梗 概
女王ニケ
直径約一キロメートルの小惑星が地球に衝突した。海底に巨大クレーターができ、各地に津波が発生、都市機能が壊滅し、人類の半数が死亡した。続いて落下してきた二個目の小惑星が決定打となり、人類はほぼ絶滅した。灰が地球を覆い、世界は暗闇に包まれた。
セキュリティシステムの停止した研究施設から、一人の女の子が脱走した。製薬会社が所有していたその施設では、害虫駆除のための薬品を開発していたが、多様な環境で生存できる昆虫の特性を人間にも活かそうと、秘密裏に孤児を使って異種交配を行なっていたのだった。
女の子につけられた名前は「CjapCSP60」、通称「クイーン・ニケ」だった。蟻の個体間コミュニケーションにおいて重要な役割を果たす、化学感覚タンパク質CPSがあり、六十番目に発見された「CjapCSP60」にちなんで付けられた名前だった。蟻は互いの触覚を直に接触させることで個体情報を認識するとされていたが、女王蟻が羽を振るわせて発生させた僅かな振動が、感覚神経細胞の受容体まで運搬する働きをもつ化学感覚タンパク質CPS60によって伝達され、蟻と女王蟻が離れた場所からコミュニケーションを取れることが判明したのである。
二つ目の小惑星が衝突してから七日目。灰で厚く覆われた雲間から一筋の光が差し込み、宇宙から巨大な船が現れた。岸から一キロほど離れた海上へ、音もなく滑るように着水した。
生き延びた人々はその巨大な船を見て、政府が用意した救助船だと考え、海岸へ押し寄せた。泳ぎに自信のある者たちは海へ飛び込んだが、強い海流に飲まれ見えなくなった。小舟を出すも強い海流に逆らえず、巨大な船までたどり着くことはできなかった。
ニケは小高い岩場に腰かけて、初めて見る研究所の外の景色を、沢山の人間たちを、飽きることなく眺めていた。しばらくするとニケは海の変化に気づき、声をあげた。「船への道だ!」
今日は満月の日、大潮だった。満潮と干潮の潮位差が最も大きくなる日であり、潮が引き、干上がった海底である砂の道が現れたのだった。
光の届かない陸地は凍えるような寒さだった。人々は白い息を吐きながら、突如現れた砂の道を進んでいった。幼子の手を引く家族連れ、老人を背負う者、荒んだ表情の男達などが、希望の船に向かって一歩一歩進んでいった。
しかし船から現れたのは政府の人間ではなく、未知なる生命体だった。臓器の透ける頭部には眼球らしきものが五つ埋めこまれており、身体はぶよぶよしたゴムのような皮で覆われていて、四対八脚でのろのろと地を這った。人々は悲鳴を上げた。拳銃を持った男達が、未知なる生命体に向かって発砲した。銃声を聞きつけた生命体の仲間達が現れ、手当たり次第に人間を噛み砕き、頭部から人の身体の一部が透けて見えては消えた。未知なる生命体はやがて脱皮を始め、抜け殻の中から新たな生命体が生まれ、あっという間に八脚の生き物で船の周りが埋め尽くされた。
ニケはひときわ身体の大きい未知なる生命体に近づいた。ニケは羽を広げ振動を送った。そのリズムはポロネーズのようだった。未知なる生命体は動きを止め、金属が擦れるような音を出した。ニケはまた返した。何度かやり取りが続いたのち、ニケは人々に伝えた。彼らは六十光年離れた惑星から来た生命体で、調査と称して地球に立ち寄った。すでに植物や動物のつがいなどを採取したが、あとは人間のつがいが一組欲しいと。
その場にいた者たちは口をつぐんだ。若い夫婦が、幼い双子を頭上高く掲げた。皆は頷いた。この子達に未来を託そうと。
その時、一人の男が双子を奪って、ナイフを突きつけた。「俺を船に乗せろ。さもないとこいつらを殺す」
ニケは羽を震わせ、仲間を呼んだ。無数の蟻が男に張り付き、体内に侵入して臓器を食い尽くした。男は輪郭を失った。ニケは双子を受け止めた。
「ママあ、雪だよ」双子が暗い空を指して言った。人々の頭上に、未知なる生命体の上に、音もなく銀色の粉が舞った。
雪に触れようとする小さな指の先に、黒い山が迫るのが見えた。時間差で津波の余波が襲ってきたのだった。
とっさにニケは双子を抱きかかえたまま、空高く舞い上がった。一瞬、双子の母親と目があった。ニケの脳内に母親の意識がどっと流れこんできた。双子を身ごもった時のこと、慈しんでお腹を撫でていたこと、難産だったこと、眠る双子の顔を飽きるまで見守っていたこと。ニケは頷いた。母は安堵の表情を浮かべ、海の壁に押し流されていった。地球外生命体も、人々も、希望の船も、黒い海に飲み込まれていった。
吹き荒れる風に流された雲の隙間から、満月の光が差し込んだ。街や森を飲み込む黒い海を、無慈悲に明るく照らしていた。
ニケは双子を暖かな巣へ運んだ。地球の地下に蔓延る、ニケが支配する巨大なコロニーへ。
文字数:1977
内容に関するアピール
この作品の舞台装置は、陸地と、海上に浮かぶ船、間に流れる荒れた海です。滅びつつある地球に絶望する人々が、希望の船を見つけますが、荒れた海が近づくのを阻みます。しかし、満月の夜、潮が引いて現れた砂の道(トンボロ現象)が、陸地と船を結び、希望の道となって人々の前に登場します。
主人公のニケは異なる種の意思をつなぐ役割を担います。羽は自由と勝利、統治の象徴です。人間に囚われていたニケは、人類の滅亡とともに自由を取り戻します。
迫り来る津波や月光、地球外生命体との交信で奏でるリズム、争う人々の頭上へ静かに降り積もる雪などで、舞台を盛り上げていきたいと思います。
文字数:280
女王ニケ
一、灰の舞う地
古びたトンネルを越えると、灰色の海が広がっていた。
濃霧のような灰が視界を遮る中、彼らは食糧と火を求めて西へ向かった。しかし温暖な気候が育んだ土地には泥の雨が降り、農作物を枯らしていた。
海沿いの小さな町には人の姿がなかった。青果店や飲食店、日用品店はすでに荒らされた跡があり、何も残っていなかった。
彼らは落胆し、行き場を無くして海の前で立ち尽くした。
ふとユイは、海に面した断崖上に、円形の白い建物があるのに気づいた。
「皆さん、今夜の宿泊先はあそこにしませんか? 何かあるかもしれません。」
トーマが答えた。
「いいね。まずは行ってみよう。」
西を目指した長旅は、彼らの精神と肉体を蝕み、命を削っていた。雨風を防ぐ安全な場所は、彼らにとって明日を迎えるために必要だった。
事実、彼らの辿ってきた道のりは非常に厳しいものだった。
三年前、それは起きた。
小惑星の接近に気づいた頃には打つ手がなかった。高エネルギーを用いて軌道を外らす方法があったが、各国の意見が分裂し、短時間に準備することができなかった。小惑星の軌道に関する研究は行われていたが、直径千五百メートル以下の小惑星を、十分な余裕を持って探知する方法はなかった。
地球に衝突する可能性のある小天体は、木星や火星の間に漂っていた。木星や火星の引力の影響で軌道が変化し、そのうちの幾つかは地球に接近してきていた。かつてシベリアで起きた天体衝突では、五十メートル程の小天体が落下、シベリア上空で爆発し、半径三十から五十キロに渡って森林を炎上させた。爆風で八千万本の木がなぎ倒され、家屋などが吹き飛んだ。その被害は東京都に匹敵する範囲に及んだ。
三年前に衝突してきた複数の小惑星は世界中に落下し、地球の広範囲が被害を受けた。一つあたりの大きさは、シベリアの時の六倍、三百メートルほどだった。そのうちの一つが東京湾に落下し、関東全域が甚大な被害を受けた。小惑星衝突の衝撃で街は破壊され、原子力発電所から漏れた放射能は土地を汚染した。海に落ちた小惑星は海底にクレーターを作り、津波を引き起こした。
市街地で高熱により溶解した鉄は、飴細工のように曲がり絡みあった。黒焦げになった木々は棒となって地面に突き刺さった。あらゆるものを焼き尽くして発生した灰は、空中に漂い続け、黒い雲を発生させた。砂塵は世界を灰色に塗りかえた。さらに粉塵を洗い流す雨は、酸性の泥雨となって地上にへばりつき、食物を枯らした。
熱風と衝撃を免れて生き残った人々は、自宅や避難所に待機していたが、やがて食料と燃料が尽き、そのまま飢えるか否かの選択を迫られた。建物の外へ出る恐怖から、留まることを選択する者もいた。
やがて太陽と食料を求めて高速道路沿いに西へ行く人々の集団ができた。ガソリンが手に入らないため、車での移動はできなかった。幼子の手を引く夫婦、老婆を背負う息子、家族や恋人、友人を亡くして一人になった男女、様々な境遇の者たちが連なって西へ歩いた。
気温が徐々に低下していくのを誰も止められなかった。刺すような冷気が人々の熱と意思を奪っていった。灰色の太陽が出ている日中に、動ける者が木々や食料を集めた。枝に張り付いた泥を削ぎ落とし、一日一回の調理と暖をとるために薪を燃やした。夜は略奪者の襲撃を防ぐため、交互に見張りをたてた。何ヶ月も風呂に入っていない身体と衣類からは、堪え難い悪臭がした。布で鼻と口を覆っても入り込んでくる砂で舌の上はざらつき、口の中で鉄の味がした。劣悪な環境と寒さで衰弱した者は一行から離脱し、その土地で最後の時を迎えた。
今、海沿いの地にたどり着いた者たちは、困難をくぐり抜けてきた、数少ない生き残りだった。
二、探索
彼らは断崖上にある円形状の建物に到着した。遺伝子研究所、と書かれたプレートが掲げてあった。崖へ波がぶつかる音と、風の鳴る音以外に、物音はしなかった。建物の外観からは、人がいる気配はしなかった。
研究所の探索には、三名が名乗りを上げた。警察官のユイとトーマ、教員のサトウ。いずれも率先してこの集団を率いてきた者たちだった。
入り口は施錠されたままだったが、窓が割られ、敷地内に積もった灰の上には複数の足跡が残っており、何者かが侵入した形跡があった。三人は外から建物の形状を確認した。白い壁はくすみ、灰の流れたあとが筋を作っていた。
一階建てで、中心に庭を臨むように部屋が並び、巨大な排気口があるため地下室もあるようだった。電気等のメーターは動いていなかったが、非常用の自家発電機のメーターが僅かに動いており、何者かが存在している可能性があった。ユイとトーマは拳銃を腰から抜いて構え、サトウはナイフを握って窓から建物に侵入した。
割れたガラスの上には灰が積もっており、最後に侵入されてから時間が立っているようだった。すり減った靴底にガラスの破片が突き刺さり、歩くと音を立てた。
入ってすぐのホールには冷蔵庫があったが、空っぽだった。
円形状の壁に沿ってさらに奥へ進むと、半開きになっているドアに「研究室」という表示と「ローザ・カミヤ」というネームプレートが掛かっていた。ユイが拳銃をかざしながら部屋の中に踏み込み、背後から二人が援護した。
そこには白衣を着て机に突っ伏した状態の遺体があった。白骨化しており生前の容姿を描くことはできなかったが、服と身体の大きさから女性であるらしかった。黒く変色した血が床の上に花のような模様を描いていた。交差させた腕と肋骨の間に、紙切れのようなものが挟まっていた。ユイは拳銃を腰のホルダーにしまい、その紙を引っ張った。
それは写真だった。黒い血液が付着して所々見えなくなっているが、十歳くらいの女の子が笑顔を浮かべていた。燃えるような赤い髪が青白い顔に降りかかっていた。被写体になりつつも、漆黒の大きな瞳は見る者の心を見透かすような、射抜くような力を持っていた。
写真の裏には「私の全てを娘に与える」という走り書きがあった。
ユイはこの研究所の前で待たせている、我が子を想いながら呟いた。
「お気の毒に、お子さんがいたのね。」
トーマは女の子の写真を一瞥して頷くと、机上の資料を手にとった。
「なんの研究をしていたんだろう。せめて燃料か武器が手にはいるといいんだが。」
壁には様々な種類の蟻の写真とタンパク質を表す化学式、蟻のコロニー分布を表す世界地図が貼られていた。科学雑誌と思われる切り抜きには、女性の科学者の写真と、「蟻の新型タンパク質解明」「蟻の遺伝子をゲノムに導入」「ヒトへの遺伝子操作で、過酷な環境への適応に期待」などの見出しがあった。
サトウが呟いた。「この博士、そういえば昔ニュースになっていたよ。自分の卵子を使って実験したとかなんとか。倫理的に非難もされていたけど、もうそんなこと言っていられるご時世じゃないしね。」
「異種交配で生き延びられるなら、私はお願いしたいな。この凡庸な肉体が疎ましいわ。」
「僕はごめんだね。昆虫と合体するくらいだったら死を選ぶよ。」
ユイは部屋の隅にあるロッカーを開けた。そこには女性用のスニーカーがあった。長い間歩き続けたせいで靴の消耗が激しく、ぼろぼろになっていた。ユイは博士のものと思われる靴をもらうことにして、履き替えた。少々きつかったが、底のすり減っていない靴はユイの気持ちをいくらか軽くした。
三、目覚め
一階の他の部屋を探したが、既に目ぼしいものは奪い尽くされていた。三人は重い扉を開け、小さなペンライトを頼りに地下への階段を下りた。暖かい空気が黴の匂いを運んできた。階段下まで辿り着くと床がコンクリートではなく、土でできていた。ペンライトを当てて見ると、洞窟の入り口のような穴が見えた。中腰になってようやく進めるくらいの広さだった。
「どうする?」ユイが拳銃を胸に引き寄せながら聞いた。
「非常用電力のメーターが動いていたら、何かあるのだと思う。今夜ここに泊まるのならば見ておきたい。」
「僕は、ええっと、入り口で待機していますね。」
サトウはペンライトをユイに渡すと、逃げるように階段を上っていった。
「ヘッドライトが欲しいな。片手じゃ撃ちにくい。」
「わかった、俺が照らしながら先に行く。」
「了解。後ろは任せて。」
二人は前屈みになりながらゆっくり前進した。次第に汗ばんできて、ずっと洗っていない衣類からは悪臭がたちこめた。道は前傾し、緩やかな下り坂となった。両サイドの壁に、所々穴が空いていた。
突然ユイが悲鳴をあげ、足首の辺りを手で押さえていた。
「どうした、大丈夫か?」
「何かに刺されたみたい。ちょっとライトで足元を照らしてくれる?」
トーマは壁に背中をつけて半身の姿勢になり、進行方向へ拳銃を向けたままユイの足元を照らした。足首の辺りが赤く水膨れになっていた。
ふとスニーカーの横で何かが動いた。奥の方向へ向かって黒いものが脈々と波打っていた。
「何これ? 蟻の形はしているけれど、大きすぎる。新種の生物?」
列をなして移動する黒い生き物を見ながら、トーマが言った。
「少なくとも可愛い黒猫じゃあ、なさそうだな。毒を持っていたら厄介だから、早めに手当しよう。」
「ありがとう、でもまだ大丈夫。日が暮れるまであまり時間がないから、先に進みましょう。今夜ここを宿にしないと死者がでる。」
「わかった。さっさと済ませよう。」
前屈みの姿勢が続いて腰が痺れてきた頃に、広い空間が現れた。そこには金属でできた巨大な棺桶のような、カプセルがあった。ライトで照らすときらりと光るものがあった。錆びついたプレートだった。そこには文字が彫ってあった。
CjapCSP60 Victorie de Samothrace
「何の記号だろう?」
「分からない。次の単語は、サモトラケの勝利か。ああ、勝利の女神ニケのことね。」
ユイはまだ夫が生きていた頃、一緒に訪れたルーブル美術館の、翼を広げて船に舞い降りた女神の像を思い出した。大理石の冷たい滑らかな輝き。前方から風を受けてはためく薄い布のドレスと、腰に巻き付いたマントがほどけてあらわになった足。せり出した胸部と後方に広げた大きな翼。今にも翼で風を起こしそうな、躍動感あふれた女神の像。
ユイが産んだ双子は、あの美しい彫刻を観ることはないだろう。今日をやり過ごすことで精一杯な日々。まだ世界が暗闇に包まれる前の、未来を描くことができた時間をユイは想った。
トーマはカプセルをこじ開けようとしたが、びくともしなかった。カプセルの中から、かすかにモーター音が聞こえてきた。
「これじゃないか、非常用電力を使用しているのは。」
全体を調べてみると空気の出し入れをしている穴が見つかった。そして地面に接する付近に小さな穴があり、蟻の行列はここに入っていくようだった。中から出てくる蟻たちと綺麗に二分されていた。
「この中に幼虫が沢山いて餌を運んでいるのかもしれない。今夜の晩飯にできるんじゃないか? 久々にタンパク質にありつけるぞ。蟻の出入り口に火を入れて炙り出そうか?」
「こんな狭いところで燃やしたら一酸化炭素中毒になる。」
「じゃあ水を入れて、穴から溢れ出てくる幼虫を手に入れるか。」
その時、モーター音の回転速度が上がり、通気口から勢いよく空気が排出された。
「何か出てくる。」
「気をつけろ。」
ユイとトーマはカプセルから素早く離れ、銃口を向けた。
蓋がゆっくりと持ち上がり、さらに中にある扉が左右に開いた。モーター音が止まり、湯気のようなものが立ち込めてしゅうしゅうと音を立てた。
トーマがペンライトを向けると、青白い身体が見えた。女の子だった。そこには豊かな赤毛の女の子が目を閉じて横たわっていた。
女の子は声を出そうとして口を動かしていたが、聞き取れなかった。ユイは女の子の口元に耳を近づけた。すると閉じていた目をパッと開いた。露に濡れた黒曜石のような大きな瞳だった。女の子は小さな声で囁いた。
「博士、冬眠はもうおしまい?」
四.冬眠
ニケは三年前にカプセルに入って冬眠した。
冬眠する前、博士はニケの手をとって、言い含めるように伝えた。
「地球は急速に冷えて、食料の調達も難しくなるでしょう。でもその後、地球は急速に暑くなるとも言われている。あなたの身体は暑さと飢えには適応しているけど、まだ寒さには適応していないの。だから寒さに強い身体にするために手術をして、その後少し眠ってもらわなければならないの。」
「どれくらい眠るの?」
「そうね、三年くらい。」
「三年? いつもの冬眠より随分と長いね。」
「あっという間よ。起きたら三年たっている。」
「目を覚ましたら、もう外の世界に出てもいい?」
「そうね。その頃、極寒の地となっていても、灼熱の地となっていても、あなたは生きられるようになっている。その頃には南米で開発中のコロニーも完成しているでしょう。」
ニケは沈黙して窓の外の穏やかな海を眺めた。しばらくして、博士の目を見据えた。それはガラス玉に墨汁を流したような、暗い瞳だった。
「その時、博士はいるよね?」
「もちろん。」
「本当に?」
「本当よ。いつだって、あなたの心の中にいるわ。」
博士はニケを抱きしめた。博士の黒く長い髪と一粒の涙がニケの顔に降りかかった。ニケは博士を押しのけて言った。
「なんか変だよ。嫌だよ。」
博士は顔を背け、低く静かな声でニケに命令した。
「さ、手術室へ行きなさい。」
ニケは唇を震わせ、顔を真っ赤にして叫んだ。
「博士なんて大、大、大っ嫌い! 目が覚めたらこんな所から出てってやるからな!」
「その意気よ、ニケ。」
充血した目を細めて、博士はニケの頭をポン、ポンと叩いた。ニケは博士の手を振り払い、手術室へ向かった。
十五時間後、博士と同僚たちは手術を終えた。博士は麻酔で眠っているニケを抱きあげた。力を失った細く長い手足が、振り子のように揺れた。壊れものを扱うように、そっと冬眠カプセルへ寝かせた。時が来るまで大きな衝撃にも耐えられるように設計された、弾力性のある頑丈な装置だった。燃料を計算すると、三年は持ちそうだった。
人間にとって生存に厳しい環境になりつつある中、各国の遺伝子工学や生物学の研究者がチームを組んで、地球上で人間が生き延びる方法を模索していた。ローザ・カミヤ博士は遺伝子操作によって蟻の性質を人間に適用させる研究を進めていた。その第一号が、カミヤ博士が自らの卵子を提供して生まれたニケだった。
蟻は人間のように高度なコミュニケーションをとることによって繁栄しており、その生物学的特徴が注目された。この高度なコミュニケーション機能により、コロニー単位で個々の生態が効率的に統合されていた。つまり、蟻の身体から出された物質がコロニーの構成員に伝わることで、その物質の種類に応じて危険を伝達したり、未熟な個体に餌を与えて育てたり、前世代の経験が次世代に受け継がれたりした。蟻のコミュニケーションを司るタンパク質は五百種類を超えていたが、実際解明されているのは五十種類ほどだった。カミヤ博士は精力的な研究を行い、新たに十種類のタンパク質を解明した。その中の一つが「 CjapCSP60 」という物質だ。蟻は互いの触覚を直に接触させることで個体情報を認識するとされていたが、女王蟻が羽を振るわせて発生させた僅かな振動が、感覚神経細胞の受容体まで運搬する働きをもつ、化学感覚タンパク質「 CjapCPS60 」によって伝達され、蟻と女王蟻が離れた場所からコミュニケーションを取れることを発見した。
カミヤ博士のチームは遺伝子改変を行い、蟻の性質を人へ適用することに成功した。その第一号に名付けられたのが「クイーン・ニケ」こと、ニケ・カミヤだった。ニケの成功例は、世界各地の研究所に伝わり、博士と蟻の遺伝子を持つ子どもたちは百人にのぼった。
その一方で、地上に住めなくなることを想定して、地下に人間が住める環境を構築するプロジェクトも進行していた。蟻は種類によっては直線にして六千キロメートルに渡る巨大なスーパーコロニーを形成する。通常、蟻のコロニーは成長するまで五、六年の時間がかかるが、拡大し始めると容易に止めることはできない特徴があった。巨大な穴を作成できる新種の蟻を改良して、各国にスーパーコロニーを構築させた。研究チームは蟻たちの作ったコロニーを後追いして、人が住めるよう補強していった。構築中のコロニーは順調に成長していた。
しかし、当時、食糧不足から世界各地で略奪や暴動が起こっていた。カミヤ博士のいる研究所もいつ襲撃されるか分からなかった。博士はこの研究を、ニケを、守りたかった。そこでニケを冬眠させることにした。博士がいなくなっても、環境がさらに悪化してもニケが生活していけるよう、各研究室に依頼して、準備を進めていった。
研究メンバーたちは、それぞれ家族の元へと帰るため、海沿いの研究所を離れた。カミヤ博士の残された家族はニケだけだったので、研究所に残ることを選択した。
博士はカプセルに横たわるニケの頰を撫でながら言った。柔らかな頰のふくらみが、ニケの幼さを醸し出していた。
「おやすみ、ニケ。どうか生きて。」
五、贈り物
陽が沈みかけると気温が一層下がった。給水塔の水を沸かし、残っていた塩と来る途中で手に入れた雑草を刻んで入れて、皆で飲んだ。今日の食事はこれだけだった。
ユイたちはテラスに出て海を眺めた。灰色の雲の底が、夕陽で橙色に焦げている。鳥が泡立つ海面に影を落とした。島々や海水は夕暮れと共に色を失い、闇に染まっていった。
人々は沈黙して、暮れゆく海を眺めていた。頬は痩せこけ、目ばかり異様に光っている死期の迫った者ばかりだった。もし明日、食料が見つからなければ、このまま暖かな地へたどりつかなければ、体力のない者は動けなくなるだろう。歩けなくなるということは、旅の終わりを意味していた。その地に留まって、命の灯火が消えるのをじっと待つよりほかなかった。
ユイの子ども、フレイとフレイアは、トーマの腕の中でもぞもぞ動いていた。トーマは二人をテラスの床に下ろすと、子どもたちはよたよたとお尻を振りながら歩き始めた。毛玉だらけの擦り切れた帽子が左右に揺れた。痩けた頰と目の下の黒いくま、細すぎる手足を見ると、ユイは胸が締め付けられ、心が麻痺したようになるのだった。ストレスと飢えから、すぐに母乳は出なくなり、子どもたちを太らせる食料も見つけることはできなかった。ユイは己の不甲斐なさにいたたまれなくなって、日々の探索では先陣を切って未知の場所へ飛び込んでいくのだった。
子どもたちは歩けるようになった喜びいっぱいに、テラスの端から端まで歩き続けていた。大人たちは目を細めて見守っていたが、サトウを含む何人かの男たちはつまらなさそうに、バルコニーをぶらついていた。
ニケは建物の屋上にある給水塔の上から、この来客を眺めていた。研究所から出たことがなかったので、多様な環境で育った人々は、ニケにとって異質な存在に思えた。
ニケは博士の最後について思いを巡らせていた。
ユイから博士の死を知らされた。遺体は毛布に包まれて、研究室の床に置かれていた。ニケは怒っていた。約束したはずだった、冬眠後もここにいると。でも博士はニケとの約束を破り、先に旅立ってしまった。
嘘つき、嘘つき、嘘つき、本当に、大っ嫌い。
怒りと哀しみが、ニケの心の中で渦巻いていた。
フレイとフレイアが給水塔の上にいるニケに気づき、指をさして何やらわあわあと叫んでいる。ニケには何を言っているか理解できなかったが、ユイが翻訳した。
「一緒に遊びたいみたい。ちょっと降りてきてくれない?」
ニケは嫌そうにしかめ面をしていたが、やがて立ち上がり、十メートルはある給水塔の上からひらりとテラスに飛び降りた。その颯爽とした身のこなしに、人々は驚いた。サトウと男たちは気味悪がってニケから離れた場所に移動した。
「なんだ、クソガキども」ニケは腕組みして双子を見下ろした。
「ハコ入りムスメなくせに、口が悪いわね。どこで覚えたの?」ユイが飽きれ顔でニケに言った。
「大人が隠すものほど子どもは見つけ出すし、あっという間に吸収するもんだろ?」ニケは小馬鹿にしたような顔をして、鼻で笑った。
ユイは肩をすくめて目をぐるりと回した。
フレイアがニケに話かけた。
「おねたん、これあげゆ。」
ぼろぼろになったズボンのポケットに手を突っ込み、しばらくもぞもぞしていたが、ぎゅっと握った手を勢いよく突き出した。
「なんだ、なんだ?」
ニケは小さな拳に顔を近づけた。フレイアはぎこちなく手を開くと、そこには小さな茶色いものが、ちょこんとのっかっていた。
「どんぐり、しゃむいから、このぼうしかぶってたの。でももう、どんぐりたべちゃっておなかのなかなの。おねたん、しゃむいから、これあげゆ。」
ニケは自分の格好を見た。先ほどユイに、クリーム色のカーテンで作ってもらったワンピースは、左肩から斜めに身体に巻きついており、右肩が露わになった簡易なものだった。丈の長さは太ももが出るほど短く、おまけに裸足だった。この姿では「しゃむい」と思われても不思議ではなかった。しかし、ニケは全く寒さを感じなかった。
「あのさ、おねえさんはね、ちっとも寒くないんだ。だから、」
「この子、山を越えてくる時にどんぐりの帽子を見つけて、ここに着くまで、ずっと大切に持っていた宝物なの。だから、もらってくれる?」
ニケはじっと女の子の手のひらを見つめてから、ありがとう、と小さく呟いて、どんぐりの帽子をもらった。フレイアはニケの長い足にまとわりついた。フレイも真似て、ニケの足に抱きついてぐるぐる回った。二人はぎゅうぎゅう押し合って笛のように高い声で笑った。その間、ニケは困ったような顔をして棒立ちになっていた。鮮やかな赤い髪が、サラサラと夜風に吹かれていた。
六、船への道
再びニケはひらりと舞い上がって給水塔の上に腰掛け、地平線の彼方を眺めていた。研究所から一キロほど離れたところに、小さな島があった。ニケは物心ついた頃から、その島に行くことを夢想していた。しかし研究所から出ることを許されなかったニケにとって、その島は近くて遠い存在だった。
海流は島の周辺をぐるりとまわり込み、交互に入り乱れて白波を立てていた。その後ざあざあと音をたてながら海岸へ到着した。
島の近くで何かが動いた。それは波の動きに合わせて上下していた。ニケは給水塔の手すりにつかまりながら、身を乗り出して凝視した。
「船だ!」人々はニケの指差す方向を見てざわめいた。
「本当だ、確かに船だ。」
「敵か、味方か?」
「略奪者たちが乗っている船かもしれないぞ。」
「でも救助船の可能性もあるんじゃない?」
「食料を持っているかもしれない。」
「南下しているなら、一緒に乗せてもらえないだろうか。」
施設内にいた人々も、騒ぎを聞きつけてテラスへ出てきた。
「何であの島に停泊しているのだろう。上陸するまでこちらの様子を探っているのだろうか。
「警戒しているのかもしれない。」
崖下からは波が砕ける音が聞こえ、潮の香りが一層濃くなった。
ユイは双子を膝の上であやしながら、トーマに言った。
「ここから南へ行くには船しかないよね。」
「そうだな。まずはあの船とコンタクトを取りたいな。発炎筒を使うのもいいが、暴徒に見つかっても厄介だな。」
「弾が減るのは嫌だけれど、拳銃で救難メッセージを送ってみるわ。暴徒に対しては威嚇になるだろうし。」
ユイは双子をトーマに抱かせると、人々をテラスの後方に退かせ、風向きを確認した。銃口を上空に向けて、三秒おきに三回撃った。残響が波の音とともに漂った。
しばらくすると、船から、チカ、チカ、チカ、と三回、光が発せられた。人々はどよめいた。
「友好的だと判断していいのだろうか。」
「そうね、油断はできないけれど。」ユイは興奮を隠しきれない様子で答えた。
「問題は、どうやって船に近づくかだな。暗礁に乗り上げるリスクがあるから、こちらの海岸に近づかないのだろうか?」
人々はどうするべきか長い時間話し合った。食糧が底をついてから一週間がたっていた。南の果てまできて作物が見つからなかった今、人々の表情に絶望の色が濃く出ていた。彼らはこの研究施設にも命をつなぎとめるものを見つけることができなかった。来た道を戻っても何もない。だとしたらリスクを承知であの船に望みをかけるしかない、乗せてもらおう、という結論に至った。
海の向こうで何かが一瞬光り、続いて地響きがして地震が起こった。人々は不安そうな顔をした。
すると双子が海の方を見て騒ぎ始めた。
「みぃち、みぃち、できたねえ!」
「あしょこ、いくの! ママあ、はやくはやく!」
ユイが双子に駆け寄り、抱き上げながら海の方に目をやると、あっと、声を漏らした。
海が割れて、道ができていた。
海岸から船へと続く道が、夕陽の放った最後の光を受けて輝いていた。それは大蛇が腹を見せ、畝りながら進んでできた道のようだった。縁取る波は、ビロードのようにひだを寄せ、生まれたばかりの白い泡が、はじけて消えた。波がぶつかり合っていた場所から潮が引き、海の底が顔を出したのだった。
「これは神の思し召しか。」サトウがうわ言のように呟いた。
「船への道が敷かれたってわけか。今、干潮時なのだろう。だからあの船は海岸まで来られなかったのか。」トーマが言った。
「よし、出発しましょう。」
ニケが慌ててユイの目の前に飛び降りた。
「ちょっと待って。潮の引き方がおかしい。普段はここまで急速に広く、道ができない。」
「あなたが眠っていたこの三年で地形が変わったとか?」
「わからないけど、何か変なんだよ。大気の匂いが、変なんだ。」
「そう。ちなみにいつもはこの道、どれくらいで元に戻る?」
「うーん、一時間後には波が戻ってくるよ。」
ニケのセリフを聞いて、トーマが皆に呼びかけた。
「行ける者は行こう。さあ、聖なる道を進もう。」
人々は崖下の砂浜へ向かって、螺旋状の階段を降りていった。「ニケ、私たちと一緒に来なさい。ここに一人で残すのは心配だわ。」
「あたしは、博士とここに残るよ。だって、寂しがるかもしれないだろう?」
ユイはじっとニケを見つめ、むき出しの冷えた肩を抱きしめた。ニケは冬眠前の博士の感触を思い出し、ふと、ユイが自分の母親であるような気がしたが、そんな風に思った自分を笑った。
「ありがとう。さようなら。」
双子がニケの足にしがみついた。
「やーだー、おねたんも!」
「ばいばいやだあ!」
ユイは辛そうにその様子を見ていたが、意を決して、双子の胴に腕を回すと、ひょいと両肩に乗せて、螺旋階段を降りていった。
ニケはバルコニーから顔を出して、双子へ向かって顔をしかめ舌を出すと、双子は歓声を上げて応えた。
研究所に静寂が戻った。ニケはどんぐりの帽子を握りしめた手を見て、自分があの子にお返しをしていないことに気づいた。しかし、自分が一体何を持っていいて、何を与えられたのか分からなかった。
ニケはテラスから、人々が列になって海の道を歩んでいく様子を眺めていた。痩せて寒さに震える人々。寒さも空腹も感じない身体となった今、いよいよ人間であることから遠ざかったと思い、骨が軋むような孤独を感じた。
ニケはテラスの手すりにどんぐりの帽子を置くと、手のひらを天に向け、シグナルを送った。すると蟻たちが飛んできて、次々とニケの身体に止まり、あっという間にクリーム色のドレスが黒く染まった。博士の手によって遺伝子操作された蟻たちだった。
「ありがとう、妹たち。」ニケは両腕を交差して、蟻たちを抱きしめようとしたが、博士やユイのようにはいかなかった。それはニケに哀しみという感情を与えた。
七、邂逅
水平線の彼方に太陽が沈み、夜が訪れた。星々の光は雲に遮られ、ユイたちの元には届かなかった。何もかも吸い込むような闇が辺りに漂った。一行は島に停泊した船から漏れてくる、わずかな光を頼りに暗闇の中を進んでいった。白波がぼんやりと浮かび上がり、後方からは波の崩れる音がやけに大きく聞こえた。傷んだ靴は濡れた砂にまみれ、足取りを重くした。老いた母を背負う息子、旅の途中で家族を失い、一人になった人々、荒んだ表情をした男たち、家族連れ、若者たち、中年の男女、様々な想いを抱えた人々が海の道を一歩、また一歩と進んでいった。人々が吐く白い息が、冷たい風に吹かれて消えた。
ユイはフレイをトーマに託し、フレイアを抱きながら歩いた。子どもたちは自分で歩きたがったが禁じた。娘は海風に身体を縮こまらせ、ユイの首に回した小さな腕に力を入れた。首筋にかかる小さな息だけが確かな温もりだった。幼児を抱きながら暗くぬかるんだ道を歩くのは厳しく、腕が痺れ、ユイの体力を消耗した。
一行はようやく船まで到達した。近くで見ると見上げるほどの大きな船であることがわかった。トーマが呟いた。
「三〇対、五対、三か。」
「なにそれ?」
「大型船を作る時に、最も安定している長さ、幅、高さの比率さ。ノアの方舟と同じ比率。まあこの船は、三百、五十、三十キュビットまでは大きくないけれどな。」
「方舟であることを願いましょう。」
ユイが船に向かって叫んだ。
「すみません、私たちと話をしてくださいませんか?」
船からは反応がなく、冷たい鉄の塊がそこにあるだけだった。「私たち、困っているんです。助けてくれませんか?」
鉄の軋む音がして扉が開いた。急激な光に一瞬視力を奪われた。褐色の肌をした中年の男が船から降りてきて、一行の前に立った。
「あなたがたは研究所から来たのですね。」
「はい。」
「ローザ・カミヤ博士に会いましたか?」
「残念ながら、彼女は亡くなっていました。おそらく、暴徒に襲撃されて。お気の毒でした。」
その男は落胆の表情を浮かべた。
「私はカミヤ博士と同じプロジェクトで研究をしていたニコラウスという者です。カミヤ博士から連絡が来ました。もうここの研究所は機能しなくなる、自分の身も危ないと。それからニケ・カミヤを助けにきて欲しいと。それが最後のメッセージでした。
私たちは南米から航海して来ました。南米では地下のシェルターが完成しつつあり、生き延びることができます。しかし、私の娘マリアが血液の病にかかり、カミヤ博士に治療してもらう必要が出て来ました。マリアは彼女の研究から産まれており、特異な体質なのです。連絡は途絶えてしまい、生存の可能性にかけてここまで来たのですが、カミヤ博士が亡くなって非常に残念です。」
「待ってください。もしかしてニケは博士の研究内容を引き継いているかもしれません。全てを与える、というメモが残されていたので。」
ニコラウスは顔を輝かせた。「ニケは神童と呼ばれていました。一種の天才です。女王蟻として相応しい能力の持ち主です。ニケならカミヤ博士の代わりに娘を治すヒントをくれるかもしれませんね。」
「そうかもしれません。ニケはまだ研究所にいます。何か合図を送れば来るかもしれません。先ほどのように、研究所へ向けて、数回点滅してくれませんか?」
「わかりました。やってみましょう。」
ニコラウスは船員に指示を出し、研究所に向かってライトを点滅させた。
双子はユイとトーマの腕を振りほどいて、砂の上に飛び降り、研究所に向かって叫んだ。
「にいけえええええ!」
「おねえたあん、おいで、おいでよう!」
「来ないとおしりぺんぺんだよう!」フレイはズボンを脱いで白いお尻を出し、ぺちぺちと叩いた。ユイは慌てズボンを上げて、フレイをたしなめた。
その時、騒ぎを聞きつけて、船の中から十二、三歳くらいの女の子が彼らの前に降りてきた。ウェーブのかかった艶のある赤い髪、すんなり伸びた手足、水晶のような黒く濡れた大きな瞳。一目見て、ニケと同じ遺伝子を持つものとわかった。
「こら、マリア、出てきてはダメだろう。」
「だって、早くニケに会いたいんだもの。呼びかけてみていい?」
「体力を消耗するからやりすぎないように。」
マリアは頷いた。そして息を吸い込んで瞳を閉じ、両手を広げた。何か呟いているようだったが波の音にかき消された。マリアは広げた手を胸のあたりで組んだ。それはまるで祈りを捧げているようだった。
一連のやり取りを静観していたトーマが、痺れを切らしてニコラウスに言った。
「ところで、私たちは冬を越すため、南を目指して旅しています。この陸地の最南端まできましたが、不毛の地に変わり果てていました。もう行き場を失って死を待つのみです。あなたのシェルター、コロニーへ、連れていってくれませんか?」
ニコラウスは表情をさっと曇らせて、トーマとユイに呟いた。
「この船はもう、各地でお困りの方を乗せてしまったため、店員をはるかにオーバーしているのです。申し訳無いのですが、ここにいる皆さんを今お乗せすることができません。今から船を手配しても、こちらに到着するのは四ヶ月後になります。もっと早く来るべきだったのですが、コロニーを構築していたので来ることができなかったのです。本当に申し訳ございません。」
トーマとユイはこの後に起こることを想起、震える声で言った。「我々はこの地で冬を越して、春を迎えることはできまん。」
ユイは歩きまわるフレアとフレイアを指差して叫んだ。
「どうか、どうか、お願いです、この小さな命だけでも助けていただけないでしょうか。お願いします、お願いします!」
ニコラウスは無表情で黙っていた。マリアが不安そうにニコラウスを見つめた。「パパ、お願い。」
ニコラウスは意を決して頷いた。
「いいでしょう、あなたの幼いお子さんたちを、責任持って守ります。さ、子どもたちを船にお乗せなさい。」
ユイはありがとう、ありがとう、とつぶやきながらその場に崩れ落ち、声をあげて泣いた。
八、無慈悲な月
それはほんの一瞬の出来事だった。
サトウがユイの腰ベルトにさしていた拳銃を奪い、男たちが双子を乱雑に抱き上げて頭上に掲げた。サトウは銃口を双子に向けながら言った。
「こいつらの代わりに俺たちを乗せろ。」
血走った目でサトウはニコラウスに怒鳴った。島の向こうから来る風が強まり、人々の熱をどんどん奪っていった。
トーマが拳銃の狙いをサトウに定め、叫んだ。
「おい、サトウ、血迷ったか。そんなことをしたって、ニコラウスはお前を船に乗せないだろう。」
サトウは鼻で笑った。
「なあ、命は平等なんじゃなかったのか? こいつらの命が俺の命よりなぜ優先されるんだよ? トーマ、お前だって自分の命が惜しいだろう? お前の拳銃をニコラウスに向けろよ。船に乗っている奴らを引きずりおろして、船を乗っ取ろうぜ。」
「俺はごめんだね、サトウ。お前に良心はなかったのか? 子どもたちを離して拳銃を下ろせ。」
サトウは腹の底からけたたましく笑った。夜の闇にむき出しの歯が浮かんだ。それは白波と同じ色をしていた。
サトウは笑い声をピタリと止めると同時に、素早く銃口をトーマの頭に定め、拳銃の引き金を引いた。トーマは目を見開き、驚愕の表情を浮かべたまま、後ろへゆっくりと倒れた。
間髪入れずサトウは、ニコラウスとマリアを撃った。二人は折り重なるように海の道に倒れた。
ユイは倒れるトーマに向かって飛び込み、拳銃を手にいれようとした。サトウは向きを変え、ユイめがけて撃った。弾はユイの太ももを貫通した。獣のような呻き声をあげ、ユイはトーマの手から拳銃を剥ぎ取り、前転して着地し、サトウに拳銃を向けた。
ユイとサトウは銃口を向けあい、睨みあった。
サトウはちらりと子どもを見てユイに叫んだ。
「お前が僕を打つ前に、こいつらを吹っ飛ばすぞ。よく見ておけ、苦しめビッチ!」
すると島の向こうから突風が吹き、雲の切れ間から月光が差し込んだ。船の周辺は白々しいほど明るくなり、海面が蛇の鱗のように煌めいた。
人々の頭上には、ニケ=カミヤが満月を背にして、虚空に浮かんでいた。
左右いっぱいに広げた透明な羽は、虹色に輝いていた。月光は羽を貫き、砂の上に葉脈のような模様を描きだした。赤く燃える髪が風に舞い上がってニケの顔を覆ったが、漆黒の眼光は隠すことができなかった。
ニケが声を発した。その声は耳から聞こえるというより、脳内に直接届くような不思議な声だった。
「どこでそんな汚い言葉を覚えたんだ、坊や? 母ちゃんのおっぱいでも飲んでクソにまみれて死にな!」
ユイはそのセリフを聞いて吹き出した。
「やめなさい、ニケ、言葉が汚すぎるわ。」
ニケは目をぐるりと回して、滑らかな肩をすくめた。
サトウは怒り狂ってニケに向かって発砲した。
「化け物め、この人間のなりそこないめ! 気持ち悪いんだよ、死ね!」
ニケは羽を一振りしてぐんと月に近づき、銃弾をかわした。白い布が小波のようにニケの身体にまとわりついた。
「失礼ですわよ、ほら、あたくしからの贈り物を頂戴しなさい。」
ユイはまたしても吹き出した。「言葉遣いがおかしいわ。私がちゃんと教えてあげるから。」
ニケがユイをじっと見下ろした。「本当だな? 約束だぞ。」
「もちろん、約束よ。」
ニケは頷くと、サトウからの銃弾をかわしながら、羽をリズミカルに羽ばたかせた。独特のリズムだった。三拍子で三連符が繰り返され、力強く華やかで、まるで祝福しているようだった。羽が月光を反射し、光の粒が鱗粉のように零れ落ちた。人々は時を忘れ、ニケの奏でる舞曲に酔いしれた。
しかし男たちの発する絶叫で、夢のような宴は終わりを告げた。
人々は見た。無数の黒く蠢く蟻が、三人の男に群がるのを。穴という穴から身体に潜り込み、肉体を貪った。やがて蟻は男たちの絶叫をも飲み込み、再び訪れた静寂の中で黙々と食い尽くし、闇に消えた。
三人の男たちは輪郭を失った。ニケは双子を両手に抱きしめた。双子はニケにしがみついた。ユイは脱力して砂の上に座り込んだ。
島の向こうから吹いてくる風が、徐々に強さを増してきた。湿気を含んだその風は、人々に何かを予感させた。
フレイアが何かに気づき、小さな指で夜空を指して叫んだ。
「ママあ、ゆきだよ!」
天使の羽をちぎったような雪が、上空の闇から舞い降りてきた。血まみれで倒れるニコラウスとマリア、トーマ、骨だけになった男たち、そして行き場を失った人々の頭上へ、平等に降り積もった。彼らの白く吐く息が、雪の結晶を溶かした。
突然ニケの血がざわめき、心臓が早鐘のよう打ち始めた。女の子の指し示す方向を見上げると、島を超えてくる巨大な壁が迫っているのに気づいた。
巨大な津波だった。
ニケは双子をきつく抱きしめ、歯を食いしばって力の限り羽を振った。高く、高く、高く、もっと高く、高く。
ユイと目があった。その瞬間、ユイの思考がニケの脳内にどっと流れ込んできた。大きくなるお腹を愛おしそうにさすっていたこと、双子の出産が長時間に渡る危険な出産だったこと、夜泣きがひどく前と後ろに子どもを抱えながら散歩をし、白々と夜が明ける頃にようやく小さな寝息を立てたこと、起こさぬよう、たわわな頰に口づけをしたこと。
ニケがユイに向かって頷いた瞬間、凄まじい勢いで黒い波がユイを、人々を、船を、飲み込んでいった。生き物の存在を凌駕する海の圧倒的な力に、抗える者は誰もいなかった。
海の壁は崖へぶつかるも勢いが衰えることはなく、研究所を飲み込んで陸地を這い上がっていった。荒れ狂うというよりは、確信に満ちた冷徹な進み方だった。
濁った海面を、満月が無慈悲に照らし続けた。先ほどまであった船への道は、跡形もなく消え去った。
全てを殴って飲み込んでいく海を、ニケは茫然と眺めていた。手足が引きちぎられるような無力さだけが、ニケの中にいつまでも残った。
九、羽ばたき
ニケは双子に水や樹液などを与えながら、マリアから送られてきたコロニーの座標を目指して飛行していた。マリアが生き絶える前に発信したメッセージを、ニケは研究所で受信していたのだった。
ニケは寝息を立てる子どもたちを見てつぶやいた。
「博士も、ユイも、大人は嘘つきだったな。でもいつかあたしも、嘘をつく時が来るのかな。そうしたら君たちから、大っ嫌い、って言われるんだろう。」
ニケはユイがしていたように子どもの頬に口づけをすると、暖かな朝日に向かって羽ばたいていった。
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