金の網にかかった魚

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梗 概

金の網にかかった魚

離婚したての時任清佳ときとうさやか金漁島すなどりじまのホテルに来た。知り合いのいないところで働くためだ。
 金漁島は本州近縁にあるが、渡る橋は無い。金漁海藻スナドリグサの回遊遡上を守るためである。
 ホテルには島の海洋生物採集基地で働く“お客さん”が出入りしている。人間とは少し違う者たちで、鏡に映らない。そうして自分たちを「物質的に不安定な存在」と言う。
“お客さん”が通信に使う宣魚ノタウオの音が聞こえた清佳はホテルオーナーの娘である久美子に好かれる。

久美子の母は家出しているというが、久美子は“お客さん”の世界に行ったのだと思っていたが、父親は“お客さん”の不思議を無視し、娘を嘘つき扱いしている。
清佳は海岸で魚の声を聞く。宣魚ノタウオは、波打ち際で“お客さん”の言葉を伝えた。海中でスナドリグサが絡みつき、帰れないという。久美子くみこは魚の言葉を聞けないけれど清佳を信じて一緒にボートを出し、“お客さん”を助けようとする。“お客さん”の仲間を呼ぶことを頼まれ、清佳は「壁抜けできるチョーク」を貰う。不安定な音がする場所をチョークで塗ると物質の隙間が活性化するのだと言われた。

久美子の父は勝手に船を操ったことに怒り、久美子をボート小屋に閉じ込める。清佳は久美子を助け、壁抜けしてホテル裏の堤防の陰に逃げる。堤防から不安定な音がすると清佳が言うと久美子はチョークを塗ろうとする。清佳が止めて堤防の壁は抜けなかった。
 ホテルの使われていない部屋に久美子と隠れるが、そこは床一面に豆殻が散らばって、カブトムシの匂いがする。久美子の父に見つかる。ドアを塞いでガラス窓を割り椅子を落とす偽装をして隣室に壁抜けしようとするが、窓際にはミイラ化した死体があり、そこにチョークを落としてしまう。

 バスルームに閉じこもり、父親が窓を飛び降りようとした瞬間、決壊した堤防から鉄砲水が襲い、父は転落する。二人は天井の通気口を自力でこじ開けて逃げ、“お客さん”の潜水艦に乗せてもらい、スナドリグサに絡まれる仲間を助けた。

復旧工事と捜査で島が騒がしくなり、“お客さん”は別の生物採集基地へ行ってしまう。

清佳はまた職探しをすることになったが、“お客さん”に人間との仲介役として雇われることを提案され、久美子と一緒なら、と答える。

文字数:963

内容に関するアピール

架空の生物に囲まれた離島という小さな世界に、幼い者の小さな世界を重ねます。

 

・舞台となる島は、金漁海藻スナドリグサのために周囲から隔絶しています。スナドリグサは海中の金イオンを凝集して日本海を回遊し、島の河口から遡上する羽毛型鞭毛生物。島は海中の金イオンを凝集するスナドリグサが作り上げた金鉱床で栄えたけれど、金を採掘したので地盤沈下が進み、堤防が必要です。スナドリグサは海中で輝く広大な網に見えるよう描写します。

宣魚ノタウオは「のたりうお」が「のたうお」に音韻変化した名前。イルカのように頭頂に脂肪メロンを溜めて超音波を出すので“お客さん”が通信に使います。犬笛と同じ30000Hz程度だと、まれに聞き取れる子供がいます。叩かれたり騒音を聞くなどすると可聴域は狭くなるので、清佳の子供っぽさと久美子の育成環境を示すものとします。

・海のスナドリグサの景色と対比して、ホテルの死骸がある部屋は恐怖に満ちた場所にします。床一面の豆殻と思った物は蛆虫の抜け殻、カブトムシの匂いは古い腐肉の匂いです。

・“お客さん”は子供たちにとって何でもできる存在に見え、親切なのにほとんど何もしてくれません。ただ子供たちの不幸を傍観して去っていこうとします。困難を抱えている子供にとって、大人はそのようなものでしかない場合が多い。

何もしてくれないか無理難題を押し付ける大人に囲まれた「小さな世界」から、大人になれない者と子供が恐怖と戦って脱出し、自分たちを解放する話を作りたいと考えました。

文字数:640

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金の網にかかった魚

私が金漁島すなどりじまに住んだのは五歳から数年間だ。父は駐在所勤務の巡査長で、母は島の郵便局員だった。家が島の交番であるという点でも、両親とも島の人間では無いという点でも、変な家だった。

島には、子供だけで行ってはいけないと、あらゆる大人たちが言う場所が二つあった。

浜と廃鉱だ。

もっとも浜には毎日行った。小学校も、そこに併設された幼稚園も港に近かったから、私は園に通うようになると、同級生の姉やたまには兄たちと砂浜や堤防や河口でさんざん遊び回った。今考えれば海岸で無謀なことを随分やった。大人に逆らったというより、当時の私にとってランドセルを背負っているのはもう立派なお姉さんお兄さんで、自分と同じ子どもだとは思っていなかったのだ。小学生でも高学年の人たちはゲーム機と遊ぶのが忙しくなるようで、就学前の者たちとは遊んでくれなかった。だから私たちは十歳にも満たない、幼い集団だった。けれど自分よりずっと大きい人が一緒なのだから、子供たちだけではないというような妙な認識をしていた。

今の私があの頃の自分を見たら、どれほど危険に感じるだろう。あの頃の自分は何もできなくて何も知らなくて、いろんなことが怖かった。だからこそ何が本当に危険かもわからず、冒険ばかりしていた。

廃鉱の方は大人だけでなく上級生からも止められる場所だったから、一度しか行ったことは無い。島にいた最後の年だ。

「あそこはしゃれにならない。ヤバイから行くなよ」

きっかけは何だったろう。よそから来た私に言っておかなければ、という感じで脅された。

「入ったらでれねーから」

 そう言われて怖くなり、私は絶対行きたくなかったけれど、同い年の久美子は違った。

「明日、清佳さやかの家に行くよ?」

それは行っていいですか、という意味らしかった。今思い出すと久美子は横暴なくらいに、威張った物言いをする子だった。

 私は困った。

私の家は駐在所だ。誰が来てもいいところなのだ。島にきたばかりの頃、顔に痣を作った女の人を泊めたこともある。一晩中泣いていた女の人は、次の朝いなくなっていて、その後どうなったか尋ねても父も母も答えてくれなかった。私は幼稚園に入りたてで(本当は黙っているべきなのだろうけど)先生にその話をしたら、「それは“お客さん”が来たのねえ」とだけ言われた。

「先生、お客さんじゃないよ。きっと、ヒガイシャだよ。泣いてたもん」

 痣の意味はわからなかったけれどそう思った。

「島はねえ、みんな顔見知りでしょう。なのにね、昔から、知らない人が来ることがあるの。ちょっと不思議な感じの人なのね。“お客さん”とか“まろうど”って言うの。さやかちゃんは引っ越して来たとこだから、“お客さん”が会いに来たんじゃないかな」

 先生はそんなことを本気で信じていたのかどうかわからない。私を怖がらせないように子供騙ししていたのかも知れない。けれどその後も事あるごとに“お客さん”という言葉は聞いた。知り合いが訪ねて来た場合のお客さんとは言葉の感じが違った。

 とにかく“お客さん”だろうが被害者だろうが私の家に来るのは構わなかったが、家に友達を連れて来るのはダメだったのだ。母が私に注意することといえば決まってそれだった。

「お父さんのご迷惑になるから」それが母の口癖だった。「よその子を家に上げてはいけないの」そう言われた。多分、私が浜で遊びまわっても叱られなかったのはそのためだ。

 私の家は他の子の家と違って、変だった。島では欲しい物がすぐ手に入らない時代が長かったからか、どの家もごちゃごちゃと小間物だらけなのに、私の家の中には物がほとんどなかった。数年ごとに引っ越す人生だから、両親はできる限り物を持たなかったし、私は物を持たせてもらえなかった。そして他所よそになくて家にあるものが一つ。父の拳銃とホルスターだった。

いつも居間の鴨居に父の制帽とホルスターが掛かっていて、ホルスターには本物の銃が収められている。

しかもそれは装填されていた。

変だからこそ、私は母の口癖は当然だと思っていた。例えば久美子を家に上げたら十中八九、銃に触ろうとするだろう。自分はそれを止めることができると思えなかった。

「うちね、家の中に友達を入れちゃいけないの」

 怒るかなと思った。

「あ、警察だから? そっかー」

 しかし久美子は一人で納得していた。

「おうちには入らないよ。でもさ、迎えに行くから、」そこで声を低めて「あした廃坑に行こう」ささやいた。

「やだ。こわい」

 私は即座に返した。本当に怖かった。〈入ったら出れない〉そんな場所に行きたくなかった。

「行くだけだよ。神社の裏だから」

 人気ひとけのない神社に子供二人きりで行く? 嫌だ。

「なんで行きたいの?」

「なんでも。だってあいつらが行くなっていうなら行かなきゃ」

 久美子は年上の男の子達から毛嫌いされていた。久美子は島に一軒のホテルの娘で、島の命綱である汽船会社の偉い人の娘だった。それだから嫌われたのだろうし、それだから仲間はずれにされなかったようにも思う。久美子がいない時に、年上の人たちがが話していたことがある。

―― 久美ちゃんのおかあさん、死んだって。

―― ずっと前からいないじゃん。

―― いなくなって一年経ったから、死んだってさいばんしょが決めたんだってよ。

 失踪者は死亡宣告まで七年かかるが、海難事故と類推される行方不明者は一年で特別死亡宣告となる。

 当時の私には真偽が全くわからない話で、それに久美子は私に「お母さんは海外旅行中」と言っていた。私は豪華客船のクルーズをテレビで見て、久美ちゃんのお母さんはああいうのが好きな人なんだと思った。お金持ちはいろんなことが違うのだろう。

 久美子が男の子達に対して天邪鬼になることだけは理解していたから、

「あのね」私は提案した。

「暗いとこには絶対行かないよ。洞窟とかあっても絶対近づかないからね」

「いいよ。行くだけね。坑道の入口見るだけにしよ」そうして続けた。「懐中電灯持って行くね」

やっぱり行こうとしてる。

 そんな久美子をなぜか私は好きだった。横暴でも好きだった。軽率でも友達だった。でも友達だからこそ、信用はしていなかった。

(久美ちゃんが洞窟に入っちゃったらどうしよう)

私は久美子の事情を理解していないのに、久美子を知っていた。

「あのね」もう一つ提案した。

「私が久美ちゃんちに迎えに行くの、どう?」

 久美子は目をぱちぱちさせた。それから下を向いて、「そう言って、」とつぶやいた。「そう言って、来る子、いないもん」

 ちいさい子が、「あした遊びに行くね」と言ってすっぽかすのはよくある事だと思う。守れもしない約束をたくさんしあう。そして心に余裕がある子は約束を破られても簡単に許す。

 約束を破られたから傷つくのではない。傷ついている子は人を許せないのだと思う。傷は忘れるべきことを忘れさせない。

 その時、私は久美子の気持ちに気づかず、

「行くよぉ、久美ちゃんち。行ってみたいもん」

 本当は自分の家に来られては困る気持ちで言ったのだ。

「うち、来たいの?」そう言う久美子の気持ちなんか考えていなかった

「うん」私は頷いた。

そして、もし久美子の家で長い時間遊べば、廃坑に行かないで済むとも思っていた。わたしの「うん」は、久美子をごまかすためのあいづちだった。

「うん」久美子も頷いた。

 そこには、はにかむ気持ちと私への信頼があった。私にはそれがわかった。

 久美子は横暴だった。久美子は軽率だった。そして私は、信頼してくれる人をわかっているつもりで、その気持ちを思いやることがなかった。

もう少し年を重ねていたら自分の卑怯さにうんざりしただろう。

 

 

金漁島は昔、金鉱で栄えた歴史を持つ。

島は海の底から金を集める生物が堆積してできあがったのだと聞いたことがある。それから昔話も聞かされた。山と海の神様たちのお使いを助けた子供が網を貰い、それを海に投げるたびに金が入ったのだという話だ。漁師がそれをうらやんで子供を騙して網を取り上げたが、網は海に逃げてしまったのだと語られた。

私は説話などよりも、海から金を集めて泳ぐ生き物がいる方がずっと良いなと思った。そのほうがずっと素敵だ。図書室の子供向け生物図鑑にそんな生物は載っていなかったけれど、原虫か棘皮動物なのだろうかと想像した。絶滅したのかもしれないなと。

言い伝えからなのか、私たちが遊んだ河口には鳥居が立てられていた。

島に流れる川は幾筋も海に流れ込んでいたのに、鳥居はひとつだけで、私たちはそこで遊んだ。水が海に流れ込むあたりに鳥居は据えてあり、足元は石造りで途中から朱塗りの木。それをてっぺんまで登るのが子供たちの日常だった。

島を出てから思い出話をしたら罰当たりだと言われて逆に驚いたものだ。島の大人たちは私たちが浜にいるのは見とがめて危ないと注意したけれど、鳥居によじ登るのを叱られたことなど無かった。

むしろ年寄りたちは笑顔になった。笑いじわを浮かべてわざわざ鳥居の足元まで来て、

うお様の声は聞こえたかい」

 そんな風に訊かれた。年上の子達は決まり文句で応じた。

宣魚のたうおさんはおらんよ」

 それから時にはこう言った。

「オケラの声しか聞こえない」それも決まり文句だった。

惣菜にするアオサをザルに入れたどこかのおばあちゃんが、

こまい時分はオケラの声も聞こえたねえ」そう続けたのを覚えている。

それで、私は質問したのだ。

「体が大きくなると、オケラの声は聞こえないの?」

あんなに大きな音が聞こえないなんて変だと思った。

暑い季節には、絶えず地中から虫の鳴き声が湧いていたものだ。樹上のセミの声とは全く違う甲高い音で、ミミズが鳴いているとかオケラの声だとか子供たちは言い合っていた。久美子は天邪鬼だから、「全部セミの声に決まってる。地面の中じゃ、土がふさいで音なんかしないよ」そんなふうに言った。「うるさすぎて音が出てる場所がわからないんだよみんな」確かにうるさかった。

おばあちゃんは私に答えてくれた。

「大人は聞こえんのよ。こまい子どもでも海で泳ぐと聞こえなくなるよ」

 けれどそう諭す人の姿は手ぬぐいと麦わら帽子を頭にかぶり、くたびれた衣服で、いかにも昔の人に見えた。

「しかと魚様うおさまの声が聞こえるように、海で泳ぎなさんなよ」

 それはいかにも迷信を言っているようだった。私は(子どもが海に入らないように脅かしているんだ)そう思った。あんなに大きな音が聞こえない人なんているだろうか。

「あれ、どこのばあちゃん?」

「知らない。あんなにボロ来て、“お客さん”じゃないの?」

 また“お客さん”だ。

「久美ちゃん、魚様うおさまの声って、聞いたことある?」

 そう聞いたのはあの時だったろうか、それとも別の日だったのか。

「うん。あるよ」

久美子は眉を持ち上げて、大仰おおぎょううなずいた。普段と違う顔つきだったと鮮明に覚えている。

 けれど島で一番仲良しだった久美子と、どこでその話しをしたのかはっきりしない。

「どんなこと言うの。オウムみたい?」

 赤い鳥居のてっぺんに二人並んで座っていた気がするのだ。

「忘れた。今は宣魚のたうおなんかいないし」

 二人が腰を下ろす鳥居の横木に張り付いていた小さな巻き貝を、久美子が剥がして下の水に落とした記憶がある。鳥居には石造りの下の方にシュウリ貝がびっしり張り付いて、その上にぽつりぽつりとタマキビ貝が張り付いていた。タマキビ貝は水が嫌いな貝で、小指の爪より小さいのに満潮より高い場所に登ってしまうのだ。堤防の上に乾ききった貝殻がたくさん転がっていた。

下に流れる水はちょうど鳥居の真下でくっきりと色が変わっている。ぼんやり黄土色がかった川の水が、紫がかった海水に入り込んで二色は混ざり合い、砂浜をえぐって波打ち際に至る。

 そんなことまで覚えているのに、

「宣魚はスナドリグサと一緒に来るから」

 つながる久美子の言葉はあやふやだ。

「もう何言ってたか忘れた」

島を出てから何度も夢に見たから、夢に記憶が歪められてしまったのかもしれない。

 

 ホテルの玄関が近づいて、ためらった理由は三つあった。お金を払うお客様(それこそ本当のお客だ)じゃないのに玄関から入っていいものか。それから、自動扉と隣の回転扉が見え出すと、どちらにすればいいのか迷った。

そして何より困惑したのは、ホテルに近づくとうるさかったのだ。進級したばかりの季節で、まだセミもオケラも鳴くのはずっと先なのに、得体が知れないほどうるさかった。音量は無いが音程がうるさかった。

(普通の家と違う機械の音かな)そう思った。とすれば、きっと回転扉の音だ。何かすごい機械が仕組まれているのだろうか。(苦情が来るんじゃないかな、この音)

 久美子との約束を破るつもりはなかったから、頑張って回転扉に入った。一回転。くるくるして、うるさい音は絶えず、けれど回転扉は機械仕掛けではないと思われた。違うところからの音らしい。そしてどう出るのか縄跳びよりわからなくなった。

(なわとびなら考えずに体が動くのに)

ひと回り目は出られそうだったのに、ふた回りしたら出られなくなった。前を見ていたら出るチャンスを逃して、体が合わせられなかった。自分の足元だけを見てもう一回転。やっと抜けたら、久美子が目の前にいた。

「いらっしゃい。こっちきて」

 久美子より、中に入ったらいきなり音がしなくなったことに驚いた。なんだったんだろう。

久美子はホテルの中を案内してくれたけれど、もうあの音はしなかった。館内中歩き回って、宿泊客の迷惑だったのではとも思うが誰からも追い払われることはなく、売店で駄菓子を買って、行儀悪く食べ歩いた。上がったり降りたり。エレベーターが家にあるっていいなと思った。ロビーの大型テレビを見たいと言うと、久美子は先に厨房に私を連れて行った。調理場の作業をしている人たちが、こっそりジュースをくれた。何人か、みんなおじいさんとおばあさんだ。

「じゃあね、テレビのとこ、行こう」久美子はさっさと歩き出した。

「久美ちゃんに仲良しができて良かった」

続こうとした私はそう言われて足を止めた。

「久美ちゃんは強情だけど、根はいい子だからね」

 そんなことを言われても当時の私には返事のしようがなかった。

(“はい”でも“いいえ”でも変だ)

 久美子はそれから、ためらう私に、一人のおじいさんが、

「あなたも玄関の音が聞こえませんか」静かにそう聞いた。

妙に丁寧な言葉遣いだった。その時なんだかいあわせた老人たちが全員、私を見ていると気づいた。

「キーンて、うるさい音ですか?」丁寧に聞かれたので丁寧に答えた。

「ああ。聞こえるんだね」途端に不自然なほど、全員がにこやかに笑った。

(あ、鳥居に来る人たち)

 鳥居に登っているとわざわざ立ち寄って「うお様の声は聞こえたかい」と聞く老人たちの顔だ。

「そんなら久美ちゃんとどこに行っても平気だよ」

「どこにでも行けるね」

 そんな言葉にやはり返事はできなくて、私は曖昧な顔で、

「ジュースごちそうさまです」

ロビーに戻った。

 妙な人たちばかりだった。けれど久美子は親よりも従業員たちに手をかけられて育っているのは知っていたから、久美子が大切にされているのだと思った。ご飯も洗濯も学校の準備も、久美子の世話をしてくれる人は家族では無いと久美子から聞いていた。

(うちとは違うけど、うちも相当変なわけだし。久美ちゃん可愛がられてるなら良いんだよね)

 生活環境より建物が気になった。他に釣り客を泊める民宿はあったけれど、校舎のような建物のホテルは一軒だけで、それが家なんて変だと思った。

(私たちは変な家に住んでいる同士だから仲が良いのかも)

 子供は〈普通フツー 〉ということにひどくこだわる。普通を知らないから自分の狭い狭い体験を普通だと決めつけて安心したり排除したりする。

 私は自分の家庭環境が普通では無いのだと思っていたから、むしろ普通ではないものに安心した。久美子が自分より普通ではないと思ってそれに安心していたのだから、やっぱり卑怯だった。

 

 久美子は革張りのソファーに座って、コントローラーを何やらいじった。久美子の座るソファーの先には大型テレビ。

「これ、見るといいよ」

いきなり途中からの音楽が響いて、画面に鳥居が映った。旅番組の録画らしい。

鳥居から川をさかのぼって、[磯崎いそざき神社]のテロップと、やしろが映った。

レポーターが、「この島では幼い子どもたちは神の声を聞けるという信仰があるんですね」そんなことを言っている。

「神社の御神体はナポレオンフィッシュですよね、どう見ても。日本海にいたんですかね」

「ああ、多分これはイルカだとね、そうじゃないかと言われています。頭に瘤があるでしょう。これはメロンといって、ここで音波を反響させて仲間と話すんですわね」

応じているのは久美子の父親だ。学校行事で見たことがある。人に向かって話をするのに慣れている様子だが訛りが強い。

いかにも人に命令しなれている人の声だ。校長先生や、父の上役の声。

「そうですか。昔はイルカと島の子供たちが話していたのかなあ。きっと仲良く一緒に泳いだりしたんでしょうね」

 そこでぷつ、とテレビは切られた。

 私はテレビから久美子に顔を移した。

「ね。」久美子は言った。

「怖いとこじゃないでしょ」

 私は裏側は違うんじゃないかな、と思って、でも、

「うん。」そう言ってしまった。テレビに映るものは殺人事件だろうと怖く思えない。現実と違うお話の世界。テレビに映された現実は暗がりだろうと闇の無い、電気信号と光に変換された世界だ。機械仕掛けの箱に収まる世界。そこに怖いものは無いと思えた。

 玄関を出るとき、今度は自動ドアを使ったけれどやはりものすごい音がして、なのに懐中電灯を持った久美子は平気な顔で私に何か言い、私はその声が聞こえなかった。

 無言で並び歩き、玄関から離れてロータリーに出るまで私は何も話せず、

「ね、久美ちゃん、さっき何言ってたか聞こえなかった」

うるさい耳鳴りが消えてやっと口にすると、久美子は、

「なんで?」

 そう言った。

島を出て、随分後になってから、音波を捉える有毛細胞はわずかな刺激で破壊されて可聴域は狭まると本で読んだ。耳に水が入ったり強く擦ったりしても外耳の有毛細胞は損傷して高周波音から聞こえなくなるという。

可聴域には個人差がある。生来の個人差に加えて外耳に強い刺激を与えられても可聴域は狭まる。耳のはたを殴られても、だ。

 幼い頃は、自分ができることは無限に増えていくのだと、今できないことも望めばできるようになると思っていた。自分という存在はまるごと手付かずのままで、世界はいつも思いがけない贈り物をくれた。

 出来ないことが増えていくなんて考えもしなかったし、自分ができることが隣を歩いている友達にできないなんて、思いもよらなかった。

 

 

 磯崎いそざき神社は川をしばらく遡る。

 流れは細くなって、せせらぎが迂回するところに社がある。

 廃坑はほとんど埋められているけれど、神社の後ろだけは神様の通路かよいじで残してあると久美子は言った。

 さっきテレビで見たより木々がむさくるしく生い茂っている。けれど同じ建物だ。

 正面の上の方に掲げられた扁額は、魚の形を浮き彫りにしている。確かにナポレオンフィッシュのよう。のたまさかな、のたうおだ。

 がらがら、と鈴を鳴らして、久美子はお賽銭箱に五円玉を二枚入れた。

「あたしの分も?」

「うん」

「明日返すね」

「いいよ。あたしのお金じゃないもん」

「お小遣いでしょ?」

「違う」どういうお金なんだろう。

「ええと、でもさ。おまわりさんの子がお金借りっぱなしはいけないから、返すよ」

 親に知られたら絶対返すように言われるのだ。両親は五円くらいいいかという人たちではなかった。

「清佳はさ、」久美子は時々私を呼び捨てた。「親に何でも言うんだろうね」

「そうかな」

むしろ親に言ったら面倒なことは何も言わなかった。妙なところだけこだわる親たちに、私はあまり自分の経験を語らなかったように思う。

「うちの親さ、」久美子は家族のことを話さなかった。おじいちゃんおばあちゃんのことばかり話すんだと思っていたら、随分経ってから、それは従業員のことだとわかったりした。「ひどいんだよ。殴るの」

「え」

「殴るから、お財布からお金とってくるんだよ。気づかないくらい」

 私はどきどきした。

「本当?」

「ウソでしたー」久美子は調子をつけて言った。

 私は大息をついた。「おどろいたー」作り笑顔で応じるようとして、私は失敗した。

 それから会話は続かなくなった。久美子は本当のことを言ったのだと思ったから。

「あのさ、男の子らって、ひどいじゃん。先生に反抗して」

 私たちは賽銭箱の前の大きな踏み石を二人踏んでいたから、体はいつもより近かった。

「あれも、悪いことしたら怒られるんじゃなくて、怒られるから悪いことをするんだよ」

 久美子は男の子達を毛嫌いしているんだとばかり思っていた。

 私はどう答えればいいんだろう。

 私は逃げ場がないと思った。そして久美子は続けた。

「ねえ、坑道見ようか」

懐中電灯を光らせた。

 逃げ場はなかった。

 私は久美子の空いた手を握った。

幼稚園の時にはいつも握っていて、小学校に入ると年を追って触れなくなる手。互いに握って、それは嬉しい感触ではないのに握って、社の裏に、小暗おぐらい場所に足を進めた。

 

 

それからのことを、私は覚えていないのだと思う。覚えている気がするのは全部夢だと思える。

坑道は階段だった。

湿ってシダが生えた入口を入って、降りる。なぜか下のほうがぼんやり明るい。ぬるぬるするから繋いだ手は離した。

「階段降りたら帰ろ」なんて自分は馬鹿なんだろうと思っていた。

「うん」久美子も心細そうだ。

「久美ちゃん、」でも階段を降りる。

「うん」答えながら降りる。

「怖くないの」言うのも怖かった。

「言うともっと怖くなるでしょ」その通りだった

「怖くないって言ったのに」久美子のせいにしたかった。

「あたしわぁ」久美子は何段も降りた。

下の方の明かりは、懐中電灯を反射する水だとわかった。久美子が大きく動いたから広い部分が見えた。

「なあに」全部久美子のせいにしたかったのだ。黒い水が怖かった。

「あたしは嘘つきなの ! 」

 久美子は叫んだ。久美子は全部自分のせいだと言うように叫んだ。

 私は涙が出た。暗くて見えなければいいなと思いながら、

「違うよ」違わない。嘘つきだ。お母さんもきっと、もう亡くなってるんだ。

「久美ちゃんの言うこと、嘘じゃないもん」

 私も嘘つきなんだろうか。怖くて耳鳴りが始まった。

「オイデ。コッチオイデ」そう聞こえた。下の方から。

「聞こえた?」オイデ、オリテオイデ。私の尋ねる声は震えていた。

 それなのに、

「うん。ありがとう」

 久美子の声は穏やかで、感謝の声。

「え、」何?

「嘘つきじゃないって」

 聞こえてないんだ。この高い音が。

「でも、ノタウオの声は、聞いたことないよね」

 私の声は震えていた。オイデ、ココニオイデ。言葉は続いている。

もう帰ろう。

なのに、

「やっぱりい ! 」久美子は叫んだ。「嘘つきと思ってる !」

 久美子の剣幕に私はのけぞって腰を落として、ずるずるっと、滑り落ちた。

 回転扉も抜けられない私は自分の体をどうやって動かしていいかわからず、滑り落ちた。

 水に落ちて、それから浮かんで、

「やあ、来たね」水の中で聞く魚の声は穏やかだった。

「ずっと鳥居の下から見てたよ」「あそこが人間の観測地点なんだ」

 それからノタウオは私にいろんなことを話してくれた。

 自分が困っていること、将来苦労しそうなこと、何もこちらから言わないのに、全部解決方法を話してくれた。何にでも上手なやり方があって、そうすればうまくいくのだ。

清佳、清佳、なんだか邪魔な声がする。清佳、今お父さん呼んでくるね。

久美子のことも、解決してくれると言った。久美子のお母さんが豪華客船から帰ってくる世界。お父さんが殴ったりせず、“お客さん”みたいに久美子を大切にしてくれる世界に変えられる。金の網にかかれば、すべて望む世界へ引き上げてもらえる。金の網に望めば、痛い思いもすることない、悲しいことも無い世界へ。

望む世界へ。

 私はそれに安心する。どこまでも嫌なことから逃げられる世界。そんなとこに行きたい。それはどんな嘘も本当になる世界。

 嘘の世界。

 いっちゃだめ、いっちゃだめ、さやか、私もう嘘つかないから。

「あ」嘘は嫌だ。嘘の世界はいや。

 そう思った瞬間、私は目を覚ました。神社の裏で、水から引き上げられた私は、水を吐いた。胸も喉も目も鼻も痛かった。

 痛さでわけがわからなくなる耳に、

「それでいいよ。大丈夫、どっちの世界でも、みんなやり直せる」そう魚の声を聞いた気がする。「そっちだって、痛いのはいつまでも続かないしね」

 水の世界から私の世界に戻ったのだ。

 久美子が私を助けに走っているあいだ、私はぷかぷか浮いてたらしい。お父さんが人口呼吸してくれて、痛くて痛くてまた気を失いそうな私は、自分の手足にびっしり金色の網が付いているのを見た。

 投光器の明かりが皮膚にはりついた藻をそう見せたのだ。

 でも、私は金の網をもらったと思う。

 世界は網にかかって、引き上げられたに違いない。

 私が坑道のたまり水に落ちたのは事件で、助かったのは運がいいことだったのだから、ニュースとして報道された。それで久美子の世界はひっくりかえった。

 死んだはずの久美子のお母さんが生きていた。でも豪華客船に乗っていたわけではない。

お母さんは島に帰ってきて、久美子をどうしても引き取ると言って、大騒ぎになった。DV訴訟でお父さんは完全に負けた。従業員一同久美子の味方だったから。

私は久美子と別れることになったし、お父さんは翌年転勤で島を出た。

 

私は今でも魚の声が聞こえるといいなと思う。

自分が自分の望んだ世界にいるのだと思えたらどんなにいいだろう。

どんなに痛くても続かないしどんなにつらくてもやり直せる。それは確かなのに、それが信じられなくなる。

金の網を思い出す。

もう破れて私をすくってはくれないのかも知れない。

でも金の網は私を包んでいる。

 

文字数:10665

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