ちでヴィゴールじいさんを見る。
星を拾えば願いが叶う。なのに、ここに来る時のヴィゴールじいさんは大きな黒メガネをかけていて、わざと空を見ないようにしているみたいだ。まるで星を見ないようにしているみたいに。ヴィゴールじいさんには、自分の願い事はないんだろうか?
「あっ、星!」
そのとき、モモが、大声で叫んだ。
「にいちゃん、お星さま! お星さまが流れた!」
とたん、マルコは薄い毛布をはねのけて、シートから飛び起きた。
自分もシートから飛び降りたモモは、真上を見ながらぴょんぴょん飛び跳ねて大喜びをしている。そのままひっくりかえって転びそうになるのを、ヴィゴールじいさんがあわてて抱き留めた。「こら、ジャン。ちゃんと上見て!」とリナがしかりつける。「わかってるよ」と答えるジャンは、しぶしぶとそのままシートに戻る。
「にいちゃん、お星さま見たよ。さいしょ金色でねえ、モモがお星さま!って思ったら青くなってねえ、それからすぐ桃色になって、シューって海へと飛んでいったの。ね、あれホントのお星さまだよね?」
「ああ、そうだね。それは確かに願い星だ。よく見つけたね、モモ」
ヴィゴールじいさんはそうモモをほめるけれど、マルコは、それどころの気持ちじゃなかった。モモに先を越された。しかも。
「なあモモ、ちゃんと願い事はしたよな? ヨランダおばさんが欲しがってたお酒やミツロウが欲しいです、って」
モモは一瞬、ぐっと黙るけれども。
「したもん。お願いごと、したよ」
顎をぐっと突き出して、そう言う。マルコにはどうしても本当らしく思えなかった。本当に? そうモモの腕を掴もうとするのを、「こら、こら」とヴィゴールじいさんが二人の間に割って入る。
「二人とも、シートに戻りなさい。モモはよくやった、えらかったな。最初の星だ。さあマルコ、元の所に戻りなさい。今日はずいぶんと星が降ってくるようだ、またすぐ次の星が来るかもしれない」
ヴィゴールじいさんは、だから、ヨランダ叔母さんの次にリストに載っているのは誰の贈り物なのかを調べようともしなかったし、次はそれを頼むよと、頼みもしなかった。
「なんだ、長靴か。ヤッケもあるぞ。おい、どいつがこんなもんを願ったんだ」
「俺だよ!」
得意げな声で手を挙げたのは、ジャンだった。
油紙で包まれたり、紐で括られたりして木箱に詰め込まれていたのは、漁に出る男たちが着るための服の類だった。水が染みないだけではなく、防寒性にも優れたゴム素材とフリースとが二重になった上着やつなぎ、滑り止めがついたごつい長靴。特に裏地が綿になった長い手袋は、これからの季節にはありがたいだろう。後回しでいいって言ってたのによ。そう嬉しそうに悪態をつきつつも、男たちの声は明るい。あっという間にもみくちゃにされて、そばかすの散った頬を真っ赤にしながらニヤニヤしている。と、もう一個の木箱も浜に引き上げられてくる。釘で止められた板にバールの先を突っ込み、力を込めて板を割る。「おや、まあ」と声をあげたのは、後ろから様子を覗き込んでいた女衆のひとりだ。
「もしかして、それ、お砂糖の缶じゃないの? そっちはチョコレートじゃない」
こちらの箱の中身はというと、すべて、お菓子の材料になるような、甘いものばかりだった。
10kg入りの大きな缶入りの砂糖がいくつもあった。グラニュー糖だけではなく、大きな粒のざらめや、霰粒のようなワッフルシュガーもある。缶入りのコンデンスミルク、アーモンドやピスタチオ、ドライフルーツ。小瓶入りのバニラエッセンスやオレンジビター。そして、何よりもたっぷりと、チョコレートがある。
スイート、ビター、ホワイト、煉瓦ぐらいも大きいチョコレートの塊がいくつも、いくつも。
子どもたちに交じって、大人の声でも歓声があがる。ほう、とひときわ大きな声を上げた男が一人、ニヤニヤ顔をした妻にわき腹を肘でつつかれた。
「こりゃすごい。よく箱ごと沈まなかったなあ。ひとまず荷車に積み替えるか」
一度中身を確かめただけでも、この大きな箱の中身がいっぱいに甘いものばっかりだったということが分かる。「こりゃあ、何年分あるかねえ」と誰ともなく、苦笑の中にも嬉しそうな声が漏れた。
甘いものはあくまでも嗜好品だ。優先順位が低いから、一度在庫が切れてしまえば、なかなか補給されることがない。ただの白砂糖や蜂蜜ならば保存食を作るのにも使うから、定期的に補充する必要もある。が、製菓材料をこれだけというと、一体何年ぶりのことになるのだか。
「ねぇケーキ? ケーキ食べられるの!?」
「そうねえ、小麦粉とバターがもっとたくさんあればねえ。こりゃ新年のお祝いには、飴やらチョコレートやらでツリーをつくって配ることになりそうだねえ」
ヨランダおばさんの腕にぶら下がって、モモは冷たい海風にさらされた頬を真っ赤にしていた。「ケーキはできないの?」とかなしそうに聞くモモに、周りの奥さんたちまで笑い出す。
「こりゃあ、犯人はモモかい。そんなにチョコレートが食べたかったのかい」
「チョコ! 食べたぁい!」
「こりゃあ、困った子が夜警になっちまったねえ」
リスト通りのものが手に入らなかったとはいえ、星拾いができたのはずいぶんと久しぶりのことでもあった。ビタミン剤や薬、塩の類といった切迫したものにはまだまだ余裕があるせいか、皆の表情も明るい。
そんな中、マルコだけが、人の輪をすこし離れたところで、奥歯をきつくかみしめていた。
「マルコ?」
ふと、その様子に気づいたらしいリナがマルコのほうへとやってくる。どうしたの、と頭をなでようとした手をぱしんと払い、マルコは、浜辺とは反対の方へとずんずん歩き出した。
「どうしたのよ、マルコ。―――ジャンとモモが順番を守らなかったから、怒ってるの?」
「みんな、二人を甘やかしすぎだよ。あんなの、自分のワガママでもらっただけじゃないか。なんで誰も怒らないんだよ」
悔しさに涙がにじんだ。それを無理やり拳でこすった。あんな風にみんなで褒めたり喜んだりしたら、ジャンだけじゃない、モモだって調子に乗る。ひとりだけ起こっている自分がばかみたいだった。リナは困惑顔でしばらくマルコの背中を見送っていたが、やがて、こちらをチラチラと気にしながら、母たち、叔母たちのほうへと戻っていった。
星降りがあった日は村中がお祭り騒ぎだ。塩漬けにしておいた豚も、上等のパンやチーズも持ち出してきてのお祝いになる。特に漁師の男たちが喜んでいたのだし、皆に酒も振舞われ、子どもたちにはキャンディが配られるのだろう。……でも僕だけは喜んでやるもんか、とマルコは思う。だってモモだってジャンだって、マルコのものになるはずだった星を先に見つけて、わがままに願いをかなえただけじゃないか。
昼、岬の先にある灯台は、夜中のような闇に浮かび上がる不思議な乳白色をたたえてはいない。繰り返し、繰り返しうちつける波に浸食された壁がぼこぼこになり、打ち捨てられたように白っぽくくすんでいる。強い風の中で両手を広げて岬を渡ってゆくと、かお、かお、と鳴きかわしながら海鳥が岬をめぐる波をかすめていった。灯台の扉は締まっていた。……ヴィゴールじいさんも、お祝いにいっているのかもしれない。
両開きになった重たいドアの隙間に手を突っ込み、力を込めて引き開ける。灯台の中はしんと静まり返っていた。灯りもついていない。細長い窓から差し込む薄日の中に、赤や青のファイルが入った木のラックや、真鍮で作られた不思議な道具の姿が浮かび上がっている。
マルコは将来、ヴィゴールじいさんみたいな、灯台守になりたかった。
他の男たちみたいに毎日海に出て行っては網を引き、昼間はおしゃべりをしながら網を繕ったり酒を飲んだりしているだけの大人になるのではなく、夜空を見上げて月と地球の作る影の間に星の巣を探してみたかった。使い方も分からないような真鍮の器具や、いつもヴィゴールじいさんが几帳面な字で細かく書付けをしている数字。いつかマルコがそれを教えてもらう。そしてヴィゴールじいさんがばあちゃんと一緒に家でのんびりと暖炉に当たっている間、代わりにマルコが、カンテラを下げてやってくる夜警の子どもたちを迎えるようになる。
……。
昨晩は寝ないで夜警についていたせいで、とろとろと、眠くなってくる。今日はモモがはじめて星拾いに成功したのだから、ばあちゃんも、好物を作ってお祝いをするに違いない。もしかしたら近所のおかみさんたちのところに行って、一緒に、お祝いのパンケーキでも焼くのかもしれない。そう思うとくやしくてまた涙が出てくる。
灯台の一階の床には跳ね上げ戸があり、地下室へとつながっている。何回か中に入ったことがある。あの下は書庫になっていて、ヴィゴールじいさんが、そして、マルコも知らない他の誰かの書いたような本が、たくさんのラックに収められている。マルコは椅子にかけっぱなしになっていたひざ掛けを取って、跳ね上げ戸から下へと投げ込んだ。自分も下の階へ続く梯子に足をかけると、跳ね上げ戸を閉める。あたりは真っ暗になる。書架の間でひざ掛けにくるまって丸くなる。思ったよりもあたたかかった。もう、モモのこともマルコのことも、夜警のお祝いのことも、知るもんか。みんな勝手に大騒ぎでもしていればいいんだ。
「これねえ、うちのリナがねえ、図鑑で見かけてほしがったらしんだけどねえ」
玄関口で、リナのおばさんが声を潜めて話していたのを思い出す。マルコは思い切り背伸びをしてテーブルの上に手を伸ばし、鳥かごの中に指をいれようとした。青い小鳥はチッチッと鳴きながらせわしなく籠の中を飛び回っていた。あんな鮮やかな青はあれから一度も見たことがない。
「オウムとか、孔雀だとか、カナリアだとか……飯の種にもなりゃしない。いくら夜警に浮かれてたからって、こんな馬鹿なことが二度も三度もあったらたまらないよ」
青い小鳥は黒茶色のビーズをはめ込んだような眼をして、黄色くて小さな嘴、空色から春に咲く花の色まで、いろいろな青をモザイクにして集めたような色をしていた。こんなきれいなもの、生き物も、星から作ることができるんだ。
「それで、リナちゃんはどうしたの」
「箒の柄で思いっきり尻をひっぱたいた後、地下室に放り込んでやりましたよ。ええ、ええ、今夜は夕飯抜き。ごく潰しにはそれ相応の扱いがあるってことを、ちゃんと教えてやるのが親の仕事ってやつだものね」
インコははじめての雪が降ったある日、硬くなって鳥かごの底に転がっていた。ばあちゃんはその羽根をていねいに毟って、刺繍か何かの飾り物にするためにとっておいた。孔雀もオウムも同じ運命をたどったものらしい。熱帯の鳥たちのにぎやかな鳴き声やあざやかな羽の羽ばたきは気まぐれな南風のように村を吹き抜けて、たったひと月で消えていってしまった。
夜警が星に願ったことは、ほとんど、どんなことでも叶う。今では漁師を務めているジャンの兄さんは牝牛を一頭空から呼び寄せたことがあるそうだし、今、漁に出ている船の中には大昔の誰かがとびきり大きな星が降るのを見つけて願ったものもあるという。
でも、夜警の役割を許されるのは子どもだけ。どうしてなんだろう? とマルコは思う。星降りの夜に外を出歩くのはご法度。ほんの小さな隙間ができるぐらいに窓を開けただけでも、村の掟でみんなの前で鞭でひっぱたかれることになる。灯台守のヴィゴールじいさんですら、星降りの夜には黒眼鏡をかけうつむいて、けっして空を見上げないように細心の注意を払う。
どうしてなんだろう?
だって僕たちは、この村に星が降らなくっちゃ、生きていくこともできないのに。
跳ね上げ戸が乱暴に開かれる。そばかす顔を突っ込んできたのはジャンだった。マルコが目をこすっているのを見て目を瞬き、それから、苦々し気に顔をゆがめる。
「こんなとこにいたのかよ、馬鹿」
「馬鹿ってなんだよ」
「いいから来い。モモが、いなくなった!」
とたんに一気に目が覚める。頭のてっぺんから、バケツ一杯の冷水を浴びせかけられたみたいだった。
灯台から飛び出してみれば、あたりはゆるゆると空が白から青へと変わってゆく頃合いだった。遠い海原と空との境界線に緑色をした細い線が走り、茜色に染まった空の色が、千切れ雲の暗い色を逆に黒々と強調している。
「みんな! マルコがいたぞ!」
浜辺に集まっていたのは、子どもたちだった。リナがいる。他にも、太っちょのアンリも、眼鏡のパトリスも、緑色の目をしたウージェニーもいる。レーモン、パンジャマン、それにエルザ。マルコの手を引っ張ったジャンが堤防の石から石へと飛び移るようにして駆け下りてくるのを見てぱっと顔を輝かせるが、すぐに、「モモがいないよ!」と誰かが叫んだ。
「こいつ、一人で灯台の地下書庫に隠れてやがったんだよ」
突き飛ばすようにして、マルコをみんなの前に突き出す。よろけて倒れそうになったマルコをリナが胸で抱き留めてくれた。ぎゅっと強く抱きしめられた、やわらかい感触。
「いったい、どうしたの?」
「モモが帰ってこなくなっちゃったの。きっと、あなたを探しに行ったまま」
マルコは、ざっと全身から血の気が引くのを感じる。
「一緒じゃなかったの?」
聞かれて、首を横に振る。そう、と落胆する様子を見て、皆が自分のことをずいぶん探していたのだということを悟る。
パトリスはつま先で浜辺の砂をいじりまわしていた。あたりを見回すウージェニーの腕にはぬいぐるみが抱かれている。「でも、もうすぐ夜になるよ」とアンリが不安げにつぶやく。
「大人たちは?」
海岸から振り仰げば、灯りが賑やかに灯った家々の様子が見える。けれども逆に海の方を振り返れば、そこには、間もなく水平線の向こうへと消えてゆこうとする太陽。赤から白へ、白から藍へと変わりゆく夕暮れが見える。
「ママが、明日みんなで探しましょう、って……」
つぶやいたのはエルザだった。「何言ってんだよ」とジャンが強く言う。
「今日はこんだけ寒いんだぞ。あんなちび、放っておいたら一晩で凍え死んじまうに決まってる。だからみんなで抜け出してきたんだよ」
町を振り返り、ジャンは唾を吐いた。「なんで大人が追っかけてこねえんだよ。そんなに夜が怖いのかよ」
モモ、とマルコは震える声でつぶやいた。まさかこんなことになるなんて、思ってなかったんだ。モモが僕のことを探しにゆくなんて。
「でも、もう夕方だよ。大人は外に出られないよ」
「だったら、私たちで探しましょう」
きっぱりと、リナが言った。
「でも、今日の夜警はどうするんだよ」
悲鳴のようなパトリスの声に、「その前に、見つけて戻ればいいんだよ」とジャンがいらいらと答えた。
「それに、今までずっと、何か月も、星なんて降ってこなかっただろ。今日一晩ぐらい平気だろ」
モモ。
モモ。
思い出す。撫でつけるとすぐにぺったりと頭に張り付いてしまう金髪、林檎のようなほっぺた、大きくわらうと見えてしまう乳歯が抜けた前歯の隙間。どうしよう、僕のせいだ。ちゃんとモモのことを見ておかなかったから。
「ぼさっとしてるんじゃねえよ、グズ」
そんな僕のむこうずねを、ジャンが、蹴っ飛ばした。怒ったような顔をしていた。
「さっさと見つけて、家にもどりゃいいんだ。そうすりゃ普段と何にも変わんねえだろ」
それぞれ、子どもたちは、灯台への往来に使うランタンに火を入れた。そうすると夕暮れのなかで子どもたちの手元だけがポッと光の輪が灯ったようにあかるくなる。それでも日が沈むぎりぎりまではあちこちの家の跳ね上げ窓に、こちらの様子をうかがう気配がした……それが、太陽が水平線の向こうへと完全に沈んだ瞬間に、カタン、カタン、と次々と窓が閉じられた。
どうして大人たちはモモを探そうとしてくれないんだろう? マルコはほとんど怒りにちかい気持ちをおぼえる。その中には半分ほども、疑問のようなものも混じっていた。
青灰色をしたスレートを積み上げた家々、屋根を寄せ合った家々の間の細くくねりながら続く狭い路地。港につながれたまま揺れている漁船、もやい綱がたてる、ぎぃ、ぎぃ、という静かな音。
真珠色の波頭が静かに砂浜へと打ち寄せては引き、また、打ち寄せては引いて行った。頭上を見ればざらめをまいたような星々がつめたく光っている。穏やかな夜だった。鳥の声ひとつ聞こえない。―――いったい、何を怖がって、あんな風に家の中に閉じこもらないといけないんだろう?
「わたしたちは海側を探す。パトリスは港、レーモンは山側を見てきて。見つかったら岬の先へ行って、そこでカンテラを振って合図をしましょう。いいわね?」
子どもたちは、一番年上のリナの言うとおりにわかれていった。いつも流木を拾っている浜辺の方には、ちょうど、今朝一緒だったのと同じ三人があつまった。リナ、ジャン、それにマルコ。
「モモ」
浜辺へと引き上げられた木箱の残骸が、浜辺から少し上がったところにきれいに積み上げられていた。思い出す、今朝のあの喧騒。男たちにくしゃくしゃにされながら照れ臭そうに笑っていたジャン、それに、ヨランダおばさんのスカートに抱き着くようにして、チョコレートをねだっていたモモ。
「モモ、どこー?」
ごめんなさい、泣きそうな気持ちで考える。モモ、どこ行ったの。今日は寒いよ。昨日は夜警だったし、疲れてるでしょう。はやく帰って、ばあちゃんの作ったシチューを食べてベッドに入ろうよ。モモ、モモ。
リナは、ゆるやかな弧を描いた波打ち際に添って、もう、ずいぶん遠くへ行ってしまっている。では、逆に岩礁になったほうのどこかで足を踏み外しているのではないかと、夜闇のなかで黒い塊になった岩から岩の間をそろそろと進んでゆくと、ふいに、襟首をつかまれた。ジャンだった。
「この辺りはあぶねえからな、俺が探すよ。お前は俺の分のカンテラも持って照らせ」
おずおずとうなずき、手渡されたカンテラを両手に持つ。すこし高くなった場所へとよじ登り両手に掲げる。今は潮が引いている。黒々と濡れた岩の間に、小さな潮たまりがいくつもできているのが見えた。と、ジャンがこちらを見上げ、にやっと笑った。
「モモはお前の事さがしてて、迷子になったんだ。兄ちゃん、にいちゃーんってな」
「え?」
「しかたねえやつ、妹だからな。俺も昔よくにいちゃんに怒られたよ。にいちゃんにいちゃん言って付いてくるなって」
マルコは、ぽかんとした。ジャンは口をぐっとへの字に結ぶと、また、慎重に岩の間を渡りはじめる。
「俺んとこもにいちゃんが三人もいる。昔はでかく見えたけど……よく考えたら、今の俺とおんなじぐらいだったんだよな」
ジャンの兄ちゃんたち。皆、たくましい腕と潮焼けして金色になった髪の若い漁師たち。ジャンに鹿の角の柄がついたナイフを送ったのは、一番上の兄だったはずだ。
「ちびすけってのは、何やるかわかんねえもんな」
マルコはぐっと口をひん曲げた。さもないと、泣いてしまいそうだった。涙の粒が落っこちないように空を見上げる。そこには一面に広がる星空、その真ん中を白い靄のようにぼんやりと曇って流れる天の川。
……。
「あっ」
ポツンと、ふいに、その空を針の先でつついたように、小さな光の粒が、天の川のあたりに灯った。
十分に熟した果物の皮を針でつついたように、さもなくば、指先をナイフでほんの少し切ってしまったように、星はスッと空をよぎって流れた。マルコはとっさに願っていた。モモを、返してください。お願いします、モモは、どこにいますか。願いを聞き入れたようにスッと青く色を変え、最後は銀色に光って星は海へと流れていった。その様子に気付いたのか、「どうした」とジャンが顔を上げる。星が、とマルコは答えた。
星が、流れて。今、ぼくの願いが通じて。モモを返してくださいって、だから、
けれど、とりとめもない言葉が形になるよりも先に、ジャンの顔が険しくなった。
「おい見ろ、マルコ。合図だ」
言われて振り返る。岬へと続く長い長い道の途中で、確かに、カンテラがひとつ、振られている。
岬でカンテラを振っていたのは、港のほうへモモを探しに行った子どもたちだった。その中でも、大きな眼鏡をかけたパトリスが、「これ……」と言って手を差し出す。震える手に握り締められていたのは、ぐっしょりと濡れた、毛織のショールだった。
モモのものだ。
「これっ、船のすぐ横の所に、浮かんでて……っ」
マルコは目の前が真っ白になるのを感じた。ちいさなモモの姿を思い出す。にいちゃん、にいちゃん。呼びながら何隻もの舟をつないだ間を歩き回る。その足が濡れて滑りやすくなった木の端を踏み外す。
小さな体が、船と船との間に滑り落ちる。
「モモ」
濡れたショールを顔に押し当てると、苦く冷たい塩水がぼたぼたと指の間からこぼれおちた。
「モモ」
子どもたちは無言だった。何を言ったらいいのか、きっと、分からなかった。けれども、ふいにジャンが、立ち上がって。
「兄ちゃんたちを呼んでくる!」
まだ、無事かもしれない。海に落ちたばっかりだったら、まだ!
「わ、わたしも」
「俺も!」
次々と、子どもたちが声を上げる。「お前はここで待ってろ!」と言うなり、ジャンが真っ先に駆けだしてゆく。それに続いて、網元の娘のウージェニーが、祖父が腕っこきの漁師だということを自慢にしているレーモンが。それぞれまた別の子どもたちが駆けてゆこうとする、けれど、その背中へと襲い掛かるように、雷が落ちるような大声が響いた。
「待て! 窓を開けるな!!」
光の帯が、白沙をまいた道の上へとさっと奔った。振り返ったマルコは、そしてリナは、見た。灯台の扉が開かれ、こちらへと投げかけられた光。そして立ちはだかったヴィゴールじいさんの大きく膨れ上がった黒い影。
「戻ってこい、窓を開けるな!!」
青銅の鐘を打ち鳴らすような大声だった。街中にまでも響いただろうと思えるほどだった。けれど、もう、遅い――― 町のあちこちで跳ね上げ窓が、戸が、開かれる。真っ暗だった路地に灯りが灯る。
そして抱き合うようにして足をすくませたリナとマルコの見上げるほう、水晶の塔のようにそびえたった灯台の向こうの空に、金粒のような星が灯った。
流れ星。
「ア」
ツッ、と空を流れる。弧を描いて海へと落ちる。二人が見上げる向こうで、空に、次々と星が浮かびあがった。夜空へ金の雨粒が振りまかれたように。雨の粒が窓ガラスを打つように、次々と星が空へと浮かぶ。あれは『星』ではないのだ、とマルコは唐突に理解した。空のずっと高いところ、けれど、宇宙よりもずっと近いところへと現れる『何か』の姿なのだと。
マルコにはそのとき、何の願いも思い浮かばなかった。星は夜空の丸みをすべるようにして落ちた。その瞬間、かすかに赤みを帯びて潤み、水平線の向こうへと消えた。
誰が願いをかけたのだろう?
ふたたび、星が落ちる。その星は水滴のように空を滑り落ちるのではなく、空の半ばで、投網を投げたように、パッ、と開いた。
幾千、幾万の細い糸となって、星は、降ってくる。降りながら空中で分枝し、絡み合って己自身を編み上げ、レースのような繊細な模様を作って広がってゆく。海月のような透明な骨格を作り出す。ゼリー質の何かがその上に覆いかぶさる。そうして海へと着水するころには、それは、多数の脚を持った、巨大な何かの姿を作り上げていて……
ヴィゴールじいさんがこちらへと走ってくる。見たこともないような恐ろしい顔をしている。腕を掴まれたリナが、痛いっ、と声を上げる。すさまじい力で引きずられ、二人は灯台の中へと連れてゆかれる。
「痛いよ、ヴィゴールじいさん!」
マルコが悲鳴を上げようが、お構いなしだった。あの跳ね上げ扉を開け、「中に入れ」と低く強い声で言う。
二人は地下室へと降りた。かばうようにマルコを抱きしめたリナの腕が、ぶるぶると震えていた。「わたしが良いというまで、ここに隠れていろ。決して扉を開けるな。いいな?」 そう念を押すように命じると、ヴィゴールじいさんは、戸を閉めた。そして地下室は闇になった。
耳を澄ましても、外からの音は何も聞こえない。この地下室の壁はどれだけ厚くなっているのだろう? 絶え間なく岬へと打ち付けているはずの、並みの音すら聞こえない。
やわらかい胸がつよく背中に押し付けられ、リナの荒く、熱く湿った息が首元に触れていた。マルコの肩越しに長い三つ編みが垂れ、青緑色のリボンで結んだ先端が腿のあたりに触れていた。「ねえ、リナ」と呼びかける。「ねえリナ、痛いよ」 体に回された腕に手を重ねる。
「マルコ、あんた、見た?」
リナが、押し殺した声でつぶやく。どうしたのだろう。ぎゅっとさらに強く抱き寄せられる。痛いぐらいに。
「あんた、見た? 落ちてきた星が、何になったか」
分からない。空中で『星』が細い糸のように分かれて、レースのように、花のようになりながら、海へと降りてきたのは見た。今までにあんなものは一度も、見たことがなかった。
「ねえ、『星』ってなんだったの? わたしたちは今まで、『何』を見張らされていたの?」
リナが何を言っているのか、マルコには分からなかった。星は星だし、マルコたちが果たしていた役割は『夜警』だった。他の何があるというのだろう?
「星を拾うと、願いが叶うんだよ。ぼくたちはみんなのために星を見張ってたんだ。そうでしょ?」
マルコはそうリナに言い聞かせる。リナは首を横に振り、マルコの肩口に額をおしつけた。それきりリナは、もう、口を利かなかった。
跳ね上げ戸が開かれ、光がほそい筋となって地下室へと差し込んできた。マルコはそれでようやく目を覚ました。後ろから自分を抱きしめるようにして体に回されていたリナの腕。そっと避けて梯子のほうへと行けば、ヴィゴールじいさんがこちらを覗き込んでいた。
手を借りて、外に出る。両開きになった灯台の戸が開いている。
扉の外に、村は無かった。
ちいさな漁村……なだらかな線を描いて続く砂浜と、その曲線の先がそのまま続いた先にある岬。岬の根元にはスレート材をつかった家々が身を寄せ合うようにしてうずくまり、港にはいくつもの漁船が泊っている。
それが、シャベルでざっくりと掬い上げたように、無くなっていた。
海鳥の声が聞こえた。岬へと、青緑色をした波が打ち付けていた。マルコは夢を見るような気持ちで、ふらりと灯台から岬へと歩き出した。
村は、だいたい、二回に分けて『すくい取られて』しまったようだった。ボウルのようにまるくへこんだ穴がふたつ、外辺をずらしながら重なっている。一つ目がいつも流木を拾っていたあの小さな浜辺をえぐりとり、もう一つが、岬の根元からちいさな港にかけてまでを消してしまっていた。まるくへこんだ穴はふちから底にかけてすべてがきめ細かな砂に覆われて滑らかだ。海の水が満ち満ちて、波に打ち寄せられた海藻がもつれながら浮いている。
目を上げれば、もうひとつの穴が、村の背後へと広がっていた岩山のひとつをまるく切り取っていた。村は漁港のほんの一部と村はずれのほんの一、二軒の家だけが残っていた。ほそく煙があがっていた。生き残りがいるらしかった。
何が起こったんだろう?
背後を振り返ると、ヴィゴールじいさんに背中を支えられたリナが、よろめきながら灯台を出てくるところだった。すべてを見た瞬間、リナはその場にへたり込み、吐いた。どうしてよいのかわからず、マルコも、ふらふらとそちらへと戻ろうとして。
視界の端にうつったものに、あっ、と声を上げた。
「マルコ!?」
声が聞こえるよりも先に、マルコは、海へと飛び込んでいた。必死に水を掻いて泳いでゆく。素裸の子どもが海に浮いている。まだちいさい。ほどけた金髪が海藻のように水の中でゆらゆらと揺れている。
「モモ!」
片手で捕まえて、浜辺の方へと必死で泳ぐ。浜辺に引き上げてみると、身体はあたたかい。心臓がまだうごいている。背中を強くたたくと、何か、ねばついたものを吐き出した。いくつか咳をした後、ひきつったように息をして、そして、弱弱しく泣きはじめる。
前歯が一本抜けて、ピンク色の隙間が見えていた。
「モモ……モモ」
びしょぬれで浜辺にへたり込んだまま、マルコは、わんわん声を上げて泣きはじめるモモを抱きしめた。遠くから何か人の声がした。誰かが船に乗り、櫂を操りながら、こちらへと呼び掛けているらしかった。
港の端に残っていた番小屋には、ともかくも食料が備蓄され、無事に残った家の一軒には竈も鍋も残っていた。生き残った村人は11人。マルコのばあちゃんも、リナの家族もその中にはいない。
ヨランダおばさんは無事だった。ヴィゴールじいさんの呼びかけを聞いてすぐに隣近所の家の戸を叩いて回り、ともかくも、漁船に乗れるだけの人数を詰め込み、沖へと逃げたのだ。それでどうにか難を逃れた船が一隻、山へと逃げて助かった家族がひとつばかり。
竈にかけた鍋いっぱいに湯を沸かし、頭も内臓もまとめて叩いた雑魚といっしょに穀粒と海藻とを放り込む。船底に隠されていたとっておきのウイスキーはほんのちょっとづつでも全員に行き渡った。狭い家の中にどうにか全員を詰め込んで、温かい匂いがしてくれば一息つくこともできるようになる。マルコはぶかぶかのセーターを貸してもらった。大人が着るようなシャツを貸してもらったモモは泣き疲れてヨランダおばさんの膝ですやすや眠っていた。
「まあ、ともかくも、これだけ生き残ったならマシだというものじゃないか」
「さっき見てきたが、山の方に逃げたヤギは助かったみたいだな。家畜小屋もひとつ残ってたよ」
「食糧庫はもう一度見に行くが、まあ、これだけの人数が食つなぐのは骨だろうなあ」
「ま、船は無事だったんだ。じいさんどもも無事だったし、夕暮れまでにもういっぺん漁に出てみるよ。奴さんら、びっくりして様子を見に来てくれりゃあ助かるんだが」
大人たちががやがやと話し合っている中、つんざくような悲鳴が聞こえた。
リナだった。
「嘘、嘘、嘘嘘!! 何の話してるの!? みんな変よ!! 嘘ばっかり!! なんで何にもなかったみたいな話ばっかりするの!?」
掻きむしられた三つ編みがぼろぼろにほどけて肩にかかっていた。泣き疲れた目が真っ赤に血走って、頭を掻きむしった爪の間に赤黒く血が詰まっていた。
「なんで家がないの。海がないの。ぜんぶないの。なんでかあちゃんもとうちゃんもいないの。なんでみんな普通の顔してるの。みんなおかしい!!」
皆が、黙り込んだ。
それから、誰ともなく、くすくすと笑いだす。それが大笑いになるのにそう時間はかからなかった。
「リナ、そんなに大きな声を上げるもんじゃない。美味しいものでも食べれば気分が落ち着くよ。それと、そう、何かあったかいものもね」
「ちょうどいい、みんなで何か埋まっていないか探しに行こうじゃないか。おい、お前も来いよ」
お互いに誘いあい、立ち上がり、声を掛け合う。リナは呆然とその様子を眺めていた。その背中を抱き寄せて、「大丈夫だよ、リナ」とヨランダおばさんが額にキスをする。
「そんなに大変なことじゃない。ながいこと我慢しなくてもいいんだからね。すぐに、いいものを準備してあげるから」
その日は、たいへんなごちそうだった。
ほんのちょっとだけ残っていたチーズとナッツでタルトを焼き、倒れた家から掘り出してきたワインの瓶を開け、壊れた家からはがしてきた木を集めて大きな焚火をした。女たちが岩場で膝の上までスカートをたくしあげて拾ってきた貝はそのまま火にかけてじゅうじゅうと焼かれ、灰の中に転がしたじゃがいも、栗もほっこりと焼き上がり、昼過ぎに何杯ものイカ、それにカジキを釣り上げた漁船がもどってきた時には大きな歓声があがった。輪切りにした尻尾はそのままステーキになり、脚も胴もまとめて鍋に放り込まれたイカの墨で真っ黒な鍋に味付けとばかりに白ワインがどぶどぶと注がれる。
みんな死ぬんだろうな、とマルコは思った。
笑いあい、男も女も腕を組んで火の回りで踊り、酒、さもなくば甘いお菓子と次々に皿が運ばれてくる様子をながめて。
次第に太陽が西にかたむいても、まだ、誰も片づけをはじめようとしない。船は斜めにもやい綱につけられたまま岸で揺れていた。空は青から薄荷色がかった色へと暮れて、空には薄雲が金色に染まりながらたなびいていた。そういえば、リナのすがたがみつからない。息を弾ませて戻ってきた大人がひとり、ゴブレットのワインをあおっている。「ねえ、ねえ」と裾を引っ張ってみると、それは、ジャンの一番下の兄さんだった。
「リナはどうしたの?」
「ああ? マルコか。お前も飲むかい? あの子だったらヴィゴールじいさんが灯台に連れて行ったよ。俺たちも今夜はあそこで寝るんだ。まあ、気休めだな」
押し付けられたゴブレットを断ると、ジャンの兄さんは目をぱちくりさせ、肩をすくめてみせる。鼻の頭が真っ赤だ。
「可哀想に、あの子もひどいものを見たんだろうな。まあ、どうせ同じことだ。せっかくならジャンにも残ってもらいたかったなあ、あいつ、まだ酒を飲んだことがなかったんだよなあ」
「……ジャンは、僕たちといっしょにモモを探してくれていたから」
「そうか、そうか。あいつは責任感があってな、背伸びばっかりしてたからお前さんにも意地悪ばっかりしてたんじゃないか? こうなったんだから、どうか勘弁してやってくれよ、あいつははやく大人になりたかったんだ」
ジャンの兄さんは、目元を真っ赤にしていた。
「わかってる。ジャンはね、モモのことを一生懸命さがしてくれたんだよ」
どういう言葉を使えばいいのか、ゆっくりと、マルコは言葉をさがす。
「ジャンは、『本当の男』ってやつだったんだと思う」
ジャンの兄さんは顔をくしゃくしゃにし、それから、大きな声を上げて笑った。勢いよくゴブレットに注いだワインを一気に空にすると、また、跳ねるように立ちあがる。おい、誰か俺と踊ってくれないか! マルコはその背中を見送って、それから、ゆっくりと人の輪を離れて歩きだした。
モモはチョコレートで指をべたべたにしながら、パイやケーキをほおばっていた。どうにか見つけ出した着替えの上着は、肘の上まで袖をまくりあげてもワンピースのようだ。モモがうたたねをしているのを眺めていると、ふと、後ろから「マルコ」と声を掛けられる。
ヴィゴールじいさんだった。
「おいで、マルコ。少し話をしようか」
半ば削り取られて細くなった岬の先に、灯台だけがぽつんと白く残っていた。みんないなくなった……と思う。実感はまるで湧かなかった。
「マルコ。昨晩、お前たちは、星が降ってくるのをみたかい」
「うん」
「その星に、願いをかけることができたかい。星拾いができたかい?」
マルコは首を横に振った。きっとほかの誰かが拾ってしまったのだろう。ちらりとモモのことを思い出す。
「ねえ、ヴィゴールじいさん。あの星って、本当は何なの?」
きっと、夜警の果たす役割は、マルコが思っていたようなものではなかった。大人たち誰にとってもそうだったのだ。子どもが夜警を卒業して大人になるときに、はじめて、真相が知らされる。……本当に?
ヴィゴールじいさんはしばらくだまりこみ、それから、ゆっくりと答えた。
「あの星は、人が願いをかけると、その姿に変わる。それは知っているね。衣料にも薬にも、砂糖やチョコレートにも、オウムやインコにもなる」
マルコはまたうなずいた。ヴィゴールじいさんは目を細め、水平線の向こうへ目をやる。
「けれど本当はね、あの星は、人が持ったどんな姿にも変わることができる星なんだ。きちんと形を持った願いだけではなく、もっと漠然とした、恐怖や驚きを形にすることもある」
それが、昨日のあの星だったのだ。
マルコは想像する。糸のようにほそく分岐した星で編み上げられたものが、海の向こうから立ち上がる姿を。レースを編んだように繊細な骨格を淡々としてかたちのない肉が覆い、そして、わけもなく人の恐怖を実現しようとする。海の向こうから泳いできた星は、願いを忠実に叶えようとする。
海を切り取り、街を切り取り、そこに住むものを消してしまおうとする。誰かがそう思い浮かべたとおりに。もしあの星が『恐怖』だったのなら、そう振舞っただろう、という通りに。
「だから夜警が必要だったの?」
真っ先に誰かが星を見つけ、そこに願望をぶつけることで、他の何かになるのを防ぐために。具体的でありふれた何かの姿に変えて無害化するために。
「だから子どもじゃなきゃだめだったの。子どものほうが大人より、欲しいものがいっぱいあるから」
だって、マルコにも、欲しいものはいっぱいあった。
ヨランダおばさんの欲しがっていたお酒が欲しかった。手に入れて、褒めてほしかった。本当はチョコレートだって食べたかった。ヴィゴールじいさんがもっているたくさんの本も羨ましかった。
「子どもは、大人よりもわかりやすくたくさんの願望を持っている。年を取るごとに欲求は枯れて、代わりに、現実に対する疑問を抱くようになってくる。合理的な説明が欲しくなるんだ。たとえば、このアノラックを縫ったのは誰なのだろう、なんてね」
マルコはぐるりとあたりを見回した。
背後には岩肌を見せた地味の薄い山々、見下ろした先には冷たい水をたたえた海。その山と海の隙間にへばりつくようにして広がっていた家々。小さな村。
魚は釣らなければ手に入らない。靴下は編まなければ手に入らない。ならば、あのチョコレートは誰が作ったのだろう? 長靴は誰が作ったのだろう。あの青いインコはどこから来たのだろう? ひと冬の寒さで死んでしまった鳥たちは、ほんとうはどこに住んでいたのだろう。
「ヴィゴールじいさん、いったい誰が、星拾いをすればいいんだって思いついたの? 星をお化けにかえないためには、子どもが夜警をすればいいんだって思いついたの?」
ヴィゴールじいさんはほほ笑んだ。目じりのしわが深くなる。ヴィゴールじいさんはほんとうにおじいさんなんだ、とマルコは思う。マルコが思っていたよりもずっと、ずっと、歳をとっているんだ……
「昔々、たくさんの人たちが星がバケモノになるのを防ごうとした。そのための方法を色々試し、手を尽くした。けれど、見つかった対策はとても少なかったんだ。そのうちの一つが子どもを夜警に立てることだったんだよ、マルコ。流れ星は願いをかなえてくれる、そう信じてくれる子どもたちが夜警に立ってくれる間だけ、わたしたちは安心して夜を過ごすことができる」
「そのたくさんの人たちは、どこへ行ってしまったの?」
「さあ、わからない。もしかしたらどこか遠くにここと同じような村を作り、夜警の子どもたちに守られて、暮らしているのかもしれない。ひょっとしたら、そんな『たくさんの人たち』なんて、もうどこにもいないのかもしれない。……さ、戻ろうか、マルコ。風が冷たくなってきたようだから」
「最後に教えてよ、ヴィゴールじいさん」
マルコは、ヴィゴールじいさんの手を握り締める。その顔を見上げる。
「まだ、何も終わってはいないよね? 『夜警』は必要だよね。また、星は降ってくるの?」
ヴィゴールじいさんは首をそっと横に振った。
そこにはいろんなものが写っていた。見たこともないたくさんの建物、たくさんの人々。様々な種類の野菜、衣類、乗り物、昆虫、薬品。使い方も分からないたくさんの機械、知らない数式、文字。知らない景色、知らないものであればあるほど、胸がときめいた。知りたいと思った。
そしてその中の一枚の写真。
光で描かれた地図。
地図に書かれたのと同じ陸地の輪郭を、光の点が縁どっている。毛細血管のように内陸へと入り込み、ある所では眩しいぐらいに集まって光り、あるところでは暗く静まり返っている。今ならマルコにはあの正体がわかる。あれは宇宙から見た地球。ひとつひとつの灯りの下にあるものは、すべて、人間の営み。
きっと、今も同じはずだ、とマルコは思う。
人のいのちは光るのだ。金色に、銀色に、すべての光は人の暮らしだ。空から見れば、きっと、この小さな村も光って見える。灯台の投げかける光が、たよりなくも確かな光の点を暗闇の地図に穿っている。
だから星は、きっと、この灯台を目指す。人のいのちを、その営みを求めて、落ちてくる。
最期の一人となったとしても、そこに人のいのちが光っているかぎりは、星は、かならずこちらへと降ってくるのだ。
きっと。
「モモ」
大人たちは皆、歌いながら、笑いながら、お互いに肩を貸しあい、抱き合い、泣きながら、灯台の中へと入っていった。マルコはその列の最後から、モモを背負ったまま、そっと抜け出した。浜辺を歩き、水平線から吹き寄せてくる海風に目を細める。背中でうとうとと眠っていたモモがふと目を覚ます。
「にいちゃん、なぁに?」
「モモ。一緒に、星を見に行こうか」
二人の姿がなくなったことに、気づくものはいなかった。気づいていたとしても止めなかったのかもしれない。灯台へと続く道をはずれ、マルコはかつて砂浜があったほうへと足を進めた。
かつてゆるやかな弧をえがいた砂浜のあった場所に、またあたらしく、波がわずかな砂を運んできていた。流木が流れ着き、もつれあった黒い海藻が打ち寄せられていた。マルコが砂浜におろしてやると、モモは、歓声をあげて走り出した。
妹の後をおいかけてゆっくりと歩きながら、ふと、マルコは視界の端にブーツが落ちているのを見つける。拾ってみると、それは、ジャンがいつも履いていたフェルトのブーツだった。いつもその中に、あの鹿の角の柄がついたナイフを入れていたブーツ。マルコは下唇を強く噛んだ。助走をつけて、波へ向かって思い切りブーツを放った。
「モモ! おいで。いっしょに夜警をしよう。星拾いをしよう」
妹はぱっとこちらを振り返った。そうして目をぱちくりさせて、笑おうとしかけた顔が急にしゅんとしぼんでしまう。傍にいって目の高さを合わせ、「どうしたの」と問いかける。モモはもじもじと答えた。
「にいちゃん。あのね、にいちゃん、何が欲しいの?」
意外な問いかけに目を瞬く。モモは「あのね」と続ける。
「モモがね、チョコレートが欲しいっていったから、にいちゃん、怒ったでしょ。今度はにいちゃんが欲しいものをおねがいする」
マルコは思わず、笑みこぼれ、それから、泣きたくなった。
妹を強く抱きしめる。「何でもいいんだよ」と耳元にささやく。
「にいちゃんも、欲しいものをお願いする。だからモモも欲しいものをいっぱいお願いするんだ。競争しよう、どっちがたくさんの星が取れるか」
「きょうそう!」
モモはぱっと笑った。乳歯の抜けたところのピンク色の隙間。
妹の肩に手を当て、二人で、空を見上げる。星の巣は、太陽と月が作り出す影の中にある。新月の日、星の巣は地球と月の間にある。もっとも地球に近くなる。月の光に照らされることのない夜空は暗く、星々は青白く、また金色を帯びて、無数の星々が輝く。宵の明星がひときわ明るく西の空に光る。
「ながれぼし!」
モモが歓声を上げた。ポツンと、金色の星が空に浮かんだ。黒い果実の表面を針で突き、そこに滲みだした一滴のようにきらめく。
空を伝って流れ、色を変え、おちてゆく。「何をたのんだの?」と聞くと、モモはくしゃくしゃと照れたように笑って、「あのね、バターと小麦粉」と言った。
「小麦粉とバターとお砂糖があったら、ケーキがつくれるんだって」
マルコも思わず、笑みを漏らす。
また、空に星が浮かんだ。今度はマルコにも見えた。けれど、「りんご!」とモモが言う方がはやかった。「リンゴのケーキ!」とうれしそうに言う。
次々と、星は、空へと散った。はじめはポツポツと浮かんでは落ちるだけだったものが、やがて、次々と空へと現れて、現れては落ち始める。マルコは「ぼくのナイフ!」と叫んだ。
星は、いくらでもある。いくらでも降ってくる。二人は夢中で願いをかけた。
本が欲しい。あたらしいブーツ。ぶちの犬が飼いたい。おなかいっぱいのプラムの砂糖漬け。とびきり苦くてぱっちり目の覚めるコーヒー。あのとき死なせた青いインコ。
これからマルコたちが住むための家。リナの家も欲しい、ヴィゴールじいさんのための家も。たくさんの灯りが灯るたくさんの家。たくさんの漁師が乗ることのできるたくさんの船。たくさんの女の人たちがすごすたくさんの炉端。鶏たち、ヤギたち、牝牛たち。浜辺にしげるゆたかな木々。船の帰る港。港のすぐそばにある広場。広場の周りには教会、ヨランダおばさんのお店、日当たりのよいところで居眠りをしてる猫たち。
ジャン。
ジャンと、ジャンの兄さんたち。ばあちゃん。アンリ、パトリス、ウージェニー。村の男たち、女たち。
星は、いくらでもある。いくらでも降ってくる。ジャンは夢中で願いをかける。
いなくなってしまった村の人たち。みんな、みんな、帰っておいで。ほかにもたくさん、いなくなってしまった人たち。そして、夜警の子どもたち。
あたらしい灯台が欲しい。たくさんの人たちをまもる、たくさんの灯台。皆空へ向かって高くそびえたち、ガラスで出来た丸い屋根、夜には水晶のように白く光る。ぐるりと街を取り囲んだ灯台の中に、子どもたち、たくさんの子どもたち。みんなで星にむかって夢中で願いをかける。あれをください、これをください。けれども、自分たちが何をしているのかなんて、本当は知らない子どもたち。みんな、みんな、夜警として守っている。子どもではなくなってしまったすべての人々の、平和な夜の眠りを。
海に向かって落ちた星が、水平線の向こうで白く光る。白く光る船となり、こちらへとやってくる。モモは歓声を上げ、マルコは夢中で手を振った。あの船にはジャンが乗っている。いなくなってしまった人たち、一度もこの世にいたことのない人たちが乗っている。彼らはやってくる。モモが海から帰ってきたように。恐れることはない、彼らは、かつて人間だったものがもう一度帰ってくるかのように、船に乗り、帰ってくるのだ。
文字数:30964