ハイドラの檻

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梗 概

ハイドラの檻

 おおよそ三千年周期で細長い楕円軌道を描きながら系を公転している惑星、レルネが近づいている。リコの所属する研究チームは、民間探査部隊の一つとして探査機クロノス10による惑星探査を実施していた。
 その夜、リコは交替制の探査機操作のため、一人で研究室に残っていた。隣の仮眠室では同僚のサナキが休んでいる。探査機のカメラと視覚をリンクさせて調査していたリコは、崩落した岩盤によって封印されていた洞窟を発見する。探査機のアームで岩を破砕して奥へと進んだリコは、壁に刻まれた不気味な図像を見つける。
 複数の首をもつ蛇を思わせるその印象的な図像は、リコの脳裏に深く刻みつけられる。
 休憩のため探査機を止めたリコは、室内のモニターで再度、図像を確認する。不意に誰もいないはずの研究室に何かが在るような気配を感じて振り返ったリコは、そこに図像に描かれていた蛇の姿を目にして思わず悲鳴を上げる。
 様子を見に来たサナキと室内を調べてみるが、不気味な蛇は見当たらない。リコもサナキが現れてからはその気配を感じることもなくなり、落ち着きを取り戻していく。
 リコが疲れているのではないかと考えたサナキは、早めの交代を申し出るが、リコはそれを断って探査を再開する。モニターを確認すると壁に刻まれていたはずの図像が消えている。
 しかし、消えてしまった図像はリコの記憶に鮮明に焼きついていた。別のことを考えて、何とかその印象を薄れさせようとするリコだったが、図像は意識の中で次第に生々しく蠢きだす。
 怯えるリコの前に再び怪物が姿を現す。怪物と視線を合わせてしまったリコは、恐怖を感じつつも魅入られていき、次第に意識を奪われていく。
 意識を失う直前、リコは咄嗟に音声記録に忠告を残す。
「見ちゃダメ……」
 交替時間になって研究室に戻ったサナキは、頭部を失って絶命しているリコの姿を見つける。飛び散った血痕は奇妙な怪物の図像を描いていた。

文字数:800

内容に関するアピール

 場面の設計ということで、一つの室内を舞台にしつつ、そこに「外部」をどうやって引っ張ってくるか、ということを考えてみました。
 実作では惑星探査の様子も含めて、「室内」からモニターしているという描写に徹することで場面を限定したいと考えています。遠隔操作されている探査機というのは場面内に置かれた「舞台装置」とは言い難いですが、モニターに写る/消える図像というシンプルな装置によって、外部が内部へと移動したことを演出したいと考えています。
 作風の幅を広げるべく、「恐怖」をテーマにして、これまで書いたことのない「ホラー」的な要素を取り入れたコズミックホラー作に挑戦してみたいと思います。
 怪物については、クトゥルフ神話の『ヒュドラ』(カットナー)≒ギリシャ神話のヒュドラ―をモチーフにしています。認識によって存在し、意識に巣食い、それを喰らう、という過程により、意識を通して移動する宇宙的存在となります。

文字数:400

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ハイドラの檻

 モニタールームの大スクリーンに、暗く鈍い光を帯びた小さな星が映し出されている。
 惑星レルネ――遥か古代の神話に謳われた沼地の名をもつその星は、おおよそ三千年の周期で細長い楕円軌道を描きながら、太陽系の周囲を公転している。
 レルネが以前、地球に接近したのがいつだったのか、観測史上、正確な記録は残されていない。それはあるときは太陽系で地球から最も遠い惑星であり、しかし時として最も近い惑星ともなる。
 厚い大気に覆われたその惑星が系の中心に近づくにつれて、圏内には毒性の雨が降りしきり、やがて大地に注いだ雨は沼地を形成し、広大な海へと変化していった。
 三千年に一度の機会を逃すまいと、数年前から複数の観測用宇宙ステーションが建造され、レルネが地球に接近するタイミングに合わせて一斉に稼働を開始していた。
 リコ・フラナガは、そんなステーションの一つ、東ユーラシア連邦の共同出資によって運営されている観測基地「ティトナ」に調査員の一人として在籍していた。
 民間企業であるマルキ重工の一社員であったリコが、国際宇宙ステーションで生活することになった経緯には、彼女が社内で所属していた部署と、そこで開発に携わっていたものが関係していた。

 リコの所属していた研究チームは、深海や極地といった過酷な環境下での探査活動のための遠隔操縦型探査機「クロノス」シリーズの開発を行っていた。深海探査技術を援用した高圧環境用の探査機、その最新型として完成したのが、クロノス10だった。
 シリーズのなかでも大型の機体であるクロノス10は、撮影やスキャニングによる分析といった基本的な環境調査活動はもちろん、そのサイズから出力されるパワーや重厚な装甲、頑強な作業用アームを活かした工作活動も可能であり、リコたち研究チームの自信作だった。
 ちょうどクロノス10の開発が軌道に乗りはじめた当時、惑星レルネの接近が数年後に迫っているという話題が世界的な関心を集めており、すでに建造が開始されていた各ステーションも本格的な運用にむけて準備が進められていた。
 東ユーラシア連邦では、ティトナを拠点とした惑星レルネの探査に本腰を入れており、民間から優秀な研究チームを募って、探査に使用するための探査機のコンペティションが行われることになった。
 そこでマルキ重工の代表としてそのコンペに参加することになったのが、リコのチームとクロノス10だったのだ。レルネの環境に対応するため多少の仕様変更を余儀なくされたものの、もともと海底での活動を想定して設計されていたクロノス10は最適な条件を満たしており、外装の強化と液中における可動性の向上が主な課題となった。
 三千年に一度というこの千載一遇のチャンスを逃す手はない。何が何でもコンペを勝ち抜いて、クロノス10とともにレルネへ行く。そんなモチベーションがチームに一体感をもたらし、当時、まだ入社したばかりだったリコは、半ば訳も分からないうちに熱気にあふれた研究生活に没入していった。
 そうして二十代のほとんどを研究に費やしてきたリコにとって、クロノス10はある意味、わが子のように愛おしく、そして、自慢の存在だった。
 いま、リコは地球から遠く離れた宇宙ステーション「ティトナ」にいて、自慢の息子クロノス10はさらにその先の惑星レルネに降り立って、探査活動を行っている。

 クロノス10を載せたシャトルがステーションから射出され、無事にレルネの大気をぬけた瞬間、モニタールームに歓声が上がった。霧のように降りしきる黒雨にさらされながら、周囲を海に覆われた狭いレルネの陸地にシャトルが着陸。シャトルのハッチが開き、収載されていたクロノス10がステーションから発信される命令信号を受けて大地へ降り立ったとき、先ほどよりもさらに大きな歓声が響き渡った。
――クロノス、異星の地に立つ。
 数時間後にはクロノス10の雄姿を映した映像にそんな見出しが付いて報道されることを想像し、リコは心を躍らせた。
 最初の遠隔操縦者は公平にクジで決めよう、とリーダーのセオが提案したとき、リコは自分にもチャンスがあることを期待した。けっきょくクジには当選できず、その栄誉ある役目はリコの二つ上の先輩であるクデラが担当することになった。
 アンテナ基地となったシャトルのカメラから送られてくるクロノス10の全容が、モニタールームの大型スクリーンに映し出されている。リコはその姿に感慨をいだきながら、クロノス10のカメラと視覚をリンクさせて操縦席に座っているクデラの背中に羨望の眼差しを向けた。
 それが二週間前のことだった。

 その日以降、リコもチームの一員として交替制の探査業務を担当していた。
 今日も夜間勤務のため一人モニタールームに残り、レルネの海の底でクロノス10を走らせている。
 地球標準時間でいえば、現在深夜一時を過ぎたあたりのはずだったが、宇宙に出て一カ月も過ぎた頃から、ほとんどそうした時間の感覚はなくなっていた。
 本日のシフトはリコと一つ後輩のサナキが担当しており、現在サナキはモニタールームの隣にある仮眠室で休んでいる。リコの担当時間は二十三時から翌朝五時までの六時間で、間に二〇分程度の休憩を二回挟むことになっている。その後、サナキと交替して仮眠をとり、十一時に起床して日報を記録する。それから探査を次のシフトに引き継いで、以降丸一日フリータイムが与えられるというわけだ。
 長時間クロノス10と視覚をリンクさせながら操縦席に座っているため、探査活動はそれなりに身体的な負担もあったが、日中は他の研究員たちもモニタールームで仕事をしており、現在のように広い部屋に一人で残されているというような寂しさはなかった。
 すでに二時間ほど海底を走らせ続けているが、とくに異常は見られず、あと三〇分ほどしたら休憩をとろうとリコは考えていた。代わり映えのない暗い海のなか、退屈に任せて勤務明けの休みは何をしようかなどと思いを巡らせてみるが、狭い探査用ステーションのなかに居たのではたいした事もできない。
 しかし、仮にずっと探査用ステーションに引きこもっていたとしても、生活必需品は定期便で届けられるため不自由はなかったし、映像や音楽といった娯楽用の配信コンテンツは、地球での最新のものをネットワーク経由でタイムラグなく楽しむことができた。
 わざわざ出かけなければ楽しめないことといえば、買い物をして直接「物欲」を満たすことくらいだった。連邦の中継ステーション行きの往復シャトルで久しぶりにショッピングモールにでも行ってみようか、などとリコは考える。
 そのとき、クロノス10のカメラに小さな気泡が映った。ぽつ、ぽつ、と立ち昇っていく小さな泡の出どころを辿ってみると、どうやらそれは大きな岩盤の隙間から発生しているらしかった。
 透過スキャンの結果、その巨岩は海底にある洞窟の入口を塞ぐような格好で置かれているらしく、岩の向こう側に空間が広がっていることがわかった。
 ここまで起伏のすくないなだらかな岩肌の上を走り続けていたリコは、ようやく発見した洞窟に興味をいだき、クロノス10の工作用ブレード「アダマス」を使って入口を塞ぐ岩を破砕した。岩が崩れ落ち、土埃を上げながら洞窟の入口が開くと、毒性の海水が勢いよくなかへと流れ込んでいった。その流れに背中を押されるまま、リコはクロノス10を奥へと進めていく。
 なだらかな上り坂をしばらく進んでいくと、流れ込んだ海水が途絶え、ようやくクロノス10は濁った毒液からその機体を解放された。光のない暗闇をクロノス10のライトが照らす。そこでリコは、一度クロノス10との接続を解除して室内の時計で時刻を確認した。
 すでに休憩を予定していた時間になっていたが、もうすこし奥に進んでから休もうと決めて、リコは再びクロノス10とつながって洞窟のなかを前進していった。
 真っ直ぐに続く暗闇のなかを、ひたすら突き進んでいく。レルネの海底にある洞窟は、誰かによって作られたわけではなく、自然に形成されたもののはずだったが、きれいに掘り進められたように続く人工的な道筋は、どこか居心地が悪くリコを不安にさせた。
 しばらく進むと天井の高くなった空洞へ辿り着き、道はそこで途絶えていた。
「なんだ……行き止まりか」
 思わずそんな独り言が漏れてしまう。奥に何か特別なものがあるかもしれない、と過度に期待していたわけではなかったけれど……そう簡単に大発見ができるわけもないか、と軽い落胆を覚え、リコはため息をついた。

 予定どおりそろそろ休憩にしよう、とクロノス10との接続を解除しかけたリコは、ライトに照らされた洞窟の壁面に、何か亀裂のような模様が描かれていることに気がついて、カメラのズーム機能を作動させてそれを拡大した。
「何だろう……」
 日中であれば、すぐに他の研究員に声をかけて一緒に目の前の模様を確認したいところだったが、あいにく夜勤中の現在、モニタールームにはリコしかいない。
 ズームアップしてみると、それは壁面の亀裂などではなく、何かによって焼きつけられた痕、あるいは炭や染料によって人工的に描かれた図像のようにも見えた。
 表層の一部をスキャンして成分を分析してみると、それはこの惑星を満たしている海水のものに近いことがわかった。
 上から下に向かって扇状に広がるように引かれた一筋の線。しかし詳しく見てみると、それは細かい糸のような線をいくつも重ね、束ねたものだということがわかった。その線はどれも上から下へ、同じ方向に向かって執拗になぞられながら、一つの流れを形成していた。まるで小さな流れが集まってできた大河……次第に、その線の束が大きな水脈のように見えてくる。
 これが人工的な筆によって描かれた川の絵――だとすると、ずっと以前、毒の海に満たされる前、ここは陸地で、このような川が流れていたのかもしれない。そして、それをここへ記録した存在が、あった――ということだろうか。あるいは海の底で文化を育んでいたものがあって、この洞窟に何かの印を残したのか。
 突如、目の前に現れた知的生命体の存在を思わせる痕跡に、一瞬、リコの背筋に震えが走った。もしかしたら、自分は途轍もないものを発見してしまったのではないか、という静かな興奮が芽生えていく。
 深呼吸をして気持ちを落ち着けて、いったん冷静になってズームに寄っていたカメラをすこし離し、改めて図像の全体像を確認してみる。すると、重なった流れのように見えていた細かい線が微かに揺らいだように感じられて、リコは目をしかめて凝視する。しかし、やはり線は揺らいでなどおらず、それは刻み込まれているように静止して見えた。
 クロノス10との視覚リンクを長く続けすぎたせいで、すこし目が疲れているのかもしれない。そう考えて、リコは二度瞬きをしてからしばらく目を閉じていた。
 それから、ほかにも同じような図像が見つかるかもしれないと考えて、カメラで狭い洞窟の壁面をなめるように映してみたが、小さな亀裂や岩の凹凸は見つかるものの、はっきりと意図的に描かれたような模様は他に見つからなかった。
 リコは最初の位置にカメラを戻して再び大きな線を映し出してみる。すると、川の下流、広がったように少し太く描かれていた線が、二手に分かれている……ように見えた。いや、もしかしたら初めから微かに先は割れていたのかもしれない。はじめのうち、拡大して細かい線を見ていたせいで、リコは図像の一番端がどうなっていたのか、精確に記憶している自信はなかった。しかし、少なくとも感覚的には、たしかに一筋の線として捉えていたはずで、先が二手に分かれていることには気づいていなかった。
 思い出そうとしているうちに、また一瞬、目の前の線が微かに蠢いたような気がして、線の重なり方が変化したように感じられた。そして、先ほどまで大きな川のように見えていたそれが、今は形を変えて、巨大な一匹の蛇のように見えてくる。
 重なった線の隙間は、繊細な鱗模様を描き、二手に分かれて広がった先に、小さな蛇の頭部を思わせるわずかな膨らみがある。これは明らかに最初に見たものとは違う。そう確信して、リコはクロノス10に記録されている数分前の映像を視覚内のワイプウィンドウで再生させてみる。
 しかし、そこに映っていたのは、大きな川――ではなくて、二首に分かれた頭部を持つ奇妙な蛇の絵だった。一瞬、頭のなかが混乱する。それでは、先ほどまで川だと思い込んでいた像は何だったのか。自分の記憶が間違っていたのだろうか、と自問してみるが、ほんの数分前に見たイメージが、これほど短時間で塗りかえられてしまうものだろうかとリコは疑問に思った。
 そんなふうにリコが思い悩んでいる間にも、川の流れ――否、蛇の頭は三つに分かれ広がっていた。もしかすると線は初めから三つに分かれていたのかもしれない。自分の記憶に確信が持てず、急に不安と疲れを覚えたリコは、目を閉じてクロノス10との接続を解除した。

 どうやらずいぶん疲れているらしい。フッと軽く息を吐いたリコは、両肩を回して凝りをほぐし、それから大きく伸びをした。眠気覚ましにコーヒーでも飲もう。
 クロノス10をその場に待機させたまま、リコはコントロールをスリープに設定して操縦席を立った。
 省エネルギーのため単独作業の夜勤中はモニタールームの照明は半分落とされていて、操縦席の反対側、部屋の入口のほうは薄暗くなっている。部屋の隅のミニキッチンに置かれたコーヒーサーバーで濃い目に入れた一杯を飲みながら、リコは操縦席の横に備え付けられている観測用のサブモニターで、待機中のクロノス10のカメラがとらえている映像を確認する。この図像はいったい何なのだろう?
 本当は室内の壁面にはめ込まれている大型スクリーンに映したいところだったが、現在メイン電源が切られており、起動キーはリコの手元になかった。
 洞窟の位置情報はオートマッピングで記録されるので、明日、みんなが揃ったらまたここへ戻ってきて改めて確認すればいい。この洞窟はどうやらここで行き止まりのようなので、休憩を終えたらUターンしてまた別の場所へ向かうことに決めて、リコは飲みかけのコーヒーカップに再び口をつけようとした。と、そのとき、並んだ作業机の陰で何かが動いたような気配を感じた。
 一番端の机の脚のあたりを、リコはしばらくじっと見つめていた。暗がりの床には室内灯の薄い明かりを受けた机の脚の影が落ちているだけで、他には何も見当たらない。
 一度目を閉じて、再び同じ場所に視線を向けてみるが、やはりそこには何もなかった。気のせいか、と安堵の息をもらし、残りのコーヒーを飲んでしまおうとカップを唇に近づけたリコは、背後で何かが動いたような気配と、微かな擦過音を感じて振り返った。視線の先、壁のあたりに、先ほどレルネの洞窟で見つけた図像……そこに描かれていた蛇のようなものが、佇んでいる。
 遠目には体長は四〇センチメートルほどで決して大きくはないが、細長い胴から伸びた四つの首が、それぞれに個別の意思を持っているかのように、ゆったりとした緩慢な動きで無秩序に蠢いている。
 事態が呑み込めず、リコはしばらく戦慄したまま黙ってその場に立ち尽くし、蛇の動きをじっと見つめていた。すると、無秩序に動き回っていたその頭部が一斉にリコのほうを向き、そのうちの一つと視線が合ってしまう。その瞬間、リコは生理的な嫌悪感と身の危険を覚え、思わず一歩引き下がり、声にならない小さな悲鳴をあげた。
 指先から力が抜けてカップが滑り落ちていき、直後、陶器の割れる冷たい音が、室内に響き渡った。その音で我に返ったリコが、恐怖から目を逸らすように視線を足元に向けると、そこにはレルネの毒の海を思わせる黒い液体が広がっていた。

「リコ先輩」
 そんな呼びかけと同時に、消されていた部屋の半分の照明が点され、とつぜん室内が明るくなった。リコが振り返ると、隣の休憩室で休んでいたはずのサナキが入口に立っていた。
「何か大きな音が聞こえたので」
「サナキ君……」
 現れた後輩の姿に安堵して、リコは恐怖に強張っていた肩の力をゆっくりと抜いていった。すこし落ち着きを取り戻したリコが、恐るおそる壁のほうに視線を向けてみると、先ほど目撃した不気味な蛇の姿はそこにはなかった。
 サナキは不安げに身を強張らせていたリコのほうに駆け寄ってくる。
「どうかしたんですか? あ、コーヒー」
 すぐに片づけますね、危ないから触らないで、と言って、サナキが清掃用具を取りに休憩室へ戻ろうとしたのを、袖を引いてリコは引き留めた。
「行かないで」
 不安気な面持ちでそう呟いたリコの姿に、サナキは普段の理知的で強気な彼女とのギャップを感じながら「ど、どうしたんですか、先輩?」と訊ねる。
「何か……気味の悪い――」そう呟きかけて、リコはもう一度、蛇のいたあたりを一瞥し、小さく首を左右に振って「うんん、何でもない。ちょっと疲れてるみたい」と微笑んだ。
 取ってきますね、と言って改めて清掃用具を取りに向かうサナキに「ごめんね、ありがとう」と礼を言って、リコは傍にあったチェアを引き出して腰を下ろした。そして改めて室内を見回してみるが、蛇の姿は見当たらない。
 すぐにサナキは戻ってきて、手際よく割れたカップとコーヒーで汚れた床をきれいにした。それを手伝いながら、リコは先ほどの蛇の幻覚はいったい何だったのか、サナキに相談してみるべきなのか、逡巡していた。
 仮眠をとっていたところを起こしてしまい、こうして片付けまでさせてしまって、これ以上、サナキに迷惑をかけるのはためらわれる。しかし、洞窟で発見した図像について、すぐにでも自分以外の誰かの意見を聞いてみたいという気持ちもあった。
「あの、サナキ君」迷いながら、リコはサナキの名を呼んでみる。
 それから、けっきょく洞窟の奥で見つけた不気味な図像についての話を切り出した。そこに描かれていた不気味な蛇の姿を見かけたような気がして、思わずカップを取り落としてしまったことを説明しながら、実際に見てもらったほうが話が早いからと、サブモニターにクロノス10のカメラの映像を映し出す。

「蛇、ですか? たしかに亀裂のようなものは見えますけど……」
 小さな画面をのぞき込みながらそう呟いたサナキの横で、顔を寄せるように画面を見つめているリコの目には、先ほどよりも生々しい質感で描かれた五つ頭の不気味な蛇の姿が映っていた。
 画面の下のあたり、五つに分かれた線を指さしながら、リコが「ほら、ここが頭になっていて、上のほうが尻尾に見えない?」と説明すると「そう言われれば、見えなくもないですけど……」とためらいがちにサナキは答えた。
 一応、視覚リンクで確認してみますね、と言ってクロノス10の操縦席に座ったサナキは、カメラのズーム機能を作動させて壁面の図像を映し出した。それをサブモニターで見ていたリコは、アップになった蛇の頭の一つと画面越しに目が合ってしまい、思わず身を引いた。しかし、視線は逸らさず、にらみ返すようにしばらく凝視していると、次第にそれはサナキの言うとおり蛇ではなくてただの亀裂のようにも見えてくる。
 クロノス10を操作しながら「やっぱり、ただの亀裂じゃないですか?」とサナキが呼びかけてきたのには応えず、リコはサブモニターの電源を切って操縦席のサナキの肩に軽く触れると「うん、見間違いだったみたい」と言った。
「先輩、操縦中は触れないでくださいよ、リンクが乱れます」
「あ、ごめんなさい」と慌てて手を引きながら、自分がそんな初歩的なことさえ忘れてしまっていることにリコは戸惑った。
 視覚リンクを解除して操縦席を離れたサナキが「疲れてるなら、少し早いですけど替わりましょうか?」と提案したのを「ありがとう。でももう少しだから、大丈夫」と断って、リコは相手を安心させようと微笑んだ。
「何かあったら、呼んでくださいね」と気遣いの言葉を残してモニタールームを出ていこうとするサナキを見送りながら「うん、ありがとう」とリコはもう一度、礼を言った。
 入口のドアに手をかけたサナキは、何かを思い出したように立ち止まり、振り返る。
「先輩、シフト明けの休み、その……よかったら一緒に中継ステーションに行きませんか」
「え?」
「最近ずっとこっちにいるみたいですし、たまには気晴らしも悪くないかな、なんて」
「ええ……でも」
「それとも、もう予定があったりしますか?」
「うんん、どうしようかなって、考えてたところ」
「それじゃ、決まりですね」
 そう嬉しそうに微笑むと、サナキは軽く手を振って仮眠室に戻っていった。

 久しぶりに出かけるつもりでいた中継ステーションに、思いもよらぬ同伴者ができたことに浮かれながら、リコはあと二時間ほどの探査のため気持ちを切り替えようとするが、どうしても脳裏の片隅には蠢く蛇の像が残っていた。
 しかし、先ほどクロノス10と視覚リンクをしたサナキには、蛇の姿は見えなかったようだった。やはり気のせいだったのだろうと自らに言い聞かせながら、全灯している明かりの半分を落として、リコは再び探査のためにクロノス10の操縦席に腰を下ろした。
 同時に、目の前には大きな蛇の図像が映し出され、操縦席のなかでリコは思わず腰を引いてしまう。すでにそれは川のようには見えず、明らかに巨大な蛇の姿を現していた。蛇は壁から抜け出そうとでもしているかのように、凹凸のある岩肌の表面で身を捩り、うねらせていた。
 先ほどサブモニター越しに見たときには五つだった頭部は、いつの間にか六つに、そして今まさに七つ目の頭部が胴部から生え出そうとしている様をリコは目撃した。
 増え続ける頭部に不吉な予感を覚え、リコは反射的にクロノス10の工作用ブレード「アダマス」を起動させて壁面に向かって斬り付けていた。岩を削る鈍い振動がカメラを揺らし、リンクしているリコの視界が大きくぶれる。
 蛇の七つの頭部に向かって斬り付けた痕が壁面に刻まれ、先ほどまで不気味に蠢いていた蛇の動きは静止していた。枝分かれていたはずの首は一つ残らず消えており、跡には堰き止められた大河のような図像だけが残されていた。
 自分の息が上がっていることに気がついて、リコは胸元を押さえてゆっくりと深呼吸をする。息を吐きながら視線を落としたのに連動して、クロノス10のカメラが下方を映し出すと、斬り落とされた七つの首が床面に転がってのたうち回っているのが見えた。
 嫌悪感に吐き気を催しながら、リコはそのおぞましい光景から視線を逸らした。すると、首を切り落とされたはずの胴部からは、新しい首が今まさに再生しようとしているのが見えた。

――Hydra。
 遥か古代の神話の時代、アミモーネと呼ばれた泉に棲みついていた不死の怪物。
 水蛇を意味する名をもったその怪物は、九本の首を持つ大蛇の姿をしており、その首を斬り落としても、すぐに傷口から新しい首が再生したとされている。
 猛毒をもったHydraは泉を汚染し、人々を脅かしたという。そこでその地を治めていた王は,家臣のヘラクレスにこの怪物を退治するように命じた。
 そんな英雄物語を、子どもの頃に読んだ記憶が、不意に甦ってくる。
 そして、本の挿絵に描かれていた九つの首をもった不気味な怪物の姿を思い出して、リコは身を震わせた。

 一刻も早く、この場所を離れなければならない。
 クロノス10をバック方向へ移動させようとして、焦りから操作を誤って前進、蛇との距離を詰めてしまい、リコは慌てて手元を見ようと首を引いたが、その動きに合わせて視覚リンクされたクロノス10のカメラが下がる。
 どうやら前進したことによってクロノス10は蛇の警戒範囲内に入ってしまったらしく、視線を前方に戻すと、生えそろった九つの首すべてがリコのほうへと向けられていた。十八の赤く光る小さな目に睨まれ、一瞬ひるんだリコの動きが止まった。
 その刹那を逃さず、蛇は大きく身を捩らせて、周囲の岩肌を引きはがすように壁から抜け出して、その勢いのままクロノス10へ向かって飛びかかってきた。
 巨大な蛇がぶつかる衝撃をまともに受けて、クロノス10の機体が大きく揺れた。長く大きな躰を巻きつけてクロノス10に密着した蛇は、その首の一つ、大きく口を開いてカメラを噛み砕こうと迫ってくる。ひときわ長く鋭い二本の毒牙が視界を覆うように鈍く光った。
 今にも飲み込まれようとする恐怖に怯え、咄嗟に視覚リンクを解除したリコの網膜に、微かな振動とノイズの残像が映った。
 全身が冷や汗でびっしょり濡れていた。操縦席のシートに背中を預けたまま額の冷たい汗を手のひらで拭い、大きく息を吐く。
 クロノス10の作動状態を示すランプのいくつかが異常を知らせる赤色に点灯しているのが、視界の端にぼんやりと映っていた。実際に機体がダメージを負っている以上、これは自分の疲労からくる錯覚ではないのだと確信しながら、リコはステーション内に異常を知らせるため、アラートボタンに右手を伸ばそうとして、甲のあたりがスッと冷えるのを感じた。そして、その冷たさは腕をなぞるように手首から肩のほうへと這い上がってきた。濡れた貼りつくような感触が、腕から肩を通り、背筋に沿って全身へとめぐっていく。
 自分の腕を這い上がってくる一つの筋が何なのかを生理的に理解しつつ、リコは腕の動きを止めたまま、ゆっくりと首を動かして視線をそちらに向けた。二の腕のあたり、小さな拳ほどの頭をした蛇と目が合った。うわずった枯れた悲鳴をあげながら、蛇を振り落とそうとリコは思い切り腕を払った。
 頭の一つをリコの腕から離し、残りの八つの首を気ままに動かしながら、蛇は操縦席を覆う天蓋のようにリコの真上にその巨躯を貼り付けていた。その異形を見上げたリコは、操縦席から転げ落ちるように身体を投げ出し、四つん這いになって床を搔くようにして逃げようとした。
 そんなリコの右の足首に、冷たく濡れた蛇が絡みつく。腰のあたりがスッと冷えて、反射的に小さな悲鳴が上がる。
「嫌ッ――」
 誰にも届かない、声にならない声を喉の奥から絞り出しながら、リコは四つん這いになっていた身体を仰向けて、右足を蹴り出すように動かすが、蛇は動じずに腿のあたりまで這い上がってくる。
 タイツ越しにもわかる不快な感触に身を震わせながら、リコは左の足首のあたりにも別の頭が迫っていることに気がついて、本能的に追い払おうと両足をばたつかせた。振り上げた左の爪先が蛇の頭にぶつかって、一瞬、蛇がひるみ、動きを止めた。そして、今度は下ろした踵が蛇の頭の上に落ちて、何かを潰し、砕くような感触が左の太腿の裏を冷たくなぞるように通過していった。
 右足への締め付けがほんの少しだけ緩んだのを感じて、リコは咄嗟に腕を伸ばして蛇をつかむと、力まかせに引っ張りながら足を抜いて立ち上がろうとした。
――痛っ。
 右腿に鋭い痛みが走り、一瞬リコは顔をしかめるが、奥歯を噛んで痛みを殺し、そのまま振り返ってつんのめるように前方へ駆け出す。並んだ椅子の背もたれや机の角に腰のあたりをぶつけながら、モニタールームの入口に向かって走ろうとするが、脚が思うように動かず転倒しそうになって、慌ててそばにあった椅子をつかむ。
 数メートル先に入口の扉が見えていた。身体を支えるため椅子に添えている、蛇をつかんだ右手のひらが、濡れていた。先ほど痛みを覚えた右腿がとても熱く感じられて、思わずそちらに視線を向けてみると、薄いタイツの向こうに透けている素肌が黒く変色しているのが見えた。
「な、に……?」
 恐るおそる、黒く広がった染みにタイツ越しに触れてみると、その奥に感じる熱とは反対に表面はつめたく冷え切っていた。ほんの軽く触れただけのはずが、耐えられないほどの痛みが走り、リコは思わずうめき声をあげる。
「何なの……」
 右腿から始まった熱は、次第に全身へと広がっているようで、頬が火照り、思考がぼんやりと鈍りはじめていると、リコは思った。
(ああ――へびが……へび? 蛇は?)
 椅子の背もたれをつかんだまま、リコは周囲を見回してみたが、視界が揺れて思うように焦点が定まらず、無数の小さな白い光が部屋中で明滅しているように、ぱちぱちと浮かんでは消えていく。
 右足の痛みがひどくなって、立っていることも辛くなり、リコは崩れ落ちるようにその場にへたり込み、作業机の引き出しに背中をあずけて座り込むと、痺れて力の入らない両手を使って右腿のあたりのタイツを引きちぎった。
 さらされた素足は、見たことがないくらい毒々しい黒に染まっていた。蛇を無理やり引きはがそうとしたときの、あの痛み。噛みつかれて、蛇の毒が全身に回りはじめている。おそらく今すぐにでも右足を切断しなければ、助からない。いや、たぶんもう手遅れなのだろうと考えて、リコはまだ自分の意識がはっきりとしていることに妙な安堵感を覚えた。
 蛇に触れた右の手のひらが、いつの間にか焼けたように爛れているのが見えたが、不思議と何の痛みも感じられなかった。
(傷口を、洗わないと……)
 すでに右足は動かすことができず、左足と両手も痺れて思うように力が入らない。リコは床の上を這うようにして進みながら、部屋の端のミニキッチンを目指した。
 先ほどまでリコに迫っていた蛇は姿を見せず、リコも蛇の存在を気にかける余裕はなく、まるで自身が一匹の蛇になったかのように無心に床の上を這い進んでいく。そうして何とかキッチンまでたどり着いたリコは、壁を這い上がるように身体を押し付けてシンクの高さまで身を起こし、感覚のなくなりかけた指先で給水レバーを下げた。
 蛇口から透き通った水が細い糸のように縒れながら落ちていく様を、しばらくぼんやりと眺めていた。
 それからまず、蛇をつかんで濡れた右手のひらを水にさらして、洗う。触れているはずの水の冷たさや重さは感じられず、目の前で水に濡れているものが自分の手なのかどうかさえ、わからない。
 手首を伝って肘のあたりまで流れてきた筋によって、ようやく微かな水の感触を覚えて、何故だかリコは思わず微笑んでしまった。
(毒を、洗い落とさなくちゃ)
 固く強張った手のひらで水を掬い、それを右の腿に押し当てるようにして、繰り返し、乱雑に洗っていく。足にも手にも何の感覚もなく、果たしてしっかりと毒を洗い流せているのかどうか不安になって、リコが薄暗がりのなか右の足を見つめると、そこは確かに濡れていて、黒く艶めかしく光っていた。
 次第に身体を支えていられなくなって、リコはシンクの排水溝に栓をして水を溜めたまま、その場にゆっくりと座り込んだ。しばらく両足を投げ出すように伸ばしていたが、蛇に噛まれた傷口が気になって、棒のように硬くなっている両手で右腿の裏をつかんで引き寄せ、膝をくの字に曲げて起こした。
 すっかり腿のあたりは黒に染まっており、すでにどこに傷口があるのか、わからなくなっていた。シンク一杯に溜まった水が溢れ出して、流し台に沿って滴り落ち、リコを濡らす。
 水が、もたせかけていた右側の頭部に触れて、耳から首筋、肩のあたりを濡らしていく。その感触が、冷たいのか熱いのかはわからなくなっていたけれど、たしかに何かが振れているという感覚は、まだかすかに残っていた。
 右膝のあたりを濡らした水が、黒い腿と、血の気が引いて青白くなった脹脛(ふくらはぎ)を幾筋もの細く透明な糸になってなぞり落ちていくのを、リコは朦朧とした意識で見つめていた。細い流れは重なっていき、一つの大きな川を象っていく。
 いや、よく見るとそれは川などではなく、一匹の巨大な、蛇であった。次第にリコの右脚の上には、刺青のように鮮明な蛇の鱗模様が浮かび上がっていく。
「Hy……dra」
 リコの呼びかけに応えるように、右脚に描かれた蛇の頭部がぬっと鎌首をもたげたかと思うと、そのまま皮膚を破って抜け出してリコを睨みつけてくる。不思議と、痛みや恐怖は感じられなかった。
 右足に浮かび上がった蛇が身を捩る。その蠢きにあわせて、体内で虫が這いまわるような不快感が全身に走った。右腿の裏のあたりのムズムズとした違和感が、左足の指先にも伝わり、その蠢きが左の足首から脛、脹脛を巻くように絡みつきながら、膝、腿へとじりじりと昇ってくる。
 抵抗することもできず、リコは両足の内側を蹂躙されていく。その不快感が下腹の奥のあたりに溜まり、吐き気を催す。両足を冷たく撫でまわす感触が、次に両手の指先、中指の付け根のあたりから手首に向けて、一気に突き抜けて、そのまま手の内側を肘のあたりまでなぞり上げ、二の腕から脇の奥へと伝わっていった。見ると両手には太い血管のように蛇の鱗模様が螺旋状に浮かび上がっている。
 いつの間にか両目に溢れていた涙に視界を歪ませながら、リコは自分の両手、両脚を見つめ、そこに無数の蛇が巻き付いていることを知った。蛇たちはリコの表皮ではなく、その内側の肉を撫でまわすように無秩序に蠢めき、這いまわっていた。蛇たちがその身を捩らすたびにリコの全身には言い知れぬ不快な感触が流れていく。
 酸味を帯びた熱い液体が込み上げ、喉の奥を焼いて唇の端から溢れ出していく。まるで胃の奥から喉へと巨大な蛇がせり上がってくるような、不快感。毒に侵され、血の混じった吐瀉物を垂れ流しながら、リコの意識は次第に前頭のあたりに集中していった。
 閉じているはずの瞼の裏側が熱くなり、そこに九つの頭を持った怪物の姿が映っている。それはレルネの洞窟の奥で見つけた図像と同じ、執拗になぞられた繊細な筆致で描かれていた。

遠くのほうから、水の流れる音が聞こえる。はじめの印象どおり、この図像が川を描いたものであったなら、よかったのに、とリコは思った。どうして自分にはそれが蛇に見えてしまったのだろうか。そのまま気がつかずに、川だと思い込んだまま、引き返していれば、よかった。

  私が気づいたから、蛇は私のなかに棲みついて、しまった。

 そしていま、蛇と一体になったリコは、捕食者である蛇が何を欲しがっているのかを完全に理解していた。無限に再生する首を持った不死の怪物は、棲処とするレルネの毒の沼に餌食になった者たちの無数の首を浮かべている。毒によって腐食し、溶け崩れてゆくその首たちこそが、Hydraの不死の根源であり、唯一求めるものなのだ。
 野放しには、できない。
 リコは頭部に流れ込んでいた意識を何とか胃の腑のあたりまで引き戻そうとするが、もう一つのリコの体内に巣食っている意識がそれに抵抗する。すでに身体は思うように動かすことができず、リコは意識だけを怪物と戦わせながら、濡れた床の上で小さく身を捩り、のたうち回る。
 たしか神話では、英雄ヘラクレスは不死身の首を倒すため、八つの首を斬り落とし、その斬り口を焼き、残った最後の首を巨大な岩の下敷きにして永遠に押し潰してしまうのだった。
(頭を……潰さないと)
 蛇に抵抗する力を失って消え入りかけた思考のなかで、リコは必死に自らの頭部を潰すための方法を考えようとした。しかし、人間の頭がどれほどの固さを持っていて、どれくらいの衝撃にまで耐えられるのか、蛇のイメージに浸食されたリコの頭には、すでにそれを想像するだけの意識は残されていなかった。
 サナキに、図像のことを話さなければよかったと、リコは心臓のあるあたりで思った。そうすれば、サナキはこの蛇のことを一瞬でも考えることはなかっただろう。
「ごめんね……サナキ、くん。もう――見ては、ダ、メ……」
 声はなく、唇だけを最期に動かしながら、リコはせめて自分の頭のなかに怪物を閉じ込めてしまおうと祈りながら、きつく目を閉じる。しかし、その薄い瞼と頭蓋は怪物を閉じ込めておく檻には、あまりにも脆かった。眼球の奥から牙をむいた無数の蛇の頭が迫ってくる。そして、そのまま眼球を抉り出すように噛み千切る。リコの頭部は内側から食い破られるように破裂して、周囲には赤い血だまりが広がっていった。床を濡らしていた水に浮かび、溶け込み、流されながら、赤い筋が音もなく無数に伸びていく。

「リコ先輩、大丈夫でした?」
 交替の時間になってモニタールームに戻ったサナキは、室内に満ちた異臭に気がついて顔をしかめた。
 遠くのほうから、水の流れるような音が聞こえる。室内を眺めてみるとミニキッチンの蛇口から水が流れ出したままになっていた。不審に思いながら、サナキは水を止めるためにキッチンへ向かったが、途中で床が濡れていることに気がついて足を止めた。
 すると、ずいぶん前から水は出しっぱなしになっていたのだろうか。宇宙ステーションのなかでは貴重な資源の一つである水を、まさかリコが無駄に使うとも思えず、胸騒ぎを覚えてサナキはキッチンに駆け寄っていく。
 そして、赤黒く染まった水たまりのなか、床に倒れているリコの姿を見つけ、思わず息をのんだ。
「――先……輩?」
 びちゃ、びちゃ、と不快な音に足を濡らしながら、サナキは一歩ずつリコに近づいていった。身動き一つせず、呼びかけにも応じない――乱れたスカートの裾から伸びた脚には、ロープのようなもので締めつけられた痕が、螺旋状に浮かんでいた。異様な艶めかしさを帯びて横たわるその身体に触れようと手を伸ばしかけた刹那、サナキはリコの頭部が失われていることに気がついて戦慄し、本能的に身を引いていた。
 目の前の死体から目を背けた視線の先、白い壁に飛び散った血痕が、一筋の流れのように長く伸びているのが見えた。その鮮やかな赤に、サナキはしばらく魅入ってしまう。はじめ、長くうねった川のように見えていたそれは、次第に、一匹の巨大な蛇の姿に、見えてくる――そして再び床の上のリコに視線を向けると、暗く淀んだ赤黒い澱のなかに投げ出された二本の脚が、蛇の頭のように蠢きながら、こちらを見つめている。

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