思い出菌

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梗 概

思い出菌

 われわれ人類は、地球を覆う「地殻」と呼ばれる岩石でできた薄皮の上に暮らしている。地殻の厚さは大陸で30km~40km、海洋で6kmほどにすぎない。その下にあるのが、地球の体積の約8割を占めるといわれるマントルだ。地殻とマントルの物質組成は大きく異なっていて、その間にモホロビチッチ不連続面(略称モホ面)と呼ばれる境界が存在する。
 21世紀初頭、海洋開発先進国であった日本は、アメリカやヨーロッパ諸国と共同で国際深海科学掘削計画(IODP: International Ocean Discovery Program)を立ち上げ、世界に先駆けて地球深部掘削プロジェクトを発表した。これは、海面下6000mにある上部マントルまでの地層を採取することで、地球環境の変動の原因を突き止め、生命誕生の謎を解明しようというものだ。計画発表から20年後の2033年、地球深部探査船から伸びた掘削ドリルがモホ面を貫いてマントルに到達し、海底下6058 mからマントルのコア(地質資料)を引き上げることに成功する。

 このプロジェクトを主導する海洋研究開発機構(JAMSTEC)地球深部生命研究グループの首席研究者・小平航は、地球深部探査船のラボで掘削されたコア・サンプルの船上分析を行い、コア中心部に未知の微生物を発見する。マントルという超高温、超高圧、光も栄養も酸素も水もない世界に、活動的な微生物群集が存在していたのだ。
 今から40億年前の原始地球は、酸素のない灼熱地獄だった。その過酷な環境で生きられる生物は、酸素を必要とせず、地球の内部エネルギーだけを利用して生きていた。そんな生物の一部が、今も地底深くのマントルに生きていたのである。原始地球の極限環境で生命はどのようにして誕生し、どのようにして進化を遂げたのか? マントル内生命圏の存在は、われわれがなぜここに存在するのかという謎を解く鍵であり、小平は興奮を抑えきれなかった。

 高知コア研究所に戻った小平は、細胞検出・定量技術や、メタゲノム解析などを駆使して、暗黒の世界からやってきた生物を子細に調べていく。すると、この微生物は走光性(光に反応して動く)を示し、光情報を電気信号に変換できることが判明する。その特徴から小平は、微生物をレチノプラズマと名づけた。さらに人工的に原始地球を模した環境に入れると、レチノプラズマは爆発的に増殖して機器から漏洩し、小平の体に付着してしまう。
 小平は漏洩に気付かぬまま管理区域を出て、週末に認知症を患う父親、小平嗣治の介護に訪れる。もともと東大海洋研究所にいた小平が高知コア研究所に移ったのも、実家に一人で住む嗣治の介護のためだった。嗣治は5年前からアルツハイマー型認知症を患い、いまでは航の顔も、家族の思い出もすっかり忘れてしまっていた。レチノプラズマは嗣治に感染し、眼から網膜に入って視細胞に広がっていく。

 人間の網膜には5種類の神経細胞が存在する。外界から網膜に投影された像は、まず視細胞に到達する。光は光化学反応に基づいて視細胞膜に興奮をもたらし、視細胞で電気信号に変換されると、その信号は視神経を経由して大脳の視覚中枢に連絡し、われわれは電気信号になった光の像を「見て」いる。

 嗣治の網膜に取り付いたレチノプラズマは、視細胞に擬態して電気信号を発し始める。電気信号は、視神経を通って視覚中枢に届き、嗣治は実際には目で見ていない映像を見ていると感じる。
 もともと眼球は脳の一部として発生し、前脳から外側へ突出した膨らみである。レチノプラズマは増殖を続けて眼から海馬のエングラム細胞に到達し、大脳皮質の各部位から記憶を引き出して、視覚細胞に電気信号を送りだす。
 嗣治は視覚を乗っ取られただけでなく、過去の記憶がまるで映画を見るように彼の目の前に浮かび上がる。レチノプラズマは、海馬の老化と共に減少する神経細胞の不足を補って、記憶のネットワークをつなぎ直し、それを映像として彼の脳に映写し続けた。

 アルツハイマーは脳内の神経細胞間の連結が失われ、記憶や思考がゆっくりと傷害されていく病である。小平嗣治は空想現実の世界で、すっかり忘れていた妻や、幼い小平航の姿を目にする。彼の記憶は、原始生命によって映像化され、甦る。
 記憶を取り戻した小平嗣治は、記憶の彼方に霞んで見えなくなっていた自分の息子に、5年ぶりに「航」と呼びかける。

文字数:1802

内容に関するアピール

 私の「小さな世界」は、海底下6000mのマントルに住む微生物の世界です。

 地球が誕生したのはおよそ46億年前。原始地球に存在した生物は、光も酸素もない状態で、地球の内部エネルギーだけで生きていました。しばらくすると、太陽光を利用する光合成で効率よく有機物を作る能力を持った生物が大発生し、27億年前くらいから酸素が大量に地球に放出されることになります。
 ところが、有機物を効率よく燃やせる酸素は、その頃存在していた生物にとっては、毒ガスにもなりうる諸刃の剣でした。生体を構成する物質を酸化によって分解することで、原始生物の痕跡を跡形もなく消し去ることが出来たからです。そこで原始生物の一群は、酸素や光を避けて地中深くに潜っていきました。

 21世紀になり、地球最後のフロンティアを目指した深海掘削プロジェクトによって、マントル内で生存していた太古の微生物が地表に掘り出されてしまいます。どんな高温高圧にも耐え、光と酸素を嫌う原始生物は人間に感染し、彼らは人間から光によって興奮する視細胞を乗っ取り、視覚を奪います。

 さらに、脳に侵入した微生物は、予想外の働きをします。外界から照射された光なしに、記憶から人が映像と感じる電気信号を作り出したのです。もともと人間が「見て」いるものは、網膜に到達した光から光化学反応によって変換された電気信号です。もしも私たちが目で見ることなく、記憶から視覚を再現できるとしたら…?
(ヘッドマウントディスプレイをつけたまま寝落ちして、ハッと目を覚ましたら自分が架空の世界の中にいて、現実だか夢だかわからなくなってパニくったことはありませんか? ボクはあります)

 地球の誕生と生命の起源という壮大な物語が、小さな原始生命との出会いをきっかけに思い起こされ、さらに人と微生物の共生関係が、未来の人間の進化につながるようなお話を目指します。

文字数:782

課題提出者一覧