漂泊のエインスワース

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梗 概

漂泊のエインスワース

日本の建造物が一斉に崩壊したとの報を受けて、アメリカから調査団が派遣される。中心地は東京の五反田周辺。東京上空に到着した調査団は、視界に広がる広漠たる風景に愕然とする。中でも、日本人の母親を持つカレン・エインスワースは、もう一つの故郷の喪失に心を痛め、原因の究明と生存者の確認へ意欲を燃やす。しかし、生存者の存在は絶望的だと隊員はカレンを止める。隊員の一人はカレンが自分の日本人の血にこだわり過ぎていることを指摘するが、カレンは強く反発し、パラシュートでの落下を強行する。

地上まで三千メートル、時間は約五分間のはずだが、地面が近づいてこない。高度計を見ると、ひどくゆっくり高度が低下している。約十五分後、地上に降り立つと、周辺の風景は平板な書き割りめいた広がりを見せ、はるか彼方に浮世絵のような富士がそびえたっている。歩いていると大きな川に行き当たる。地図上では目黒川のようだが、やはり縮尺がおかしい。南東、品川の方を見ると、カゲロウのように風景が歪んでいる。

カレンは、母がかつて話してくれた日本の昔話を思い出す。老婆が川を流れてきたフルーツを家に持って帰ると、中から子どもが出てくるという話だ。もし、老婆がそのフルーツを拾わなければ、子どもを宿したそのフルーツは下流へ流れ去っていただろう。母が、もし父の意志を受け入れていたら、カレンは流されていた。しかし、母は生んでくれた。

カレンは地図を取り出し、目の前の目黒川の川幅と比較した。現実の方はきっかり3.03倍の長さになっている。その数字を見て、カレンは尺貫法を思い出した。周囲を見回し、五反田という地名の意味と、落下の際に視界に入った碁盤の目状の土地の意味に考えが至る。パッドを日本語表記にし、尺貫法を調べる。一反が991.736㎡との記述に行き当たった瞬間、視界が暗転する。

一人の少女の記憶がカレンに流れ込む。五反田という呼称が生まれた江戸時代の貧しい生活、川沿いを北西から南東へと流れていく漂泊芸能民たち、増上寺から品川宿そして鈴ヶ森刑場へ。

意識の戻ったカレンの眼前で五反田が二つに分離し始める。巨大な五反田と等身大の五反田。いや、分離しているのは土地だけではない。カレン自身も肉体が二重化していく。尺貫法の世界とメートル法の世界が別の世界像を描き出していく。重層的な空間を成す世界と、均質な広がりを持つ世界。二つの目黒川が血の色に染まっている。カレンに流れる二つの血――日本人の母とアメリカ人の父。悩んだ末、カレンは抑圧される女の血を選ぶ。

日本は崩壊したのではなかった。メートル法に従うことをやめた日本が、均質空間という幻想から自由になり、かつての雑種性を取り戻していく。西欧化、近代化を経過しない日本の姿をカレンは垣間見る。それは、崩壊前の日本の植民地化された姿とよく似ていたが、カレンの中の苦しみは存在した形跡もなかった。

文字数:1193

内容に関するアピール

 五反田について調べているうちに、品川の宿を通じて、江戸の被差別民を幻視した。
 境界線上にある五反田であればこそ、血と性と時間の狭間で苦しみ、何らかの答えを得る物語にふさわしいだろうと考え、主人公には二つの血に引き裂かれた人物を生み出した。物語の中で彼女の苦しみを実感するうちに、川がその核心部分に入り込んできた。目黒川それ自体のみならず、時間や血筋のメタファーとしても、抗えない流れのメタファーとしても。
 漂泊する人々と、漂泊を許されない人々の交錯する宿の世界、そして、空間を表現する二つの単位体系による世界像の差異――そこから、安易な近代性に依拠しない、別様の日本像を捉えたいと考えている。
 また、梗概には表現しきれなかったが、これは語りの暴力性にまつわる作品でもある。であればこそ、被抑圧者を描くにふさわしい筆致を選択しなくてはならない。それが実現して初めて、カレンが笑うラストが描き出せる。

文字数:399

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漂泊のエインスワース

 ヘリのドアを開けて外を見ると、さっきまで耳を打っていたメインローターの機械音が、聞こえなくなった。
 眼下には奇妙に広がる渦巻き紋様――すぐそこにあるような感じがして思わず手を伸ばすが、まるで近づいている感じがしない。距離感がなく、どれだけ離れているのかが分からない。
「カレン! 落ちるぞ」
 頭の後ろではダリルの叫び声――空を切る翼は回り続けている。それなのに、私の耳には届かない。指先でひっかくようにして、〈更紗〉の紋様を掴もうとするが、渦巻く風が指先に絡みつくだけで、何にも触れることはできない。
 東京は――日本州の州都は、崩壊した。
 一面に広がるのは、マーブリングしたかのような――渦巻き、矢羽、虎目、あるいは櫛目といった、目も綾な紋様の数々だ。ネットで〈更紗〉と呼びはじめたのは誰なのだろう。これが、道路と建物と植物と、そこにいたはずの人々を、そのまますりつぶして絵の具にしたかのような色彩を帯びていなければ、もう少し冷静でいられただろう。
 何より、その中に、母さんの存在を、ひとかけらも感じとることができなければ、他の隊員と同じく、この距離から東京を、そして日本州を襲った現象を、客観的に分析することもできただろう。混じり合い広がる赤い色彩が、もしかしたらと思わせるだけで、胸がざわめくのを止められなくなる。そして、その予感が正しければ、誰の命も残ってはいないということになる。
「私、降下します」
「バカ言うんじゃない。高度三百メートルにも満たないんだぞ。それに、下で何があったのか、下に何があるのか、ここからじゃ何一つわからないじゃないか」
「それなら、もっと高度を上げてください」
「ダメなんだ。上から抑えつけるような――いや、下から引きつけられるような力が働いていて、これ以上、高度が上げられない。油断すれば、機体もろとも墜落する」
 操縦席から悲鳴にも似た声が上がる。操縦士の肩越しに見える計器が一つひとつ何を意味するかは知らないが、それらが通常とは異なる動きをしていることは私にもわかった。道理で、さっきからホバリングが安定しないわけだ。
「だったら、私が降りたら、ここを離れてください。報告は入れます」
「冷静になれよ。この状況じゃ、誰も」
「そうね。いつでもあなたは冷静だった」
 ダリルの表情が強張るのが、見なくてもわかる。今後の私たちの道行きについて聞くたびに、落ち着いて考えて、もう少し待って、と繰り返し訴えられてきた。つまりは、そういうことなんだ。自分のとった行動の結果を受け入れることができない人。
「冷静だから、たった一つの簡単な決断もできない」
「今は、僕たちのことは関係ない」
「今、の決断の話よ!」
「……状況を客観的に判断するんだ。この、東京の様子も、今の高度も、客観的なものだ。カレン――君の命は君だけのものじゃない。どうか、冷静に」
 今度は哀願する目。雨に濡れた捨て犬の目だ。他の隊員の呆れ顔が目に浮かぶ。こんな緊急時に愁嘆場を演じるなんて。それでも私は、ダリルを見れば心が揺れるのを知っている。だから見ない。
「そうね。あなたにとっては、私との距離も、私の命も、客観的なものに過ぎないんでしょうね」
「そういう君だって、自分の本心を語ろうとしないじゃないか。自分一人だけ、空気の薄い部屋に閉じ込められたみたいに苦しそうにしながら、絶対にその部屋に僕を入れてはくれない」
 むきになったダリルのその喩えは、不思議となじみ深いものに感じられた。力を抜くと、首が動いて、自然と彼の表情を覗き見るかたちになった。それは、今ようやく決断する気になった男の顔にも見えるし、私の中を流れるもう一つの血の意味を理解してくれる顔にも見えた。
「それなら、一緒に行ってくれる?」
 ダリルの視線が操縦席の計器へ引き寄せられる。不安そうに泳いでいる碧い瞳を見ていると、なんだかバカらしい気分になってくる。ダリルに一緒に来てほしいわけじゃない。
 私は甘えるわけにはいかないんだ。
「私の半分は、母さんだから」

 日本時間で六月七日午後六時三十九分のことだった。日本中のビルや家屋、道路や公園、そしてそこに暮らす人々が、押しつぶされるようにして消失した。いくつかの寺社仏閣、古い家屋、城の一部だけが、陽炎のように揺らぎながらそこに残っているのが衛星からは確認されているが、一方で生命活動らしきものは、何一つ見て取れない。情報もすべて途絶え、音声通信も映像も、何もかもが失われた。
 日本にいた人々は国籍問わず安否不明。海外、州外に渡航中だった人は帰る場所を失った。航空機は、州境内部を航行中のものは全て消息不明。逆に、一メートルでも州境を出ていた機体は、目的地に無事到着した。
 この現象は、この時間に日本の州境内部に限定して起こったと見られ、これ以降の時間に州境内部に入った航空機や船舶には何の影響もなかったが、いずれの場合も着陸入港することができず、引き返さざるを得なかった。
 私たちのヘリコプターと同じく、何らかの力の干渉を受けたということだろう。
 それから五日、連邦緊急事態管理庁(FEMA)は一斉消失現象の原因究明と状況把握のため、〈更紗〉に対する調査隊の派遣を決定。私は即日入隊を希望し、ダリルの参加も翌日決まった。ダリルは災害医療の専門家で、今回の第一次調査隊に参加する理由はない。
 ――父にでも頼まれたか。
 私の母、霧島華は、三十年前、環境学を学ぶためにアメリカ本土にやってきた。大学三年の時、母の担当教官だったのが父で、まもなく母は私を身ごもった。母は子どもを産み、そのまま研究者となるつもりだったが、父はそれを認めるわけにはいかなかった。
 彼に、妻と子がいたからだ。
 母は程なく、身重の体と書きかけの論文、そして母子二人で生活していくのに十分な金とエインスワース姓を携えて実家に帰った。
 高校三年になった私が、かつての母と同じ夢を持つに至って、母はFEMAの長官となっていた父ケネス・エインスワースに援助を依頼した。私も、まだ見ぬ父の助けを喜んで受けた。母が、父のことを決して悪く言わなかったからだし、私の姓が父のものだったからだ。
 その後の私の順調な道行きは、おそらく父の口利きによるところが大きい。そんなことは、周りに噂されるまでもない。頭にくるのは、母が悪く言われることだ。娘の力になるよう、実の父親に頼むことのどこが悪いのか。人格者で通っているケネス・エインスワースは、かつての過ちと向き合い、娘に手を差し伸べた一方で、その過ちの片棒を担いだ母は、ケネスを利用する悪女とそしられた。
 そういう人たちに言わせれば、私は――カレン・エインスワースは、過ちの末に産まれた、いてはいけない子、なのだそうだ。
 ダリルと出会ったのは、入庁して間もない頃のことだった。誰もいないミーティングルームで泣いていた私に、彼はウィスキーの小瓶を差し出した。
「干からびる前に、水分補給だ」
 ジョークは下手だが、相槌が心地よかった。真剣に私の話を聞いてくれるアメリカ人は、初めててだった。
 父はダリルを信頼し、ダリルは出世した。その二つの事実に関係はない。しかし、翌年、父は退官し、後ろ盾を失ったダリルは私と一緒に後ろ指をさされるようになった。そして、ダリルの能力を知っている人々は、そんなこと気にも留めなかった。
 だから、今回の調査隊への参加を、私は快く思わなかったんだ。
「あなたは、保護者なの? ついてこないでよ」
「君のことが心配なんだ」
「あなたにとって気になるのは、エインスワースの名前でしょ。だったらなおさら、私にこだわる必要なんてないじゃない。あなたは、ダリル・ホッジであって、どんな力にも腰かける必要ないんだから」
 こだわっているのは私だ。ダリルと一緒にいると、気にしないようにしようとしても、エインスワースのことを思い出させられる。ダリルは私の名前のせいで、揶揄されている。私はダリルとは逆だ。私は父の名前にすがりついているから、今の私のままでいられる。
 メインローターの音が戻ってくる。耳を規則的に打つ機械音が、私の今を縛り付けている。下には母さんにたどりつく手がかりがあるかもしれない。
「どうか、戻って、今得られた情報だけでも伝えて。下に降りれば、通信が途絶える可能性が高い。記録は続けるから」
「死ぬ気、じゃないんだよな」
「調査隊が死んでどうするの。私が母と心中するためにここに来たとでも」
 語気が強くなり、ダリルが言葉を喪う。そんなことを言いたいんじゃないのに。
「じゃあね」
 ヘルメットのゴーグルを下ろして、映像と位置情報の記録を開始する。
 悲鳴のようなダリルの叫び声が、風を切る音の中に溶けていく。ヘリの陰から南中した太陽が姿を現した。温かい手の平が背中を押してくれるようだ。解放感を覚えたのも束の間、視界の隅でカウントを始めた高度計が現実を突き付ける。FEMAでの活動上、普段からある程度の低高度での降下は想定されているものの、三百メートル未満という数字の異常さはよく分かっている。分かっているが、この抽象画のような風景は、急速なはずの落下速度の実感を与えてくれない。
 リップコードを引き、パイロット・シュートが背中を引っ張る。バッグが引き出され、抵抗が少しずつ大きくなる。高度はあっという間に二百メートルを切り、視界の先にある山並みの存在感が増す。〈更紗〉の描き出す紋様が陽射しを照り返し、金色に輝いているからかもしれない。地図情報との照合によれば、ここから真西、頭一つ抜きんでているのが標高五九九メートルの高尾山。そして、その後ろに威容を示しているのが富士山だ。視線を下に向けると、地面がすぐそこに迫っているように思える。手が震えた。後はメイン・キャノピーが開くのを待つだけ。しかし、高度計の変化にも関わらず、空に吊られる感覚はまだ起こらない。
 目の前を黒い塊がよぎる。カラスだ。一羽、二羽……まだいる。どこから現れたのか分からないが、こんな高さを群れて飛ぶ様子は初めて見た。輝く黒羽に不吉な予感を覚えると同時に、母が昔歌ってくれた「七つの子」という童謡を思い出す。
 カラスは一定の高度を保って飛行し、次第に私との距離が開いていく。一羽がこちらを見て、口を開いた。鳴いたのかもしれないが、私の耳には届かない。
 すると、突然、体全体がゼリーの海にはまり込んだような、濃密な空気の層に捕らわれた。高度計は百七十七メートル。そして、次の瞬間にも百七十七メートルであり続けた。
 降下速度は四分の一以下に下がっていた。
 見上げると、カラスの群れの中心で、メイン・キャノピーはゆっくりと開きつつあったが、未だに私の体を支えられる様子ではない。背中を引く強い力も感じない。それなのに、鳥が緩やかに降下するような速度で私は飛んでいる。
 母は昔、湿気に重くなった日本の夏の空気を、生温いプールの中に沈められているみたい、と表現した。プールに沈められたことがあるの、と聞くと、喉の奥をカラカラと鳴らして、声もなく笑った。私が小学校でまさにそうされていた時の話だ。
 走馬燈かと思ったが、高度計はようやく百五十メートルで、どうやらまだ死にそうにない。
 カラスは、この奇妙な空気の層を嫌がっているのか、一定の高度を保ったまま、何かやり取りをしている。私は、彼らの時間の流れから切り離されたように、ゆっくりと落下していく。キャノピーはもつれたまま、私と同じ空気の層に入り込んだようで、はじめ戸惑ったように身をよじらせ、やがて落ち着きを取り戻したかのように、その身をほぐし、朝露に喜ぶ朝顔のように花開いた。
 震えの止まった手でトグルを引き、安定した姿勢を取る。キャノピーは空気の抜けた浮輪が海原を漂うように空に浮かんでいるが、それでも十分な浮力を得て、私の背中を引っ張っている。波のような強くて速い空気の流れがないので、操作には困らない。
 大地を覆う〈更紗〉の紋様を見ていると、渦は微細な渦巻きによって構成され、矢羽はさらに細かな矢羽が組み合わせられているのが分かる。どこまで落ちても、表面の見えは変わらない。高度の変化は、まるで顕微鏡の倍率を上げているかのようにしか感じられず、私の体が近づいている感覚は、どうしても得られない。その一方で、手を伸ばせば届きそうな――その表皮を突き破って、中まで入っていけそうな気もする。
 不意に、紋様の上を、影が横切っていった。ダリル、と思って上を見上げたが、ヘリは既に東の空で、頭上では、黒い群れが長い尾を引いて、太陽の光を遮りながら北西へ向けて流れていく。
 緑と赤と、ほとんどが灰色のフラクタルで織り上げられた〈更紗〉。高度がゼロに近づくにつれ、高さも速度も分からず、着地した先が本当に固い地面なのか、何の確証もないまま、私は自分の無謀さにようやく気づく。ゴーグルに表示した地図情報を見ると、この辺りの標高は二から二十メートルと、それなりの高低差があるはずなのだが、地面の起伏すら見て取ることができない。仕方なく、視界上に地形図をレイヤーで表示する。視覚と体性感覚がずれると3D酔いのような症状になるので、できれば避けたいのだが、地面に叩きつけられるよりはましだろう。
 地形図上に貼りこまれた写真は、ビルや建物を消去した特注品で、水漏れしそうな目黒川や、地割れだらけの桜田通り、ひどいのは建物のテクスチャの代わりに貼り付けられたヘリポートの写真で、とっくのとうに機影の欠片もない以上、嫌みにしかならない。
 ゴーグルの左上をダブルウィンクして写真を消去し、右ウィンクしてサーフェスマップを選択する。ゴーグルの中心にあった目黒川の一部が四角く切り取られ、ひっくり返って水色のカードになった。それを合図に、視界のあちらこちらに無数の矩形の輪郭が現れ、無神経な神経衰弱みたいに慌ただしくひっくり返され、茶色や緑色のグラデーションが描き出された。目黒川の流れは、色気のない水色に飲み込まれ、眼を射るように鮮明な地図色に思わず眉を寄せる。透明度を調整して、高さと距離感だけが掴めるようにする。
 見れば、足元はすぐにも地面に付きそうで、慌てて着陸姿勢を取るが、その瞬間はなかなかやってこない。月面着陸のように、ゆっくりと私はフラクタルとグラデーションの大地に降り立った。
 〈更紗〉に足を下ろすと、放射状に広がる矢羽模様がそれを避けるように流動し、それに応じて、視界のすべての紋様がうごめいた。イナゴの大群の中に足を踏み入れたみたいで、気持ちが悪い。サーフェスマップの透明度を下げるのがいいか……でも、うっすらと透かし見える虫の大群も、それはそれで十分に気持ち悪い気がする。
 両足をついた私は、そのままの姿勢で動けなくなった。しかし、このままこうしていたら、紋様の大群が今度は私の脚を這い上ってくるのではないか。途端に、矢羽模様のうごめきがカミキリムシに見えてくる。正直、虫はそれほど苦手ではない。しかし、大群となると話は別だ。人混みだって苦手なのに、どうしてこんなところまで来て、虫の大群に襲われなきゃいけないの。
 違う。これは虫じゃない。ただの紋様でしょう。
 私は何をしに来たの。これが何であるかを調査しに来たんでしょう。ダリルの制止を振り切って飛び降りておいて、虫の大群みたいな紋様に怯えて、何もできなかった、なんて言えるわけない。
 深呼吸を一つすると、どこからか土の臭いが漂ってくる。〈更紗〉は本当に更紗で、どうにか剥ぎ取ってやれば、元々の、国だった頃の日本の姿が現れるんじゃないか――そんな、愚にもつかない想像でも、今はすがりたい。
 私に遅れること七分、ようやく地面に落ち終わろうとしているパラシュートを引き寄せながら、空を見上げると、太陽が西に傾ぎ始めている。時間の経過もおかしい。時計の表示によれば、ヘリから飛んでから、まだ十分ほどしか経っていないことになっている。しかし、体感時間は一時間ではきかない。更には、空の様子は既に五時近い。日本を離れて十年近いが、夏の夕方の空は忘れられない。間の抜けた「夕焼け小焼け」が聞こえるようだ。
 日の沈む先を見ると、サーフェスマップの色彩が欠け落ちている。そこだけ〈更紗〉がむき出しになって、花びらのような紋様が舞っている。
「東海道品川御殿山ノ不二」
 口をついて出た言葉――それに反応して、ゴーグルの端に遠慮がちにポップアップする図版。ネットワークがかろうじて生きているのか、それとも私のアーカイブに保存されていたのか。あるいは、父さんが……。
 かつての桜の名所、御殿山は、幕末期に砲台用の台場を建設するため、土の大半を持っていかれてしまった。父は残念そうに語った。執務室に飾られていた、この富嶽三十六景の中の一枚を見ながら。

 アメリカ本土に渡った私は、父の執務室に招かれた。母から幾度となく写真を見せられていた私には、その姿が一回りも二回りもしぼんでしまったように感じられた。事実、父はひどく痩せていた。しかし、それ以上に、私に対して恐縮してみせる態度には、誠実さという言葉では済ませられない程に、改悛の情ばかりが目立った。
 私は、父の方を見ることができなかった。革張りのソファを撫でることで、この時間をやり過ごそうとした。
 母は、父を責めたことはなかった。ただの巡り合わせの問題で、二人が愛し合ったことは事実だと。後悔や罪悪感は、欠片ほどもなかった。
 しかし、父は違った。
「ミス・キリシマには、本当に済まないことをした。一時の激情にかられた過ちとはいえ、取り返しのつかないことをしてしまった」
 そして、なぜか御殿山の話をしたのだ。失われた桜の名所――そこに母を重ねようとしたのか。あるいは、この浮世絵自体が、父の東洋趣味の表れで、母はそのような父のコレクションの一つに過ぎない、とでもいうのか。
 そんなことで腹を立てるほど、私は恵まれた人生を送ってはいない。それでも、悲しかった。父親にとって、二人の過去が終わってしまったものであることが悲しかった。そして、母さんの愛情の深さが、なおのこと哀しかった。
 風の中に、わずかに涼しさを感じる。土の臭いに、今度は潮の香りが混じる。
 時計も地形図も、客観的ではあっても、現実とはずれてしまっている。それなら、この足で確かめるしかない。
 たたんだパラシュートを背負い、〈更紗〉にかたどられた御殿山を登る。マップの情報は、もちろん現在の御殿山の痕跡、庭園として残された平地だが、足の裏に感じる地面は、緩やかな上り坂になっている。土でも布でもない、もちろんアスファルトなどでは全くない、柔らかいのに沈み込まない、靴を支えてくれるような感触。散り敷かれた花びらは、足を下ろすたびにふわりと広がり、この薄紅のさした色合いはまるで桜だ。続けて足を進めると、花びらの変化が不思議と懐かしい。図らずも歩みがゆったりとする。三歩進むごとに二歩下がるような。
 「東海道品川御殿山ノ不二」に描かれた人々の歩みは、きっとこんな風にゆっくりだったのだろう。それがいつの間にか、何かに急き立てられるように、生き急ぐようになってしまった。
 小さい頃、母さんがこんな話を聞かせてくれた。
 老婆が、川上から流れてきたフルーツを持って帰ると、その中から男の子が生まれた。子供はやがて成長し、デーモン退治の旅に出る。途中、三人の勇者に出会い、最後には力を合わせてデーモンを討ち取る――。
 それが、桃太郎だと気づいたのは、ずっと後になってからだ。母さんが、どうしてこんな話をしたのか――どうしてこんな風に話をしたのか、尋ねないままになってしまったが、当時から私は、もしもおばあさんがフルーツを拾わなかったら、フルーツの存在に気づかなかったら、いや、そもそも、この日川に行っていなかったら、この男の子はどうなったのだろう、と震えていた。
 母さんは、どうして私を産んでくれたんだろう。
 母さんが自分の意志をはっきり示すのを見たことがない。母さんが動くのは、必ず私のため。
 私が本土の大学に行きたい、と言った時もそうだ。
「父さんに頼んであげる」
「でも、私が生まれてから連絡とってないんでしょ」
「親子の絆に時間なんて関係ないのよ」
「母さんはどうなの」
「私のことはいいのよ」
 こういう時、母さんは必ず台所に行ってしまう。背中越しの声は、少し聞こえにくくて、私の語調はどうしても強くなってしまう。
「いいってこと、ないでしょ。一緒に行こうよ」
「そうね。カレンが向こうで仕事するようになったら、面倒見てもらうのもいいかもね」
「一緒に大学に入って、一緒に研究しようよ」
 母さんは、肩を小さく震わせて、かわいく笑った。
「それは楽しそうね」
 泣いていたのかもしれない。
 多分、おばあさんは、自分の意志でフルーツを拾ったんじゃない。そこにあったから、拾ったんだ。前の日も、次の日も、フルーツは流れ続けているんだ。その日、目の前に流れてきたフルーツを、拾ったんだ。
 遠くの空に日が赤々と燃えている。花びらが黄金色に輝き、風を受けて舞い上がった。手の平を大きく開いて前に伸ばすが、やはりそこには紋様はなく、彼方の〈更紗〉の光が、手を赤く染め上げる。
 きれい。だけど、ここは本当に東京なの?
 どこまでも広がる〈更紗〉は、北から西へかけては稜線を描き出し、東を見ると東京湾で海に接している。渦巻き模様と波の両方が夕日にきらめき、互いに干渉しあっている。
 足元の地面を蹴ると、金の花びらが舞い上がった。その向こうでは、矢羽模様が右から左へと流れ去っていく。サーフェスマップ上の文字情報に視線を集中して拡大すると、目黒川とある。
 坂をゆっくりとした足取りで下る。マップのテクスチャが〈更紗〉の表面に浮かび上がったところで、右ウィンクでプロパティを開き、グリッドを十メートルごとに設定して表示する。
 やっぱりおかしい。
 私の歩幅は約七十センチメートル。約十四歩でグリッドをまたぐことになるはずだ。それが、四十歩目でも届かない。約三倍の距離がある計算になる。
 繰り返し数えながら、気づけば目黒川。御殿山の上から見ていた時と、全く見え方が変わらない矢羽模様。マップの水色が、本当に流れているように見える。五反田だ。
 母さんの両親が亡くなるまで――私が小学校に上がる春まで、ここに住んでいた。あの日も、御殿山から目黒川沿いを桜を見ながら散歩していた。花びらのシャワーを浴びながらくるくる回っていると、母さんが泣いているのに気がついた。驚いた私は、母さんの手を握ったんだ。いつも、温かくて強い、何でも作ってくれて、何でも描いてくれる魔法の手。それが、涙に濡れていた。ポケットからハンカチを出して、その手を拭いた。このままだと、魔法が解けてしまう。すると、その手が私の体を包み込んだ。
「カレン、あなたは私が守るから」
 桜の中から出てきた女神だと思った。
 ――今になってわかった。あれは、母さんの覚悟の言葉だったんだ。
 〈更紗〉の上で花びらが踊り出し、大きな渦巻き模様を描き出す。目黒川でも矢羽が渦を描き、孔雀の羽になって飛び立とうとしている。太陽は最後の光を稜線の向こうへと沈めつつあり、赤紫の空から降り注ぐセピア色の光が〈更紗〉を染め上げている。まぶしい。瞬きすると乱反射する光の中で模様がにじんだ。ゴーグルの中に、とめどなく涙が溢れていく。
 ゴーグルを外して涙を拭う。泣いている場合ではない。私は母さんの手がかりを探しに来たんだ。
 くぐもった音が耳の奥を打つ。
――増上寺 春の夕暮れ来てみれば 入相の鐘に花ぞ散りける
 誰かが背後でささやいた。
「おう、ちょいとごめんよ」
 人垣を押しのけて半纏姿の男が駆けていく。人だかりの先の空に黒煙が吹き上げ、真っ赤に照らし出されている。
「あぶねえじゃねえかよ、こちとら、こわれもん持ってんだからよ」
 今にも泣きだしそうな声が、頭の上から降ってくる。いやに背の高い人だと思ったら、両手で首を捧げ持っている。
「なんだい、なんて目で見やがんだい。首の取れたのが、そんなにめずらしいかい。あとで、きちーっと、にかわではっつけんだからよ」
 〈更紗〉はどこへ行ったのか、気づけば周りの町並みは、日本がアメリカ最後の州に組み込まれる遥か昔、東京がまだ江戸と呼ばれていた時代の風景に変わっている。
――黒漆喰に出桁造り、板葺き屋根に瓦葺き、人にもまれて籠を避け、棒手振りの声威勢よく、留める声もあらばこそ、そこのけそこのけ魚熊が通る。
 威勢のいい肩に背負われた天秤の両端で、魚が元気に跳ねている。映画の中にでも迷い込んだのか、それとも時間を遡ったのか――荒唐無稽な想像しか浮かんでこない。気付けば涙は乾いている。
 首の後ろを風が叩き、桜吹雪が町家の間を吹き抜けていく。生きている人々が出す濃密な臭気に乗って、鼻先をくすぐる甘い香りが現れて、すぐに消えた。
 もしかして、母さんは、ここに迷い込んだのでは……。
 期待が冗談じみていると分かってはいるが、可能性がないではない。ゴーグルに落ちた涙を拭って、曇りを拭き取る。目の前にかざしてレンズの状態を確認すると、レンズの向こうには相変わらず〈更紗〉が波打っている。心なしか、渦巻き紋様の動きが激しくなっているような。レンズをどけると江戸の街並み。再びレンズをかざすと〈更紗〉は目の前に迫っていて、渦巻きが幾重にも折り重なって、巨大な波紋を作り出した。慌ててゴーグルの前を払いのけるが、手はゴーグルと〈更紗〉の間の空を切った。
 ゴーグルの右下に数字が表示されている。体性感覚とデータの差異が大きすぎる場合、自動でアジャストする機能が備わっている。ずれの倍率は三・〇三。たしか、一寸が三・〇三センチメートル――尺貫法の長さの単位だ。昔読んだ一寸法師の絵本に、ご丁寧に注がついていた。尺貫法は、表記自体が連邦法で禁じられている。だから、子供向けの絵本であるにも関わらず、無粋な注が必要だったのだろう。
「ホイッ、ホイッ、ホイッ、ホイッ」
 威勢のいい駕籠かきの声の隙間から、再び鐘の音が鳴り響く。
「おいおい、じょうちゃん、そんなとこにつったってちゃ、あぶなくってしょうがねえや」
 振り返ると視界のはるか上から、鉢巻を巻いた浅黒い肌の男が見下ろしてくる。いや、私の体が縮んでしまったのか。
「迷子にでもなっちまったのかい。おとっつぁんか、おっかさんはいねえのかい」
――かあちゃんはしゅくにいる。
「そうか、品川んひとか。じょうちゃんはそのあいだどうしてんだい」
――うちでまってる。
「じゃあ、どうしてかえんねえんだい。すぐにひがくれちまわあ」
――ひが。
「ああ、ひがくれるよ」
――ううん。それでなくって、あっちのひ。
「ありゃあ、鈴ヶ森のほうだな。はでに上がってら」
――とうちゃんはあそこ。
「なんだい、とがにんかい」
――うん、ずっとまえに死んだって。カブキモノだったんだって。
「ああ、ごろつきかい」
――そのいいかた、きらい。
 黒い煙はいよいよ激しく、渦巻き吹き上げ、入日の染める深紅の空に、なお赤黒く入道の頭のごとく立ち上がる。
「ホイッ、ホイッ、ホイッ、ホイッ」
 駕籠かきが行き、また鐘の音。潮の香は夕風に乗る。
 浅黒い肌、胸元の。わずかに灯した燭台の、かそけき灯りがゆらゆらと、二つの影を躍らせて、胸のつかえも忘らるるなら。
 三味線の弦に触れる。指先が心地よく滑っていき、そのままはじくと、張り詰めた音が天井の隅の暗がりに溶けて消えた。さっきまで表から聞こえていた子どもの声たちも、いつの間にやら失せている。
「なんか弾いとくれよ」
――バチがみあたらないのよ。あんた、知らないかい。
「知らねえよ。俺が持ってたって、ばちがい、ってもんだろ」
――くだらないこと言ってないで、探しとくれよ。おとっつぁんの形見の、大事なバチなんだよ。
「そんな大事なものなら、肌身離さずもってやがれってんだ。バチがあたらあ」
――肌に何もつけるなって、あんたのいいつけじゃないか。
 二つの影が一つに蕩け、床に広がる綸子の襦袢。焼くや藻塩の身もこがれつつ、燃ゆるおもひは屋敷を焦がす。
 じゃんじゃんじゃんじゃん。
「なんだい、どっかで火が出たかい」
――はじまったね。どこで出たかなんて、見るまでもないよ。もう、あたいにゃ行き場がないの。あんた、一緒にいっとくれ。
 襦袢の下から匕首を、抜くが早いか男の手には、平造りの小脇差、組み敷かれるは女の魂の緒、緋色に濡れるは桜の襦袢。
「なんて女だ。そいつぁ、ごろつきの、おやじの形見か」
――その言い方、やめてちょうだい。
 まだ打ち鳴らす半鐘の、吹き荒れる風、上る竜、焔のあぎと、牙を剥き、逝ける主を打ち棄てて、己が選びしよき人と、志したる死出の道、断たれて一人の道行きは、母から継いだ宿縁(すくえん)か。
 ヘリに残ったダリルの碧の瞳が、母を語る父の目に重なる。一緒にい続けるということは、そんなに難しいことなのだろうか。それを願うことは、そんなに罪深いことなのだろうか。
 母さんは信じていた。だからこそ、踏み込まなかった。踏み込めば、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされると分かっていたから。
 私も信じたがっている――誰を?
 夜空を渡る涼風は黒い煙を吹き流し、炎の舌もちろちろと、うわばみもはや虫の息。
「ホイッ、ホイッ、ホイッ、ホイッ」
 駕籠かき衆が町へ消え、いよいよ響く鐘の音。潮の香りは風に散る。
「こんな季節に蛍とは」
 目黒川から立ち上る、白い星々ちらちらと、男を誘い、水の先、間近に聞いては耳を打つ、ちんとんしゃんの弦の音、蛍の光窓の雪、夜の稽古に黒髪の、柳腰なる幻を、信じて川を越えたれば、あばら家、高き草の中。
「おっと、邪魔をしちまったならすまねえな。こんな夜更けに、えらく心地いい音がするもんでさ。蛍よろしく、あくがれいづる魂かとぞみる、なんて風情で」
――蛍を己が御魂とお思いで。何かお辛いことでも。
「ああ、そういう歌なのかい。すまねえ、こちとら学はねえんでさ。門前の小僧てなもんで、聞きかじりだけの意味知らず。だからこそ、こんな夜中に三味線の、音に誘われ兎耳、火に飛び込んで布施行を」
――まあ、随分と調子のいいこと。
「調子のいいのは言葉だけ、立て板に水流しても、蛍一匹よりつかぬ。って、今夜の蛍の群れ飛ぶ姿、ひと月は早いんでねえかと思うが、暑気に当てられ辛抱溜まらず出てきたかな」
――それなら、きっとわっちのせい。さみしい身の上を、案じてくだすったのでしょう。さみしい音色を響かせて、あなたさままで引き寄せてしまいました。
「詫びを入れるは俺の方だ。どうかこれなる賤しき身など、気にせず弾いてくださんせ」
 蛍の光けぶる水面に、女の語る物語、眠りを誘う安らぎは、草葉の玉ほどあらばこそ、聞くも涙、語るも涙、悲恋邪恋の道のりは、道なき道で帰路もなく、地獄へ向かう片道の、おもひは遂げで、当てるバチ無し。
「幽かな霊とはよくもまあ、言ったもんだな、美しい」
――分かりましたか。
「幽玄境への誘いとは、行くも帰るも地獄なら、相伴するが男の甲斐性、ここで会うたも何かの縁、半ばは捨てた命なら、どうして惜しいことなどあるもんかい」
――命ある時には、かなわなかった死出の旅、あなたが行ってくれるなら、沢の蛍も我が身より、あくがれいづる魂かとぞみる。
「ホイッ、ホイッ、ホイッ、ホイッ」
 駕籠かきの声こだまを残し、鐘は静かに鎮座する。
 人垣作る小屋の中、大仏男に鯨女、煙を上げて組み敷いて、霧の向こうの大立ち回り、客の熱気に漏れる嬌声。鯨尺と曲尺並べ、金の大仏、二分ほど足りず、大仏男の瀬は立たぬ。
「よってらっしゃいみてらっしゃい、これなる女の大御霊、何の因果か因縁か、亡くした体のかそけきは、背後の燭を透かし見る。はいはい、どんどんどんどん、はいっとくれよ」
 中では、青緑の肌の巨大な男が白黒の大女を抱えて退場するのに続いて、白い衣をまとった女が、三味線をつま弾いて、哀しげな唄を吟じ始めた。かと思えば、衣もろとも舞台に溶けて消え、客席の喝采を浴びた。御殿山の方を振り返ると、一陣の桜吹雪に乗って、女の霊が笑っている。
 どうして笑えるの?
――たった一つの命を棄てて、それでも誰かが見つけてくれて、それを拾って大切に、育てて新たな輪廻の渦に、ほらあなたの胸のうち、必ず届いて息づいて、そうやって大きな一枚の、更紗の紋様は描かれるから――
 ゴーグルをかざすと、〈更紗〉が風に吹きあげられ、遠く富士の稜線は花の霞に滲んで、茜空と混じり合う。今しがた見ていた風景が、ゴーグルの中の現実を――確固たる基準によって打ち立てられた客観的な現実を、上書きしていく。私は慌てて、ゴーグルを取り落とす。
 これは、選択なの? 私の選択で、何かが変わるの?
 母さんは私を産んだ。手の中にやってきたものを受け止めて、抱きしめて、そうやって生きた。
 川沿いの春の柳が枝垂れかかって、土の上に転がったゴーグルのレンズに揺れている。レンズの表と裏と、二つに引き裂かれた現実のどちらか、選ぶことができるなら、一人ひとりの身の丈が、命の基準である世界を選びたい。
 ゴーグルを眼前に掲げると、既に赤い空と混然となった富士を中心に、〈更紗〉の描き出す紋様の数々が、東京の、日本の時間を再演する。人々が徴兵され、血が流れ、爆撃機が飛来し、大地を焦土と化す。進駐軍が侵攻し、叛乱と鎮圧を繰り返し、経済成長と科学技術を奪われ、アメリカの工場として再編された日本州――その瞬間、〈更紗〉は料理の乗ったテーブルのクロスを引き剥がすように、それらを一気に払いのけ、その下からは〈更地〉が、真っ白な白紙の世界が現れた。〈更紗〉のめくれは、私の体にも這い上がってくる。ゆっくり細く息を吐く。私の名前も語りなおされるのだろう。不安はない。あの、女性の幽霊の笑みが、私に投げられた命の可能性を信じろと言っているように感じられたから。
 目黒川に清冽な水が戻り、東京湾に流れ込む。御殿山は失われてしまっていたが、巨大な木造の集合住宅が現れ、土塀が立派にそびえたっている。川沿いの田んぼには緑の稲穂の背も高く、あぜ道を探すのも一苦労だ。だが、その中から、人影が手を振りながら近づいてくる。ひと際、背が高く目立つのが、碧の眼をした父親で、それに負けないようにと胸を張っているのが黒い瞳の母さんだ。二人に手を繋がれているのは茶色い瞳の――私、なのか。
「お姉ちゃん」
「沙羅」
 私、霧島香蓮には妹がいる。私と同じ茶色い瞳、でも沙羅の方が少しだけ母さんよりの深い色をしている。
「見て、あっち」
 沙羅が私の後ろの空を指さす。土ぼこりを巻き上げて吹く突風に目を細めて振り返ると、先ごろ完成したばかりの、精密な寄木細工で作り上げられた、雲を衝く大伽藍〈天空樹〉が、春霞の中で静かに揺れていた。

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