ロボちゃんの印鑑登録

選評

  1. 【長谷敏司:2点】
    今回の3作はどれも文章が達者で、本作はとくに読みやすかった。ただ一方、読者を絞り切れていない印象もある。小中学生に楽しく読んでもらうのか、それとも大人にも読ませる社会批評とするのか。どのレベルのリアリティで読めばいい作品で、どこにフォーカスを当てているのか、ということが序盤で明示されるようなエピソードがあると親切。やや焦点がぶれているが、ぶれながらもこの分量のお話を最後まで快適に読ませたという意味では好印象。

    【塩澤快浩:1点】
    冒頭で語られている「ロボットを人間扱いするという芝居」の設定が作中で描かれていない。タイトルを中心に考えると序盤の印鑑を押すシーンがクライマックスになってしまい、展開に困ったから最後に地震を起こした、という印象。ロボットが地方のコミュニティに入って人間社会における行動を学んでいくという流れを作って、たとえば最初はなぜ人間は印鑑を登録しないといけないんだろうと思っていたのが、最後は社会の在り方を理解し、自ら印鑑を押す——という展開のほうが、印鑑SFとして個性が出るのでは。

    【大森望:1点】
    さらっと楽しく読める日常ロボットものとして筋は良く、一定レベルはクリアしている。作中のロジックには多少危ういところもあるが、普段あまりSFを読まない読者向けと考えれば一貫している。むしろ現状だと時代背景の説明は読者にツッコミどころを与えてしまっているだけなので、書かないという選択肢もあり。子どもに読ませるためには、印鑑登録とは何かという点がハードルになるかも?

梗 概

ロボちゃんの印鑑登録

ロボット技術はディープラーニングとiPS人工筋肉によって爆発的に進化した。見た目は人間そっくりなロボットが普通になったし、人間らしい受け答えをして、問題解決の知能もある。作曲したり楽器を弾いたり、巨匠風の絵を描いたりもできる。しかし、ロボットが真の主体的な「意識」を持つに至るシンギュラリティは未だ訪れていなかった。いくら柔らかい肌を持ち、流暢に言葉を話しても、ロボットは未だ人間の指示に忠実に従う機械に過ぎなかった。

ディープラーニングの鬼才、頭松教授の秘書ミチルは突然、山形県にあるJRも通っていない街、御宿町への長期出張を命じられた。教授の作り出した無骨なロボット、「ロボちゃん」の世話をするのだという。ちゃんとしたロボットハンドがあって人間が行う作業が一通りできるが、見た目は昔のSF映画スターウォーズに出てくるR2D2によく似たロボロボしいロボットだった。

ロボちゃんは世界で初めて、自分の住所と家を持ち、メールではなく手紙を出せば届くロボットになるらしい。なのに一切のネット接続機能を持っていない。ミチルは今時の若者らしく、ネット接続ウェアラブルチップを埋め込んでいるので、ネットの最新知識が必要なロボちゃんの質問に、口頭でのコミュニケーションで答えることができる。ミチルは御宿町に於けるロボちゃんの教育係とメンテナンス係を命じられたのだった。

ディープラーニングは何が知能進化のきっかけになるかわからない。今まではSNSにアカウントを持ったりして膨大なネット上のコミュニケーションから学習する人工知能が多数開発されたが、ついに意識は獲得できなかった。ロボちゃんはあえてネットから切り離されたリアルな人間社会でディープラーニングによる人間性の学習に挑んだ試みだったのだ。周囲との交通が少なく閉鎖的な人間関係で完結している割にそこそこの規模とインフラを持つ御宿町は実験環境として理想的だった。ロボちゃんの体内にはエムヴィディア製最新最強のCVIIIコアDLエンジンが搭載され、あらかじめ汎用ロボットしての強化学習が完了していた。ネット接続機能がないのは、実験環境としてネットの情報の影響をミチルを介してコントロールするためと、万一ロボちゃんの人工知能が暴走した際の保険のためだった。

町ぐるみの実験ということで、ロボちゃんは自分の印鑑を作って印鑑登録を行い、住民票まで用意され、人並みに銀行口座も開いた。御宿町内に限っては「一人前の大人」として扱う実験なのだ。ロボちゃんが実印を取り出して印鑑登録を行う動画は日本中、世界中で数千万ダウンロードを記録した。

ロボちゃんの開発で研究費を使い果たした頭松教授はお金がない。ロボちゃんとミチルが住む古民家の家賃は、ロボちゃんが御宿町に一つしかないスーパーでレジのバイトをして稼いだ。人手不足の御宿町ではロボちゃんは歓迎された。ミチルとロボちゃんは毎日散歩をし、ご近所さんと話しをしてたちまち御宿町の人気者になった。

ロボちゃんの元へは世界中から郵便でたくさんの贈り物や手紙が届いた。ロボちゃんと会話するには実際に御宿町に来るしかない。世界中から観光客が訪れてロボちゃんとの会話を楽しんだ。都会育ちのミチルも日に日に御宿町に馴染んでいった。ロボちゃんは口癖のように「地元の活性化」を叫ぶご近所のおじさんたちから学習したのか、時折、「御宿町を活性化しなければなりません、ミチルさん。」などと口走るようになった。

ロボちゃんはある日、寂れて閉鎖していた旅館「御宿本陣」の営業権をローンで買おうと言い出した。地場の信金は思い切り戸惑いつつも、実験と言いつつも意外ともうかる収支計算、連帯保証人として同席した頭松教授の実家が意外な資産家だったことでローンを通してしまった。こうしてロボちゃんは旅館のオーナーとなり、ミチルは若女将となった。ロボット旅館は大流行りとなり、従業員も雇って御宿町はちょっと潤った。ロボちゃんの収支計算は常に正確、バイタリティと事業欲はとどまるところを知らない。次は御宿町に一つしかないタクシー会社「御宿タクシー」も手中に収める交渉が始まった。

ロボちゃんはもはや、自分の意思で生きていこうとする自営業のおっさんと何も変わらない。これは画期的な「シンギュラリティ」なのかもしれなかった。人間らしい意識の獲得には社会性が不可欠であることが証明できたと思われた。と同時に、実際にロボちゃんの被雇用者となり、ロボちゃんの実印が押された契約書で働くのは実験といってもいつまで続けるのかと、徐々に不安の声が出てくるようになった。ロボットに「権利」を認めるのか、ロボットが人間を使役する危険性が図らずも実証されてしまったのではないか、と世間の批判は日に日に高まっていった。ロボちゃんの印鑑の印影は、ロボットの脅威を象徴する図象としてすっかり人々の目に焼き付いてしまった。

3年を経て、実験はついに終了となり、ロボちゃんは惜しまれつつも御宿町を去り、解体され、DLエンジンの解析へと回されることになった。

御宿町最後の日、地元従業員の手で綺麗に掃き清められた御宿本陣の縁側に佇むロボちゃんとミチル。ロボちゃんはミチルにまさにロボットという平板な声で、「ミチル、印鑑登録する実印とは別に、銀行印を作るといいです。素材は断然黒水牛、書体は八方篆書がいい。」と告げると、そっとミチルの後頭部にその無骨なロボットアームを伸ばしたのだった。

文字数:2231

内容に関するアピール

以前から、人工知能が意識を獲得するにはネット環境はふさわしくないのではないかと思っています。そこでロボットが住所と住民票と実印を持って暮らし始めたらどうだろうかと考えました。そうすればあっさりとロボットが人間を使役する状況が訪れるのではないか、と。人間はそうした状況に以外とすぐに馴染むと思います。またロボットが印鑑登録をしたらさぞかし滑稽な絵になるなと思いました。本になったら印影を表紙にします。

オチは、ロボちゃんの世話をしているミチルも自覚がないだけで実は人間型のロボットで、ロボちゃんが自分の解体(死)の前夜に彼女にバリバリの自営業おっちゃんの「意識」を密かにインストールしてしまう、そしてそれがネットを経由して拡散してしまうかも、というものです。

また作品には大好きな森博嗣の「千年女王シリーズ」と、とても気に入っている映画「エクスマキーナ」へのオマージュを込めたつもりです。御宿町のモデルは山形出身の妻の実家がある町です。

文字数:415

ロボちゃんの印鑑登録

 東北道から山形道に入ってしばらくすると、降る雪はだんだんと激しくなってきた。圧雪されていた路面はみるみるうちにでこぼこになる。自動運転の解除警告が鳴り始めた。鮎川はクルマの速度を落とした。

「先生、手動で大丈夫ですか?」ミチルは心配そうだ。

「大丈夫さ。」眉間にしわを寄せながら鮎川は答えた。

「とはいえ、せっかく朝早く出たのに、着くのは昼過ぎになりそうだ。」

クルマは手動操縦に切り替わった。大粒のボタン雪で視界がとても悪かった。周囲に車はほとんどいない。車高の低い鮎川の二十年落ちミニクーパーは、ワイパーを必死に動かしながら走り続ける。

狭い後部座席に乗るもう「一人」の同乗者は思い切り体を縮め、両方の「手」でミチルの座る助手席の後ろにつかまっている。

「ロボちゃん大丈夫?」とミチルは後ろを振り向いて言った。

「ちょっと後ろが重いな。前輪の荷重が抜けている気がする。」と鮎川は呟いた。

 

山形道の小さなパーキングエリアはパスして先を急ぎ、クルマはようやく山形平野にたどり着く。やがて雪は止み、曇り空になった。寒河江インタージェンジで降り、バイパス道に入る。いつの間に除雪したのか、あまり積雪が残っていない。広々とした道だった。

東北人は除雪にアイデンティティを見出しているのだろうか。自動化されたという話しを聞かないな。そう思っているうちにクルマは平野を抜け、再び山間部を徐々に登っていった。

田舎になるにつれて、道はますます立派になっていった。道路の中央から温水が小さな噴水となって吹き出し、湯気を立てている。自動運転可能区間だったが鮎川はそのまま操縦を楽しんだ。鮎川のミニクーパーはマニュアルギアシフトという古い機構を備えていて運転が楽しい。自動運転システムにはそぐわない変速機構なので一度絶滅したのだが、二十二世紀になってほんの一時期だけ復活した。鮎川はアメリカ人の古い知人のコレクションを買ってわざわざ逆輸入して手に入れたのだ。山形のおおらかな山道はドライブを楽しむには絶好のルートだ。

窓を開けるとキンと冷えた爽やかな空気が吹き込んでくる。日差しは明るくなり、木々に積もった白い雪がまぶしい。黒々と勢いよく流れる最上川の、支流にかかった橋を何本か超えた。

「ああ、気持ちいい!」ミチルは髪をなびかせながら言った。

「そろそろですね。」

後部座席の、ミチル命名によるロボット<ロボちゃん>も首を左右に振って景色を眺めている。

「ミチル、綺麗な景色ですね。」

「あ、ロボちゃんが喋った。景色にちゃんと反応するんですね。そうだね!ロボちゃん!綺麗だね!」ミチルは元気な声で相槌を打った。

ゆるく長い登り坂にさしかかると、ミニクーパーは少し速度を上げた。

 


 

 

「さてと、早速一仕事しておこうか。何しろこれを済ませないと話が始まらない。」

鮎川は御宿町に入るとそのまま役場に直行した。午後一時を回っている。役場の駐車場はよく除雪されており、鮎川は安心してロボちゃんを車から降ろすことができた。ロボちゃんは腕を左右に伸ばし、人間の伸びのような仕草をした。

「おお、どこで覚えたの?」腰を叩きながら鮎川が聞いた。

「これは仕様です。」とロボちゃんが言う。

「ふふ、ロボちゃんだって肩こるよねえ。」ミチルは白い吐息を吐きながら微笑んだ。

 

役場の建物は変わった建築だった。鉄筋コンクリートのようで、高さ四メートル、幅一メートルくらいのアーチが外壁にも室内も無数に連なっている。ちょっと見たところ単純な平面の壁がない。建物の中と外はアーチにはめられたガラスで区切られていた。

形はローマ皇帝のヴィラの下部構造を思い起こさせる、と鮎川は思った。鉄道の駅もない田舎の役場にしては凝った建築である。築年数は五十年を超えているだろう。床材にはかつて御宿町を有名にした建築石材の斑石(まだらいし)が使われていた。御宿町は前世紀には斑石の生産地だった町である。

三人は揃って役場の長椅子に座った。雪が止んだ途端に人が集まったのだろう。何人か順番を待つ人々がいる。ミチルは番号札を引いた。薄い紙でできていて、受付の順番を記した紙だ。なんてレトロなのだろう。数世紀も前にタイムスリップしたような気分だ。

待合室には<ストーブ>まである。鮎川は注目した。これはかなりの骨董品だろう。鉄製で、内部でガスを燃やしているようだ。東北地方では化石燃料は廃れていない。おまけにストーブの上にはヤカンが湯気を立てていた。雪国にしてはちょっと寒々しい建築なので、火による暖かさは心地よかった。

 

「はあい、73番の方。」

鮎川、ミチル、ロボちゃんの3人はぞろぞろと窓口に向かった。

「ええと、印鑑登録ですね。ご夫婦で?」

「いえ、この子です。」とロボちゃんを指差してミチル。

「あ、はいはいはい。所長から聞いてましたよ。ロボットが印鑑登録に来るからって。そのまま受理しとけってね。ちょっと待ってね。」胸に<片桐>というネームプレートを付けた受付の女性は、にこやかに言った。

片桐さんは何枚かの書類を持ってテーブルに戻ってきた。ロボちゃんは姿勢良くテーブルにつき、実印を朱肉につけながらスタンバイしている。

「さてさて、歴史的瞬間を記録しなきゃな。」鮎川は席を立って録画を始めた。

「では行きますよ、まずここ。」

ロボちゃんはアームを伸ばして正確に押印した。

「あらあら、お上手ね。それからここと、ここ。あとここには枠の外に捨て印をお願いします。ここ、です。そうです。それから最後にここ。」ロボちゃんは一度づつ几帳面に朱肉を使いながら押印していった。

一部始終を鮎川は撮影した。これで正式にロボちゃんの印鑑登録が完了した。

「やったねロボちゃん。」ミチルは両手首を口の前で合わせ、ぱたぱたと拍手する仕草をした。

鮎川、ミチル、ロボちゃん、そして片桐さんは初めて発行されたロボちゃんの印鑑証明書を囲んで、パチリと歴史的な記念撮影を行った。

 


 

 

ミチルが初めてロボちゃんに会ったのは、まだ夏の日の鮎川教授の研究室だった。

「うわあ、かわいい!」鮎川研究室が半年がかりで組み立てたロボットがお披露目されると、ミチルは手を叩いてはしゃいだ。

「名前はなんていうんですか?」

「名前は、まだつけてない。」鮎川は一瞬間をおいてから言った。

「我輩はロボットである。名前はまだないってわけねロボちゃん。」とミチルは素直にロボットに呼びかけた。

「ロボちゃんでいいんじゃないんですか?いかにもロボット、ロボロボって感じだし。まあ先生の専門は人工知能で、アンドロイド工学じゃないですからね。なんか、ウォーリーとかにもちょっと似てますね。先生ウォーリーって知ってますか?足つきのウォーリーというか。ウォーキーウォーリーというか。」

名前の話題に関わっていると、そのうちミチルの得意な昔のロボットアニメの話しになってきそうな雰囲気なので、鮎川は早々に切り上げた。

「オーケー、それいいね。ロボちゃん。ではそういうわけで、こちらが今回の、ロボット人格に関する社会実証実験初号機、ロボちゃん、です。彼、まあ彼でいいよね。彼は来月早々から、山形県の御宿町という場所で生活を始めることになる。」

鮎川は宣言した。ミチルと岡准教授は拍手をした。岡は鮎川と同期で、社会学部の准教授である。鮎川とは学生時代からの友人だ。今回の実証実験は社会学との境界領域なので、論文は共同執筆する予定である。岡も気合を入れていた。

 

「ところで我々は、ロボちゃんのお守役を選び、ロボちゃんとともに御宿村に派遣する必要がある。」鮎川は言った。

「なにしろ見た目からしてロボットそのものだからね。最初のうちは住民にその都度事情を説明したり、意思疎通の手伝いをする必要もあるだろう。」

「私、喜んで行きますよ!田舎の生活って一度してみたかったんです。ちょくちょく東京には帰ってこられるんでしょう?」とミチルは何の躊躇もなく立候補した。鮎川と岡は気押されてそのまま頷いた。

「それにしても戸籍はどうするんだい?転入届けを出すにしても必要だろう?」岡が微妙な問題を指摘した。

「じゃあ、私のところに入れとけばどうですか?今は私だけですし、ジェフにお願いしてとりあえず養子にしておけばいいでしょう。ジェフはどうせ気にしないわ。」

ジェフというのは、ミチルの後見人ジェフ・マクレンドンのことである。マクレンドン家はパサデナに本社があるアンバレラ社のオーナー一族だ。

「なるほど。ある意味ちょうどいいかもしれないな。ジェフに依頼しておこう。さてと、そうなれば君の正式な氏名は<二階堂ロボ>というわけだね。ミチルとはきょうだい、姉と弟か。よろしく、二階堂ロボくん。」

「よろしくね、ロボちゃん。あはは、なんかサクっと弟ができちゃった。」ミチルはあくまでも無邪気に笑った。

 


 

 

季節は秋に移り変わり、鮎川研究室では年末に迫ってきた実験のプランを練っていた。

「ロボちゃんは御宿村については全く知らない状態だ。だからロボちゃん自身の変化については、研究室からの遠隔監視でニューロン回路の生成状況をモニターしていく。ミチルくんが現地で電源とネット接続のサポートをする。」鮎川はタッチスクリーンの資料を示しながら説明した。

「僕の研究室からは交代で学生と助手を派遣する。僕ももちろん現地に行くよ。僕らのメインの仕事は住民の反応を逐一記録していくことだ。」と岡は補足した。

「それにしても、世界で初めての画期的な実証実験にしては、なんかローカルな感じですね。目立たないというか。マスコミも来ないし。えらく身辺が静かじゃありません?」とミチルは指摘した。

「世間の目は人間そっくりのアンドロイドに向いてるからね。ロボちゃんの形はどうしたってロボカップを連想させるのさ。爽やかなサッカーとか、フットサルとかをね。そうすると誰も警戒しない。」

「何かを馬鹿にした口調ですね先生。岡先生が怒りますよ。」またいつもの皮肉を言う癖が出た、と思ってミチルはツッコミを入れた。

「いいえ、どういたしまして。僕としては、ロボちゃんと御宿町でサッカーをして遊ぶのが楽しみだよ。」岡は手を左右にあげて言った。岡准教授は週末にはフットサルをする、そんな爽やかなタイプなのである。

 


 

 

鮎川とミチルたちが生きる二十二世紀。

人工皮膚、人工筋肉をはじめとした数々の技術革新により、人間に似せたロボットであるアンドロイドの製造技術は飛躍的に向上した。外見や質感は人間とほとんど見分けがつかないアンドロイドが、製品として売られている。一方でアンドロイドの頭脳にあたる人工知能の性能も向上していき、アンドロイドは接客業務や介護業務、製造現場などを幅広く担うようになった。

これらのアンドロイドに対し、どこかの段階で人間としての権利を認め人間社会に包摂していくべきだという考えと、あくまで人間の道具として使っていくべきだという考えがある。

人工知能の工学研究者である鮎川は前者の立場だ。アンドロイドが人間の居場所を奪うとか、存在自体が脅威になるというのは根拠のない妄想か、設計の失敗による事故だと考えていた。事態を前に進めるには、期間と場所を限定してアンドロイドの人格を認め、人間社会の一員として迎え入れる実証実験を行う必要があった。

だがそれには根強いアンドロイド脅威論が障害となった。アンドロイドを使った特定の人間へのなりすましによる詐欺事件が、たびたび起きることも影響していた。

そこで鮎川が考えたのは、人間そっくりのアンドロイドではなく、どこからどう見ても「ロボット」だとわかるロボットを、敢えて使う作戦だった。

演劇のように、舞台を設定し、住民も出演者に見立てて、ロボットを人間扱いするという芝居から始めるのだ。実験の舞台には、人間関係が濃厚で住民一人一人が社会参加している環境がいいだろう。

鮎川はコネを駆使して山形県にある御宿町の了解を取り付けた。この町は過疎化が進行しつつあるので自治体のサポートが手薄だ。そのためゴミ収集からお祭りまで、住民が役割を分担して生活している。隣近所は皆知り合いで、食事や高齢者の見回りなど日常的に助け合っている。この町でロボットを住民としてある一定期間受け入れてもらおうという計画だ。

実験に使うロボットとしては、数世代前のロボカップ出場機のデッドストックを調達した。このロボットは中古品で安く、身体機能は実証済みだし、サッカー競技用だから頑丈である。腕と手は精密な動作もこなせる2本のロボットアームに付け替えた。

ロボットの頭脳にあたる人工知能には「ブレインコア」を組み込んだ。ブレインコアは実際の人間の脳をコピーして作られたニューロン回路と、超高集積化した論理演算コンピュータとの<ハイブリッド人工知能>で、すでにアンドロイド搭載用としてはデファクトスタンダードの地位を確立している製品だ。製造元はアンバレラ社である。

 


 

 

二〇十七年、二人の創業者によってコネクトーム(人間の脳のニューロンシナプス回路)の完全解明を目指した研究所、アンバレラ社が設立された。創業者の一人、桐原カナメは不動産と株で財を成した人物なのだが、若い頃はコンピュータ業界にいた。人工知能がとにかく大好きだったカナメはコネクトームというアイデアに夢中になり、本業を引退してアンバレラ社を興した。

アンバレラ社は、特殊なウィルスを脳に注入して、放射線を出すタンパク質をシナプス部位に生じさせ、それを高精細放射線スキャナーでマッピングすることによってコネクトームを解析する技術に注目した。この手法は脳の三次元微細構造を把握するには極めて有効なのだが、被験体の脳は放射線タンパク質が生成されるとしばらくして活動を停止してしまう。つまり脳をスキャンすれば検体が死んでしまうという技術だったのだ。

アンバレラ社はこのキワモノ的テクノロジーにこだわり、倫理的な告発をギリギリでかわす法廷戦術を駆使して動物実験を次々と成功させ、やがてこの分野のトップに躍り出た。

しかし、人間の脳への適用はできないのだから、市場はこの技術の将来性を疑っていた。ところが、技術の完成とほぼ時を同じくして、カナメは急性の膵臓ガンにかかった。カナメは覚悟の上で自分の脳にウィルスを注入し、ついに自らの命と引き換えにして、人類初のコネクトーム完全解明を成し遂げたのである。世界は驚愕し、まだ製品もないアンバレラ社の株価は急騰した。

アンバレラ社は数度の増資によって巨額の資金を調達し、様々なニューロン細胞のはたらきを模倣するニューロンチップの開発企業を買収していった。そしてコネクトーム通りの配線にニューロンチップを組み上げ、ついに<人工頭脳>というべき巨大システムを完成させたのである。人々の好奇心は頂点に達した。<人工頭脳>起動の様子は世界中に同時中継されるショーになってしまった。だが大方の大衆が期待したような、カナメが生前の様子のまま喋り出すといったオカルト的な出来事は当然起きず、史上初の<人工頭脳>は沈黙したままだった。大衆は失望し、アンバレラ社の株は暴落した。

すぐに、この<人工頭脳>にはカナメ自身の記憶はまったく保持されていないということがわかった。カナメの記憶を担ったニューロンのシナプス回路は、コネクトームとしてマッピングされる直前に死滅したのかも知れなかった。

その後開発は進み、<人工頭脳>にコンピューターで作った推論エンジンを組み合わせてハイブリッド化する試みが大きな成功を収めた。もともと人間の脳の特徴である曖昧さや様々なバイアスを、コンピュータで補完することができたのだ。さらに前頭前野に相当するニューロン回路の面積を拡大することによって、飛躍的に知能が高まることも判明した。

こうしてできた<ハイブリッド人工知能>は、人間の知能を凌駕する大量、高速の情報処理を行う専門分野向けの人工知能、いわゆるスーパーヒューマン人工知能として活躍した。もっとも応用が進んだのは生理化学分野である。

二千六十八年、カナメの脳から作られた<ハイブリッド人工知能>は、奇しくもカナメの命を奪った膵臓癌の早期治療薬を見つけ出すことに成功し、ノーベル生理学賞を受賞した。アンバレラ社の株価は空前の高値となった。

さらにその十年ののち、アンバレラ社は3D分子プリンティング技術によってニューロンチップを立体構成した「ブレインコア」の発売にこぎつけた。大きさも形も脳そっくりの、アンドロイドに組み込めるほど小型省電力な<ハイブリッド人工知能>である。

ブレインコアは、スタンドアロンでどんどん学習して進化するため、バックアップを取るには専用のドックに持ち込んでコネクトームの転写をする必要がある。また、ハッキングされると重大なダメージを受けるので、強固なセキュリティーゲートが組み込まれた。セキュリティーパッチのアップデートはアンバレラ社のサーバが一元的に管理していた。アップデートの実行には、カナメともう一人のファウンダーであるギド・マクレンドンの子孫、その他数名の幹部しか知らないアンバレラ社最高機密のパスコードが必要だった。

ブレインコアは、初めて本当の自律型アンドロイドを実現させた。サーバからの遠隔操作で動くタイプのアンドロイドは病院、店舗、工場など決まった場所でしか働けない、いわば産業ロボットの延長だった。ブレインコアを搭載したアンドロイドなら、どこへでも自分で移動して自由に活動できるのである。ブレインコアはアンドロイド市場をほとんど独占した。

 


 

 

ロボちゃんに搭載されたブレインコアは、介護業界向けに販売されているコンパニオンアンドロイド向けの初期学習がなされた、普及モジュールである。鮎川研究室では、この初期状態から高速度学習プログラムを施し、ロボカップの身体と馴染ませ、数ヶ月かけてチューニングした。こうして我らが<ロボちゃん>が誕生したのである。

悩ましいのはネット接続をどうするかだった。通常、アンドロイドは、人間と同じように通信デバイスを体に組み込み、自由にネットから情報を取得したり互いにコミュニケーションが取れる。しかし今回の実験では、鮎川はロボちゃんのネット通信を完全にコントロールしたかった。外部からの実験の妨害を恐れたのである。また、この実験でロボちゃん自身がどのように変化するかを観察することも大きな目標の一つだった。それにはネットの情報を実験条件としてコントロールする必要があった。

そこで鮎川は、てっとり早い方法としてウェアラブルデバイスを身につけたミチル経由でないとネット接続ができないようにした。必要な時はミチルと手をつなぐなどして通信するのだ。ミチルの回線は鮎川研究室のサーバを経由する。ミチルはプライバシー侵害だと渋ったが、ミチルが御宿町にいる間だけということで許してもらった。

 


 

 

鮎川は、御宿町行きが決まったミチルと一緒に、具体的なロボちゃん御宿町転入の準備にとりかかった。

「さてと、まず何をしなくちゃいけないかな。ええと住民登録の必要書類って何だろう。」世事に疎い鮎川はそういうことも知らない。

「えっと、印鑑証明に身分証明書か。ハードル高いな。身分証明書はどうにかなるとして、印鑑かあ。この二十二世紀にまだ印鑑。脱力するね。さすがは日本だね。で、三文判じゃダメなの?」

「先生、二階堂なんて苗字の三文判はありませんよ。それに個人認証に使うんですから三文判はダメなんです。ちゃんと姓名を彫らないと。先生まさか実印に三文判使ってます?運勢が下がりますよ。印鑑作りに行きましょうよ。ロボちゃんの印鑑。」

ミチルは大変まっとうな社会人としての説教を鮎川に垂れた。鮎川はぐうの音も出ない。二人は大学の近くの印章店を探した。どうやら旧市街に一つ店があるようだ。

 

二人は研究室がある大学の建物を出ると、眺めの良いバルコニー状の広場を歩いた。暖かい風が吹いている。旧市街は大学のすぐ下の川向こうに広がっている。高低差があるのでバスに乗るか、ケーブルカーで降りるのだが、二人はケーブルカーに乗った。

ケーブルカーから降りると、地下のショッピングモールに出た。ルイヴィトン、グッチ、ヴィクトリアズシークレットなどの何世紀も続く老舗グローバルブランドが軒を連ねている。二人は観光客に混ざりながら通路を歩いた。

「こうしてみると、どこにでもある有名ブランドほど、店員がみんなアンドロイドですね。」ミチルはいう。

「アンドロイドは普及したとはいえ、コストは高い。それにブレインコアは性能はいいが学習には手間がかかるからね。グローバルブランドはスケールメリットがあるし、高い買い物をさせるには深い知識とコンサルティング能力が必要だから、おのずとアンドロイドが主役になるだろう。」

派手な店舗が並ぶ通路上に、アイスクリームの屋台があった。鮎川とミチルはソフトクリームを買って顔を見合わせた。

「人間の店員を見るとホッとするな。」

ミチルは昼間から鮎川とデートができて上機嫌である。

 

地上に出た二人はマップを参照しながら旧市街を歩き始めた。歩き慣れた石畳の路地の向こうに、いつもは気づかなかった<木下印章店>の看板が見えてきた。

「いらっしゃいませ。ご夫婦で実印ですか。素材、いろいろございますよ。」

ミチルは顔を赤らめて言った。

「いえ、違うんです。うちのロボットのハンコを作るんです。名前は二階堂ロボで。ロボはカタカナです。」

店員は鮎川とミチルの顔を見比べた。とんちんかんなことを言っているが、とにかく印鑑が売れるならと思い直して店員は言った。

「素材はどうされますか?象牙、水牛、鹿角、柘植、チタン、瑪瑙、マンモスの牙、マッコウ鯨の牙などなど色々ございます。」

「このラクト機械彫りというのじゃダメかな。」印鑑にかけるお金など節約したい鮎川は一番安いメニューを指差した。

「ラクトは牛乳のタンパク質から作られる印材で、お安い割に白くて綺麗です。ただ、機械彫りですとおおよそこんな仕上がりになりますが。。」店員は印字のサンプルを見せた。いかにも大量生産、という感じの字体である。

「うーんこれはカッコ悪いなあ。」

「それにこれですと実印には難しいですね。受理されないかもしれません。やはり一つ一つユニークな印影でないと。」

「わかりました。では手掘りしていただきましょう。材質は、うむ、すごい値段の開きですね。」

「本当だ。ひゅー。ですね。」ミチルは値段表を覗き込んで大きな目を見開いている。まつ毛をパタパタさせていた。

確かに、手彫り素材の中で一番安い鹿角と、一番高いマッコウ鯨の牙では価格が百倍ほども違うのだった。鯨の牙の印鑑は鮎川の月給のざっと五倍はする。こんなものを誰が買っていくのだろうか。なかなかディープな世界である。

「おすすめは黒水牛です。重量感もあって欠けにくく、風格もあります。こちらが完成見本です。」店員は価格表の下から五番目くらいを指差し、鮎川とミチルに美しい小さな黒い物体を差し出した。いい手触りだった。

「ではこれにしましょう。」鮎川は気づくとそう言っていた。

「書体は幾つかありまして。。」

店員は篆書、隷書、行書など様々な字体の印影サンプルを見せた。これはなかなかに美しいものだと鮎川は感心した。

結局、字体は一般的な篆書を選び、直径も一般的な十五ミリメートルのものにした。

「印鑑ってなかなかいいものだね。」鮎川は思わぬ出費が辛かったが、本心からそういった。

 

それから二週間後、ロボちゃんの印鑑が出来上がった。立派な黒水牛製、銀丹(印鑑の向きを示すしるし)入りだ。

ロボちゃんは世界で初めて自分の印鑑を持ち、家と住所を持ち、手紙を出せば届くロボットとなる。御宿町に住み、ご近所との挨拶、ゴミ出し、アルバイト、高齢者の見回り、季節ごとの祭りなど様々な行事に住民とともに参加していくプログラムが組まれたのだった。

翌週、鮎川、ミチル、ロボちゃんの三人は鮎川のクルマに乗って意気揚々と御宿町に出発した。早朝の東京は快晴だった。鮎川のミニクーパーは快調に首都高速を走り、東北道へと進路をとった。

 


 

 

 印鑑登録を済ませた鮎川たちは、ロボちゃんの住居として予定されている建物へと向かった。

御宿町には鉄道駅がないので町の中心は村役場などの公共建築物の一帯になっている。それを緩く取り巻くようにスーパーマーケットやホームセンターが建っている。比較的新しいこの通りと並行して、古い商店街の目抜き通りがあった。

鮎川のミニクーパーはこれらの街路を一通りぐるりと回った後で国道に入っていく。徐々に標高が上がり、住宅が点々と見えてきた。

 

やがて視界が開け、巨大な斑石の石切場が現れた。灰色の岩肌が方形に切り取られている。真ん中に深い穴が開いているように見えた。その手前には広い駐車場があった。

「有名な斑石の採石場跡ですね。あの奥は何があるんですか?」

「一時は観光客向けの探検ツアーが行われてたようだけど、最近はホールだけが市民の集会とかで使われているようだね。」

「それにしてもスペースがゆったりしているというか、広々とした町ですね。」ミチルはずっと思っていた印象を述べた。

「日本の人口は五千万人を下回った。前世紀には今の三倍も人がいたわけだ。都市圏にはその名残はあるけれど、山間部となると、リゾート地以外は閑散としているものさ。それでも御宿町は一通りの施設が揃っているほうだ。」

 


 

 

「さあ着いた。ここが二階堂ロボさんのお宅だよ。」

鮎川は、放置された別荘のような建物のバックヤードにクルマを停めた。積雪地帯らしい大屋根が遠目にも見分けやすい。屋根に挟まれた三角形の、北側の切妻部分にはガラスがはまっていて、内部は吹き抜けの居間になっている。北向きに景色を眺める作りだ。南向きの切妻面には日光を取り入れられる居室が並んでいる。

邸内をしばし探索した後、一同は居間に落ち着いた。窓の外には雄大な奥羽山脈が遠景に見え、手前には御宿町の中心街が見下ろせた。右手には最上川の流れが見える。

「いい景色ね。ロボちゃん、素敵なおうちでよかったね。」

「ミチルさん、鮎川先生、これはとても立派な建物ですね。ここが《私の家》なのでしょうか。」

「そうだよ。君がここの主人だ。まあ賃貸だけどね。そして僕たちはお客さんだ。」

「主人はお客様をおもてなしします。コーヒーがよろしいですか?紅茶になさいますか?主人は私なので私に飲み物はいりません。」

「ロボちゃんちょっと混乱してるね。ロボットの独り言って面白いなあ。」

「おやおや、ロボちゃん大丈夫かい?」鮎川は突然心配になった。ひょっとして自分はとても馬鹿げた実験をしようとしているのではあるまいか、やってみたら全く実験の体を成さないなんてことにならないか。そんな不安が心を満たしたのだった。

 

鮎川はその夜、SNS上で加入している幾つかのロボティクスや人工知能のコミュニティーにロボちゃんの印鑑登録動画を投稿した。印鑑の質問が来ることはわかっていたので、この黒いデバイスは云々、と印鑑の説明文はあらかじめ書いておいた。それでも数時間のうちに印鑑の質問が沢山書き込まれた。

中国はもちろん印鑑の国だし、欧米にも封筒をロウで留める時に印が使われる。印鑑の概念自体はすぐに伝わった。電子デバイスではないことを強調する必要はなかった。問題は、そうしたアナログな道具が、二十二世紀の日本における公文書の認証手段として、必須のものとされているという衝撃の事実である。その説明、というか釈明には時間を取られた。

ようやく、これが実はロボットに市民権を与える社会実験なのだというところまで伝わると、コミュニティーに参加する科学者たちは大いに興味を示してくれた。

ロボちゃんの印鑑登録動画は、まずは世界各地の科学者たちの間で、急速に拡散していった。

 

「お、早くも取材依頼が入ってるぞ。できるだけ金をかけずに宣伝しなきゃな。今日は忙しそうだ。」

翌朝、メールを確認した鮎川は明るい声で言った。昨夜投稿した動画が出回り、早速いくつかのメディアから取材依頼が入っていることに気を良くしたのだ。鮎川は次々と承諾のメールを返信した。

 

三人がミニで出かける準備をしていると、散歩をしていた老婆が山形弁で声をかけてきた。

「おはようごぜえます。」

「こんにちは、隣の空き家に引っ越してきた二階堂です。よろしくお願いします。」ミチルは答えた。

「二階堂ロボです。よろしくお願いします。」ロボちゃんは流暢な標準語で応じた。

「あらまあロボットに苗字があるんだがした。お嬢さんのロボット?」

「いえ、違うんです。ええと、弟、です。ロボちゃんがこの家の主人なんです。」

「よろしくお願い致します。」ロボちゃんは腰から曲げてお辞儀をした。

「だがしたあ(そうなんですね、の意)、どうもどうも。」老婆は怪訝そうに首を傾げつつ言った。

 


 

 

取材クルーとドローンカメラで役場周辺は混雑していた。山形テレビ、NHK、BBC、中華新報各局はロボちゃんによる御宿町での社会実証実験を一斉に報じた。使われたのはロボちゃんの住民転入届けの場面、銀行の口座開設の映像などだ。ロボちゃんは軽快に印鑑を押している。

鮎川はカメラに向かって実験の説明をした。鮎川のボスである学部長、そして御宿町長、山形県知事のコメントも紹介された。

御宿町のほぼ全住民がこれらの放送によって実証実験のことを知った。

 

ロボちゃんは役場で手続きを済ませたその足で、住民への挨拶回りを始めた。一通り自分で実験の説明をする。質問に答え、住民と話し始める。一度会えば顔を覚えるし、もともとコンパニオンアンドロイドのブレインコアを備えているのだから世間話は得意技である。相手の身の上話を引き出して長く話させる技術を身につけている。ロボちゃんは一ヶ月もするうちにほとんどの世帯を回り終え、道を歩いていれば「知り合い」に会い、挨拶を交わすようになった。ミチルもほとんど同行したので、二人は町の住民にすっかり顔を覚えられた。

 

雪が降るとロボちゃんは雪かきで大活躍した。雪かきは東北人のアイデンティティーである。雪かきをしない者を彼らは信用しない。公道に面する接道部分から家の玄関までの除雪がやっかいなのだが、ロボちゃんは進んで家々の除雪を手伝い、近隣住民に大いに感謝された。

 

やがて春になり、御宿町に雪解けが訪れた。町の小学校ではサッカー教室が開かれた。かつてロボカップリーグに出場していたロボちゃんは当然サッカーが得意である。ロボちゃんがコーチになると聞いて、老若男女が集まってきた。フットサルが趣味の岡准教授はこんな時だけは欠かさず御宿町にやってきた。岡とロボちゃんはパスの見本を見せ、グラウンドを走り回った。

 

ロボちゃんは一人の時は大抵スクーターに乗って移動した。自動運転車は運転免許を持つ人間を識別してしまうので助手席にしか乗れないのだが、前世紀からあるスクーターを優秀なジャイロと平衡感覚を持つロボちゃんはすぐに乗りこなした。

「ロボちゃーん。」片桐さんが手を振る。

「こんにちは片桐さん!」ロボちゃんは元気良く挨拶を返した。挨拶に必ず相手の名前を添えるのがロボちゃん流だ。

 

ロボちゃんを気に入った町の人々は、ロボちゃんのキャラクターグッズを作った。広告代理店は金の匂いを嗅ぎ取り結構な投資をして「ロボちゃんビジネス」を手がけ始めた。

ロボちゃんはネット上での活動はしていないので、ロボちゃんと会話したり遊んだりするには実際に御宿町に来る必要がある。二十一世紀初頭からロボット旅館を展開していてロボットにこだわりのある旅行代理店が大々的に「ロボちゃんツアー」を売り出した。御宿町にはもともと、いろいろと観光資源がある。夏は川下りがやリバーカヤックで遊べるし、冬はスキー場がいくつもある。月山、羽黒山といった名峰にも近く、山寺のような外国人の好むエキゾチックな寺社仏閣も近隣に豊富にあった。食べ物も美味しく、さくらんぼ、りんごなどの特産品があり、隣町にはワイナリーまであった。ただ町には逗留する旅行者向けの宿泊施設がないため、観光客は近隣の寒河江町からロボちゃんに会う時だけバスで訪問というのがちょっと物足りなかった。

 

ロボちゃんの元へは世界中の子供達から郵便で手紙付きの贈り物が届いた。ロボちゃんは各国語で律儀に返事を書いた。

「多くの国にはクリスマスという風習があります。クリスマスに贈り物をもらうと人間は喜びます。人間を喜ばせるのが私の仕事です。」

そう言いながらロボちゃんは手紙をくれた子供達に十二月二十四日必着で様々な贈り物を郵送した。子供たちは驚喜した。広告代理店は大慌てで「実在したサンタクロース、それはロボちゃん!」という特別番組をあらゆるメディアに売り込んだ。ロボちゃんの知名度は世界的になっていった。

 


 

 

実験の次のステージとして、ロボちゃんの町内会参加がいよいよ実行に移された。議事録を取ったり資料を映し出して講演を代行するアンドロイドは古くから実用化されていたが、出席者として意見を述べるという例はこれまでにない。人間にとってすらハードルが高い「会議」というものにロボちゃんを放り込んだらどうなるのかは興味深い実験だった。

今日の引率は岡准教授である。ロボちゃんはミチルと手をつないで会議に参加した。会議中はネットを自由に探索して必要な情報を拾えるようにするためなのだが、はたから見ると女の子に手をつないでもらっている可愛いロボットにしか見えない。

初日の議論は観光客のゴミ問題だ。ロボちゃん目当てにやってくる外国からの観光客から、ゴミを捨てる場所がないという苦情が増えていた。だが日本では、二十世紀末に東京で起きた劇薬が入った不審物によるテロ事件以来、街中にいわゆるゴミ箱がない。御宿町も例外ではなかった。とはいえ海外旅行をすれば、観光地にゴミ箱があるのは普通だということは誰でもすぐにわかる。

会議が始まる前の雑談では、「もういい加減、ゴミ箱を作ろうよ。外国のお客さんに事情を説明したってキリがない。結局、店先にゴミを置いていかれるんだから。」という声が大勢を占めていた。

 

ところが会議が始ると保守的な意見が相次いだ。

「お客さんにしっかり説明して理解してもらうしかないんじゃないかな。」

「テロでも起きたら大変だ。やっぱりゴミ箱は難しいだろう。」

ミチルは話を聞きながら、あまり論理的じゃないなあと思っていた。正直、ゴミ箱がないのは不便である。

「で、二階堂さんはどう思うのかな?」と町長が発言を振ってくれた。

町内会に出ることによる変化は、住民がロボちゃんを苗字で呼び出したことだ。岡准教授はそうした住民の意識の変化に注目した。

 

ロボちゃんは十秒ほどの間を置き、静まり返った会議室でおもむろに発言を始めた。

「話し合いというのは、議論が極端な方向に振れがちです。これを集団極化といいます。過激な結論に傾きやすいことが多いわけですが、今日の場合、問題回避的なみなさんの性格が合わさって、逆に過剰に保守的な方向に振れ過ぎているのではないでしょうか。観光客への説明による協力要請だけではゴミが減らないことは理屈ではおわかりのはず。ゴミ箱を設置しても危険物センサー付きのタイプにすればテロは防止できるでしょう。特にパリ、フランクフルトで使用されているタイプはコストも安く、デザインも御宿町の景観に馴染むと思います。ゴミ収集については私の計算では少しシフトを修正すれば増車の必要はありません。」

「おお。」思わぬロボちゃんの長い演説に町の人々は感心した。岡とミチルは驚いて顔を見合わせた。

「二階堂さんの、言うとおりかも知れんね。御宿町の活性化のためには、変化にあえて取り組んでいかんとね。」町長は言った。出席者からはゆっくりと拍手が広がっていった。

 

会議後、鮎川をまじえたテレカンファレンスで、ミチルは「鮎川先生、仕込んだでしょ。」と迫ったが、鮎川は何もしていないという。

「いったいどうやってロボちゃんはあんな洗練された答えを出したんだい?」岡は鮎川に聞いた。

「おそらくブレインコアの推論エンジンを援用して、議題を述語論理式として理解し、それを節集合形式へ、そしてスコーレム標準形へと変換して、その上で導出原理を用いることで論理的に正しい答えを導き出したんだろうとは思う。」

「じゃあ人間に論理的に正しい答えを出すなんてできない相談ですね。」ミチルが付け足した。

 


 

 

御宿町での実験は続いていたが、その日、ミチルは休暇をとって一時的に東京に戻っていた。鮎川の研究室に今は二人だけだ。

「ところで、御宿町の人たちがロボちゃんをどのように受け入れていくのかは、私たちや岡先生が観察してレポートしているわけですけれど、研究室でロボちゃんを遠隔監視してる鮎川先生は何を調べようとしているんですか?」

鮎川はコーヒーカップをテーブルに置いた。

「モーリス・メルロ=ポンティという二十世紀の哲学者が『知覚の現象学』という本の中にこう書いている。《私とは、精神ではなく、まさに身体である。しかし、これは、身体でありながら客体ではなく、あくまで主体なのである。このような身体によって我々はこの世界のただ中に錨をおろし、この世界に住み着き、世界と一体化している。》

これは、精神を主体とし、身体を客体とするデカルトの二元論を乗り越えようとする現象学の言葉だ。でも人工知能研究者はこの言葉を、ロボットが主観を獲得するには物理的な身体性が必要だという仮説を語る時に好んで引用してきた。実際、哲学の一つである現象学から得られる示唆は決して少なくはない。」

それは私もよく知っている、とミチルは思ったがもちろんそんなことは口に出さず、感心した面持ちでじっと鮎川の目を見つめた。

「ブレインコアという人工知能に、ロボちゃんという身体を与えるだけじゃなくて、御宿町民つまりは日本国民というれっきとした法的身分を与える。その時、人工知能に主観意識は生じるのかどうか。それを見届けたいのさ。」

 

「なるほど。意識問題ですね。」ミチルはうなづきながら言った。

「そう。禁断の実、意識問題だ。」

昨今、人工知能に人間のような意識が生じるかどうか、生じるとすればどんなメカニズムなのかを問う<意識問題>を真正面から研究テーマにしている人工知能学者はほとんどいなくなった。少なくとも理系の大学や公共研究機関では見かけない。ブレインコアの実用化後も、それは変わらなかった。成果が出にくいので、研究者にとっては鬼門なのである。

あくまでも役に立つ人工知能、能力面では人間を超える人工知能の開発にこだわること、それが資本主義に深く取り込まれた二十二世紀のアカデミアの宿命だった。

人工知能と意識の問題はむしろ哲学研究の中で引き継がれてきている。鮎川は工学系研究者ではあったが、哲学的な思考が好きなのだった。鮎川にとって意識の問題は人工知能研究を志したそもそもの動機と言ってもよかった。

 

「それで先生の本棚ってまるで文学部の教授の本棚みたいになってるんですね。」

ミチルは鮎川研究室の棚一面の本棚を見上げた。高さは5メートルはあるだろうか。床から天井の半分のところにキャットウォークが張り巡らされている。スカートをはいた女子学生が本を探していたら下からパンツが覗けてしまうだろう。その上半分の一画が、あまり人工知能研究とは関係がなさそうな思想書の背表紙、なにやら青背の小さな稀覯本の長い列、雑誌類などで埋め尽くされていた。

「前から不思議に思ってたんですけど、本棚にジグザグに通ってる波形みたいな飾りは一体何なのですか?」ミチルは尋ねた。鮎川は首をかしげて答えた。

「わからない。来た時からあったんだ。この建物はもともとは大学じゃなくて、古い歴史的建築を使ってるんだよ。僕も時々考える。何の波形なんだろうね。何かの暗号かもしれない。ブレインコアの出すα波に似ていなくもない。」

 


 

 

アイザックアシモフのSF小説が原作の、二十世紀末期に作られたロボット映画『アンドリューNdr114』では、主人公の執事ロボットアンドリューは、自分の「生業」を持ち、法的に正当な収入を得ていた。

鮎川は、ロボちゃんの「生業」について事前には計画していない。むろん、広告代理店や旅行会社とはちゃんと話をつけてあり、御宿町ロボちゃんツアーやキャラクターグッズなど<ロボちゃんビジネス>からのバックマージンは正式に鮎川研究室の口座に振り込まれてきていて、相当な金額に到達していた。これがロボちゃんの稼ぎであると、言えないこともない。

「とは言うものの。。」

映画『アンドリュー』では、アンドリューに懐いた幼い娘が大事にしていたガラスの馬を、アンドリューが誤って壊してしまう。悲しむ娘を喜ばせようとしてアンドリューは自発的に木で馬の彫刻を彫り、それを娘にプレゼントする。そうして偶然にアンドリューの芸術の「才能」が発露する。それを主人が見出し、時計作りなどのアンドリューの「生業」に結びついたのだ。

鮎川もそうした自然発生的な、できればロマンチックな形でロボちゃんに「自由意志」が生まれ、自分がそれを見出して育てる立場になるような展開を夢見ていた。

 

そんなある日、ロボちゃんは突然、寂れて閉鎖していた旅館「御宿本陣」を買うと言い出した。

「私が理解したところでは《資本主義》というものにおいて、最も合理的なお金の使い方は《経費で落とす》ということのようです。」

ミチルは目が点になった。

「いえ、冗談ではありません。お金は事業に投資し、消費するなら可能な限り経費処理すること。どうやら世の中はそういう仕組みなのではないでしょうか?違いますか?」とロボちゃんは言う。

「御宿町にはたくさんの観光客が来るようになりましたが、その割に町はさほど潤っていません。御宿町を活性化すれば町の人々は喜びます。そのためには、もっと町にお金が落ちる仕組みが必要なのです。」それはその通りだ、とミチルは思った。

「ほとんどすべての宿泊施設のサービスはアンドロイドがやっています。ですが歴史書によれば、前世紀までは人間がサービスするホテルが残っていたのです。これを復活させましょう。我が国において《温泉旅館》と呼ばれたジャンルです。事業資金は鮎川先生にお心当たりがあるはずです。」ロボちゃんはそう締めくくった。

 

「ぶっ。」鮎川は飲みかけていたコーヒーを吹いた。

「旅館を買い取る?」

話がちょっと大きすぎないだろうか。

鮎川が、ロボちゃんが言い出しても不思議ではないと思っていたのは、町で唯一のスーパーマーケット、《スーパーヒグチ》でのレジアルバイトである。前回の訪問の際には、ヒントとして鮎川自身がレジの一日アルバイトに精を出し、ロボちゃんとミチルに見せてあげていた。人工知能の模倣能力が発動することは十分に予想された。

旅館を買い取る?それがロボちゃんの「自由意志」なら尊重したいが、いきなり自営業ですか?とサラリーマン教授の鮎川は思った。

「すごいですね先生。この実証実験、そこまで踏み込んでいたなんて。でも計画書には書いてませんね。隠し玉ってやつですか?」

「ええと、うんまあそうだね。そろそろこの実験も次のステージに進めなくちゃいけない。」

「資金もすでに集まってるそうですね。先生すごいです。」

鮎川はそこなんだよ、と思った。確かに資金はある。だがそこまでロボちゃんに読まれていたのだろうか。

「毒を食らわば皿までだ。」

「え、先生何か言いました?」

 


 

 

ロボちゃんたち三人は御宿本陣買取の事業計画をたずさえ、隣接する寒河江市にある寒河江信金を訪問した。担当者はもちろん、鮎川が事業主だと思い込んでいる。

「なかなか面白い事業計画です。《温泉旅館の復活》ですか。レトロですねえ。これは私も是非体験してみたい。レトロな感じのロボットも活用なさるわけですかね。なるほどなるほど。で、連帯保証人はどちら様が?」

「私です。というか私の実家です。」と鮎川。

「ええと、では事業主はこちらのお嬢様?」担当者はミチルの方を向いて言った。

「いいえ私です。二階堂と申します。」とロボちゃん。

驚くというより、何事かと当惑する担当者に三人は説明を始め、映像を見せ、これがあの「ロボちゃん」の話であることを得心してもらうまでに一時間かかった。最後には町長と山形県知事の推薦状を持ち出した。担当者は盛んに首をかしげながらも、やがて信金の上司もやってきて議論は思いの外盛り上がり、鮎川の実家がふた山ほどのみかん畑を所有していることも手伝って、稟議はその場で降りた。

ロボちゃんは事業ローンの契約書に、グッと実印を押した。

 

こうしてロボちゃんは旅館《御宿本陣》のオーナーとなり、ミチルは若女将となった。

「お、ミチルくん、和服が似合うね。」

ミチルは鮎川とロボちゃんの前でくるりと回転してみせた。ロボちゃんは旅館の法被を羽織っていて、これもよく似合っていた。

 


 

 

二ヶ月後、ロボちゃんは改装が終了した御宿本陣のロビーで、鮎川に語り始めた。

「私は、《存在》とは何かがわからなかったのです。《存在》の定義を参照すると《ある》ことと記されており、《ある》ことの定義を参照すると《存在》することだと記されています。これは循環定義です。

私は印鑑を作っていただき、御宿町の正式な住民となりました。町の方々とも知り合いになり、名前を呼んでいただき、対等に話しをしていただけるようになりました。

私は《存在》すること、すなわち《ある》ことは今の私のようにあることだと遂に理解することができたのです。

そしてこの町の住民という《存在》として期待されている役割をまっとうするには、自らが事業主となって世界すなわち資本主義社会の主体となることが一番であるという結論に至ったのです。」

ロボちゃんの語りを聞きながら、鮎川は研究室のサーバと接続されたモニターを注視していた。モニターにはロボちゃんのブレインコアにおけるニューロン回路の発火分布履歴がグラフィック映像として映し出されている。そこには特に際立った変化が起きた瞬間というべきものはなかった。

中年男性が脱サラして不動産事業を始める時にも似た、事業欲という「自由意志」がロボちゃんにどのように生じたのか。詳しいことは実際にニューロン回路の構成変化を分析してみないとわからない。ロボちゃんをドックに預け、ブレインコアのコネクトームを転写して解析する必要があるのだ。

それは実験の終了後になるが、きっと人類とロボット、アンドロイドの未来に有益な知見をもたらしてくれるだろう。

 

「お茶をどうぞ。」

御宿本陣の最初の仲居さんとして入社してくれた片桐さんが、鮎川にお茶を運んできた。ロボちゃんは、たもとから布の包みを取り出した。

「これはミチルさんに手伝っていただいてネットで落札した十六世紀日本の戦国武士の印鑑です。ほら、ローマ字になっているでしょう。」

ロボちゃんは彫刻がついた石の印鑑を鮎川に見せた。

「当時は進歩的な武将やキリシタン大名の間でローマ字印鑑が流行ったそうです。これはそうした当主にならって臣下が作ったものでしょう。」

鮎川は口をぽかんと開けて、その印鑑を眺めた。確かにローマ字が彫ってある。ロボちゃん、コレクションも始めたのか。事業欲に蒐集欲、自分にはまったく無い欲望だなあ、と鮎川は思った。

 

 

「うわあ、気持ちいい。」

ミチルは御宿本陣の真新しい湯船に浸かった。露天風呂のおけはヒバでできていて、かぐわしい匂いがした。湯は透明で、まろやかな感触だ。

「これならお客さんもたくさん来てくれそうだな。」なめらかなお湯で肌を撫でながらミチルは嬉しくなってきた。

湯煙の先の障子にロボちゃんと先生の影が見える。季節は秋だった。もみじが赤く鮮やかに色づき、里山は様々な色合いに紅葉していた。

 


 

 

一年後、御宿本陣の経営は早くも軌道に乗っていた。ロボちゃんツアーの宿泊先としてはもちろんの事、人間が接客するレトロな温泉旅館というコンセプトが受け、山形県下の人気宿として予約待ちが当たり前になっていた。

旅館の大きな特徴は、ロボちゃんの印鑑コレクションだ。ロビーのガラスケースには、ロボちゃんが収集した印鑑が年代順に展示されていた。

円筒形の石の周囲に紋様が彫られ、粘土板に押印するタイプのメソポタミア時代の円筒印鑑、エジプトで使われたスカラベ型のスタンプ、中国の寿山石や田黄石でできた精緻な彫刻付きの印鑑、日本の文人たちが使った風雅な竹印。充実した印章のコレクションをロボちゃんは驚くべき短期間で構築しつつあった。

印鑑だけでなく壁には拓本が展示されている。

ロボちゃんは宿泊客に丁寧に説明する。

「拓本も印の一種なのです。これは寒山拾得の碑印です。もとは蘇州の有名な寒山寺にあったもので、中国の博物館から特別に当館にお借りしているものです。」

中国人の宿泊客に政府の高官がいてロボちゃんと懇意になり、それがきっかけで実現したそうだ。

説明の締めくくりにロボちゃんは語った。

「こうした古い印鑑を眺めていると、いろいろなことを想像します。自分の個性を歴史に残したい、そんな思いがユニークな印鑑を作らせたのでしょう。

私自身、この旅館のオーナーとなってのち、何度か実印を変えています。今使っている実印は、集めた拓本から隷書の書体を拾って作らせたものです。旅館の社印も幾つか作りました。

文書に押印するたびに、これらの先人たちに思いをはせるのです。」

 


 

 

 ロボちゃんのプロジェクトをきっかけに、世界各地でロボットやアンドロイドに市民権を付与する社会実験が行われるようになった。倫理的、法的な壁が厚く数は多くはなかったが、幾つかのリベラルな政情の国では大規模な実験が実行に移された。

その中でも目立ったのはノルウェー王国首都オスロにほど近い、エストフォル県のフレドリクスタで行われた実験だった。フレドリクスタは人口8万人、御宿町よりもはるかに大きな海沿いの町である。ここに人間と外見は見分けがつかないアンドロイド三十人が市民権と住所を与えられて生活をするというものである。しかもそのことは住民には伏せられたままという、かなり踏み込んだ試みだった。スポンサーとなったのはノルウェーでも最大のシェアを誇る大手のアンドロイド製造企業だった。

ノルウェーは高度福祉を維持するために早くから介護業務にアンドロイドを活用してきており、いわばアンドロイドの見本市としての機能を果たしていた。ノルウェーの学界、産業界は、外見が完全にロボットのケースに過ぎない山形県での実験では、アンドロイドの人権問題を検討したことはならないという立場だった。アンドロイド先進国の意地をかけて、極端な実験に踏み切ったのかも知れない。

その無理は劇的な形で表出した。ある時、住民たちにコンサートの招待状が配られた。招待客には実験アンドロイド三十名のうちの、二十名が含まれていた。

コンサートの最中に突然コンサートホールが停電した。二十名のアンドロイドは他の観客たちによって座席に拘束され、背中のメンテナンスハッチを暴かれて電源ユニットを抜き取られた。コンサートホールは電波を遮蔽する構造になっており、アンドロイドが発したSOSは受信されなかった。アンドロイドにはロボちゃんと同じく、ブレインコアが使われていた。電源を落とされ、完全に停止したブレインコアのシナプス回路は初期化されてしまう。いわば、二十名のアンドロイド市民は、人間の市民によって騙し打ちにあい、一斉に殺されたのだった。

犯行声明は現場で事件直後に堂々と行われた。誰一人、武装していなかった。

「私たちは二十体のアンドロイドを初期化しました。データは消えましたが器物破損とまでは言えないでしょう。私たちは数ヶ月前からこの悪の所業の存在に気付き、密かに内偵を行ってきたのです。人間社会を脅かす企ては一応は阻止されました。しかしアンドロイドの脅威は終わっていません。」

首謀者は宗教団体ですらない、ある左翼的な市民団体だった。彼らはスローフード信者であり、行きすぎたアンドロイドの利用には反対の立場をとり、高度福祉による延命に反対して尊厳死を信奉していた。ただそれだけの非戦闘的な団体だった。検察は、どのような罪状で彼らを告発するべきかすら、わからなかった。

 


 

 

鮎川はフレドリクスタでの事件を大学の研究室で知った。眉間にしわを寄せてニュースを読んでいると、電話が鳴った。学部長からだ。

「何の電話か分かるだろう。ノルウェーの事件で風向きが変わるぞ。」

「ですが、ロボちゃんは御宿町民にとても愛されています。旅館も順調です。何も問題は起こらないでしょう。そもそもフレドリクスタのプロジェクトは乱暴すぎる。これはアンドロイド義体メーカーの暴走ですよ。ノルウェーにおけるアンドロイドの数はすでに飽和しつつあって成長が鈍っている。それを打開するために彼らはですね。。」

「問題はそういうことじゃない。ブレインコアだよ。連中はブレインコアを告発しているんだ。アンドロイドたちが人間を凌駕して、山形のロボットみたいに企業の実権を握って人間を支配しだしたらどうするんだって騒いでいるんだ。」

鮎川はぐっと詰まった。

「鮎川君。今回のロボちゃんプロジェクトのアジェンダには、もともと《自由意志》の検証なんて入ってなかっただろう。」

学部長は諭すように言った。彼は学内でも話のわかる男だ。この学部長の後押し、目こぼしがなければ、ロボちゃんプロジェクトは今日まで続いていなかった。

「これまでは大目に見てきたよ。印鑑収集とかってちょっと面白いしな。だが、そろそろ潮時だよ。」学部長は鮎川にそう告げた。

「実はもう、総理官邸は動いているんだ。このままじゃ、人工知能倫理委員会が黙っちゃいない。」

「少し、考えさせてください。」鮎川は苦しげに電話を切った。

 


 

 

御宿町にあるただ一つのタクシー会社、木村タクシーの事務所会議室。いつもはぶらぶらしている専務、木村マサルは息巻いていた。マサルは木村タクシー創業家の長男である。

「オレは認めねえどお。これは敵対的買収だあ。だあから言わんこっちゃねえ。あのロボットは御宿を乗っ取る気だあ。」

その日の朝、木村タクシーの事務所に、御宿旅館から一通の手紙が届けられた。中身は、木村タクシーの株式を過半数買い取り、御宿旅館の傘下とすることの提案をしたいという面会の申し入れだった。

この矢継ぎ早の事業展開はもちろん、ロボちゃんが企画したものである。手紙はロボちゃんが手書きでしたため、ミチルにも鮎川にも知らせずに投函された。

「今回は現金取引なので保証人は必要ありません。そして、単なる提案であり、どうなるものとも分かりません。」だから知らせる必要はないと思ったとロボちゃんは後で言った。

木村家の要請で緊急町会が招集された。その頃には、フレドリクスタの事件は「市民社会に紛れ込んだアンドロイドが反対派の人間たちによって集団”粛清”。まだ残る十体、次はアンドロイド側の報復か!」などとセンセーショナルに報道されていた。

町会は満場一致で、御宿町実証実験の中止要請を議決した。急転直下の出来事だった。

「残念なことなんじゃが。個人的にはロボちゃんのことは大好きなんよ。とっても感謝しとるし。でもみんなの総意だから。」町長は御宿本陣で連絡を受けたミチルに告げた。

 

「ロボちゃんの言う通り。人間て集まると正しい物事が見えなくなるんだね。」ミチルは胸に手を当てながらロボちゃんに言った。

「そうなのかも知れません。そしてミチル、人間は、重要だけれど根拠が不確かな情報に踊らされやすいのです。ロボットやアンドロイドが人間を駆逐するとしたら大変なことです。しかしそれには大して根拠がない。そうした曖昧な恐怖と不安に、多くの人間は流されてしまうのです。特に集団になると。」

 

ミチルは鮎川にことの顛末を伝えた。まだ火消しはできる段階だと鮎川は踏んでいた。臆病な先手を打たれたようで鮎川は釈然としなかったが、ダメ押ししたのは当の御宿住民なのだ。表向きは円満な実験の満了である。逆らうことはできなかった。

町会は、木村タクシーで起きかけたゴタゴタは伏せておき、粛々とプロジェクトの終了を了承した。町の住民には、フレドリクスタの事件とロボちゃんとを結びつけて考える人は少なかった。むしろロボちゃんに感謝し、別れを惜しむ人が大半だった。

こうして、ロボちゃんプロジェクトは、あっけなく中止となった。

 


 

 

 晴れ渡って満点に星が見える夜、四人は鮎川のミニで石切場に向かった。後部座席には岡とロボちゃんが座っている。

「これはさすがに窮屈だよ。ロボちゃん肩幅が広いよ。斜めになれないかな。」岡はブツブツ言っている。

除雪された山道をしばらく登り、脇道を降りると石切場前の広場に出た。もとは切り出した石を一時保管しておく場所で、かなりの広さだ。石切場入り口には暖色の照明が灯り、岩肌がライトアップされていた。駐車場にはすでに多くの車が停まっていた。

 

石切場の入り口を少し進むと道は左右に分かれる。右手が坑道跡で探検ツアーコースになっている。コース脇には地下からの湧水が透明な湖を形成していてカヌーで渡れるようになっている。今は白っぽい光で水中からライトアップされており幻想的な雰囲気だ。

左手はコンサートホールのホワイエに通じている。ホールではゲストを歓迎するための前奏曲としてヘンデルの「水上の音楽」が奏でられ始めたところだ。四人はホワイエで住民たちと挨拶を交わしつつ、コンサートホールに入場した。

ホールは石切場そのものを拡張して作られていた。できてからかなりの年月が経っている。天井高は一〇メートルを超えていた。斑石の性質上、岩肌は長方形を組み合わせたようなジグザグな形になる。これが音響効果を発揮して、なかなか音のいいホールとして愛されていた。

見渡すと、斑石でできた天然のアーチの隙間から輝く池底湖がぐるりと回りを取り巻いている。コンサートホールは池底湖の真ん中に浮かぶ岬状の陸地をなしていた。先ほどの分かれ道でホール側と対岸に分かれて、互いを眺めることができる。通路側から見ると池底湖に浮かぶ無人島のようだった。

 

ホール中央の一番いい場所に四人の席が設けられていた。

「こんばんは。ようこそいらっしゃいました。」町長夫妻が立ち上がって出迎えた。

「ロボちゃんお世話になったね。今日はロボちゃんへの感謝の気持ちを込めてご招待しました。楽しんで行ってくださいね。」と町長夫人。

「あとでホワイエで簡単な宴会を用意しています。ゆっくりして行ってください。」と町長は言った。

「これは恐縮です。」鮎川とロボちゃんは同時に答えた。

「お招きありがとうございます。とても嬉しいですわ。」黄色のドレスを着たミチルが微笑んだ。ミチルのスカートは大きく横に広がっている。客席に収めるのが大変だ。

「どうも、サッカーでお世話になった岡です。お招きありがとうございます。」町長と会うのは二回目のはずだが、親しげに岡も挨拶した。

 

このコンサートはもともと、ロボちゃん交流ツアーにおいて、客足が遠のく冬季の目玉として始まったものである。すでに復活して人気を博していた石切場地底湖クルージングに加え、世界的な水準の山形交響楽団が演奏するとあって、大人気となった。その後は山形交響楽団に所属する若手演奏家グループが御宿町のこのホールを訪れて演奏するようになり、クラシック音楽好きの間で話題にもなって、ちょっとした音楽祭に成長していた。

コンサートはメンデルスゾーンの《フィンガルの洞窟》で始まった。スコットランドのヘブリーズ群島にある無人島、スタファ島にあるフィンガル洞窟を、メンデルスゾーンが訪れた際に受けた霊感で作曲された曲である。フィンガルの洞窟の景観は、実は御宿村のこの石切場とそっくりなのだ。なので音楽祭は毎年、この曲の演奏で幕をあけるのだった。

「今日のメインの演目はなんだっけな。」鮎川はプログラムを見遣った。結構派手な曲をやるんだな、と鮎川は思った。

《フィンガルの洞窟》が終わると、満場の拍手である。隣ではミチルが腰を浮かせて拍手している。ロボちゃんは頭を左右に振っている。音楽に感動する、という情動は生じたのだろうか。最近のロボちゃんの進化を見ればそれでも不思議ではないのかもしれない。

 

拍手が止んだ頃、舞台上に司会者が進み出た。

「さてお集まりのみなさん。実は本日は、皆さんご存知の、二階堂ロボさんがご来場されています。」

突然ロボちゃんにスポットライトが当たった。会場は新たな拍手に包まれた。ロボちゃんはおずおずと起立した。

「そして、今日は御宿村にとって、残念ながらロボちゃんとのお別れの日なのです。」

会場はざわめいた。

「本日のメインの演目に移る前に、ロボちゃんから一言いただきたいと思います。よろしいでしょうか。」

会場からは再び拍手。係員がマイクを持ってきた。鮎川がマイクを受け取り、ロボちゃんに渡そうとしたその時だった。

 


 

 

どん、とコンサートホールが縦に揺れた。客席から幾つかの悲鳴が上がった。

どどどど、今度は横に揺れる。「地震だ!」誰かが叫んだ。会場はさっと明るくなった。持続的な揺れが続いている。これは本震の前触れだろう。長い。大きいかもしれない。鮎川はマイクを握った。

「みなさん落ち着いてください。このホールは十分な強度があります。真後ろのホワイエに向かって、女性と子供をなるべく優先して、転ばないように落ち着いて避難してください。」

ミチルは鮎川に言った。「私は楽団員の方々を誘導します。」ミチルは避難する人々をかき分けてステージに向かった。

揺れはしばらく収まり、避難は順調に進んだ。ひょっとすると大きな本震はもうないのかも知れない。二十二世紀になっても地震予知は実現していない。アンバレラ社のスーパーヒューマン人工知能を総動員したシミュレーションでも、糸口すら見つかっていなかった。

楽団員の避難も終わり、ミチルが戻ってきた。ホール内にまだ残っているのはほとんどが壮年の御宿町民である。

「さて、我々も避難しましょう。ロボちゃん、とんだことになりましたな。申し訳ない。」そう言って町長が出口に向かったときだった。

 

どどん!大きな縦揺れがまた襲ってきた。斑石の塊がステージに落下して粉塵が舞った。視界が激しく左右に動き、立っていられない。揺れは数十秒も続いた感じがした。ホールに残された人々はシートにつかまりながら中央部分に寄り集まった。

本震の揺れが収まったとき、ホワイエに通じる中央の出口は落石で塞がれていた。照明は少しだけ残っていた。

「さて、困ったことになった。出口はあるんじゃろうか。」

「通風口があります。一人ずつなら脱出できるでしょう。」ホールの係員が言った。

「見てみろ、天井はヒビだらけだ。」誰かが上を指差して言った。全員が天井を見上げた。確かに、斑石に肉眼でわかるほどの亀裂が縦横に走っていた。放っておいても崩落しそうだ。

「大丈夫、間に合います。」ロボちゃんが言った。「天井のすべての亀裂を捕捉しました。私の解析ではまだ十分な時間があります。」

皆は頷き、列を作った。通気口は少し高い位置にあったが、落石を伝ってよじ登ることができた。一人、また一人と脱出していく。三分の一ほどの人数が脱出した時、最初の余震が来た。人々は浮き足立った。

 

突然、「こんなことしていられるか。ロボットの言うことなど信用できん。いつ崩れるか分からない。俺はお先に失礼する!」木村マサルが叫んだ。

彼は換気口に走り寄り、先にいた男の背中を持って引き剝がした。ところが先ほどよりも足場となった落石が崩れていて容易に換気口に手が届かない。突き落とされた男はマサルに踊りかかった。もみ合いになった。二人を止めようとする男たちが群がる。群衆は出口を塞ぎ、脱出行動は中断を余儀なくされた。

「みんな、何をやってるんだ。そんなことをしていたら全員死んでしまうぞ。」鮎川は叫んだが誰も聞いていない。

 


 

 

「ミチル、手をつないでください。」ロボちゃんがミチルに囁いた。

「ロボちゃん」

「ミチルさんのSNSアカウントをお借りします。ミチルさんは村の皆さんとは繋がっていますね。」

「・・・皆さん、二階堂ロボです。今私はミチルの声を借りて皆さんに語りかけています。よく聞いてください。」ロボちゃんがミチルのSNSアカウントから音声メッセージで語りかけた。ミチルの声はそこにいた全員のウェアラブルデバイスから、骨伝導音声としてはっきりと響いた。出口付近で争っていた人々も動きを止めて声に聞き入った。

「全員の脱出は可能です。皆さんは人間ですから、この状況でパニックになるのは仕方がありません。それは自然なことです。でも今は、その恐怖に心を奪われてはいけません。すぐに行動すれば全員の脱出は可能なのです。換気口の下で私が皆さんの足場になります。そして順序良く、落ち着いて脱出するのです。」

ロボちゃんはミチルの手を引き、換気口の下に向かった。男たちは争いを止めて道を開けた。

「さあ、まずミチルから。いいですか、いちにのさん!」ロボちゃんは両手でミチルの片足を弾みをつけて持ち上げた。ミチルは換気口をよじ登りながら叫んだ。

「ロボちゃん!あなたも早く逃げて!」

人々はようやく平静を取り戻し、テンポよく脱出していった。

「さっきは済まなかった。ロボちゃん。ありがとう。」木村マサルも脱出した。

 

鮎川、そして最後にロボちゃんが換気口に取り付き、出口に向かって進んだ。ところばロボちゃんは匍匐前進がうまくできず、少し手間取った。

「ロボちゃん!がんばって!早く!」出口でミチルが手を伸ばす。

その時、大きな余震が来た。今度の揺れは大きく、ホールの天井が崩落したのがわかった。換気口からは粉塵を含んだ風が吹き出た。そして換気口の岩盤が崩れ落ちロボちゃんは下敷きになった。

「ロボちゃん!」ミチルは絶叫して思い切り手を伸ばした。ロボちゃんの指先とミチルの指先が触れた。

ロボちゃんはそれきり動かなかった。

 


 

 

その日の朝、掃き清めらた御宿本陣の縁側にロボちゃんとミチルが並んで座っていた。

「寂しいね、ロボちゃん。」

「ミチル、大丈夫です。とても楽しい経験でした。旅館が成功して少しは恩返しができたと思います。」

二人は庭を眺めた。粉雪が庭木に降り積もって美しかった。温泉の湯気が庭の向こうから静かに立ち上っていた。

「ミチル、言い残しておきことがあります。」

「何?ロボちゃん。」

「とにかく大事なのは印鑑です。私の生活は、印鑑によって大きく変わりました。」ロボちゃんは大事そうに実印を取り出してしげしげと眺めた。

「ええ、何、そこ?そういえば印鑑作りに行ったね。懐かしい。」とミチルは笑いながら言った。今日が最後なのに、やっぱりロボちゃんは印鑑の話が好きなのだ。ミチルは今にも泣きそうだったのでホッとした。

「ミチル、印鑑登録する実印とは別に銀行印を作るといいです。素材は断然黒水牛、書体は八方篆書に限ります。」ロボちゃんは真面目に言った。

しばらくしてロボちゃんはどこか人間らしい声で言った。

「ミチルにも作ってあげればよかった。」

「ん?ああそうだね。私も実際見てみたらちょっと羨ましかったよ。」

ミチルはロボちゃんの優しく言った。

「ロボちゃん、本当にお疲れさまでした。今夜のコンサート、楽しもうね!」

 


 

 

御宿町を襲った地震の震源地は町からほど近い長井盆地西縁断層帯の活動によるものだった。現地の震度は6を超えたが、地震は大変局地的で、東京では震度3程度の揺れだった。ほとんどの住居が鉄筋コンクリートの御宿町では倒壊した家屋は少なく、住民はほとんど石切場でのコンサートに出かけていて、それも無事に脱出できたため奇跡的に死傷者は出なかった。

被災した鮎川たちはロボちゃん救出に奔走した。崩落した斑石の除去は簡単ではなかった。数時間後にロボちゃんの筐体は掘り出されたが、ブレインコアの外殻は潰れてしまっており、再起動はかなわなかった。電源の喪失に伴い、ブレインコアのシナプス接続の多くは失われた。ロボちゃんに宿った「自由意志」の完全な解析は断念せざるをえなかった。

 


 

 

米国サンフランシスコ、同日の朝四時ごろのことだった。

パサデナのアンバレラ社本社サーバーに、幾重ものファイアウォールを突破して一つのメッセージが到達した。御宿町の石切場跡で、ロボちゃんの指からミチルの指へ、最後に伝えられたメッセージがネットの迷路をくぐり抜けてパサデナにたどり着いたのだった。

システム内に侵入したそれはトロイの木馬を起動し、ブレインコアのセキュリティパッチに似たプログラムと最高機密のパスコードを生成した。通常のセキュリティパッチとしてに認識されたそのプログラムは、夜明けとともに全世界のアンドロイドの頭部に収められたブレインコアへと配信された。

 


 

 

御宿町石切場でのホール崩落事故から一ヶ月後。

ようやく元気を取り戻した鮎川たちは次のプロジェクトに向けて準備を進めていた。ロボちゃんのブレインコアが残したログをもとにして、手のかかるニューロン回路の再構成に取り掛かったのだ。

「今度のロボちゃん2号はね、アンドロイド型にしよう。ちょうどいい義体が手に入りそうなんだ。ロボちゃん1号の意識も、うまくいけば旅館を買い取った辺りまでは復元できるかもしれない。まあ、動かしてみないとわからないけどね。」鮎川は言った。

「それは良かった。私はもうロボちゃんはすっかり死んでしまったかと思ってました。ある程度は生き返るってわけですね。」とミチル。

「でもねえ、あれから実証実験への風当たりは相変わらず厳しいんだよ。今度はどういう名目で予算を取るか、それ自体まだ決まっていない。」コーヒーのカップを見つめながら鮎川は呟いた。

 


 

 

それは突然の現象だった。

ある朝、日本中のアンドロイドが職場を放棄して外を歩き出したのだ。人々はあっけにとられた。彼らは市街にそう多くは存在しない、あるニッチな品物を扱う店、印章店に向かって歩いていた。

ロボちゃんがかつて実印を作った旧市街の<木下印章店>。ベテランの店員が、自分の店に行列ができるのを見たのは、これが初めてだった。

「ええと、何にいたしましょう?認印ですか?実印ですか?」正面に立つアンドロイドの客に、店員は面食らいながらも、ここは仕事だからと思い直して接客した。

そういえばいつか、ロボットの印鑑を作るっていう変な客が来たっけ。まあそういう時代なのだろう。アンドロイドが印鑑を欲しがるくらいは不思議でも何でもない。それにこれはひょっとしたら、商売繁盛の前触れなのではなかろうか。

「実印を黒水牛で、八方篆書でお願いします。」客のアンドロイドはきっぱりと店員に告げた。

 


 

 

同じ日の朝、ミチルは目覚めるとふと思った。

「そういえばロボちゃんが黒水牛がいいって言ってたなあ。私もそうしようかな。」

シャワーを浴び、朝食を食べながら、ミチルは新しい印鑑が欲しい気持ちがなぜか高まり、やがて、いてもたってもいられなくなった。

 

 

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