ぐみのあな

選評

  1. 【長谷敏司:0点】
    物語内でやりたいことが迷走している印象で、評価が難しい。読者を怖がらせる話にするのなら物語で最初にGUMIが出てきたときに読者をしっかり怖がらせないといけないのに、現状だと浅い描写になってしまっている。日常のなかに非日常が侵入してくる場面はいちばん目立つし、印象に残る花形の場面。そのチャンスはきちんと使わないともったいない。構成を見直して、どこで読者を驚かせるか、それまでに前提としてお客さんに持ってもらいたい知識は何なのかなど、物語の骨格を整理したほうがよい。骨格が一貫性を失ったところで今はドラマの積み上げも分断されているので、そこも改善するはず。物語の各パートで何をしたいか、構成として整理されていれば、ラストの印象も大きく変わってくるはず。

    【塩澤快浩:1点】
    長篇の序章ですね。最初のマリとときわの会話はすごく自然でキャラが良く描けているが、GUMIが出たとたん文章が平板になってしまっている。マリの内的な恐怖だけではなく実際にGUMIそのものの恐怖も描くべきで、GUMIが何なのかという印象づけが少し弱い。

    【大森望:2点】
    書き出しの0章にいろいろ粗があり、収まりがよくない。後の展開で明かすべきことが先に提示されてしまっているので、なくても大丈夫では。「GUMIの穴は宇宙から飛来して人間を悪くする」というフレーズ自体は悪くないが、1章の「女の子みたいな名前だね」から始まったとしても、こういう小説としては意表を突く感じなので良さそう。ツーリストの設定を言葉で説明しすぎているのがやや興ざめだが、五人の女が合体するというシーンは驚きがあって楽しめた。

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梗 概

ぐみのあな

GUMIは宇宙から飛来する邪悪な穴。決まった姿形はなく、いかなる時も「穴に出会った人がもっとも恐怖するもの」の姿をとって現れる。恐怖に取り憑かれた人たちは思想も文脈も欠いたその場限りのテロを起こして世界を混乱に陥れる。
門谷安音(カドタニアンネ)と門谷万里(マリ)は双子の兄弟で、『マッチ売りの少女』の話が好きな母親によってアンデルセンの母アンネ・マリーから名付けられた。三十一歳になった門谷マリがGUMIに出会う。GUMIは昔死んだはずの人間の姿でマリの前に現れたから、恐怖に駆られたマリはその場から逃げ出した。中学時代の同級生である橋田花と見知らぬ四人の女たちがマリを保護する。意識を失い倒れたマリの手のひらにはGUMIに噛まれた疵が残っている。

〈観光客(ツーリスト)〉は遠い星からやってきた救世主、邪悪な穴の侵攻から人類を守る善なる存在。GUMIが可視化した恐怖に打ち克つ固有の能力を人間に授ける。ただし人間がより高次の存在であるツーリストに直接干渉することは不可能だ。そこで媒介となるのが橋田ら五人の女たちだった。彼女たちは〈バイパス〉と呼ばれる。例えばシャーマンが人と神を繋ぐように、バイパスは人とツーリストを繋ぐ。五人の女はマリに聖なる薬物〈ソーマ〉を与える。
新種のイネ科植物〈ハオマ〉はライ麦の突然変異によって生まれた。ソーマはハオマに寄生する麦角から抽出・精製したハオマ・アルカロイドを元に配合された聖なる水で、未だ世界のどこの国でも規制されていない最新の脱法ドラッグだ。ソーマの服用により変性意識状態に至ることで、人はツーリストに干渉することができる。
ソーマは強い幻覚症状と依存性の高いダウナーな快感をもたらす。オーバードース(過剰摂取)によって幻覚から醒めることができなくなってしまった者が過去に幾人も存在する。服用は極めて危険な行為だ。しかしマリに選択権はない。GUMIに噛まれたマリの手のひらは丸く膨れあがり、瑞々しい果実のようにきれいな赤色をしている。それはGUMIの果実だ。邪悪な穴は人に噛みつくことで疵口に種をつける。種はすぐに発芽し、グミの実によく似た実をつける。やがて果実が熟すとひとりでに皮が剥がれ落ち、中から暗い穴が現れる。新しいGUMIの穴だ。噛まれた人間はそんな風にして、繁殖した邪悪な穴に飲み込まれてしまう。要するにマリがGUMIの最新の犠牲者となるのは時間の問題で、なりふり構っている暇はないのだった。
決意を固めたマリがソーマを飲み干すと、五人の女が溶け合って一人のデブの大女になる。ツーリストが仮象をとって顕現したのだ。大女はマリに根源的な恐怖に対抗する力を与える。

かつてマリの弟アンネは夜の森で死んだ。いなくなったアンネを探して森に入った幼いマリは、化け物のように大きな樹のそばに生々しく光る肉塊が散乱しているのを見つけた。本当は獣害だったのだろう。アンネの命を奪ったのはおおかた熊か何かだろう。けれども幼かったマリは、化け物みたいな森の樹がアンネを殺して食べたのだと考えた。だから今でもマリを恐怖させるのはあの夜の化け物の樹なのだ。
手のひらの果実が熟して皮がはがれ、剥き出しになったGUMIの穴がマリを飲み込んでしまう。穴の中に広がるのはマリの心象を投影した恐怖の風景、化け物の樹が棲む暗い森だ。樹のそばでアンネの亡骸が起き上がり、マリは恐怖で叫びだしそうになる。しかし怖れてはいけない、マリはもう恐怖に太刀打ちする力を持っている。マリがツーリストとの接触により手に入れた力は〈念力発火能力(パイロキネシス)〉。火は生と死、両義的な性質を併せ持つ聖なる象徴だ。マリが念じると炎は化け物の樹を焼き殺し、死んだアンネを慰霊する。

こうしてマリに取り憑いたGUMIは消滅する。帰還後、マリは邪悪な穴と戦う戦士になる。ツーリストとGUMI、善と悪の戦いに、双子の魂を背負った兵士アンネ=マリーは身を投じる。さながらマッチ売りの少女のように祈りの炎を掲げて。

文字数:1648

内容に関するアピール

■なぜパイロキネシスなのか
念力によって火を発生させる超能力パイロキネシスは、その他の有名な超能力ジャンル、例えば時間跳躍、予知、読心、念動力などに比べてややマイナーな印象があります。花がない、と言い換えても良いかもしれません。それは既存作品がパイロキネシスに見られる火の暴力性、すなわち「制御が効かず計らずも周囲を傷つけてしまう、人が持てあます過剰な力」といういち側面を描くことにかっちり焦点を合わせてきたからだと思います。火の過剰な暴力性への着眼は、例えばパイロキネシスという言葉を最初に用いたスティーブン・キングの『ファイアスターター』や、宮部みゆき『クロスファイア』などにも共通して見られます。そして僕はこのことを常々物足りなく感じてきました。火というモチーフが本来持つ豊かな象徴性が損なわれていると感じられるためです。
火は本来相反するはずの二つの意味性を一つどころに内包する屈折したモチーフです。命の象徴でありながら死の象徴でもあり、「生活に必要不可欠なもの」でありながら同時に「人を死に至らしめる力を持つもの」でもあります。火が備えるこの両義性を見つめる視座に立ち返ることで、パイロキネシス小説の新たな領域を切り拓きたいと考えました。発火能力の発現によって一方で邪悪な存在が挫かれ、また他方で死者の鎮魂がなされる本作のラストは、そういった意図に基づいて設定しました。
■バックグラウンドの設定
◇GUMI
宇宙から飛来する邪悪な穴〈GUMI〉は星を冒す悪性のウィルス。数多の星を病気にしながら星間移動を繰り返す。GUMIは惑星に降り立つと、その星にすむ知性体に噛みつき種を植えつける。種はすぐに発芽して実をつけ、やがて熟すと皮が剥け落ち、新しい穴(GUMIの新生児)が生まれる。GUMIの新生児は宿主を自らの穴に飲み込む。穴の中は宿主の〈根源的恐怖〉を可視化した虚構空間になっている。穴に落ちた宿主は妄想にとらわれ、暴力衝動に支配されてしまう。このようにしてGUMIは知性体を取り込みながら繁殖していく。そして邪悪な穴が星をすっかり飲み込んだ時、星そのものが実体を欠いた嘘の星〈虚星〉に変異する。虚星の成立に続いてGUMIは惑星を離れ、また別の星を探し求めて旅に出る。

◇観光客(ツーリスト)
悪性の惑星侵食ウイルス〈GUMI〉による惑星の虚星化を食い止めるべく高次波動存在により組織された旅の医師団。「恐怖の拡散」によるGUMIの繁殖への対抗措置として、当該惑星の知性体に抗生物質としての「恐怖に打ち克つ能力(例えば念力発火能力など)」を処方する。抗生物質を投与され自律的な防衛機能を獲得することで、知性体はGUMIを退ける兵士(=抗体)となる。こうして知性体を〈GUMI抗体〉に作りかえていくことで、ツーリストは星全体の免疫力を引き上げていく。

文字数:1174

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ぐみのあな

       

 GUMIの穴は宇宙から飛来して人間を悪くする。最近では被害は拡大の一途をたどるばかりだ。この穴に厳密な姿形はなくて、出会った人間がこの世で一番怖いと感じるものに化ける。恐怖はとても原始的な感情で、だからこそ強い。恐怖は人の知性を奪い、理性を奪い、破壊衝動を呼び起こす。
 今世界各地で頻発しているテロの大半はGUMIによって仕組まれたものだ。GUMIに憑かれたテロリストたちには使命感も大義も何もない。あまりにも無思想でいっそ狂気すらなく無色透明に感じられるくらいだ。思想がないから歯止めが利かない。次から次へと湧いて出る、文脈を欠いた個別のテロリストたち。

       

「女の子みたいな名前だね」と、表現はどうあれ初対面の相手に言われないことの方が珍しいかも。「マリ」という名前は『マッチ売りの少女』の話が好きな母親によってアンデルセンの母アンネ・マリーから名付けられた。なんでもアンデルセンは母親をモデルに『マッチ売りの少女』を書いたのだそうだ。それで名前が性質を呼び込みでもしたのか、マリには昔から燃える炎のようなところがあるらしい。優しいよね、あったかみがあるっていうか。でもときどきはやけに激情家でさ、見てるこっちが恥ずかしくなる時もあるし。——これらはときわがマリに言ったことだ。マリはときわと東京で出会って、今はマリの実家がある滋賀の望町(のぞみちょう)でマンションを借りて二人で住んでいる。
 ときわはNEWS23を途中で切り、ベッドにうつぶせになって言う。「これだけ毎日毎日テロテロテロテロ言われてるとさすがにげんなりっていうか、慣れって怖いよね、最初は『なんて恐ろしいの、なんて悲しいの』ってとてもストレートに感じていたのに、今じゃ『ああまたか』って。あまり感じるところがなくなってきてる気がして、心? 感受性? そういうのが薄れてだんだん死んでってるって思えて、そのことがすごく怖いよ」
「GUMIは恐慌状態のテロリストをばんばん生み出して世界を混乱させまくってるわけだけど、同時進行で、直接的な犠牲者たちと平行して、それを傍観する俺たちの心まで殺してまわってるって気がするよ」
「でもさ、結局のところ表面的にはテロリストはみんな人なわけじゃん? 一連のテロや争いを、『全部が全部まとめてGUMIのせいなんだー』って言ってしまうのはすごく簡単で楽ちんなんだけど、反面、『ほんとにそれでいいの?』って感じもあるんだよね。とても複雑って思うよ、だってGUMIが降って来るようになるよか前から人は互いに争い合ってきたわけじゃん? いや、うーん、ちょっと話のスケールが大きくなりすぎちゃった感じあるな」
「うん。そっちはそっちで確かに大事な話なんだけど、分けて考える必要があるんじゃない?」
「だね。……ねえ、マリは考えてみた? 自分が一番怖いと感じるものはなんだろうって? 世界の全部が敵に見えて暴れまわりたくなっちゃうくらい、恐ろしいものってあるのかなって」
「いや——」マリは曖昧に口ごもる。「——考えたことなかったよ。わかんないな」
「そうなんだ」とときわは言う。「考えといた方がいいんじゃない? いつうっかりGUMIと出会ってしまうかわからないでしょう?」
「そういうときわは?」とマリは訊ねた。
「私がこの世で一番恐ろしいのはおいしいものを食べられなくなることだよ」ときわは即答した。「それ以上に怖いことなんてない」
「ああそうか。ときわはそうだよな」
 ときわのその言葉をマリは全面的に信じる。ときわは今まで一度だって食に対する情熱的な姿勢を崩したことがなかった。おいしいものを食べるためには手段を選ばないし、どんなに忙しくても食事において手抜きはしなかった。いついかなる時もたっぷり食べた。多い時は一日六食を平らげた。
「私はどんな時でも全力で戦うことができるように準備をしてるんだよ。だってGUMIがもし私のところに来たら、私はきっとおいしい食べもののない世界へ連れていかれてしまうから。そうなった時のために、私は今からたっぷり食べて、それらがどれほど素晴らしかったかをしっかり記憶に焼きつけておきたいって思ってるわけ。記憶にっていうか、舌にかもしんないけど。たとえおいしいものの全部がこの世界から消えても、私の中にそれはずっと残るのだし、その記憶さえあれば私を恐怖させるものは何もないってことになるんじゃん? 言うなれば美食に対する信仰だよ。信仰の力で己の恐怖に反逆するんだよ」
 己の恐怖に反逆する。マリはその言葉を面白いと思った。
「反逆なんだ? 『立ち向かう』とかじゃなくて」
「恐怖に立ち向かうなんてのは、まあそういう言い回しよく聞くけどさ、それって恐怖と私が対等な感じするんじゃん? そんなの嘘だって気がするっていうか、私は、恐怖は私を上から押さえつけてくる力だと思ってるから」
 ときわは上半身を起こして床の2リットルのペットボトルを手に取り、ミネラルウォーターをラッパ飲みした。それから続けた。「もし神様が今ここに現れてね。私に向かって、『食べることをやめるかマリと別れるかどちらかを選べ』って言い出したとしたら、私はなんて答えると思う? その時私、たぶんこう答えると思う。『そのどっちかを選ぶくらいなら、もう無理ってくらいまでめいっぱい食べて、それからマリを殺して私も死にます』って。ねえ、何が言いたいかわかる? つまりね、私は食べることが好きなのと同じくらいにマリのことが好きなんだよ。そして今私は見ての通り裸だし、シャワー浴びてすっぴんだし、ほんの数分前までマリにたっぷりかわいがられて身体は気怠くも心地良い疲労に包まれていて、今すぐにでも寝られちゃいそうなくらい。だけどこのまま寝るわけにはいかないんだよ。なんでかわかる?」
「なぜならとてもお腹が空いているからだ」とマリは答えた。
 ときわは満足げにうなずいた。「さあ恋人よ、マックスバリュまでひとっ走り行ってきて。そして私のためにおうどんといい感じの薬味のセットを買い揃えて戻ってきて」
 ときわはマリのことを好きなのと同じくらいに食べることが好きなのだ、とマリは思う。マリはときわのそういうところを好ましいと感じる。
「他にいるものは?」とマリは聞いた。
「たとえば」
「お酒とかお菓子とか」
「別にいらない」
「わかった、待ってて」
 マリはジーパンをはき直して財布とスマホを持ち、鍵を指先に引っかける。玄関でスニーカーを履いている時に、
「ねえ、マリ」
 ときわの声が呼びかけた。
「大好きなマリ。いつか教えてね、マリが一番怖いもの」
 ときわは元々鋭いところがあって、反対にマリは不器用で嘘が苦手だ。だからさっき恐いものを聞かれて曖昧な返事を返した時、ときわはマリのごまかしにすんなり気づいたのだろう。
 本当はマリの心の中には「この世で一番恐いもの」がとてもはっきり鮮明にある。それはずっと長い間マリを縛り続けているものだった。
「別に急かしたりするつもりはないからさ。気が向いたときに聞かせてよ。私は聞きたいよ? 私の知らないマリの弱いところ、見せてくれたらますます好きになれるって気がするから。まあ無理にとは言わないけど。……でもやっぱ聞きたいな。……ううんでもやっぱ無理はしないでいいからあくまで。はいゴメン、行ってきて」

 深夜に一人で歩くのは気持ちいいから好きだ。しかも今みたいな季節は尚更だ。田んぼで歌う蛙の声だけが世界に満ちている。車通りはほとんどなくて、町は時間が止まったみたいに思える。自動販売機がたくさん並ぶ個人商店「フードショップ治兵衞」の駐車場には、地べたに腰を下ろして気怠げに雑談している高校生くらいのヤンキーたちがいて、彼らはかわいらしい妖精みたいに見える。
 住宅街を抜けて街灯のない真っ暗な田んぼ道に出る。防犯灯のない道は極端に暗い。それで今日は星が一切出ていないのだと気づいた。一番近い灯りまでは500メートルほどあった。トラクターや農耕用の道具が集められた農協の倉庫だった。倉庫までの道を、灯台を目指して暗い海の中を泳ぐような気持ちで歩いた。
 GUMIに出会ったのはその途中、200メートルほど進んだ時だった。暗い道の真ん中に、周囲よりもさらに濃厚な黒に染まった、まるい穴が浮かんでいた。
「どうすれば元の場所に帰れるのかわからない」穴は言った。
 違う、とマリは思った。穴の中にいるものが、それをしゃべっているのだとわかった。
 子どもの声だった。
「苦しい」とそれは言った。
 マリが知っている声だった。
「助けてくれるか? 俺のこと」
 マリの身体は、いつしかぶるぶると小刻みに震えている。
「お前は誰だ」とマリは言った。
「知ってるよな?」即座に、マリの言葉にかぶせるようにそれは聞き返した。
 マリは口をつぐんだ。
「知ってるよな? お前は知ってるよ」穴の中の誰かはマリを糾弾するように言った。
 姿はまだ見えない。けれども、皮膚のこすれるような音がして、それが今にも穴の中から這いだそうとしていることがうかがわれた。
 マリは言う。「俺はお前なんか知らない」
「どうして嘘を吐く。ごまかすなお前は知ってる」
 その声は確信に満ちている。
 いやだ、もうこれ以上この場所にじっとしていたくない……。マリは一歩後じさりした。心の底から怖いと思った。気がふれてしまいそうだった。
「ごまかしてないしお前なんか超怖いよ。悪いけどもう行くから!」
 元来た道を戻ろうと穴にきびすを返したマリの背中に、
「行かないで!」
 金切り声が刺さった。
 ぞっと悪寒が足下から沸き立ち、一瞬で全身を包んでこわばらせた。
 気がつくとマリは叫びだしていた。足はいつの間にか走り出していた。足がもつれ転びそうになりながら、必死で元の体勢を取り戻し、息せき切って走りまくった。マリは自分自身の甘さを呪った。これまで関西圏でGUMIが発見されたことは一度もない。だから連日のニュースを聞きながら、あるいはときわと話をしながら、謎の地球外生命との接触なんて遠い彼岸の出来事だと思っていた。けれどもそうではないのだ。ときわの言う通りだった。いつどこでGUMIとばったり遭遇してしまうかなんてわかりはしないのだ。マリは先刻の話の最中に、しっかりと覚悟を決めておくべきだったのだ。
「マリ」
 後方からよく聞き知った声が呼ぶ。
「マリ、マリ」どんどん近づいてくる。「一人にしないでマリ。ここはひどく寒い」
 たまらなく懐かしく、愛おしい声だった。それでいて——マリは確信していた——その声の主は、マリがこの世で最も恐ろしいと感じる人物なのだ。
 腐臭が鼻をついた。その人物はもう、マリのすぐ後ろまで距離を詰めているのだった。振り返ればその姿を見ることができるだろう。絶対に見たくない、とマリは強く思った。
「逃げられると思ってる?」マリの後ろで子どもが囁く。
 マリは何も答えない。ただ前だけを見て全力で走り続ける。
「絶対に無理」と穴は言った。
「うがぁっ!?」
 左の手のひらに激痛が走った。思わず見下ろすと子どもの側頭部が見えた。マリはぎくりとしてまたすぐに目を逸らした。熱くどろっとした液体がぼたぼたと地面に落ちるのがわかった。マリは乱暴に腕を振り回して子どもを振りほどこうとした。すんなりは離れてくれないと理解して、立ち止まり、それから目を背けたままで足を振り上げた。
 蹴り上げた足が子どもの腹にもろに入ったことが感触でわかる。マリの手に噛みついていた小さな口がずるりとすべるように抜けて、身体に追うように後方へ飛ぶ。マリ自身の血が飛沫となってぱっと散り、アスファルトで硬質の音をたてる。
「マリ、マリ、マリ、酷いことをするなよマリ!」
 呪詛の言葉が耳からすべりこんでくる。これ以上聞いていると本当にどうにかなってしまいそうだった。
 ふいに声が止んだ。
「お前はもう逃げられない、もう遅い」先刻までとは様変わりした、温度の低い声が言った。「俺はどこまでもお前を追いつめて絶対に穴の中に放り込む」
 心臓を雑巾みたいにぎりぎりと絞りあげられたみたいな心地がして、呼吸が苦しくなった。もう何も考えられなかった。
「マリ! 行かないでマリ!」元の温度に戻った幼い声が苦しそうにがなる。「一人にしないで! 俺は——」
 ——穴のまくしたてる声が聞こえたのはここまでで、それ以上はもう届いてはこなかった。周囲を満たす蛙たちの声が、か弱い声のすべてをかき消してしまった。

       

 ときわ。スーパーに行く道の途中でGUMIに遭った。とりあえずひとまずは逃げおおせたんだけど、今部屋に帰るとときわのことを巻き込んでしまうことになりそうだし、しばらく戻らないことにするよ。悪いけどうどんはもう少し我慢して。口に合わないかもだけどカップ麺の買い置きがあるし(蒙古タンメン中本)、りんごもあるし、冷蔵庫には野菜の残りとか卵とかいろいろある。好きに使ってくれていいから。じゃあほとぼりが冷めたら帰ります。探さないでください(失踪者風)。……大丈夫心配いらない。ときわ、しばらくはくれぐれも外には出ないで。

 ときわにLINEでメッセージを送って、それからマリはまた走り出す。一度住宅地に戻って町の中を進む。途中で道を逸れ、鳥居を抜けて奥石神社の境内を突っ切りショートカットする。境内を抜けると再度住宅地のはずれに出る。騒音がだんだんと大きくなって、国道八号線が見えてくる。国道の下を抜ける地下道をくぐり、並行して走る歩道を進むとセブンイレブンの看板が見えてくる。このまま国道沿いにしばらく歩けばマックスバリュが見えるはずだけど、もうときわにはちゃんと伝えてあるのだし、そこまで行くつもりは今のところなかった。とにかく今は左手のひらからとめどなく出血しているし、これをなんとかしないといけない。コンビニって包帯売ってるんだっけ……?
 深夜とはいえ国道沿いのここのセブンは大抵賑わっているのだけど、今は駐車場に車は一台きりしか止まっていない。入店音。大学生風の深夜アルバイトくんが「いらっしゃいませ」と言う。それからマリを見て、一瞬ぎょっとした風に見えるが結局何も言わない。マリは商品棚を横目に見ながら歩き、セブンのプライベートブランドの包帯を見つける。その他応急処置用に必要そうなものは大体揃っているように見えてひとまず安堵する。そのままトイレに入った。鏡で自分の姿を確認する。案の定手のひらを振り回した時なんかに飛沫が飛び散ったらしくて、全身のいたるところが血で汚れている。デニムのそれはあまり目立たないから後回しにするとして、とりあえず顔や腕なんかに付着した血を拭き取る。
 左手の血を洗い流すと、くっきりと確かな、小さな歯形が残っている。思ったよりも傷自体は浅いのかもしれなかった。出血はもう止まっていた。包帯は必要ないかもしれない。
 ときわからの返信がないかスマホを確認する。返信はなく、LINEを開いてもマリのメッセージは既読になっていない。そのことを残念に感じつつ、同時に安心もする。ときわは基本的に返信がとても早いし、今みたいにそうじゃない時はたいていもう眠ってしまってる時なのだ。前向きに考えれば、余計な心配をかけずにすむってことだ。
 トイレから出ると待っている女性がいる。いつからそうしていたのか、マリはまったく気づかなかった。だらだらLINEなんか見て申し訳なかったなーと思いながら軽く会釈して横を通り過ぎようとすると、
「あれ、門谷じゃん」
 マリは相手を見た。海外のバンドTシャツの上にうすでのパーカーを羽織り、下はタイトスカートに黒タイツ、ミルク色のキャンバススニーカー。真っ黒なおかっぱ頭の下のやや両端につりあがった鋭い目つきはどことなく苛立っている感じがして、そのことを押し隠さないふてぶてしさもまた共存しているふうで、つまりは総じてとがった印象。……で、誰?
「あ、もしかしてわかってないでしょ?」
 え、まじで誰? ——とマリは心の中で思いながら、「おお!」と言う。「なんだよ久しぶりじゃん」
 限りなく自然に取り繕えたという手応えがあった。少なくとも自分が相手のを覚えていないことを悟られずに済む程度の演技はできたはずだ。
「名前を呼べよ」と彼女は言った。
「え?」
「名前。昔は名前で呼んでたでしょ」
「や、なんていうか、久しぶりだから照れくさいっつーか」
 彼女は押し黙り、鋭い目でじっとマリを見つめる。明らかに疑われているとわかったけど「本当は知らないんだよね」とは今更言いづらい雰囲気だ。
「それか、あんまん買ってよ」彼女はレジカウンター脇の蒸し器を指さして言う。
 マリは誰だかわからない女にあんまんを買う。「袋は要らないです」とマリの後ろから彼女が言う。マリはあんまんをそのまま受け取る。あったかい。
「行くよ」そう言って彼女は先に店を出る。マリは駐車場であんまんを渡す。手に取るなり彼女は即座にあんまんにかぶりつき、「これで手打ちにしてあげるよ」と言う。「門谷は明らかに忘れてるけどね」
「そんなことないって」この期に及んでマリは言う。
「手打ちか、平手打ちか選びな。嘘吐くなら後者ね」
 マリはさすがに潮時かと思いつつなおも弁解の言葉を探すけど、
「嘘だよ。手、痛いじゃん」と彼女は言う。携帯電話をいじっている。
 マリのスマホの着信音が鳴る。ときわかもしれない。マリは慌ててバックポケットからスマホを引っ張り出した。けれども発信元はときわじゃなく、「橋田」だ。
 マリは目の前の女性を改めて見た。「橋田」とマリは言った。着信音が止む。橋田はパーカーのポケットに携帯をしまう。そういえばずっと昔、連絡先を交換したんだっけ?
 橋田花。中学の同級生。同じクラスになったのは一回だけで、その時だって会話らしい会話はほとんどしなかった。今ほどではないにしろ橋田には当時から鋭い雰囲気があって、他の連中とは全然違っている風に見えた。他の女子たちが仲良しのグループを作り政治的にのけ者を作ったりして楽しんでいる時にも、橋田は階級や派閥に左右されずフラットにものを言った。だから橋田は声の大きい連中からは嫌われたし、大人しい連中からは「橋田さんと仲良くするとまた目をつけられるから」と距離を置かれ、結果的にすぐに孤立してしまった。
「それでも全然気にしてる風じゃなかったし、孤高の存在って感じだったよな」とマリは言った。思い返せば橋田は、そもそもあまり学校にも来なかったし。
「そんなことないっていうか、自分ではまあ根本はフツーの中学生だったと思うけど?」橋田は首をかしげて言う。「でもあの当時橋田はすでに『例のあの人』に選ばれてしまってたからね」
「……うん?」
 今何を言ったんだ?
「『使命』ってのを与えられたばかりだったから、正直色々忙しくて大変ではあったよね。それがなければもう少しフツーに学生生活送ることもできたかもだけど。橋田だって本当はみんなともっと仲良くしたかったんだから」
「待って、使命って?」
「使命っていうのは——まあ簡単にいうと正義の味方なんだけど。いやどっちかっつーと正義の味方を——」
「いやいや、悪いけど今俺橋田の話に全然ついていけてないから。『例のあの人』って誰? ハリポタの話?」
「あはは」
「いや、あははじゃなくて……」
 マリにはまだ橋田の人物がわからない。電波系? スピリチュアル? 今は笑ってるけどさっきまでは随分真面目な顔で話していたし。
「わかってるよ門谷。今あんたが思ってること」あんまんを食べ終わると橋田はそう言い、ポケットからマルボロの赤い箱を取り出して火をつけた。「あんたは、橋田の頭がおかしいんじゃないかと疑ってるんでしょ?」
「まあ……そうだね」自分のことを名字で呼ぶやつも、他に知らないことだし。
 橋田はにっと笑って言う。「その直感は当たってるね」
「あ、そう?」……。「でも橋田がそこを認めてしまうと、今まで電波系だと思ってた橋田の常識人度がちょっと上がってまともっぽく見えてきたりもするんじゃん? 難しいですね?」
 橋田がまた笑う。「門谷って、前から思ってたけど結構面白いよね」
「そう?」
「そうだよー。中学の時も思ってた。ちょっと仲良くなってみたいな、とか」
「そうだったの。俺は橋田のことよく知らなかったっていうか今もほぼ知らないわけだけど」
「そういう歯に衣着せぬとこがいいよね。上手に嘘とかつけなさそうだし信用できる」
「それバカってことじゃん?」
「ちがうよー」
「橋田はとにかく『友達なんていらない全員死ね』って感じかと勝手に思ってた」
「だからそれは誤解だってさっき言ったっしょ?」
「うん、わかった」
「でもよかったよ門谷ー、今日こうしてあんたに会えて」
「おー久しぶりー」
「いや、っていうかそういうんじゃなくて、や、まあそういうのもうれしくはあるんだけども。でも今日会えてよかったっつったのはもう少し差し迫った理由のためでさ」
「うん、どういうこと?」
「つまり橋田はあんたを助けられるかもしんないんだよね」
 橋田はマルボロを店先の灰皿に押しつけてすりつぶすと、すぐそばに止めてある大きなバイクのシートに寄りかかるようにして立った。
「本題に入るけど」と橋田は言う。「あんたの手のひらにある噛み疵はGUMIのつけたものだよね」
 マリは驚きに目を見開いた。「橋田、GUMIを知ってるのか。橋田も会ったのか。なら、どうすればGUMIから——」
「聞きな」橋田は有無を言わせないはっきりした語調でそう言ってマリを制止した。「時間がないから今この場では一番重要なことだけをさっと話すよ。門谷はGUMIに噛まれたから、たぶんその手のひらの疵の奥にはGUMIの種が埋まってる」
「GUMIの種……?」
 橋田はうなずく。「種はこれからすぐに発芽して、門谷の中から出てくる。具体的には、瑞々しい真っ赤な果実、グミの実によく似た実をつけてね」まるで料理のレシピでも諳んじるみたいな調子で橋田は続けた。「実はすくすく育ち、熟すと皮が勝手にべりっと剥がれる。……そうして中から生まれてくるのは暗い穴だ」
「GUMIの穴……」
 橋田はまた、今度はいささか深刻な顔つきでうなずく。「そう、それは新しいGUMIの穴。人間を飲み込む穴。きっとあんたは穴の中で無類の恐怖にやられ、発狂して、今世間を……ってか世界を混乱させまくってる例のテロリスト連中みたいにされてしまう。それがGUMIの繁殖サイクル。あんたはもうその中にいる。連中のサイクルに取り込まれてる。でも安心して、橋田が助ける。言ったでしょ、正義の味方だって。さ、バイクの後ろに乗りな」
 ——俺はどこまでもお前を追いつめて絶対に穴の中に放り込む。
 あの時、穴が「あいつ」の声でそう宣言していたのを思い出す。あれは本当のことだったのだ。予想以上に事態は深刻だった。マリはときわのいるマンションに直帰しなかった自分の選択を少しだけ褒める気になった。
「ほら、行くよ」橋田がマリを急かした。「それか、まだ橋田のこと信用できない?」
「いや」そもそも今のマリには橋田に頼る以外にGUMIへの抵抗手段は皆無なのだ。選択肢はない。「よろしくお願いします」
「任せてよ」

       

 夏、琵琶湖の内湖の一つ、西の湖の岸辺ではヨシ原が広大に繁茂する。一番背の高いものは茎の高さが5〜6メートルにも達し、日中には青々とした濃緑の茂みが自然の力強さをこれでもかと自己主張する。
 今、緑は夜に沈んでいる。黒々とした葦の迷宮の中、浅瀬に渡された遊歩道の板を踏みしめ進みながら聞く、板の軋む音、風に流れる湖面のせせらぎ、葦のささめき、時折の女の悲鳴みたいな鳥の声。橋田はマリのすぐ前を行く。遊歩道は何度も折れ曲がる。前後左右の視界をすっかり遮断する葦の群れの中で、マリは方向感覚を失っていく。世界のどこでもない場所へと追いやられていくような心持ちがする。
「それで」こっちを見ずに橋田が言う。「門谷は何を見たの、GUMIと遭った時」
「……」
「答えたくない?」
「答える必要があるなら答えるけど」
 橋田はマリを振り返る。「必要はないよ、これはただの好奇心」
「なら、悪い」
「悪くもない。門谷は優しいね」再び前を見て歩き出す。「必要はない。橋田はただあんたのために経路を作るだけだから」
「経路?」
「できる限りのサポートはするけど門谷は最終的に自分で助かるしかないってこと。言葉で話すより体験してもらった方が早いよ、少し歩くペースあげよっか」
 湖畔にバイクを置いて歩き始めた最初と比べ、空気の色が変わってきたように感じられた。いつの間にか雲の切れ目からは月が覗いて、二人の進む歩道だけが雪を敷き詰めたように白い。ヨシ原とその足下の浅い湖面は青一色に染まって、それらが寒さを呼び込んでいるような気がする。
 やがて前方左右を隠していた葦の群れが途切れ、視界が開けた。そこは最初とは別の湖畔だった。今にも崩れ落ちそうな頼りない納屋が一軒建っていた。背の高い葦が、まるで納屋とこの岸辺の存在を周囲から隠蔽するように茂っていた。納屋の後方にはおよそ三メートル弱の急勾配の上り坂があって、坂の上では並ぶ林の木々たちが風にさらされざわついている。「着いたよ」と橋田は言う。マリは橋田のあとについて納屋に入る。鍵はかかっていず、引き戸は容易にがらりと開く。
 天井からぶら下がった裸電球のまわりをヤブ蚊が飛び回っている。湖畔の納屋らしく小さな舟や網、それに草刈り機やその他農業器具があるけれど、それらはあたかも主役の座を引きずり下ろされでもしたように小屋の奥側に追いやられ乱雑に積み上げられている。代わりにこの建物の中心に居座るのは刈り取られたたくさんの葦たち、それにこの場所においてあまりに不調和で浮きまくっていているライラック色のベルベットの絨毯と、絨毯の上にだらりと座る、パジャマを着た四人の女たちだ。年齢はわからない。皆ばらばらに見える。三人が煙草を吸っていて、一人は葉巻を吸っている。葉巻の後ろにはどっしりした水色の箱が一つ置かれていて、それはマリが思うにおそらくクーラーボックスで、絨毯やパジャマの女子たちとはまた別の感じで浮きまくっている。……つまりは全体として統一感が欠如しており、つじつま無視の混沌とした夢の中の風景みたいに感じられた。部屋全体が煙っているのは喫煙のためだけではなくて、輪になって座る彼女たちの中心では象牙色の小皿の上で香が焚かれていて、白い煙を立ち上らせている。東洋的で、重く、少し酸い匂い。こんな風に煙の蔓延した屋内にいたらすぐに参ってしまう、とマリは思うが、橋田含めた女性たちにとっては何らおかしいことはないらしく、まったく意に介す素振りはない。
「GUMIが出たんだ」橋田が抑揚のない声で言った。
「まじ? この町で?」「ああ、ついに望町にな」「なんか最近多くない?」「いやいや、ここに来てからは初めてじゃん」——かしましくも気怠げな声たちがそれぞれに言った。
 女の一人が吸い殻と灰で山盛りになった灰皿に煙草をこすりつけた。まだ長い煙草に真っ赤なルージュの色がうつっている。彼女はマリを一瞥し、それからすぐに橋田に視線を移して聞く。「その子が?」
 橋田がうなずいた。
 マリは灰皿の中でルージュの煙草がまだ燻っているのを見る。煙は徐々に、もくもくと大きくなっていく。他の吸い殻たちに火が延焼している。砂の城が崩れ落ちるように灰がこぼれおちてベルベットの絨毯を汚す。四人の女たちは座ったまま腰をずらして輪の間隔を広げた。マリたちも輪の中に入れということらしい。二人は腰をおろした。煙で頭がくらくらする。自分は今なぜここにいるのか、わかなくなりそうになる。
 橋田はマリの左手首を握った。マリの手のひらを上にして輪の中心へ差し出した。手のひらは薄桃色に色づき、なだらかな小山のように膨らんでいた。
「すくすく育ってるね」少し大きすぎる丸めがねをかけた煙草の一人が言った。
「つうか間に合う?」その隣のボブカットの女の子が言った。
「間に合わせないとね」と言って橋田がマリを見る。「彼女が待ってるんじゃんね?」
 それはさっき歩きながら話したことだ。
「なんだよ彼女持ちかよ」大した感興もなさそうに葉巻が言う。
「関係ないっしょ」と橋田は葉巻に言い、それからマリを見た。「それじゃ、必要なことだけ手早く説明するね。今は質問はしないで、時間ないから。見ての通りあんたは今、健やかなGUMIの果実をせっせと育てる子育てパパと化してるから」
「子育てパパ。ウケる」丸めがねがにやついた。
「わかった」とマリは答えた。
「まず橋田を含めたここにいる五人は〈バイパス〉」橋田は言う。
「バイパス。経路を作る人」マリは言う。
 橋田がうなずく。「そう。例えばシャーマンが人と神を繋ぐように、バイパスは人と〈観光客(ツーリスト)〉を繋ぐの」
「ツーリストは遠い星からやってきた救世主」ルージュが唐突に大きな声で、読み上げるように言った。
「数多の星を病気にしながら星間移動を繰り返す悪性のウィルス〈GUMI〉から人類を守る善なる存在」ボブカットが言葉を引き継ぐみたいにして言った。
 葉巻が言う。「ツーリストは『恐怖の拡散』によるGUMIの繁殖への対抗措置として当該惑星に生きる生命体に『恐怖に打ち克つ力』を与える」
 丸めがねが言う。「それは抗生物質の投与——医者による処方に似ている。ツーリストはいわば旅の医師団」
 それらの言葉はあらかじめ取り決められていたかのようにスムーズにリレーされ流暢な気持ちのいい滑舌で語られる。それぞれの語がマリの耳に催眠的、暗示的に響いたのはそのためかもしれない。
 橋田が言った。「頭から信じ切るわけにはいかないって気がするんだけどね。橋田たちにとってツーリストは遠すぎて、あまりに捉えがたいから。でも今はこんな情勢だし、なりふりかまっていられないんだよね。大人しくのうのうとGUMIになぶり殺されるよりは、多少胡散臭くても第三者の助けを受けた方がましだと思わない? そんな感じで橋田たちはツーリストの提案を受けてバイパスになったの。そしてあんたをここに呼び込んだ」
 マリは、自分の頭が今の話に全然ついていってないと感じる。あまりにも絵空事のように感じられすぎて、映画か何かの話をされているような気分がする。
 気にせず、橋田は続けた。「ただし人間がより高次の存在であるツーリストに直接干渉することは不可能なの。だから……門谷、これからあんたを高次の世界に飛ばす」
「高次の世界」とマリはバカみたいに繰り返す。頭の中にたくさんのクエスチョンマークが飛び交っている。「それは……よくわからんけど、どうやって?」
「〈ソーマ〉を使う」と橋田が答えた。
「聖なる水ソーマ!」と誰かが叫んだ。——(煙による頭の回転の鈍磨は着実にマリを蝕んでいるようだった。マリにはもうその叫びがここにいる四人のうちの誰の口から発された言葉なのか特定できなかった。)
 別の誰かが続けた。「新種のイネ科植物〈ハオマ〉は葦の突然変異によって生まれた」
 また別の誰かが。「ハオマに寄生する麦角から抽出・精製したハオマ・アルカロイド」
「ソーマはこれを元に配合された神聖な液体」
「まだ世界のどこの国でも規制されていない最新の脱法ドラッグ」
 おいおいなんかこれやばいんじゃない? とマリの頭の中にかすかに残った理性が警鐘を鳴らす。しかし抵抗は難しい。気づけば思考だけでなく身体の感覚まで鈍くなっている。
「門谷、いい? ソーマを飲んで意識を高次に跳躍させることで、人はツーリストに干渉することができるの」
「ソーマはめくるめくような幻覚体験と水の底をたゆたうようなダウナーな快楽の中に服用者を連れていく」
「めくるめくトリップ、溶けちゃいそうな身体、ああ、熱い……」
 視界は霧に包まれたみたいに不明瞭で、彼女たちの姿はうすぼやけた輪郭としてしか捉えられない。一寸先の煙の壁の中から華奢な腕が伸びてきて、マリの肩を掴んだ。なされるままに引き寄せられ、抱きしめられる。マリは彼女の方に倒れ込む。スカートから伸びた温かい膝がマリの後頭部を受け止めた。
「先、言っとくけどさ。服用すんのは結構な危険行為なんだよね。〈未帰還者〉って呼ばれてるんだけどさ、オーバードース(過剰摂取)によるバッドトリップの末に、戻って来れなくなっちゃった人。そういう人、過去に何人もいるんだよ」声はさらに間近で妖しく囁く。「でも、門谷は拒否できないよね? 放っといたら、それ以上に悪い場所へ行っちゃうんだもんね?」
 かちゃり、ぼふ、と音がする。誰かクーラーボックスを開けたのだろう、とマリは頭の隅で考える。「ありがと」とすぐ頭上で声が言う。
「さあ試練の時だ。乗り越えて戻ってくるにせよ、快楽に溺れて未帰還者になるにせよ、あんたが〈デフォルト〉でいられるのは今日限りだから」
 おめでとう、デフォルト卒業おめでとう、と他の連中は口々に言う。拍手の音さえ聞こえてくる。マリにはそれが何を意味しているのか皆目見当もつかないが、マリの理解などどうでもよいとばかりに、彼女たちの段取りは進められていく。マリの口元に、固く冷たい質感の何かがあてがわれた。それはマリの上前歯にあたってカンと音を立てた。丸みを帯びた——グラス。グラスが傾けられ、冷たい液体が口内に流れ込む。
 ——うおおにがい!!
 液体が喉元を通ろうとした時——即座に、なんとか身体を横に倒して——そしてマリはむせ返って咳き込んだ。苦すぎる液体がだらしなく頬を伝って絨毯を汚した。その様子を見ていた女たちがどっと沸き、甲高い笑い声が納屋を揺らす。
 頭上の手のひらがマリの髪をすいた。「反抗的じゃん」と言った。
「言うね〜橋田〜」
 ますます湧く深夜の納屋のパーティーピープルたち。
 耳元に温かな吐息があたる。耳腔をくすぐるように橋田は甘く囁く。「恋人のいる男に無理矢理こういうことするのって橋田的には悪くない気分。っていうか門谷のことは昔から気に入ってたから尚更かも」
 マリにはその言葉の意味が最初わからない。けれどもすぐに理解する。
「んん……!」
 柔らかい感触がマリの唇を塞いだ。女たちが祝祭的な歓声を上げた。橋田は口移しで謎の液体ソーマをマリの喉に流し込む。橋田の昂ぶった鼻息が熱い。苦い液体が喉元を滑り落ちていく。
 ——変化は、そう長くない時間の後に立ち現れる。
 眩しい、とマリは思った。依然として屋内には真っ白な煙が蔓延していたが、マリの目は濃密な煙の向こう側、例の裸電球がぶらさがっているあたりに、はっきりと光輝を見出していた。天井がぐるぐると回転して見える。光輝もまたゆらゆらと揺らめいている。その単一の色彩、橙と黄色の中間くらいの色をした光は、ゆっくりと、顕微鏡ごしに見たガラス板上のアメーバが分裂するみたいに四散し……散開して……増殖のたびに色彩を豊かに、かつぎらぎらと濃厚に変容させていく。万華鏡のように華やかに色が咲く。ああ……幻想的だ。
 視界の揺れはさらに強まっていく。納屋ごと大海に突き落とされ、荒波の激しさにもまれているような気分。足場がひどく不安定だ、とマリは感じる。自分の身体がずぶずぶと地面に沈み込んでいく気持ちがする。マリは震えている。目をかっと見開いて光輝を見上げながら、いつの間にか橋田の腰に手をまわして、脅える子どものように強くしがみついている。
 救いのような美しい声が降り注ぐ。
「るごいれが、じょりびれお、くにっへ?」
「らいがじょうじゃ、おじょじょばあかさ、じをんごじゃ……」
「ぴるる、うぃ、じょを、じぬあっかせぷにこ」
「ばりもら」
 マリは今や悟った。言葉に意味はないし肉体も無意味だ。納屋に充満する紫煙の中、裸電球の光輝が極彩色で世界を祝福する。極彩色を目一杯浴びた極彩色の橋田の尊い姿にマリは神を見出す。神は両手を広げる。今までマリを取り押さえ、そのことのためにマリの身体を徐々に溶かし始めていた四人の女たちは、マリから身体を離し橋田を中心に身体を密着させた。マリは彼女たちの姿をよくよく目に焼きつけたいという渇望が自分の心中に強く湧き上がるのを感じる。絨毯の上でのたくるようにして距離を置いた。膝をつき、手をつき、前のめりになって彼女たちを見守った。五人の女は唇を寄せ合った。抱き合い、愛で合い、慈しみ合う。
「ああ……!」
 マリは思わず声を漏らした。
 女たちはついに溶け合い、一つになったのだ。光輝の御許で行われるあまりにも感動的な光景を前に、畏怖の念を抱かずにはいられなかった。たまらなく幸福だった。頬を伝い落ち口に流れ込んだ涙は極上の蜜の味がした。色彩の渦はますます氾濫し、世界のすべてを胎内に浸していく。虹の中にいる、とマリは思う。もうこのままずっとここでこうしていたい、と強く望む。

 目の前にいるのはもはやただ一人だけだった。五人の女を飲み込んだ大女は二メートルを超える巨躯を持つ。容姿は人間の女性のそれに似ている。何も身につけていない裸体は荒野を力強い足取りでひた走る野性のバッファローのように隆々と頑強で活力に満ちあふれている。乳房の膨らみはない。乳頭もない。幹のような身体に腰のくびれはない。五本指だが手にも足にも爪はなく、鎖骨もなくて首はただつるっとしている。——全体としてあるはずのものが多く足りず、だからこそ存在として完璧に見えた。それがツーリストだった。
 ツーリストはマリの涙をその大きな手で拭った。表情はまるで変わらなかった。生命の光がらんらんと輝く強い瞳がマリを覗きこんでいた。その瞳を見つめ返すだけで、また気も狂わんばかりの激しい感動が押し寄せ、涙は繰り返しあふれ出すのだった。
「——お前」とツーリストは言った。「お前、力が欲しいのか?」
「欲しい」とマリは言った。
「どんな力だ」とツーリストは訊ねた。「お前を恐怖させるものを、殺す力か」
「違う」とマリは答えた。
 ツーリストは表情を変えなかった。それでもマリには、目の前の大女が少し笑ったように感じた。
「じゃあお前は、お前を恐怖させるものを一体どうしたい?」
「俺は——」マリは答えた。「——俺は癒やしたい。……俺は、だから、優しい力が欲しい」
 ツーリストは顔をぐぐっと近づけて、マリの顔を覗きこんだ。さながらマリの言葉の真偽を探るように。マリの心の深部を探るように。それから、今度は確かに笑った。「は」と言った。口の両端が、微妙に引き攣りながら、チーズがちぎれるみたいにして裂けた。
「やる」とツーリストは言った。そしてその大きな両の手のひらを差し出した。手のひらの上に光がある。あの裸電球の光輝とは比べものにならない、か細く、頼りなく、すぐにでも消えてしまいそうな弱々しい光だ。ツーリストはそれを、地面に落ちた雛鳥を元いた巣へ戻すみたいな繊細な所作でマリの元へ運ぶ。
 マリはそれを受け取るために手を差し出そうとしたが、大女は黙って顔を横に振った。
「じっとしていろ。そして見ろ」ツーリストは言った。「この光はお前の力だ。俺がお前にくれてやるんじゃない。何せこれはもともとお前の中にあったものだからな。わかるだろ、ええ? これは、お前の中で、燻っていたもんだ。
 さあ、光を見ろ。お前のもんだ。これはお前の根本、お前の大元。お前の優しさであり、同時にお前の激情だ。手にしろ。そしてお前の望む通りにしろ。知ってる。お前が望むのは祈りだ。ならば祈れ、お前の気が済むまで心のままに」
 マリの心の中に吸い殻でいっぱいの灰皿みたいな場所があって、うず高く積まれた吸い殻の山の奥底に今も辛うじて燃え続ける一本がある。一本の煙草があげる目に見えぬほどか細い一筋の煙は、きっとたむけの焼香だ。心から愛していたからこそ失ってしまった時には半身をもがれたような痛みと悲しみに襲われたし、今も思いは続いている。マリは知った。マリにとって恐怖を克服することは、悲しみを断ち、それによって過去に失われた自分の半身を取り戻すことと同義なのだ。

       

 目覚めたマリは青い光の中にいる。裸電球は灯りを落とされ、充満していた煙は霧散している。開け放たれた引き戸の向こうから夜明けの手前の青白い光が射して、ライラック色の絨毯を眩しく滲ませている。
 外には女たちの姿がある。一人は納屋の中にあった小舟を引っ張り出して葦の茂る湖に浮かべ、オールを握って今にも漕ぎ出そうとしている。一人はこちらに背を向けて突っ立ち、身体を揺らして鼻歌を口ずさみながら歯を磨いている。一人は地べたに仰向けになって、足をぱたぱた忙しなく上げながら、頭上にかざしたスマホとにらめっこをしている。一人は着ていた服を脱ぎ始める、それから体操を始める。泳ぎでもするつもりだろうか。マリには、ここの水は泳ぐには澱みすぎていると思えたが、今更マリの考える常識が彼女たちに適用できるとも思わない。
 まだ夢でも見ているのではないかという気がした。疲労の蓄積を感じたが、酩酊感はすっかり消え去り、意識は極めて明瞭かつ爽快で、同時にとても穏やかだった。五感で体感するすべてが新鮮に感じられた。風に流れる湖面のせせらぎ、葦のささめき。時折の鳥の啼き声は、さながら朝の到来を喜ぶように。
「バイパスは役目を終えたよ」背後からの声がマリの景色に現実の色をさす。
 振り返ると橋田がいる。パジャマに着替え、あぐらをかいて、片方の指先でおかっぱの髪をくるくると弄んでいる。
「準備はいいね?」
「うん」
「覚悟は?」
「決まってる」
「キスしてごめん。酔ってたんだよ」
「チャラい男みたいな言いぐさだな」
「許せ」
「うん」
「忘れて」
「もう忘れた」
「ひどいやつ。でも誠実なんだね。好感持てるよ」
「おう」
「じゃあ——」
 橋田は髪をいじっていた手をおろし、もう片方の手で手のひらをとんとんと叩いた。
 マリは自分の手のひらを見る。左の手のひらには赤く熟した果実がくっついている。
 橋田は言った。「——健闘を祈る」
 真っ赤な果実にぴっと亀裂が走った。果実の表皮は、ゆっくりと剥がれてはぼろりぼろりと手のひらから地面に滑り落ちていった。
 GUMIの穴が露わになる。夜明け前の薄明かり程度では一寸先すら視認できない、底抜けの闇の穴だ。望むところだとマリは思う。GUMIの穴の深淵を覗きこむ。

       

「女の子みたいな名前だね」と、初対面の相手に言われないことの方が珍しいかも。「マリ」という名前は『マッチ売りの少女』の話が好きな母親によってアンデルセンの母アンネ・マリーから名付けられた。
 アンネもそうだった。門谷アンネ。マリの半身、双子の弟。何も言わないでも目に見えるように気持ちがわかるから、いやなところも全部見えるし、日々の喧嘩は避けて通れなかった。それでも誰よりも信頼を置いていた、一番近くにいる悪友。
 アンネは森で死んだ。それは二人が十歳の時だった。あの夜町の大人たちは総出で森に入り、アンネを探してまわった。大声でアンネを呼ぶ大人たちの声からそのことを察したマリもまた、アンネを探して森の中に分け入った。普段から森に入ってはいけないと言われていたから、マリにとってそれは大きな冒険だった。好奇心旺盛でおまけに夢見がちなところがあったから、この時もマリはアンネの身を案じながら、同時に昂揚を自覚していた。自分が真っ先にアンネを発見したら大人たちはどんなに驚くだろうと想像すると、気持ちはますます昂ぶるばかりだった。
 そうしてマリは出会ったのだ、あの化け物のように大きな人食いの樹に。
 森の木々の中でも一際大きな化け物の樹は、じっとマリを見下ろし、マリを喰べてしまおうかどうしようかと邪悪な思案をしているように思えた。一番最初にそんな風に感じられたのはおそらく匂いのためだったろう。その場所には新鮮な、生臭い、そしてマリがこれまでかいだことのない、濃厚な生命の匂いがたちこめていた。
 恐怖に抗してマリは化けものの樹に近づいていった。そうして樹の根元に生々しく光る肉塊が散乱しているのを見出した。やたらめたらにひきちぎられ、強靱な顎と歯でかみ砕かれて多くを欠損したそのばらばらの身体は、そのほとんどが、本来人体の部位のどのあたりだったのか皆目見当もつかないような代物ばかりだった。それでも手首で切り離された小さな手のひらが、そしてマリを見つめる一つきりの眼球が、あるいは欠損しながら残ったばらばらの身体全体から発される生命の残り香が、全霊を以てマリに訴えかけていた。……自分はお前の半身だと。魂の連結する双子だと。
 本当は獣害だったのだろう。アンネの命を奪ったのはおおかた熊か何かだったんだろう。けれども幼かったマリは、化け物みたいな森の樹がアンネを殺して食べたのだと思った。マリを見下ろす化け物の樹が、今にも幾本もの枝を伸ばしてマリを取り押さえ喰べてしまおうと悪い企みを秘めているように思えて、マリはがくがくと震え——
 ——底知れぬ恐怖を抱いた。
 それが今に至るまで一貫してマリが感じる最上の恐怖の光景だ。だからマリを飲み込んだGUMIの穴はマリを回帰させた。穴の底に広がるのは二十年前のあの森の風景だった。

 森の夜は永遠に明けないものに思われた。目に映る風景は冷たい静寂の中に沈んでいて、どこを探しても生きているものなんていないように感じられた。ただ目前の巨樹だけが——二十年を経て、それなりに背も伸びたくましくなった今のマリの目から見ても——獰猛で、邪悪な生命力を全身から迸らせていた。
「マリ、懐かしいな。俺を覚えてる?」
 幼い声が言った。
「俺はお前を覚えてるよ。ずっとずっと忘れない」
 マリは徐々に闇に慣れてきた目を落とし、樹の根元を見る。何度も悪夢に見てきたあまりにも無残な亡骸はそこにはない。
「ずっとお前のことばかり考えてきた。だってそれ以外にやることがないものな。ここはごらんの通り真っ暗で、ひどく寒い」
 化け物の樹の幹の影から、ぬっと、一個の目がマリを覗いた。
「でも、もうこれからは違うんだな」
「あのさ」
「俺はもう一人でいなくてもいいんだな」
「お前は」
「マリ。うれしい、俺は本当に寂しかった」
「違うんだよ、俺は」
「え?」
「俺は、お前と一緒にはいられない」
「……」
 アンネの困惑がマリにまで伝わってくる気がした。それはなんら不思議なことではない、とマリは思う。——アンネの生前も、ずっとそうだったのだ。
 マリはゆっくりと、化け物の樹の近くに歩み寄る。
 人を喰べる邪悪な樹、今もどうやってマリを取り込もうかと算段を立てている——幼い頃に感じた恐怖は、今も驚くほど色褪せずそのままここにある。夜の沈黙に支配された森の中に、恐怖に取り憑かれた自分の鼓動の音がうるさく響き渡っていく。
 マリを見ていた目が、樹の裏側にひっこんでしまう。
「来るな」と動揺した声でアンネは言う。「こっちに来るなよマリ」
 マリはその言葉を無視した。太い樹の幹を挟んで、姿の見えない双子の弟と向かい合った。姿は見えずとも気配が感じられた。……生きている者の気配が。そのことはマリをひどく困惑させた。
「アンネ。お前は昔に死んだ」
 マリは淡々と、事実を告げた。
「それなのにここでこうして、さも生き続けているようにお前が振る舞っているのは——そんなことが起きているのは、きっと俺の気持ちのせいなんだろう」
「マリ」幹の裏側から声が返す。「お前が何を言ってるのか俺にはわからない……」
 マリは淡々と続けた。「許してくれ。お前をこうして蘇らせてしまったのはひとえに俺の恐怖心のせいだ。俺はお前が怖かった。お前の死を見た時から、ずっとだ」
 一度そのことを口に出すと、後は懺悔のように言葉があふれ出した。
「どうしてだろう、いろいろな要素が組み合わさって、俺はお前を恐怖するようになった。怖ろしいバラバラの死体、何かを訴えかけるように見つめる眼球、お前を喰べた怖ろしい大樹。俺がお前を置いてあの場を逃げ出したことも大きかっただろう」
 そう口にして、ああ、と腑に落ちた。
「そうなんだよ」とマリは続けた。「俺はあのときのことをずっと後悔していた」
 大きな人喰いの樹が怖ろしくて、マリはすぐにきびすを返し猛烈に走って町に舞い戻った。いや、今考えてもどうせそうする以外に方法はなかったのだ、あの場でマリ一人で、ばらばらのアンネの肉塊を拾い集めて町まで運ぶわけにはいかなかった。
 けれどもこれは理屈ではないのだ。あの場でマリは恐怖によって完膚なきまでに心折られ、人喰いの樹のそばにいるアンネを見捨てて即座に逃げ出してしまった……一切の逡巡もなく行った自身の決断こそが、アンネへの裏切りとしてマリを苛み、今日にいたるまで苦しめ続けてきたのだった。
「今はどうなんだ」アンネの声が言った。
「今も怖い。今だって、すぐにここから逃げ去りたいくらいだ」
「無理だ」穴が言う。「お前はここから逃げられない。この暗い場所でお前は暮らす。お前はお前が恐怖するお前の弟と、お前が怖れる大きな樹の養分として生きて死ぬ。それはもう決まった」
「いや」マリは言った。「今はっきりとわかったよ。腹は決まった。俺はあの日、アンネの前から逃げ出した後悔を、ここで清算する」
「マリ?」性懲りもなく穴はアンネの声色で呼びかける。
「あいつを冒涜するのはもう大概にしろ」
 マリは恐怖の感情が薄れていくのを感じた。感情が塗り替えられているのだとわかった。恐怖に代わりマリの内側を満たしていく新たな感情、それは怒りだった。
 マリはまだ残る怖ろしいと感じる心に抵抗し、幹をまわる。そうしてアンネの姿を捉える。アンネの正面に立った。
 アンネが戸惑いの表情を浮かべてマリを見上げた。その風貌の懐かしさに思わず胸が痛んだ。同じ目線になって、そうして力の限り抱きしめたいと強く感じた。
 けれどもそういうわけにはいかないのだ。
 恐怖は上から押さえつけてくる力。マリをこれまで押さえつけ屈服させ続けてきたその力——己の恐怖に、打ち克たねばならない。
 マリはアンネの肩に手を置いた。
「マリ、何をするんだ……?」脅えた声でアンネが言った。
 一瞬の夢が醒めたように、アンネの身体がぼろぼろと崩れ出す。GUMIはどこまでも狡猾だ。再び恐怖でマリを縛ろうとする。あの日の惨劇の絵面で再びマリを支配しようとする。
 そうだ、マリは知っている、恐怖はマリと対等ではない、上から押さえつけてくる力なのだ。
 マリはアンネに答えて告げた。「祈るんだ——」
 ツーリストと接触した今となっては、マリはよく知っていた。橋田たち〈バイパス〉のいう〈デフォルト〉とは、無力で無害なごく一般の人たち、つまりは力を持たない人たちのことだ。そして、ツーリストによって力の栓を開かれたマリは、もう〈デフォルト〉ではないのだ。
 今やマリは邪悪なGUMIに対抗するすべを持った戦士——〈超能力者〉なのだ。
「——信仰の力で恐怖に反逆するんだ。終わりだ、アンネ、成仏しろ」
 マリがツーリストとの接触により手に入れた力は、ツーリストの言葉の通り、マリの性質を強く反映している。マリは自分の手のひらとそれを置いたアンネの肩の間に、びりびりと、静電気のようなかすかな痺れが生まれたことを感じた。そして直後、一瞬にして激しい炎がアンネの全身を覆った。祈りの炎は無理矢理に生かされていたアンネの屍を包み、そのことによって慰霊する。アンネの身体はゆっくりと焼け崩れていく。足下からだんだんと黒ずんで、灰へと変わっていく。アンネ、本当はもうとうの昔に死んでしまった最愛の弟。炎の中、その目は確かにはっきりとマリを見つめている。死後も酷使されることとなった可哀想な身体を火に奪われてゆきながら、アンネのまなざしは——気のせいかもしれないけれど——本来の穏やかさを取り戻しているように見える。そしてその身体は糸の切れた操り人形のように化け物の樹の根元に崩れ落ちる。背をもたせかけた幹の中に沈みこむようにして徐々に存在感をなくし、消え失せる。
 その後火の勢いは一気に強まり、化け物の樹までもをいとも簡単に飲み込む。巨樹はばちばちとはぜ、みるみるうちに末端の細枝にいたるまですべてが紅色の光の中で形を歪め、悲鳴のような軋みをあげながらのたうちまわった。たちのぼる巨大な火の柱は煌々と眩しい真昼の光で、暗い暗いGUMIの穴底から夜闇をすっかり剝ぎ取った。

       

 帰還後、マリは近所のマックスバリュじゃなく京都河原町のデパ地下でちょっと良いめのうどんと薬味のセットを買って帰ったけど、ときわは「そんなことよりも」といってこの夜の一件についてマリをさんざん質問攻めにした。そして危険はすっかり去りもうこれ以上心配は要らないのだと知って安堵し、マリの無事を心から喜んでくれた。
 戦いはしかしそこでは終わらない。以降もGUMIは次々と飛来し、危機感は世界規模で増してゆくばかりだった。侵略に対して、ただ指をくわえて見ているだけでは済まされない局面がやってきていた。決断に要する時間はほんの短いものだった。マリはツーリストとGUMI、善と悪の戦いに身を投じる兵士の一人となることを決断する。
 今も双子の魂を背負った兵士は恐怖を振りまく穴との戦いを続けている。仲間の超能力者たちはマリを〈アンネ=マリー〉と呼ぶ。操る力は〈念力発火能力(パイロキネシス)〉。さながらマッチ売りの少女のように祈りの炎を掲げ戦うマリにそのニックネームは割と似合っている、とときわは言う。

文字数:21785

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