すべての道に五反田は

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梗 概

すべての道に五反田は

――五反田を知っているか。
それは、自治体名でもなければ町域の名前でもない。もちろん、ただの駅名というわけでもない。では、何かといえば。
おれのことだ。
おまえたち人間にとっての意識は、脳の皮質内にはりめぐらされた神経ネットワークから生じている。サイズは違うが、おれも同じこと。五反田という都市空間を縱橫にめぐる人間たちのネットワークが、おれという存在を生じさせている。
なぜ、おれはわざわざ言語を介して、おまえに語りかけているのか。率直にいうと、愚痴を聞いてほしいからだ。五反田にだって悩みはある。おれにとって最大のストレスは、

――ぼくの存在だと言いたいんだろう。
でも、本当に愚痴を言いたいのはこっちの方だ。
かれが依存するネットワークは、食欲にかられてレストランをめぐる人だったり、風俗街をさまよう人たちによって構成されている。そんなものを、都市の核だと信じて大切に抱え込んでいるのだ。
かれのこだわりが、五反田を古く魅力のない都市にしてしまった。となりの大崎は、旧来の工場群を構成要素から排除し、発展を遂げたというのに。
ぼくは、企業体を中心ノードとする圏域から生まれた、新しい五反田。今にふさわしい都市空間を育むための存在だ。

――やつはおれの縄張りを侵食しだした。
目黒川沿いの再開発エリアが活性化し、五反田内の地勢が変わりはじめる。やつのネットワークが拡大し、その意識にまちが飲み込まれていく。
だが、侵攻は東五反田で止まった。
食欲そして肉欲。人間の根源的な衝動によって編まれたその圏域に、上っ面だけの繋がりが入り込む余地などない。

――だから、ぼくは次の手を考えることにした。
基底構造を上書きできないのなら、物理的に作り変えてしまえばいい。
ぼくは、倣うべき先達、大崎の力を借りることにした。自らの圏域に、大崎のクローン「新大崎駅」を新設したのだ。それをきっかけに、五反田全体でなだれのような大規模開発が始まった。

――いや、開発という名の自殺だ。
まちがきれいになることで、風俗店は駆逐されてしまった。路面店だった肉料理店は、産業ビルに収められた。ネットワークを失ったおれの意識は希薄化しだした。
まちから個性を奪った先には、荒野が待つだけだぞ。

――まるでわかってない。
この結果は、ぼくが導いたものじゃない。人間たちの願いの集積が、五反田(ぼく)という存在なのだから。人の願いは、変わる。それを荒野と呼ぶのかい。

――確かにそうなのかもしれないな。
おれは口を閉ざし、
そして消えた。

――どれくらい眠ったのか。再び目覚めたおれは、辺りを見渡す。
ここは町田。五反田から離れたステーキ店が、ミート通りに出店したのだ。
ここは川口。五反田で考案された大人数派遣デリバリーヘルスが、ひっそりとサービスを開始した。
ここは仙台。ここは香港。ここはマドリード。
求める人がある限り、おれはいたるところに広がって、いたるところで目を覚ます。

文字数:1200

内容に関するアピール

かなり前のことですが、たて続けに得意先が五反田へオフィスを移したことがありました。五反田といえば、夜の店が好きな先輩が住んでいたことと、有名ハンバーグ店のイメージしかなかった私は、首をかしげながら挨拶にうかがうと、そこに待っていた高層ビル群に衝撃を覚えたものです。

さて、留意したポイントは2点。

住宅街であり、商業街であり、歓楽街でもあるという、複数のレイヤーが織りなすこの都市空間を、ひとつの言語表現のなかに捉えきること。

そのうえで、正しく捉えた五反田の風景を、「ただひとつだけ」の嘘により、がらりと見慣れぬものに変えること。
その虚実の振れ幅が「センス・オブ・ワンダー」を生み出す鍵となるでしょう。

この梗概は、円城塔氏が『SFの書き方』で語った「梗概は3枚で書く短編である」という指針に従っています。ショート・ショート向きのアイディアに映るかもしれませんが、実作では格段に向上させることを約束します。

文字数:400

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今日も場末の居酒屋で

2017年6月3日(土)

飲まなければ、やってられない。
午後4時半。
おれは、開店直後のもつ焼きや「だん」に入った。

大将は何もいわず、カウンターの奥の席を指す。狭い。半身になって進まなければ、目的の席にたどり着くことができない。
壁には、日焼けしすぎた「レモンチューハイ発祥の地」というチラシが貼られている。
「飲み物は?」
店員がきくそばから、大将は奥でレモンチューハイを作りはじめている。

強い。レモンの酸味がやたらと強く、アルコール濃度はもっと強い。一杯目を飲み終わらない間に、もう酔いがまわってきてしまう。
いつ頼んだのか気付かぬうち、目の前に「もつ焼き10本セット」が置かれる。どの串がどの部位なのか、そもそも何の肉なのか、ぜんぜんわからない。だがうまい。肉を噛みしめると、強めの歯ごたえのあとに、肉汁があふれだしてくる。

味付けが濃く、ついレモンチューハイが進んでしまう。
どんどん酔いがまわってくる。
時計をみると5時を過ぎ、だいぶ店も混んできた。

おれの右隣の席に、からだをねじ込んでくるおっさんがいた。はげかけた頭に、洗濯しすぎて色あせたアロハシャツ。胸ポケットには、風俗案内所のチラシを隠そうともせずつっこんでいた。

「まだ六月だってのに、何なんだろうなぁこの暑さ」

首にかけたタオルで、広がりきった額をゴシゴシとこする。おっさんの目の前には、注文する前からレモンチューハイがどんと置かれる。いかにもうまそうに喉をならしながら一息で飲みほす。
おっさんは、おれの手もとのジョッキをちらりと見ると、

「なんだ、にいちゃん。もうカラじゃないの。大将、レモンチューハイ二つね」

めんどくさいやつの隣になってしまったなあ、と思いつつもおれは運ばれてきたジョッキに口をつける。

「にいちゃん、あんまり見ない顔だけど、このへんもしかして初めて? いい店だったら、おれが教えてやってもいいけど。ひひひ」

おっさんは、さっそく胸元の風俗案内チラシに手を伸ばそうとしたので、おれはさえぎって説明をした。
おれは、自称小説家の卵である。今日は、品川区主催の「五反田」をテーマとした小説コンテストの選考会であった。
公開選考会の会場は、五反田文化センター。選考委員からの、おれの小説に対する評価は惨憺たるもの。小説の書き方がわかってない。意味がわからない。タイトルのセンスが悪い。服装のセンスも悪い。徹底的にこき下ろされたおれは、この時間から酒をあおっているわけであった。

「なんだ、この五反田をネタに小説かいてたのかよ。だったら、もっと早くおれと出会ってたらなあ。おもしろい話をきかせてやったつうのに」

おっさんは、おれの肩をバンバン叩く。
確かに、このあたりに詳しそうなおっさんである。どんなことを教えてくれるのかと気になってしまったのだが。

「実はよ、おれが五反田なんだよ」

なんだ、駄洒落ではないか。

――へえ、面白いですね。五反田さんが五反田で飲んでいるなんて、ハハハ。

とおれは軽く流そうとしたのだが、

「ちがうちがう。そんなんじゃねえんだよ。確かに、おれの名前は五反田っていうんだけど、それだけじゃねえんだ。この五反田ってまちに宿っている意識と、おれの意識は繋がってるんだよ。だから言ってみれば、おれがこのまちそのものだってわけ」

あ、このひとやばいひとだ。

――大将、お勘定。

おれは持ち前の危機察知能力を発揮して、この場を離れようとしたが、

「まあまあ、ちょっと話を聞いてくれよ。別に、取って食おうってんじゃないんだから。まあ、おれはそっちもいける口だから、食っちゃってもいいんだけど。なんつって。うそうそ、だからまあ座れって。ちょっと、聞いてほしい話があるんだよ。ここは、おれが奢るから」

別におっさんの話を真に受けたわけではないが、最後のひとことが気になった。コンテストに向け、小説作成スクールを受けていたせいで金欠だったのだ。
それからおっさんが語ったのは、いわば妄想が入り交じった愚痴である。
おっさんいわく、ある程度の人口規模になったまちには、すべて意思が宿っているという。人間にとっての脳細胞にあたるものが、まちにとっての人間にあたるらしい。脳内の神経ネットワークが意識をつくるように、まちの人間の交通ネットワークにも意識が宿っている。
ネットワークが意識を持つためには、それが秩序をもって統合されている必要がある。統合されているということは、ある一点を中心としてネットワークが構成されているということである。そして、五反田というまちでいえば、そのネットワークの中心が――目の前にいるおっさんである。

――じゃあ、他のまちにも中心となる人がいるんですか?

「そりゃ、そうよ」

――じゃあ、たとえば新宿の中心はだれなんですか?

「そんなの、決まってるだろ」

そう言って、おっさんは無音でながれているテレビの画面をあごでしゃくる。ニュース番組には、都議会で答弁する某百合子氏が映っていた。脱力。おれは、この酔っぱらいの話に付き合えば、飲み代が浮くのだと自分に言い聞かせて、席を立ちたくなる気持ちをぐっと抑えた。

で、おっさんがおれに言いたかったこととは、このごろ肩こりが酷いのだという。
普通の話である。
と思ったら、おっさんが言うには、普通の肩こりとは違うらしい。おっさんの身体をはしる神経ネットワークは、五反田のまちの町域とリンクしているらしい。まちに異変があると、体の調子もわるくなる。
おっさんの右肩は、このまちでいうと東五反田二丁目あたりと繋がっているらしい。

「このごろなんだか、右肩の感覚がにぶくてなあ。肩あがらねえと、シャツ脱ぐのだってたいへんでよ。なんでこうなったか、原因がわからねえんだよなあ」

おっさんが首をひねっていると、

「ちょっと、横からいいですか」

いきなり、おれの左隣の席に座ってくる若い男がいた。
見ると、太ももがタイトすぎてパツンパツンになったスーツに、袖口からちらりとのぞくオメガ・スピードマスター。鋭角なシルバーフレームの眼鏡、サイドを短く刈り込んだ七三分け。足元においたダニエル&ボブのビジネストートには、もちろんマックブックエアが入っていた。
絵に描いたような、意識高い系のサラリーマンである。

「すみません、お話が聞こえてきたんですけど」

――うるさかったですか。どうも、すみませんでした。

とおれが謝ると、

「いえ、別にボリュームは問題ではなくて、お話されていた内容が気になったんです」

確かに、こんな話をしていたら気にはなるだろう。

「そこの彼の話は、抽象的で要領をえないし、話しぶりから品性のかけらも感じられない。都市に宿る意識について、誤解と偏見をまねくおそれがあります。都市知性体の一員として、どうしても訂正の必要を感じましたので、失礼を承知で会話に割り込ませていただきました」

あ、このひともやばいひとだ。

――大将、お勘定。

持ち前の危機察知能力を発揮してこの場から離脱しようとしたが、意識高い系のサラリーマンはおれの肩をおさえて、

「誤解されたまま帰られては困ります。他の都市知性体に対しても、申し訳がたちません。お願いですから、ぼくのはなしを少し聞いてもらえませんか」

両サイドを固められたおれは、逃げようがなかった。ただ、さっきのおっさんは話をきくかわりに飲み代を持つことを約束したが、このサラリーマンはしなかった。おれが、どこかおっさんの方に肩入れをしたくなったのは、このことが原因だったのかもしれない。

サラリーマンは、まず都市知性体という存在について説明をはじめた。
こいつの話は長くてまわりくどいので、おれはレモン・チューハイのジョッキを握りしめたまま、何度も寝落ちしそうになった。隣のおっさんにいたっては、完全にカウンターに突っ伏していた。
そんな状態だったから、やつが何を言っていたのか記憶が曖昧であるが、だいたいはこんな感じだったと思う。

さきほど、おっさんが言ったように、人間にとっての脳細胞が、都市にとっての人間であるというところは、間違っていないらしい。都市を行き交う人間がつくるネットワークには意識が宿っていて、サラリーマンはそれを都市知性体と呼んでいた。都市知性体とは、都市全体に敷かれたネットワーク全体のことであり、それが具現化したひとりの人物のことでもある。人間という存在が、その物理的な身体のことでもあり、脳内に生じた意識のことでもあるのと同じように。

そもそも、意識というものが存在するためには、ふたつの要素が必要である。
ひとつは、ネットワーク上で流通する情報量(Φ値)が、一定量を超えているということである。どの程度の情報量から意識が生まれ得るかは判然としていないが、少なくとも人間の脳と同程度が必要であるとみなされている。都市のネットワークは、人間を構成要素として成立しているのだから、当然そこで流通する情報量は、意識を生じさせるに十分なレベルを超えている。

ふたつ目としては、そのネットワークが、統合された存在であらねばならないということである。人間の脳よりもΦ値が高いネットワークとしては、たとえばインターネットがある。だが、インターネットには意識が生じていない。なぜなら、インターネットには中心という概念がないからである。
統合されているということは、そのネットワークが特定の中心点をもって、構成されているということである。

「というわけで、その特定の中心点となる存在がこの私であったり、あまり認めたくはありませんがそこのおじさんというわけです」

結局、話は長かったが、結論はさきほどおっさんが言ったことと変わりない。

――で、そこのおっさんは五反田の意識だと言ってましたけど、あなたはどのまちの意識なのですか?

「自己紹介が遅れて申し訳ございません。ぼくは、新しい五反田。このまちを現在にふさわしい存在に変えていくための存在です」

――五反田の意識が、ふたつ存在しているということですか?

「すみません。説明が必要でしたね」

というわけで、またサラリーマンの長ったらしい話が続いてしまったわけだが。
都市知性体が有するネットワークは、人間のネットワークとは違って、それぞれが物理的に遮断されているわけではない。都市は地続きであり、そこに存在するネットワークも、密度の濃淡はあれど物理的には繋がっている。
一般的には、駅の周辺など、ネットワークの密度が極度に濃くなっている場所に、都市知性体が存在している。ただ、駅以外でも、ネットワークのΦ値が高まった場所があれば、都市知性体が新しく生まれることがある。
同じエリアに、ふたつの知性体が存在してしまう自体も起こるわけだ。

「ぼくは、東五反田二丁目に建設されている、高層ビル群を中心ノードするネットワークから生まれた存在です。いまは、小さなエリアを占めるだけに過ぎませんが、これからはぼくが五反田全体を統合する存在となるでしょう」

「はあ? じゃあ、おれの肩こりは、てめぇのせいじゃねえか」

カウンターに突っ伏しいびきをかいていたおっさんが、むくりと起き上がる。

「どおりで、あのあたりの感覚がねえと思ってたんだよ。おめぇがおれの縄張りを荒らしてたからなんだな」

「確かに、ぼくはあなたが依存している駅周辺のネットワーク、つまり性風俗街だとか、肉料理屋をうろつく人間から、独立した存在として生まれました。あなたから見たら、自分の領域を切り取られたということになるのかもしれませんが」

サラリーマンは、ぴくりと頬を引きつらせて、

「縄張りを荒らしているなどと表現されるのは、非常に心外ですね。ぼくは、この五反田を正しい方向に導こうとしているんです。あなたが、このまちで育成してきたネットワークは、どうなっているんですか? 東口を出たら、そこにあるのは風俗街。西口を出たら、そこにあるのは肉料理屋ばかり。都市の中心に、どうしてそんなものを配置しているんでしょうね。そんなだから、人間なんぞに、住みたくないまちトップテンに選ばれてしまうんですよ。すこしは、隣の大崎さんを見習ったらどうですか」

「はあ?」

おっさんも、飲み過ぎで赤かった顔をさらに紅潮させて、

「大崎のどこがいいってんだよ。おまえ、おれが全く知らないと思ってんのか。五反田二丁目に建ってるビルの名前、あれ恥ずかしくねえのかよ。五反田にあるっていうのに、エクセレントビル大崎。あれ、おめぇのセンスだったんだな。住んでる人間の身になってみろよ。自分の住所をハガキに書くとき、東京都品川区五反田二丁目エクセレントビル大崎なんとか号室、ってなるんだぞ。書いてる方も混乱するし、配達する郵便局のひとも、大崎に行けばいいのか、五反田に来ればいいのか迷っちまうじゃねえか。おまえみてえな軽薄な若造が勝手な真似すると、このまちが住みづらくなるんだよ」

サラリーマンも額に血管を浮き上がらせて、

「ぼくの存在が、五反田を悪くするわけがないじゃないですか。大崎さんだって、昔はまわりには工場しかなくて、五反田とそれほど違わないまちだったんです。それが、いまはどうですか。駅のまわりを複合商業ビルで固め、人間の密度を上昇をさせて複雑なネットワークを形成し、都市の知的レベルを上昇させたわけですよ。いまでは、新興ビジネスエリアとして、いちばんの注目を集めています。五反田は、まず大崎さんを見習うところから始めなきゃいけないんです」

とうとうサラリーマンは、おれの頭を飛び越えておっさんの襟元をつかむ。
おっさんも応戦。

「ああ? おめぇみてえな若造がいっちょ前になに語ってやがんだ」

意外と軽やかな身のこなしでサラリーマンをいなし、藤原善明ばりのヘッドロックでその頭を締め付ける。
飛び散るもつ煮込み。
宙を舞う、もつ焼きの串。
隣のおれにとっては、ただの災難である。

――大将、お勘定。

――二千円。

無表情で大将はこたえる。

おれは、カウンターに皺だらけの千円札を二枚置き、逃げるように「だん」から飛び出した。そういえば、おっさんがおれの飲み代を持ってくれると言ってたな、と思い出したのは、山手線に乗り込んだ後のことだった。

 

2021年6月19日(土)

東京オリンピックもすっかり過去のものとなった。
まちも、つかのまの熱気から冷めて、むしろ以前よりも冷えびえとしてしまったようでもある。前日に飲みすぎ、朝起きてみたら財布からすっかり現金が消えていて、テンションがめちゃくちゃ下がった朝のような気分といえば近いだろうか。

だが、良かったのか悪かったのかはわからないが、オリンピックがひとつの契機となったことは事実である。各会場をつなぐ交通網は整備され、来外客受け入れるための宿泊施設は乱立し、オリンピックと関係があるかもよくわからない建物も、どさくさに紛れてたくさん作られた。

五反田に来るのは久しぶりであったが、このまちも様変わりをしている。東急五反田駅は複合商業ビルの中に収まっている。東五反田二丁目の再開発もさらに進められ、高層ビルが所狭しと立ち並び、新興オフィス街としての地位を確かなものとしている。

だが、すべてが変わったわけではない。
JR五反田駅の東口を出たおれは、高層ビル群を遠巻きに眺めながら、ゆうらく通りへと歩を進める。もつ焼きや「だん」は、よごれの染み付いたのれんを店先にかかげ、いつものように営業を続けていた。
まだ5時を過ぎたばかりだというのに、店内はすでに顔を赤らめた客でごった返していた。ひとり客のおれは、問答無用でカウンターの奥に通される。

――もつ焼き十本セットと、あと

「レモンチューハイだろ。大将、おれとこいつに濃い目のやつよろしく」

勝手におれの注文を引き取る客がいる。
見るまでもなく、頭頂部までつるりとはげあがった頭に、洗濯しすぎてよれよれになったシャツ。いつぞやのおっさんが、右隣りに座っていた。心なし、以前よりも少しやつれたような気もするが、肌ツヤだけは脂ぎっていてやたらと血色がいい。

「どうしたんだよ、ずいぶんと久しぶりじゃねえか。なんだ、ちょっと発散したいっつうなら、いい店紹介してやろうか」

おっさんが、ポケットの風俗案内チラシに手を伸ばそうとしたので、おれはそれを制して。

――いや、べつに用があるってわけじゃないんですけど。まあ、なんだか久しぶりにここで飲みたくなって。

「なんだ、あれか、前みたいに小説のネタ探しってやつ?」

――いやまあ、小説もやめたつもりじゃないんですけど。今は、仕事が忙しくて。

と言って、おれはついカウンターに目を落としてしまう。
おっさんは、おれの指元に気付いたのか、

「ああ、結婚したんだな。いいことじゃねえの、家庭を持つってことは。何も、落ち込むことじゃねえよ。家族のために、生活のために、他のことを考えず仕事に向かい合うってのは立派なことよ。若い間は、がんばって稼がねえと。まあ新婚なら、あっちのほうも頑張んねえといけねえんだろうけどな。うははは」

――それはそうと、おじさんこそ体調は大丈夫なんですか。なんだか、昔より痩せたみたいだけど。

「おれは、ぜんぜん絶好調よ。あっちの方も、まだまだ現役だっつうの」

おっさんはにやっと笑った。ヤニがこびりついた汚い歯。まあ、いずれにせよ元気ならいいのだ。

――でも、このへんも変わりましたね。

おっさんは、ぐっとレモンチューハイを煽って、ふぅとため息をつく。

「ああ、なんだかわけのわからねえビルばっかり建っちまってな。見晴らしが悪くなって仕方ねえ。でも結局、大事なもんはなんも変わらねえんだよ。このあたりの風俗街も見てのとおりだし、西口の肉料理屋だって昔のまんまでビンビンよ」

おっさんは、嬉しそうに言う。

「でも、すべて昔のとおりというわけではありません。駅周辺のエリアも、見えないところでは変わりつつあります」

と、おれの左隣の席に座ってくるやつがいた。もちろん、いつかのサラリーマンだった。ただ、昔とは少し雰囲気が変わっている。
着ているスーツは、以前のように太ももがパンパンのタイト過ぎるものではなく、体のシルエットにゆったりと沿った、艶のある生地で仕立てられている。床に置かれたブリーフケースは、どこのメーカーのものかおれには分からないが、よく手入れされたブライドルレザー製のもの。眼鏡の奥の目つきも、以前のようなギラつきは消えて、なぜか少し憂いを帯びているようにも見えた。
おっさんは、ただでさえきたない顔をさらにしかめて、

「もうわかっただろ。このあたりは諦めろよ」とサラリーマンに話しかける。

「おまえが作りあげたネットワークは、合理的というやつなんだろう。きれいに整ったネットワークだから複製しやすいし、拡張させるのも簡単にできる。おれのネットワークも、かなりのところはおまえに上書きされちまった。でもな、結局のところは、そろばん勘定で結ばれたものなんて、底が知れてるんだよ。人間の深いところで作られた繋がりってのは、簡単に切ることはできねえ。おめぇにとっては見栄えのわるいもんかも知れねえが、性欲だとか、食欲だとかで作られたネットワークは強い。それが、人間にとっての本質だからだ。この五反田のまちは、そういったもので作られてんだよ」

そういえば、このおっさんは五反田のまちに宿った意識だと自称していたのだった。すっかり忘れるところだった。
サラリーマンは、いつかのように食ってかかるかと思ったが、

「確かに、私はあなたの存在を軽んじていたのかもしれません」と素直に認める。

「ですが、もう諦めるとか、諦めないとか、そういったレベルの話ではありません。五反田という都市が存続していくためには、前に進まなくてはならない。私のこの姿が、あるべき五反田のかたちなんです」

おっさんの方も反論せず、苦々しい表情でレモンチューハイを啜っている。
サラリーマンは続ける。

「あなたは、五反田のまちにとってのノスタルジーです。もちろん、まちの情景にはノスタルジーがあってもいいでしょう。ただ、その存在によって、この五反田という都市の歩みが遅れるのなら、私はそれを切り捨てなくてはなりません」

「切り捨てるって、どういうことだ」

「具体的に言いましょう。この五反田は、都市にとって最重要なエリアである駅周辺を、性風俗街と肉料理店によって取り囲まれている状況です。このことが、駅を中心とする都市の開発の障害となっています。特に、まちの玄関口に性風俗街があることは、五反田のブランドイメージを激しく毀損しており、ただちに対処が必要です。以上のように、駅周辺のネットワークはいわば街の恥部ですので、すべて排除してから再構築を行う予定です」

すると、これまでじっと聞いていたおっさんは、

「なに、勝手なことぬかしてやがる!」

と、いきなりキレた。

「五反田は、おれのまちだ。ここに田んぼしかなかった頃から、おれはずっとここにいるんだ。ここには、なにもなかった。なにもなかったんだぞ。そんな場所に、吉原から追い出され、品川宿でも居場所をなくした、ひとりの飯盛女が居着いた。ひっそりと客をとって、なんとかここで暮らしていた。そんな女が一人増え、二人増え、まちができたんだ。少し離れた場所には、屠殺場があった。まわりから疎まれて、まわりに何もねえ五反田にやってきたんだ。生き物を育てて、泣きながら殺して銭に替え、そうして日々を生き抜いてきた。そいつら一人ひとりが、おれだ。おれが、五反田だ。このまちにいるのは、おれのガキどもだ。五反田の肉料理屋がうめえのは、このまちの業と伝統を引き継いでいるからだ。おめぇに何がわかる。いまも昔も、クソみてえな日常にしがみついて、この場所で生きている。それの何が恥ずかしい。どうして、恥ずかしいことがある。これが、五反田というまちなんだ。おまえなんかじゃねえ。おれが五反田なんだ。おれは、ここで生き続ける」

おっさんは、ガツンとカウンターに拳を打ち付ける。
でかい音が鳴ったが、奥の大将はちらりと目を上げただけで、何も言わずもつを焼き続けている。それが、大将の仕事だからだ。彼が、やらなければならないことだからだ。
サラリーマンは、肩を上下させるおっさんに、

「たいへん失礼な表現をしてしまい、申し訳ございません」深々と頭を下げた。

「あなたの気持ちは理解したつもりです。それでも、この都市は変わらなくてはならないんです。その結論は、決定しています」

それから、サラリーマンは私の方に向かって、

「お騒がせしてすみません。ゆっくり飲んでいってください。ここの串焼きは絶品ですから」と、なぜか寂しそうな口調で言った。

 

2026年6月20日(土)

すべてが変わってしまった。

かつて、あのサラリーマンは正しい方向を見つめていたのだろう。
いまやこの国は、三人に一人が高齢者。労働人口は、急激に減り続けている。一人ひとりの生産性を上げることが、急務として取り沙汰されている。社会保障費も圧縮され、福祉制度にも合理化が求められている。そのような背景のなか、日本のいたるところで、都市構造の改良が進められていた。

過疎地では、都市機能や居住地域を小さくまとめることにより、都市インフラの維持費を抑制し、行政効率を向上させようとしていた。いっぽう首都圏でも、居住地と勤務地をひとつのエリアに共存させることにより、通勤時間を省き労働効率を上昇させるための都市づくりが進んでいた。

そのモデル都市として注目されているのが、五反田である。中心的な居住地は、東五反田2丁目付近の高層マンション群であり、勤務地は――「新五反田駅」と一体化した巨大な複合オフィスビルである。

五反田の駅前には、もう風俗街もなければ、肉料理屋もない。

きっかけとなったのは、地下鉄五反田線の開通であった。新興ビジネスエリアの五反田から、都心部へのアクセスを向上させるため、都営五反田駅から南北・日比谷線を結ぶ、地下鉄新線が急造されたのだ。
並行して、五反田を巨大なハブ駅とする計画が立ち上げられた。JR線、東急線、都営地下鉄、そして五反田新線を結ぶ、巨大な「新五反田駅」と、駅直結の複合オフィスビルが造られることになった。

五反田駅周辺は、新興ビジネス街にふさわしいものに改良された。駅周辺は区画整理が行われ、東口の風俗街はすべて撤去されてしまった。西口の肉料理店も、一部の人気店は新しいオフィスビルに収まることになったが、その他はテナント料の高さから、他エリアに引っ越すか閉店を余儀なくされた。

五反田のまちは、すっかり変わってしまった。

おれは、巨大な五反田駅を迷いながら、やっとのことでかつての東口方面に抜けることができた。向かう先は、もつ焼きや「だん」。ビルの間に押しつぶされそうになりながらも、なんとか汚れたのれんを店先に掲げ続けている。

店の中に入ると、ここだけは時が止まったようである。
まだ、5時を少し過ぎたばかりだというのに、顔を赤らめた客で埋め尽くされている。みんな、何も変わっていないようにも見える。だがもしかすると、変わっていることに気付かないふりをしているだけなのかもしれない。おれが、そうしているように。
大将に視線で誘導され、おれは半身になって進み、カウンターの奥の席に滑り込む。

「なんだ、しけた顔してるじゃねえの」

おっさんが、にやりと笑う。
もともとこぎたなかったおっさんだが、だいぶ痩せてしまったようでひどく貧相に見えた。やけにツヤがあった肌も、いまはカサカサに乾いてしまっている。どこか、体調でも悪いのかもしれない。
だが、冴えないのはおれも一緒である。

――ここ最近、なんだかついてなくってね。会社はクビになってしまうし、それで女房には子供つれて出ていかれるし。飲まなきゃやってられない、というやつですよ。

「そいつは、災難だったなあ。まあ、そんなときはいっぱつ気分を切り替えてだな」

と言いながら、おっさんはポケットの風俗案内チラシを取り出す。だが、そこに書かれていた日付は、2022年8月号。もう、4年も前のものだ。おっさんは、しばらくチラシを眺めると、くしゃりと握りつぶした。

――すっかり変わってしまいましたね。このまちも。

「デリヘルひとつ呼ぶことができねえなんて、なんかすっきりしねえまちになっちまったなあ。この五反田も」

――あきらめるんですか。

「あきらめたわけじゃねえけどよ」

と言って、おっさんはレモンチューハイをぐっとあおる。ぐはあ、というため息ともゲップともつかぬ声を出しながら、

「みんな、とうに居なくなっちまった。見てのとおり、このあたりも小洒落た通りになって、風俗のフの字も見当たらねえだろ。西口の方なんて、通りごとなくなっちまって、ビルの中に入ったハンバーグ屋はあるけどよ。行ってみたら、名前は一緒だけど知らねえやつが焼いてんだよな。このまちを守ろうといっても、何を守っていいかもわからなくなっちまった」

おれとおっさんの目の前に、大将がカウンター越しにもつ焼き10本セットを置く。もちろんサービスではなく、おっさんがけっこう前に注文していたものが、だいぶ遅れて焼きあがったのだ。

「こんばんは」

と私の左隣の席に座ったやつがいる。いつかのサラリーマン――なのだろう。彼の特徴は、よく覚えていない。少し品のよいサラリーマンだったような気がする。ただ、際立った特徴というものは、見当たらなかった。どこにでもいるような、とはいえ具体的な誰に似ているということはないような、捉えどころのない人物に映った。

「うまくやったつもりだろ」

いつもよりも酒に飲まれている様子のおっさんが、さっそくサラリーマンにからむ。

「あなたの思いは、引き継ぎます。五反田は、私が守っていく」

サラリーマンは、たんたんと宣言する。

「何が守っていくだよ。いや、何を守ってくつもりだよ。今となっては、品川駅で降りたって、大崎でおりたって、ここ五反田でおりたって、ぜんぶ変わんねえ景色だよ。むかしからいたやつを追っ払って、新しいやつらを連れてきて。まわりと同じようなまちを作って。何が面白れえんだよ。教えてくれよ」

「いえ、面白くはないです。私にとっても」

「だったら、何でこんなことしたんだ」

おっさんは、懇願するように訊ねた。

「それは、私がこの都市を行き交う人々から生まれた意識だからです」

何の迷いもなくサラリーマンは応えた。

「たとえ正しくないとしても、それがネットワークの総意だからです。言いかえれば、私は人々の願いの集積でしかありません。人々の思いを、かたちにしていくことが、私の仕事です」

おっさんは、黙ってサラリーマンの言葉に耳を傾けている。握ったレモンチューハイのジョッキには、びっしりと水滴がついている。

「ですので、私にできることは、せめてここで生きた人々の人生を、まちの記憶を、この身体に刻みつけておくことです。思いのようなかたちのないものは、いずれはすべて消えてしまいます。ただ、そのような人の願いが降り積もったうえに、自分が存在していることを、私は決して忘れません。忘れたくはない、と思っています。ひとりの飯盛女の願いも、屠殺場で獣を殺めた青年の苦悩も、時を超えて私は自らの中に刻みつけます。なぜなら――私が五反田だからです」

それから、彼は感情を押し殺すようにして言った。

「だから、あなたは消えていいのです」

きれいごとを言っている。おれは思った。
だが、そこにはこのきたないおっさんへの敬意があった。このまちを作り出した、五反田への敬意だ。

「なんだ、おまえもいっぱしのこと言うようになったじゃねえか」

それから、おっさんは愉快そうにガハハと笑い。

「でもな、まだ半分くらいレモンチューハイが残ってんだ。酒を残しちまったら、飲んべえの名が泣いちまう」

おっさんは、ごくごくと喉を鳴らしながら、うまそうにレモンチューハイを飲みほし、

「じゃあ、よろしくな」と軽く言った。

こきたないおっさんの身体は、その輪郭から輝く線のようにほどけ、その一本づつが淡く発火しながら、空間に溶けていくように――消えた。
おっさんは、いなくなってしまった。
もとから、そこに何もなかったみたいに。

おっさんの消え行くさまをじっと見届けてから、彼はおれに言った。

「ゆっくり飲んでいってください」

カウンターに五千円札を置いていこうとするが、

――あなたのことを嫌っているわけではありません。でも、それは受け取れない。

サラリーマンは、軽く会釈すると店から出ていった。それ以来、彼と合うことは二度となかった。

  

もつ焼きや「だん」が店を閉めたのは、そのすぐ翌週のことだった。

 

2027年6月19日(土)

おれは、町田の「柿島」で飲んでいた。

店員が注文を取りにやってくる。

「馬刺しと」ビールを頼もうと思ったが、
「レモンチューハイをお願いします」つい口をついて出た。

おれは、老人福祉関係の仕事をみつけて、なんとかこのまちで暮らしている。老人だけは増え続けているから、職にあぶれる心配は当面のところないだろう。だが、決して楽な仕事ではない。仕事終わりに、ここ「柿島」で飲む一杯だけが、おれにとっての生きがいだった。

一年あまりが経ったいまでも、おれはおっさんのことをよく思い出す。おれの人生の節目に、おっさんは現れた。
かれが、本当に五反田の意識だったのか、それともただの痛いやつだったのか、おれにはわからない。まあ、なんであっても構わない。一緒に飲むことができなくなってしまったという事実は変わらない。かれは、消えたのだ。

五反田は、素晴らしい都市なのだろう。ビジネスの拠点としてどんどん発展しているし、それでいて新しいビルの中に「肉屋横丁」なんてものを作って、昔の五反田の風景を残す取り組みなんかもしているみたいだ。
みんなが、いまの五反田を大好きだと思っている。昔からの住人ですら、そう思っているかもしれない。

それでも、何かは消えてしまったのだ。
少なくとも、ひとりのおっさんは。

「柿島」は、このご時世でも店内喫煙可をかたくなに貫いている。近くの席の煙が目に入ってしまっただのだろう、おれの視界はすこしぼやける。あわてて、レモンチューハイを流し込む。うまい。でも、ちょっと濃さが足りない気もする。おれが飲みたいのは、このチューハイではないのだ。

――なにしけたツラで飲んでんだよ。せっかくのレモンチューハイが不味くなるだろ。

どこからか、品性の欠片も感じられない声が聞こえる。
おれは顔をあげる。
だが、その姿は見当たらない。

――町田は、風俗のメッカだってきいてな。ちょっと、遠征してみたんだよな。

それは、間違いなくおっさんの声だった。

「その年でまだいけるんですか、そっちの方は」

おれは、声が来た方に話しかける。

――いけるもなにも、まだバリバリ・ビンビンよ。っていうかな、実のところよ。ええとな。

おっさんは柄にもなく、照れたように言いよどんで。

――いやあ、恥ずかしいんだけどよ。この歳にもなって、またガキができちまって。

子供が?
何を言ってるのだ。

――ちょっとへんぴなとこなんだけどな。町田街道をずっといったとこにいるから。じゃあまた、よろしくたのむぜ。

「ちょっと、まだいいじゃないですか。ここに、座っていってくださいよ。ぼくはあなたと話がしたい。愚痴でもいいから、聞かせてほしいんだ」

もう、おっさんの声は返ってこない。店内の喧騒だけが、いつまでもおれをつつんでいた。

翌日、おれは神奈中バスにのって、町田街道を下っていった。
窓の外を眺めていると――あった。
そこにあったのは、小さな店だ。
まだ汚れの染み付いていないのれんには、新・もつ焼きや「だん」と書かれてあった。
おれは急いで、降車ブザーを押す。

店内に入ってみると、まだ4時半を過ぎたばかりだというのに、赤ら顔の客たちで賑わっている。店が狭いくせに席数を稼ごうとするから、カウンター席は壁にへばりついたようになってしまっている。そのカウンターには、すでに常連が居着いているようで、おれは半身になってやっと奥の席にたどり着く。

おれは、その席に座って、レモンチューハイをすすりながら、店内の様子を眺める。
新・もつ焼きや「だん」の入口には、また新しい客がやってくる。
狭い店なのに混んでいるから、相席になってしまうことがよくある。町田には、やんちゃそうな若い客も多く、知らない者同士うちとけて楽しそうに話している光景を見かけることがあった。

それからも、おれはカウンターに座り続ける。いつの間にか、大将は注文をする前から、無言でレモンチューハイを目の前に置いてくるようになっていた。
この店で出会った男女が、生まれたての赤ちゃんを店に連れに来ていた。居酒屋に赤ちゃんはどうなんだろうとも思ったが、まわりの関係なさそうな客もふくめて、とても嬉しそうに祝っていた。

おれは、もつ焼き10本セットを頼む。最近は、タレの味がきつく感じるようになってきたから、もっぱら塩で焼いてもらう。大将の頭もすっかり白くなった。
新・もつ焼きや「だん」ののれんにも、すっかりきたない汚れが染み付いている。

もう数え切れないほど、こののれんをくぐった。今日も、まだ早い時間だというのに、店内は酔っ払いでごった返している。小さな繋がりが、また新しい繋がりをつくり、この小さな新・もつ焼きやを中心に、ささやかだが強固なネットワークが生じている。

おれは、半身になって、いつものカンター奥の席にからだを滑り込ませる。客をかき分けてこの席に座るのも、だいぶしんどくなってきた。

すると、

「大将、おれとこいつに、レモンチューハイ二つ。とびきり濃いやつで」

おれの分まで勝手に注文をするやつがいた。
そいつが座るのは、おれの右隣の席。はげ上がった頭に、洗濯しすぎて色あせたシャツ。

「わりいわりい、待たせちまったみたいだな」

にやりと笑うと、ヤニがこびりついたきたない歯。
いつかと変わらぬおっさんの姿が、そこにはあった。

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