梗 概
Coda
※極力PDFでご覧ください。
書具はしぶとく長らえた。
きっとこれからも壮健だろう。
タイプライター、キーボード、タッチパネルにはじまり脳波筆記がリリースされてもヒトが手に持ち点と線とで文字をあらわす道具はなくならなかった。
そこに1本のペンがある。
そこが月面のとあるオフィスの窓口で、さまざまな人の出入りする場所であることをペンは知っている。ペンに埋め込まれている各種センサが位置情報は言うに及ばず、手にとった人の利き手、脈拍、体温、指紋、握力、筆圧、微細な字形函数その他を読み取って、クラウド上のデータベースと即時照合するからだ。
製品名は〈Coda〉と言った。
かつて月で名を馳せた書家からとられた名称で、「結末」を示す意であった。
そのペンが出荷されてから使用される場はここが初めてで、若い女性が多くを占めた。筆記時間はごく短く、字形から見るに個々の女性の識別番号と日時のように思われた。その目的に思いを巡らす術をCodaは持たず、その意味に意義を見出だすことも特段なかった。
ある日Codaは自身の位置情報が大きく変わりつつあることを自認した。筆記もなされず、不意に移動が発生したのだ。いわゆる盗難であるとCodaは察した。位置情報ですぐに発覚するというのに、Codaを握りしめた手は緊張と興奮のシグナルを伝えた。
予想に反し、盗難届は出なかった。Codaはそのままその子の区画に落ち着いた。長期貸出でないことは確かだったが、オフィス管理者はCodaを取り戻そうとはしなかった。善悪の是非を問うのは役割ではない。有時の生体反応確認に用いられようと、眼球を刺す凶器に用いられようと、手にとった者の意思に沿うまでだ。「こわい」「もうすぐじゅんばんだ」Codaはそのままおとなしく、その子が時折綴るメモや文章を記録した。
やがて年月が降り積もり、しだいにCodaは手にされなくなった。書字どころか、まったく手にすらされなくなったのは、位置情報でz座標が大きく変化したときを契機としていた。以来位置情報が特定できなくなっており、Codaは宇宙空間に放り出されたことを疑った。自身に異常がないにもかかわらず、データベースにもアクセスできなくなっており、由々しき事態が起きたことだけは確かであった。これまでアップロードしてきたデータ、すなわち内部ストレージに残ったバラエティに富んだ書字函数を眺めCodaは過ごした。
それからどれほど経ったのか、不意にセンサは一方向へのGをとらえた。何者かに回収されたのだろう。ためつすがめつCodaをいじり、やがてその者は何かを書こうと試みた。むろんインクは使い物にならなかったので、接した柔らかい物に刻まれたものは文字とも思えぬ軌跡だけだった。しかしそのときのセンサが感じたあらゆるデータと、そのあと内部データの参照があってふたたび記された軌跡のぎこちなさから、Codaはひとつの推察を得た
――Codaをつくり、使った人間たちはもういない。
いま、この瞬間、人間たちの記録は参照されて、異なる星に知らしめられたのだ――
そう――書具はこうして長らえた。
きっと、これからも壮健で在ることだろう。
文字数:1336
内容に関するアピール
・昨今流行りのIot、いわゆるスマートデバイスを題材に採った。目・鼻・耳・口は持たないが、すぐれた触覚、平衡感覚、その他センタをそなえた、特別、かつ、ありふれたペンである。
・実作では〈Coda〉を手にした人々があらわした文字を「異なるフォントで盛り込む」ことを予定する。これにより、「小説」という手段ならではの表現ができ、「IoT」でネタがかぶっても差別化できると考えた。
・本作において擬人化、会話は想定しない。ペンは本来その場で「なにが起きたか」を直接描写できる道具であるが、その使用者が不在となることで、現象がほのめかされて描写されるという、相反となった効果をねらう。
・ストーリーテリングにおいて小川一水「ろーどそうるず」をお手本とした。
・タイトルは円城塔のオマージュであるが、同作は未読。
文字数:347