地層にて

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梗 概

地層にて

父が倒れたと連絡を受け、岡藤は池田山の病院に行った。階段から落ちてしまった父の腰は状態が悪く、いままでのように高輪台の家で一人暮らしを続けるのは不可能だった。
父は養護施設に入ることに同意した。「もう子供に耐えられないんだ」40年以上住んだ高輪台の家を去れることに安心しているようだった。

父は岡藤軽工業の元社長であり、創業者でもあった。戦後すぐに会社を設立し、高度成長期にはそれなりの資産を形成していた。
岡藤は不動産屋に家の売却を依頼した。戦前から建っている巨大な邸宅で、名のある建築家の手によるものらしく、凝った構造をした鉄筋コンクリート建築だった。
見積もりは予想よりもずっと安かった。築年数と土地形状のためだった。現代の富裕層は傾斜地よりも利便性に優れた平坦地を好んでおり、山は地名だけで充分なのだった。

何度かの値下げを経て、ようやく購入希望者が現れた。彼は宮道といい、ソーシャルゲーム会社の役員で、ウェブのことなら何でも知っている様子だった。岡藤よりも一廻りは若く、地に足を付けるべく住宅を探していた。
宮道は見学を希望し、家中を順繰りにほじくりかえしていった。目途が立ちしだい高断熱高気密住宅に建て替えするつもりらしかった。

邸宅の中で、宮道は犬かなにかを見たと言った。犬などいるはずはなかったが、確かに何かがいた。宮道は地下室にそれを追い詰めた。がらくたをひっくりかえすと、下に降りる穴が発見された。岡藤も存在を知らない穴だった。宮道は好奇心を発揮し、ぜひとも下に降りようと言った。

地下は迷宮になっており、炭鉱のようにも見えた。19世紀から現代にかけての物品が散乱していた。宮道は興奮し、この発見が間違いなく大きなビジネスに繋がると予言した。動物の姿は猿のようで、二人を迷宮の奥へといざなった。
進むうち、炭鉱は下水道になり、さらに線路に出た。放棄された地下鉄だった。北に延々と続いており、二人は何時間も歩いた。
最終的に、地下鉄は地盤の崩落につきあたった。灯りがあり、大量の書籍や生活道具が集められ、それらに包まれるようにして猿のような子供がいた。人間の子供ではなく、猿でもなかった。それは穴居人のような何かだった。
宮道は子供に話しかけようとした。子供は飛びかかり、頭に噛みついた。宮道は持っていたiPhoneで子供を殴りつけた。子供は昏倒し、そのまま死んでしまった。
二人は死体を埋葬し、子供の生活空間を検めた。議論のすえ、昔の資産家の子息がなんらかの事情で地下に閉じ込められ、そのまま生き延びていたのではないかと仮説を立てた。いずれにしろ、自分たちの正気を先に疑わねばならなかった。
二人は地上に出る道を探した。出た先は六本木ヒルズの公開空地だった。高輪台に戻り、応援を呼んで再度探検しようとしたが、穴は消えていた。

文字数:1159

内容に関するアピール

プロレタリア文学の舞台ともなる五反田ということで、新世代の資産家を主題に据えました。
書くにあたって五反田から白金台・高輪台のあたりを歩いてみたところ、決して昔からの資産家だけの住む土地ではないらしいことが分かりました。子育て世代がおり、新しい高級賃貸住宅や最近分譲されたらしい区画があります。21世紀に入ってからの新しい富裕層がいるらしいのです。彼らはiPhoneを持っていますが、19世紀の資産家や高度成長期の企業家の正当な後継者であり、同じくらい描かれるに値する主題でもあります。
新世代の資産家は、土地に堆積した歴史のなかに位置づけられます。作中の地下迷宮を探検するなかで、彼らは失われた過去の世界を発見し、世界の自明性を揺らがされます。その動揺は読者にも共有され、作品の結末に影を落とします。
センス・オブ・ワンダーという課題に応えられるようなテクストにできたらと思います。

文字数:389

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地層にて

1
震動が起こっていた。
震動は細かく、微かで、注意しないと感じとれないほど小さかったが、革靴の踵を通して確実に伝播しており、骨格伝いに伝導し、胸郭の中で共鳴し、無視できない凄味を伴って心臓を動揺させていた。
和田嶋は最初、その震動を地震の前兆だと思った。P波は本震であるS波よりも速く伝わる疎密波であり、敏感な人であれば本震の起こる数秒前に感じることができる。和田嶋は来たるべき本震の恐怖に身体を緊張させた。だが、何秒経っても揺れは来なかった。
震動は続いていた。震動は和田嶋を怯えさせ、鳥肌を立たせるに充分だった。遙か地下深くで大質量のマントルが流動しているかのようだった。どんな距離もその震動を減衰することはできなかった。どこか深い地層から、旧く恐ろしい存在が手をのばし、和田嶋の心臓を鷲掴みにしていた。

和田嶋の身体はすくみあがり、動くことができなかった。ラップトップから眼だけを動かし、周囲をうかがった。
そこは五反田にあるオフィスビルの十八階で、四部屋に分割されたフロアのひとつだった。和田嶋はそのオフィスに入居する新興企業のプロジェクトマネージャーとして、窓際に位置する島のデスクに座っていた。島にはプロジェクトチームのソフトウェアエンジニアたちが残っており、より多くの派遣社員たちがフロア中で勤務していた。彼らはなにも感じていないのか、相変わらずキーを叩いたり、コードを眺めたりしていた。
震動はますます強くなっていた。もはや気のせいとして無視することはできなかった。鼓膜にまで伝わった震動が低く、絶え間ない音を頭の中に響かせていた。金縛り状態になり、呼吸することもままならなかった。和田嶋の心臓は激しく動悸しており、それだけで部下たちに不審がられてもおかしくなかった。
震動は地面を伝わってきていた。その方角が分かるほどだった。和田嶋が感じる震えは靴の裏に接したカーペット張りの床、肘を置いたスチール製のデスク、メッシュ張りのオフィスチェアのフレームの震えだった。それらは床板を通じて太く長大な鉄骨に接続しており、鉄骨はアンカーボルトによってコンクリート基礎に固定され、地下深く穿たれた杭によって土地につなぎ止められていた。震動は窓の外、暗く沈んだ部分から来ていた。
宵の口で、太陽の僅かな残滓が消滅しつつあった。五反田駅前のビル群と高輪台の住宅地が二色のコントラストを表していた。ビル群は白く明るく、鉄道駅と国道によって形成される網目を縁取るように広がっており、低い地面から高く背を伸ばして山の手を取り囲んでいた。それらはオフィスであり、タワーマンションだった。あらゆる窓に灯る電灯はますます煌めきを増し、夜に入ってゆく時間の経過を喜んでいるようだった。
そのむこう、高輪台の盛り上がった地形たちは、ビル群に半ば隠れるようにしてひっそりと暗く塗りつぶされており、谷間を縁取る構造物の興隆に圧され、かつての威厳を失いつつあるようだった。だがよく目を凝らしてみれば、隆起した土地はその抑揚の中になにかを隠しているようであり、黒く潰れた姿の中にも怪しげな存在感を発していた。土地そのものがむき出しになっているようにも見えた。和田嶋はそこから眼が離せなくなった。明らかに、震動はその地下から発していた。

「和田嶋さん」
デスクに座る部下の一人に声をかけられ、和田嶋は息を飲んだ。和田嶋の身体は不自然な体勢で固定されており、冷や汗が流れ、鬼のような形相をしているはずだった。だが、部下は気づいていないようだった。
「和田嶋さん、鳴ってますよ」
部下はデスクの端の方を指さしていた。そこにはiPhoneが置かれており、ディスプレイが点灯して着信中であることを示していた。和田嶋はそれを信じられない眼で見た。それは震えていた。
和田嶋は部下に訝しまれながら、どうにか腕を動かそうとした。奥歯を強く噛み合わせ、全身を奮わせ、抵抗する筋肉に無理矢理言うことを聞かせようとした。ゆっくりと、少しずつ、着実に人差し指をiPhoneにのばし、通話ボタンをタップした。
震動が止んだ。地の底から響いていた、恐ろしく、和田嶋を怯えさせた震動は嘘のように消失していた。金縛りは解け、動悸はやみ、鼓膜は静かになっていた。
和田嶋はすぐには電話を取ることができなかった。相手の呼びかける声が小さなスピーカーから漏れ聞こえた。部下は和田嶋のその様子を、虫の居所が悪いと解釈したようだった。「ぼくはなにも悪いことをしてませんよ」とでも言うように肩をすくめ、最大限の無関心を装い、自分の仕事に戻った。
和田嶋はiPhoneを耳に当てた。知らない女性の事務的な声だった。
「お父様が救急搬送されました。島津山病院までお越し下さい」

和田嶋は気のせいだと自分に言い聞かせていた。あの震動は幻覚かなにかであり、ただiPhoneのバイブレーションに過敏に反応してしまっただけなのだ。和田嶋は仕事で疲弊しており、何度も土日を休みそこねて連勤していたし、深夜までの残業も日常茶飯事だった。鬱病で退職した同僚もおり、今まで大丈夫だったとしても、年齢を重ねたために精神が弱まっていても不思議ではなかった。何日か休暇をとり、心療内科にかかれば問題ないと思った。
だが、オフィスを辞し、国道一号線を進んだタクシーが島津山への路地に進入したときは、不安を覚えずにはいられなかった。オフィスビルとタワーマンションの向こう側に見えていた暗い地形に、和田嶋は足を踏み入れていた。あの震動はこの方角から来ていたはずだった。幻覚であるはずとはいえ、感情は脳組織の最も古い部分に働きかけていた。
さいわい、池田山病院はごく表面的な部分に留まっていた。五反田駅前から国道一号線を進み、建築事務所とショールームの間を入り、二車線道路でほんの数十メートルしか進まない場所にエントランスを構えていた。道路には十年以内に新築されたらしいマンションが手を延ばしており、そこが駅前の延長線に過ぎないことを示していた。

父は困惑したように天井を見つめていたが、意識はしっかりとして目覚めており、病状は緊迫していないようだった。息子に気づくと、仕事中に呼び出したことを詫びた。
「階段から落ちたんだ」
父は言った。
「どうにも歩けないので救急車を呼んだ。腰をやってしまったらしい」
医師が来て、和田嶋は説明を受けた。腰椎圧迫骨折であり、神経にも損傷が見られるという。高齢ということもあり、骨が治ったあとも歩けるまでには長いリハビリ期間をとらねばならない。少なくとも車椅子生活を余儀なくされ、介護をつける必要がある。父は一人暮らしだと申告すると、医師は養護施設に入所することを勧めた。
「頃合いだと思っていたよ」
父の言葉に和田嶋はおどろいた。いちど、母が死んだときに養護施設に入らないかと勧めたことがあった。その時は断固拒否し、高輪台の自邸から離れるなど言語道断だと撥ねつけられたのだ。
「もう子供に耐えられないんだ」
「子供?」
和田嶋は聞きかえしたが、父は答えなかった。
「家は売って欲しい。もはや住む者もないだろう」
和田嶋は肯き、父の気が変わらないうちに手続きを進めることにした。系列に養護施設があるらしく、病院のすぐ近くに建っていた。パンフレットを受け取り、料金体系を確認した。三〇〇〇万円の一時金と月額三五万円の利用料、それとは別に要介護レベルに応じた介護費用がかかった。高額だが、父の資産を考えれば問題にはならなかった。

 

2
父の名は和田嶋泰昭といい、〈和田嶋軽工業〉の創業者であり元社長だった。一九六〇年代、彼は働いていた鉄鋼企業をやめ、自分の工場を持った。自動車部品の注文が入ってからは仕事が途絶えることなく、下請け企業として確かな地位を築いた。自動車メーカーと資本提携し、アメリカに工場を持ち、コストダウン要求に応えた。高輪台に邸宅を購入し、マンション投資をし、メルセデス・ベンツを買った。三人の子供を育て、大学に通わせた。八〇歳に近づいてからようやく引退し、孤独な老後に入った。
邸宅は一九二〇年代に建てられた大きな屋敷で、名のある建築家の手によるものらしかった。五反田駅と品川駅のちょうど中間あたりに位置しており、最寄り駅でいえば都営浅草線の高輪台駅だったが、いずれにしても坂道を一五分は歩かねばならなかった。斜面に沿って四層に分かれ、すべて鉄筋コンクリートでできており、関東大震災直後らしい過剰な頑強さを持っていた。化粧煉瓦で隙間なく覆われ、松と梅で庭が占められ、建て主の異様なこだわりに満ち満ちていた。父は七〇年代に購入してからずっとそこに住んでいた。
伝え聞くところによると、元々の建て主は岩崎の分家のうちのひとつで、造船業を担っていた事業家だったらしい。実際、邸宅には三菱財閥関連の物品が多く残されており、長崎造船所との間を頻繁に往復していたらしい様子もうかがえた。いずれにしろ、すべては積み重ねられた年月と埃の下にあり、和田嶋は純然たる嫌悪のもとにそれを見た。
和田嶋は邸宅の処分を先延ばしにしていた。父はすぐに売り払うことを望んでおり、家具類も適宜処分して構わないと言っていた。実際、そこに住みたいと思っている人間はいなかった。二人の弟たちは大阪とロサンゼルスにそれぞれマンションを持っており、そうでなくとも兄弟はみな高輪台の家を嫌っていた。和田嶋自身もタワーマンションの方が好みだった。地面から高く距離をとったタワーマンションには邸宅にはない機能性と清潔さがあり、企業経済の集中するオフィスビルにはるかに近かった。

一ヶ月が経ち、父が車椅子の練習を始めた頃になって、和田嶋は不動産屋に足を運んだ。高輪台に根を下ろした不動産屋で、父の不動産関係の契約はすべてそこを通して行われていた。父はそこを通して邸宅を購入していたし、マンション投資をして失敗したのも同じだった。
不動産屋は国道一号線沿いに事務所を構えていた。まず驚いたのは、社名が変わっていることだった。藤岡の記憶ではそこは〈高輪不動産〉だったはずだが、看板には〈リンクス・ビルディング〉と書かれていた。建物も建て替えられていた。真四角のコンクリート塊に小さな窓を並べた建物は、ステンレスとガラスの開放的な地階部分と上層に高く伸びた居住部を持つタワーマンションになっていた。正面は二階までひと繋がりのガラス窓になっており、高い天井と吹き抜けを持ち、観葉植物と無垢材によって彩られていた。窓に貼り付けられた雑多な物件情報は姿を消し、代わりに不動産デベロッパーのタワーマンション・プロジェクトが大きくポスター張りされていた。
「ようこそ〈リンクス・ビルディング〉へ」若い担当者は言った。
「またお手伝いさせていただけることを嬉しく思います、和田嶋さま。どうぞお掛け下さい」
和田嶋は二階の小部屋へと案内された。そこは充分に明るく、大きな窓と観葉植物があったが、正面の吹き抜けに面してはいなかった。吹き抜けに面した部屋は会議室風で、プロジェクターと音響設備、計画中らしいマンションの模型があり、おそらくは建物の中で最も恵まれた場所として用意されていたが、そこは不動産デベロッパーと金融機関のために取っておかれているらしかった。和田嶋はその部屋で〈大きな商談〉をできたらどんなにいいだろうかと思った。
「ずいぶんと変わったようですね」
「そうなのです」担当者は嬉しそうに言った。「意外に思われる方も多いのですが、不動産業界は時代の流れが早いのです。情報革命をはじめ、タワーマンションの流行、オフィス需要の増加、オリンピック開発など、ほんとうに多くの変化が同時に起きています。西五反田の再開発プロジェクトをご存じですか?」
和田嶋は知らないと言った。
「野村とJR、東京都が組んだビッグプロジェクトです。恵比寿、目黒、大崎と来て、最後に残った五反田を再開発し、輪を閉じようというわけです。四〇階建て級のオフィスビルが五棟、タワーマンションが二棟、それらを繋ぐペデストリアン・デッキが計画されています。目黒川のむこうは数年で様変わりしますよ。私共も土地の関係で噛ませていただいているんです」
和田嶋は驚き、とても興味深いと感想を言った。自分も五反田のオフィスで働いており、床面積の市場在庫が増加するのは嬉しいことだと語った。新しいビルに会社を移転するよう社長と相談してもいいとまで言い、その時は〈リンクス・ビルディング〉に相談すると約束した。
「ありがとうございます」
担当者はとても喜び、握手をした。いくつか説明資料を持ってきて、いかに先進的で完全なオフィス環境が用意されているかを語り、ぜひ社内で検討して欲しいと申し添えた。和田嶋はさらにいくつか質問を加えたあと、鞄にクリアファイルをしまった。
「それで、家の件なのですが」
和田嶋が切り出すと、担当者は今までの勢いを失い、難しい顔をして考え込んだ。
「そう、島津山のご邸宅ですね……」
和田嶋はなにか問題があるのかと問うた。担当者は否定したが、何か言い出しにくいことを言おうとしているようだった。
「まず取り壊しですが、かなり費用がかかります。
当社に残っていた図面を検討したところ、重機の使用に制限があることが分かりました。邸宅は狭い傾斜地を最大限に使って建てられており、道幅も狭く、機械を入れることが出来ないのです。ほとんど手作業でコンクリートの躯体を解体し、瓦礫を搬出することになるでしょう。見積もりをとってみないと確かなことは分かりませんが、前例からいくと四〇〇〇万程度の費用がかかると思われます」
担当者は印刷された紙をめくりながら、上目遣いで和田嶋の様子をうかがった。和田嶋は先を続けるよう促した。
「土地としての相場は一億五〇〇〇万円程度になります。これは建物が解体され、整地された場合の値段です。傾斜地であること、駅から遠いことを勘案して何割か割引する必要があります。解体費用も差し引くと、お手元に残る売却益は六〇〇〇万から八〇〇〇万円になるでしょう。ただし、順調に売れた場合の話です。売れないあいだは解体費用の負担だけが残ってしまいます。
住宅用に分譲する場合、面積からいえば四分割したいところです。ただし、ここで土地形状が問題になります。道路接地が狭く、二分割までしかできないのです。消防法上の問題であり、私共にはどうすることもできません。家を建てられる部分が限られるというのもあります。結果として、非常に売りにくい土地になってしまいます。何年間も売れ残ってしまうかもしれません。
同じ問題で、集合住宅を建てるにも適しません。高輪台のあたりは低層の高級賃貸が増えていて、ちょっとしたブームになっているのですが、それなりの道路に面した平坦地が必須なのです。高層マンションは物理的に無理ですし、安いアパートではどだい元が取れません。投資家は興味を示さないでしょう」
「では中古住宅として売りましょう」和田嶋は話が煮え切らないと感じはじめていた。「歴史的な価値もありますしね。もはや文化財と言ってもいい」
担当者はまた渋い顔をした。
「おっしゃるとおり、歴史的に見てとても興味深い建築です。日本における最初期の鉄筋コンクリート住宅ですし、財閥の歴史を内包してもいる。私個人としても、後世に残していかねばならない建築だとおもいます。不動産業者としてではなく、いち市民としての考えを申し上げるならば。
ただ、市場価格という観点で言えば、歴史的価値が影響することはありません。築三〇年を超えたあらゆる建物と同じように、上物の価値はゼロとして計算されます。むしろ解体費用分をマイナスで考えるべきです。大変心苦しいのですが、それが現代の市場なのです。
率直に申し上げて、とても厄介な物件です。駅から遠く、道も狭い。建てるにも壊すにも地形が邪魔をする。現代の購買層は忙しいビジネスマンで、つまり和田嶋さん自身のような方々です。皆様は利便性に優れた平坦地か、そうでなければタワーマンションを選ばれます。駅から何十分も歩き、坂を上らねばならない土地、しかも場所柄から相場が高くならざるを得ない土地を欲しがる方は僅かです。奇特な買い主が現れるのを待つしかないでしょう」
和田嶋はテーブルがカタカタと揺れているのに気づいた。一瞬、背筋を冷やしたが、それは自分の貧乏揺すりが起こしている揺れだった。足を止めると、震動は止んだ。和田嶋はいらだっているらしかった。
落ち着くため、テーブル上のカップに手をのばした。それはネスカフェのコーヒーポッドで入れたラテであり、和田嶋のオフィスにあるものとまったく同じだった。多くのオフィスワーカーに共有されたその味は、高輪台の家に乱された和田嶋の心情を安心させてくれた。
「それで」和田嶋は言った。「それで、結論としてはどうなのですか。売却は難しいと?」
「中古住宅として売り出し、少しずつ値下げをしながら、買い主が現れるまで辛抱強く待つのが最良かと」
和田嶋は承諾した。書類一式にサインをし、父が書いた委任状を渡した。
物件の写真が撮影され、〈スーモ〉と〈アットホーム〉に掲載された。価格は一億二〇〇〇万円、三ヶ月ごとに一〇〇〇万円ずつ値下げしてゆく手はずだった。買い主は九ヶ月間現れなかった。

父が倒れて以来、震動は和田嶋を悩ませ続けていた。深夜、いつものオフィスで同じように座っていると、ふとした瞬間に不安を感じた。だれかの携帯電話が震えたり、ラップトップのファンが激しく回転するたび、その振動に恐怖した。不安感はいや増し、ことあるごとに踵の感触を確かめてみたり、デスクに指を沿わせる癖がついた。
震動への恐怖は日常生活にもついてまわった。明らかに原因が分かっている振動さえ和田嶋を怯えさせた。地面の下を通る地下鉄、橋を揺らすトラック、工事現場、冷蔵庫のコンプレッサー。仕事にも支障があり、かつてのような長時間労働はできなくなっていた。二つ担当していたプロジェクトを一つにしてもらい、自分一人でこなしていた仕事を部下に分配せねばならなかった。
和田嶋は心療内科にかかった。医師はストレス障害だろうと言い、抗不安薬をいくつか処方した。溜めてあった有給休暇も意識的に消化した。夏休みを二週間とり、東南アジアへバカンスに出かけすらした。
夏の終わりには症状が落ち着いたが、根本的に治ったわけではなかった。なにか振動があるごとに過剰反応するくせがついていた。高輪台の暗闇に恐怖を感じ、視界に入らなくともその方角が気になった。家さえ売却されれば良くなるのではないかと考えていたが、不動産屋からの連絡はなかった。

家の売却が遅々として進まないのとは対照的に、西五反田の再開発プロジェクトは大きな進展を見せていた。土地の取得はすでに八割が完了しており、駅から直接目黒川を越えてゆくデッキが作られ、二棟はその輪郭を現し始めていた。和田嶋が着工に気づいてから工事現場が周囲のビルの高さを超えるまで、三ヶ月もかからなかった。
現場は和田嶋のオフィスの斜向かいで、昼夜を問わず工事が進められていた。高力ボルトを締結するインパクトドライバー、地質調査のボーリングマシン、基礎杭を打つパイルドライバー、発電機の二サイクルディーゼルエンジン。すべてが激しい震動を発生させていた。それらは計画的に時間制限され、防振マットで絶縁され、防音シートで覆われてはいたものの、減衰しようのない震動が地面に伝わっていていた。和田嶋はそのいちいちに怯えながら仕事をせねばならなかった。
一方で、その工事が猛スピードで進んでいることは和田嶋の心を慰めてくれた。国内初のプレファブ工法で作られているらしく、現場は同型のユニットを積み上げてゆくだけで階を重ねることができた。和田嶋はその工法が、自身だけでなく会社にとって、ひいては企業経済全体にとって利益となる素晴らしい発明だと考えた。なにしろ工事が早期に完了すれば、和田嶋の恐れる震動が収まってくれるだけでなく、オフィスの移転を早めることにも繋がるからだ。

和田嶋が〈リンクス・ビルディング〉からパンフレットを持ち帰ってすぐ、社長はオフィスの移転を決意していた。すでに派遣社員を含めれば一〇〇人の従業員がひとつのオフィスに詰めこまれており、キャパシティは明らかに足りていなかった。社長はもっと多くの派遣社員を雇い、もっと多くのソフトウェア開発を受注するつもりだった。
「やはり五反田を選んだ私の目は正しかった」
仕上がったばかりのペデストリアン・デッキのタイルを見下ろしながら、社長は言った。彼はすでに五〇過ぎで、老眼に悩まされていたが、未だ野心を失わぬ企業家だった。実際、多くの知古の顧客から仕事をとってきているのは社長自身だった。
「昔はイメージも悪くて、あるものといえば風俗街くらいだった。小さな事務所がいくつかあるという程度だった。だが渋谷と品川に挟まれ、顧客まわりに至便な五反田は過小評価されていると私は考えていた。賃料は安く、穴場だった。創業のときは迷わず五反田にオフィスを構えた」
大型クレーンと建築現場のあいだから更地となった用地がのぞいており、山手通りがそのむこうに見えた。その更地は大崎の再開発地域と呼応して、巨大なビジネス区画を形成するはずだった。和田嶋は完成した様子を手に取るように想像することができた。
「今では、このあたりを選ぶ新興企業は多い。赤線地帯の記憶は薄れ、風俗店は飲食店となり、ラブホテルは貸事務所へ変わった。そしてこの再開発だ。五反田は決定的に変わるだろう。五反田はビジネスの街、都内のあらゆる駅前と同じ街になる」
彼は現在の倍の面積を再開発ビルに確保していた。和田嶋と同じプロジェクト・マネージャーを二人採用し、給料の少なくて済む若いプログラマーを二〇人ほど、その倍の派遣社員とアルバイトを雇うつもりだった。
新しいオフィスに移れば、震動への恐怖もなくなるのではないかと和田嶋は考えた。建てられているビルは免震構造で、一階から三階には商業施設が挟まり、二重窓と気密構造で守られていた。オフィスは三七階の高さで、いまよりもずっと地面から離れていた。
それだけの高さがあれば、高輪台は相対化されるだろう。見下ろされた起伏はより平面に近くなる。品川インターシティと六本木ヒルズまでが視野に入り、それらの高層建築群に囲まれた高輪台は力を失って見えるはずだ。もはや恐れることもない。和田嶋は安らかな気持ちで高層オフィスに座り、これまで以上に仕事に邁進できる。和田嶋はビルの完成を心待ちにした。

 

3
竣工間近になって、不動産屋から連絡が入った。高輪台の家を検討する男が現れ、内覧を希望しているという。彼は湧谷といい、ソーシャルゲーム会社の役員であるらしく、ぜひ所有者に会って話を聞きたがっているらしい。和田嶋は高輪台の家を避けており、内覧にも付き添いたくなかったが、契約にいたる可能性を上げるためと不動産屋に説得された。
震動については大丈夫だろうと考えていた。いまだに過剰反応してしまうことはあったものの、和田嶋はその感覚に慣れ親しみつつあった。慌てずに心を落ち着け、なにか他のことに意識を集中すればよかった。それが顧客との会議中だとしても会話を続けることができるようになっていた。和田嶋は付き合い方を心得つつあり、たとえ高輪台の家まで足を踏み入れようとも、致命的に取り乱すようなことはないはずだった。

その予断は甘かったかもしれないと、邸宅へ向かう階段を登りながら和田嶋は感じた。夕暮れ時で、高輪台は闇に沈もうとしており、密集した家々の間はすでに見通せなくなっていた。西五反田の再開発区画はまだ光を灯しておらず、それも丘陵を登るにつれて家の影に隠れ、見えなくなってしまった。手をのばした古い塀から、僅かな震えが感じ取れた。周囲を見まわしても振動源は見当たらなかった。抗不安薬を余計に飲むべきだったと和田嶋は考えた。背筋に冷たい汗が流れていた。
邸宅は階段を登った先、軽自動車がやっと通れるほどの曲がりくねった路地の突き当たりにあった。所有者の分からない端切れ地、住む者のいない廃屋、三階建ての狭小住宅。例外的に展望がよく他の道路にも面している土地だけに、新しい注文住宅が建てられていた。それも和田嶋の慰めにはならなかった。
二年ぶりか、三年ぶりかもしれなかった。清掃や手続きで不動産屋から立ち会いを求められていたが、和田嶋はそのたびに理由をつけ、妻に代理を務めさせていた。間違いなく荒れているはずだったし、古い記憶を掘り起こさねばならないはずだった。

予想どおり、植物は許された範囲を大きく超えて繁茂していた。母が死んで以来手入れされていないらしかった。植木屋を入れておかなかったことを和田嶋は後悔した。物件の価値のためというより、自身の精神衛生のためにしておくべきだった。生け垣は五〇センチ近く道路に張り出しており、剪定されていない枝が上に横にと手をのばし、羊歯がその下を潜って染み出していた。庭木は伸び、蔦を絡めて禍々しい姿を曝けだしていた。
内側はさらなる混沌と化していた。何もなかった場所は藪と化し、見覚えのない小木が現れていた。あったはずの植木は倒れ、寄生植物によって生気を吸い取られていた。枯れ池は見えなくなっていた。庭の中心的存在であった松は抑制されていた生長を思いだしたらしく、曲がった腰をさらに湾曲させ、歳を重ねた樹皮を割って内臓をさらし、体中から新たな枝を産みだしていた。地衣植物たちは領域内の空間を覆いつくすほどに伸び、八方にむかって茂っていた。門から玄関につづいているはずの飛び石は羊歯によって隠され、辛うじて確認できるほどだった。
湧谷は飛び石のひとつに立っていた。和田嶋はその若さに驚いた。とても億単位の邸宅を購入する年齢には見えなかった。せいぜい三〇か三五だった。ジャージー素材のジャケット、自社のものらしいロゴがプリントされたTシャツ、ヴィンテージ・ジーンズ、ゴムで縛っただけのポニーテール、粗野な雰囲気を醸しだすあごひげ。丸い体型をしていたが、脂肪の下にはジムで鍛えられた筋肉を隠していた。彼は樫材の玄関、さびた雨樋、化粧煉瓦の補修痕と目を移し、興味深そうに眺めていた。植物たちの包囲によってなかば足が埋もれ、顔が遮られていたが、気にとめていない様子だった。
驚いているうちに、湧谷の方が和田嶋に気づいた。
「雰囲気のある家ですね。〈バットマン〉みたいだ」
湧谷は握手を求めた。
湧谷は人好きのする、屈託のない笑顔を見せた。顔全体の表情筋がすべてその笑顔のために働いていた。和田嶋には想像できないほど楽天的な様子だった。
実際のところ、湧谷は大学院在籍中に初めて作ったソーシャルゲームをヒットさせており、僅かな自己資金と共に会社を立ち上げ、莫大な資産に膨らませていた。彼は企業労働を経由せずに直接経営者の道を歩んでおり、シリコンバレーの同業者たちと同じように、起業家としての底知れない楽観主義、ヒッピーたちから連綿と受け継ぐ気質を保ちながらここまで来ていた。
「ヴァイヴを感じますね」
湧谷はてのひらを上にむけ、それをガクガクと震わせた。
「オーラというか、スピリットというか、つまり、特別な魅力がある家だということです。財閥というバックボーンが家に力を与えている」
湧谷は自分の言いたいことが伝わっていないと思ったのか、抽象的な身振りでそれを表現しようとした。
「ええ、独特な家です。財閥の御曹司らしいというか」
「お父上も資産家?」
「父は企業家です。三菱とは関係のない、小さな会社の社長をやっていました。〈和田嶋軽工業〉という会社で、いまは〈WLS精密〉という社名になっているはずです」
湧谷は知らなかったが、即座にSiriを呼び出して音声検索した。湧谷は感心しながらWikipediaの記載を読んだ。
「メーカーというわけですね……これはいい。財閥が建てた家を企業家が受け継ぎ、また次の住人を探している。ボクが継げば歴史が完成しますよ。150年にわたる日本経済の縮図だ。ボクはソーシャルゲーム会社をやってるんです」
不動産屋が鍵を開けるのに手こずっているあいだ、湧谷は自分の会社がどれほど新しい挑戦を行っているかを話した。いくらでも話したい様子だった。実際、和田嶋もその名前を聞いたことがあった。たくさんの広告を出していたし、キュレーションメディアと並んで業界を騒がせている企業たちのひとつだった。いずれにしろ、彼の事業は違法すれすれの限界を攻めており、嫌悪感を抱かずに話を聞くのは難しかった。
和田嶋は話をあわせながら、高輪台への恐怖感が和らいでいるのを感じた。湧谷の大きな声と身振りが中和しているらしかった。湧谷とこの家はあまりにも異なる性質を持ち、お互いに影響を及ぼすことができないほど擦れ違った存在なのではないかと和田嶋は感じた。

邸宅の中に入ると、外から見るほど荒れていなかった。清掃業者は言われたとおりの仕事をしてくれていた。子供時代の記憶が蘇るかと思ったが、強烈な想起に襲われることはなかった。実際、部屋と家具の配置を思い出すのも一苦労だった。
「ここは応接間ですね……?」湧谷はホールに面した扉を開いて言った。不動産屋は電気をつけるためにブレーカーを探しに行った。「すごい、剥製だ」
「父が家を買ったときからあるものです」和田嶋はそれを正視しないよう目を逸らした。
「今ではワシントン条約かなにかで、取引が禁止されていることでしょう。この部屋にあるものだけでもかなり価値があると思います」
湧谷はガラスケースに入った海亀、蛇、鷲に梟をしげしげと観察した。剥製というものを産まれて初めて見たかような純粋な眼だった。剥製は色褪せてはいたものの、質感はまったく失われておらず、目は電灯を反射して光っており、いまにも動き出すような迫力を持っていた。
湧谷は順繰りに興味を移してゆき、人形、陶磁器、写真、絵画、部屋にあるあらゆる調度品に目を輝かせ、iPhoneのカメラに収めた。窓は草木に覆われて見通せなかったが、その隙間から様子をうかがい、窓枠にまで興味を示した。彼の好奇心に際限はないらしかった。
次の部屋もまた応接間で、すこし小さかったが、湧谷はさらなる探究心を発揮した。そこは父がオーディオルームとして改装しており、アンプとレコード、スピーカーによって埋め尽くされていた。湧谷はレコードコレクションを一枚一枚調べては驚きの声をあげ、プレイヤーにかじりついて電源を入れようと試した。
「まだ部屋があるんです」
和田嶋は待ちきれずに言った。湧谷は楽しそうで、放っておけばまる一日でもそのままだったろう。だが和田嶋としてはなるだけ早く高輪台から抜けだし、タワーマンションの自室に戻って落ち着きたいと思っていた。
「あまり時間をかけると、全部を紹介しきれなくなってしまいます」
「でも、レコードですよ? 初めて見た。ボクのころはもうCDが普及しきってて、スティーヴ・ジョブズがiPodを発表し、次はMP3という時代でした。歴史上の存在としてしか知らないんです」
湧谷はそう言いながらレコードに針を乗せようとしたが、何度か促すと諦め、部屋を出てくれた。いずれにしろ、レコードプレイヤーは故障しており、電源が入らなかった。

「島津山という地名には思い入れがありましてね」
食堂を検分しながら、湧谷は嬉しそうに語った。
「祖父筋が鹿児島出身なんです。ボクは島津藩のソウルを受け継いでるんですよ。明治維新を起こした益荒男の血です。家を持つなら必ず島津山と心に決めていました。事業も落ち着いて、子供もできたので、念願を叶えるなら今だろうと。タワーマンションから降りて、先祖の名前が残る土地に住み、文字通り地に足の付いた生活をしようというわけです」
和田嶋はその気持ちが理解できると言った。
「現代人は土地から離れすぎているんです。土地それぞれの歴史は忘れ去られ、地名は書き換えられ、関心事は最寄り駅から徒歩何分か、東京駅まで電車で何分かかるかだけ。市場価格を導き出すためのデータがそのまま土地を表すことになってしまった。実に嘆かわしいことです」
湧谷は続いて、土地に住むということの真の意味について独自の考察を語り始めた。それは想像上の根拠と飛躍した推論に基づいており、経済的合理性に欠けていて、過剰な規範を押しつけようとしていたが、それなりの一貫性を持っていた。
「ただ……」和田嶋はおずおずと言った。
「島津山はもう少し南になりますね。正確を期すなら、ここは島津山ではないと思います」
湧谷は一瞬驚き、ポニーテールを振り、目を逸らした。和田嶋は言うべきでなかったと後悔したが、すぐに気を取り直してくれたようだった。
「まあ……」和田嶋は首をかしげて言った。「だいたいでいいんですよ」

湧谷は食堂から居間、和室、内玄関に繋がるもうひとつの廊下へと上がり、中庭を見ていった。
「複雑ですね」湧谷は苦笑いした。「いま上がったのは何階になるんですか?」
「私たちは三階とだけ呼んでいましたが」和田嶋はすこし悩んだ。
「一般的には、三・五階ということになると思います。応接間を四階として、順に三階、二階、一階と数えるのであれば。この家は同じ階でも高低差があるので、高さを基準に何階と呼称するのは適切ではないでしょう」
「既存の尺度じゃ測りきれないというわけだ」湧谷は満足げににやけた。「じつにいい。こういうのを求めていたんですよ、ボクらは」
二人はつづけて台所、土間、洗濯室、使用人室のあるエリアへ向かった。湧谷はなんどか間取り図を見て、今いるのがどこなのか確認せねばならなかった。理解できない部分に出会うたび、湧谷は嬉しそうに頬を緩め、新たな驚きを楽しんでいた。

不動産屋は急用ができたと言って、和田嶋に戸締まりを託して社に戻ってしまった。再開発プロジェクトに関する問題が立ち上がったらしく、どこか遠いオフィス、山手線を縁取る高層ビル群の高いフロアで、今まさに深刻な議論がなされているらしかった。
和田嶋は快く不動産屋を送り出してやった。自分もできることなら帯同し、五反田のパースペクティブに決定的な決断を下しているだろうその会議に出席したいくらいだった。
和田嶋は鍵を手に食堂に一人残された。湧谷はながいあいだ台所から出てこなかった。和田嶋は再び震動を感じはじめていた。それは千鳥模様の床板から重々しい装飾を備えたダイニングチェアに伝導し、和田嶋の骨盤に伝わっていた。
和田嶋は震動の様子がいつもとは異なっていることに気づいた。それは何かが這いずるような感触で、遠い地の底から来ているというよりもごく浅いところ、地面のすぐ下から発しているようだった。斜面に打たれたコンクリート基礎の上か、床下に交叉した木組みのあたりかもしれなかった。それは僅かに移動しており、台所の方から来ていて、いちど近づいたかと思うと、また遠ざかっていった。和田嶋はその震動の源になにかがいるという想像に囚われた。
さいわい、現れたときと同じように徐々に、震動は去っていった。和田嶋は抗不安薬を何錠か飲んだ。

深呼吸していると、湧谷が戻ってきた。土間のあたりをうろうろしていたらしかった。
「この家、犬が居たりしますか?」
不思議そうに台所を振り返りながら湧谷は言った。
「いえ、そんなばかな」和田嶋はうろたえた。「何か見たのですか」
「犬くらいの大きさの動物を見たような気がしたんです。でも、ボクの勘違いでしょう。物陰で、細かいところまでは見えませんでした。追いかけたんですが、結局どこにも見当たらなかった。なにかの影を見間違えたのかな」
和田嶋は即座にひとつの想像へと導かれた。湧谷が犬らしいものを見た時間と和田嶋が足下に這いずるような感触を感じた時間は、おそらく同時だった。ふたつがもし同一の原因から来た知覚であれば、ストレス性の幻覚などではあり得ない。
「見たのはどこですか。案内して下さい」
湧谷はその必要はないと主張したが、和田嶋の勢いに圧され、しぶしぶ来た道を戻った。それは使用人の部屋として用意された三畳間で、土間からさらに降りた場所にあり、暗く湿った場所だった。湧谷は土間からその方向を見て、何かの影が動いたのに気づいたとのことだった。三畳間の中に入っていったため、中を探したが、何もいなかったという。和田嶋もその場所を見たが、朽ちかけた畳と襖のほか何もなく、気配もなかった。
「落ち着いて下さいよ」畳を剥がして調べようとした和田嶋に、湧谷は言った。「見間違いです。荒らされた形跡もないですし、糞も落ちてない。この屋敷のオーラに影響されて、ボクがありもしないものを見たと思ったんです」
「そうですね……」
手を止めて、和田嶋は深い息をついた。
「私も、何かがいるのではと思ってしまったんです。食堂で待っているあいだ、地を這うような、恐ろしい気配を感じて。湧谷さんも同じものを感じていたのなら、気配が本物だったのではと」
「あり得ませんよ。偶然です。雰囲気がありますからね、この家は」
湧谷はきっぱりと言い、和田嶋を元気づけるために笑顔を見せた。自分の信念をまったく疑っていないようだった。
「きっとそうですね」
そう言いながらも和田嶋は心の内にひっかかりを残していた。自分の憂慮が非合理的なのは分かっていたし、それを筋道立てて説明できないことも分かっていた。第三者から見れば、ストレス性の不安障害から幻覚が生じ、妄言を言っているように見えるだろう。自分でも半分はそう思っていたし、そうであって欲しいと願っていた。
二人は奥へ進んだ。

二階と一階はさらに複雑に入り組んでいた。家族のための居室、寝室、娯楽室、書斎、風呂場、いくつもの物置、用途の分からない片隅があった。それぞれに段差があり、屋根裏に続く梯子、床下を覗く羽目板、唐突に現れる階段、奇妙な形状の踊り場があった。分離した廊下、隠された窓、小さすぎる扉、高さの変わる天井があった。湧谷はそれらが人を混乱させるためだけに設計されたのではないかと疑った。
「クレイジーですね」湧谷は喜びを滲ませながら言った。「ゲームでこんなの出したら、リアリティがないとユーザーに怒られそうだ」
装飾も混乱を助長した。応接間で見られた謙遜はもはやなく、奇怪な豪奢さと退廃的な絢爛が姿を現していた。ある部屋はバロックであり、ある部屋はアール・ヌーヴォーだった。そこにモダニズムはなく、重厚な西洋の伝統に対する異様な執着が見てとれた。建主は近代日本に対して明確に背を向け、自らの作り上げた複雑性の迷路に引き籠もっていた。
「奇妙な家です」和田嶋は嫌悪感を隠さずに言った。
「父も距離感を測りかねていました。自分で使う部屋、オーディオルームや居間や寝室は改装しました。でも他の部屋は手をつけられず、家具を右に動かしては左に動かし、また戻すの繰り返し。私たちはほとんど三階だけで暮らしていたんです」
湧谷はそれらの部屋を次々と探索していった。異様な雰囲気に困惑を覚えはじめ、言葉少なくなってはいたものの、観察の手は止めなかった。細かな浮き彫りや天井の装飾に喜び、その美しさを褒め称えていた。ときおり、ファンタジー漫画や冒険小説の知識から独特な解釈を披露し、和田嶋を驚かせた。倦むことなくiPhoneを構え、写真を撮り続けた。すでに夜の十時を回っていた。
一階は全体が主人のためのスペースになっていた。寝室を中心として網目状に部屋が繋がり、機能というよりは美意識によって細かく分けられていた。建て主の妄執が最大限に発揮されており、もはや誰にもその真意を理解できなかった。図書室のような小部屋が三つあり、執務室とおぼしき部屋は二つあり、理解不能な部屋が四つあり、廊下はなく、ランダムとしか思えないパターンで部屋同士が直接接続されていた。
そこはひときわ奇妙な部屋だった。全体が六角形をしており、壁全体に棚が作り付けられ、床には石灰岩が敷き詰められ、天井付近にある細長い窓にステンドグラスが嵌め込まれていた。入り口からは七段の階段を降りねばならず、壁のほとんどは地面に埋まっており、他の部屋よりも温度が低かった。棚には世界から集められた珍奇な物品、応接間にあった品々のさらに貴重で小さなものたちが飾られていた。それは玉虫であり、琥珀であり、肖像画であり、稀覯本だった。父はなにを思ったのか、棚の二面を使って自社製品である自動車部品を置き、工具と写真で彩っていた。六分の二、父が財閥の歴史に対抗した成果としては妥当なところだった。
その部屋には入り口のほか、もうひとつの開口部があった。そこは暗く、狭く、低い通路であり、L字に折れ曲がって暗闇に続いていた。不意に、あの這いずるような感触が足の裏を襲った。和田嶋は咄嗟に感触が向かう方向、通路の方向に目をやった。暗闇にふたつの目が浮かんでいた。
それは頭部が不自然に膨れあがり、腕は節張っていて細く、足はほとんど分からないほど短かった。暗い影に隠れ、シルエットしか見てとれなかったが、腕を地面に軽く突き、腰を弱々しく折り曲げ、こちらを観察していた。それは冒涜的に人間に似ており、虚弱児を引き延ばしたような、身の毛もよだつ醜悪さを持っていた。
和田嶋はそれから眼が離せなかった。心臓をわしづかみにされ、筋肉が萎縮し、金縛りにあったように動けなかった。何秒かして、湧谷もそれに気がついた。それは角に消えた。
「見ましたか」和田嶋は早口で言った。
「ええ」湧谷は目を鋭くして角を見つめていた。「一瞬ですが、猿のように見えました」
和田嶋は棚板に手を突き、倒れようとする身体を抑えた。這いずるような感触はその影と同時に遠のいていた。
「追いましょう」
湧谷はiPhoneのカメラを準備しながら、素早い足を影の消えた角へと向けた。
「待ってください」和田嶋は背中に向かって言った。足がすくみ、呼吸が浅くなっていた。
「あれは本当に猿だと思いますか。なにかもっと恐ろしい、得体の知れないもののように見えませんでしたか?」
「猿か、小人病の泥棒か、そうでなければ痩せこけた子供です。まあ猿でしょう。ボクが台所で見たのもあの猿です。もしそうでなければ、ボクらの正気の方を疑わなくては」
湧谷は落ち着いていた。猿が消えた角からじっと目を離さず、Tシャツの下の筋肉を動けるようにし、物音を聞き逃さないよう耳をそばだてていた。
父の言葉を和田嶋は思いだしていた。父は子供に耐えられないと言っており、思い出したくない様子だった。それを深く追及しておかなかったことを和田嶋は悔やんだ。
「いずれにせよ、すぐに分かることです。ほら、これを持って下さい」湧谷は父の棚からラチェットレンチを取った。「ボクにはiPhoneがありますから」
湧谷はいまや勇敢な冒険家だった。両足を肩幅に開き、腰を低く構え、iPhoneのフラッシュを掲げながら通路の向こうへゆっくりと歩を進めていた。探検帽とサファリ・ジャケットを身につけていないのが不思議なくらいだった。リスクを顧みず市場に挑戦するアントレプレナーとしての気質がそうさせるのだろうと和田嶋は思った。和田嶋はレンチを握りしめ、摺り足でそれに続いた。

角の先には狭く急な階段があり、小さな扉に続いていた。
「ここは?」
「地下室です」和田嶋は答えた。「物置になってるはずです」
そこは電球が切れており、灯りがついていなかった。iPhoneのフラッシュだけが頼りだった。建物の基礎にあたる部分であり、コンクリートの躯体が露出していた。湧谷は一段ずつ階段を降りていった。肩に触れるコンクリートから、ずりずりと這いずる気配が強まっているのが感じられた。
湧谷は意を決して扉を開けた。埃が舞い、フラッシュに反射して白い霧となった。二人は息を潜めて埃が落ち着くのを待った。
「居ませんね」
地下室には財閥時代からの物品が集められていた。父が住むうえで邪魔になったもの、不要と判断したものを放り込んだらしかった。湧谷はそれらをひとつずつ検め、猿のようなものが隠れられる隙間がないか確かめていった。
全体を探したが、どこにも猿はいなかった。確かに猿はこの地下室に入っており、そのほかに行き場所はないはずだった。代わりに発見されたのは小さな穴、蓋をされたマンホールだった。
和田嶋はその穴の存在に驚いた。そんな穴がこの家にあるとは知らなかった。もっとも、子供だった和田嶋は地下室に入ることを許されておらず、実際に入ったことも数えるくらいであり、単に和田嶋が気づかなかっただけかも分からなかった。それは壊れた船の模型とばらばらになった書籍の間に隠れており、探さなければ見つけられない場所にあった。埃についた痕から、最近出入りしたものがあることが見てとれた。
二人はその穴を挟み、当然の帰結を確かめあった。
「ここを降りたと思って間違いありませんね」
「そのようですね……」
穴は深く、垂直に降りていた。iPhoneのフラッシュでは下まで照らすことができなかった。模型についていた真鍮の銘板を落としてみて、15m程度だろうと目星をつけた。音の響きから、更に奥まで続いているらしいことが分かった。赤錆びた足掛金具がついており、他に助けになりそうなものはなかった。
「もしボクらが戻らなかった場合」湧谷は言った。「不動産屋が助けに来られるよう、メールを残します。三時間後に送信されるように設定して。電波は届かないでしょうからね。それまでに戻ればいい」
湧谷は迷わず降りていった。和田嶋も意を決した。トルクレンチをベルトに挟み、足掛金具が朽ちていないことを祈りながら、地層へと潜った。

 

4
地下は震動していた。
底に辿り着くよりも早く、和田嶋は自分の感じた震動の発生源がまさにこの場所であると確信した。足掛け金具から伝わる震動は、父が倒れたあの日に和田嶋を震え上がらせた震動とまったく同質のものであり、その拡大強化版、震源に近いがゆえに強められたものだった。
ふと和田嶋の頭に、この土地は怯えているのだという考えがよぎった。震動は怯えの表れであり、追い詰められた鼠が身を震わすように、土地が震えているのではないかと。
目の前には何層もの地層が現れては消えた。ローム層、砂礫層、シルト層。それらは建てられた住宅に隠され、アスファルトに覆われていたが、我々の世界の足下に常に潜み、依って立つ前提として存在していた。それらは水平に途切れなく敷かれ、高輪台に、山の手に、東京全体にあまねく広がっていた。
そこにいま、何万本もの杭が刺されていた。山手線沿いに蔓延る超高層建築たちの張った根は、十万トンにおよぶ自重を支えるべく百メートルの長さを持ち、最も古く固い地層にまで達していた。それらは太く穿たれた穴に圧入されたコンクリートであり、鉄筋によって強化され、抜け止めのナックルで固定されていた。
次々と建てられるタワーマンションとオフィスビルが地層を脅かしていた。それらの穿つ杭とカーテンウォールは地上と地下に伸び、円周に閉じた壁を形成しようとしていた。この土地は品川に、東京に、六本木に、渋谷に取り囲まれており、最後の逃げ場だった五反田も再開発プロジェクトによって塞がれるところなのだ。

「地下鉄ですかね」
降りてきた和田嶋を助けながら、湧谷は言った。
「地面も揺れてるし、地下鉄が近くを通ってるんですね。浅草線か、それとも三田線か」
湧谷はてのひらを壁面に押しつけ、もっとよく震動を感じようとしていた。震動の詳細を観察し肌触りを余さず感じとることで、自らの文脈に呼び込もうとしているようだった。
「浅草線はもう少し遠かったかと思いますが……」和田嶋は疑念を呈した。
「あとで地図と照合してみましょう。すぐ分かることです。いまは猿を追わなければ」
湧谷はiPhoneのフラッシュを点灯し、印籠のように掲げた。
そこは古い坑道だった。人の手で掘られたらしく、大人では身をかがめる必要があるほど低く、すれ違うことができないほど細かった。弱い岩盤は不揃いな木枠で補強され、掘られたままの岩が露出し、石つぶてが散乱していた。この震動の中で崩落していないのが不思議なほどだった。一本道は曲がりくねって見通せなかったが、暗闇はまだ先に奥が続いていることを物語っていた。猿はその奥にいるはずだった。
湧谷を先頭にして、二人は坑道を進んでいった。足場は悪く、明かりはなく、注意しないと岩に足を取られてしまった。和田嶋は家から懐中電灯を探してくるべきだったと後悔した。せめて携帯電話だけでも持ってくるべきだった。湧谷のようにiPhoneを掲げて進むことができれば、いくらか心強かっただろう。
「すごい、もう敷地を出てだいぶ来ましたよ。とても大きなトンネルだ」湧谷は興奮していた。「高輪台の地下にこんなトンネルがあったなんて。きっと誰にも知られていない、忘れ去られたトンネルなんだ。発見ですよこれは」
和田嶋の方は気が気ではなかった。どこからあの猿の恐ろしい姿が現れるかと闇に目を凝らし、それらしい影を見つけるたびに怯えていた。震動は強く、はっきりとしていた。この震動が近くを通る地下鉄などではないことを和田嶋は分かっていた。それは途絶えることなく、一定の周波数を保っており、避けることのできないバックグラウンド・ノイズとして和田嶋を苛んだ。
「どこまで続いているんでしょう」
「この穴がなんの目的で掘られたかによりますね」怯えの滲み出た声に、湧谷は冷静に答えた。「鉱山の坑道のように見えますが、東京で鉄鉱石が取れたなんて話は聞いたことがない。試し掘りか、他のトンネルを掘った時の運搬用か、それともまったく別の目的があったのか。正直見当もつきません。大昔の城に王族が逃れるための秘密の通路があったように、主人が危険から逃れるための道を作ったのかも」
「いったいどんな危険があったと?」
「さあ……労働者のクーデターを恐れたとか。ロシア革命はあの家が建てられる十年ほど前にあたりますから」
あり得そうな話だった。現代の経営者にとっては考慮に値しない論外の仮定であるとはいえ、当時の財閥にとってみれば、共産主義革命はまさに差し迫った、本物の脅威だったのだ。あんな家を建てるほど妄執に取り憑かれた男なら、自宅に逃走経路を作らねばならないと考えてもおかしくはなかった。

神経をすり減らしながら歩いてゆくと、分岐が現れた。通路よりもすこしだけ広くなっており、とりわけ太い木枠で補強されていた。
「これではどちらに猿が逃げたか分かりませんね」和田嶋は安堵しながら言った。「引き返しましょう。また後日、応援を呼んで探検するしかありません。二人ではここが限界です」
湧谷はじっと分岐を観察し、しぶしぶ同意しかけたが、すぐにそれを撤回した。
「これを見て下さい」
湧谷はiPhoneを近づけて支柱のひとつを照らした。それは傷のように見えたが、よく見れば刃物で人為的に彫られた記号だった。それは矢印であり、分岐のうちの片方を指し示していた。
「切り口がまだ新しい。何者かが最近になってつけたんです。こっちに行けと言っている」
「いったい誰が」
「分かりません。でも行ってみる価値はある」
和田嶋が止める前に、湧谷は分岐を歩き始めた。和田嶋はついていくほかなかった。

分岐は次々と現れた。それはぐねぐねとうねり、右へ向かったかと思えば左に逸れ、登っては降りて上下に交差していた。迷宮のようであり、侵入者を迷わせる明確な意図を思わずにはいられなかった。湧谷はますますトンネルの用途が分からなくなり、仮説すら提示できなくなっていた。だが意気消沈するわけではなく、逆に薄笑いを浮かべていた。湧谷は面白がっていた。
「なんなんだここは」湧谷は声をうわずらせた。「まったく無駄な労力ですよ、こんなに分岐を掘るなんて。まるで遊園地のアトラクションだ。経済的必然性はまったくない。会社の金でこんな掘削をやってるやつがいたら、ボクなら解雇しますね。よっぽど金が余ってないと作れないトンネルだ」
矢印はどの分岐にもつけられていた。それを辿ることで迷路をぐるぐると巡ることなく、正しいらしい方向へ向かうことができた。二人は震動の中を北に向かっていた。

唐突に、トンネルは途切れていた。それは行き止まりではなく、光を吸いこむ空虚な暗がりであり、より広い空間への出口だった。
「線路だ」
出口の縁に立って見下ろしながら、湧谷は言った。
「地下鉄ですね……ここの震動が響いてるのかな」
湧谷は頭を突き出して左右に光を投げかけ、空気の流れを確認し、列車が来ていないか確かめた。トンネルは円形ではなく、アーチ型に煉瓦が積まれており、現代のシールド工法ではない旧式の工法で掘られたものだった。
出口から跳び下りると、線路に近づき、手を触れて観察した。どうやら長いあいだ車両が通っていないらしく、錆が浮いており、車輪と擦れるはずの面も磨かれていなかった。
「使われてない。作られただけで放棄された路線なんだ。震動はこの地下鉄じゃない、別のところから来てますね」
iPhoneのフラッシュは光量が足りず、ごく僅かな範囲しか照らせていなかった。続いて線路に降りた和田嶋はレールに足を取られ、バランスを崩した。湧谷はまだレールを観察しており、iPhoneは下へ向けられていた。和田嶋は長い時を静止したかび臭い空間の中で、ますます強まっている空恐ろしい震動に怯えながら、奥深い闇に左右を挟まれていた。その闇の向こうに猿がいた。
猿は背中を見せ、肩越しにこちらをうかがっていた。線路の間、枕木の上にうずくまり、何年もそのままいるかのように静止していた。
「います」
眼が離せないまま、和田嶋は言葉を絞り出した。
「あれが……猿が」
気づいた湧谷はiPhoneを向け、束の間猿が光に照らされた。十分な光量ではなかったが、全体像を目に焼き付けるには充分だった。
それは猿ではなかった。異様に大きな頭部、奇妙に輝く瞳のない双眸、あり得ないほど痩せ細った胴体、退化し萎縮した脚部、両生類めいてぬるりとした青灰色の皮膚。一本の体毛もなく、擦り切れ破れた腰布をつけ、無数の爛れた傷を持ち、長く伸びた爪は黒々としていた。その姿は十九世紀の碩学たちが夢想した未だ発見されない霊長類、穴居人であるホモ・トログロデュッテスをおもわせた。
iPhoneを向けられてすぐ、それは驚くべき素早さで暗闇の奥に逃げ去った。湧谷はすぐさま走り出し、追いかけたが、すでに影も形もなかった。湧谷は息を切らせ、膝に手を突いた。
「誘っているんだ」
湧谷は悔しがりながら、追いついてきた和田嶋に言った。
「ボクらが追ってくるのを分かってて、着いてこさせようとしている。どこかに連れていこうとしてるんです。アイツは猿なんかじゃない。ずる賢い知性を持ってる。迷路に印をつけたのもアイツに違いありません。頭蓋骨も明らかに猿より大きい。ヒトよりも大きかったかも知れない。まるで古典SFの宇宙人だ」
「もう戻りましょう。明らかに危険です。私たちを殺すつもりかもしれない」
「いいえ」湧谷は断固として言った。「捕まえます。アイツは大発見です。新種の動物か突然変異体か、それとも本当に宇宙人なのか分かりませんが、いずれにしろ世界中の話題になる。発見者はとてつもなく有名になれます」
湧谷は汗を流していたが、目は爛々と輝いており、口端には笑みをうかべ、強い意志を示していた。乱れたポニーテールを纏めなおし、袖をまくった。
「それに、うまく権利を得れば金にもなる。動産としての所有権を主張すればいいわけです。ペットと同じように。住宅の定着物だと主張してもいい。研究機関に貸し出して料金を取れます。そのあと展覧会ツアーをやり、海外の博物館を巡る。出版にグッズ展開、映像コンテンツ。ビッグビジネスですよ。あの家の金額くらい簡単に稼げます。他人に渡すわけにはいきません」

二人は線路の真中を淡々と進んでいった。線路は緩やかに下っており、僅かなカーブを交えながら北に向かっていた。分岐はなく、側道もなく、駅もなかった。和田嶋は地下鉄の様相が変化しつつあることに気がついた。
線路には物品が散らばるようになっていた。最初は僅かな石、木片といった瓦礫が隅に転がっている程度だったが、徐々に鉄板、新聞、木箱といった残骸が現れ、ついには家具、書籍、製品となった。古い財閥時代を感じさせるものもあれば、明らかに後の時代のもの、壊れたブラウン管やスニーカーもあった。基盤が露出した折りたたみ式携帯電話を見つけたとき、和田嶋は自分を指差されたかのような動揺をおぼえた。それらは文明の残滓、失われた時代の遺物を想起させた。
トンネルの装飾も変化していた。煉瓦はモザイク模様のタイルとなり、鋲打ちされたステンレスとなり、花崗岩になった。ギリシアの遺跡を思わせる垂直柱が現れたかと思えば、鉄材で筋交いが施され、錬鉄のガス灯のとなりで非常口を示す看板が壊れていた。それらは一定ではなく、進むにつれ徐々に変化し、時代も定かでなかった。それは過去を大雑把に混ぜ合わせたものであり、どんな時代でもないと同時にどんな時代でもありえた。
地下水が漏れているのか、地面は湿り気を帯びつつあり、壁面は垂れてくる水滴によって浸食されていた。天井に亀裂が走り、水が漏れ、どこかに流れ出していた。暗闇の中で水たまりを避けることは難しく、和田嶋の靴は濡れ、何度か滑って尻餅をついた。
途中、iPhoneのバッテリーが切れてしまったため、湧谷はiPadに切り替えねばならなかった。それは大きく重く、以前よりも取り回しが悪かったが、より頑強な筐体と大容量のバッテリーを備えていた。それはサンドブラスト加工されたアルミニウムの盾であり、湧谷と和田嶋が地層の中で生存するための拠り所だった。

進むにつれ、地下鉄はますます機能としての形態を見失っていった。車両の通過部分を空けておく配慮は失われ、巨大な円柱がレールの間から生えて平然としていた。塩ビ管が卍状に横切り、鉄柵が壁と天井に連なって渦をまいていた。床は丸くなり、凹凸になり、自動車が埋まり、水路が設けられた。それらは現実の経済原理とは異なる法則によって成立しており、空間のリアリティレベルは低下し、ダリの描くシュールレアリスムに片足を突っ込んでいた。
同時に、住環境を思わせる物品が増えていた。それは揺り椅子であり、テーブルであり、書棚だった。それらは目立たず、古び朽ちかけていたものの、水の流れる場所を注意深く避け、水平で利用可能な床に置かれていた。それが意味するところは、風景の不可思議さ以上に和田嶋を不安にさせた。
「止まって」
湧谷はそう言って、足を止めた。iPadのフラッシュを消し、音を立てないように静止した。和田嶋は息を呑んだ。
前方に僅かな光りがあった。それは橙色で、目が慣れなければほとんどわからない程度だが、どこか隠れた光源から間接的に漏れ出ていた。
湧谷は摺り足で、地面を探りながら、ゆっくりとにじり寄った。

そこは大きなドーム状の空洞だった。地盤が崩落しており、トンネルはそこで突き当たった。崩れた岩石が急峻な崖を形づくっており、線路はその下に消えていた。頂点から地下水が染み出し、小さな滝が流れていた。トンネルを掘削した労働者たちはここにきて、地下水脈に当たってしまったのだ。地面は全面が地下水に没し、地底湖になっていた。
数十本のコンクリート柱が整然と、等距離を保って六方格子に整列していた。それらはパルテノン神殿を思わせる荘厳さを空間に与えていたが、神聖性に不可欠な装飾はまったくなく、のっぺらとした無味無臭のコンクリート塊だった。それらは地上から地層を貫通し、空洞を無頓着に串刺しにして、はるかな地下まで手をのばしていた。それは超高層建築の基礎を支持する巨大な杭だった。
灯りは湖の中心、岩石が積み上がってできた島に灯っていた。それはシェードで覆われたオイルランプであり、曲線的な装飾を施された木軸を持ち、火を揺らめかせていた。傍らに肘掛け椅子が置かれ、入り口に背を向けていた。背もたれの向こうに何かがいる気配が感じられた。
湧谷は慎重に空洞へ入り、湖に足を踏み入れた。水深は浅く踝までしかなかったが、氷のように冷たく、泥炭のように粘性のある沈殿物が堆積していた。透明で静かだったが、ひとたび乱されれば堆積物の汚濁が広がり、同心円の波が反響した。二人は島へと向かった。
震動は消えており、静かだった。二人の足がたてる僅かな水音のほか、聞こえる音はなかった。和田嶋はレンチを構え、湧谷はiPadを構えていた。
湖には多くの物品が没していた。壊れた戸棚、絵の切り取られた額縁、ページの分解した書籍。それらは時によって朽ち、水によって劣化していたが、充分に形状を保っており、空間を支配するコンクリート柱に抵抗するかのように水面から突き出ていた。二人はその間を縫い、島に足を踏み入れた。
島に登ると、それがひどく崩れやすいことに気づいた。岩石の山だと思っていたそれは、近づいて見るとほうぼうから集められた瓦礫であり、煉瓦に鉄板、家具に壊れた機械だった。そこにはトンネルで見た物品たちが無秩序に集積されていた。それを崩さないようにして進むのは至難の業だった。

頂点に達し、湧谷は椅子の裏側を覗かんとしていた。そこにいるはずの猿を右手でわしづかみにしようと、用心深い猫科の猛獣のように構え、身を乗り出した。
突然、頭上で影が横切った。ランプが揺らめき、和田嶋は虚空に向かってレンチを振った。湧谷が悲鳴をあげた。
猿が湧谷の後頭部に組み付いていた。猿は短い足を首に巻きつけ、枝のような手でポニーテールを引っ張り、もう一方の手で脇谷の目を潰そうとしていた。ぬめぬめした青白い背中に背骨を浮かせ、絡みついて離さなかった。湧谷は抵抗し、上体を振り乱し、引き剥がそうとした。iPadが落下し、ラジエーターの残骸のあいだに滑り込んだ。
和田嶋は猿に向かってレンチを振ったが、激しく暴れていたために狙いが定まらず、湧谷の肩に当たってしまった。和田嶋はレンチを捨て、ぬるぬるした感触に身の毛をよだたせながら、猿の腹部を捕まえた。十数秒の苦闘のすえ、猿を引き剥がすことに成功したが、放れた猿はそのまま島を駆け下り、水面を乱しながらコンクリート柱の影へ、そしてランプの灯の届かない壁際へと逃げてしまった。
湧谷は額から血を流していた。噛まれたか、爪で引っかかれたらしかった。
「くそ、どこに行った」
「見失いましたね」和田嶋は周囲を覗いながら言った。「壁際に潜んでるのか、柱に隠れてるのか、天井に登ったか……」
二人は背中を寄せ合い、次の襲撃を待った。僅かに壁を伝う物音がしたが、反響しており、どの方向から来るか判然としなかった。二人はあらゆる方向を警戒した。
今度の狙いは和田嶋だった。だが不意打ちだった最初とは異なり、和田嶋は受け身を取ることができた。猿は首筋に組み付くことができず、二の腕に絡みつくことになった。和田嶋は自由なほうの手で猿の首を掴み、遠ざけることができた。
そこへ湧谷が決然と助けに来た。湧谷はiPadを拾いなおしており、それを白刃取りめいて両掌に挟み、大上段に振りかぶっていた。和田嶋はその狙いが狂わないよう、腕と組み付いた猿を持ち上げ、動かないようにした。iPadが振り下ろされ、脳天を直撃し、唐竹割りに胴まで振り抜いた。
猿は動かなくなった。後頭部に刀傷めいた切り傷ができ、緑色の血液が流れ出していた。腕から振りほどき、地面に放ると、ぐったりと大の字に倒れた。

「死んでますね」
湧谷は心臓に――少なくとも、心臓があると思われる場所に――手を当て、脈がないことを確かめた。
「帰らなくては。死体はあとで取りに来ましょう。もう逃げることはない」
湧谷はランプの傍らに置かれた椅子に死体を置いた。iPadを見て、ガラスパネルが側面からひび割れていることに落胆した。どうにかフラッシュライトだけは点け、目的は達したとばかりに来た道を戻ろうとした。
和田嶋は猿の死体を椅子に座った姿勢に正した。椅子は入り口に背を向けていたが、反対側には崩落現場があり、それを正面から見据える場所に置かれていた。猿は椅子に座り、落下した岩盤と雪崩を起こした土砂の山を虚ろな目で見ていた。それは群生するコンクリート柱によって半分がた隠されてしまっていたが、まさしくこの空間を作りあげた要因であり、ランプによって全体が照らされていた。
雪崩の麓に垂直な直方体がいくつか立てられていることに和田嶋は気がついた。それらは薄い鉄板であり、積み重ねられた煉瓦であり、外されたドアだったが、おおむね人の背丈程度の高さであり、なんらかの一貫性をもって整列していた。
その真上、岩石の雪崩の頂上に穴が開いていた。それは天井に続いており、人がどうにか通れるほどの大きさを持っていた。
湧谷を呼び止め、穴まで行ってみると、空気が流れていることが分かった。穴は斜めに登っており、気をつければ上に登れそうだった。二人は登っていった。
三十分ほど登ると、地上に出た。そこは地下駐車場であり、コンクリートで強固に固められた超高層ビルの下部だった。穴はマンホールによって蓋をされており、なんの変哲もないビルの設備であるかのような様子をしていた。そこは六本木、東京ミッドタウンビルの駐車場だった。

高輪台に戻ると、心配した不動産屋が気もそぞろに待っていた。警察に連絡する寸前らしかった。メールを受けて探してみたが、地下への入り口など見当たらないという。和田嶋と湧谷が地下室を見てみると、確かに入り口はなかった。どこにもトンネルなどなかった。日を置いて探したが、東京ミッドタウンの穴も失われていた。湧谷は納得しなかったが、地下トンネルは夢のように消え去ったと結論せざるを得なかった。
猿は永遠に失われ、iPadの傷跡だけが残った。

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