自分を食べた恋狂い

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梗 概

自分を食べた恋狂い

脳科学研究が進み、個人が一生のうちに喚起できる感情には限りがあることが判明した。
 脳には、感情の貯蔵庫のようなものがあり、生まれた時から、そこに一生分の感情が詰まっている。それを少しずつ使いながら人は生きているのだ。そしてさらに研究は進み、感情を制御する術が生まれた。
 誰でも、思考術を身につければ、過去の感情を呼び覚ますことができた。それだけでなく、未来において感じるはずの感情を現在に喚起することもできる。感情に限りがあると言えど、再利用が可能なので、実質的には、感情は自由で限りないものとなった。つらい時も、楽しい感情を過去や未来から引っ張ってくることができ、未来の楽しい感情が尽きたとしても、その感情を消費した過去から再び同じ感情を喚起することができた。

二十九歳の会社員の巻野愛生まきのえみは、なかなか良縁に恵まれなかった。結婚願望はあったため、婚活に精を出す。その中で、高収入かつ趣味も合い、穏やかで優しい男性と出会い、好意を寄せられる。外見は好みではないにしろ、生理的に無理というほどではないので、この上ないほど好条件の相手と言ってよかった。
 しかし、どうしても踏ん切りがつかなかった。恋心的なものがまったく芽生えないのだ。愛生は恋した相手と結婚したかった。
 そこで、愛生は講座に通い、思考術を身につける。思えば、小学生の時の片思い以来、本当に人を好きになったことがなかった。あの頃の恋心を喚起すれば、幸せな結婚ができるのではないか。
 喚起した感情を目の前の相手に紐つける努力もした結果、愛生は恋に落ちることに成功。納得して結婚する。
 しかし、小学生の片思いと結婚生活の違いは大きく、愛生は様々な矛盾に精神のバランスを崩しかけてしまう。そこで、もしかすると時間が経てば自然に夫を愛せるようになっているのではないかと思い、愛生は未来から愛情を喚起する。
 その感情は予想に反して、色欲を伴う激しいものだった。愛生は、自分は不倫する運命にあったのではないかと戦々恐々とし、周りの他の男性を遠ざけながら、その感情を夫に向けるようにする。夫は妻の変貌ぶりを怪しみ、調べた結果、思考術のことを知ってしまったことでショックを受け、夫婦関係は冷え切ってしまう。自暴自棄となった愛生は無差別な不倫に走る。
 その後、愛生は小学生の時に片思いしていた相手と偶然再会する。彼は素敵な大人に成長していたが、その頃の愛生は、恋愛感情を使い切ってしまっていて、もうなにも感じなかった。自分の本当の相手は誰だったのか、それともそんな人はいなくて、ただ可能性としての感情があっただけだったのかわからず、愛生は無力感に襲われ、自分の悲しみを一斉喚起させ、精神的自殺を図ろうとするが、その中に、夫が死ぬことによって悲しむ可能性を見出す。
 愛生は自殺を思いとどまり、なんとか夫との信頼関係を再構築することを目指すことにする。

文字数:1200

内容に関するアピール

「小さな世界」を自己完結した世界と解釈しました。

文字数:24

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自分を食べた恋狂い

カバとゴリラを足して二で割り、間抜けにしたようなユーモラスでキュートなキャラクターが学習ノートの上に鉛筆で生み出された。ふにゃふにゃした線。でも、不思議と生き生きしている。
「これはね、人鬼だよ」
 ちびた鉛筆を握った男の子が、目を輝かせて言った。
「なにそれ。全然鬼っぽくない。太ったカバかゴリラじゃん。それかワニ」
 反論しても、男の子はまったく主張を曲げようとしなかった。
「そういう名前なの。こいつ、絶対に死なないんだ。すごく食いしん坊なんだけど、食べ物がなくても、生きていけるの。なんでかって言うと、このお腹の肉を食べるんだ。食べた肉から、またお腹に肉がついて、ずっと生きていけるわけ」
 男の子は、膨らんだお腹から饅頭のようなものを取り出している同じキャラクターを隣に描いた。
「きもちわる」
 苦笑すると、彼は熱弁を続けた。
「こいつはすごく優しいんだよ。だって、ほかの生き物を殺さないから。食べ物って、全部生き物からできてるわけでしょ?」
「生き物と、生き物から出たものね。でも、それだけじゃお腹空きそう。一度も自分以外は食べたことないの?」
「そうだよ。生まれた時から太ってるんだ。でも、こいつは大人だから、もう生まれた時の肉は残ってなくて、全部、自分からできた肉だけがお腹についてるの」
「ほかにも考えたキャラいるの?」
「いるよ、いっぱい。今描いてあげる」

投資セミナー、片づけ講座、手相占い、出会いカフェ。
 一階のユーゴスラビア料理店で食事を終えた巻野愛生まきのえみは、よくも一つの建物にいろいろ入ったものだと、薄汚れたビルを見上げた。いちいちそんなことを考えるってことは、やっぱり自分は田舎者ってことなんだろうな。隣のビルも同じような感じ。延々と人工物だらけの街で生きていると、この地面が故郷へつながっているとは信じがたい気持ちになってくる。
「汚い店だけど、おいしかったでしょ?」
 職場の先輩の佐々木和世ささきかずよは、スレンダーな体型を包む綺麗めコーデや艶やかな趣味のいいネイルに似合わず、穴場的な飲食店を見つけて回るのが趣味だ。座右の銘は、「食事は聖域である」。気を許した友人か家族としか食事をしないという自分ルールを持っていて、男性とも食事に行かないので、そのせいか、三十代後半となっても未婚で、彼氏もいないらしい。
「はい、おいしかったです」
 愛生は本心で言った。和世が連れて行ってくれるお店にはずれはない。
「でもやっぱ、なんか元気なさそうだね。お腹いっぱいになったら幸せにならない?」
「幸せですよ。元気なさそうに見えます? なんでだろ」
「やっぱ失恋の傷は深いか……」
「いえいえ全然。そんなんじゃないですよ。わたしから別れたようなもんですし」
 それも本心だった。愛生はそもそも、嘘がつけない性分である。ごまかしたり、誇張したり、黙ったりすることはできるが、本心や事実とまったく違うことを言うことができない。正直だけが取り柄ってなもんだ。
「あ、そうだ。前に、しょっちゅう夢に出てくる人がいるって話してたよね?」
「ああ、小学校の同級生の話ですね」
「初恋の人なんでしょ?」
「ま、まあ」
「もういっそ、その人のことを探して会ってみれば?」
「ええ? 今更会いたくないですよ」
「なんかさ、愛生が恋愛でなかなか上手くいかないの、その人がいるせいっていう気がするんだよね。吹っ切ったほうがいいんじゃない?」
「吹っ切ってますよ。初恋っていうか、ちょっと変わった子だったから、気になってただけで。起きてる間は全然思い出さないし、勝手に夢に出てくるだけなんです」
「それが逆にだめなのよ、きっと。無意識ってこわいよ~」
「もうわたし、二十九ですよ? 小学生の時のことを引きずってるなんて、そんなことないですよ」
「あ、見て」
 和世は、雑居ビルの看板を指さした。
「夢診断だって。診てもらおうか」
「和世先輩、占いとか興味あったんですか?」
「あのね、占いを馬鹿にしちゃいけないよ。カウンセリングみたいなもんだよ。優秀な占い師は、その人それぞれにふさわしい物語を作ってくれるの」
「よくわかりませんけど」
「とにかく、行ってみよ」

夢診断のおばちゃんに、夢の内容を詳しく話した。実際にあった出来事をデフォルメしたようなものだったり、記憶とごっちゃになってしまって、もはや現実だったのか夢なのかわからなくなってしまっていたりすること。例えば、彼がキャラクターを自作していたのは事実だけれど、キャラクターの詳細は記憶なのか夢なのかわからなくなってしまっている。
 カウンセリングは失敗だったようだ。すっきりしないし、前向きにもなれない。不快にもならなかったけれど。ただ、今年、大切な出会いがあるかもしれないそうだ。なんだ、「あるかもしれない」って。言うだけなら誰にでもできる。
「あのおばちゃんはたいしたことなかったねー」
 和世は、無駄な出費をしたのに気にした様子もない。
「やっぱりお金払います。占いまでおごってもらうなんて」
 愛生は申し訳なくなった。
「いいの、いいの。自分のお金じゃないと占いの意味がないなんて誰も言ってないし」
「そうなんですか?」
 エレベーターホールに着くと、ふと別の階の表示が目に留まった。上の階にあるのは、『至高の思考術! 感情コントロール講座』。なんだそれ。
「こんなところに結婚相談所あるんだね」
 和世の言葉に、さらに目を上げると、『至高の思考術!』の上の最上階は、電車内の広告でも見かける結婚相談所だった。
「和世先輩は、結婚願望あります?」
「ないない。もういい年だから子供産むって考えてないし、仕事好きだし、男と一緒に暮らしてなんのメリットがあんの?」
「先輩らしいです。でも、まだまだ若いと思いますけど」
「そんなことないよ。愛生、もし結婚して子供ほしいなら、急いだほうがいいよ」
「え?」
「女の若さは短いんだよ。男は女はって言いたくないけど、生物学的に違うわけだからさ」
「そうですよね……」
 大切な出会い、か。

どうしてこんなことになったんだろう。
 絶望にも似た気持ちになってしまう。いや、本当の絶望なんて感じたことないからわからないけど。
 客観的に見れば、絶望には程遠いシチュエーション。夜景を眼下に望む観覧車。遊園地にあるわけではなく、海辺にぽつんとそびえ建っている。電車から何度か見たことはあったけれど、乗ったのは初めてだった。
 向かいに座っているのは、スーツ姿の男性。小熊に似ている。和世と同い年らしいが、和世にあるような洗練された大人のオーラは微塵もない。そもそも、休日なのになんでスーツ?
 彼――肥田優ひだまさるは、無言で外を眺めている。愛生も、横目でチラチラと彼の顔をうかがいながら、外を眺める。観覧車に乗ってから、いい景色ですね的な会話を少し交わし、もう頂上を過ぎている。観覧車が一周するのにかかる時間は十分だから、五分くらいは沈黙が続いていることになる。
 海辺のレストランで食事をしている時は、会話は弾んだのだ。会ったのは二回目。初回のお見合いの時といい、今日の会話といい、共通項が多いことに驚いた。出身地、好きな歌手、支持政党、好きなお酒、苦手な人間のタイプなど。最初は、彼が無理やり話を合わせているのかとも疑ったが、徐々に彼も自分のことを話すようになり、愛生は、何度も、「わたしもです」と言っていることに自分で驚いた。
 彼は、見た目は冴えないが、大手自動車メーカーの開発部に勤めていて、年収は申し分ない。不動産販売の仕事をしている愛生の、結婚後も仕事を続けたいという意志も認めてくれている。マンション暮らしを好む点も同じだし、子供は二人欲しいという点も同じだし、子供には英才教育よりも自由が必要だという考えも同じだった。
 二回会っただけでこんなにいろいろ話せたことが驚きだった。愛生が言ったことに対する反応が少し鈍い時もあるけれど、じっと待っていると、必ず答えを返してくれる。緊張しているのか、考えをまとめるのに時間がかかることがあるのだろう。緊張しているのは愛生も同じだ。なにより、声のトーンや話し方が自分と似ている気がする。声質も不快か心地いいかで言ったら、心地いいほうだ。
 見た目は冴えないが、不潔な感じはしないし、不健康な感じもない。とにかく、内面はすごくいい感じだ。見た目は冴えないが。
 なにはともあれ、先程まではスムーズに会話を運べていたのに、観覧車に乗ってから、沈黙が降りてきてしまい、すごく居心地が悪い。なんだか、急に空気がまったく別物に変わってしまった気がする。なにか話さなきゃ、と思うのに、なにも思い浮かばない。
 思い浮かぶのは、今、交際を申し込まれたらどうしよう、ということだけ。結婚相談所の基本プロセスでは、一回目のデートで告白は早すぎるはず。そもそも、交際申し込みは仲介人を通すのがセオリーだ。だからないない。今日はないよ。でもこの雰囲気はなんかまずくない? 申し込みされちゃいそうなオーラが出てるよ。もしされたらどうする? まだ早いって言えばいいかな? でもなんか初心そうだし、フラれたと勘違いされちゃったらどうしよう。こんな優良物件を逃すのか? でもまだ心の準備が。こんなに動揺する予定じゃなかったのに。どうしよう――
 などといろいろ考えているうち、地面に到着した。よかった。今日はなしだな。
 愛生はぐったりした気分で、潮のにおいのする夜風を頬に受けた。
「あの」
 ガス灯風の街灯が並ぶ小道に出たところで、肥田がやっと声を出した。
「愛生さん、僕と結婚前提でお付き合いしてくれませんか」
「え!?」
 愛生は完全に不意を突かれ、変な裏声を出してしまった。
 肥田はその声にドン引きしたような間を開けてから、一気に言った。
「まだ早いとは思ったんですけどまた会いたい気持ちが強くなってしまったんですすみません」
「あ、ああ」
 愛生の目は空中を浮遊した。沈黙。
「……い、いいですよ」
「え? いいんですか?」
「はい、いいです。付き合います」
 愛生の頭は空っぽだった。そこに一つの言葉が浮かんで回り始める。優良物件、優良物件。

 新居に遊びに来た清果せいかは、ピカピカの床や柔らかな色の壁紙、手入れの行き届いた観葉植物、整理整頓された部屋の中を見て回り、何度も感嘆の息を吐いた。
「中古マンションだけど中はめっちゃ綺麗じゃん。てかお姉ちゃん、どうしちゃったの?」
 クッキーを盛った銀のプレートをテーブルに出しながら、愛生は笑った。
「なにが?」
「お姉ちゃん、昔は部屋汚かったじゃん。嘘、もしかしてこのクッキー手作り?」
「そうだよ。なかなかうまくできたと思うんだけど」
「ほんと別人になったみたい。結婚すると人って変わるんだねえ」
「そんなに変わったかな?」
「優さんは帰り遅いの?」
「うん。いる日にゆっくり来ればいいのに」
「遠征のついでにお姉ちゃんの顔見に来ただけだから。友達とホテル泊まるし」
「いつまでアイドルの追っかけ続けるの? もう二十七でしょ」
「もうってなに? まだ若いもん」
「女の若さは短いんだよ。先輩にそう言われてわたし、婚活することにしたんだ」
「へえ。でもほんと、消極的なお姉ちゃんが自分から婚活してあっさり結婚するとは思わなかったなあ。なんか生き生きしてるし」
「そうかなあ」
「やっぱ結婚っていいのかあ。優さんと初めて会った時は、小熊?みたいな。妥協もここまで行ったかと思ったけど」
「ひどーい。かっこよくはないけど、可愛いじゃん」
「うん、可愛い可愛い。このクッキーめっちゃうまいわ」
「多分、生き生きしてるのは結婚のせいだけじゃないと思うよ」
「え、なに?」
「結婚前なんだけど、講座に通ったの。そしたら調子がすごくよくなって」
「講座?」
「『至高の思考術!』っていうの」
「あ、聞いたことある。流行ってるらしいね。でもなんか怪しくない?」
「全然怪しくないよ! 最新の脳科学研究に基づいてるんだから」

「記憶は、大きく分けると、陳述記憶と、非陳述記憶に分けられます」
 白く冷たげな照明の下、ホワイトボードの前で、子供のような顔をしたスーツ姿の男性が得意気に話していた。ホワイトボードの横には、ブルドックのような顔をした中年女性が微動だにせずにパイプ椅子に腰かけている。
「陳述記憶の中には、エピソード記憶と意味記憶が含まれ、非陳述記憶には、手続き記憶などが含まれます。一般的に、思い出と呼ばれるのは、エピソード記憶です。エピソード記憶は、大脳辺縁系の一部である海馬から、徐々に大脳皮質に転送されることが知られていましたが、一部、転送されない記憶があることが、近年の研究によって明らかになりました」
 わたしが来たのは、『至高の思考術! 感情コントロール講座』じゃなかったのか、と、愛生は不安になっていた。さっきから、難しい脳のなにかの話ばかりだ。それに、ブルドック顔の女性が妙に気になって仕方がない。十分ほど前、講座の冒頭に、今話している西田という男性から、有名国立大に勤める脳科学者の武藤紅葉むとうくれは教授だと紹介があったが、まだ一言も発していないし、かなり不機嫌そうだ。もともとそういう顔だという可能性もあるが。
「その転送されない記憶は、すべて感情にかかわるものだということも判明しました。過去の出来事を思い出すのは、大脳皮質の役割で、過去の感情を思い出すのは、海馬の役割だったのです。なぜそんな分離が引き起こされるのかと言いますと、もともと、感情は記憶ではなかったからです」
 やっぱりこんな講座に来るんじゃなかった。結婚相談所の仲介人に勧められて来てみたものの、教室には数人の受講生しかいないし、みんな戸惑っているような感じもする。
「海馬には、外界からの刺激によって喚起される脳活動パターンのデータが収められていたのです。つまりそれはなにかというと、感情です。それは、生後間もない赤ちゃんの脳でも同じことでした。つまり、人の脳には、生まれつき、一生分の感情が貯蔵されているのです。わたしたちは、生きている上で、様々な出来事に直面しますよね。その出来事に応じて、海馬に収められた脳活動パターンが発現します。そのパターンは無限ではありません。生まれてきた段階で、その人がどんな感情を何回持つことができるのか、決まっているのです。それは、脳を調べればわかります」
 愛生の眉間にしわが寄ってきた。こんな話、聞いたことがない。
「でも安心してください」
 西田はわざとらしく微笑んだ。
「感情は、再利用が可能なのです。それどころか、自由に操ることもできます。この講座では、みなさんがより良い人生を送るため、感情を自在にコントロールするすべを伝授させていただきます」

教室の隅で、言葉選びや話し方が全然なっていないと西田を小声で叱っている武藤教授は厳しい人に見えたけれど、いざ面と向かって話してみると、穏やかな女性だった。
 愛生は三回目の講義のあと、思い切って武藤教授に質問しに行った。すると、ビルの近くのカフェに誘われた。
 毛玉のついた茶色のセーターと茶色のコーデュロイのロングスカートを身につけた武藤教授は、くたびれたオーラをまとっていたものの、話しぶりには上品な知性が感じられた。
「ごめんなさいね。西田の話はわかりにくいでしょ」
 武藤教授は小さな声で言い、ホットコーヒーをすすった。
「ええ、まあ少し……西田さんは、武藤先生の助手なんですよね?」
 愛生の前には、メニューの中で一番安かったオレンジジュース。コーヒーは高い。結婚相談所と感情コントロール講座にかなりお金を使ってしまったから、節約せねば。
「そう。大学で教えてるのに変な話なんだけど、わたしは人前で話すのが苦手なの」
「そうですか……あの、今日の講義では、過去の感情を現在に喚起する方法というのを教えていただきましたけど、それって、その、持続的な感情にも効くものなんでしょうか?」
「持続的な感情?」
「好き嫌いとか、そういうのも、感情ですよね?」
「ええ。もちろん、効果はありますよ」
「それって、効果は続くものなんでしょうか?」
「一度身につけた思考術は衰えません。思考術は、手続き記憶なんです。つまり、自転車の乗り方みたいなもの。自転車の乗り方を忘れたりはしないでしょ。無意識に、自分の望んだ感情を保つことができます。いつの間にか効果がなくなっていたなんてことは起こりません」
「そうですか……あの、好きじゃない人を好きになることもできるって聞いて、受講したんですけど……」
「それにはまた、感情喚起に加えて別の思考術も必要になりますけど、安心して。そういうこともできます。過去に感じた好きという感情を呼び覚まして、その感情を別の人間に紐つければ、好きじゃない人を好きになることもできます。今まで誰も好きになったことがなくても、未来の感情を呼び覚まして、誰かを好きになることもできます」
「そうですか……」
「まだ信じられないって顔だね」
 武藤教授は少し悲しげに笑った。
「受け入れがたいのはわかります。鵜呑みにしないってことは、あなたの知性が優れているってことでもあるから、誇っていいんですよ。でも、すぐに信じてくれると思う。体感すればね」
「別に疑ってるわけじゃないんですけど、あまりに常識はずれな理論だから」
「でも、よく考えてみて。年を取ると、だんだん感情が穏やかになる人もいれば、逆にせっかちになったり、怒りっぽくなったりする人もいるでしょ。穏やかになる人は、人生の中で、きちんと感情を使ってきた人なの。逆の人は、ずっと自分を抑えつけて我慢して、感情をうまく使わずに溜めてしまった人なの。わたしの研究でわかったことは、現実の世界に見て取れるんですよ」
「なるほど……でも、生まれた時に一生分の感情が決まっているなら、不幸な若者はいずれ幸せになって、幸せな若者はいずれ不幸になるってことですか?」
「いえいえ」
 武藤教授はもどかしそうに首を振った。
「脳内の感情貯蔵庫の中に入っているのは、あくまでも、可能性としての感情なの。一度も使われない脳活動パターンもある。幸せな人が、ずっとポジティブな感情だけを喚起する場合もあるし、不幸な人が、ずっとネガティブな感情だけを喚起することも考えられる。それは、どんな人生を送るかにかかっています。でもわたしは、すべての人に、幸せになれる可能性があると考えているの」
 教授の声が力強くなった。
「もちろん、すべての人の脳を調べたわけじゃないけど、今のところ、ポジティブな感情を感情貯蔵庫の中に持たない人には出会っていません。その感情をずっと保っていられれば、どんな人でも幸せになれる。それって素晴らしいことでしょ?」
「ええ、確かに。あの、基本的な疑問なんですけど、どうしてそんなすごい研究の成果を講座で教えてるんですか?」
 愛生の質問に教授は軽く息を吐いた。
「学会は、わたしの研究をまともに扱ってくれないの。わたしが焦りすぎたのもいけなかったのね。これで世界中の人々を幸せにできると思って、早く発表させてくれって、わがままを言ったもんだから。正直言うと、わたしは苦しい立場に立たされてるの」
 そして教授は口をつぐんだ。なにか言えない事情がありそうだ。でも、彼女が人々のためになることをしようとしているのは間違いなさそうだ。今までの常識を覆すような研究だし、武藤教授は世渡りが上手いようにはどうしても見えないから、相手にされなくても不思議ではないかもしれない。
「いろいろお話ししてくださって、ありがとうございました」
 愛生は、湿っぽくなった空気を打ち払うように言った。
「わたし、これから頑張ります」

暗闇の中、手に取ったスマホが表示した時刻は、真夜中だった。
 愛生は、むくりとベッドから起き上がった。夫は隣で背を向け、いびきをかいている。トドが吠えるような音だ。トドの吠え声を聞いたことはないけど、そんな感じに違いない。
 愛生は枕元を手で探り、『徹底消音! 最強耳栓キングサイレンス』を見つけると、耳にはめ直した。再び布団をかぶったものの、目が冴えてしまった。訪れた静寂の中、脳裏にリアルなイメージが張りついて離れない。カバとゴリラを足して二で割ったような可愛らしいキャラクター。そしてともによみがえるのは、リンゴの香り。若くして病死した母が、愛生が子供の頃、よく作ってくれたアップルパイになる前のリンゴだ。胸の中に、温かい気持ちが満ちてくる。それは、今日の不愉快な記憶とそぐわないものだった。
 夫に、食器に流し残しの洗剤の泡がついていること、炊飯器の内蓋を洗い忘れていること、マヨネーズのふたを開けっぱなしのまま冷蔵庫に仕舞っていることを注意した。もう何度も同じことを注意しているので、言い方がきつくなってしまったのは否めない。いつも穏やかな夫も、その言い方が癇に障ったようで、じゃあ食洗器を買えばいいだろ、それにマヨネーズのふたくらい、気づいた時に閉めればいいだろと言い返してきた。
 愛生が、料理は任せるから後片付けは自分がすると言いだしたのはそっちだろ、金で解決しようとするな、それにもし食洗器を買ったとしても、入れるものを入れ忘れたら話にならない、それにご飯にマヨネーズをかけて食べるのも気にくわないけど許してやってるのをわかってるの? わたしの作る食事の味や量に不満があるわけじゃない、ただの習慣だって言うけど、目の前でぶりぶりかけられていい気分はしないし、太るし身体に悪いし、いい年なのにそんな習慣続けてていいと思ってるの?などと言い返すと、どうしてそうきみは文句ばっかり言うんだ、と完全に怒ってしまった。
 愛生もかなりムカついていたけれど、すぐに苛つきを静めた。気持ちを切り替えることにかけては、もはや達人レベルに達している自信はあった。愛生はすぐにどうでもよくなったけれど、夫に頭を冷やしてもらうため、別の部屋へ行って距離を取った。
 それから早めにベッドに入ってふて寝しているふりをしていると、予想通り、夫はしおらしく謝ってきた。
「起きてるよね? ごめんね。俺がだらしないのが悪いのに怒ったりして」
 愛しい気持ちがわいてきた。でも、もっと反省してほしい気持ちもあったので、愛生はあえて背を向けたまま、「いいよ。わたしこそごめんね」と言った。
 すると、夫の手が肩にかかり、顔が近づいてくる気配がした。
 急激に違和感が襲ってきた。唐突に、自分が自分の体から抜け出したような、客観的な気分になり、これは違うとわめきたてた。
「触らないで」
 抑える間もなく、気づいた時にはそう言ってしまっていた。すぐに謝ったものの、夫はなにも言わず、隣に横になった。気まずい空気の中、息苦しい時間が続いたのちに、夫の寝息が聞こえてきたので、愛生は枕元の耳栓を耳に押し込んだのだった。
 そんなことがあったあとの真夜中の目覚め。眠気が訪れるのを待ちながら、愛生は手持ち無沙汰に自分の心をいじった。大学生の時、旅行先のアメリカで買ったサングラス。和世と一緒に行ったおいしい食堂に置いてあった変な置物。
 過去感情喚起術の基本は、思い出のメインファクターではないサイドファクターを記憶の引き金に設定することにある。初恋の相手の顔ではなく、彼に関するなにか。母のぬくもりではなく、母を連想させるもの。引き金の設定が上手くいけば、思い出ではなく、過去の感情だけを意識の表層に抽出することができる。それは、ただ過去を思い出すのとはわけが違う。現在の自分を幸せにすることなのだ。
 愛生はすでに、無意識に自分を幸せにする方法を体得していた。しかし、ひとつだけ引っかかることがある。夫に「触らないで」なんて言ってしまう結婚生活が、自分の理想であるはずがない。ほかにも、自分の気持ちのひずみのようなものを感じることがあった。夫のことが大好きなのに、大好きであるという、それだけに満足してしまっているのか、時々、夫が向けてくれる愛情に戸惑ってしまうこともある。
 やっぱり、わたしは愛のない人間なんだろうか、と、なにかあるたびに愛生は思った。講座に通っていた時、自分の記憶を掘り下げてみて初めて気づいたことだが、愛生は、小学生の時の片思い以来、本気で恋をしたことがなかったらしい。今までの何人かの人との交際は、なんとなく、ただ付き合える人と付き合っていただけだった。だから、結婚に向かうお付き合いの際、過去に交際をしていた時の感情ではなく、小学生の時のときめきを喚起したのだ。
 それには無理があったのかもしれない。小学生の片思いと結婚生活はあまりに違う。
 でも、自分は愛のない人間だなんて、そんなこと、やっぱり認めたくない。そんなことはないはず。夫はわたしのことを愛してくれている。だったらそれに応えたい。

和世が激しく推している定食屋で、お昼休憩に肉じゃが定食を食べていると、とんかつ定食ご飯大盛りを前にした和世が、愛生の顔を綺麗な目でじっと見つめた。
「愛生、最近なんかあった?」
「え? 別になんにもないですよ」
 和世はパクパクと白飯を口に運び、飲みこんでから再び言った。
「なんかニコニコしてない?」
 和世の表情は真剣だ。
「そうですか? あはは」
 愛生が笑った時、狭い定食屋の引き戸がガラガラと開いた。
「あ、佐々木さんと巻野さん、じゃなくて肥田さん」
 同僚の湯谷健司ゆたにけんじは、「まだ慣れないな」と頭をかいた。
「あら湯谷さん、結構遠いのに、こんなところでお昼?」
 和世は目を大きくした。
「実は、お二人がいつもここに来てるっていう噂を聞いて、そんなにおいしいお店なのかと気になって」
 湯谷は照れたように笑う。
「なんだ、そうだったの。全メニューおすすめだよ。でもあんまりほかの人に広めないでね。来にくくなるから」
「はい。あ、肥田さん、今日、部長と佐藤さんと大川さんで飲みに行くんですけど、一緒にどうですか?」
「いえ、すみませんけど、予定があって」
「そうですか。佐々木さんは、行きませんよね?」
「行かない行かない」
 和世がそういう付き合いをしないのは周知の事実だ。
「じゃあ、またの機会に」
 先に店を出ると、和世が言った。
「どうしたの? 湯谷さんの顔も見なかったけど、なんかあった?」
「いえいえ、別になにも」
「ふーん。仲良かったのに、冷たいなと思って」
「仲良くないですよ。わたし結婚してるし、湯谷さんも彼女いるみたいだし」
「え? そんな意味じゃないけど」
 それから数日後も、和世に、妙ににやけていると言われたり、一部の社員を避けていると指摘されたりした。避けているのは、男性に限られていることに、和世も気づいていた。
 和世に、「笑顔は増えたけど、なんか無理してるみたいに見える」と言われた日、まだ夫の帰っていない家に帰って一人になると、自分でも驚くほど突然、涙があふれてきた。
「なになに?」
 涙を指で払いながら一人でつぶやき、そんな自分がおかしくなって笑った。

武藤先生、お久しぶりです。お元気ですか?

わたしは結婚して三ヶ月が経ちました。おかげさまで元気にしています。

実は先日、初めて、未使用感情喚起術を試してみました。まだ感じたことのない感情を喚起することにとてもドキドキしましたが、上手くいったようです。

でも、実を申しますと、戸惑ってもいます。わたしがこんな感情を持つとは想像していなかったからです。胸がカッと熱くなり、息が苦しくなって、倒れるかと思いました。これは、明らかに恋の感情だと思うのです。

これはどういうことでしょうか? わたしはもう結婚しているので、これから恋をするなんてありえないですよね。それとも、わたしは、不倫をする運命にあったのでしょうか?

愛生は、打ったメールを削除した。やっぱり、こんな恥ずかしい内容のメールは、いくら武藤先生に対しても送れない。それに、武藤先生はたくさんの教え子を抱えているだろうし、かつての教え子のことまで構っていられないだろう。
 その時、「ただいまー」と夫が帰ってきた。
「お帰り―」
 もやもやした気持ちがかき消され、愛生は玄関先に出迎えに行った。
「お疲れさま。今日はキムチ鍋だよ―」
「おお。いいね」
 それから食事の準備に集中し、お互いの仕事について話しながらおいしい鍋を食べ、夫に片づけを任せて自分はお風呂に入った。お風呂から上がったあと、きちんと片づけが終了しているかどうかはチェックしなかった。
 それから二時間後、夫は、首にしがみつく愛生を見て、口角をぎゅっと上げつつも、少し戸惑ったように言った。
「どうしたの? 最近ちょっと違ってる」
「なにが?」
「いや……」
「嫌なの?」
「嫌じゃないよ。嬉しいよ」
 愛生は、夫の首筋のたるんだ肉を甘噛みした。これがいいんだ。夫はこれをされることをあまり嬉しがっていないのはわかっているけれど、わたしのために我慢してくれているのが可愛い。

話に夢中になっていて、いつもは玄関のドアが開く音に気づくのに、リビングに夫が現れるまで気づかなかった。
「ありがとうございました。今日はこれで。失礼します」
 愛生は電話を切り、夫に笑顔を向けた。
「お帰り」
「ただいま。誰から?」
 夫は軽く尋ねる。
「職場の人」
「職場の人? 武藤先生って聞こえたけど」
 夫はきょとんとした顔をした。
「ああ、職場の人と、同窓会のことを話してたの。和世先輩は友達だからさ」
「同窓会?」
「まだ話してなかったね。来月、中学の同窓会があるの」
 愛生は、送られてきた案内を見せた。自然と話題を変えられたことにほっとした。和世を職場の人と言ったり、和世と平日の夜に電話で話していることの不自然さに、夫は言及しなかった。

それから一か月後、仕事終わりに和世とモンゴル料理店で飲んでいる時に言われた。この前の週末、実はたまたま、愛生のことを見かけたと。腕を組んで歩いていた男の人は誰? 旦那さんじゃなかったけど。
 愛生は、兄だと笑顔で答えた。和世は眉間にしわを寄せた。嘘。いつもの愛生に戻ったと思ったら、またおかしくなった。どしちゃったの?
 愛生は、どうもしませんよと笑った。このモンゴルのお酒、すごく美味しいですね。
 愛生のことがわからなくなった。なにも話してくれないし、友達だと思ってたけど、そうじゃなかったんだね。
 そう言われても、愛生は笑顔でいた。和世が気を悪くしているのはわかったけれど、どうしていいのかわからない。なにもできないなら、暗い気持ちになるのは損だ。だったら楽しまなくちゃ。
 食事は美味しかったし、愛生はとても楽しかった。愛生はいつも楽しい。愛生の思考術はさらに熟練し、今自分が抱いている感情が、『今』のものなのか、『未来』のものなのか『過去』のものなのか、意識することがなくなっていた。意識する必要なんてない。感情は無限にわいてくる。過去や未来のものが今に、未来になれば、未来にとっての過去と未来から、未来のない今だけになっても、過去から再利用可能だし。
 最後に一つだけ言うけど、と和世は言った。結婚したことがないわたしが言うのも変だと思うけど、不倫はやめたほうがいいよ。わたしが知ってる愛生は、人の行いに対して潔癖な性格だったはず。そうじゃなければなにをしても大丈夫だと思うけど、愛生は大丈夫な人じゃない。今はよくても、いつか自分を嫌いになるかもしれないようなことはしないほうがいい。
 愛生は不思議に思った。『いつか』の話なんてしてるよ。いつだって楽しいに決まってるのに。そうか、和世は思考術のことを知らない。話さなかったのだ。だって、条件のいい相手のことが好きになれないから講座に通ったなんて、恥ずかしいから話せるわけがない。まあ、どうでもいいか。
 愛生は話を聞き流し、食事を終えると、いつも奢ってもらっちゃってありがとうございます、といつものようにお礼を言った。

夫がパンフレットと、愛生の通帳を叩きつけてきたのは、武藤教授との電話を聞かれてから数日後のことだった。
 感情コントロール講座に通っていたのかと訊かれ、愛生は隠し通せないと思い、正直に認めた。通帳には、講座の受講料を払った履歴が残っている。大丈夫、通った理由なんていくらでもごまかせる。
 夫は、思いもよらないことを言った。
「きみの様子がおかしいから、ちょっとネットで調べてみたら、武藤先生っていう名前が出てきた。きみが電話で言ってた人だと思って、さらに調べてみたら、ひどい人だってことがわかったよ。初めは、講座に名前を出してなかったんだけど、バレたみたいだね。武藤紅葉って人は、危険な研究を勝手に発表して、大学をクビになってるんだ。それでも懲りずに始めたのが、きみが通ったっていう講座なんだよ。感情コントロールなんて言ってるけど、危険なんだよ」
「危険? なにが?」
 夫は、ウェブページを見せてくれた。このページの制作者がどういう立場なのかはわからないが、感情コントロール講座に対して警鐘を鳴らす内容のものだった。
「精神的自殺?」
 使いようによっては、講座で伝授される思考術は、自ら精神を狂わせることも可能であり、場合によっては、ショック死することもあるらしい。例えば、裁判にかけられる犯罪者が、心神喪失の判断を得るために悪用することも考えられるという。
 愛生は笑い飛ばした。
「これが本当だとしても、別に問題ないじゃん。わたしは犯罪者じゃないし」
「でもこわいだろ。研究者当人が、こういう危険性をわかってなかったとは思えない。危険だとわかっているものを平気で世に出して、しかもお金を取ってるんだろ? そんな人をきみは先生って呼んでたの?」
「武藤先生はね、みんなを幸せにしようとしてるんだよ。武藤先生を知らないくせに、悪く言わないで」
「こんなもので幸せになれるわけないじゃないか」
「わたしは幸せになったよ。わたしが証拠なの」
「とにかく、変な思考術を使うのはやめてくれ」
「やめるとかやめないとか、そういうものじゃないの。あなた、自転車の乗り方を忘れられる? できないよね。自転車に乗らないことはできるかもしれないけど、不便でしょ。車は持ってないから」
「どういう意味? 車持ってるじゃん」
「便利なものは手放せない。それ以上に便利なものがない限りはってこと」
「うーん」
 愛生は、夫を丸め込むことに成功したと確信した。彼は、高学歴のくせにちょっと鈍いところがある。これが、学力ではなく、知性の差だ。わたしは彼より学歴は低いけど、多分、知性は優れてるんだぞ。
 こんなことを考えてしまう嫌な女だから、わたしは彼を本当に愛することができないのかもしれない。
 そう思ってしまった時、激しい恋心が引いていくのを感じた。愛生はそれを追いかけなかった。もうどうでもいいか。
「どうして講座に通ったの?」
 夫に尋ねられ、愛生は答えた。
「あなたのことを好きになりたかったからだよ」
 愛生の目は素直だった。
「あなたと結婚したくて、でも、なんだか踏ん切りがつかなくて、もっと好きになったら、すっきりと結婚できるのかなって思ったんだよ。結婚相談所の人に勧められて、通ったの」
 夫は、黒目がちな小さな目を見開いた。やっぱり子熊のようだ。可愛いというよりは、間抜けな感じ。
「俺のせいってこと?」
「そうそう。わたしは講座に通ってよかったと思ってるから、あなたのおかげって言ったほうがいいね」
 それから夫は、一緒に寝ることを拒否した。愛生には理解しがたかったが、夫はショックを受けたようだ。翌日も、夫は口も利かず、なんの連絡もなく、いつもの時間に帰ってこず、愛生が寝たあとの深夜に帰宅したようだった。
 なんと、その状態は一か月も続き、終わる気配がなかった。このまま冷え切った生活が続く可能性を見出した愛生は唖然とした。どうして? こんなことになるために結婚したんじゃない。夫と話し合おうとしたけれど、夫は嫌がった。
「俺のこと、好きじゃないんだろ」
 そう一言言っただけだった。
 なんだよ。そんなことですねるなんて、中学生じゃあるまいし。まあ、そうだよね。男って、いつまで経っても子供だって言うもんな。
 一瞬、不安で押しつぶされそうになった。こんな生活がずっと続くのか。男は子供だから、将来のことなんてろくに考えないのかもしれない。だったら、いつかはこの不安感に気づいてくれるなんて希望も持てない。
 でも、すぐに気持ちを切り替えた。大丈夫。わたしはこれができるから。もっとすごいこともできるし。

同窓会で再会した奈々子から連絡があり、また会おうと誘われた。奈々子は小、中学校の同級生で、ずっと連絡を取っていなかったものの、ぽっちゃりした体型と明るい口調が変わっていないことに安心し、すぐに打ち解けることができた。そんな奈々子が、同窓会に来れなかった、小学校からの友達とも連絡が取れたから、一緒に飲もうと言う。愛生は喜んで誘いを受けた。地元は少し遠いが、日帰りできない距離ではないし、奈々子の誘いなら、受けて損はない。盛り上がったら、実家に泊まってしまってもいい。夫は文句なんて言わないだろう。
 新幹線を降り、タクシーで待ち合わせの居酒屋に直行した。奈々子と、奈々子と同じく地元に住んでいるミズキが先に着いていて、料理も頼んでいた。同窓会に来れなかった莉緒は、愛生と同じく遠方から来るらしく、まだ着いていない。
 磯部焼などをつまみながら駅前の寂れ具合について話していると、「みんなー!」とテンションの高い感じで、ふわふわしたコートを着た女性が入ってきた。顔を見て、すぐに莉緒だとわかった。
 その後ろには、落ち着いた感じの男性がいて、笑顔で会釈をした。その人も誰なのかすぐにわかった。小学校の同級生の林幸太朗だ。
「驚いたでしょ。莉緒と幸太朗、結婚してたんだよ」
 奈々子がいたずらっぽく笑った。ミズキは、「えー信じられなーい、早く言ってよお」と大騒ぎだ。奈々子は、ミズキと愛生を驚かせるため、あえて黙っていたらしい。
 全然変わってないね、などと言い合ってから、愛生は、莉緒に近況を尋ねられ、上京して大学を出てから、ずっと不動産会社に勤めていること、半年前に結婚したことを話した。旦那さんはどんな人?と訊かれ、大手自動車メーカーに勤めていることを言ったら感心された。見た目は子熊っぽいんだけどねー、普通に優しい人だよ。実は婚活したんだ。へへ、そんなに意外?
 次は、莉緒と幸太朗のなれそめを聞かされ、幸太朗はゲーム会社に勤めているという話をしてくれた。キャラクターデザインをしているというので、愛生は手を打った。
「小学生の時、自分でキャラクター考えてノートに描いてたよね?」
「ああ、よく覚えてるね」
 幸太朗は、日本酒を手にして笑った。
「覚えてるよー。変な動物みたいなのばっかりだったよね」
「そういえば、愛生によく見せてたよね。今もやってることはそう変わってないかも」
「なに? 小学生の時からキャラクター描いてたの?」
 幸太朗は驚く莉緒に、「そうだよ。莉緒は覚えてないか」と言った。愛生は、「好きなことを仕事にしたんだね。すごーい」と、大げさに褒めて見せた。
  結局、最終の新幹線で帰ることにした。一人、空いている新幹線の中でかすかな車体のうなりを聞いていると、妙に落ち着く。あまり乗る機会は多くないけれど、新幹線とか飛行機に乗るのは、結構好きだ。
 思考は自然と、明後日の仕事のことに移っていた。それから、ふと気づく。楽しかったのに、久しぶりに会ったのに、余韻のようなものがまったくない。特に、なんの印象にも残らない会だった。莉緒と幸太朗の子供の頃の面影が強く残りすぎていたのには驚いたけれど。
 幸太朗は、いい感じの大人になっていた。そのことはわかる。しかし、その事実を淡々と認識できるだけで、自分の心からわいてくる印象やら感想のようなものは、ゼロだった。
 何度夢に出てきたことだろう。夢を見ている時は、こんな感じではなかった。もっと、質感があった。先ほどの現実より、過去の夢のほうが、熱く生々しい気さえする。
 愛生は、無意識に過去の感情を呼び覚まそうとしている自分に気づき、さっとふたをして抑えた。こんなことをしたのは初めてだった。愛生は正直な人間だ。もともと淡白な性格だからかもしれないが、自分の欲望を抑える必要を感じたことがあまりない。それは思考術を覚えてからも同じだ。
 しかし、今は抑えたいと思った。なぜだろう。やっぱり、幸太朗のことになると、おかしくなってしまう。今でも、幸太朗は特別だということ? いや、もう特別ではなくなっているのは、今の自分が唯一確信できることだ。
 愛生はスマートフォンを手に取った。二回スワイプすると、マッチングアプリが可愛子ぶった面を見せている。面倒な手続きがいらず、もちろん女性は一銭も料金がかからないやつだ。アプリには、複数の人とのやり取りの履歴があった。別のメッセージアプリに移動する。そこにも何人かの男性たちがいる。
 トーク履歴を見ていると、笑えてきた。近くに住んでいて、同じアプリを使っているというだけの共通点しかないこの人たちが、わたしの感情を吸い取っていった。いや、そんな風に表現してしまっては、なにも知らない彼らに失礼だろう。わたしが勝手に浪費した。自分の心を浪費した。削って、屑の海に捨てた。それが快感だった。
 認めたくはなかったが、愛生にはわかった。この心の空っぽ感は、感情を使い切ってしまったからだと。自分でこんなことを思うのもなんだが、わたしは、正直で身持ちの固い女だ。本来なら、という話だが。本気で好きな人としか、あんなことやこんなことをできない。もし、自分が、なんとも思っていない男とも簡単に寝れるような女だったら、それか、和世のように一人でも強く生きていける女だったら、こんなことにはならなかった。
 考えているうちに、どうでもよくなってきた。もしかすると、全部錯覚ということもありうる。機械で脳活動を観測して、本当に思考術が効いているのかどうか調べたわけではない。人間の錯覚ってすごいっていうもんな。プラシーボ効果とかもそうだし、実際には無傷なのに、大量出血したと勘違いして死んでしまった人もいるという噂だし。
 確かめてみよう。もし本当に未来の恋心がなくなってしまったとしたら、わたしはそれを自分で使い切った馬鹿な女だということ。
 考えてみれば、本当に馬鹿だ。何人もの人を振り回しているという自覚もほぼなかった。ただ、自分は、自分の感情を食べているだけ。突き詰めれば、相手は必要なかったんだ。男性たちに、自分食いを助けてもらっていただけ。相手のことなんて、全然見ていなかった。人を愛せない恋狂い。こんな馬鹿な自分、別に消えてもいい。
 愛生は、過去感情喚起術と未使用感情喚起術の複合技を試してみることにした。と言っても、いつも無意識にやっていることだ。感情の種類と、意識して最大の感情を引き出そうとしているのが、いつもと違う点。
 悲しい、と意識できたのは、初めのほんの一瞬だけだった。次に、内臓がつぶれるような感覚がしたあと、潮がさあっと引いていくように、無になった。予想外の事態に、愛生の心の目は、必死になにかを探していた。涙が出るどころか、眼球の表面が乾いて、ひび割れるイメージが浮かんだ。瞬きができない。まぶたも含めた全身の筋肉が動くことを拒否しているような感じ。なにも感じない。
 荒野になった心の中、やっとなにかを見つけた気がして、愛生は心の手でそれを必死に掴んで撫でまわした。
 それも無のように思えたが、よく感じれば、そうではなかった。ずっと身近にあったなにか。実家の布団に久しぶりにもぐったような。いや、それはもうないのだ。二度と戻ってこない。もう会えない。もっと思ったことを言っていれば、もっとあれをしてあげていれば、もっと優しくしてあげていれば。
 要するに、後悔と喪失感だった。この二つが、こんなにしつこく、鋭いとは思わなかった。それになんだ、この重いものがのしかかってくるような感覚。そうか、これは、時間で、過去だ。まだ生きたことのない長さの。長いな。重いな。でも、それも終わる。自分の死の前に、別の死によって、いったん終わる。
 もうやめた、と、愛生は、感情の海から急浮上した。本当に水から上がったように、必死に息をする。動悸に胸を押さえた。苦しい。しかし、息切れした犬のような呼吸を繰り返しているうち、楽になってきた。
 死ぬかと思った。やっぱり死にたくない。乾いた目がやっと潤ってきた。まだ枯れてないんだ。

「お姉ちゃん、武藤って人の講座、訴えられたみたいだね」
 清果が久しぶりに電話をかけてきた。愛生を心配してくれたらしい。「そうみたいね」という愛生の返事に拍子抜けしたようだ。
「思考術を使って自殺した人がいて、その家族が訴えたんでしょ? ショックじゃない?」
「そんなの、本当かどうかなんて証明できないよ。もうわたしには関係ないし」
「ふーん。それならいいんだけど」
「それより、結婚式の準備、進んでるの?」
「うん、ぼちぼち」
 しばらく、予定されている清果の結婚式の話をした。
「てか、最近ちょっとマリッジブルーかも。なんか不安なんだよねえ」
「あるある。すぐになくなるよ」
「お姉ちゃんは幸せそうだもんね。わたしもお姉ちゃんみたいになれるかな」
 愛生は軽く笑った。
「まあ、頑張れ。旦那さんが清果より先に死んだとして、その時に思いっきり悲しめるように努力しな」
「なにそれ。ひどい励まし方」
「わたしはそう心がけてるからさ」
 またしばらくだらだら話してから、電話を切った。
 結婚前にそわそわしている清果の様子を微笑ましく思いつつ、愛生は、自分の中の未使用感情の中の悲しみのひとつを大切なペットをなでるように確かめた。本当に大切だから。そしてこれはほんの一部のはず。
 スマホを見ると、メッセージが届いていた。『体調大丈夫? なんか買って帰るものある?』
 愛生は、大丈夫、もう治ったよ、と返信した。吐き気はもう収まっていた。
 こういう時間を積み重ねて、いつかわたしは悲しんでみせるんだ。そうしたら自分が血の通った人間だと実感できる気がする。楽しみなくらい。
 その悲しみの相手が本当に彼だったのか、もしかすると、ほかに本当の相手がいたのか、それとも、そんな運命の人的なものはいないのか、本当のことはわからない。初めて未使用感情喚起術を試した時、自分は不倫をする運命にあったのではないかと恐れたが、そういうことではなかったのかもしれない。脳に収まっている感情は、単なる可能性。可能性に振り回され、消費してしまった。でも、それは希望でもある。結婚生活の中の唯一の希望。長年連れ添った人が死んで悲しむ可能性。それが確かにあることは、自分の心を見ればわかる。
 その相手は彼だと、自分で決めたのだ。それでいいではないか。これが愛なのか自己愛なのかなんでもないのか、どうでもいい。
 夫は一時、夫という記号になり果ててしまったが、それは人に戻っていた。もう、夫を必要以上に夫とは考えない。ただの、優さん。

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