ラピスラズリ

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ラピスラズリ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一九四五年四月 沖縄南東沖

 

 

 いよいよ死ぬのだと思うと、あらためて不思議な心地がした。

栖邑悌吾(すみむらていご)はいま、鉄錆と油と揮発したガスのにおいにまみれて、発進の号令を待っている。彼が座る操縦席は半畳にも満たず、突き出た無数の把手と曲がりくねったパイプに埋め尽くされている。身じろぎひとつにも苦労する空間で息を詰めるたび、悌吾は自分自身もまた、油を注(さ)した一個の歯車になったように錯覚するのだった。機械は考えない。死も生も愛も憎も苦も楽も。それでいいと思う。そうありたいと思う。右手に持ったぬるい決戦飲料(サイダー)の最後の一口を飲み干して、空になった瓶を座席と背中の間へ挟む。左手に握りしめた受話器は、いまだ不気味に沈黙していた。

足元のハッチが閉まったときに聞こえた音を、悌吾の耳はまだ覚えていた。山間に流れる一本の瀬にも似た、涼やかな調べ。操縦席と潜水艦をつなぐ交通筒が、海水に満たされてゆく音。訓練の時には一度も気にも留めなかったその音色が、静寂が戻ったいまもなお、悌吾の耳の奥で繰り返し響いている。

戻る道は絶たれた。生者の国はいまや鉄のハッチを隔てた向こうにあり、にらむ計器を透かした先にあるのは、いずことも知らぬ南溟(なんめい)の水壁と、水平線に黒く浮かぶ標的のみ。並みいるその敵艦隊の真ん中へと飛び込み、自らの駆る鉄棺もろとも華々しく爆音をあげるのが、二十二歳の彼に与えられた使命だった。

マル六金物――『回天』。

彼が乗る兵器は、そう呼ばれていた。

長さ十四・七メートルの流線形の先端に一・五五トンの炸薬を積んだその兵器は、最高速力三〇ノットで海中をはしり、体当たりをもって乗員の命もろとも敵艦を沈める、一死必殺の決戦兵器だ。その餌食と定めた艦隊に向かい、潜水艦はいま、深度十四メートルを保ったまま、じりじりと接近を続けているところだった。合計六基、六人の搭乗員が乗る回天を、より確実に標的へと命中させるために。

死の瞬間が秒刻みで近づいてくる中、悌吾の脳裏を支配するのは思い出でも感傷でもなく、ただ「うまくやらねば」という気持ちだった。

五日前に基地を出港してからというもの、誰もが全力を尽くしてくれた。ひとたび乗って出てゆけば、必ず死ぬ兵器。ならばこそ、せめてその命を無為にするわけにはいかないと、その死をせめて意味あるものにしなければならないと、艦長以下、全員が一丸となって動いていた。そう、いまもなお彼らは、敵の電探の索敵距離ぎりぎりまで、全神経を注ぎながらにじりよっているのだ。発見されれば諸共に死ぬ、その恐怖と戦いながら。

報いなければならない。そう思った。

彼らの努力に。基地で苦楽を共にした仲間たちに。そしてこれまで育ててくれた郷里の父母のために。

これまでにうけてきた恩と幸福に報いるため、自分は首尾よく死なねばならない。

受話器の声が静寂を破る。

「二号艇発進用意」

押し殺した艦長の声に弾かれるように、体が動く。

「目標は輸送艦隊、三〇隻あまり。距離七〇〇〇。方位角右五〇度。速力九ノット」

矢継ぎ早に放たれる敵艦の情報から、悌吾は脳裏に海図を描く。

海上の目標は動いている。だから標的がいる場所に魚雷を発射しても、到達時にはもうそこにいない。魚雷を命中させるには、標的が未来にたどるであろう航跡と、発射された魚雷がたどるであろう航跡が、ある時刻できれいに一点に交わるよう、射角を調整しなければならない。だが、その予測は彼我の距離が大きいほど、また相手の速度が大きいほど、誤差が大きくなる。

回天は違う。

ある程度の目測をつけて発進し、命中確度の高い距離二〇〇〇メートル付近まで近づいてから、敵艦との位置を再調整して突入をはかる回天は、本来魚雷の射程外であるはずの距離から、精密に目標に命中させることができた。搭乗員の技量と命を対価として。

最後の発進手順に入る。艦長からの指示のままに電動縦舵機(オートジャイロ)をあわせ、速度は二十ノットに、深度は八メートルに設定する。燃料中間弁よし、起動弁よし。あとは祈るだけだ。この鉄の矢が、無事唸りをあげて動いてくれることを。

「おい、栖邑」

 ふいに受話器にダミ声が混じりこむ。一号艇の雅山(みやま)恒(ひさし)だった。海軍機関学校出身の十九歳。年こそ若いが、階級は悌吾よりも上だった。基地にいたときは、何かと威張りちらして悌吾のような学生出身の士官をいびる厭な奴だったが、同じ出撃部隊に配属されてからは、そのわだかまりも消えていた。

「首尾よくやれよ。……俺もすぐにゆく」

 返事も待たずに、声は途切れた。

受話器をしばし見つめ、悌吾は軽くうなずいた。

「二号艇、行けます!」

 発した声は明瞭だった。

 悔いる段階も、怯える段階も、もう過ぎた。あとはやるだけだ。やって死ぬだけだ。そのためだけにこそ、いま自分はここに生きているのだ。

 ここにきてようやく、走馬燈が彼の脳裏をめぐった。学徒動員の朝のこと、基地での訓練のこと、回天の搭乗員を志願し、光基地に配属されてからの日々。そして出撃命令が下った日のこと。すべてが怒涛のように過ぎていった。わずか一年と少し前まで大学で書を繰っていたことが、それまでの人生すべてが、まるで一幕の劇のように感じられた。

 それから思い出すのはメシのことだった。配給された蜜柑の酸味、釣床でこっそりねぶった飴玉の旨さ、出撃前に家族と囲んだ最後の膳、潜水艦の甲板で潮風に吹かれながら飲んだサイダー、艦の仲間が艦の製氷機で作ってくれたアイスクリーム……。

 命令が下る。

「栖邑少尉、武運長久を祈る。――二号艇、射(て)―ッ」

「二号艇、ゆきます!」

 嵌脱(かんだつ)装置を切り替える。回天を母艦につなぎとめていたバンドが、くぐもった音を立てて外れる。発動桿をめいっぱい倒すと、唸りをあげて発動機が振動した。燃焼室に送り込まれた海水が高圧の蒸気となってピストンを駆動。スクリューのもたらす加速度が、悌吾の背を座席に押し付ける。

 予測地点到達までの時間を測る計時機をにぎりしめながら、悌吾は手順をなんども反復していた。燃料を消費するごとに船体は軽くなる。深度を保つには傾斜と深度を見ながら適宜空気タンクに注水してバランスを保たねばならない。四百秒たったら速度を三ノットまで落とし露頂観測を行う。露頂時は飛沫を抑えるために十分に速度を抑え、また観測時間はなるべく短くすませること。敵影から射角と突入時間を再計算したのち、再度潜航。突入を決行する。慣性信管および電気信管、双方の安全装置解除を忘れぬこと。予定時刻を過ぎても衝突がなかった場合は再度観測を試み、その命が続く限り突撃を繰り返すこと……。

目と脳と手足を全力で働かせながら、悌吾はうわごとのようなつぶやきを漏らした。

「天皇陛下、万歳」

 

 

 ――その日は悌吾に続いて計三基の回天が出撃した。

『〇八一五に相次いで爆発音。敵艦に命中・轟沈させたものと判断す』

 母艦の航海日誌には、そう記されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二〇一九年四月 山口県光市

 

 

 光駅についてからバスに乗り、『北河畑』で降りた。ほんとうはそのひとつ手前の『光警察署前』か、『光郵便局前』で降りなければいけないのだけれど、まごついているうちにいつのまにか乗り過ごしてしまった。

 まあべつにいいし、と三枝(さえぐさ)あこは思う。べつに急いでるわけじゃないし。っていうかまだ時間もはやいし。いまはたぶん朝の十時くらいだから、どうせ行ってもまだ寝てると思う。昼過ぎくらいに行くくらいでちょうどいいんじゃないかな。うん、たぶんそうだ。きっとそうだ。それにうちだって、長旅でなんだかんだけっこう疲れてるし。

だからまあ、ちょっと時間をつぶすことにしよう。そう決めて、あこは昔よく行った堤防に寄り道し、足をぶらぶらさせつつ自販機で買ったコーラを飲んだりしているのだった。

 東京から山口に来ると、空ってあんがい広いんだなあと気付く。堤防のうえから見渡すとなおさらだ。テトラの向こういっぱいに広がるビニールシートみたいな海。沖ではヨットが白い帆を張って、その向こうには青くかすむ祝島の影。左手には砂浜と砂防林がゆるく弧をえがいて伸び、その先っちょから峨眉山がぽこんと空に飛び出ている。最後にあそこに登ったのは、たしか小学五年生のときだったろうか。もう四年も前になる。

「あ、でもお風呂には入りたい」

 唐突に思った。そうだった。昨晩はいちおうシャワーを浴びて出たけれど、新大阪では朝までマックにいたから、体中にフライドポテトのにおいが染みついている。リュックの中に最低限の服は準備してきた。せめて着替えだけでもすませたい。

 ここらへんに銭湯とかあったっけ。ジージャンのポケットからあこは反射的にスマホを取り出し――舌打ちと同時にすぐ戻した。

 忘れてた。スマホの電源は入れられないのだった。いやまあ、べつに入れてもいいんだけど、面倒だった。どうせ見たくもない通知がどっさり届いてるに決まってるから。

 ママには昨夜、新幹線の中で連絡を入れていた。

『父ちゃんのとこ行ってくる』。

 いちおうの礼儀は果たしたつもりだった。ちゃんと行き先も伝えたのだから、翌日からの旅行をドタキャンしたわけでもないし、家出でもない。心配なら父のほうに連絡をいれればいい。だからこっちから連絡するつもりも、これ以上ママのことを考えるつもりもなかった。

 とはいえ、どうしよう。

 空になったコーラ缶を置き、あこは堤防のうえに立って伸びをした。

「銭湯、なかったっけなあ……」

 手でひさしをつくり、ぐるりと見回してみる。

 はるか先にある砂浜は、あこの立つ堤防までつながっていた。犬の散歩をしている人がちらほらいるくらいで、ゴールデンウイーク初日にもかかわらず人影は少ない。水遊びをするにはちょっと肌寒いし、バーベキュー場も夏まで使えないから、まあ当然といえば当然だった。昼過ぎになれば多少はちがうかもしれないけれど。

 うすうすわかっていたけれど、ここから見たくらいじゃ銭湯のあるなしなんてわからなかった。仕方がない、コンビニのトイレでせめて着替えよう――そう思っておりようとした瞬間、

「なんだ、あれ?」

 妙なものに気が付いた。

 

 ※

 

 刺すような水の冷たさで目を覚ました悌吾は、混乱の中にいた。

 塩っ辛くなった口からつばを吐き、砂浜からうつぶせの体を起こしてみれば、視線の先には高さ二メートルほどの灰色の壁が視界を塞いでいる。それは左右に伸びて、ちょうどコの字型に悌吾を取り囲んでいる。背後を見れば、コの字の先端はふたつの突堤となって海に延び、そこへ蓋をするようにもうひとつ、長い堤防が右手からさしかかっていた。

 おそらくは漁港。とすれば、堤防の左右いずれかの向こうには、おそらく船の係留所があるはずだった。そこまではわかる。だが解せない。

なぜ自分は生きている?

 記憶をたどる。確かに自分はさっきまで、回天に乗っていたはずだった。露頂観測を無事に終え、それから一気に潜行して、あとは一直線に進んだ。焦燥、混乱、祈り。そして腹に響く爆音――

 そこまで思い出したところで胃が痙攣し、悌吾は浜に膝をついて、塩からい水を大量に吐いた。記憶は曖昧だが、実感は生々しかった。あれは夢でも幻でもなく、たしかに悌吾自身が体験した現実だった。

ここは死後の世界なのだろうか。だが、それにしては、あまりに殺風景すぎた。天国であるにせよ、地獄であるにせよ。ならば賽の河原かと見立て直すも、足元にあるのは石ではなく砂。目の前に広がるのは三途の川ではなく海。そして背後には壁。

 ――。

 その穏やかな外洋に、ふと既視感を覚えた。水平線の先に浮かぶ島影は、つい少し前まで毎日のように見ていた光景とよく似ていた。顧みれば、その二メートルのコンクリート壁の向こうからのぞくあおい屋根や、ところどころに頭を出す電柱の形にも、どこか奇妙な懐かしさがあり……いや、ちがう。気のせいだ。そんなはずがない。

 とにかく置かれた状況を確かめる必要があった。装備を確認する。頭に巻いていた鉢巻は流されていた。それだけならよかったが、帯で吊っていたピストルと短刀まで消えているのは痛かった。未開の地を探るには心もとない装備だが仕方ない。とにかくここを脱して、誰でもいい、住民を探そう。そうすればすべてがわかる。

 正面の壁には小さな階段と扉があった。壁越しにのぞく屋根屋根をみるに、扉の先はおそらく住宅地につながっているのだろう。扉に鍵がかかっていなければよいが……。そんなことを思いながら悌吾は足を踏み出す。

 だが、目指す扉が、悌吾が手をかける前にそろりと開いた。

思わず硬直した悌吾は、なんの心の準備もなく、向こうから扉を開けた主と目が合う。

栗色の髪をした、まだ幼い少女。

「やべっ」

 一瞬後、音を立てて閉まる鉄扉。

「待ってくれ」

 反射的に叫んでいた。

 

 ※

 

 やっべ生きてた。

 心臓を暴れさせながら、あこは慌てて鉄扉の掛け金をかけようとする。二本のレバーをスライドさせる方式だが、さび付いているのかうまく動かない。焦ってガチャガチャやるほど、わざと意地悪をするようにレバーの滑りはますます悪くなる。

「待ってくれ」

 せっぱ詰まった声が扉の向こうから聞こえた。やばい、もうとりあえず逃げた方がよいかもしれない。逃げ切れるだろうか。スニーカーを履いてきたのが不幸中の幸いだった。いやそれを言えば、怖いもの見たさで近づいたのがそもそもの間違いだったんだけど。

 いざ駆けだそうとして扉から離れようとし……気付いた。

追ってくる気配がない。

「危害は加えない。本当だ」

 呼びかける声も、扉から少し離れた場所から動かない。

「二、三、質問に答えてくれるだけでよろしい。鍵は閉めたままでかまわないから」

やたらと声がでかい。生真面目な口調だ。同情をさそうとか、機嫌をとるとか、そういう様子がないことに、逆にあこは興味を惹かれた。

 いやいや、とすぐさま否定する。どちらにしても怪しいことに変わりはない。新手の変態の可能性は十分にある。そう思っていると、あこがもうどこかへ行ってしまったと思ったのか、扉の向こうで重苦しい溜息が聞こえた。

「日本語が通じるわけがないか……」

「いや、通じるし」

 しまった、と思ったときにはもう遅い。

「まだいてくれたのか」

 わずかな安堵をにじませた声が返ってきて、男は聞きもしないのになんやかんやと自己紹介をはじめた。所属がどうの。海軍がどうの。部隊がどうの。最後に言ったスミムラテイゴ、というのがどうやら彼の名前であるらしい。あとなんとなく聞き取れたのは「基地」とか「任務」あたりのキーワード。

なんだっけ、そういうの。なんかクラスの男子がゲームでやってたやつ。あれか。自衛隊みたいな? そういえばさっきちらっと見た格好は、確かに兵隊っぽい感じだった。

「要はあれ? 兵隊? みたいな? やつ?」

 迷いながら返すと、「そうだ」と力強い返事が戻ってきた。

「任務中に不慮の事故にあい、ここに漂着した次第である。ついてはここがどこか、いまはいつか、それだけ聞かせていただけないか」

 少し悩んだ。それこそ警察のお世話になった方がいいんじゃねと思わないでもなかったが、まあそのくらい伝えるのは別にいいかと思い、扉の向こうへ答える。

「いまは二〇一九年の四月二十七日。でここは……ここの住所、どこなんだろ? うちもわかんないや。とりあえず光駅からバスでちょっと来たところだよ。室積海岸のあたり」

 沈黙があった。

「すまない」ようやく戻ってきた返事は、どうも困惑しているようだった。

「聞き間違いかもしれない。もう一度聞いてもよいだろうか?」

「……いいけど」

 伝えなおすと、さっきよりもさらに重い沈黙が続いた。

 なんなの? せっかく教えてあげたのに。

 またちょっと迷ってから、あこは意を決して中の様子をうかがうことにする。ちょっと話しているうち、どうもいますぐ襲ってくるとかそういう感じではないようだ。ヤバい動きをしたら今度こそ逃げよう。そう決めて、結局鍵をかけそびれた扉をこっそりと開く。

 坊主頭の男が、砂浜の真ん中で頭を抱えていた。

 

 ※

 

 自分の気が狂ったか、それともやはりここは死後の世界なのか。

 戻ってきた栗色の髪の少女から話を聞いて、悌吾はめまいを覚えた。ここが、かつて基地のあった光基地で。いまは二十一世紀? 戦争は終わっていて? 日本はアメリカに負けた? なにもかもが意味不明だった。大学時に読んだ杉山平助の小説に、そんな内容のものがあった気がする。あれはたしか亀の背に乗って未来に行ったが、まさか魚雷に乗ったら未来についた――などと、そんな荒唐無稽な話があってたまるものか。

「大丈夫―?」

 あまりに深刻な様子だったのか、少女の呼びかけが飛んでくる。その距離は二十歩以上も離れているが、最初に顔を合わせたときのような警戒は薄れているようだった。

明るい髪色はともかく、彼女の服は確かに奇妙だった。白いシャツには英語が書かれ、その上から青染めのジャケットを羽織っている。履いている半ズボンは膝よりも丈が短い。……よく考えるととんでもない恰好だ。モガどころの話ではない。これもまた、未来の服装とみれば当然なのだろうか。わからない。もうなにもわからない。

この少女が単なる狂女であって、自分にありもしない妄想を伝えているという可能性も十分にあり得た。検討の俎上には乗った。そもそもが、はるか沖縄からここに漂着すること自体がありえぬ奇蹟なのである。

しかし、「ここが光市である」と聞いてから改めて外洋を見渡すと……理屈でなく、納得してしまうのだ。確かにここはあの海だ。これまで何度となく潜ってきたあの海だと。

とにもかくにも、ここでじっとしていても始まらなかった。

悌吾は顔を上げ、さっき「あこ」と名乗ったその少女に声をかける。

「すまないが、そこを通らせてくれないか」

「いいけど」そう言って彼女は肩をすくめる。「でも、どうすんの?」

「帰る」

「どこに?」

「それは……」

 口ごもる悌吾を見て、あこは笑った。「だから、迷子なら電話してあげるって。ほら」

 そう言って、手に持った平たい板をひらひらさせる。その蓮っ葉な物言いが気に障った。彼女の方こそ、悌吾の話を信じていないといった様子だ。あの電話だと主張する平板も、どこまで本当のことかわからない。からかわれている。

 奥歯を噛んだ。

改めて思う。

なぜ俺はこんなところにいるんだ?

今の状況でなければ……そして一応の恩人でなければ、引っ叩いてやるところだ。

「もう俺に構うな」

「……ひどくない? なにそれ。あんなに引き留めたくせに」

「それには感謝する。だがあとは自分でやる」

決然と言う。

「君も家に帰りなさい。そもそも見知らぬ男に構うものじゃない。お父さんお母さんが心配するぞ」

 そういうと、もう返事もまたずにずんずんと進んだ。逃げたければ勝手に逃げればいい。通報したければすればいい。どうせ俺はこの時代には存在しない人間なのだ。

 来た以上、帰る道はあるはずだ。それがたとえ時間の流れであったとしても。それをなんとしても見つけ出すしかない。

自分はまだ首尾よく死ねていないのだから。

「待ってよ」

 身をこわばらせた彼女の横を通り過ぎたところで、背後から声をかけられた。

 振り返ると、挑戦するような視線とぶつかった。

「偉そうなこと言ってさ、アテでもあんの?」

「あるかないかじゃない。見つけるんだ。……信じられないなら別にいい。その必要も特にないからな」

「アテならあるよ」

「……なに?」

 思わず聞き返すと、彼女は手に持っていた平板を耳に当て……。

「その代わり、ちょっと付き合ってよ」

 そう言って、口角を上げた。

 

 ※

 

「いや、まじビビったわ……。なにしとんのお前」

「なにその言い方ひどくない? 親のくせにさー」

 あこが睨むと、父ちゃんはへへっと肩をすくめてみせる。

相変わらず軽いおっさんだなあと思いながらも、なんだかんだで偉そうにしてばっかの大人と話すよりは気が楽だ。

「そりゃ驚きもするわ。東京のカワイイ一人娘が会いに来るいうんじゃけ」

「キモい」

「ひっど。ちょう傷つくんですけどぉ」

「うるせえ。てか父ちゃんさあ、いい歳なんだからその喋り方もうやめな? キモいよまじで。まじで」

「ひっど。なんで二回言うん?」

「キモいから」

「ひっど。傷つくわー」

 そう言いながら彼はへらへらと笑う。テイゴと一緒に、あこはさっき乗り過ごした『光郵便局前』のバス停まで歩いて戻って、それから父ちゃんと合流した。

そのテイゴはといえば、あこの隣でさっきからずっと黙り込んでいる。

「ところで、えーと、そちらはどちらさん? ……彼氏?」

「死ね」

「なんでだよ」

 父ちゃんが言うと当時に、突然彼は踵をばしんと鳴らして、あこも見たことがある敬礼のポーズをとった。それからまた始まる、ぶっ壊れたボリュームでの自己紹介。二回目だから、今度はあこにもちょっと聞き取れた。大日本帝国海軍うんたら艦隊どこそこどーたらこーたら。そして最後に「スミムラテイゴであります」という彼の名前で、自己紹介はしめくくられる。

「……っていうわけ」

 目をまんまるくした父ちゃんにあこは説明する。砂浜でテイゴを拾ったこと。本人は昭和二十年(っていつだ?)のセンソー中からタイムスリップしてきたと言っていること。とりあえず帰るための方法を探していること。

 自分でも話していて相当うさんくさい話だなあと思ったりしたが、

「へーなるほど、めっちゃ面白いなそれ」

こういう話をあっさりと信じてくれるのが、父ちゃんのいいところなのだった。

「えーっと。で、俺はそれ聞いてどうすりゃいいん」

「だからさあ」テイゴがじっとり疑いの目線を向けてくるのを感じながら、あこは言う。

「ひいじいちゃんいるでしょ」

「ああ。なるほど」それでようやく、彼もわかったようだった。

「確かに、戦争の話、聞かされたことあるわ。っていうかあの人、小学校とかでよう講演とかしよったもんな。平和教育じゃなんじゃいうて」

「そうそうそれそれ」

「でもいま、相当ボケてしもうとるけん、どのくらい話せるかわからんぞ?」

「大丈夫っしょ。ボケても昔のことは覚えてるっていうし」

「まあ、確かに……俺はかまわんけど」

 そういった父ちゃんがちらりとテイゴを見ると、彼は「お願いします」と九十度の勢いで頭を下げた。残像が残りそうなスピードで。

「……ようできとるの、その服」父ちゃんはそう言ってぽりぽりと頭をかき、

「そしたら、まあ、あこの友達いうことにしとくかあ」

 と言って、すたすたと歩きだした。郵便局の隣にある老人ホームに向かって。

 へへん、どうだ。

 わざと恩着せがましい視線をテイゴに向けて、あこは父ちゃんの背中を追いかける。

 息を弾ませて並ぶと、父ちゃんはあこのほうを横目でちょっと見て、すこし笑った。

「そっちはどうだ?」

「べつに、普通だよ」

「そっかあ」

「あ、まだ苗字が変わったのには慣れないかな。先生に呼ばれても気付かなかったり」

「やめーやもう」

 苦笑い。

「……ところでさ」

「ん?」

「ママから連絡あった?」

 聞きたかったことを聞く。なるべくさりげない声で。

「なかったけど。なんで?」

 沈黙。とりつくろって、あこは笑う。

「べつに。行き先は言ってきたけど。もしかしたら連絡してるかなと思って」

 あ、やばい。いまのちょっと、不自然じゃなかったかな。ちょっとだけ焦るけれど、父ちゃんは「いやあ、ないじゃろ」と苦笑いして、それ以上なにかを言うこともなかった。

 一気に肩の力が抜けたような気がした。

だから自動ドアをくぐって父がテイゴを職員に紹介している間も、面会を申請する間も、あこはちょっと上の空になって、少し離れたところからそれを見ていた。覚えていた職員が手を振って話しかけてくれたけど、なんとなく愛想笑いでごまかした。

 ひいじいちゃんの面会についていく気にもなれなかったので、ひとりで待合室のソファに座る。院内は正午を過ぎた光をさえぎって薄暗く、全体的にひんやりしていた。息を吐くと、お腹がぐうと鳴る。でも、なにかを食べたいとも思わなかった。

 さっき父ちゃんに電話するために起動したスマホ。ずっと無視していた通知画面を、あこはようやく見る。通知はそんなに多くなかった。事前に家出を伝えていた仲のいい友達からのLINEが数件。ママからは、三十件ほど。

 

『なんで? 明日の旅行は?』

『ちょっと、返事してよ』

『本当意味わかんない。なにが気に入らないの?』

『ママは心配してます。返事だけでもください』

『不在着信』

『不在着信』

『不在着信』

『もう知らない』

『警察に捜索届を出します。まーくんと相談して決めました』

『不在着信』

『不在着信』

『なにが不満なの? 旅行行きたいって言ってたじゃない』

『不在着信』

 

 それ以上は見るのをやめた。

空腹なんてどこかに吹っ飛んで、かわりに吐き気がしてくる。そんなに気にしていても、父ちゃんには連絡しないのだ。捜索届だって、どうせ出していないに決まってる。

今朝方から連絡が途絶えているのを見ると、結局、「まーくん」と二人で旅行に行くことにしたのだろう。

――どうせうちが邪魔だったくせに。

さっきまで気にしていなかったのに、急に全身を覆うべたついた汗のにおいが気になった。染みついたマックのにおいが取れない。

なんだかんだで、着替えもシャワーもまだしていなかった。

もしかして、ここなら借りられたりしないかな。そんなことを思っていると。

「ふざけるな、貴様ァ!」

 野太い怒声が空気を震わせた。

 

 ※

 

 あこの父親の顔を見てから、予感はしていた。

 口調こそまったく違うが、それでもどこか、面影のある顔と声。

彼が来館者名簿に書き込んだ名前を見て、予感はいよいよ確信に変わった。

『雅山 五月(いつき)』

 雅山……。その苗字と共に、あの角ばった赤ら顔が目に浮かぶ。

 してみるとこの男性は、あの日たしかに同じ潜水艦に乗っていた、あの雅山の孫ということになる。

 つい今朝がた聞いたばかりの言葉が、胸に蘇る。

『首尾よくやれよ。……俺もすぐにゆく』

 自分の出撃前にそう言ったあいつは結局、戦争を生き延びたのだ。そして七十年後の未来だといういまも、こうして生きている。

 去来する気持ちは複雑だった。よく生き残ってくれたという喜びと、なぜおめおめと、という怒り。吐き出し方のわからない感情が、のどの奥で痰のように絡まっている。

「ヒサシじいちゃん、入るよー」

 五木がそういって、病室の開き戸をあける。付き添いの介護士が頭を下げ、廊下を去ってゆく。

 個室は小さかった。クリーム色で統一された調度品。海のほうを向いた窓のカーテン越しに、やわらかい光が降り注ぐ。

 清潔なシーツにくるまって、彼はそこにいた。

「ほら、じいちゃん、友達が面会に来てくれたで」

 小さい。そう思った。しわくちゃになった老人が、布団のなかに沈み込んでいる。その眼はどこにも焦点があっていない。

 ……雅山。

 声は、言葉にならなかった。かわりに涙があふれた。病室に入る前に感じたわだかまりが、嘘のように消え去っていった。

「ほら、体ちょっと起こそうかー」

 五木は老人の顔を正面からのぞいて笑い、ベッド横のボタンを押す。ゆっくりとベッドが起き上がり……悌吾と真正面から相対した。

 彼の目が、大きく見開かれる。

「君、君……」

「ヒサシじいちゃん、どうしたの?」

 話しかける五木の手をうるさげに払い、その眼が再度、悌吾をとらえる。

「君……なんだ、その恰好は」

 はっきりと区切られた言葉が告げるのは、明白な怒りだった。

「じいちゃん、落ち着いて」

 止めようとする五木を振り切って、その声は大きくなる。

「どういうつもりだね。それは、遊びとか、冗談で着ていい服ではない。いいか。戦時中、私の多くの仲間が、その服を着て死んでいったんだ。死ななくてもよい命が、愚かな戦争によって無駄に散らされていったのだ。そのことがわかっているのか?」

 

 

 ※

 

 いきなり怒声と悲鳴が聞こえたあとにあこが見たのは、階段を転がり落ちてくるテイゴの姿と、それを追って走ってくる父ちゃんだった。

「てめえ待てコラ! どういうつもりだ! じいちゃん殺す気か、ああ?」

 見たこともない鬼の形相と怒鳴り声に、反射的に体が硬直する。

 父ちゃんは黙って横たわるテイゴを、何度も蹴り飛ばしていた。テイゴはされるがまま、顔を真っ赤にして声も上げない。

「五木さん! やめて! 落ち着いてください!」

 介護士たちが父ちゃんを羽交い絞めにする。

 その瞬間、体が動いていた。

「テイゴ!」

 ダッシュで走り寄り、彼の手をとった。困惑する表情にかまわず、「いいから! はやく行くよ! ここでつかまっちゃっていいの?」

 そう叱咤して……裏口の非常ドアから逃げてきたのだ。

 うしろを振りかえりながら走り続け、自治会側のほうから冠天満宮の石段を上った。私有地立ち入り禁止の看板があったけれど、そんなこと言ってられなかった。

 そのまま天満宮の裏口を抜け――ふたりはいま、冠総合公園の展望台にいる。

 いつもはだいたい、地元の老人のたまり場になっているのだけれど、いまはたまたま空いていた。ちらほらいる子供連れの視線が、居心地を悪くしているのかもしれない……。それはそのまま、自分たちにも向けられるのだけど。

「……あんた……マジ……なにしてんのよ……」

 まだ肩で息をつきながら、あこは向かいに座るテイゴに非難の視線を向ける。

 ポケットの中で、スマホが鬼のように震えていた。ぜったい出たくない。

 テイゴはといえば、まるであこの言葉が聞こえていないように、遠くを見て黙り込んでいる。

「ちょっと! 聞いてんの? あんたねえ……」

 繰り返してみても焼け石に水。……その様子から、さすがになにかあったのだろうと察したけれど、かといって機嫌をとってやる気にもなれない。

 じゃあわかった、もう絶対話しかけてやんない。あこもまた、向かいのベンチに体操座りをし、視線もそらしてむっつりと黙り込んだ。

 重苦しい時間が流れる。

「あっち」

 先に沈黙を破ったのはテイゴだった。

 右手をあげ、展望台から見える光景の一点を指さす。

「……あそこのほうに、基地があったんだ。俺たちの基地が」

 あこに向けてというより、それはただ独り言のように聞こえた。

「ほら、あそこ。光井川の河口のこっち側に、整備工場と発射場があってさ。宿舎の裏側が女子寮で、たまにどの子がいいか、同期(コレス)と話したりしたよ。雅山のやつはさんざん女に入れあげてたけど……俺は最後までやらなかった。死ぬ前ならどうせならって言うけど、そういう気になれなかったんだ。インポだダマヘルだと、いろいろ言われたなあ」

「だから?」

 そう言って、三白眼をテイゴに向けたあこは、すぐにその目を丸くした。

 彼は泣いていた。

「海機あがりには学生ふぜいがって毎日殴られて、お前ら国のために死んでこい、豪華な棺桶に乗せられて。それで死ぬ日が決まって、これですべてが終わるんだと思って……」

「……なにがあったの?」

 あこが聞くと、テイゴは組んだ腕に顔を沈める。

「無駄死にだったと言われたよ。俺たちは」

 しぼりだした声と共に、彼がつかんだ両ひじの部分に、ぎゅっとしわが寄る。

「それは、でも……」

「違うんだ」

 あこの言葉を否定して、彼は首を振った。

「わかってるさ。自分が死のうが死ぬまいが、あの戦争にはもう勝てなかったことくらい。どうにもならなかったことくらい。それでも、俺は一矢報いたかった。命をかけさえすれば、あれだけ強大な敵だってびびらせることができるんだと、信じたかった」

 そうして彼は、食いしばった歯から声を絞り出す。

「死ねなかったんだ、俺は」

 

 

 ――あの日、すべてが首尾よく進んだはずだった。

 露頂観測を終え、射角の再設定もぬかりなく、信管はすべて外し――再度潜航したあとはもう、ただ激突の瞬間を待つだけでよかったはずだった。閃光と轟音が、一瞬で自分の命を刈り取るその瞬間まで。

 その三分後、異変に気付いた。

 訪れるはずの死が、いつまでもやってこない。

 観測時の距離はおよそ二〇〇〇メートル。速力三〇ノットであれば、二分とすこしで相手に着弾するはずだ。それなのに、三分を過ぎても衝突の衝撃はやってこない。

 外した。

 そんなはずはなかった。航跡の計算は得意だ。しかも相手は低速。この距離であればたとえ回避行動をとったとしても間に合わないはずだ。

 だが、迷っている暇はなかった。外した場合の手順は決まっている。再度観測。そして突入――その命が尽きるまで。

 潜望鏡をあげる。目標は千メートル後方にいた。……すばやく再計算し、首をひねる。やはり計算に間違いはなかった。本来は激突しているはずの位置だ。なぜ……。

 一瞬の困惑が、ミスを生んだ。いま自分が敵艦隊のど真ん中にいることを、悌吾は忘れていた。そしてなお悪いことに……露頂時間が長すぎた。

 炸裂音。海面を叩く音。別の艦から機銃掃射を受けたのだ。

回頭しながら、慌てて潜航する。深度八メートル。

だが、もう遅かった。

 ひときわ大きな振動ひとつを残して、発動機の唸りが止まる。

悌吾の顔から血の気が引いた。

冷走……。

 発動機の燃焼が何らかの原因で止まってしまうことを、悌吾たちはそう呼ぶ。回天は構造上、発動機の再点火は不可能だった。噴き出すガスの圧力だけでスクリューを動かすこともできるが、その場合の速度は大きく落ちる……航行する艦船には追い付けない程に。

 全身が冷えていった。

 もはや衝突の望みは絶たれた。ならば残された道は、ひとつしかない。

 震える右手が把手を離れ、右舷上部の自爆装置をつかんだ。安全装置の掛け金はすでに外していた。これを前に倒せば、電気信管が炸薬を起爆する。敵艦は近い。自爆することで敵方に情報は渡らず……また直撃せずとも損害を与えることで、潜水艦が逃げる隙を稼ぐことができる。

 意味のある死。

 その言葉が頭をぐるぐるとまわり――

 瞬間、腹に響く轟音に身を竦ませた。

自分では、ない。

潜望鏡にとりすがる。見回すと、立ち上がる巨大な水柱が見えた。おそらくは自分よりも後発の回天。だが――その周りに艦船はいない。

『死』という言葉が、脳裏をよぎった。あれがつまり、自分の末路なのだと知った。

その瞬間、悌吾を支えていたすべてが一瞬で崩れた。灼熱の空気に満たされた操縦席で、零下の水風呂にぶち込まれたような震えが止まらなくなった。

嫌だ。

厭だ。

死にたくない。

浅くなる呼吸と共に、手が痺れる。ガスのせいか、それとも気圧だろうか。ふいに回天が奈落の底に沈んでいくイメージが張り付いた。それから、迫る艦船の舳先が回天ごと自分の体を真っ二つにしてゆく様が、爆雷の閃光が五体を吹き飛ばす様が、機銃の弾丸が自らの体に無数の穴を穿つ様が、次々と克明に浮かんだ。

絶叫した。

上部ハッチにとりつく。浸水を防ぐため、これまで毎日毎日、万力の力を込めて内側から閉めたハッチを、全力で逆向きに回した。これまで積み重ねたすべてを裏切って、彼はいま自ら死地と定めたその棺桶から逃げ出そうとしていた。

やがて空いた隙間から、濁流のような海水が流れ込み――

 

瑠璃色の海が、その先で待っていた。

 

 

「俺は裏切ったんだ。守ると決めた人たちを。命を賭して自分を送り出してくれた人たちを。――なにより、自分自身を」

 海の底から響くような声で、テイゴの告白は続いていた。

「自ら死ぬと志願して、顔の形が変わるほど殴られて、出撃しては死んでゆく仲間を横目に見ながら……最後の最後で逃げ出したんだ。あいつの、雅山の言う通りだ。俺は無駄に死んだ……犬死にだったんだ」

 その言葉を最後に、あとはしゃくりあげる声だけが続いた。

 あこは、それを黙って聞いていた。

 ……これまで、彼の言葉を信じていたわけではなかった。

 確かにそれっぽいと思ったけれど、そういうオタクがいることは知っていたし、彼もその類なのだろうと思っていた。

 あこにとっては、どっちでも良かったのだ。

父ちゃんに、ひとりで会いに行くのが怖かったから――口実として彼を利用していただけだった。

でも、いまの彼に適当なことを言うべきじゃない。そのくらいは、さすがにわかる。

だけど、なんと言ってあげればよいのだろう。

もしかしたら、ただ聞くだけでいいのかもしれない。こんな重たい話、あこが扱うには難しすぎた。

だけど。

「あのさ」

 あこは言う。

「えっと。……うまく伝わるかわかんないんだけど。でも、言うね」

 その理由はきっと、テイゴと同じだった。

 その言葉を聞かせる相手は……たぶん、自分自身だ。

「逃げてもよかったんだと思う」

 そう、あこは言った。

「あんたが後悔してるその瞬間より、もっと前に。行きたくないって。死にたくないって、本当は言ってよかったんだと思う。だってそうじゃん。敵と戦うために、強くなきゃ、正しくなきゃ、そのためには命をかけるしかないっていうんなら……きっと間違ってたのは、そんな価値観を決めた誰かのほうなんだよ、きっと」

 聞いているのか、いないのか。

悌吾はただ、黙っている。

「うちの家族さ」

その顔を見ないようにして、あこは言う。

「私が中学に入るときに離婚してさ。ママはずっと不倫してたんだけど、別れてからその相手にはすぐ捨てられちゃって、でもまたすぐ新しい彼氏を作って。いい歳してまーくんとかさァ、笑っちゃうよね。どいつもこいつも糞みたいなおっさんばっか。……キモい目でこっち見ながら言うんだよ。『家族で温泉にでも行こう』ってさ」

 でもみんな言うのだ。

親族も。周りの人も。大人たちも。

ママにちょっとは優しくしてあげなよ。

家族なんだから。

親なんだから。

「知らねえよって感じだよね。自分勝手に結婚して浮気して別れてさ。尊敬できるところなんてひとっつもないのに」

 だから逃げた。

 あこは逃げた。

 それでも結局――その先で頼る相手は、父親しかいなかった。

 顔色をうかがって。

 母親との繋がりを疑って。

 そんな自分が歯がゆかった。

 十五歳の女子が、正しくひとりで生きる術を――この世の中は許してはくれないのだ。

「だからさあ、他のやつがどう言おうと、あんた自身がどう思ってようと、その時死にたくないって思ったんなら……それは正しいんだよ」

 目を落とす。

「弱くてもズルくてもバカでも臆病でも……生きていいんだよ」

 きっとあんな親も。あんな親たちでさえも。

 歯を食いしばると、涙があふれて落ちる。

「ほんとクソだよね。まじで」

「……そうだな」

 悌吾がぽつりという。

「ねえ、あんたの時代にさぁ、結婚して子供もいるのに平気で浮気するやつっていたの」

「いたさ」

「そういう奴ってどうなった?」

「さあな。男も女も、うまくやる奴はやってたし……それで泣かされるやつはいたよ」

「クソだね」

「そうだな」

「そういう奴らを問答無用で切腹させていい時代ってないの?」

 テイゴは笑った。

「ないだろ、たぶん」

 はじめて、こいつの人間らしい表情を見た気がする。

そう、あこは思った。

 

 

海が見たいとあこがいい、悌吾はそれに従った。

 つづら折りの梅並木を降りて、交差点を渡る。

「あそこの堤防からさ、あんた見つけたんだよ」

坂の途中でそう指さす先の堤防は、沈み始めた西日を受けて輝いている。

途中、小さな商店に寄り道した。「おごりね」といって渡されたその包みはひんやりと冷たかった。

「アイスか?」

「そうだよ。ほら、はよはよ。溶けちゃうから」

急かされるまま、堤防をのぼる。

「おっ、いい景色!」

そういうあこの言う通り、テトラポッドの先に広がる海にかかる夕日はどこまでも赤く、きれいだった。

 促されるまま、もらった包みを開ける。青い、棒アイスだ。刺さった持ち手の木べらを持つと、その表面に粉が吹いたような霜が降った。

「これ、食えんのか?」

「食えるに決まってんでしょ。ソーダ味よソーダ味。うちが一番好きなやつ」

そう答えるあこは、はやくもそのアイスをかじっている。中にはかき氷が詰まっているようだ。もう一度、悌吾はアイスを見る。

ソーダと、アイスか。

そう呟く。どちらも、あの潜水から死出の旅へ向かうときに食べたものだ。

意外に固いその表面を噛みくだくと、なるほどソーダのさわやかさがひんやりと冷たい流れを作って喉におりてゆく。

それからおたがいの昔話をした。

あこは子どものころ、よく里帰りに来たこと。はるか先に峨眉山に何度も昇ったこと。悌吾は右手の大水無瀬島にも基地があったことや、地元の海に似ているここの海が好きだったことなどを話した。いい思い出だけを話した。生きていて幸せだったという思い出だけを。

「そういやさ」

とあこが話した内容に、悌吾は驚いた。

昭和天皇が崩御し――その後を継いだ今上天皇が、もうすぐ退位になさるというのだ。それも生前に。悌吾からすればそれは、信じられない話だった。

「確かにねー。なんか法律も変わって、すげー大変だったらしいよ」

 そうあっけらかんというあこに、きっと望む答えはかえって来ないだろうと思いつつ、悌吾は聞かずにいられなかった。

 なぜ? と。

 なぜいまの陛下は、いろんなルールを捻じ曲げてまで、退位なさるのかと。

 しばらく考えたあと……あこは言う。

「飽きたんじゃない?」

「は?」

「だって嫌でしょ。生まれたときからずっと天皇で、しかもやめられないなんてさ」

 悌吾はしばらく硬直したままその話を聞き……そして爆笑した。

「なに? なんかそんな変なこといった? むかつくんだけど」

「いや、違うんだ、違う……」

 そう言いながら悌吾は、久しぶりに心の底から笑った。

 嫌だから、辞める。

 そんな簡単なことが、誰でもできる時代――

 そうあればいいと思った。

 そうであってほしいと思った。

まだ笑いの余韻を引きずりながら、悌吾は溶け始めたアイスをもう一口かじる。

ああ、それにしても――

「うめぇなア、これ」

「でしょ? だから言ったじゃん?」

得意げに言いながら、あこが振り向く。

もう、誰もいなかった。

 あこの右隣三〇センチ先で、食べかけのアイスが、黒い染みを作っている。

 

 ※

 

 あの日眺めた海から回天が発見されたのは、その四日後のことだった。

 その表面はびっしりとフジツボと海藻に覆われていて、発見したヨットクラブの人たちは最初、それが大きめの流木かなにかだと思ったらしい。練習の邪魔だからどかそうとモーターボートで近寄ってはじめて、それがどうやら大きな金属製の人工物であることに気付いたのだった。

 不発弾だということで、引き上げられたあとに実況見分と処理が行われた。付近は閉鎖されたが、物珍しさからか珍しく大勢の人が野次馬におしよせたという。

回天のハッチは開いており、そのなかは、がらんどうだったそうだ。

あこはそのニュースを、父親からのLINEで知った。わざわざ送り付けてきたのだ。

『テレビも来てる。すごいぜ』

『へー』

『反応うすくない?』

 ため息をついて、あこは適当にスタンプを送る。

 二〇一九年五月一日。

 きょうから新しい元号がはじまるのだと、スマホのニュース通知は伝えていた。

 

 

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