FINN

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梗 概

FINN

俺は渋谷の交差点を歩いている。パンク風の出で立ちで、赤い髪の彼女と手をつないで。

「ねえねえ、何食べる?何食べる?」交差点の真ん中で人混みに揉まれているのに彼女は俺にまとわりついて楽しそうだ。その時、ヴィクトリアズシークレットのショーに出てきそうな背の高いモデル体型の女が近づいてきて、俺の目をとらえた。女は通り過ぎる時に俺にぶつかり「あら、ごめんなさい。」と言った。俺は「いえ、大丈夫ですよ。」と返事をする。女はニコリと微笑んで群衆に消えた。俺は意識を失った。

次の日、俺はチューリヒの駅前通りの横道にあるオープンカフェで歩道のテーブルに座り、スーツを着た女と差し向かいで簡単な食事をしている。女はテーブルの下で俺に足を擦り付けている。俺は時計を見て、でかい紙コップのコーヒーを飲みながらサンドイッチを食べる。その時、古い型のBMWが道を暴走してくるのに気がついた。歩道に乗り上げてくる。女は叫んで跳びのき、俺は咄嗟に椅子に座ったまま足をカエルのように広げて車を避ける。BMWは盛大に目の前のテーブルにぶつかってそのまま走り去った。俺たちのコーヒーとサンドイッチは宙を舞い、次の瞬間、俺はコーヒーまみれになる。この場面はけっこうしばしばあり、もうこれで4度目だ。毎回、すごく驚く。

いつもそんな風に、断片的な記憶しかない。場所はランダムだが、同じシーンがたまに繰り返される。夢ではない、と思う。朝起きて、着替えてといった生活の記憶はほとんどない。

俺はゾンビになっていた。これは初めてのパターンだ。とにかく生きている人間の肉が喰いたい。拳銃の音がする。俺は相棒のゾンビと先を争いながら音の方向に進む。相棒が急に左に曲がる。人間の匂いだ。相棒は足にしがみつき、俺は背後から食いつこうとした。その瞬間、至近距離からショットガンで頭を撃ち抜かれた。

 

・・・こんな日常の中で、「俺」は徐々に自我を取り戻していき、自分は誰で、何がどうなっているかを知りたくなる。いつも一緒の女に聞いてみいても「いいじゃん、楽しいし。私はあなたと一緒にいられれば幸せだよ!」と笑うばかりで埒があかない。

度々現れる結婚式の場面、「俺」は他の出席者に話しかけるが、いつも上の空の会話にしかならない。ところがある日「へえ、お互い話ができるんですね。よくできてる。でも私、試用期間なんで、すみません。」という黒い夜会服の女と出会う。「俺」はある仮説を立てる。

「俺」は渋谷交差点の繰り返しの経験から、意識の発生と消滅のタイミングを握る「視点人物」を割り出すことに成功する。ある時「俺」は視点人物の正面に回り込んで殴りかかる。「俺」の意識は今まで味わったことのない深い闇に沈んでいった。

 

目覚めた俺はヘッドセットを外した。口と下半身には器具が装着されたままだ。ぼんやりと目を開けた俺の顔を、見覚えのある男が覗き込んでいた。

「なんてことをしてくれたんだ。クライアントのVRトラベルさんはカンカンに怒ってるぞ。突然脈絡もなく客を殴るなんて。向こうへ行って何もかも忘れちゃったのか?」

「いいか、お前の仕事はヒューマンモブ。VR世界で旅行するゲストから見て、遠い方からCGモブ、会話が聞こえる辺りからAIモブ、気まぐれに話しかけられても対応できるヒューマンモブ、そしてストーリーに登場するキャスト。俺たちはヒューマンモブとキャストの派遣会社で、お前はその現場新入社員。思い出したか?」

そうだった。俺は一ヶ月前に、結婚披露宴でのサクラ親族のバイト経験を生かして、この派遣会社に正社員として採用され、長期ダイブしたのだった。

「ダイブインの時のブレインプログラミングが効きすぎたのかな。もうちょっとで”キャストクラス”に昇格できたのに。また最初の下っ端モブから、一ヶ月やり直しだな。」

俺の隣には愛犬がまだヘッドセットをはめたまま、あおむけで舌を垂らして寝ていた。こいつはまだ向こうにいるままだ。早く行ってやらなきゃな。

文字数:1627

内容に関するアピール

現実世界を模したVR世界が実際に構築されれば、そこでまず問題になるのは圧倒的な人口の少なさでしょう。ゲーム参加者だけでなく背景にいる「群衆(モブ)」をどうするか。映画で用いられるモブのCGはとてもよくできていますが、それだけではリアリティは得られない。本作は今までのVRもので背景に退いていた「モブとしての人生」に焦点を当てた作品です。

モブ達に自由にズームインして、モブの一人ひとりに話しかけることができる自由な空間。それを実現するために、VR世界のモブの中に一定の割合で実際の人間を混ぜる「ヒューマンモブ」という仕事が生まれたという設定です。実写映画でいえばエキストラ。彼らはVR世界にダイブするときに、そこでの人格を植え付けられ、様々なシーンでモブとして振る舞います。

主人公は給料の高い「フルタイムモブ」として志願してVR世界で働き始めます。本来は自意識は持続して自覚的に「役」をこなすのですが、主人公はVR世界へのダイブインの衝撃で、例外的に自分のアイデンティティを喪失してしまい、VR世界を彷徨い始めます。そしてそこから脱出するために、ある行動に出ます。

映画などでよくある群衆シーンのクリシェを皮肉るとともに、実際の世界では群衆一人ひとりにそれぞれの人生があるという不思議さも醸し出したいです。タイトルは典型的なモブであるストームトルーパーから主役となったスターウォーズ最新作の登場人物フィンからとりました。

主人公が愛犬とともにVR世界に戻った後にも、別のストーリーが展開できるような含みをもたせます。設定としては、モブの人口がどんどん増えて、長期滞在モブのためにシステムリソースが割り当てられ、勝手にコミュニケーションを始めて社会を形成するといった展開も想定しています。

文字数:740

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輪廻スクランブル(”FINN”改題)

信号機の音に、俺は我に帰った。ちょっとぼうっとしていたようだ。

巨大な人の波がいくつもの方向から動き始める。

俺はパンク風の出で立ちだ。赤い髪の彼女と手をつなぎ、仲良くスクランブル交差点を歩き始めた。人並みはいくつもの方向から流れ、不思議とぶつからずに交わっていく。体育大学の集団行動演技のようだ。

「ねえねえ、何食べる?何食べる?」

交差点の真ん中で人混みに揉まれているのに彼女は俺にまとわりついて楽しそうだ。そこかしこで自撮りする観光客が立ち止まる。人波は少し淀んで彼らを避け、すぐにまた流れ始める。その時、ヴィクトリアズシークレットのショーに出てきそうな背の高いモデル体型の女が近づいてきて、俺は目を奪われた。サングラスをかけている。頭がとても小さい。女はスクランブル交差点に慣れていない様子の不器用な歩き方で、小刻みに立ち止まりながら進んでくる。通り過ぎる時、俺の腕に軽くぶつかった。

「あら、ごめんなさい。」女は小声で言った。

「いえ、大丈夫ですよ。」俺は意外に明るい感じのよい声で答えた。女はニコリと微笑んだ。サングラスを透かして魅力的な大きな目が見えた。女の後ろ姿を、俺は振り返って見送った。細い足首と、丸い綺麗な曲線を描く尻を俺は眺めた。

「何してるの? は、や、く!」相棒の彼女が俺の腕を引っ張る。照れ隠しに笑いながら前を向いた瞬間、何の前触れもなく、俺は意識を失った。

 

*****

 

窓からの夕日に照らされた薄暗い廊下。離れた建物の間を空中でつないでいるようだ。十人ほどの白衣の集団が後ろを時々振り返りながら我先にと走っている。俺はその最後尾だった。後ろからは数十体のゾンビたちが追ってくる。のそのそと歩くゾンビではない。転んだり、つんのめったりしながらも、かなりの速さで接近していた。

俺は息が切れ、蹴つまずいた。サンダルを履いている。なんでこんなもの履いてるんだ。俺はぜいぜいと喘ぎながらサンダルを放り出し、靴下を脱いで、再び走り出した。ゾンビの群れはかなり接近してきた

「うわ、うわああ!」俺は悲鳴をあげた。全身に寒気がして冷や汗が流れる。白衣の集団は数メートル先に離れていた。行く手に両開きのドアがある。あそこに逃げ込めば助かりそうだ。だが俺はもう心臓が限界で走れない。裸足に汗がにじんですべり、俺は再び転倒した。

白衣の集団の先頭がドアに体当たりをして飛び込んだ。右側のドアを男が、左側を女が押さえていた。

「早く、早く!」男が急き立てる。間に合った者たちは次々とドアを通り抜けて行った。俺はぜいぜいと荒い息を吐き、転げながら前進した。背後からゾンビたちの迫る足音と衣摺れの音が大きくなってきた。とうとうゾンビの手が俺の足を捉え、俺は倒れこんだ。足に鋭い痛みが走った。

俺の目の前で、ドアが閉じられた。窓から、間一髪で逃げおおせた者たちの顔が見える。俺の苦悶の表情とゾンビに食いつかれている光景を見て彼らの顔は歪んでいた。俺の体を踏み越えて、ゾンビたちはドアに殺到した。

しばらくすると、体に力が蘇ってきた。俺はゾンビになっていた。俺は立ち上がり、ドアに興味を失ったゾンビたちに混じって通路を戻って行った。それから夜の間じゅう、建物の中をさまよい歩いた。

俺は青白い光が点滅する実験室を歩き回っていた。空腹だけを感じていた。時間の感覚はなくなっている。突然、拳銃の音がした。俺はもう一体のゾンビと先を争いながら実験室を出て、驚くほどの速力で音の方向に突進した。相棒のゾンビが急に通路を左に曲がった。人間の匂いだ。目の前に三人の人間がいた。相棒はそのうちの一人に突進し、足にしがみついた。俺は背後から食いつこうとした。

その瞬間、俺は至近距離からショットガンで頭を撃ち抜かれた。

 

*****

 

十月のチューリヒ。昼になっても肌寒いけれど、空気が澄んでいて気持ちがいい。俺はいつものように、駅前のバーンホフ通りからサンクトゴッダルドホテルの脇道に入り、赤いパラソル下のオープンカフェに入った。席を見渡し、彼女の姿を見つけた。彼女は俺が来る前からとっくにサンドイッチをオーダーしてほおばっている。

「あらこんにちは。今日は何食べるの?」

「あんまり食欲ないんだ。昨日変な夢を見た。」

「どんな夢だったか聞いてほしい?聞いてあげる。どんな夢?」

「いやまあ、大昔のアメリカのテレビドラマで”ウォーキング・デッド”ってあったでしょ?いや、映画の”ワールドウォーZ”かな。とにかくあんな夢。」

「ゾンビに追いかけられる夢?」

「うん。それで結局噛み付かれてゾンビになっちゃう夢。めちゃくちゃリアルだった。」

「ふーん、私はあんまり夢みないなあ。あ、ウェイターさん、コーヒー!」

「ええと、僕にいつものクロワッサンサンドください。」

ウェイターは注文をとるついでにコーヒーを持ってきた。すばらしい芳香。苦くうまいコーヒーが寝不足気味の体に染み渡った。それから俺たちはたいした会話もせず、黙々とランチを食べ、コーヒーを飲んだ。俺は丸めて持っていた雑誌をパラパラとめくった。彼女はテーブルの下で俺に足をくっつけている。

俺はふと思った。今、ドイツ語を読んでいる。しゃべっている言葉もドイツ語だ。だが俺が今、思考しているこの言語は何語だろうか?そういえば、俺の名前はなんだっけ?彼女の名前は?

パトカーの音に俺は我に帰った。音が急に大きくなってくる。ランチに夢中の彼女も顔をあげた。オープンカフェのテーブルが並べられている横道の向こうから何か近づいて来る。車両通行止めのはずだというのに。

カーチェイスだ!車は蛇行して、駐輪してある自転車を跳ね飛ばしながら、大型の古いBMWがみるみるうちに接近してきた。コンクリートブロックの鉢植えが、カフェの間仕切りになっている。それを避けて、車は歩道に乗り上げ、そしてカフェに突っ込んできた。俺は呆然として腰を浮かせるのが精一杯だったが、彼女は食べかけのサンドイッチをつかんで素早く飛び退いた。

BMWが俺たちのテーブルを跳ね飛ばした。俺は椅子に倒れこんでバンザイした。食べかけのクロワッサンサンドは盛大に空に舞い上がり、濃いコーヒーがまだ半分入った紙コップは中身をぶちまけてどこかへ飛んでいった。BMWはスキール音を立ててバーンホフ通りを湖の方向へ曲がり、ちょうど走りかかった青いトラムに側面をぶつけて走り去った。数秒遅れて、3台のパトカーが追っていく。俺はシャツにコーヒーを浴びて、呆然と通りを眺めた。彼女が肩に手をかけた。

俺はさっきと同じ言語でぼんやりと思考していた。あれ、この場面は前にもあった。もうこれで4度目だ。そして毎回すごく驚く。

断片的な記憶はある。場所はランダムだが、同じ状況が時々繰り返されている。朝起きて、着替えてといった生活の記憶はほとんどない。そうした断片をつなぎあわせてみると、どう考えても、この状態で何日かは経っている。さらにそれ以前の、この奇妙な断片的生活が始まる前のこと思い出せなかった。

バーンホフ通りを赤いトラムが走って行く。警笛の音が響いた。それを聞いた瞬間、俺は意識を失った。

 

*****

 

スピーチが終わると俺は間髪をいれずに派手な拍手をした。

「皆様、宴もたけなわですが、ここで花嫁はお色直しとなります。しばらくご歓談ください。」

新郎が手を取って、新婦をいざない、退出していった。俺は酔ったのか、意識がぼんやりしてきて少し居眠りをした。はっと気づくと、花嫁は黄色いドレスに着替えており、余興が始まっていた。少し手の平を丸めて打ち鳴らす、品のない大げさな拍手をしつつ、俺は得意の唇を噛む口笛を吹いた。その音は、式場の喧騒を切り裂いて響き渡った。

その時、口笛の音が頭蓋骨の中で反響したような気がした。一瞬静かになり、目が眩む。数秒の間。そして再び式場の喧騒が戻ってきた。

そう、俺はいつもの通り、結婚式でのサクラのアルバイト中なのだ。ぼんやりしている場合ではない。

俺たちはサクラ親族は、披露宴の開始と同時にどこからともなく現れ、事前の打ち合わせで知らされた席にすばやく座り、当たり障りのない会話を他の出席者と交わし、退屈なスピーチに盛大な拍手をして盛り上げる。そして、いよいよ記念撮影という時に、さりげなく目立たず、潮が引くように姿を消す。席には今日のお役目の名前で札が置かれている。もちろんそれは俺の本名ではない。隣には連れの女が座っている。打ち合わせで、初めて会った女。スピーチの間だというのに食事をがつがつと食べている。サクラとしては失格ではないだろうか。

結婚式は終盤に差し掛かった。

「ではみなさんで記念写真をお撮りします。前方にお集まりください。」

司会がアナウンスした。さてそろそろ潮時だ。おれは中腰で席を立ち、ぞろぞろと前方に向かう参列客の間を横にすりぬけようとした。突然、連れの女が俺の腕をひっぱった。

「待って待って、どこいくの?記念撮影だよ。前にいかなきゃ。」は?こいつは何を言っているのだ? サクラは記念写真には映らないのがルールだと教わらなかったのか。これだから素人は困る。

「違う違う、こっちだ。」おれは女を小声でたしなめ、なおも前にいきたがるのをひっぱりながら、式場横のドアをすり抜けた。

その瞬間、俺の意識は遠のいていった。

 

*****

 

気づくと、俺はまだ結婚式場に座っていた。どういうことだ?連れ戻されたのだろうか。いやまて、花嫁が白いウィディングドレスを着ている。お色直しはまだだ。どうなってる?テーブルには、さっきとは違う名前の名札が立っている。俺は混乱した。

「皆様、宴もたけなわですが、ここで花嫁はお色直しとなります。しばらくご歓談ください。」花嫁が新郎に手をとられ、お色直しに出て行った。

その瞬間、会場の参列者たちは一斉に動きを止めた。ストップモーションの芝居のように、誰も動いていない。一体なにごとだろう?俺すら知らないような、新手の余興の一つだろうか?

連れの女はまったく気にせず、料理をがつがつと食べている。皆が静止しているなか、同じテーブルに座る黒い夜会服を着た女が、ゆっくりと左右を見回し始めた。俺たち三人だけが、動いている。俺と目が合った。女は少し目を見開いて顎を引き、俺の顔を見つめた。

「あ、あなたもヒューマンモブさん?うまくダイブできませんでした?あたしもどうもうまくいかなくて。」女は言った。

「えっと、その、え?ヒューマンモブ?」

「あ、ぶっちゃけ話し、しゃべっちゃった。どうしよう。まあいっか、お色直し中はゲストはいないから何を話しててもいいはずですよね。」

「ゲスト?」

「私、今回はモブとして仕事でこっちに来たんですけど、実はあの、あなたと一緒ですっかり覚めちゃってるんですよ。私、思ったままに体動かせるし、しゃべれちゃうんです。あはは。ゲストで来たときと全然一緒。モブの適性がないんでしょうね。」俺は夜会服の女の顔をまじまじと見つめながら、必死に考えた。ヒューマンモブ、どこかで聞いたことがある。なんだっけ?頭の奥がジーンと痛んだ。

ヒューマンモブ。そうだ、思い出した。VR(ヴァーチャルリアリティ)で構築された虚構世界の名もなき「群衆」。

ゾンビになったり、クルマに轢かれそうになったり。あれはぜんぶ、ヒューマンモブとしての仕事だったのだ。俺は、ヒューマンモブという仕事のアルバイトに採用されたのだった。

 

*****

 

「サクラ親族、ですか。」俺の貧相な履歴書を見て、面接官は怪訝そうな顔をしている。

「はい。わたくし、経験豊富なんです。サクラ親族というのはですね、何かの事情で、親戚や知人を呼べないとか、いないとかいう人が、結婚式を賑やかにするために、というか相手がたの親族の心証をよくするために雇うサクラのことなんです。結婚式の間は相手がたに見破られてはいけないので、度胸と演技力が必要です。ぼくはそれを二年やってまして、もう二十回以上の結婚式にサクラとして出席しています。一度もバレたことはありません。」俺はここぞとばかりにまくし立てた。VRモブというのは要するにVRゲームでサクラをやれってことなのだろうから、俺は絶対にうまくやれる自信があった。

「いやいや、実はあまり演技力は必要ないんですよ。この仕事はヒューマンモブと呼ばれています。VRイベントを体験するお客さんをゲストと呼びます。ゲストから見て、遠方に背景として動きだけがみえるCGモブ、会話が聞こえる辺りから人工知能で動くAIモブ、そして気まぐれに話しかけられても対応できるヒューマンモブの階層構造によって、VR世界のリアリティが担保されています。」

「ヒューマンモブは人工知能では対応できない臨機応変の会話だとか、人間らしい反応をゲストに返すために存在します。登場シーンに応じた記憶やスキルセットをその都度、モブの方の脳にインストールし、いわばモブの方の脳をお借りしてVR世界で活動します。仕事中はご自身の意識はほとんどありません。ときによっては明晰夢のように感じられるだけです。」

「ただ、中には適性がなくて、見当識が残りつづけてしまう方もいらっしゃいます。そういう場合は最初のダイブで自覚症状がありますし、当方でも意識状態を検知できますので、その回限りでヒューマンモブの資格はなくなります。もちろん、一回分の賃金はお支払いしますが。」

つまり、基本的には寝ていればいいということのようだ。

「健康診断のほうは良好でいらっしゃいますね。問題ありません。この仕事はむしろ新薬治験のアルバイトに似ています。必要なのは心身の健康と適性なんです。ではこの契約書をよくお読みください。」

そう言って、面接官はデスクに契約書を表示し、淡々と長い説明を始めた。俺はほとんど聞いていなかった。とにかく寝ていても稼げるという話しが俺の心を完全にとりこにしていた。

 

*****

 

「私そもそも、客としてゲストで来ててはまっちゃって、お金使いすぎちゃったんです。それで今度はモブやって稼ごうかなって。このバイト、寝てれば稼げるってすごくないですか?あーあ、適性ないって絶対バレてますよね。残念!」

女は饒舌に喋り続けた。すると女の夜会服にちらちらとグリッチが入り始めた。目の前で女は霞んでいき、そして消えた。俺は相変わらず食事にぱくついている連れの女に向かってまくし立てた。

「真相が分かったぞ。これは本当の世界じゃない。ヴァーチャルリアリティなんだ。俺たちはゲームの中の脇役をやらされている。そしてシステムの不具合か何かの事故が起きて、そこから出られなくなってしまっているんだ。何とかしないと、ずっと交差点やら、ゾンビやら、ニセの結婚式やらに出づっぱりだぞ!」

連れの女はきょとんとして答えた。

「何言ってるか分かんない。いいじゃん、毎日楽しいし。私はあなたと一緒にいられれば幸せだよ!」

こいつは本当に何を言っているのだ。埒があかない。冷静に考えよう。面接官は「仕事の間は意識はない」と言っていた。だが今の俺に意識はあるし、手足も動かせるし、自由にしゃべれている。ずいぶん働かされたようだが、結局のところ、夜会服の女のように、俺にヒューマンモブの適性はなかったのだろう。ということは、それが検知されて、元の世界に自動的に戻れるのだろうか。

そう考えているうちに、徐々に視界がかすんできた。

 

*****

 

「次は、さいたま新都心」さわやかな男の自動音声に、俺は顔を上げた。電車は満員だ。

停車駅で降りた。帰りの切符を買い、人混みに流されるまま、さいたまスーパーアリーナに向かって歩く。俺は今夜コンサートに行く。そのことを俺ははっきりと自覚していた。ああ、俺はやはり、目覚めなかったのだ。これもまたヒューマンモブ、VR世界の名前も与えられない群衆の一粒としての仕事なのだ。さしずめ、スーパースターなりきりVRイベントだろう。これだけの群衆を動かすとなると、大量のシステムリソースがいるはずだ。高いプレイ代金を払える富裕層の娯楽。

自分の意識でモブの体を動かせる俺は、このまま駅に戻ることもできる。だがそうすればまた、意識を失って消えるだけだろう。ゲストはVR世界でやりたいことがなんでもできるが俺にその自由はない。結婚式の時のように、プログラムの途中で逃げ出せば消えてしまうだけだ。俺は流れに任せることにした。この世界から抜け出すためのヒントが見つかるかもしれない。

会場前の広場では既に人が海のようになっていた。5万人もの人々。このうち何割がヒューマンモブなのだろうか。ここまで再現する必要があるのだろうか。グッズを持っていないので、連れの女と俺はグッズ売り場の長い長い行列に並んだ。以前から連続している本来の意識があるのに、今自分が次にやるべきことがはっきりとわかっている。”モブとしての俺”はこのコンサートを心待ちにしていたのだ。二つの人生を生きているような、なんだか不思議な気分だ。

俺たちは長い列を進み、ようやくグッズ販売窓口に到達し、かろうじて売れ切れていないTシャツを買った。俺たちはそのTシャツを、着ている長袖の白Tシャツの上から着た。これで俺たちは、コンサートに来ているファンの共同体に完全に溶け込んだ。チケットはスタンド席の結構いい場所だった。開演時間が迫ると、ギタリストがスタンド席の前に降りてきた。走り回ってウェーブを誘い、盛り上げている。

「ヒュー!」連れの女は快調にウェーブをかましていた。ノリのいい相棒だ。

壮大なセレモニーとともに、コンサートが始まった。ヘヴィメタルの激しいビートが会場を揺らす。ボーカルが登場すると、熱狂する叫び声が会場を埋め尽くし、ベースギターの爆音をかき消した。最初の曲からものすごいテンションで飛ばしている。十代の少女三人がボーカルとダンスという伝説のメタルバンド。脳天をしびれさせるボーカルの美声、ありえないほどキレのいいダンス。元の世界で何度が映像で見たことがあるけれど”実際に”見るのは初めてで、俺は興奮し、コールを叫んだ。複雑なコールが淀みなく口から出てくる。連れの女もコールを叫びながら激しくヘッドバンギングしている。

眼下にうねるモッシュを見つつ、俺はステージで歌い踊る少女たちの神がかったパフォーマンスに酔っていた。酔っているのは、本当の俺だろうか。それとも俺の脳にインストールされたモブとしての俺だろうか。もはやどっちがどっちだか分からない。

それに、ステージで歌っている少女は、本当にゲストなのだろうか。これほど完璧なスキルインストールとパフォーマンスが可能なものだろうか。ゲストが少女に”憑依”することによって得る体験は誰のものなのだろう。それとも本当のゲストはモッシュピットにいるのだろうか。モッシュピットでは半裸になった男が胴上げされたまま回転していた。男の恍惚とした表情がはっきりと俺の目に映った。

コンサートの最終曲。会場は興奮のるつぼだった。俺は感動して泣いていた。涙が後から後から溢れ出てくる。曲が終わり、神に等しいスーパースターは「See You!」とだけ言ってステージの袖からいなくなった。アンコールがないのがこのバンドの流儀だ。あまりにもあっさりとした幕切れ。

祝祭は終わった。消えて行く意識のなかで、俺は一つの作戦を思いついていた。

 

*****

 

信号機の音に、俺は我に帰った。おなじみの交差点シチュエーションだ。このチャンスを逃せない、と俺は即座に体勢を整えた。

モブとして許容される行動パターンは個々のシチュエーションごとに脳にインストールされているから、そこから逸脱された行動はできないはずだ。しかし今の俺は自分の意思でモブである自分をコントロールできる。俺を覚醒させるトリガーが見つからない今、試してみる価値があるのはゲストの行動に想定以上の打撃を与えてシステムを停止させることだ。

記憶している限り、これまでに経験したモブの仕事のなかで、ゲストと思しき人物に最も接近できるのは交差点のシチュエーションだと思われる。交差点ではゲストの視界に入ったときにモブの存在がスタートし、ゲストの視界から完全に消えたときに存在が消える。したがって、ゲストである”視点人物”を割り出して、そいつの顔でも思い切り殴れば、さすがにシステムは一時中断するのではないかと俺は考えた。

交差点において、これまでゲストは様々な姿で現れてきたが、共通しているのはサングラスをかけた派手な美男美女であるという点だ。おそらく芸能人になりきり、お忍びで渋谷でショッピングし、やがて面が割れて取り囲まれるというような安直なVRイベントであるに違いない。

俺は連れの女の手を引きながら、注意深く信号を渡った。交差点の中心を過ぎた頃、斜め左前方からサングラスでは隠せない美しい顔立ちの女がこちらの方向に歩いてきた。このまま進めば俺とぶつかるコースだ。俺は賭けてみることにした。歩調を変えずに進む。女との距離が縮まる。

女の肩が俺の左腕に軽くぶつかる。今だ。俺は女の肩をつかみ、乱暴に振り向かせた。

そのとき俺は、VR世界のあまりのリアリティに、改めて打ちのめされた。女性の顔を正面から殴るというのは大変な抵抗感がある。これが虚構だというのは間違いないのだが、俺が完全に狂っているという可能性だってある。手の感触も、匂いも、五感で感じるこの世界には圧倒的リアリティがあった。至近距離で、サングラスの女の、ほのかないい匂いが俺の鼻腔をくすぐった。俺は右腕を上げたまま、躊躇した。

次の瞬間、俺の体は宙を舞っていた。女が俺に、あざやかな背負い投げをかけたのだ。俺は受け身もとらずに腰からコンクリートの地面に叩きつけられた。周囲の悲鳴とやじうまの声が聞こえる。

俺は激痛でそのまま気絶してしまった。

 

*****

 

ゲストの行動を邪魔するというのはそう簡単にはいかないことがすぐに判明した。その後も俺は交差点での襲撃を何度も試み、オープンカフェを蹂躙する暴走車を止める様々な作戦を実行に移したが、ことごとく失敗した。ゾンビは思ったほどの戦闘力がなく、ゲストのヒロインが持つショットガンの前になすすべもなかった。

やはりちっぽけなモブ一人、それとほとんど役に立たない相棒がどうあがいても、この世界のシナリオを変えることができないのだろうか。

もうあの手しかない。俺は封印していた奥の手を繰り出すことにした。

 

*****

 

健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも―――

俺はとても涙もろい。このフレーズを聞くと反射的に涙腺がゆるんでしまう。サクラのバイトで本格的に泣いてしまい、それがあまりに胸を打つ泣きっぷりだったために結婚式のビデオに収録されてしまったことがある。映像が両方の親族に配られた後で判明したので修正削除もできず、俺の泣きのアップが映ったビデオがそれぞれの家庭に今もあるはずだ。俺を雇った新婦側は複雑な心境だろう。親戚一同でビデオを見るたびに「ほんと誰こいつ」と思わずにいられないだろうから。

だが今は泣いている場合ではない。結婚式場となった教会はいつものように、圧倒的な実在感で満たされていた。これが虚構であるという手がかりは一切得られない。交差点やカフェでの”自由行動”のリハーサルがなければ、絶対にできそうにないことを俺はやろうとしていた。

―――富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?

新郎が顔を上げた瞬間、俺はありったけの勇気を振り絞って立ち上がり、声を限りに叫んだ。

「ちょっと待ったー!」

どんなゲストがどんな結婚式を体験したいのかは知らないが、さすがにこの宇宙一ダサい展開をスルーできるとは考えられない。このままシステムはフリーズし、俺を含めて全てのモブ、ゲストは本当の覚醒を余儀無くされるだろう。

教会は静まり返った。牧師、新郎新婦、そしてすべての参列者が眉をひそめて俺の顔を見つめた。そろそろだ。そろそろ皆の姿にグリッチが入り、いつかの夜会服の女のように消滅していくはず。じりじりと時間が過ぎる。五秒、十秒。俺はじっとりと冷や汗をかいていた。

「誰?」

新婦が吐き捨てるようにおれに毒づいた。最前列に座る親族たちが徐々に立ち上がり、俺を睨め付ける。新郎がものすごい形相で俺を睨み、体の向きを変えて近づいてくる。何かがおかしい。冷や汗が流れる。

「あ、あっその。。」

ぶつぶつ言いながら両手を前に突き出し、及び腰になって俺はパニックに陥った。俺はすでに目覚めていたのだろうか。これは現実の世界での、サクラ親族のバイトの最中だったのだろうか。

おれは、どうすれば―――

 

*****

 

俺は目覚めると同時にはげしく喘いだ。息が苦しい。ものすごく寝覚めの悪い夢をみたような気分だった。教会での極限の気まずさが、ありありと記憶に残っていた。だが俺の勝ちだ。やはりあの結婚式は虚構で、俺の作戦は成功したのだ。

目覚めた俺はヘッドセットを外した。下半身は大きな器具に覆われたままだ。徐々に目の焦点が合ってくる。広々した快適な明るい空間。アロマの香りに息が落ち着いてくる。目の前は曲面ガラスのようだが、継ぎ目すらよく見えない。円形の床面の上で、繭型の容器のようなものが放射状に並んでいる。そのうちの一つで俺は半身を起こしていた。やがて、見覚えのある男が白衣姿で近づいてきた。

「困ったことをしてくれましたね。クライアントはカンカンに怒ってますよ。そもそもどうやってあんなことを。」

「ええと、ここはヒューマンモブの会社?」

「そうですよ。二週間前に面接したの覚えてますよね。契約書にもサインしたでしょ?」

「ええ、ええ。いや、でも全然戻ってこれなくて。仕方がなかったんです。」

「あなたが応募したのはこれです。もちろん、覚えていますね。」

男はノートパッドに”長期ダイブVRアルバイト募集!”という広告の画面を表示して俺につきつけた。長期?

「途中で意識は戻ったんですが、何度モブをやっても、どうしても戻ってこれなかったんです。それで仕方なく。」

「まだ契約期間の半分ですよ。意識が戻っていたということは、イベントをわざと台無しにしたのですか?当社は大損害ですよ。うーん、しかし意識が戻っていたとは。こちらでは全く検知できませんでした。これは分析の必要があります。ちょっとそのままお休みください。」

男は部屋を出ていった。

契約期間の半分。そうだった。肝心な点をすっかり忘れていた。高額のバイト料は、試験的に開始された一ヶ月間の長期ダイブのアルバイトだったからなのだ。一ヶ月間潜ったきり。時給はサクラ親族バイトの倍近く、それが睡眠時間を除き一日十六時間勤務積算になる。一ヶ月分を合計すれば俺にとっては一財産といっていい。

俺には借金があり、どうしてもカネが必要なのだった。サクラ親族のバイトだって好きでやってたわけじゃない。だがこの一ヶ月連続ダイブで資金を得たら、俺は生まれ変われる。借りを返し、自分に投資して、サクラをやったりモブをやったりの端役人生におさらばするのだ。

男が飲み物を持って部屋に入ってきた。

「モブシーケンスを切り替えるときのブレインプログラミングが弱過ぎたのかも知れません。少し強度を上げてみます。ところで、あなたのワンちゃんはまだ潜ったままですよ。」

俺の隣には愛犬がまだヘッドセットをはめたまま、舌を垂らしてあおむけで寝たままだった。そうだ、いつもかたわらにいた相棒の女はこいつだったのだ。一ヶ月もペットホテルに預けるような金はない。VR世界にはペットは問題なく連れて行けるし、今回は無料だというので喜んで申し込んだのだった。

こいつはまだ向こうにいるままだ。早く行ってやらなきゃな。

「じゃあ、すぐにまたダイブしますよ。今度目覚めるときは二週間後です。特別に、今回のトラブルは不問にするという決定がなされました。あなたのようなケースこそ、長期ダイブの本格運用に向けて有用なデータになる可能性があります。でもイレギュラーな覚醒はこれきりにしましょうね。覚醒とダイブには、大変な手間と薬品とコンピュータリソースが必要ですから。ではまた。」

頭上からヘッドセットが降りてくる。プロセスは自動化されていた。腕に注射針がささるチクりとした痛みを感じ、俺は再び向こうの世界へと旅立っていった。

 

*****

 

「ブライダルドリーム社、行ってきましたー。」

ガラガラと引き戸を開けて、営業の菅原が帰ってきた。髪の毛を赤く染めた菅原は、くたびれたリクルートスーツにペタンコ靴という出で立ちだ。

「はいこれ。夜食っす。」

「おお、グッドチョイス。お前どれ食べるの?おれはいつものこれ。ありがとね。」と山田は言った。彼はダイビングオペレータで、カップ焼きそばが好物だ。

「気がきくでしょ。あたしはいつもの伝統の味。」菅原はカップスターしょうゆ味を手に取った。

「おっとこれはルービー。」山田はカップ麺の底にある缶ビールを取り出した。

「ルービーっす。定時過ぎてるんで。ちょっと戸、開けとく?外すずしいよ。」菅原は言うと、引き戸を少し開けた。歩く人もまばらな三ノ輪の大通りは薄暗く、ヒューンと自動車が行き交う音だけが聞こえる。涼しい風が狭い事務室を吹き抜けていく。奥の倉庫に窓はないのだが、すきま風だ。換気設備の更新をさぼっていても問題が起きないのは利点だった。

「駅から歩き?汗かいたでしょ。ほんとにお疲れさま。じゃ、かんぱーい。」

 

ビールを飲み、お湯をわかし、カップ麺を食べる。山田は外回りの菅原が夕方帰ってくるのを待って、用がなくても事務所に残っていることがよくある。

「で、クライアント、どうだった?」

「カンカンですよ。平謝りしました。せっかくのVRなんだからハプニングも面白いと思うんですけどね。」菅原は缶ビール半分で顔が真っ赤になる。赤い髪に赤い顔で口を尖らせ、彼女は愚痴った。

「まあ、今回のは本番の結婚式だからちょっとまずかったよなあ。台無しもいいとこでしょ。やってくれるよ004番。」山田は奥の倉庫をあごで指し示した。

「ですよね。あははは。”ちょっと待ったー”って、いつの時代だよって。まあでもちょっと言われてみたいかも。」菅原はケラケラと笑った。

夜食を食べ、ビールで一服した二人は仕事の話しに戻っていた。

「しばらくモブやってると記憶野が疲労して制御が効かなくなって、大もとの見当識が戻ってきちゃうんだよね。004は、さっき擬似覚醒ルーチンを通したところ。これでまた当分は大丈夫でしょ。再現みてみる?」山田はスクリーンにゼスチュアを送り、モブ004の擬似覚醒ルーチン映像を第三者視点で映し出させた。

「おお、確かに004さんだ。あたし擬似覚醒ルーチンみるの初めてかも。こうやって擬似的に覚醒したと認識させて脳をリフレッシュするんですね。脳って簡単にだまされちゃうんだなあ。」

「そう。こうすれば、しばらくは人格遷移がスムーズにできるようになるよ。」

 

終業前の倉庫点検のために、山田は奥の引き戸をあけて電気をつけた。およそ百坪ほどの空間に、所狭しとポッドが並んでいる。二人は狭い通路を歩く。

「004さんのトラブルは久しぶりみたいですね。」と菅原。

「彼はすごい適性の高さだよ。ダメな人は全然見当識が揺らがなくてこっちでの人格を保ったままモブになってしまう。そういう人は一回きりのダイブで失格だからね。」菅原を先に歩かせ、後ろ姿を眺めながら山田は言った。

「彼は今ので何回目の擬似覚醒です?」菅原は聞いた。

「えーと、004の彼は、83回目だね。もうかれこれ30年だもんな。僕らが生まれる前からダイブしてるんだからすごいよね。ほら、このヒゲみてよ。」二人は004のポッドの前で立ち止まった。透明なシールドに覆われた、男の髭が伸び放題の顔が、薄く黄色い液体の中に浮かんでいる。

「歳いくつなんです?うわ、56歳かあ。」菅原はポッドの上のディスプレイの数値を見つめてため息をついた。

「それにしても、何で犬が一緒だったんですか?」

「パートナーモブが一緒にいると長期ダイブ中のモブ人格が安定するのさ。彼の場合は愛犬。犬はとっくに死んじゃってるけど、動物はAIでほぼ完全にシミュレートできるから問題ないよ。」

「ふーん、なんか、切ないですね。」

二人は004のポッドの前で話しを続けた。

「こんなにフルタイムの非正規契約社員もいないよね。もちろん給料はずっと出てるから、貯金額すごいことになってんじゃない?」山田は冗談めかして言った。

「貯金、目を覚まして使いたくないのかなあ。004さんの目標額みたいなのがあってずっと潜ってるんですか?」菅原は聞いた。

「いやいや、彼は連続ダイブが実現してから最初期のヒューマンモブで、もともとは一ヶ月ダイブのはずだったらしいよ。だけど自動継続契約だったから、延長延長で今に至ってるわけ。税金ほか、必要なお金は包括委任契約でうちが支払い代行している。会社は何度も変わってるけど、契約はちゃんと引き継がれてる。今はモブ希望者は列をなしてるから、ずっと潜っていられるのはどちらかといえば特権だよ。」山田は丁寧に解説した。

菅原は所狭しとポッドが並ぶ倉庫を眺め渡して言った。

「しけた倉庫だなあ。このビル、築七十年でしたっけ?そろそろやばくないですか?」

「にしてもあの擬似覚醒ルーチンの部屋、盛り過ぎでしょ。」菅原は擬似覚醒ルーチンの映像を思い返して付け加えた。

「いやいや、あれは実写。004が最初にダイブした会社の社屋だよ。」山田はこの倉庫で管理されているポッドそれぞれの来歴に詳しい。

「あの超オシャレな最先端オフィスから流れ流れてここ三ノ輪に漂着したわけですね。それにしても、こんなに長いこと眠らしといて大丈夫なんですか?」

「向こうでモブとして動いている最中は脳は起きているときと同じくらい活発に動いているよ。その分本物の睡眠もとっているから、肉体的には004は至って健康だ。まあ筋肉はほとんどないけどね。」山田は004の顔を見つめながら言った。

「004番。君はすごいよ。モブとしての人生をまっとうしますって感じだね。」菅原は004のポッドのシールドを指で撫でながらつぶやいた。

 

*****

 

翌日、がらがらと引き戸を開けて四十がらみの男が入ってきた。彼はここ三ノ輪に所員三名のヒューマンモブ派遣事務所を構える所長のアララギである。

「ただいまー。」

「お疲れ様でーす。」菅原と山田が唱和して迎える。

「保健局から呼び出しなんて珍しいですよね。何があったんです?」山田が聞く。

髪の毛をかき上げながらアララギは答えた。

「モブ004のことなんだよ。保健局VR課のスキャンに004の脳波データが引っかかったんだ。」

アララギは椅子にどっかりと腰を下ろした。

「彼の脳は何千回もの人格遷移で耐性がついてしまって、もう記憶のリフレッシュが効かない。いろんな人格にディスパッチされるイベント型のVR世界にダイブするのは今回が最後というお達しだ。かといって彼を物理的に覚醒させるのはリスクが高い。ダイブが長すぎて臨床例がないし、無理に本当の覚醒を試みたら植物人間化してしまう恐れもある。年齢も年齢だし。」

「え、我が社のヒーロー004番、ピンチじゃないですか。どうするんですか?」菅原が聞いた。

「そうだなあ。モブに何かあったら弱小派遣会社は即営業停止だからねえ。」アララギは椅子に座って反り返りながら言った。

「そんなあ、社長。他人事みたいに言ってる場合じゃありませんよ。」山田がたしなめるように言った。

「実はアイデアがある。」アララギはデスクに身を乗り出すと、語り始めた。

「そもそもイベント型VRの人気は下火になってきて久しい。今むしろ盛り上がっているのはホールワールド型だ。」山田も菅原もうなずきながら聞いている。

「今の人生で失敗したからVRで別人生を歩みたいという十年契約とか、死亡までVRで過ごす終身契約とかが主体の実世界コピー型VRですね。」山田が最近仕入れた知識を披露する。菅原に聞かせているつもりだった。

「ふーん。」菅原は一応反応している。

「そう。山田くん良く知っているね。そういう長期ユーザーがメインのホールワールド型に俺は目をつけた。」

確かに、このところホールワールド型のスタートアップは続々と立ち上がっている。政府が税制優遇措置を講じ、ユーザー数と期間に応じて社会保障費を配分する政策を発表したのが事業者の大きなインセンティブになっていた。VR側とこちら側との世界をまたがる所有権と通貨制度に関して、法整備も着々と進んでいる。

「ホールワールド型では人格遷移を伴うディスパッチ型のモブは必要ない。というより、モブとゲストの区別にあまり意味はなくなる。今は賑やかしに少しでも”人口”を増やすことが求められているんだ。そしてホールワールド型オープンデータの次のリリースで、004がもともと住んでいた地域が偶然含まれることに俺は気づいた。」

アララギは二人しかいない社員の顔を見渡した。

「004を、次の擬似覚醒ルーチン以後はホールワールド型VRに移して契約更新するのさ。人格遷移さえなければ脳障害は起きないから保健局も黙認するだろう。こっちで彼が貯めた資産は向こうでの貯金に世界間為替で移せばいいだろう。」

「で、うちは社会保障費の上前をはねるってことですね?このビジネスモデル、いけるかも知れませんね。」山田が言った。

「そうそう。山田くん鋭いね。さて、これから法務局行くよ。菅原、一緒に来い。」

「はーい。」

アララギは菅原を連れて出ていった。山田はまた留守番だ。モニターを見やると、004は今ゾンビになって人間と戦っているところのようだった。

 

*****

 

バイト終了日。俺は一ヶ月の長期ダイブを完了してようやく覚醒した。久しぶりに吸う外の空気は新鮮だった。青い空、太陽の光。会社のビルを出た俺は、自然と走り出してしまった。

ありがたいことに、途中で目が覚めてゲストに狼藉をはたらいたことへのペナルティがなかったばかりか、まったく桁違いの金額を受け取れた。特別ボーナスが出たのだ。俺の一ヶ月の長期ダイブのおかげで重要な技術的発見があったとか。意識があったのは覚醒を求めて格闘した一週間ぐらいの間だったから、終わってみればあっという間だ。一ヶ月でこれだけ稼げるなんて、間違いなく俺の人生のピークだろう。

だが俺は大きな犠牲を払った。覚醒のときの事故によって、俺の愛犬マリンが命を落としたのだ。覚醒に手間取っているから数日待てと告げられたのだが、マリンは結局戻ってこなかった。その慰謝料が大幅に上乗せされた。かわいそうなマリン。マリンの命を犠牲にして得た大金だ。大切に使わなくてはならない。

これからのプランを話そう。俺は高校中退だから、これから勉強して大検を取るつもりだ。入りたい学校がある。家の近所に昔からある神学校だ。いつもその神学校の門の横を遠って駅まで歩いていた。何かの縁があったのかもしれないと思う。洗礼も受ける。

結婚式のサクラ親族だの、VR世界でのモブだの、いかがわしい仕事を沢山やってきた。もう自分を騙してニセモノを演じるのがすっかり嫌になった。俺は牧師になりたい。できれば近所の教会に赴任し、近所の子供たちを日曜学校で教えたい。あの結婚式のセリフを本物の牧師として言ってみたい。俺はまだ26歳。モブとしての人生はもうたくさんなのだ。まだまだやり直せる。

 

ええと、待てよ、俺はなんて名前だっけ?

 

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