毒と薬

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梗 概

毒と薬

怒りを取り除く方法として、神経細胞の接続を麻痺させる方法があるはずだった。しかし、そのような外的で大仰な手段をとることなく、もっとさりげなく欲望を調整し、取り除く方法が出来れば、世界中の争いがなくなるのではないか。

文明が発達しても、いつまでたっても戦争がなくならない事をとても悲しんだ研究者がいた。モーリスは争いの発端となる「欲望」を取り除く薬の開発のために研究をした。それを支えていたのは、彼の妻であるメアリーだった。メアリーは、若くて美しく忍耐力があり優しかった。そのような社会に対する正義の大義の為に努力し、立ち向かおうとする夫を支える事を自分の誇りに思っていた。

モーリスのいとこのトムは、モーリスに、よい妻がいるのだから、メアリーの幸せの為になるような、もう少しお金になる研究をすべきだ、と何度も言った。しかし、モーリスは、理解して支えてくれる妻がいるから、自分は研究に没頭できるのだと言った。トムは美しいメアリーを心の中で愛していた。トムにしてみれば、モーリスこそ欲の塊に思えた。

メアリーは次第に何年も研究の結果が出ない夫に対して、嫌気がさしてくる。年をとった。うだつの上がらない研究をするモーリスに対して、だんだんと腹を立てる様になっていた。一方で、自分の事を事あるごとに気を遣ってくれるトムに、惹かれていく。メアリーは、モーリスに対して、ますます心が離れていった。

その数年後、長年の研究の成果が実り、モーリスは薬を完成させた。モーリスは完成した薬を、最初にメアリーに飲ませた。日常となった家庭内戦争に耐えられなかったのだ。怒りという欲望がなくなったメアリーは、とても優しく、いつもニコニコとした顔で、2人には再び昔のように穏やかな日々が戻ったかも思われた。しかし、それは意志のある平穏ではなかった。「他人の欲望を奪うという欲望によって創られた薬」の発明を、モーリスは後悔した。他人の欲望を奪う事、操作する事は、自然の本来の人間としての死を意味した。博士は自分の過ちに後悔して、服毒自殺をした。

その後、メアリーは薬の効果が切れた。薬は完璧に完成された訳ではなかったのだ。メアリーには、モーリスの遺体と未完成の薬が残った。その2つについて、メアリーはトムに相談をした。再び欲望が沸き起こった。同じ時間でも、技術や世の中の進み方の速度は昔と今では進み方が違っていた。世界では、欲望の形の極化は、すでに戦争という形をとらなくなっていた。個人的な欲望を、自分自身で調整する事で社会と順応する事を容易にする為に、モーリスが創りだした薬を手に入れたいと思う人々はたくさんいた。欲望と感情を容易に調整する事で、技術や社会の発展だけを容易に求める世界を構築する事がステイタスとなった世界だった。人々の欲望はビックデータを集約した最高の基準で作られ、それに見合う様に、人々は自分自身の欲望を調整するために、モーリスの薬が利用された。

メアリーとトムは、有名になったモーリスの薬についての恩恵を受け、またその経緯を知る二人だけの秘密を心の糧に、2人だけの幸せな余生を過ごした。

文字数:1283

内容に関するアピール

欲望や感情や情報が管理される世界で、些細な秘密の情報を持ち、それに個人として付き合う事程幸せな事はないのではないかという問いです。

文字数:65

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旅先の散髪屋

1.

 秘境と呼ばれる温泉が目当てで、辺鄙な場所に電車とバスを乗り継いで出かけることになった。今回の東京出張の翌日が週末にあたるため、いっそのこと、そのまま帰らずに、思い切って休暇を過ごす決意をしたからだ。年中忙しい。けれど、年度末のため、さらに多忙を極めている。

 調べてみると、東京から2時間もあればたどり着ける温泉地は、四方に広がっている。それほどいたるところに湯が沸いているのであれば、ひとつくらい気に掛かる温泉を見つけ出すこともできるだろう。しかし、ファミリー向け、カップル、友人同士。写真をみると、それらの温泉は中年の一人旅には居心地が悪そうに思える。新しく見えるが古い改装した観光チェーンの施設も好みではない。こういうところではないと、引き算に考えていても時間の無駄だ。検索キーワードは、足し算だ。ストレートに「関東」「30代」「女性」「一人旅」「温泉」「天然」「掛け流し」「46℃」「肩こり」「ユートピア」として検索する。注文の多い料理店という有名な話があった。あれは客ではなく店主の注文が多いと言う話だった。だけど、やはり客は注文が多い。それをネットの検索では、こちらがいくらでも注文しても、店員に嫌な顔をされなくてすむ。

 秘湯とブログの記事のタイトルには書かれていた。なんとなくネットで秘湯と書かれても、いろんな人が見ているから、秘湯でもないだろうと思った。だけど、そこで使われている写真が、デジカメ写真を加工してモノクロになったのではなく、フィルムで撮られた古い写真で、粒子の荒いものだった事になぜか惹かれた。最寄りの駅までは東京から1時間半、その後さらに駅から1時間半程バスに乗る。途中でバスは乗り継ぐことになる。バスの本数は往復で7本。昨年山から下山するための午前中のバスが1本減ったと書かれている。レンタカーを借りると便利なのかもしれないが、慣れない山道を運転する事は目的地にたどり着いても疲れが取れそうにもない。バスに揺られることが小旅行の醍醐味に思い、目的地が決まる。

 出張先での仕事は散々だった。新規大手クライアントへの挨拶回りと簡単な打ち合わせだけのはずが、普段はネット会議で顔を合わせているのが、実際に正面に人がいる事で言いやすいのか、こちらの予想外の要望をどんどんと追加してきて、その対応に頭を回す為に精一杯だった。続きはSkypeによる会議に持ち越される。何ら珍しくはない展開で、話し合いは最終的に収まったが、次の会議までに解決すべき課題を山積みに抱えこんでしまった。その日の晩は、あらかじめ予約を入れておいたビジネスホテルに辿り着く。疲れてベッドに横たわった自分の身体の感覚は普段とあまり変わらなかった。背中にあるベッドの硬さだけ、普段よりも少し硬かった。

 翌朝、私は起きるには起きた。電車にもギリギり間に合う時間だった。前日に発生した身体の疲れと、予想させる今後の仕事の忙しさに、このまま帰路についてもいい気もした。しかし急な予定変更に対応することすら、面倒臭さがあった。本数の少ないバスに乗り継ぐための電車の出発時間は早かった。乗り遅れれば、本当に帰るしかない。と諦めることにするが、ホームに滑り込んだ目的の電車に飲み込まれる様にして乗り込んだ。

 駅前のバス乗り場の側に、赤青白の回転灯が回っている。その回転灯の下に、大きな茶色い毛のゴールデンレトリバーが寝ている。青いタイルで囲まれた壁にはめ込まれた、広いガラス張りの店の上に、シンプルに文字だけの大きな白い看板が目立っていた。「カット 大人1000円10分 子供500円5分」元々私の髪はショートヘアだった。けれど、最近は忙しくて美容院に行けてないで、伸びっぱなしだった。時間を割いて、散髪屋に行く時間ももったいない様な気がしていた。けれど、それよりも都会の美容院は、ただ黙ってカットに専念して欲しいのに、なんやかやと喋りかけられ、つまらない話の返答に気疲れしてしまう。シャンプーやらマッサージやら時間が食う以上に体感時間はその倍になり、億劫だった。散髪そのものが1日の一仕事になる。田舎の理髪店で都会のファーストフード店並みに髪の毛を切られるのも良いかもしれない。

 現在時刻は9時。バスの発車時刻まで30分ある。10分で散髪が済むのなら。整えられる程度に切ってもらった方が、現状のボサボサした頭が、いくらかマシになるのではないかと思い、店の中を覗く。丁度先客が終わったところだった様で、地元の常連らしい男性が出て行くところだった。マッシュルームカットだった。髪型に、全く流行りの要素はない。しかしその点は、値段にも相応であったし、むしろ腕自体は悪くない。ここは多くを求めるべきところではないと判断し、店の中に入った。

中には白衣を着た、小柄な初老の男性がいた。白衣の中の身だしなみがきちんとしている。

「いらっしゃい」

「カットをお願いします」

「髪型はどうしましょう。弱りましたな。女性向けの髪型は専門ではないのです」

「整えてもらえれば結構なので、構いません」

「わかりました。では、こちらの椅子に座ってください」

促されて座った白い椅子は、分厚いクッションの妙に座り心地の良い椅子だった。座った途端、男は眠りってしまっていた。

「お客さん、済みましたよ」

肩を揺り動かされて、気がつくと目の中に飛び込んできた文字盤のない時計の針は、9時40分を指す。バスに乗り遅れた!、と思った瞬間、同じ風景の中にバスがゆっくりとスローモーションで流れ込んでくる。

 目の前にあるのは鏡だった。私は振り返り、壁に掛けられた現実の時計を再び今度は正面から見る。バスの定刻までの10分前を指していた。窓の外のロータリーにバスの窓が光るのが見えた。捩っていた体を元に戻すと、今度は鏡に映った店主の顔と目が合い、その顔は笑顔で言った。「カットはいつも通りきっかり10分で終わったんですけどね。何度起こしても中々起きないし、困ったもんだ」

切り終わった自分の髪の毛も確認しないまま、店主に詫びと礼を言い、支払いの千円を渡す。店の目の前のバス停まですぐなのだが、短い時間に起きた出来事の焦りと安堵が混在した感覚のまま、急いでバス乗り場へと向かった。

「お客さん、前払いです」

自分が住んでいる西の街を運行するバスとは違い、この地方のバスは先に運賃を払う決まりになっている。そのことを頭で知っていても感覚で覚えきれずに、すぐに忘れてしまう。運転手に声を掛けられたのは、男がどこに座ろうかと、バスの車内を眺めているところだった。座席はまばらに埋まり、大方空いている。運転手に行き先のバス停までの金額を確認していると、バスのステッカーからダン、ダン、ダンと力強く不器用な音を一音ずつ立てて登って来る音がした後、私のズボンが掴まれた感触とともに、下から、

「お父さん」

と聞こえる。私はその高い声がした方を見ると、男の子がいた。初めは笑顔だった男の子が私と目があう一瞬で驚いた顔に変わる。男の子はズボンから手を離し、恥ずかしそうにその手は男の子の背後に隠れた。

「おーい、こっちだよ」

 男の子は低い声のする方を振り返ると、今登った階段の方にそこにもう1人男性が現れた。男の子は男性にもう一度「お父さん」と言う。その男性も男の子と同じ小ざっぱりとしたマッシュルームカットの髪型をしていた。ズボンの握られた跡の皺が、ゆっくりと解ける感触が残る。

 席に座ろうと車内を眺めると、さっき見た時に淡く感じていた違和感が、パッと目の前に飛び込んできた。仕立ての良い服とハンチングを被った体格の良い紳士も、杖を足の間に置いて咳き込んでいる白髪の男性も、窓の外を眺める渋い顔をしたジャンパー姿の50歳くらいの男性も、男性はすべて同じ髪型をしている。バスの窓の外を自転車で走っていく、制服を着た中学生くらいの男子学生3人組も同じ髪型。小ざっぱりとしたマッシュルームカット。ふと気になり、よく見ると帽子で隠れている運転手の髪型すらも同じようだった。そして、バックミラーに写る自分の姿は、やはり同じ髪型、マッシュルームカットだった。それは最初に散髪屋から出て行った男性と同じだった。

 バスの中には女性が1人いた。文庫本を熱心に読むメガネの少女だったが、彼女は黒髪を長く伸ばし、首のところで一つにゴムで留めている。彼女の髪型はその時のバスの中では唯一マッシュルームカットではない。その後、街ゆく他の女性も数人見かけたが、女性の髪型はマッシュルームカット以外の様々だった。

 座席は前から1人掛の席が並び、真ん中あたりで2人掛の広い座席になる。1人掛の最後尾に座ると、その後ろにさっきの親子が並び座った。

 間もなくバスは出発する。いわゆる「町」としての機能があるのは、駅周辺の僅かな地域だけだった。そこにはスーパーもあり、住宅地もまばらに点在している。駅から比較的近いバス停で、少女と紳士が、もう一つ先のバス停で白髪の老人が下車し、大方の乗客は降りていった。車窓の景色は、木々が繁る山道へと流れていく。都会の風景はどこも同じだと言うが、田舎の風景は、場所によってなかなかに違う。気候が違うと育つ木が違うせいだ。間に集落らしいものが2つ程あり、そのうちの手前の方でジャンパーの男が降りる。

 またしばらく行くと、木が繁るだけの山道から、岩肌の混ざった道が増える。なんとなく、こういう場所にはいい温泉がありそうだ、という勝手な想像をする。

 残った乗客は後ろの席の親子だけになった。子供はバスの中でずっと歌を歌っている。ほっておくとだんだんと大きくなる歌声に、父親は何度か小さい声で、小さく歌うように優しく注意する。子供はそれに従って、遠慮がちの掠れたような歌い方をした小声の歌になる。でも、子供は楽しくて、またすぐに歌声は大きくなる。知らない歌だ。最近のテレビの流行りの歌なのか、保育園で教えてもらった歌なのか。たまに、車窓に現われる変化を目敏く見つけて、父親に丁寧に報告する。白い雪を指差したり、こっそりと出て来た鹿の親子に驚いたりする。

「どうもすみません」と父親が謝ってきた。

「いえ、お構いなく。元気でよいです」子供がいない生活だったので、久しぶりに子供がいる。家族すらなく、忙しい生活だけがあり、自分と同じ年代の父親のこの男性を少し羨ましいと思っていた。

突然、父親が笑い出しながら、もう一度声をかけてくる。

「その髪型」

「ああ、この髪」言われて笑われたものだから、急に自分も恥ずかしくなる。けれど、父親は言葉を続ける。

「あの駅前の理髪店に行くと、みんな同じ髪型です。理髪店は街にあそこ1軒なので、この街の男性はだいたいみんな同じ髪型です。たまに1000円を散髪代にはケチる人がいて、自分で器用に切ったり、奥さんに切ってもらったりするのですが、それはそれで、不思議と同じ髪型になるんです。素人が自分で髪の毛を切ると、どうしてか同じ髪型になるんですね」

「そうなのですね。よその街の理髪店に髪の毛を切りに行ったりはしないのですか」

「女性は、そうですね。電車に乗って、どこかに切りに行ってるみたいです。でも男は髪を切ることに不便を覚えて、他所に行くぐらいの面倒をかけるなら、一層そのまま引っ越してしまいます。それ以上に何もない、不便なところですからね。若い人たちはだんだんとみんな引っ越して行きました」父親は別段暗い口調でもなく、事実を述べる。

「そういうものですか」私は相槌を打つ。

「旅行はどちらまで?」

「この先に温泉があるそうなのです。そこに1度いってみようと」

「ああ、あの温泉ですね」

「ご存知ですか。なんだか秘湯のようですが、あまり情報が出てこないのです。」

「知っています。私たちはその近くに住んでいます。」

「そうでしたか」

「よかったら、ぜひ家に寄ってください」

バスは相当な山奥に来た。これほど山奥で、しかもこれ以上にまだバスは奥に入っていく場所に温泉地があるようだ。

2.

 バスの乗り換え地点の停留所に着いた。バスの中間地点だ。親子もそこで降りた。

かなりの山奥に来たが、そこはバス停らしく、設備というほどのものではないが、木製の長椅子と時刻表があり、近くに平家で簡素な作りのバス会社の連絡小屋とコンクリート製の壁の灰色の公共トイレがあった。子供がトイレに行きたいというので、父親は連れていく。バスの運転手は小屋には入らず、タバコを一本だけゆっくりと吸う。私はその煙のにおいが漂う景色を眺める。

 バスの運転手はタバコを吸い終わると、すぐにまたバスに乗り込み、下りの発車時刻になってバスは去っていった。

 取り残された私は時刻表を見る。乗り換えのバスが来るまで1時間もあった。道はこの先、大きな峡谷に架かる橋に続いているようだ。その橋の先はまた、別の山へとずっとを続いているようだった。道はあるが、車はほとんど通らない。それでも、たまに気まぐれに通っていった。1時間も時間がある。このまま待つか。少し歩いて、先を進んでも良さそうだと思っていると、女の前に白いトヨタがやって来て停まった。運転席に先程の父親が座り、後部座席に子供が座っている。

「乗って行きませんか」と窓が開いて父親が声を掛ける。

「でも」と答えに窮する。

「温泉は通り道なので、遠慮なく。それにバスはまだなかなかきません」

どうしたものかと考えた。ありがたい気持ちと、申し訳ない気持ちと、信用して良いのかの判断とが混ざる。さっきしゃべった感じでは、悪い人でもなさそうだと思い、なんとなく子供がいることにも安心を感じていた。

 結局、助手席の扉を開けると、車の中は、さっきバスの中で子供が歌っていた曲が掛かっていた。子供はその歌に合わせてまた歌っている。車がゆっくりと走り出す。橋を渡る。橋は吊り橋で、とても頼りがない感じがした。高所恐怖症気味のため、あまり外を見ないで、まっすぐ前を向いていた。父親は鈴木さんと名乗り、子供は太郎くんだった。

「温泉は、ここからあと20分くらいのところです」

「そうですか。ネットでは、バスに乗り換えたあと40分と書いてありました。車だともっと早いのですね」

「橋が長いのです。あれは私が書きました」

「え?」私は驚いた。

「ですが、書き間違えたみたいです。今度書き直しておきます」

「そうだったのですね」

「あのブログに書いてあったのは、秘湯でもなんでもありません。ただ、うちの家に沸いている温泉です」

「ご自宅に温泉が湧いているのですか、それは素敵です。でも鈴木さんちの温泉に、私がお邪魔しても良いのですか」

「あれは、招待状だったのです。あなたがお客さんに選ばれました」

「ん?どういう事ですか」

「もうあの記事はネット上にはないです」

「どういう事ですか」急に、話がだんだんとよくわからなくなっている。

「はい、これにはいろいろと訳があるのです」

目的地に着くと、そこにはとても高い煙突が何本も並んで、白い煙がとうとうと流れている。一帯は集落のようだったけれど、人が住んでいる感じがせずに、工場地帯だった。

「地熱発電をご存知ですか」

「あまりよくは知りませんが、電力の発電方法の一つだという事くらいは」

「そうです。あれは全部、地熱発電所の煙突です」

3.

 地熱発電には、温泉熱を使った発電方法があります。地熱発電システムを設置するのには、とても費用がかかります。それを、元々ある温泉地の温泉熱を使うと一から泉源を探すよりもコストを抑えられますし、効率よく調査が進みます。発電所のような、ある程度の規模の敷地面積を要する施設を建設する土地を確保するのにも、それは有効でした。

 そして、私はさびれかかっていた温泉地の、小さなこの集落に目星をつけました。その時、30人程の人が住んでいました。温泉宿は全部で3つありました。旅館が1つともう少し小さい民宿が2つです。その少し離れたところの、集落の土地を一部買い取り、そして、そこに地熱発電所を建てました。

 簡単に地熱発電所を建てるといっても、少し時間のかかる話です。工事の説明会も行いました。初めは、温泉宿を営んでいた住民の方々も、泉質などの温泉業に影響が出るかもしれない地熱発電所に反対をしていました。それには様々な意見が既にあり、そんなことはないと言ってもそうでない場合もある。しかし、むしろ私は、そこで温泉地に残って旅館で働ていた人を説得する条件に、その建設した発電所の施設で働いてもらうことを提案しました。斜陽の老朽化した温泉地です。実際に発電所が建つと、発電所が温泉地の集客に影響を与えた、というわけではないのですが、もともとお客もまばらなため、旅館を畳み、発電所で働きたいという人が現れます。一番初めは、民宿をされていたご夫婦です。奥さんが持病があったため、民宿の経営も厳しいと感じていたようで相談に来られました。もちろん、旦那さんに発電所で働いてもらいました。1人、1人とそれからも発電所で働きたい人が次々とやって来て、この集落は発電所で働く人ばかりになりました。

 さて、そうして得た電力によって、私は本当の目的を遂行しました。それは仮想通貨のマイニングです。マイニングには、大量の電力が必要です。そのためにできるだけ安定性のある安価な自家発電の電力として、地熱発電での電力を得ようとしたのです。

 今は電力をそのまま売るよりも、仮想通貨のマイニングで稼ぐ方が、より収入を得ることができます。もしかすると、そのうち、あと数年も経つと、仮想通貨システムの機能が廃れてしまうかもしれません。そうなれば、今度は電力そのものを売り稼ぐことになるでしょう。地熱エネルギーの枯渇や、地熱発電所施設の耐久性や心配はされますが、それは地熱発電がこの国で浸透していないための杞憂のように思います。安定した地熱発電の電力は、しばらく廃れることはないでしょう。

 マイニングによって多くの利益を得ました。その利益は、次にまた施設の充実に当てました。マイニング用のパソコンの改良と、発電所の施設を維持するためのAIの開発です。それには優秀な技術者を雇いました。必要な部署に必要なAIを設置する度に、1人、1人と発電所から人に去ってもらいました。元々さびれた温泉地でしたので、残っている人たちにほとんど若い人はいません。しかし、住むには不便な場所でしたし、生業もなくしたとしても、ここを故郷だと思っている人が殆どでしたので、その思いは複雑でした。それは申し訳ないと思い、十分な退職金を渡しました。さびれた温泉地での切り盛りに、これからの人生をゆっくりと過ごす事を望む人が多かったので、故郷への思いに整理をつけていきました。

 

 私は、この土地で、新しい無人島の理想郷を作ろうとしていました。

 しかし、この子の母親だけは違っていました。突然、私の前に彼女が現れた時は、とても驚きました。この子の母親は、集落にあった旅館の若女将でした。その旅館を経営していた、彼女の両親は、彼女が幼い頃に交通事故で亡くなります。そのため、彼女が大きくなるまで、彼女の父の弟である、彼女の叔父が経営に携わる事になりました。そして、彼女はいずれは旅館を継ぐつもりで、そしてこの集落ごと立て直すために、大学で経営学を学んだ後、都心の有名ホテルに修行をします。どんどんと客も住人も去っていく集落に、どうすれば人を呼び戻すことができるかをずっと考え続けていました。そのうちに、彼女も務めていたホテルの同僚と恋に落ちて、一度は結婚し、この子を育てる事になったのです。

 しかし、結局、この子の父親と折り合いがつかずに、1人で育てるためにまた、集落を立て直すために故郷に戻ろうとした時には、もう集落に人がいなくなっている事を知ったのです。彼女の叔父は、集落の変化を彼女には伝えずにいたからです。彼女の身辺が複雑な時期と私が発電所の計画を進めた時期が時を同じくしていました。そして、これまで話した通り、住民とは大きなトラブルがなくトントンと話が進んだため、特にメディアに取り上げられるでもなく、私の思う通りにひっそりと順調に穏便に計画が進行したため、彼女の耳に入ることもなかったのです。

 いきなり大きな問題が現れたのでした。

 私は無人島を作ろうとしていたにも関わらず、この子の母親がこの子を連れて、故郷のこの温泉地に戻って来たのです。そして、彼女は、温泉地を廃業に追い込み、人がいない村に変えた私のことをとても怒っていました。私は心の底から彼女に謝りました。私も一端の経営者として、ここまで自分の事業を慎重に進めてきたつもりです。幸運にもそれにより反対者が出なかった。一つの小さな温泉地への思いの大きさに、これほどの差があったのです。

 私が彼女に、恨みがあって温泉地を廃業したのではないと、事の運びを説明します。すると、彼女は私に提案しました。私の資金を借りて、彼女の旅館を改装することは出来ないか、という内容です。温泉にお客さんが来るようになれば、資金は必ず返済する。

 また、彼女は私にこうも言います。お金は湯水のようにあるのだから、出資して欲しいと言います。溜まったままの水が腐るように、人が使うためにだけ生まれたお金を、溜めておいても意味はない。

 何度も熱心に彼女は私に訴えました。これまで私を含め、この集落の人は事なかれで過ごして来ましたし、一番それを望んでいました。しかし、彼女は違うのです。私は彼女の熱意に、徐々に関心を持つようになりました。私は彼女の言うこと、そして彼女自身にとても魅力を感じるようになりました。

 

 私としては、この無人島の中に、彼女とその可愛い息子の太郎くんだけがいてくれれば、それで満足なのです。このままの状態で生活する資金は十分にありますし、それを維持するシステムもようやく手に入れたのです。

 しかし、彼女はそれでは満足しないのです。彼女はこの温泉地の集落にいるならば、やはり、集落の旅館を立て直したいと言います。せっかく手に入れた安住の場所の生活とお金、そして、それを完璧なものにするはずの彼女と、お金で買えない彼女の気持ち。

 私はようやく彼女が提案する旅館の改装案に、資金を提供することにしました。

 そして新しい旅館が先日完成したのです。

 次に考えるべきことは、完成した旅館へ人にやって来てもらうことです。彼女はそれを望みました。私は再び考えました。この温泉地を公にしない方法で人をこの集落にやって来てもらい、彼女の旅館にやって来てもらう方法はないものかという事です。インターネットに大々的に告知をして、人が押し寄せても困ります。何より、私のこの地熱発電を使った無人島事業も、このままひっそりと進めたいのです。地図から消してしまいたいくらいに。

 そこで、ネットにあのブログの記事を掲載したのです。あの記事は、特殊な検索ワードでのみ、閲覧者が検索に引っかかるように、細工をしています。いわば、逆検閲です。だから、誰でも見つけることができる記事ではないのです。ある特定の人に向けていたのです。そして、毎朝私は始発からバスに乗り、町の人ではない、温泉を目当てにやって来た人を見つけるために、折り返しバスに乗りました。

 実のところ、やって来たのはあなたが初めてではありません。多くはありませんけれど。何人かいたお客さん候補はきました。しかし、少し話をしましたが、私の込み入った事情を理解して協力してくれそうにもなかったので、帰ってもらいました。ええ、太郎くんを連れていたのは、彼がいることで、話をするきっかけを作り、お客さん候補の警戒心を解いて、彼らの性格を事前に知るためでした。待っていても乗り継ぎのバスは来ません。あそこが本当の終点です。ただバスは折り返すだけです。不合格だった人には、温泉地は廃業したと伝えました。嘘は言っていません。

 しかしそれでも、時間と労力を使ってわざわざ足を運んでもらった事は申し訳なく思いました。お礼をそっと相手の身の回りの持ち物に忍ばせて、差し上げます。全ての物事を金銭で解決するつもりではありませんが、こちらの都合に振り回してしまった申し訳ない気持ちを表す方法を、まだ思いつきません。

 さて話が逸れてしまいました。

 そういう訳で、私たちは改めて、あなたにお客さんになって欲しいのです。そして、これは、私たち家族の問題でもあります。極めてプライベートな問題です。ええ、おっしゃる通り、まだ私たちは本当の家族ではありません。太郎くんが私をお父さんと呼んでくれているのも、嬉しいことですが、彼も色々と複雑な思いがあるのだと思います。

 そういう訳なのです。

 どうか一肌脱いでもらえないでしょうか。

4.

 鈴木さんの話はここでようやくひと段落した。こうして私は、招かれざる招かれた客になる事になった。

5.

 周囲を山々に囲まれた自然の中にポツンとあるこの集落は、かつては秘湯として繁盛していた時代があったそうだが、休業した今となっては、どこもひっそりとして人がいない。建物や電線、錆びた配線が張り巡らされた街全体に、人々が行き交う活気を想像した。もともと人がいた場所に人がいなくなると、残されたその古い物陰から、幽霊でも出そうな趣の場所がある。しかし、単なる廃墟的町並みとは異り、この温泉地の荒廃は、現役の発電所や自然泉源から白い煙が立ち込めている道がいくつもある。そのため、まだ冷たい風が吹くと、街全体を薄ぼんやりと包む溢れた白い空気が揺れる。集落そのものが、生々しさとは異なった、別の生き方をしている生き物で、その中に入り込んだような気になる。

 集落には、温泉宿が2つと旅館が一つあった。温泉宿が民宿の体を成した一軒家なのに対して、旅館は二階建てと小さいながら、客室は8つあり、宴会用の大広間もある。建物に手を加える前にも、温泉は浴槽がいくつかあった。大広間では、都心部からやってきた人たちの慰安旅行の夜通しの宴会や、結婚式の披露宴が行われた事もあった。

 太郎くんの母親は、中村です、と名乗り、とても綺麗な人だった。中村さんに案内されて旅館の客室の一つにたどり着いた時には、時刻は既に正午12時を回っていた。

 中村さんはとても真面目な緊張した面持ちで尋ねてくる。

「食事とお風呂とございます」

私も釣られて緊張してしまう。私が沢山の注文をつけて見つけた温泉地は、店主からの客になる様に注文される。このままどんどんと注文が多くなり、温泉に入るために服を脱いだはずが、注文の多い料理店の様に、本当にこちらが食べられてしまう、という様なことを想像する。食べるのが先か、食べられるのが先か。

「お腹は空いているのですが、日帰りの予定なので、あまりゆっくりもしていられないのです。ですから、お風呂を先にいただければと思います」と、私は現実問題を口にした。

「日帰りでしたか。もっとゆっくりしていかれたらいいのに」

「そうしたい気持ちは山々なのですが、仕事が忙しくてそういう訳にもいかずに残念なのです」

「そうでしたか。では、短い間ですが、滞在中だけでもゆっくりしていってください」

「はい、ありがとうございます」

こうして、いよいよ温泉に入れることになった。とても嬉しかった。

 案内された浴室の入り口は、階段2階へ登り、長い廊下を進んだ奥にあった。引き戸には、暖簾が掛かっている。お風呂は全部で7つあるそうだ。

 早速、扉を開けると、湯けむりた立ち込める。入り口付近に桶があり、掛け湯をしてから風呂に入る。初めはゆっくりと時間をかけて湯に浸かる。そこにどれだけ時間をかけても良いことが、温泉に来た、ということだ。湯が体に与える熱さと水の抵抗に馴染むと、思わず伸びをしたくなる。その頃になると、暗闇に目がなれる様に、湯けむりに遮られた視界は、隠されていた奥行きを見極められる様になっている。

 そして、そこは、とてつもなく広い浴槽だった。ただ、大きな湯船が一つ。太平洋に浮かぶ島の様に、湯の中に体を浮かせながら、ゆっくりと移動する。移動しながら体がすっかりと温まった頃、奥の壁までたどり着く。壁には次の湯船がある1階へと降りるエレベーターがあった。

エレベーターで一つ下の階へ。そこは露天風呂が広がっている。よく温もった体に、外の空気が気持ちよくあたる。先ほどの湯船の半分ほどの大きさだった。しかし、さっきの湯船が大きすぎた。十分に広い風呂は、浴槽の素材は檜で出来ている。鼻で息を吸うと、すうっと冷たい、木と泉質の硫黄が混ざった匂いがする。顔が冷え冷えとするので、ゆっくりと浸かっていることができる。外の世界を眺めるための大西洋に浮かんだ船になった様な、おおらかな気分にさせられる湯船だ。どこまでもいつまでも、水平線に辿り着くことを目標に進む船は、果てのないを一周する。

さらにエレベーターで、次は地下1階に到着する。部屋の広さは、先ほどの露天風呂よりも少しだけ小さいくらいだが、そこはとにかく横なぶりの風が水を運ぶシャワー室だ。痛いぐらいの風が吹くシャワーは、インド洋で次々に発生する台風のごとく、全てを運び、全てを洗い去る。そこで私は頭と体を、とても綺麗に洗うことが出来た。

 

 地下2階にたどり着く。扉の向こう側から、カラカラという音が聞こえてくる。扉1枚分だけ、そのカラカラという音は籠っていた。そして、扉を開けると、とびきりの寒さが吹き込んでくる。

 浴槽いっぱいに、十分な厚みを持った板になった白い氷が、割れて、重なり、何層にも水の上に浮かんでいる。氷の板は常にゆっくりと動き、お互いの表面同士を擦り重ねる時、乾いた音がカラカラと鳴り響く。たくさんの氷がいっぺんにカラカラと歌うものだから、耳の中が洗われた気分になる。

 たくさんの氷の層に隠れて直接は見えないが、氷の下は水があったが。しかし、さすがに南極海の様な水風呂に入ると、一瞬で髪の毛の先まで凍ってしまう気がしたので、心臓の音が聞こえなくなるより前に、早めに次の階へと向かった。

 

地下3階は、むわっと大きな暑い空気で空間が満たされている。溢れて出て仕方がない蒸した空気。小さなミストの圧力に、押し潰されそうなそこは、カリブ海に広がる熱帯雨林のサウナだった。部屋の中は、巨大な木々で覆われていて、緑色の葉の大きさが見たことのないくらいに大き過ぎて、一体今までの自分のサイズを忘れてしまって、わからなくなる。そこに、極彩色の花が咲き、鳥が飛ぶ。大きな花の、花弁の新鮮な血を思わせる赤色や南国のサンゴ礁の海の色を映したような青は、暑い蒸気を纏ってより艶を増す。その花弁が取り囲んだ長く太い雄しべの黄色い色をより一層強調するのは、花ごとに漂わせる甘い匂いだった。花一つを中心に、丸い世界を作り上げて、木になっていく。その木々の間を飛び交うのは、頭や嘴、体、羽、それぞれのパーツを様々な形、大きさ、色に組み合わせる、固有で見たことがない鳥々だった。一羽が澄んだ声を出すと、違う鳥が太さのある声で返事をする。木には蔦が絡まって、高い場所に幾つもたわわに木ノ実が成る。目が醒めた色の世界は、夢の中を漂うかのようだ。頭の中まで蒸せ返った頃、次の扉へと移動する。

 

 地下4階にあったのは、白いタイル貼りの壁の部屋に備え付けられた、白い湯船だった。部屋はまた一回り小さかった。そこには、大人が1人で入ればゆったりと足を伸ばして入るのにぴったりな大きさの浴槽があっただ。シンプルさの中に品があり、落ち着いていた。お湯の温度が絶妙に適して心地よさを誘う。何もないのではなくて、のぼせる負担もなく温度と泉質と湯の香りが、ただ調度よくあり、とても優雅な満足した気分になるのだった。それは、バカンスの間に避暑のため訪れる、地中海の海岸線の素朴なホテルのように、ささやかに心を休めることができるような丁度良さを持った湯船だった。そこには時間を忘れるぐらいに、いつまでも長い時間、居たい気持ちになった。

 さらにエレベータを一つ降りて、最後の7つ目の湯船に到達する。扉の向こう側には、今までで一番幅が狭い浴槽だった。水の底から、でこぼことした泡が盛んに浮き上がってきて水面で割れる。最後は泡風呂かと思い、湯に浸かる。足を伸ばしても、いつまでたっても底につかず、立ったまま入る風呂の様だった。幅は狭いが、しかし、深さは一番深かった。その温泉の底に届く前に、柱状に突き出す構造物が並ぶ箇所に足先が触れる。その上に乗ると辛うじて顔が水面を出る状態が保てられる。湯の泉質は、黒い色をした熱水と、白い色をした水と、青い色をした温水が噴出していて、それらは不思議に色を保ったまま、混ざりあっている。熱さと色の違う温水の混ざった泡風呂だった。湯船も7つ目となると、湯に疲れて、体もほどよくくたびれていたけれど、水温の塊が交互にぶつかってくる心地や、泡の存在感のマッサージも効果も手伝い、それまで入ったことのない温泉だとはっきりとわかった。

 「温泉は、潜ると怒られるのではなかったか」と思いながら、足に触るものが気になり、潜って確かめると、それは鉱物で出来た円柱の突起物だった。その突起物をよく調べると、構造物が生えている、さらに水底から泡が出てくる穴があるようだった。

  私は一度浮き上がって、大きく息を吸い込んだ後、もう一度深く潜った。体の浮力に逆らって、足元の底まで深く潜ることを試みた。足元の構造物の間から泡はどんどんと流れ出てきて、その水源の穴を探す。底の方に、金色の光が放たれれている箇所があり、その光は周りの黒と白と青の独立した色の混ざった透明な水を輝かせて、とても美しかった。そして、その光に吸い込まれる様に、穴の中に吸い込まれていった。

 こうして潜っていき、その穴の一つの中へと入り込む。穴の向こう側は、木星の衛星エウロパや過去の火星の熱水噴出孔と繋がる、宇宙旅行への扉になっていた。

 エウロパの水の底なのか、古代火星の水の底なのか、すり抜けた先の穴の向こう側の水底から見上げると、無数の銀色の光の粒が歪んで、伸びたり揺れたりしながら混ざり合っていた。しかしながら、ずっと水中で息を止めているのにも限界があり、息が苦しくなる前に元来た穴に戻ろうとしたけれど、ターンをしたつもりで振り返ってもくる時は金色に光っていた穴が、こちらからは金色でも何もない、一様に黒い底だったので、手探りで穴の場所を探しているうちに、焦ってしまい、いよいよ息が苦しくなったと思うと、伸ばした手がまた吸い込まれる様にして強く引っ張られたと思うと、気が遠くなって目の前が真っ暗になった。

 

 気がつくと、最初に案内された客室だった。私は浴衣を着て、畳の上で寝っていた。全ての湯船を堪能した。気持ち良さと軽い湯疲れが体に漂っていた。

  中村さんがやって来て、温泉の感想を求めた。

 6.

 遅い昼ご飯を、鈴木さんと太郎くんと中村さんの4人で一緒に食べてから、私は帰ることにした。客室で御膳をいただくことになり、中村さんは女将さんとして慌ただしく配膳の準備をしてくれる。蕗の薹などの季節の山菜を天ぷらにしたものが並べられる。蕗の薹は、本当の春になる少し手前のまだ少し寒い時期に、硬く閉じた実のものが採りごろなのだ。

 中村さんは、急に1人で大笑いをする。太郎と鈴木さんと私の三人は顔を見合す。

「3人とも同じ髪型をしているもので、笑いを堪えるのに必死で」

「ああ、そういえばそうでした」

自分の髪型のことは、すっかりと忘れていた。

「3人、太郎と鈴木さんと田中さんが、全員同じ髪型だったでしょう?マッシュルームカット。私は事前に鈴木さんから、お客さんには女性が来る、と聞いていたので、どうしてマッシュルームカットの髪型の人がやってきたのかと思ったら、わざわざ街の理容院で散髪して来たって聞いて。そしてその髪型がまた、田中さんに似合っているものだから。田中さんにお話しをする時、笑いをこらえるのに必死でした。可笑しくて可笑しくて」

中村さんのはじめの態度は硬く、緊張していたように思われたのは、笑いを堪えるのに必死で、完全に中村さんの調子を外してしまったからだった事がわかった。

 駅前の理髪店は、唯一集落が温泉地だった頃の名残だった。やって来た男性客が、温泉に入る前に、安上がりで短時間のうちにみんなで同じマッシュルームカットの髪型になる。さっぱりして、温泉を楽しんだ。同じ髪型のお客さんが湯船に溢れ、芋の子を洗うような光景が見られた時代もあったらしい。

 この温泉地には、次にどんなお客さんがやってくるのだろう。

(14873字)

 

(やり直し梗概) 

関西に住む女は、今回の東京出張を利用し、秘湯の温泉が目当てで、辺鄙な場所に電車とバスを乗り継いで出かけることになった。電車を降りると、地元の散髪屋があった。忙しく、散髪する時間もなかったため、バスの発車までの30分を利用して散髪をする。すると、いつの間にか眠ってしまい、バスにギリギリ乗り込んだ。後から乗り込んできた小さな子供が、自分の父親と間違えた。よく見ると、乗り込んだバスに乗っている男性は、みんな同じマッシュルームカットの髪型をしている。自分も同じ髪型をしていた。

 女はバスの中で親子と仲良くなる。乗り継ぎのバスを待っていると、親子が乗った車がやってきて、秘湯に連れて行ってくれる事になった。そこは親子が住む、今は廃れた温泉地だった。

父親は鈴木といい、温泉地に地熱発電所を作った。その電力を利用して、仮想通貨のマイニングを行う事業で成功を納めた。そこで得たお金を支払い、温泉地の年老いた住人たちに、立ち退いてもらう。鈴木はその温泉地で、自分だけの無人島を作りたかったのだ。しかし、温泉地にあった旅館の娘が帰ってきた事で、計画が狂う。娘=中村は東京でこの温泉地を立て直すために、修行していた。訳あって、子供=太郎(太郎は鈴木に懐いているが、本当の親子ではなかった)と2人で帰ってきた中村は、温泉地に再び人がやってくるようにしたいと考える。

 中村は鈴木に旅館の立て直しの経済的協力を求める。鈴木は、中村の熱意にだんだんと惹かれる。自分の理想と、中村親子への気持ちに揺れながら、中村に資金協力をする事に折れる。

 中村が旅館を改装した。

 次に、客を呼ぶ方法を鈴木は考えた。鈴木は大々的に客寄せをするのではなく、ネットのブログ記事をたまたま見つけてやってきた人を招き入れる、という方法をとる事にした。その方法によって、招かれたのが、主人公の女性だった。

 女性は、鈴木から成り行きを聞き、中村が立て直した旅館の温泉を楽しむ事にした。

ぎこちない接客の中村に案内された温泉は、七つの海を模した風呂だった。それぞれ特徴のある温泉を楽しむ。最後の温泉は、深海を模した泡風呂で、同じ構造をしているエウロパや古代火星への宇宙旅行につながる穴を持っていた。あわや帰り損ねそうになった女性は、かろうじて旅館に帰る事ができた。

 女性は鈴木と中村と太郎の4人で食事をご馳走になってから帰る事にした。そこで、中村は女性と鈴木と太郎が同じマッシュルームカットでやってきた事がおかしくて、笑いをこらえていたことを知る。駅前の散髪屋は、昔の温泉地だった頃の名残だった。みんなが同じマッシュルームカットになり、芋の子を洗うように温泉を楽しんでいた時代もあったのだ。

 次にこの温泉地にやってくる客を、女性は想像しながら物語は終わる。

(1148字)

 

 

 

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