梗 概
ナチュラルボーン五反田ファットボーイズ伝説
五反田は五反分の田んぼしか作れないという意味ではない。全住民で五反分の米しか食わないという変な噂から付いた地名だ。
津山健一、西五反田に生まれて22歳の無職デブ。週に3回しか食事をしない。働き者の姉とケンカしつつ、近所のデブ達とロックバンド「ナチュラルボーン五反田ファットボーイズ」を結成して遊ぶ日々を過ごしている。
デブ仲間、近所の製薬会社の頼れる星お姉さん、説教くさい町内会長の荻野じいさん。楽しく暮らしつつも、健一は異常な食事サイクルのせいで真っ当な仕事につけない自分に悩んでいた。
西五反田の住人は倹約遺伝子β-3アドレナリン受容体の変異型をもつオートファジー・ミュータントだ。常時飢餓状態で、平常時でも自身のタンパク質が分解され糖新生される。少量の米で生き延びるには便利だが現代ではちょっと食事しただけでデブになってしまう。
研究者の星お姉さんに検体を提供しては小遣いをもらって遊んでいたある日、あるニュースが健一の心を揺さぶる。
日本統合ゲノム・メディカルデータバンクに関連した社会保障の特別法案が施行されたニュースだ。
これは国民のゲノムと医療情報の統合を目指して設立されたが、ある論文をきっかけに暗礁に乗り上げていた。
論文では地域ごとの点突然変異の保有率と疾病発症率の関連性を論じていた。だがメディアが出身地域と疾病発症リスクの関係だけを偏向して報道したため出身地域だけで疾病リスクを邪推され、差別を受ける人が急増した。
遺伝子レベルの地域差別は批判を集め、政府は緊急に特別法案を施行することになる。
その法案は出身地固有の点突然変異が理由で生活が困難になった場合は特別障害年金を設定するというものだ。だがこの法案は保障対象として点突然変異が登録されるたびに、差別される地域はここだと宣言することにもなる。
「気軽に遺伝子解析なんて受けないで。他の人の迷惑も考えてよ」
遺伝子配列解析は自粛モードに突入する。
西五反田町内会でもデブは受診するなと通達が回る。
しかし健一は週3回の食費なら保障金でまかなえるのではと配列解析を受診しようと考える。
星お姉さんに相談するが、組織人として穏健に済ませたい彼女には止められてしまう。
相談する中で、自身の体質の異常さを他人の不利益を理由に隠すことに疑問を覚えた健一は、改めて特別障害年金を申請する決意を固める。
しかし星お姉さんは荻野じいさんに密かに連絡を入れ、町内会が健一を止めようとする。
鳴り響く町内放送。保健所に走る健一をデブ仲間が追いかける。
週3回だけの食事のおかげで仲間達より痩せていた健一は彼らを振り切り保健所の前に立つ。そこにはいつもケンカしていた姉がいた。
働かない弟に業を煮やしつつも、同じく異常な体質で苦しんでいた姉が最後は味方になってくれたのだ。
「いいわよ。その代わり、いい加減メジャーデビューなさいよ」
涙を拭い保健所に駆け込むところで物語は終わる。
文字数:1199
内容に関するアピール
その土地で生まれたことは、罪か。
土地とゲノムの関係から地域差別というテーマに光を当てました。
健一の選択は被差別部落問題を意識しています。 被差別部落問題を解決困難にしている一因は、そこに生まれた者たち自身が、その出自を隠し、そして差別などなかったように振舞っている点です。 外部の助けも拒絶して、当事者が問題自体をなかったことにしようとする動きから彼らが過去に受けた扱いの凄惨さが偲ばれます。
しかし、本当にこの問題を解決するにはどこかで光を当てなくてはならない瞬間が来るはずです。
自身の遺伝子配列を公開することで、五反田が新たな差別地域と化すリスクを負いつつも、自身が自分らしく生き延びるチャンスを掴もうとする健一。
他人を気遣うあまり動き出せない西五反田の愛すべきデブ達が、健一に引っ張られて走り出す様をいきいきと描けたらと思います。
文字数:365
ナチュラルボーン五反田ファットボーイズ伝説
五反田は五反の田んぼしか作れねえ土地って意味じゃない。五反の田んぼで年を越せる変な連中が住み着いてるって噂からなんだよ。つまりはそれが儂らのご先祖なわけだな。分かるか?
分かるかよ。
健一が荻野じいさんから初めてこの話を聞かされたのは小学5年生の時分だったろうか。ベッドの上でぼんやりしているとよくこの時のことを思い出す。
寝返りをうつとベッドとともに部屋全体が軋む。うんざりするぜ。部屋の軋みはそのまま健一の世界の軋みだった。そのままごろりと転がって、枕元のノートに走り書きする。
「自重すら支えきれず、悲鳴をあげる世界」
津山健一、西五反田に育って22歳。無職デブ、なのに食事は週3回。世界って残酷だよな。
健一は鼻歌交じりにベッドから起き上がり(耐え切れずに悲鳴を上げるベッド)、ダイニングに降りた。
一階のダイニングルームでは姉の京子がちょうど朝食を摂っていた。白米、サラダ、焼き魚に味噌汁。健一からすれば致死量のエネルギーを京子は仏頂面で次々と口へ運ぶ。目を丸くしながら眺めていると京子から睨まれた。
「何見てんのよ」
「いや、いい食いっぷりだなって」
京子の眉間にシワが寄る。
姉の体が膨れ上がり、膨張分の空間排撃で食卓がガチャガチャと振動する。あとずさる健一。ダイニングルーム全体がぷるぷると震えていた。
「あんたねえ!」
始まった!ドタドタと洗面台に逃げこむ健一を京子の怒鳴り声が追いかける。
「いつまで甘ったれてんの!そんなんだからいつまでもロクな仕事にもつけないのよ!なにがロックンロールよ!」
「そんなんってなんだよ?これか?」
お腹をポンと叩いてトイレの鍵を閉めた。
「あっこら!出るクソもないくせにトイレに立てこもってんじゃないわよ!いい!?今日こそハローワークに行きなさいよ!じゃないと叩き出すからね!」
ションベンくらい出るわい!と怒鳴り返してから健一はどっかと便座に腰を下ろした。さて、どうしたもんか。姉が慌ただしく出勤準備する音を聞きながら考えた。
スタジオで練習は明日だし、今日は歌詞でも…。
行く仕事もない健一には時間だけは腐るほど有り余っている。こうやってトイレで一日中ロダンの考える人ごっこをやってたって問題ないのだ、と物思いに耽っているとトイレでロダンごっこをされると大いに困る京子からドアを乱暴にノックされた。
「分かったから!いい加減出なさいよ!」
職業斡旋所へ行くことをしつこく念押しする姉の出勤を見送りつつ、今日はもう絶対にここを動かぬと決意を固めた健一はダイニングルームのソファと自分の肉に深々と沈み込んだ。
キッチンに目をやって朝食でも食べてみるかと逡巡するが、けっきょく動かずにますますソファにめり込んだ。食っても吐くだけだ。少し陰鬱な気分になった。
ああ、歌いてえな…。カラオケにでも行くか。
不動の決意はどこへやら、健一は財布の中身を考えながらいそいそと身支度をして外へ出た。
今から始めるのは2038年の物語。
錆びてるトタン、軒下の花壇、昔ながらの曇ガラス、透けて見えるは台所、二階の窓から洗濯物、視線を上げれば高架下、幸か不幸か、生まれついてのこの脂肪、就職志望はホシ製薬、ここは五反田、ミュータントシティー…
細い坂道をえっちらおっちら下りながら、この前のまったく受けなかったライブを思い出す。まあ、あまり上手くなかったことは認めよう。さらにどこらへんがロックかと聞かれると答えに窮することも認めよう。くそが。ロックってなんだ?
坂道を下りきると道路一本を区切りにしょっぱい住宅地域が終わり、ビジネス・ビルディングと小汚い飲食店がひしめき合う大通りが続く。その境界線上にホシ製薬のビル群が立ち並んでいた。五反田古参のこの企業は繰り返すオフィス建設で統一感に欠けたビルの群れを抱えており、そこのイカしたビジネス・オフィスもホシ製薬なら、ネズミも避けて通りそうなボロボロの事務所もホシ製薬といった、奇抜な、もしくはこの五反田にはぴったりな新都市景観計画の腫瘍のような様態を呈していた。
健一はそのオフィスの一つ(もちろんドブネズミ系事務所の方だが)に入り(オフィス・セキュリティーなんて概念はない)、そのままエレベーターで3階まで上がる。
ノックもせずにドアを開けるとホシお姉さんがいた。彼女以外の人影はない。
「あら、こんな朝早く。珍しい」
コーヒーを飲みながら旧型ラップトップ越しにしげしげと健一を見つめる。
「今月の検体はもう取ったし、もちろん今月のお小遣いもあげてるはずだけど、健一くん?」
金の無心に来たと思われたのは心外だ。
「別にそんなんじゃないよ。なんとなく来てみただけだよ」
「まあ、そんなに暇なの?働いたら?」
「るせ!」
ホシお姉さんはころころ笑う。彼女は事情を知ってるし、こうやって軽口を叩いてくれる貴重な知り合いだ。この前のライブにも来てくれたし。
「まあ、あれだよ。ファンは大事にしないとな」
「素敵ね。今日は何の予定もないの?」
「カラオケに行く。もしくは斡旋所に行って仕事をもらう」
「ここは斡旋所じゃないわよ」
「知ってるよ。コーヒー飲んでもいい?」
勝手にコーヒーを淹れてホシお姉さんの隣の席に腰掛ける。
ホシお姉さんもこの地元の出で、健一達の事情に明るい。というか研究している。
ホシ製薬といえば怪しげな笹の葉エキスとそれ関連の健康食品が売りだが、ホシ姉さんはもう少し違うことをやりたいらしい。幼少時からの付き合いのデブ達をシーズに新薬研究したいと経営会議(家族会議)でのたまったらしいのだ。
その結果、仕事を干されてボロ社屋に追いやられている。一族経営とはまこと強いもので、そんな変わり者の娘でもこうやってオフィスの一つはもらえるらしい。
「何見てるの?」
ホシ姉さんのラップトップのブラウザにはニュースサイトが映し出されている。
「あれよ。社会保障の特別法改正案が施行されるんだって。君だって無関係じゃないでしょ」
「ああ、あれか。あの辛気臭いやつ」
健一は渋い顔をした。
日本統合ゲノム・メディカルデータバンク、通称「統合データバンク」に関連した社会保障の特別法案。
統合データバンクとは数年前に日本DNAメガバンク機構のもとで設立された、国民の遺伝子情報とその他医療機関の情報を紐付けた総合医療データベースシステムのことである。
かつての東北大震災から端を発し、仙台で設立されたメガバンク機構はその調査領域を着々と南下させ続け(北海道のことは考えちゃいけない)、まだ完成には至らないものの、このデータバンクをもとに画期的な研究や疾病治療法などが発表されて世界からも注目される一大研究機関に成長したのが数年前。現在でも全日本国民に遺伝子配列解析の受診協力が呼びかけられていた。
「ほんと、君たちにリテラシーがなくて良かったわよ。私なんか真っ先に配列解析しちゃったもん」
「へっ、知性のないデブで悪かったね。それで?ホシ一族秘伝の遺伝子とか見つかったわけ?」
「いやにつんけんするじゃない。いくら研究者でも簡単には生データにはさわれないのよ」
遺伝子配列シーケンスは市民の任意によって行われ、公開されるのは個人が特定されないような統計情報だけだった。
しかし統合データバンク構築が進む中、とある論文が注目を浴びる。
それは地域ごとの点突然変異の保有率を算出すると、いくつかの地域において特徴的な変異が有意に存在する、という論文だった。
そしてその点突然変異を有意に含む地域では、ごくわずかだが特定の疾病発症率が他の地域よりも高いことが示唆されていた。
その論文自体は病気の原因特定につなげるための点突然変異をコホート研究を取り混ぜて探索するという点ではポジティブかつ画期的な論文だったし、科学論文の世界では「示唆」はどこまでいっても「示唆」なのだが、メジャーな論文誌にアクセプトされたせいで知性の低いネット・メディアに面白ろおかしく記事にされてしまったのだ。そこにいたってテレビや週刊誌などがネット・メディアのおこぼれをもらおうと追従してに偏向報道したものだから、テレビを信じる民(そこら辺にいるおっさん、おばさんの5割と言い換えてもいい)がその地域出身であることが疾病リスクと直結すると大いに信じ込んでしまう。
健一もその頃のニュースは覚えている。まだ親父と一緒に暮らしていたから、大学生の頃だ。
食事は家族一緒で、という古き良きルールを守りたい親父に付き合って、その晩もなんとなく食卓に座っていた。もちろん飯は食べないけど、父のささやかな希望を叶えるくらいの忍耐があの頃の健一にはまだ残っていた。今はもうない。
父親も姉弟と同じく巨体だったが、工場でぶっ通しで働くことで、それこそ一月に一回休むか休まないかというペースで働くことでエネルギー収支を逆転させることに成功した超人だった。つまるところ、デブの障壁をぶち破ってマッチョの世界に到達してしまったわけだが、その代償はなかなかに大きかった。健一の母は彼が中学の時に蒸発した。それこそ脳みそまで筋繊維に置換した結果、月に一度しか帰らない家庭というものを想像できなくなっていたに違いない。
「母ちゃんは目黒川に帰っちまんたんだ」
冗談のつもりだったんだろうか。目を真っ赤にさせてそう姉弟に笑ってみせた父の姿があまりに寂しくて、多分あの時、健一の家族はばらばらになってしまったのだ。と、健一は考えている。
ニュースの件に話を戻そう。どこぞの民放のアナウンサーとコメンテーターが驚愕の事実、さもありなんといったばかりに話しているのを二人して黙って聞いていた晩だ(ああ、そういうの、あるかもしれないですよね。怖いですね〜。その出身の方は急いで健康診断を受けた方がよいですね〜)。
「そんなもん、いちいち調べんでも分かるわ。なーにが遺伝子情報だ、馬鹿め」
親父がチャンネルを変えた。
「まあ、そうね」
健一もぼんやりつぶやき、お茶をすすった。
まさに俺達のことだろうと健一も思った。その地域に生まれたからにはデブになることが運命付けられているのだ。荻野じいさんに言わせれば、それはもう江戸時代からの血で、ホシ姉さんに言わせれば局地性オートファジー・ミュータントだ。ここ西五反田二丁目はβ-3アドレナリン受容体変異型、すなわちデブ体質量産性ロング・アイランドなのだ。
「まあ、君たちみたいな明らかで、しかも自覚的な人たちはまだマシよ」
「おお、嬉しいね、励みになるよ」
健一たちの検体からβ-3アドレナリン受容体の変異型を見つけた張本人はため息をつく。
「卑屈にならないでよ。実際そうでしょ。あの自殺したOLからすればさ」
むう。健一はむっつり黙ってコーヒーをすすった。
昼間のワイドショーのネタに成り下がった出身地と疾病リスクは、どこの出身だとガンにかかりやすいやら何やら、血液型で性格を占う超低次元土着信仰レベルの信憑性と偏見でもってこの数年でこの国に浸透した。サラリーマンは満員電車の吊り広告(『出身地で分かる、あなたの未来』電子書籍ランキング1位!)を虚ろな目で眺め、就職活動する学生は履歴書に本籍地を書かせるノータリン企業をネットで物笑いの種にしつつも自分の出身地と統合データベースの統計情報を恐る恐る見比べたりするようになった。
そして、起こるべくして起こった感じも否めないが、週刊誌がある女性の自殺をすっぱ抜いた。
恋人との結婚を控えた、若きOL。なぜ彼女は死を選んだのか?
例によって煽り立てる調子で週刊誌は書き立てる。
恋人に連れられ、婚約者の両親に挨拶に出向く女性。恋人の父親は彼に似て冗談好きで、母親は優しく自分を迎えてくれたのだろう、もしかしたら一緒に食事でもして自分はこの人達と生きていくんだと意思を固めたのかもしれない。もう彼女の心情を知る由はないが、自身の出身を告げたとたんに場の空気が凍りついたとしたらあなたなら、どんな気持ちになるだろうか。
彼女はその場で臆面もなく強硬に結婚を反対されて、すぐにその話は破談になった。その驚くべき理由とは…?
いちいちリンクをクリックしなくても続きを読ませてくれるのが週刊誌唯一の良いところだ。
結局のところ、その理由とは彼女の地域出身の女性は子宮ガンになりやすい、子供を産めないかもしれない、というデマのせいだった。デマというより、統計上、数字いじりゲームのルール上ではそんな風に見える、というレベルの化学的「示唆」が子宮ガンへの偏見とあいまって、その地域出身であれば、たとえ自身が遺伝子配列解析を受診していなくても、子供を産めない身体なのではという迷信に化けていた。
いわれもなく「子宮ガンになりやすい、子どもの産めない女性」というレッテルを張られ、結婚すら拒絶された女性はその後故郷に帰省し、自殺する。
遺書がお涙頂戴の追悼記事とともに公開され、にわかに配列解析受診への自粛ムードが高まった。もし自分に変な遺伝子変異があったら出身地域にも迷惑がかかる、気軽に遺伝子解析なんて受けるな、俺にも迷惑かかるかもしれないだろといった連帯意識が蔓延したのだ。
もしその地域出身の突然変異型が検出されたら、たとえ自身の配列データがなくとも出身だけで疾病リスクを邪推され差別を受けるかもしれない。なにより遺伝子解析を受けた人間が村八分にされそうな雰囲気がただよい始めていた。
「私にも迷惑かかるからやらないで理論、みんな好きよね〜」
一向に仕事を始める気がないホシお姉さんがうんざりしたように伸びをする。彼女以外に出勤してくる人間もいない。本当にホシ姉さんは仕事干されちまってんだな。健一はなんとなく悲しくなった。
「いやね、たしかに局地性の突然変異は増えるわよ。これは私の見立てだけど、これからもっと増えるわ。知ってる?地方では人口流出は起こってても、人口流入はほとんど起こってないの。まあ一部の大都市は除くけど。経済格差ってやつかしら?そこの機構には私あまり興味ないわ。ただ、それって遺伝子プールの多様性でみれば島みたいなもんよ。ざっくり見て、近親相姦みたいなことが都市単位で起きつつある、もしくは起こるだろうって私は思ってる。ここだってそうよ。五反田で生まれて、せいぜい引っ越しても大崎あたりまででしょ?そもそも就職口がそれくらいだもんね。オーケー、駅前には新しいビルが建って人口流入は起こってるわ。で、我らが西五反田二丁目はどうかしら?人口流入は果たして起こっていて?人口流出は?シャッフルされてる?意外とみんな地元大好きなんじゃない?それってつい最近のことなのかしら?江戸時代にやってきた人たちは?それからどこに行ったのかしらね?」
ホシお姉さんのスイッチが入ってしまった。いや、この人も暇なんだな。話し相手がいないのだ。
自分のことは棚に上げて健一はまじまじとホシお姉さんを見つめた。
「ね?どう思う?」
どう思うったってな…。
「お、そうだ。みんな第二次世界大戦あたりで死んだんじゃねえの?江戸時代からの連中は」
「ふっ、なかなか鋭い。でもそこは荻野のおじいちゃんに確認済みよ。たしかに何人かは兵隊に取られたり、空襲で焼かれたりしたけど」
健一はいつぞやガキの頃に見たアニメの豚の丸焼きシーンを思い出した。
「現在確認できるだけの変異保持者数にまで増加できるだけの個体数は残ってたわ。戸籍調査すれば一発よ。ご多聞にもれず近親相姦もかなりの頻度で発生したと推測してるわ」
「ううーん、あんまり聞いてて気分よくないな」
「日本の戦後の人口爆発は近親相姦で説明がつくってのは有名な説よ。日本は戸籍管理がしっかりしてるから、改めて系統解析なんかしなくても戸籍から家系図を作れば精度の高い系統樹が作れるわけ。ちなみに提唱した研究者は皇族関係者で」
「いきなりキナ臭くなってきたな…」
健一は話を遮った。
「結局のとこ、社会保障の特別改正案ってやつさ、幾らくらいもらえるわけ?」
健一が尋ねる。
「うーん、等級にもよるけど、月に六万くらいはもらえるっぽいよ」
「ほーん」
なかなかにいい額じゃないか?
遺伝子レベルの地域差別は国際社会の批判を集め、政府は緊急に特例法案を国会に提出・可決・施行する運びになったわけだが、その法案は遺伝子配列解析のせいで、自身の配列データに関わらず、就労等の生活が難しくなった人達向けに特別障害年金の等級を設定するというものだった。
ホシお姉さんの廃棄寸前ラップトップに映し出されているのはこの法案の施行を発表するものだったというわけだ。
「…何考えてるのよ?」
ホシお姉さんが訝しげな顔をする。
「いや、特に、俺も六万欲しいなって」
「しょうもないわね〜、働きなさいよ、バイトでもいいからさ」
健一はボロボロのオフィスを後にし、五反田駅の方に向かった。駅前のカラオケに行こうとしたのだが、駅前の汚い飲食店が積層したビルと、換気扇からただよってくる油臭い匂いに気持ちがくじけて家に帰ることにした。今日はおとなしく家でなんか聞いてぼんやりしよう。
来た道を引き返しながら、こんなに歩いてるんだからもうちょっと痩せたっていいもんだろうとぼんやり物思いにふける。
さっき下った坂道をうつむきながら登っているとしわがれた声が上から降ってきた。
その声を聞いてうんざりする。助けてくれ、気分じゃないんだ。
坂道のてっぺんに妖怪が鎮座している。象を思わせる分厚い皮膚、シルエットはジャバ・ザ・ハット(スターウォーズに出てくるガマガエルみたいな異星人)、首は…消滅している。体の構成要素が頭、胴、つまさきしかない。
西五反田二丁目町内会長にして五反田に隠れ住むミュータントの長老、荻野じいさんだ。
「健一!なにほっつき歩いてる!」
「うるっせ!」
息切れで次の悪口が言えない。このカエルジジイ!
「おいお前、社会保障のニュースは見たのか!」
「見た…よ!いちいち怒鳴るな!このクソデブ!」
荻野じいさんの身体がみるみる膨張する。姉の京子と同じ怒り方だ。
「貴様だってデブだろうが…働きもせんと遊び呆けよって…たちが悪いにもほどがある、このクソガキ!」
驚くほどすばやく健一に詰め寄ってくる荻野じいさんにびびって思わず後ずさりるが、なんとか踏みとどまった。このままひっくり返ってジジイと仲良く大玉ころがしを演じるのは避けたかった。
「ニュースを見たなら分かってるんだろうな!あん!?」
「何がだよ!?」
「申請には行くなと言ってるんだ、そんなことも分からんのか!このバカ!」
「初耳だよ!ボケジジイ!脳みそまで脂肪になったのか!?」
ぶるぶる震えていた荻野ジジイがため息をついてしぼんでいく。
「お前…ほんとに分からんか?遺伝子解析して、社会保障に入ってどうなる?いいか?もし統合データバンクなんかに登録されてみろ、ここらへんのもん全員が」
「分かった、分かったって。迷惑になるんだろ?五反田出身だとおかしな遺伝子もってんじゃないかって」
「そうだ、いや、やっぱり分かってないようだから言っとくと、実際におかしな遺伝子もっとる儂らのようなのがいるのが問題なんじゃ。村八分が始まるぞ」
荻野じいさんにさんざっぱら脅されながらもようやく家にたどり着く。
やれやれだ。家の外になんか出るもんじゃないね。
再びソファに埋没してイヤフォンを耳に突っ込んだ。ロックだ。ロックを聞こう。
気づくと正午を回っていたが健一の腹はいっこうに空かない。知るかよ。ロックを聞けば…
…月六万か…
健一が食事を抜き始めたのは小学生の時。
その頃の健一はご近所の中でもだんとつのデブで、食えば食うほどに太り続けていた。
担任の教師がこれは成長期という言葉で片付けられないと気づいたときには健一の勉強机には教科書の代わりに彼のぜい肉が乗っかっていた。
健一の健康状態はともかく彼が受けていたイジメには気づいて欲しかったものである。それとも知ってか知らないでか。ともかく、まだ人間としての知性も半端な未成熟な個体群にデブを放り込めばどうなるか、火を見るより明らかだ。毎日腹にパンチを喰らい、ドッチボールでは的にされ、異性には見下され、そして単に食事する姿そのものが嘲笑された。お昼の定時公開処刑である。
健一が食事を絶つというトライアルを選択するのは、まあ、彼にしてみれば自然の流れだった(学校に行かない、というトライアルは父が怖かったため候補に上がらなかった)。
そうして健一のオートファジー体質がその真価を発揮することになる。はじめの一日はつらかった。三日目には食事の夢を見た。そして一週間後には…気にならなくなっていた。食べなくても平気なことに気づいた時、ぽっかり胸に穴が開いたような、妙に清々しい気持ちになったことを健一はよく覚えている。実際毎日食事することで日に日に身体が重くなっていくような感覚にイジメとは別に不安を覚えていたのだ。
異常なオートファジー作用でほぼ常時飢餓状態の健一の体では、平常時でも自身のタンパク質が分解されてア ミノ酸源、糖新生へと用いられる。
学校で一切給食を抜いたところでエネルギー収支に問題ないことに気づいたまではよかったが、さすがに一切給食を食べない健一の姿はもちろん異様で、すぐさま学校から家に連絡がいくことになる。家で父にしこたま説教され(お前が太ってるのは運動しないからだ!)、今度は一度食べた給食をこっそり吐き戻すことを覚えた。
姉の京子は太っていたものの、言われっぱなしで我慢する性格ではなかったので近所の悪ガキも恐れる番長のような存在になっていた。毎日三回の食事をこなし、近所の柔道の道場に通ってとにかくエネルギーの発散に努めていた。要するに食った分は動いて燃やせ、バカにしてくる奴はぶっ飛ばせが津山家の家訓で、姉はそれを忠実に実行していた。
学校が終わったら近所の幼じみのデブ達とゲームか漫画か、それとも音楽ストリームサービスでごろごろ一日を過ごしたい健一にはしんどい家庭環境だったといえよう。
家族に隠れて飯を抜く、吐き戻すことを覚えた健一にとって食事は毎日クリアすべき障害で、苦痛を伴うイベントに徐々に変化していった。
本格的に週三回の食事ペースに移行したのは大学生の頃。もう限界だった。もう歩くのがしんどいから無理、という近い感覚になっていた。毎朝目覚めてベッドから起きると膝のギシギシ鳴るようになっており、それが健一の恐怖を煽った。
身体が軽くなることは素晴らしい!大学の友人達の誘いもことごとく断り、食事を抜き切った健一は心まで軽くなった気がした。友人なんぞどうでもいい(というか近所のデブ仲間がいればそれでいい。彼らも大なり小なり健一の同じ悩みを抱えていた)。
食事をしないことを我慢しなくなったことで健一は何を得て、何が失ったか。
まず自分のやりたいことに集中できるようになった。すなわち音楽への尽きることない情熱を注ぎこめるようになった。
そして周囲とのコミュニケーションの術を一つ失った。ともに食事することを諦めたせいで事情を知る数人の友人としかつるまなくなった。勝手知ったる友人と、それ以外の人間の幅を埋める社交の技を放棄してしまったことを実感したのは初めて就職したときだった。
週三回の食事をなんとか会社の昼食時に合わせるようにしたものの、それ以外には一切ものを食べない、飲み会は来ても何も口につけない状態で、先輩社員や上司からなじられるようになった。職場から孤立し、食事もできない、飲みにも行けない、人に合わせる気なしのコミュニケーション障害野郎だと断ぜられ、居心地が悪くなる一方の職場を健一は半年で見切りをつけた。こりゃ無理だ。
そうして今の健一がある。
次の日、スタジオ「リポス」にて。
健一は茂と拓馬と次のライブに向けた曲の打ち合わせをしていた。
「お前な、そんなポンポン適当に歌詞を作ってくるんじゃねえよ」
茂がため息をつく。ナチュラルボーン五反田ファットボーイズのベース兼作曲やらライブの手配やら、このバンドの大黒柱、なんとなんとの正社員。頼れるデブである。
「なんかそうやって思いついてくるところは買ってるけどな」
拓馬が笑う。陽気なドラマーでこのバンド最重量のモヒカン・デブで、フリーター。
「おめえらは演奏することしか考えてないからそんな気軽によお…」
頭を抱える茂をギターボーカルの健一が笑い飛ばす。
「曲作りなら俺もやってるだろ!どうよ、導入はこんなメロディーで」
ピロピロとギターをかき鳴らす。
「へっぼ。なんだそのオカマみたいな音は」
「健一はほんと自分で考えるとしょっぱい音しか作れねえな。声はいいのによお」
二人がブーイングを飛ばす。
「るせ!歌詞もいいだろうが!」
茂がじゃらんとベースを鳴らす。
「歌詞を作るアホ度胸のある奴がお前しかいねえってだけの話だよベイビー、ファットボーイ。とりあえずいつもの練習しようや。スタジオ代がもったいねえ」
正社員の茂あってこそのスタジオ練習である。
おうよ!とドラムをドカドカ叩いて拓馬が笑う。こーの空っぽ野郎が。健一に言わせれば拓馬が一番幸せなデブだ。
「くそ!あとで打ち合わせるぞ!」
水曜日の夜は健一の食事デーだ。メンバーとの打ち合わせはできるだけ健一の食事サイクルに合わせてくれてる。
腹が空かないから食事が不気味に見えるんであって、空腹の時はそれなりに見えるんだよな。
練習帰りにいつも寄るファミレス店内の穏やかな光を見て健一は目を細める。
「いらっしゃませ、何名様でしょ…」
「三人だけど六人席で!」
食事は、ことさら外食なら、拓馬と一緒なことほど心強いことはないぜ、と健一は思う。
一切の遠慮を見せず堂々と席数を宣言する拓馬にはいつも感謝だ。
その巨躯とモヒカン頭に恐れをなした店員はそのまますごすごと六人がけの席に案内してくれた。
よっこいせと手前の席に座ろうとする健一を拓馬が止める。
「おう、奥の席に行け」
「え、ソファの方はきついんだけど」
拓馬が申し訳なさそうに腹をポンと叩く。
「正直な話、ソファ席に入れなくなっちまったんだ」
「お、おうマジか。それじゃしかたねえ」
タラマヨ・ポテトフライを頬張ると口の中にじわじわ塩味が広がる。健一の好物だ。思わず口元が緩む。
「そのツラをよ、毎日三回すればいいんだぜ。そしたらおめえもパンピーだ。働けよ」
おごらされている茂が不機嫌そうに文句を垂れる。健一はびた一文持ってないし、拓馬は生活費でギリギリだ。ファミレスで食事できるだけの資産をお持ちなのは茂くんだけなのだ。
「どこ見て言ってんだよ」
ご満悦の健一は上機嫌でお腹をポンポン叩く。
「社会人にもなって人の体型のこと言うようなアホはいねえよ。いたとしてもそんな奴は俺たち以上に社会性がないサイコパス野郎だ」
そりゃ茂は頭もいいしよ、と拓馬が笑う。
「俺の仕事場なんかサイコパス女でいっぱいだぞ」
「お前いまどこでバイトしてんだよ?」
「アパレル・ショップ」
「正気かよ。悪いこと言わねえから前のラーメン屋みたいなのにしとけって」
健一が勧めると、いや、アレは駄目だと茂が首を振る。
「まかない…だろ?」
茂の推察に拓馬がモヒカンを揺らす。
「そうよ。あれがやばい」
この体質になったからには食事の問題は健一に限らずついてまわる。
「お前らも飯を抜けばいいんだよ。それが一番楽だぜ」
ふふんと得意げに言ったものの、一抹の寂しさを感じる。とはいえ健一はメンバー最軽量なのでそれなりの説得力はあるわけである。
茂と拓馬も顔をしかめる。
「それ、俺たちもできんこともないんだろうけど、人付き合いとかあるんだよ…」
食事は、食事の意味は栄養補給だけじゃないんだぜと二人して健一を諭すのはいつものことだし、健一がそっぽ向くのもいつもの流れ。結局は健一は頑張って労働せいというオチがつくのだ。
「なにニヤついてんだよ?」
いつもはむくれて膨らむはずの健一がそうはならないことに茂がいぶかしむ。
「俺は働かねえ。食事ペースも変える気はねえぜ」
「あん?てめっ!いつまでおごらせるつもりだ」
茂が膨らみ始め、慌てて拓馬が止めに入る。茂が怒るとなかなか治ってくれない。
「まま、茂くんよ。いつもおごってもらってることに関しちゃ俺も悪いと思ってる。とはいえご指摘の通り、今の食事サイクルじゃ仕事はむずい」
バイトならできるんでは、という拓馬のつっこみはひとまず無視することにする。
「そこで俺、思いついちゃったわけよ」
怒りを納めるためにチーズ・ドリアを注文した茂がうんざりしたような眼差しを向ける。
またくだらねえこと言うつもりだろうと思ってるんだろうな、茂、喰らいやがれ!
身を乗り出して小声でつぶやく。
「特別社会保障制度に申請したら働かずに生活できるんだよ、でな、考えたんだけど…」
帰り道、デブ三人で登る坂道。
「さっきの話だけどよ」
拓馬が息切れとともにつぶやく。
「荻野じいさんは…」
反対にするに決まってんだろ、と茂は手を膝につき、かがみこんでしまった。
ここ最近は疲れてるみたいだ。
健一と拓馬も足を止める。
「お前これで…俺が遺伝子異常があるってわかったら…なんて言われるか」
茂が途切れ途切れにつぶやく。
「そんなことする人はいないってさっき」
「分かってんだろ!ポーズだよ!今はまだ”ただのデブ”で済んでんだよ!…頼むよ。これ以上は…」
健一も口をつぐんだ。健一らが幼い頃からどんな仕打ちを、面白半分に、受けてきたか考えると、確かに足がすくむものがあった。
「だいたいな…月六万て…生きてけるわけねえだろ…お前…食費分が浮いてるからって…」
茂は苦しいんだか怒りたいんだかどっちつかずの状態で膨らんだりしぼんだりを繰り返す。拓馬はおろおろして地べたに腰を下ろしてしまった。膝の負担を考えるとそれが一番なのかもしれない。
「家賃は姉ちゃんが払うし」
「いや!働けよ!」
茂と拓馬が同時に叫ぶ。
「るせーぞ!デブガキども!」
民家から怒声が飛ぶ。
「おい。木下さんマジギレだぞ」
拓馬が怯える。
「木下さーん!来週の土曜日!ライブです!よろしくお願いします!場所は追って告知するんで…」
「バカ!健一!やめとけ!」
ガラリと引き戸が開く音。軒先の光が坂道に投下され、デブおなじみの楕円形のシルエットが伸びる。
「よし、てめーら…そこを動くな…!そのまま突き落としてやる…」
「走れ!」
てなことがあったのさ、と健一はホシお姉さんにことの顛末を話す。
「木下さんもお歳だし、あんまり怒らせちゃだめよ…しかし君たちは怒るのが好きよね。私、デブってたいがい気立てが良いもんだと思うんだけど」
「遺伝子解析してくれよ。何か相関があるのかも」
「なんでもかんでも遺伝子のせいにしちゃだめ」
おんぼろオフィスに清々しい朝日が差し込む。
今日も今日とて健一はヒマで、ホシお姉さんは仕事を干されていた。
「姉ちゃんは最近何をしてるの?まだ俺たちのデブ体質について調べてるわけ?」
調べてるわよ、と返される。
いや実際、君たちの体質は世界の食糧問題を解決できる可能性もあるわけよ。
ほほう、と健一もうなずく。もちろん俺は世界を救うぜ。
ふふん、とホシ姉さんも鼻で笑って話を続ける。
倹約遺伝子、つまり君たちのデブ変異の原因になってる遺伝子ね、β3-アドレナリン受容体っていうんだけど、元々日本人は変異型の保有率が高いのよ。
−−んだよ、デブばっかりか、この島は。
そう思いたければそれでもいいわ。つまり君たちみたいのが出てくる素地はあったってこと。
−−俺たちみたいの、と来たよ。デブを超えたスーパー・デブ、みたいな感じだな。
茶化さないで。これはきちんと確認しないといけないんだけど、君たちの地域の人はこの変異、そうね、普通の人でも持ってるかもしれないデブ因子、とここでは呼ぶけど、これを持ってる人がかなり多いと思うのよ。
−−思うのよって、かなり不確かな意見だと俺は思うのよ。
経験的な観察に基づく、いわば目視で確認できる範囲での推測になるわ。こればっかりは本当に全国から遺伝子配列を集めないと確かなことは言えないもん。
−−つまり?
私が観察するに、ここはデブばっかりってことよ。
−−ひでえや。ここは地獄だな。
そうね。で、君たちの突然変異なんだけど、普通の人がもってるかもしれない突然変異にプラス一箇所、アミノ酸置換が生じてるわけね。
−−アミノ酸はよく知らんけど、一箇所だけなの?
そうよ。バリンとアルギニンの置換だからDNAに換算すると2箇所の置換ね。たったそれだけ。
−−感動だぜ。たったそれだけが俺とホシ姉ちゃんの絶望的な差ってわけだ。
それだけではない気がするけど…ほんの少しの変化でタンパク質の構造的性能が劇的に向上するケースはこれまでも幾つか発見されてるわ。例えば深海魚。生息してる深さがそれぞれ違う同系統の深海魚がいるんだけど、身体を構成する構造タンパク質のアミノ酸組成が99%同じなの。たった一箇所の変異で深海生息圏800mと1000mの圧力耐性能の変化を生んでるのね。
−−はい!先生!俺らは深海魚じゃないし、いまいち話が分かりません!
レゴのブロックを想像してよ。1つのパーツが1つのアミノ酸ね。それを100個くらい使って組み立てた模型がタンパク質。で、そのうち一箇所のブロックを別のサイズのブロックと入れ替えます。そうすると構造が、正確にはブロック同士の接触面や結合面が微妙に変化して全体的にパワーアップすることがあるのよ。例えば今まで深海800mが限界だったのに1000mまで泳げるようになったりね。
−−やっぱりよく分かんないし、俺は深海魚じゃないからね。
不思議でしょ。あと君はどこからどう見ても深海魚よ。たった一つの、ちょっとした偶然で深海1000mまで潜れるようになっちゃったわけ。
−−ちょっとした偶然で脂肪を100キロ搭載できるようになりましてございますってか。
うーん、私が言ってるのは君の食事サイクルの方なんだけど。それ、君と同じ体質の子ならできるんだよね…。そのメカニズムを人工で再現できれば、例えば食料飢饉で困ってくる人とかに応用できるかもしれないじゃない。
−−おいおい、無理強いされてやるもんじゃないよ、これは。つらくきびしい修行を耐え抜いた者のみが
いじめられてたんでしょ。
−−…とにかく、やらせない方がいい。デブはともかく、飯の方は、ほんとに俺みたくなっちまうよ。
週3回の食事で済むんだから、確実に人類の食料問題におけるキーポイントになるわよ、その突然変異。
−−もしかして、そんなトンデモ話を会議かなんかで吹き上がったから仕事干されたんでないの?
…まあ、まだみんなが理解してくれない部分もあるし、私が理解できてない部分もあるし、そこはほら、このオフィスで時間をかけてやってくつもりよ。
午前中の光が差し込むオフィスには相変わらずホシお姉さんと健一しかいない。
話し声が途絶えると、健一の自重でたわんだ椅子のギシギシという音が妙に大きく響く。
「世界を救うか」
健一がぽつりと呟く。
「また変なこと考えてるのかもだけど、やめといた方がいいわよ。歌くらいにしときなさい」
おもむろに立ち上がるとオフィスが揺れたような気がした。おいおい、大丈夫だろうな、このビル。
「えー、では今日もオフィスでうんざりしてるリスナーのために元気の出る一曲を。ナチュラルボーン五反田ファットボーイズから…」
もう、とホシお姉さんが笑う。
「やめて。君に暴れられたらこのオフィスが保たないよ。世界なら私が救うから、君はお外で歌っててよ」
世界を救う、か…。考えたこともしなかったな。
健一は神妙な顔をして椅子に座りなおす。
「姉ちゃんはいつもすごいこと考えるよな」
改まった健一の調子にホシお姉さんは首をかしげる。
「俺、まずは自分を救うとこからやりたいから、世界は姉ちゃんに任せるわ」
何かを察してホシお姉さんはパッと目を輝かせて身を乗り出した。
「健一くん、ようやく働く決心がついたのね!それ京子ちゃんにも話してあげなさいよ!」
「いやいやいや。特別社会保障の申請してみるって話だよ」
「……」
乗り出した身をゆっくり戻し、椅子をぐるりと回して前を向く。デスクに肘をついてしばし虚空を眺めるホシお姉さん。そして頭を抱えてしまった。
「どうしてそうなるのよ。ねえ?そりゃ君はお気楽でいいかもだけどさ…」
「ただ我慢して働くんじゃ、救われないのよ、俺が」
ホシお姉さんは頭を抱えたままだ。
もう少し話さないといけない気がして、健一は続ける。
「たしかに五反田にミュータントがいるってばれたらみんなが差別されるかもしれないけど、それってミュータントなことを隠しとくことと、どっちがきついのかな」
抱えた頭をゴチンとデスクにぶつけて突っ伏してまうホシお姉さん。
「君は言いたがりだから。言い訳ばっかりよ」
「それよ。俺はもっともっと言い訳したい。楽に生きたいって暴れまわりたいのよ」
ため息。ホシお姉さんの。しょうもないわね。ほんと。
ため息。今度は健一の。だめかな、これじゃ?
ため息。もう一度、ホシお姉さんの。ちょっと笑いが混じる。しょうもないわね。やってみれば?
「じゃあ、次のライブで。実は茂と拓馬にはもう話してあるんだな」
土曜日の西五反田児童センター。狭い体育館の隅っこに置いてあるすべり台でガキが数人遊んでいる。滑っては登り、滑るの繰り返し。
ガキのうち誰かしらがすべり台の途中で「詰まる」と、残りのガキどもが上から追突して無理やり下まで押し出す。誰かがつっかえる度にガキどもは笑い声をあげてそいつの背中に体当たりをかける。
並べたパイプ椅子にはデブガキどものデブ親と、ホシお姉さん、荻野じいさん、あと何人か顔を見知った中年デブ達。なんだかんだで木下のおっさんの顔も混じっている。感謝。
「今日は俺たちのライブってこいつら分かってんだよな?いつもの集会じゃねえんだぞ」
拓馬がステージから観客を見やって嘆く。
「さすがっすわ。茂くん、ライブ会場に児童センター押さえるとかマジ、パネエっすわ」
健一が茶化す。
「ライブハウスでやろうと思ったら金がかかるんだよ。このド貧乏どもが。ていうか今日のライブはこの人らの前でやった方がいい構成だろ。ほぼ内輪ネタみたいなもんだ。おら健一、てめえサボってないで早く準備しろ」
茂が不機嫌そうに汗をぬぐう。
「なあ、ほんとにやるのか?あれ」
拓馬が不安そうに茂に確認する。
「ああ、やってみりゃ分かる。それで健一も懲りるだろ」
へっと健一は笑う。そいつはどうかな?
エフェクターを組んで音出しをしてみる。うんっ、全然よくない。体育館だし、こんなもんか?
「順番待ちとかねえし、わりと楽だし、いいかもだな、児童センター」
拓馬がつぶやいた。モヒカン強面デブではあるが、一番おっとりしてるのが拓馬だ。なんとなく児童センターがバックグラウンドでも映える感じするのが面白い。
「ふざけんな、オーディエンスがデブしかいねえんだぞ」
茂がかみつく。あいもかわらず神経質なデブだ。以上。
今日の構成は一味違う。全員分のマイクを用意した。
準備も整った。オーディエンスもこれ以上増えそうにない。
「よっしゃ!始めるぜ!みんな!今日は俺たちのライブに来てくれてありがとう!」
まばらな拍手。
「おい!元気のないデブほど悲しいもんはないな!今日はお前らのために一発ノレる曲を選んできたぜ!」
てめーもデブだろうがと野次が飛ぶ。木下のおっさんだ。さっそく膨らんできたな。いいぜ。そうでなきゃ!
この児童センターに集められたあの日のことを思い出す。茂、拓馬、お前らも聞いたよな。あの日、荻野じいさんはこう言ったんだ。
茂がギターを爪弾き始める。
「五反田は五反の田んぼしか作れねえ土地って意味じゃない…」
拓馬がスネア・ドラムを叩いて拍子を取り始める。
「五反の田んぼで年を越せる変な連中が住み着いてるって噂からなんだよ…」
茂のギターの単調な弾き語り調から少しずつつ複雑に、アップテンポに変わっていく。拓馬もバス・ドラムを鳴らして体育館を震わせ始める。
「つまりは…それが…儂らのご先祖なわけだな。…分かるか?」
イントロが始まる。
ホシお姉さんがテンションをあげて立ち上がるが、デブオヤジどもは黙って曲に聴き入っている。
「おい!ガキのピアノ演奏会じゃねえんだ!立て!デブども!」
茂が叫ぶ。
「茂ぅ!かっかっ観客に向かってなんじゃ!その言い草は!」
荻野じいさんが激昂して立ち上がり、椅子が後方に弾け飛んだ。
「ぐああ!」
吹っ飛んだ椅子が後ろの中年デブにブチ当たる。
「おい!荻野さん!勘弁してくれ!ロックのライブなんだよ!」
中年デブが怒りのうめき声をあげた。
危険を察したその他デブ達が慌てて次々と立ち上がり椅子を端っこにどかす。
「ガキンチョども!前に来いよ」
拓馬がマイクで呼びかける。
後ろで物珍しげに様子を見ていたデブガキどもがはしゃいで前列に飛び出てきた。
健一が叫ぶ。
「いい感じに盛り上がってきたな!いくぜ!」
「「「ナチュラルボーン五反田ファットボーイズ!!」」」
荻野じいさんのふざけるなという怒声を打ち消して三人で叫ぶ。
「「「この身体を見てくれよ!これがナチュラルボーン五反田の証!」」」
全員総立ちのライブが始まった。
健一もギターに手をかける。
腹の底からゆっくり、叫ぶんじゃない、声を身体全体で作っていく。
Oh … you look bad なんだ その顔は
なんだかこの世の終わりみたいな
太く深く、健一の声が響いていく。
ホシお姉さんや一部のデブがリズムに合わせてゆったり身体を揺らし始める。
Oh … you look bad なんだよ そのファッションは? だぼだぼのスウェット
どうした?踊れよ?
ガキどもは幼稚園の演奏会か何かと勘違いしてるのか、体育座りに口をあんぐり開いてステージを見上げてる。
さあ、ここからだぜ!ギターを引っ掻くように耳障りに鳴らす。拓馬がシンバルを連打して調子を上げる。
三人同時に叫ぶ!
Oh … you look so so bad!!!
たしかにお前はこの街一番のデブ!!
踊れよ!
神様が笑ってる!
踊れよ!
たしかにお前はこの街一番のデブ!
踊れよ!
神様がびびって逃げ出すまで!
茂が早弾きでテンポを最高潮に高めていく。
真っ赤になって荻野じいさんが何か叫んだが拓馬のドラムに打ち消される。
踊れよ!
健一は腕を振り回してステージを駆け回った。
ステップ、スキップ、ギターを鳴らして一回転。身体をぶるんぶるん震わせる。
ガキどもが笑い転げている。
デブオヤジどもも肩を揺らして一緒に叫ぶ!
踊れよ!踊れよ!
木下のおっさん他数名、腕を振り上げて飛び跳ねる。
体育館全体が震え始めた。
Oh … you look cool!
スウェットはどうした?
もう恐れてない 自分自身 鏡は砕けた
Oh … you look so so cool!
革のスキニージーンズ
もう恐れてない あいつのこと 笑ってみろよ?
低く、深く、ささやくように歌う。
ステージの下ではデブどもがトーンダウンした旋律に合わせてぐらぐら揺れている。
Oh … you look so so cool!
たしかにお前はこの街一番のデブ!
最後のサビだ!再び盛り上がるテンポに体育館が震える。
星お姉さんも飛び跳ねる!
Oh … you look so so bad!
たしかにお前はこの街一番のデブ!
踊れよ!
神様が笑ってる!
Oh … you look so so cool!
たしかにお前はこの街一番のデブ!
笑えよ!((笑ってみろよ!))
もう恐れてない 自分自身!
茂と拓馬も叫ぶ。
Oh … you look so so cool!
たしかにお前はこの街一番のデブ!
もう恐れてない あの人のこと
会いに行こうぜ!
デブたちが大はしゃぎで歓声を上げる。
テンポを下げずに音量だけ下げる。曲の切れ目だ。
「みんな良いノリしてんじゃねえか!このまま体育館をぶっ壊そうぜ!」
間をおかずに二曲目に入った。
「次の曲はここ最近で一番ノリの良い曲だ」
「「「重力に愛された男!!」」」
二曲目を歌い終わってトークを挟む。立っていられなくなったデブ達が休み始めたのだ。みんなてんで勝手にあぐらをかいて座ってしまった。
「おいおい!もうへばったか!?だらしない奴らだ!」
木下のおっさんが何か言い返そうとするがぜいぜいと肩で息をして言い返せない。
健一達もペットボトルの水を飲む。
「なんというか、どうかな?俺たちの曲?」
「デブの歌ばっかりー!」
ガキどもが返す。
「たしかにな!こっから先もずっとデブがデブの歌を歌いまくるぞ!」
ええっという落胆に近い叫びが上がる。ホシお姉さんだけが笑っている。
「まだまだ歌い足りないんだ。俺たちのこと」
健一が話し続ける。
「俺たちの、俺たちのための歌をさ、歌いたいと思ったのよ。だって他の連中は誰もデブのための歌を歌ってくれねえんだもん。だったら自分達で歌うしかねえよな!」
「貴様らそんな歌を他所でも歌ってるんじゃあるまいな!こんな時に!ただでさえ遺伝子差別が問題になってるのに!」
多少は回復してきたのか荻野じいさんが叫ぶ。
他の連中、特にデブガキの親たちが少し眉をひそめる。
「あんまり歌ってねえなあ。だって受けねえんだもん」
拓馬が返事する。
「だけどこれからはがんがん歌ってこうと思ってるんだ」
茂が続く。
「そう、それで俺、来週にでも特別保障の申請して遺伝子解析受けてこようと思ってるのよ。今まで隠してきたこと全部オープンにして、そしたら、なんで俺たちがデブの歌を歌ってるのか五反田の連中以外にも分かるだろ」
木下のおっさんが何やら叫んだ。怒りのせいで何を言ってるのか分からない。とにかくもう怒りパンパン膨張状態だ。ヘリウムガスなら浮けるだろってな勢いである。
みんな次々に立ち上がる。
「それにいつまでも隠しきれないし、別にいいだろ!それでなくたって不摂生のせいでデブだと思われてんだぞ!そっちの方がよっぽど嫌だよ!」
拓馬がモヒカンを振り立てて叫ぶ。
「おいおい!みんなノッてたくせに!」
肩をすくめる健一に誰かが叫ぶ。身内でやってる分にはな!
「そんなんで満足できるわけねえんだよな!歌ってのは世界に向かってブチかますもんだろ!」
「茂!お前、会社はどうすんだ!知られたら」
中年デブの一人が声を上げた。
「差別されるかもしれないし、されないかもしれないよな。俺の優秀さなめんな!そんな会社は辞めて転職してやらあ!」
茂が吠える。
「できねえから社会保障制度ができたんだろうが!間抜け!なあにが優秀だ!甘ったれるな!」
荻野じいさんがもはや堪忍ならぬとステージに乗り込んできた。
健一からマイクを奪い取ると一同に向かって宣言した。
「お前は働く気がないから安易に制度を利用しようとしとるだけだ。いいか!みんな守るべき家族がいるんだ。お前だって姉さんがどんな目に遭うか想像できんわけじゃないだろう。隠しとけば、デブだとからかわれようが障害者扱いはされん。一度始まった差別は簡単にはなくならんのだ!申請は絶対に認めんからな!みんなも肝に銘じとけ!」
マイクを奪い返して健一が叫ぶ。
「ふざけんな!週三でしか飯を食えねんだぞ!これのどこが障害じゃねえんだ!俺はもう無理だって話だよ!勝手にルール作ってんじゃあねえ!」
完全にプッツンきてしまった荻野じいさんが健一に組みついてマイクを奪おうとする。デブガキどもはそれを見てキャッキャと笑う。茂と拓馬が荻野じいさんを引き剥がそうとすると今度は荻野じいさんを助けようと木下のおっさんはじめ中年デブ軍団がステージに乗り込んできた。
「絶対に認めんぞ!この馬鹿ガキ!」
荻野じいさんが絶叫して腕を振り回し、茂がもんどりうってドラムに倒れこんだ。
もはやライブは完全に破綻していた。
中年デブの一人に頭突きをかまして茂がマイクを奪い取る。
「ああ!もううんざりだ!くそが!健一、このまま保健センター行って申し込んじまえ!」
させるかと波を打ってデブが健一に押し寄せった瞬間、何かが割れる、バキバキという音が鳴り響いた。全員が凍りつく。
傍観してたホシお姉さんが叫ぶ。
「みんな!早くステージから降りて!」
轟音とともにステージが沈む。降りかかる巨体に押しつぶされつつ、健一は思わず笑ってしまった。おいおい、天気予報じゃ今日は晴れって言ってたぞ。デブが降ってくるなんて聞いてねえ。
埃がもうもうと吹き上がる中、胸がものすごい勢いで圧迫されて目がチカチカした。動けない。あ、これはダメだ。ちくしょう。ガキの泣き声が聞こえてくる。
半ば諦めかけたところで、横からこれまたすごい勢いでデブがぶつかってきて健一の上に積み重なったデブを転がした。拓馬だ。さすが五反田最重量級。
「早く降りて行っちまえ!」
半壊したステージを這いずりながらなんとか抜け出す。
「止めろ!」
荻野じいさんが潰れたカエルみたいになりながら他のデブたちに指示を出す。
「早く逃げろ!」
叫ぶ茂が木下のおっさんに吹っ飛ばされる。
「行かせるかよ…」
ギラついた目でデブたちがステージから降りてきた。
一体なんのバイオ・ハザードだ、こりゃ?埃の中から次々と立ち現れるデブたち。
「健一くん!走って!」
ホシお姉さんの声にはっとして健一は走り出した。
児童センターを飛び出して住宅街を走り抜ける。全身汗でびしょびしょだ。足を上げるたびに腹の肉がぶるんぶるん震える。保健センターまでにはいつもの坂道を上がらなきゃならない。背後から重い足音が響く。振り返る余裕もないが、連中、簡単には諦めてくれそうにない。
交差点を突っ切っると目の前に坂道。覚悟を決めて登り始める。ほとんど四つ這いになりながら、後ろの足音から逃れようと必死に手足を動かした。
坂道の半ばくらいで背後の足音が聞こえないことに気がついた。恐る恐る振り返ると、坂の途中でデブの大半が脱落している。木下のおっさんだけまだ動いているが、哀れなくらいスローペースだ。
思えば健一は彼らの中では最軽量だった。期せずして週三の食事習慣に助けられたのだ。
「へっ……みんなも…食事の…回数…減らす…ことを…おすすめ…ぜ…」
息切れしつつもとどめの捨て台詞を木下おっさんに吐き(木下おっさんはさぞ悔しかったろう)、健一は悠々と坂を登りきった。
さて、あとは保健センターまで…
息が詰まった。
姉の京子がスマートフォンを片手に仁王立ちしていた。
「荻野さんから聞いたわよ」
スマートフォンをひらひら振って、健一を睨めつける。
くそっ、あのジジイ。なんて卑劣な手を。
「あんたねえ、どこまで馬鹿やれば気がすむの?」
今、この状態で京子に勝てるはずもない。というか一度も勝てたことがない。
「…いけるとこまで」
京子は今まで見たことがないサイズに膨らみ始めた。
「頼むよ…。もうしんどくってさ。姉ちゃんは働けっていうけど、食事できないってだけでみんな変な目で見てくるんだよ。でも何も言えないしさ…」
「それで?わたしに働かせるの?」
京子が健一に向かって一歩踏み出す。
「あ、いや…それはその…」
思わずあとずさりするが、背後は坂道。
「京子ちゃん!そいつ捕まえてくれ!」
まだ坂道踏破をあきらめていなかった木下おっさんが間近に迫っていた。
くそ!何か言え!何か!ここで言わなきゃいつ言うんだ!
「バンド!バンドやるよ!曲とか、きちんとサイトに登録してさ、そうすれば多少は」
歩みが止まった。
「姉ちゃん、俺の曲聞いたことないでしょ?今日家に帰ったら聞かせるよ」
「聞いたことあるわよ。茂くんに録音もらったから」
茂の野郎、なんてことを…。
大きなため息。京子が縮んでいく。
「…いいと思った」
耳を疑った。
初めて自分の曲を褒めてもらえたのだ。おお、こんな気分か…。こんな気分なんだな…。
「ほんとに?」
「うん」
思わず涙ぐむ。
「真剣にやる?」
京子が静かに尋ねる。
「うん」
そう、とつぶやいた京子は健一に向かって手を伸ばしてきた。
あわやハグかと思って健一も腕を広げたが京子の腕は唸りを上げて健一の頬をかすめて背後に伸びた。
ドンという鈍い音に慌てて振り向くと木下おっさんがうめき声とともに坂道を転げ落ちている。
「なに変なポーズしてんのよ。さっさと行きな」
慌てて広げた腕を畳んで涙をぬぐった。
「ありがとう」
「いいよ。わたしもいい加減しんどかったし、あんた見てると色々馬鹿らしくなってくるのよ。いいから早く行きな。保健センター閉まっちゃうよ」
健一は再び走り出した。もう走れないかと思ったけど、意外とまだまだ動くもんだ。
視界に保健センターの正門が入る。
思わずニヤリと笑ってしまう。
ここからだぜ、ナチュラルボーン五反田ファットボーイズの伝説は。
<おわり>
文字数:21169