梗 概
笹舟渡し
大陸の西にある小さな町シレリア。その北側に広がっている竹林の一部に、浮竹という他星からの外来種が生息している場所がある。その竹がその名で呼ばれているのは、落ちた葉が風にのって舞い上がると、そのまま空高くのぼって行って、故郷の星へと帰っていくという伝承によるものだった。
町はずれの庵に暮らす童僕が、浮竹の葉を一枚拾い小さな笹舟をこしらえて、それを庵のわきに流れている小川のせせらぎへそっと浮かべる。すると、舟は何かに引かれるように流れをさかのぼって川上のほうへと消えていった。
その名もない小さな川は、やがて大陸を二分するように流れる大きなカーヴェル河へと合流する。笹舟は波に揺られながら、道中、さまざまなものとの刹那の邂逅を繰り返し、大河の源流へと向かって静かな旅を続けていく。
川岸にならぶ岩や砂利、そばを泳いで過ぎていく魚、その魚を狙って飛来する鳥、川下に向かって笹舟とすれ違っていく流れ木。それらを見送り、見送られながら、ときに、人のあやつる小舟の櫂が流れを分かち笹舟の行く道筋に変化をもたらし、さらに大きな船のスクリューの起こす波が笹舟を脅かす。そんななかを、流れに身を任せて笹舟はすすんでいく。
やがて河は山の奥へとのぼっていって、次第に幅も狭まっていく。少しずつ、源流が近づいているのだ。しかし、これまでの長い旅の間、過酷な自然にさらされてきた笹舟はひどく痛み、朽ちかけていた。器用な童僕の指先によって編まれた結び目もゆるみはじめており、瀑布のごとく激しく落ちる滝をのぼりきるだけの力は既に残されていなかった。
白い飛沫をあびながら、笹舟はほどけ、再び一葉の笹の葉に戻り、滝壺へと流れ落ち、やがて水面に浮かび上がった。川面をなでるように吹く風にさらわれて、笹の葉は川を離れて空へと舞い上がる。そして、そのまま風にのって、空の果ての故郷のある場所へと、これまで以上に長い旅を続けていく。
文字数:800
内容に関するアピール
人間以外の気持ち、という題から、何か移ろいゆくものの情感を描きたいと思い、そこから川の流れと小さな舟のイメージを連想したため、それを元に組み立ててみました。
このなかで描きたい「気持ち」は、単純に笹舟に仮託した望郷の念や、旅をする笹舟の視点からの情感だけではなくて、流れのなかで生じた一瞬の邂逅を通じたささやかな交流から生まれるものを想定しています。その小さな連鎖を紡いていくことで、一つの大きな物語にできればと考えています。
また、全体の雰囲気としては、どこか漢詩の世界観のような静かな無常観の漂う情景を描き出すことができればと思っています。
余談ですが、本編の内容とは全く関係ありませんが、作中の地名・地理などを第三回課題の実作で書いた「眠銃―The Nap-Gunー」から流用する予定です。
梗概に書かれている童僕も登場しますので、もしよろしければ、そちらも併せてお読みいただければ幸いです。
文字数:399
笹舟渡し
風が戦ぎ、葉が揺れた。
重なり合った葉のさやさやと擦れあう小さな音が共鳴し、あたりを包み込んでいく。
その微かな揺らぎに負けた一葉が、枝を離れて風に乗り、重なった葉のつくる影に覆われた仄暗い林のなかへ舞い落ちる。
高く伸びた枝から生えて、やがて散っていく葉は、一度も大地に触れることなく、風にあおられ舞い上がり、そのまま天高く昇っていく。
その行く先は、遥か彼方――この惑星を覆う厚い層の向こう側。無数の葉を茂らせたしなやかなる笹、その種子の生まれた場所。それは遠く離れた宇宙のどこかにあるという浮竹発祥の星である。
浮竹――落ちた葉が風に浮かび、宇宙へと飛び去っていくという言伝えからそう呼ばれるようになった植物が、いつからそこに自生していたのか、広大な竹林の周囲の土地が開拓されて人が暮らすようになり、長い年月を経たいま、それを記憶する者はなかった。
林のすぐそばにできた街、シレリアの名産品は、浮竹でつくられた竹とんぼで、上手く回して風に乗せてやれば、どこまででも飛んでいくと言われている。
子どもたちは競い合うように竹とんぼを飛ばしては、空の果てへと飛び去って二度とは手元に戻ってこないそれを誇らしく見上げ、見送るのだ。そうして竹とんぼを失くした子どもは、また新しい竹とんぼを手に入れるため、親にねだってそれを求める。
浮竹は、竹とんぼ以外にも子どもたちに楽しみをもたらしてくれる。その細く長い葉を織り込んで小さな舟をつくり、川に流して競争させる。気ままに吹く風とは違う、一方へ向かってたゆまず流れてゆく川に身を寄せた笹の葉は、その船体を水面に浮かべ、軽やかに上流へとすすんでいく。
そう、浮竹の葉でできた笹舟は、下流ではなく上流へと川を遡っていくのだ。自分の手を離れた舟を追いかけて、子どもたちが川原を駆けていく。流れに逆らい行く舟のすすみは決して早くはないが、しかし止まることも押し返されることもなく、ゆっくりとのぼり、流れの先へ消えていく。
竹林の奥に、小さな庵が一件、ぽつんと建っていた。そこに若い学者と、その身の回りの世話をする童僕がひっそりと暮らしている。
童僕は、研究に没頭して引きこもりがちな主人を、時折、散歩に連れ出すことがあった。はじめのうち、渋々といった様子で家を出た主人も、たまに吸った新鮮な空気が美味しかったからか、それとも竹林の静けさが心地よいからか、しばらくすると機嫌を良くして話しはじめる。
心地よい風が吹き、笹の葉がさらさらと戦いだ。
「竹と笹の違い、わかりますか」
少し後ろを歩いていた童僕のほうを振り返って、主人がそう訊ねる。
「さぁ、私には見分けがつきませんが」
「そんなことはないでしょう」
主人は立ち止まって、傍に生えていた立派な竹の節に触れる。
「小さい頃は、竹も笹も同じ筍ですが、成長するにつれて少しずつその違いは明確になっていくものです」
硬い節をそっと撫でながら、これは竹です、と主人は言う。
「伸びたとき、節に皮が残っているものが笹、成長にあわせて皮が落ちてしまうのが竹」
そう言われて童僕が周囲を見渡してみると、ほとんどの節に皮は残っておらず、すこし離れた一帯に、皮の残っているものが密生していた。
「そう、あれは笹です。よく見てごらんなさい」
主人に言われて童僕は笹のほうへと駆け寄って、周囲の竹と見比べながら、その違いについて考えてみる。
「多くの竹は、節から二本程度しか枝を伸ばしませんが、笹は倍ほどの枝をもち、その葉を茂らせます。それに、竹のほうが比較的大きく育つものが多いとされていますね」
たしかに、比べてみると笹のほうが、枝葉が多く、少し背が低い。
それから主人はかがみこんで地面に落ちていた葉を二枚拾い上げて、童僕に見せた。
「こうして見ると、ほとんど違いがないように見えますが、拡大すると竹の葉の葉脈は格子状に、笹の葉の葉脈は並行になっているんです」
「さすが、主様は何でもご存じなんですね」
「ふふ、すべてネットワーク上のデータベースから得た知識ですよ」
そう控えめに微笑んだ主人を見つめながら、伊達に日がな一日、部屋に引きこもってコンピュータと向かい合っているわけではないのだな、と童僕は思う。
そう言えば、笹舟の作り方も、主人から教わったのだったと童僕は思い出し、笹の葉を一枚拾ってそれを器用に織り込んでいく。
細長い葉の両端を折り曲げて、折った部分を三等分するように切れ目を入れてやる。そして、三つに分かれた先の真ん中を残し、左右を重ねるように挟み込む。両側をきっちりと重ねてやれば小さな笹舟ができあがる。
「笹舟ですか、懐かしいですね」
と、まだ十分に若い主人が言ったのに違和感を覚えつつも、童僕は完成した小さな笹舟を上着のポケットにしまい込んだ。
一つ、強い風が吹いて、笹の葉が大きくざわめき立った。
「主様、風が冷たくなって参りました。そろそろ戻りましょう」
主人は無言で頷くと振り返って庵のほうへ向かって歩きはじめた。主人の長く伸びた髪が、風に揺れている。童僕はその背中を追いかけるように、一歩うしろについて歩く。
翌日、遣いの帰り道、童僕がポケットに入れたままになっていた笹舟のことを思い出して取り出してみると、舟はまだ萎れてはおらず、青く艶やかだった。
街から離れた竹林で主人と二人きりで暮らしている童僕には、同世代の親しい友人はおらず、一緒に遊んだり、笹舟の速さを競い合ったりするような相手はいなかった。
それでも、せっかくつくった笹舟をこのままポケットのなかで枯れさせてしまうのは惜しいような気がして、童僕は庵の傍を流れる小さな細流へ舟を浮かべてやった。
主人の話では、この川は大陸を二分するように流れている大河カーヴェルの分流にあたるらしい。遡っていけばいつかは広大な流れへとたどり着くし、このまま下って行っても数里先で再び本流へと合流するという。
果たして、この小さな笹舟はそこまで流れ着くことができるのか。緩やかな流れに頼りなく浮かんだそれを見つめながら、童僕はそんなことを考える。
すると、下流へと向かう流れに逆らうように、笹舟は進路を上流へと向けてすすみはじめた。
「浮竹の……」
何気なく拾った葉が、浮竹のものだったと知って、童僕は思わず呟いた。
いくら弱い流れとはいえ、小さな舟が逆らってすすむには厳しくて、笹舟はなかなか童僕の傍を離れられずにいた。それでも懸命に前に向かっていく。童僕は笹舟の速度に合わせてゆっくりと川沿いを庵のほうへ向かって歩いた。
童僕に見送られながら、笹舟は小川を遡ってゆき、やがて長い時間をかけてその視界から離れていった。
風が凪いで穏やかになった川面を笹舟はすすんでいく。童僕の手を離れた夕刻から時間が経ってすっかり暗くなっており、薄い月明りだけがあたりを包み込んでいた。竹林のなかを入り組んで流れていた小川は、林をぬけるとやや川幅がひらけていった。
空に浮かんだ半月が、先ほどから笹舟に寄り添うようにゆっくりと空を移動している。川原に生い茂った草叢からは、澄んだ虫の声が響いてくる。
不意に、虫たちの演奏を水を打つ大きな音が破り、跳ねた魚の立てた飛沫が笹舟に降りかかって、揺らす。真っ直ぐだった進路が揺らぎ、舵を切るように船首を前に向けて体勢を立て直した笹舟のすぐ横に、大きな魚が寄ってくる。餌になる虫か何かと勘違いをしたのかもしれない。
四〇センチメートルほどの体長の魚は、警戒心が強いらしく、笹舟の船首のわずかな動きに反応して、遠く泳ぎ去ってしまう。それからしばらくすると、再び近づいてきて、様子を伺うように笹舟の少し後ろについて泳ぐ。
小さな弧状の笹舟と魚の影が、月の白い光に照らされて水面に浮かび続けていた。
やがて、魚は笹舟への関心を失ったように、スッと横から離れてしまうと、二度と傍へは戻ってこなかった。月が隠れ、夜が明けると、暖かい色を帯びた朝の光が川一面を照らして、笹舟の輪郭をくっきりと映し出した。
押し寄せる細波に揺さぶられ、川の流れを分かつ大きな岩に行く手を遮られながら、笹舟は陽射しを浴びて絶えず変化し、煌めいている道をすすみ続ける。
昨晩、一緒に泳いでいた魚とは違う、小さな魚が数匹群を成して泳いでいく。それを狙うように飛来した野鳥が水面を打ち、傍に浮かんでいた笹舟の進路を妨げた。起こった波と飛沫に押されて、一回転、刹那、進路を見失った笹舟はそれでも何かに引き寄せられるように再び前に向き直って、これまでと変わらない速度で進行を続ける。
ぽっ、と水が小さく跳ねて、腐って川へ落ちた花が水面に浮かぶ。本来ならば、一枚ずつ花弁を散らせて、最後にその種子を風に乗せて遠くへと飛ばすようにできていたはずの花を、弱った茎が支えきれず、折れてしまったのだ。
この惑星に飛来した浮竹の種子もまた、その淡い色をした小さな花から生まれ、解き放たれてここまでやってきたのだった。浮竹の花はおおよそ数十年から百年の周期で開くといわれている。そのため、人がその花を見る機会は、一生に一度、あるかどうかである。薄い灰色をした地味な色合いの浮竹の花が、一斉に開花したところで、その色どりは特別な情感を称えるようなものではない。
やがて枯れてしまった花を散らした浮竹は、次にその茎を枯らして朽ちていく。長く大きく育った浮竹が、人気のない竹林のなかで色褪せ、倒れていく。お互いに地下茎で複雑につながっている浮竹は、同時に花を咲かせ、散らし、そして共に枯れ朽ちていく。ほぼ百年間にわたって林立していた浮竹は、わずかな期間のうちにそのほとんどが倒れていく。少し前まで竹林だった場所が、枯れて折り重なった浮竹の茎に覆われてしまうのだ。
浮竹が産業の一つであるシレリアでは、三〇年ほど前に、開花が観測され、その際には深刻な浮竹不足が発生した。しかし、散った花から蒔かれた種子が、再び育って新たな林を形成した。そうしてできあがった竹林が、少なくともあと数十年間は、街を潤してくれるだろう。
幾日も強い陽射しを浴び続けて、青かった笹舟は次第に焼けて色褪せていく。
カーヴェルの大河が近づいているのか、川幅はさらに広がって、時折、両岸を結ぶためにかけられた橋の下を笹舟は通ることになった。
小さな町の傍、長閑な昼下がりには、川に向かって釣り糸を垂らす人々の姿が見られ、笹舟は細い糸の合間を縫うようにしてゆっくりとすすんでいく。
「笹舟かぁ」
流れを遡っていく小さな笹舟に気がついて、釣り人の一人が声をあげる。
「ありゃ、浮竹だなぁ」
「つうこたぁ、シレリアから流れてきたんか」
誰からともなく浮竹の産地として知られているシレリアの名があがる。町から数十里も離れた場所からやってきた舟を、釣り人たちは物珍しそうに見つめている。大人たちが騒いでいるのに気がついて、子どもたちも集まってきて、生まれて初めて見る浮竹の葉でできた笹舟を見て、騒ぎだす。
笹舟をつかまえようとして、裸になった少年が川に飛び込んで泳ぎだす。
「こら、魚が逃げるじゃねぇか」
それほど笹舟に関心を示さずに釣りを続けていた男が怒鳴るが、少年はその声を無視して笹舟を追いかけていった。
泳ぎの巧みな少年は、着実に笹舟との距離を縮めていったが、舟が流れの激しい辺りに差しかかったところで諦めて岸へ戻っていった。
少年が岸に上がると、他の子どもたちが彼の周囲に集まってきて声をかける。彼らは小さな葉を手にしており、それを折って思い思いの形をした舟をつくった。残念ながらその葉は笹の葉ではなくて、上手く舟の形になったものは少なかった。
それでも子どもたちは、笹舟の真似をしようと、完成した葉舟を川に浮かべていく。数メートルほど流れて沈んでしまうもの、ただの落ち葉のように流れ去ってしまうもの、辛うじて舟のような格好で流れていくもの、さまざまな舟が一斉に川面に浮かんだ。
しかし、それらの一つとして、流れに逆らって川上に向かうものはなかった。
すでに遠く離れ去ってしまった笹舟のことなど忘れて、子どもたちはどうすれば早い舟がつくれるだろうかと考えながら、落ち葉を拾い集め、工夫を重ねはじめている。
楽しげな子どもたちの声が遠くから響いてくる。その声に見送られながら、笹舟は町から離れてさらに先へとすすんでいく。
大きな影が上空を覆い、昼下がりの川面を暗く染めた。
大陸を横断するように渡る巨鳥が一羽、その派手な極彩色の翼と長い尾をはためかせながら飛んでいた。鳥が羽ばたくたびに起こる風に川は波立ち、笹舟も大きく揺られる。鳥は、この先のカーヴェルの大河を超えて、さらに西の果てにある山脈を目指して飛んでいきその頂で羽を休めるといわれている。
その鳥は、浮竹と同じくこの惑星の外からやってきて、一時、羽を休めてはまた宙の果てへと飛び去っていく。そうして、また長い年月を経て、再び羽を休めるためにこの場所へと戻ってくる。
一際大きな羽ばたきによって、鳥は高度を上げていった。川面に映る影が小さくなり、笹舟に再び陽の光が当たる。風にあおられ、笹舟は浅瀬のほうへと押し流されて、そのまま岸へと乗り上げてしまう。
濡れた船体が川原の石に貼りついて、ゆっくりと乾いていく。もう間もなく、大河へ出ることができれば、あとはその雄大な流れを時間をかけて遡っていけばよいはずだった。しかし、流れを外れた笹舟が再び上を目指してすすみ出すためには、流れに戻るか、あるいは風に吹かれて舞い上がるか、二つに一つで、そのどちらの道も自ら選択することはできなかった。
そのまま数日が過ぎ、硬く渇いた笹舟は朽ちていくのを待つばかりだった。
川原に旅装の少女が姿を現したのは、そんなときであった。喉を潤すために水を飲もうとしたのか、顔を洗おうとでも思ったのか、水辺に近づいてきた少女は、その両方を行い、岸に乗り上げて岩に貼りついていた小さな笹舟をみつけて、それを拾い上げた。
「――様、これ」
振り返った少女が呼びかけると、彼女よりも一回りほど年嵩の連れの男が、ゆったりとした足取りで近づいてきた。
「ほう、笹舟か。ずいぶん痛んでいるようだが、どこから流れ着いたのか」
少女の手のひらに乗せられた小さな舟を見つめて呟きながら、男はそれをつまみ上げた。
「これは浮竹の葉だな」
「浮竹?」
「シレリアの北にある竹林の一部に群生しているというが……、まさかここまで流れてきたわけでもあるまい。この辺りにも生えているのだろう」
言って、男は舟を少女の手のひらの上に戻した。
「川に浮かべてみろ、面白いものが見られるぞ」
男に促されて、少女が跪いて笹舟を流れの上にそっと置く。すると、舟は再び上流を目指してゆっくりと川を遡っていく。
「あ、川と反対に!」
驚いて少女が声をあげると、男は愉快げに小さく笑った。
「さぁ、舟に置いていかれぬよう、我々も先を急ごう」
歩きだした男のあとを追いかけるように、少女は立ち上がり、小さく駆け出す。二人はすぐに笹舟を追いぬき、川沿いの道を逸れていった。
暗い曇天がさらに深まり、疎らに降りだした雨は、すぐにその勢いを増して地上を強く打ちはじめた。水嵩が上がり勢いを増した川に、笹舟はのぼってきた川路を押し戻されてしまう。
氾濫した流れに飲み込まれて、舟のなかはすぐに水で溢れ、転覆し、沈んでは浮かぶことを繰り返しているうちに、すっかり方角を見失ってしまう。
やがて雨が止むと、次第に流れは落ち着いていった。笹舟は嵩の増した川の上に流木などとともに浮かび上がり、船体を回転させて方向を定める。
そうしてようやく分流をぬけて、カーヴェルの大河に乗った笹舟は、その広大な流れに揺られながら、さらに上流を目指してすすんでいく。大きな船の行き合う交易都市の傍では、そのスクリューに巻き込まれぬよう、笹舟は左右にうねりながら隙間を縫うようにしていく。
時折、都市から流出した廃棄物が浮かび、逆流している笹舟の前に障害物として現れることもある。それを避けたり、かすめたりしながら、変わらぬペースで笹舟は行く。
対岸を行き交う人力の小さな渡し船が、笹舟と同じように大型船を避けながら川を渡っていく。その櫂が水をかくと、流れとは違った波が起こり、笹舟を揺らす。
退屈そうに渡し船に乗っていた子どもが、笹舟をみつけてそれをつかもうと手を伸ばしたが、波がその間を引き離し、手のひらは空を切った。ほんの少し濡れた指先を服の袖でぬぐうと、子どもは鞄のなかから筆入れを取り出して、角の丸くなった消しゴムをつまみ、それを小さく千切って笹舟に向かって投げはじめた。
消しゴムの欠片は笹舟に届かず、周囲の水面に小さなしぶきを立てて吸い込まれていった。すぐに投擲に飽きてしまった子どもは、笹舟から目を逸らし、いつの間にか近づいていた岸のほうを見ながら、船を降りる準備をはじめた。
街の近くの川は、生活排水が流れ込んでいることもあり、分流のような透きとおった清さはない。雄大な濁流をすすむにつれて、また、染め物の盛んな街では化学染料の混ざった赤や青の水が褪せていた笹舟を染めていった。
やがて遠くに、山頂を深い霧に覆われた山並みが見えてくる。カーヴェルの源流はそのホライと呼ばれる山の奥深い場所にあるとされており、その辺りにはシレリアの北の地域よりも広大な浮竹の林があった。
そもそも、外から飛来した浮竹の種子が最初に根を張ったのがその山奥の土地であり、シレリアの浮竹は、この惑星に根付いた浮竹が開花し、その種子が星をめぐる風に乗って各地へと散らばっていったもののうちの一つにすぎない。
天にも届くといわれるその山では、年に数度、遠く宇宙へと吹き上げていくという、宙風と呼ばれる強い風が吹く。その風は煙嵐を巻き上げながら、浮竹の葉をさらい、空へと昇っていく。浮竹の葉が宇宙へ還っていくという言伝えは、そんな光景を見た者の口からはじまったのだ。
数十年のサイクルで花を咲かせ、茎を枯らし、浮竹は生まれ変わる。しかし、この地に最初に根付いた浮竹の原種は、けっして枯れることなく大きく成長し、山を覆っている全ての浮竹と地下茎で結びつきながら、その生命を力強く支えていた。
ホライの山の浮竹は、けっして枯れることがない。
そして、各地に散らばっていった種子たちもまた、その原初たる巨竹と結びつくことを求め、その山のある方角へ向けて茎をほんのわずかしならせているのだった。そこには目には見えず、また人には感知することができないほどの微弱な引力が働いており、またさらには、遥か彼方、遠い宇宙のどこかにある浮竹の故郷から、この惑星の浮竹へと働いている力も存在しているのだろう。
浮竹の葉は、旅のお守りとしても知られていて、道に迷ったとき、その葉を風に乗せて飛ばしてみれば、それはホライの山へ向かって飛んでいくので方角を知ることができるとされている。
その力が、浮竹の葉を引き寄せるのであれば、風に乗った葉が、そのまま宇宙へと飛び上がっていくという伝承もあながち大げさな話ではないのかもしれなかった。
現に、小さくて弱い一枚の葉でできた笹舟は、長大なカーヴェルの流れに抗いながら、その源流近くにある、巨竹に引き寄せられるように長い旅を続けている。
風が吹き、川面に細波が起こる。その上空を数葉の笹の葉が、ホライの山を目指して舞うように飛んでいった。その葉が、どこから飛来したものなのか、過酷な川のぼりを続けている笹舟に比べて損傷もなく、散ったときとさほど変わらない青さを残している葉群に追いぬかれながら、笹舟はようやく山の麓までたどり着いた。
険しい山のなかを蛇行しながら流れる川は、これまでとは異なる激しい急流となって笹舟の前に立ちはだかった。笹舟は、押し戻そうとする流れにのまれ、飛沫を浴びながらも、なお、見えない力に引き寄せられるようにすすむ。
岩肌に裂かれ、結び目がほころび、次第に舟の形をとどめていることさえも難しくなっていく。しかし、山を登っていくほどに、引き寄せる力は強くなっていき、笹舟をはじまりの場所へと導こうと働きかけてくる。
やがて流れが緩やかになり、水の深く溜まった場所へとやってくる。その奥には、瀑布のごとく激しく水面を打つ、白い滝があった。笹舟は、その滝をのぼろうと近づいていくが、打ち付ける水の重さに押しつぶされそうになり、また落ちる滝の力に圧倒されてのぼることは叶わず、行きあぐねてしまう。
それでも本能に惹かれるように、笹舟は滝壺をめぐりながら、先へのぼろうと何度も滝へと向かっていく。やがて緩んでいた結び目はほどけ、笹舟は、一枚の笹の葉に戻ってしまう。
あちこち裂けており、白く色褪せて、ところどころ化学染料に染まった葉は、もう朽ちるのを待つばかりといった痛ましい姿を水の上に浮かべていた。
辺りには滝が水面を打ち続ける音だけが絶えず響いている。
不意に、大きな影が上空を覆った。旅の途中で追いぬかれた巨大な鳥が、羽を休めるために立ち寄った山頂を離れ、飛び去ろうとしていたのだ。その羽ばたきが突風を巻き起こし、その風が滝壺の水面を撫でた。
笹の葉はその風に乗って、水を離れ、宙に舞った。すると、巨鳥を高く押し上げるように、激しい宙風が吹き上げてきて、その勢いに乗って鳥は空高く昇っていった。
宙風にあおられるように、山のあちこちから木々の葉が舞い上がり、霧のなかに黒い小さな影を無数に浮かべていく。そのなかには原種の浮竹の葉も多く混じっており、笹舟だった葉は、その仲間たちのもとへ引き寄せられるように、風のなかを彷徨った。
そして、そのまま風に吹き上げられるように高く、高く、空の果てへと昇っていき、やがて惑星の重力からも解放されていく。そこには、新しい力――遠い場所から笹の葉たちに呼びかけてくる引き寄せる力――が働いていた。
その力は太陽のもたらすプラズマよりも強く、葉に作用していた。川の流れから解放された笹の葉は、これからまた長く静かな旅をゆっくりと続けていく。その目的が何なのか、行き着く果てが何処にあるのかなど知る由もなく、ただ宙の流れるがままに。
文字数:9151