梗 概
ヘル・フォゴ
ゴールドラッシュに湧くアマゾンの奥地で〈金の帝王〉が消息を絶つ。あざなは〈天鵞絨〉、ジャングルに十三の金鉱山を持ち、金鉱採掘人をこき使い、採掘した黄金をセスナで運ぶ男。
「気の触れたヴェルードがジャングルに独立王国を築いている」との噂を聞いた帝王の共同経営者フォゴは、ヴェルードを追って哨戒艇でオリノコ川を遡る。
途中差し掛かったガリンペイロのキャンプに原住民が流入している。原住民とヴェルード配下の採掘人は皆正気を失い、一緒になって祝祭を行っている。ケシの実、麻の実が燃やされ白煙をあげる。鼻輪、骨細工、貝殻で装飾し、赤や黄の塗料を塗った少年達の口腔に、採掘人が性器を突っ込む。至る所で乱交が行われる。意中の娼婦が原住民とやり始めたのを見て逆上した採掘人筆頭コセイラが、原住民の頭を銃で吹き飛ばす。祝祭は暴動に変わる。
フォゴは死んだ男の頭に原色の粘菌がぎっしり詰まっているのを発見する。男は頭がないのにむくりと起き上がる。娼婦と絡み合い、再び腰を振り始める。そして女と溶け合い融合する。現実離れした事象が立て続けに起きる。ある者は胴体を斬られた後、二つに分裂してもぞもぞと這い出す。またある者は体を硬化させて鉈も銃弾も受けつけなくなる。
フォゴは負傷し、狂ったキャンプから逃げおおせるもマラリアに感染、船上で生死の境をさまよう。
船は上流の村に辿り着く。粘性の水が満ちる、鏡面のような湿地に浮かぶ〈濡れた村〉で、フォゴは〈ビッグマン〉と崇められるヴェルードと再会する。
復調したフォゴはヴェルードに導かれ、手つかずの金脈が眠る大渓谷を降下する。
スコールが降り止むと〈虹色の粘菌〉が岩盤を突き破って芽吹き、渓谷を覆い尽くす。
渓谷の最深部に大破したセスナが鎮座している。機体は焼け焦げている。小型隕石の直撃を受け墜落したのだ。〈虹色の粘菌〉は隕石に付着して飛来した菌型異星体だと、ヴェルードが告げる。
セスナ周囲に繁茂する巨大なアルコ・イリス変形体群が、胃袋とロケットの合いの子のような子実体に変態する。間もなく子実体の殻を破って胞子が生まれる。胞子は渓谷を飛び立ち、世界中に散布される。あらゆる人間に寄生し、現生人類を終わらせる。
アルコ・イリスは流動性の変形体を腕のように伸ばして人の体内に侵入し、脳に寄生して精神を掌握する。宿主に、融合と分離、体質を強固な休眠体へと変異させる〈禁核〉、意識と感覚を司る液体分泌物〈粘液鞘〉を用いた〈遠隔感応〉等、多彩な能力を授ける。〈人間〉から〈粘菌人間〉へ——それは人類にとって進化に他ならない。アルコ・イリスは全てが変種、全てが中間種、全てが異態である。人類は彼らと同一化することにより、多くの特質と未曾有の多様性を獲得することになる。アルコ・イリスは支配ではなく、進化と共生を望んでいるのだ。
だがフォゴは彼らの贈与を拒む。脳をハックされアルコ・イリスの傀儡に堕したヴェルードの末路を哀れみ、殺してやる。渓谷に繁殖する変形体、子実体の全てを焼き払う。
フォゴの足首に縋るように巻きついた粘液鞘から、アルコ・イリスの思念が伝わってくる。彼らは既にアマゾン広域に拡大し、無数の河川に粘液鞘の網を張り巡らせている。フォゴは粘液鞘のネットワークを介して、火に焼かれる苦しみを全体共有する菌型異星体の絶望を知覚する。共生の提案を拒むだけでなく攻撃さえ仕掛けてきた人間に対する、彼らの戸惑いと恐怖と恐慌を知覚する。
最後に焼け残った子実体の胞子の小さな破れ目から、アメーバ状の生物が這い出し、逃げ出そうとする。フォゴはアメーバを踏み潰す。そして彼らの戸惑いに答えを与える。悪いが俺は、黄金にイカレてるんでね。
ここに天鵞絨に代わる新たな〈金の帝王〉が誕生する。あざなは〈地獄の火〉という。
文字数:1694
内容に関するアピール
南方熊楠が柳田国男に宛てた書簡によると、科学啓蒙家でもあった英国のランカスター教授は「粘菌は他の惑星から飛来した地球外生物に違いない」と言ったという。粘菌について調べてみると、確かに動物や植物の枠内では説明することのできない多くのユニークな性質を持っていて面白い。そこで粘菌をモデルにアメーバ状の宇宙生命体を仕立てることにした。
本作中で菌型異星体〈アルコ・イリス〉が持つ特質は、全て現実の粘菌をベースに着想した。粘菌が実際に持つ能力の詳細は以下の通り。
変形体と子実体
粘菌は成長の過程で、流動的な体を持ち、這って自由に移動する〈変形体〉から、胞子の中に粘菌アメーバを棲まわせる〈子実体〉に変身する。子実体が胞子を飛ばし、別の土地に降り立つと、中からアメーバが這い出して他のアメーバと接合し、バクテリアを捕食しながら再び変形体に成長する。これを繰り返して増殖する。
粘液鞘
変形体の体を包む液体分泌物。変形体の移動時に地面に引っかかってキャタピラの役割をする他、粘菌同士が互いを見分けるシグナルとして機能する。相手の粘液鞘を「受信」しさえすれば、距離に関係なく即、自他判断が可能である。
菌核
粘菌の緊急避難形態。硬い塊状の休眠体となり、成長に不適当な環境、生命を脅かす状況から身を守る。
融合と分裂
変形体は「二匹の自分」に分かれることも、再融合して「一匹の自分」に戻ることも、見出した相手とくっついて「第三の自分」になることもできる。
テーマへの応答
本作では「アメーバ型宇宙生命体が人類の気持ちをものすごく考えている」ということを描くことによって、そんなアメーバ型宇宙生命体の気持ちを超考える。
彼らは人類に対して、生命の多様性を尊ぶ価値観に基づいた〈共生〉を提案する。人間の気持ちを汲み、互いの種がわかり合える均衡点を見出そうと努力をする。だが努力は人間によって踏みにじられる。彼らとコンタクトを取る主人公は、個人限定的で独善的な、強い欲望を抱いている。人間味に溢れているということだ。結果、アメーバ型宇宙生命体は、共感できない相手=人間の行動に恐怖することになる。実作では、こうしたアメーバの気持ちの振れ幅をより明瞭に打ち出したい。
舞台は「ゴールドラッシュに湧くアマゾン」とした。理由は、人とアメーバ型宇宙生命体の価値観のコントラストを強調するため。アマゾンでは1970年代から今に至るまで、数多の金鉱採掘人が一攫千金を夢見て、密林の金鉱に穴を掘り続けている。
文字数:1043
ヘル・フォゴ
ママイは毎晩男の下敷きになった。繰り返し尊厳を奪われつづけた。腹いせにフォゴを痛めつけた。フォゴの左腕は肩より上に上がらなくなった。右目はぼんやりとしか見えなくなった。ママイが幼いペニスを切り落とそうとしたとき、フォゴはついに逃げ出した。ママイは肉切り包丁を握りしめ、金切り声をあげてフォゴを追いかけた。炎天下のカナウ・ストリートがフォゴの裸足の足を焼いた。甲斐なく捕まった。なまくらの肉切り包丁がフォゴの胸を切り裂いた。流れたおのれの血まで熱く沸騰しそうな気がした。ミミズ腫れの傷痕は、いまでも襟元からせり上がり、首筋にしがみついている。
醜い傷は同時に武勲にもなる。このときからほとんどの仲間がフォゴを〈リトル・フォゴ〉と呼ぶのをやめた。娼婦の息子と呼んでくるヤツは一人残らず痛い目に遭わせた。フォゴはママイの家に帰らなくなった。〈路上の子供〉の仲間入りをした。リオの貧困街は弱肉強食の密林も同然、日々を生き抜くだけで一苦労だったが、ペニスを切られるくらいなら頭に鉛玉をぶち込まれた方がマシだった。
リオ最大の貧困街ロシーニャを当時取り仕切っていたのはギャングの兄弟〈天使と野蛮人〉。だが連中はモーテル襲撃の一件が祟って凋落した。バルバロスは逃亡中に警官に射殺された。アンジョスは賄賂を使って解放されたが、ヴェルードの息の掛かった年少の路上の子供たちに私刑を受け、惨めに犬死した。ヴェルードはわずか十五歳、フォゴはまだ十二だった。
リオの覇権は幻に似ている。手に入れたと思ったそばから消えてしまう。年端もいかないガキどもが次々這い上がってきては、上に立つ者を引きずり下ろす。力の所在がころころと転がりつづける街。
儚いものばかりで出来た世界に誰もが辟易し、疲弊していた。仲間の裏切り、腐敗した警察への根回し、どこへどう分配してもどうせ別所から不満が漏れる、黒い金の腐った河。
大都市の裏社会を牛耳ったヴェルードが次なる目標としてアマゾンの密林を選んだとき、仲間の多くが驚いたが、フォゴには必然に思えた。ヴェルードは一貫していた。「目に見えるものだけを信じて愛す」。イカした車、高級な服、おびただしい金の装飾品。金鉱採掘人たちは常に、目に見える物だけを欲望する。空疎ではあれど、少なくとも都会より明快だ。
いまでは誰もが、ヴェルードを金の帝王と呼ぶ。アマゾンに十三の金鉱山を持ち、金鉱採掘人をこき使い、採掘した黄金をセスナで運ぶ男。
フォゴはヴェルードの最初の幹部になった。ガリンペイロのなかには札付きのワルも大勢いた。腕っ節がものをいう世界、幹部連とて荒っぽい諍いに巻き込まれることも少なくない。その点フォゴは適役で、採掘人たちは気性の激しい二枚目マルセロ以上にフォゴのことを恐れた。丈夫で頑強な褐色の肌、敵を眼光だけで竦ませる鷲の目、片耳だけ飾った金のピアス。首にせり上がる傷痕はどこへ行っても絶大な効力を見せた。
ヴェルードがアマゾンの奥地で消息を絶って二週間が経つ。フォゴはリオを発ち、〈拠点の町〉を経由してアマゾンに入った。ベネズエラ軍払い下げの哨戒艇をオリノコ川に浮かべ、川上へ遡行した。
出発から五日後、密林の集落の傍らで船を止めた。地図に載っていない街だった。地図に載らない街などアマゾンにはいくらでもあった。その大半を築いたのがヴェルードだった。そのすべてが金鉱採掘人のキャンプ、金採掘のためにでっち上げられた間に合わせの街だった。
1
ツルハシで岩を砕き、スコップで粘土層を掬う。粘土層の下にある石と砂礫の地層は〈カスカーリョ〉、別名〈金の道〉。黄金はカスカーリョの中にある。
金鉱採掘人たちはカスカーリョを水の噴射で削り取る。消防士のホースよりも威力のある高圧放水器が、砂礫を、穴の中に通した水路に流し込む。水路の先には高圧ポンプがあり、その先のばかでかい濾過機までパイプでつながっている。濾過機にはフィルターが備えつけられており、金を含む土砂だけが溜まる仕組みになっている。
大抵はうまくいかない。たかだか一グラムの金を得るために、一トンもの土砂を掘り起こすはめになる。
「調子はどうだ」フォゴはアセロラと呼ばれる顔見知りの採掘人に訊ねた。
「いつも通りのクソですよ」と男は答えた。
それでも男たちは掘るのをやめない。
立ち小便をしていたら土の中から一〇キロの黄金が顔を出した。
落雷で倒れた木の根元に二〇キロの金が身を晒した。
何の気なしに振りおろしたツルハシのひと振りが六十四キロの金塊をもたらした。
自分のすぐ隣で掘っていた男が六○○キロを引き当てた。
武勇伝とも法螺話ともつかぬ逸話。掃いて捨てるほど転がっている夢物語。六○○キロなら、七○○○万ブラジルレアルを超える(注:約二十四億円)。もしかして今日こそ自分も奇跡にありつけるかもしれない。休むことで他の連中に出し抜かれたらどうする。そんなことは我慢ならないから、金鉱採掘人は休まない。夜も明けぬうちに起き出し、顔を洗い、歯を磨き、甘いだけのコーヒーを飲み干し、金鉱山のある森に分け入っていく。直径六○から百フィート、深さ一○フィートから二十三フィート。密林に穿たれた夥しい大穴が、今日も男たちの欲望を呑み込む。
フォゴたちは穴ぼこだらけの地面を縫うように進んだ。
「俺がいま何考えてんのかわかるか?」
連れの二枚目マルセロが訊いた。久々に口を利いたと思えば、案の定ひどく苛立った声だった。
フォゴはドミンゴをくわえた。マルセロが手を差しだした。火をつけたそいつをくれてやり、自分用にもう一本取り出した。
「さあな」とフォゴは答えた。
驢馬の名を持つ恰幅のいい中年は、ここいら一帯のガリンペイロを統べる採掘人筆頭だった。気分は死者の日、サンパウロのゾンビ・ウォーク。怯えた男はことあるごとに足を止めた。そのたびにマルセロは男の背中を突き飛ばし、「さっさと歩け」とすごんだ。
「いい気味だ」採掘人の一人が薄ら笑いを浮かべた。「地獄へ落ちちまえ!」
ブッホは黙して何も言わない。褐色の肌を土色に青ざめさせ、断頭台に向かう死刑囚のように俯いたままだ。
「見ろよ」マルセロが言った。片足を上げてみせた。
おろしたてのスニーカー。灰色と黒のトーンであしらったカラーブロック。ラウンドトゥ。灰色のレースアップ。
「エアマックス95」
とフォゴは言った。
「そうさ」とマルセロは答えた。「俺はここに来る前、買ったばかりのこいつを履いてご機嫌だった。久々の休日に何をしようとしていたと?」
「知るか」
「コパカバーナ海岸さ」
「泳ぐのか?」
「擦り切れた一冊の本だけ持っていく」
フォゴはにやついた。煙を吐いた。「焚き火でも?」
「こう見えて読書家なのさ」
「へえ。何専なんだ? そのポルノ・マガジンは」
「エロ本じゃねえよ。ギマランエス・ローザさ。『大いなる奥地』」
「タイトルだけで吐き気がするぜ。そいつは『ヤレない女』って意味か?」
マルセロはフォゴの茶々入れを無視した。「休日にもかかわらず俺は早起きしたんだ。すがすがしい朝だった。せっかくだから規則正しくいこうと思った。顔を洗い、歯を磨き、鏡の前でひげを整えた。成果は上々だった。最高にクールに決まったのさ。だから家に引きこもって過ごすのはもったいねえと考えた。それで街へ出た。近場の食欲カフェでチーズパンとハムとチーズ、たくさんのフルーツにグアバジュース、完璧な朝食だった。ゆったりとした朝食を終えるといよいよ浜辺に向かった。ポケットにローザのペーパーバック、足下はぴかぴかのエアマックス。満ち足りていた! 忌々しい着信音が鳴るまでは……」
マルセロは頭をくしゃくしゃと掻きむしった。オールバックの髪が乱れ、数本の髪束が額に落ちた。二枚目が台無しだ。
「生憎だったな」
「仕方ねえさ」とマルセロは言った。「ボスが消えた。こんなことはいままで一度もなかったことだ。確かに一大事だ」
すでに掘り尽くされた、過去の採掘現場に出た。先刻までの活気が嘘のように静かになった。巨大な穴ぼこが虫の巣よろしく、いたるところに開いている。
「俺たちがアマゾンにやって来た理由はただ一つ、ボスの消息を掴むためだ」
ブッホを睨みつけ、ゆっくりにじり寄った。
「断じて、イカレちまった歯車の始末をつけるためじゃねえ」
銃声が轟いた。マルセロのタウルスがコセイラ自慢の蛇革のブーツに風穴を開けた。コセイラは呻き声を上げた。足を押さえてうずくまり、口をぱくぱくさせた。
「なんだ、腹減ってんのか? リオのハンバーガーが恋しいか?」
「仕方ねえさ」とフォゴは言った。「二年は帰ってねえもんな」
「知ってるか? 〈ランシェイラ・ド・パルケ〉がついにリオにも開店したんだ。ボリュームたっぷりのXバーガー、厚切りのベーコンにとろけるチーズ! 友よ、かぶりつくたくなってきたか? ついでに卵サラダとスコ=フレッシュジュースもどうだ、ええ? 畜生! マジでさんざんだ。最高の休日になるはずだったのに、すべて台無しだ!」
マルセロはブッホの頭を掴んで無理矢理立ち上がらせた。
「このキャンプは、お前の管轄じゃねえのか?」マルセロは怯えるブッホの顔を覗きこんだ。「筆頭のお前が、どうしてこんな馬鹿な真似をする? お前、ヴェルードが怖くねえのか? それとも、ボスはどこかで野垂れ死んで、もう二度と戻ってこないとでも?」
マルセロは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら首を横に振った。必死に何か喋ろうとしているが、言葉にならない。
「何より悲しいのは、こいつを——」悔しげに目を伏せた。「――こいつを履いてきちまったことだ。よりによって泥とぬかるみのこのアマゾンに! ぴかぴかの新品のエアマックス95をだ!」
マルセロは拳銃をブッホのこめかみに突きつけた。ブッホが悲鳴をあげた。食いしばった歯の隙間から泡が立った。
「アミーゴ、俺が何を悲しんでるのかわかるか?」
「それは……だからつまり、気に入りのスニーカーを、こんな場所に履いてきちまったから——」
マルセロは慈悲深く微笑んだ。
釣られてブッホも、ぎこちない笑みを浮かべた。
マルセロは銃口をブッホのこめかみにめりこませた。
「クソが! ふざけてんのか?」
ブッホが失禁した。大量の尿がショートパンツを濡らし、毛深い足を伝ってブーツに溜まった血を地面に流した。
「曰く、『野盗になろうという考えを抱く者は、すでに悪魔に入り口を開けてやっているも同然なのだ』――アマゾンにだけ通じる不文律がある! 密林はやってくる者の経歴を問わねえ! たとえ何人殺していようが真面目に働く奴は不問に付す! 本名を名乗る必要もねえ! だが裏切り者はだめだ! 『いまいましい裏切り者め、われわれはハレルヤを大声に言えるのだ。ハレルヤ! ハレルヤ! 皿の上に肉、瓢箪のなかに挽き割り』! 裏切り者の馬鹿、すなわち仲間の黄金を盗む奴は——」
「誓う!」ブッホは叫んだ。「すぐにここを出ていく! 二度と戻って――」
タウルスが吼えた。そして裏切り者の懺悔は永遠に終わりの来ないものとなる。
「――仲間の黄金を盗む奴は、殺されても文句は言えねえ。地獄へ行け。そして二度と戻ってくるな」
まっさらな死体を手近な穴に蹴り落とした。吸い終えた煙草を同じ穴に投げ込んだ。役に立たなくなったものを捨てるには格好の場所だった。フォゴたちが離れたそばから狡猾な禿鷹たちが降りてきて裏切り者の穴にたかった。ハレルヤ。ハレルヤ。穴んなかに肉、禿鷹の腹に挽き割り。
*
「ボスは気が触れちまったのさ」顔に傷のある男が、ヒステリックな中国の商人みたいな甲高い声で言った。「神の怒りを買っちまった。あまりに多くの富を抱え込んじまったからだ」
男の名は〈痒み〉、顔じゅうにナイフで斬りつけられた痕がある。痒みを我慢できず夜中に顔を引っ搔くから、傷はいっこうに癒えなかった。
キャンプには前科者が十一人、人を殺したことのある者が九人、刑務所を脱走してきた者が四人いたが、コセイラは前科者で殺人者、おまけに脱獄者だった。だが仕事は真面目に黙々とこなした。ヴェルードのように、イカした車に乗り、いい服を着て、金の装飾品を全身に纏う――そんな日がいつか来ると信じる底抜けの空想家。コセイラは、金鉱採掘人になって間もなく十年になる。
「いいや違うね」大男のプレギッサが言った。「ボスは常に俺たちの想像のはるか上をいく。いまごろこの密林の未開の奥地に王国を築いてるはずだぜ」
「ちげえねえ」小人症のヴェスパが賛同した。「カーツ大佐も真っ青の、気の狂った独立王国さ!」
昼のあいだは裏切り者の処刑を片付ける羽目になった。夜になってようやく当初の目的に立ち返ることができた。仕事を終えてキャンプに戻った金鉱採掘人たちに聞き込みをやった。が、まともな話は聞けそうもない。
週に一度の休日を前に採掘人たちは浮かれていた。テーブルの上には動物の死体が載っていた。アマゾンの大ねずみは「パカ」という。それに、イノシシによく似た、ケッシャーダと呼ばれる野ブタの子供。アマゾンで野生動物と出くわすことは滅多にない。音はすれど、容易に姿を見せない。今日は二匹の獲物が獲れた。上々の収穫だった。
加えて今宵、クラブ・ヴァスコ・ダ・ガマがサンパウロFCに勝利してブラジルリーグの一位に躍り出た。キャンプにはリオデジャネイロ出身者が大勢おり、もれなくクラブ・ヴァスコを贔屓にしていた。熱心なサポーターたちは試合を中継するラジオの前に張りついて、サンパウロの選手に悪罵を吐き、クラブ・ヴァスコのボランチがいかに有能かを説き、苦い顔で固唾を呑み、そして最後には狂喜の喚声を上げた。当然の成り行きとして試合後、祝杯を上げはじめた。
黄金換算でビール一本○.二グラム、二十五ブラジルレアル(注:約八○○円)。サトウキビの蒸留酒は○.四グラム。ウォッカ○.六グラムにテキーラ一グラム――帝王傘下の売店が、採掘人たちからなけなしの金を搾り取る。値段は街場の三から五倍。
新入りにとってここは楽しい蟻地獄だ。酒やつまみをツケで支払った。カード賭博ではあえなくカモにされるのが常だった。
熱帯雨林の夜に採掘キャンプは煌々と輝きを放ち、大音量のサンバが密林を揺らす。
フォゴは聞き込みを諦めた。さっさと切り上げて明日に備えるに限る。
相棒を探した。
〈二枚目マルセロ〉、その名に偽りなし。傍らに美しい女をはべらせている。濡れ羽色の長い髪、傲慢で勝ち気な瞳、悩ましい鎖骨のくぼみに小さなほくろ、大きく開いた胸元を飾る金の首飾り。密林の獰猛な獣たちも跪くであろう女の名は〈半月〉。マッチョで野卑な男の世界で働く賄い婦の一人だった。
「友よ、いい夜だな」マルセロが言った。「ちょうどお前の話をしてたところだ」
「予定通り明日は上流のキャンプを目指す」とフォゴは言った。「早朝にはここを出る。それまでに干からびちまわないようにだけ気をつけろ」
「硬いこと言わずに話を聞けよ」
マルセロはこれ見よがしにメイアの腰に手を回した。
「要するに俺はメイアに交渉してたんだ、『二人いっぺんに相手してくれる気はねえか』ってな」
「なんだ二枚目、俺に文句があるなら素直に言えよ」
マルセロは首をかしげた。
「さもなけりゃ、どうして俺が、ヤクのやりすぎでよぼよぼの老人みたいになったお前の体を拝まなきゃならん。絶対にごめんだぜ、いくら金を積まれてもな」
マルセロの腕の中でメイア・ルアがくすくすと笑った。笑うと目元が半月型になった。
「貴方っておもしろい人」
「だろ?」マルセロが請け合った。「俺の連れだぜ。見ての通りのいい男だし、その上気が利いてる。ただ残念だったな、今夜あんたの聖なるパンティのなかに金を忍ばせるつもりはないらしい」
「そうなの?」女はフォゴをまっすぐに見据える目を細め、指先を噛んだ。
「マルセロが大盤振る舞いしてくれる。随分景気がいいらしくてな。つい先日もスニーカーを新調したばかりだ。その汚らしい靴のことだが」
メイアは肩をふるわせて笑った。そのたびに金のネックレスが揺れた。ガリンペイロたちの気まぐれな聖母、残酷な女神。女はこれまでに四人の男を腹上死させた。愛と忠誠の証として男たちが女に貢いだ金の総額は一二○万ブラジルレアルを超えるという。眉に唾をつけて聞いた方がいい幾つかの大それた逸話はさておくにしても、この女を巡り対立した屈強な二人の男が殺し合いを演じたことは事実だった。
「ツレない人ね」
「ヴェルードのことが心配で気もそぞろなのさ」
「ボスを慕っているのね。忠実なワンちゃん」
「こうもいうな。『ブラザーコンプレックス』」
「あら、ボスの兄弟だったの?」
「みたいなもの、さ。しゃあねえ、一人で愉しむぜ」
メイアがマルセロを叩いた。
「あたしを物みたいに扱うのはやめて」
「うるせえ。金が欲しけりゃがたがた抜かすなよハイエナ女」
メイアは黙った。尊厳など目の前に積まれる金の山に比べればゴミのようなものだ。
「そういやお前、どこで寝るつもりだ?」マルセロが訊ねた。「なんならメイアんところに来るか? 事が終わってから呼んでやってもいいぜ」
「親切なお友達が自宅を提供してくれたのさ」とフォゴは答えた。
「そうだったな」マルセロはにやついた。「そのうち礼を言わねえと。まあ当分、地獄観光の予定はねえわけだが」
「おやすみ、弟くん。いい夢を」
メイア・ルアはひらひらと手を振った。半月の瞳。贋作みたいな笑顔だった。引き攣り、凍っていた。商売女にしては随分とぎこちなかった。
ブッホの小屋へ向かう途中でコセイラと出くわした。
「何油を売ってんだ」とフォゴは言った。「この夜を愉しめよ」
片手にテキーラの中瓶。男はそいつを高く掲げた。
「乾杯」とフォゴは言った。
夜が更けても音楽は鳴り続けていた。カール・ダグラスの『カンフー・ファイティング』。阿呆づらを下げて踊る強面の男たちの姿が目に浮かんだ。
男はじっとフォゴを見つめた。人殺しの目。
「混ざればよかった」
甲高い声で男は言った。下卑た笑みを浮かべた。人殺しの目は笑わない。
「混ざればよかったんだ。ありゃあいい女だぜ?」
「どうして知ってる」とフォゴは言った。「こっそり盗み聞きか?」
「俺なら混ざったな」聞いていない。「ありゃあいい女だ。俺もいっぺん、買ったことがある。何度だって買いたくなるな。極上の麻薬みてえな女だ」
「ならお前が行けよ。喜んで混ぜてくれるぜ。あいつはそっち方面に関しちゃタチが悪くてな。複数でヤるのが好きなんだよ」
「知ってる」と男は言った。
何を考えてる。
「どうして知ってる」再度訊いた。
「伝わってくんだよ」とコセイラは答えた。「つながってるからな」
「どういう意味だ」
「ここではなんでもつながってる」
なんなんだ。
なんにせよ、まともではない。
気味が悪くなってきた。ケツの拳銃の柄を握った。愛しのイタリア製拳銃、すぐに熱くなる感じやすいタンフォリオ。そいつがいまは、冷えている。
「何の話をしてる」
「そうだよ」コセイラはうなずいた。そして「ちがう」と言った。きびすを返した。行くのか?
わけがわからない。
痩せこけ、骨ばった背中に入れ墨。ミミズが這った跡のような下手くそな文字で記されたたくさんの差別用語。幾つもあるスペル間違いが嫌でも目立った。
「ありゃあいい女だ。極上の麻薬みてえだ」
寝言みたいなぼんやりとした声で繰り返した。入れ墨の文字が闇に溶けて消えた。
遠くで音楽に合わせた喚声が聞こえた。なぜかそっちまで贋作みたいに思えた。ブッホの小屋へ歩みを早めた。雨も降っていないのに地面はしっとりと濡れていた。熱帯の夜露のせいだろうか。ぶよぶよとした靴底の感触が不快だった。
ブッホの小屋に着いた。粗末な代物だ。〈採掘人筆頭〉など名ばかりで、小屋の快適さは並の連中と変わらない水準だった。要するに生活空間としては最低ということだ。適当に木の柱を積み上げただけの壁は隙間だらけ、天井にも同じく木材を用いて貧弱な骨格が組まれ、上からビニールシートをかぶせただけ、地面は土が剥きだしで切り株さえ残っている。ゴキブリが目の前を横切った。煩わしく飛び回る蚊は手早く殺した。マラリアの贈りものなんぞは丁重にお断りしたかった。
小さな空間の中央に、廃屋に張った巨大な蜘蛛の巣のようなハンモックが吊されていた。あきらめて背中を預けた。網まで湿っていた。最悪だ。
構わず目を閉じた。早急に夢の国に避難するに限る。
体の火照りは忌々しい気候のせいだろう。メイアと寝る気には到底なれない。向こうの小屋ではマルセロがメイアとよろしくやっている。だから何だ?
2
熱帯の密林にそぐわない、奇妙に冷たい手のひらが、フォゴの顔をぺたぺたと触っている。手首を掴んでひねりあげた。悲鳴。声の出所から立ち位置を割り出し首元に掌底をたたき込んだ。人影が倒れ、小屋が軋んだ。飛び起きた。ハンモックの縁から人影を見下ろし、拳銃を突きつけた。
「そのまま動くな。動けば殺す」
ハンモックから降りた。裸足の足の裏が土にめりこんだ。眠っているあいだに、生温かい水が地面を浸していた。
壁際に倒れ込んだ男の額に照準を固定。就寝前と比べ視界は鮮明だった。朝が近い。壁の隙間から青白い光が入り込んでいた。男はカーキ色のショートパンツに、上半身は裸、足下も裸足。男が顔を上げた。
どうなってる。
ブッホだった。
銃を向けられているというのに、その顔には恐怖も動揺もうかがえなかった。ひどく落ち着いていた。微笑すら浮かべていた。
「念のためだ、手ぇ挙げろ」
しかし男はこれを拒んだ。あるいは拒まざるをえなかった。挙げる手がなくなった。指先から順にいきなり溶けだした。
ブッホは一歩後方に下がって距離をとった。裸足の足も溶け始めた。ブッホの体全体が、顕微鏡の必要ない、馬鹿でかいアメーバのようになった。鮮やかな真紅色の体が透明の粘液に覆われている。てっぺんに、ぶよぶよに膨張したブッホの頭部が、すぐにでもずるりと形を崩してしまいそうなやわな強度だけを残して載っている。
ブッホの顔は恍惚をたたえてゆるみきってしまった。フォゴは間の抜けた顔面に銃口を向けたまま、戸口へと回り込んだ。ぐにゃぐにゃに歪んだブッホの口内から、ひどく痩せた赤黒い触腕がフォゴに向かって伸び出した。大切な宝物を探して、見えない闇のなかにおそるおそる手を突っ込むような、注意深いスピードで。
フォゴは目前に迫った〈腕〉をぎゅっと握った。フォゴの指は驚くほど深く真紅の肉に食いこんだ。ブッホが悲鳴をあげた。言語化不可能な声。工事現場の騒音に似た、幾重にも重なった金属の軋みのような叫び声。
絶叫とともにのたうち回るブッホの頭に再度狙いをつけた。
「化け物め、最初からこうしてりゃよかったぜ」
引き金を引いた。やわなブッホの頭が吹き飛んだ。頭のなかにたっぷりと詰まった、粘液まみれの「やわらかく赤いもの」が飛び散り、背後の壁に抽象的な赤の図像を生んだ。
「くそったれ」思わず吐き捨てた。
外で銃声。一、二、三発、立て続けに。そう遠い場所じゃない。
小屋を出た。一歩踏み出したとたんに、とぷ、と地面が音を立てた。靴底がわずかに、泥土に沈んだ。強い粘性を持った水がそこらじゅうでたまりを作っている。
マルセロの怒号が響いた。声の方に走った。小屋の一つに当たりをつけた。小屋の前まで来ると硝煙の匂いが鼻を突いた。
戸を蹴り開けた。全裸のマルセロが拳銃を握りしめて立っていた。地面にメイア・ルアが倒れていた。目をかっと見開いている。腹に風穴が開いている。
腹のなかで蠢くものがあった。ブッホの死体に入っていたのと同じもの、アメーバ状の何かだ。それでいて体色は違っていた。今度は藍色のアメーバだった。
巨大アメーバはメイアの銃創の穴から、ねばねばとした多本腕を放射状に伸ばした。多くの男をこましては金と命を金鉱の濾過器よろしく絡め取ってきたメイアの裸の体を、我が物顔で占有した。
フォゴはきびすを返した。
「どこ行く」
「死体に構う理由はねえ、こんな異常な場所はさっさとおさらばだ。それとも、ここでじっくり生きもの観察としけ込むか?」
樹上で鳥が啼いた。密林のいたるところで獣たちが起き出す時間だ。ねばつく水たまりを避けて早足で歩いた。マルセロが追いついてフォゴと肩を並べた。
「ドミンゴをくれよ」
煙草をやった。マルセロはたっぷり煙を吸いこんだ。わなわなと肩をふるわせている。煮えたぎる怒りを鎮めようと努めているのだ。
「畜生! やっぱりもう一発ぶちこんどけばよかったぜ!」結局爆発した。「あの女、俺に噛みつきやがった!」
男の首の横に噛み傷があった。マルセロは紫煙を吐いた。そしてメイア・ルアの噛み傷を掻いた。
「ありゃあ何だ? 新しい寄生虫か?」
「わかっていることが一つだけある。ここはアマゾンだ」
「わけのわからねえ新種の寄生虫が突然現れたところで、不思議はねえってか」
「ノックアウトされなかっただけでも俺たちはツイてた。だろ?」
「そうかもな」マルセロはメイア・ルアの噛み傷をまた掻いた。本人は無意識のようだった。ここを出たらさっさと医者にかかるべきだろう。手遅れになってなけりゃいいが。
「あの女の腹ん中をノッキングしてる時は、こんなことになるなんてこれっぽっちも――」
マルセロは言葉を切った。小さな目を驚きに見開いた。
道の真ん中に裸の女が突っ立っていた。
気まぐれな聖母、残酷な女神。たったいまぶち抜かれたばかりの腹の傷は跡形もなく、きめ細やかに整っている。半月型の瞳は根拠不明の多幸感にどんよりと曇って見える。
「よう」マルセロが呟いた。「最新型の寄生虫は、短時間で傷の修理もお任せか?」
「妙なのはそれだけじゃない。考えてみろ、どうしてさっきの小屋に残してきたあの女が道の先にいる? 林のなかをかき分けて回り込んだのか。だとして、何のために?」
優雅に議論を深めている猶予はなかった。ヤバい状況が立ち上がっていた。マルセロも同じことに気づき、舌打ちをした。
道の両側の林のなかで、無数の目がぎらついている。夜通し馬鹿騒ぎを続けた金鉱採掘人。いまは森で狩りをするオオカミの群れのように、息を潜め、じっとこちらに眼を注いでいる。
メイア・ルアを見た。糸が切れたように、頭がかくりと前傾した。ぎぎぎ、と細かく震えながら元の角度に戻った。瞳の半月がさらに欠けた。うなずき、それから笑ったのだ。
メイア・ルアはフォゴたちに背中を向けて歩き出した。後に続いた。他に選択肢はなかった。林の中からガリンペイロがぞろぞろと出てきた。そして道を塞いだ。
「気味が悪いぜ」とフォゴは呟いた。
皆、同じ顔だった。一様に幸せそうな顔をしていた。
「恍惚」
密林のなかを暫く歩いた。誰も、一言も発さなかった。マルセロが肌を掻く音。一瞥した。メイア・ルアの噛み傷。本人は無意識。じっと前だけを見つめている。
視界が開けた。肩透かしを食らった。
一行はオリノコ川に着いた。すぐ下流に哨戒艇が見えた。メイア・ルアのあとについて船のそばに降りていった。
フォゴは言った。「要は、よそ者は帰れと?」
メイア・ルアは船の傍で止まった。乗れ、ということだ。
「願ったり叶ったりだ。なあ――」
言葉に詰まった。マルセロはひどく青ざめていた。
「おいアミーゴ」フォゴは呼びかけた。「さっきまでの威勢はどうした」
「そうさ」とマルセロは言った。「こんな場所とは、さっさとおさらばだ」
マルセロは、首の傷を掻きながらふらふらと進んだ。
船に乗り込んだ。メイア・ルアとガリンペイロたちは微笑をたたえたまま船を見送った。フォゴは上流へ向かって船を発進させた。
「クソが」呟いた。
すぐ川下に金鉱採掘人たちが小舟を集め、道を阻んでいた。「理由はさっぱりわからねえが、連中はどうしても、俺たちを奥地へいざないたいらしい」とフォゴは言った。「大人しく従うべきか? なんなら船をほっぽり出して徒歩で――」
マルセロを見た。うつむいている。眠ったのか?
「――聞こててるか、マルセロ」
長髪に隠れて表情がうかがえない。オールバックに固めていた髪はいまやすっかり重力の言いなりだった。肩を揺すった。マルセロが顔を上げた。生気のない土気色の肌。すぐさまブッホを思い出した。
「ああ」気怠そうに、男は言った。「なんだ?」
二枚目マルセロは幹部のなかでも怒りっぽいことで知られる。その男の表情が、いまはこの上なく幸福そうに、だらしなくゆるみきっている。
3
川の両岸の樹に括りつけられた長い蔦が、高い枝から川の上に降りている。蔦のロープの中央に、逆さまの猿の生首がぶら下がっている。歯と歯の隙間に蔦を差し込むことで固定されている。まだ新しい。血が滴っている。禿鷹たちもまだ目をつけていない。
警告なのだろう。立ち入るなということだ。奥地へと進むほど多様な部族がいる。なかには血の気の多い連中もいる。
船は前進をつづけた。危険があろうが、そうするより他に仕方がなかった。進んだ先から、元来た道が姿を変えた。道の両脇より極彩色が芽吹き、アメーバ状生物がぎっしりと繁茂し始める。水路は残れど、両脇を固めた得体の知れないアメーバたちの間を、何日もゆく気にはなれなかった。
キャンプを出て最初の数日はオリノコ川に住む魚たちに餌をやることができた。いまでは嘔吐しても喉からせり上がってくるのは胃液だけだった。高熱は三日間つづき、四日目には引いたが、六日目にはまた発熱した。典型的な三日熱マラリアの症状。二度症状が出て、二度引いた。
三度目の高熱にうなされながら、フォゴは船を操舵している。採掘キャンプを出てから十日以上が経過していた。
マルセロは船室の隅にじっとうずくまっている。もう何日もそうしたままだった。焦点の合わない目で、虚空を見つめ続けていた。食事は一切受けつけなかった。キャンプ出立以来、眠っている姿を見せたこともなかった。風貌は十年も時が経ったかのようにやつれてしまった。
船室に腐臭が漂っていた。臭気の元はマルセロだった。
それでも生きている。なぜ、生きているのだ?
マルセロの周囲には常に水が溜まっていた。粘度の高い水は何度拭ってもすぐに溢れた。マルセロの皮膚上の分泌物だった。メイア・ルアの噛み傷は翌日には治ってしまった。早すぎた。誰かが中から蓋をしたかのようだった。それは本当のことかもしれないとフォゴは思った。それ以上は考えるのをやめた。
十五日が経過した。症状が落ち着いた。治療を行わず、マラリアが慢性化すると発熱の間隔が延びる。今回は熱が引くまでに四日かかった。地獄への旅程は順調といえた。
いまじゃ甲板に出ることさえ命がけだった。時折凶器のスコールが降るためだ。甲板には幾つもの矢が墓標のように突き立てられており、片付けのできる勇者は不在だ。
マルセロは口数もほとんどなくなった。夢を見ているような顔つき、よどんだ目。定位置となった船室の隅、マルセロの傍を通り抜けようとしたときに、腕が伸びてきてフォゴの足首を掴んだ。すぐに振りほどけそうな弱々しい力、子供並みの握力だった。
「アミーゴ、俺を殺せ」とマルセロは言った。
マルセロを剥がそうと腕を掴んだ。フォゴの指がマルセロの腕に、ありえないほど深くめりこんだ。驚き、マルセロを見た。マルセロは見たこともない情けない顔でフォゴをじっと見つめていた。
「頼むよ」
フォゴは首を横に振った。外で硬質な音が響いた。甲板をハリネズミよろしく飾る矢のコレクションが増えた音。
十六日目、マルセロの様態が急変した。半日かけて表情が弛緩し、崩れていった。ときどき何かわからない言葉を呟いた。口元からしきりにだらだらと垂れる唾液をゆったりした手つきで何度も拭った。夕方にはもう拭おうともしなくなった。
白痴同然。マルセロは件の恍惚に支配されてしまった。殺せとフォゴに頼んだとき、マルセロはすでに、自らがたどる惨めな運命を察知していたんだろう。
十七日目、炎の季節の四度目の到来。一般的には、三度目の高熱を発症した段階で非常に危険な状態にあるといわれる。フォゴは四度目だった。
自分があの世へ行く前に、せめてマルセロの息の根を止めてやろうと思った。拳銃を探した。見つからない。いつの間にか視界が極端に狭くなっている。探しているあいだに意識が朦朧とし始めた。視界がぼやけていく。
電池切れだ。
イタリア製拳銃はいつも通りの場所、お決まりのヒップポケットにつっ込んだままだと思い出した。手を伸ばした。随分と遠く感じた。狭い視界のなかに相棒の足を捉えた。血と泥でペイントされた汚らしいエアマックス95。
笑える。
結局拳銃には手が届かない。
目を閉じた。
*
襲撃したモーテルにたまたまママイが居合わせていたと知ったとき、フォゴは悪魔の囁きを聞いたような気がした。曰く、「運命の皮肉を愉しめよ」。
忘れもしない、ヴィアナ・ド・カステロ通りの安モーテル〈コモドーロ〉、ルームナンバーは大麻を示すスラング〈420〉を避けた〈419+1〉。ルームプレートを盗まれないための処置。
久しぶりに再会したママイは、すでに死神の口づけに魅入られていた。これ以上尊厳を奪われぬようにと作り上げた贅肉の鎧を身に纏い、彼女自身と比べるとよほど貧相な男を下敷きにして、息絶えていた。動力を停止したプレス機みたいな死に様だった。
ママイの脳天に死の弾丸を送り込んだのは十五の誕生日を迎えたばかりのヴェルードだった。母親だとフォゴが言うと、ヴェルードは何も言わず静かな笑みを浮かべた。そしてフォゴに拳銃を差しだした。
フォゴはママイの体にありったけの弾丸を撃ち込んだ。ぶよぶよの醜い肉を蜂の巣にした。いつの間にか叫び声をあげていた。
ひとしきり無意味な通過儀礼が済むと、ヴェルードはフォゴの肩を拳固で叩き、「お前のものにしていい」と言った。ガキの手の中で歓喜に身を焦がすホットな拳銃、9ミリのイタリア製拳銃のことだった。
モーテル襲撃事件を機に当時ロシーニャを仕切っていた〈天使と野蛮人〉の時代が終わり、ヴェルードは十五歳の若さで覇権を握った。
年長の連中、中でもとりわけ〈兄弟〉と近しかった者たちのなかには、当然ながら、この若すぎる帝王の台頭に反発する者も少なからずいた。フォゴが全身に七発の銃弾を浴びたのは、モーテル襲撃以後の混乱と変革のさなかでの出来事だった。
二週間も生死の境をさまよった。
目を醒ますと生まれ変わっていた。
死の銃弾によって失われた血液。ヴェルードはフォゴが担ぎ込まれた病院に真っ先に駆けつけ、これ以上は提供者の身にまで危険を及ぼしかねないという限界の線まで輸血を行った。その後仲間が集まり、足りない残りの血を、少しずつフォゴに分け与えた。
負傷後フォゴが初めて目を覚ましたとき、ヴェルードはベッド脇のベンチで足を組み、ハードカバーの本に目を落としていた。廊下の窓が開いており、真昼の柔らかい風が吹き込んで、ヴェルードの栗色の長い髪を揺らしていた。ヴェルードが顔を上げた。女のように長い睫毛が上向き、灰色の虹彩を持つ子供の目がフォゴを見た。
ヴェルードは微笑んだ。
「おかえり、死にぞこないのリトル・フォゴ」
ミイラみたいに包帯をぐるぐる巻きにした無防備で惨めな姿を晒しながら、
「もう一度その名を口にしたら、あんたの頭をぶち抜くぜ」
とフォゴは言った。
命の恩人になんて口を利くんだと、マルセロがフォゴを怒鳴りつけた。ヴェルード本人は何も言わず、ただ静かに笑っていた。あの日からいまに至るまで、ヴェルードがフォゴを「リトル・フォゴ」と呼んだことは一度もない。
*
歌が聞こえた。
目を醒ました。窓から差し込む真昼の光線。あれから何日経ったのか。哨戒艇の僅か120馬力のエンジンが、地べたに這いつくばるフォゴの硬直した体をマッサージしている。
船が進んでいた。誰が運転を? 凝り固まって言うことを聞かない上半身を、無理矢理起きあがらせる。
操舵席に見慣れた男の背中があった。二枚目マルセロ、ヴェルード第二の古参幹部。
歌声。まるで聞いたことのない旋律。とてもこの世のものとは思えない、天上の響き。
天上の歌はマルセロの喉を通して生まれてくる。
こいつは夢だろうか。もしくは、ここがもう天国か。目を閉じた。夢なら覚めろ。
歌声。どれだけ繰り返し聞いても掴めそうにない複雑な構成、奇抜に跳ねまわるリズム。歌声は木琴のような柔和な響きをたたえている。発声は赤ん坊のあえぎに酷似していた。
いつまででも聞いていられると思った。だが終わりがきた。
歌声が止み、続いてエンジン音も止んだ。船が停止した。フォゴは再び目を開けた。
マルセロが操舵席から立ちあがった。泥だらけのエアマックスを引きずるようにして歩く。フォゴの前に立った。フォゴを見た。
気持ちの悪い目つきだった。あまりにも澄み切っていた。フォゴの知っているマルセロは、もういないんだろう。中身がそっくり入れ替わっているのだ。
「じゃあな」その言葉はフォゴの口を自然とついて出た。
無反応。マルセロは結局、黙ったまま船室を出て行った。フォゴを振り返りもしなかった。
窓枠に手を掛けて立ち上がった。体は極限まで衰弱しているが、死神はようやくフォゴの頭上を過ぎ去ったようだった。
体を引きずって甲板へ出た。白日に目を細めた。前方で川と湿地が繋がっていた。それはここが川の始まる場所であることを意味していた。
湿地は水のなかにそそり立つ木々を鏡のように映し出していた。密度の薄い水中木の林の奥に人工の建造物が見えた。アマゾンのいくつかの部族が築く、〈シャボノ〉と呼ばれる円形の建物。一つの部族が共同生活を送る、巨木の壁とシュロ葺の複合住居。それはさながら、鏡面の水辺に浮かぶ場違いな要塞だった。
原住民たちはシャボノの手前に立っていた。ほとんど全裸、腰衣で陰部を隠しただけの男たち、女たち。
マルセロはすねまでの浅い湿地のなかを、彼らのもとへ向かって進んでいった。彼らとの距離が縮まるごとに、マルセロの体はどろどろと崩れていった。マルセロの変化に呼応するように、部族の待ち人たちもまた姿を変えた。
彼らの傍まで辿り着いたとき、マルセロの体はもう跡形もなかった。そこにいるのは人間だったころの原型を留めない、紫色の巨大アメーバだった。
部族の連中が変異して生まれたアメーバたちは、歓待するように、マルセロの個体を取り囲んだ。中心のマルセロに向けて体を密集させた。接触部が次々と結合していく。マルセロをすっかり取り込み、彼ら同士も境界を取り払って、より大きなアメーバ個体に変異した。事が終わると満足したように、村の奥へと戻っていった。
フォゴはマルセロの最期を看取ると、船倉に下りて備蓄された保存食をいくらか腹に詰め込んだ。血と泥と自らの汚物で汚れた服を脱いで新しいTシャツに袖を通すと、いくらか生気が戻ってきた気がした。
船を下りた。鏡の水面に足を浸けた。水面がたわみ、波紋が拡がった。ただの水ではない。粘度の高い透明の液体が一帯に満ちている。
円形建造物を目指した。外郭に辿り着き、切り通しに体を滑り込ませた。暗く狭い通路を進んだ。
切り通しを出た。日の眩しさが戻ってきた。円形家屋に囲われた中央広場は、太陽の光に晒されていた。
湿地帯に築かれた〈濡れた村〉。先刻目にした巨大なアメーバとはかけ離れた、真っ当に人の姿をした原住民の営み。
もっとも、真っ当なのは外面だけのことらしかった。彼らは静謐の中にいた。もれなく穏やかな目をしていた。フォゴの来訪に対しても、誰も何の反応も示さなかった。画一的なる恍惚をたたえ、村人総出で一心不乱に藁を編んでいた。制作途中の作品が広場の中央に鎮座していた。
飛行機を象った藁製のオブジェ。
切り通しを通じて四人の男たちが現れた。森で仕留めた巨大な獏を運んできた。男たちは作りかけの藁の飛行機の前に獏の死体を置いた。鉈を手にした男が獏の頭を切り落とした。祈祷師とおぼしき白髪の老人がフォゴにはわからない言葉をぶつぶつと唱えた。他の者たちは作業の手を止め、目を閉じて、祈祷師の唱える言葉に聞き入った。
「夜になると彼らは、あれに火をつけるんだ」
フォゴは振り向いた。
いつまでも無垢の面影を残す童顔。子供みたいな目に宿る灰色(シンザ)の虹彩。西洋の子供のように上品にウェーブした栗色の髪。一瞬、ここがアマゾンの密林であることを忘れてしまいそうになる。
「随分探した」
ヴェルードは屈託なく微笑んだ。ただそれだけで、一連の騒動がすべて嘘になる気がした。
「藁で作った実物大のセスナに、部族を代表する祈祷師が火がつける。熱帯雨林の夜の底が焦げつく。深紅に染め上げた空。まったくもって興味深い、アマゾン部族初の積荷信仰。村のはずれには滑走路もどきまで作られてるよ。そうやって状況を再現すれば、鋼鉄の鳥を象った精霊が再び戻ってきてくれると信じてるんだ」
シャボノの屋内からわらわらと人が出てくる。広場はにわかに活気づいた。
セスナの周囲で大人の男たちが火を熾した。ケシの実、麻の実が大量に燃やされ、白煙をあげた。くり抜き太鼓、祝福の聖笛の音が響いた。
騒ぎが始まるまで大した時間はかからなかった。煙を吸いこんでハイになった男たちが、叫び声を上げ始めた。
べったりと青や赤や黄色の塗料を全身に塗りたくり、羽製の首飾り、鼻輪、骨細工、貝殻細工で装飾した少年たちが、散り散りになり、大人の男たちの正面にひざまずいた。ガキどもは覚束ない手つきで大人たちの腰布をほどいた。屹立したペニスが露わになる。ピラーリョはそれを口腔に含んだ。
「シンバ族には性の段階が三段階ある」ヴェルードは言った。「彼らは少年期において、青年男性に性的な奉仕を行う。青年期に入ると、それまでと反対に少年からの口唇性交を受ける。そして成人するとついに異性愛を行うようになる」
「シンバ族に生まれなくてよかったと心から思うね」とフォゴは言った。「マルセロあたりは喜びそうな話だが」
ガキが一人駆けてきた。ヴェルードのシャツを引っぱり、「ビッグマン」と言った。ヴェルードはガキの頭を撫で、フォゴにはわからない言葉を発した。ガキは残念そうな顔をして走り去っていった。
「ビッグマン」とフォゴは言った。
「崇められてる。彼らに恩恵を与えたと思われてるんだ」
「違うのか?」
うなずく。
「マルセロが死んだ」とフォゴは言った。
「生きてるさ」とヴェルードは言った。「人間的な原理に沿って定義するなら、確かに、命の形状は変わったといえるかもしれないが」
「ここの連中が授かった恩恵ってのは?」
「少なくとも黄金じゃないことは確かだね」
「マルセロが手にいれたものと同じものか?」
「つまり?」
「幸福のあまり気が緩み、みっともなく鼻の下を伸ばし、軟体動物よろしく骨抜きに。終いにゃ全身ぐずぐずに溶けだし、でかくてキモい、アメーバみたくなっちまう、これ以上ないってほどの惨めな末路」
ヴェルードは静かに微笑んだ。「物騒なものはしまいなよ」
「知ってることを話せよ」とフォゴは言った。タンフォリオの銃口をかつての持ち主に向けたまま。
4
シンバ族の女はおおよそ十四歳で妊娠、出産する。出産は森の中で行われる。誰の助けも借りず、たった一人で。彼らにとって産まれたばかりの子供は人間ではなく精霊なのだという。母親に抱き上げられて初めて人間となる。だから母親は選択を迫られる。精霊として産まれた子供を、人間として迎え入れるか、そのまま天に返すか。
マルセロは共に暮らした部族の話をしながら進んだ。シンバ族が拓いた密林の道は獣道同然だった。鬱蒼として、朝の光も大地まで届くことはない。
しばらくして歩を止めた。目の前に異様な物体があった。密集する木々の間にぶらさがった褐色の球体。
「白アリの巣だよ」とヴェルードは言った。「精霊のまま天に返すときは、白アリの巣に子供を放り込む。へその緒がついたまま、バナナの葉にくるんで」
「蟻に食わせるのか?」
ヴェルードはうなずいた。
フォゴは何度かうなずいた。それから両手をあげた。「俺たちに何の関係が?」
「この中にもいる。シンバ族の新しい母親が仕込んだんだ。二日前にね」
フォゴは肩をすくめた。「見りゃあわかる」
アリ塚の隙間から、バナナの葉がはみ出していた。周囲にはハエがたかっていた。
ヴェルードは手にした山刀で巣の上部を切り崩した。巣の中に片手を突っ込み、バナナの葉の包みを掴みあげた。
包みを地面に置いた。葉に巻きつけられているのは、中にいる子供の腹から伸びたへその緒だった。ヴェルードはそれを引きちぎった。包みを開いた。
悲惨なことになっているはずだという予想が容易に立った。だが予想ははずれた。現れた子供の体に、蟻に囓られた跡は一つもない。小さな目、焦点の合わないが開いている。まばたきをした。
「ご覧の通り、生きている」とヴェルードは言った。
「こいつは何だ」とフォゴは訊ねた。
強い力で押しつぶされたみたいな平べったい姿をした赤子。そうだと言われなければ人間の子とはわからない、得体の知れないグロテスクな生物だった。
「人間の姿を捨てて生き延びたんだ。防衛本能を働かせた」
ヴェルードは子供の胸を指の関節で叩いた。石壁を叩いたような、硬質な音がした。
「この子は〈粘菌〉と同化し、体質を強固な〈菌核〉に変容させて我が身を守った」
「粘菌?」
「僕は暫定的にそう呼んでいる」とヴェルードは言った。「僕たちの世界に存在するものの中では、性質的に最も近い」
ヴェルードは扁平のかかった子供をバナナの葉の上に置いた。
「置いていくのか?」
「村に戻そうにもどうせ彼らは受け容れない。それに当分死にはしないよ。粘菌の変形体も同じことをする。硬度の高い休眠体になって、成長に不適当な環境、生命を脅かす状況から身を守る。いわば緊急避難形態さ。一度菌核になると、元に戻るまでに最短でも二週間はかかる」
シンバの道をまた歩き出した。フォゴは疑念に囚われはじめた。さながらアマゾン奥地の観光案内人。こうして密林のなかフォゴを連れ歩くことを、ヴェルードはあらかじめ想定していたのか。
森が開け、巨大な大地の裂け目が現れた。
「新たに見つけた採掘地点だ。手つかずの金脈が眠ってる」
「ならどうして金鉱採掘人を呼びつけない?」
優に一ヶ月以上ものあいだ、連絡を絶って。
「君を呼んだじゃないか」とヴェルードは言った。
眉をひそめた。「呼ばれた覚えはない」
崖の一箇所に傾斜がついている。人工的に掘削され整えられた谷底への降り口。シンバ族か他の近隣部族が、何年もかけて掘ったんだろう。
「正確には彼らが君を呼んだんだが」
「それは誰だ」
「〈彼ら〉とは〈僕たち〉のことだ」
フォゴは鼻で笑った。「悪いが禅は趣味じゃない」
「そう難しい話じゃない。彼らはそれぞれが別個に独立した意識を保ちつつ、互いにそれを共有し合う複合体――」
いきなりスコールが降ってきた。地上から深さおよそ一五○メートル地点にいるフォゴたちのもとに、大きな雨粒が弾丸のように打ちつけた。
「――つい先日、僕も仲間入りをしたところだ」激しい雨にかき消されそうな声でヴェルードは言った。
雨はすぐに止んだ。
「どういう意味だ」とフォゴは訊いた。
「図ったかのようなタイミングだ」とヴェルードは言った。
立ち止まった。
「なんだ」
「すぐにわかる」
言葉通りになった。
まず、岩盤が啼き始めた。あたり一面の岩肌が、敵を威嚇し唸り声をあげる獣のような音をたてて軋んだ。そして生命が芽吹いた。死んだコセイラの体内に巣くったもの、腹の中に潜みメイア・ルアの行動を操ったもの、マルセロが恍惚の末にその身をやつしたなれのはて。それらに類する巨大なアメーバ状の生物、ヴェルードが粘菌と呼んだものたちが、岩盤を突き破って這いだし、渓谷全体を覆い尽くした。殺風景だった青黒い岩肌が、粘菌が全方位をびっしりと埋め尽くす、極彩色の地獄の壁に変異した。
「僕は彼らを〈生ける虹〉と名付けた」とヴェルードは言った。「見た目は粘菌に酷似している。鮮やかで多彩な色味を持つこと、這って移動をし、体内に他の生物を取り込んで捕食することも共通している。異なる点は――」
「奴さんは人に寄生する」とフォゴは口を挟んだ。
ヴェルードは微笑を浮かべた。無言の肯定。
「もしかするとここに来るまでに目にしたかもしれないな。アルコ・イリスの宿主となった〈粘菌人間〉が、互いに融合したり、あるいは一人が複数に分裂したりするのを」
また歩き出した。
採掘キャンプの朝のことを思い出していた。メイア・ルアの不可解な空間跳躍。あの女はそれだったのかもしれない。あらかじめ分裂していた――二人、ないしそれ以上いたのだ。
「マルセロの末路もそうか」とフォゴは言った。「アメーバ仲間の誘いに乗って、尻軽女よろしく連中と絡み合って消えちまった」
「そのことなら知ってる」とヴェルードは言った。
「どうして知ってる」
「伝達された」
「『意識を共有する複合体』」
ヴェルードはうなずいた。「アルコ・イリスの体から分泌される〈粘液鞘〉が、個々の意識と感覚を、鞘で繋がる他の個体すべてに伝達する。
あれか。
「ねばねばした、透明の」
「それだ」
「ここまでさんざお目にかかってきた」
「意識の『回線』だと考えてもらえばいい。もしくは超能力者の〈遠隔感応〉を想像するといい。粘液鞘は距離を無化し、お互いの気持ちを〈受信〉可能にする」
「本当に、いまお前の――」
その言葉はフォゴの喉につっかえて、なかなか出てこようとしなかった。
「――お前のなかにもいるのか」
ヴェルードは少しだけ立ち止まりフォゴを振り返った。何も言わず口元をわずかにゆるめ、再び前に向き直った。
沈黙のさなか、水気を含んだ足音だけが渓谷内に響きつづけた。言葉を交わさぬまま、さらに倍以上の高さを降りた。
渓谷の最深部に辿り着いた。
極彩色のアルコ・イリスに覆われた地面の中央に、大破したセスナが鎮座していた。六人乗りの小型単発機206、貨物ドアがついた通称〈スーパースカイワゴン〉。機体は焼け焦げ、黒ずんでいた。
ヴェルードは微笑を浮かべた。「まったく、神の悪戯としか言いようがない。あるいは子供の馬鹿げた空想だ。『ある日、アマゾン上空を飛行中の小型飛行機を、宇宙から降ってきた石ころが直撃した』なんてね。セスナは墜落、オリノコ川流域近郊に大口を開けた渓谷に吸いこまれていった」
「他にも幹部連中が乗っていただろう。セッコは。ショコラータはどうした」
「アルコ・イリスは彼らのことも生かそうとしたが、僕が息の根を止めた」
「なぜだ」
「なぜ。マルセロが死を望んだとき、君は手を下してやらなかった。そろそろ後悔し始めている頃かと思ったけれど」
「……」
「いまさら驚くことじゃない、さっき説明した通りだよ。マルセロはとっくに粘菌人間になっていたからね。マルセロの分泌した粘液鞘は船上から川へと流れ出して、他のアルコ・イリスたちの分泌液と結合した。受信機の完成だ」
周囲の壁に付着していたアルコ・イリスが、セスナの前に集まってきた。
「そうなれば元は同じ人間、理解は容易い」ヴェルードは構わず話をつづけた。「一方で、アルコ・イリス相手じゃそうはいかない。脳を持たない彼らのことを理解するのはとても難しい」
中央に集まったアルコ・イリス群体の外殻が、沸騰した液体のようにふつふつと沸き立った。アメーバ状の平べったい体から、幾つもの突起物が垂直に伸び出した。屹立するそれは細長い円錐形の輪郭を持ちつつなめらかな曲線を描いている。頭頂部がぽっこりと膨らみを帯びて、細長い縦長の球体を象った。質感は人の内臓のそれに似ていた。
「粘菌は成長の過程で姿を変える。流動的な体を這わせて自由に移動する〈変形体〉から、胞子を蓄える〈子実体〉にね。子実体が胞子を飛ばし、別の土地に降り立つと、中から原虫が這い出して他の原虫と接合し、バクテリアを捕食しながら再び変形体に成長する。彼らはこのサイクルを繰り返して増えていく。
僕はここでしばらくアルコ・イリスの観察をつづけてきたけど、彼らがやっていることは粘菌の活動にとてもよく似ている。ここで花粉を飛ばして子孫を残す植物のことを考えてみてもいい。子実体の活動は植物のそれに限りなく近い。機が熟せばアルコ・イリス子実体の殻が破れ、中から胞子が現れる。胞子はこの奈落の底の虹の森を飛び立ち、風に乗って空を旅する。そして降り立った土地で――」
「人の腹んなかに寄生する」
「――人間に力を与えるんだ」
フォゴは唾を吐き捨てた。
「すでに広大なアマゾンのほぼ全域が、アルコ・イリスの支配下に収まっている。それでいて依然、恐ろしいほどの感染力、感染速度をもって勢力を拡大しつづけている。未曾有の世界流行に発展するのは時間の問題だろう。つまり言い換えれば、間もなくアルコ・イリスは現生人類を終わらせるということ」
「それがどうして『力を与える』ってことになる?」
「一つ聞かせてほしい」フォゴの問いかけを無視して言った。「君はどうやってここまで辿りついた?」
「わざわざ答えなくても、筒抜けなんだろ?」
「君の口から聞きたいんだよ、リトル・フォゴ」
フォゴはほんの一瞬言葉をなくした。そして答えた。「どうやっても何も、ここまでほとんど一本道だった」
メイア・ルアと金鉱採掘人たちによる半ば強引な誘導に始まり、その後は終始、川の後方、川の傍流を覆いつくしてゆくアルコ・イリスの群生をひたすら避けつづけてきた。
「つまり道は規定されていた。彼らによって」ヴェルードは言った。「アルコ・イリスは、君をここへ導いたんだ。川の上に経路を作り、最短距離で」
「そう感じていた」
「それはなぜだと?」
「知るか」
「君と僕を引き合わせようとしたんだ」
「……何のために?」
「アルコ・イリスは個体同士で融合を行うが、どんな相手とでも融合できるわけじゃない。融合できる相手は決まっているんだ。そして彼らはそういう相手を見つけたとき、粘液鞘による位置把握によって割り出した最短の経路で、相手のもとへと突き進む」
「つまりアルコ・イリスは、俺とお前を融合可能な同属だと? まさか。連中がそう判断する根拠なんぞ、何も――」
心当たりがある。
「――血か」
腑に落ちた。
ヴェルードはうなずいた。「君の体に流れる僕の血液。そいつを解析し、それを根拠として、彼らは君をここへ招いたんだ。
さっき僕は、脳を持たないアルコ・イリスを理解することの困難さについて話したね。僕は今日まで、なんとか彼らの考えを、否、本能によく似た考えらしきものを理解しようと、ずっと努めてきた。その中で彼らについての一つの仮説を立てた。いまのきみの話を聞いて、確信が強まったよ。
やっぱりそうだ。彼らは必ずしも人間を敵視しているわけじゃない。僕たちに力を与え、共生を望んでいる」
キャンプ以来ずいぶん見慣れたものとなった表情が、ヴェルードの顔にも現れた。弛緩する表情筋。滲む多幸感。
「だとして、人に何の利益がある」とフォゴは訊いた。
「ここに来るまでに君が見てきた通りさ。いまさら説明するまでもない特質の数々――融合と分離、休眠体への移行による自己防御、粘液鞘を使った〈遠隔感応〉。それらが人間のものになる。
おまけに、ああ、彼らを見てみなよ。ひとつひとつの個体を、その形状を、身に宿した色彩を。どれも異なる。一つとして同じものはいない。素晴らしい、アルコ・イリスは全てが変種、全てが中間種、全てが異態なんだ。
彼らと同一化することで人間は、彼らの持つ多様性を継承することになるだろう。〈人間〉から〈粘菌人間〉へ——それは人類にとって進化に他ならない。ホモジニアスな体系内増殖の終焉、決定的な形態やライフスタイルが存在しない世界……」
ヴェルードは顔を上げた。きらきらと目を輝かせていた。恍惚にゆるみきっていた。人間だったころのヴェルードは、一番近しいフォゴにすら、こんな隙だらけの顔を見せたことはなかった。
ヴェルードは両手を広げた。「ハグしてくれ、リトル・フォゴ」
背後で胃袋みたいな子実体のいくつかに亀裂が走った。
「これから新たな時代が幕を開ける。もう黄金なんか掘る必要もない。貧困も争いも消滅するだろう。心をひとつにして、柔らかい水の中で、快楽だけを追い求めて生きていける。僕たちが――君と僕が、新たな時代の最初の担い手になるんだ。アルコ・イリスがそれを赦した。彼らが君をここへ導いたのは、そういうことだ。新人類の、僕たちはアダムだ。イヴは必要ない。二人のアダムだ」
9ミリの鉛玉がヴェルードの頭の一部を削り取った。頭のなかに詰まった虹色の粘菌が、あたりに飛び散った。
〈タンフォリオTA90〉が硝煙に香る。十五年前、ヴェルードがフォゴの母親を殺した銃だった。
「なぜ撃つ」笑みを浮かべたままヴェルードは言った。
「『なぜ撃つ』?」
フォゴはイタリア製拳銃を突き出したまま一歩踏み出した。
「どうして撃たれると思う? なぞなぞだぜ、お嬢ちゃん。よく考えろ。もっとも――」
二発目が右肩をぶち抜いた。
「あんたの解答を待っててやるつもりはさらさらねえが」
腕は簡単にもげて落ち、地面の上でアメーバ状に溶けだした。
「待て」
ヴェルードは一歩後ろに退いた。
「君が何を言っているのか――」
「先に言っとくが」ヴェルードの言葉を遮った。「エアマックスは関係ねえ」
「????」
三発目は土手っ腹に命中した。胴体が簡単に二つに割れた。フォゴは足を上げた。
「よせ」
よさない。股間を思いきり踏みつけた。ヴェルードの腰部がトマトのように弾けた。なんてやわな体! これで「進化」とは、笑わせる。
上半身だけになったヴェルードが、片方だけ残った手をばたつかせて惨めに後ずさりした。上目遣いでフォゴを見た。媚びへつらった顔つきで言った。「助けて。死にたくない」
「そのツラで命乞いをするなよ」とフォゴは言った。「あいつの誇りを穢すな。魂を冒涜するな。あいつは大アマゾンの金の帝王なんだ。殺すぞ?」
「わかった」うなずいてみせる。「それが理由だな?」
まだ笑っていた。シンバに積荷信仰をもたらして、鋼鉄の鳥の贋作を造らせたエセ教祖。金鉱採掘人どもを狂わせ、マルセロを抜け殻に変えた誘惑する悪魔。ヴェルードをいまにいたるまで繰り返し犯しつづける屍姦愛好者――恍惚をもたらす粘菌の王。
「俺は俺を〈リトル・フォゴ〉と呼ぶ奴を、今日まで全員間違いなく潰してきた」とフォゴは言った。「お前、二度も呼んだな」
ヴェルードの顔が僅かに驚きをたたえた。
「そんなことで?」
それが最期の言葉になった。残った頭と胴体に死の銃弾を何発もぶち込んだ。変形体が骨と臓物を食い尽くして中をすっかり占有してしまったぐにゃぐにゃの体は、破れたかさぶたよろしくしおしおと萎れ、部屋の隅に落ちた使用済みのコンドームみたいになった。
「人の嫌がることをやっちゃいけねえと故郷の星で習わなかったか? この世界にはどれほど気張っても通じ合えない〈他者〉がいくらでも存在するんだ。そんな基本のキもわからねえとはな、無菌培養のお嬢ちゃん。ましてお前が落ちてきたのは密林の闇。運が悪かったな」
ヴェルードは死んだ。魂はとうに死んでいたが。哀れなヴェルード。惨めな末路。他の誰かの傀儡なんて、お前の魂には似合わない。
子実体の胞子の破れ目から、小さな毒虫のようなアルコ・イリス原虫が這い出した。原虫は子実体の茎部を伝って地面に降りた。全身をしならせ、のたくり、一心不乱にフォゴから遠ざかっていく。
逃がさないぞ。許してなるものか。――フォゴには、そんな強い気持ちなど別になかった。ただ何の気なしに、金鉱採掘人のキャンプに現れるゴキブリや蜘蛛や蠍を殺すのと変わらぬ気軽さで、フォゴは原虫を踏み潰した。
その瞬間、粘液鞘のネットワークにより意識を全体共有するアルコ・イリス全種の感情の大きな塊が、足首を浸す液体を通じて伝達されてきた。
脳を持たないアルコ・イリスを理解するのは難しい、とヴェルードは言った。そうなのかもな。フォゴが知覚したのは、彼らが持つ複雑な思念系のうちの、ほんの一部分だったのかもしれない。
知覚できたのはそれらがとても強い感情であり、なおかつ極めて原始的な感情だったためだろう。
すなわち、愛と慈悲。だがこれらはいまも急速に薄まりつつあり、風前の灯火といっていいくらいだった。
それらを食い散らかして増長をつづける、巨大な、怪物的な感情があった。
「多様性」が聞いて呆れる。端的に言って、彼らは全種一様となり、気が触れんばかりにヒステリックに、たった一つの感情の名を叫びつづけた。
恐怖! 恐怖!
そして世界が色褪せる。
渓谷に芽吹いた見渡す限りのアルコ・イリスが一瞬にして腐り落ち、死物へと変わり果てる。極彩色の渓谷が色彩を失い、死の匂いたちこめる本来の姿に立ち戻る。
フォゴは声をあげて笑った。恐怖が、命を殺すのか。そんなことがあるとはな。
目の前には手つかずの金鉱山。そしてヴェルードはもういない。新たな金の帝王の座は確約されたようなものだ。
ドミンゴに火をつけた。そいつは最高にうまい一本で、宇宙アメーバの力など借りずともフォゴに至高の恍惚をもたらした。
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