肉の河

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梗 概

肉の河

「癌」克服の副産物として、霊長類の細胞から、増殖抑制能のみをオフにすることが可能となった。この結果として、自律的に増殖する肉の生産がなされるようになった。
 食糧等の用途で工業的にも実用化された一方、文化への影響もあった。
 みずからの細胞を元にして、他組織への浸潤性をカットされた「安全な肉」を、腕や脚のうえで栽培することが、若者を中心として流行した。成長の方向性をコントロールするための栄養ジェルを肉に貼ることで、盆栽のように、肉が育つのだ。
 自身と血を共有する肉は、視覚・聴覚のみならず嗅覚・味覚・触覚に関しても仮想現実が普及しているこの時代において、皮膚感覚より深い「リアル」を与えることとなる。
 十歳にならず「安全な肉」に触れた人々は、仮想現実世代の「次の世代」とみなされるようになっていた。彼らは、遠方の人々と、あえて「写真」のような一感覚のみのメディアを介して、「肉」の情報をやりとりする――という、あたかも時代回帰かのような現象を示した。「癌」の恐怖をおぼえている世代は不気味がったが。
 とはいえこういった文化的潮流が、地球上の全体で共有されていたわけではない。肉を栽培する若者たちは、地球全体を覆っているかのようなネットワークに接続できる「豊か」なものに限られた。

 こういった背景での、短い話が、本編である。

 壁と関で下層民の地と隔てられた住宅街に住む少女、アジェリは、自らの腕に栽培していた肉が、ある日ふと自分の顔にみえた。歌うとそれも口を動かすように感じられた。
 いままでは無難な装飾品であったのに。恐ろしくなって、学校にも出なくなった。すべてが嘘のように思えて、遠地の友人たちとのやりとりも切った。
 簡易神経制御によって住宅街の道路を掃除している肉塊を見るのにも耐えられず、アジェリは家出した。しかし腕の肉は切れなかった。
 関を越え、下層民らの住まう地へと足を踏み出した。昔とは違い、関上の工場から溝に流される「肉の河」のおかげで、民は飢えから縁を切っている。しかし栄養は偏っており、異様に筋肉ばかり発達した彼らの多くは短命だ。土に転がる死骸を、荷運び人が、河へ蹴り落とす。死骸は肉の畝にかさなり、河下へと運ばれる。
 人々は河をつかみ、その肉を食う。また、多量の防腐剤が含まれた肉は、厳しい日差しにも汗のような液体を分泌する程度だが、未処理の人肉は腐っていく。そのため、河下りの過程で、肉に対する、露出した骨の比率は上がっていく。
 アジェリは下層民らの暴力を覚悟していたが、彼らは関心もみせない。豊かな民の健康状態は衛星に接続され記録されているからと、伝わっているのだろうか。
 河のたどり着く湾までアジェリは出た。骨に囲まれてひとりの少年が座っていた。衣をまとわない腹に、大きな傷があった。

 少年が話すには、湾の下、河の果てには、巨大な肉がある。大潮の夜に、肉は伸び、湾の上まで現れる。信じないアジェリに、少年は、むかし自分の腹に大きな腫瘍があったと言う。
「あれが腹をさばいて取ってくれたんだ」
 医療の届かない下層民。幻想と退けることはできたが、アジェリは、大潮まで何日か尋ねる。「明日だ」
 アジェリは座った。少年が、骨の上に数を楽譜のように刻んでいることに気づいた。

 夜がきた。丸太のように太く、蛇のようにのたくる脚が何本もやってきた。氷の結晶のようにふちが分岐した、ひれのようなものもやってきた。少年は脚に触れた。
「聞こえる。計算しているんだ。かれはずっと計算している」
 アジェリも隣の脚に触れた。脈を感じた。音楽だと感じられた。違うものを感じた理由について議論し、触れる脚を逆にすると、脈は様々なものに聞こえ、肉が、何かを探しているように思えた。
 何も決めずに歌っているとき、歌の方がつぎにこの音をと欲しがっているように感じることがある。体の境界が定まらないことは、不満足の境界も決定しないことで、それはどこにおいてでも次を求めることなのかもしれない。

 アジェリは湾に飛び込んだ。意外にも澄んだ水には、樹状の、柔らかな突起が茂っていた。肉がまわりのタンパク質を吸い込んでいた。アジェリは腕を差しだし、かれが食うのを待った。

文字数:1724

内容に関するアピール

「がん細胞に人権はあるか」という問いに発して。

 人間の細胞自体は、人間だろうか? 一個ではなく組織なら? 際限なく増殖するようになった場合は? 一方それが思考のようなものを始めた場合は? また、人間から切り取られた右手は、脳は、人間だろうか……もしそうなら、(全体として存在していた)元の人間と同一の人間だろうか?
 考えていくと、身体がだれのものかわからない感覚、他者のように思える感覚が生まれる気もします。一方で、身体を自分の器だと思うと、身体の有する境界から「これも、これごときもできないのか」という不満足が現れる気もします。(「百メートルを二秒で走る」「数十日休まず歩きつづける」「生身で月に居住する」「王水をおやつに試飲」「一日で倍増」……)

 アジェリの「フラットな判断をしているかのような、観念的でグローバルな」感覚と、身体的な不満足感、それと呪術的なリアリズムを交錯させることが狙いです。

文字数:400

課題提出者一覧