エレウォン宙警捜査零課

選評

  1. 【山田:5点】
    すでにプロ級。アクションシーンが本当に素晴らしい。アメリカのSFアクションドラマのパイロットのよう。裏返せば、既視感があるからこそ面白いということ。このような「いつか読んだ面白い話」に独自性を出すためには、全体を通した大きなテーマをぶっ飛んだものにすることが必要だと思う。ただしそれを断片的に見せていくこと。このあたりのさじ加減は難しいところなので、冲方丁氏の作品などを参考に、レベルアップを図ってほしい。

    【井手:3点】
    SFとしては飛びぬけたアイデアがないので、冒険サスペンス小説として読んだ。そのうえで言うと、エンタメ小説には話の前と後で主人公の変化が必要。そのためには前提としてテーマづけがあったほうがいいし、人間(主人公)を書く筆力が求められるが、全体を通して主人公の心情が見えてこなかった。彼が事件に巻き込まれる前はどんな状況・心境だったのか、またこの物語の事件を通してどのような価値観を持つに至ったのか、という主人公の心情・状況の変化がテーマと絡めて示されるべき。料理方はいくらでもあるので、その都度別の切り口で書いていけば、面白い連作ができるかもしれない。

    【大森:4点】
    水準の高いアクションものだが、はっとさせる驚きがない。ギブスンの文体を下敷きにしてルビを多用しているが、これも「すごい!」と思わせるところが足りない。体言止めを使ったアクションシーンも、そつなく書けてはいるものの、独自性が弱い。語り口に余裕がないため、ギャグが浮いている印象を与えるのもマイナス点。よくある設定だからこそ、細かい言葉使いや造語、ネーミングに凝ることで読者の興味をつなぎとめる必要がある。リーダブルだし、話もよくできているが、個性をアピールするには、もうひと工夫、ふた工夫必要。

    ※点数は講師ひとりあたり8点ないし9点(計28点)を、2つの作品に割り振りました。

梗 概

エレウォン宙警捜査零課

人類が環月コロニー〝エレウォン〟への移住を果たしてから約一世紀。充分に都市化したコロニーには強盗や殺人、強姦、麻薬売買などの都市犯罪が横行、エレウォン宙錨警察当局は取締に追われていた。

刑事部捜査一課のカスケード刑事は誘拐事件を捜査していた。誘拐とはいえ被害者に身寄りもなく、荒らされた室内の状況証拠ばかり。大家が発見し通報の発端となったメッセージには、指定の日時に指定のバーで義手の男と会えとあった。張り込んでいると符丁通りの男が現われ、機を窺っていた刑事はしかし、〝同業者〟の存在に気がつく。カウンターで優雅にマルガリータを嗜んでいる女はおそらく刑事だ、とカスケードは判じた。女は突然バーテンに三八口径を突き付け、名乗ってもいないのに声を掛けてきた。
「ディテクティブ・カスケード、彼を捕まえて」
「罪状は」
「〝視差現実〟中の麻薬売買に係る〝現構犯〟よ」
状況が呑み込めないまま、抵抗し銃撃してきたバーテンをひとまず組み伏せる。手錠を取り出しながら、女に説明を要求した。「そんな罪状は存在しない。バーテンが正当防衛を主張したら、むしろお宅がお縄だ」騒動の最中に義手の男がとうに逃げ去っていたことにも憤っていた。
「彼は違法な〝カクテル〟の商売を準備していた。だから事前に捕まえた」

女刑事は捜査零課のエイリアスと名乗った。当局は密かに新たな捜査課を組織し始め、これはその実地試験(トライアル)であるという。
「犯罪捜査(クライム・ディテクション)が貴方たちの領分だとしたら、わたしたち零課は犯罪想査(プリディクション)を担当する」
零課は、コロニー内のあらゆる環境情報を入力源とする〝視差機関(パララックス・エンジン)〟からのリアルタイム・シミュレーションに基づき、少し先の未来を想査するのだ、と。エイリアスは片目の義眼でシミュレーションされた視差現実を視つつ、もう片方の肉眼で現実を見る強化人間だった。

刑事は捜査を再開。奇妙なことに──とはエイリアスの云い──、カスケードの担当事件は「まだ起きていない」。そんなはずはない、バーで被疑者を追っている最中だったのだと応じた刑事は、エイリアスと共に現場を再訪。果たしてしかし、クライム・シーンはもぬけの殻となっていた。自分の担当事件は現実なのか、そうではないのか、彼にはわからなくなる。
すると武装した男たちが踏み込んできて銃撃戦となる。劣勢のなかエイリアスは視差現実を視つつ叫ぶ「二時の方向──!」
云われるまま放ったホローポイント弾は、まさにカスケードを物陰から撃たんとしていた男に命中した。助けられたことへの礼を云う間もなく、連れ去られていく女刑事。
「二択の未来で、彼女は俺を助ける方を選んだ。自らと引き換えに」

手がかりも失った彼は現場をつぶさに検証、室内が伽藍堂に仕立てられた痕跡と共に、隠されたメッセージを発見。すべてを先回りされている感覚に嫌気がさしつつ、指定された町外れの倉庫街区に向かう。
彼は四五口径の初弾を装填し、嘯いた。「未来予知なし。ここからは古き良き威力偵察(リーコン)てわけだ」
フラストレーションを火薬に載せて敵を屠る。最後の部屋でエイリアスを救出し拘束を解くと、彼女は云った。「ケース・クローズね、ディテクティブ」小さく拍手する女刑事を見て、察した。カスケードが追っていたのは狂言誘拐だったのだ。
「〝プリディクティブ〟──と呼ぶべきか?──、お宅が犯人であり被害者だったってわけだ、最初から」
「半分は正解。フィールド・トライアルって、云ったでしょう。あなたもその一部だった。場を盛り上げてくれたモブたちは全員アンドロイドだから、その点は安心して頂戴」そこで肩を竦め「けれど犯人はわたしではなく、わたしのボス──視差機関のほう。零課の実戦投入を見越して、エンジンは一課との合同捜査を交えたシミュレーションをしたがった」
「とんだ茶番だ。お宅の片目はこんな風に視えているんだろう」自分の担当事件が結局、実弾を伴うシミュレーションでしかなかったことに、虚無感を憶えた。
「そういうこと。貴方とはまた会うことになりそうね」
「お宅がそう云うなら、そうなんだろう」うんざりしつつ、応えることしかできなかった。

文字数:1726

内容に関するアピール

都筑道夫『未来警察殺人課』のようなSFクライムの連作短編の一作目として、本作は書かれた。もうひとつの参照先は『マイノリティ・リポート』である。前者では「テレパシスト」として、後者では「プリコグ」として描かれた超能力や未来予知の部分に──『ディファレンス・エンジン』の「階差機関」を元ネタにした──「視差機関」というシミュレーション装置を配し、ギリギリ科学的に成立しそうな(?)犯罪予知の警察小説を目指した。梗概中では触れられなかったが、コロニー内では至るところに都市農業や最適化工業生産が行われており、バタフライ・エフェクトじみたコロニー内の循環を最適管理するために膨大なデータが集められシミュレーションされている(デジタル・ツインという概念で、このような演算技術がIoTの分野で現実に注目されつつある)。視差機関はそれを犯罪予知に用いるべく試験運用に入った──というのが、本作の背景を成す。

最後に、課題への応答について。相容れないもの同士を並列させよ、という課題に対して、本作はまず犯罪捜査(ディテクション)と犯罪予知(プリディクション)──作中では「想査」とあててみた──という二項対立を基に、両者が交わる事件の一幕を描いている。つまり、「すでに起きたのか、これから起こるのかわからない」(という、いささかディック的な主題の)誘拐事件である。そしてこれを追っていくと、すべてはエンジンが演習として仕組んだシミュレーションであった(という、ディファレンス・エンジン的な)オチとなる。ここでは「捜査と予知」の対立は「現実と仮想」の対立に取って代わり、両者は相容れないまま、しかし重ね焼きされることで、すべてのミステリーを視差機関に負わせて終わる。

文字数:723

エレウォン宙警捜査零課

***ルビを表示するために、当方でレイアウトしたPDFをご用意しました。そちらでもお読みいただけます──著者より***

曰く、〝救いは|遍在《エニウェア》す〟
誰かの残した便所の落《らく》書《がき》が、そう教える。排泄の単位を区切るスイング・ドアの建材にペン先を突き立て、レタリングされた場末の警句。部屋中に書きつけられた夥《おびただ》しい数の同類を掻き分け、来訪者の注目を受ける栄誉を勝ち得たその|一節《センテンス》は、単語のひとつを派手に上書きされている。切っ先の深いナイフで〝エニウェア〟を水平に切開する|取り消し線《ストライクスルー》。そこから零《こぼ》れた〝ノーウェア〟の一単語。
曰く、〝救いは|不在《ノーウェア》〟
書き換わった警句を読み取りながら、刑事は別のセンテンスを想い出そうとする。バスルームは人を思索者にすると、そう云ったのは誰だったか。
背中を大量の落書に見つめられながら、冷水を顔に浴びせかける。鏡台の天辺に沿わされた蛍光灯が顔《か》貌《お》に陰影を彫り込み、鏡の中の両の眼が灰に淀《よど》んで疲労を知らせる。
休息はない、と刑事は浮かんだ言葉を拾い上げる。休息は、軍役の狭《さ》間《ま》に忘れてきた。そこで強いられ身につけた、片目を開けたままの睡眠時、僅かばかり痙攣して意識に幕を下ろそうとする、両の瞼《まぶた》の狭間に。
鏡に映った顔の傍《そば》、背後のアルファベットが存在を主張する。書き加えられた〝|ノーウェア《nowhere》〟が反転した、〝|エレウォン《erehwon》〟の鏡像。
エレウォン。非場所の逆《さか》しま。環月コロニーの命名に際してどこぞの皮肉屋が提案し、おそらくは単に音の響きから意志決定者の許《もと》まで生き残り、あまつさえ採用すらされてしまった倒《さかさ》語《ご》。その語が示す宙域が、刑事を擁する捜査一課の管轄だった。彼が腰に付けたアイディには|エ《E》レウォン|宙《S》域|ポ《P》リス・|デ《D》ィパートメント刑事部捜査一課所属カスケード刑事の名前があり、警察に流れ着いた寂しい退役軍人の存在を証明してくれる。
ならば、と刑事は曇った頭で鏡像に問いかける。エレウォンで如何に救いを求める。否定の接頭辞が打ち消されることなくそのままに反転した宙吊りの場所では、如何にして。
救いの数だけ神があり、民族があり、国家があった。ここには循環系を維持する機械仕掛けの神があり、横並びにされた民族があり、国家の代わりに国名を地名に残した都市があった。都市があり、犯罪があり、警察があり、自分があった。そこまで考えても、刑事としての自分に救いがあるか、やはりわからなかった。
軋《きし》む|蝶番《ヒンジ》の悲鳴を聞いて扉《ドア》を押し開く。
刑事は落書の思索室を後にする。

訪客の出入りを監視すべく陣取った、入口付近のカウンター席に戻ってくると、幾分ぬるまったアイリッシュ・コーヒーが出迎えた。一気に飲み干し、バーテンダーに声を掛ける。
「同じものを」
「あんたの顔を見るのは五日目だが」カウンターに両の掌をぴったり付けて、続けた。「そろそろ*まともな酒*を頼んだらどうかね」
刑事は黙して応じない。ハッピーアワーに浮かれる夕刻のパブが耳許に環境音を奏でる。パイントグラスが打ち合わされる音。冗談の完成度を讃える、必要以上の笑い声。壁面投射されたフットボール・ゲームから流れる、野蛮な|応援歌《チャント》。
肩を竦《すく》めて、バーテンは渋々ながらコーヒーポットを傾けた。「酔いたいのか醒めたいのか、はっきりして欲しいんだがね」
刑事は受け取りつつ「生憎ながら勤務中でね」
踵《きびす》を返し、店内にさっと目線の|走査《スキャン》を走らせる。掛かった者は居ない。
パブでの五日目の張り込み。それはすなわち、四日間の空振りを意味していた。襟元のマイクに向けてメモを吹き込む。一七〇二時、被疑者未着。現在地、イングリッシュ・パブ〈ザ・タヴァーン〉。被疑者の〝義手の男〟はまだ現われない。そのことを頭から振り払うように、ウィスキーとコーヒーの混ぜものを呷《あお》った。愚直さは*報われるまで報われない*。昔同僚が云っていたジョーク。
だから報われるまでは、待ちの一手を打ち続けること。刑事は自身の捜査ログを|呼び出した《ロード》。イヤフォンから人工音声が囁き出して、場末のパブをデスクに変える。
《|事件現場《クライム・シーン》はカリフォルニア・ストリップ八四九二番地のモーテル。一〇二〇時、チェック・アウト時刻を過ぎ、鍵の返却に現われない宿泊客を従業員が注意する。一〇二三時、呼び掛けても返事なく、従業員は鍵が開いたままの部屋に入る》

パブのドアが開いて鈴が鳴る。
刑事が入口を窺うと、一人客の女。両の瞳がそれぞれ違う色をしていることを、刑事は記憶した。艶やかな黒髪をロール・アップにし、黒いトラック・ジャケットを羽織っている。その金ジッパーが胸の膨らみを抑え込み、うなじを通ってフードを一周する。女はつかつかと歩み寄り、刑事から二つ離れたカウンター席に腰を落ち着けた。注文は、コーヒーと|終夜朝食《オールタイム・ブレックファスト》。サニーサイドアップとベーコン、ミニ・サラダから成る終日提供の朝食プレート。
《一〇四〇時、室内状況の不気味さを理由に、モーテル従業員が通報。時刻に関する数分の齟齬の他には、ここまでの証言はESPDの通話記録と矛盾しない》
そこで通話記録が再生され、取り乱した従業員の肉声が流れ出す。
《血が……ベッド・シーツにも絨毯にも……部屋も滅茶苦茶で……一面、|血の海《メス・アラウンド》です……》ステレオから漏れ聞こえるカントリー・ミュージックが、いかにも場違いに劇伴を添えている。
《落ち着いて。ひとつずつ状況を教えてください。周りに人は居ますか──》
通報者と|通信手《オペレーター》の会話がしばらく続く。報告によれば現場に死体は無く、荒らされた血塗れの部屋があるのみ。
《宿泊客は、仮出所中の麻薬犯罪者の男。三課の麻薬取締官を左腕の義手で半殺しにしたことから、刑務所内では〝レスラー〟のニックネームで通っていた。通報前夜、レスラーはモーテルに女を連れ込んだところをフロントに目撃されている。女性の身許は不明》

オールタイム・ブレックファストの女はパブのカウンターには似つかわしくないほど流麗なテーブル・マナーでプレートに取り組んでいた。軽くフォークの首を抑えた人差し指から伸びる視えない軸線が、ナイフのそれと直交する。サラダからベーコンを経由して、切り分けられた卵の白身を片付ける──刑事は事件ログを聞きながら、女の一連の所作を眺めている──液状化した黄身を運ぶ際、四又の支点を果たす肘が不思議と引き攣り、一瞬|閊《つか》えた。
黄身の滴《しずく》を垂らして真っ白いプレートを台無しにすることはなかったが、女の流れる所作が途切れたことを刑事は気にした。閊えた左肘。そこから推して察するに──膨れたトラック・ジャケットの下、乳房の左脇、そこに吊られた|拳銃嚢《ホルスター》が視えた気がした。
一方、女は既にナイフをコーヒーマグに持ち替えていた。
《現場の証拠物件に麻薬の類いは見当たらず。三課は本件を暴行又は誘拐又は失踪事件と認め、捜査一課に事件を一任》カスケード始め一課の捜査官にしてみれば、切れやすいドラッグ・ディーラーを体よく押し付けられたかたちだった。どうあれ、カスケードは本件の担当となった。血塗れのモーテルとレスラー、そして消えた女。二つは手掛かりもなく、消去法的にレスラーの線を追い、このイングリッシュ・パブを見つけ出した。
したがって、とカスケードは思った。このカウンター席でアイリッシュ・コーヒーを呑《や》りながら待つ他ない。

鈴が鳴り、新たな来客を知らせた。
大柄の男が現われる。刑事の|視線《スキャン》は真っ先に男の左手を捉え、麻薬取締官を|伸した《ノック・アウト》義手をそこに認めた。
愚直さは報われるまで報われない──その通り。
カスケードが腰を浮かせて席を立つまでの予備動作、その途中でカウンターの女が動いた。マグを離した右手がジッパーを素通りして左の腋《わき》に吸い込まれる。戻った右手は|四五口径《USP》のグリップを掴んでいる。その口径は女性が携行するには大き過ぎた──彼女が特殊部隊員で無い限り。
バーテンダーに突き付け、名乗ってもいないのに刑事の名を呼んだ。
「ディテクティブ・カスケード、彼を捕まえて」
「罪状は」突然の呼び掛けに面食らったが、|咄嗟《とっさ》にそう応えていた。
「〈視差現実〉内の麻薬売買に係る〝現構犯〟よ」
状況が呑み込めない。周りの酔っ払いは、それが画面の中のフィクションであるかのように見物している。
バーテンがカウンターに屈《かが》み、戻った両手には水平二連の|散弾銃《ショットガン》。
先んじて女が放った銃弾は、棚《ラック》に並んだ酒瓶を粉砕する。酔い醒めの銃声で客が逃げ出す。自分も|九ミリ《グロック》を抜きながら、刑事は入口を窺った。閉じるドアの隙間に見切れた義手を認め、舌打ちを衝《つ》く。
頭から黄金色の液体を浴びたバーテンが、カウンター越しに女を狙ってショットガンを突き出した。横から引っ掴み、死の軸線を逸《そ》らす。そして一際大きな破裂音。背後のテーブルが派手に吹っ飛ぶ。
長いバレルを腋で極《き》め、空いた片手で相手の襟首を捩《ねじ》り上げ、踵《かかと》に強烈な重心を感じつつ、そのまま放り投げた。主《あるじ》と客を隔てる境界線を飛び越えて、主の男が床に伸びた。

手錠を取り出しながら、女に説明を要求する。「そんな罪状は存在しない。バーテンが正当防衛を主張したら、むしろお宅がお縄だ」騒動の最中に被疑者が逃げ去ったことにも憤っていた。
女が云った。「彼は違法な〝カクテル〟を受け取るところだった。だから事前に捕まえた」
それを聞いてアイリッシュ・コーヒーの件《くだり》を想い出しつつ、皮肉めかしてカスケードは問うた。「*まともな酒*、というのはそれのことかい──だったら尚《なお》更《さら》願い下げだが」
何かを諦めたような顔で床のバーテンダーは少し笑った。
それが自白に該当するかどうかを|一寸《ちょっと》考え、刑事は彼に手錠を嵌めることにした。

§

青と橙に見つめられ、落ち着かなかった。
正面から対峙すると、それぞれの瞳の違いがよくわかる。全体的な顔立ちは、オリエンタルな中東系。
「詳細な説明を要求する、ディテクティブ──」名前を聞いていなかったことに気がついた。
「エイリアス」チャイのグラスをソーサーから引き離しつつ女が名乗った。
「所属から訊こう、ディテクティブ・エイリアス」
パブでの騒動の後、被拘束者の処遇を訊くと、彼は私の|事件《ケース》の被疑者よと云って店を出た。引き継ぎの捜査官は呼んである、とも。そのままターキッシュ・ストリートのトルコ料理屋に連れて来られ、チャイを挟んで事情を訊いている。夕食時だというのに他の客は居らず、赤地に白文字で〈コンスタンティノープル〉と店名の掲げられたドアは閉ざされたまま。
「|貴方《あなた》と同じ、ESPD刑事部。ただし私の所属課は公式には存在していない──いまのところは」腹部が曲線にくびれたチャイ・グラスを一口|啜《すす》る。そしてアイディを取り出し、続けた。「捜査|零《ゼロ》課。時期が来ればそう呼ばれることになる新設課の、私は刑事」
セクション・ゼロ。カスケードが受け取ったアイディには、確かにそう書かれている。
「聞いたことが無い」刑事もチャイを傾けた。店内壁面を*のたうち*回るアラベスクが眼に入った。
「極秘だもの」事《こと》も無げに云い、「政府のお偉方を説得するのに、上は少しばかり手間取っているみたい。政府折衝の遅延は私たちの*作戦*の性質に依るもので──」
カスケードは遮《さえぎ》り、「待て。一つずつだ」
*作戦*。|捜査《ディテクション》や|調査《インベスティゲーション》ではなく|作戦《オペレーション》の語を使ったことが気にかかった。元軍人のカスケードには、尚のこと。警察よりは軍隊に馴染んだジャーゴンが気にかかり、その疑念は酒場での四五口径へと想起を継いだ。
「本当に警察なのか」軍隊ではなく。
「答えはイエス。ただし極めて特殊な、ね」思わせぶりにそう応じ「|犯罪捜査《クライム・ディテクション》が貴方たち一課の領分だとしたら、私たち零課は犯罪|想査《プリディクション》を担当する」
意味がわからない、と云いかけて遮られた。
「場所を移すわ。*ここで議論を重ねて生まれる意味は消尽しきったようだから*」
奇妙な用法の未来完了形を聞き、更に謎が深まった。

二人の刑事はターキッシュ・ストリートを折れて、ほど近いリトル・チャイナの藍《あい》厘《りん》街区に入る。
要塞じみた職業安定所の威容が街区を見下ろす。それに併設された総合病院は〈|急招護士《看護師急募》〉の古ぼけた張り紙にびっしりと外壁を覆われ、一層|虚《むな》しくこの地区の荒廃を伝える。職安の裏手には五メートル高ほどのシャッターの続く空間がまっすぐに伸びていて、それを区切るマッシブな列柱には「|施工《建設》」「|福利《福祉》」など職種に応じた看板が見える。既に日が落ち閉じられたシャッターは、朝になれば再び開き、日雇い労働者をその前に並ばせる。
こんなスラムにどんな用事があるというのか、わからないまま人気のない大通りを女刑事の後に続く。カスケードにしてみれば、訊かなければならないことがまだあった。
エイリアスが追っている事件とは何なのか。唯一の手掛かりであるレスラーをあの場で確保できなかった以上、女刑事に情報を開示してもらう他ない。それがクスリ絡みであれば、尚のこと。その情報が無ければ、レスラーの線はぷっつりと途切れてしまう。出入りのパブに警察の手が入ったとなれば、潜伏されてしまうに違いない。第一、刑事としてのこちらの顔も割れた。
そもそも、とカスケード刑事は思った。エイリアスがパブで騒動を起こさなければ、自分の捜査は限りなく王手に近いところまで進んでいたはず。
怒りが込み上げ、後ろから女刑事を引き止めた。
「何処へ行く。散歩をしている暇はない」
「貴方の疑問に答えるためには、これが最も効果的」反論を許さない語りでそれだけ云い、周囲に何かを探すように歩き続けた。「もう少しよ」|多分《プローバブリィ》の一語が語尾を引き取った。
エイリアスは職安通り沿いのトライアングル・パークに近づき、門扉から距離を取りつつ中を窺える位置で停止した。呼ばれて刑事もそこで停まる。パークは蔦《ツタ》の絡まる背の高いフェンスに四方を囲まれており、周囲から隔絶された印象を与える。金網のグリッドを暴力的に侵犯する、有機物の緑の隙間から中を窺う。
物見遊山のつもりだろう、一見して地球からの|旅行者《ツーリスト》と判る男女がそこに居た。この灰色の地区には余程似つかわしくない、小綺麗な格《な》好《り》。それを見たエイリアスは、これねと呟いた。
パークの中には、生活用品の一切を詰め込んだリアカーが一台。その傍で焚き火をし、周囲で何かを吸っている数人の浮浪者の子供。蕩《とろ》けた眼《まなこ》がその薬物の効能と、それによって彼らが忘れようとしている現実の強度を知らせる。

「賭けをしない」悪戯っぽく微笑んで、女刑事がそう問うた。「これを賭けと呼ぶかはともかくとして」橙《とう》色《しょく》側の瞳が爛《らん》と輝く。
「そうしなければ、まともに話を聞くつもりがないのなら」撤退めいた、服従的肯定。
写真でも撮っていたのか知らないが、そこでしていたことを終わらせてツーリストは門扉へ向かった。それを見たエイリアスが、
「彼らはこれから掏《ス》摸《リ》に遭《あ》う──私がそれに賭けるから、貴方はそうでない方ね」無茶苦茶だ。
|文字幅の狭い《コンデンスト》ゴシック体で〈BNE〉と書かれた黒いティシャツを着た|素面《しらふ》の少年が立ち上がる。
「|移動《ムーブ》」軍隊式の掛け声で女刑事が動き始める。フェンスに沿って、門扉へ向けて。カスケードも続く。
〈BNE〉の少年が走って、女ツーリストに接触、両者が倒れ込む。連れ添った男が少年に悪態を吐《つ》きながら、倒れた女を起き上げる。その間に少年は男のショルダーバッグを少し切り、音も無く何かを盗《と》り逃げた。気づくことなく、男は女の髪を撫で、手を握って歩き出した。
慣れたものだ、と少年の技術にカスケードは感想を持った。悲しくなるほどに、と。
「私の勝ちね。次は盗品の内容」少年を追って駆けながら、エイリアスが云った。
「財布だろう」先程見えた範囲で判断し、そう答えた。
「二二五ドル。百ドル紙幣が二枚と五ドルが五枚で」
「財布にそれが入っていた場合、どっちが勝ったことになる」どんなトリックか不明だが、確かにこのアンフェア・ゲームを賭けとは呼べそうになく、だから茶化す意図でそう訊いた。
「勿《もち》論《ろん》、私」より詳細な方が勝つ、と。

その後すぐに二人は少年に追いつき、アイディを取り出しながら迫った。
「盗ったものを返してもらう」カスケードが凄《すご》む。
少年は一切の躊躇なくナイフを繰り出したが、エイリアスがその手を遮った。彼女はそのまま羽交い締めに移行し、少年の手から財布が落ちる。
「私たち、いい|相棒《パートナー》になれるかも」と、道《どう》化《け》てエイリアス。
すぐ傍で、フェデックスのロゴの入った四トントラックが横転している。積み荷のダンボールが車道に転がっていた。この街区では事故や事件は非日常ではないらしく、取り巻きはいない。
「窃盗罪の現行犯で逮捕する」と、少年に向かってカスケード。
少し剥《むく》れて、「社会科見学|風《ふ》情《ぜい》のツーリストからちょっとくらい頂いたっていいんじゃない」警察にあるまじき発言で、女刑事は刑事を驚かせた。「他に生活の糧のないスラムの子供が、よ」
「そういうわけにはいかない」そう云ったが、パークで蕩けた眼をした子供たちがフラッシュ・バックした。
カスケードは財布を拾い、中を検《あらた》めた。果たして確かに、紙幣はエイリアスが勘定した通りと云って良かった。一セント硬貨が紛れ込んでいた以外には。五ドル札の枚数を数えていると、イカサマに負ける博打打ちの気分になっていった。
「お宅の云う通り──」云いかけ視線を移した先には、全力で駆けていく黒いティシャツの後ろ姿。
「何故逃がした」語気を強めて刑事が訊いた。
「死人を逮捕することはできない、そうでしょう」
「何を云っている」
「あの子は、私たちがこの場で引き留めなかった|場合《ヴァージョン》の〈視差現実〉内では既に事故で死んでいた」フェデックスのトラックに顎を向けつつ、云った。橙色の瞳が、少し悲しげに沈んでいた。「そして財布はツーリストのカップル自身に拾われていた。他方で、介入したヴァージョン──今まさにそうなった現実内では、私たちが*財布を持ち主に返し終えただろう時点において*、犯罪は成立しなかった*ことになる*。物理的に。あるいは唯物論的に」
奇妙な未来完了形。しかし口を挟む代わりに、カスケードは自分たちが来た方の道を見た。切られたバッグを胸に抱えた男と女が歩いているのが見えた。
「A:被疑者死亡はすなわち不起訴。B:窃盗罪の不成立。だからどちらにしたところで、子供を逮捕することに意味はない」
云いつつ差し出された手に、カスケードは財布を渡した。カップルに駆け寄り、それを返す女刑事の手に。
戻ってきたところで声をかけた。
「いいパートナーにはなれない」たとえスラムの子供であれ、犯罪者を逃がすような刑事とは。
応じず、女刑事は肩を竦めただけだった。

「|刑事《ディテクティブ》、大体の事情はわかったと思うけれど」スラムからの帰路、エイリアスが切り出した。「私は片目で*もう一つの現実*を視ている。こう云って良ければ、*未来*を。ただし、その未来は現実化する直前までは、ピントが合わず*ぼけて*いる。あくまでも瞬間毎の蓋然性を積み上げ|演算《シミュレーション》された、未来の近《きん》傍《ぼう》という程度」
エイリアスは橙色の義眼でシミュレーションされた〈視差現実〉を視つつ、青色の肉眼で現実を見る強化人間であった。
〝賭け〟の|演示《デモンストレーション》があればこそ、カスケードはそれほど意外には思わなかった。
「〈|視差機関《パララックス・エンジン》〉──これを可能にする技術を、私たちはそう呼んでいる。現在はその試用期間にして、零課の|実地試験《フィールド・トライアル》の最中」
それがトリックの正体だった。
「ディテクティブ、〈アフォーダンス〉ってご存知──」語尾が上がっただけで、答えを聞く気はなさそうだった。そのまま続けて「──環境と知覚者の相互作用を扱う、生態心理学の基礎概念。ドアノブは、それを握れと知覚者に|働きかける《アフォード》。椅子は座れと。スイッチは押せと」尚も続けて「|コロニー《エレウォン》中の監視カメラや感圧センサ、|微粒子《スマート・ダスト》その他あらゆる端末からの環境情報を基に、一つのモデルを組み立てる。その中に知覚者を入れ込み、環境とのアフォーダンスに関する|一時視野《スナップ・ショット》を作成、無限に近しい有限個のそれらを重ね合わせて〈視差〉を得る」
話を聞く間、カスケードには技術的*以外*のことが気にかかってきた。蕩けた眼はまだカスケードを見つめていた。
長広舌を意に介さず、エイリアスは熱っぽく続ける。
「このように、私の義眼は〈視差機関〉からの|即時演算《リアルタイム・シミュレーション》を受け取っている。環境も知覚者も常に変化するから、その度にモデルは別のスナップ・ショットを吐き出し〈視差〉を修正せねばならない。そうした修正の果てに、モデルと現実との誤差が限りなく零に近づく瞬間──〈結像〉の瞬間が来る。そしてその時、〝現構犯〟が成立する」
弱い蓋然性を有限回だけ積み上げ、宇宙が無限に可能な計算と対照し、辛くも無限から有限を紡ぎ出し、その瞬間に至るまで対現実誤差を縮減され続ける演算が〈結像〉した時、一つの〈視差現実〉は宇宙に顕現する。
〈パララックス・エンジン〉は常に勝利する。

しかしそれなら、と刑事は考えた。子供を逃した|論理《ロジック》には穴がある。
「結局、お宅は情に流されただけだったんじゃないのか。子供が事故で死亡する未来は、現実化しなかったわけだから。確かに死人は逮捕できない。しかし」エイリアスの図式を借りて反駁する「A’:被疑者は逮捕の時点で死亡していない。近い将来の死亡|如《い》何《かん》を刑法は問わない。B’:現に奴は盗んだ。窃盗罪の現行犯は財物の返還にかかわらず、窃盗行為そのものに対して適用される──だから、お宅の議論は〈視差現実〉が視えるという前提の上で可能な|詐術《レトリック》に過ぎない。歪んだ刑法解釈だよ」
エイリアスは聞くに徹する。
「そして何より重要なことは、だ。お宅の云った論理で奴を逃がせるなら、お宅らの〝想査〟とやらは不可能になる。バーテンをそうしたように、どうして子供を逮捕できない」両者の違いは何処にもない。罪を犯したという共通点はあるにせよ。
女刑事は感心した様子で、
「貴方がそこまで明晰な未来は視えなかったわ、ディテクティブ・カスケード。これは読心術や|精神感応《テレパシー》とは違うから」そこで一拍置き「確かに私は、自ら選択してあの子を事故から救い、そして逃した」
「お宅を犯人隠避罪に問うこともできるが──」そこで刑事は自分の担当事件について考え「──情報提供の如何によっては、司法取引に応じないこともない」
「私たちはいつの間に法廷へ紛れ込んだのかしらね」
「仰る通り、ここは法廷じゃない。しかし現場判断はいささかファジーでね」その時だけ悪徳刑事の顔で云った「お宅が開陳した*誇大妄想*に尾《お》鰭《ひれ》を付けて報告書を纏《まと》めることだって出来るんだよ」*極秘*というエイリアスの台詞を想い出していた。
短く溜《ため》息《いき》をつき、女刑事は
「降参」とだけ呟いた。何故かその様子は楽しげだった。

賭けには負けたが、議論には勝ったらしかった。

§

翌一〇〇〇時、カスケード刑事はレスラー事件の|現場《モーテル》に居た。
居るはずだった。
ところが|事件現場《クライム・シーン》は消えていた。一切が跡形も無く、完膚無きまでに。在るのはハイウェイ沿いで客を待つ平常営業のモーテルそれのみ。
カリフォルニア・ストリップ八四九二番に位置する〈マルホランド〉は、九〇度回転した〝コの字〟型のフロア・プランに、その開口部を道路に向けた駐車場を中心に持つ、二階建ての中規模モーテルだ。東側の突端部に位置する|空き室《ヴェイカント》を前に、刑事は立ち尽くしていた。
ドアを封鎖していた現場保存の|黄色帯《キープ・アウト》はカスケードの記憶の中に吸い込まれ、そこから出られなくなったかのように、眼の前の現実から失われていた。紛れもなく現場保存の期間内であり、警察が|規定《プロトコル》を無視して部屋を解放したなどとは考えられなかった。入り、刑事は現場検証に立ち会った時点の記憶と現実を一つずつ対照しながら室内を調べる。
ベッドメイクが為されて真新しいシーツを纏《まと》った、木枠のキングサイズが空間に中心を与えている。固く喰《く》われたシーツを剥ぎ取り、化粧を台無しにする。マットレスを持ち上げ、スプリングが一つ鳴く。木枠に染みた血《けっ》痕《こん》を探すも、見出されない。床に屈み、足下の絨毯に触れてみる。血を撒かれていていたはずの、しかし今では宿泊者のブーツの砂すらも残していない、まっさらな絨毯だけが床に寝そべる。長い絨毯はバスルームまで続いており、ドアを開けて見たが何もない。荒らされた調度の類いも消え去り、置き換わったそれらはどれ一つとしてあるべき位置からずれていない。室内の姿《すがた》鏡《み》が、当惑顔の刑事を映し返した。
これらを経て、カスケードの頭に浮かんだ疑問は一つしかない。自分の|事件《ケース》は何処に行ってしまったのか。
何か手近なものに怒りをぶつけたかったが、そうする代わりに刑事は退室した。ドアを背に、二階の外周廊下の欄干に上半身を預ける。宛《あ》てもなく視線を走らせた。より高度な循環系に機能を剥奪され、|観賞用《イミテーション》として風景を演出するだけの存在に成り下がった給水塔が近くに聳《そび》える。ふやけた時間。ESPDの|警察車両《ポリス・カー》が駐車場に入っていき、同じカスケードの車両の真横に停《つ》けた。砂漠を模した天候が汗《かん》腺《せん》を叩いていた。乾いた暑さがカスケードには堪らなく鬱《うっ》陶《とう》しかった。ハイウェイに生じた陽《かげ》炎《ろう》を見た。事件は幻だったとでも──?

エイリアスからの|提供情報《インテル》の結果、次の事実がカスケードの捜査ログに追記された。
《〈ザ・タヴァーン〉のバーテンダーとレスラーの関係は、純粋なビジネス上のそれでしかなかったこと。ディーラーの卸《おろし》先リストに同店の名前はあるが、それ以上の繋がりは見出だせない。加えて三課の麻薬取締官が作成したそのリストは、レスラーの刑期の長さ故《ゆえ》に数年分の遅延──主に刑務所内での人間関係に関する──が見受けられ、つまりは|最新《アップ・トゥ・デイト》から程遠いこと》
《カスケード刑事側からのインテルをエイリアス刑事が〈エンジン〉に照会した結果、零課はレスラー事件を*想査線*に載せたこと。すなわち、レスラー事件は*まだ起きていない*。〈エンジン〉は本件について、零課存続に関わる重要な|情報資産《アセット》の存在ありと評価。以降、カスケード刑事とエイリアス刑事は共同で本件に当たる》
《ESPDのデータベースに照会の結果、本捜査ログの他には、一課保有の事件|記録《レコード》は消失していたこと。レスラーと|紐付いた《マッチ》レコードは、三課保有の過去の麻薬犯罪数件のみに留まる。カスケード刑事と共にモーテルの現場検証を担当した鑑識官の氏名は、ESPDに登録されていない。同様に、通報者と話したオペレーターについても辿ることができなかった。通報者の従業員すらも、身分を偽った何者かであった》
《附記、レスラーと共に現場から消えた──あるいは、これから*消えることになっている*?──女性については依然として詳細不明》
要するに、とカスケードは総括した。自分の脳内の他には、事件の痕跡は消え失せていた。

「云った通りね」到着したエイリアスが|空き室《ヴェイカント》の前で声を掛けた。「レスラー事件はまだ起きていない」
「ならいつ起こる。〝視えて〟いるんだろう」
「聞きたければ教えるけれど。誤差をたっぷり含んだ、*ぼやけた*未来で良ければね」
「案外使えないな」ほとんど八つ当たりのように、そう云った。
「私たちが動くことで未来が確定していくの」それだけ聞くと、酷《ひど》く凡庸な見解だった。「行きましょう」
「|先を譲ろう《アフター・ユー》、ディテクティブ。〝想査〟はお宅の領分だ」自分ではなく。一課の自分ではなく。
カスケードにとっては二度目の、伽《が》藍《らん》堂の現場に入った。
エイリアスはカーテンを引いて外光を取り入れた。そしてカスケードがしたのと似たような手順で部屋を調べていった。
カスケードは窓を開け、少しでも暑さを和らげようとする。窓枠に腰掛け、
「何を捜している」
「*何かを*よ」云いながら橙の義眼を釣り上げ、
「ディテクティブ、そこを退いて」必要以上の語気だった。
云う通りにし、カスケードはベッドの脇に立つ。
エイリアスは姿鏡を窓の付近に移動させ、カスケードと窓とを直角に結び、
「|待機《スタンバイ》、ステンバーイ──」
女刑事が四五口径を抜くと同時に、姿鏡の中、鏡像のカスケードが頭部を破片に散らせた。狙撃だ。鏡の外の刑事はそう判じ、九ミリを抜く。
「──|退却《ゴー》」
窓から投げ込まれた|特殊手榴弾《フラッシュ》が絨毯の上に転がる。ドアに向かった移動の最中、見事な|旋回軸《ピボット》で身を翻したエイリアスがバスルーム側にそれを蹴《け》り返す──軸足を基点に|回転《ターン》、一瞬後には入口向けて駆けていた。カスケードの手を取りドアを目指させる。バスルームで光が炸《さく》裂《れつ》。それを合図と、懸《けん》吊《ちょう》スリングにぶら下がった特殊部隊装備の男が窓に現われ|短機関銃《MP5》を撃ちまくる。
両刑事は火線に捉えられることなく外に出た──ドアの外、エイリアスに足を掛けられ、カスケードは姿勢を崩した。上半身があった場所に銃弾が飛び込む。刑事は二人目の狙撃手を確知。と同時に理解した。自分はエイリアスの*眼*に護《まも》られている。
ドアから出てきた短機関銃の男を組み伏せつつ、未来予知の守護天使が短く指示した。
「四時の方向」
聞いて狙った給水塔に人影を視認──ここからは撃てない。射角を確保するべく欄干から飛び降りた。着地して照準。引鉄を引き、引き、引く。二発は球状のタンクに吸い込まれ、一発が腕に当たったらしい。弾着──それが見える距離ではなかった──ではなくハイウェイ向けて落ちていく狙撃銃を見届け、良しとした。
「|狙撃手を無力化《タンゴ・ダウン》」刑事も軍隊式に云った。
しかし聞き手はそこに居なかった。カスケードが二階を仰《あお》ぐと、もう一人のスリング男がエイリアスを捕らえ、屋上に連れ去るところが見えた。降圧剤を射《う》たれたか、彼女は男の腕の中で失《ぐっ》神《たり》している。
階段向けて駆け出した。
上りきったところで長身の体《たい》躯《く》に遮られ、怯《ひる》んだ隙《すき》に右フックを見舞われる。咄嗟に右手で受ける。九ミリの拳銃が地階に落ちる音がした。相手はそのままコンビネーションを繰り出し、崩された刑事のガードを正確な、かつ強烈な左ストレートで打ち抜く。
暗転した視界にテクニカラーで星が散る。吹っ飛んだ先の|欄干《リング・ロープ》を掴んで刑事は立ち上がろうとするが、起き上がれなかった。相手の姿がすぐには像を結ばない。頭を振って、暴れた焦点を正そうとする。相手は他の男と同様に、フル・フェイスのヘルメットに顔を隠している。
刑事の足止めだけが目的だったらしく、男は屋上から伸びた別の手に掴まって二階の壁を登った。伸ばした左手のグローブと袖《そで》口の間から、*義手*の手首が少し覗《のぞ》いた。
したがって、と刑事は星が*ちらつく*頭で考えた。レスラーにノック・アウトされた刑事はこれで二人目になった。

起き上がり、部屋の前に置かれた室外機を踏み台に、カスケードも屋上に登った。既に男たちは消えていたが、モーテルの裏手からハイウェイに出ていく濃灰のヴァンが見えた。
すぐさま地階の駐車場に降り、自分の警察車両に乗り込んだ。フル・スロットルで走り出し、ヴァンを猛追する。そこまでをほとんど無意識にこなし、自分が何故男たちを追っているのか──追う必要があるのか、車の中で考えた。
一つには、〝|星《レスラー》〟の存在があるからだった。どうして特殊部隊に混じっているかは知らないが、奴は再びモーテルに現われ、女《エイリアス》を連れ去った。記憶の中のレスラー事件との、このような符《ふ》合《ごう》には偶然以上の意味があるだろうか。既に起こった──が、痕跡を消し去られた──事件が再《さい》演《えん》されていた。
もう一つには、エイリアス刑事の存在があった。彼女には未来が視える。そうであるからには、自分を狙撃手から救った*あの*一手には、|一時的な《テンポラル》パートナーを思いやった以上の意味がある──。
〈エンジン〉のようにはいかないが、カスケードはその時の戦局を頭の中で|巻き戻し《リワインド》、ありえた可能性をシミュレーションしようとしてみる。
給水塔からカスケードは上半身を狙撃され、二階のフロアに沈む。エイリアスは背後から現われた短機関銃の男を組み伏せる。そのまま給水塔に向けて撃ち──彼女の位置からならば狙えただろうから──、狙撃手を無力化する。上から新たな敵が降《ふ》り、エイリアスに減圧剤を射とうと背後から注射器を構える。カスケードは銃《じゅう》創《そう》を抑えながら渾《こん》身《しん》の力で床から九ミリを放ち、それは注射器の男に命中する。レスラーが現われるが〝眼〟の支援で白兵戦を凌《しの》ぎ、エイリアスはすべての敵を沈黙させた──。
悪くない|筋書き《シナリオ》のように思えた。自分が撃たれたこと以外には。犠牲を厭《いと》わなければ、〈エンジン〉の非情な演算に耐えさえすれば、これは勝つことのできた戦闘だった。
だから結局、女刑事はまたしても情に流され、他人を救ったわけだった。スラムの少年をそうしたように。

二択の未来で、彼女はこの|自分《カスケード》を助ける方を選んだ──自らと引き換えに。刑事はそう結論した。
アクセルを踏む脚に力が入った。

§

港の空は、開け放たれた|平台《フラットベッド》スキャナの走査線の色だった。
エレウォンが誇る一大工場地帯、新日本|秋《アキ》千葉《チバ》原《ハラ》。その|高層線《スカイライン》から頭一つ分飛び抜けた〈UEIBM〉の本社ビルに夕焼けが翳《かげ》り、脚元の全自動工場群を闇に沈めている。
工業と情報産業が完全に統合され、|最適化生産《マス・カスタマイゼーション》を高度に実現させた〝アキチバ〟は、エレウォンの循環系を維持する上で欠くべからざる存在だった。

エイリアスとレスラーを追って港の工場地帯を訪れたカスケード刑事は、〈ペタ・ファクトリ〉という名前で登録された工場に居た。レスラー部隊はカリフォルニア・ストリップのハイウェイを抜けた後アキチバに入り、二度車を乗り換えた。濃灰のヴァンは黄色のミニ・スクールバスになり、スクールバスは最後、|労働者《オカイコ=サン》風のトヨタになってファクトリに停まった。
このような回りくどさは、レスラーという犯人像を一《いち》ドラッグ・ディーラーから特殊部隊員へと修正させることに寄与した。モーテルでのレスラー部隊の戦術や兵装は、良く訓練された者たちに与えられるそれである、と刑事は断定した。カスケードは軍役での*記憶*を脳の襞《ひだ》の奥底に仕舞い込んでいたが、先の戦闘は身をもってその頃の*経験*を呼び覚ますに余りあった。
|現場《ファクトリ》から少し離れた位置に警察車両を停め、刑事はトランクを開けた。アタッシェケースを引っ掴み、旧《ふる》い装備を取り出す。*刑事*としてではなく、かつての*軍人*としての自分を最大化するためにそうするのだ。昔のようにすぐに手に馴染んだ四五口径と弾の詰まったマガジン数本、|手榴弾《グレネード》を身につけた。
拳銃のスライドを引き、四五口径の薬室に初弾を叩き込む。そして誰にともなく──というよりは自分自身に向けて、呟いた。
「|未来予知《エンジン》無し。ここからは、古き良き|威力偵察《リーコン》だ」

非人間的な工場の風景。
巨大な無柱空間に、|ベルトコンベア《アセンブリ・ライン》が阿《あ》弥《み》陀《だ》籤《くじ》めいて整流されている。天井から生えた無数の|自動関節機械《ロボットアーム》がラインを忙しく移動し、自動車体の|骨格《スケルトン》に各部のパーツを埋め、ボルトを打ち込み、ドアを取り付け、一台の自動車を組み上げる。組み上がった一台は、口を開けたコンテナに呑み込まれ、別の支流へ追いやられていく。
人の気配はない。それもむべなるかな、この工場は機械のために最適化されており、人間のための通路は無い。常に様々な機械やラインが複雑に動き続けるこのような場所にあっても、〈エンジン〉は演算を処理できるのだろうか。自分にとっては何の意味もない思考が頭を擡《もた》げた。
そうする間にも工場は何台かの自動車を組み上げ終わっていた。コンテナがカスケードの前の分岐点を通過する時、組み上がった車の陰《かげ》から敵の一人が飛び出した。特殊部隊装備のフル・フェイス。拳銃を撃ってくる。
身体を捻《ひね》って避けた。際どいタイミングだったため、刑事はラインの上に身を投げる格好となった。流れに乗ってやり過ごす。敵と刑事はいくつもの車体によって隔てられている。このまま行くとカスケードの方が早く、敵のコンテナを背にして〝Y字〟で合流することになる。カスケードと相対する側の面は閉じられており、したがって相手方は一つしかないコンテナの開口部から──カスケードにとっての左右*どちらか*から顔を出す。
右か左か、二つに一つ。
しかし刑事はその賭けには乗らず、|手榴弾《グレネード》を取り出した。ピンを抜き、平静なままの鼓動に合わせて──数年来、この心臓は|心拍《BPM》を変えたことがなかった──カウントダウンする。心の中に描いた放物線が相手のコンテナ真横で炸裂するよう秒数を調整した後、実際にそれを*右手*に放った。
無慈悲な炸裂音を聞きながら、コンテナ*左手*に照準する。敵は必ずそちらに顔を出すはずだ、と元軍人は考えていた。
果たしてその通りとなる。敵を視認し、引鉄を絞った。銃弾は敵のタクティカル・ベストに吸い込まれる──はずだった。甲高い音が無柱空間に短く響いた。自分も相手も無事だった。
つまりは、と元軍人は総括した。銃弾を*撃ち落とされた*。狙ってやったなら、人間の技術ではない。他方で偶然とも思えなかった。確率の悪戯だとでも──?
Y字路を抜けて、彼《ひ》我《が》は再び支流に分かたれた。
その間に元軍人は考えた。橙色の瞳が頭の中に浮かんでいた。おそらくは、そう──敵は〈エンジン〉の支援の下にある。エイリアスと同じ〝眼〟を持つ者が、最後の敵だった。

何か行動を起こさなければならない、とカスケードは考えていた。策《さく》無しに未来予知者に挑めば勝ち目は無い。
今となっては|女刑事《エイリアス》の、軽《かる》口《ぐち》に混ぜられた軍隊のジャーゴンが恋しかった。不在の話し手の代わりに、彼女が語り聞かせた〈エンジン〉の技術背景を想い出そうとしてみる。
|一時視野《スナップ・ショット》。〈視差〉修正による|即時演算《リアルタイム・シミュレーション》。そして〈結像〉。
閃く代わりに仮説を得た。実験も悪くないと思えた。軽口の声音が去来したから。
〝私たちが動くことで未来が確定していく〟──その通り。その見解の凡庸さは、想起者にもたらす効果をいささかも減じない。

カスケードは宙空に向けて四五口径を撃った。実際は、ロボットアームに向けて。吊られた腕が車体に落ちて、凄まじい音を立てる。完全に統制された管理は、ドミノめいて一つのエラーを無限に連鎖させた。そこにあるはずの車体を掴み損ねた腕が、落ちた腕とぶつかる。別の腕が両者をボルト留めした。ドア板を保持していた腕がその上に|圧着《プレス》する。圧着された衝撃が複数の腕を凶器に変えて、自身らがその上に乗っているラインを突き破る。ベルトが弾け飛び、整流は機械の濁《だく》流となる。
──環境内の複雑性を高めること。
次いでカスケードは手持ちの手榴弾をすべて|無作為に《アト・ランダム》放った。爆発は引火を呼び、スプリンクラーの雨を呼んだ。狂ったような警報音がそれに続いた。すぐさま動き出した。雨が炎を消し去る前に、走り回ってすべての|火災報知器《ビーコン》を撃ち、壊す。部分的には間に合わず、全体の三分の一ほどのブロックで機械は停止してしまったが、工場の停止信号がすべてに行き渡るのは避けた。工場は動き続け、雨は降り続けた。
──環境内の複雑性を高め、計算資源を刈《か》り取ること。
意志を持った腕が、互いを殺し合っていた。
ボルトを撃ち合い、パネルを打ち付け合い、スケルトンを投げ合っていた。腕が腕を掴んでまた別の腕を薙《な》ぐ。|鋏《シザーズ》が|岩《ロック》に勝つのは、この時くらいのものだろう。特殊合金の金《かな》切《きり》鋏《ばさみ》がコンテナを|紙《ペーパー》のように切開した。
この光景を見てカスケードは考えた。この腕《アーム》たちも|幻肢痛《ファントム・ペイン》を経験するのだろうか、と。無くした腕は痛むだろうか、と。

工場の|混沌《ケイオス》に叩き込まれた敵は、未来予知者めいた動きですべてをかわしていた。
カスケードは充分に距離を取りつつ近づき、ひしゃげたコンテナに身を隠す。無駄弾は撃たない。顔を出したら狙われる。こちらが顔を出す位置を〝視る〟ことのできる相手から。傍の車からサイドミラーを*もぎ*取って周りを見た。敵はこちらの位置が視えているが、アーム同士の殺《さつ》戮《りく》に阻《はば》まれ、その対応に追われている。
リロードしながらタイミングを待っていた。
そしてその時が来る、こんな具合に──金切鋏のアームが天井のレールを伝って移動し、敵方に近づいていく。敵の死角から、上方の鋏に向けて弾倉内の銃弾をすべて放った。
八発の弾丸は鋏に命中し、その内六発は射角の都合で弾《はじ》けた。残りの二発は跳《ちょう》弾《だん》し、相手の近くに降り注ぐ。
命中する必要は無かった。
もとより期待していなかった。
ただ確認できればよかったのだ。
跳弾への対応が*遅れた*ことを。〈エンジン〉の計算資源の限界に肉薄していることを。
ミラーを投げ捨て拳銃をリロードし、同じトリックで再度撃ちまくった。今回ばかりは、近づくために。
四発が跳弾した幸運なターンに、カスケードは最後の仮説を実行に移した。決死で敵に身を晒《さら》し──その時点で相手は少し先に撃ち始めていた──、*自分の左の掌を銃口に押し付け*、引鉄を引き、引き、引き、そして引いた。
掌を突き破って飛び出した弾丸は、血の霧《きり》を吹かせた。霧は雨と混じって宙を流れた。もとより、その程度のトリックで大口径の四五口径弾が|螺旋《ライフリング》の軸線を乱して*曲がる*ようなことはありそうにも無かった。カスケードにもそれはわかっていた──しかし、〈エンジン〉にとっては、どうだっただろう。すべての微細な環境情報を対照し合って演算する。不確定な血の霧を演算する。雨に流れた霧を演算する。少しばかりの掌の肉片と、ほんの少しの骨片を演算する。
エイリアスの比喩を真に受けて、スナップ・ショットが積み重ねられるものだと仮定するなら、連続的な〈視差〉修正のシークエンスに対して、これらの不確定要素は*非連続*に働いた。そして演算に遅れを生じた。たとえそれが一瞬未満の時間だったにせよ、その遅延は命取りだった。
*だから銃弾は真っ直ぐ飛びさえすれば充分だった*。真っ直ぐ飛ぶかどうかを〈エンジン〉が判断しているその間に。

弾丸同士が当たって弾ける音が重なり響いた。〈エンジン〉は確かに、二発の弾丸の軌跡を演算し、敵はそれを正確に撃ち抜いた。残りの二発はそのまま雨の中を駆けた。
〈エンジン〉が〈視差〉を修正し尽くす少し前、
〈視差〉が〈結像〉し終えるほんの少し前の時間、
分身のたびに時間を細切れにしていく小数点以下のゼロが一つになる数瞬前、
あたかも鳴り始める前に目覚ましのベルを止める掌のように、
発《ゼン》条《マイ》に約束されたベルの時刻を掌が〝知っていた〟と称するのと同じ程度の理屈でもって、
〈エンジン〉に約束された演算に*先立って*、
刑事の弾丸はベルに届いた。
「|気散じ《ディストラクション》だよ」
吹き飛ぶ犯罪者に向けて、刑事はトリックを一語で解説してやった。相手はほとんど聞いてなかったが。

「ケース・クローズね、ディテクティブ」
最後の部屋でエイリアスを救出し拘束を解くと、彼女は云った。小さく拍手する女刑事を見て、察した。カスケードが追っていたのは狂言誘拐だったのだ。
「〝プリディクティブ〟──と呼ぶべきか?──、お宅が*犯人*であり*被害者*だったってわけだ、ものの最初から」
「半分は正解。|実地試験《フィールド・トライアル》って、云ったでしょう。貴方もその一部だった──というよりは、貴方が試験の受《しゅ》験《じん》者《こう》ね」そこで肩を竦め「けれど犯人は私ではなく、私のボスである〈エンジン〉の方。零課の実戦投入を見越して、エンジンは一課との合同捜査を交えたシミュレーションをしたがった」
聞いて脱力した。左の掌が傷んだ。
「レスラーとやらも零《グ》課《ル》なのか」
「そう。貴方が先程までの大立ち回りで倒したレスラー刑事も、零課捜査官」
彼が〝彼〟だったとは知らなかった。
「悪いことをしたな」仲間を亡くさせて。
「頑丈だから平気でしょ──」そこでレスラーが登場し「──ほらね」
「とんだ茶番だ。お宅の片目はこんな風に視えているんだろう」自分の担当事件が結局、実弾を伴うシミュレーションでしかなかったことに、虚無感を憶えた。
「徹頭徹尾が茶番だったけれど、収穫もあった」そこで一拍置き「何十人もの捜査官がクリアできなかった|事件《テスト》を貴方は解いたの──」

聞かされたテストの|答案《リザルト》は次の通りであった。
《一、捜査力に関する評価:モーテルから、レスラーに繋がるパブを見つけること》
《二、倫理観に関する評価:エイリアスの少年に関する|詐術《レトリック》を反駁すること──貴方は刑事として持つべき倫理観を備えていたわ、とはエイリアスの談。堅《かた》物《ぶつ》過ぎるのは難点ね、と付け加えるのを忘れなかった》
《三、戦闘能力及び推理力評価:とりわけ、〈エンジン〉に関する理解を前提に、エイリアスが自身の犠牲を払ったことを推理したこと──ここで自分勝手に帰っちゃう人が多いのね、とはエイリアスの談》
《四、発想力及び総合力評価:〈エンジン〉を持つ敵と闘い、勝利すること》

§

新日本秋《アキ》千《チ》葉《バ》原《ハラ》大深度地下、捜査零課|本部《ヘッドクォーター》。
巨大な壁面|液晶《ディスプレイ》を背後にして、エイリアスは次なる想査の|概要説明《ブリーフィング》を開始した。ディスプレイにいくつかの潜在犯リストが現われては消えた。そして想査班を指示した後、こう云った。
「|新入り《ニュービー》のカスケード刑事は私のバックアップに就《つ》くこと」
異動の知らせは受け取っていないのだが、とカスケードは思った。
「諸君、貴方たちは〈|視差現実《みらい》〉に生きている」古いSF作家を引用しながら、エイリアスがその場の部下に向けて云い、場を締め括った。「|解散《ディスミスド》」
女課長の命を受け、零課捜査官たちが想査に乗り出した。自分も行かないわけには済まないようだった。
それが新たな|課長《ボス》の、最初の命令だったから。

〈了〉

文字数:19852

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