梗 概
死にたがりのサミィD
サミィD、おまえを忘れない。
栄養不足で長引いたおまえの少年期。骨ばかりの腕にやっとつきはじめた桜色の筋肉も、蛋白複合物で硬直していく。
おまえの微笑みを忘れない。
童顔が恥ずかしいって言ってたね。分厚いメガネで武装して、誰にも真似できないしかめ面を貼り付けて。ずっと見たかったおまえの笑顔。なのにこれが、最初で最後のいちどきりだなんて。
だから、おまえを忘れないよ。
死にたがりのサミィD
寂しがりやのサミィD
LSD, Lonely Sammy D
☆ ☆ ☆
目黒川沿いには、大麻とケシの美しい緑が広がっている。
五反田に本拠を構えるステラ製薬は、麻薬から副作用を取り除いたセーフドラッグの創薬で有名だ。創業者の孫息子、星埜ステラは、今日も五反田産直マリファナを吸い、幸福感で胸を満たしてステラ薬科学園への通学路を歩く。
ステラの回想。昨夜ふれあいK字橋で見たしかめ面の少年はLSDの幻覚だったのか? ドラッグで世界中幸福な時代にあんな顔は珍しい。友人とドラッグケーキをキメた後、父親の研究室で、彼はそのしかめ面―サミィDに再会する。彼は脳内セロトニン受容体の変質で、ドラッグが効かない抗麻薬体質の患者だった。
彼の治療を手伝うステラ。悲観的なサミィDを怖く感じながらも、次第に惹かれていく。福祉実習で高齢者にヘロインを打った帰り、反麻薬団体の青年、創太がサミィDを呼び止める。「こんな愚か者に救ってもらう? 君が一番憎む人種だろう?」意味を問うステラにサミィDは答える。
「それは、僕がひとごろしだからだ」
サミィDが以前作ったのは一種の「自殺機械」。ボタンを押すとコップに水が注がれ、1000分の1の確率で毒薬が混ざる。生に意味を感じられない、けれど死を決断するほどの苛烈さもない。そう感じていた彼は、自殺の意志を千に分割できる仕組みを作った。機械による死者が出ると彼は逮捕され、ステラ製薬での治療を命じられた。それでも彼は自殺を繰り返さずにはいられない。
ステラはサミィDを助けると誓う。ゲノム創薬技術を駆使し、脳シナプスへの接近を試みる。「おまえのレセプターというレセプターにおれのクスリをぶちまけて、発火させて興奮させてやる!」
創太が再び現れ二人に挑戦する。学園ドラッグパーティで、サミィDを自分の麻薬でトリップさせると約束するステラ。協力して創薬に打ち込む二人。パーティ当日、ステラは不安がるサミィDにキスをする。
パーティで創太とステラは激しく言い争う。快楽は人間を幸福にするのか? サミィDはステラの特製ドラッグに毒を混ぜた。「ステラ、きみが僕に死を決断する力をくれたんだ」ステラの腕の中で冷たくなっていくサミィDの微笑み。
☆ ☆ ☆
川沿いのベンチ、膝枕されていたサミィDが目を覚ます。「いい幻覚は見られた?」ステラがニヤつく。
「どうしても自殺しないといられないなら、おれがおまえの自殺機械になってやる」
朝焼けをバックに、サミィDは生まれて始めて幸福な笑顔を浮かべた。
文字数:1249
内容に関するアピール
「五反田BLドラッグSF」です。
「ただひとつ現実と異なる設定」は、「全ての麻薬が合法化されている」こと。五反田を歩いているとき、真っ青な空の下、清潔な白いシャツを着た中学生たちとすれ違い、「この子たちがみんなマリファナ吸って、ハッピーになってたとしたら素敵だろうなあ」と空想したのがアイディアの始まりです。
彼らは社会科見学の途中らしく、「……この建物はおよそ100年前に建てられたんですよ」という引率者の説明が聞こえてきました。見上げた先には星薬科大学。星新一の父で、「東洋の製薬王」と言われた星一が創設者。明治創業の星製薬は、日本で初めてモルヒネ、コカインの生成に成功。またメタンフェタミンすなわち覚醒剤を発見した長井博士もここで何度か講義をしています。麻薬と星新一という、五反田とSFをつなぐ要素を取り入れて、この舞台をより魅力的なものにできればと思います。
見どころとして、序盤では「麻薬のある日常」という奇妙な風景が描かれること。中盤では不器用な男の子二人が次第に仲良くなっていくボーイズラブの展開と、ドラッグや創薬に関する科学描写。終盤では「快楽と人間の幸福」というテーマに関する議論を用意して、それぞれ異なる種類の「センス・オブ・ワンダー」を演出します。
ドラッグSFを探すと『暗闇のスキャナー』など、ジャンキーや売人の登場するものが多いようです。それとは一風変わった、明るくときに切ないボーイ・ミーツ・ボーイを主軸にしたドラッグSF、という新しさが出せればと思います。
文字数:644
死にたがりのサミィD
1
サミィD、おまえのことを忘れない。
栄養不足で長引いたおまえの少年期。骨ばかりの腕に、ようやく盛り上がりはじめた桜色の筋肉も、蛋白複合物(アクトミオシン)で硬直していく。
おまえの微笑みを忘れない。
童顔が恥ずかしいって、よく言ってた。分厚いメガネで武装して、誰にも真似できないしかめ面、いつも貼り付けて。ずっと見たかったおまえの笑顔。それなのに、やっとおれに笑いかけてくれたのが、最初で最後のいちどきりだなんて。
死にたがりのサミィD。
しかめっつらのサミィD。
はじめて会ったときのことを忘れない。
おれはメスカリンをたっぷり400mgはキメていたから、秋の目黒川を完璧にコントロールしてた。
遊歩道に揺れる大麻草が素早く凝集して植物少女に代わり、その手が差し出す銀色のリモコンが大波を起こせば、海底人たちがサーフィンをはじめる。視界/世界は、まるでまーちゃん(おれの歳の離れた弟だ)がクレヨンで描いたみたいなメルヘン。けれどおまえはその中で、ゆらめく泡のバリアを張って、ひとりくっきりとしてた。
ただひとり、くっきりとしていたおまえを忘れない。
ふれあいK字橋の欄干にもたれて、じっと水面を見つめたまま動かない。おまえのことをまだ知らないおれが、おれのことをまだ知らないおまえに近づいていく。おれはここで世界を止めてしまってもいいな、と考える。それも本当に美しいかもしれないと。瞬間を永遠に焼き付けるような、そんなドラッグの複雑な化学構造を思い浮かべる。でも、やっぱりおれは今回もおまえに近づいて、この追憶をまた再生してしまう。
サミィD、おまえの横顔を忘れない。
おまえの表情で初めて「憂鬱」という言葉の意味を知った。セロトニン神経系が活性化しまくってるおれには 、最初おまえが絵画に見える。しかめ面なんて、反麻薬団体のニュースでしか見たことなかった。メディアの偏見かもしれないけど、そいつらの顔はいつも醜く映った。でもおまえを見て、美しいしかめ面もあるって知った。世界そのものに匹敵するような一枚の肖像画。
「ヘロインでもどう?」それがおれの憐れみ。「これからみんなも来るよ。一緒にさ? コカもペヨーテも新鮮だし、ケミがいいなら創薬機だってあるよ。ね、この柴犬のLSDかわいくない?」
「放っといてくれ」
こんなぶっきらぼうな返事するやついる?
冷たいサミィD。おれは涙をこらえ、おまえにうるさく話しかける。ポケットの中のドラッグをぜんぶ欄干に並べて。おれはじいさんの話までする。悲しんでる人がいたら、幸せにしてあげなくちゃいけない。それがうちの家訓なんだって。むきになってこんなことも言った。
「な、どうすればいい? おれにできること、なんだってしてやる」
「じゃあさ」思い返すと、おまえはこのとき弱さを見せたんだ。鼻水と涙に溺れかけてたおれは、気づく余裕がなかったけど。「僕のことを、忘れないでくれ」
だから、おまえを忘れないよ。
おまえがどれほど冷たくなってしまっても。
寂しがりやのサミィD。
ひとりぼっちのサミィD。
LSD, Lonely Sammy D.
2
東急線を降りると雨上がり。長いエスカレーターを下る途中、制服のポケットを探したけど、そうだ、切らしてたんだっけ。山手線の改札に回って、駅ビル前のマリファナ自販機へ。一番左のマシンが産直で良質だから、覚えとくといいよ。ほら、今日も先約がいる。でも様子が少し変だ。コインも入れずに、ボタンの間で指を迷わせてるおじさん。着古した服にボーボーの髭。どうしたの、ぼんやりして。What! Oh…You scared me…イヤ、スミマセン。あのね、わたし、移民、移民してきたばっかりで。そうなんだ。ファイブ、ほしいの? ファイブ……ごめんなさい、わかりません。ああ、ここで取れた最高級のマリファナのことをそう言うんだ。おれは自販機にプリペイド・カードを押し当てる。紙巻のファイブ、パッケから取り出し差し出して、おれも一本くわえる。最近はみんなケミばかりだけど、この香ばしさはこれじゃないと! おじさん、もっと欲しいならさ、あっち行ってごらんよ。目黒川沿いは美しい大麻の緑、ペヨーテやケシもあちこちに植えてある。一服。にっこり笑顔になったおじさんに、おれは説明をはじめる。五反田って地名はね、もともと五端田、五本指の手のひらみたいな大麻の葉っぱの形から来てるんだ。「ファイブ」ってのもそこから。五つ星って意味もあるけどね。日本にはケシも大麻も大昔からあったのに、あんまし使われてなかったし、明治まで中毒者もいなかった。でも、五端田村だけは、みんなマリファナ吸って、いつもハッピーだった。大麻が禁止されるようになると、明治政府はそれを隠そうとして漢字を変えちゃったんだ。……ああ、ごめん、漢字の話なんてわかんないよね。
あっちにさ、区民菜園ってのがあって、そこで作業すればファイブを少しもらえるよ。ね、おじさん、仕事は? まだ? 前は何してたの。化粧品の、ケミストリー関係? なあんだ、じゃあすぐ見つかるよ。菜園で一服したら、ワークプラザってところ、教えてもらいなよ。ね。面接になったら、これ飲むといいよ。頭すっきり、スマートになれるやつ。いいのいいの、遠慮しないで。おれ、ほら、天才だから必要ないし。
ありがとう! 満面の笑顔は、親切のおかげ? それともファイブの THC(テトラヒドロカンナビノール)が作用したから? どっちでも変わらない。二人で一緒に煙吐いてバイバイ。
時間取られてる間に、次の急行が駅に到着して、クラスメイトに見つかっちゃう。おはようステラ。今日もファイブなの? 自分はケミ創ってるのに? ステラ、どこ行くの? 学校こっちだよ。朝から認知的不協和(コグ)ってるの? おれはばーちゃん譲りの金髪のせいで目立つし、少し有名だったりもして、ひっきりなしに声をかけられる。おはよ。おまえこそ、五反田人ならファイブ吸えよ。ばーか、おれがコグるかよ。ちょっと寄り道だよ。
おれはふれあいK字橋までぶらつく。昨夜見たおまえのこと、幻覚だったんじゃないかって疑いながら。もしかして、おまえもさっきのおじさんみたいに移民で、まだドラッグに慣れてなかったとか? ……そんなわけないか。日本語しゃべってたし、おれと同い年くらいに見えた。もちろんおまえはもういない。考えても分からない、でも、気にかかる。ストレスになりそうなら、薄めちゃえばいいよね。スクールバッグの奥から「忘レナリン」のパッケージを引っ張り出し、開け閉め。でも、もう少しだけ覚えておこうかな。
どうせ1限遅刻だし、そのまま川沿いを散歩しよう。大崎方面に歩けば、高層マンションの列。市民ガーデンに揺れる背の高い大麻は、春にここらの子どもと種蒔きをしたものだ。ビルの1階にはそれぞれ薬局が入っていて、併設されたジムでは、じーちゃんやばーちゃんたちがトリップ・トレーニングに励んでる。恍惚の表情から、MDMA(エクスタシー)がガンギマってるのがすぐ分かる。運動するほど気持ちよくなれるんだから、みんな健康、医者いらず。ガーデン奥ではケシ坊主が膨らんで収穫を待っている。遅咲きのケシの花が一輪、折れていたのを拾い上げて胸に刺す。真っ白い制服には派手な赤一点。
いいかげん学校に向かおうと歩き出すと、山手通りの入り口で、ケシに負けない真っ赤なオープンカーが止まった。
「ボッコちゃんか」
「その呼び方、やめて」
薬学英語を教える月美先生は、超大型新薬(ブロックバスター)である「ボッコ」のコマーシャルを引き受けたばっかりにそんなあだ名がついた。新入生なんか、本名知らなかったりして。
「ステラ、今から学校? 重役出勤ってやつだね」
「重役? おれ、確かに特別研究員だけど、偉くないよ?」
「……大幅に遅刻することを皮肉で言うのよ。最近は使わないのか」
「ジェネレーションギャップだね」
「やめて。私、まだ若いのよ。そんなこと言うと乗せてってあげないよ」
ボッコちゃん……月美さんとは長い付き合い。彼女はもともと親父の生徒で、院生時代は秘書みたいなこともしてた。忙しい両親の代わりに、おれの面倒もよくみてくれたから、今でも頭が上がんない。本人もオープンにしてるけど、ずっと親父に憧れてて、何度か誘惑しようともした。未だに強い性衝動を持ってる珍しい人。
おれを乗せて車は走り出す。オートドライブなんて、月美さんらしくないな。ドラッグは確かに人々を幸せにしたけど、残念ながら交通事故の件数増加も引き起こした。責任を感じた各製薬会社の超高額な投資(ドーピング)によって、自動運転技術は急速に現実化した。それを観てた高校生(当時)の月美さんのコメント:「自動運転はクソ」
「だって私、カッコいい女性に憧れてたから。高い車を颯爽と乗り回して、仕事バリバリして」
「だいぶ古いイメージじゃない、それ?」
「まあ、ステラのお母さんの影響かもね」
母さんはわが社の外交担当で、世界中の支社を飛び回っている。
「ねえ、なんか変な道通ってない?」
大通りを避けてやたらと迂回するナビ。ああ、なるほど。TOCビルの前で反麻薬団体(ハンマ)がデモしてるからだ。TOCこと東京オピオイドセンターは日本最大のドラッグの流通施設で、ここから世界中に新薬が配送されていく。ビル内には主要製薬会社の事務所が軒を揃え、おれもたまに用事で来ることがある。ドラッグ関係者の集まる場所だから、こんなふうにデモの標的にもなる。『ドラッグの依存性は隠蔽されている!』『国連麻薬法の矛盾』『青少年を堕落させる悪魔の薬』プラカードの文字にいちいち反論して回りたい。そんなのは、じーさんの時代にもう解決してるって。
「ひまなんでしょ。みんな幸福になってしまって、戦う相手がいないんだもの」
ビルの駐車場から、トラックが出て来て横に並んだ。
「私が『ボッコちゃん』なら、ステラは『セキストラ』って呼ばれなきゃおかしいよね」
トラックの側面にはおれのでっかいキメ顔。ちょっと前に開発した新薬「セキストラ―R」の広告写真だ。
「ボーナス出るんじゃない?」
「おれは別にそんな……ただ、ドラッグでみんなを幸せにしたいだけっつうか」
「若いんだね、ステラ」
月美さんはふふっと笑った。何か言い返そうとする前に、彼女は胸ポケットから青い粉末状の薬を取り出し、口へと流し込む。
「月美さん、ケミ派だったっけ?」
「ステラが作った薬を試してあげてるのに」
セキストラ–R。効能はダウナー系の微弱な快楽と性欲減衰効果。別にこんなん飲まなくても、ケミ系ドラッグの快感はそのうち性欲を負かしてしまう。「恋は覚醒、愛はヘロ」なんてコピーが以前に流行したよな。恋をしている人間の脳で分泌されるフェニルエチルアミンは、覚醒剤のアンフェタミンと近い化学物質。これが愛情に変われば、分泌されるのはオピオイド。アヘン系のモルヒネやヘロインの主要成分だ。「恋愛はドラッグで置き換え可能」というメッセージは、もちろん愛し合う人々を駆逐なんてしなかったけど、一方で多くの報われない恋の救いにもなった。
「親父のことはもういいの? 『片思いしてるのも幸福』なんだ、って言ってなかったっけ?」
「そうじゃないときもあるの」
「じゃ、また恋したくなったら、別の薬を試すといいよ。おれがいいの創薬ってあげる……」
「ステラはそんなこと気にしなくていいんだよ。私、いま人生がとても充実してるもの」
「……おれは別に、月美さんが幸せなら」
分かるだろ? おれは小さいころから、この綺麗なお姉さんに憧れていたんだ。
「生意気だね、ステラ」
細長くてきれいな指でおでこをはじかれる。そんな仕草も古臭い。小学生の頃以来のデコピンで、いつも手入れをしていた爪が短くなってるのに気づいた。胸の赤いケシを月美さんに差し出す。それを髪に飾った彼女は、まるで性的なところのない、健康的で、幼くさえ見える笑顔を浮かべる。私、まだ若いのよ。駐車場に向かうオープンカーを見送って、おれもセキストラ-Rを引っ張り出した。
ステラ薬科学園。五反田南西に広がる、ステラ薬科大学キャンパスの一角にある中・高等部。母体はステラ製薬。ばーちゃんが取締役、大叔父さんが社長、親父が研究開発部部長、そして星埜星(ステラ)、すなわち御曹司であるおれは、学校のあらゆるところにある「ステラ」の文字に落ち着かない。1限がちょうど終わり、休み時間に教室に滑り込む。「ボッコちゃんと何話してた?」やっぱ見られてたか。ナチュ派の女子たちが向けるふくれっ面。ふとフラッシュバックするのは、昨夜見たおまえの、「世界全部めんどくさい」とでも言いたげな、心から嫌そうな顔。違うんだよな。彼女たちの嫉妬フェイスなんか、コカインワンショットで吹き飛ばせる。ケミ派の子たちはそもそも葛藤ゼロで幸せそうだ。セキストラもよろしくね。
チャイムが鳴って教師が姿を見せる。授業用のスマート・ドラッグは……っと、そうだ、今朝移民のおじさんにあげちゃったんだ。「天才」とか言ったけど、やっぱ素面(ソバー)で授業もだるいかな。手を上げて購買に向かう。集中力・記憶力が数倍にもなる学習向上薬の効果は素晴らしく、さっきまでかまってきたクラスメイトの誰一人として立ち上がるおれに気づきもしない。
「ステラ、今日は研究無いの?」
学園に通いながら、おれはステラ製薬の特別研究員なんてこともやっている。
「親父が昨日からいないんだよね。新薬の準備検査とかで」
「お、じゃあ久々に遊び(トリップ)行こう?」
ここのところ新薬開発にかかりっきりで、みんなと遊びに行ってなかったな。声をかけるとクラスの半分くらいが集まる。人徳? それともコネ目当て? いやいや、みんな暇してるから。
「とりあえず、ベルンコーヒー行こうか」
日本で『コーヒーハウス』と言えば、調合ドラッグを楽しむ場所だ。駅前のベルンはスイスの製薬会社の直営で、開発ホヤホヤの新薬を試せる人気店。
「でもさぁ、ライバル企業の御曹司が来て、店の人、内心面倒に思ったりしないのかな?」
余計な心配いらないぜ。
「実は店長と友達でさ」
「そうなの!?」
「確かぁ、去年のケシの収穫祭で知り合ったんだよねぇ?」
「そうそう、一緒に米国生薬品(スタバ)偵察しに行ったりもしたよ」
これもドラッグが結んだ絆。薬物が人を孤独にした時代はもう過去だ。
「ケーキ来たよ! って、なにこれ、すごーい!」
「いつも通りの過剰サービスだな」
カラフルでデラックスなドラッグ・ケーキ。ケミカル入りの星型のカプセルがチョコレートの夜空に浮かんでる。背伸びして厨房を見ると、立派な口ひげの店長にウインクされた。
「ダンディすぎる」
「あれで薬学博士なんだぜ」
「食べ(キメ)るのちょっと待って! インスタ乗せるから!」
「おいし~!」
「スイーツ分野は負けるなぁ」
「ステラ製薬のドラッグ和菓子部門どうなったの?」
「あー、ほぼ撤退…」
「ねえねえ、そういえばユッキーね、ミドリコに告白して」
「ミドリコってコンピュータ創薬(in silico)コースの? バリバリのケミでしょ、それじゃあ」
「当然、『ごめんなサイケデリック』渡されたって」
その冗談みたいな商品名は、怖ろしいことにステラ製薬の主流商品で若者に大人気だ。おれも開発チームの一員だったけど、ネーミングには関わってないから責めないでくれ。失恋の傷手をラブラブな幻覚で上書きする、という触れ込みのシロシビン系ホットサイケ。「あなたの気持ちには応えられないけど、元気だしてね?(そしてさっさと諦めてね)」との思いを込め、フッた側から渡されて、飲めば理想の相手を幻視できる。昨年夏の発売以降、ストーカー犯罪が激減したとか。
「ステラ、最近は何を創薬ってたの?」
「おい、流石に敵陣でその話はまずくない?」
「別に大丈夫だよ、もう情報出てるし」
おれ、というより親父の主導で開発していた新ドラッグは「ショートショート」と呼ばれる幻覚剤(サイケデリック)だ。『ごめんなサイケ』は、方向付けられた(つまり性的欲望対象とのイチャイチャ)幻覚を喚起するものだったけど、「ショートショート」では、より具体的なストーリーを体験させる。
これは『薬を捨てよ、町へ出よう』なる本まで執筆してる親父の長年の夢。曰く、幻覚剤で観ることのできるヴィジョンは結局本人の経験に依存する。よいトリップを得るためには様々な教養が必要である。しかしドラッグネイティブたちはそれが分からず、神経の刺激だけで満足している。ならば、ドラッグ体験の中に文学を! 芸術を! ……という強引な試みだった。
「わー悪が遠ざかってく! くくく善くくくつまり善は模様、パタン、可塑的な立体かあ」「この機械は生きている上に地球上の生物を遥かに超えた群体的な存在なんですね」「はだかだからきみのはだかたからだからすはだたがいちがいからからにひからびたからっぽのからだ」「なぜ私が青と緑で描くか、なぜ牝牛の腹の中に子牛がいるのか、そんなことを聞かないでください!」
「別に、神経の刺激だけで、十分な幸せそうな気もするけれどね」「そうかもね」
夜。家に戻ったおれは「忘レナリン」を飲んだ。
サミィD。おまえの顔を忘れるために。
翌日。すっきりとした気持ちで目覚めたおれは、K字橋に寄ることもなく、時間通りに学校に着いた。席についた途端、親父に呼び出され、ホームルームを待たずにクラスを抜け出す。いつものことだから、みんなも「頑張れよ」なんて応援してくれる。「今日からこのクラスに加わる転校生を―」そんな声が背中から聞こえたけど、おれは研究室に向かって速度を上げた。
親父はおれの顔を見た途端、CD-ROMを投げつけてくる。Blu-rayでもDVDでもなくCD。人間のDNAはおおよそ31億の塩基対、ATGCの並びは1バイトで4つ表現可能。31億を4で割った775MBは、CD-ROMにすっぽり入る情報量だ。親父は学生時代にこの偶然を知り感動して以来、今に至るまで時代遅れのメディアを使い続けてる。
親父の方針はこうだ。とにかく説明無しでチャレンジさせて、ほかの研究者が見当違いの方向に進むのを楽しむ。単に面白がってるんならぶち殺すとこだけど、創薬はセレンディピティ、予想外の偶然から発展してきた歴史があって、大暴投みたいなアイディアが結局突破口になったりもする。でもやっぱりムカつくわけで、研究室にはダウナー系ドラッグの備蓄は欠かせない。おれも早速ファイブに火をつけ、果てしないデータ解析に取り組んだ。
スマートドラッグで覚醒しまくれば、文字通りの「あっという間」に時間はすぎる。コンピュータ解析の苦手なおれにも、このDNA群の共通点は分かってきた。レポートをまとめ始めたところで、ドアのチャイムが鳴った。
「ステラ、出てくれ」親父に促されてドアを開ける。
おまえがそこにいた。
サミィD。二度目の出会いも忘れない。最初が偶然なら、今回は必然だった。おまえはあの時とまったく変わらないしかめ面。脇に抱えたノートPCを盾にして、おれから身を守るみたいに立ってた。
やせっぽっちのサミィD。
まっしろしろのサミィD。
おまえは白かった。ステラ薬科学園の制服は、確かに上下白だ。けれどおまえは、ネクタイ、スニーカー、バッグ、靴下、ノートPCに至るまで全部白かった。ちょっと病的に思えた。黒いのは細くてサラサラした髪と分厚いメガネのリム、どちらもおまえの色素の薄い瞳を隠す。
「よく来てくれたな。サミィ。こいつはおれの息子のステラ。ステラ、こちらは出羽サミィくん。ぶっちゃけた話、今回の被験体だな」
「いや、被験体って…もっとこう、ほら、治験協力者とか、別のがあるだろ」
「じゃあ、それで」相変わらず大雑把な親父だ。「で、ステラ、宿題の答えはわかったのか?」
「ああ」
DNAデータ入りのCDをひらひら、蛍光灯の反射光を親父の顔にあてて嫌がらせをする。
「これらのデータでは、有効成分の脳へのバイオアベイラビリティが限りなく低くなった。BBBがむちゃくちゃ固いとか、神経物質の受容体がユニークだったり、代謝機能の異常値でDDSが無効化されるとか。簡単にいえば、どんなドラッグも、効力が弱いか、ほとんど効かない」
親父のニヤケ面から、それが正解だと分かる。謎が解けた。おまえの、世界に向かって「みんな嫌いだ」と叫ぶような、絶え間ない吐き気を我慢してるようなその顔は、ドラッグという幸福のチケットをもらい損ねたことが原因だったんだ。
まだメタンフェタミンが効いていたから、時間分解能が上がったおれの目が、おまえのかすかな震えを認識する。そのときはじめて、おまえを身近に感じることができた。
自分でも気づかないほど、かすかに震えていたおまえを忘れない。
サミィD、止まってしまわないで。もういちど、震えてくれ。
3
サミィD、おまえにはどんなドラッグも効果がない。セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリン。三大神経伝達物質の濃度はフラットのまま、BBB(血液脳関門)はほとんど意志を持っているかのように麻薬物質をシャットアウトしてくるし、DDS(ボート)に乗せてようやく運び込んだ僅かなアゴニストもアンタゴニストもレセプターからそっぽを向かれてしまう。
治験協力者はサミィDだけじゃなかった。日本にも、もちろん世界にも、麻薬抵抗のある人はたくさんいる。ストレス薬やスマートドラッグの恩恵を受けられない人々の立場は、薬学が進歩するほどに不利になり、障害者の認定をすべきかが政治的議論となっていた。先天的か後天的か、遺伝子異常あるいは耐性獲得や生活習慣によるものか、集められたのは様々な抗麻薬体質の20人。高齢者から小学生までバラエティに富んだ面々。まずは片っ端から効きそうな既存薬と、製品化していないバリエーション薬でデータを取っていく。「健常な」人々の臨床データは十分あるため、ステラ製薬のナノコンによるシミュレート臨床が可能だが、麻薬抵抗のある人々のデータはまだ少ない。並行して別チームが信頼性のあるデータを世界中から集めて精査していった。
おれの役割? 「被検体21号」さ。比較実験のため、みんなと同じ薬を投与される。毎回一人でぶっ飛んで、満面の笑顔のままで号泣したり、ひたすらクスクス笑い続けたり、饒舌に幾何学模様の幻覚についてしゃべり倒したりして、他の協力者の笑いをかっていた。
周りがみんな素面(ソバー)な中で自分だけがハイになるってのはとても恥ずかしかった。ここにいるみんなは、そしておまえも、いつもそんな疎外感を感じていたんだろうか。
効きそうな薬が見つかったら、「銀の乙女のボート」(シルバー・ガール)のチューニングへと移る。これこそが、麻薬を禁断症状と依存症から解放し、ステラ製薬の名前を世界へ知らしめたテクノロジーだ。それは主にナノテクを利用したDDS(ドラッグ・デリバリー・システム)。必要な部分に必要な分量のみの薬品をデリバリーする。そもそも薬の副作用というのは、消化器官や肝臓の代謝によって、薬物が本来の目的地とは異なる部分に吸収されてしまった結果起こるものだ。例えば抗がん剤の強烈な副作用は、それがターゲット以外の善良な細胞を攻撃してしまうことで起きる。
ステラ製薬の「ボート」は7槽ある。それはテクノロジーというよりも、工夫を凝らしたからくり人形に近い。例えばあるDDSは、ミクロサイズの矢のような形状をしている。光を当てることで発生するイオン流が、薬品の方向と速度を決定する。つまり、外側から身体に光を当てれば、好きな部位に薬品を導ける。専門的知識に限らず奇抜なアイディアが鍵になることもあって、例えば「ボート」のうち3つはSF作家やプログラマーといった非薬学者の発明によるものだ。
人間の身体ってのはうまくできていて、異物を簡単に寄せ付けない、何重にも守りを固めた要塞みたいなものだ。水溶性がなければ有効成分を身体の隅々まで運べないが、油溶性が足りなければ今度は細胞の中に入れない。麻薬だけでなく、医薬品の進歩は人体に仕掛けられた防御機構をいかに騙すかの歴史だった。じーちゃんも親父も、この銀の乙女を、人体のより奥深くへ送り込む詐術に生涯をかけてきたのだった。
不思議だった。幻覚薬(サイケデリック)で三千三百三十三色に光り輝く世界の中でも、ダウナーで幽体離脱状態になってるときも、やっぱりおまえは、おれの視界のなかでずっとくっきりしているんだ。
「ステラ」おまえがおれを初めて呼んだときのことを忘れない。「きみ、あのときのこと、覚えているんだろう?」
おれはぎくりとした。その記憶を忘れようとした、とは言えなかった。実際に印象は薄くなってて、他人事みたいだった。そのとき、おまえへの負い目ができた。
「……来週は社会福祉実習です」眠たい頭がどうにかその情報だけはキャッチした。薬飲んでるばかりじゃなくて、データ整理とかもしてて忙しいんだよ。「安全無針式ですが注射器も使用します。事前に実習を受けてから参加すること」
「ねえサミィD、わたしたちの班に入りなよ」
おまえは頷いたかなんなのか分からない感じで、それでも輪の中に加わる。おまえは転校翌日にはサミィDって呼ばれるようになってた。「サミィ」だけだとちょっと女の子っぽく聞こえる、そんな理由で。
以前はおまえの暗い顔を「薄気味悪い」なんて言うやつもいたらしいけど、ここでは違う。たっぷりのドラッグでたっぷりの幸福。手に持ちきれないハッピーは身近な誰かに分け与えたくなるものらしい。クスリが効かない体質だとわかり、クラスメイト連中は古典的な手段に頼った。おまえの机は、カバンは、ロッカーは、贈られたリラックスグッズで溢れた。アロマオイルにホットアイマスク、マッサージグッズにドリームキャッチャー、トリップ・キャットのぬいぐるみまで。恍惚の笑みを浮かべる猫のぬいぐるみを抱いた、不機嫌そうなおまえの顔はみんなの笑いを誘った。実はそんなに嫌がってなかっただろ? そこがおまえの弱さで、同時におれの愛する人間らしさでもあった。おまえは世界に絶望しているようで、絶望しきれないでいた。だから、おまえを忘れない。おまえが捨てきれなかった希望のために。
もしかしたら。おまえはただ、ぼんやりとしてただけかもしれない。この頃、おまえの意識は毎日、少しづつ、薄く、弱く、鈍くなり続けていた。おまえにはある儀式が必要だった。おれこそが、そいつを邪魔した張本人だったなんて、幻覚(ゆめ)にも見なかった。反対に、おれの視界に入るおまえは、どんどんくっきりしていった。教室でのおまえの席は、おれの左斜め前。気付かれないように横顔を眺められる絶好の角度。だからおれは見続けてしまう。スマート・ドラッグの与えてくれる集中力を、その輪郭の観察に費やしてしまう。
ときどき、頭の中がかゆくなるように感じた。「それは苛立ちですね」診断AIが答える。ああ、これがそうなんだぁ。前にイライラを鎮める薬を開発してたくせに、その感情を知りもしなかったんだな。それなら今度はもっと上手に創れるな! ――そんなふうにして、なんでも良い方に解釈するのがおれたちのくせだ。ドラッグの翼が生えているから。
でも、おまえは違う。
金曜日、おれたちは目黒川の北側、池田山の高級住宅街まで登っていって、お金持ちのじーさまばーさまにステラ製薬特製のDDSヘロインを打って回る。導入用のドラッグムービーとミュージックも準備して、最高のトリップを味わってもらう。麻薬に抵抗感を持つ人もいる世代だから、クスリのメカニズムもしっかり説明できるようにしてく。
「戦前の世代って、麻薬を生(ロウ)で使ってたんでしょ。毒飲むようなもんだよな」
ステラ製薬の基盤は今を遡ること百年前、明治時代に医療用のモルヒネを日本で初めて生成したことで築かれた。創業者である星埜星一、つまりおれのじーちゃんは清廉潔白な人で、色々と損をしたみたいだけど、出稼ぎ先のアメリカで出会ったばーちゃんの周到さがビジネスを支えた。地元福島で議員に立候補したじーちゃんは政府の圧力を除け、ステラ製薬を「東洋の薬品庫」と呼ばれる大企業へと成長させた。戦中には日本発の麻薬である覚醒剤(ヒロポン)を開発。そして戦後はセーフドラッグの創生に邁進した。南米の天然幻覚剤アヤワスカの研究、ナノテク以前のDDSの利用、ステラ薬科大学の拡充……まだ大学生だった親父も協力して完成させた「ゼロ麻薬」シリーズが広まり、社会から粗製麻薬は一掃される。そりゃそうだ、より安く、より少ない量で、より安全に、より気持ちよくなれる麻薬が売り出されたんだ。じーちゃんが亡くなったのは薬の副作用ではなく、資金源を奪われた暴力団の凶弾だった。その死を悼むドラッグパーティが世界中で行われ、麻薬の安全な使用と供給に関する法律が猛スピードで可決した。やがて、アメリカへ、ヨーロッパへ、アジアへもセーフドラッグは広まっていき、日本と同様に裏社会へと打撃を与えてきた。
「池田山(ここ)らへんに住んでるのは、ステラ製薬初期の社員や株主だった人ばかりだから、その辺りの事情をみんな良く知ってんだよ。下手にクスリのメカニズムの話なんかすると、逆に説教されるからな」
おれがいろいろ説明してやってるのに、おまえはうわの空だった。麻薬は現実とは異なる別世界への扉。けれどおまえにとっては異星の出来事も同じだ。人々の住む素晴らしいドラッグ世界から「仲間はずれ」にされた「かわいそう」な存在――アルカロイドでできた幸福の羽を持つおれたちは、そうやっておまえを憐れんでいたんだ。おまえのしかめ面は、その苦しみを堪えるものだって。
けれどおまえもまた、おれたちの知らない一つの世界を持っていたんだ。
死の世界。
「生きててヨカッター!」「生きてて良かったですか?」「ああ、生きてて良かったなぁ!」「良かったですね」「ああ!」「あぁ、生きてて良かったわ!」「生きてて良かったんですね」「はい、生きてて良かったわ」「良かったですね」「ええ!」「生き!てて!良かったあああ!」「良かったですね」「ああああ!」「良かったですね」「はい!」「良かったですね」
集中薬も使ってないくせに、サミィDは高圧無針注射筒を正確にじーさまばーさまの頸静脈に突き立てていく。「生きててよかったー!」と咆哮するじーさまに、「生きてて良かったんですね?」と無表情で聞き返すおまえの姿はシュールで、おれは最初笑ってしまい、それから少し怖くなった。
1番人気はなによりヘロイン、50年代生まれにはダウナー、40年代生まれにはサイケデリック、それより前にはメスが人気。「アヤワスカ試してみましょうか」というチャレンジャーもいる。
「なー、ステラー」友人のひとりが小声で話しかけてきた。「ん?」「ここのじーさま達ってさ、最高クラス(ファイブ)の金持ちだろ? ドラッグだって、好きなのやり放題だよな? なんでわざわざ俺らに注射打ってもらう必要あんの?」「大事なのはクスリじゃなくてパーティの方だから」
麻薬解放の影響は思わぬところに波及した。ぶっちゃけた話、みんなセックスより麻薬の方が気持ちいー、と知ってしまい、家族はばらばら、恋人いらない、日本の家族制度、さよなら、という結果が訪れた。ステラ製薬は早いうちからこの辺への問題意識があったっぽくて、ホームページの目立つところにこんなことが書いてある。
「麻薬はかつて人を孤独にしました。新しい世代の麻薬で、私たちは人を結びつけます」
「家族」の焼け跡から新しいつながりが現れた。ドラッグ共同体は性による規範が弱いのが特徴で、同性パートナーはもちろん、多人数婚とか、血のつながりのない契約的家族も珍しくない。
「その昔」ドラッグの作る共同体について語るとき決まって引用される話がある。「ドラッグというのは共同体内の儀礼に用いられてきた。大麻、ペヨーテ、テオナナカトルにアヤワスカ。それははじめから”みんな”のためのものだった」
「寒い」「寒いねえ」「こっちへおいで」「もっとこっちへ」「近く」気がつけば、トリップの終わりに近づいた人々が、ヤマアラシのように丸くなり目を閉じ身を寄せ合っている。サミィD、おまえは彼らを無表情で見下ろしていた。誰も寄せ付けないような、おまえのその横顔を忘れない。
五反田駅北口のロータリーで反麻薬団体(ハンマ)に出くわす。ボロくてヘッドライトの枠がとれかけたバンの側面には、「麻薬は人を破滅させる」「ダメ。ゼッタイ。」「Just Say NO」「薬物止めますか? 人間辞めますか?」などのコピーが極太ゴシックでスプレーされている。製薬会社の白衣に対抗した黒づくめの服装。「あいつら、この間学校の中まで入ってきてたよ」「なんだか怖いな」バンの上に据え付けられた演台で熱弁を振るう男。秋の寒さにもかかわらず汗をかいている。既に解決されたドラッグの臨床結果を、でっちあげだと片っ端から否定する。駅から出てきた人々は「嫌なものを見た」と安定剤のカプセルを取り出す。黒い男たちは「休め」の姿勢で並び、女たちが文字に埋め尽くされたビラを撒いている。反麻薬団体は保守主義や一夫一妻主義なんかとも結びつくのが普通だ。
「あいつら、なんであんなに必死なんだろうな?」
「怖いのさ。自分の信じている世界が崩れてしまうのが」
「もう行こうぜ」
とおれはみんなを促す。
「学校に戻って今日のレポートを書かなくちゃ」
「サミィくん!」
スピーカーからの鋭い声が、おれたちの足を止めた。車上の演台でマイクを握る黒服がこっちを見ている。2メートル半の高さからふわりとジャンプ。やっぱり黒いレザースニーカーがアスファルトを捉えた。一直線におれたちの元へ。そいつは背が高く、ハッとするような引き締まった筋肉をしていて(ハンマは筋トレ・ピルも使わないんよな?)、そして美形だった。おれたちの持つ醜いハンマのイメージとは大きなギャップがある。
「創太さん」とおまえは男の名前をつぶやく。おれはショックを受け身体の動きが止まる。知り合いなのか。こんなやつと。黒い男はなおも近づいてくる。おれは「やってやるZ」の錠剤を取り出し素早く飲み込む。半歩踏み出しおまえをかばって立つ。「おまえ」既に男は目の前まで近づいている。「なんなんだよ」
「ステラ製薬御曹司の星埜ステラか」
「だったらどうした?」
「そんな笑顔で凄まれてもな。スマイリー」
ドラッグユーザーへの古い差別語。おれたちは365日ドラッグの快感でぶっ飛んでるせいか、笑顔が顔に張り付いちまって、泣いたり怒ったりの表情が出にくいらしい。いまではそっちの方がマジョリティだから、既に死語になっている。
「サミィくん。見ただろう? 五反田人とは生ける屍体のことだ。意味と意義を剥ぎ取られ、刺激にのみ条件付け(オペラント)されたネズミに過ぎない。その箱は君の居るべき場所か? 違う! サミィくん、君自身が最も痛烈に認識しているはずだ。私たちが語った記憶は薄れてしまったのか? カミュはこう問いかける。ある命が生きるに値するものでなかったとして、生き続けるべきや? ――ノン! 断じてノンだ! 麻薬は奪う、人間の苦しみを、怒りを、悲しみを、それはすなわち、生の意味を奪うということだ!」
「カミュがなんだかしらないけど、おれのじーちゃんはこう言ってたぜ! 人間は誰しも幸福になるために生まれてきたって、悲しんでる人がいたら、てめえがいって幸せにしてやんなきゃいけないって!」
「サミィくん、こんな愚か者に救ってもらおうというのか? 君が一番憎んでいる人種だろう!」
「どういう意味だよ!」
「貴様は」黒服のリーダー―創太はそこで、ようやくおれを見た。「サミィくんのことを何も知らない。知ろうともしない。快楽主義で、個人主義の、ヤク中だからだ。貴様にはかれは救えない」
ドンッ。胸をひと押しされおれはよろけた。力強い腕。「サミィくん、私はきみが欲しい。きみの能力だけではない、きみのその魂を。いつでも私たちのもとに来るといい」創太はそう言い捨てて歩み去る。やつらの黒い車が五反田駅のロータリーを出て、桜田通りに消えていった後も、おれたちは呆然と動けないまま。おまえはひとりでそっと、その場を去ろうとしてた。
「待てよ」おれは呼び止める「さっきの、どういうことなんだ?」声は震えてた。おれも、おまえも。
「五反田に来たのは、ステラ製薬の治療だけが目的じゃない。前いた場所に居られなくなったからだ。その理由は――」
おまえは背を向けたままで答える。
「僕が、ひとごろしだからだ」
4
翌日はなかなかベッドから起き上がれなかった。枕元にあるぬいぐるみに手を伸ばし、背中のチャックを開け、秘蔵のドラッグを取り出す。小学生のとき初めて開発した星型の飴には、ほんの僅かな向精神作用。研究室に遅刻したおれを、おまえはいつもと変わらないしかめ面で迎えた。何もなかったみたいに。
「さて、今日も楽しく臨床試験をはじめますか!」
脳天気な親父の声が鬱陶しかった。
飴をもう一つ。
冬を迎え、研究室の抗麻薬体質の患者は次第に少なくなっていった。最初にいた20人のうち、多くは既存薬のアレンジで十分な効果が得られた。その他の人々にも、何らかの治療法か代替薬が発見され、それを元にコンピュータ臨床の段階へ移っていった。それぞれの担当薬剤師が決まり、患者はおれたちの手を離れていく。けれど、サミィDだけは別だった。神経伝達物質の受容体(レセプター)それ自体が、奇妙に変質した状態で固着してしまっている。それでもおれたちは探し続けた。あらゆるドラッグ、向精神薬を、おまえと比較対象のおれに投与し続ける。ときには未認可の強烈(ドープ)なやつもあり、おれは自分の額の周りに光輪が発生して身体が浮き上がり、1秒間に60回の電撃で快感のパルスを与えられるような体験に失禁した。(もちろんトリップおむつは装着済だ)おれがどれだけハイになっていても、おまえは眉一つ動かさない。10回に1回くらい、少し顔が赤くなる程度だ。強烈な多幸感(ラッシュ)で床にくったり倒れたおれの視界の端、おまえがメガネ越しにこっちを見ている。
「ステラ? きみ、だいじょうぶかい?」
思い切りぶっ飛んだとき、おまえはミネラルウォーターを差し出してくれたよな。素面(ソバー)でいるおまえにトンでるのを見られるのは恥ずかしかった。なぜか、人がたくさんいた以前よりももっと。
「そういえばおまえさ、今日はやけに荷物が多いよな。旅行でも行くの?」
「あれ、言ってなかったか? 今日からサミィはうちに住むぞ」
親父の言葉に、トリップで充血したおれの目がまんまるになる。口もぽかんと開く。おまえはすました顔してたけど、実はおれの間抜け顔をちょっと可笑しく感じてた。もちろん親父はそういうタイプの冗談は言わない。研究室を出ると、月美さんがやっぱり赤のワゴン車を回していて、サミィDの荷物を詰め込んだ。
「簡単な話だよ。他の患者がいなくなったせいで、一緒に宿舎を追い出されたんだ。改めてマンション借りると予算に足が出るしな」
研究開発部部長のくせに世知辛いな。
「あと、おまえと同じような生活してれば比較にも好影響だしな」
創薬狂いの親父らしい意見。
「家賃代わりに、まーの子守と家事もやってくれるって言うし」
これが本音だ。間違いない。おまえを案内する先は、出張続きでほぼ使われてない母さんの部屋。
「変なことになったな」
「ごめん」
おまえは珍しくうなだれてた。
「なんであやまんの?」
「嫌じゃないの? 僕と一緒に住むなんて」
「別に? いいんじゃね? 弟(まー)の面倒見てくれんならおれも助かるし」
「けど……」
「ん」
「いや、きみがそう言うなら」
おまえはきっと、この前のことを言おうとしてたんだ。ひとごろし。でもおれは、それならそれでもいいかな、ってのんきなもんだった。
初めておまえが作ってくれた晩飯が、自分じゃトベないマジック・マッシュルームのまぜご飯だったから、おれはちょっと笑ってしまう。恍惚となってるまーちゃんを風呂に入れ、身体を拭いて寝かしつけ、宿舎からパクってきた無印良品のパジャマを着たおまえがおれを呼びに来る。
「お風呂あいたよ?」
家族かよ。いや、家族なのかもしれないけど。なんか、昨日までと全然違って、変な感じだ。でも不思議と嫌な気はしなかった。ハイになってたからじゃない。サミィD、いつからだろう。おまえがそばにいると、とても落ち着くようになったのは。まるで最高級のモロッコ産ハシシをキメたときみたいに。
「浜辺?」
おれの部屋を見たおまえは、いつものしかめ面のまま首をかしげる。
「どういうこと?」
「だって、ヒトデがたくさんいる」
部屋に散らばるかわいいぬいぐるみを見て、そんなことを言う。
「ばか、これは星に決まってるだろ。なあ、ステラって、イタリア語で星って意味なんだぜ?」
「やっぱりヒトデだ」
「人の話聞いてる?」
「だってほらここ、吸盤あるし」
「これは模様だってば」
「マジ、絶対ヒトデだよ。星はこんなに細長くない」
「おまえって、『マジ』とかいうキャラだったんだな」
意外な一面発見。
「ワイファイのパスワード教えて?」
話を聞け。
おまえはぬいぐるみを複数角度から撮影すると、ノートPCで編集・加工して類似画像検索にかけた。すぐにヒットする。流浪宇宙ヒトデマン人形。ほらね? って得意そうな顔。だんだんおまえの無表情の中に感情を読み取れるようになってきた。
「おまえ、コンピュータ得意なのな」
「こんなの、得意のうちに入らない」
「コンピュータ創薬(in silico)は?」
「あれはマシンの処理能力がものをいうから、僕には無理だ。スパコンでもないと計算に数年かかる」
「擬似量子コンピュータ(ナノコン)なら?」
「そんなの使ったことないけど、理論的にはスパコン以上に…ってステラ、おい、なんだよ?」
おれはおまえを、自室に続く小部屋に引っ張り込む。
「やめろよ……痛いってば」
戸惑うおまえを無理やりにコンソールの前に座らせる。宇宙船のコックピットみたいなおれの作業部屋。カラフルなインジケーターがゆらぎ、7面あるモニターには数列、数列、文字列、数列、ときどきDNAのATGC、それから電子人体のシミュレーションデータ。
「ここのスニップのバリエーションデータなんだけど、どんな値を代入してもエラーが出る」
おまえはおれが指し示すデータをじっと見つめる。あ、あのときのしかめ面、とおれは思う。眉間によったハの字のシワ。分厚いメガネのおくの瞳がぎゅっとすぼめられる。集中薬(アンフェタミン)を一気食いしたときみたいだ。おまえはおっかなびっくり、コンソールに触れていく。
「こいつから、ステラ製薬のナノコンのリソースを使えるんだ」
おまえはすでに聞こえていない様子で、キーボードを猛烈な勢いでたたき出す。
「DNAマイクロアレイ解析の精度が低すぎるんだ……電子人体の平均年齢を下げて、コンタミのシミュレーション値も下げないと……」
「なあ、サミィD」
「元データは……これか。RNAサンプルを2桁増やしてもう一度――」
「サミィDってば」
肩をつかんでゆするとようやくこっちを向いてくれた。狭い作業部屋だから顔が思い切り近づく。風呂あがりのおまえの髪から、母さんの使っていたケシ花シャンプーの香りがする。不機嫌そうなおまえの顔を忘れない。ここんとこ、おまえの知らなかった側面をいろいろ見せられて目が回りそうだった。おまえの透き通った瞳の奥におれが映っている。
「……ステラ、きみ、ちょっと汗臭いよ?」
長くつかりすぎたわけでもないのに。おれは風呂で少しのぼせてしまう。作業部屋に戻ると、おまえは一心不乱に作業していた。
「ほら、ここのスクリプトを繰り込み式にすれば、ずっとコードが単純になるし、スピードも上がる。ナノコンは普通のコンピュータと違って、入れ子構造(ネスティング)をどんなに深くしても処理速度が変わらないんだ。だからーー」
「おまえ、本当にコンピュータ得意なんだな」
そう言うと、おまえはわれに返ってバッと目をそらし、またあのしかめ面。
「たいしたことないよ」
「いや、おれからすれば神業」
おまえの顔が少し赤くなる。
「ていうかさ、これって何の創薬データ?」
おれは商品パッケージ画像を呼び出す。
『ニートリップV ―ニートだってトリップしたい!― 不安を吹き飛ばす極上アッパーサイケ』
おまえはそれを見てため息をついた。
「なんだよ、これ。バカバカしい」
「ニートの何が悪い!!!!!」
叫び声を聞き親父が飛んできた(うるせえよ! まーちゃん起きちまうだろ?)
こほん。おれは咳払いをして、安定薬(ソーマ)を1グラム、口に放り込む。この話題になるとついアツくなっちゃうんだよな。
「いいか、サミィD。ニートの割合は先進各国で2割を超えてる。『無職』ってくくりなら人口の半数以上がそうだし、これからもっともっと増える。けれどそれの何が悪い? 『労働せよ』という抑圧にどれほどの人が苦しめられてきたことか。どうして、無職が増えることを社会の成熟だと捉えられない? 無職の問題の9割までが、無職の人々に注がれる社会的まなざし由来なんだよ!」
こほん。親父がまた怒鳴り込んでくる前に、ソーマをもう一グラム追加だ。おれの剣幕に押されたのか、おまえはただコクコクと頷いてくれる。うん、分かってくれたんならいいんだ。この薬の開発は以前からのおれの夢だった。慢性的な不安状態にある人が幻覚薬(サイケデリック)を使うとバッド・トリップの危険がどうしても残る。そこでダウナー、アッパーを多層(ミルフィーユ)状にし、不安感を和らげてからゆっくり幻覚に誘導するという段階的な薬効プロセスを構築する。
「そんなわけで、サミィD、おまえの神業であと18パターンのシミュレーションを頼む」
「は? それ、何時間かかると思ってるんだよ。もう寝たいんだけど?」
「だいじょうぶ、覚醒剤(メタンフェタミン)を飲めば4日くらいは寝なくても余裕」
「僕にドラッグが効かないって忘れてないか?」
「カフェインなら効くんだろ? 濃いコーヒー入れてやるから」
「無茶言うな!」
「泊めてやって飯も出してるんだからそれくらいいいだろ? 働かざるもの食うべからず!」
「きみ、いまさっき言ったことと矛盾してるの分かってるか? それに食事を作ったのは僕だろ!?」
「才能があるやつがそれを使うのは義務だ!」
結局、一日に60分だけおまえが創薬プログラムを手伝うこと、その間おれが家事をやることで手を打った。おれはもう、おまえを特別な存在だなんて思わなくなっていた。みんなと変わらない友達の一人。いや、もしかしたら別の意味で、特別と思い始めていたかもしれない。
「ねえ、ステラ」
「何?」
「もし、僕の協力でこの薬が完成したなら、ひとつ頼みを聞いてほしい」
「ああ、なんでもいいぜ!」
どうしてあんなに簡単に頷いてしまったんだろう。おまえのそのひと言は、心の奥底から搾り出したものだったのに。
だから、おまえのことを忘れないよ。おまえの願いが遠く叶ってしまったとしても。
翌日から忙しい日常が幕を開けた。学園の期末試験が近づいてたし、放課後にはおまえの臨床試験、そして夜には「ニートリップ」の開発だ。おれがドラッグの構造やデザインを提案し、おまえがプログラムして、電子人体シミュレートにかける。
おれたちは最高のコンビだった。本来創薬というのは、莫大な開発時間と臨床試験を必要とするものだった。2000年代前半の新薬の登録数は、年間20程度。ステラ製薬だけでなく、全世界すべての製薬会社ががんばってその数だ。擬似量子コンピュータ(ナノコン)が登場して、全完結型コンピュータ創薬(in silico integrum)の分野が劇的に発展したことで、状況は大きく変わった。人体の60兆個の細胞と、その複雑な活動プロセスを、コンピュータの中で擬似的にシミュレートできるようになったからだ。精度は99.999%(スリーナイン)。データの中ならば、危険な薬品も躊躇なく試せるし、時間を早回しにすれば結果もすぐに出るので、長期的な影響も確認することができた。
おまえはナノコンの強烈な計算力を、プログラムの工夫でさらに効率化する。7000のバリエーション薬を、それぞれ異なる7000人に投与した場合のシミュレーションを一晩で済ませ、その中から最良のデータを選び出す。それを元に、おれはDDS(シルバー・ガール)をチューニングしなおす。
おれはDDS(薬物送達システム)のことを、どこかエロティックな比喩で考えていた。あるいはそれは、ケミドラッグに封じ込められてしまった性欲の代わりなのかもな。相手の服を少しづつ剥ぎ取りながら、身体の奥へ、奥へと進んでいく。副作用を起こさないよう、優しいタッチで、柔らかな卵の殻を剥くみたいに。
一方でおまえは、プログラマーらしくそれをシューティング・ゲームに例える。人体のバリアや抗体という敵をかいくぐり、有効成分のミサイルを患部に向けて正確に打ち込む。最初は不平をこぼしてたおまえだったけど、いつのまにか創薬の面白さに魅せられ燃えていた。サミィD。あのときおれたちは確かにひとつだった。狭い作業部屋で二人、コンソールに突っ伏して眠ってしまうこともあった。おれは覚醒(スピード)ジュース、おまえはエスプレッソを過剰摂取(オーバードーズ)ぎりぎりまでキメてガンバった。日々はトブように過ぎて、期末試験の最終日、おれたちは遂に「ニートリップ」を完成させたんだ。
5
「ほら」
「サンキュ……って冷たっ! この寒いのにコーラ?」
薬の完成でナチュラルハイとなったおれたちは、目黒川沿いを散歩して、ハンバーガーとコカイン・コーラで乾杯する。
「でも、まさか8つ目の<シルバー・ガール>まで見つけ出せるとは思わなかったよ」
ニートリップ開発の副産物。親父経由で既に会社には伝えてある。明日からはそっちの検証が忙しくなりそうだ。
「発見者が名前をつけられるんだよね? どうする? 四角いから、『キュービック』とか?」
サミィD、悪いけど、おまえにはセンスが欠けている。
「こういうのはどうだ? 『ラッキーなステラとサミィD』で、『LSD』ってのは」
「うっわ……きみにはネーミングセンスってのが少しもないんだな」
どっちもどっちってことか。
「……ステラ、約束を覚えてる?」
やっぱり来たか。
「わかってるって。何がいい? あ、高田馬場にうまいドラッグ・ラーメンがあるからさ、そこいかない?」
おまえがシリアスな顔を崩さないから、ふざけるのはここでやめとこう。
「きみが、どうして薬を作り始めたのか教えて欲しい。『ニートリップ』も、それから、僕を救おうとしてることも。今のこの社会で、どうして他人に対してそんな風に一生懸命になれるのかを」
そうさ、ドラッグぷかぷか吸って、いつでも気持ちよくなれて、そんなに頑張る必要なんてない。でも、ステラ薬科学園に通ってるやつらみたいに、みんなのためにめちゃくちゃ努力するやつらもいる。簡単なことさ、誰かに喜んでもらうこと、認めてもらうことだって、麻薬と同じくらい気持ちいいんだから。一種のドーパミン依存。麻薬が安全になったこの世界に残る、数少ない危険なドラッグのひとつ。
「おれさ、ボンボンだろ? ステラ製薬の御曹司。可愛がられて、創薬の天才とかって持ち上げられてさ、色々面倒なこともあったし、クスリキメてトンでるだけの方が楽しかったよ。それがさ、将棋の電王戦ってのを見て変わった。そう、将棋AI。人工知能が人間の棋士をどんどん負かしていくのがショックだった。それからアルファ碁ってのが出てきて、拡張知能(Watson)を知って、どっかの研究で、人工知能がいまに人間の職業をほとんど奪ってしまうってのを読んだ」
サミィDはいつものしかめ面でおれを見つめてる。そりゃ変に思うよな。どうしてこんなとこで人工知能が出て来るのか。
「そのうちロボットとかAIがなんでもできるようになったら、人間にやることがなくなっちゃうだろ? だからみんながもっともっと、楽しめるようにしなくちゃいけない。気持ちよくなれて、飽きたりしなくて、ああ、おれはこのために生まれてきた! って感動できるような、最高のドラッグを作りたいって思った。それにさ、誰よりおれがそれを味わいたかったんだ。呆れるだろ? でもそれがおれの初期衝動だ。変な理由ってのは分かってるんだけどさ」
サミィD、おまえはじっとだまって、目黒川の暗い水面をみつめてた。私服まで真っ白けなおまえは、アートヴィレッジ大崎の街灯に照らされて暗闇の中にぽっかり浮かんでた。寒くて口元まで引き上げたマフラーの合間から吐く息も、白。おれはどうしてもそうしたくなって、だしぬけにおまえの手を握った。細い腕の、どこにこんな力があったのか。おまえが強く握り返したあの握力を忘れない。
「僕も、同じなんだ!」おまえはまるで、強烈なアッパードラッグをキメたときみたいに、瞳孔広げて、乱れた息を必死に整えながら、少しづつ言葉を吐き出していく。「僕もあの電王戦を見た。人工知能が、あれが、人間の意味を奪ってしまう。心の底から感じたんだ。そうなれば、人間に価値なんて……」
「あいつが言ったみたいにか?」
「違う! 創太さんみたいには思わない! ステラ、きみはすごい。本当に…素晴らしい価値がある。あのおじいさんだって。生きてて良かった、って思えるのなら! ……価値が無いのは、僕だ」
「おまえは8つ目のボートを発見した。そいつはこれから世界中で、大勢の人を幸せにする」
「きみが見つけたんだ! 僕は分析しただけ、誰にでも、きっとすぐに自動プログラムでもできるようになる」
「たとえそうだとしても、おれ一人じゃ絶対に見つけられなかった」
おまえは小さく首をふる。
「僕は絶対に死ぬべきだ。でも臆病なんだ。死を実行に移せない。そんな苛烈さなんてない。だから作ったんだ。あの装置を。そうだ。銀色の球。サッカーボールよりも少し大きいくらいの。表面の溶接部はなるべく少なく。きれいに磨いて、つるんとしてる。チェーンの先にはマグカップ。セットしてボタンを押せば水がでる。ちゃんと冷えてるし結構おいしい。1024回に1度の割合で、毒が投入される。致死量のテトロドトキシン。無色無味無臭の改良型。
町外れの、取り壊し途中でほっとかれた団地。その端っこに置き去られてた電話ボックスの中に取り付けた。毎晩眠る前にそこへ行く。水を一杯。きみはいま僕が狂っていると考えてる! でも僕は救われてた。生きていても良いんだ。自分をようやく許すことができた。僕は役立たずだ。でもどうせすぐにいなくなる。今日か明日か、遅くとも数年で。そんなにひどい迷惑をかけることもなく。僕の脳内のセロトニン濃度は急激に回復した。医者は奇跡とさえ言った。
しばらく経った。他の誰かが僕の自殺機械を使っている! いたずらだと思った。機械の説明と内部の機構を詳しく書いておいた。使用者は何倍にも増えた。 自分で作った機械を使うために並ばなくちゃいけなくなった。みんなも僕と同じだった。自分こそ死ぬべき存在と感じてる。でも死の一回性という巨大な怪物に立ち向かえない。自分のようなつまらない存在が、ショッキングな事件を起こし、みんなに不安を与えることが申し訳ない、そんなことさえ思っていたんだ。
だから、僕はそれを1000回に分割できるようなしくみを作った。初めてボタンを押す時はとても怖い。二度目からは安堵。三度目からは救いになる。ほどなく一人目の死者が現れた。死体は製薬工場に勤めてる男が処分してくれた。本物だという噂が広まり、みんな使うのをやめると思った。反対に自殺機械の列は二倍になった。二人目は、どうしてもドラッグを受け入れられなかった単身のおばあさんだった。二人の死に誰も気づかなかった。けれど三人目は小学生の女の子で、両親が警察に通報して全てが明るみに出た」
サミィD、おれたちの手はいつのまにか離れていた。そうしたのはどちらからだった?
「ひとごろし、って言ったのはそういうことか」
「真実だよ」
「でも、おまえが殺したんじゃない」
「僕がいなければ、誰も死ななかった」
おまえは立ち上がり、おれの目をまっすぐに見た。
「ステラ、僕の本当の頼みは別にある」
サミィD。
だから。
「僕のことを、忘れないでくれ」
おまえのことを忘れないよ。
「でも、きみにはきっと無理だ。自殺機械で死んだ女の子の両親はさ、すぐに感情抑制薬(プロジアム)と忘レナリンをオーバードーズぎりぎりまで使いまくった。僕の裁判にやってきたときにはもう、他人の娘について語るみたいだったよ。執行猶予で済んだのもそのおかげさ」
おれはようやくわかった。「忘れないで」という願いがどれほど困難なものか。
「自殺機械を取り上げられてからさ、僕の意識はぼんやりしていくばかりなんだ。ステラ、この数日は楽しかった。でも僕はずっと不安だった。薬が完成したら、また自分の役割が無くなってしまうから」
「次の薬を作ればいいだろ!」
もう1度、おまえの手をつかもうとして立ち上がると、目の前がクラクラした。景色が2重にも3重にもなって、 錯視のような渦巻き模様が世界を4つに引き裂いてはまたつなぎ合わせる。
「最高クラス(ファイブ)のマジック・マッシュルームのトッピング。僕からの完成祝いだ。楽しんでくれ」
「さっきのバーガーキングかよ……相手の同意なく薬物を摂取させる行為は犯罪だぞ……?」
「これから、そこの線路に行ってくる。路線は6本くらいだったかな? 電車が7台通りすぎるまで待ってみる。僕のよりずっとシンプルな自殺機械だ。じゃあステラ、さよなら。8割くらいの確率でまた会おう」
計算がおかしいことに気づかないおまえは、9歩行ったところでよろめき、10歩で膝をついた。
「なんだ、これ?」
おれはおまえに向けて這っていく。まだ世界が11次元くらいに見えてて大変だったけど、多層多色な世界の中でも、おまえだけはやっぱりくっきりとしてた。
「ステラスペシャル。おまえ専用のカスタム薬だ。おれにだってゲノム解析くらいできるんだぜ」
月美さんにめちゃくちゃ手伝ってもらったけどな。さっきのコーラにこっそり入れといたのが、ようやく効いたみたいだ。
「どうだよ! はじめてのトリップは!?」
おまえはこれまで感じたことのない感覚に戸惑う。
「同意を得ない薬物の摂取は犯罪じゃなかったのか!?」
「えー、あなたはステラ製薬星埜研究所の患者で、これは臨床試験の一環です」
「ずるいぞっ!」
ばか、立ち上がるな。おれの警告は遅かった。おれたちは普通、幼稚園や小学校でドラッグの使い方を学び、少しづつその効果にも慣れていく。おまえの場合は違う。生まれたばかりのヒナ鳥が、いきなり大きな翼を手に入れ、大空に放り出されたようなものだろう。おまえは両腕をねじって身体に巻き付けたような奇妙なポーズのまま横走り。すぐにコケると、土手をごろごろ転がって川岸の大麻畑に突っ込んだ。おれはにこにこ笑った。
「……ねえ、ステラ、魚が空飛んでる」
おまえのクスリは中々抜けず、先に素面(ソバー)に戻ったおれにおんぶされたまま家へと向かう。おまえのぬくもりを忘れない。もこもこのジャケット越しに伝わってくる。
「おれがおまえを死なせない」
「ありがとう、ステラ」
でも、きっと、無理だ。
おまえはその言葉を飲み込んだ。おまえはそのとき、おれの背中で幸せそうに微笑んでいた。でもおれには見えなかった。前を向く視線の先に、嫌な奴が見えたから。
「サミィくん、遅かったね」
「ストーカー野郎。警察呼ぶぞ」
自宅前で待ち伏せとか、実際怖い。反麻薬団体の若きリーダー……か知らないけど、創太は以前と同じ黒づくめで現れた。自動運転車の画像認識ミスで轢かれればいいのに。
「サミィくん、今日は君を迎えに来たんだ。そろそろわかっただろう? 君の居るべき場所は、ここではない。君の義憤を、知識を、能力を、我々のために使って欲しい。あのゾンビどもを聖水で葬ったように。みんな君の理想に心酔しているのだから」
「あー、それでわかった! わかっちゃった」なんというか、バカバカしくて、おれはつい口に出してしまった。
「黙っていてもらおう、星埜ステラ」
「サミィDのこと、英雄として持ち上げたいとか、そういうハラなんだろ?」
どう誤解したのか、いや、おそらくはあえて誤読したんだろう。こいつらは自殺機械の一件を、「意味の無い生を送るジャンキーどもを安楽死させた」とか解釈して、おまえのことを教祖にでもしたいんだ。ドラッグの効かない体質も都合がいいんだろ。笑える。
「創太さん」おまえはまだおれの背中にいる「創太さんが、裁判のときとか、色々と助けてくれたことは感謝してます。でも、僕は、あなたの期待には応えられません」
「サミィくん、君はこのスマイリーに騙されているだけだ」
「騙そうとしてるのおまえの方だよね?」
「おまえにはサミィくんは救えない!」
なんか、堂々巡りになってきたな。こいつホントはドラッグキメてるんじゃないのか?
「じゃあ、証明してみせるよ」
(ステラ、やめなよ)おまえの囁きの方が正しかったんだろうな。でもこのときのおれは、はじめておれのクスリでおまえをトリップさせて、自信に満ち溢れてた。マジックマッシュもまだ少し残ってたかもしれない。
「証明? どうやって?」
「クリスマスにステラ学園でドラッグ・パーティがある。おれはそこで、サミィDに最高のトリップをさせてみせる!」
6
「なんであんな馬鹿なこと言ったの?」
部屋に戻ってからおまえにむちゃくちゃ怒られた。
「いや、いいかげんあいつとの縁切りたかったから、つい……ごめん、勝手に」
「僕が『期待には応えられない』って言ったんだから、それで済んだ話だろう? なんでわざわざ面倒なことにするんだよ……」
「でもさ、おまえをトリップさせたいってのは、本心だったから。おまえの脳内のレセプターというレセプターに、おれのクスリをぶちまけて、発火させて、興奮させてやりたいんだ」
「……ばかじゃないのか?」
「悪いかよ」
サミィDはおれから目をそらしてうつむいた。おまえのやわらかなほっぺたを忘れない。ピンクに染まって。
「なあ、明日から冬休みだろ? ずっとおれのそばにいろよ」
言ってから、そのセリフが意図したのとは違う意味に聞こえることに気づいた。おれはただ心配だったのだ。目を離したら、おまえはまた一人で自殺しに行ってしまうように思えたから。1024分の1か、4分の1か、あるいはもっと確率の高いやり方で。おまえはたっぷり二分は黙り込んで、そしてわからないくらいかすかに頷いた。
それから。
サミィD、おまえとの初めてのキスを、絶対に、忘れない。
LSD, Love you, Sammy D
☆ ☆ ☆
翌日から、またドラッグ開発が始まった。大口を叩いた割に、おれはすぐ壁にぶち当たる。一度はおまえに効いたスペシャル・カクテルも、二度目では効果が半減し、三度目ではカフェイン程の効果も表れなかった。おまえは300万を超える一塩基多型の組み合わせをサーチし続けるという、気の遠くなるような作業を不平も言わず続けていた。メタンフェタミン、リタリンの摂取量は日に日に増加する。幻覚とアイディアを結びつけようと、LSD、メスカリンにDMT、未認可の物体Dまで試した。
親父に「ジャンキー」と呼ばれる始末だ。それは差別語です。現代に薬物中毒者はいません。それでもステラ製薬社員か。とはいえ、1週間なにも成果が上がらずにおれは焦りはじめる。「ずっとおれのそばにいろ」なんて言っておきながら、おまえをほったらかして研究棟のカフェテリアで何時間もうんうん唸る。
「ステラ、明日さ、海行かない?」
「は?」
何言ってんのこの修羅場に。パーティまであと何日だと思ってんの? 読まなきゃいけない論文いくつあるか分かる?
かるくパニックになったところに差し出される安定薬(ソーマ)1グラム、飲み下して、こいつ、おれの思考を把握しはじめてるなー、とちょっと怖くなる。でも少し嬉しい。
「車の中で読めばいいじゃん」
あっさり言いくるめられて、おれたちは社用オートヴィークルを借用し、海へ。
「ベルンコーヒーでクッキー買ってきたけど、食べる? ほら、星型」
「なんでそんな機嫌いいの?」
こないだのことがあってから、おまえはなんかおかしい。
「おかしいのはステラのほうだろ? きみ、最近全然笑ってないんじゃないか?」
しかめっ面の星埜ステラ。確かにちょっと変だ。最近オーバードーズぎりぎりで脳内神経物質のバランスがひどいことになってる。おれは論文の束を置いて外を眺めた。
五反田を出るのは久しぶりだ。都心を離れると景色も寂しくなる。ケシ畑の刈り入れもすっかり終わり、大麻も収穫されたり温室に移されたりで、畑も寂しい茶色。おまんじゅうみたいで可愛いペヨーテサボテンがときどき沿道を飾ってる。国道沿いには数十キロおきに、工場併設型の大規模ドラッグストア、それから4D(ドラッグ)シアターがあって、どの駐車場もバスやシェアカーでいっぱいだった。でもときどき、道路沿いのベンチにゆったり腰掛け、大麻を吸っているおじいちゃんたちも見かけた。学校帰りの子どもたちが、コンビニで買った幻覚シートを舐めてスクールバスに乗り込んでいく。ドラッグは人間の生活の奥深くまで入り込んでいる。
海辺にはこの寒いのにたくさんの人がいた。良いカクテルをキメると、波が生きているみたいに見えて、一日中眺めていても飽きないんだ。親父の新製品「ショートショート」の空き箱が落ちている。「銀河を舟で渡る旅:海沿いでの利用を推奨」こうした場所の指定は面倒だと思われてたけど、発売してみると物珍しさからか、よく売れているらしい。もちろんドラッグレスでもおれたちは楽しい。凍りそうな冷たさの海水に指を浸して叫んだり、きれいな青いマーブルの貝を拾い集めたり。
おれたちは浜辺に座って、長いことどうでもいい話をしていた。内容は話すそばから忘れてしまった――そうだとしても、意味が残ることだってあるんだ。けれど、二回目のキスについてはきっと忘れない。どんなドラッグよりも強く、激しく、脳内分泌物で受容体が満たされていく。それに、ほら、けっこう、ねっちょりしてたし。おれもようやく穏やかな気持になって、つないだ手をお互いニギニギしながら、後はただ黙ってじっとしてた。
車に戻って、おまえが用意してくれてた弁当を食べる。ここ数日張り詰めてた気が緩んだからか、強烈な眠気が襲い掛かってきた。そういえば、覚醒剤使って何日連続で起きてたっけ? 思い出せない……眠りに逆らえそうに無い……
「ステラ、少し眠りなよ」
その声がスイッチになって、おれはおまえに倒れ掛かるようにして意識を失った。
寝息が落ち着くと、おまえはそっとバッグを引き寄せ、おれの頭の下に敷いた。脱ぎ捨ててあったジャケットを肩に掛けてくれようとしたとき、おれの手がぎゅっとおまえのシャツの裾を握っているのに気づく。おまえは、まだおれには見せたことのない微笑みを浮かべ、一本一本、優しく指を剥がした。
音を立てないように、静かに車から滑り出す。おまえは海岸沿いの道を歩き出した。潮風が髪を乱し、砂がシャツに絡む。波音は冷たく、それを見つめるトリッパーたちは屋外彫刻のように数十メートル間隔に並んでいる。おまえは100メートル行って振り向く。200メートル。カーブする海岸線のおかげで、300メートルのあたりでおれの乗る車が見えなくなる。おまえは息を吐く。おまえは胸をそらして空を見上げる。はっきりしない曇り空。おまえには世界がぼんやりとして見える。何かの例えでなく、本当に視力が弱いから。おまえの両親は、未認可の生(ロウ)ドラッグに手を出して、おまえの目を強烈なライトで焼いた。断続的な烈光が眼窩を通り抜けおまえの受容体を損失させた。それがおまえが抗麻薬体質となった理由だった。おれは薄々気づいていた。おまえの服や持ちものが全て白いのは、そうでないと見えづらいからだ。おれも私服を白で揃えるようになった。暗い夜でも、おまえが見つけやすいように。おまえは夜空の星を未だ自分の目でみたことがない。おまえはおれのことを考えた。唇にはさっきのキスの感触がまだ残ってる。けれどもおれの眠る車に背を向け、いまおまえは歩み去っていく。おまえはこれまでに味わったことのない解放感を噛み締めている。両親から、あの自殺機械の団地から、反麻の人々から、ステラ製薬から、そしておれからも、自由だ。いまおまえは誰でもない。この土地におまえを知る人はいない。こうやってなら、生きていけるのかもしれないな、とおまえは夢見る。旅を続けて、一つの場所にとどまらずに、誰にも名前を知られずに。
おまえは海岸で一冊の本を開く。おまえが精神鑑定を受けたときに渡されたものだ。「脊髄液中のセロトニンの代謝産物、ヒドロキシドール酢酸濃度の低下と、自殺の遂行には相関関係があります」「自殺遺伝子とも呼ばれるSKA2に変異がある場合、自殺の可能性が著しく高まります。ウィトゲンシュタイン家、ヘミングウェイ家にもこの特質が見られました」「脳内神経伝達物質の減少が鬱による自殺を引き起こしているため、SSID(セロトニン・ドラッグ)が効果的です」客観的で数値的な記述が本の大半を占めている。終わりの方に、ほんの数ページ心理的観点からの考察がある。自殺の対人関係理論。実際に自殺が決意される場合の鍵は、2つの精神的な状態である。
①負担感の知覚:自分が誰かの人生の負担になっているという感覚。
②所属感の希薄化:自分が所属する場所がどこにもないという感覚。
おまえのカウンセラーはそのページに赤でこう書き込んでいた。
①→人工知能の進化による人間活動の無意味化
②→忘却薬による根源的な存在感への疑念。
おまえは本を閉じ、それを思い切り海の遠くへと投げ捨てた。
おまえは歩いた。ただどこまでも歩き続けたい。そうした存在に、いや、現象になれればいいと願った。しかししばらく行くと奇妙な建築物に道を塞がれた。それは2つの半円のドーム型をしており、どうやら脳を模しているらしい。「薬楽園ファルマトピア」と看板がある。
「よおーーうこそ! さ、入って入って!」
清潔な襟をした精神科の医者のような白人男性がおまえを引き込む。
「ここは愛の家、変わる家、一体化の家、君の満たされないもの全てを与える場所だ」
「マック、そんな胡散臭い言い方ではかれが戸惑うよ」
「すまない、ウィル。僕の<非自我>がかれと<合一>してしまったみたいで」
「安心して座って。さ、ティミー、私達のことをかれに話してやれよ」
「よし、聞いてくれ。1960年代のサイケデリック・ムーブメントは精神を解放するために幻覚薬を用いた。けれどドラッグ・カルチャーは権力によって抑圧されてしまった。もちろんそれが自由と解放の拠点となって、国家を脅かすものだったからだ。けれど抵抗はむしろ運動の力を高めた。サマー・オブ・ラブが終焉に向かったのはもっと根本的な問題さ。唯論理論(ロジカリズム)。つまり論理システムに隷属することを望んだ日本人たちの無意識下における計算リソースが世界を覆ってしまったことだ。だからLSDの教祖だったティモシー・リアリーはサイバーパンクを生み出すと、ギブスンをけしかけチバ・シティを描かせた。ロジカリズムを内部から食い破るために」
彼らは突然おまえの肩を抱き、声を潜める。
「でもそれは一つの階梯を登るための試練に過ぎなかったんだ。なぜか? 驚くなよ? 実は、日本人というのは……全員が宇宙人だからだよ!」
「ジメチルトリプタミンをある感覚で、適度に用いることで、私達はようやくその事実に気づくことができたの」
「君も日本人だね。大丈夫、ここには精神を<モクシャ拡張>した人々しかいない。さあ、どうか教えて欲しい、この世界の……」
おまえは建物を出て、海岸沿いの道をもっと先へと進んだ。次に引きずり込まれたのは「苦痛の家」だった。
「痛みこそが快楽ですよ!」
彼らは自らに苦痛を与えては、それを麻薬で打ち消すことを繰り返している。おまえはそこも逃げ出す。他にも幾つかの場所があったが、既にどれもが奇妙にねじくれてしまっていた。おまえはとても耐えられないと思った。おまえはようやく気づいた。この世界は完全に狂っている。日常なんてものはとっくに喪われていた。ドラッグにより幸福な世界が訪れたのではない、ドラッグでもなければこんな狂気の世界を生き抜くことなんてとてもできない。おまえは海沿いで波を見つめている人々に片っ端から声をかけた。肩を揺すって叫んだ。「どうして生きていられるんだ! どうして平気な顔でいられるんだ」夢見るような焦点の合わない瞳は、一対としておまえに向けられることはなかった。
「うわあああああああああああああ!!!!!!!」
おまえはもう自由ではなかった。おまえがどれだけ歩いても、どれだけ逃げようとしても、奇妙な世界があり、狂った人々がそこにいた。
おまえはそれでも顔をあげて、そして目を疑った。おまえは確かにまっすぐ離れていったはずだ。いつの間に戻ってきたのか? だいたい視力が弱いはずのおまえに、どうしてこの距離から見つけられた? おまえは救急車に似たその白い車に近寄り、窓ガラスごしに中を覗く。
「どうして、きみだけが、くっきりしているんだろう。すべてがぼやけた僕の世界のなかで、きみだけが。LSD, La Stella Dolce ―愛しい星(ステラ)」
拭っても拭ってもおまえの涙は溢れ出す。おれは長い眠りから覚めて、おまえを見上げる。
サミィD、おまえの泣き顔を忘れない。もういちどその目を開けてくれ。悲しいときはおれが何度でも、おまえの涙を受け止めるから。
7
クリスマスの五反田。
弟はサンタにもらった『月刊 子供の薬学』付録の創薬キットで神童ぶりを発揮して、朝から親父を喜ばせてる。おまえは遅い昼食を作り、洗濯をすませ、トリップしている親子に毛布をかける。あの日、海から帰ってきてから、おまえはクスリ創りをぱったりと辞めてしまった。掃除をして、エプロンしてご飯作って、まーちゃんと遊んで、実はうち亀飼ってるんだけどそいつの世話して毎日を過ごしてた。
最初からこうなることが分かってたみたいに、おまえはどんな解析も一瞬で終わらせてしまうような、爆速プログラム・パッケージを準備してた。だからおれは、一人きりで作業を進めることができた。おまえがいなくても、できてしまったんだ。昨夜雪が降ったことにも気づかなかった。家の前の道は雪合戦の戦場になってたらしく、べちゃべちゃで歩きづらい。
パーティまではまだ少し時間がある。おまえに誘われて、おれたちは少し散歩してから学校に向かうことにする。足は自然に、ふれあいK字橋に向かう。
「覚えてるかい、ステラ?」もちろん覚えてる。初めておまえを見た日「あのとき、死のうとしてたんだ。橋の上で30分待って、誰も声をかけてくれなかったら飛び込もうと思ってた」
それでおまえは、あんなにくっきりしてたんだな。
「そりゃ分の悪い賭けだな。ハイになってるやつらは誰にだってすぐ声をかける」
「約束は?」
「忘れてない」
おれにできること、何でもしてやる。約束なんかなくたって。
「薬は完成したの?」
ポケットから、ビニールの小袋を取り出す。創薬機から出力したての星型のカプセル。十分な臨床シミュレートができたとは言えない。でも、心をこめたドラッグだ。おまえはそれを一瞥する。あまり関心もなさそうに。おれは少し不安になる。
「少し寒いな……なあ、コーヒー飲む?」
「いやだよ。また何か入れる気だろ?」
「おまえがそれ言うのかよ。なあ、欲しいものとか、してほしいこととか、ないの?」
「……僕のいちばんの願いは、もう伝えたから」
だから、おまえを忘れないよ。
「でも、他になんかあるだろ? クリスマスプレゼントも用意できなかったしさ」
「じゃあ、キスしてよ」
三度目のキスで、おれはおまえを捕まえる。誰にも渡さない。死神にも。長い口づけの間に夕日が沈み、夜がおれたちを包む。視力の大半を失ったおまえには、まるで宇宙の真ん中に浮かんでいるように思える。見えるのはおれの瞳だけ。唇を離しておまえはささやく。
「いちばん星、見つけた」
☆ ☆ ☆
会場はステラ薬科大学の100年記念講堂。パーティっていっても明確な式次第があるわけじゃない。理事長……っていうかおれのばーちゃんが、クラプトンからもらったとかいうギターを手に登場し、校歌の「コカイン」をしゃがれ声で演奏すると「じゃあそれぞれ楽しみな!」あとは丸投げだ。ステージはダンスフロアに代わり、トランス・ミュージックが大音量で流れ出す。
大学の研究室がそれぞれブースを出していて、高等部の3年生は自分の進路の参考にあちこちで話を聞いて回る。ステラ製薬の関連企業からもスカウトが来ていて、こっちは大学の4年生や院生に専門的な質問を投げかけてる。社交の場所としても重要な機会なんだけど、関係ないやつにとってはただのドラッグ・パーティだ。おれのクラスメイトたちは、ヴィンテージ・ドラッグの体験会や、今夜限りのジョーク・ドラッグを楽しんだりしてた。
白衣と真っ白い制服に埋め尽くされた中に、1点の黒。おれと対決するべく単身乗り込んできた創太だった。創太は少し酔っ払ってた。酒にじゃない。麻薬に対抗できる世界で数少ない快楽の源の一つ、「正義」に陶酔してたんだ。(ちなみに他には「愛」や「承認」がある)創太はジャケットの下にサバイバルナイフをしのばせていた。誰かを傷つけるためじゃない。「私の尊厳がスマイリーどもに傷つけられたとき速やかに自害するため」だってさ。英雄のように胸を張れ。王者のように歩め。聖人のように微笑みを。その燃える自信は、講堂の扉を開けた途端に打ち砕かれる。光を撒き散らすムーンフラワー・ライト。五反田産直マリファナのスモークと香ばしい匂いがフロアを満たしている。思い切りリヴァーヴを効かせたビクターのスピーカーから這い出るトリップ・ホップのもたつく重たいビートに合わせて、ヘロインの無針注射器がそこら中でリズミカルに突き立てられていく。ねえ、黒い彼ぇ、これバリキクよ、打ってかない? このミルクのような絹を飲むと、ほんとうのさいわいに触れるだろうねえ、銀河鉄道に書かれた”この宇宙における本質的な意味”がただちに諒解されるぞう。それよりもこの錠剤、錠剤を肛門に差し込めば、全身の毛穴という毛穴という毛穴という毛穴から射精するかのような快感! 銃をヤクへ! 国境なき薬剤師団の活動にどうぞご支援を!
人波に押し出されるようにして、創太はようやくおれの元へとたどり着く。もみくちゃになった洋服を正し、背筋を伸ばしておれを上から睨みつける。おれはサミィDの手をとると、優しくソファへと座らせる。赤いビロード張りの背もたれごと、おまえの肩を抱きしめる。ムービングライトの光がおまえの顔をなで上げる。創太はおれたちの正面に立ち、おまえの瞳を覗き込もうとするけれど、分厚いメガネの反射に視線を阻まれる。おれは小さな星を取り出し、おまえの口を割り開く。指ごとおまえの口の中へ侵入し、歯と口腔をなぞってから舌を捕まえてその上にそっとカプセルを置いた。名残惜しそうにすぼめられた唇から、どうにか脱出したおれの指が銀の糸を引く。DJがビートを変えた。世界を波打たせるような深く歪んだアシッド・ハウス。観客たちがおまえの座るソファを中心に輪を作る。おれと創太はその中をゆっくりと回りながら睨み合う。口を開くタイミングを測る。やつが先に仕掛けた。
創太:
「例え麻薬から危険な要素、すなわち依存性や禁断症状が取り除かれたと仮定しても、それがもたらす刹那的快楽が人生の幸福を担保することにはならないだろう。幸福とは差異のシステムであり、不幸や苦難とのギャップによって生み出されるからだ。例はほとんど無限に挙げられる。ゲーテの『ファウスト』において、長い旅路の果てに「瞬間よ、とどまれ」と言わしめた幸福な風景とは、危険に囲まれた土地で、「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者」たちの姿だ。あるいはカミュ。無限回転がり落ちる岩を、絶望的な無意味の中で山頂へと押し上げ続ける不条理にあっても闘争を続ける「シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ」と論じた。
一方で麻薬の与える快楽とは、自動的な刺激にすぎない。それはゼロか1か、無感覚/快感の1ビットでしかなく、人間史の豊かな快楽のコレクションの中で最も情報量に貧しい。快楽はむしろ、マイナス要素との絶え間ない往還によって生み出される。「苦痛が快楽となる」感覚は説明するまでもないだろう。フロイトの「死の欲動」の概念では、破滅への願望が快楽と結ばれる。バタイユの「欲望の本質は、ひとたび文化的な規範や法を経験した人間が、禁忌を犯し、それを破るというダイナミズム」という主張を思い出せば、麻薬はむしろタブーであった方が、より快楽が増すのではないかと思えてくる。全てに共通することは、まず欠乏があり、それに対して欲望が湧き上がるということだ。人は満たされていないからこそ欲望し、そのことでのみ幸福を得るのだ」
ステラ:
「お前夢精したことないの? 射精やアクメの瞬間にどんな倫理を付与するって? 賢者タイムの倦怠に満たされ、ユニットバスの流しでオナホールやバイブを洗う自分の姿が鏡に映る。それを「不条理における闘争」だと感じるのなら、電波ソングを耳に流し込め。それとも人間から性的快楽を取り除く処置に賛同する? そんなことすれば、3世代も待たずに人類は滅びるだろう。
お前が今引いた19世紀20世紀人たちが惜しんだ欲望=人間性なんてのは、地球規模の意味環境破壊によって既に砂漠に等しい。価値のフラット化なんてのも、既に言い古されすりきれた。今取り上げられたバタイユその人が、欲望と異なる動物性=欲求について思考している。
バラードの『コカイン・ナイト』では、文明の行き止まりで労働が不要となり、余暇がメインとなった社会である「第四世界」が描かれる。そこに集うのは「時間から逃げてきた難民」であり、「世界でもっとも長い午後」を送る人々。太陽の光が燦々と降り注ぐリゾートがコピペされて全てを飲み込み、テニスとテレビとスポーツ・ジムの他にはもはや地球には何もない! 1996年に書かれたこの小説に人工知能は登場しないが、2012年の『BEATLESS』におけるロボット社会で語られる「仕事を嘱託(アウトソース)して外部化するのは、人間の性質」という記述の一つの帰結にも思える。そこでは人間性それ自体が変質する。意味や価値の判断が人間の手を離れ、「欲望」の余地が1ビットも残されない。シーシュポスも、ファウストの闘争も、苦痛でさえもアウトソーシング可能となるからだ」
創太:
「だからといって、動物的な欲求にのみ身を捧げるしかないだろうか? 例え人間概念がビーチリゾートの波にさらわれ消えたとしても、2つの思想がそれに抵抗するだろう。
まずはノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』に登場する「経験機械」という思考実験だ。VR的な世界の中で、何もかも自分の望みどおりの体験を得られるマシンを前にしても、人々は「それを使用したくないことを悟る」という。なぜなら人間の根源的な望みは、単に経験が満足されるのではなく、「現実に触れながら自分自身を生きる」ことであり、そしてどれほど自動化が進もうと「生きる」ことだけは機械に代替(アウトソース)され得ないからだ。
児玉聡は「経験機械」の例として、『マトリックス』『トゥルーマン・ショウ』『すばらしい新世界』の3つを挙げた。どの作品においても、人々は完全に管理された社会の中で、100%の主観的幸福を得ることができる。にもかかわらず、これらの物語の主題はそうした幸福の拒否にある。『マトリックス』の主人公ネオは、コンピュータによって作られた平穏な仮想現実を拒み、死と隣り合わせの闘争に身を投じる。『トゥルーマン・ショウ』も同様だ。『すばらしい新世界』は、まさにこの小説―「死にたがりのサミィD」―で描かれた麻薬社会と同型だ。不幸を感じればいつでも「ソーマ」と呼ばれる安定薬で幸福になれる。「ソーマ十グラムは十人の鬱を断つ」というわけだが、やはり主人公はシェイクスピアを武器にこれに抵抗する。児玉は、「自分が望ましい状態にあると感じているだけでは、われわれは自分が幸福だとは思えない」と結論付ける。幸福と幸福感―あるいは快楽とは、同一ではないからだ。
もう一つの抵抗の拠点は、ウィトゲンシュタインの幸福論という、より哲学的な立場だ。彼は第一次大戦への従軍という絶望の淵で、それでも幸福であるということについて思索した。その幸福の条件は3つある。
1:世界との一致
2:生の意義への信仰
3:幸福への意志
最初の「世界との一致」とは、「いまを生きている」ということの自覚。これは誰もが満たすだろう。2つ目の「生の意義への信仰」は難題だ。彼によれば、生の意義とは疑似命題であり、この世界(=現実に起こっていることと、起こりうる可能性を含めた全て)の中の真実ではその問いには答えられない。それは、かの有名な「語りえないもの」であり、例えば「神」としか称することのできないものである。だからこそ「信仰」としか表現できないのだ。3つ目。世界はアプリオリに幸福あるいは不幸なものとして与えられるのではなく、無色中立のものとしてわれわれ主体に提示される。それを幸福なものとして在らしめるのは、主観でしかありえない。幸福への意志とは「生きたい」との願い、「生きる意志」に他ならない。こうして、ウィトゲンシュタインの主張も「生きる」ことの外部化不可能性へと合流する。「いま」の生から逃避し、自らの内側へ潜りこみ、生きる意志を酩酊の中に放棄するドラッグは、幸福とは程遠いものだ」
ステラ:
「おまえの議論がおれへの反論になっていないことを証明しよう。将棋AIによる電王戦やアルファ碁に人々が感じた恐怖とは、単純な人工知能への抵抗感ではなく、まさにこの現実世界が「経験機械」化してしまうことに対するものだ。「ゲームAIとシンギュラリティは全くの別物で、過剰に捉える必要はない」という語りはこの点で的外れになる。
『コカイン・ナイト』で見たように、人間に残されるだろう未来とは余暇世界に他ならないが、無目的的であるがゆえに無限と捉えることができていた「遊び」の領域がまず最初に侵攻を受けた。かくして、宇宙の比喩で語られてきた盤上はデジタルの檻と化す。遊びや芸術、創造でさえも、経験機械の手のひらの中へと回収されてしまえば、あとは何ひとつ残りはしない。単調な「生きねば」というシュプレヒコールでは経験機械に抵抗しえないだろう。
麻薬が「内側」への退避というのは誤りだ。ノージックの記述の中にも、幻覚薬を経験機械に「屈服しないための理由」とする人々への言及がある。かつて神秘主義やスピリチュアリズムとして語られ、1960年代のサイケデリック・ムーブメントの後に麻薬禍と共に葬られてきた幻覚薬のメカニズムが、ようやく科学的検証を経て再生し始めている。LSDやDMTといった幻覚薬を摂取した際の脳をfMRIで観測すると、人間の脳内ネットワークの「繋ぎ変え」が行われていることが分かる。脳には、他の活動を行っていない際に働く、DMN(デフォルト・モード・ネットワーク)という、内側前頭前野、後部帯状回、海馬等からなるネットワーク領域があるが、これは「自己という感覚」いわば「エゴ」を担保する。幻覚薬はこのDMNの連関を低下させ、一方で普段は連結することのない各所の接続を促す。研究者は、幻覚薬が「意識を外世界へ転送させ、自己よりも大きく超越的なものの一部となる感覚に導く」と述べている。ウィトゲンシュタインは「主体は世界に属さない。それは世界の限界」だとしたが、幻覚薬はこの意味で、世界の「外」すなわち「幸福」にアクセスするための扉になる。なぜ「自我の喪失」という死に類するような体験が、「心理療法における大きな可能性」とされるのか、これで説明できるだろう。
ここで、「世界の外へと向かうこと=幸福」という定義から、全てを捉え返そう。シーシュポスやファウストの享受した欲望=幸福はテクノロジーへのアウトソースで既に焼け野原となった。「経験機械」や、その例における快楽と幸福の対立とは見せかけにすぎず、その拒絶とは「外」へ向かいたいという意志に他ならない。それこそがウィトゲンシュタインの幸福論にも通じる「生きる意志」となる。そしてその契機としてのドラッグを! 幻覚薬を!」
サミィD、おまえのことを忘れない。
おまえは盛大に血を吐いて、しばらく誰もそのことの意味に気がつけない。くの字に身体を折りたたんだおまえはコンパクトだった。コンパクトになったおまえを忘れない。抱きかかえるまでの時間は吹き飛んで認識できなかった。なぜなんだ。おれは声が出ない。おまえの身体がこわばっていく。
「ステラ……自殺機械だよ」もしも幸福の幻覚薬が効かなかったとしても、もう一つだけ世界の外へと向かう薬があった。「in silicoのプログラムの中にバグをしかけといたんだ……実行ファイルが2つあったろ? 1つは正常、もう1つは毒薬を作り出す」
「どうしてそんな……」
「きみの手で死にたかった。結果は確率だとしても、選択したのはきみだ。そうすれば――」
おまえは小さく咳をして、おれを赤くしてしまう。
「きみはきっと、僕を忘れない。薬を創る度に指が思い出す」
サミィD、おまえのことを忘れない。
栄養不足で長引いたおまえの少年期。骨ばかりの腕に、ようやく盛り上がりはじめた桜色の筋肉も、蛋白複合物(アクトミオシン)で硬直していく。
おまえの最後の微笑みを忘れない。
おまえの温度を。
おまえの、すべてを。
死にたがりのサミィD。
ひとりぼっちのサミィD。
LSD, Lullaby Sammy D ―おやすみ、サミィD。
8
まっくらな世界で、僕は目覚めたんだ。からだはひどく冷えてる。けど後頭部だけは、やわらかで、温かかった。ひざまくら。だんだんはっきりとしてきた視界に、ステラ、きみの顔が像を結ぶ。目は閉じて眠りの中。ゆらゆらと揺れる頭、にへらっ、と笑む口元、いったいどんな夢を見てるの?
舌先、ぴりっとしびれてた。――あのときのキスだ。ショートショート。相手に望んだ幻覚を見せる薬。あのパーティ全てが真冬の一夜の夢。じゃあ、また、死にぞこなったんだ。2つに1つ、賭けは僕の負け。いや、最初から見透かされてたのか。だからきみは、「僕が自殺する」幻覚をまるごと見せたんだ。
きみが目を覚ます。ふわふわした金色の巻き毛。ちょっと眠そうに見える二重のまぶたに、大粒の涙が溜まっていく。拭おうとして、二つの手が重なった。
「パーティは?」
「とっくに終わってるだろ?」
当たり前か。バカな質問だ。創太さんはすっぽかされて怒ってるだろうな。でも。
「どんな感じだった? はじめてのサイケは?」
僕は身体を起こして答える。
「とびきり最高(ファイブ)なやつだったよ」
きみはくすぐったそうに笑ったね。首をかしげる仕草、いつもの。
「サミィD」きみの声を忘れないよ。力強く僕を呼ぶときの。「もしもおまえが、自分を殺さずにはいられないんなら、おれがおまえの自殺機械になってやるよ」
もうその必要はないかもな。ふと僕は思ったんだ。きみといると、毎日死ぬほど苦しくて、毎日死ぬほど幸せだから。
けど、僕はずるいから何も言わなかった。
「おまえに使ったクスリの名前を考えてなかったな……こういうのはどうだ? LSD, ラブラブなステラとサミィD!」
朝日が顔を出し、目黒川を、僕ときみを、真っ赤に染めていく。
「ばかじゃないのか? きみにはほんとにネーミングセンスがないな」
太陽の光を背に受けて、僕はきみに向けてとびきりの笑顔を――
ステラ、きみのことを忘れない。
忘れられるはずもない。
だって、いまも僕の目の前で、変わらず笑っているのだから。
☆ ☆ ☆
深夜も近い時間に研究室のドアが乱暴に叩かれた。ステラとサミィDの前に現れたのは、取り乱した様子の創太だ。
「私を助けてくれ! 本当は救われたかったんだ! 私は麻薬の快楽は得ることができる。けれど、DDSだけが効かないんだ。生(ロウ)ドラッグをキメたときと同様に、依存症と禁断症状に苦しめられてしまう! この世界から取り残された憐れなひとりなんだ! 私もどうか外へ! 幸福へ!」
どうしたの?
なにをおそれているの?
壁に並んだ銀色の乙女―注射針たちは優しく輝く。二人の少年の慈愛に満ちた微笑み。
「大丈夫、何も問題はない」
「一発キメれば永遠が手に入るのに、なぜ後の人生について考える必要がある?」
「この先100年、200年、いや300年生きても味わえないだけの快楽を与えよう」
「もしも身体がボロボロになったら」
「耐えきれない禁断症状(コールド・ターキー)に陥ったら」
「自殺機械で消えればいい」
「燃え尽きるように」
「骨も残さずに」
「LSD,」
「Limited life and Supreme Death」
「限られた人生と」
「至上の」
「死」
参考:
ゲーテ『ファウスト』
カミュ『シーシュポスの神話』
湯浅博雄『バタイユ』
バラード『コカイン・ナイト』
長谷敏司『BEATLESS』
ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』
児玉聡『功利主義入門』
ハクスリー『すばらしい新世界』
井原奉明「前期ウィトゲンシュタインの幸福論 : 幸福に生きよ!」
WIRED「幻覚剤が脳のネットワークに何を起こすのか:fMRIスキャンで視覚化すると」
ScienceTime「LSDを使用しているときの脳が初めて画像化される。自己意識の起源に新たな糸口」
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