集団下校

梗 概

集団下校

フミトの通う第六中学は、環境バリアに囲まれ保護されている。指定「汚染」区域のためバリア外で自由行動はできない。
 登下校専用のスクール・バスがその日に限って故障した。
 学校には泊まれないし、親に迎えを頼むことはプライドが許さない。
 集団下校して、日没までに帰宅するしかない。
 担任の女性教師、タドコロ先生が集団下校のルールを説明する。守らなければ命が危うい。
 一つ。ノスティック・マスクとスーツを装着し、途中で外さないこと。外気に五十秒以上触れると「汚染」される。ノスティック・マスクはフルフェイスのヘルメットで環境情報を表示する。
 二つ。通学路ゾーンのみを通り、決して逸れないこと。
 三つ。班長と先輩には絶対服従。
 四つ。巡察鬼と《 不知者 ( しらないひと ) 》を回避する。巡察鬼はマスク内のマップに表示されるが《不知者》は表示されない。これらの存在に捕まると貨物列車で連れ去られる。
 夕焼けの中、フミトは五人のグループで、最年長の班長、エリスの指揮の下、縦列フォーメーションで集団下校する。
 エリスは帰宅部の部長で、通学路を熟知している。校内で唯独り、単独通学を続ける歴戦の強者。
 フミトは副班長として、年下のマナミとトモユキを送り届ける責任を感じる。
 だがエリスとはことあるごとに意見が食い違い対立する。エリスは不知者の存在も信じず、通学路から外れた近道をとる。
「そうしないと日没までに帰れない」
 フミトが初めて歩く街の中は、すべてが夕焼け色に包まれて静かだ。高い塔。遠くから響く貨物列車のもの悲しい汽笛。シャッターが閉まった商店街の店先。
 人はどこに消えたのか。
 街灯のない路地は異様に暗い。巡察鬼を巧みに誘導し、特級危険区域を回避して、周囲を警戒しつつ、夕闇に沈みつつある路地を進む間にも何者かの視線を感じる。
 ある《住民》が、獰猛な獣をけしかける。一同は装甲便所に逃げ込むが、マナミとはぐれてしまう。呆然とするフミトとエリス。
 エリスは教師たちへの不信を露にするが、自分の家が近くであるにもかかわらず残りの全員を最後まで送り届けると誓う。
 フミトらは、かろうじてトモユキを無事に家に送り届ける。
 異形の存在が出現し、グループを追う。エリスが捕まる。さらに化け物がユイナを拉致せんとする。
 フミトは身代わりとなり、ユイナを逃がすが自らは捕まる。
 化け物の声はタドコロ先生だった。彼女によると、学校と親は全員、AIを社会から徹底排除する純人会の信徒で、住民と対立していた。タドコロは生徒を純人会から奪い返そうとしていた。スクール・バスの故障も彼女の仕業。マナミは拉致されたのではなく、仲間に救出され無事という。
「AIに感染なんてしません。マスクは世界を検閲し真実を隠してしまう。先生を信じてマスクを外して」
 フミトは躊躇いつつマスクを外す。
 そこに先生の顔はなかった。
 翌朝、フミトは自宅で目覚める。
 次の集団下校のときに世界は異なる姿を現すだろう。

文字数:1230

内容に関するアピール

 出題意図の一つは、人間ドラマにフォーカスすることと捉えた。本課題を見て連想したのは、ヒッチコックの『ロープ』である。この映画では室内が舞台装置だが、本作では人が消えた街全体(通学路を含む)が舞台装置となる。移動の過程が、変化と連続性のある一つの場面となる。また、人物関係が動的に変化することでドラマチックになる。『蠅の王』のような小グループ内でのパワー・バランスの形成は、興味深い題材である。
 昼と夜の境目では現実と非現実が曖昧となる。舞台装置が持つ真の意味は、物語全体を通じて開示されてゆき、錯視図形や回り舞台のように途中でその意味が反転する。
 この舞台装置は、人間を試す試練の場である。人間、特に子どもはもっとタフであってほしい。世界律が徐々に崩れ、信じられるものが変化する中で、弱者が知恵で逆境に対処し、状況の変化に柔軟に対応するタフさを描きたい。主人公はダブル・バインドされて生き続ける。

文字数:399

集団下校――Town Divers

ノスティック・マスク、エアロック、出発

 体育館は、弱火で沸騰する湯のような絶え間ないささやき声で満ちていた。
 フミトはあくびをした。いつまで待たせるのだろう。
 第六中学は、三学年合わせて全校生徒百八十七名。その中で、この体育館に今いるのは二十五人くらい。学年はさまざまだ。
 生徒たちが体育館に集められてから十分が経過していた。
 授業は十六時にすべて終了している。
 「キミちゃん先生、職員会議まだあ?」クラスの女子グループのリーダー格であるカナコが尋ねる。
 「もうすぐ終わるはずだから静かに」キミシマは、穏やかにそう言った後に腕時計を見た。英語教員だがジム通いの発達した上腕筋で体育教員とよく間違えられる。
 白衣姿のタドコロ先生がステージに上がり、マイクをぽんぽんと叩いた。小柄で眼鏡をかけた真面目そうな三十前の女性教員で、理科を担当している。手元の数枚の紙を見ながら、
 「今日は徒歩での集団下校になります。さっき職員会議で決まりました」と宣言した。
 一瞬、体育館は静まり返った。だがすぐに、生徒たちはざわめきたった。
 「えー。なんで~?」
 「静かに! 初めての人も多いかもしれません。でも心配しないでください。ルールをきちんと守れば安全に下校できます」
 フミトは右手を挙げた。
 「はい、フミトくん」タドコロ先生がそう言ってから苦笑した。「質問があれば後でしてください」と言うべきなのだが、授業の時のくせで反射的に挙手に応えてしまった。少人数ということもあるが、生徒を下の名前で呼ぶのはこの学校の教育方針だ。
 「集団下校の理由を教えていただいてもよいでしょうか」
 「それはこれから説明するところです。実は、スクール・バスが故障して、今日はみなさんを送り届けることができません。今朝の登校時は問題なかったのですが、運転手によるとエンジンに問題があるようなので。運悪く、代わりの車も用意できませんでした。ここにいるのは保護者が迎えに来られないか、保護者に連絡が取れなかった人たちです。みなさんも知っているとおり、校門は十七時に閉鎖します。電気供給が落ちて環境制御システムも止まるので居残ることはできません。あと三十分しかないから急いで準備してください。女子はステージの左側、男子は右側の控え室で着替えてください。スーツとマスクがない人は共有ロッカーから取り出してください」
 フミトは、男子の一団とともに控え室に入った。
 何人かの男子は自分専用のロッカーからスーツとマスクを取り出していた。毎日単独下校する《帰宅部》だろう。
 フミトは、共有ロッカーのひとつからスーツとマスクを取り出した。こういった直接身に着けるものは他人とあまり共有したくないものだが、幸いなことに清潔に保たれているらしく、合成繊維の匂いが微かにするだけだった。使用頻度も少ないのだろう。今まで着ていた服と靴は学校に置いていくことになる。
 フミトは、全身スーツを着るのは初めてだった。他の生徒たちもほとんどは初めて触れるようだった。
 明るいグレーのスーツは、薄手のウェット・スーツに似ている。伸縮性と柔軟性があると同時に、体の大きさに合わせてサイズはある程度自動調整される。薄手の手袋とブーツもスーツと一体化して気密を保つ。
 「宇宙服みてえだな」だれかが言った。
 「バックパックも忘れずに」タドコロ先生は全員に次々と指示を出した。
 「緊急用の装備が入っています。他の物を入れる余裕はあまりないので、どうしても今日、家に持ち帰る必要がある品だけ入れてください。マスクは学校を出るときに装着して。あと、自分の腕章の色を確認してください」
 フミトが左腕の腕章(と言ってもスーツの袖と一体化していたが)を見ると、布地が赤く発光している。スーツには、全員この発光腕章が付いている。外部からの無線設定で色を切り替えられるらしい。
 正直、フミトは意外に感じた。この学校にこんな装備があるとは。
 「腕章の色で班になってください。班の色とは別にもう一色、白の帯が入っている人が班長です。班長は手を挙げて」
 六本の腕が上がった。
 「同じ色の腕章の班長のところに集まってください」
 生徒はざわつきながらも移動を開始した。
 「集団下校って家に帰るだけだろう?」
 「知らないの? 四か月前に起きた例の事件」
 何人かの生徒が私語を続けていると
 「静かにしなさい」
 ムチが床を叩いたように言葉が響いた。
 セミロングの黒髪の女子生徒だった。目力が強めの、会社勤めの有能な女性の上司を思わせる。
 その言葉で、周囲の生徒は黙り、準備を続けた。
 この学校では、生徒が行方不明になるという噂がたびたび流れる。
 ただの噂だと思っていたが違うのだろうか。
 「第六班、腕章が赤の人はここです」
 彼女は、自分の腕章を示して呼びかけた。
 フミトは体育館の一角にできつつあるグループに加わった。そして生徒たちは、同じ色どうしで分かれ、グループが作られた。
 班長とフミトの他に三人いる。
 「はい、みなさん、静かに」タドコロ先生が声を張り上げ、全員に呼びかけた。
 「知っている人もいると思うけど集団下校のルールを説明します。ルールを守っていれば安全です。ですが、守れないと……とても危険なことになるので注意してください」
 生徒は静まり返った。
 「一つ。ノスティック・マスクとスーツは途中で外さないこと。聞いたことがあると思うけど、外気を五十秒以上吸い込むと大気汚染物質に汚染されます。
 二つ。緑色の通学路ゾーンのみを通り、決して逸れないこと。
 三つ。班長と先輩には絶対服従すること。
 四つ。巡察者クローラー不知者ストレンジャーを回避すること」
 「タドコロ先生、もう第一班の出発の時間です」キミシマ先生が体格に似合わない上ずった声で、自分の右腕の腕時計を指した。
 「分かりました。では、後は班長から説明を聞いてください。第一班、出発!」
 紫色の腕章の、第一班の五人の生徒が、班長に促されて戸惑いながらも歩き出した。
 マスクとスーツを着用しての町中での行動は、公式には「潜街せんがい活動」と呼ばれる。だが生徒からは《帰宅部》と呼ばれることが多かった。
 大半の生徒は専用のスクール・バスで登下校する。フミトは、少数の《帰宅部》の生徒たちが潜街活動で登下校をしていることは知っていた。だが、単独下校の許可が出ているのはごくわずかの生徒だけらしい。それ以外は、《帰宅部》についても潜街活動についても、ほとんど何も知らない。
 まさか自分がすることになるとは思わなかった。
 タドコロ先生が、待機中の生徒たちの様子を確認しにやって来た。
 「フミトくん、ツイてるじゃない。エリスさんは《帰宅部》の部長でベテランだから安心よ」
 「そんなんじゃありません」エリスと呼ばれた女子は顔をしかめた。
 「私にもう部長の資格はありませんから。キョウカもナオキももう帰ってこない」
 「あれはあなたのミスじゃないでしょう」
 エリスは唇をかみしめ、なにかいいかけた。
 そのとき、
 「第六班出発」キミシマ先生が告げた。
 「もう時間? まだマスクの説明もルート検討もフォーメーションもできていないのに」エリスが不満げにつぶやいた。
 「しかたない。全員、マスクを装着」
 マスクは軽量だった。耳は小型ヘッドフォンで覆われるが、声はこもらずにむしろよく聞こえるし、外の音も聞こえる。通常の会話と同様に、近くにいる人との双方向通信がされるらしい。
 外気を遮断するため透明な強化プラスチックのバイザーが顔全面を覆う。視界が妨げられることはなく、外からも表情はよく見える。透明度が高く、光の反射も抑えられているので、遠目には装着していることはほとんど分からない。
 マスクを顔に当てると、ゼリー状の縁が顔にヒヤリと触れ、吸い付いた。右顎から伸びた、指の太さほどのチューブがスーツの背中のフィルター・ユニットに接続されている。バックパックは背部ユニット全体と一体化するようになっている。
 スーツ側の電源から電気が供給され、バイザー内部に透過表示がされている。
 C22粒子濃度指標:5。
 「0ではないんですね」
 「粒子濃度? 5なら問題ない。危険なのは50を超えてから」エリスが答えた。
 顎のあたりにフィルターが埋め込まれている。換気も電動で行われるらしく、バイザーに息を吹きかけても曇らない。
 「マスクの上部に緑色の線は表示されている?」
 班の全員がうなずいた。
 「気密性が損なわれたり、他の異常があったりするとその線が赤に変わります。マスクの電源は四十八時間保つし、電源が切れても気密は保たれます。さあ、行きましょう」
 エリスは体育館を出ると、さっさと校門のほうに歩きだし、フミトら残りの四人が続いた。
 スピーカーからいつものように、ショパンの練習曲第三番ホ短調「別れの曲」が流れている。
 校門手前でフミトは振り返った。
 校舎は街の外れ、山の麓にある。学校の敷地全体が、透明の巨大なジオデシック・ドームで覆われている。
 ドーム内がどれほど安全かなど、これまで意識したことはなかった。
 コミュニティーのゲート前まで来るスクール・バスに毎朝乗り、ドームの中で下車する。
 授業が終わればドーム内でスクール・バスに乗り、自宅のあるコミュニティーのゲート前で降りる。
 毎日、その繰り返しだ。大半の生徒も同じはず。
 そういえば、街のことをぼくはなにも知らない。
 スクール・バスには窓がなく、内部はいつもオレンジ色の電灯が照らしていた。校外に徒歩で出なくてはならないということが未だに信じがたい。
 だが、これはいわゆる「計算されたリスク」だ。
 本当に危険が大きいなら学校が許可するはずがない。
 「なにしてるの。行くよ」エリスが声を掛けると校門の脇の守衛所のドアをくぐった。
 直接校門を通らずにそちらのドアに入った理由はすぐにわかった。
 守衛所内部の守衛室のドアの隣に、操舵輪のような巨大な回転レバーがついた白い気密ドアがある。
 エアロックだ。薄暗い内部にフミトが入ると、エリスが慣れた手つきで回転レバーを回してボタンを操作し、気密ドアを閉鎖した。緑の「閉」ボタンが点灯し、内部の照明も明るくなった。
 「今から外気を入れるから、気密警告表示がないかもう一度確認して。表示がなければ手を挙げてください」
 全員が無言で手を上げた。
 「外部ドア開きます」エリスが反対側の気密ドアのボタンを押してロックを解除し、回転レバーを回した。そのまま力を込めて押し開く。
 外の世界だ。
 最後にフミトが気密ドアから出ると、エリスが気密ドアを閉じた。
 校門の左右に広がる道。そして校門の前から下る緩やかな坂道。
 その先の街は、夕焼けに照らされ、オレンジ色に輝いている。
 ドームの内部、校門の横に数人の教師たちが見送るように待機している。
 フミトたち六班は最後のようだった。
 フミトは、マスク内のC22粒子濃度指標が8に上がったことに気づいた。
 背後で校門が重々しい音を立てて閉じられた。引き返すことはもうできない。
 フミトは未知の街に足を踏み出した。

静かな街、薙刀、鬼ごっこ

 エリスが立ち止まり、フミトが追いつくのを待っていた。
 「二回説明はしないからよく聞いて。メンバーをシステムに登録するから、一人ずつ、自分のマスクを私のマスクに接触させてから名前を言って。ややこしいからニックネームで。そこの君から」
 フミトを指した。
 「フミトです。四か月前にここに転校してきました。得意科目は歴史。オッサンぽいと思うかもしれませんが好物は生の帆立貝と」
 「聞いてないから。そんなこと」
 酢味噌。と言おうとして口をつぐむ。
 地雷を踏んだ。というより地雷を踏みぬいた。
 この人には余計なことは話さないほうがいい。
 「名前だけ。もいちど」
 「フミト」と言っておずおずとエリスのほうに顔を近づける。マスクの中の整った顔が近づいてくる。
 これはなんというか。
 「名前を言うのは接触の後。早くしなさいよ」
 エリスはフミトのマスクを両手でつかむとぐいと引き寄せた。マスクが音を立てて接触した。
 「名前」
 「フミト」
 近接ネットワークが形成され、フミトのバイザー内に地図が表示された。
 地図上にエリスとフミトの名前が、右側にインカメラ映像が表示されている。名前の横にある三つの丸が残りの生徒の位置を示しているらしい。残りの三人が同様の操作をすると、順次、名前とインカメラ映像が追加された。
 この街の地図を見るのは初めてだ。学校、道路が簡略な線で表現されている。
 緑の網目が走っているのはスクール・ゾーンだろう。
 「フミト君は二年生ね。どこかで名前を聞いたことあるかも」
 人数が少ない学校ではなにかあるとすぐ話題に上る。転校してきたときに話のネタにされたのかもしれない。
 「副班長をお願いしていい?」
 「……はい」
 副班長の任務が何かは分からなかったが、大したことではあるまい。家にこのメンバーを送り届けるだけだ。たぶん。それでも同級生のユイナや、一年生のマナミとトモユキを送り届ける責任を感じた。
 「今からルートを設定します」
 エリスは自分の前の空間をなぞるように右手を動かした。そして右手でなにかをつかみ、空中の透明な壁にそれをなすりつけるようなジェスチャーをした。
 家のアイコンとメンバーの名前が表示される。それぞれの家の位置を示しているのだろう。
 「マナミさんが南東地区、ユイナさんがその少し西側。トモユキくんとフミトくんが南第二コミュニティー……。順番はこれで行きましょう」
 エリスが地図上にルートを指で描くと、黄緑色の線が一つの家アイコンまで延びた。
 テキパキと物事が進む。エリス先輩は、タドコロ先生の言うように頼れる存在のようだ。
 バイザー内部の地図は宙に浮いたような表示がされている。フミトは右手で地図に触れた。疑似物理触覚があり、つかむと移動できる。細かい操作は不明だったが、バイザー内部のオブジェクトは、どれも同様に三次元空間操作できる。
 地図でのルート設定は小さいころに見た気がするが、自動でされていたような気がする。
 「手動でルートを決めるのですか」
 「当たり前でしょう。自分で行きたい道を決めないでどうするの」
 「あの、赤いところと灰色のところはなんですか」ユイナが不安げに訊いた。
 地図の三割は、赤い雲で覆われている。
 「赤はC22粒子濃度が高い地域。灰色は未踏地域。なにがあるか分かりません」
 黙っていた一年のトモユキがいきなり声を上げた。
 「ユイナさん、大丈夫」エリスが言った。班員に向かって、
 「私たちは学校にも保護者にも頼らない。自分たちの力だけで帰宅する。潜街活動中は、学校にも家にも連絡はできない。こうして会話できるのも、困ったときに頼れるのはここにいる人だけ。初対面でとまどうこともあるだろうけど、あなたたちも帰宅部になったつもりで行動して。その代わり、これだけは約束する。私が班長になった以上、みんなは家に必ず送り届ける。分かった?」
 「はい……」一同は不安げに答えた。
 「そのためには私の指示に従って。フォーメーションは、道が広いから縦二列でしばらく進みます。マナミさんとトモユキくんが中央、フミトくんとユイナさんが最後尾。私が先頭。では出発」
 一同は、無言でグリーン・ゾーンの上を歩いた。
 フミトは隣に歩くユイナを横目で見た。長い黒髪が美しい。同じクラスだがちょっとまぶしくて話す機会がなかった。
 集団下校もそう悪いものでもないかもしれない。
 「フミトくん。あれ、大丈夫なのかな」ユイナがほっそりとした指で地面を指した。アスファルトの上の緑の塗料が剥げかけ、完全に途切れている個所もある。
 「どうなんだろう」
 はっきり答えたいところだが、フミトも知らないことばかりだ。
 グリーン・ゾーンが安全とはタドコロ先生に聞いたものの、このように剥げかけた塗料では心もとない。
 塗料自体には何の効果もないとしても、だ。
 「ヘッジホッグの噂って知っているでしょ」
 「うん」
 「女子が話していたんだけど、バスのエンジンを壊したのはヘッジホッグかも知れないって」
 「そうなんだ」
 ヘッジホッグは、都市回生機構のエージェントと言われている。学校に各種のサボタージュを行うため、教師は警戒している。学校では、校門のエアロックが施錠されていなかった事件や、ドームに亀裂が発生した事件などはヘッジホッグの仕業という噂がたびたび流れていた。
 「都市回生機構ってこの街を修復しているんでしょう」
 「そうらしいね」
 「それっていいことなんでしょう」
 「その話はあまりしないほうがいいよ」フミトはマスクを指で示した。
 おそらく学校はこの会話を聞いているのではないか。
 学校では都市回生機構は禁句、ということは知っていた。
 せっかく話していたユイナが黙り込む。フミトはなにか話しかけようとしたがすぐには思いつかなかった。
 クラスの人気者の男子、フルヤならこういうときにすらすら話せるのだろう。だがチャラい男子は苦手だ。無理してマネしなくてもいい。
 右手には高く細い塔がそびえている。何に使われるのだろう。考えてみれば家から外を眺めることはほとんどなかった。あれだけ高ければ家からも見えていたのかもしれない。
 高い塔とは別に給水塔も二つ見える。
 遠くからもの悲しい汽笛が細く聞こえてきた。
 あの列車が止まる駅がどこかにあるのだろうか。
 五分ほど歩くと、前方に道を遮るような古い屋根付きの門が見えた。
 「この第一ゲートまでは比較的安全だったけど、ここから先は『街中』だから注意して」
 エリスはそう言うと立ち止まり、バックパックから金属のパイプのようなものを取り出した。テントの骨組みのように組み立てる。さらに、腿のベルトにつけていたものを引き抜いた。短刀くらいの長さがある、反った大型ナイフ。パイプの先端に取り付けると、細身の薙刀になった。彼女の身長より少し長い程度だ。
 エリスは、武道の型のようになめらかな動きで振り回して、接続の具合を確かめた。
 「そんなものが必要なんですか」
 「今日は必要になるかも」鋭い穂先を見つめるエリスの顔は厳しかった。
 「私にこれを持つ資格があるか分からないけど」
 「学校がよく許可しましたね」
 「代々の帰宅部の部長が持つことが許されている。でも私はもう部長じゃないから」
 六班は、門をくぐって再び歩き始めた。門の先には住宅が密集していた。
 フミトが初めて歩く街の中は、すべてが夕焼け色に包まれて静かだった。
 一同は、アーケードの商店街に入った。
 店先はどれもシャッターが閉まっている。左には洋服屋、歯医者、時計屋。古い映画のセットを見ているようだ。看板は色あせ、塗料は剥げ、赤さびが浮いている。
 右には純喫茶、銭湯……。純喫茶ってなんだ?
 それにしても人はどこに消えたのか。
 目の前の「おしゃれ着のみずき」と書かれたシャッターを見て、フミトは奇妙なことに気づいた。二センチから五センチほどの丸い模様が長く並んでついている。一見、デザインの一部かとも見えたがなにかおかしい。次の片貝歯科医院のシャッターにも、水島時計店のシャッターにも残っている。よく見ると、その丸は盛り上がっていた。
 強力な吸盤で吸い上げたように変形している。
 シャッターもよく見ると、なにかおかしい。分厚い。まるで装甲板のようだ。
 「フミトくん、行くよ」ユイナが声をかけた。
 小学校のころ、フミトは別の町に住んでいた。一家がこの街に引っ越してきたのは、フミトが中学の二年になったときだった。両親ははっきりとは言わなかったが、フミトをここの中学に入れるために越してきたのではないか、と時々思った。ただそれを確認するのはなんとなくはばかられた。親だからこそ聞きづらいこともある。親には親の理由があり、それを知るのも少し怖かった。
 アーケードの道の真ん中に、行く手をふさぐようにオブジェがあった。
 「これは?」フミトはエリスに訊いた。
 大小の円形を組み合わせたその灰色の造形は、ある種、有機的な力強さと数学的な美しい均衡を持ち、モダンアートのようにも見える。しかし、地面に埋め込まれたような唐突さは、それがなにか実用的な意図で設置されたことを示していた。
 「都市回生機構が作ったんでしょ。何のためかなんて訊かないで。何を考えているか分からない奴らなんだから」
 六班は、そのオブジェを迂回した。ざらついた表面の材質は石なのだろうか。
 「触らないほうがいい」エリスが注意する。「たぶんろくなことにならないから」
 マナミが恐る恐るオブジェに手を伸ばしていた。あわてて手を引っ込める。
 さっき見た高い塔も、都市回生機構が作ったものかもしれない。
 商店街を出たところでフミトは立ち止まった。
 「どうしたの? 早く来なさい」目の前の道を渡ったエリスが振り返った。
 「でも、そちらはゾーンから外れていますよ」
 「こっちのほうが近道だから」
 「ゾーンを外れると危険なんですよね?」
 「マスクがあるから少しくらい大丈夫。近道しないと日没までに帰れないんでしょう。毎日やってるんだから私を信じなさい」
 「フミト先輩、知らないんですか? ゾーンの中だから安全だって限らないですよ」それまで黙っていたトモユキが口を出した。
 小柄な体格の上に乗った童顔に侮蔑の薄笑いを浮かべている。将来は、詭弁を弄して狡猾に保身を図る政治家になりそうだ。
 「エリス先輩はクローラーが怖くないんですか?」
 「地図をしっかり見ていればクローラーは避けられます」
 「クローラーってどんな奴なんですか」
 「心配しなくてもすぐ見られるから。……ほら」
 エリスが声を低くした。
 「もういる。地図を見て。Cで表示されているのがクローラー。向こうはこちらに気づいてない」
 「これ……ルートのすぐそばじゃないですか」
 しばらく先の交差点の横道にCマークが表示されている。このままでは向こうに見つからないはずがない。
 「ええ。でもこんなに早く出会うなんて。いつもと違う」
 「どうするんですか」
 「こういうときは『鬼ごっこ』」
 エリスは初めて微笑みを浮かべ、説明した。
 「クローラーの移動速度は最大でも早足程度だし持久力はそれほどない。ある程度引き離せば、見つかっても逃げ切れる」
 「もし……捕まったら?」
 「聞いたことない?」エリスがフミトの目を覗き込むように言った。
 「捕まったら列車でどこかに連れていかれる。そうならないように全力で走りなさい」
 一同は、Cマークが西にゆっくり移動している地点から一ブロックの地点まで近づいた。
 「私が最初におとりになって誘い出す。やり方を見ておきなさい」
 そう言うと、エリスは左手のわき道に入った。
 「合図したら走って」近距離通話が自動的に有効になったらしく、姿は見えないが会話できる。
 マスク内の地図上で、エリスのアイコンがブロックの反対側に回り込んだ。
 Cがエリスに気づいたらしく、移動速度を上げてエリスに近づく。エリスのアイコンは動かない。
 エリスとの距離がほぼゼロになったと見えたとき、エリスが叫んだ。
 「走れ!」
 フミトら四人は走った。空き地を二ブロックほど走ると、前方にだれかが立っている。
 エリスだった。クローラーを引き離して戻ってきたらしい。
 「簡単でしょう」息も乱していない。だが、フミトは緊張のせいか動悸がなかなか収まらなかった。
 「クローラーは?」
 「地図を見て」
 Cは3ブロック先におびき出され、ルートから離れている。
 フミトは、安堵のため息を漏らした。しかしこの方法がいつもうまくいくのだろうか。
 マナミが立ち止まっている。
 「どうしたの」エリスが訊く。
 「なにか匂いが……潮の香りがする」
 海は遥か遠くのはずだ。
 「クローラーの臭いでしょ。この近くにいたから」
 六班は前進を再開した。
 地図で周囲を警戒しながら、夕闇に沈みつつある路地を進む。
 路地は異様に暗い。少ない街灯に照らされて灰色のスーツが浮かび上がる。
 「日没前に帰宅しないとまずいのに」エリスは唇を噛んだ。
 「この距離でそれは最初から無理でしょう。先生たちだって無理だって分かってたんじゃないですか」とフミト。
 「みんなライトを出して」
 フミトたちは、バックパックに取り付けられていた大型ライトを外して点灯した。
 ライトの光の輪の中はよく見えるが、その周囲は逆に闇が深まった。
 あの闇にはなにかが潜んでいるのだろうか。
 不意に恐怖が鎌首をもたげた。
 だが、恐怖とは何だ?
 恐怖とはだ。
 ライトで照らせば、相手を見極めることができる。そうすれば恐怖は消え去る。
 だがトモユキはそうは考えなかったらしい。
 横柄な態度はどこへやら、
 「あのう、エリス先輩。親を呼んじゃだめですか」と恐る恐る尋ねる。
 を呼ぶっていうの?」
 エリスの視線は冷たかった。意図せずにおぞましい汚物を見てしまったかのように眉をひそめる。
 「一度自分で帰ると決めたのに保護者頼み? そんなんじゃこの先、世界で生きていけないんじゃない?」
 安易に保護者に頼る行為は、生徒たちの中で確かにバカにされる。
 誇りを持って単独登下校をする帰宅部は、保護者に頼ることをことさら軽蔑するようだ。
 トモユキは、すがるようにユイナを見た。ユイナが首を振る。
 「あなたの今の言葉、忘れてあげる。でも、二度と口にしないで」とエリス。
 フミトは、先に弱音を吐かずに済んだ幸運をひそかに感謝した。
 「どちらにしても中継基地まで行かないとどこにも連絡できない」エリスはいらだたしげにつぶやいた。
 「学校はこちらの状況を把握していないのか?」フミトはトモユキに聞いた。
 「無理でしょう。近距離の通信や地図の表示が精一杯で。うちの学校、AIがらみの技術をなにも使っていないですよね」
 言ってしまってからトモユキはしまった、という顔をしてエリスの顔を伺った。
 だがエリスは前方に注意を向けており、気づかない様子だった。
 「……AI? そういえば昔そんなものがあったな。小さいころでよく覚えていないが」
 「AIはうちの学校では禁句なんです」
 「都市回生機構だけじゃなく?」
 「同じことですよ。都市回生機構は、AIの委員会が動かしているそうです。学校はAIに拒否反応を示し、親も同調しているんです」
 「ねえ、フミト君」とユイナが左腕を引っ張った。
 薄闇の中でも、互いの顔はマスク内部の表示の光で見える。
 「はい?」
 「だれかが見ている気がしない?」
 確かに、フミトも何者かの視線を感じる。
 「そう……かな」
 クローラーのCマークはルートの近くにはない。
 六班は歩き続けた。不思議なほど溜め池がいくつもある。農地ではないのに水が必要なのだろうか。
 「ほら、あそこからクローラーが出てきそう」ユイナが不安げに言う。
 フミトは、小さいころした肝試しを思い出した。
 あの頃は、神社や墓場でなくても、あらゆる暗闇が怖かった。
 あのときも女の子と組になったっけ。あの子の名前は何だったろう。
 巨大な墓石のように連なって不気味に沈黙した団地を抜ける。廃屋もいくつも見かけたが、素材が頑丈なのか、崩れるほど劣化したものはなかった。それとも都市回生機構が維持をしているのだろうか。
 踏切に差し掛かった。遮断機の棒は下りたままだ。エリスが平然とその棒を押し上げて、生徒たちを通した。
 右側に果樹園の長いフェンスが続いている。だれかが果実を育てているのだろうか。木が一定間隔で植えられている。まばらになっている鮮やかなオレンジ色の実は、柿のようにも見える。しかし、柿というのは放置しておいてもなる気がする。
 地面の上に熟した実が落ちていた。
 なにものかが、その実の上から匂いを嗅いでいた。
 恐怖がフミトの心臓をつかんだ。
 大きな獣だった。

獣、閃光花火、装甲便所

 「静かに」エリスがささやいた。
 斜め前のトモユキの顔がフミトの目に入った。こっけいなほどおびえている。
 獣は顔を上げた。
 エリスがゆっくり薙刀を構えた。
 獣は牙をむきだし、一声吠えた。
 全員がびくりとした。その声でフミトは目の前の存在をはっきり危険なものと認識した。
 精悍な顔つきの大型犬だ。行く先をふさぐような威嚇の態勢。
 どうすればいい?
 走ってもすぐに追いつかれることは間違いない。
 人間は動物の中で恐ろしくのろまだ。鈍重に見えるカバでさえ時速四〇キロで走る。
 目の前の犬の種類はよく分からない。だがフミトは多くの犬種が狩猟用として品種改良されてきたことを思い出した。
 ハウンド。ポインター。日本犬。スパニエル。レトリバー。ブルドッグ。
 プードルやテリアなど愛玩用とみなされる犬でさえ猟犬である。
 みな狩りのために造られた生き物なのだ。
 エリスと犬は距離を置いたままにらみあった。
 距離を保ったままエリスが右に動く。頭のほうを薙刀の石突きで打とうとする態勢。いきなり刃で傷つけるのはためらったらしい。
 犬は攻撃の気配を察して、一瞬早く動いた。
 薙刀の柄にかみつく。エリスはバランスを崩し、薙刀をもぎ取られそうになった。
 だが薙刀をつかみ直し、顎から抜き取ろうとする。二度、三度と引っ張ると、犬は薙刀を放し、後ずさった。
 犬の背後の闇に何者かが潜んでいる。
 「あれは……」トモユキが指さした。
 二匹目、三匹目が現れた。
 「こいつらに背を向けて戻らないほうがいい気がするんですけど」フミトはエリスを横目で見た。
 「なぜ」
 「こいつらは、意図的にあそこにいるんです。元来た道を戻ると追い込まれます。たぶん」
 「じゃあどこに行くのよ」
 フミトは前方から目を離さずに、マスク内のマップを操作し、周囲を拡大表示した。
 林? 意味がない。枝が落ちていれば武器にできるかもしれないが。
 民家? これまで人気はまったくなかった。
 二百メートル前方に公園がある。だがそこに逃げる意味があるのか?
 ある。装甲便所と書かれている。
 「公園のトイレに行きましょう。公衆トイレならドアが必ずあります」
 「分かった。フミト君、私は地図が操作できないから先導して」
 ただ、問題は右の果樹園でも左の墓地でもフェンスが続いているので大回りになることだ。
 「正面突破できませんか」
 だがフミトがそう言っている間に、四匹目が闇の向こうから姿を現した。
 ライトに照らされて輝くいくつもの瞳が、警戒するようにゆっくり左右に動く。
 「しかたない。合図で走りましょう」
 「待って。時間稼ぎしないとすぐに追いつかれる。合図は私が出すから、『今』と言ったら後ろを向いて走って」
 エリスはバックパックからすばやく何かを取り出した。
 「みんな、準備はいい?」
 「はい」
 「ええ」
 「三、二、一、今!」
 反応が一瞬遅れた。目の前に閃光が走った。肉が焦げる臭い。エリスがなにかを犬どもに投げつけたらしい。
 目がくらみそうになりながらもフミトは走った。閃光をまともに見る前に目をそらして幸いだった。
 フミトは地図を見ながら走った。元来た道を戻るのは相手の思うつぼのようで不安だが、やむを得ない。
 後ろを振り返る余裕がない。
 「こっちだ!」と声を出す。
 右に折れ、走り、左に少し入ってまた走る。
 街路樹のつらなりの一部が林になっている。
 公園だ。左手で地図をさらに拡大表示。便所は西側の奥だ。
 後ろに続く足音、遠くで犬が激しく吠える声。
 公園の片隅の銀色の小さな建物にたどり着いた。
 「取っ手がない……どうやって開けるの?」
 「有料のコイン式なんです」
 フミトは、バックパックから財布を取り出す。
 硬貨ボックスに「百円硬貨で最大十分」と書いてある。
 震える手で硬貨を入れる。硬貨は投入口に滑り込み、チャリンと音がした。
 と、モーターの駆動音がして扉がゆっくり開いた。
 ユイナが駆け込む。続いてトモユキ。そしてエリス。
 内部には「開」と「閉」のボタンが点灯している。
 「扉を閉めます」
 「待って。マナミがいない……」ユイナが言った。
 フミトとエリスは顔を見合わせた。
 マスク内の表示にマナミの顔のアイコンはない。
 「通信範囲の外みたい。だったらもう声は届かない……」
 「早く閉めてください」トモユキが叫ぶ。
 「しかし……」
 「今はしかたない」
 「閉」ボタンを押そうとしてフミトは手を止めていた。その手の上からエリスが手を重ねて押した。
 再び駆動音がして扉が閉まり始める。扉が完全に締まり、内部に電灯が点灯した。装甲トイレの名にたがわず、頑丈な銀色の金属の扉は頼もしかった。
 室内は静かだった。
 「三十分は待ちましょう」エリスが暗い声で告げた。
 六班はそれから、トイレの中で待機した。コインは十分ごとに追加した。
 トイレは車椅子も入れる多用途型で、中はかなり広かった。折り畳み型の簡易ベンチもあった。フミトたちは座り込んだ。
 ひどくなかったが、便器からはかすかに尿の臭いがした。
 ユイナが棚の中から芳香スプレーを見つけて噴霧すると、臭いは消えた。しかしその甘ったるい匂いはむしろ不愉快だった。スプレーが使われずに放置されていた理由が何となく理解できた。
 「マナミさんはもう助けられないんでしょうか」フミトは恐る恐るエリスに言った。
 「その薙刀で……」
 「凶暴な大型犬四匹を相手に薙刀で戦えっていうの? 君たちなら戦えるの?」
 フミトとトモユキは下を向いた。
 「彼女ならきっともう自分の家に帰ってる。ここは彼女の家から近いし。もし無事なら。それより、今は自分の心配をしたら?」
 「まったくなんでこんなことに……」トモユキはフミトの隣で下を向いたままつぶやいた。
 「あれは絶対にクローラーの仕業だ。そうでしょ、エリス先輩」
 「そうね。残留住民の犬を放して追いかけさせたんだと思う。犬はマップに表示されないし、クローラー自身は犬ほど早く走れないから」
 だとすると……クローラーはかなり賢いんじゃないか?
 「ならエリス先輩の『鬼ごっこ』に付き合ったのは、油断させるためじゃないでしょうか」フミトは言ってみた。
 「バカ言わないで。前にも何度もやってるんだから」
 「それはエリス先輩一人の時でしょう。今、ぼくたちは五人です。クローラーは集団下校の機会をずっと待っていたんじゃ」
 「フミト君。君……」またなにか反論されるのかと思いきや、エリスは心配気にフミトの見つめていた。
 鼻からなにかが一滴、滴り、上唇を超えてきた。鼻水……ではなく血だった。
 フミトはマスク内に赤い気密警告サインが出ていることに気づいた。
 激しく運動したせいか、気密が弱まっていたのだ。
 「少し粒子を吸い込んだかも」異常は特に感じない。
 「少しくらいなら大丈夫」エリスは緊張を少し緩めた。
 「たくさん吸うとどうなるんですか」
 「あいつらみたいになるんですよ」トモユキが代わりに自棄気味に答えた。
 「クローラーのことか? そもそもクローラーって何なんだ? ロボットなのか?」
 「クローラーは人間が作ったものです。犬を品種改良するようにね。あれは、本来の姿とはいえません。有機的人口知性体の能力がこんなものであるはずはない」
 「ずいぶん詳しいんだな。君があのヘッジホッグなのか?」
 「まさか。ぼくはただの中学生です」
 フミトは疲れて、ベンチの上で壁にもたれてうたたねをした。
 まどろみの中で悪夢を見た。
 自分以外はマスクをつけている悪夢だ。
 ふと目が覚めた。エリスが肩をゆすぶっていた。
 「三十分経ったから出るよ」
 これは悪夢じゃない。現実なんだ。
 フミトたちは、便所の外に出た。
 「犬の気配は一度もしなかったですね」
 「閃光花火でひるんだんでしょう。あれは一つしかなかったからもう使えないけど」
 あるいはクローラーの指示で深追いしなかったのか。
 外壁を見ると、アーケードと同じように丸い跡が無数に付いている。
 フミトはその跡に触れた。クローラーがつけたのだろうか。
 日は落ちているにもかかわらず、空が白く明るい。先ほどはなかった雲が覆っているからだ。
 落ち着きを取り戻したユイナが、雲に照らされた町の様子を見て言った。
 「あ、ここ分かる。私の家は近くなんです。あの給水塔は知っているので」
 エリスとフミトは、マップで場所を確認した。
 確かにブロックを四つ進んだ先に家のアイコンがある。六班はその場所まで歩いた。
 ユイナは、家の玄関の前でエリスたちに振り向いた。
 「エリス先輩、みなさん、ありがとうございました」
 心から安堵した笑みを浮かべている。
 「みなさんも無事に帰ってくださいね」
 トモユキはユイナの家の前でぐずぐずして、動く様子をなかなか見せなかったが、エリスにこづかれて歩き出した。
 いくら自分の身が大事でも、女の子の家にいきなり泊めてくれと言い出すほどのずうずうしさはないようだった。
 六班はユイナの家を離れ、再び歩き出した。
 フミトには、ひとつの仕事をこなしたという充実感が湧いてきた。
 「次はぼくの家ですね」ユイナの家を離れて暗い顔をしていたトモユキが、ふとうれしそうに言った。
 「ええ。でもその前にやることがある」エリスは薙刀を握りしめた。
 「え。何ですか」
 「クローラーを狩る」

クローラー狩り

 「ちょっと。いくら先輩で班長だからって勝手に決めないでくださいよ。なぜそんなことをしなくちゃいけないんですか?」トモユキが抗議した。
 フミトも今度はトモユキと同意見だった。
 「最初に言ったでしょ。無事に帰りたければ私の言うことに従いなさいって。それに君たちはクローラーに好きなようにあしらわれて悔しくないの? トイレにまで追い込まれて」
 「それは……」
 「ルートの設定や先導も全部私がやってあげたんでしょ。君たちだけでできるの? いやなら一人で帰れば?」
 マップ表示によると、トモユキの家まではまだ二キロはある。
 エリスの薙刀以外に武器らしいものはない。正直、エリスに頼らず、一度も通ったことのない道を無事に帰れるかはフミトにも自信がなかった。
 「安心して。寄り道するわけじゃないし、小さい奴なら簡単だから」
 「はあ」
 マップにはすべてのクローラーが表示されているのではなく、表示されるのは半径三百メートル程度だけらしい。
 今、周囲にクローラーはいない。六班はひとまずトモユキの家に移動を再開した。
 フミトには、トモユキの考えがはっきり分かった。
 帰るまでにクローラーに出会わなければいい、と思っているのだ。
 「犬が襲ってきたらどうするんですか。また公衆トイレに逃げこむんですか?」
 トモユキが不満げに言った。
 「犬対策なら考えているよ。ほら」
 フミトは、芳香スプレーをバックパックから取り出した。トイレから持ち出したのだ。
 「時々吹きかけながら進むと混乱させることができるんじゃないか。あいつらはぼくらの臭いは覚えていてもこの芳香スプレーの匂いは知らない。運悪く出会ったとしても直接吹きかけることもできる」
 「それ、いいね。クローラーにも使えるかもしれない」エリスに褒められるのはまんざらでもなかった。
 もしかしたらクローラー相手でもなんとかなるかもしれない。
 「で、クローラーに対して作戦はあるんですか、エリス先輩」
 エリスは歩きながらしばらく考えているようだった。
 なにか思いついたらしくマップを操作した。
 「作戦を説明するから聞いて。まずこの先にあるテニス・コートに行きます」
 「なにをしに」
 「黙ってついてきなさい」
 説明するって今言ったじゃないか。が、口に出さずにぐっとこらえる。ひとつ大人になれた気がする。
 三人は、林に囲まれたテニス・コートについた。コートの周囲には腰の高さまで草が生い茂り、一見すると空き地のように見える。
 「よしよし。やっぱりね」エリスは満足そうだった。
 「気づかない?」
 フミトとトモユキは顔を見合わせた。
 「ネットが張ってありますね」
 「ここのテニス・コートは何年も放置されているのにネットが張りっぱなしになってるでしょ」
 「ああ、なるほど」
 フミトはエリスの考えが読めた。
 「網」が欲しいのだ。
 三人はネットを外した。風雨にされされて痛んでいる。かなり重たい。
 「どうせもう使い物にならないから借りましょう」
 フミトは、ネットを五メートルほどの長さに切って半分にすれば楽なのだが、と思った。だがワイヤーが入っており、ネット自体も恐ろしく丈夫だ。エリスのナイフでは切れそうにない。
 「持って」
 フミトはネットを担ぐ羽目になった。肩にずっしりくる。
 「倉庫もチェックして」
 倉庫の鍵はかかっていたが、傍らに整地用のショベルが転がっていた。エリスはそれをトモユキに担がせた。
 「罠はどこに仕掛けるんですか」
 「狭い路地で左右に隠れられる場所。そして電柱かなにかにこのネットが固定できる場所」
 条件に当てはまる場所は簡単に見つかった。道幅が二メートルほどの路地である。
 その路地の左の電柱に、ネットの下部から左右に伸びるワイヤーの片方を固定した。
 「上は張らないんですか」
 「ネットを寝かせて隠す必要があるでしょ」
 エリスはネットを地面に敷いた。
 「上から土をかぶせて」
 罠は完成した。土が盛り上がっているのは、人間が見れば不自然だがクローラーは気づくのだろうか。
 エリスは、薙刀の先端のナイフを取り外して腿に装着し、柄をフミトに預けた。
 「クローラーは私が見つけて誘い出す。君たちは左右で待機してて」
 そういい残すと走っていった。
 「トモユキ君、クローラーのこととか詳しそうだな。教えてくれないか」
 スクール・バスで学校と家を往復するだけの日々。これまで気にしたことはなかった。
 「そんなに知っているわけじゃありません。単独で行動している生徒を拉致するっていうだけで」
 トモユキはすなおに答えた。結局、こいつはそんなに悪いやつじゃないのかもしれない。
 「じゃあC22粒子のことは?……そういえば犬は粒子の影響を受けないのか」
 「影響されるのは人間だけですよ。それはほぼ確実です。あとは、あくまで噂ですが……」
 「なんだよ」
 「C22を吸入してもすぐに死ぬことはないそうです」
 「じゃあどうなるんだ」
 、のだと」
 「どんなふうに」
 「C22は、一種のウイルスで、大量に吸い込むと……」
 「吸い込むと?」
 「クローラーになってしまうとか」
 「そりゃないだろ」フミトは吹き出した。
 「ぼくは試したくないですけどね」トモユキは真顔だった。
 もしかしたらありうるのか?
 不知者ストレンジャーについては?」
 「分かっていることはほとんどありません。直接見た生徒がいないので」
 「なぜ?」
 不知者ストレンジャーから逃げきれた生徒がいないからです」
 十五分が経過した。二十分。
 エリスはまだ帰らない。
 フミトは、座り込んだまま緊張感が緩んでうとうとしていた。
 三十五分を過ぎたころ、トモユキが「フミト先輩」と呼ぶ声に気づいた。
 マスク内部のマップ内で、エリスの顔アイコンが移動している。それをCマークが追いかけている。
 やがて、道の角からのぞき込むと、前方からエリスが小走りで走ってくるのが見えた。フミトとトモユキは立ち上がり、身構えた。
 その後ろを何者かが追ってきていた。
 電灯の下まで来るとはっきり見えた。
 こいつがクローラー。
 人間の肩までくらいの高さがあり、六〇センチほどはありそうな巨大な頭部が、大きな触腕十数本で支えられている。触腕が小さく枝分かれして無数の小さい触手になっている。触腕は滑らかに動き、音もなく移動してくる。
 クローラーがこれだけ異様な存在であるなら不知者ストレンジャーとはいったいどんな姿なのか。
 だがそいつは、エリスがこちら――罠に近づくと動きを止めた。まだ十五メートルはある。
 こちらの気配に気づいて警戒しているのか。
 それとも地面の罠に気づいたのか。
 エリスも自分の後ろを振りかえった。フミトの隠れたわき道からは五メートル。
 「まずいな」
 ここで立ち止まると、誘い込もうとしているのが見え見えだ。
 フミトは一計を案じ、反対側にいるトモユキに手真似をした。
 そして「エリス先輩、こちらにそのまま走ってください」と小声で呼びかけた。
 エリスは戸惑ったものの、うなずいて走り出した。エリスが目の前に来た時、
 「今だ!」フミトはトモユキに小声で言った。
 トモユキの持つシャベルの柄が差し出される。
 エリスはそれにつまずいて派手に転び、地面に突っ伏した。
 「何すんのよ!」
 クローラーはその反応をみて動き出した。すぐに立ち上がれないエリスの顔が青ざめた。
 近くで見ると意外なほど動きは速い。
 地面に横座りになったエリスの脚に触手が触れたとき、フミトはネットの一端を持って飛び出した。クローラーの周囲を駆けて、二回ぐるりと巻き付ける。
 「フミト先輩!」トモユキが叫ぶ。
 フミトは、ワイヤーの先端をトモユキのいる反対側のループに通して固定する。
 クローラーは動きを完全に封じられた。
 表面は、古代のガラスの金属的な玉虫色が灰色の膜に覆われている。
 大きな触腕から小さな触手へと、無数に枝分かれるさまは木のようにも見える。それらのすべてが絶えず形を変え、蠢いている。
 無数の吸盤が規則正しく並ぶ腕を見て、(美しい)とフミトは思った。
 エリスは黙ったまま立ち上がった。
 フミトの傍らに置いてあった柄に、腿から抜いたナイフをすばやく装着する。
 クローラーが、ネットの隙間から触手の一本を伸ばしてきた。
 「こいつ!」
 エリスは鮮やかな払いで切り飛ばした。
 青い血がエリスの頬に飛んだ。
 「この!」
 薙刀の鋭い先端で何度も突き刺す。
 本体は頑丈なネットにくるまれているので、切り払うことができない。
 足を引っかけられた怒りが、すべてクローラーに向けられたかのようだった。
 エリスは頬を拭うと、青い血が頬に太い線を残した。
 太古の戦士の闘いの化粧のように。
 「フミトも刺しなさい。さあ。こいつらは私達の……人間の敵なんだから」
 フミトは渡された薙刀を逆手につかんだ。
 無抵抗の肉塊に突き入れる。
 「もっと!」
 二度、三度。わずかな抵抗があったが、刃先は思ったより鋭く、肉に埋まる。
 こいつがぼくたちに犬をけしかけたんだ。
 差すたびに吹き上げる青い血。
 目の前のそれはもはや生き物ではない。
 何度も刺されて切れそうになっていた太い腕がはじけ飛ぶ。
 急に猛烈な不快感が胃にこみあげ、フミトは薙刀を取り落とすと口を押さえた。
 クローラーは身動きをやめていた。
 三人はしばらく地面に座り込んで放心していた。
 フミトは、巨大な屍体を見つめていた。汚物を入れた巨大なゴミ袋のようにネットに包まれて転がっている。
 ここまでする必要があったのだろうか。
 フミトはゆっくり立ち上がった。
 エリスはすでに立ち上がっていた。
 三人は歩き始めた。
 暗い道を無言で歩き続ける。前を照らすライトが心細い。
 そのまま五分は歩き続けただろう。
 フミトは立ち止まった。
 「エリス先輩。やっぱり、もうあんたについていくことはできない。確かにあんたはいろいろよく知っているかもしれない。だがクローラーを殺す必要があったのか? あいつを殺しても意味がなかった」
 「でも気が済んだんじゃない?」
 「あんたは単に自分の復讐のために殺したんだろ。ぼくたちを利用して」
 「そう。じゃあ好きにしたら?」
 「エリス先輩……」トモユキが道の奥を指した。
 「なによ」
 誰かが前方の路地をふさぐように立っている。
 クローラーが集まっていた。五体、六体。
 その前に立っているのは、白いフードをまとった人影だった。暗くて顔はよく見えない。
 不知者ストレンジャー……」エリスがつぶやいた。

不知者、駅、そして家

 マップに注意していれば気づいたはずだった。だが狩りの興奮で、だれも接近する他のクローラーには気づいていなかった。
 「引き返しましょう」
 フミトが肩に手を掛けると、エリスは我に返った。
 トモユキがいない。すでに逆方向に駆けだしていた。
 つられるようにフミトとエリスも走り出した。
 背後から不知者ストレンジャーの声が響く。なにを言ったのか分からない。
 先を行くトモユキの左方向の脇道から、不意に触腕が伸びてきてトモユキの脚を捉えた。
 「トモユキ君!」
 エリスは足を一瞬緩めたが、フミトがその右腕をつかんで引っ張った。
 走りながら地図を確認する。四方を囲まれている。
 「Cマークがない路地があります。前方左側斜め!」
 二人はそこに駆け込んだ。しかしゆっくりとだが後ろからクローラーが数体追ってくる。
 いくらクローラーの全速力が人間より遅くても囲まれてしまえば勝ち目はない。
 「二手に分かれましょう。まだ逃げられるかも」フミトは立ち止まって叫んだ。
 五メートルほど歩先に行くエリスも立ち止まって振り返った。薙刀の柄はとうに捨てていた。
 「先に行ってください!」
 エリスは一瞬ためらったが、腿のナイフのベルトを外した。
 「これを!」鞘ごと地面に滑らせてよこした。
 フミトは闇に消えていくエリスの背中を見送った。
 振り返って、迫ってくるクローラーに面した。
 フミトはその場を動かなかった。
 どれだけ走ったのか分からない。もう体力の限界だ。
 それに、ここで食い止めれば少しは時間稼ぎになるだろう。
 自分だけ先に逃げる奴にはなりたくない。
 クローラーはフミトが移動しないのを見ると速度を緩めた。
 先頭には不知者ストレンジャーが立っていた。
 ゆっくり迫ってくる。二メートル。一メートル。
 フミトに触腕が伸びる。
 フミトは、ナイフを振り上げた。だが振り下ろす間もなく、強力な触腕が次々に伸びてきた。
 全身が絡め取られるように、蠢く触腕の中に埋もれていく。
 頭から血が抜けていくような感じがして、フミトは崩れ落ちた。

§

 列車の汽笛が響いて、フミトは、心地よいまどろみから目覚めた。
 ここはどこだ?
 「フミト君。聞こえる?」
 タドコロ先生の声だった。
 先生、なぜこんなところに?
 膝枕はいい気持ちだった。走り回って疲れたせいかひどく眠い。
 それとも、これはタドコロ先生の形をした化物?
 「先生、ここは危険なんですよ」
 フミトは朦朧とした意識の中で変なことを言った。
 「いいえ。ここは安全です」
 小さい駅のプラットフォームのベンチに寝ていることに気づいた。
 はっと上体を起こした。
 ナイフはどこにも見当たらない。
 粒子濃度指標は426を示している。安全基準値の八倍以上だ。
 タドコロ先生はいつものように白衣を着ている。
 「先生はなぜマスクをしてないんですか。スーツも」
 「私には必要ありません。君も本当はマスクなんていらないんだけど」
 「他のみんなは?」
 「エリスさんなら無事です。マナミさんもトモユキ君も無事に保護されました。ユイナさんは残念でしたが」
 え? ユイナは無事に送り届けたじゃないか。
 街並みの中に埋もれるような小さな駅だ。
 照明はベンチのそばにポツリとあるだけで辺りはひどく暗い。
 汽笛がまた鳴る。以前聞いた微かな音ではなく、力強い。
 車両が一両接近しつつある。内部の照明は真っ暗だ。
 回送列車?
 「さあ、行きましょう」
 扉が静かに開いた。
 タドコロ先生に続いてフミトは車両に乗り込んだ。
 乗客は十人ほどいるらしい。ひどく大きな頭だ。
 暗闇に徐々に目が慣れる。
 座席に座っているのは人間ではなく、クローラーたちだった。
 人間狩りを終えて、彼らもどこかに戻るのだろう。
 なぜか恐怖心は感じない。
 ぼくはこれから彼らの仲間になるんだ。そんな気がした。
 列車は緩やかに発進した。
 タドコロ先生に導かれ、フミトは、ボックス・シートの窓側に座って先生と向き合った。
 頭がまだふらつく。
 事実が頭の中にしっかり入ってこない。
 不知者ストレンジャーは、先生だったんだ。
 「先生は、最初からなにが起きるか分かっていたみたいですね」
 「もちろん分かっていました。君たちはおおよそ予測通りの行動をしてくれた。いろいろ聞きたそうな顔ね」
 「聞いたら話してくれるんですか?」
 「話せることなら」
 タドコロ先生は、頬杖をついて窓の外を眺めた。車両はゆっくり無人の家の間を通り抜けていく。
 月が出ていた。先生の白い顔を照らす。
 「この街の外の世界がどうなっているか知ってる?」
 「うちはあまり外部と関わりを持たない家なので……」
 「学校と保護者が、AIを拒否し、都市回生機構と対立しているのは知っているでしょう」
 「ええ」
 「AIは、社会の半分以上を支え、人は自らより優れたAIになんでも任せるようになった。学校でも、教育そのものにはもちろん、生徒間の人間関係の問題、いじめや自殺を事前に的確に予測して事故を防いできた。しかし、一部の人々は、どれほどAIが社会に貢献しても、どうしても受け入れることができずにAIの存在そのものを否定した」
 そうだ。うちの両親はそうだった。
 「AIが構成する都市回生機構は、人間を助け、人間の代わりに街を維持してきた。しかし、この街では都市回生機構との争いが長く続いていた。人は徐々にこの街を離れて減っていったけど、最後まで残った人たちがいた。学校の教員も君たちの親も、全員、AIを社会から徹底排除する『純人会』の信徒なのです。私たちは、君たち生徒を純人会から奪い返すために長年活動してきた」
 「じゃあスクール・バスの故障も?」
 「ええ」
 「ヘッジホッグというのは先生のことなんですね」
 タドコロ先生は、あいまいな微笑みを浮かべた。
 「今日の出来事は生徒の救出作戦だった。特に君のね」
 都市回生機構。AI。クローラー。
 この三者がつながっているということは。
 「クローラーがAIなんですか」
 「正確にはAIになれなかった存在のことです。昔、AIは機械だったんだけど、ニューラルネットワークを発達させる効率性から、有機体に置き換えられた。適応型多値論理を用いた生体計算機は、量子コンピューターを上回る性能を実現した。知ってる? 頭足類の神経は半分以上、腕に存在する。頭蓋骨という厄介な物理的制約もない。しかも、生体AIセファロは、腕脳の配列を物理的に組み替えることができる。脳の可能性が飛躍的に向上したわけ。腕が増えるように改良された結果、体表面積も増加して、肺の代わりに皮膚呼吸もできる」
 「そのセファロが都市回生機構の正体なんですね」
 「セファロは人のために生まれ、人のために行動する。人間よりも公平なの。プラトンの哲人王の理想を実現したといってもいい。ただすべてのセファロが能力を発揮できるわけではない。人間――中学生程度の知能しか持たない者には町の見回りをしてもらっている。そして今回のような集団下校の時には、生徒の救出をね。都市回生機構は、学校に強制的に干渉する権限はないけど、生徒さえ自発的な意志を示せば外の世界にも行ける」
 フミトは自分の手を見下ろした。青い血がまだついていた。
 「軟体動物や甲殻類の一部は、血は鉄をベースにしたヘモグロビンの代わりに銅を含むヘモシアニンだから青い。授業でやったの覚えてる?」
 先生が平然と言う言葉は、フミトの耳に入らなかった。
 クローラーは知性を持つ。
 それをぼくたちは殺してしまった。
 「殺されたクローラーのことは気にしないで。自分が狩られると知って役割を果たしたんだから」
 そう言われたからといって忘れられるものだろうか。
 「C22粒子って何なんですか?」
 「C22はセファロが分泌し、遠距離コミュニケーションに使う一種の神経伝達物質です」
 「人間に害はないんですか?」
 「ある種のアミノ酸を含み、大脳旧皮質――本能の働きを抑制し、新皮質――理性を促進するだけ」
 「つまり、AIを受け入れやすくなると」
 「そう。だからマスクはいらない。学校は、このマスクを自分たちの目的に沿うように使っている。マスクやスーツは本来別の目的で作られたものです。ネットワークに繋いでいなければただのマスクでしかない。君たちは、この街の外がどれほど進化しているか知らない」
 タドコロ先生は、フミトのマスクの頬に触れた。
 「このマスクは世界を検閲し真実を隠してしまう」
 「クローラーも仮想存在なんですか? 本当は別の姿なんでしょう。先生は? マスクを外すと本当の姿になるんですか?」
 タドコロ先生は答えなかった。
 なにを信じればいいのか分からない。
 「先生を信じてマスクを外して」
 騙されるな。これは嘘だ。心のどこかで小さな声が叫んでいる。
 フミトはためらいつつも手が勝手に動いていた。マスクを外した。
 「ありがとう」
 タドコロ先生が微笑んだ。
 マスクを通さずに見ても、先生の顔は変わらなかった。
 先生にとって重要なのは、僕がマスクをことだったんだ。それは先生を信じたことを意味する。
 先生は、近くにいたクローラーに何事か話しかけた。
 しばらくして列車はゆるやかに停止した。
 「家に帰りなさい」
 「ぼくを連れて行かないんですか?」
 「そうするつもりだったけど方針が変わりました。君は、今は学校にいてくれたほうがいい」
 なにか裏切られたような気がした。
 「ここから君のコミュニティーのゲートはそう遠くない。地図に表示されてるから分かるでしょう」
 フミトは、再びマスクを着けた。
 列車の出口から降り立つと、そこは踏切だった。
 「このままぼくを行かせていいんですか? 先生のことを学校で話しますよ」
 「中学生の言うことが教師より信用されると思う?」
 先生は優しく微笑んだ。
 「学校ではAIのことを話すだけで仲間はずれにされますよ。黙っておいたほうが君自身のためと思うけど」
 それでもぼくは今夜のことを誰かに話すだろう。それもおそらくタドコロ先生の思うつぼなのだ。
 「それとヘッジホッグは個人のことではなく純人会に対抗するグループのこと。君にもヘッジホッグの一員になってほしい」
 「なぜぼくに」
 「君は学校に疑問を感じているから。じゃあ、また明日」
 先生は、あっさり別れの言葉を告げた。いつものように。明日もまた今日と同じ、とでも言うように。
 ドアは閉じ、列車はゆっくりと発進して遠ざかっていった。
 「分からない」フミトはそれを見送りながらつぶやいた。
 学校が正しいのか。タドコロ先生が正しいのか。
 明日学校に行けば、なにかが変わるのだろうか。
 少なくともエリス先輩、マナミ、トモユキの三人に会うことはもうないだろう。
 コミュニティーのゲートは前方に見えていた。その明かりはとても暖かいものに見える。
 フミトはそちらに向かって歩き出した。
 家に向かって。

(了)

文字数:23960

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