完全非弾性衝突かんぜん ひ だんせいしょうとつ

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梗 概

完全非弾性衝突かんぜん ひ だんせいしょうとつ

 小さな毬恵は、化学者のお母さんにグリム童話の絵本を読んであげた。子供が大好きな怖いお話で、親や世間に従わない娘を歓迎しながら結局薪にしてしまう「ホレおばさん」。お母さんはご褒美に“世界一のスーパーボール”をくれた。反発係数1(完全弾性衝突)を記録した、異素材一体成形のシームレス完全球だ。それは母の特許技術をもとに父の経営する会社で造られたもので、いつまでも弾み続けた。
 毬恵は甘やかされ、わがままで自分勝手だったが、家族も友人も愛していた。友人の有紀乃とスーパーボールで遊び、その幸せはいつまでも続くと思っていた。
 玩具の役割は二つある。この世に喜びがあることを知らせ、それが簡単に失われる事を教えることだ。
 両親はやがて諍いを起こし、二人の間をキャッチボールされた毬恵は、意地悪で自分勝手に育った。お互い様の友人がいくらでもできた。明るく元気で傍若無人な、教室では中心にいるけれど嫌われている子供たちだった。
 母が再婚して生家に戻った毬恵は、有紀乃を傷付けた。そしてスーパーボールを壊した。幸福な子供時代そのままの、継ぎ目のない完全球体に、カッターの刃を入れた。刃は折れて毬恵は指を切り血を流した。ボールは身肉にカッター刃を食い込ませ、そこに血と涙が落ち、呪いは完了した。
 この日から、世界中のボールは毬恵に復讐した。
 車輪はベアリングボールがきしんで、自転車でも自動車でも毬恵を遅刻させた。
 の性能は落ち、メガネのレンズ玉は世界を縮ませ、醜く、くすませた。
 とどめには体育館のボール置き場に入った途端、爆発に遭った。授業をサボる仲間が、大量にコールドスプレーを噴霧した上に、タバコに着火したのだ。スプレー缶の安全装置、ヒューズボールはなぜか働かなかったのに、ライターの着火石(玉)は盛大に火花を出した。そしてドア上部の開閉補助アームは関節球が狂って毬恵だけを室内に閉じこめた。毬恵は背中を火傷した。
 母は毬恵の、素行より科学知識の無さを蔑んだ。毬恵は母を憎んだ。火傷は痛く、痕は赤い火炎の形に残った。
 世界中が群発地震の時代となり、父は反発係数0の耐震マットを売り成功していた。しかし父は毬恵をどう扱えばいいか、わからなかった。父親は娘を愛しているが、心底しんそこ娘に尽くせなかった。その愛を担保にして許されようとしていた。娘は父を軽蔑した。
 大人になった毬恵に大切な人はいなかった。自分でさえも。そして呪いは続いた。
 衝突実験の金属球は毬恵の手を逃れ、上司を転倒させた。
 ボールペンはインク漏れして、重要書類を台無しにした。
 パソコンはマウスボールが逆らい、入力ミスが続いた。
 パチンコ玉の誘惑にふらふらとパチンコ店に入り時間と金を奪われた。
  毬恵は社長令嬢だったが、研究職から補助職へと回され、最後にコールセンター勤務になった。クレーム処理は人の愚かさと不満ばかり受け止める。そこでは善良で親切であるより、自分勝手な人間が長続きする。
 パソコンのマウスもボールから光学になり、毬恵に運が向いてきた。製品の化学特性を理解している者はその場に毬恵しかいなかったから、毬恵は生まれて初めて自分の有能さを感じられた。
 しかし、自社製品に苦情が寄せられ出す。耐震マットが高性能すぎて床板が剥がれるという。自宅の耐震マットを確認しようと家具を持ち上げた毬恵は、奥に転がったスーパーボールを見つける。
 毬恵はボールから錆びた刃を抜き、「ごめんなさい。痛かったね」と言う。謝罪されたスーパーボールは弾み、窓から飛び出し、昇天したように見えなくなる。
 毬恵の提案した新製品が採用される。異素材一体成形のシームレス完全球体。圧をかければつぶれて密着するが、家具を持ち上げれば、球体に復元して床材を痛めず剥がれる。そしてその球体は、絶対に弾まない。
 毬恵は両親と、それから人生の数々とも、和解した。

 

 

文字数:1600

内容に関するアピール

 

 玩具が人に愛され、裏切られる。玩具の仲間達は協力して復讐する。不幸のつるべ落としに遭った人間は、どん底で裏切りを償い、平穏な人生を取り戻す。玩具は昇天する。

 物理的な「振動と衝突」をモチーフとして、滑稽なほど不運に見舞われる人間が、それでも何とか成長する話になります。

「人間ではないものの気持ち」はスーパーボールだけでなく、主人公の世界における、ボール達の一致団結です。これは「主人公の妄想」ととらえてもいいように書きます。毬恵にとってスーパーボールは世界中のボールの王様なので、家来であるあらゆるボールは毬恵に復讐します。車輪や歯車やネジはボールと仲が悪いので、毬恵は命を落とすまでには至りません。
 ただし火傷を負う下りのみ、主人公がボールだと知らない物(ヒューズボール)が働かず不幸を招き、後でボールだと知るように描写します。

 子供時代、現実じゃないからと安心して楽しんだ怖さが、大人になって現実に降りかかって来るのは本当に怖いものです。読んだら呪われてしまうような童話はいくらでもありますが、グリム童話「ホレおばさん」は娘を薪にして「地獄の火が燃えている。何とも明るいじゃないか」で終わるのに、今も戦慄しています。

 ボールに復讐されることは妄想とも解釈できますが、それによって、自分の体を燃料に地獄の火を燃やすような失意の年月を送り、地獄巡りから帰還する人間を、現実と寓話のあわいに書こうと思います。

文字数:605

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