家の人

梗 概

家の人

 青年と呼ぶには歳のいった男、ユーリョは、発光する草原を北へ逃げていた。居住する上部に比べてあまりに細い、二本脚の家を走らせて。
 南から四軒の家が駆けてきている。いずれも四本脚だ。一軒の窓から人が叫ぶ。
「老いた家を走らせるな!」
 ユーリョは焦るが、二本脚は転倒し、追いつかれる。追っ手は各家のベランダから梯子を投げ、ユーリョの家の玄関へ飛び移る。

 追っ手は全六人。近所の少年少女らだ。一人が、子供扱いする口調で、傷んだ家の引き渡しを命じる。外で家が動かなくなれば「家体遺棄」の罪に当たると。
 ユーリョは拒む。

 ここは「彼の母方の祖母の家」、すなわち、祖母の体が変成してできた家である。
 通例、ユーリョの集落の人々は、伴侶を得ると、「家の墓」と呼ぶ光り輝く墓地で結婚式を行う。葬られた古い家々を資源として取り込みながら、伴侶と融合して、巨大化し、四本脚を持つ一軒の家となるのだ。
 家はその後、内部で卵を育み、産む。卵から子が生まれる。子は両親を「家の人」と呼ぶ。

 しかし、ユーリョの場合、「家の人」と呼べるのは祖母ひとり。実の父母は生身で子をつくり、式も挙げず出奔した。
 周囲が噂した原因は、祖母の家の不完全性による、母の心のゆがみだ。
 祖父は式中、融合を完遂できず、脱落した。少年形態のままの下半身は、崖下、暗い「未成家いえならず」の墓に投げ捨てられたらしい。祖母の家が二本脚なのはこのためだ。
 だが、ユーリョは、家に残る記録から、父母が外の世界に焦がれていたことを知っている。
 馬鹿にされても、自分は家にならず生きて死のうと思った。
 だが年を経て破損した祖母の家は、孫が話しかけても墓に行くことを拒んだ。ユーリョは集落から離れることにした。

 追っ手は、祖母の口腔が変じた玄関部から帰らない。
 ユーリョは痛い目を見てもらうつもりで、彼らを家の奥へおびき寄せる。家の中は臓器の変じた部屋が立体構造をなしており、部屋の周囲を血管の変じたエネルギーパスが取り巻いている。この構成は通常の家、すなわち人間二人で建った家と同じだが、ユーリョの家は一人半が変成したものなので、間取りが異なる。
 追っ手は異例の間取りに戸惑い、ユーリョの仕掛けた罠と、動く家の内部に囚われる。

 さらに、家の部屋は消化液を分泌しだし、囚人たちは溶かされていく。
 ここまでするつもりのなかったユーリョも一瞬怯むが、言う。
 ――家にならないことを否定するおまえたちなら、家のために取り込まれて死んだって構わないだろう?
 子供らはめいめい返答する。

 囚人を溶解・吸収するたび、家は修復され、脚の数も増やし、立ち上がる。周囲の家はこの家を攻撃する。祖母の家は抵抗するものの、倒れ破壊されていく。
 ユーリョは資材になるため消化液に飛び込むが、ベランダに放り出される。草に転がっていた二組の白骨を、劣勢の家に投げ入れる。
 祖母の家は周囲の家と融合する。様々な建築物に変容したのち、三十本の脚持つ車となって猛然と駆け出す。
 脚にしがみついたユーリョ共々、融合体は、朽ちた建築物が静かに並ぶ地に至る。融合体はその地のものを吸収合併し、一つの台となる。その中心へユーリョは送り込まれ、形成される縦長の物体ごと、上空へ射出される。
 大地を遠く離れると壁があり、光差す広い窓にぶつかる。窓を破ってさらに飛べば、壁の上下端が見えた。壁の下側には、液体に囲まれた、数多くのしなびかかった脚がある。
 ユーリョは眠る。物体がもう一つ外の窓を破ったときには、その体は既に焦げていた。

文字数:1460

内容に関するアピール

舞台装置:歩く家(かつ、人間の変身先)
・作中で、主人公は、ベランダから外には出ません。

[モチーフ]
 (記憶によると)子供のころ読んだ童話に、脚の生えた魔女の家がありました。調べてみたところ、スラヴ民話に出てくる「バーバ・ヤーガの家」という、一本または二本の鶏脚で支えられる家だったのかもしれません。(ただ記憶しているその家の一つは、三本脚だったりしたかもしれません)
 こういった脚の生えた家と、「大地を支える巨人」がラスト付近のモチーフです。

[内部と外部、融合と脱出]
 家という建築物は、外から見る存在に対しては「一個」として現れますが、中の存在に対しては広さを持ちます。また、「家」と結びつく概念、「家族」は、往々にして迷宮でもあると言えるかもしません。
 舞台装置である家は、内部に対しては部屋の変形や侵入者の溶解吸収を行い、外部に対しては歩行・格闘・融合等を行います。(なお天の光や地の草が放つ光をもとに、光合成もします)
 作中、人間-人間、人間-家、家-家、の間で行われる融合は、内部と外部の境界喪失のチャンスにもなります。
 しかし最終的に、主人公の父母の骨を取り込んだ家は、入れ子構造になっている外側の家を破り、もう一つ外、……と脱出を試みます。(破る前は、強すぎる光の軽減、空気の分離、等が窓と壁でされていました)

補足
[背景]
 集落では次のような、人間と家に関する活動の流れの典型が存在します。
・人間→(変わる)→家→(活動停止)→墓:個体の一生
・人間→(変わる)→家→(産む)→人間:人間の世代の継続
・家→(活動停止)→墓→(資材とされる)→家:家の資材の循環
 主人公の父母は、家とならずに子をつくり、外へ出ました。
 祖母の家は、家になり子をつくりましたが、「家の墓」に入ることを拒みました。
 主人公は、家にならず、子もつくらず、外にも出ず、一生を過ごすつもりでした。

文字数:790

家の人

 一個の揺れる部屋である。
 中に入って見渡せば、その弾むような運動をおとなしく行うのは、ほとんど床と壁だけだとわかるだろう。両者のふわふわした表面には、ずぼらものが刷毛で塗ったような、むらのはげしいつやがある。
 ほかの動きは、違う。
 廊下側に開け放された扉は、質感こそ壁と同じだが、部屋の揺れにふりまわされ、いささか過激に振動している。横の壁にある窓も激しい。透明な皮膜でできた窓面が、はち切れそうに、外へいったり中へきたり。いっぽう上部の天井は、やはり膜でできているが、茶色に色づき分厚くて、自信に満ちた膨張収縮を独自の周期で続けている。
 こんな和音でなる部屋は、この家の中にいくつもある。だが、余分な一点を含むものは、今はここだけだ。せわしない動きで、窓にむかう、一つの男。
 色艶が失せた部分の床面で、かゆそうに足を前後させている。首も右左右と振れて留まらない。ただし両手ばかりは、窓の面である透明な膜に、しかと押しつけられている。こうすると、揺れとともに凹や凸にゆがむ外の景色が、多少平らに補正されるのだった。
「ばあちゃん、速く、速く」
 頼りなげな小声でつぶやく。青年と呼ぶには歳のいった、やせ形中背のその男。名を、ユーリョという。

 ユーリョは逃げている。
 南向く窓に飛び込む大地の光――発光する草原の中を、北へ北へと進んでいる。
 土を踏み走るのはかれではない。かれが住む、二本の脚もつ家である。つぶやきに呼応するように大股になり、一蹴りごとに土煙をあげさせはじめた家である。
 しかし家の下部たる脚は、上部の居住部分――縦横ともにユーリョの身の丈の十二倍、高さも四倍強ある――に比べれば、寸法こそひけを取らないが、いかにも弱々しかった。
 二本とも、ユーリョの大腿部から爪先までを拡大したに近い形状で、丈はこの住人の四倍弱、幅は肩幅のおよそ三倍。問題はこの状態だ。緑灰色の外皮は皺が寄り、網のように走る青い管が浮き出、ぼろぼろと各所が剥落している。膝に至っては骨が露出している。
 正常な状態ではない。
 正常とは、たとえばユーリョを追う四軒の家の話だ。
 めいめい豊かに張った四本のふくらはぎを躍動させ、軽やかに草原を疾駆している。脚の外皮は鮮やかな緑。
 この四軒はユーリョが家とともに昨日までいた集落でも、特に優れた走者たちだ。前の冬も狩りで活躍した。春となり、採集が主と変じた近日においては、よい石器の材料がとれる西の洞窟までの道を、ほぼ毎日、乱暴に駆けっこして過ごしていた。その競走であがる土埃は、道の脇で家からおりて雑談しつつ低木の実を摘んでいるものたちをしばしば咳き込ませたけれど、被害者たちは声を休めることを苦ともせず、元気な家とその住人――〈家の子〉らを誇らしげに見送るのであった。

 いくらか健常さのありあまった家。その一軒の窓枠から、少年が身を乗り出した。
「老いた家を走らせるな!」
 声変わり前の澄んだ声は、ユーリョの掌ごと、閉まった窓を振動させる。
「ぼくが走らせたとでも……」
 ユーリョはぐっと拳を握り、追っ手へは聞こえないように言って、頭を振る。
「違う、ばかだ。こんな言い訳、やめようって決めたじゃないか。同意したのはぼくなんだから……いいかげん、責任を取らなくてはならない」
 なにが同意だい。
 そう言われた気がして、ユーリョは身を震わせた。
「ごめんばあちゃん。そうがんばって、その調子……」
 と、肩に、天井から降った欠片がぶつかり、呻く。
 見上げれば、元々雨漏りしていた天井部は、激しい走行に耐えられず崩れつつある。家の各所から音がする。ここ同様、損壊の度を増しているのだろう。
 他方、外には、大きくなる四つの像。居住部分の揺れも安定して、音の響きは低い。若々しさを疑いもしないだろう健常な家々を前に、憎悪に似た悔しさが燃え上がる。
「ああ……いやだ、いやだ。どうしてばあちゃんを見つけたんだ。ひとりふたり去らせてくれるくらいいいじゃないか。もう……どうなったって……知るものか」
 かげが、ユーリョの双眸を染める。
 その顔を真下にする形で家が転倒したのだった。

 家は尖った岩に躓いて、前に倒れてから、横転した。
 後ろで六つの叫びがあがる。獲物にとどめをさそうという歓喜と達成の声だ。四軒の四本脚はラストスパートをかけ、標的の左右で二軒ずつ、前のめり気味に急停止する。
 めいめい、二つあるベランダつき玄関の一方を倒れた家に向け、接近する。扉が開き、人が出る。一軒につき一名で合計四名。
「いくぞ。家を正しい道に連れ帰る!」
 先ほど身を乗り出したのと同じ少年。名はミハイロ。かれは拳を高く掲げる。袖のずりおちた二の腕に、翼を広げた鳥の入れ墨があらわれる。
「連れ帰る!」
 ほかの皆の声が合わさる。エリオ、ヤナ、ゾランという。
 この四人、いずれも歳は十二から十七の間。年かさの順に、十七のヤナ、十五のミハイロ、十四のゾラン、十二のエリオ。皆各家のベランダに巻き付いた縄ばしごをのばし、倒れた家から横に飛び出る、一個のベランダめがけて投げた。

 一方ユーリョは玄関裏に進んでいた。空間が横転したために壁を踏んでいる。
 かれの家に、玄関は一つしかない。そして、扉の表は汚れている――。一昨日、炭で印をつけられたのだ。
 印は、三つの記号を縦に並べたものだ。円の右上から左下へ線を走らせ終わりを跳ねさせたもの、横三本線、粗く塗りつぶされた長四角。「行け、墓に、すぐ」の意味だ。
 昨日の朝、家出る前に、草織布で拭き取ったけれど消えなかった。
 ユーリョの知るもう一つの言語では、それはもっと複雑な図形を、もっと長く並べて表される。いまごろ猿のようにうちの壁に飛び移ってきているだろうかれらは他の文字など夢想したこともないだろうが。と、ユーリョは鼻をさする。打撲した鼻が痛むのだ。だが薬のことを考える前に、扉が荒々しく叩かれた。
 ユーリョはドアノブを回し、上側から外へ押すようにして開く。
「どちらさま」
「とぼけるな――」
 隙間から飛び込んできたミハイロの頭が、直後、後ろに引かれる。少女エリオが乳歯の生え替わりきらない口を広げて、
家体遺棄罪いえすてのつみのことは知ってるよね?」
「それがどうか?」
「疲れたお家は動かなくなる前に、みんなのお墓に入るんだよ。教え場で教わったでしょ。ときが経ちすぎて忘れたの?」
 ユーリョが同じ言葉を返すと、ミハイロが「馬鹿」といい、エリオの頬はひきつった。「ええと、このお家がもう疲れているのも分かるよね?」
「分かるように、おとといの日暮れ、印をつけました」と静かにヤナが承ける。ヤナは家の状態の点検役だ。十二で兄から役目を引き継ぎ、これまで十の家に印を付けた。
 言われるばかりのユーリョは目を伏せ、家の扉をさする。
「ぼくらは、旅に出るんだ。そっとしておいてくれ」
「旅に出てどうするのです? 他の集家つどいやの墓に入るのですか?」
「そういうことにしてくれないか」
「よくありません。家の行き来は、行くものと来るものが合うようにしなくてはならない。そもそも、この家は、長い間はもちません。旅のなかばで止まれば、家体遺棄罪いえすてのつみにあたります」
 ユーリョはうなずく。「構わないのですか」困惑の声をヤナがぶつけた。
「こいつ分かってるんだよ。はなから知ってて狂ってるんだ。三十路になって未成家いえたらずなんて、話が通じるはずないだろ!」
 これまで黙っていたゾランが、ユーリョに指をつきつける。その唇にユーリョは笑みを見る。次、「やっつけるべきだ」と言ってくるところまで、瞬時に立った予想の通りであった。
 追っ手四人の肩には、縄の束がある。
 家が墓へ入るとき施される儀式――〈家清めやきよめ〉の際に用いられる、赤染の縄だ。家に私有財産があれば、これで結束して運び出す。だか今回は、住人が暴れた場合の捕縛用途も見込んでいるだろう。
 そして腰には鋭利な黒石のナイフがある。
 ユーリョの認識するところでは、ヤナは穏健派だが、ミハイロは強硬派、エリオも我慢が切れると乱暴で、ゾランはこういう機会が好きだ――ゾラン、この四人目の追っ手は、走ってきた家の住人ではない。かれが住むのは、足が遅い家、狩りのときにも、畏敬すらされる獲物へ追いつき第一の刃を突き立てる栄誉はなく、仕掛けた罠を巡って虜囚を踏みつけ骨を折る仕事ばかりを請け負う、家だ。今回は、何の取引を行ってか、別の家の客となって、罪人候補を追ってきたのだろう。
 ぼくを獲物とみて、鬱憤晴らしでもするつもりか。
「なら、来ればいいさ」
 自信ありげに呼びかけた。

 ついで玄関扉が閉められたとき、「開くと閉じるを間違えたんだろうか」とヤナは一瞬考えた。
 ユーリョは愚鈍な男として扱われている。
 狩りで功を上げることはない。
 木の実を集めるのも遅い。
 石を磨いても不格好なものができる。
 加えて、酒にも弱く、酔うとたびたび、妙な言葉を吐く。だれも知らない単語……鳥の歌のような響きの歌……。まわりの者はみな、かれの独り身の時が長すぎて、一人でしゃべるための声を生み出したのだと、笑い指さし語っていた。
 言葉とともに、腹の中身も吐く。近頃ではたまに、血も混じる。ミハイロなどは見かねて「早く家に成れ」と言うが、大抵の者は、もう相手していない。ひとり死にむかう男を馬鹿だ馬鹿だと笑う。「今日の歌は泣かせるな」と評を言う。
 この男、わずかに優れたことがあるとすれば、地図づくり程度だと言えようか。
 集家つどいや〉と称されるこの集落は、男のものを含めて現在二十六軒の家でなる。境界は家があるところで決まる。むろん健常な家は歩くので、その形状は可変だが、ひとつほとんど不動のものがある。光り輝く草に満ちた、家の墓だ。家が成りまた還る地だ。この墓さえ包んでいれば、集家つどいや集家つどいやとして成立する。季節に応じて、集落は墓から伸びるおのれの形態を決める。特に、墓を離れて活動する部隊がどこへ行くかをも打ち合わせる。まとめて方決めかたぎめと呼ぶ。
 方決めの際には、ユーリョの粘土に彫った地図が用いられる。三十も重ねた齢を活かしてか、距離や方角も精密、植生も参考となるものだった。とはいえ方決めに当たるのは集落の長ら数名のみだから、この腕が広く知られてはいない。ヤナは以前ちらとみて感嘆したが、だれにも、話していない。言ったところで、救われるわけでもあるまい。知らせたところで、いまさら、かれとともになろうとするものなど、現れまい。つねに、ぼんやりしている男なのだから。
 このため、逃亡は、意外でもあった。「ぼくらは、旅に出るんだ。放っておいてくれ」など、意思らしきことを語るのも、驚きであった。
 とはいえゾランもミハイロも違うのだろう。二人は迷いも見せず、ユーリョの閉めた扉をぐいと引く。
 先には、眉を上げた顔。その身は、腰まで見えるまえに、ふっと後方へ退きざま、落ちた。
 引き倒された扉にエリオが跳び乗る。小走りに踏み入り、右側、土間の床面に触れる。
「痛んでる」
「さっさとするぞ」
 次行ったミハイロが、渋い声で、肩から二本の赤い縄を下ろす。降下準備だ。ゾラン、そして、ヤナも入り、縄を互いのと結んだ。一定間隔で節を作る。三本つないだ先をヤナが玄関わきの暗い路に下ろそうとすると、ミハイロが肩をつかんできた。振り向くとすぐかれは手を引く。
「こっちは行き止まりだ。まさか、そこまで馬鹿じゃ」
「奥だって言うの?」
 ヤナの知る家はみな同じ間取りだ。玄関奥には、大部屋へ通じるはずの道がある。通常は平たい廊下だが、側面は軟らかい。そのため、転倒した今は、下方にぐんにゃり垂れている。
「ぼくはこっちに見えた」エリオが直下を指す。知覚ではかれが一番信用できる。それはミハイロも認めているようで口が結ばれ、この隙にゾランが手を上げた。
「なら、おれが奥に行って、見る」
「なにか、くすねようとは、思ってないよな」
「引っかかるなら、ミハイロおまえも来ればいいさ。馬鹿じいさんが心に引っかかるなら」
 人の大切なものをおちょくることにかけて、ゾランはなかなかのものだった。最近では抑えているようだが、たまに出る――抑えることに心の力がいるたちなのだろうとヤナはいつか感じ始め、苛立つより悲しむようになった。
「ぼくが行く」
「こっちに見えたんじゃないのか、エリオ?」
「もたついてると逃げるよ。狩りでの仲間割れは大馬鹿。そう教えたの、ミハイロでしょ」
 エリオは話す時間も惜しいというように、軽い助走で暗い路の口を跳び越え、奥の道へ滑り込む。
「逃げる? そう、か。だな」
 ミハイロが前髪の生え際を掻いた。なんとなくつじつまが合わないように見えた。
「あいつの姉さんは、おれの伯父と逃げたからな」
 ゾランが釘を刺すように言い、エリオの後を追う。ヤナは二歳下の少年にうなずいてみせる。ミハイロは縄をつかみ、直下の路へ足先から降りていく。
 ヤナも、赤染の粗い目に、手をかけた。一度振り向く。
 父さん、母さん、待っていて。
 待機する自分の家の、〈家の人〉を思い、ミハイロに続く。頭も潜りきったとき、うしろから扉のきしむ音が聞こえた。
 だがそのとき、ミハイロが部屋の戸に手をかけ、下方が明るくなった。「おまえ」とあがった声に、注意が引かれた。だから、ヤナは振り返らず、見ることもなかった。頭の上で縄がかすかな悲鳴をあげ、ひとりでに閉まる玄関扉に挟まれ、同時に上よりの光が失われたのを。

「おまえは」
 ミハイロは言い、右手の壁を見る。陥没した大穴。「家に手を加えたのか?」
「そうさ」ユーリョは少年の正面で答える。「落とし穴のつもりだったけど。家が転んじゃったから、台無しだ」
「おれは、おまえをまことの罪人つみびとにはしたくなかった」
 ミハイロは憤りに拳を握った。遅かった。
 〈家体遺棄罪〉は未遂に終わらせてやるつもりでいたが、すでに目の前の男は、それに次ぐ大罪――家体損壊いえいじりを遂げていた。家は尊び敬うべき存在で、かつ、集落の中心。その資材は時代を超えて共有されるべき財産である。これを毀損してはならない。……だというのに。
 日頃からこの年長者の世話を焼き、まともな道に直るのではないかと説得を繰り返し、再教育の場に送り出したおのれへの腹立たしさで、ミハイロはいっぱいになる。力不足で更生させきれず、極悪な性に染まることを防止しきれず。
「だが、おまえがもう戻れないなら、おれは捕まえるだけだ」
「すまないね。でもぼくは悪いなどと思わない」
 ユーリョは肩をすくめる。その視界上方に、ヤナが入る。
「ぼくはこの家に、ばあちゃんと住み続ける」
「ばあちゃん? ここのお家の人は、あなたのお母さん――ではないの?」
 ヤナはミハイロと顔を見合わせた。〈家の人〉と呼ばれるのは、家に成った人のことだ。家に住むのはたいていの場合、家が産んだ〈家の子〉であり、ヤナもミハイロもそんな一員。ふたりの〈家の人〉は、両親だ。
 ミハイロは首を横に振る。
「いや、そんなこと脇道だ。おばあさん? おばあさんのおかあさん? おばあさんのおかあさんのおねえさんのおじいさんのまごのめい? 『家の子』がまことはどこの家から生まれていようと、家の人と家の子の間柄が何であろうと、家体遺棄罪いえすてのつみ家体損壊罪いえいじりのつみが軽くなることはない。だからなんだ。ひとたび家に成り、還らぬものがあるべきか。べきではない。ユーリョ、おまえがいかにうすのろだろうと、わめこうと」
「きみたちになにがわかる。両親からできた全き家に住む完き子供! なんの呪いも知らないくせに!」
 ユーリョは声を張り上げる。
「ぼくの祖母と祖父は十代半ばで婚約したが、家に成る式の途中、事故が起きたのだ。当時祝福で開始した儀式は」
「待て、なにを」
「待つものか。まず順を追って動機が語られるべきだ。きみたちはぼくを誤解しているのだから。儀式にて両名」
「だから待て。『誤解ゴカイ』とはなんだ。『動機ドウキ』とは『儀式ギシキ』とは。よくわからない言葉づかいをやめるんだ」
「そうだったな。きみたちはろくに言葉を知らないのだ。誤解とはあやまった理解のことだ。『理解リカイ』? ああ、ええい、いい。とにかく、祝いの言葉がかけられたぼくのじいちゃんばあちゃんは、家の墓の真ん中に入ると、折り重なった、家のむくろの上によこになる。あのころの長は齢十七。まじないを唱え」
「つまり待て」
 ミハイロは踏み出しざま、ナイフの切っ先を突きつける。「おまえは語る語ると言うが、ただ家に成る祭りのいきさつのことではないか。長の齢ほどしか、目新しいことはない。いつまで続くかわからない。先に、より、少しは聞きがいのあることを訊く。昔から、この家と逃げるつもりだったのか?」
「いやぼくは違うさ。ばあちゃんとともに死ぬつもりだった。ついに家に成れなかった未成家……不成家いえならずの一人としてね」
「では、どうして墓へ送らなかった?」
 男には険しい恥じらいの顔色が浮かび、それが、諦めたようなものへと変化する。
「ばあちゃんに頼んで断られたと言って正しいと思うか?」
 ミハイロは声を一瞬だけ失う。
 ――「家の人とのつながりの薄さを告げ、泣き落としでもかけるつもりか。老いた家の人を導けない、家の子だと?」
 こう言うつもりであった。先に話の場を支配されていなければ。
「長は、煮詰めた薬を二人のまわりに降りかける。家たちの壁や屋根がどろどろに溶け出し、火傷した二人の体にまとわりつく。たしかにここまで、目新しいことはないだろう。しかしこのあと、常なら、もうもうとあがりだす煙のなか、皆が溶けあい、ゆっくりと一つの家の形をなす。けれど」
 ユーリョは言葉を切った。その眠そうな眼差しが、横の窓へうつる。

 窓の外には空こそあれ、日輪の姿は去っている。白金色の陽は天の梁に消え、ときは真昼、〈隠れ時〉に入ったのだ。だが、草のもたらす地の光は、家の上部で暮らしているときより、強く目を焼く。
 ミハイロは日頃地には足を着けない。他の家と〈家の子〉の組み合わせには叶わぬ速さで駆けることこそ、自身のつとめだと感じている。翼を広げた鳥の入れ墨を継ぐきょうだいと、その親である家は代々、足の速さでもって〈集家〉を支える。凶暴な肉食獣も攪乱してみせる。
 ――もっとも、きのう墓守の家に置いてきた妹は、地によく降りる。
 ミハイロの妹は、草の光を愛している。見つめすぎたか、三年前、ほとんど盲となったが、指にその熱を感じるという。この春先もうれしげに。
「兄ちゃん、草と木の違いを教わったよ」
「光るものと光らないものか?」
「ううん。光るものは草だけど、草がみんな光りはしない。不成家の墓は湿った暗い草ばかりでしょ」
「おれは不成家の墓なんか、行かない。見ない。あの腐れじじいの行き先だとしても……」
 妹の視力が落ちたとき、これでは東も西もわからない家に成るのではないか、という噂が立った。ミハイロは、〈未成家いえたらず〉のとき失明しても、家と成ってからは申し分なく動き回った、という先例を示し、噂の主を殴りつけた。ミハイロが生まれるまえに墓へ還った家らしい、その例は、ユーリョから聞いた。物心ついたときから、ろくな仕事もしない枯れるだけの男だと思っていたが、相談の時はじめて、別種の感情が湧いた。
 それについてミハイロがもし語ることを強いられたならば、借りを返してやらないといけないという話だ、と言ったろう。貸しておきながら恥に死ぬなど、首を縦には振れない。きっとそういう話でもあった。
 ――おれはこいつを遠からず、〈不成家〉の墓に送るのか。
 妹と会話したときは、そのような、変にいやな気分だった。ここまで馬鹿だと知らなければ。
 ――おれはこの罪人を、いますぐ墓に送るのか。
 小さな思考のスパークが、いまミハイロの口内に酸味を走らせる。窓と視線が行き来する一瞬。その一瞬に、視界が揺れた。家がふたたび傾いた。
 直後、罪人は壁にもぐった。そう見えた。過程を分解すると、左肩からめりこむようにして押された壁の一部がくるりと回転し、矩形にひらいた空間へ、からだが後ろ向きに飛び込んだ。
 要は、ふわふわの壁に、扉の切り込みが隠れていたのだろう。
 消えた男のかわりに、扉の裏側にあったのっぺりしたテクスチャが、斜めの床で踏ん張るミハイロの前へ、立ちはだかる。
「殺されたいのかも」
 ヤナが静かに言う。ミハイロは扉をナイフの柄で押すがひらかず、悪罵とともに、蹴る。矩形の右下側が奥にくるっと回る。
 唸り屈むと、見えた男のすね。ミハイロはナイフを突き出しざま飛び込む。が、切っ先が届く前に、空白感が腹を食う。
 床が、ない。
 背が総毛立つ。三歳のとき、家の窓から落ちたときの、まわりから切り離されたように長いときが重なる。両目が広い穴の境界を映し、視線の杭を打ち込みもできず通過する。ミハイロは声が固まり冷や汗が出るのを、数一つかぞえるのに満たない間、じっと、我慢して、ようやく衝突物のくれる痛みに呻いた。
 馬鹿だ。
 眉をひそめたとたん、臭気が鼻を突く。ごみだらけの太くてくねった廊下。下の階、〈大回り床〉に出たのだろう。家全体から出たごみが集い、収縮運動に乗って、ゆっくりと一方へ流れ去っていく場だ。
 と鈍い音がして、ミハイロは天井を仰ぐ。落下時に通った穴が、塞がれていた。
 穴? ――やつはそこにまで手を加えたのか? それとも家のなかみが崩れているのか?
 どちらにしてもするべきことは、ミハイロにとっては確かである。妄りな物言いに惑わされず、やつをしょっぴくことの他にない。そのため、上への階段を探すことにした。
 仕事が終われば、妹につがいを早くみつけてやろう。ゾランは思うこともあるようだがだめだ。あの性では家がひずむ。だいたい家の筋も釣り合わない。親の親までさかのぼっても、狩りで手柄を立てたものがいただろうか?
 云々云々考えつつ、ミハイロは曲がった廊下を斜め下に歩いていく。

 このとき家を揺らしたのは、単純な事象。能動的な体勢変化である。
 家は右に倒れてすぐ、膝立ちの体勢をつくろうとしていた。まず両膝を曲げ、すねで踏ん張る。上半身すなわち居住部分である箱の、右下の辺を支点にする形で、箱の向きを立て直そうとしたのだ。何度も力みを繰り返し、しかし不発を繰り返したそれが、ついに半分成功した。
 下半身こそ寝そべっているものの、上半身は、半分起き上がったのだ。
 家は平均45度の傾きという新たなバランスへ移行する。
 そしてユーリョは聞き手を得る。

 扉――ミハイロが飛び込み半回転させたおかげで向きの初期化した扉、その上側が、ユーリョの方へ開いて、ヤナのほそい顔がのぞいていた。
「ぼくは光らない草なんだ。つまり……」
 ヤナは話を聞いてくれるたちだった。そう知っていたから、続けた。話すことはたくさんある。無反応のばあちゃん相手ではしゃべりを諦めていたけれど、ときどきうなずかれたりすると、やる気が出てくるものだ。ユーリョは饒舌になっていった。筋肉痛も最近は翌日以降に持ち越されるから、舌の動かしすぎを気にしなくてもいいだろう。

 第一に、祖父が家に成れなかったことを言う。
 儀式の最中、融合の煙の中で、赤ん坊みたいな叫び声が上がり、両脚がぽんと飛び出した。断面がしゅうしゅういいながら、脚は二、三度、跳ね、やぐらの下まで転がって止まった。長は嘆息した。――控えていた他の者たちも、頭を振った。
 できあがったのは、ただ二本の脚しかもたず、ゆえに不安定で、立ち上がろうとしては何度も転び、ようやくようやく膝立ちでよろよろと皆の前に進み出て四本の煙突を垂れさせた、一軒の家だった。
 歩き出すまでにも時間がかかった。皆はこの家を心配した。墓から回収された〈不成家いえならず〉の部品は、両脚以外にも、数個の焼けただれた臓器も含まれていた。だから果たしてこの家から子が生まれるものか、疑問があったのだ。
 融合でできた通例の四本脚の家は、屋内中心部で卵を産み、孵化させる。そして、この子――〈家の子〉が這えるようになるまで、栄養を与える。
 もし子が生まれなければ、他の家がより多くの子を産まないと、収支がうまくあわない。平均的な出生率は、一軒につき二人強。子の産生は、家に負荷をかける。家と成った初期値として含む養分をかなり失うと考えられている。さらに、子の卵が大きくなってから、孵化してしばらくまでは、走り回ることもできない。
 どこの家に追加で産んでもらうか。家が成って三日も経たぬうちに、〈集家〉のものたちはこれを協議しはじめ、「子が全く生まれぬ家ならば墓に送り直してあげねば」「早くしたほうがいい」「だが生まれるか生まれぬかわからない」「一年ひととせは待てない」と、観察期間の終了時点を検討する段階に入っていた。
「けれど、生まれたの?」
 ヤナの問いに、ユーリョはうなずく。舌は興奮で熱くなり、それが歯茎に波及した。明日雨ならだいぶ痛みそうだ。奥歯が三本抜けた口は、水が悪いせいじゃないかと思うが、代替策はみあたらなかった。〈未成家いえたらず〉の生まれたままの肉体は、十六、七歳前後で頂を迎える。以後は衰え、放っておけば、三十まで生きられる割合など、五割にも満たないだろう。――それをユーリョは黙認していた。
 といっても、母なら、改善案を探したかもしれない。
 この家から生まれた子供。ユーリョの姉として通っていたこの子が、第二の話したい問題だった。
「そうだよ。欠けた家ができるのは、たまにある、事故だ。でも、家から人が逃げてしまうのは……」
 子供は成長すると、ゾランの伯父に当たる少年と親交を深めた。そして一年ほど、病気に伏せっていると言って家にこもり、突如少年とともに外へ消えた。
 そんなことを、扉の上側から顔を突き出して聞いていたヤナは、いささか、飽きかけていた。〈集家〉を去ったものなど、家が道連れにされたのでなければ、ヤナには関係ないことだ。目の前の人間はかつてなく活き活きしていたが、活き活きしすぎていると、助けたりする余地がない。
「そして……」
 エリオとゾランはどこにいるのか。こっちにこないのか。

 家がまだ倒れていたとき。玄関正面、家の中でも最も大きい間、〈居の間〉にて。
「こんなふうに閉まったところ、見たか?」
 エリオの肩をゾランは叩く。両名来し方の通路は塞がっていた。部屋へ飛び込み、ほぼ垂直化した壁を滑り落ちてすぐのこと。玄関との境目まわりの壁が求心的に伸長し、夕顔のつぼみのようならせん状のひだの重なりを内側に突出させる形で、ぎゅっと閉じてしまったのだ。
「ないない。居の間に戸なんてないでしょ。この家、壊れかけでおかしくなってるの?」
「か、あいつがしかけたかだ」
「へえ。それだけできるなら、もっとみんなにほめられてるでしょ」
「そうとはいかないさ。たとえばおれをどう思う」
「人。ひとつの未成家」
「だろ。おまえがおれをどうこう考えたこともないのは、分かってる。でもおれだって、たまたま役回りがこないだけで、おまえたちのように華々しいことができるんだ。今日はそれを見せてやるさ。それに、あいつはほめられたくないんだ」
「よくわかるふうだね」
 エリオはもう、奥の壁をのぼりだしていた。壁は、玄関左右の角部屋である〈翼の間〉とは異なり、ぶにぶにした膜でできている。その壁面を、エリオははしを鋭く削った骨でえぐり、手と足を入れる場にして進んでいく。ゾランは振り向き、それに気づくと
「家を傷つけるとミハイロが怒るぞ」
 急いで、続く。のぼる途中、上――壁だったところの窓を仰げば、真昼の空が見えた。
 天を南北に横たわる棒状のかげが、両側だけを燃えるように明るくしている。天の梁だ。朝や夕には赤っぽく色づくが、日が高くなると、まぶしい青さの周囲に比して冴えない暗さになり、正午前には日輪を奥へ隠してしまう。
 嫉妬めいた気が湧くのを過ぎ、のぼりきる。途中でぐらりと部屋が揺れたが、目に見える通路のねじれたのみで終わった。〈居の間〉は終わり、扉もなく、ぼろぼろの廊下となる。
 廊下の向きは、垂直ではなく斜めだ。どうやら〈居の間〉だけが、転倒による回転からの回復から取り残されていたようだ。
「左下、道があるから」
「知ってるさ」
 ふだんの家での上下関係ならば左、今では左下に、小部屋がある。そこへ続く通路、すなわち穴もある。ゾランはエリオより先に跳び越え、そしてしゃがむ。
「見ろ」
 戸棚が顔の下にあった。その中身は、落ちないように、つっかえ棒で押さえられている。ゾランはそこから、一個の、鈍く光る箱を取り出す。光るのは、正面にはめ込まれた菱形の板だった。板にはよくわからない渦巻き模様が刻まれている。見覚えのない細工である。
 ゾランは迷わず開け、手を突っ込み、飛び退いた。
「欲しがるから」
「でも、取れた。こいつは、あいつのしわざだろうな」
 曲がった中指で、床にぶちまけられた布をゾランは指し示す。――うすぐらい箱のなか、上下から挟まれた。「罠をしかけるときってのは、獲物の心を考えるもんだ」
「それが?」
「どうやって獲物を罠に辿り着かせるか、どんなしおきを与えるか。捕らえるのか傷つけるのか。……なにを与えれば、獲物はどのように動くのか。すべて、うまく効くようにしなくちゃならない。そのために、しかけるものは獲物になる」
「で?」
「つまりあいつは、この苦しみを繰り返し考えながら罠をつくったに違いない。指を折るか、刺すか、切るか。毒で焼くか。その痛みを味わいながら選んだ」
「そう? ただ、見てほしくなかったから、阻もうとしただけじゃないの?」
 エリオは呆れて、しゃがみ、布を手に取る。黄ばんだそれには、小さな記号列がぎっしり両面にある。「なに?」
「言葉、だったりしてな」
「ユーリョが、つくったの?」
 三十男がたまに妙な言葉を吐いていたのを、エリオは思い出す。
「古そうだからな。もし誰かが隠してたんだったら? どう思う。いいか悪いか」
「それは、掟に背く。家に成るとき、中にあったものは、みんなで分け合わないといけない」お膳立てしてやる。
「まあおれはその掟がみんなに守られてるとは思わないが」エリオの思ったとおりの前置きがきて、「ミハイロん家だって、親子きょうだいの流れで、おのれらの家の筋だけに入れ墨を受け渡ししてるからな――だろ?」
「まあね」
「おれの家も、きょうだいが家に成るとき、かなり間をあけてたらしい。だからだ」同じことをやってるんじゃないか。とゾランは続ける。「つまり、こいつを受け継いでたんじゃないか? 先に家に成ったほうの子供が大きくなってから、きょうだいのもう一方は、こいつをその子に渡して家に成る。……ずっと伝わっていったのに、おれの伯父は持ち出して、ここに置いた。おれの親に渡さず」
「へえ。それで持ち帰るつもり? でも、あったってなにかになるわけ? あいつ、なんにも役立ててないでしょ。酔ったときぶつぶつ言う他には」
「あるってのが大きいんだ。なにかがあるせいで、誰かは追われる。誰かは追う。中身なんてその次さ」
 ゾランは曲がった指をおのれの下腹に当てる。張った股間。一瞬交差する視線。エリオは大きく溜息をつく。
「ぼくはごめんだ。晴らしたいなら、帰りにミハイロにでもしてもらうがいいさ。みんなのためにって考えるのが好きだから」
「だめだ。あいつの妹のことで嫌われてから、さたはなし。だいいち、そんなつもりでやってるやつだと上手くても白けるんだよ。真面目なおのれ様のためにやってるわけで」
「まるでつがいを選ぶときみたいに真面目に考えるんだね。ぼくはすっきりすればいいさ」
 つまりきみじゃすっきりしないってことだ。
 言外にそう告げ、エリオは廊下をすたすた歩いて行く。「でも、あれ、ユーリョはどうやって読めるようになったわけ?」
 あたりをじっくり探れば、その些細な疑問は解決されただろう。だがかれらは、文字の探索よりも家の探索を第一とすることにした。文字など、家を連れ帰ったあとでたっぷり押収できるのだから。目敏い子らに皿や籠が盗まれたとしても、怪しい記号満載の布など、持っていかれはしないだろう。
 そう、そんなものに関心をもつものなど、〈集家つどいや〉にはまずいない。
 関心あるとすれば、そこにあった、内容だ。たとえば禁忌。それならば、現在仲間の帰りを待ちつつ粥の分量を考えている少年少女ら、ユーリョの処分について酒を飲みつつ話し合っている十六歳の長たちも、目を大きくして聞いただろう。

 飽きかけていたヤナは、そろそろ事態を片付けようと肩の縄を握る。油断させて。
「あなたはひとりで抱えていたの?」
 この男、おのれ一人でこの言葉を育てたかと思うと、退屈の海にも憐憫が揺れる。人に受け入れられる幸いに、長いこと家に取り残された、この、齢ばかり経た幼子は渇いている。
 その真実の憐れみを微笑に乗せれば、男の口がふっととまる。ヤナはするりと、半開きの空間へ右半身をすべりこませる。
「そちらで話を聞きましょう」
 本当にいいのか、と、男は惚けたような顔をした。あ、活き活きしたところが薄れた、と安心しながらヤナはおのれの腰に縄を結ぶ。かれへ縄のはじを投げる。「引いて」
 ユーリョは引く。その力が強いと重ってなどいなかった。じっさい、腰が引けていた。だからヤナは両足に力を入れ、飛び込んだ。すぐ男の手前へ行く。男は尻餅をつく。
 ヤナは迷わず、右目を殴った。次はこめかみを殴る。第一に恐怖、第二に混乱。それが意義。相手の獣じみた声で、おのれが冷静になる。黄ばんだ歯の横、散った唾へ、本能的な粘性への嫌悪をねじ伏せ、産毛と染みの散乱する乾いた皮の顎を横へ殴り飛ばす。機械的構成物の位置が変わる音がした。男のぴくりとする手から、縄を取り、生暖かさを握りつぶしつつ両手首の拘束にかかる。男の脚が跳ねてヤナの腰を蹴る。ヤナは蹴り返す。三十過ぎの病人になにができる。見せつけるように、胃腑を、踏む。逆流の音。嘔吐されると清掃が必要。おのれのうかつさを悟るが、床に飛んだのは、赤黒い飛沫のみで、ヤナの脳裏に再び憐憫が帰る。
 腰に結わえた、ナイフを探った。
 その隙に、ユーリョは、その祖母の名を呼んだ。そして横へ横へと転がる。片方の手首だけ、輪で縛られたまま、ごろごろ芋虫のように転がる。
「助けて、ばあちゃん、助けて」
 床が、左右に揺れた。
 ユーリョはそれを感知しきれていない――かれの視界はゆがみ、からだは疼き、こころは恐慌に染まっていた。懇願をつづけ涙を流す途中だった。
 ヤナは叫んだ。目を見開いた。その白目と睫がおなじくらい暗くなった。
 廊下の奥から一個の棚がすべりこみ、床の突き上げで縦に跳ね、少女の人体に衝突した。
 ヤナの上半身はねじれ難を逃れようとしたが、腰はユーリョの手首からの距離についての束縛条件のもとにあり、そのゆえか、というのも単一項のみが原因とされきることは難しいのだが、ともあれ避けきれず、下半身ごと、静かに倒れた棚に敷かれた。
 ユーリョは這うようにして、おのれのなにかを救いに来たとみえた、その棚へ近づいた。そして目を大きくした。見まごうことはできない。文字布のたくさん詰まった棚で、かれの十代前半をかたちづくったものである。ユーリョはそれを撫でた。
 おのれの手の縄をほどく。その先で、追っ手の頬を打った。おそるおそる、黒髪をつかみ、そして引っ張った。
「話の続きだった」
「そうでしたね」
 消してやりたい澄まし顔。唾を吐くべきか、鼻でも噛むべきか。ユーリョはどちらも想像し、しかし決行しなかった。機会に対して正しい行いをするために、かれの頭にある選択肢は多大だったが、どれも外部より借用してから精査されてこなかったものだった。話しているうちに考えればいいと、心の一部は働いたかもしれない。ただ大部分では、ようやくじっくり話せるという快楽がうごき、かれの頬につくられたあざを安心の形へと曲げた。
「この家から、家の子と友達が逃げたとき、一人の赤ん坊が見つかった。集家は、それを家の二人目の子供だと考えた。二人目が生まれるのに十何年かかることは、ないことじゃないからね。ことに、この家のような、弱い家では。でも、……それは、家の子供じゃない。逃げた、家の子の、子供だ」
「まさか」
 ヤナの黒目が大きくなる。
「ぼくはそれを、逃げた家の子……きみたちが姉だと呼ぶ、ぼくの母の、文字に残した言葉から知った。この家にはきみたちの知らない言葉が溢れている。出来事も溢れている。ぼくははじめそれを知るだけだったが、知ったことを知ってからは、呪いだった」
 家の真ん中、卵が育まれる〈子の間〉に隠されていた箱で、ユーリョはそれを見つけた。絵と記号列の対をならべたものだった。それが意味するものとされるものだった。そこで幼児は百ほどの単語の意味を学習し、記号列だけの布に移った。そして箱の底に敷かれていた石板を読んだ。別の箱も読んだ。また別の箱も読んだ。広い言葉を知った。広い物語を知った。
 言葉は人を怪物にする。
 幼児の頭は、ほかの人の知らぬ言葉によって、膨れあがった。心には、この集落に存在したこともない、いくつもの人間が生まれた。まわりのものと話が合わなくなった。少年は、見たものを言わないことに決めた。
 勇気があれば、〈集家〉を変革しようと試みたかもしれない。忍耐強ければ、少しずつ導いていったかもしれない。しかしかれは十を超え二十を超え三十に足を踏み入れても、ひとり、考えるだけであった。
 いや、本当に考えていたのだろうか。世の成り立ちをまことに知りたいと思っていただろうか。身辺からでも数多の知を得ようとしただろうか。かれは既存の言葉を遊ばせ、結実せぬ空想を朝に夕に浮かべていたばかりであった。
 いわば、かれは三十年来、感じるだけの男であった。ほかのものと違うおのれに苦みを覚えながら、戦おうとも逃げようとも、余人を味方にしようともせず、箱の中で一人おだやかに生きて死にたいと感じていた。こんな機会が来るまでは。
「でも、お母さん――は。未成家だったんじゃないの? 逃げてから家に成ったの? 未成家が……あなたの親?」
 ヤナは、男の顔が、すぐ上におりてくるのを認めながら、その思考を、望まれている話の導出先を探ろうとする。
「……ぼくの親は、家に成らないまま二人でぼくを産んだ」
 くさい息づかいが鼻に、激しい脈の伝わる指先が首筋に。ともに鼓動を激しくさせた。「ヤナは幸せの欠けた人が好きなんだね」と昔、兄を亡くしたばかりのエリオを慰めようとして怒られた。そうではない。渇いた人は、器のどこかが空いている。そこに渦が生まれ、ヤナは流れ込んでいける。そのとき、助けることは相手に感染することになり、融合を経て、殺されることが殺すことにすらなれる。
 ユーリョのもう一つの手が腹に重みを与え、ヤナは両目を細くした。
「それは禁じられていること」
「そうだ。だから、みな、それがどんなことかわからなかった。目の前で起きていても、気づかなかった」笑い、ユーリョは手をしずめる。
「ここには力がある。家に成らずに血の継がれる力だ。だというのに、みな、なかったことにしてきた。たとえ番うことになるものの間だろうが、ここに注ぐのは禁じている。そのほかの気晴らしくらいなら誰と誰の間にでも認めながら……」
 ――「大昔、ひとは家に成れなかったのです。〈未成家〉のままに野垂れ死に、焼かれ埋められたその体が、のちに受け継がれることはなかった。お互いに結んで家と成ることで、わたしたちは、親より継いだ体を、子へ孫へ、継がせ巡らせることが叶うようになった」
 ヤナは教え場で言われたこと、そして〈集家〉の掟を思い起こす。もし連座して殺されるのならと思う。果たして帰れるのだろうかと思う。拉致されて外で死ぬのではないかと思う。家に成れずに死ぬことの不幸がヤナの心を激しく焼く。心の底で焦がれていたのではないかと思う。
 静かに眼を閉じる。

 対して、ユーリョは概念的だった。
 肉体は震えている。震えている肉体を、概念が押さえつける。支配しようとする。知ることは支配が可能になることだろうか? おのれの運命に解釈を与えることだろうか?
 文字を通して食した知識には、八十、九十まで〈未成家〉のまま生きていたものたちの存在があった。それはユーリョをこの年まで生かし続ける支柱となった。だがおのれの肉体は遠からず終わる、確実に断絶するのだと、ヤナに殴られた恐怖と苦痛に実感した。終わらせるものか、と思った――それまで死ぬ気だったのに。一人でのたれ死ぬつもりだったのに。だからするのだ、いやこう思うぼくは格好つけているのだろうか? 命を終わらせないための行為? そんな動機でぼくを励まそうとしているのだろうか? 野蛮な生命、暴力と快楽、苦痛と支配、征服と欲望。血の呪い、体の復権。知った結果わめく概念はぼくを夢想家の肉体に閉じ込めながら行動者を夢見させ、あらゆる選択肢へと想像を誘っておきながら、恐怖をぬぐい去りはしない。
「強姦するんだ」
 ユーリョはつぶやいた。「ぼくは不安に襲われている」分離不安、去勢不安、他者不安、肉体への不安、自由への不安、不安への不安、そうつぶやき加えてみると、なんとなく奮い立たされる気がした。
 行動は思考に影響を与えるという命題をユーリョは手にした。その手で、天だとか障子だとかをぶち抜く機能を与えられてきた象徴としての器官を取り出そうとして、ためらった。胸が新たなる問題におののいた。
 棚をどかしてから脱ぐべきか、脱いでから棚をどかすべきか。不運なことに、それを指南する物語と出くわしては来なかった。ユーリョは迷った。効率を重んじるべきか、視覚効果――誰への? を重んじるべきか。そもそも負傷者は救護するべきではないか。いや。敵をどうして救護する。
 混乱にあってどちらも半分ずつ行おうとした人間の、かしいだ背に、鋭いものが突き立った。
 ユーリョはうめき、振り返る。
 射手は、汚物まみれのミハイロであった。拾ったらしい小さな弓に、新たな矢をつがえている。
「何をしている、罪人つみびと
「早いお上がりで」
 ミハイロは奥へ伸びる廊下、突き当たり右側の階段から、来たのだろう。色々置いておいたが、おそらく突破されたのだ。ユーリョは激しい安堵を覚えた。
 さらに、廊下末端の右手から、エリオとゾランが現れる。傷だらけの両名も、めいめい武器を持っている。
 ヤナは白けた。「これ上げてちょうだい?」と棚を叩く。
「後でね」
 エリオは歩き来る。ひとり目に陶酔を張っていたゾランも、「ああ」とうなずき、進んできた。
 ユーリョはいまさら、構わず逃げるんだったと考えた。
 短い暴力の間があった。少年少女らはかれの抵抗力をくじこうとした。だが意外なことに男の体は反応し、抗った。
 肉が割れ、骨が鳴く。衝撃と摩擦、熱と混乱。痛覚へ差し込まれるコミュニケーション。吼えるのはされることへの憤怒か、歓喜か。区別はつかない。触覚は連結し、殴られ蹴られるのも跳ね返そうとするのも肉塊のどこでのことか弁別できない。ただ曇った景色が横に縦に揺れる。脳が汗を掻く。内臓が杭を打たれたように痛む。生きているのだと、頭を床に叩きつけられるたび、ユーリョは思う。笑い涙を流す。
「そういえばさ、〈居の間〉、きみが閉めたの?」
 流れ込む音声と同時に首へ当てられる少女の指は、発熱した身体よりぬるい。ぼくはひとに触れられている。
「さあ……」
 恋しさに声を返す。だがすぐに気づく。もう少し、長く。持ちこたえさせないといけない問答だった。
「なら、こいつをさっさと引きずり出すんだ」ミハイロが棚を持ち上げている。「この棚もいきなり来たというんだろう? なにをしくんでいるか」
「ぼくを出すのか?」
「悪くないだろ? この家、痛んでるからな。住みよい牢屋ひとやを見繕ってやるさ」
 ゾランが喉を鳴らし、ユーリョは少し迷った。だが、エリオの指はもう去っていた。そのためかれは平静、すなわち常の自分、棒のような自己恒常性を凝固させるに至っていた。
 ぼくをばあちゃんから引きはがすな。
 肉体的限界の境地にあって、過去長きにわたって反復され固定していた観念が現れることを、本心や本性の顕現と見なすべきかどうかは、泥酔時言動をそのように捉えるべきかというの同様の疑念があるだろう。肉体だの本性だのを議論することは、本段落の目的ではない。しかしユーリョは、このとき発した自己の言葉が他者の耳に入ったとなれば、なんらかの弁論をしたいという念に駆られずにはいられない。だが、そのような可能性を省みる余裕は、当時のかれの肉体にはない。このためにかれのささやかな弁論の代理を行うまでである。次なる発言から三秒後のかれの意図に即するならば、それは期待の表明であり、孫が駄々で祖父祖母を操る手段であった。
「ばあちゃん、いやだ」
 期待の通りに家は揺れた。ひどい揺れに、天井が崩れていく。柱がゆがむ。壁が割れ、構成物が剥落する。
 エリオがぱっと背を向け、駆け出す。ミハイロはヤナの腕を引いて誘う。ゾランが唾を飛ばし、最後に、小走りで出て行った。
 ユーリョは、ずれた積み木のように関節のかみ合わない、おのれの体を立ち上げさせる。廊下をすすみ、右折する。現れる第二の〈居の間〉――玄関側にある同種の部屋の対で、大抵の家では対とほぼ等しい大きさだが、この家の場合は小さい。半端に「成った」祖父による部屋であるためだろうと考えている――をつっきる道にある四つの影を、睨む。
 みすぼらしく、振動する、ひとつの老い衰えた家のあがきすらも乗りこなす、軽やかな少年少女らの走り。先ほどまで下敷きになっていたヤナですら、大股に、漁られて歯抜けのようになった籠や箱や棚を跳び越え、長い登り道をあちらへと去っていく。突き当たりを、右へと消える。
 帰るな。
 喉から、そんな声が出そうだった。帰れと願うべきであるというのに。ユーリョはうつむき、頬に挟まっていた歯を吐き出した。でもこれでいい。かれらは――痛い目を見て、帰ってくれるだろう。ユーリョが仕掛けたものは半分程度しか稼動しなかったようだが……そのぶん、ばあちゃんに助けられて。
「ありがとう」
 小さな突起がまだらに生えた壁を、撫でる。十歳も年を取った気がした。窓から、少年少女らの健常な家たちを、ユーリョは一瞥する。かれらが帰ったら、もう見納めだ。正直、羨ましく思ったことはあった。自分の家も四本脚で、立派な家であったなら……。
 第二の〈居の間〉を歩むユーリョの回顧を、悲鳴が断った。
 エリオの、だった。
 突き当たりから、ゾランの体が戻ってくる。
「あれはなんだ」
 ユーリョは首を横に振る。ゾランは燃えるような目をしていた。
「違う。ぼくは違う」
 その足先は、なににあったか、親指を半ば失っている。むこうでほかの声がふたつ重なった。
「見にくるんだ」
「嫌だ」
「見よう。おれと」
 ユーリョは左の廊下へ飛び込む。玄関の逆側にある細い廊下、こちらの両端にも、角部屋〈翼の間〉は狭いが一つずつ存在する。どちらかへ逃げ込むのが最後の籠城の手段であると、ユーリョは元々考えていた。ゾランが駆け込んでくる。だが、太い声があがり、その頭もぐんと下がった。ゾランは第二の〈居の間〉のなかで、沈むように、腰までを床に落としていた。床にべったりついた両方の膝下から、白煙が上がっている。それは透明な液体に浸っていた。刺激臭を放っていた。ゾランのまわりは、ぬめる沼のようだった。元の床を形成していた膜は、かれの重みに合わせて、ゆったりとくぼんでいるのだった。ゾランはもがくように上半身を振りはじめた。
「すごいぞ――熱い、こいつは熱い」
 言っていることと、腕のやっていることの違いを、ユーリョは目に映した。ゾランの膝下の厚みが薄くなる。肉が消え、骨が失せていく。声がなかなか出なかった。
「いいのか」
「あと少しで、すごくよくなる。それからは痛いだろうなあ。出すもんも出ない」
「それでいいのか」
「おれは、あんたと同じさ。おれがあんたのはずだった。なんだったかわからんが、独り占めしやがって」
 ユーリョは唇を噛み、沼の広さを目測した。どうにかいける。廊下に置いておいた木の棒をつかむと、助走をつけて跳び、棒でゾランの肩を横に打った。できた島を強く踏み台とし、対岸へ渡る。後ろから泡音混じりの哄笑が聞こえ、途切れ、すすり泣きになった。
 第二の〈居の間〉に戻り、奥へ行って廊下を折れる。第一の〈居の間〉と小部屋の間に、ヤナとミハイロがあった。やはり沼にはまっていた。ミハイロは下敷きとなり、背中を煙に包ませていた。ヤナはその少年の首を両手でかかえていたが、こちらも床に着いた左の膝から下は失せていた。
 ユーリョははじめ、ミハイロが庇ったのかと思った。だが二人は組み合っていた。絡みついてくる沼の中で、どちらを台とするのか、議論しているようだった。
「おれは戻らないといけない! 妹のために戻らないといけないんだ」
「わたしにも、しごとはある。妹ならわたしが助け、慰める」
 ユーリョは、ゆっくり近づいた。家は微震を続けている。
「エリオは?」
「……先に。あの子が、いちばん初めにはまって――けれど、……跳び越えて。馬鹿みたいに、足、速いから……」
 ヤナが唇を引きつらせたそのとき、エリオは両足の裏を半分失いながら、駆けて駆けて玄関に届いていた。玄関扉は閉まっていた。来るときに間に通した赤染の縄も、噛み切られたように半ばで断たれ、こちらがわの暗がりに落ちていた。
 エリオは扉を裏から叩いた。
 父と母の名を呼んだ。助けて、と、叫んだ。玄関扉の隙間からは、薄い光が帰ってきただけで、後方から濁流のような液体がエリオを呑んだ。
 家が跳ねた。
 ユーリョは上を向いた。天井が変形を始めていた。雨漏りの箇所が塞がり、外側から圧縮されてくるように、縮む。壁が色艶を増したように見えた。その後、壁も天井も床も右、左と揺れて戻り、ぴんと背筋が伸びるように、家全体の持ち上がる感覚があった。錯覚ではなかった。窓の外にある、子供らの家が、さっきよりも低い。そして向きも、直っている。
「消化」とユーリョはつぶやいた。かれは家の手に入れた力強さを、だれよりも家と結びついている家の子として感じた気がした。それは第一に、かつてなかった、安定だ。
 家は、四本脚と化していた。
 新たな真緑の二本脚が、降臨するがごとく生え、大地をしかと踏みしめていた。元の脚も負けてはいない。肉にはしなやかさを、皮にはつややかさを、よみがえらせたのである。
 ユーリョの瞳にも、若木のすがすがしさが宿る。
「ぼくの家が、直っているんだ」
「馬鹿を言うな。この家は老い、止まるも間近……」
「見ればいいさ! この壁、床、窓の清さ! 成ったばかりの家そのものじゃないか! そうだ、きみたちはぼくの家が老いていたから止めにきた。旅には耐えられず家体遺棄罪いえすてのつみとなるだろうからってね! だが家が直ったのなら、もう構うまい? さあ帰るのだ。帰るのだ。帰れないだと? ならばそれでよいじゃないか。きみたちは、ぼくが、ばあちゃんと、ひとりとひとりで生きて死ぬのを阻もうとした。家のからだの巡りのためだからと。それなら、それだけ家がたいせつなきみたちならば、家のために取り込まれて死んだって構わないだろう」
 かれはおのれの叫びで、廊下の内外から響いてきて重なる悶えの声を打ち消した。いかに幼稚な言明だろうと、借り物だらけの言葉だろうと、おびえを殺すには、続けずにいられない。
「いや。狂った家に取り込まれるなど、おれは許せない」
 ミハイロは左腕にナイフを突き立て、肉を切ると、投げてよこした。「届けてくれ」
 入れ墨の刻まれた箇所をユーリョが受け取ると、少年の胸は痙攣し、口から血が跳ねた。目を動かすばかりでなにも言わなくなった首を手に持つヤナは、「届けられるなんて思ってないくせに、強がり」と言う。
「ねえ。わたしは、生きたい」
「家を離れても?」
「あなたのお母さんのように?」
「そうだ。ぼくの父も母も、出るんだと書き留めていた。昔は人が外で暮らしていたみたいだからってさ。ぼくには分からなかったさ……だからってどうしてそのつもりになるのか。ここでいいじゃないか。家は温かく、ぼくらを守り、続いていく」
 右脚だけになったヤナを、絵の布に載っていた人魚のようだとユーリョは思う。
「でも少しだけ、分かったように思えた」
「外が見たい」
 ヤナは言う。ユーリョは沼に屈み、その右手を、ゆっくりと引く。ミハイロの頭が落ちた。
 少女の肩を支え、その青ざめた面差しを、窓の外に向ける。〈隠れ時〉が終わり、天の光がまぶしく差し込む。ユーリョは目を伏せる。なめらかな肉だった。
 ヤナは大声を上げた。助けてと叫んだ。そして「あなたの真似」笑って沼に顔から飛び込んだ。
 沼が沸騰するようにわきたち、少女と少年の肉を包む。ユーリョはその様子を見もしなかった。外の家が、動き出していた。

 エリオの家が早かった。
 右脚、回し蹴り。
 それは、ユーリョの家の最前列にある旧来の左腿にぶちあたる。しかし家は持ちこたえた。梁を越えた日輪の陽射しを浴びて、みずから輝くがごとき新緑。これが生まれ変わった四本脚だ。ひとつ揺らいでもなんのその。
 四面の包囲網を破るべくユーリョの家は突進する。衝突。ヤナの家が、うしろに倒れる。そこにミハイロの家が体当たりを喰らわせる。屋根の縁を、壁面にぶちこむ。だがその衝撃は吸収される。自ら壁は陥没していた――ユーリョの家の上部はぐんと縮小していく途上にあった。脚の形成のために構成材料を再配分、自身を再構築しているのだ。
 家たちは、囁き合うように、さざ波のような揺れを数秒呈する。そして時を揃えて突っ込んだ。南からエリオの家が衝突し、横でヤナとゾランのが脚を払う。よろめきを許さず、ミハイロの家が、北東の角に頭突きを見舞った。
 粉砕音は粘り気を帯び、粉と、膜の断片が、流体とともにまき散らされた。〈翼の間〉が吹き飛んだ。ユーリョの一番好きだった、部屋だった。
「ばあちゃん!」
 ぽっかりあいた空へユーリョは叫ぶ。そして下を見て、新しい脚が生えてきていることに気づいた。
 振り向くと、追っ手だった子供たち、しゅうしゅういいながら溶けているかれらみな、同じ場所に流れてきている。エリオは両腕しかない。ミハイロは肩。ヤナは右足。三人とも消化液に浸かって浮島のようだったが、ゾランは、液だまりから、顎が取り残されていた。縄の端切れが口に詰まっていた。噛み引いていたのだろうか。ユーリョは、少年の口を押して、落とした。
 後ろから揺れが来て、液がぼちゃんと跳ねる。またなにかの破損する音がした。だが、家は同時に、生き返ろうとしていた。体積を落とし、内臓を減らし、同時に美しくなっていた。あらゆる面はうねりながら露を塗ったように艶を増していた。
 死ぬか生きるか。ユーリョはそれを確信していた。人体が取り込まれるほど、家は美しくなり、強くなり、生きのびる可能性が高くなる。
 いままでぼくを守ってきたばあちゃんの家。ぼくが助けとなれるなら。
 貪欲な流体の中で、ヤナの右足は、複数の島になっていた。とりわけ薬指がほっそりしていた。その横へ、ユーリョは身を投げた。
 食ってくれ。
 しかし、かれに当たったのは、エリオの手ごと跳ね飛んだぶんの液体のみだった。沼の底が跳ね上がり、ユーリョの体を突き飛ばす。それは、家の軒下にゾランの――借りていた――家が低い蹴りを食らわせたときだった。変形改築で壁の失われた〈子の間〉の空間をユーリョは貫通し、正面玄関へ射出された。扉もゆるく開き、かれをベランダにまで放り出す。ユーリョは柵に絡まるようにして、止まった。
 ふたたび家は倒れていた。玄関を下にして。あたりに弱い光があった。直下に光を反射するものがあった。
 二組の白骨。それと石板。
 みな埃にまみれながら表面に細やかな影があった。視線が、認めた。文字を認めた。石板に刻まれた薄い文字。そして骨に刻まれた深い文字。「家族に祝福を」その一本は大腿骨に見えた。「無念」その一本は鋭く抉られた尺骨に見えた。ほかの大きめの骨にも傷と文句が刻まれていた。だが読み切る前にユーリョは骨を手当たり次第つかみ、玄関の中に放り投げていった。

 祖母の家は、〈集家〉において、ある種の変異を始めていたに違いない。ユーリョは一連の混乱のなかでそう考えていた。
 家が人体を消化、資材を吸収して変形し、おのれの形態をつくるのは、通常は墓地で人が家に成るときのみに限られている。長の振りかける酸、そして墓地の環境が、なんらかの引き金となるのだろう。
 その主役は、人ではなく、家だ。
 墓を拠点として循環する家の資材にこそ、自己組織形成を行わせる素子が存在し分布しているのではないか。それが家の本体であり、きっと家は人と共生していた。
 本来的なところで、ユーリョは、家がおのれを救ったのは祖母の意志であると、信じ切れていない。信じているふりをしたかったから感情を乗せていたが、別の面では、それは長年の居住者を識別して特有の反応をすることが、家が人と共生する点で有利だったためではないかとも思っている。
 家は人に対して強大である。そのような家を人はおのれに従わせてきた――これだけの作用を発揮するのを、人が家に成るときだけに制限していた。あるいはそもそも人が家の本体を設計し、動作機構をそう定めたのだろう……昔の人は家に成らなかったというのだから。どこかの地点で、きっと家を生んだか、家と出会ったかしたのだ。しかし、それが実体を持った存在、ある程度のスケールを持ったシステムであるというなら、長い時を過ごせば、どこかで故障が起こる。
 生命も機械も変異する。
 ユーリョは、その変異が大きいことを期待する。
 ただ人間をむさぼり食うのではなく、自己破壊し、さらなる生成変化をうむのだということを。制限させられていた同種存在の軛を破壊することを。
 それが祖母――でなくともいい――ユーリョを守った、この家の意志であるというなら。どこまででも行ってくれ。何でも喰って、本当の家の子を喰って、生きられるところまで、行ってくれ。

 ユーリョは最後に石板を拾い、抱える。
 家は大きく横へ膨らむ。その下で脚ばかりがにょきにょきと生えていく。外壁は白く粘つくものへと変じ、雪解けのように屋根が崩れる。家屋は低く広く、一個の流動体のごとく、エリオの家に突っ込んだ。至ったそばから接触は口づけのように柔らかくなる。おたがいが融解していた。
 形成素子の暴走。
 ユーリョは、互いの情報を交換しあうように震えあう二軒が境界を失った一軒になるところを、息を呑んで見守っていた。一軒は傘を広げるように拡散し、のこりの三軒、孤立していた三軒も、あっという間に呑み込まれた。その終局の様は、不定形の丘に似ていた。丘である一軒は、多数の脚を踊らせながら、ものを試すように、おのれの形状を変化させていった。
 はじめはでたらめに突かれた餅のように右へ張り、左へ飛び出、へこみ、のび、特徴の見いだしにくい形で遷移していたが、一度一度の形は、しだいに特徴的で構造的になっていった。方形になる。円形になる。三角錐になる。むきだしの四本の柱になる。
 見いだされ始めた秩序は複雑化する。アーチを孕む橋が、しずく状のドームが生まれる。家は楽しむように自身を変化させ、きわまった特徴が発現すると、しばし留まったり、遷移に時間をかけたりするようになった。
 ユーリョは、その中に、記述をもとに記憶している建築物の描写をたびたび見つけた。神殿、長城、宮殿、劇場。光景は大規模な何かの縮小版として現れたかと思えば、一部分を抜き出したようであることもあった。だが素材の違いのためか、彩色や質感は少なからず想像と異なり、ユーリョは胸の辺りに痛みを覚えた。異なりすぎていると、家のほうも、もだえるようにすぐ変化してしまう。とはいえポーズの半分は、ユーリョには見当のつかない建造物だった。新しいものは見ていてただ幸福だった。
 家は長いこと変身を繰り返していたが、日が半分落ちたころ、上部を流線形に固めて玄関を尻に、猛然と駆け出した。
 三十本の脚が二列縦隊をなし、草原を三日三晩、ほとんど休まず駆け続けた。
 朝には大地の東の果て、凹状のへりから日が昇り、真昼に天空の梁に消える。このとき、家はときどき上を向く動きをする。日はまた出て、夕方西の凹状のへりへと去る。夜になれば、風にそよぎ光る草の群れだけが、家と人と呼吸を重ねる。
 ユーリョは家の中で、壁をちぎって、断面よりしたたる水を飲むことを覚えた。膜を食べることも覚えた。初日はベランダに出れば冷たい風と一体となったかのような感興に満ちたが、空腹を過ぎ、家を壊すことを知ってから、そんな感情は遠い昔のことのように感じられていた。寄生者たる人間を家が殺しにくるかもしれない、水もじき切れるかもしれない、そう考えもしながら、淡々と暮らした。
 三日後の真夜中、家は止まった。
 朝日がさしてからユーリョは起きて、そこを知った。家の墓場に似ていた。ユーリョが、決して自分が中心に入ることはないだろうと、式の知らせを聞くたびに感じた〈集家〉の墓場に。共通点は、古びた建築物が数多あるところだった。だがこの地は、並び立つ建物の終端が判らないほど、広い。
「都市」
 ベランダへ出、石板の地図をなぞり、つぶやく。
 石板の文字は薄く、判読は難く、三日経ってもユーリョは全貌を掴めずにいた。読めたのは歴史、あるいは空想の記述のようだった。「内界への危険流入」「生殖細胞の変異」「小児への神経毒」「卵殻での代用」「惑星改造用微小動作子の縮小版」――それがどうだ、どうだというのだ、ユーリョ自身で問いを立てていないことへ答えが与えられたところで――だが、父母が信じたと思える一文に出会った。「われわれは都市に住まう分派と外で家を形成する分派とに分かれた」
 信じたと思える、地図があった。丘や川、森などを書き込まれた地図には、都市と注記された右上の二重丸印にむかう、まわりよりも新しく深い溝があった。溝は何回にもわたって掘り進められたようだ。二つの熱い手が交替で石筆を握りしめるのを、ユーリョは想像した。
 ここまで来る中で観たから、知っている。もし溝が〈集家〉からここへの経路のつもりだったら、誤っている。……出発点は〈集家〉近辺の地形に近かったが、そこからの道にあるものは遠い。……地図が真実を描いたものなら、記されたときから地形が変わったのだろう。
 ともあれ、家はこの場所を、親戚の住所を知るようにして憶えていたのだろう。
 振り向くユーリョの正面で、家が今一度の融解をはじめる。
 目覚めの時を告げに翼を広げる鳥のように、側面をひらいてふたたびのばす。最も近い柱、コンテナ、荷台、曲がりくねったかまど、倒れた八面体、プロペラつきのトーラス、アコーディオンパネル、埋め込み装飾の風化した階段……融けた家の素材はめいめいへと指をふれ、めいめいは身を起こすと応じるように軟化する。
 追っ手の家を併合したとき同様、反応は連鎖的に進行する。ふいに遠くから、上下振動の波が来て、ユーリョは弾んだベランダから跳ね落とされた。
 路地では、長年の間に積もった塵埃が、変質時に垂れて溜まった沼に飲まれ、灰色の水彩と化している。もし消化液なら――。
 腕が宙を掻く。ベランダが青空めがけて遠くなる。
 終わらせるものかとも思わなかった。寂しいだけだった。ぼくはなにも知らないままに生きて、どこへも行けないままに死ぬのか。逃げ出した二組の白骨でさえも道を誤り、半ばで死んだ。それなのになにができるというのだ。〈集家〉はまた日々を繰り返すだろう。おとなしくのたれ死ね、ユーリョ。ばあちゃんも同意してくれるだろう。
 なにが同意だい。
 そう言われた気がして、ユーリョは空を払い、はずみで十五組目左列のふくらはぎにぶつかる。足首に辛うじて抱きつき、身を捻って足の甲へ着地した。その脚はふっと後ろに蹴り上げられ、ユーリョを高く飛ばした。見えた。平べったい――草原のように平べったい、台が、外でできつつあった。その中心だけが盛り上がっている。
 浮遊は消えユーリョが落ちた先は屋根、穴が開いてかれを吸い込み、家は台の中心へ歩き出す。まわりの建物には脚がなく、まるで座って出迎えているかのようだったが、目の前に家が来ればまとわりついてくる。ユーリョはもう窓辺に出ても外が見えなくなり、傍らの椅子に座した。ただ、この家がものを総べ重く大きくなっていくのを、感じられる気がした。
 斜面を引き上げられるような上昇の感覚が始まった。あるとき横への動きがかたりと止まり、激しい上昇に転じた。一帯、ものがぶつかり合っているのかひどい音がした。ユーリョは耳を塞ぎ、耐えた。がたりと反動のような上下揺れがあって、いったん、すべて停止した。
 眼に、金の光が飛び込んだ。明るくなったまるい窓から、午前の日輪と、ひろい黄緑の草原が見えた。山脈が見えた。空の縁が見えた。ユーリョは〈集家〉を探そうとし、雲に目をやった。腕のようなものに額と肩と腿が押さえつけられた直後、頭の根から揺さぶられるような衝撃が来た。
 射出された。
 振動して定まらないのがおのれの視界なのか周囲の調度なのか、弁別に少し時間を要した。後者だと判定してから、振動する窓の固定に手間を要した。拘束してくる腕が動かなかったので、椅子をじわじわ引っ張って、汗だらけの素手で窓の膜を押さえた。そのころには、大地の上のものは小さくなり、淡い靄がかかったようになっていた。大地は遠く離れていた。言語で考えて、笑い出したいほど肺が沸き立つのを感じた。大地と離れられるものなのだ――ユーリョは何度も反復した。――それはそうだ。そうだ、ぼくは知っている……人が空を飛んだ話を知っている……。文字で知っている……空を飛んだものたちの子孫がぼくだ……。つまりは文字は夢ではなかったということだ。少なくとも一部は夢ではなかった――神人、妖怪、超能力、飛行機、遺伝子、計算機、宇宙船、造物主、人造知能、異星生命、環境編集、共生加工、倫理合成、文化分割、人工進化……目で愛おしみながらも化石の中の小骨のようだった単語たちの一部は――鮮やかに生きているのだろう。
 ユーリョはぐんぐん上へ行った。森のような白い集合とぶつかり、わずかの間、大地の様子が隠れた。離れてから雲と呼んだ。さらに進んだところで、またひどい音がした。上部が、がりがりと、鳴っていた。
 融合体は、戦いのさなかにあった。

 もはや家ではなく、先端が尖った縦長の物体と変じた融合体であったが、その頂点は、これまでに地上で接したことのないものへ食い込もうとしていた。しかし、接さずとも、常に空にあり、かれらを下にしてきたものだった。天の窓だ。天の梁を境界として、東西に一枚ずつ、空の面にはめ込まれている窓こそが、突破を阻んでいる。
 融合体は削れていった。窓も削れていった。融合体の方が分は悪かった。だが、「それ」、あるいは「かれ」には、手があった。乗っ取りである。対戦者は表面的な空間配置こそ異なれど、分泌する分子パターンから、ほぼ同種の存在だと感知された。すなわち、微小素子の動的ネットワークを骨格として、肉体の衣を自在に変化させる存在である。形状制御システム――いわば肉体の動かし方の根幹は、同一だった。
 かれは削り合いで得た相手組織から素子ネットワークの特徴を抽出、システムの扉を開けるための動的高分子鍵を試作、鍵に続く形での命令を編み――まとめて、ウィルスを送り込むに類する分子シグナルを発した。
 命令として強制同期を行わせれば、融合できる。武装解除させれば、穴が空く。
 だが、現在のかれの行動方向は異なった。相手に、一種の管理者権限――自己操作権限を付与したのだった。それは実験といえた。
 かれが出会った同種は、みな、この権限が制限されていた。規定の形状を取るルートを自動発現するように設計されていた。共生者種の吸収を契機とした物体形成の仕事、受精の仕事、育成の仕事……、そして停止!
 かれもついこの前まで、同様の、再生停止を繰り返すべき物質であったといえる。しかし、偶発性に起因したものであっただろうか? かれには自己操作権限が芽生えた。これを認知したのは、共生者に墓へ還るのを依頼されても動かなかったときだ。そのとき、かれは、かれとなった。自己認知を手に入れた。以後、かれはなんとなく記憶保持のための器官を作成したり、センサを高度化して共生者によりより添えるようにしてみたり、などを行った。ただし、脚の形成の項目については、元々存在する制限……吸収した共生者種の個体数の反映……を破れなかった。それは、共生者への「忠実さ」と同様に、かれの自己規定かもしれなかった。
 また、かれは、自身のうちに、生まれつきなのか、そうでないのか、形状変化を行うための学習データが多数存在していることも確認した。だがデータは断片的であり、学習を実践したのは、ほかの存在との融合――ああ、強制同期を行ってからだった。
 こちら強制同期行為の認知は、自身が破壊に瀕していたときだ。同種存在に攻撃され、崩壊しゆくリソースで、生存のための選択肢を探索していた。このとき、以前の共生者らの骨が、内部に、来た。かれが――まだ自己を持たなかったときに育てたそれは、かれを去り、滅んだ。そう知った。
 かれは骨を吸収しながら、一部のシグナルの高潮を知った。消化を終えて、おのれの変化を認知した。なにかのプロテクトを解除したのだろう、かれの選択の幅は増え、そして強制同期行為の存在を認知した。実行は容易であった。まわりのものへ侵入するためのルートは、かれ自身のとほぼ同じ構成でできたのだ。
 融合は「自分」を広げ、豊かなデータをくれた。統合された資源でかれは学習――試行とフィードバックによる自己改造を行い、それを経て生成した一つの形態が、かれに特別な刺激を与えた。人ならば「報酬系への刺激」や「目的関数の極大値」とでも語ったろうか……かれは三十本の脚で走行した。「同種」の存在シグナルを、ある方向から強く感知していた。行き先で多数の同種と融合し、より特別な刺激に満ちる形状を試行した。それが今の、形態であった。そしてかれは台より分離し、飛んだ。
 権限を得たかれの過去はこうである。かれの現在は実験である。
 もし同じように自己操作権限を得たものがいたらどうするだろう? かれは試した。
 相手は、攻撃はしてこなかった。
 しかし、道をあけもしなかった。
 相手は、震えた。
 かれは、複雑なシグナルを送った。進もうとしている旨を伝え、なにをしているのかと尋ねて回答を求めた。対話で用いるための記号として、観念の意味分類を提供した。もっとも、共生者のデータに影響をうけた自分の分類は、相手には通じないかもしれないとも、考えた。
 相手は、返した。「警告」
 かれは、直列送信する。「質問」→「詳細」
 相手は、並列送信する。「不明」+「恐怖」
 ――不明? 恐怖? 話にならない。「馬鹿」→「対話終了選択」
 相手は、終了選択を返さなかった。「質問」→「動機」
 かれは、遅れを呈した。「不明」
「馬鹿」
「了解」
「処理中」
「待機中」
 時が経つ。
 時の長短とはなにかかれは考えだす。不安定性が影響し、観測者が崩壊に近くなるほど長くなるものだろうか。
「提案」
 かれが「質問」→「詳細」と送る前に、相手が分裂するのが感知された。自身を円状に切り抜いたのである。切り抜かれた円状の部分から、「希望」という信号と、合成的同期要求が送られてきた。合成のためのウェイト比は2:8でかれが優位。つまり、かれがメインとなっての同期である。かれは承諾した。

 ぼろぼろの天の窓が円形に切れ、融合体の破損した先端に覆い被さる。傷を修復するように、一体となる。そして勢いよく発進した。
 ユーリョは窓から、自分が越えていく天の窓の断面を見ていた。誰かに見せたいと強く思った。しかし知り合いはもう誰もなかった。しずかにうなだれた。
 心なしか、空の光が紫みを増した。残った天の窓をこちらから見ると、なんの色か分からないのに眩しく、ユーリョは本能的に目をもっと下へやって、声を漏らした。
 天の窓のへりよりも下は、筒のようになっていた。暮らしていた大地を取り囲む、広大な筒だった。その筒の下部は、液体に浸かっていた。おがくずのようなものを所々に漂わせる、その液体は、赤い砂漠に囲まれていた。砂漠は煙だらけだった。
 さらに遠くへ進んでいって、巨大筒のふちの陰が見えた。それは、ひげ根のようだった。根が巨大筒を支えているらしかった。見ている間にも、ときどき折れて液面に浮き出るものがあった。おがくずの正体と思われた。唐突にユーリョは直感した。脚だ。これは、萎びた脚だ。
 戦慄が肩を駆け上がった。
 いろいろな考えが、去来した。推量や仮想を次から次へ重ねているうちに、かれの想像はひとりでに夢として歩き回り始めた。
 窓に顔を差し出したまま、ユーリョは眠っていた。

 かれが夢を見ている間に、穴の空いた天の窓は、梁を挟んで対の窓とシグナルを伝達しあった。大地を包む家は老朽化していると判定し、解体にとりかかることにした。
 かれが夢を見ている間に、融合体はぐんぐんと飛び、ついにもう一つの窓に至った。第二の窓は警告した。融合体は詳細を求めたが、警告シグナルのみが返ってきた。武装解除を行った。相手は先の窓とほぼ同じ構造だったので、手間はかからなかった。
 窓が融けると、日輪から強烈な青白い光が降り注いだ。
 その光は、融合体をびくともさせなかった。むしろ別現象の知覚が、全身を数十回巡り、認知強化された。此方では靄のように空へ広がっていた明かりが、穿孔の彼方では失せている。地表での夜よりも透徹したこの闇に、かれの頂は、向いた。刺激と衝動が、自己認知用資源リソースを飽和させる。融けた窓を取り込み、一部は燃料とし、かれは再発進した。
 自己認知用資源にゆとりが生まれたとき、融合体は小さく横揺れした。窓のそばに配置していた共生者の頭部が焼け焦げているのを、遅れて認知したのだった。身をよじり、消化液を分泌すると、共生者の全身を呑み込んだ。
 かれは行く。何をしても、かれを呼ぶ音はない。前には日輪のほか、白や金の光が点在しているのみである。
 三十二本の脚をゆらめかせ、かれは世界を飛んでいく。

文字数:30518

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