花に嵐

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梗 概

花に嵐

2033年8月3日。コタツは公園で空に浮かぶ光の粒子を見た。夜空に浮かぶキラキラとした星みたいでいつまでも見たいと思ったのにすぐに消えてしまった。

時は戦時下。コタツは今年で10歳になる。春から学童疎開が実施され、秋には田舎に向かう予定だ。ある日、友達のヒイタ、クウラと共に歩いていると真夏に雨傘をさした不審な男と出会う。
男は人間の形をしていたが、出会い頭に『俺は宇宙人である』と宣う。その男ゴタンダの指先にはキラキラとした光の粒が煌めき、それが体内に入ると人間は簡単に死んでしまうらしい。ゴタンダの出した人類を救う条件は『桜が見たい』と言うただそれだけだった。しかし真夏。そもそも桜が咲いていない。その事実を告げるも納得はせず、一同は五反田の街を歩き回ることにする。
道中で大使館勤めの母を持つ少女イロリが一人ぼっちでいる様子を見て何故一人なのかとゴタンダが問う。『人間は、違うものを見つけるのがうまいんだな』男の独り言に、うまく応えが返せない。その後仲間になったイロリが御殿山の桜並木を案内するも爆撃によって木々は無残な姿になっていた。
数日が立つとゴタンダの見た目はコタツ達と同じぐらいの子供になっている。間柄も多少は気安くなり『もう諦めよう』と言う度に『死にたいのか』と言われるのにも慣れてきた。そんなある日、印刷会社勤めだったという女アンマに出会う。彼女は事情を聞くと『明日まで待っていて』と言った。
翌日指示された場所に行くとそこはDNPミュージアムラボ。そこには3Dに映像化された桜の大木が映し出される。北斎の『東海道品川御殿山之不二』をベースに映像化したという桜を見てゴタンダは満足そうだ。映像は今の段階で後30分も持たないだろう。けれどコタツ達には十分で、またくる春の景色を思い思いに描いてはしゃいでいる。
一方でイロリはコタツ達に隠れ『何故私たちを殺さないのか』と問い、ゴタンダは自らの素性を語り出す。

正体は光の粒子の集合体。個々の粒子が意志を持ち、それぞれがそれぞれの母であり姉であり、弟である。テレパシーのようなもので意志を通じ合い、その意見が割れることは殆どない。ある日彼らの惑星に他惑星の観光客がやってきたことで生態系が狂い、その結果観光客であったものの肉体を乗っ取って本来の渡航先として示されていた『地球』へとやってきたのだという。生存を思案する前にパンフレットに載っている『桜』を見にいくことにした。しかしいざ地球に来ると太陽の光が強すぎて仲間が死んでいき、姿を保つのもままならない。身体が燃え尽きるのもすぐだろう。『子供の脳位ならば乗っ取れただろうがしかし、子供は守るものだろう?』ゴタンダ達の中では意見が一致していた、

別れ際、コタツ達から『また会えるだろうか』と問われ、ゴタンダは『またここら辺一帯に満開の桜が見れるようになったらな』と未来に夢を託すのだった。

文字数:1193

内容に関するアピール

人間のことだってまだ解明されていないことは多々あるのに、いわんや宇宙人をや。

何でも説明できる生命体であふれていたらこの世はきっとつまらない、は言い過ぎですが未知の生命体でも話しが通じるならば仲良くしたっていいのではないかと思います。

五反田にはDNPミュージックラボがあったなぁという思い出から始まり、桜の名所、東海道、ならば錦絵浮世絵もあるだろうという連想から始まりました。

実作を書けたなら適度にテンポよく、しかしラストに少し切なさを足すような書き方ができたらと思っています。

 

 

文字数:238

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氷海の種

コタツはヒイタの家のドアを軽くノックした。今日、彼は学校に来なかったのだ。父から預かったご自慢の時計は2033年8月3日午後4時を表示している。灯火管制を真似て黒いカーテンで窓を覆う家が多くなってきたものの、友人の家にはまだそう言ったものは見受けられない。最も日の光が強い今の時間帯、一般住宅程度の規模で電力を使うようなことはしないだろう。辺りはしんと静まりかえり、人の気配はない。それでもコタツは待った。そして数分が経った頃、漸く認めた。

ヒイタは一足先に、親戚の家にでも越したにちがいない、と。

 

コタツが戦争というものを認識し始めたのは二年も昔のことではない。大人達はもっと昔から始まっていたというが、コタツには判らなかった。ただ一度、両親が小学校の教科書を覗き見て浮かべた形相にこれはただならぬことなのかもしれないと、恐ろしさに震えたことがあったぐらいだ。それでも日常は平和に過ぎた。父が兵隊にとられることも、自らがこれから学童疎開の一員になることも、考えたことがなかったからだ。

コタツは素直に家に帰る気もせず、かむろ坂公園の方に自然と足を向ける。辺りの家屋は爆撃の衝撃波に耐えきれなかったのか所々破壊され、道路はまるで火傷跡のように爛れている。焼夷弾が落ちたに違いないと、子供のコタツにも容易にわかった。突然消えた友人は無事だろうか。不安が首をもたげたその時、突然声をかけられた。

「あら、コタツ君。こんにちは」
「あっあぁアンマ姉ちゃん! こんにちは」

いつも元気ね、と笑う女性を見上げ、コタツは取り繕ったものの、身体がこわばったことを自覚する。

初めて見かけたのは自宅のリビング。彼女は父が連れてきた同僚の内の一人であった。職場の中でも随分若くはあったが、その技術と知識は侮れないものであったらしい。らしい、という言葉に留めてしまうのは、コタツが彼女の聡明さを感じた瞬間が一度としてなかったからだ。リビングで行われていたのは意見交換会という名の飲み会であり、そこでの彼女はただ酒に飲まれた酔っ払いだった。

『所長。“スラブ叙事詩”をもう一度です! カムバックです! ミュシャのあの大作を目玉にする展覧会を企画してもらい、どうにかしてこの絵画の3D化を成功させるんです』
『あぁ参ったなぁ、まぁた同じ話だよ。君、ちゃんと気づいているかい?』

おーい誰か水を貰ってくれ。六十近い所長の慣れた様子に、周囲から笑いが漏れていた。母が水を持ってくると傍にいた女性が声をかけ、アンマは少し気恥ずかしいという様子で『ありがとう』と礼をこぼした。騒がしい大人たち。二階にまで届く笑い声。それに誘われるようにしてその様をドアから覗き込んでいたコタツに、気づいた父が中からそっと声をかけた。『あぁごめんな、起こしてしまったか』その自然ほころんだ表情を見た瞬間、ここはなんて優しい空間なのかと感動したものだった。

そんな彼女を苦手としてしまったのは、ひとえにコタツの弱さなのだ。コタツが知る限りで彼女ほど、戦争反対を叫び続けていた人はいないだろう。デモ等の活動に参加していたわけではない。ただ彼女が語る絵画の話で特に多かったのは、戦争の無意味さを示すものだった。『歴史画に描かれるのはもう戻れない過去だけれど、それを教えとして未来に託すことは可能なはずよ』言い聞かせるように呟かれた言葉の重みに、アンマは潰れてしまったのだろう。父が徴兵されることになった時には血も涙も枯れ果てたかのような青白い顔をして、父の手を両手で握りしめ「どうか無事で、どうかご無事で」とうわ言のようにつぶやいていた。その姿が脳裏を掠めるその瞬間、コタツは何度も父が帰ってこないのではないかという恐怖に襲われるのである。

久しぶりに会ったアンマはとても元気そうで、だからこそ不気味さが際立った。気付かれないように深呼吸をする。アンマはその様子を見咎めはしなかった。

「ここら辺の学校でも疎開が始まるんですってね。コタツ君も、そろそろ?」
「うん。一週間ぐらいしたら、東北の方に向かうんだ」
「昨日もここら辺で何か落ちたんでしょう? 本当に嫌な時代になったわ」

およそ半年前、五反田に向けて新型爆弾が落とされた。通常軍事的施設等が狙われ、一般市民が住む都市部に爆弾が落とされる事は条約でも禁止されている。しかし故意か不幸か空から落とされた爆弾はこの地を無慈悲に焼いた。記憶から風化されつつあった百年近く前の戦争時よりも威力を増したその爆弾は、大崎から五反田にかけての都市開発区域を狙ったかのようだった。コンクリートを抉るようにして壊し、建物の中で永遠と燃え続ける。中には煙がたまり、焼けるよりも先に窒息死するものも多かったらしい。疎開が実施される事になったのは、今この時においても東京という場が安全なものとは言えないからだ。

「アンマ姉ちゃんは大丈夫? ここら辺じゃ抵抗軍だとかいって、民間人の中でも危険な人たちがたくさんいるって」
「…うん、そうみたいね」
「お姉ちゃんなら、僕達と一緒に混じっててもばれないかもよ?」
「あはは、やめてよ。流石に無理よ。 …それに私はやることもあるし、しばらくは離れないわ」
「やること?」

アンマはしばらくの間口をモゴモゴと動かし視線を彷徨わせていたが、結局何も語りはしなかった。

「なんでもないわ」

突き放すような物言いにコタツが何を言い返すべきか戸惑っている内に、それじゃぁ私は用事があるからと、アンマはそそくさと立ち去ってしまった。
いつも以上にへんなお姉ちゃんだった。

コタツは座りが悪い心地をもてあましながら、かむろ坂公園に向かう。するとおかしなこととは続くものなのか、公園の中にはこれまたおかしな人が立っていた。
真夏に黒い傘。傘に隠されて顔は見えないものの白い長袖のパーカー、青いジーパンで身を包むその格好は至って普通であったが、目算でも二メートル近いその身長を遠目で眺めてしまうとさながら細長いキノコのようだ。人っ子一人いない公園で何かを探すように動く姿は怪しいとしか言いようがない。けれどコタツの性分では、見て見ぬ振りをすることも難しかった。

「お兄さん、何しているんですか?」

近づいてみるとその正体は存外に若い男のようであった。特徴のないパーツが集まった顔は整っているようにも見えたが、顔を外から貼り付けているようにも見える。話しかけても返事をせず、表情という表情もないまま辺りをキョロキョロと伺っている。その様子に、大丈夫だろうかと不安がもたげるもののコタツは乗り掛かった船だと男の服の裾を引っ張ってみた。すると漸く、男はコタツに気づいたようだ。

「お兄さん、何か、探し物ですか?」

もう一度、ゆっくりと話しかける。まだ明るい公園内。辺りに人気はなくとも、そうそう危険な目には合わないだろう。そういった安易さで話しかけたものの、男の挙動はやはりおかしかった。
男はまず首をかしげ手でさすり、ぱっくりと口を開ける。最初に漏れたのは空気で、二度三度と繰り返していく内に声が段々音を持ち始めた。あ〜、あ〜、と繰り返している内に漸く落ち着いたようで、やっと発された言葉は聞き心地のいいテノールだった。次いでコタツとの身長差に気づいたのだろうか。膝を小刻みに震わして軽い屈伸の後、目線を合わせるようにしゃがんでくれる。巨体が丸まり、見えた顔は無垢な赤ん坊にも似ていて、コタツは僅かに緊張を解く。

「あぁ、俺に、何かを、たずねてくれたのか?」
「えっ、あぁはい。何か探し物かと思って」
「…助かるよ、実はな、サクラを探していて」
「桜を?」

コタツは意外な言葉に思わず驚く。不審な挙動も、たどたどしい言葉も、きっと何処かからの観光客だからなのだろう。そう見当をつければ次は出来る限りの助けを行うことが人情だ。そう思い直してみたものの“桜”を探すというのはいささか難しい。

「お兄さんが探しているのって、植物のだよね?」
「あぁ、そうだ。その植物の下には人がたくさんいて、騒いで歌っているのだろう?」
「あぁうん。大体花見と言えば桜だけども…。ほら、あっちを見てみて。あそこの通り一帯にあった植物が、桜だったんだ」

かむろ坂公園は五反田でも有名な桜の名所『かむろ坂』の途中にある公園で、春にはソメイヨシノが桃色の列を作っていた。しかし今はそれも見る影はなく、たくましく居座る数本の木々を残してなくなってしまったのだ。その大半は火に焼かれ、煤けた幹だけが地中に巣を張っている。しかも今は夏の為、男の望むような姿はそもそも現しようがない。けれど男にとってそれは容認しがたい事実であったようだ。

「色が違うようだが?」
「でも桜です」
「人間が宴会しているようには見えないが」

段々と言葉は流暢になっていくものの、叶えられる望みではなさそうだ。今年の春を思い出してみても、花見をしているものなど皆無に等しかった。投下された爆弾によって築かれた死体の山を公園に一時保管していたからだ。桜の花びらが死の頭上を通り過ぎていく。その光景を酒の肴とする人々は現れなかっただろうし、もし居たとなれば不審を招くことになる。
戦争中、爆弾よりも怖いのは隣近所の監視の目だ。恐怖からかあらゆる流言が真のように語られる。足並みを揃える事こそが生きる術。ならばこそ、男の姿はやはり奇異だった。この真夏に黒い傘、白い服。よくよく目を凝らせばその服は土汚れもなく綺麗な状態だ。
そもそもこの男はこのご時世に何故こんなにも悠長なのだろう。コタツは漸くその疑問に行き当たる。今この時だって公園で遊んでいるものなどコタツぐらいなものだろう。親は一人で子供を遊ばせることなどよしとせず、コタツも親には無断で来たようなものだ。

「お兄さん。お兄さんは一体何者なんですか? 今が戦争中だって知ってます?」

知らない人にも丁寧でいなさいと、両親はよくそう言っていた。けれど場合によれば、コタツは自分で自分の身を守らなければならない。少し棘のある声で詰問すれば男はわずかに首を傾げる。まるで、そんな事実知らないとでも言うように。
じっとりと嫌な汗がコタツの背を伝う。時計を見れば午後6時。まだ日は高いが、そろそろ母が心配する頃合いだ。コタツは男から視線を外さず、じりじりと後ろへ後退る。男はその様子に頓着する様子もないまま、表情も変えず話し出した。

「ここからわずか4光年の向こう側から、小さな観光船によってやってきた。住んでいた星に名前があったかもわからない。地球には、桜を見にやってきた。今言えることなどそれだけなのだが、何か質問はあるだろうか」
「えっ、つまりは何さ」

コタツは思わず敬語を忘れ、しばし声も失う。いくつかの事情を整理しようにも何から話し始めればいいのかわからない。「つまりは宇宙人か」と問えば「宇宙人というものがどう定義されているのかによる」と返され「観光?」と疑問を投げかければ「桜を見に」と肯定される。質問すれば答えが返されるが、逆を言えば質問しなければ答えが返されない。これでは埒があかないため、ではお互いに状況を整理し、明日また会おうということでコタツはその場を後にした。公園を出たところでそっと振り返れば、男は木でできた遊具の足元にうずくまりそこを今日の寝床と決めたようだ。明日を迎える前に本当に通報されてしまうのではないか。まぁその時はその時だ。
夏の夕暮れは既に近い。住宅の側を歩けば光を隠すようにしてカーテンが下がり、微かな人の気配がここを人間の居場所なのだと教えてくれる。コタツは足取り軽く硬いコンクリートの地面を蹴った。久方ぶりに弾む心が教えてくれるのは、生きることの喜びだ。いつ来るかもわからない死に怯える日々。まだ見ぬ未知がそこにあるという実感が、コタツに久方ぶりの感情を呼び起こしていた。
しかし家に帰ると、それに泥を塗るような出来事が待っていた。母とアンマが何かを言い争っている声が聞こえたのである。

「奥様、考えてみてください。行動です。私達も戦うんですよ」
「アンマさん、貴方の気持ちはわかる。けれどやり方が間違っているわ。協力はできないし、貴方もそんな事から早く手を引きなさい」
「間違っているって? どうしてそんなことを言うんですか…」

ドア越しのリビングから漏れ聞こえるその声を、コタツはそれ以上聞くことができなかった。そっと二階に上がり、ドアを閉めて音を遮断しようと試みる。しかし言い争うその様子は家全体を振動させ、アンマがとうとう泣き出したことが壁伝いに伝わってきた。コタツは堪らずベッドに潜り込み、早く明日が来いと祈らずにはおれなかった。

翌朝になると、アンマの姿は当然のように見られなかった。母も昨日のことには触れず、コタツは昨夜の食べ損ねたご飯を静かに食す。いってきます、と言って麦藁帽子を引っ掴み、家を飛び出し向かうのはかむろ坂公園だ。今日も学校があるのだが、一日向かわなくても問題はないだろう。突然来なくなる子など珍しくはないのだ。
公園に辿り着くと男の姿は見えなかった。どこかに移動したのだろうか。キョロキョロと辺りを見回すと、何時の間にか昨日と同じ場所、遊具の足元に脚を抱えて座っていた。さっきまで姿が見えなかったのに。コタツはすぐに気を取り直し話しかけようと思ったが、ふとした違和感に立ち止まる。男は此方に気づいた様子もなく上を向き、その身体の周囲は仄かに光っているようにも見える。黙ってじっと観察していると、その異変は唐突にやってきた。
掲げた掌がぐにゃりと蠢き、五指が消えたと思うと手が球体のように膨らむ。そしてあっという間に戻ったかと思えば今度はボタボタと光る液体が落ち、それに伴って身体が縮んでいった。二メートル近くあった巨体が一回り、二回りとその様相を変えていき、ついに止まる。男というよりも少年というに相応しい姿になった彼は、そこでやっとコタツに気づいたようだ。立ち上がると服についた土埃や石をぽろぽろと落として、存在を示すように手を横に振る。それに促され近づいてみると驚くことに服は濡れた様子もなく、身体に合わせて縮んだことがはっきりとわかった。コタツは一部始終を確認して、男が地球外からやってきたという可能性を信じかけた。

「おはよう。これは朝の挨拶だと聞いたが、合っているか」
「おはよう。合ってるよ。…なんか、急に縮んだ?」
「…君に姿形を近づけてみたのだが、おかしいか?」
「いや、おかしくはないよ。でもどうやった訳? 服もなんで濡れてないの?」

敬語も捨てて話しかける。矢継ぎ早の質問に男は困惑したようだったが、その質問に答えようとはしてくれた。

「おかしくないなら良かった。この姿について説明するのは少し難しい。ただワタシ達の身体は大半がこの星でいう、水と同じものでつくられている。だから身体を小さくするには、それを抜いてしまえばいいんだと、気付いてやってみた。君からみておかしくないのなら、大丈夫だったんだろう。服、というものについて言えば、これは他の星の技術だ。だから説明は、難しい」

一回一回、考えるように止まる説明を繋ぎ合わせるのはいささか疲れるものであったが、コタツはそれ以上にこの辿々しい話し方をする自称宇宙人に捨てきれない庇護欲を感じていた。この男はこの場において自分しか頼るものがいない。それは日々戦争に怯え、しかし戦う術を持たなかったコタツにとって一時の気を紛らわすには魅力的に過ぎる欲だった。

「わかった。じゃぁ僕が手伝うよ」
「…何をだ?」
「何って、桜を探すんでしょう?」

ほらっ早く、と先を急かせば、男だった少年は黒い傘に手を伸ばしてもたつきながらも開こうと試みる。そこでコタツは、自分が麦わら帽子を持ち出した理由を思い出した。先を急いでいた自分の足をくるりと反転させ、足早に近づいてその小さな頭に帽子を乗せる。自分よりもわずかに大きいくらいだろうか。その縮まった身長差が親近感を強くする。そのまま手を引こうとしたその瞬間、腕が肌に触れてしまった。

「冷たっ!」

思わずあげた悲鳴に少年は無表情ながら納得したように首を縦にふる。「ワタシ達は、氷の底で生まれた。だから肌は冷たく、しかも暑さに弱いんだ。この星がこんなに暑いなどと、想定していなかった」少年の言葉にコタツもまた納得したように頷いた。自分の考えが間違ってはいなかったのだと、少し誇らしい気さえしていた。

「じゃぁその帽子、ずっと被ってなよ。暑さに耐えきれなかったら、傘をまたさせばいい。子供みたいな今の大きさなら怪しまれないで済むよ。ほら、だから早く行こう」

手を伸ばして腕を引こうとしたが、自らの熱でさえ熱いかもしれない。コタツは思い直し、一人で先を急ぐように駆けていく。その後を黙ってついていく姿を認めながら。

 

暫く走り、目黒川に差し掛かったところでコタツは唐突に思い出す。そういえば、名前を確認し忘れていた。思い出してみれば名前をお互いに知らないのは不便としか言いようがない。立ち止まり追いついてくのを待った。

「なぁおい、お前、名前はなんていうの?」

のんびりとした様子でやってきた彼にわずかに苛立つも、走ればただでさえ暑さに弱いのにどういったことが起こるかわかりかねる。自分の配慮のなさを恥ながら話しかければ、質問の意図がわからないというように首を傾げられた。

「だから名前だよ、名前」
「名前?」
「俺は言っていなかったけど、日比野コタツっていうんだ。みんなからはコタツって言われてる。お前は?何て呼べばいい?」

しばし逡巡したように迷い「ワタシ達に名前はない」と事実をただ述べるような無機質な声が聞こえて来る。そういえば自分たちの住む星の名前すら知らない彼に、自らの名前があると何故思えたのか。他にも複数いるような物言いだったからなのだが、コタツはこの宇宙人に何を言っても仕方がないだろうとこの短い間に学習していた。

「わかった。じゃぁお前の名前はゴタンダな。目黒川からとってもいいけど、この汚い川の名前をつけちゃかわいそうだしな」

横を見れば長く川が続いていた。空爆から逃げ遅れた人々が水を求めて飛び込む為、その水はどこか濁ったように見える。コタツは咄嗟に付ける名前にしても、この暗く濁った川の名前をつけたいとは思えなかった。少年は二三度繰り返し名を馴染ませるかのように口ずさむ。
「ワタシの名はゴタンダだ」
ゴクリと飲み込むような仕草の後、ようやく呟くのをやめる。わずかに微笑んだように見えたがコタツは気のせいだと思い直した。
道行く人々は二人の子供の内、一人が宇宙人だとは思いもしないだろう。コタツだってまだ信じきれていない。コタツはついでとばかりにゴタンダに問いを投げる。

「なぁ、お前の生まれた星のことを教えてくれよ」
「星のこと?」
「俺は何も知らない。お前が宇宙人だって言ったって信じられない。でもちゃんと話してくれたら、信じられるかもしれない」

コタツは足元に視線を向けると石を軽く蹴り、手をぷらぷらと空中で遊ばせる。質問に対してあまりにも不誠実な態度ではあったがしかし、ゴタンダは気にしなかったようだ。わずかの間の後話し始める。小さくなっても声は変わらず、それは聴き心地のいいテノールだった。

「ワタシ達の星には文明などどこにもなかった。建造物も森林もなく、周りは種を同じくする仲間ばかりだった。みな形を持たなかったがワタシ達に人間のような肉体は不要だった。なくとも、互いの意思を知っていたから。広大な土地の中で時折やってくる他の星の住人達は、氷で一面を覆われた大地の中にワタシ達がいた等とは知る由もなかっただろう」

「肉体を持たなかった? なのに何故仲間がいるなんてわかるのさ」
「ありていに言えば、テレパシーでだろうか」
「テレパシー?」

また胡散臭いものを、といった調子を隠さずコタツは聞き返す。

「そうだ、ワタシ達は生まれると同時に声を聞く。それは種の存続を喜ぶ歓喜の歌だ。それ以降聞こえることは殆どないが、ただ生まれてから死ぬまで、近くに同じような存在がいることを感じ続けている。ワタシ達には何もない。しかしだからこそ子の誕生の瞬間、意識が繋がるんだ。生まれてきてくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう、と」

それはまた、信じられない話であった。しかしゴタンダは眠る我が子を起こさぬよう、まるで囁くみたいにしてその言葉を語る。今までの感情の希薄さが嘘のように、隠しきれない喜びが滲んでいた。コタツは無性に悔しくなって、それ以上の言葉を続けられる気がしなかった。
目の前には目黒川と道路を隔てるためにあった柵が一部破壊されてひしゃげている。昨夜にあったという銃撃戦はこの付近で行われたものだったのだろうか。

「それはそうと、先ほどから破壊された建造物をよく見るのは何故だ。これが芸術というやつか?」
「…違うよ。昨日ここで戦争が起きたんだ」
「戦争?」
「…そう。とても小規模な戦争だよ。ここでは空から爆弾が落ちてくるだけじゃなく、横から人間が飛び出してくることもあるんだ。兵隊でも民間人でも御構い無しで殺しにくる。敵が、ルールを破って民間人を攻撃してるって噂だよ」

コタツは早口になっていることを自覚したまま、けれど止まれない。頬は熱く、背が自然と丸くなる。惨めで鬱屈とした感情が渦巻き、その感情のとぐろを無意識の内にゴタンダにぶつけてしまう。

「ゴタンダの星には、敵はいなかったの? 種を同じくする仲間ばかりだったって。それは本当なの?」
「いや“種を同じくする”というと語弊はあるだろう。食べる、食べられるという単純な食物連鎖の流れは、ワタシ達の星にもあった」

そうか、とコタツの胸は鼓動をわずかに緩める。けれど、ゴタンダの話はそれだけで終わりではなかった。

「しかし、それはワタシ達にとっての敵ではない。それはあくまで、生物上の連鎖、循環の問題だ」
「じゃぁゴタンダにとっての敵って何なのさ」
「そうだな…。例えば、モーリシャスという島の話があるだろう」
「モーリシャス?」

コタツはその名を知らなかった。しかし、まぁ聞いてくれ、とゴタンダは先を続ける。

「そうだ。モーリシャスにはドードーという鳥の一種が、海に囲まれた敵もいない島の内部で、それは平和に暮らしていたそうだ。しかしそこに、海を超える力を持った動物がやってくる。猫や豚を伴い、未開の森林を切り開くその動物に、ドードーはなす術もない」
「…それで、ドードーはどうなったの?」
「当然、もうこの世にはいない」

コタツはその“動物”が何を指しているのか。それを聞くのが怖かった。ゴタンダはその様子に気づいているのかいないのか。だが決してその“動物”の名を告げるようなことはしなかった。

「敵というのは、そういう存在だ。 共存という在り方を模索しないまま、他から奪うことの手軽さを知っている。敵というのは、大勢でやってくる脅威なんだ」

目黒川を超え、日陰が続く道にパッと陽光がさす。コタツが突然のことに見上げれば、首都高の半分が破壊されてコンクリートの硬い床に穴が空いていた。人通りの少なさは、いつ崩れてもおかしくない歪に突き出る鉄筋やコンクリートを忌避してのことだろう。
強張っていた身体の力が、ふと抜ける心地がした。コンクリートを突き抜けて降り注ぐ空の青さを見た時、どうしようもない無力感が身体中を駆け巡ったからだ。しばし言葉は見つからなかった。けれど、覚えのある道に差し掛かったところで身体に力が湧いた。

「ほらゴタンダ。あれが俺の父さんの職場だ」
「父さん? 職場?」
「…そこから説明したほうがいい?」
「いや、不要だ。“父さん”とは一般的に遺伝的な繋がりを持つ雄の親のことだろう?また職場というのは金銭を得るための職業を完遂するため、提供される場所のことだと認識している」
「うん、まぁそれでいいよ」

宇宙人の知識はどこか偏りがあった。しかしそれを知るための旅路だとすれば当然のことだろう。コタツは呆れを滲ませながらも、先を続ける。

「父さんはあそこで、芸術っていうものがどういうものかを色んな人に教える活動をしてたんだ。現代のデジタル技術とかを応用して、絵を立体的に見せたり触ったり、とにかく色んなことをしてたんだ」

自分の拙い説明では父の仕事すら満足に伝えることができない。見れば早いのに、しかしそれは夢のまた夢のような話だった。
コタツはまた、気持ちが萎んでいくのを感じていた。どうすればゴタンダに満足してもらえるのか、皆目見当がつかない。無気力感が再び襲いくるも、コタツは振り払うように首を振った。ならばやはり、桜を探しに行こう。気を取り直すようにして走り出す。ゴタンダの手を掴んで行こうとも思ったがわずかに触れた手はやはり冷たく、極力日陰を通るようにして先を急ぐに留めた。
首都高沿いをまっすぐ歩いて行くと、池田山付近にやってきたことがわかった。ここまでくれば回遊式庭園があることでも有名な池田山公園が近い。コタツは不確定の道行をそこに定め、歩き出す。細い小道を抜けて暫くすると、公園の小さな入り口が見えてきた。
あまり頻繁に来る場所ではない。しかし新緑の緑に覆われたその公園は居心地がよく、ほっと知らず息が漏れた。そう思う人々は他にも多数いるのか、公園の中は比較的人が多いようだ。ゴタンダもキョロキョロと辺りを見渡している。
しかし桜はやはりなさそうだ。仕方がない。少し公園を散策して次に行こう。そうコタツが思考を巡らした瞬間、ゴタンダが「おい」と声をあげた。

「どうしたの?」
「あそこに、子供がいる」

見れば木陰の下のベンチにコタツよりも少し大きい位の少女が足をぶらぶらと揺らしながら一人で座っていた。純粋な日本人ではないのだろう。肌色は僅かにブラウンがかり、目鼻立ちがしっかりと濃い、黒色の豊かな髪を後ろで一つに結んでいる。子供は通常学校にいる時間の為、ゴタンダにも物珍しかったのだろう。しかしそっと呟かれた言葉に珍しさだけではなかったことを知る。

「人間は、違うものを見つけるのがうまいんだな」

言われてみれば人通りが少なくはない公園で、そこだけぽっかりと空間が空いたように人がいないのは奇異といえば奇異だ。まるで、避けられているみたいだ。

「ねぇ君、ここで何をしているの?」

気づけば少女に話しかけていた。急に話しかけられたことに驚いた様子だったが、返ってきた言葉は澱みが無い。

「何もして無いわ。ただここにいるだけよ」
「お父さんとかお母さんは居ないの?」
「母は帰国中。父も今は仕事よ。私は行きたいところが無いから此処にいるの」
「学校は?」
「貴方こそ」

言い返された言葉にぐっと押し黙るのは現時点でサボっている身分は同じだからだ。その様子から状況を読み取ったのだろう、少女が勝ったとでも言うように誇らしげな様子で笑う。その笑顔が存外に可愛らしくて、コタツは別の意味で息が詰まる思いがした。

「ねぇ、それより貴方達はここに何の用があってきたの?」

少女はコタツとゴタンダを交互に見て、好奇心を隠さぬ様子で尋ねてきた。目的を話すぐらいならば大した時間も掛からない。桜を探しに来たのだ、そういえば驚きと呆れの声が返ってきた。

「桜を? 今の時期じゃぁ咲いてないわ」
「うん、俺もそうだろうと思った。何か他に、いい場所は知ってる?」

少女は少し悩む様子を見せたが心当たりはなかったようだ。期待はしていなかったとはいえ、残念な気持ちはある。気を取り直していこう。ゴタンダを伴って踵を返そうとした時、少女から声がかかった。

「待って。私も一緒に行っていいかな?」
「へっ?」

突然の申し出に驚いたものの、ゴタンダに否はなさそうだ。「構わない」と一言吐くとさっさと歩き出してしまう。一瞬戸惑いを残しているのはコタツの方だけで、少女もベンチから立ち上がるとコタツの横にそっと並ぶ。

「私はイロリっていうの。見ての通り生粋の日本人では無いけれど、仲良くしてね」

少し高くなる鼓動に気付かないふりをしたまま首を上下に勢いよく振ると、それが可笑しかったのかクスリと笑われてしまった。恥ずかしい気持ちを抱えながら、早々に歩き出してしまったゴタンダに追いつく。イロリには詳しい説明を省くも、ゴタンダが桜を見に来るために来日した観光客だと説明する。「こんな時期に観光だなんて」と些か信じられ無い様子だった。
来た道をゆっくりと戻る。太陽が天頂に差し掛かり、もうすぐお昼ぐらいだろうか。ゴタンダはまだしも、アンマは何か用事があるかもしれない。先を並んで歩く二人に話しかけようとした時、悲鳴があがった。

「わあ、ゴタンダさん。手がとても冷たいわ」

イロリに詳しい説明をしていなかった為、驚いたのだろう。コタツが慌てて駆け寄るとアンマがゴタンダの手を握り、どこか当惑した様子であった。

「ゴタンダは寒い地方の生まれらしいんだ。だから熱に強くない。あんまり触らないでやってくれない?」

そう言ってゴタンダの手を奪い返すために触れると、僅かな違和を感じた。初めて触れた時よりも、人肌に近づいている。麦藁帽子から覗く目は穏やかであったが、先ほどよりもその目線が近いことに気付いた。

「ゴタンダ。お前、大丈夫か?」

暑い日差しの中では耐え切れなかったのだ、そう潔く気づくこととなりコタツは焦った。その雰囲気を察してかイロリもどうしたのかと問い、思わず顔を見合わせる。ゴタンダは大丈夫だと言うように視線を和らげるが、到底信じられるものではなかった。そこに、救いが現れる。

「…あらコタツ君。どうしたの?」

声をかけてくれたのはアンマであった。その登場に身体が強張るのを感じるもそれに構ってはいられない。気付けば「アンマ姉ちゃん、助けて」と声を荒げ助けを求めていた。

 

連れてこられた場所はDNPルーブルミュージアムラボ内部の“ホワイエ”と呼ばれる場所だった。シアターや展示室などがある中、ここでは画家の手法などを最新のデジタル技術で体験ができた。

「ここは、冷房が効いてるんですね」

助かったという気持ちと同時に、何故という疑問が浮かび上がる。電力は国家の管理のもと供給されている昨今、微弱といえども冷房を使用できるのは贅沢とも言える。疑問はすぐに氷解した。

「非常用の発電機があるのよ。本当は徴収物の一つなんだけれども、つい」

ついで済まされるものなのだろうかと再び疑問は沸くが、ひとまず言及し無いことにする。涼しい冷房はありがたく、ゴタンダもここならばまず安心だろう。

「ねぇ、そういえば何をしていたの」

アンマの問いに、洗いざらい答える。ゴタンダが宇宙人であり、桜を見に来たこと。方々探し回ったが、見つからなかったこと。子供の時分にはもう出来ることなどなく、アンマならば何か手立てがあるのではないかと考えたのだ。ゴタンダにはどうやらもう、時間が足りない。
アンマは全てを信じたわけではなかったが、何か心当たりはあったようだ。逡巡した後、少し待っていてと席を立った。手立てがあるのだろうか。ゴタンダに喜んでほしい。それはコタツが短い間にでも感じた願いであった。
暫くの時間の後、室内の照明が二段階ほど暗くなった。壁際や部屋の中央に置かれた機械が次々に稼働音を上げ、生命の咆哮のようでもあった。そして光が灯り、それは急に眼前に現れた。

桜だ。

背後が透けているものの、それは桜そのものだった。周りには着物を着た様々な人間が花見を楽しんでいる。御座に座って酒を楽しむ男達や、赤子をおんぶしてあやす女達。扇子両手に踊りまわっているものまでいる。ゴタンダが望んだ光景が、今や目の前にあった。
しばし言葉も忘れて立ちつくすのはコタツだけではない。イロリは目を輝かせ、すごいすごいと歓声をあげ、ゴタンダの方に目を向ければ壁に背を預け驚きに目を見開いている。このような魔法を披露した本人は、誰にも気づかれぬうちに、その場に戻っていた。

「これはね、葛飾北斎という画家が品川の花見の情景を描いた絵を3D映像化して、360度見れるようにしたものなの。まだ戦争が本当にあるだなんて思いもしなかった頃に、皆で冗談みたいに話していたものの集大成。研究としてはルーブル美術館の作品しか扱えないから、じゃぁ個人で技術や研究を持ち寄ってあくまで趣味の範囲内で作品を作らないかって。だからこれは、皆の共作なのよ。まず原画を細部まで研究して、データ化を行い、それらを立体に直し。あくまで個人の技術の持ち寄りだからそんなに完璧とも言え無いけれど、なかなか綺麗なものじゃ無いかしら?」
「うん!とても綺麗! 久しぶりに見た、こんなにも楽しそうな風景」

イロリは出会った頃よりも幼い様子でアンマに大きな賛辞を送る。コタツもそれに異論はなく、しかし話された内容が気になった。

「へぇ、じゃぁこれには父さんも?」
「えぇ、絵の研究をしたのがお父さんよ。コタツ君や奥さんを紛れ込ませるように技術の子に言っていたから、もしかしたら混ざってるかもしれないわね」

本当に親バカだって、皆に笑われていたわよ。父の職場での様子を聞くと、気恥ずかしさしかない。コタツはそれ以上のことは聞かず、しばし桜の光景に見入る。すると、アンマが話しかけてきた。

「ねぇコタツ君。この施設内にはたくさんの研究がある。勿論、お父さんの研究だって。好きに見ていいから、イロリちゃんと二人で暫くあたりを散策するといいわ」
「アンマ姉ちゃんはどうするの?」
「…ゴタンダさんとお話ししていいかな?ちょっと聞きたいことがあるの」

ゴタンダに視線を向ける。すると穏やかな目が返り、静かに頷く。「無理は絶対させないでね」一つ釘を刺し、コタツはイロリを連れてその場を後にした。

 

アンマが目を向けると、ゴタンダは地べたに座り壁に背を預け、桜が舞い散るその映像を静かに眺めていた。その姿は暗闇の中でわずかに発光しているようにも見える。

「あなたが宇宙人っていうのは、どうやら本当のようね」

最初に目にした時から、また更に縮んでいるようだった。服は濡れていなかったが、その下の床にはキラキラと光が散らばり、液体で湿っているように見える。

「貴方って、元から人間にそっくりなの?」
「…いや違う。ワタシ達は人間とは似ても似つかない、小さな生き物だった」
「小さな生き物?」
「ワタシ達の星に文明は無い。見渡す限り氷の大地があるのみで、きっとどの星の住民から見てもそこに生物がいるなどと思いもしなかっただろう」
「でも貴方達はいたわけでしょう?」
「そうだ。誰も知らない氷の下で、進む秒針の存在も知らないままに生きていた。ワタシがいつ生まれ、誰がいつ死んだかも知れぬ。ワタシ達にとって重要なのは、ただ種を絶やさぬことだけだった」

アンマはゴタンダから滲む液体に触れない位置を定め、目線を合わせるように腰掛ける。目の前にいるのはコタツよりも小さな姿をした子供であったが、その目には既に終わりを知ったものの穏やかさが宿っていた。

「そう…。じゃぁ、貴方が此処にきた目的は一体なんだったの?」
「何も無い」
「何も無いって、そんなわけ無いでしょう?」
「強いて言うならば、桜を見るためだ」

淡々とした口調に嘘はない。けれどその言葉が信じられない。結局、アンマは何を言われたところで納得できないのだ。言い知れぬ焦燥が、この死にかけた宇宙人の最期を安心できないと囁き続ける。けれどそれと同じように、この場で声を荒げる自分が馬鹿馬鹿しくも思えてくる。ゴタンダはその様子を見て、こくりと頭をかしげる。どこまでも穏やかに凪ぐ視線を見て、アンマは一時焦りを忘れた。

「ワタシ達の星は、星と星の重力の関係で起きる強い潮汐力の影響を受けている。星が形を変えようとして起こる熱エネルギーのお陰で、氷の下には海が広がっていた。ワタシ達はそこで生まれ、そこで死ぬ。同じ種が生まれたその時だけお互いの意識が繋がり、種の新たな誕生を一緒になって喜ぶ。長い時間、それだけの営みを繰り返すために費やした。種の保存だよ。ワタシ達の生きる目的は、種を絶やさぬこと。それ以外は無い」
「つまり、種の保存ができなくなった星を捨てて、この地球を偵察にでもしにきたということ?」
「違う、そうではない。星は今も同じ営みを繰り返し、種の保存は果たされている。他の星があるという知識を探求する必要も、他の星を自分達のものとするための欲求も、ワタシ達にはそもそも必要がなかった。そういった知性が発達する星ではなかったんだ」
「じゃぁ何故、貴方達は此処にいるの。此処に来れたの?」

アンマは自分が口に出したことが本当に聞きたかったことなのだと理解する。突然宇宙人であると告げられた混乱が、ようやく収束していく心地がした。ゴタンダは息を飲んで黙り込み、それが不安を形にしていく。しかし暫くした後、ため息とともに言葉が落ちた。

「…何もかもを知りたいと思うのは、ある種の知的生命体にとって当然のことなんだな」

呆れたようなその物言いに、馬鹿にされたかのような羞恥が広がる。しかしゴタンダにその意図はなかったのか、独白のような言葉が続いた。

「いや、知らないでいることの方がおかしいのだろう。ワタシ達は自らの星を出て行く時、漸く自分たちが何者なのかを知った。ワタシ達が氷の下の海に住んでいたことはもう話したが、そこに生きるワタシ達は柔らかな石を纏っていた」
「…石?」
「そうだ。この星の知識で語るならば、それは石といっていい。ワタシ達は地球でいうところの微生物の一種だ。海底には熱水が噴出し、そこは生命の宝庫でもあった。そこにたゆたう微生物がワタシ達の意識であり、それを守るために鎧があった。塩や水。それらが冷やされることによってできた結晶の中でワタシ達は生きていた。寒ければ寒いほどに硬化し、逆に湿度と暑さの中では潮解と脱水を起こす」

未知の液体で濡らされた床を見る。ではこれは夏の暑さで溶けた水だというのだろうか。ならばそこは、地球と似た星なのかもしれない。アンマは自分がこの話を信じかけていることに気づき、自らを叱咤する。話は徐々に確信に迫っていた。

「どうやってこの知識を得たか。それはワタシ達の星にやってきたある研究者のお陰だった。その研究者に供はなく、玩具のような宇宙船でやってきた。降り立った目的は、知的好奇心を満たすため。地球に行く途中にあった星に興味を持ったらしい。その研究者はヘンテコな形をしていたよ。ぐにゃぐにゃと、手も足も形をなしてはいなかった。どうやら身体全体がゼラチン質でできていて姿を変えることができる種族だったようだ。凍えるようなその大地の上には、他に生物などいないだろうと安心しきっていたその時、氷の底に滲む光を見つけた。男は地質の研究者で、好奇心には勝てなかったのだろう。宇宙船から機材を出すと、その厚い氷の底に手を出し始めた」

まるで何処かの物語のようなその話は、実際にゴタンダの星で起きた歴史なのだろう。歴史は観測するものがいなければ歴史にはならない。知性を持たなかったというゴタンダが、何故この物語を語れるのだろうか。

「何故知っているかって? それは、その研究者がワタシ達だからだ。正確に言えば、知識も何もかもを乗っ取ってしまったと言っていい」

初めてゴタンダの語調が荒くなる。アンマはしかし、衝撃の強さに逆に頭が冷静になっていくのを感じていた。

「ワタシ達もわざとではなかったのだ。研究者がワタシ達の居住を乱すような行為をするとは思わず、その手が届くことを脅威と感じた。感じてしまってからは無意識だった。後から知ればワタシ達の発光に興味を持ったゆえだったが、その時はわからなかった。だから研究者が手をもぐりこませようとしたその時、ワタシ達は集団でそのものに飛びついてしまった。気づいた時には、意識も身体もすべてワタシ達が食い尽くしていた。驚いた。そんな力があるなどとは思いもしなかったから」
「……そして、ここへ?」
「見ての通りだ。ワタシ達は船の設定自体をいじる暇もなく、研究者の意識に潜り込み、研究者のこれからの行動を認識する作業に入った。予定通り地球に進路を向け、一刻も早くワタシ達の星から遠ざけねばならなかった。繋がる意識が早く早くと急かすんだ。早く得体の知れない何かを遠ざけてと、あまりに苦しく叫ぶ声達が」
「…貴方達の意識は繋がっているものなの?」
「あぁ、普通ならば新しい種が誕生した時にしか聞こえない。どこでどんな仲間が生きて死んでいったのかもワタシ達はわからないはずだった。けれどあの時だけは、いや今も、ずっと聞こえている。ワタシ達はこの身体でいる限り、もう星には帰れない」
「帰りたいとは思わないの?」
「ワタシ達は棺桶に乗ってやってきたただの動く死体だ。死体が戻っても辺りに腐臭をまき散らすだけで、何の意味もない」

アンマは五反田の話に相槌を打ち、ただどこか晴れない気持ちを持て余した。ゴタンダへの不信感はすでになく、麦藁帽子をかぶった小さな頭、この幼い身体を丸めるその姿にただ憐憫だけが募る。しかし、まだ聞きたいことを聞いていない。その思いが胸にくすぶり、アンマを突き動かした。

「ねぇ、まだ聞きたいことがあるのだけれど」
「なんだ?なんでも聞くといい」
「…貴方達はつまり研究者を殺したということでしょう? ならもしも、ということを考えたりはしないの?」
「もしも、というのは?」
「研究者の星の人達が、貴方達の星に戦争をしかけないか。心配になったりはしないの?」

ゴタンダの表情に、さしたる変化は見られなかった。驚くこともなく、むしろどこか納得したように頷く。その様子を見て勘にさわるものがあったが、アンマは自分自身の癇癪を察し、顔に出さぬよう意識する。ゴタンダは気にした様子もなく、静かに話し始めた。

「それは、何度も考えた。そして何度もそれはないだろうという結論に至った」
「それは、何故?」
「君は“モーリシャス”という島の名前を知っているか?」
「モーリシャス? モーリシャス共和国のことかしら。アフリカ国家、イギリス連邦の加盟国…。でも島というのならば、ドードー鳥が絶滅した島として有名ね」
「そう、そのモーリシャスだ。その名は、かの研究者が住んでいた星の名前でもあった」
「へぇ、偶然」
「偶然でも何でもない。彼らが意図してつけたんだ。モーリシャス島に住んでいたドードー鳥は、彼らの古くからの友人だった。地球に降り立っては戯れ遊び、お互いがお互いを大切にしていた。君たち人間がやってくるまでは」

ゴタンダの声に、非難の色はない。けれどアンマは、この続きを聞きたくない気がした。

「ドードー鳥の窮地に、彼らは何もできなかった。宇宙を超えてやってくるにはあまりに短い時の中で、彼らの友は永遠に居なくしまった。豚や犬、見も知らぬ人間が跋扈するかつての楽園を見て、彼らは決意した。この歴史を決して忘れまいと。その為に、星の名前も変えてしまおうとするほどの決意を彼らは抱いた。…だからワタシ達は彼らが星を滅ぼすことはないだろうと思っている。それをすれば、彼らは彼らの決意を汚すことになってしまうから」
「……どうして? その理屈は、正しくないでしょう」
「何故そう思う?」
「研究者を貴方達は殺した。ただ星にやってきたという理由だけで殺したわけでしょう?」
「それは認識が違う。星にやってきたからではなく、ワタシ達の居住に手を伸ばしたから殺してしまったのだ。ワタシ達の生きている場所に、悪意はなかったとはいえ」
「…そんなの、それは貴方達の考えでしょう? あちらにはそんな理屈は通じないかもしれない。あっちにとっては、ただ仲間が殺された結果しか残されてない。誓ってもいい。貴方達の星に彼らはやってくるわ。そして貴方達もそいつらを殺すのよ。侵略されれば抗うのが本能。同じよ、みんな同じなのよ」

アンマは次第に早口になっていくことを止められなかった。そんな都合のいい話、ある訳がない。争いの始まりはとてもささやかなものなのだ。だからこそ見逃し、気付けば取り返せないほど大きくなっていく。アンマは掌に爪痕をつけるほど強く拳を握りこむ。ゴタンダにぶつけるべき怒りではない。頭ではわかっているのに、衝動を抑えきれないのだ。

ゴタンダの手が、アンマへと伸ばされる。小さな手が大丈夫だとでも言うように、手の甲に何度も触れた。随分と熱い手だ。アンマは他人事のように見つめ続ける。

「彼らは戒めの為に、星の名を変えた。友を無くした悲しみを繰り返さぬように。だからこそ、彼らが復讐のためにワタシ達の星を襲いにくるわけがない。かの星の住人は観光客として、ワタシ達の星を無意識に攻撃した。そしてワタシ達は無意識に星を守る為、無抵抗の侵略者を殺してしまった。話はこれで終わりだ。これ以上の殺戮はいらないはずだ」
「そんな話で、済むわけがない」

絞り出すような声には疲れが滲んでいた。アンマはそんな綺麗事を聞きたくはなかった。全体の意識が平和へと向かう事実などあるわけがない。生きている限り、戦いはどこにだって存在する。
何故こんなにも寒いのだろう。肌をさすり、少しでも熱を得ようと努力する。館内のクーラーが効きすぎているのだろうか。こんなところで貴重な電気を消費してしまうとは。一体私は何を望んでいたのだろうか。後悔が頭をめぐる。それをじっと眺めていたゴタンダがまた一つ首肯した。

「それは、そうなんだろうな」
「…えっ?」
「あぁ認めよう。ワタシ達はただ、それを信じたいだけだ。許して欲しい。ワタシ達の故郷を奪わないで欲しい。攻撃されたらどうしようか。ワタシ達に勝てる見込みがあるだろうか。…そうやって、不安ばかりが浮かんでは消える。わかるだろう君にも、この気持ちが」

アンマは何も言えなかった。けれどそうだ、自分もそうなのだ。夜、ベッドに横たわる瞬間、空襲警報の夜泣きに怯えて朝を迎えたことは何度あっただろうか。知人が戦場へと送り出される瞬間。涙が出なくなってしまったのはいつ頃からだったか。信じたかったのは私もだ。私もなんだ。

「この身が小さくなる度に思考が純化されていく。今では頭が冴え渡って、今までの自分が愚かにさえ見える。だというのに、苦しさだけが増してくる。あの海の中にいた時が最も幸福な時だった。ただ生きるために生き、当たり前のように死んでいった。善も悪もなく、そこには罪という概念すらなく生きていられた。…しかし今はどうだろう。ワタシ達はもう、生きているのが怖い」
「…わかるわ。私も、もう生きるのが」
「君は、違うだろう」

最後まで言い切ろうとした時、柔らかな否定に遮られた。

すでにその身は小さくなり、人間でいえば五歳児ほどの身丈しかない。しかし瞳は真っ直ぐにこちらを向き、アンマは言い返す言葉をとっさに思いつけなかった。

「君は、未だに迷っている」
「…何?」
「ワタシ達は一度に多くのものを手に入れすぎた。多種族の身体を乗っ取れること。星を渡れること。美しいということ。恐ろしいということ。地球の時間にすればたった二日の間に、数百年もの歴史が進んでしまった。だが君は違う。君はこの地球で生まれ、いずれ此処で死んでいく。脈々と受け継がれていく種の歴史を、君は正当な形で受け取って此処にいる。長い時間の中で、自分なりの答えを見つけていくこともできるだろう。…ワタシ達には、その時間は与えられなかった。善や悪を知る前に、罪だけを手にして死んでいくワタシ達と、君は違う」

優しく諭すような声だ。アンマは呆然とその声を聞きながら、彼と私は本当に違うのだろうかと自問自答した。突き放されてしまったかのような寂しさは、今までに感じたどんな感情よりも強い。しかし、その思いは届くことがないのだろう。彼と私は違う。それは確かなことだ。

ほら、もう終いだ。

沈黙の降りた部屋の中で、その声は存外によく響いた。いつの間にか稼動音がやみ、桜は消えている。わずかな涼しさの残る部屋も、いずれは暑さを思い出すだろう。ゴタンダはその小さな体躯すらも重たげな様子で立ち上がり、のろのろとドアの方へと向かう。「どこに行くの? コタツ君達を待たないの?」心細げな声で呼べば振り返り「これを返しておいてくれ」と麦藁帽子を渡された。途端、ゴタンダの腕がぐにゃりとゆがむ。

 

 

ロビーに移ると、展示室の方からコタツとイロリが戻ってきた。電気の供給を終えた館内では、自動ドアも開かない。非常ドアの方から回ってきたのだろう二人が、こちらに目を向ける。すると先ほどまで楽しげな笑みを浮かべていたコタツが、血相を変えて走り寄ってきた。

「ねぇ? ゴタンダは?」
「帰ったわ」

それ以上の言葉もなく、コタツの頭に麦藁帽子をかぶせる。それだけで意味はわかったのだろう。コタツは目元を歪め、思わず飛び出す怒りをそのままぶつけてきた。

「どうして? どうして止めてくれなかったのさ!?」

涙でにじんだ瞳はただ真っ直ぐアンマを射る。時間にして一時間も経っていない。その間にお別れがくるとは思ってもいなかったのだろう。

「さよならだけは、ちゃんとしないといけなかったんだ。みんな突然いなくなる。さよならが言えたなら、それだけで十分だったのに」

イロリが目を背ける。アンマも少年の悲しみの意味を知り、僅かにだが引き止めなかったことへ後悔がよぎる。しかし仕方がないではないか。私に一体何ができたというのだろう。

「ほら、もう帰りなさい」

結局、私はこんなことしか言えない。無力感が慣れきった思考は簡単に運動を止めてしまう。考えることにもう疲れきってしまった。けれど子供達には、特にコタツ君には悪いことをしてしまった。
視線を移すと、コタツはぎゅっと被せられた麦藁帽子を両手で握りしめてどうにか涙をこらえているようだ。イロリは寄り添うように佇み、けれど視線をアンマの方に向けた。

「あっあの」
「…なにかしら?」
「…ありがとうございます!」

予想外の感謝の言葉に、うまく反応ができない。けれどイロリはそれに構わず、コタツを促す。一瞬の煩わしげな仕草の後、麦藁帽子から手が離れ、予想外に力強い視線が見上げてきた。

「…ゴタンダに、桜を見せてくれてありがとうございました」

まだ許せていないのだろう。しかし礼を尽くさないことをイロリは許さず、またコタツもそんな不義理を自分に許していないのだ。
アンマは小さく身を震わせる。幼い二人の子供はその様子に気づいた風もない。手と手を取り合って入り口の方に向かうと再度振り向き、もう一度深々と頭をさげる。

たった一人になってしまったロビーの中で、アンマは思い返す。それは、昨日の夜のことだった。
コタツの家のリビングで、コタツの母を説き伏せようと必死だった。同僚が次々といなくなっていく。その焦燥感を共にできる仲間が一人でも多く欲しかった。だから、抵抗軍への誘いをかけたのだ。抵抗軍は主に風説を利用する。敵の所業をでっち上げ、戦争事業や疎開の早期行動を促す活動が主だと聞いている。施設に残された非常用発電機をその為に使ってもいいとすら思っていた。個人では攻撃の術を持たなくても、集団でなら力になり得る。けれどその思いは、通じることはなかった。

『奥様、考えてみてください。行動です。私たちも私たちの出来る範囲で戦うんです』
『アンマさん、貴方の気持ちはわかる。けれどやり方が間違っている。協力はできないし、貴方もそんな事から早く手を引きなさい』
『間違っているって? どうしてそんなことを言うんですか…』
『そもそも貴方は、“抵抗軍”の活動が、本当にそれだけだと信じているの?」
『それはっ……。では私はどうすればいいんですか…。何を、どう行動すれば……」
『……貴方はまだ迷っている。こんな時代になってしまえば何が正しく、何が間違っているかなんて誰にも判断できない。その中で行動しようとする貴方は、むしろ素晴らしいといっていい。けれど貴方の中にはまだ覚悟がない。答えが定まっていないのなら、焦らず落ち着きなさい。今の貴方に、他人を傷つける決意があるとは思えない』

そんなの当たり前ではないか。他人を傷つけて、平静でいられるものの方が異常なのだ。そう思う一方で、その心配の意味を理解できないほどの愚か者でもアンマはない。
アンマは顔を覆い、薄暗がりの室内にうずくまる。思い出すのはずっと昔、桜の映像を作ろうと酒の席で盛り上がった時のことだった。戦争の影が濃くなっていき、フランスとの連携が肝であった研究がやや難しくなってきた頃。コタツの家で、酔っ払いの戯言が具体性を持ち始めた。始めに基礎となる原案、北斎の浮世絵を持ってきたのはコタツの父だった。『妻が好きな絵なのだ』と言って、それはだらしなく笑っていたのを覚えている。それの立体図案を書き出したのはアンマであったが、そこに家族の顔を書き出すように皆が言い出し、辟易したものだ。

「あぁ、全てが懐かしい…」

アンマは返して欲しかっただけなのだ。けれど、それが難しい事にようやく気づく。常識や倫理に縛られ、悪を悪だと思い込むアンマに人殺しは耐えられない。しかしならば、どうすればいい? 生きているのが怖い。やはり結論は同じだと叫び出したいのに、伝える相手はもういない。

だんだんと薄暗くなる室内でふと、深々と下げられた小さな頭を思い出す。手を繋いで去っていった子供達。ドア向こうに消えた守るべき種。未来は外に続き、此処はとうの昔に過去となっていた。
そうか、答えはこんなにも簡単だったのだ。アンマは嗚咽を漏らし、久方振りに涙の気配を感じたのだった。

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