Call girl salvation

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梗 概

Call girl salvation

 武蔵小山アーケードの先、平塚橋交差点の側にテイスティ・ゴールド教団総本山はある。上級信徒ルロイは、最奥の部屋、御簾の向こう側に鎮座する開祖マイスター・ヤマから小型ディスクを授かり、託宣を聞く。

――解脱なさい

 ルロイは修行を完成させるため中原街道沿いを五反田支部跡地へ向かう。首都高の下を抜け、TOC前の歩道橋を経由して大崎広小路の交差点に出る。横断歩道を渡った先の路地を入れば旧五反田支部だ。現在は飲食店となっているこの場所でルロイは修行の日々を送った。店内に見知った教団員を見つけて隣に座る。久々の再会に握手を交わす、と見せかけて相手にディスクを渡し、代わりに指名札を受け取り店を出る。
 そのまま五反田駅のガード下を抜けて駅東口広場の歩道橋を渡り、歓楽街の無料案内所ワイキキに入る。そこで指名札を見せるとラレンシアという少女を紹介され、待合せ場所へのイメージマップと教団の秘薬「サルヴァ」を一錠渡される。それを飲み込んだルロイは、マップに導かれるまま再びガード下を通り、大崎橋を渡った先の雑居ビルへと吸い込まれていく。頭の中には少女の呼び声が響いている。
 朦朧とした意識のままエレベータに乗り込み降りた先、声風俗店ハウリング・ルーンで待っていたラレンシアは、実体をもたない音声だけの存在、声体少女だった。薬効で鋭敏になった感覚、常人には感知できないラレンシアの周波数に愛撫され、ルロイは愉楽へと至る。弛緩した意識の奥で、修行と呼ばれる処置により脳内に埋め込まれた圧縮空間「カクリヨ」が開いていく。そこへ浸入してくるラレンシアに自らの身体を明け渡し、ルロイは音となって体外へ漏れ出していく。
 肉体を手に入れたラレンシアは、ルロイの意識がプレスされた音楽盤を手にし、それを総本山へ運ぶ。御簾の裏、ヤマと呼ばれる再生機に音楽盤をセットすると、浄化されたルロイの意識が音楽となって流れ出し、昇天していく。

文字数:800

内容に関するアピール

 五反田を舞台にとのことで、馴染みのある武蔵小山から五反田にかけての道をのんびりと楽しい気分で歩いている様子を書いてみたいと思い、展開を考えました。それほど頻繁にではないけれど、ときどき訪れる機会のある場所というのは、そこにあった建物の変化などによって時間の経過を感じたりするものですが、テイスティ・ゴールド五反田支部もそうした建物の一つに数えられるでしょうか。いちおう舞台となる建物の位置や道筋は、すべて実在する場所を想定しています。
 ひとつだけ現実とは異なる設定をということでは、教団の存在自体がフィクションですが、どちらかというと声風俗の快楽による意識の交換・交歓のほうをフィクショナルな設定として魅力的に描いてみたいと思います。やや宗教的なテーマを感じさせる内容になってしまいましたが、あまりシリアスになりすぎず、真顔で冗談を言っているのを聞かされるような、奇妙な読み味に仕上げるつもりです。

文字数:400

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Call girl salvation!

※ 主人公の聖地・五反田巡礼を追体験できる風景画像付の
  PDFをご用意いたしました。ぜひご利用ください。
  (縦書・B6判・46頁・922kb)

 

 テイスティ・ゴールド信徒の朝は早い。
 陽射しの柔らかい朝、都下最長八〇〇メートルの長さを誇り、日中は大勢の人で賑わっている武蔵小山アーケード商店街Palme!に、まだ人影はまばらだった。両側に並ぶシャッターの降りた店舗の間をゆっくりと歩きながら、ルロイは大きく一つ深呼吸する。冷たい朝の空気が心地よく肺腑を満たしていき、少しずつ気持ちが落ち着ついてゆく。
 アーケードを抜けて、その先にある銀行の建物に沿って進んでいくと、すぐに見慣れたテイスティ・ゴールド教団総本山の入口が見えてくる。古びた庶民食堂の店舗に偽装されたその入口を、何も知らない人であれば気にも留めずに素通りしてしまうだろう。しかしルロイたち信徒にとって、その雑然として古びた佇まいはいつでも畏怖を感じさせるものであった。
 食堂は高層の建物の一階部分にテナントの一つとして入っており、上層階は大規模集合住宅になっている。その一部は教団の施設として利用されていて、住宅部分にも多くの信徒たちが住み込んで、日々修行に励んでいた。
 シャッターの降りた食堂の脇にあるインターホンの呼び出しボタンを押すと、小さなスピーカーからひび割れた声が聞こえてくる。

「Tasty Gold is――」
「――trusty God」
「救済の日は近い――」
「――我らに神の祝福を」

 決められた合言葉で応えると、シャッターがゆっくりと半分ほど上がり、停止した。その隙間に身体をねじ込むようにしゃがんで、ルロイは店舗の中へと入る。すでに朝の仕込みがはじまっており、店内には香ばしいカレーの香りが漂っていた。
 薄暗い店の中で、壁に貼られたメニューの札に視線を走らせると、名物メニューである「焼きカレー」の文字がひときわ目を引いた。
(……そういえば、しばらく食べてないな)と考えながら、ルロイは厨房のさらに奥へと進み、業務用冷蔵庫とダストシューターの隙間にある隠し扉を開き、その裏の階段を下りて地下礼拝堂へと向かった。
 礼拝堂にはすでに大勢の信徒が集まっており、前方の祭壇に向かって跪き、熱心に祈りを捧げていた。上級信徒であるルロイは、祈る人々の間を抜けて周囲よりも高くなっている壇上席へとあがり、自身の洗礼名の刻まれたプレートの置かれている所定の席に腰を下ろした。
 すでに隣の席に座っていた上級信徒のブローナが、挨拶代わりに信仰を示すためのハンドサインを送ってきたのに同じサインで応じ、ふっと一息ついてルロイは礼拝堂を見渡してみる。そこにいる誰もが、救いを求めていた。
 祭壇の真上、礼拝堂の中央に掲げられ、寸分の狂いもなく調整された「時の歯車」と呼ばれる大時計の秒針が午前五時ちょうどを指した瞬間、荘厳なオルガンの旋律が天井からつるされている大型スピーカーから流れだすと、集まった人々は懐から教歌集を取り出して「賛美のうた」を合唱しはじめた。

 

 おお 麗しのテイスト
 その輝きは黄金の如く
 我らのアニマを隈なく照らし
 神の国へと導きたもう

 そのまなざしは愁いを帯び
 この世の苦難に悲しみ濡れる
 救いの御使いマイスター・ヤマ
 汚れた世界を光でみたし
 浄化の道をさししめす

 いざ 救いたまえ
 救いたまえ
 救済の日は近い
 我ら かくり世の理を識り
 ただ そのときをまつ者なり

 テイスティ・ゴールド
 我らが希望
 テイスティ・ゴールド
 我らに神の祝福を!

 

 歌声がおさまり音楽が消えると、教団幹部である導師アルアラが祭壇上にあがり、経典の一説を読み上げていく。人々はその言葉に耳を傾けながら自らの日々の生活を省み、この世の苦しみを思い、ささやかな幸福に感謝して、来たるべき救済の日への思いを焦がす。ルロイもまた、先日職場で犯してしまった自らの過ちを思い返しながら、心の内で(どうか、罪深い私に救済を与えたまえ)と繰り返した。
 そんな願いが届いたのか、朝の祈りを終えて解散する人々に続いて出ていこうとしたルロイは導師アルアラに呼び止められて、一人礼拝堂に残ることとなった。
「信徒ルロイ、マイスター・ヤマがお呼びです」
 マイスター・ヤマ。その名を聞いて畏敬の念を感じない者は、少なくともこの教団にはいないだろう。テイスティ・ゴールド教団の開祖にして神の言葉を授かりし者。話によればすでに齢は百を超えており、しかし未だに明瞭な思考と強靭な意思を保ち続けていると言われている。しかし、その姿は教団でもごく一部の幹部しか目にしたことがないとされていた。当然、ルロイ程度の信徒ではマイスター・ヤマの姿を目にしたことはおろか、その肉声すら聞いたことがない。
 そんな自分にいま、マイスター・ヤマから直々に声がかかり、そしてこれからその御前に召されるのだと思うと、その栄光にルロイの身は震えた。
 導師アルアラのあとにつづいて、ルロイは礼拝堂の左手奥にある壮麗なレリーフの施されている重厚な木製扉の奥へと進んでいった。扉の向こう側へ足を踏み入れるのは初めてであり、その一歩を踏み出したときルロイは足元から強烈な生命の息吹が湧き上がってくるような感覚に捉われ、自分の魂のランクが次の階梯へと上がりつつあるのだということを感じずにはいられなかった。
 長い廊下を進んだ先にある大扉の前で振り返った導師アルアラは、ルロイの意思を確かめるように視線を合わせ、強いまなざしを向けた。
「ここから奥はマイスター・ヤマの領域になります。そのあまりにも強大な気に中てられれば、並大抵の人間ではまともに意識を保っていることはできません」
 こちらを……、と呟いて扉脇の小棚から導師アルアラが取り出したのは、頭部を覆うようなヴェール状に加工された超薄型のヘッドマウントディスプレイだった。
 重さの感じられないその薄布を受け取って被ってみると、ルロイはまるで神の加護によって守られているような安心感に満たされていった。
「先へはあなた一人で進みなさい」
 そう言われて扉の先へと送り出されたルロイは、不安と期待の間を揺れ惑いながらマイスター・ヤマの待つ「末法の間」へと歩みを進めていった。
 教団総本山の最深部にあるマイスター・ヤマの居室は、想像していたほど広くはなかったが、その白い壁面は礼拝堂の奥にあった扉と同様に細密な彫刻によって彩られており、神聖で厳かな雰囲気をたたえていた。
 部屋の奥に垂れこめた御簾の向こうに、仰臥したマイスター・ヤマの優美なシルエットが見えた。
「ルロイよ……」
 そう呼びかけられて、「はい」と返事をした自分が、果たしてしっかりと声を出すことができたのかどうかさえ、ルロイにはわからなかった。「末法の間」と、そこに響き渡ったマイスター・ヤマの色のない澄み切った声は、それほどの緊迫感に満ちていた。
 沈黙がつづき、額からにじみだした冷たい汗が頬を伝っていくのを、ルロイは指先ひとつ動かすことができないまま、感じていた。
 マイスター・ヤマがすっと空気を吸い込む音が聞こえたような気がした。
 そして――

「――解脱なさい」

 一切の感情を排した冷厳な声で告げられた言葉は、逆らいがたい強制力を持ってルロイの全身を打った。言葉に刺激されて、脳が異様な熱を帯びはじめていた。そして、ルロイはついに自分の修行が完成する日が訪れたことを知った。
 マイスター・ヤマから託宣を授かったルロイは、御簾に映し出された影を直視しないよう目を伏せたまま跪拝した。
 しばらくすると落とされていた部屋の照明が灯され、ようやくルロイが顔を上げたとき、すでに目の前にマイスター・ヤマの影はなかった。立ち上がり、なだらかに垂れた御簾に一礼して、ルロイは足音を立てないようそっと部屋を出た。
 大扉のところまで戻ると導師アルアラが待ち構えており、ルロイが外したヘッドマウントディスプレイを受け取りながら「おめでとうございます。信徒ルロイ」と祝福の言葉を述べた。
 ディスプレイに覆われていた頭部の熱は、時間が経って冷めるどころか痛みを伴うほどに加熱されており、ルロイは返事をする代わりに小さなうめき声をあげ、熱い息を吐いた。
「マイスター・ヤマからこれを預かっています」
 そう言って差し出された長型三号の茶封筒の中には、手のひらに収まるほどのサイズの小型ディスクが入っていた。
「……これは?」
「その中に、あなたの解脱に必要な音記憶が封印されています」
 音記憶。それはルロイが修行の過程で思考し、意識の底から絞り出した記憶を波形処理してデータ化したものだ。そこにはかつてルロイの潜在意識に埋め込まれていた無数の情報が刻み込まれている。
「ついに……浄化の音を、聴けるのですね」
 呟いて、ルロイは封筒を丁寧に二つ折りにしてシャツの胸ポケットにしまった。
 導師アルアラはヘッドマウントディスプレイを棚の元の位置に戻すと、新たにサングラスのようなものとデジタル音楽プレイヤー、そして三枚の札を取り出して、ルロイに手渡した。
「信徒……いえ、導師ルロイ。あなたにはこれから五反田支部に向かっていただくことになります。そこで技術部のエージェント・ウエカワにそのディスクを渡してください」
 すでに自分が上級信徒から導師へと昇段したのだということを、ルロイは導師アルアラの呼びかけによって知らされ、その称号の重みに打ち震えた。そして、導師アルアラの言葉にいくつか違和感を覚えてたずね返す。
「導師アルアラ。五反田支部はすでに解体されたはずでは……。それにウエカワは、修行に耐えられず還俗したのでは?」
 ルロイの問いかけに肯きながら、導師アルアラはその疑問に一つひとつ答えていった。
「おっしゃる通り、すでに五反田支部は解体されています。しかし、その跡地は教団の技術部の研究・開発施設として今でも利用されているのです。それからウエカワですが……たしかに彼は修行に失敗し、一度は教団を去ろうと考えていたようです。しかし、マイスター・ヤマは彼の技術者としての才能を見抜き、現世における真の役割をお与えになられたのです」
 そう語りながら微笑んだ導師アルアラの満足げな表情に、ルロイもすべてを納得した。たしかにウエカワは、信仰の道へと進む以前は国内の最高学府とされる大学で最先端の工学を学んでいたと話していた。同時期に修行に入り、苦楽を共にした仲間が、教団に残り自らの才能を発揮して世界の救済のために活躍しているのだと知り安堵したルロイは、これから彼と再会できるということに気持ちが高揚した。
 そんなルロイの心の動きを見抜いたように「導師ルロイ、心を乱してはいけません」と導師アルアラは平静さを保つよう促した。
 受け取ったサングラス――それは異世界を幻視させるという時空干渉グラスという特殊な素材で作られたもので、解脱へ向けて装着者の視覚情報を減縮し、記憶の奥に眠っている情報を幻視再生させながら整理していき、意識をより純度の高い状態へと導くのに必要なものだった。
 そして音楽プレイヤーにはその作用を促すために、教団での礼拝や修行における意識洗浄の際に用いられる音楽をマイスター・ヤマが自らの手によってリミックスした特別なトラックが収められているとのことだった。
「アペンド・メタ・ミックス――その旋律によって新たな視点を獲得し、己を俯瞰することで、聴いた者をさらなる内省へと導く至高の楽曲の数々……私もまだそれを体験したことは、ありません」
 心の底から羨むように導師アルアラは言った。
「これから行われるサルヴェーションの過程において、あなたの意識はこの世を離れ、はるか神の世界へと旅立つことになるでしょう……。その旅に、肉体を連れていくことはできません。よろしいですね?」
「はい。いまさらそのようなこと……この道にいざなわれ精進すると決めてから、私の心に迷いの生じたことは一度たりともありません」
「その言葉を聞いて安心しましたよ、導師ルロイ」
 力強いルロイの返事に肯き「しかし残念なことに、あなたの意識が離れた後も肉体は死滅せず、しばらくの間は残り続けることになるのです。そのとき、帰るべき場所への寄る辺となる道筋を示すために、ここから五反田へと向かう途中、三枚の札を目印として貼って行きなさい。そうすれば残されたあなたの肉体は、迷わずにこの場所へと戻ってくることができるでしょう」と導師アルアラは一息に言った。
「御心遣い、感謝いたします、導師アルアラ。それでは、先に行って参ります」
 三枚の札を握りしめ、今生の別れとなる最後の挨拶を告げて、ルロイは深々と一礼して導師アルアラの前を去った。その背中に向かって導師アルアラが呼びかける。
「いいですか、導師ルロイ。サルヴェーションの途中で、決して振り返ってはいけませんよ。この世に何一つ、未練を残してはならないのです。くれぐれも……」
 すでにサングラスと音楽プレイヤーを装着し、その視覚と聴覚を浄めはじめていたルロイには、あとに続く言葉は届かなかった。

 

 §

 

 Yo, Check it out ! You check it out !
 We are The Tasty, We are The Gold !

 イヤホンからマイスター・ヤマの呼びかけが聞こえてくる。ふだんから聞き慣れているはずの穏やかな宗教音楽には凄まじいアレンジとメッセージ性あふれるリリックが加えられており、刻まれるビートと激しく粒だったベースラインによって自然とルロイの歩調は速くなっていった。
 リズムに身をゆだねて肩を揺らして歩いていくうちに、その振幅は次第に大きくなっていき、揺さぶられた勢いに押し出されるようにして、トランス状態に陥ったルロイの意識は脳天から飛び出して、中原街道を歩く自らの姿を見下ろしている――そんな錯覚にとらわれていた。

 Yeaaaaah HAAAA !

 先ほど「末法の間」で聞いた冷厳な語りからは想像もできない、マイスター・ヤマの激しいシャウトがルロイの脳内に響き渡る。あまりの激しさに失禁しそうになる衝動を何とか抑えながら、度肝を抜かれたルロイは魂を殴打されたような強い衝撃に全身の力が抜けてしまい、腰と膝が砕けたようにその場に崩れ落ち、アスファルトの大地に跪いてしまう。
 そして、そのまま感謝を込めて大地に接吻する。
 自身を解脱へと導くために、マイスター・ヤマがその声を振り絞り、叫んでいる。その奇跡ともいうべき恩恵に感謝の念がとめどなく湧き起こり、ルロイは心を鎮めるために三度、大地に額をこすりつけ、接吻した。
 中原街道の狭い歩道の真ん中にうずくまっているルロイの脇を、自転車に乗った初老の男が怪訝そうな視線を向けて、邪魔だというようにベルを鳴らしながら、通り過ぎていった。
 時空干渉グラスの効果による幻視は、ルロイの眼前にマイスター・ヤマのシルエットを浮かび上がらせていた。その影が、音楽に合わせてツイストし、腰をくねらせながら、踊り狂っている。
 テイスティ・ゴールド総本山を出て平塚橋交差点を左折したあたり、まだ数十メートルしか進んでいないにもかかわらず、すでにルロイは解脱の一歩手前まで近づいているのではないかと、自らの適応力に感銘を受けながら、修行によって培われた腹の内奥を使った深い呼吸を繰り返して乱れた心を落ち着け、ゆっくりと立ち上がり再び歩きはじめた。
 一枚目の札を、平塚橋バス停留所に貼りつけておく。同様に、ここから先、平塚二丁目と桐が谷坂上のバス停留所に札を貼っておけば、五反田で意識を解き放った後でも迷わずに武蔵小山Palme ! に戻ってくることができるだろう。

 Two steps, One step. Right Turn, Left Turn.

 二歩進み、一歩下がり、音楽に合わせて千鳥足のような格好で、時折ターンも織り交ぜながらルロイは軽快な足取りで五反田を目指して進んでいった。この鮮やかな身のこなしも過酷な修行とダンスレッスンによって磨き上げられたものだ。かつて教団地下墓地(カタコーム)に併設された催事場で、布教活動のために仲間たちと文字通り地下アイドル・ユニット「Tasty × Tasty」(テス×テス)の三号として活動していた頃を懐かしく思い出しながら、ルロイはキレのある動きで歩道を前後左右に軽やかに移動していった。
 デビュー曲「ただいまMICのテストChu ♥」は独特の振り付けのTes-Tesダンスと裏声による奇声を駆使して高らかに歌い上げられるサビのフレーズでカルトな人気を博した。
(サミーユ……元気にしてるかな)
 ユニットの仲間の中でも特に親しかった二号のことを不意に思い出し、ルロイは刹那の感傷に浸りかけて、しかし、この世への未練を断ち切るために大きくかぶりを振ってヘッドバンキングをすることで、その雑念を振り払った。

 Destrooooooooooooooooooooooy !!

 ルロイがダンスに悩んでいたとき、師であったダンスマスター・ハナブサは言った。
「常識を破壊せよ。しかし決して破戒することなかれ」
 その言葉によって悩みを払拭し、覚醒したルロイの常人離れした動き、そのキレのあるダンスは知る人が見れば一目でわかる見事なものだった。
「あ、あの、もしかして三号? テス×テスの……」と、かつてのルロイの活躍を知る者が背後から声をかけてきたが、サルヴェーションの過程において後ろを振り返ることのできないルロイには、ただ動きを止めて「いえ、人違いです」と答えることしかできなかった。
 平塚二丁目のバス停に札を貼って、星薬科大学大学院の門の前を通過する。日世メリーランドカップ社のエントランスに堂々と立つ二体の聖像に礼をして、荏原金毘羅神社に奉納されている巨大なアメジスト、礼拝堂を意味するカペーラとも呼ばれるパワーストーンの気を浴びて桐が谷坂上のバス停にたどり着いたときには、ルロイは踊り疲れて満身創痍の状態になっていた。これから首都高速二号目黒線の下を抜ければ、いよいよ五反田の空気が濃くなっていく。
 この世に別れを告げるつもりで「さらば、此岸よ、旅立つ我は」などと歌うように口にしつつ、ルロイはエンターテインメント・リサイクルシップ・宇宙戦艦ヤマダの前を通り過ぎた。
 テイスティ・ゴールド教団にとって、総本山こそマイスター・ヤマ生誕の地である武蔵小山におかれているものの、マイスター・ヤマが書店で立ち読みをしていた際に天啓を授かり、その使命に目覚めたといわれる五反田は、教団にとっては第二の聖地ともいえる場所であった。
 その聖地にかつて存在していた五反田支部。そこで修行の日々を送ることを許されたのは、信徒の中でも選び抜かれたエリート中のエリートであり、そこで行われる修行の過酷さも群を抜いたものであると言われていた。当然、その過酷さに耐えきれず、脱落していく者も多かった。
 その修行に耐え抜いたルロイのような一部の信徒だけが、上級信徒へ、そしてさらなる高みへと階梯を上がっていく可能性を手にすることができた。それはルロイにとって信徒としての誇りであり、信仰の篤さと献身を示すものだった。
 しかし、修行のあまりの過酷さと、そして自らの信仰を曲げられぬという篤信ゆえに、悲劇は起こってしまった。ルロイが五反田支部での修行を終えた直後、ともに修行に励んでいた仲間の一人が力尽き、サルヴェーションを経ることなく、この世を去ってしまったのだ。その悲劇の責任をとる形で、五反田支部は解散されることとなってしまった。修行場は表向きはテイスティ・ゴールド教団とはまったく別のダミー組織として活動していたため、その悲劇が教団本体に社会的な影響を与えることはなかったが、それでも以降、教団は聖地・五反田での活動を自粛せざるをえない状況に追い込まれていた。
 そして数年前、マイスター・ヤマが天啓を受けたとされる書店も、折からの不況と巡礼に訪れる信者の減少のため閉店に追い込まれてしまい、五反田からはかつての輝きは失われてしまっていた。
 時空干渉グラスの見せる過去の幻想に囚われているうちに、いつの間にかルロイは東京卸売センター――通称、五反田TOCの前に立っていた。無料送迎バスから降りてくる買い物客のざわめきが音楽と混ざり合ってルロイの感性を刺激し、その意識を現実へと引き戻していった。
 いま、ルロイの目の前にはTOC前に設置されている歩道橋の階段がある。一歩踏み出してここをのぼりはじめたとき、ルロイは異界へと、聖地五反田へと入り込むことになる。そうなればもう二度と現世に戻ってくることは叶わないだろう。ここから先は明らかに別の領域、サルヴェーションの最終段階なのだ。

 Go Ahead, Go Ahead, you go ahead now !

 マイスター・ヤマの声に背中を押されるように、ルロイは階段をのぼりはじめた。歩道橋の上からは目の前に広がっているV字に大きく二股に分かれた車道が見える。その中央へと降り立つために、三叉となっている歩道橋の中央の階段を下っていく。一歩ステップを降りていくごとに、五反田の濃密な空気がルロイの白い頬を撫でていく。あまりの空気の濃さにむせ返りながら、ルロイは何とか階段を降りきって、数年ぶりに五反田の地を踏みしめた。足が大地にへばりついて、そのまま地の底へと引きずり込まれてしまいそうな重圧が感じられた。
(マイスター・ヤマ、果たして私は再びこの地へ足を踏み入れてもよかったのでしょうか)
 ルロイは心の中で、すがるような思いでそう問いかけた。

 Go Ahead, Go Ahead, you go ahead , Go!

 先ほどから繰り返されているサビのフレーズが、その答えを物語っていた。その言葉に勇気づけられて、ルロイは歩きだした。前進せよ、前進せよ。いつの間にかすっかり覚えてしまった歌詞を口ずさみながら進むルロイに、もう迷いはなかった。マイスター・ヤマの歌声に合わせて祝詞を唱えながら踊り進むルロイの姿は、さながら現代の踊念仏師のようであった。
 赤と白に彩られ、ひときわ目を引くタキゲンの看板を目印に進み、大崎広小路交差点のコンビニエンス・ストアに踊りながら入店して飲料水を購入したルロイは、店を出たタイミングでちょうど青信号に切り替わった交差点を渡っていった。懐かしい道。もう五反田支部の跡地は目と鼻の先にまで迫っていた。
 渡りきった先、都道317号線を挟んだ向こう側に、天啓の地である書店の跡にできたコンビニエンス・ストアの看板が見えた。先ほどルロイが飲料水を購入したのと同じコンビニ・チェーン店の派手な看板を見ていると、まるでテイスティ・ゴールドの勢力が弱まったこのエリアをコンビニが支配していくかのようにも感じられる。足を止めてしばらく無残に変貌した聖地に哀悼の意を捧げてから、ルロイは一つ目の路地を入った。そこにかつて五反田支部はあったのだ。
 旧五反田支部は現在、大衆向けの飲食店となっており、ちょうどランチタイム営業の時間帯だったが、店内には客の姿はまばらだった。
「いらっしゃい……」
 渋みのある落ち着いた低い声でそう呼びかけたのは、かつての師、ダンスマスター・ハナブサであった。そのしなやかな肢体を割烹着につつんだハナブサは、完全に小料理屋の店主といったいでたちとなっていた。
 とつぜんの再会に狼狽し、また元気そうなハナブサの姿を懐かしく思いながら、ルロイは深い呼吸を行って心を落ち着け、ウエカワの姿を探した。そして、カウンター席のいちばん奥でプレーンオムレツを食しているウエカワを見つけると、その隣に腰を下ろした。
「久しぶりだな、ルロイ」
 ルロイのほうに顔を向けず、オムレツをじっと見つめたまま、ウエカワは再会の言葉を呟いた。
「あなたが技術部に転属になっていたなんて」
 当時と変わらないウエカワの卑屈な笑いの浮かんだ横顔を見つめて、ルロイがそう言うと「フッ、修行を挫折した俺と、これから解脱をむかえるお前がこうして並んで食事をするなんてな……」と苦笑交じりの言葉が返ってくる。
「教団の活動に貢献していると、導師アルアラから聞きました」
「まぁ、俺にはこっちのほうが向いていたんだ。きっとマイスター・ヤマははじめからすべて見通していたんだろうな」
 まぁ、とにかく今はこうして再会できたことを喜び合おうじゃないか、と握手を求めて差し出された手と、その言葉とは裏腹に真剣な技術者の鋭さのこもったウエカワの眼差しを見つめて、ルロイは肯いてシャツのポケットに入れておいた封筒から小型ディスクを取り出して握手をするふりをしながらそっと手渡した。
 ウエカワは何気ない素振りでディスクをポケットにしまい込み、代わりに名刺大のカードを取り出して「何かあったらここに連絡してくれ」と口の端を歪めて笑い、席を立った。
 ルロイはほとんど手つかずのまま残されたオムレツを見つめ、それから受け取ったカードを確認した。
 カードは、五反田駅東口方面一帯に広がっている風俗街で会員限定で用いられている指名札だった。風俗街に数件ある無料案内所の中には教団系列のものが一つあって、つまりこの指名札を使って次の目的地を目指せということらしかった。
 ウエカワの手に渡った自分の音記憶が、いったい何に使われるのかと疑問に思いながら、ルロイが席を立って店を出ようとすると、今まで黙ったまま仕込みを続けていたハナブサが不意に口を開き、「立派になったな、ルロイ。常識を破壊せよ、しかし決して破戒することなかれ。どうやらお前にはこの言葉の意味が理解できたようだな」と目を伏せたまま呟いた。その言葉には返事をせず、ルロイは旧五反田支部をあとにした。
 大崎橋を渡り五反田駅のほうへ進んでいくと、道路の向こう側、駅のガード脇にある小さなうどん屋「おにやんま」の前に行列が見えた。かつて五反田で修行に励んでいた頃と何も変わっていないその光景を懐かしく思いながら、ルロイは暗いガードの下を抜けて東口の喫煙所から歩道橋を上がり、風俗街のほうへと向かった。
 昼時ということもあり、夜の街であるそのエリアに人影はまばらだったが、煌びやかな看板の掲げられたビルの前に停められているタクシーを囲んで見送るように、着飾った女性が立ち並んでいる様子は独特の雰囲気を漂わせていた。
 街に踏み込んですぐ右手、水色の看板に黄色いゴシック体で書かれている「風俗無料案内所ワイ・キキ」の文字を見つけたルロイは、退屈そうに案内所の前に立っていた黒いスーツ姿の男に軽く会釈をした。
「どうぞ!」と軽い調子で言って、営業スマイルを浮かべようと顔を向けた男は、時空干渉グラスを装着して髪を振り乱しているルロイの異様な佇まいから事情を察したらしく「どうぞ中へお入りください」と口調を改めてお辞儀をし、ルロイを丁重に案内所の中に導いた。
 ウエカワから受け取った指名札を渡すと、男は一瞬驚愕の表情を浮かべ、改めてルロイに対して深々と頭を下げて「導師、どうか先ほどの非礼をお許しください」と言った。
 それから男は上着のポケットから携帯通信端末を取り出して、「準備をいたしますので、しばらくこちらに掛けてお待ちください」と言ってルロイを小さな丸椅子に座らせて、通話をはじめた。
「……ああ、準備を、そうだ――最高級の……ラレンシア。わかった――そちらに案内する」
 通話を終えた男は「お待たせいたしました」とルロイの前に立つと「こちらになります」と言って端末を操作し、指名相手の情報を時空干渉グラスに転送した。
 ラレンシア――相手の名前を知り、ルロイは背筋が震えるのを感じた。
「まだ少女と言ってもいい若さですがテクニックは確かです。失礼ながら導師ルロイ、あなたの音記憶を分析して最適となる相手を選ばせていただきました。あなたと彼女のセイタイ感応は最高のはずです。十分にご堪能いただけるかと……」
 男の説明を聞き流しながら、ルロイは「ラレンシア……ラレンシア……」と妄言のように繰り返し呟いていた。それでも一通りの説明をして職務を全うした男は「それでは、店舗までの経路を示したイメージマップを転送いたします」と言って再び端末を操作した。するとすぐに時空干渉グラスの幻視に重なるようにして五反田駅周辺の地図が浮かび上がった。
「あとは自動送迎となりますので、どうかリラックスして誘導に従ってください」
 わずかに残された意識で、ルロイが「何から何まで親切にありがとう」と礼を言うと、男は「いえ、すべては崇高なるマイスター・ヤマのお導きです」と信仰の篤さを示しながら「最後に、こちらを服用してください」と言って錠剤を一粒、ルロイに手渡した。
 教団に伝わる秘薬「サルヴァ」。それは導師となった者が修行の最終段階でサルヴェーションを完遂する際に意識のすべてを浄化させる作用を持つという特別な薬だった。
 コンビニエンス・ストアで購入しておいた飲料水のキャップを開き、ルロイはサルヴァを口に含んで一気に流し込んだ。それはルロイが今日はじめて口にするものであり、空っぽの胃の中ですぐに溶けてはじめた小さな錠剤は、その絶大な作用によってルロイを解脱の道へといざなってゆく。
 男に見送られて無料案内所を後にしたルロイは、サルヴァの効用で前後不覚に陥りながらもイメージマップに従ってラレンシアの待つ店舗を目指して歩きだした。

――ねえ きこえる るろい ?

 先ほどまで音楽プレイヤーから聴こえていたはずのマイスター・ヤマの歌声は、いつの間にか可憐な少女の声による呼びかけに変化していた。あまりに甘美なその声の響きに陶酔し、激しい身体の震えを必死で抑えながらルロイが五反田remy前の横断歩道で信号待ちをしていると、とつぜん目の前の風景の色がネガポジ反転し、空間に亀裂が走ったかと思うと、その隙間から大輪の蓮の花が無数に咲きだして、周囲は濃厚な香りに満たされていった。蓮華の中央には、座禅を組んでいるマイスター・ヤマのシルエットが現れ、影が差して表情の読みとれないその口元にはアルカイック・スマイルが浮かんでいる。
「Ahhhhhhhhhh!!」
 信号が青に切り替わった、その色調の変化による刺激のあまりの強烈さに絶叫したルロイの周囲から人が離れていく。しばらくして点滅する信号の青さに刺激されながら何とか横断歩道を渡り切ったルロイは、駅ガード下のほうへと弱々しい足取りで進んでいった。「おにやんま」の前の行列は未だ途切れることなく、蛇のように揺らめきながらルロイに絡みつくように続いていた。

――るろい るろい るろい

 ラレンシアの呼び声が、ルロイを絶えず刺激し続けていた。あまりの快楽に歩くことさえままならず、ルロイは大崎橋手前の喫煙所のベンチに座ってしばらく身体を休めようとしたが、その間も頭の中にはマイスター・ヤマによってリミックスされた最高級のサルヴェーション・ミュージックと、ルロイにとって最高の相性を持ったラレンシアの声が響き続けていた。
 脳が発熱し、その熱が全身に伝わってきて、ルロイは大量の汗を流しながら、ベンチで息を荒げていた。急に吐き気を催したルロイは、喫煙所の脇にあった公衆トイレに駆け込んで、勢いのままに嘔吐を繰り返した。便器に満たされた吐瀉物を見下ろしていると、ほんの少しだけ身体が楽になったような気がして、ルロイは自分がいよいよ解脱に近づいていることを実感し、恍惚の笑みを浮かべて水を流しながら、排出された穢れが吸い込まれていくのを見送った。
 トイレから出たルロイの表情は、先ほどまでとは見違えるほどにすっきりとしたものに変化していた。もしずっとルロイの様子を伺っていた者があったならば、そのあまりの変貌ぶりに戸惑いを覚えたことだろう。

 Call my name. Please, call my name.

「ら、レンシア」
 大崎橋を渡り切ったルロイは、そのまま直進して数メートル先の雑居ビルへと入っていった。無機質なアルミ製郵便受けが並んでいるだけの狭い一階エントランスからエレベータに乗り込み、目的地の階層のボタンを押したはずだが、すでにルロイの意識は数字の形状の違いを認識することができなくなっていた。
 開いたエレベータの向こう、狭い共用スペースに面した鉄扉の向こうにラレンシアが待っている。時空干渉グラスに浮かんでいたイメージマップが消えて、HERE!という太い文字が扉と重なるように大映しになって激しく点滅していた。
 ドアノブに手をかけて鉄扉を開くと、その隙間から漏れ出したラレンシアの生の声が、イヤホンから聞こえてくる声と共鳴しながら優しくルロイを包み込んでいった。

――おかえりなさい るろい ずっと あなたを まっていた

 

 §

 

 声風俗店ハウリング・ルーンの店内は薄暗かった。待合室の黒い革張りのソファに腰を埋めながらルロイは天井から下がっている豪奢なシャンデリアを見上げていた。大理石を模した床材と壁面に細密なレリーフの施されている内装は、どこかマイスター・ヤマの居室を思い出させるものだった。
 いつの間にか音楽プレイヤーから流れていたはずの音楽は途絶えており、ラレンシアの呼び声も消えてしまっていた。部屋は静寂に満たされていた。
 奥の扉が開き、燕尾服姿の壮年の紳士が現れてルロイに一礼をした。立ち上がって挨拶を返そうとしたルロイに「どうか、そのままで」と微笑みかけた紳士は「お初におめにかかります、導師ルロイ。わたくし、技術部の主任を務めておりますDJソラマルと申します。このたび、導師ルロイのサルヴェーションの儀を仕切らせていただくことなりました。どうかよろしくお願いいたします」
 DJ? 教団の階梯では聞き慣れない言葉に疑問をいだきながらも、ルロイはDJソラマルの言葉に「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」と肯いた。
「これが最後の確認となりますが、準備はよろしいですね?」というDJソラマルの言葉を遮るように「早く、ラレンシアに……」と言ってルロイは立ち上がった。
「Play Room」というプレートのついた部屋の前に案内されたルロイは、防音加工の施された厚い扉を開いて中に入った。室内に明かりはなく、視界を失ったままルロイは部屋の中央あたりを目指してゆっくりと進んでいった。
 一歩進むと同時に、音楽プレイヤーのイヤホンが両耳から落ちていき、二歩目で時空干渉グラスが自然と外れて落下していった。すると、ド、ド、ド、ド、という室内全体を揺さぶるような重低音が八方から音圧となってルロイに向かって押し寄せてきた。
 そのリズムに合わせて、ルロイの身体は自然と動きはじめていた。あまりの圧力にシャツのボタンが弾け飛び、そのまま両腕を撫でるようにシャツは滑り落ちていった。暗闇の中、誰かの指先がルロイの身体をそっと撫でるように触れる感触があって、その指は器用な手つきで残されたルロイの衣類を解いていった。

――いっしょに あそぼう るろい

 途絶えていたラレンシアの声に名を呼ばれた瞬間、ルロイの脳奥から快楽物質があふれ出していく。ラレンシアに手を引かれるように、重低音の圧力に背中を押されながら、ルロイは何も見えないまま広さもわからない部屋の中を突き進んでいった。
 足の指先が不意に足場を失ったように不安定になって、そのまま前へ進んでいくと脛のあたり、膝のあたり、そしてすぐに腰のあたりまでふわふわと浮かぶように軽くなっていき、ルロイはまるでプールの中を漂っているかのような錯覚を覚えた。さらに前進を促すラレンシアに導かれるまま、ルロイは臍から胸元、そして首筋で波打つような空気の揺らぎを感じながら、無重力空間の中へと深く潜っていった。
 息苦しさは感じられなかった。軽く敏感になった空気を伝わってくる重低音の振動が心地よくて、ルロイは陶酔感に満たされながら、その浮力に身をゆだね身体の力を抜いていった。
 低音に重なるように新たな旋律が一つ、加えられた。懐かしく、安堵感をもたらしてくれるそのメロディは、どうやらルロイの音記憶による波形をもとにして作られた楽曲らしかった。鼓動、呼吸、脈拍、すべての生態的リズムが音楽に呼応していき、空気の波もそれに合わせて心地よく変化していった。
 ルロイがそのリズムに完全に馴染んだのを見計らったかのように、とつぜん音楽はスクラッチによって乱されたかと思うとキューによって刺激ポイントまで飛ばされ、そしてさらに新しい旋律、ラレンシアのメロディ・トラックが流れだしたのと同時に、ルロイの首筋に絡みつくように細い少女の腕を模した音の波が形成されていった。
 ラレンシアの奏でるリズムは、優しくルロイを愛撫しながら、全身に浸透していくように艶めかしく深奥へと染み込んでいった。しかし、あまりにも深く入りすぎないよう、クロスフェーダーによってうまく強弱のバランスは調整され、快楽は寸止めとなり、刺激と無感覚は忙しなく入れ換えられ、ときにスクラッチやキューによって激しく乱され跳躍させられた。さらにルロイの旋律が二重に重ねられて混ざり合い、テンポやボリュームをコントロールしながら刺激する部位を目まぐるしく変化させて、快楽を増幅させていった。
 二つのルロイの旋律によるジャグリングは、意識の重複と乖離という相反する感覚をもたらし、そうして狂った思考をあざ笑うかのように、ラレンシアが音を操って鋭敏になっているルロイの肉体を愛撫していく。
 ルロイの求めている快感の連続性を途絶えさせずに刺激し続けるラレンシアのテクニックは、無料案内所の男が言っていた以上に「確かなもの」だった。必死にその艶めく脈動に応えようとして、ルロイは自らのリズムをラレンシアに絡みつかせようと身をくねらせる。その動きが、より激しい交歓を生んでいく。
 教典の最終章、終末を迎えた世界に救済をもたらすために天から舞い降りる少女たち。肉体を持たずにその美しい声だけで人々を救いへと誘うと言われていた天使――ラレンシアはまぎれもなく教典に謳われた聖‐声体少女だった。
 これまで文字で記された伝説としてしかその存在を知ることができなかった奇跡が現前していることにおそれをいだきながら、ルロイはその幸福と快感に打ち震えた。
 音による刺激、声による快楽。声風俗を謳った高級店ハウリング・ルーンでも最高級のサービスを受けながら、ルロイは脱力しきった両手を天に向かって掲げるようにゆっくりと挙げて感謝の意を示そうとしたが、すでに自分の動作をしっかりと把握することができず、果たしてうまく祈りを捧げることができているのかどうか、わからなかった。
 巧みに融合しながら繰り返される重低音とラレンシア、そして二つのルロイのメロディ。四つのトラックの旋律による意識のシャッフルと、ラレンシアと交歓し合うことによってもたらされる愉楽、それらが次第に高まっていき、そのボリュームが最大出力に達したとき、すさまじいハウリングが発生し、ついにルロイは絶頂のときを迎えた。
 鋭い音によって、弛緩しきっていた意識が脳天を突き抜けて飛び出していくような感覚があり、ルロイは自らが覚醒するのが、わかった。欲望から切り離されたエクスタシーには、身体からの分泌物の放出は伴わず、代わりにこれまで無意識下に封印されていた禁断の扉が開かれることとなった。
 走馬灯のように、辛く苦しかった修行の日々の記憶がルロイの脳内に満ち溢れていき、そして修行に適合するために施された外科処理によって脳に埋め込まれていた圧縮空間「幽世――カクリヨ」が、ルロイの意識の開放とともに解凍され、展開されはじめた。
 サルヴェーションの完成のため、自らを浄化し、救済へと導いてくれる天使を受け入れるためのスペース。それが「カクリヨ」だ。
 いま、ルロイの中のカクリヨは完全に開かれており、ラレンシアの入廷を心待ちにしている。意識の場を明け渡すために、「ルロイ」は己の肉体から離れ、「ラレンシア」がカクリヨへ流れ込んでいくのを待った。

――さよなら るろい

 カクリヨの門の前で流れを止めたラレンシアは、最期の交歓のためにその歌声を震わせながら、ルロイの意識をそっとなぞり、解きほぐすようにして融解させていった。
 ラレンシアによって分解させられた「ルロイ」の残滓は、一粒一粒バラバラの音素となって散らばっていった。無重力の檻の中を跳ねまわっているその音たちは、余すことなく拾い集められ、譜面の上へと並べられていき、ルロイの存在した証として微細な凹凸となって小さな音楽盤へと刻まれていく。
 ルロイの意識が消えていくのと同時にカクリヨの扉は再び閉じられ、その中にラレンシアを封じ込めた。そうして元の主を失ったルロイの肉体は、新たな持ち主であるラレンシアによって統御されることとなった。

  

 §

 

「お疲れ様」
 DJソラマルに声をかけられたラレンシアは、床に散らばっていた衣服を拾い集めて身体を覆いながら「今日のプレイは悪くなかったかも」と微笑んだ。
 汗が渇いて冷たくなっていた下着を不快に思いながら、ほかに着るものもなく、仕方なくラレンシアはそれを着用して、すっかり元のルロイと同じ格好になった。
 床に放置されたままの時空干渉グラスと音楽プレイヤーを一瞥して「お願いできる?」と問いかけたラレンシアに「技術部のほうで回収しておく」とDJソラマルは応じた。
「これが聖ルロイの遺物……」
 DJソラマルから小さな音楽盤を受け取ったラレンシアは、虹色に煌めく美しい盤面の輝きをゆっくりと眺め、傷をつけぬよう丁重にケースに入れて封をした。
「では、それを確実に総本山のマイスター・ヤマの元へ届けてくれ」というDJソラマルからの指示に「確かに預かりました。間違いなく総本山に奉納します」と口調を改めてラレンシアは使命を復唱した。
「建物を出て左のほうへ向かって進んでくれ。すぐに大崎広小路という大きな交差点に出るからそこを渡って、少し行くと歩道橋がある。そこからTOCという大きなビルが見えるから、歩道橋を渡ってそのビルの前へ降りて、また真っ直ぐだ。高速道路の下の長い横断歩道を渡って左手に進めば、そのうち聖ルロイの残した道標が見つかるはずだ。そこまでたどり着ければもう迷うことはないだろう」
 総本山までの道順をラレンシアに伝えると、DJソラマルは夜の営業の準備のために奥のスタッフ・ルームへと戻っていった。
 鉄扉を開いてハウリング・ルーンを出たラレンシアはエレベータで一階のエントランスへと降りた。
 身体という不自由な檻の中に閉じ込められたラレンシアは、まだ慣れないぎこちない動きでビルの外へと出ていった。これまで必要としていなかった視覚というものから入り込む陽射しの強い刺激に思わず目をしかめながら、ラレンシアはサングラスを置いてくるべきではなかったかもしれないと考えた。
 ハウリング・ルーンの音響空間から外へ出たことのなかったラレンシアにとって、右も左もわからぬ外界は未知の領域であった。とにかくDJソラマルの指示に従って左へ向かって歩きだすが、狭い歩道を行き交う人々の動きが生み出す空気の微細な振動や、絶えず街中を飛び交っている無線通信の波がラレンシアの感覚を狂わせる。
 人にぶつからないよう、ふらつく身体をぎこちなく操りながら大崎広小路の交差点までたどり着いたラレンシアは、急にひらけた視界の広さにめまいを覚えた。流れるように目の前の広い車道を通り過ぎていく自動車の形状や色彩を見送り、信号機が青に切り替わると同時に動き出した人々の波に押されるように、ラレンシアは再び歩きだす。
 ようやく教えられていた歩道橋までたどり着き階段をゆっくりとのぼっていくと、すこしずつ空気が軽くなっていくような感覚があり、のぼりきったところでラレンシアは大きく一つ深呼吸をした。
 曇ったように不安定だった思考が、一気に晴れ渡っていく。
TOCビルの大きな看板を眼前に臨み、そちらに向かって一歩あゆみを進めるごとに身体は軽くなっていき、思わずスキップしてしまいそうになる衝動を必死に抑えながら歩道橋の端から端までを渡り、ラレンシアは異界――五反田の地を抜けだした。
 TOCの前を通り、そのまま首都高速二号目黒線の下までやってくる。信号待ちの最中に見上げた高速道を支える鉄の骨組み、その武骨さと頑強さはここがすでに五反田ではなくて、自分は現実の世界に在るのだということをラレンシアに実感させた。
 重たい屋根のような高速道に覆われた横断歩道を渡り切り、引き寄せられるように左へと進む。進んだ先に見える桐が谷坂上のバス停にはルロイの残した目印の札がしっかりと貼り付けられていた。
 教義上、この札はルロイが現実世界に残してきた三つの未練を意味している。ラレンシアが上着のポケットを探ると教団が武蔵小山思い出横丁の一角に構えているスナックのロゴの入ったマッチ箱が入っていた。
 慎重にバス停から札をはがし、マッチを一本擦って火をつける。すでに肉体を離れて音楽盤に宿っているルロイの魂、その残された未練を断ち切るために、ラレンシアはマッチの火を近づけて、札を焼いた。
 端から黒ずんで焼け落ちていく札を見送りながら、ラレンシアは「塵は、塵へ。灰は、灰へ。そしてルロイ、あなたはあなたの還るべき、場所へ」と呟いた。
 同じように、平塚二丁目と平塚橋のバス停に貼られた札をラレンシアが焼き終えたとき、ルロイは完全に世界の呪縛から解き放たれていた。
「おめでとう、ルロイ。これですべて、儀式の準備は整ったよ」
 そう独り言ちたラレンシアを、すれ違った少年が怪訝そうに見つめた。その視線に気がついて、ラレンシアは振り返って微笑を浮かべ「テイスティ・ゴールド。あなたに神の祝福を」と言って教団への忠誠を示すハンドサインを送ると、少年は嬉しそうに同じサインを示して「テイスティ・ゴールド。あなたに神の祝福を!」と満面の笑みを浮かべた。
 ラレンシアは少年へ歩み寄り、その頭部に軽く手を添えて「テイスティ・ゴールド。あなたに聖ルロイの導きが訪れますように」と祈りを捧げた。ラレンシアにとつぜん触れられた驚きと、聞き慣れない聖人の名前に戸惑いながら、少年はラレンシアの瞳を見つめていた。
 柔らかく目を細めて少年の視線に応えると、ラレンシアは「日々、感謝と信仰の心を忘れないで――さようなら」と言い残し、テイスティ・ゴールド教団総本山へと向かった。
 すでに営業を開始していた偽装食堂の裏口から厨房へ入る。ラレンシアの存在に気がついた調理人たちは、儀式を終えて戻ったルロイの姿に戦慄し、その場に跪いた。
「聖ルロイ、聖ルロイ」と繰り返される声に見送られながら、ラレンシアは業務用冷蔵庫とダストシューターの間にある隠し扉を開き、地下礼拝堂へと降りていった。
 無人の礼拝堂のさらに奥でラレンシアを迎えた導師アルアラは、すでに跪拝の姿勢となっていた。
「聖ルロイ……いえ、ラレンシア様。よくぞご無事で帰還なされました」
「過酷な修行に耐えただけのことはあります。この身体はじゅうぶんに役目を果たしてくれました」
 ラレンシアは愛しむように自らの意識が宿っているルロイの身体を見下ろした。
「しかし、ルロイが解放された今、この身体もまた役割を終えようとしています」
「すでに準備は整っております」
 ラレンシアは教団の最奥にある「末法の間」――マイスター・ヤマの居室へ、ふらつく身体を導師アルアラに支えられながら向かっていった。
「ここから先はあなた一人で……」
 扉の前でそう言いかけた導師アルアラの言葉を遮って、ラレンシアは「ありがとう」と言って、マイスター・ヤマの強大な力から意識を守るためのヴェールを着用することなく、扉を開いて先へと進んだ。
 末法の間を彩る意匠は、ハウリング・ルーンの内装によく似ている。ほんの数十分前まで、ラレンシアの存在できる空間のすべてだったその場所を恋しく思い出しながら、ラレンシアはマイスター・ヤマの姿を隠していた御簾をそっと捲り上げた。
 マイスター・ヤマ。テイスティ・ゴールド教団を統べる偉大な存在の遺志は、現在、小さな黒い音楽盤を再生するためのミュージックプレイヤーの中に宿っている。停止することなく回り続けているマイスター・ヤマの音楽盤。そこから時折流れ出す音声――神託によって、教団のすべては決せられている。
 ラレンシアは手にしていたケースからルロイの音楽盤を取り出し、数層の再生装置を備えたプレイヤーの空いているトレイにセットして、再生ボタンを押した。静かで悲しげな高い笛の音が長く伸びて、末法の間を満たしていく。それは最後に残った、ルロイの本質を示す唯一の音だった。
「ルロイよ、解脱なさい」
 それまで無音だったマイスター・ヤマの音楽盤がそう告げると、笛の音に張り詰めた弦を爪弾く鋭い音が重なっていった。

 ラレンシアの奏でるストレングスの研ぎ澄まされた旋律が、ルロイの音を包み込んで、その飛翔を助けようと少しずつテンポを上げて笛の音を加速させていく。しかし、これまで地に這いつくばるようにして生きてきたルロイ――人間の精神はそう簡単に大地の引力から逃れることはできない。
 軽やかに天に舞い上がったラレンシアは、ルロイを引き上げようと、必死に演奏を続けながら、ルロイの名を呼び続ける。

 るろい るろい るろい ……

 呼び声に応えて手を伸ばすように、ルロイの音楽がラレンシアの音の端に絡みつき融けあっていくと、ルロイを縛り付けていた軛は抜け落ちていき、その魂はマイスター・ヤマの待つ真の世界へと迷うことなく導かれていった。
 こうして、ルロイの修行と、その最終目標であったサルヴェーションは完了した。
 その根源を失ったルロイの肉体と音楽盤は小さな粒子状となって崩れ落ちてゆき、「サルヴァ」を精製するための原料として利用されることになる。無人となった末法の間の奥のミュージックプレイヤーの中ではマイスター・ヤマの音楽盤だけが回転を続けていた。
 しばらくすると、高級スピーカーからマイスター・ヤマの落ち着いた声がサラウンドで響き、教団施設内に定時の祈りを告げる。

テイスティ・ゴールド。あなたに神の祝福を!

 

――完了(『ルロイ伝』より)

 

 

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