女王ニケ

梗 概

女王ニケ

 直径約一キロメートルの小惑星が地球に衝突した。海底に巨大クレーターができ、各地に津波が発生、都市機能が壊滅し、人類の半数が死亡した。続いて落下してきた二個目の小惑星が決定打となり、人類はほぼ絶滅した。灰が地球を覆い、世界は暗闇に包まれた。

 セキュリティシステムの停止した研究施設から、一人の女の子が脱走した。製薬会社が所有していたその施設では、害虫駆除のための薬品を開発していたが、多様な環境で生存できる昆虫の特性を人間にも活かそうと、秘密裏に孤児を使って異種交配を行なっていたのだった。

 女の子につけられた名前は「CjapCSP60」、通称「クイーン・ニケ」だった。蟻の個体間コミュニケーションにおいて重要な役割を果たす、化学感覚タンパク質CPSがあり、六十番目に発見された「CjapCSP60」にちなんで付けられた名前だった。蟻は互いの触覚を直に接触させることで個体情報を認識するとされていたが、女王蟻が羽を振るわせて発生させた僅かな振動が、感覚神経細胞の受容体まで運搬する働きをもつ化学感覚タンパク質CPS60によって伝達され、蟻と女王蟻が離れた場所からコミュニケーションを取れることが判明したのである。

 二つ目の小惑星が衝突してから七日目。灰で厚く覆われた雲間から一筋の光が差し込み、宇宙から巨大な船が現れた。岸から一キロほど離れた海上へ、音もなく滑るように着水した。

 生き延びた人々はその巨大な船を見て、政府が用意した救助船だと考え、海岸へ押し寄せた。泳ぎに自信のある者たちは海へ飛び込んだが、強い海流に飲まれ見えなくなった。小舟を出すも強い海流に逆らえず、巨大な船までたどり着くことはできなかった。

 ニケは小高い岩場に腰かけて、初めて見る研究所の外の景色を、沢山の人間たちを、飽きることなく眺めていた。しばらくするとニケは海の変化に気づき、声をあげた。「船への道だ!」

 今日は満月の日、大潮だった。満潮と干潮の潮位差が最も大きくなる日であり、潮が引き、干上がった海底である砂の道が現れたのだった。

 光の届かない陸地は凍えるような寒さだった。人々は白い息を吐きながら、突如現れた砂の道を進んでいった。幼子の手を引く家族連れ、老人を背負う者、荒んだ表情の男達などが、希望の船に向かって一歩一歩進んでいった。

 しかし船から現れたのは政府の人間ではなく、未知なる生命体だった。臓器の透ける頭部には眼球らしきものが五つ埋めこまれており、身体はぶよぶよしたゴムのような皮で覆われていて、四対八脚でのろのろと地を這った。人々は悲鳴を上げた。拳銃を持った男達が、未知なる生命体に向かって発砲した。銃声を聞きつけた生命体の仲間達が現れ、手当たり次第に人間を噛み砕き、頭部から人の身体の一部が透けて見えては消えた。未知なる生命体はやがて脱皮を始め、抜け殻の中から新たな生命体が生まれ、あっという間に八脚の生き物で船の周りが埋め尽くされた。

 ニケはひときわ身体の大きい未知なる生命体に近づいた。ニケは羽を広げ振動を送った。そのリズムはポロネーズのようだった。未知なる生命体は動きを止め、金属が擦れるような音を出した。ニケはまた返した。何度かやり取りが続いたのち、ニケは人々に伝えた。彼らは六十光年離れた惑星から来た生命体で、調査と称して地球に立ち寄った。すでに植物や動物のつがいなどを採取したが、あとは人間のつがいが一組欲しいと。

 その場にいた者たちは口をつぐんだ。若い夫婦が、幼い双子を頭上高く掲げた。皆は頷いた。この子達に未来を託そうと。

 その時、一人の男が双子を奪って、ナイフを突きつけた。「俺を船に乗せろ。さもないとこいつらを殺す」

 ニケは羽を震わせ、仲間を呼んだ。無数の蟻が男に張り付き、体内に侵入して臓器を食い尽くした。男は輪郭を失った。ニケは双子を受け止めた。

 「ママあ、雪だよ」双子が暗い空を指して言った。人々の頭上に、未知なる生命体の上に、音もなく銀色の粉が舞った。

 雪に触れようとする小さな指の先に、黒い山が迫るのが見えた。時間差で津波の余波が襲ってきたのだった。

 とっさにニケは双子を抱きかかえたまま、空高く舞い上がった。一瞬、双子の母親と目があった。ニケの脳内に母親の意識がどっと流れこんできた。双子を身ごもった時のこと、慈しんでお腹を撫でていたこと、難産だったこと、眠る双子の顔を飽きるまで見守っていたこと。ニケは頷いた。母は安堵の表情を浮かべ、海の壁に押し流されていった。地球外生命体も、人々も、希望の船も、黒い海に飲み込まれていった。

 吹き荒れる風に流された雲の隙間から、満月の光が差し込んだ。街や森を飲み込む黒い海を、無慈悲に明るく照らしていた。

 ニケは双子を暖かな巣へ運んだ。地球の地下に蔓延る、ニケが支配する巨大なコロニーへ。

文字数:1977

内容に関するアピール

 この作品の舞台装置は、陸地と、海上に浮かぶ船、間に流れる荒れた海です。滅びつつある地球に絶望する人々が、希望の船を見つけますが、荒れた海が近づくのを阻みます。しかし、満月の夜、潮が引いて現れた砂の道(トンボロ現象)が、陸地と船を結び、希望の道となって人々の前に登場します。

 主人公のニケは異なる種の意思をつなぐ役割を担います。羽は自由と勝利、統治の象徴です。人間に囚われていたニケは、人類の滅亡とともに自由を取り戻します。

 迫り来る津波や月光、地球外生命体との交信で奏でるリズム、争う人々の頭上へ静かに降り積もる雪などで、舞台を盛り上げていきたいと思います。

文字数:280

課題提出者一覧