17と13

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梗 概

17と13

 ぼくは眠る。眠る。眠る。
 温かい土に包まれ、ぼくは眠り続ける。
 まどろみのなかで夢を見る。夢が現実で、現実が夢か。ぼくにとっては、それほど大きな違いではない。
 ぼくが夢見るのは、もちろん生まれた頃からの幼馴染で、土に入る前日に告白をしたサキのこと。もう100年が経とうとするけれど、まだその返事を聞けていない。
 なぜならぼくは17年ゼミになり、彼女は13年ゼミになってしまったから。いつまでも、ぼくらはすれ違い続けている。

 ぼくがセミになったのは、終局的核戦争が起こったせいだ。
 地上は高放射線で満ち、人類が生活できる環境ではなくなってしまった。核の火を生き延びた人類が考えた方法が、放射線に耐えうる生物へと自己改造して環境に適応するということ。絶滅を避けるため、自己改造のモデルはいくつかのパターンに分けられた。深海生物、植物、そして地中深くで一生の大半を過ごすセミだったりと。
 どのモデルを選択するか、当時まだ未成年だったぼくに選択権はなく。
 ぼくの親が選んだのは17年ゼミで、サキの親が選んだのは13年ゼミだった。

 また17年が経ち、ぼくはまどろみから覚める。地上に出ても、本物のセミとは違って羽化して死んでしまうことはない。ぼくらが行うのは遺伝子の交換ではなく、ちょっとした情報の交換だけ。
 一緒にセミになった家族とか、近所のおじさんだとかと他愛のない世間話をする。
「最近どうだ。寝付きは悪くないか」
「べつに変わらないよ、いつものとおりさ」
 長く高放射線地帯にいるわけにはいかないので、1時間も経つと地下へと戻り夢の中へ落ちる。

 地下にいるぼくは、ずっと孤独なわけでもない。半覚醒常態になったときは友だちと喋ることもできる。
 友だちというのは、大樹となって地下へと根を張っている腐れ縁のタケシだ。動くことはできないけど、モールス信号のように根から排出する水分を出したり止めたりして、情報を伝えることができる。ぼくも地中で身体を震わせ振動をタケシへと返す。
「いよいよだな」タケシが言う。
 次の周期は221年目。13年ゼミとなったサキと、地上に出る周期が一致する年だ。
「期待し過ぎるなよ。他のセミとくっついてるかもしれないし」
 それでも、ぼくは彼女の返事を聞きたかった。

 そして、その日が来た。
 ぼくは、どきどきを抑えて地上へと登っていく。だが、そこには13年ゼミたちの姿はなかった。
 周期がずれたんだ、とぼくは気づく。
 本物の周期ゼミも、地球の温暖化により地上に出る周期がずれたことがあった。戦争の影響で地上の気候は安定せず、ぼくたちの周期は正確性を失ってしまったのだ。
 地下へ戻ったぼくをタケシはなぐさめてくれるが、
「ほっといてくれよ」と拒絶した。
 17年ゼミとなったぼくたちも、永遠の命を手に入れたわけじゃない。ぼくらの寿命はだいたい400年らしいから、次のチャンスは無いかもしれない。
「仕方ないやつだな」タケシは言う。

 17年、17年、17年そして17年。
 周期はめぐるが、サキと出会うことはなかった。いつしか近所おじさんが地上に出てこなくなり、父がいなくなり、母も消えてしまった。
 セミの寿命が、順番にやってきたのだ。
 
 何回めか分からなくなったけど、またぼくは目覚めた。身体はもう限界が近く、土を掘る短い前肢もギシギシときしむ。
 地上へと顔を突き出すと--サキが待っていた。ずんぐりとしたセミの幼虫の姿でも、すぐに彼女だとわかった。
 周囲の放射線量が下がっていた。タケシのしわざだ。やつは精一杯根を伸ばし、このあたりのセシウムやストロンチウムを吸い上げ、自らの身体に溜め込んでくれた。そのせいで数千年は持つはずのやつの身体はボロボロになり、末端の枝は枯れ始めていた。
 でもおかげで、サキは地上でぼくの目覚めを待つことができた。

 ぼくはサキに向かって言う。
「それでさ、返事まだなんだけど」
 すると、彼女の背中がパリパリと割れ、あのときの姿に戻る。ぼくが告白をした500年前の姿に。ただひとつ違うことは、その背中に薄く透きとおったセミの羽が生えていること。
 ぼくも急いで羽化をして彼女の手をつかむ。
「じゃあ、行こう」サキは言う。
 いっしょに羽を震わせると、ぼくとサキの身体はふわりと浮かんだ。ぼくたちは手をとったまま、大樹となったタケシのまわりを何度かぐるぐると回り、それから空のいちばん高いところを目指して飛んでいく。

 ぼくの父さん、母さん、サキの家族が待つ、遠い空の向こうに。

文字数:1847

内容に関するアピール

◯梗概は文字数超過ですので(すみません)、アピールは短かく。

◯セミの気持ちになりました。

◯セミは今という瞬間を生きることだけを許された存在ですが、それは人間も同じこと。これはセミの、そしてぼくの物語です。

◯ヒトが他生物に自己改造する描写は『華竜の宮』に登場するルーシィなどの先行作品を踏まえ、きっちりSFとして仕上げます。

◯実作は10000字強の文量にする予定です。セミの命のように短くも、生命の強さを感じさせる短編に仕上げます。

文字数:215

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17と13

 春眠暁を覚えず、とは誰の言葉だったか。
 ぼくはもちろん春も眠いが、夏になろうが、飽きあきることなく、冬ごもりの熊も真っ青になるくらい、季節がめぐっても眠る、眠る、眠る、眠って、眠り続ける。
 静かなぼくの部屋では、眠りを妨げるものは殆どない。
 たまに尿意がぼくの目を覚まそうとするけれど、やっぱり睡眠の欲求には勝てなくて、その場でおしっこをしてしまう。温かな水分が辺りに染み込んで、なぜか安心してぼくは眠ってしまう。
 眠る、眠る、眠る。
 何もせず寝ているだけでもお腹は空いてくるから、ぼくはまた少しだけ目を覚ます。食べるものに困ることはない。少しだけ身体を動かして、頭の近くにある柔らかな樹木の根へとストローを指す。導管から吸い上げた栄養をたっぷり含んだ甘いエキスが、口のなかに広がっていく。
 お腹が満たされるとまた眠気がおそってくる。まどろみのなかで、ぼくは夢の世界へと落ちていく。つかの間の覚醒と、ひたすら長い眠り。夢が現実で、現実が夢か。ぼくにとってはその二つに大きな違いはない。
 でも、どちらが好きかと言えばもちろん夢の方。なぜなら、夢ではサキに会うことができるから。
 彼女が出てくるのは、いつも同じ風景のなか。
 それは遠い記憶。
 抜けるような青空には、音もなく飛ぶ小さな哨戒機のシルエットが見えた。視線を下ろすと、そこに広がっているのはいちめんに咲くヒマワリ。風の強い日で、大きな花を首をかしげるように揺らしている。
 目の前にいるサキの、短く切りそろえられた前髪もそよそよと揺れる。彼女の大きな目が、不思議そうにぼくを見つめたままでいる。大きくなっても、その真っ直ぐな視線は変わらない。
 あまり長く外に出ているわけにもいかないから、ぼくは前置きなしに切り出す。
「おれ、ずっとサキのこと好きだったんだよね」
 驚いたような表情を浮かべたサキは、年齢よりも少し幼く見えた。彼女が口を開く前に、ぼくは続けて言う。
「付き合ってくれないかな」 
「そんな急に言われても、こっちだって」
 そう言って、サキは視線をそらす。
 ぼくたちは生まれたころから家が隣同士で、ずっと一緒に育ってきた。絵に描いたような幼馴染。家族同然に暮らしてきたから、いきなりこんな告白をされたって戸惑うのは当たり前だろう。
「駄目かな」
 でも、ぼくは返事を促してしまう。どっしりと構えている余裕はなかった。
「きちんと考えるから、ちょっと待って」
 サキはきっぱりと言った。優柔不断な彼女だけれど、いちど決めたことは決して曲げない。こうなっては、こたえを待つ他はなかった。
 ちょっと待って。 
 そうサキは言ったのだ。いったい、どのくらいの時間を想定していたのだろう。ぼくはずっと返事を待ち続けている――かれこれ150年間も、この昏い土のなかで。
 その間、ぼくたちは顔を合わせることすらなかった。
 なぜなら、ぼくは17年ゼミになり、サキは13年ゼミになってしまったから。いつまで経っても、ぼくらはすれ違い続けている。

 

 

 なぜ、ぼくらは周期ゼミになる必要があったのか。
 その原因を辿るなら、一般人であるぼくには真偽の判断はつかないけれど、こんな噂を聞いたことがある。
 グレートなアメリカを再建することを目指した偉大なる大統領が、友好国のいち市民が投稿したSNSの内容に腹を立て、投稿元のIPアドレス所在地に対して核兵器使用の命令を出したことがあった。命令内容を確認した国防長官が従わなかったことで、すんでのところで大惨事は避けられたらしいけど。個人にそんな大きな力を持たせることへの危機感が、世界に広がっていった。
 人間の感情は、判断を過たせることがある。
 ならば、感情を持たない機械に判断を委ねるべきだ。
 それぞれの核保有国において、自動報復システムの権限が拡張されていった。自国への攻撃があった場合、適正な報復量・手段が自動的に判断され、人間の判断を介しなくても実行されるようになったという。
 そんな背景が本当にあったかは別として、実際に終局的核戦争が発生してしまったのは紛れもない事実。
 独裁国が試験的に放ったミサイルが軌道を離れ、アラスカに着弾。アメリカの自動報復システムが、独裁国へ向かって小型核を搭載したSLBMを発射。すると、その独裁国と同盟を結んでいたロシアが、アメリカに向かって再反撃をし――連鎖的に核による応報が行われるなかで、どんどん人類は焼き払われていった。
 戦端から1ヶ月も経過した頃には、世界の全人口は3分の1にまで減ってしまっていた。生き残った人びとの頭上にも、高放射線を放つフォールアウトが降り掛かってきて、人類が安心して暮らせる場所はなくなった。
 それで、人類は自らの保存のため、思い切った決断をしなければならなくなったわけだ。
 
 セミになったぼくは、永遠に土のなかにいるばかりではない。
 また17年が経ち、ぼくはまどろみから覚める。
 なぜそんな長い時間の経過がわかるのかというと、これはセミになった自分たちにしか理解できない感覚だろう。身体のまわりを温かい布団のように包み込んでくれいてた土の感触が、次第に固くごわごわした違和感のあるものに変わっていく。たまには外の空気を吸ってみたいという気持ちに自然となってくるのだ。
 ぼくは鈎のついた前脚を動かして、地上へと向かって少しづつ土を掘り進めていく。地表近くなると、土の温度がより暖かくなって、わずかに光を感じるようになる。そこでしばらく待機して、地上が嵐だったり危険な状態じゃないか様子をさぐる。光が次第に薄くなってきたら、両前脚で土を押し上げるようにして地上へと出る。
 ぶわり、と。
 新鮮でひんやりとした空気が、身体の節々から染み込んでくる。
 ぼくの複眼が、光をとらえる。セミの眼は人間にくらべて視力が弱いけれど、360度に近い広い視野があるから、夜の世界をいっきに見ることができる。
 頭上には、ケヤキの大木が天蓋のように、太い枝を張っている。
 葉の間から地上へと落ちる月明かりは、風がそよぐたびチラチラとかたちを変える。
 地上を覆うニガヨモギは、散り際の線香花火のようなかたちの、小さい黄色い花をつけている。
 そして、地面のところどころには、こんもりとした土饅頭があった。ぼくの仲間の17年ゼミたちが地上へと出てきた跡だ。
「元気そうでなによりだ」
 そう声をかけてきたのは、巨大なセミの幼虫になったぼくの父さん。何回見ても慣れなくて、その姿を見るとぎょっとしてしまう。自分だって同じ姿をしているのはわかっているのだけど。
「寝付きが悪くなってない?」
 心配そうに訊いてきたのは、遅れて地上へと出てきた母さん。前脚を使って地面を這いながら、こちらへと近付いてくる。
「べつに変わらないよ。いつものとおりさ」 
 ぼくはそう返事をする。
「どうもどうも、みなさん元気そうで。お変わりなくてなによりです。いやなに、ちょっと見た目は変わってますけどな」
 そう挨拶してくるのは、ご近所のおじさんだ。太っていた人間の頃と同じく、むっちりと大きく丸みを帯びたシルエット。
 もちろん、ぼくたちは人間のように声帯を使ってお喋りをしているわけではない。幼虫の姿でも発声器官の腹弁が発達しているから、ジージーとお腹を震わせて会話することができる。
 ぼくたちはこんなふうに、地上に出ても本物の17年セミのように羽化をして死んでしまうということはない。ぼくたちが行うのは遺伝子の交換ではなく、ちょっとした情報の交換だけ。一緒にセミになった家族だとか、ご近所さんと他愛のない世間話をする。
 でも、しばらく外にいると外殻がピリピリ痺れてくるような感覚がしてくる。これは、ぼくたちに備わっている自己防衛本能。地上には、まだフォールアウトが満ちていて高放射線を放っている。周期を減るごとに、だんだんと線量は弱くなってきているようだけれど、まだ危険なことには変わりない。
 いつまでもおしゃべりを続けているわけにもいかない。それに、2時間くらい地上に出ていると、また眠気がやってくる。
「じゃあ、そろそろ寝ようか。また17年後な」
 父さんはそう言うと、ずるずる這いながら自分が眠りにつくケヤキの大木の方に戻っていく。
「おやすみ。ゆっくり休んで」
 ぼくもみんなへと挨拶をして、また前脚で土を掘って地中深くへと潜っていく。放射線の届かない、温かい土のなかへと戻って。ゆっくりと眠りのなかへと落ちていく。
 また、良い夢が見られますように。
 みんなが、そしてサキが、悪い夢にうなされたりしませんように。

 

 

 セミになるというのは、人類が自らの種を保存するための苦肉の策だった。
 核の火を生き延びた人たちが、高放射線に満ちた世界で生き抜くために考えた方法が、環境に適応できるように自らを改造するということ。ゲノム・コーディング技術の発達により、人間は知性を保存したまま色々な生物と自らを混ぜ合わせることができるようになっていた。
 放射線の影響が少ない深海を住処にする魚類だったり、耐性が強い植物だったり、そして一生の大半を地中深くで過ごすセミだったりと。合成対象となる生物はいくつかのグループに分けられた。どれか一種類に絞ってしまうと、環境変化によって絶滅しまう可能性があるからだ。
 そして、生き残った全ての人間は選択を迫られた。
 で、あなたはどの生物になりますか?
 こんなに難しい決断はないだろう。
 どの生物になるか決めるということは、いかに生きるかを決めることだった。
 たとえばセミと自らを合成する場合、人間の塩基配列は85%ほど保たれる。環境が回復されたら、元の姿を取り戻せる可能性もあった。放射線量が一定量を下回ると、セミの機能遺伝情報を媒介するmRNAから終止コドンがコードされ、休眠状態だった人間機能の遺伝子が発現する予定だ。そのかわり、セミになる場合の寿命はだいたい4~500年くらい。環境が改善するよりも先に、自分の寿命が尽きてしまうかもしれない。
 植物と合成する場合は、塩基配列の人類との類似性は50%近くにまで落ちる。こうなると、元の姿に戻ることはできない。でも植物になるのと引き換えに、寿命は数千年にも達するようになる。世界がこのままでも、究極のスローライフをおくることができるのだ。
 生き残った人間たちは、自らの価値観とライフスタイルに応じて、どの生物へと変わるかを決めていった。よく決断することができたと思う――大人たちは。
 ぼくたち未成年には、その機会すら与えられなかった。どの生物を選択するか、当時のぼくに選択権はなく。
 ぼくの親が選んだのが17年ゼミで、サキの親が選んだのは13年ゼミになるということだった。

 土の中で眠り続けるぼくは、ずっと孤独なわけでもない。
 半覚醒状態のときは、友だちと喋ることもできる。
 枕元にはられた木の根が、じんわりと水を吸い上げている。導管を水が流れる際のわずかな振動から、それが伝わってくる。しばらくして止まる。また、じんわりと水を吸い上げている。止まる。吸い上げる。吸い上げる。止まる。吸い上げる。
 ぼくは、そのリズムを聞き取ることに集中する。
「最近どうよ」と訊いてきているのだ、タケシは。
 モールス信号のように、水を吸い上げるリズムによって言葉を伝えてきたのは、幼い頃からの友人であるタケシだった。
 やつの家族は、ケヤキと自らを合成することを選択した。ぼくは大樹となったタケシの根に包まれ生活をしている。ぼくの食事はやつの樹液をいただいているわけだから、まだまだこの腐れ縁は続くのだろう。
 ぼくも、身体を細かく振動させることで、タケシへと情報を伝える。
「べつに、何も変わんねえよ」
 すると、またタケシは水を吸い上げたり、止めたりしはじめる。タケシが喋る速度はとてもゆっくりだ。土に水分が足りないと、まともに喋ることもできない。乾燥した冬の寒い日には、1日をかけてほんのワンセンテンスしか情報を伝えられないこともある。
 でも、ぼくの方も時間だけはあり余っているわけだから、気長にやつの言葉を待つ。
「隠すなよ、そわそわしてるのが伝わってくるぞ。おれの根、けっこう敏感なんだよな」
「べつに、何でもねえよ」
 ぼくは強がる。
 でもタケシの言うとおり、本当は待ち遠しくて仕方なかった。
 次に地上に出るタイミングは、セミになったときから数えて221年目。地上にであるのは、これで13回目となる。
 つまり、13年ゼミとなったサキと、地上に出る周期が一致するのだ。
 あと10年と少しだけ待てば、サキの返事を聞くことができる。
 きっと。
「あんまり期待するなよ。他のセミとくっついてるかもしれないし」タケシは釘をさす。
「べつに期待なんかしてねえよ」
 ぼくは言うが、急に不安がおそってくる。サキがだれかと生殖節を重ねているところなんて想像もしたくない。
「まあ、そんな心配はいらないだろうけどな」タケシはそう言ってから、
「うまくいったらいいな。周期ゼミって、周期が違う同士でもきちんとやれるらしいから。ははは」
 笑い声を表現するため、律儀に水分を吸ったり、止めたりを繰り返す。ぼくの気分を盛り上げるために、軽口を叩いてくれているのだろう。
「馬鹿じゃねえの」
 姿が変わっても、タケシはそういうやつだった。

 

 

 とうとう、今年の夏こそが13回目の周期にあたるタイミングだ。
 以前よりも、眠りが浅くなった。温かい土に包まれていても、なんだか落ち着かなくてうまく眠りに落ちていくことができない。そんなとき、ぼくは身体を振動させてタケシに話しかける。
「なんだか、このところ寝付きがわるくなってさ」
 しばらく経ってから、タケシの根がじんわりと水分を吸い上げ始める。
「ああ、そうなんだ」
 なんだか、返事がそっけない。
 もしかすると、やつなりに寂しさを感じているのかもしれない。地面に深く根を張るタケシは、自分から移動することができない。ぼくもサキに会えるからといって、タケシの前であまり浮かれた感じを出さない方が良いのかもしれない。
 ぼくとタケシの間には、倦怠期の夫婦になったかのような微妙な空気が漂っていた。だけど、ぼくはそこまで気にしていたわけでもなかった。頭を占めていたのは、もうすぐ会うサキのことだ。 
 セミになったサキの姿を見るのは、これが初めてだった。彼女のことをすぐに見分けることができるだろうか。でもきっと、どんな姿になってもあの印象的な眼差しだけは変わっていないはず。サキの複眼に見つめられたら、どんな気持ちになるだろうか。
 ぼくたちは、ものごころがつくころから一緒に育ってきた。スクールバスに乗って同じ幼稚園に向かい、同じ小学校に通学して。中学生になると並んで自転車をこいで、そして高校生になったぼくは彼女に告白をしたのだ。
 いつからぼくは、サキのことをただの幼馴染ではなく、好きになってしまったのだろう。小学校のころ、ぼくの嫌いな給食の人参をこっそり食べてくれたときだろうか。それとも中学になって、彼女が眼鏡からコンタクトに変わったときからだったか。
 そんなことをぼんやりと妄想していたら、瞬く間に時は過ぎていった。
 いよいよ、地上へと上がるその日が来た。
「じゃあ、行ってくるわ」
 ぼくはタケシに声をかける。
「なあ」
 やつは何か言いかけて、
「いや、何でもない」と言葉を止めた。
 今はタケシとお喋りをしている時間はなかった。もう地上ではサキたち13年ゼミが待っているかもしれないのだ。
 ぼくははやる気持ちを抑えながら、前肢で土をかき分けて地上へと登っていく。心臓がないセミの身体でも、なぜかどきどきと胸が高鳴る感じがした。
 うっすら光が感じられるようになってくる。地上まではもうすぐだ。ぼくは力を振り絞って、体全体で土を押し上げる。
 雪だ。
 顔を突き出したぼくの視界に映ったのは、雪景色。ニガヨモギの葉の上に、うっすらと白いものが積もっていた。だが、夏の盛りに雪なんか降るわけもない。目の前の風景に混乱していると、しだいに外殻がビリビリと麻痺しそうになるくらい痺れてきた。
 それで気づいた。
 フォールアウトだ。
 上空に焦点を合わせてみると、鈍色に濁った空の高くにたくさんの哨戒機が行き交っていた。空間線量はぼくがセミになったばかりの水準か、それ以上にまで上がってしまっている。おそらくは、この17年の間にまた戦争が起こってしまったのだ。人間が不在の世界で、機械たちだけの間で。
 周りを見渡しても、13年ゼミたちの姿は見当たらない。
 その理由も理解できた。核の雲に覆われ、夏でも気温が上がらなかった年があったのだろう。セミは、土の温度で地上へと出る周期を測っている。夏でも土熱が下がってしまえば、そこで1年が経過したと誤認してしまう。
 13年ゼミたちは習性として、ぼくたち17年ゼミよりも地表に近いところで暮らしているから、土熱の変化により敏感だ。そのため、きっと間違って去年の夏に地上へと出てきてしまったのだろう。せめて、サキが高放射線によってダメージを受けてなければ良いのだけど。
「これは、いったい・・・」
 遅れて出てきた父さんが、この光景を見て言葉を失う。
 だが一家の長たる父さんは、家族を護るという責任を忘れてはいなかった。土をかき分け頭をのぞかせた母さんへ向かって、
「ここは危険だ。早く地下に戻るんだ」と呼び掛ける。
 母さんは返事がわりに軽く副弁を鳴らし、また土のなかへと戻っていく。
 ぼくも、ぼうっとしているわけにもいかない。
「お前も早く地下に戻るんだ。時間が経てば、また状況も変わるだろう」
 父さんはそう言いながら、そのずんぐりとした身体でぼくのことをぐいぐいと押す。父さんだって、そうとうショックだろうに。
 これで、ぼくたちは人間の姿へと戻る可能性をほぼ失ったことになる。人間へと戻るための遺伝子発現のトリガーとなるものは、空間線量の低下だ。200年かけてやっと下がってきた数値は、また振り出しへと戻ってしまった。
 環境が回復する前に、ぼくたちの寿命の方が尽きてしまうことだろう。
  
 ぼくは無言で土を掻いて、もとの昏い土のなかへと戻った。
「あんまり、落ち込むなよ」
 タケシの言葉に、ぼくは激しく身体を震わせる。
「お前、知ってたんだろ」
 地上にも感覚器を持つタケシなら気づいていたはずだ。戦争がまた起こってしまったことにも。そして、去年13年ゼミたちが出てきたことにも。
 しばらくの沈黙のあと、タケシの根は微かに水分を吸い込みはじめる。
「悪い」
 とぎれとぎれに言葉を紡ぐ。
「言えなくて」
 タケシだって辛かったはずだ。嬉しそうなぼくの様子を見ながら、それが失望に変わるのがわかっていて。人の不幸を喜ぶようなやつじゃないってことは、ぼくは嫌というほどわかっていた。
 でも、衝動を抑えることができない。
「ふざけるなよ」
 ぼくは痙攣するように激しく身体を震わせ、叩きつけるように言葉をタケシへとぶつける。そんなことをしたって、何もならないこともわかっていた。もっと、嫌な気分になるだけだった。
 でも、あまりにぼくは悲しかった。
 ここで13年ゼミたちと周期がずれてしまったら、次に出会う可能性があるのは493年目になる。もしぼくが長寿を与えられていたら、サキも同じように長生きをしたら、死に目にいちどくらいは会えるかもしれない。
 いや。わかっている。
 ぼくは、もうきっとサキには会えない。
「悪い」
 再びタケシが言う。
 いや、お前は何ひとつ悪くないんだ。わかっていても、そんな言葉をかける余裕など、そのときのぼくにはなかった。ぼくは黙って、眠りが訪れてくれるのを待った。こんなに、夢のなかに落ちるのを待ち遠しく思うことはなかった。
 せめて。
 せめて、少しでも幸せな夢を。

 

 

 セミ。
 ぼくは、すっかりセミらしくなった。
 ものも言わずに土のなかで惰眠をむさぼり、腹が減ったらタケシの導管へストローを指して食事をして、おしっこをしてまた眠りにつく。床ずれをしないように、たまに体勢をかえてまた眠る。人間からかけ離れた、セミの生活にすっかり慣れきってしまった。
 いや、そんなことを言ったら本物のセミに失礼かもしれない。
 彼らは地上に出て子孫を残すため、土のなかでエネルギーを蓄えているのだ。いまのぼくには、そんな目的も何もなかった。ただ生きるためだけに、危険がおよばない地下で過ごしているだけ。
 気づくと、また17年が経っている。
 別にこのまま眠っていても良いんだけど、本能には抗えずやっぱりつい外に出たくなってしまう。
 緩慢に土を掻いて、またぼくは地上へと向かっていく。このところ、タケシの根が地表近くを覆うように成長してきていて、ぼくのルートを妨げてしまっている。遅い成長期でも迎えているのだろうか。邪魔だなあと思うけれど、やつから栄養を摂取させて貰っているのだから、あまり文句も言えない。
 父さん、母さんと顔を合わせると、二人ともなんだか元気がない。
「体調に変わりはないか」
「ぼくは別にかわりないけど、父さんの方こそどうなんだよ」
「ああ、おれか」
 そう言うと、小刻みに前肢を動かして。
「ちょっと、腕の動きが悪くなってきた感じがする。セミでも肩こりがあるのかもな。まあ仕方ない」
 心なしか、父さんの外殻は以前よりも黒ずんで、強ばっているようにも見えた。セミが老けてくると、そんな見た目の変化として現れるのだろうか。
「確かに、わたしも歳かしらね。なんだか眼の見え方が悪いみたい。あまり外にでないから気づかなかったわ。眼鏡でも作らなくちゃいけないわね」
 母さんは、本気なのかふざけているのか、そんなことを言った。
 ぼくたちには左右の複眼のほか、頭頂部に3つの単眼も持っている。5つもレンズが必要になるわけだから、腕の良い職人でもセミ用の眼鏡を作るのは大変だろう。もっとも、そんなものを作ったとして、17年にいちどしかかける機会はないのだけど。
 二人とも、人間に戻ることができそうもないことが堪えたのだろう。すっかり歳を取ってしまったみたいで、なんだか会話も愚痴っぽくなってしまった。
「もう地下に戻ろうか」
 ぼくは言う。
 まだ外殻がビリビリとする。線量はそれほど下がっていないようだ。あまり長く地上に出ているわけにもいかない。
 それぞれの住処へと戻ろうとするとき、父さんが気づいた。
「そういえば、お隣さんの姿が見えないな」

 221年目の出来事があってから、タケシとの会話はめっきり減ってしまった。
 こっちが悪かったよ。
 そう素直に謝ることができれば、こんな気まずい関係を続けなくても良くなるのに。分かっていても、すっかり謝るタイミングを逃してしまっていた。それが50年以上も続くと、おたがい無言でいる方が楽になってしまった。
 17年、17年、そして17年。
 周期はめぐるけど、ぼくとタケシの関係は変わらなかった。 
 変化があったのは、地上で顔を合わせる17年ゼミたちの方だった。
 地上に出ても、やはりお隣さんの姿はなかった。おそらく、土のなかでセミの寿命が来てしまったのだろう。ぼくたちはセミの姿になっても、人間の頃の寿命がリセットされるわけではない。
 父さんは気休めじみたことを言う。
「お隣さん、昔から朝が弱いみたいだったから。ひょっこり、別のタイミングで起きてるのかもしれないけどな」
 そんなことを言う父さんも加齢の影響がしっかり現れていて、右前肢が欠け落ちてしまっていた。
「大丈夫なの、それ」ぼくが心配すると、
「ずっと前から調子がわるかったところだからな。まあ、仕方ない」とそっけなく言う。
「おれは、セミになって良かったと思ってるよ。戦争が起きてからも、こうして家族でずっと過ごすことができたからな。17年にいちどしか顔を合わせることができないといっても」
「なに弱気なこと言ってるんだよ」
 ぼくは口をはさむ。
 父さんは、戦争が起こったときでも「せっかくマリーンズが一位なのに、シーズン中断なんて納得出来ないだろ」なんてのん気に言っていたくらいで、動じるところなんて見たことがなかった。少し歳を取ったくらいで、弱気になってほしくはなかった。
 そんなぼくの気持ちを察してか、
「ありがとう」父さんは言った。
 そして、17年後。
 いくら待っていても、父さんが地上に現れることはなかった。
「やっぱり、父さん出てこれなかったのね」
 母さんは淡々と言う。
 ぼくには意外だった。ふたりはとても夫婦仲が良かったから、もっと取り乱すかと思っていたのだ。悲しくはないのかと、つい母さんに訊いてしまう。
「そりゃあ悲しいわよ。でもね」
 母さんは、遠いどこかを見遣るようにしてから、「土のなかで、あなたやお父さんのことずうっと考えていたからね。いまでも、心のなかに父さんが一緒にいるような気がするのよ」
 父さん、と口にするときの母さんの口調はとても幸せそう。母さんの心のなかに父さんが居るのではなく、父さんが母さんの心を遠くへ連れて行ってしまったのではないか。ぼくにはそう感じられた。
「やめてくれよ」とぼくは強く言う。
 母さんまで居なくなってしまったら、ぼくはどうすれば。
 ジージーと鳴るぼくの腹膜の音が、生き物の気配がないケヤキの森に響く。
「父さんの口癖じゃないけど、仕方ないことだからね。順番があるから」母さんはなだめるように言う。
「あなたも、元気でね」
 それが、ぼくと母さんとの最後の会話になった。

 

 

 ぼくは眠る、眠る、眠る。眠り、眠って、さらに眠る。
 眠りだけが優しいから。 
 父さんも、母さんまでもが消えてしまった世界で、ぼくはまだ生き続けていた。眠って、タケシから樹液をめぐんでもらって、排泄をして、また眠って、ただただ命をつなぎ続けている。
 瞬く間に時はめぐって、また17年目のそのときがやってくる。
 土を掻いて自らの身体を地上へ向かって引き上げていくのも、次第にきつくなってきた。ぼくも、もう若くはないということなんだろう。ギシギシと、全身の節がきしむような音をたてる。それでも、なんとか地上へと顔を突き出す。
 静かだ。
 そこには身体の大きなお隣さんもいなければ、ちょっと外殻が黒ずんでいる父さんも、いつも遅れて出てくる母さんの姿もなかった。
 見上げると、鈍色の空には哨戒機すら飛んでいなかった。ケヤキの大樹となったタケシの枝だけがあった。タケシはさらに大きくなったようで、鋸葉をいっぱいに生やしたやつの枝があたり一帯を覆い尽くしている。地上に張り巡らされた太い根で、地面もうねうねと隆起しているようだった。
 13年ゼミとなったサキの姿も、もちろんなかった。
 わかっていたことだけど、心のどこかで期待してしまっているのだろう。ぼくは失望を抱え、また昏い土のなかへと戻っていく。
「おつかれ」
 自分の居所へ戻ると、タケシが声をかけてくる。
「ああ、ありがと」
 ぼくも言葉を返して、それからすぐ眠りにつく。歳のせいか、起きていられる時間が短くなってきたようだ。
「希望を捨てるなよ。先のことはわからないから」
 薄れゆく意識のなかで、そんなタケシの声が聞こえてきた気がした。
 希望ではなくて、ぼくは純粋に気になるのだ。
 告白をしたずっと昔から、サキのこたえを待ち望んでいる。彼女もどういう気持ちでいるんだろうか。もしかすると、ぼくが好きだって伝えたことも忘れてしまっているのかもしれない。あるいは、返事をしなくてはとやきもきしているかもしれない。
 どちらでも良くて、ぼくは単に聞きたいのだ。 
 彼女の声を。
 そんな思いが、ぼくを生かし続けていた。
 17年が経つ。
 居ない。
 17年が経つ。
 居ない。
 また17年がやってくる。
 居ない。
 どれくらい17年周期を繰り返してきたのか、ぼくはもう分からなくなっていた。いつのまにか、右前肢の鈎が欠け落ちてしまっていた。父さんと同じ場所だから、遺伝的に弱かったのかもしれない。
 限界がすぐそこまで来ていることが、自分でもわかった。

 時は休まない。
 いつもぼくを包んでいる暖かい土が、固くごわついたように感じてきて、ぼくはまどろみから覚める。
 また、地上へと出なくてはならない時期となったのだ。
 いつもなら、身体を震わせて眠気を振り飛ばし、地上へと向かって土を掻いていくところだった。だけど、今回はなんだか眠気の方がまさっていて、ふたたびぼくをまどろみの奥へと引きずりこもうとしてくる。固い土がまた柔らかくなってきて、ぼくを優しく包み込もうとしてくる。意識が次第に、土のなかよりさらに昏い、深いところへと落ち込んでいく。
 ぼくは眠る――ところだったが、周囲の様子がおかしい。
 まわりの土が、カラカラに乾いてしまっている。
「いいから、眼を覚ませよ」
 タケシが言う。
 やつはぼくの目を覚ますために、このあたりの水分をすべて吸い上げてしまったのだ。土が乾燥しきっているせいで、言葉を伝えるのが大変そうだ。
「でも、なんだか今回は眠たくて」ぼくが言うと、
「つべこべ言うと、もう樹液を吸わせないからな」
 仕方がない。
 ぼくは、しぶしぶ寝床を抜け出して、地上へと向かって土を掻いていく。
 右手の鈎が無いから、うまく掘り進めていくことができない。体中の節々がギシギシと悲鳴をあげるように軋んでいる。でも、こんな思いをするのも最後だろう。ぼくは我慢して、自らの身体を地上へと引き上げていく。
 左前肢に力をこめて土を押し上げると、光りが見えた。
 ふわり、と新鮮な空気が流れ込んでくる。
 地上へと頭を突き出すと、
「遅かったね」
 ぷっくりとした腹弁、すらりと鋭い鈎のついた前肢。そして、オレンジがかった丸い複眼になっても、その真っ直ぐな視線は昔から変わらない。
 サキだ。
 セミの幼虫の姿になっていてもすぐにわかった。ぼくは自分の正気を疑いかけたが、幻ではない。本当にサキが目の前にいるのだ。 
 奇跡的に周期が一致したのだろうか。ぼくはそう思いかけたが――違う。
 いつもならピリピリと痺れたようになる外殻が、今日はなんともなかった。周囲の放射線量が下がっている。どういうことなのだろうと辺りをうかがうと、ふと頭の奥でなにかが繋がったような感覚があった。
 タケシのしわざだ。
 なぜ気が付かなかったのだろう。ケヤキは普通であれば、巨大な幹を支えるため地中深くに根を伸ばす。前に見たように、地面が隆起するくらいに浅く根を張っているのは、別の目的があってのことに違いなかった。放射性物質が留まるのは、地上から約50cmまでの深さ。やつは地表近くに根を張り巡らせて、このあたりのセシウムやストロンチウムを吸い上げ、自らの身体に溜め込んでくれたのだ。
 サキがここにいるのは、目覚める周期が一致したせいじゃない。
 タケシが放射線量を下げてくれたおかげで、彼女はぼくの目覚めを地上で待つことが出来たのだ。数年間にわたって、ケヤキの大樹になったタケシのふもとで。 
「馬鹿じゃねえの」
 ぼくはつぶやく。
 タケシは想像以上に馬鹿だった。ぼくはケヤキの大木に視点をあわせる。頭上を覆う枝は、すでに末端が枯れ始めてきていた。ありったけの放射性物質を吸収してしまったやつの身体はボロボロで、数千年あるはずの寿命の大半を費やしてしまったのだ。
 ぼくの、この瞬間のために。
 だから、ぼくは怯んでいる場合じゃなくて、サキにこう訊かなくてはならない。
「それでさ、返事まだなんだけど」
 彼女は何も言わず、固まったまま。
 どうしたのだろう。
 すると、サキの頭頂部にわずかな亀裂がはしり、そこから胸部へ向かって正中線にそってパリパリと裂開していく。裂け目の内側から、人間のほっそりとした指がのぞくと、外殻を脱ぎ捨てるようにして出てきたのは、あのときの姿に戻ったサキだった。
 ぼくが告白をした、500年前の姿に。
 ただひとつ違うことは、その背中に薄く透きとおったセミの翅が生えていること。オレンジがかった翅縁に支えられ、透明の膜が張られている。薄く濡れたその翅は、月の光をうけてキラキラと輝いていた。
「いっしょに行こう」
 サキの喉がふるえ、人間の言葉でぼくに言う。
 ぼくも急いで羽化をする。思ったよりも簡単だった。外殻を脱ぐと、ひんやりとした夜の空気を身体全体で感じられた。
 ぼくは、サキの手をとる。
 いっしょに翅をふるわせると、ぼくたちの身体はふわりと浮かんだ。この身体のなかには、生きるために必要な消化器官などは入っていないから、とても軽い。翅に力をこめると、次第に高度が増していった。いつも見上げていた、タケシのてっぺんと同じくらいの高さになる。
 見事なケヤキの大樹だった。
 ごつごつとした鱗のような樹皮に覆われた幹から、太い枝が四方に広がっていた。枝は先端に進むにつれさらに細い枝へと分かれ、その一本いっぽんには細かい鋸葉がびっしりと茂っていた。地下で暮らすぼくらを護る天蓋として、この場所にじっとタケシは立ち尽くしてくれていたのだ。
 根からしか言葉を伝えることができないタケシとは、もう喋ることはできない。だから、せめてぼくたちはやつの周りをぐるぐると飛ぶ。せいいっぱい翅を震わせて、ケヤキの大樹のまわりを何度となく。
 しばらくそうして飛んだあと、
「ありがとう、もう大丈夫」とぼくは、サキに向かって声をかける。
「じゃあ、行こうか」
 ぼくたちは手を取ったまま、さらに強く翅を震わせる。
 みるみるうちに地上は遠ざかっていった。タケシは小さな点になり、他のケヤキと見分けがつかなくなった。眼下には見渡す限りの深緑が広がって、かつてぼくらが暮らしていた崩れかけのコンクリート建造物群が、浮島のようにぽつりぽつりと顔をだしていた。
 顔を遠くへ向けると、海が見えた。水面は鏡のようになめらかで、空にある月を同じ明るさで照らし返していた。ぼくとサキは、海から吹き付けてくるゆるやかな潮風に逆らうようにして、月に届けとばかりに高度を上げていく。
 どこへ向かうべきかは、分かっていた。
 ぼくたちは手をとったまま、空のいちばん高いところを目指して飛んでいく。力の限り翅を震わせ、地上の重力から離れて。
 ぼくの父さんと母さん、サキの家族が待つ、遠い空の向こうに。

 

 

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