梗 概
ヴァルタヴァの寫眞師
リッジはフリーの旅行プランナーだ。ある日、懇意のクライアントから謎のモノトーン画像の作者を探しているという話を持ちかけられる。わかっているのは「ヌカ」というサインが入っていることと、画像の出どころがヴァルタヴァと呼ばれる放棄地であること、絵はプラチナプリントと言う手法で印刷された「湿板写真」ということだけだった。もし「ヌカ」という人物が放棄地であるヴァルタヴァに住んでいるのなら直接会ってみたいということでリッジに依頼が舞い込んだのである。
ヴァルタヴァは過去に惑星改造実験地として使用され、海や大気の形成、さらにはマントルの形成も行われた有名な星であったが、事故のため現在は定住者ゼロの放棄地であった。美しいモノトーンの画像よりもヴァルタヴァ自体に興味を惹かれたリッジは依頼をうける。しかし毎年被害者追悼式を主催する関係者に問い合わせると、ヴァルタヴァを見世物にしないでほしいと情報提供を拒否される。
とりあえず独力で現地調査をすることにしたリッジは、なんとかヴァルタヴァの軌道エレベータ上空駅へたどり着き、自分でエレベータを操作して地上へ降りた。地上は建築中のまま放棄された新居住地区や、火事で崩れ落ちたあと整地されたとみられる旧市街地、隕石にやられたのか破れた隔蓋膜、人工マントル形成に使用した化学薬品が染み出した酸の海、と廃墟ツアーとしての見どころもそれなりにある。ひとまずリッジは隕石群の通過と宿泊施設として適しているかどうかの確認のため、安全な軌道エレベータ地上駅の管理室に泊まることにする。しかし、その晩地上に隕石が降り注ぎ、エレベータは停止、エンジニアの到着を待たなければ上空へ戻れなくなる。
エンジニアの到着まで三日、外へ出るのは危険なので施設内を探索するリッジは、シャワー室の一つに外から持ち込まれた有毒物質や見たことのない道具、「ヌカ」とサインされた絵が置かれているのを発見する。
一方、テクニカルトラブルでエンジニアから到着が数日遅れると連絡があり、だんだん不安をつのらせるリッジ。たった一人で過ごすうちに精神に変調をきたし、物音や影に誰か怪しい人間がいてヌカという人物を殺したのではと思い始める。7日目の早朝、まんじりとしないまま暗い朝を迎えたリッジは酸の海の上に飛ぶ稲妻を目撃し、以前にクライアントから見せられた絵は酸の海の上を走る稲妻を捉えたものだったと理解するリッジ。間もなくケーブルを伝って降りてきたエンジニアは「ヌカ」と名乗る。
文字数:1029
内容に関するアピール
一度くらい写真のことを書きたかったので、未来で湿板写真やプラチナプリント(500年経っても美しいまま保存できる印刷の手法)が行われてもおかしくない世界をつくりました。
湿板写真は写真史の初期にあたる十九世紀頃まで使われていた手法で、コロジオンを塗布した板を硝酸銀溶液に浸すことで感光剤を作り、撮影します(コロジオンプロセス)。コロジオンプロセスは感光剤が濡れている間しか効力がないので持ち運びに不便があることや、劇薬を使用しなければならないことから後にできた乾板、フィルムにとってかわられ、そのフィルムも今はデジタルに取って代わられようとしています(おそらくデジタル静止画もそのうちなくなると思います)。ただし工業製品である乾板やフィルム、デジタル素子とは違って素人でもやり方さえ知っていれば感光剤と作れる湿板写真は現在も愛好家がいて(それこそ知り合いの知り合いはだいたい知り合いという小さな世界ですが)、アートの分野では今後も残っていく可能性はあると思います。
終わり方はヌカの自己紹介のところで終わらせるかもう少し長くするか考え中です。
文字数:468
ヴァルタヴァの寫眞師
1
コロジオンプロセス、プラチナプリント、ワシ。
激しくゆれたカーゴの中でリッジ・バートンが最初に思い浮かべたのは、その呪文だった。しかし上下左右から襲いかかってきた見えない力にはまったく効果がないようだ。彼の体は宙を飛んでいる。ぐるぐると回転し、制御を失っている。
ちくしょう、とリッジは悪罵を飛ばした。嫌な予感はずっとあった。この仕事は受けないほうがいい、今からでも遅くないから手を引けという忠告の声がずっと腹にあった。それを無視した結果がこれだ。高度400m、地上まであと少しのところで、彼は誰にも知られず死ぬ。多分、死ぬ。
彼をここへ連れてきたのはひとつの絵であった。はじめてあの絵を見たとき、彼は困惑した。属性を開くと「コロジオンプロセス、プラチナプリント、ワシ」と呪文がある。しかし一見はただダークグレーの色が提示されているだけにしか見えなかった。顔を近づけ、よく観察するとグレーはグラデーションがかかっていて、緻密な制御のもとに出力されているらしい。かすかにうろこのような模様もあり、立体感がある。しかし、芸術に疎いリッジには性能の良い出力器を使用しているらしいということしかわからなかった。
唯一彼の目を引いたのは絵の中心にある破綻であった。一度破り捨てて貼り付けたように、黒く細い、しかしきりりとエッジのたった黒い線が中央を走っているのである。
スペシャリストとして言わせてもらうと、厄介なにおいがする、と冗談をいうと、リッジに絵をみせたクライアントは珍しく笑った。厄介。たしかに厄介かもしれないね。さすがスペシャリストだ。私の顧客がこの絵に興味を持っているんだ。厄介だろう。しかも、五年前にヴァルタヴァから発信されたものらしい。ヴァルタヴァは知っているかね。
クソったれと宙を掻きながらリッジはまた思った。
知っているもなにも、ヴァルタヴァほど有名な土地はない。三十年前に惑星改造実験中に火災が起こり、人口の四割にも達するおよそ二万人の死者・行方不明者を出した土地だ。今は放棄地になっているうえに、汚染がすすんでいるときいたこともある。ひらたくいえば放棄地、名前を聞くだけで陰惨な気持ちになる呪われた土地だ。
しかしクライアントはめったにないほど上機嫌だった。ヴァルタヴァへの渡航を必ずしも必要ではない。最終的なゴールはこの絵を買い付けられること、できれば他の作品も見せてもらいたいし、直接会って交渉をしたいから、場合によってはヴァルタヴァへ行くのはやぶさかではないとおっしゃっている。こういう場所へ行くには君を頼るのが一番だからね、手配してくれるかな。ただ、もし人探しもやってくれるというのなら、報酬は三倍だそう。どうだね。
あのとき、リッジは少し考えた。放棄地への渡航が簡単でないことはフリーの旅行プランナーとしてよくよく理解している。特に彼のメインの顧客となる富裕層は要求がシビアだ。僻地へ連れ出すなら、宿泊場所や食事のほか、渡航経路や渡航時間なども厳選を重ねなければならない。貧乏旅行よろしく十日間機中泊してくれというわけにはいかないのである。もしこの仕事を受けるなら人探しまでやらなければ利益は出ない。
だが、芸術家は奇人も多いと言う。門外漢のリッジでうまくやれるだろうか? 手がかりは絵と、絵に入っているヌカというサインとヴァルタヴァだけというのも心細い。
単純な計算では断ったほうがいい話だったが、しばらく考えて彼は依頼を引き受けることにした。長く懇意にしてもらっているクライアントとの今後の付き合いを考えれば、多少の無理は引き受けたほうがいいいと判断したのである。人探しは専門ではないので、調査経費は実費で請求、探し出せた場合は三倍を目安に報酬を出してもらうということで話はまとまった。
はずなのだが。
目の前にクリアな壁が迫っている。その向こうには赤い世界が広がっている。紅い砂、赤い岩、赤い岩盤、赤い海、水平線まで退避している人工太陽は茜色に空を焼き、自身も赤い光だけを発している。なにもない、死だけが存在する星、ヴァルタヴァ。
死中に活を求め、彼は頭を抱え、体を丸めた。
ぶつかる――!
息を吸って目が覚めた。
ビーッ! ビーッ! と頭上でざらついた警報音が喚いている。異常を検知したため、一時停止しました。まもなく最寄りのステーションに移動します。落ち着いて行動してください。
生きている。
ぼやけた視界には混濁した青緑色の空が写っている。青緑色の空には隕石雲が膨張して醜い傷跡を残していた。彼を死ぬ目にあわせた隕石の痕跡である。あの筋を残した隕石が上空で水蒸気爆発して、衝撃波を発生させたのだ。それで軌道エレベータが激しく揺れた。恒星間天体群が近づいているのは聞いていたが、こんなひどい目にあうのは同意してないぞ、と憤慨してリッジは唸った。
後頭部がズキズキする。しかも息苦しい。あたりがやけに明るいのは、瞳孔が開いているせいだろう。エレベータのカーゴはまだ揺れており、かじりついていないと床を滑ってあちこちにぶつかる。降下は止まっているが、振動は周期的、気を失っていた時間はそれほど長くないだろう。
うめきながらリッジは腹ばいになった。滑ってきた自分の旅行かばんに顎をのせ、腕で抱え込む。体全体に鈍い痛みはあるが、しびれているような感じもあるし、深く息を吸えない。とにかく安全な場所に移動したらメディカルチェックが必要だ、と彼は頭の中でタスクをあげた。
どうにかして生き延びなければ――
ここ、ヴァルタヴァが存在するのは、地球系人類の版図としては僻地にあたるS8-P0A-3星系だ。星系の中心にある恒星は赤色矮星だし、ヴァルタヴァ(ZT90-C)星は星系の一番外側にある小惑星なので、恒星からの影響は限定的である。熱エネルギーの恩恵もうけられないので、人工太陽が打ち上がっているほどだ。星の大きさは半径400km、重力は0.7G、一日はたった2時間ですぎさる小さな星である。一番近い人間の住処は隣の星系のデゴ=イ諸群だが、ヴァルタヴァは放棄地なのでデゴ=イからの定期航行便は存在しない。誰かが依頼しなければ、誰もリッジを迎えに来てくれないのである。
次にエレベータが動くのは追悼式典の頃だろうか、とリッジは心細く思いながら指を折った。式典は三か月後、それまでここでじっとしているのはぞっとしない。しかも追悼式典のときは輸送すべき人数が多いので大きい方のエレベータを動かすはずだ。いまリッジが伸びているメンテナンス用の小さなエレベータは、作業員以外は使わない。
今ちょうどひとり作業員が下に降りていると、リッジを上空のステーションまで送り届けたパイロットは言っていたが、連絡が取れないとも言っていた。一応メッセージは入れといてやるけど気づいてないかもしれないなぁ。最初はちょっとびっくりするかもしれないけど、丁寧でいいやつだから。リッジは不思議に思い、どうしてびっくりするのか、と尋ねた。パイロットは苦い顔をして肩をすくめ、アプは――名前、アプっていうんだけど、あいつ、gArlTなんだよね、だからやっぱ慣れてないとね、意外に繊細なとこがあるから、ちゃんと挨拶してやれよ、と低い声で答えた。
宇宙開拓時代の生きる化石、gArlT。異星種との出会いによって今でこそ星間航行は気軽になったが、その昔、宇宙を旅するには一生の覚悟が必要だった。生きている間に目的地にたどり着くことなど夢のまた夢、いつか子孫が夢を果たしてくれると信じるしかなかった。装備も不十分で、危険な旅だ。だから特別な道具を必要としなくても過酷な環境下で生きられるよう体を改造する者がいたのだという。見た目が人間とかなりかけ離れていることもあり、なにかと論争の起こりやすい存在だ。比較的存在が珍しくないといわれる僻地でも今はめったに見かけることがなくなったので、確かに慣れていないと驚いて傷つけるようなことを言ってしまうかもしれない。
彼ならエレベータを使用しなくても上空に帰還できるだろう、とリッジは額の汗をぬぐって、思考を切り替えた。リッジがカーゴに取り残されていることに気づかない可能性もある。どうかエレベータが途中で止まっていることに気づいてくれ、と祈るしかない。もう少し揺れがおちついて、カーゴが動かないことがわかったら、地上と交信ができないか試してみた方がよさそうだ。
じりじりと腹のあたりが痛むので、息をきらせながら彼は体を起こした。途中、左の脇腹に鋭い痛みが走って息がつまったが、歯を食いしばり、脇腹を押さえて脚を前に投げ出す。
カーゴの中は狭い。座った体勢でも足を伸ばせば反対側の壁に足の裏がついてしまう。軽量簡易空気圧軌道エレベータ用カーゴの宿命というやつだ。
左は赤茶けた海、右は褐色にくすんだ荒野、どちらをみても気持ちがすさみそうだが、今のリッジにはいじけている余裕がない。痛む左の脇腹のせいで体が左に傾いたので、リッジはそのまま壁に頭をもたせかけた。
地磁気がなく、恒星からのフレアが滅多にやってこないヴァルタヴァでは、引力によってしか空気をとどめておくことができない。いまや地上の空気密度は地球系人類が生息するにはあまりにも薄いはずだ。対流もほとんどないのか、海は波風もたてずひっそりとしている。その海の際に立つポートタワーの足元には海浜公園が朽ちている。整備された曲線模様の遊歩道の上には木が倒れているが、ただ茶色く変色しているだけだ。木を分解する微生物はすでに死滅しているのである。
水平線を移動する人工太陽の光が眩しい。痛みをわすれるために左手で右腕を掴んでリッジは額を壁に押し付けた。
海浜公園より手前側にあるのは、大火事で焼け落ちた旧市街地だ。三十年経ってもまだ整理しきれない巨大すぎる混沌が眠りを貪っている。倒れてひしゃげた建物は旧市街地の住宅棟だろうか。残骸から大天蓋を支える支柱が伸びているので、火事で倒壊したヴァルタヴァ行政ホールの残骸かもしれない。残された骨組みにはびっしりと赤い錆びが浮き、空に向かってふにゃふにゃと伸びている。地面に横たわっている部分だけを見ても奥にあるポートタワーより大きいのはあきらかで、往時はどれほどの威容をほこっていたのかとリッジは思った。
解体しきれない骨組みの周囲には、ひっかき傷のような跡がある。折り重なり、圧縮された構造物に火災の跡は見られないものの、あまりの量に三十年経った今も整理が追いついていないらしい。
そしてその瓦礫と残骸の山におおいかぶさる大天蓋。カーゴのガラス窓に顔をおしつけたまま、リッジは息を飲んだ。
大気の存在しない星では、隕石落下被害防止のため大天蓋が形成されることが多い。通常なら透き通っていて存在を感じることはめったにないし、ヴァルタヴァの場合は高度三千メートル付近に形成されているから、当時の住人のほとんどは存在を気に留めなかったはずだ。その大天蓋が、溶けている。
やぶれているのは隕石の落下を受けたものだろう。しかし、つららのように溶け出し、支柱をなめているのは、また別の理由だ。溶け出した材質のしっぽは焦げ付いて、不気味な武器のように切っ先を尖らせている。
あの高さまで炎の熱が到達したのか、とリッジは慄然とした。きっと地上は火の海だっただろう。市街地そばにあった化学プラントが爆発したのもうなずけるし、いきた心地がしなかったと海浜公園に避難した人々が口々に語ったのも当然だ。よくこれで死者・行方不明者が二万人ですんだものだとリッジはぞっとした。鎮火のために行われた五重界壁内部の真空引きも、当時は相当批判を受けていたが、こうしてみれば当然の処置と思える。
息苦しさに彼は顔をそむけ、反対側の壁に額を押し付けた。
開発前のヴァルタヴァの原風景は、多くの開拓地同様、砂と岩石だけの死の土地だ。開発された市街地は星の切り傷程度でしかない。エレベータの足元付近には、かつて地下資源を調査するために使われていた遺構があるも、すぐに人の気配は途絶え、荒々しく空を切り取る風化した岩石と、クレーターだらけの荒涼とした土地が広がる。
居住地に比較的近いところにもクレータがある、とリッジは目を凝らした。まだ新しいのかえぐれた大地の表面には砂が積もっておらず、赤黒い地面がのぞいている。上空から見ると、鮮やかな赤い岩盤は血液であった。巨大な化け物が爪をたてて星の肉をえぐりとり、残されたしめった傷口はぐじゅぐじゅと音をたてて腐っている――リッジは無意識に腕をなでた。
もしこれが他の星なら、リッジとて恐怖は覚えなかっただろう。でも、今の彼には頭上を守ってくれるシールドがない。大天蓋は溶け、幾度も隕石による攻撃を受けてぼろぼろだ。軌道エレベータは市街地とは別に五重界壁で覆われているが、もし界壁を突き破るエネルギーの隕石がふってくればひとたまりもない。
ヴァルタヴァの市街地が残っているのはただの偶然にすぎない。もしかしたら彼は一瞬後には隕石にすり潰されているかもしれなかった。もしかするとエレベータが破壊され、誰もいない星で何ヶ月も、場合によっては何年も救助が来るのを待たねばならないかもしれなかった。
ヴァルタヴァへの航行許可を得るために連絡した、ヴァルタヴァ帰還事務局の事務員の声が蘇る。あそこに人が住めるとは思えません、と彼は言った。帰還事業を推し進める立場にありながら、彼はヴァルタヴァの復興にまったく希望を抱いていないらしかった。そのくせ微塵も時分の矛盾を感じていないふうに、彼は声を荒げて言った。短期の滞在ならともかく、もうずいぶん汚染が進んでおりますからね。あんなところで絵なんて、まともじゃありません。あなただってそうですよ。旅行だなんてふざけてるんですか? まだ遺品の回収だって終わっていないのに、品格を疑われますよ。いくら生活のためだといったって、もっとまともな仕事があるでしょう。いいですか、あそこは私らの故郷なんですよ。わかります? 大事な場所なんです。土足で踏み入らないでいただきたい。あすこはね、ほんとうにきれいな星だったんです。今はあんなでボロボロですけど、恒星間天体群の通過ピークがすぎればきっと、きっと――
激怒する事務員をとりなし、なだめて、詫びてさらに詫びてどうにか許してもらったが、結局、彼はちっとも男の言葉を理解していなかった。それが今わかった。
無理だ、と彼は思った。
ここを目的とした旅行は絶対に無理だ。彼はなにも理解していなかった。廃墟ツアーの下見と同じつもりでいた。しかしここはただの廃墟ではない。まず規模が大きすぎる。危険度も著しく高いし、なにかあったときはどれだけ対策を考えていてもなにも実行できずに一瞬で死ぬかもしれない。それでも物見遊山で訪れる人間はいるだろう。しかしここを観光地にしようなどと考える人間は、まったくまともではない。ましてや作品を制作するなど、本当にできるのか?
ぷつん、と突然警報音が途絶えた。感傷にひたっていたリッジを正気に戻すには十分な音のコントラストであった。音の余韻が消える前にアナウンスが流れ始める。最寄りの階に停止します。停止後は指示に従い、すみやかに安全な場所へ避難してください。
ほっとして彼は体の緊張を解いた。どうやら最悪の事態からは遠ざかったようだ。
2
ヴァルタヴァの惑星改造プロジェクトは、地球系の政府組織連盟の下部組織である科学技術総合開発機構が主体であったと資料にある。
ヴァルタヴァはもともと地下資源が目的で民間の超巨大企業が開拓した土地であった。大きい方のエレベータや大天蓋などの地上装置はすべてその企業が建造したものだ。
しかし彼らの目論見と期待ははずれ、ヴァルタヴァからはさほど希少価値のある鉱物が採取できなかった。そのうえ比較的柔らかい千メートル付近まで掘り進めたところで強固な岩盤に阻まれ、地下開発がストップしたのだ。採算がとれないとわかると企業は潮を引くように逃げていき、ヴァルタヴァは新しい道を模索しなければならなくなった。もし有効な土地の活用手段が見つからなければ、住民は全員撤退する。
そんなときに惑星改造プロジェクトは降って湧いたのであった。
原生種がおらず、土地と産業は死んでおり、人口の少ないヴァルタヴァは、実験環境として転用するにはうってつけだ。海と大気をつくり、人工太陽を改良して電離層を厚くし、さらに地下を掘り進めて地磁気を発生させる――
惑星改造の方法は他にもいくつか存在している。宇宙進出によって接触した他の生命体に頼む、仮想都市を形成する――だが、人類は人類の手で人類の住むべき場所を定義したがった。希望は成功を呼び、成功は耳目を集める。大気の形成が成功したとき、人類には新時代が訪れたとも言われたそうだ。しかし、地磁気を発生させる準備工事中に事故が起こると、評価は一変した。失敗の落胆は大きかったし、街が壊滅するという事故はあまりにもショッキングだ。事故をきっかけとして一部地域では科学技術忌避の機運が高まったとか、この事故をもって開拓期は終焉し、人類は爛熟期に達した、黄昏時代に入ったなどという言説もある。
軽い衝撃とともにカーゴは止まった。シュウ……と音がして、入り口を示すサインが明滅する。リッジはぜいぜいと息を吐きながら立ち上がった。脇腹はまだ痛むが、歩けないほどではない。旅行かばんを引きずり、彼は地上ステーションのフロアに足を載せた。
二十七時間ぶりのしっかりとした足元だ。
脂汗をかきながら、彼は壁に手をついた。狭い廊下の突き当りにはぽっかりと穴があいて、散らかった部屋が見えている。廊下の長さからみれば他にも扉はありそうだが探す気力がわかなかったので、リッジは仕方なく荷物を引きずって廊下を歩いた。
まずは作業員――アプに救助を求める。脇腹が痛いからメディカルチェックをしたい。どこかに横になれる場所はないか。たぶん話は通じるだろう。もしいなかったら――システムチェックだ。軌道エレベータシステムはすでにチェックシーケンスを自動で走らせているはずだから、その結果を確認する。それから連絡――誰に? とりあえずすぐにわかるのはパイロットだ。天体が通過してシステムに異常が起こるのは珍しくないから、きっとどうすればいいか教えてくれるだろう。そのあとは――
大丈夫、と廊下の壁に手をついてリッジは息をついた。きっと大丈夫だ。助けを求めたら、あとは床に転がって救助を待てばいい。三日後から恒星間天体群が飛来するので航行規制がかかるが、長くても五日程度で解除されるはずだ。それくらいの食料は持参している。
警報が鳴り響いている。まるで煙幕のように複数の音が入り乱れている。思い切って部屋の中に足を踏み入れると、ごちゃごちゃとした物理物体が視界を撹乱した。真ん中に大きな机、傷がついて平らでない天板、ささくれ、散らばるシート類、食器、湯気を立てるカップ、布のようなもの、その他にも細々としたものが散乱している。床には紐が散らかり、壁の棚にもびっしりとなにかが並び、なによりもつらいのは色の洪水だった。青、深い緑、茶色、灰色、赤、蛍光オレンジ、若葉色。彼は混乱した。見慣れないものばかりだし、物が多すぎてどこを見たらいいかわからない。見るべきものも、聞くべきものもありすぎる。なにもかもが彼に向かって主張をしている。こっちを見ろ、こっちのほうが大変だ、早くしろ、早くしないと大変なことになるぞ。
ぐっと腹に力を入れ、彼は頭を振った。航行機から降りる時にパイロットからくどくどと説明された通信機のランプが、音の煙幕の奥に浮き上がっている。エレベータを降りて突き当りの部屋、入って右側の壁のところに物理電源スイッチ、物理操作盤、そして通信機がある。通信機は有線で上空につながっているし、無線なら人工衛星上の基地局につながっているから、隕石の直撃を受けない限りは使える。パイロットのおせっかいが、今になって身にしみる。
荷物は床に放り出し、彼は物理操作盤の方へ歩いていった。電気はすでに復帰しているようだ。しかし面映は「処理中…」と表示するだけだし、物理パネル上ではすべてのランプが黄色に明滅している。物理操作盤の下にあるのは物理電源スイッチ――今は下に下がっていて、赤い文字でOFFと書いてある。リッジは首をひねった。ふつうならスイッチのあたりにマニュアルが表示されるが、指で宙を引っ掻いてみてもなにも出てこない。つまり、電気は完全復旧していないということだ。しばらく逡巡して、彼はおそるおそる親指でスイッチを押し上げた。
パチン、とスイッチは音を立ててあがった。と、同時に警報音も止まる。
リッジがおろおろしているうちに、一旦すべてのランプが消灯し、再び点滅が始まる。十秒もたたないうちに物理スイッチの右側に面映が再起動し、異常ありません、と落ち着いた声を再生した。リッジはほっとして、復帰時の手順を確認するという項目を指で選んだ。モードが変更され、立映が立ち上がってくる。
ようやく自分の理解できる世界になったと安堵して、リッジはすぐそばにあった四脚の踏み台の上に腰をおろした。
立映には施設のインスペクション結果が投影されている。ワイヤーモデルがくるくると回転して、結果がない場所は白、問題ない場所はグリーン、注意箇所はイエロー、破損・停止箇所はレッドで表示しているらしい。ステーション内部の亀裂・破断はなし、各階の空調に問題なし、基幹インフラ正常動作確認、傾き・ひずみのチェックでは一部に問題ありだが、降着場と管理室以下の階は問題なし。界壁は――
ステーションを保護する五重界壁上に黄色の文字が浮かび上がっている。上圏、下圏は問題なし。しかし中間圏第三層にひずみを検知したとある。場所は高度約500km。そして両ステーション近辺のケーブルテンションにも警告が出ている。
脇腹が痛い。視界の縁はぼんやりとして定まらない。しかもおさまったはずの動悸がぶり返している。どくどくと鎖骨のあたりで音がして、指が震える。たまらずリッジはうめき声をあげた。
落ち着くために電気林檎キャラメルを口に押し込んで、リッジはため息をついた。
エレベータの中にいたときより状況は改善しているはずだが、死にそうな気分だ。自分の不運が嘆かわしい。肋骨にはヒビが入っているし、頼みのアプは一向に部屋に戻ってこない。鎮痛剤を飲んだので痛みはましになったが、とにかく横になりたかった。デゴ=イではベッドにありつけたが、それ以外は経費削減のためにずっと機中泊、そして軌道エレベータの狭いカーゴの中では十五時間もじっとしていたのである。大きい方の正式なエレベータなら宿泊施設があっただろうが、メンテナンス用の簡易版では床に転がってひたすら時がすぎるのを待つしかない。すっかり尻もかたくなって、体はギシギシする。もう限界だ。ベッドで眠りたい。
めそめそと泣き言を漏らしながら、彼は痛む体をひきずって仮眠室を探した。壁のどこかに扉があるはずだが、キーが反応しない。ウロウロと三往復してようやく壁の上に白い三重の円がうっすらと浮かび上がっているのを見つけ、彼はとびついた。
中は暗い。そして奇妙なにおいが漂っている。形容しがたい――嗅いだことのないにおいだ。鼻に引っかかるが、命の危険を感じるほどではない。
暗闇に足を半分踏み入れると、彼の動作に反応して天井のライトが点灯した。入って右側は壁、左側は半透明の扉が三つ並んでいる。蝶つがいのついている物理扉だ。ブースの中がもしかすると仮想空間になっているかもしれないと期待してリッジは一番手前の部屋を覗き込んだが、残念ながら中はシンプルなシャワーが備え付けられているだけだった。埃は積もっていないのでそれなりに使用されているらしい。
この奇妙なにおいは下水だろうか、と鼻を動かして彼は思った。
ふたつ目のブースも念のため確認する。扉を開ける時に少し負荷があったが、中はひとつ目のブースと同じシャワー室だ。長く使われていないのかシャワーヘッドに少しサビが浮いている。床はからからに乾いて埃がつもっており、ひとつ目にくらべるとあまり使われていないようすだ。しかしにおいは先程よりも濃くなっている。
右手を壁についてリッジは前かがみになった。早く横になりたいという気持ちと、好奇心がせめぎ合っている。好奇心を押しとどめて理性的な行動を取る気力がない。
目を閉じ、また開く。深呼吸を三回してリッジは少しだけ見てみよう、と思った。ちょっとだけだ。ちょっとのぞいて、それからまた仮眠室を探す。それくらいの気力は振り絞れる。
みっつ目のブースの扉には赤いテープでバツ印が描かれている。扉を指で軽く押すと、特に抵抗なく扉は開いた。しかし中からむっとするほどにおいがこもった空気が吐き出され、リッジは顔をしかめた。知らないにおいだ。危険かもしれない。
右側の壁際には棚がおいてある。棚の中には容器がびっしりと並び、振動で床に落ちないようにストッパーが取り付けられていた。床には箱が散乱している。
掃除用具入れだろうか、とリッジは思った。だとしたら扉に印がついているのも納得だ。においは掃除用の薬品のものなのかもしれない。においは薬品がこぼれているのか?
彼はブースの入り口にもたれかかり、頭だけを中に突っ込んだ。
「……?」
電気が点灯しない。
よくみると天井のライトが外されている。そしてシャワーヘッドが収まるべき場所に奇妙な丸いものが生えている。リッジはさらに扉を押して、肩までブースの中にねじ込んだ。
床は乾いて、埃も積もっていない。壁と壁の間に棒が渡されており、うすっぺらいモービルが雑に吊るされている。ふたつ目のブースと接する壁には細長い机が設置されており、机の下にも上にも箱、箱、箱。箱だらけだ。箱でないものは四角いトレイ、細長い器具、短い円筒状のもの――とにかくたくさんのものが山積みされている。
この部屋はなんだ?
ブースの中に足を踏み入れないように気をつけつつ、リッジは痛みも忘れて一番手前にある床のボックスに手を伸ばした。一番上にはシートの束らしきものがある。
慎重にシートの束をもちあげようとした時、ぴきりと脇腹に痛みが走った。とたんに体中の力が抜け、シートの束が手からすっぽ抜ける。音をたてて床に落下したシートの束はぐしゃりとひしゃげ、シートの破片と思われるものが床を滑って四方に散らばった。
リッジは慌てた。壊してしまった。こんなに脆いものだとは思わなかった。知っていたら手を出さなかったのに、壊れてしまったら取り返しがつかない。だから物理物体はいやなんだ、とやけっぱちに彼は思った。仮想物体ならこんなことは絶対に起こりえない。通常でない動き方をしたときにはすぐに物体が消去されるし、もし下手に扱っておかしくなっても切り戻しができる。だから彼には――おおよそほとんどの現代人からはきちんと物を置く習慣が失われているのであった。
脇腹に手をあて、リッジは床に膝をついた。砕け散ったシートの破片はきれいな長方形をしているが、修復方法はさっぱり思いつかない。一番手前にあった破片の角に爪をひっかけ、指でつまんで持ち上げてみる。
白いシートだ。薄くしなり、光沢はない。素材はまだ解析できていないが、伸び縮みしそうにないのは明らかである。触った感触は冷たくないので金属ではないだろう。砕けたということはなにかの結晶だろうか?
また壊してしまわないよう、彼はゆっくりと手首を捻り、シートを裏返した。裏面は少し黒い。汚れてしまったのか、それともこれが元の色なのか――
彼は息を飲んだ。
緻密に制御されたモノクロのトーンが印刷されている。クライアントが彼に見せた絵だ。同じものではないが、酷似している。しかしあの絵よりもずっと、彼の手の中の絵は魅力的だった。黒は濡れたように色づいて、うっすらとカーブを描いていることがわかるほどごく微小なグラデーションがかかっている。薄墨色の背景には細かく模様が施され、指で触ればふわふわとした手触りが感じられるのではないかと思われるほどだ。シートの端には白く鋭い線が入っているが、それがなにかはわからなかった。わからないが、とにかく目をうばわれる、そういう絵である。
興奮がじわじわと指先から体の中心に伝わってくる。笑みがおさえられない。まさかいきなり手がかりが見つかるとは思わなかった。はやくクライアントに連絡をしなければ――しかしこれは一体なんなのだ?
リッジが答えを探り当てる前に、次の災難はやってきた。野太い大きな声が、誰だ! と彼の首根っこを掴んだのだ。
目が覚めるとサイドテーブルの上にシートの束があった。シートの奥には携帯食が積み上げられている。空腹感はなかったのでリッジは腹ばいになって、シートの束の調査から始めることにした。
声はアプだった。驚いて飛び上がった拍子に足首を捻り、悶絶するリッジをみてどうやら敵ではないと確信したらしい彼は、献身的にリッジの世話をしてくれた。肩をかして仮眠室に運び、メディカルチェックをしている間に足首に湿布をし、アバラが折れていることがわかると固定テープを巻いてくれる。そしてリッジがおそるおそる、ブースの入り口にシートの束を落として壊してしまったと申告すると、あれは「紙」だから砕けたりしないよ、とげらげら笑ったのだった。たぶんそのことを覚えていて、眠っている間にシートの束を持ってきてくれたのだろう。
しかし、それにしても奇妙な男だったとあらためてリッジは思った。筋骨隆々のシルエットは人間そのものだが、骨格は金属で、物体に触れる箇所や関節は柔らかい樹脂でカバーが施されている。はじめはパワードスーツかと思ったが、一向に脱ぐ気配がないので、リッジはだんだん不安になった。しかし体よりももっと気になるのは彼の顔だ。顔というよりはマスクといったほうがいいかもしれない。目にカメラがはめ込まれているのはまだ受け入れられるとして、その他に動くパーツが眉頭だけというのは実に奇妙だ。口に至っては薄い線があるだけで、全く機能していない。gArlTというよりは、人形作業機のようだ。もう少し親しくなったら詳しく聞いてみよう、と頭の中にタスクをメモして、リッジはシートの束の検分に戻った。
仮想物体ならラコフデが属性を自動で読み込んで表示してくれるし、知らない情報はすぐに検索できるが、物理物体はいくら触れてもちっとも理解ができない。このシートの束が「本」というものらしいことだけは表示されるが、中身についてはまったく情報がない。「本」とは宇宙開拓時代のころに廃れたデバイスだ。狭い宇宙船に詰め込むには場所を取りすぎるし、作るのにコストがかかる。電気を得られない時には重宝するが、そのかわり水や熱に弱く、環境によっては読み出しさえできなくなることもあったそうだ。それですっかり廃れてしまった。いまだって力を入れすぎると破れそうになるし、すぐに折れ曲がる。なんという非力なデバイスかと半ば憤慨しながら、リッジはそっとシートをめくった。
シートには文字がプリントされている。リッジもだいたい習得している言語だが、まったく知らない言語を眺めているのとまるでかわらない。内容が理解できないのである。
一枚めくるたびに、誇張でも何でもなくぱらり、と音がする。例えばこんなことが書いてある。「写真のためにコロジオンUSPを使うには4-5%のニトロセルロースを1.5-2.5%に希釈しなくてはなりません」「もしコロジオンが必要で急いで作るなら、アンモニウムを含んだほうが処方が良いでしょう」「湿板は硝酸銀溶液の中でコロジオン皮膜中のヨウ化物と臭化物によって感光化されます」さっぱり理解できない。しかしこの「本」の持ち主は文字に下線を引いたり、メモを残したりしている。「1.8%が最適」「銀? 他の金属は?」「塩化銀と比較→露光時間が長くなる。保持の方法を考える」さらに「長くなる」のところから線を引き出して「場合によってはありかな。つかえるかも」とも書いている。
シートをめくると、また小さなシートが三枚挟まっていた。すこし厚みがあり、モノトーンが印刷されているほうには光沢がある。裏面には同一人物と思われる手書きのメモが残っている。
ごろりと寝返りをうって、リッジは三枚のシートをあかりにかざした。字ばかりのシートよりはこちらの絵のほうがまだわかる。三枚とも薄墨色のグラデーションが印刷されているだけで、これといった特徴はない。クライアントに提示された絵に比べてあまりにも均一で、退屈だ。ただ、三枚目は気がかりな点があった。端のほうに描かれた下手くそな植物のモチーフが、クライアントに見せられた絵と共通しているのだ。あの絵は白い縁取りだったが、こちらは黒。しかしモチーフとしては共通している。同一人物の手によるものの可能性は高い。
「本」の表面には「湿板写真入門」と書いてある。これは多分タイトルに当たる部分だろう。入門は言うまでもなく手引書のことであるから、調べるべきは「湿板写真」のほうだ。これが湿板写真というやつなのか、と眉根をよせてリッジは思った。本に出てきた単語を少し調べると「硝酸銀溶液」というのは化学薬品の名前らしい。「コロジオン」という単語も頻出する。コロジオンプロセス、プラチナプリント、ワシ。あの呪文の一つだ。つまりコロジオンプロセスというやつが「湿板写真」なのかもしれない。
あとはヌカにインタビューしてみたほうが早いだろうとリッジは思った。作家本人の口から語らせて、最終的な出力結果をみればリッジでも点と点がつながるはずだ。「ヌカ」をみつける方法は――アプはあの部屋の存在を以前から知っていた様子だから、多分「ヌカ」と会ったことがあるはずだ。聞いてみるしかない。
さすがだな、とクライアントの声音をまねてリッジは自分を褒めた。当然ですよ。行けない場所はないっていうのがうちの理念ですからね、これくらいで感心してもらっちゃ困ります。まあ、あばらには賛辞をあたえてやってほしいですけど、と腹を撫でてリッジは鼻から息をはいた。つい軽口がすぎて泥沼にはまるのはリッジの悪い癖だ。たぶん家に帰ったら妻にまた説教をされるだろう。しゅんと心が萎れてしまったので、リッジは三枚のシートを戻して本をそっと閉じた。気の抜けた音を吐いて本は静かになった。
表紙は黒くよごれている。汚い指でこすったような汚れだ。たぶんヌカという画家が制作をしながらこの本に触れたのだろうと、リッジは指でなぞった。一体どんな人物なのか? 男か女か、年老いているのか、そうではないのか、地球系人類ではない可能性だってある。
ついでに背表紙も見ようと彼は本を裏返した。意外に重量があるせいで、ばさばさと間に挟まっていたシートが落ちる。リッジは慌てた。ベッドから落とさないよう本を置き、枕の下に潜り込んでしまったシートの束をかき集める。
一枚のシートの裏に走り書きがあった。
塩化銀は時間がかかりすぎ 備品リストがあてにならないぞ
海水を汲んで分離すれば手に入るかも
枕に肘をついた姿勢のまま、リッジはシートに走り書きされた文字を見つめた。
文字が走り書きされたシートの裏は、やはりモノトーンの印刷だ。他のシートも裏返してみる。
「成分的にはできそうだけど装置がないんだよなあ」ぼやいている。
「作業中にいいものを見つけた 実験する」かなり汚い字で読みにくい。
「なんかうまくできない」字までしょんぼりとしている。
「外では無理そう 降着場かな エレ」途中から滲んで読めなくなっている。
「雲が出ているのでテスト 今年こそイヴァルに自慢する」
今年こそ、とついリッジはつぶやいた。今年というなら、去年もあったにちがいない。去年はうまくいかなかったのか? イヴァルというのはおそらく名前だろう。ヌカとは親しい間柄で、一年に一度会うということだろうか。とすれば――追悼式では?
リッジは枕に顔をうずめた。そして柄にもなく小さくガッツポーズをした。
暇を持て余して居室に顔を出してみたものの、アプの姿がなかったので、リッジはそのまま中央ホールの見学に行った。
広いホールには燦々と日が差し込んでいる。どうやら窓ガラスを発光させて太陽光を模擬しているらしい。なかなか珍しい技術だ、とすこし感心してリッジはその様子をレコーダーに収めた。
床はきれいに掃除され、埃の一つも落ちていない。破壊や略奪のあともなく、もう少しすれば人が来て喧騒が高い天井に響くのではないかとすら思うほどだ。からっぽのショップエリアだけは廃墟感があるが、長椅子がずらりと並んだメインホール、なにも表示されていない物理電光掲示板、子供用のプレイルームに、ゆったりと時間を過ごすためのソファスペースは往時のままだろう。
降着場へ登るための自動昇降機は止まっていたが、その脇には青々と観葉植物が茂っている。植物の足元にはちろちろと音をたてて清水がながれており、どこかへ流れ落ちていた。もしかすると外のプールと循環するようになっているのかもしれない。だとすると汚染されている可能性があるから、手を触れないほうがいいだろう。
レコーダーにぼそぼそと声をふきこみつつ、彼は光のベールをくぐって段差を一段ずつ登った。カツン、カツン、と自分の靴音が高い天井に反響する。明るさに反し、足を踏み出すたびに陰鬱な気持ちが強まる。
静かすぎるのだ。
体の中を空気が通っている。喉から入っては出る空気は温度もないのに彼の喉を削り、静寂に体が蝕まれる錯覚をする。数度の休憩を挟んで降着場にたどりつくころには彼の気力はすっかり尽きていた。
細かな傷がついた無数についた扉を押し開け、降着場へ出る。界壁で覆われたガラス張りの降着場にはホールよりも薄暗い。横をみやれば地平線が金色の線にふちどられ、人工太陽の頭がすこしだけのぞいていた。恒星間天体群通過の経路をみて安全な場所に退避しているのだ。
壁の際ギリギリに立って下を覗き込むと、ステーションが浮かぶプールがひっそりとしている。水は青緑色、かなり遠くに見える向こう岸には青い短い草がつぎはぎのように生えている。まだかろうじて草が生える環境にあるようだ。
壁は冷たい。ずっと触れていると指先がしびれ、感触がなくなってくる。息をふきかけるたびに白くにごり、またクリアになる様子をみていると、故郷が思い出される。
彼の故郷も大気のない星だ。集中都市の外は常に暗く、壁に近づくだけで震えるほどの寒さを感じる。荒涼とした大地は灰色で、変化しない。隕石が衝突すると粉塵が巻き起こるが、かなり遅れてカタカタと街を揺らす振動がたずねてくる程度だった。衝撃波の音は聞いたことがない。音を伝える空気がないからである。
そんな星に住んでいたから、小さい頃、ヴァルタヴァのニュースを見るたびに彼は恐ろしくなって外が見える展望台へかけていった。彼の知る景色は色がなく、広く、動かない。彼をおびやかす赤い悪魔のひそむ場所はどこにもなかった。成長とともにいちいち展望台へ逃げ出すことはなくなったが、そのかわり彼はヴァルタヴァのニュースを慎重に避けた。
よろよろと埃の積もったベンチに腰をおろす。ずっと気になっていた。ヴァルタヴァという単語を聞いたときの拒否感がどこからでてきたのかわからなかった。いつもならふたつ返事で受ける仕事に、あれこれ理由をつけてしまった理由がわからなかった。けれども、いまの彼ははればれとした気分だった。なんとなく感じていた恐怖、違和感、恐れ、そういうものがなにに由来しているのかはっきりとしたせいかもしれなかった。
水平線にちぎれた雲がぽつぽつと浮いている。雲の縁は金色に刺繍され、優しい赤に染まっている。この星はなにもかもが赤い。赤い砂、赤い岩盤、赤い錆の浮いた廃材、赤茶けた海、低い位置にある太陽光は赤い光しか届けず、薄暗い空は茜色に焼けている。雲は赤く、すべてが死を指し示している。こんなところに旅行をするのは無理だ。こんなところに長期間滞在するなどどうかしている。ましてや帰還など、どうしてできると信じられるのか。
ため息をつく。背中を丸める。そのまましばらく、寒さに耐えきれなくなるまで彼はじっとじっとしていた。
3
翌日になってもアプが戻らないので、彼は秘密の小部屋にあった奇妙な物体を引っ張り出して検分した。瓶にはいった液体はなんとなく恐ろしかったので手をつけず、机の上にあった円筒状のものや、底の抜けた箱、なにかの枠、それからシートの束、箱いっぱいの小さなシート、透明な材質の鉱物、調べるものはたくさんある。壊さないように細心の注意を払い、ひとつずつ記録する。
時々不安に急かされエレベータの様子を見にいくこともあったが、いくら上空に目をこらしてもアプの姿は見えない。かといってカーゴに足を踏み入れる勇気もなく、リッジはすごすごと部屋に戻って気を揉んだ。
また小さなシートが出てきた。まずは表を確認する。相変わらず薄墨色のグラデーションが印刷されているだけ――ではなかった。
絵の左端は黒く沈んでいる。その中からぐにゃぐにゃと奇妙に折れ曲がった線が飛び出し、右側へむかっているらしい。線がぼやけているのは珍しく、気味の悪さと既視感が同時にあった。絵の下辺はぼんやりと黒く、それも今までの絵とは雰囲気がちがっている。裏面には「持ち出しは厳しい」と一言書いてあるだけだ。
ヌカの手書きはかなり見慣れてきたが、これは失敗したときの字である。少し前かがみになって、小さくなる。逆にうまくいくと走り書きになり、可読性が低くなる。
ほほえんでもう一度表面を眺める。暗く沈んだ左端になにか浮かび上がっていないかと斜めにしたり、顔を近づけたりするが、黒く潰れているだけのようだ。塗料がてらてらと濡れたように光っている以外のことはなにもわからない。
「手書き……なのかな……?」
「あーあ、スパイさんは怪我してんのに働き者だなぁ」
突然の声にリッジは飛び上がった。事態を飲み込む前に重い足音が彼の隣にやってきて、ずしん、と机の上に手を置く。
黒いメタルの関節にシリコン樹脂の手のひらと指が生えている。アプの手だ。彼はひらりとリッジからシートを奪い、あーあ、と非難めいた声をあげた。
「スパイは冗談だけど、危ないものもあるからあんまりさわんないでよ。あー、これは外で撮ったやつだな。渾身の失敗作だ」
そろそろとリッジは傍らを仰いだ。普通なら多少感じるはずの体温がまったく空気を伝わってこない。だから気づかなかったのだ。
「外……?」
「遺品回収とか整地で外に行くときに、ついでにね。あっちに出るまでにはちょっと時間がかかりすぎるんだよな。湿板を向こうでつくって、場で現像できるような装置を考えないと」
あーあ、とまたため息をついてアプは頭部を覆っていた透明の球体を剥ぎ取った。それを義手でぐちゃぐちゃとまとめ、部屋の隅っこにある物理ゴミ箱にぽんと投げる。球体はおそらく酸素マスクだろう。特殊空間でも活動できるように体を改造したgArlTとはいえ、体の仕組みは人間と同じだ。酸素がほとんど存在しない宇宙空間の作業をする際は、酸素マスクをするように定められている。
しかし、口が機能していない彼に酸素マスクは必要あるのか?
アプはぺらぺらと喋っている。かなり口数の多い男のようだ。リッジが相槌を打たなくても次から次へと話題を変えて言葉を発している。さすがに休憩なしで作業すんのは無茶だったな。ケーブルの中の気送管が故障しててさ、あれがないとエレベータが動かないけど、恒星間天体群の通過でなんかあってもいやだから、ちょっと気合いれて終わらせてきたよ。小隕石はいつくるかわからないからいやだよね。恒星間天体群みたいに予報が出れば作業計画も立てられるんだけど。次に上に行けるのは三日後かな。ま、とりあえず仲良く休もうや。そういやバートンさんはどうしてここに?
「あー……」リッジは頭の中でクライアントのことを思い浮かべた。依頼主のことは教えられなかったし、リッジからも聞いていない。付き合いの長いクライアントなので、公言していい情報しか与えられていないはずだという信頼がリッジの中にはあった。しかしどういうわけか彼は逡巡した。
「ん? 忘れちゃった?」
「あ、いえ。人を探してるんです」
「人探しでヴァルタヴァに? ここは放棄地だよ。あー、たまに地球系じゃないやつらが勝手に着陸してることはあるけど、そういうこと?」
「それってよくあるんですか?」
「よくってほどではないかなぁ……二、三年に一回とかだな。見かけたらおえらいさんにも連絡するから、定住してるやつはいないはずだよ」
なるほど、とリッジはうなずいて立映をたちあげた。クライアントから提供された画像を表示させ、この絵を描いた画家を探していること、もし可能なら買い付けをしたいといっている人物がいること、昨日見せてもらった本の中に似たような絵がはさまっていたので、あの部屋を使っている人物を紹介してほしいことを正直に話す。
アプの表情は動かない。
絵を見ているのは明らかだ。しかし全く動かない。体も、乏しい表情もかわらない。リッジは少し焦った。彼はなにを考えているのか? リッジに「まともでない」と怒りをあらわにした事務局員のように、絵の買い付けをしたがるクライアントの存在に腹を立ててしまった可能性もある。あるいはそういった批判にさらされる画家のことを案じてどうしたものかと考えているのかもしれない。
「あの、私は連絡先を教えていただきたいだけで、もし売りたくないということでしたらもちろんその意志は尊重……」
「絵」
は、とアプは声をはいた。不機嫌ともそうでもないとも取れる声音だった。
「えっと、芸術のことはあんまり詳しくなくて、もし失礼なことを……」
「おれだって別に芸術のことはくわしくないよ。それにいまどき写真のこと知ってるやつなんてほとんどいないだろ。知ってたらびっくりだよ」
はあ、とリッジは態度をきめかねて相槌を打った。彼の表情がわからないのがつらい。
「そっかぁ、絵かぁ……誰か勝手に持ち出しやがったな。じじい連中に怒られるからやめろっておじさん、あんなに言ったのに」
「勝手に? 御本人が発表したものじゃないってわかるんですか?」
「わかるよぉ。だってそれネガだもん。黒背景の上におけばポジになるんだけど、知らないでスキャンしたんだろうなぁ……言ってくれりゃプリントくらいしてやんのに。プラチナプリントならもっときれいなんだよ、なのにこんな2Dなんかにしちゃって……」
「プラチナプリント?」
「白金を使った印刷方法のことだよ。白金って変化しにくいだろ、だから500年くらい前のやつでもコントラストがそのままでさ、特に黒がね、きれいに出る。とにかくすごいやつだよ」
ふん、とアプはまた息をはいた。いつのまにか頬杖をついているが、立映のなかで回転する画像にはじっと視線を注ぎ続けている。
「……詳しいんですね」
「そりゃね」きゅっと眉頭をもちあげてアプは肩をすくめた。そしてようやくリッジに視線を向け、だっておれが撮ったからね、と言った。このときばかりはリッジにもはっきりとわかった。彼は満足している。もっといえば得意になっている、と。
「えっと、つまり、あなたがヌカってことでいいんですね」
「そうだよ。あ、でも内密で頼むよ。こっちに来てる時にこんなのやってたなんてバレたら大目玉だからな。いくらじじい連中でもおれをクビにゃできないだろうけど、いくつになっても叱られるのはめんどくさいよ」
ははん、と明らかな笑い声をだしてアプはまたもや鼻を鳴らした。
「余暇の活動ですよね。だめなんですか?」
つい声が尖ってしまったのは、突然激怒してリッジを罵倒した老人の声が耳に蘇ったせいかもしれない。ふふん、とアプはおかしそうに鼻をならしている。
「材料を外から調達して、室内とか人とか撮ってる分には怒られないと思うんだけど、でもそれはおれのやりたいことじゃないんだよね。おれはできるだけヴァルタヴァのものだけでやりたいんだ。ヴァルタヴァのものを使ってヴァルタヴァを撮れば、その瞬間のヴァルタヴァがこのガラス板の上に保存できる、だろ? デジタライズだとそういうわけにはいかないからさ」
そうなのだろうか、とリッジは思った。よくわからない。
「でもなぁ、じじい連中はそれが嫌なんだってさ。彼ら、昔のヴァルタヴァが正しくて、今のヴァルタヴァは正しくないと思ってるからね。たしかに昔のヴァルタヴァは全然違ったよ。海と空が同じ色してて、緑がどんどん増えて、街も広がって、なんていうのかなぁ、星が一個の生命体で、生まれてきてるって感じだった。でもさ、おれは今のヴァルタヴァも悪くないと思うんだよね。なんていえばいいかよくわからないけど、生きてる感じがある。事故の後の景色は汚いとか、見てらんないとかいう人間は多いけど、どうなんだろうな」
アプの言葉は明瞭でない。「生まれてきてる」とは? 「生きてる感じ」とは? しかしリッジは聞き返さなかった。視線をはずし、頬杖をついている彼はなにかを考えているように見える。それを中断させてはいけないような気がしたのだ。
すこし沈黙したアプは眼窩にはめこまれたカメラの方向をシャワー室のほうへ動かし、どうなんだろうな、とまた静かに言った。
「おれ、ヴァルタヴァの事故のときは十七歳で、避難中に上からなんかに押しつぶされて、起きたら病院だったんだ。なんだかわかんないうちに全部なくなっちゃってさ、親はどこにいるかわかんないし、しかもひどい火傷してるし、手術はたくさんしたけど、結局今残ってるのは脳と脊髄くらいだよ。だからかな。ヴァルタヴァを見てると、おれと同じだなって思うんだよね。ああ、おれもこんな感じなんだろうなって。たぶん、おれのこと、見てられないって思ってる人間は結構いるんだろうね」
リッジは答えられなかった。まずいことを言った、語りづらいことを語らせてしまったという罪悪感に襲われ、いますぐ仮眠室に逃げ込みたかった。アプの表情がないことも、ますます彼の思いを掻き立てた。アプはまだ話している。声音はかわらない。大らかで、親しみやすい口調のままだ。
「写真はねぇ、面白いよ。おれは芸術の教育なんて受けてないけど、そういう人間でもできる。あの本、読んだ? 見つけんの大変だったんだよ、紙の本しかないっていうからさ。あれに書いてあったんだけど、湿板写真は一万五千年前に一瞬だけ流行った技法で、化学溶液を板に塗って光と反応させるんだ。光に反応すると銀だけが析出すんだってさ。光が強く当たったらその層が暑くなって、暗いとことか黒いとこは反応が起こらない。で、銀以外のところ洗い流したら原版になる。分子レベルの話だけど、三次元なんだよね。やつを板の中に閉じ込めるられるんだ」
ふふん、とまたアプは笑い声をもらした。その時だけはリッジにも彼が目を輝かせているのがわかった。
「でもじじい連中は繊細だからかわいそうな死んだヴァルタヴァの景色はみたくないし、広めたくないんだよ。もう忘れたいってやつらもいるのかも。だって三十年たってもこれだからね。でもそんなふうにいわれちゃおれだって傷つくから、連中とはできるだけ、ね。あるだろ、そういうの」
「それで名前を……」
「うん、そう。ヌカってのはここだとありきたりな名前だから、象徴としてもふさわしいかなと思って」つるりとした頭を撫でてアプはまた笑った。「しかし、まさか写真のことで訪ねてくるやつがいるなんてなぁ……どうしてヴァルタヴァだって?」
「最初の発信地がヴァルタヴァだったそうです。私はそういうのを調べる権限がないので情報としてもらっただけですけど」
「ん? ってことはここでスキャンしたのか? 原版はこっちに残ってんのかな? 誰だろうなぁ……まぁいいか」
リッジはほっと胸をなでおろした。アプの「まぁいいか」の声はほんとうにどうでもいいと思っているように力がなく、犯人を積極的に探そうという意図もないようだ。これなら発信地と本名を出さなければ、売買は構わないと言ってくれそうである。クライアントにいい報告ができそうだ。
「あ、そうだ。そんなに興味あるならせっかくだし見ていきなよ。時間もあるしさ。今回はとれそうな気がするんだよね」
「今回は……?」
「そう。珍しいものが見られるよ」
アプはずっと説明をしている。これはガラス。当時のガラスは珪酸ガラスだったらしいけど、ここじゃ手に入らないから石英ガラスを使う。ガラスを使うのはアンブロタイプ、ガラスのかわりに金属板を使うやつはチンタイプってよぶんだけど、まだチンタイプはためしたことないんだよね。表面を黒くする方法がわかんないんだ。とにかくそんなふうに一から十まで注釈をつけるが、リッジに本当に必要なものはゼロから一にするための知識なのであった。
作品制作の手順は複雑だ。レコーダーのようにスイッチひとつというわけにはいかないらしい。まずはガラスの表面にコロジウム溶液を塗り、それを硝化銀にひたして感光膜を形成する。乾かないうちに露光して、すぐに現像、定着、水洗したらニスを塗って原版が完成する。その後、プラチナ溶液を含む感光液をワシに塗布し、原版を上に載せて紫外線を当てて感光させ、現像、定着、水洗させたらようやくできあがりだ。原版上の膜を剥がしてカミに貼り付ける方法もあるらしいが、まだ成功していないとアプは手早くガラスを薄いケースの中に収納しながら言った。
円筒状の物体と、穴の空いた箱、三脚、そして感光膜を形成したガラスがはいった薄いケースを携え、降着場へ移動する。移動中もアプはずっと話をしている。半分くらい聞き流しているうちに、いつの間にか話は写真からそれていた。
恒星間天体群がさ、と彼は言った。くるだろ。ほとんどは近くを通るだけだけど、こっちに落ちてくるやつもいる。そいつらにくっついてる塵とか水とかが大気を乱して電離層の電子密度が高くなると、すごくいい状態になるんだ。特に海の上はいいね。太陽の光が当たる範囲は気化して雲ができやすいし、酸化物と陸から飛んでくる塵がぶつかりながら上昇気流にのったら、電荷がかなり上空まで伝達される。
はあ、とリッジは相槌をうった。たしかに恒星間天体群はすでに飛来を始めており、降着場から空をみると白い筋が何本も空をよぎっているが、アプがなんの説明をしているのか彼には理解できなかった。これも写真のはなしだろうか? 大気が乱れると良い写真ができるのか? 光と反応させるとか化学薬品がどうのとかいう話だったので、もしかすると関係があるのかもしれない。
「ポートタワーが邪魔になるからいつもはもうちょっと上まで登るんだけどね。今日はお客がいるからしょうがないや」
「はあ、すみません」
「せっかくだしたまには広角でやろうかな。このレンズはねぇ、特注なんだよ。あ、あと明るくなったらたまにはポートレートもやろう」
どうやらアプはかなり子供じみた性格らしいとようやくリッジは理解した。道具を広げて指で指し、一から十まで全部説明したいらしい。まるで自分の宝物を見せびらかす幼児だ。
「レンズってなんですか?」
「カメラの前に付けるやつ。カメラってのはさ、映像を記録するところと光を集めるところでできてるんだ。初期のカメラはそれが別々だったんだってさ。芸術用レコーダーはいまでもレンズが交換できるけど、レコーディング用のレンズだと感色性が違っててコントラストが出ないんだよね。で、結局特注したわけ。思ったより安くで作れるんだけど、お母さんは無駄遣い無駄遣いってさ。わかってくんないよ、ほんと。イヴァルも最近はあんまりかまってくれないし」
はあ、とリッジはまたなんとなく相槌を打った。
アプは三脚を立て、その上に箱を固定している。箱の前面には丸い穴が空いた板が差し込まれている。側面は蛇腹になって箱の長さを調整できるようだ。背面には白色透明の板がはまっているが、この板もスライドして外すことができるらしい。
箱の固定がおわるとアプは床に腰をおろして円筒状のケースを開いた。中から出てきたのは透明なガラスのはまった筒である。箱の前面の板をスライドさせて取り出し、太い指を繊細にうごかして円筒状を半分に分解した。そして板を挟み込むんで再び接着させる。リッジは近くにあったベンチに腰をおろし、その様子を記録した。
「ご両親、見つかったんですね」
「え? んや、うちの両親は事故で死んじゃったけど……」
「え?」
「ああ、お母さんって言っちゃった。お母さんってのはうちの奥さん。イヴァルは息子。息子っていっても歳は十二しかかわんないから兄弟みたいなもんだけどね。あいつも事故で親戚も家族もなくしててさ、見てらんなかったから引き取ったんだ。小さい頃はちょっと荒れたけど、お父さんのほうがかわいそうだからって、すっかりおれの保護者気取りだよ。よし、完成したぞ」
両手をはらってアプはますます声を高くした。
アプが手招きをするので、レコーダーを構えたままリッジは箱のそばに寄った。背面には景色が逆さまになって映っている。少しぼやけていたが、蛇腹をスライドさせて調整すると、景色の輪郭がくっきりとする。水平線、ポートタワー、焦げた大天蓋の柱まで全部写っている。アプはこれを焼き付けるといった。さっき作った感光膜にやきつけるんだよ。
箱の背面の板をスライドさせて取り出し、ガラス板の入ったケースをとりつける。とんとんと指で箱の上面をたたき、アプはふと無言になった。真正面を見据えている。無言になると、その体格のせいか、あるいは無表情のマスクのせいか、威圧感がある。リッジは気圧されて、彼の視線を追った。
赤く焼けた空にはまた雲が湧いている。赤い雲は指で押しつぶしたようにでこぼことして、立ち上がろうと奮闘する大きな犬のようだ。その頭をかすめ、尾を引く星がいくつもいくつも通り過ぎている。
「やっぱり望遠だったかなぁ……」
ぽつり、とアプが呟いたときである。
ピカリ、と鋭い光が空を走った。光は天上から矢のようにおち、雲に突き刺さった。
雷だ。
アプがすばやく箱の背面から薄い板を引き抜く。少し前かがみになってレンズに手を添えた彼は、顔を正面に向けて動きを止めた。
また空に光が走る。今度は光の柱といったほうがいい。一息で空から海をつなぎ、細かいアークを放出して消える。
雲から海へ墜ちる光、空から雲に向かって伸び、途中で消える光、枝分かれし、毛細血管のように空を覆う光――ぼんやりとその景色を眺めていたリッジの頭の中に、クライアントに見せられた絵が蘇った。薄墨のグラデーション。制御された緊張感のある均衡、それを破る黒い線は縁がカクカクとしてエッジが立っている。あの絵を反転させれば、今見ている光景とおなじだ。たしかにあの絵はヴァルタヴァだった。
感心するリッジをよそに、ピカリと光がまた海を攻撃した。目の奥に緑色の線を残す強い光だ。攻撃される海は波風もたてず、その切っ先を甘受している。雲はますます立ち上がり、背中を伸ばし、空をめざしている。容赦なく落ちてくる光の矢をむしろ糧にして成長しているようにも見えた。
雷は数分ばかりつづいたが、間隔は次第に開き、苦しげにもがく光は水平線に到達しなくなった。光は弱まり、ふたたび平穏が戻ってくる。いつまでも続くものではないらしい。
「……おさまりましたね」
「いや、これからだよ」
きっぱりとアプは断言した。確信に満ちた声であった。
彼が言い終えるや、ピシリ、と空が割れる。
しかしそれは空から降ってきたものではなかった。海が一撃を放ったのだ。
天を割り、光は昇る。まるで一本の樹が生えるように、あるいは獲物を狙う肉食動物のようにぐいぐいと赤に食いつき、空を昇る。重力を振り切り、身体を震わせ、空を駆け上る。一個の生命が星の表面から生まれ、彼を攻撃する敵に、理不尽な運命に一矢を報いようと――
生きている。
ああ、とリッジはため息をついた。彼の隣でアプの箱がカチッとかすかな音を立てたが、ちっとも気づかなかった。
おわり
参考文献:
“Basic Collodion Technique: Ambrotype & Tintype”, Mark Osterman, France Scully Osterman 日本語訳:猪俣良文
文字数:24846