朝帰りは五反田始発で

梗 概

朝帰りは五反田始発で

 始めて参加する五反田での読書会で、宇宙SFが好きだという星島に一目惚れした志季。会話も弾み、志季はすっかり星島に夢中になる。志季は星島の関心を引くために熱心に読書会に参加し始める。仲間との五反田食べ歩きも楽しみになった。

 しかしその後、星島は読書会に現れなくなる。一方、志季は星島の姿を求めて参加し続け、ほぼ一年が経った。五反田読書会は二十回を数え、祝賀会が開かれる。そこに久しぶりに星島が現れる。志季はここぞとばかり三次会までがんばり、朝を迎える。星島も残っている。早朝に解散する参加者たち。

 五反田駅で最後に残ったのは、五反田始発の電車に乗る志季と星島だった。ひょっとして近所なのかと舞い上がる志季。同じ電車なら、車中で告白しよう。今日は土曜日、駅についたら一緒に週末を過ごしたいと志季は強く願う。

 しかし、星島は特急列車、志季は鈍行列車だった。両者の違いは速度だけではない。二人の行き先は違っていたのだった。

 品川操車場跡地には、飛行列車発着カタパルト、通称「品川スロープ」が、大崎から品川にかけての山手線のカーブをなぞる御殿山をとりまく一帯には加速ループ線路、通称「御殿山リング」が建造されている。五反田駅を発車した電車は御殿山リングを三周回して加速し、品川スロープを登り切ると空中電磁軌道に乗って空を飛ぶ。

 弾道飛行によって同様の設備を備えた仙台駅との間を往復する”JR五仙線”が「鈍行」。

 東急電鉄が沿線開発の奥の手として岩手県三陸沖上空に建造した巨大静止衛星都市”東急スカイスター”との間を、ほぼ直線で往復する”東急スカイスター線”が「特急」と呼ばれる。「特急」は開通したばかりでまだスカイスターに一般人は住んでいないはずだった。

 仙台に住む志季は、JR五仙線で五反田読書会に通っていた。星島は東急スカイスターの建造に携わる電鉄社員だった。呆然として発車ホームで星島と別れる志季。

 まず鈍行列車が、ついで特急列車が、御殿山リングを周回して加速し、品川スロープから空中に射出されていく。自分が乗る鈍行列車を上空から追い抜いて飛翔していく、星島の乗る特急列車を見上げる志季。

 そのとき、志季にメールが届く。それは文芸誌からの書評執筆の依頼、読書会にいた編集者からのスカウトだった。まだ学生の志季にとって思いも寄らない商業デビューのオファーである。

 驚いている志季にまたメールが届く。星島からだった。志季が読書会でプレゼンしている映像を車内でみて感心している、また会おうというメールだった。

 宇宙に吸い込まれる一筋の光跡となった星島の特急列車、その先に輝く東急スカイスターを見つめる志季の目に、重なる感激で涙がこぼれる。

 志季は初仕事に恒星間宇宙SFの書評を依頼される。星島から、スカイスターで一緒に本当の星空を見ようと誘われた志季は、五反田乗継で弁当を買い、特急列車に飛び乗るのだった。

文字数:1199

内容に関するアピール

 主人公は五反田読書会での一目惚れを成就させるために熱心に活動しますが、一年越しの想いはなかなか届きません。一方、その努力は才能を磨き彼女の生きる世界を精神的にも空間的にも大きく広げていきます。主人公にとって五反田は広い世界への始発駅なのです。

 放物線を描く「鈍行列車」と、直線的に飛翔する「特急列車」が朝日を浴びて成層圏を突き抜けるカタルシスを主人公の心情に重ねます。

 「品川スロープ」は銀河鉄道999そのまま、「御殿山リング」は巨大な指輪を空中に横倒ししたイメージで”一つだけ現実と異なる設定”です。御殿山、八つ山の方角に浮かんで見える二つのモニュメントは五反田住民に親しまれています。最後の場面で二人が五反田駅で別れるまで種明かしはせず、驚きを演出します。

 実作では目黒川周辺や島津山を舞台に、読書会を主催する不動産屋、主人公を読書へと誘い親友となる女性を加え、四人の人間関係を描きます。

文字数:397

朝帰りは五反田始発で

「まもなく五反田、終点です。次の駅は電車とホームの間が広くあいております。」

 停車アナウンスと共に丁寧に減速しつつ、電車は駅ビル地上四階のホームに到着した。たいてい乗り換えてしまうので、五反田駅で降りるのは初めてである。山手線の上をまたいで延伸できるように、私鉄の線路が高く進入するのが五反田駅の特徴だ。とはいえ、今に至るまで路線延長は実現していないのだが。

 志希は代謝がいいので小柄な割にはよく食べる。おいしそうな不二家のケーキ屋さんを凝視しつつ、志希は五反田駅ビルのエスカレーターを降りていった。一階のスーパーマーケットを通り抜ける。惣菜屋さんを見回した。狭いフロアなのに豊富な品揃え。五反田とはいえやはり山手線沿線。揚げ物コーナーが充実している。駅ビルは東急のものだが他の東急ストアとは一味違うようだ。

 外に出て左に進むと、すぐに有名なうどん屋『おにやんま』があった。平日の早い時間なのに行列ができていて、だしの香りが道まで漂ってくる。ここはいつか来よう。並んでいるサラリーマンたちが志希にちらちらと視線を送っている。志希はてくてくと、目黒川にかかる大崎橋のほうへと歩き始めた。

 目黒川を渡る風が、胸まであるパープルアッシュの髪を揺らした。秋口の夕方、薄手のシャツにジーンズだと少し肌寒い。志希は肩にかけたトートバッグから白衣を取り出し、一瞬思案したが構わずふわりと羽織った。

 読書会というものに初めて行くのでドキドキする。お題はテッド・チャンの『あなたの人生の物語』。映画を先に観て衝撃を受けてすぐに原作を読んだ。本を先に読んだ人はどう感じただろう。題名で検索していて、この五反田読書会を見つけた。開始まで一時間ある。何か腹ごしらえをしよう。

 仕事を終えた星島は、着替えも食事もせずに駅のホームに走った。今日は月に一度の五反田通いの日なのだ。

 電車は五反田駅ビルの四階に入線した。大勢の乗客の流れに逆らって長身の体を泳がせ、エスカレーターには乗らずに、とんとんと階段を降りる。鉄筋コンクリートビルの階段の、微動だにしない感じが星島は好きだった。道路に出て戸越方向に歩き出す。

 途中、なぜか白衣を着ている女を追い越した。ふわっといい匂いがした。

 スターバックスを過ぎたあたりのビルの二階。銅板のしゃれた装飾が施された引き戸を星島は迷わず開けた。

 蕎麦屋、ラーメン屋、カレー屋、天丼屋などをやり過ごしたあたりで、志希は『銀座とんかつ井泉』と書かれた看板に目をとめた。後ろ足で立ちあがり、にこやかに片手を上げる豚さんのおなかに”かつ”の文字。

 知らない店だがすこし値段が高めで、ちゃんとした料理を出す気配がする。志希はゆっくりと二階の店への階段を登った。飲食店は路面店よりむしろ、二階にある店に当たりが多いと思う。味で支持されていないと二階店は長続きしない。

 銅板で装飾した入り口扉。どちらかというと天ぷら屋的なセンスだ。

 すこし重めの引き戸を両手で開けて入店する。まだ客はまばらだ。それともいつもまばらなのか。ちょっと心配になりながらメニューを眺めていると、

「井泉定食はいりました。」
という板前の声が響いた。空いた店内で早めの夕食を注文した客は、向かいの座席に座っている男だ。井泉定食はメニューの見開きに大きく出ていた。志希もその看板メニューを頼んでみた。

 ヒレかつは小ぶりだが肉質も揚げ具合も絶品だった。さすがは肉の五反田である。エビフライ、クリームコロッケ、そしてホタテフライ。少し辛めのソースと丁寧な仕込みのタルタルソース。お味噌汁、お新香、ご飯。どれもおいしくて文句のつけようがない。

「おいしい。」
志希は思わずつぶやいた。夕食を見越して早い時間から五反田に出て来た甲斐があったというものだ。せっかくの読書会で眠くなってしまわないか心配なくらい満腹になった。

 向かいの男も食べ終わってお茶を飲んでいる。勝手に連帯感を感じた。やがて次々と客が来はじめ、たちまちテーブルは埋まって行った。

 男が先に会計に立った。厨房から若い板さんが出てくる。

「ごちそうさま。」
思ったより優しい感じの声だ。男の後ろ姿を見送りながら、志希も立ち上がった。

「毎度。」
「はじめて入ったんです。すごくおいしかったです。」
志希は思わず料理を褒めた。
「どうぞご贔屓に。」
若い板さんは嬉しそうに微笑んだ。

 

 外はすっかり日が暮れている。途中でスタバの珈琲を買い、歩きながら啜る。表通りから一本逸れると人気がない。オフィスビルが立ち並ぶ薄暗いエリアに入り込んだ。角を曲がるとラブホテルが突然現れたので、志希はちょっと早足になる。

——読書会ってどうやるんだろう。輪読でもするのだろうか。一体どんな人たちが集まるのだろう。
志希はトートバッグから原作の文庫本を取り出して眺めた。映画版では、宇宙船はアジアのどこかの都市上空にも停泊していた。ビルの隙間から覗く五反田の空に、宇宙船は見当たらなかった。

 マップが示す目的地には学習教材を売っている企業が全フロアに入居するオフィスビルがあった。入り口の明るい照明が道に溢れている。

——ここでやるのかな?この会社が主催しているの?
志希は逡巡した。

「読書会のかた?」
『あなたの人生の物語』をかざしながらパンツスーツの女が声をかけてきた。
 わざと無造作にしているが、美人特有のまぶしさは隠せない。志希は驚いてその顔に見とれた。
「あの、それ。」
「あ、これ。」
やっと志希は手元の本をかざして反応する。
「ええとね、このビルじゃなくて、ほら、こっちだよ。」

 目指す建物は同じブロックの裏手に回り込んだところにあった。築六十年以上は経っていそうなレトロビルだ。入り口の階段を登っていくと、昭和っぽい匂いがした。

 

 読書会は盛況だった。三十人くらいが集まっている。スタッフの人たちは学生サークルっぽさを漂わせながらいそいそとテーブルの間を動き回る。

 主催者が壇上に立った。額が広く禿げ上がり、両サイドに白髪を伸ばしている。内田裕也をカタギにしたような、あるいは攻殻機動隊の荒巻のような感じの男だった。風態は怪しいが、にこやかに微笑み、目には知的な光がある。スタッフは皆若いが、天野に親しみを感じている様子が伝わって来る。

「ええ、本日もお集まりいただきありがとうございます。主催の天野です。今日のお題はテッド・チャンの傑作中編『あなたの人生の物語』。一度映画化もされましたね。今回のキーノートは楓さんです。ではよろしく。」

 会場に案内してくれて、そのまま志希の隣に座っていた女が立ち上がった。会場の拍手に迎えられて楓は登壇した。
「みなさんこんばんは。よろしくお願いします。」
 楓はプロジェクターを使って『あなたの人生の物語』について話し始めた。

「”物理という領域は、完璧に両義的な文法を持つ言語でなりたっている。” この一文を軸にして…」

「…変分原理について実際に詳しい人が読んだらどう思うのかは私の知識ではわかりませんが、小説には不思議な説得力があります。ところが映画のほうにはこのくだりは全然出て来ません。ですが…」

「…映像のトリックを、あのレセプションの”耳打ち”の一瞬に込めることによって、SFを読まない人にもセンスオブワンダーを強く感じさせる作品に…」

――なるほど。おもしろいなあ。
志希は壇上の楓をじっと見つながら聞いていた。楓はどういう人なのだろう。慣れた様子だ。

 十五分くらい話し終えて、楓はテーブルに戻って来た。

「おつかれさまです。おもしろかったです。」
志希が言うと、
「うふふ、今のはね、キーノートスピーチっていうやつなの。こうやって誰かが独断と偏見を最初に言ってしまえば、それを叩き台にして好きなようにみんな自分の意見を言いやすくなるでしょ?」
楓がはにかんだ笑顔を浮かべながら答えた。

「すごくいいスピーチだったと思います。」
という声が後ろから聞こえて来た。志希が振り向くと、そこに星島がいた。

——さっきのとんかつ屋にいた人だ。

「星島といいます。宇宙探査のノンフィクションとか、宇宙もののSFが好きです。仕事は、鉄道関係の建築資材を運ぶトラクターの運転手です。」
と、星島ははにかんだような笑顔で、同じテーブルの志希と楓に訥々と自己紹介した。日焼けして引き締まった腕が、伸びきったラフなTシャツから伸びている。ダボダボのパンツにサンダル。あまり読書をするひとの服装には見えず、参加者の中では浮いていた。ふさふさした髪が切れ長の目の印象をやわらかくしていた。

「あの、突然変なこと聞きますけど、ここに来る前、とんかつ食べませんでした?」
志希はいきなり尋ねた。
「え、どうしてわかるんですか?」
星島はちょっとのけぞって引きつつも認めた。
「どこで食べました?」
「井泉、ですか。」
ハモった。
「やっぱり。実は私もさっき食べてたんです。気づきませんでした?」
「いや全然。」
「とんかつ、お好きなんですか?」
「ええ。五反田に来る時は何かしら揚げ物を食べるんです。」

 楓は二人の顔を見比べた。
「え、お二人、お知り合いだったの?とんかつ?」

「あ、キーノートの楓さん、星島です、よろしくお願いします。とても勉強になりました。」
「あ、たまにいらしてる方ですよね。お話するの初めてですね。SFマニアの方の前で、失礼しました。」
「いやいやマニアというほどでは全然ありませんよ。この作品、僕は小説原作を先に読んでまして、映画については同じように感じてました…」

――あ、いたいた原作から先に読んだ人。
志希は前のめりで話しに入ろうとしたが、星島は楓と話し始めてしまった。仕方ない。楓は間近で見るとすごい美人なのだから。
――でもこれじゃ、あたしの印象がとんかつの女になってしまう。
と思いつつ、志希は頬杖をついて星島の低くよく通る声を聞きながらその横顔を眺めた。

 要は誰かがお題となった作品について”キーノート”と称するスピーチをやり、それをきっかけにしてゆるく雑談をする会らしい。大学にもそういうサークルはあるのかも知れないが、仕事も年齢もバラバラな人々といきなり話が通じるのが面白かった。

 志希は結局、二次会まで参加した。

 次の週。志希は地元の大学のカフェで、よく冷えたタピオカ入りミルクティーからクラッシュアイスをスプーンで熱心に取り除いていた。タピオカを太いストローで吸うときに氷が混じると不快なので、揺らして飲み物が冷えたらすぐに取り去りたいのだ。そのまま飲んでいる人々はタピオカと氷を一緒に食べているのだろうか、おいしいはずがないのにと不思議でならない。

 あらかた氷を取り除いて至福の一飲みをしていると、メッセージが入った。五反田読書会のメーリングリストだった。次のお題は野尻抱介の『太陽の簒奪者』に決まったという発表だった。

「きたきた。宇宙もの、ど真ん中。」
志希は思わず、結構な大声で独り言を言った。この作品はもう何年も前に読んでいる。

――にしても五反田読書会ってSF専門の読書会なのかなあ。
まあそこはどちらでもいい。重要なのは星島も間違いなく読んでいるだろうということだ。きっと来るだろう。とはいえ星島は楓目当てかもしれないけれど。だが、
――キーノートをあたしがやれば星島さんは食いついてくるはず…。
志希はいてもたってもいられなくなった。

 早々に参加を予約し、そのいきおいに任せて志希は天野にメールを打った。

「次回のキーノート、私にやらせてください、っと。」
メーリングリストに返信してしまわないよう気をつけながら送信した。どちらかといえば人前で進んでしゃべるタイプではないと思っていたが、星島と話すきっかけになると思うと躊躇はなかった。

 翌日、天野からキーノート立候補を歓迎するというメールが届いた。

 衝動的に申し出たものの、書評の資料など作ったことはないし、書評自体したこともない。『太陽の簒奪者』を再読しつつ、結局、読書会の前日はほとんど徹夜して準備した。

 自宅から五反田までほんの一駅なのだが、志希はシートに座った途端に眠ってしまい停車しても目を覚まさなかった。あらかた乗客が降りた頃、志希は背伸びをしながら立ち上がった。今日はすこしおしゃれをしてワンピースにカーディガンを羽織っている。

――ああ、もう着いちゃった。
徹夜明けなのでどこでも寝られる。寝ぼけて歩きながら早速マップを起動する。

 今日の読書会の場所は目黒川沿いのカフェらしい。マップの指示にしたがってJRのガードをくぐり、『おにやんま』を通り過ぎ、大崎橋の脇の目黒川沿いの道に入って、志希はてくてくと歩いた。目指すカフェは桜田通りを渡ったところにあるはずだった。

――ここ?
マップが示しているのは鬱蒼とした庭木に囲まれた崩れそうな旅館だ。『海喜館』という時代ものの看板が出ている。本当にここだろうか。そもそも営業しているのか。きょろきょろしているとぽんっと肩を叩かれた。

「志希ちゃん!元気だった?」
「わ、びっくりした!楓さん!」
フレアスカートを着た楓がいた。志希はぴょんぴょんと跳ねながら楓の手を握る。やはり場所はここでいいらしい。

「今日は志希ちゃんがキーノートやるんだってね。がんばってね!」
「へへへ、よくご存知ですね。」
志希は下心があるのでちょっと照れくさかった。

 『海喜館』の内部は外観同様、文化財級のレトロさだったが、綺麗に手入れされていた。読書会は宴会用の大広間で、座敷に座って行われた。たまにはこういうのもいいねえ、という声がそこかしこから聞こえる。

「ここね、天野さんがリノベーションして営業してるの。」
「ええ?! 主催者の天野さんて、一体何してる人なんですか?」
「どこかの大学を退官して、今はこの辺で悠々自適に暮らしてるみたい。御殿山の再開発で儲かったらしいよ。天野さんの知り合いの人たちは”ドクター天野”って呼んでる。だから多分なにかの博士。わかんないけど。」
「ほお、なるほど。」
御殿山は今、五反田周辺で一番ホットな場所だ。天野はこのあたりに古くからある旧家の人なのかもしれない。本好きを集めて語り合う山手のリアルリッチの老後。余裕があっていいなあ、と志希は思った。

 天野の紹介で登壇した志希は、ごそごそとカバンから紙のスケッチブックを取り出した。会場が静まる。志希はスケッチブックをフリップボードのようにして演台に立てた。

「えー、では傑作『太陽の簒奪者』についてお話しします。」
志希は淡々と宣言した。ついつい大学での研究発表のノリが出てしまう。フリップの一枚目をめくると、サブタイトルを読み上げた。
「生物多様性進化の観点からみたファーストコンタクト、なぜ宇宙人はタコっぽく描かれるか、です。」
志希は小説に出て来るダイソンリングの手書き図解を見せて説明を始めた。それから宇宙船、宇宙人の想像スケッチ。全部、黒いマジックの手書きである。ときどき色マジックも使っている。

「面白い。すごく勉強になったよ。」
真顔で楓が言った。
「えへへ。」
楓の大きな目で見つめられて志希は照れ笑いをした。

――星島さんには受けたかな?
そう思って会場を見回す。
「この小説読んで情景を思い描く人は多いと思うけど、実際絵に描くことってあんまりない。生物学者の意見はどうなんだろう?」
楓がコメントをはじめた。

――あれ、星島さんがいない。

「ええと、一応あたしもそっち系の研究者でして…ところで楓さん、こないだの、宇宙SF好きの青年、きてませんかね?」
志希は楓をさえぎって聞いてみた。二人は座敷から立ち上がった。
「あ、星島くん?今日はいないみたいだねえ。」
手をひさしのようにかざして探すポーズをしながら楓は言った。
「割とよく来る子なんだけどね彼。そっか、志希ちゃん気になるんだね。」
志希は否定するのも忘れて会場を見回した。どうやら欠席のようだ。座敷にへたりこむ。

「いやあ志希さんとやら、大変面白い発表でしたな。おつかれさまです。」
天野が寄ってきて真横に正座したが、志希は上の空だった。

 それからも志希は休まず読書会に参加し続けたが、星島はさっぱり現れなかった。

 楓と志希はいい友人になっていた。楓は色々な作品を志希に薦めた。志希は理系の学生で、あまり文芸書は読み慣れていない。でも薦めれば多少難解な本でもすぐに読むし、ポイントを把握してしまう。さらには批評的な切り口に独特のものがある。志希と本や映画について話し合うのは楓にとってかけがえのない楽しみになっていた。そんな友達には滅多に出会えるものではないことを、これまでの二十六年間で楓は嫌というほど知っていた。

 楓は県立進学校からの早稲田一文の出身だ。本読みで、クラシックギターを弾くワセジョである。アイシャドーのいらない二重まぶたに涙ボクロ、完璧な曲線の身体と白い肌、少し色素の抜けたさらさらの髪。あまりにも美少女なので、中学校時代から楓を「美の化身」などどいって崇拝してくる文学青年は後を絶たなかった。水泳の授業時間にはプールのフェンスに男子生徒の人だかりが出来た。誕生日には自宅にたくさんの花束が届いた。高校三年間毎年、学園祭のミスコンで優勝した。街を歩けば声をかけられた。

 それら一切が面倒で、楓は取り巻きの女子としか付き合わなかった。そのせいで学生時代は百合疑惑をかけられたが放置していた。都心の商船会社に就職すると、真っ先に先輩社員と結婚してしまった。夫は外航路線の船員なのであまり家にいない。今はそのまま同じ会社で事務職をする傍ら、ペンネーム「雪路」として映画雑誌にときおり短評を執筆している。

 五反田読書会は主催の天野がまったく色目を使ってこないので気に入っていた。初期のころから参加していたが、楓は天野の腹心を装ってガードを固め、自分のことについてはまったく話しをしなかった。純粋に本読み友達と交流する場所にしておきたかったのだ。

 そこに志希が現れた。

 

 志希は食べるのが好き、楓は飲むのが好き。
 読書会がある日は早めに待ち合わせをして何か食べる。『おにやんま』に並んだ日は読書会に遅刻しそうになった。終われば打ち上げに参加し、二次会、三次会と飲み歩いた。

 桜の季節には昼間から会って目黒川を散策し、いちご入りのシャンパンも一緒に飲んだ。

 夏の読書会は恒例のコスプレ企画で、清泉女子大学の本館を借り切って行われた。幕末大名屋敷の洋館、旧島津家の袖ヶ崎邸である。舞踏会などを催していたであろう大食堂が会場となった。紋付袴を着込んだ天野は明治の重鎮そのものだった。楓は深緑の、志希は赤と黒のドレスで着飾った。二人で貸しドレスを試着したのも楽しい思い出になった。

 赤い天鵞絨の階段は美しく保たれていた。重厚なシャンデリアは落ち着いた光で二人を包んだ。品川方向に開けた見事なコロニアル様式のバルコニーに出ると、とても涼しかった。城南五山の中でも高級住宅地として名高い島津山の高みから見渡す夜景はすばらしかった。竣工当時は海の景色を見渡せたことだろう。

「ここからだと御殿山と品川がよく見えるね。」
「ほんとですね。すてき。」
志希のウェーブのかかった髪が風になびいている。赤いリボンがひらひらと舞っている。

 髪を伸ばすと男が寄ってくるので、楓は高校以来ずっとショートカットである。志希の豊かな髪が自分の髪のように愛しかった。本当に、なんて可愛い子なのだろう。猫のようにしなやかな身のこなし。よく動く目とあひる口。アニメオタクに発見されたらオタサーの姫化するのは必定だろうが、本人はまったく無自覚だ。

「今日みたいな気持ちいい夜には最高の場所だなあ。星島くんもいたらよかったね。」
楓は本心からそう言った。初めて星島に出会ったときの志希のうっとりした顔は綺麗だった。若者同士の恋は大好物だが、あれ以来、星島は現れない。

「そうですねえ。」

 志希が夜空を見上げ、つぶやいた。遠くの花火の音が聞こえた気がした。

 読書の秋の夜。五反田。

「では五反田読書会二十回記念飲み会、スタートします。カンパーイ!」
天野が乾杯の音頭をとった。参加者は十五人くらいだろうか。

「二十回はすごいと思わない?」
楓は言った。
「楓さんは何回目から出てるんですか?」
と志希が聞く。
「あたしは三回目くらいからだね。志希ちゃんは確か、十回目あたりからだっけ?」
「第十一回からです。『あなたの人生の物語』の回で楓さんのキーノートを聞きました。」
「ああ、そうだったね。思い出した。会場で迷ってたよね。」
「懐かしい。じゃ、改めて乾杯。」
志希と楓はビールを飲み干した。

「もうほとんど一年経っちゃうんですね。」

会場ではキーノートのプレゼン録画をダイジェストして映していた。こうしてみると楓の登場回数がかなり多い。そして十一回目の志希の登場。白衣の志希がまじめくさってフリップボードを取り出したところで会場は大受けした。

 初めて出会って以来、星島には会っていない。毎回、次は来るかもと思って参加しているのだがずっと空振りだ。それでも志希は五反田読書会に通い続けた。キーノートも何度かやり、運営に頼まれることもあった。本について語るのはとても楽しく、毎回の打ち上げもほとんど参加した。

 

「おお、星島くん、久しぶり。」
そんな声が聞こえた気がして、志希はお店を見回した。

 そこに、星島がいた。

「ああ!星島さん、お久しぶりです!」
志希は思わず大きな声を出してしまった。顔を赤くしていると、星島は気づいてくれた。
「ええと、志希さんですよね。『あなたの人生の物語』の回でお会いした。」
「そうですそうです。嬉しい。名前覚えててくれたんですね。」
「もちろんですよ。とんかつが好きな方ですよね。」
「あははは。やっぱりそっちで覚えられてましたか。」
一年前なのに、昨日のことのようだ。

 それにしても「とんかつが好きな方」とは。あのときはたまたまお腹がすいていただけなのに。

「星島くん、ずっと来なかったね。志希ちゃんが寂しがってたよ。」
楓が言うと、隣で志希はついついうなずいてしまった。

「すみません。仕事がずっと立て込んでいたんです。でも五反田読書会のことはずっと気にしてたんですよ。ようやく一段落した頃に二十回記念と聞いて駆けつけたんです。といっても今日も飲み会からの参加になってしまいました。あ、回想映像がとても面白かったです。」

――結構よくしゃべるなあ。
志希は思った。前より快活になった感じがする。回想映像の編集を担当した楓がピースサインをした。

 

二次会はお開きとなり、場所をバーに変えて三次会が始まった。

「そろそろ終電がなくなる時間帯だけど、志希ちゃんは大丈夫?」
星島が言った。
「あれ、志希のことが心配?」
楓がからかうように言う。
「そりゃあ、まだ学生だから。」

 星島は実際心配そうにしている。二次会で星島に自分の呼び方を”ちゃん付け”にさせることに成功した志希は結構酔っていた。

「一人暮らしですし。明日、五反田始発で帰ります。隣の駅なんで。ここからは歩けませんけど駅からはすぐです。」
志希は言った。
「わたしも五反田始発で帰ります。」
と楓。
「じゃあ僕もそうしようかな。」
と星島が言う。

――やった、星島と朝まで一緒にいられる。
席替えで星島の隣に陣取った志希は上機嫌で追加のチューハイを頼んだ。星島は志希に声もかけずに何やら天野と話し込み始めてしまった。

――酔ってるのに急に内容のありそうな話を始める男二人って悪くないかも。まあ、朝まで時間はたっぷりあるし。
志希はそう思いながら、チューハイをごくごくと飲んだ。

 

 山手線始発の時間になり、朝まで残っていた人々は三々五々に解散した。外に出るとうっすらと空が白み始めている。楓、志希が五反田の駅ビルに向かって歩き始めると、星島もついてきた。

「あれ?星島さんもこっちですか?」
と志希が聞く。
「そうですよ。僕も五反田始発です。」
星島も池上線かな。志希は思った。となると楓と星島が二人きりになってしまうかも。そしたら楓と本の話しをするのかな。

――いや、ひょっとして、実は二人は付き合っていたりして。
徹夜明けのぼんやりした頭に妄想が走り、志希は目が冴えてきた。

 

 三人は駅ビル四階の踊り場に着いて向き合った。
「楽しかったですね。」
「五反田始発トリオですね。」
と星島。
「次の課題図書なんだろう。楽しみだな。じゃあ、志希ちゃん星島さん、蒲田のOL、これにて失礼します。お疲れ様でした。」
楓はそう言うと、両手を前で振り、くるりと踵を返して東急池上線の改札を抜けていった。
 星島は志希の横に立ったまま楓に手を振っている。

——そうだったのか!星島と二人きりになった!
志希の心臓は高鳴り、全身に血が巡った。楓を見送り、反対側の通路に向かって二人で歩き始める。JR乗り換えの階段脇の通路を通り、山手線ホームの上階に増築されたプラットフォームに向かった。

——五反田始発ってこっちのことだったんだ。二人きりだ。どうしよう。告白しようか。一年も待ったんだから。
――いや、いきなり告白なんて。
――今日は土曜日だ。このまま、週末を一緒に過ごせないかな。
――誘われるにはどうしたらいいだろう。新しい宇宙SFの話題を仕込んでおけばよかったかも。
――それとも、さすがに眠いから、この際………やだやだ、あたしは何を考えているのだ。
志希はすっかりそわそわしていた。

 新しいプラットフォームには改札がない。高い天井アーチのトラス構造が美しい。始発列車はホームで乗客を待っていた。ホームは十番線まである。二人は右端のホームへと歩いていった。三番線以降のホームには貨物列車がまばらに停車していて、荷物の積み込みで活気があった。

「そろそろ、乗りましょうか。」
志希はホームの中ほどで立ち止まると、一番線に停まる鈍行電車のドアに向かった。まさに乗り込もうというとき、

「じゃあ僕は二番線の特急に乗るので…。」
と唐突に星島が言った。志希はぽかんとして立ち止まり、振り返って星島の顔を見つめた。

――なんてことだろう。あなたは特急に乗るのね。
”鈍行”、”特急”と呼ばれてはいるが行き先が全然違うのである。

「来月は来れるんですか?」
「いやそれが。しばらくは顔を出せないんです。」
――え?仕事は一段落したって言ってたじゃない。
その言葉が出てこず、志希は言った。
「そうなんですね。じゃあ、また都合がついたらぜひ。」
「うん。ぜひまた。」

 そう言い残して星島は特急電車に乗り込んでいった。

 

 五反田駅新プラットフォームを発車した電車は、山手線に重ねて上をまたぐ陸橋に敷設された線路を通り、”御殿山リング”を周回して加速する。
 時速二百キロメートルで御殿山リングから出てきた電車は、そのまま加速しながら”品川スロープ”を登り切ると、時速三百キロメートルで空中に射出され、そのまま空中軌道に乗って空へ、宇宙空間へと飛翔していく。

 ”御殿山リング”とは、大崎から品川にかけての山手線のカーブをなぞり、原美術館と東京マリオットホテルの間を通り、御殿山小学校の手前をかすめて大崎駅のすぐ内側から山手線に戻る円周上をコイルのように五周する加速線路だ。

 ”品川スロープ”とは、品川操車場跡地に建造された高さ二百五十メートルのジャンプ台であり電車の離着陸線路が敷かれている。建造が可能な場所は、東京都心には品川操車場跡しかなかった。そして手前には加速のための周回線路に御誂え向きの山手線カーブがある。物理的な帰結として発着駅は五反田となった。

 加減速は地上軌道にあるトラクター・ビーム発生装置が周辺の空気ごと行う。したがって空気抵抗はあまり関係なく、宇宙船のような気密性も大気圏突入の耐熱性も必要ないから車輌はなんでもよく、在来線との乗り入れも自由だ。ただし急な加減速ができず、一定加速度を長時間続ける仕組みなので、飛行の初速を得るための助走がいる。駅から短い距離で飛び立つには御殿山リングのような周回線路が必要だ。

 東日本の行き先駅として選ばれたのは仙台だった。五反田・仙台間を弾道飛行で往復するのが『JR五仙線』で”鈍行”と呼ばれている。電車は宇宙空間に出てすぐ、百二十キロメートル上空あたりで加速をやめ、弾道飛行によって再び成層圏に入り、ふたたび地表に達して同様のスロープとリング設備を備えた仙台駅との間を往復する。

 「トラクター・ビーム技術で電車を飛ばせる。」そんな技術者からの報告に対し、東急首脳陣の頭に真っ先に浮かんだのは東急池上線である。
――この技術を使えば、山手線の頭越しに池上線を延伸させるという我が鉄道の悲願が実現するかもしれない。
だが、その壁は高かった。JR東日本は当然のように『JR五仙線』をいち早く開業してしまい、国内に東急の手の届く適地はもうなかった。東急首脳陣が宇宙空間へとその夢を広げたのは当然の成り行きであった。

 東急電鉄は定款の変更もせぬまま沿線開発の名目で巨大な宇宙都市『東急スカイスター』を作り上げた。五反田と『東急スカイスター』との間を、岩手県三陸沖上空のランデブー地点までほぼ直線で結ぶ路線が『東急スカイスター線』であり、人々は”特急”と呼んでいる。

 JR五仙線の”鈍行”車輌は、仙台シティラビット快速の車輌をそのまま使っている。”鈍行”なのに快速車輌というのはまぎらわしいが、JR五仙線は飛行中に少しの間無重力になるのでシートベルトで座れる進行方向座席の車輌が必要だった。

 一方、東急電鉄車輌部は意気込んでデザインコンペを実施したが、残念ながら車輌開発まで予算が残らなかった。
――車輌はなんでもいい。
という線路部の主張を信じて、特急の飛行テストは池上線1500系車輌で行われた。引退していた真四角の三両編成である。これでまったく問題なかったため、”特急”スカイスター行きの運行にはそのまま1500系が使われている。

 

 発車は志希の乗る鈍行が先である。山手線の上に重ねられた高架を走る車輌はスルスルと速度を上げていく。

 左手から御殿山リングの全容が現れて来た。朝焼けの光を受けて輝いている。横倒しになった巨大な結婚指輪のようだという人もいる。

 車輌は大崎駅までの直線路線を突き進み、御殿山リングに到達すると同時に左に旋回した。リングの内部にはコイル状に線路が敷かれ、一周ごとに高度とバンク角を上げていく。車両はぐんぐんと加速し、二週目あたりから車輌はほとんど横倒しになったように感じる。ジェットコースターとも違うこの乗車感覚は他の乗り物では味わえない。

 三周目に入るとかなり速度はあがり、周縁部の景色を目で追うのは難しくなる。見上げると御殿山中心部の高層マンションだけが止まって見える。三周目が終わると電車はカタカタっとポイントを通過し、リングの外周を抜ける。そしてバンクを戻し水平走行に戻ると一気に品川スロープに向かう。

 電車は品川スロープに差し掛かるとなめらかに角度をつけて登っていく。品川スロープの線路を支える構造体はクラシカルな美しい金属トラスで、白塗りの木造ジェットコースターとよく似ている。見た目はほぼ『銀河鉄道999』だが、発車風景は同作のアニメ映画よりはるかにスピード感がある。

 志希の乗る鈍行電車はぐんぐんと品川スロープを登り切り、そのまま一直線に空中軌道に乗って空へと飛翔していった。

 と、雲を超えたあたりで車窓から特急が追い抜いていくのが見えた。形状は完全に池上線なのに、空飛ぶ”特急”はぐんぐん速度と上げて頭上を飛んで行く。

 地球の水平線が丸く見える頃、志希の電車は水平飛行になり、少しの間無重力状態になる。車窓に頭をつけて、頭上を離れていく特急列車を見上げていると、志希の目から不意に涙がこぼれ、空中に浮かんだ。

――またしばらく会えないなんて。星島さん。
ぽよぽよと浮かぶ涙の粒をひとつふたつ、志希は右手でつまんだ。

 読書会記念飲み会から朝帰りの2ヶ月後。

 志希は仙台市郊外の森の中にある大学のカフェで本を広げていた。夕闇が迫っている。
 JR五仙線仙台駅のリングとスロープは、市内から少し離れた名取川と広瀬川の河川敷を利用して建造されている。いつか楓と二人で島津山の洋館から眺めた御殿山リングと品川スロープの夜景は壮観だったが、仙台市内からはスロープの先端がわずかに見える程度だ。

――星島さんとはもうこれきりなのだろうか。それともまた来年くらいにフラっと五反田に現れるのだろうか。
諦めきれない恋にため息をついたとき、志希にメールが届いた。天野からだ。志希、楓、星島、天野の四人で来週分科会をやろう。場所は星島を訪ねてスカイスターで。という知らせだった。

「やった!」
思ってもみない企画に志希は思わず立ち上がって小躍りした。

 オープンして間もないスカイスターには、現地に別荘を買った人か、購入権のある人しかまだ訪れることができない。しかも別荘は”一定の基準を満たす人々”にしか購入権がないらしい。天野はどういうつてを使ってか、三人分のパスを用意できたそうだ。ひょっとしてスカイスターに別荘を持っているのだろうか。そんな話は聞いていないが、山手のリアルリッチなら不思議ではない。

 すぐに天野から追伸が来た。日時が近いので課題図書はやめて、今回は映像作品にしよう。アニメ劇映画『メガゾーン23』をみておくように、という指令である。志希はその場で承諾の返事をした。

 

 天野と志希は、JR五仙線と東急スカイスター線の共同改札で楓を待っていた。池上線ホームから楓はやってくるはずだ。

「もうすぐ発車時間ですね。楓さんどうしたのかな?」
「そうじゃな。電車も入線していないようじゃ。いや、待てよ。」
二番線に終点の輪留めがない。どうやら線路が延長されて池上線五反田駅とつながっているようだ。

「まもなく、二番線に、池上線直通、特急スカイスター行き三両編成の電車がまいります。次の停車駅は終点、スカイスターです。」
 ”スカイスター行き”と電光行先票に表示された電車が、ごとごとと橋を渡って入線してきた。スカイスター線は池上線といつのまにか乗り入れていた。毎度のことだが産業界からプレスリリースという習慣が廃れて久しいので、現場で驚くことが多くなった。

 池上線五反田駅でほとんどの乗客は降りている。車内にはまばらにスカイスターに向かう客が乗車したままだ。と、スカーフを髪にかぶった女が下車して改札を出てきた。

「おやおやお二人さん。ごくろうさまです。」
楓だ。
「楓さん。ひょっとして蒲田から?」
「ついに私の時代が来たのよ。ごらんのとおり、池上線はついに五反田の先に線路を伸ばしたわけ。これからは私のホームグラウンドからスカイスターまで直通だよ。」
と楓。
「わはは。それはめでたい。東急も山手線をまたげる高さに線路を敷いた甲斐があったというものじゃろう。」
と天野が感想を述べた。
「実はスカイスター自体、池上線を延伸するために東急が意地で作ったんじゃないかな。」
と志希が言う。
「いやさすがにそれはないんじゃない?」
と天野と楓は声を揃えた。

 

 一行は車中に落ち着いた。すいている車内に横に並んで一列に座る。

「で天野さん、スカイスターに行ける”限られた人たち”ってどんなVIPなんですか?」
志希が聞いた。
「スカイスター別荘地の販売は東急リゾートが行なっておる。今はとりあえず、どこかに東急から買った別荘を持ってる人にパスが配られているんじゃ。」
「え、そんな基準で?宇宙開発ってそんなんでいいんですか?」
「まあ民間じゃから。」
「えええ!?」
楓と志希は揃って声をあげた。
「わしはもう長いこと借家住まいでね。外人向けの物件で、追い焚きのお風呂がないんだよ。それでおととし箱根の仙石原に東急の温泉マンションを買った。でスカイスターのパスをもらったというわけじゃ。営業マンにあと二枚往復券を寄越せといったらくれたんじゃ。」
「ほお、なるほど。」
おかげで星島に会えるのだから志希としてはありがたい。
「持つべきものは読書友達ですね。」
と楓が言った。

 三人が乗り込んだ特急電車は、御殿山リングを五周回すると、強めのGを感じさせながら品川スロープをぐんぐんと登り切った。
「みてみて、東京の夜景。」
電車がそのまま空を飛んでいるというのはちょっと足元が覚束ないというか、もぞもぞする気分だ。飛行機よりも速度感があり、みるみるうちに夜景は小さくなっていく。加速感はずっと持続し、電車は雲を抜け、大気圏を抜けて漆黒の宇宙空間に飛び出した。地球の明るさがまぶしい。

 と思ううちに、スカイスターが視認できた。物体の大きさは宇宙空間ではうまく把握できない。地上のように霞んだりしないので、肉眼で見えた時点からずっと鮮明なままだ。最初はフリスビーのように見えた。それが視界のなかでみるみる大きくなっていく。中心部には半円球の膨らみがあり、控えめな東急マークがついている。放射状のスポークが伸び、円周部はローマ時代の戦闘馬車、チャリオットの車輪のようだ。

 やがて視界いっぱいに円周部が広がった。
「うわ、でかい。スターウォーズでいえば、旗艦スターデストロイヤーに引っ張られるミレニアムファルコンの気分だね。」
と楓。
「まあ、原理は似ていなくもない。むこうはフィクションじゃがな。」
と天野が言う。

 電車は円周部分の外側からアプローチしている。進入路は円周外壁に斜めに空いた小さな穴だ。細い細い線路が見え、あっという間に近づいてくる。
――ぶつかってしまう!
衝撃に備えるかのように、楓と志希は手を取り合った。

 電車は外壁の穴にピンポイントで突入した。真っ暗なトンネルを抜け、電車は減速しながら”地上”に出る。
「まもなく東急スカイスター。終点です。ホームと電車の間が広くあいておりますので…」
と、いつもと変わらない声とアナウンスが車内に流れた。たぶん池上線時代から駅名を変えただけなのだろう。

 周囲の景色が目に入り始めると、楓は上野毛から二子玉川に向かう大井町線が徐々に高度を上げて高架線を走っていく時を思い出した。いや、実際よく似た風景なのだった。地球上と一見似ている建造物や緑のある街が大きなリング状にせり上がって展開している。遠くは霞んでいるが、巨大リングの内側に張り付いた街が確かにそこにあった。
 電車はほどなく、二子玉川駅そっくりのいかにも東急的な”駅ビル”内のホーム、終点スカイスター駅に入線した。

 

「星島さんとはどこで落ち合うんですか?」
「彼とはあと小一時間で落ち合う予定じゃ。それまでちょっと観光しようか。」

 駅の出口にスカイスターの案内図が掲示してある。六十度ずつ、六つに切り分けたピザ。三つ葉のクローバーのように一つおきに緑に塗られている。
「さて、わかる範囲で解説しよう。あとで詳しく星島くんが教えてくれるじゃろう。緑色の区画がネイチャーゾーン。農産物を作ったり、家畜を育てたり、自然公園があるエリアじゃ。白い区画が住居と仕事場になっておる。」
「スカイスターは直径十キロ弱、全周は三十キロメートル。リングの幅は約一キロメートル。中心部は無重力無回転の構造体が挟み込んでいる、と。宇宙船としての姿勢制御動力や各種のインフラ施設はそちらのほうにあるみたいですね。」
楓がパンフレットを見ながら補足した。

「六十度分のひと区画は一キロメートルかける五キロメートルの長方形の土地に相当しますね。」
と志希。
「そう。東京ディズニーランド約十個ぶんじゃ。」
「ひと区画で目黒、五反田、大崎駅がまるまる入るね。横方向は五反田から大崎広小路あたりまでの距離の倍が収まるよ。」
マップソフトを操作しながら楓が言った。
「うわあけっこうでかい。あのエリアがまるまる入ったらポテンシャルは大きいですよ。」
と志希は言いながら上を見上げた。頭上には広さと”高さ”がまちまちの踊り場上の”高層地面”が作られ、相互に長いエスカレーターで結ばれていた。
「居住区やビジネス街は、上のほうにもエリアわけして作っていく計画らしい。外側の地面は公園にしたり湖を作ったりするようじゃ。」

――なるほど、これなら大規模なビオトープとして生態系が成立しそうだ。
生物多様性を勉強している志希は頭のなかで必要な動植物をリストアップしはじめた。研究テーマとしても面白そうである。

 一行は地表エリアに作られた道路をぶらぶらと散歩した。側面は一部が透明な壁になっていて星と地球が回転して見える。光は側面の窓と中心部の両方から届いていて、地球上で感じる直射日光よりも柔らかな温かみがある。空気は澄んでいて深呼吸が気持ち良かった。

「スポークの部分にはエレベーターがあって、中心部をハブにそれぞれの区画と行き来できる。区画同士は気密構造になっているようじゃ。さて、星島くんとの待ち合わせに行くとしようか。」
一行は中心に向かうスポークの付け根にあるステーションに行き、エレベータに乗り込んだ。シースルーになっていて、スカイスター内の景色がよく見える。地球上にはここまで巨大な室内空間は存在しない。たいした観光資源である。

 上階にいくにしたがって重力が弱くなる。中心駅に着く頃には手すりにつかまらないと浮かんでしまうようになった。一行は靴底に貼ったシールの機能を起動して、床を歩く練習をした。

「さて、ここが待ち合わせ場所じゃ。」
中心部のホールに出ると、そこはハイテクな感じの無機質な空間である。巨大なガラス壁の向こうは大小の宇宙船の発着場になっているようだ。そこへ、一機のハリセンボンのような宇宙船が駐機した。

タラップが下り、そこから星島が現れた。
――うわ、星島さん。かっこいいかも。
志希は胸が高鳴った。星島はいつもと変わらないラフな格好だ。特に宇宙服というのは着ないようで意外である。星島は天野たちを認めると手を振りながら近づき、すぐにゲートを抜けてやってきた。

「これはこれは、皆さん。スカイスターにようこそ。」
「星島くん!ひょっとして、”トラクター”ってそれ?」
と楓。
「そうです。SLT、スペースロードトラクターっていう乗り物です。どうぞご覧になってください。」
星島は一行をSLTの傍に案内した。
「電車にくらべるとこっちはハイテクじゃな。」
SLTからはたくさんのスラスタとアームが突き出している。
――いったいどうやって操船するのか見当もつかない。
SLTの外観を眺めながら志希は思った。まあとにかく、仕事をしている男はかっこよくみえる。

「船で言えばタグボートみたいなものです。これで貨物のコンテナを引っ張ったり、宇宙船を押したりします。」
「じゃあ宇宙船のパイロットじゃない。トラクターの運転手なんて言って。」
「いえいえ、実態はあくまでもトラクターの運転手ですよ。荷物を運んでいるだけですから。さてさて、さっそく分科会を始めましょう。『メガゾーン23』ぼくも観ましたよ。下に降りる途中の空中フロアにちょうどいいカフェがあります。ご案内しましょう。」

 

 スポークエレベータの途中駅で降り、水平通路を移動した先に、五十メートル四方ほどのステージがあった。外周の”地面”からの高さは二千メートルほどもあるらしい。そのステージを占有した飲食施設である。利用者はまばらだ。側面のスリットから星空が見える。

「今日のお題は”メガゾーン23”だけど、ひょっとして大きさは同じくらいあるんじゃない?」
と楓が口火を切った。
「メガゾーン23は東京がすっぽり収まるくらい大きいですから、スカイスターを横倒しにしても十倍以上はあるでしょうね。メガゾーンは巨大な円盤が何層にも重なり、謎のテクノロジーでそれぞれの面全体に重力が発生する設定になっています。スカイスターにはさすがにそんな技術はないので、普通に円盤状のリングを回転させて遠心力を発生させています。」
と星島が解説する。

「スカイスターは楕円周回軌道を通っていて地球との近地点は高度六百キロ、遠地点は高度四万キロです。半日で地球を一周します。近地点は岩手県三陸沖の上にあたります。近地点にスカイスターがいる朝七時と夜七時の前後約二時間、特急電車の往復が可能です。その時間帯に何本かの貨物列車と旅客電車を運行しているわけです。」
星島はナプキンにペンでスカイスターの軌道を描きながら説明した。

「僕はここしばらく、軌道エレベーターの途中にある月重力センターから、スカイスター建造の資材を輸送する仕事をしていたんです。」
星島はナプキンを横に広げ、軌道エレベータを書き足した。
「地球の半径は約六千四百キロ、軌道エレベータの全長は先端の遠心力アンカーまでで十五万キロにもなります。その途中、地上三万六千キロ地点に無重力の静止軌道ステーションがあります。全体をアンカーの遠心力で全体を支えています。」
「行ったことないなあ。軌道エレベータ。」
「ですねえ。」
 軌道エレベータの建造は二十一世紀後半に火星探査と並んで人類を魅了したプロジェクトだ。

「軌道エレベータの地上三千八百キロの地点で重力がちょうど月と同じになります。そこに大規模な工業施設があります。地上とは太い軌道で連結されていて、重さ百トンの荷揚げが可能です。資材原料を地上から運び上げて、重力の小さい月重力センターで加工し、それを地球近地点を飛ぶスカイスターまで運ぶんです。」

「こんなに巨大なスカイスターをどうやって建造したのかね?」
と天野が聞いた。
「中心部分だけをまず楕円軌道をのせます。そして地球を周回しながら、まずは長い一本のスポークをバトンのように伸ばします。そこを足場にして徐々に回転方向に構造体を作っていくんです。月重量センターで建造したモジュールを運び、ピザを一切れ一切れ戻していくような感じで、全周をつなげていきます。」

「で、荷物を運んだ後はどうやって月重力センターに戻るんですか?」
と志希が聞いた。
「スカイスターが高度四千キロを超えたあたりでトラクターは月重力センターに帰還します。すぐに運搬の仕事があればそれに乗っていくし、オフならそのままスカイスターに残ります。今日はいわば仕事納めなので、このままここにいる予定です。」

 それから一行は、スカイスターが今後一般公開されて、たくさんの観光客や定住者で溢れていった未来について語り合った。
「ここに定住者が増えてどんな文化が形成されるのかは興味深いな。ソフト面でどうやってここを運営していくのか。メガゾーン23では巨大コンピュータのバハムートがバーチャルアイドルを使って人々の心を操ったわけじゃが。」
と天野が言った。
「どうなんでしょうね。今は東急不動産グループで沿線開発やリゾート地の管理の延長でやっていますが、人が増えれば治安の問題も出てくるでしょうし。若い人が増えれば文化的な活動も盛んになるでしょう。」
と星島は語った。

 

「地球がかなり小さくなりましたね。」
窓の外をゆっくりと美しい地球が通り過ぎていく。すると、地球からまっすぐ宇宙に向かう筋のような光が見えて来た。
「あれはひょっとして軌道エレベーターですか?」
と志希が聞く。
「その通り。スカイスターは極軌道を通りますが、二十四時間に一度、赤道直上の軌道エレベータのすぐ脇を通過するようにタイミングを合わせています。もうすぐ肉眼でも静止軌道ステーションが見えてくるはずです。」

 やがて蜘蛛の糸の途中にある小さなミノムシのような形の物体が見えてきた。
「静止軌道ステーションはモジュール状の居住区が数百個結合してつくられています。地上三万六千キロですから大きな物体はそうそう運べません。長い年月を費やしてできた研究施設ですよ。」
と星島が言った。
「軌道エレベータって最初は観光客を当て込んだけど、あまり流行らなかったようね。」
と楓が指摘した。
「なにしろレーションの宇宙食しか食べられんからなあ。一般人にはハードルが高かったんじゃろ。」
と天野が言う。

「スカイスターが出来てからは、軌道が交差するタイミングで食材と観光客を積んだ連絡船を飛ばしています。朝に五反田で仕入れた食材を午後には静止軌道ステーションで食べられるというわけです。」
「そうなんじゃ。観光旅行も静止軌道ステーションまで五反田始発で半日じゃ。それまでは赤道直下の地上ステーションまで飛行機と船で行って、軌道エレベーターをよじ登って1週間。ついた場所はカプセルホテルみたいな狭さ。わしのような高齢者にはとても行けたものじゃなかった。」
 窓の外に、静止軌道ステーションとの間で、かすかな航跡が増えていく。スカイスターとの運搬シャトルだろう。

「さて、我々も食事にしましょうか。」
星島が言った。

 

 一行はスポークエレベータに乗り、外周地表近くの飲食店モールに移動した。なかなかの賑わいである。星島は『いきなりステーキ・スカイスター店』の前で立ち止まった。
「今日のランチはここでいかがですか?」
「わあ、いきなりステーキ。いつも五反田店は列ができてるから入ったことなかったわ。」
と楓がいきなりステーキ自体には驚かずに言った。
「私は五反田店に入ったことがあります。私のおすすめは安いやつなんですけど、ワイルドステーキというメニューですね。」
と志希もスカイスターでのいきなりステーキの出現自体についてはスルーして早速おすすめメニューを提案した。
「志希さん。僕も同じです。食べ物の趣味はほんとにぴったりですね我々。」
と星島が言う。
「ですね。」
志希も微笑んだ。楓もニコニコしている。

 一行は店内に入るとボックス席に陣取り、めいめい肉の注文をしにカウンターに並んだ。ほどなくして、じゅーじゅーと焼けて白い蒸気をあげる料理がテーブルに運ばれてきた。

「うーむつくづく、いい店じゃ。観光客や定住者を宇宙に呼び込むには食事は重要。レーションの宇宙食では無理なんじゃよ。」
ぱくぱくとロースステーキを食べながら天野が力説している。
「五反田の肉がなければ、スカイスターの価値はないも同然。毎朝の五反田始発の貨物列車で新鮮な肉、魚、野菜を仕入れているから宇宙空間でもおいしい食事が楽しめるんじゃから。」
「そこまでおっしゃいますか。でもスカイスターでは、揚げ物だけはまだ禁止なんです。焼くか、煮るか。だから揚げ物だけは五反田で食べるようにしてるんです。」
と星島。
「なるほど。納得でふ。」
ワイルドステーキを頬張りながら志希がうなずいた。

「さて、ここでひとつサプライズです。天野さんにはお言葉ですが、実はみなさんが今食べている食事の材料はすべて、このスカイスターのネイチャーゾーンで生産したものなんです。スカイスターが食料の自給自足を実現した記念に、今日だけ地球からのお客様にお出ししているそうです。」
と星島が言った。
「え、それはすごい。五反田店のレベルとまったく区別がつかないぞ。牛肉ということは、エネルギー効率が食肉のなかで最も悪いという牛を育てているということなのか?」
と天野が聞く。
「その通りです。太陽エネルギーを穀物の生産に転換できているので、意外と不可能というわけではないんです。フンはいい肥料になるようですし。」
ふーむと天野は腕を組んだ。
――それは生物多様性の観点からも悪くないかもしれないな。
と志希は思った。ここは純粋に商売上のメリットばかり考えているようで、意外と合理的なバランスに着地している。

 

「で、そんなわけで自給自足ができたので、スカイスターの一部を火星に飛ばすことになったんです。」
「はい?」
一同はさすがに驚いて目を丸くした。

「東急としては、まずスカイスターを火星周回楕円軌道に乗せてしまい、同時に火星地表に駅を作る計画らしいです。電車を通してしまえば後はお手のものですから。火星の土地はずいぶん前から買ってあったみたいですね。品川跡地でJRにスロープの利権をとられたのが悔しかったんでしょう。」
「うーむなるほど。テラフォーミングにはとても時間がかかるし、環境も厳しい。生活は火星周回軌道上のスカイスターで営み、そこから電車で火星地表での仕事に通勤するのが理にかなっているかも知れんのう。」

「二十一世紀後半の火星移住計画はちょっとハードすぎましたよね。」
と楓が言った。あの時代、官民問わず人々がなぜあんなにも我先にと火星へ旅立ったのかは不思議である。多くは永遠への”片道切符”となってしまった。フロンティアといっても当時の人類には火星の環境は過酷すぎ、少し遠すぎたと結論していいだろう。

「小説では取り残された研究員が火星でジャガイモを育ててましたけど、実際は悲惨だったみたいですね。」
当時幼かった志希も遭難事故のニュースは覚えていた。
「やっぱりストイックに命を賭けるミッションは軍属の宇宙飛行士にしかできないよね。」
と楓が言う。

そのとき、スカイスターに”館内放送”が流れた。
「火星運搬クルーの方々は、Bセクションへの移動をお願いいたします。あと二十分で、切り離しを開始します。」
星島が立ち上がった。
「では、行ってきます。」

「え、なになに?どういうこと?」
全員あっけにとられた。
「僕は火星運搬クルーに選ばれたんです。これから大体一年くらいの予定です。」
「星島くん、それはまた急な話じゃな。」
「やだもう。何言ってるの?」
志希は腰が抜けて椅子にへたり込んでしまった。

「実際、急に決まった話なんです。火星までは自動運航なんですが、現地で回転の初動を与えるのにどうしてもトラクターが必要でして。他の乗組員はほとんど駅とスロープの建設作業員です。とはいえ火星までの飛行時間は二ヶ月ぐらいですから、のんびりSFを読んで過ごしますよ。どうぞご心配なく。」
心配なくって言われてもねえ、と楓は志希と顔を見合わせた。

「ん、まてよ、Bセクション?ということは。」
天野が何か思い当たった顔で言った。
「ええ、そうなんです。天野さんの『海喜館』の資材が置いてあります。」
「え?『海喜館』?読書会やった古民家カフェの?」
楓がきょとんとしている。
「実は『海喜館』の土地にはホテルを建て直すことにしたんじゃ。それを星島くん経由で聞きつけた東急さんが、取り壊すならスカイスターに移築したいと申し出てこられた。無論、一も二もなくお譲りしたわけじゃが。」
「今日、月重力センターから僕が運んできたのは『海喜館』の資材なんです。スカイスター内部か、地表の火星ドーム内かは決まっていませんがちゃんと火星に移築させていただきますからご安心ください。火星でホームシックになる人もいるだろうから、ちょうどいいということで。」

 

 飲食店モールの通路では、そこかしこに火星行きクルーを見送るグループがいた。笑ったり泣いたり、抱擁したりしている。ひとしきりの喧騒のあと、星島を含む十数人のクルーたちが、モール出口に集まり、もう一度振り返って手を振り、スポークエレベータに乗って行った。

 残された人々はモール中央の展望窓の周囲に集まった。
やがて、連続的な振動と音が響く。
 窓の外には、ピザを切り分けるようにスカイスターの一部が分離していくのが見えた。壮観だった。

 正対するひと組の居住ゾーンとネイチャーゾーン、そして中央施設の半分が可愛らしいリボンのような形で宇宙空間に浮かんでいる。ほどなく、推進ロケットの噴射と思われる光が吹き出し、徐々に巨大リボンはスカイスター本体を離れていった。星島はあっけなく、志季たちの前から再び姿を消した。

 それから約一年後。大勢の見送り客で五反田駅四階ホームはごった返していた。

「寝台特急電車、まもなく発車します。お乗りの方はご乗車のうえ、お待ちください。」
アナウンスが流れた。

 EF81電気機関車に牽引された特急トワイライトスターが入線している。ドル箱の現行車輌を持ってくるわけにいかないので、鉄道博物館で動態保存されていた旧型車輌をレストアしたものだ。火星のクリュセ地方にあるアウロラ湾のへりに作られたスロープ線路を目的地とする、二泊三日の夜行列車の旅である。結局、火星路線はJRと東急電鉄の共同運行となった。

「火星リボンはいまごろ…」
楓が言う。火星リボンとはもちろん、火星に飛んでいったスカイスターの愛称である。
「もう火星の楕円周回軌道に入って安定しておるそうじゃ。」
と天野。

「東急・JR共同運行、火星アウロラ湾岸駅行き寝台特急、まもなく発車します。」
発車のベルが鳴った。

「じゃあ、行ってきます!」
志希は車窓から乗り出して手を振った。大学の卒業論文研究に、”火星地表および火星リボンにおける生物多様性の研究”を志願したのだ。火星で、星島との関係がどう展開するかはまだ全然わからない。けれど、この挑戦に志希は胸躍らせていた。
「志希ちゃん元気でね!」
楓は泣いている。志季ももらい泣きをしている。
「向こうで落ち着いたら、きっとお招きします。ぜひ火星で五反田読書会をやりましょう。」
そう、きっとそうしよう。

 こうして志希を乗せた五反田始発、特急トワイライトスター号火星行きが、発車した。

 

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