果と端

印刷

梗 概

果と端

ミナモ:M
頭部の痛みに目を覚ますと、そこは柔らかいベッドではなく、見慣れない書庫のなかだった。頭をぶつけたせいか、記憶の一部が欠けているような感覚がある。ここはどこなんだろう? と考えながら崩れた本をかき分けていると、部屋に近づいてくる足音が聞こえてきた。

少女:S
いつもと同じ静かな一日が過ぎていく……はずだった。他に誰もいないはずの家で不意に大きな物音がして様子を見にいくと、そこには懐かしい《人間》の姿があった。いったい彼女は、どこから、どうやって、やってきたのだろう?


現れた少女はどこか達観した雰囲気をまとっていた。少女が何者なのか訝しみつつも、後について行く。何気なく眺めた窓の外には、濃紺色の大地と、そこから立ち込める青い霧が辺り一面に広がっていた。


最後の人々がこの世界を去ってから、十数年が経っていた。あとは一人、この世界の終わりを見届けるだけだと思っていた。だから、ここを訪れる人がいるとは考えていなかった。どうやら彼女は純粋な《人間》のようで、だとすれば、この世界の空気のなかでそう長くは生きられないだろう。


少女は寡黙だったが、食事や防寒具の世話などとても親切にしてくれる。ときどき少女は何か思案するような表情でこちらを見つめてくる。その視線は、あなたはどうしてここにやってきたの? と問いかけているようだった。


彼女の持ち物のなかに、かつて自分が作った時空移動装置をみつけた。修理してエネルギーを補充すれば、彼女を安全な世界へ送り出せるかもしれない。手元の材料を使えば修理はできそうだ。そしてエネルギーには自分に残されている時間を使ってもらえばいい。


元の世界へ戻るには、少女の提案を受け入れる以外方法はないらしい。どのみち終わりを待つだけだから、と寂しく笑った少女の最後の頼みごととして一通の手紙を託された。もしも、その人に会うことがあればきっと渡して欲しいと願いを込めて。

文字数:800

内容に関するアピール

「謎」≒「why」≒「何故」ということで、二人の登場人物がお互いの存在や出会いの必然性について問う形としてみました。

 

* こちらは単独の短編としてのほか、連作のなかの一つのエピソードとしてもお読みいただける内容となっております(いちおう第一回より、すべて関連しています)。
 実作では各エピソード、単独で楽しんでいただけるよう書いているつもりですが、梗概では登場人物や細かい設定等については、ごく簡単に記載している場合もあります(前回までの課題は梗概の上の「プロフィールを見る」より提出課題一覧をご覧いただけます)。
 例)「記憶の一部が欠けている」→第四回、第六回
   「時空移動装置」→第四回
 一方で、連作という形式上、登場人物にとっては「謎」となる部分でも、これまでに梗概や実作を読んできてくださった方にとっては自明である設定等もあるため、退屈せずに読んでいただけるよう工夫もしたいと思っています。

文字数:398

印刷

果と端

1.ミナモ

 何もない、真っ暗な闇のなかを、墜ちていく。そんな夢を、私はときどき見る。果てしなく続く落下。緩やかな速度で続くそれに恐怖はなくて、ただ、いつまで続くのかわからない不安だけがある。そして、とつぜん透明な壁にぶつかったような衝撃で目を覚ますと、たいてい私はベッドから落ちて床に寝そべっているのだ。
 何もない、何も残らない、退屈な夢。
 ほら、今日だってまぶたを開けたらそこには見慣れた狭い部屋が……。顔のすぐ横には厚い木材で作られた背の高い本棚。棚いっぱいに並べられた本の背表紙。暗い部屋のなかで、目を凝らしてそのうちの一冊に視線を向けてタイトルを読もうとすると、そこには見慣れない文字が並んでいて、私はそれを……読めない?
 ええと……そもそも私の部屋にこんなに重厚で立派な本棚はなかったし、所蔵している本も学校で使う教科書を含めてもせいぜい二段に収まる程度、だったような気がする。本を読むのは好きだったけれど、なるべく図書館を利用するようにしていたので部屋に本は少ないはずだった。
 第一、ベッドのすぐ横に本棚がある、というのも慣れた部屋の配置とは違っていて、いくら寝相があまりよくないとはいえ、寝ながら部屋を横断してしまうほどではない、と思いたかった。
 うつ伏せの格好のまま冷たい床を撫でてみると、いつもの柔らかいカーペットとは明らかに違う硬質な木材の感触。寝返りを打って仰向けになろうとすると、背中に硬いものが当たる感触があって、払いのけようとして手を差し込んでみると、周囲には大量の本が散乱していた。小さくため息をついて見上げた暗い天井に浮かぶ木目模様が、新鮮だった。
 ここはどこだろう?
 まだ寝惚けているのかもしれないと考えて、ひとまず身体を起こそうとすると、額のあたりに鈍い痛みが走った。そっと触れると、そこは周囲よりもやや膨らんで熱を帯びていて、軽く力を込めて押してみると、先ほどと同じ痛みがあった。
 どうやら何処かにぶつけてコブになってしまっているらしい。先週、前髪を短くしたばかりなのに、額のほぼ中央のこんな目立つ場所に大きなコブを作ってしまうなんて、最悪だ……しかもかなり痛い。
 額をさすりながら上半身を起こす。周囲に散らばった本を見ながら、恐らく本棚から崩れ落ちた一冊が運悪くおでこに直撃したのだろう、ということにしておく。
 それから不意に視線を下ろした先には見慣れた慎ましやかな胸部と、のっぺりとした白い腹部が広がっていて、腰の辺りには申し訳程度にボロボロの紐のようなものが絡みついている。どうして私は何も身につけていない、つまり、裸なんだろうか。
 すっかり目が覚めて、冷静になって考えてみても、明らかにここは自分の部屋ではなかった。いったい何故こんな見知らぬ場所で目を覚ますことになったのか、眠る直前までの行動を思い出そうとすると頭部に痛みが走り、頭のなかに黒い靄のようなものが広がっていった。何か大切な記憶が失われているような、違和感があった。
 まさか頭をぶつけた衝撃で軽い記憶喪失になってしまったのだろうか。ええと、私の名前は? クモキリ・ミナモ。よし。身長は、一六三センチメートル。体重は、夏休みに食べ過ぎてしまって、ちょっと怖いのでしばらく測ってない。OK、大丈夫。年齢は……「この時空間において、あなたの考える年齢という概念は意味をもちません」というようなことを、つい最近、誰かに言われたような気がする。誰だっけ。
 昨日はたしか、サヤちゃんと一緒にお祭に行って、焼きそばを食べながら花火を見て、わたあめを食べて、それから……今に至る? ということはこの腰に巻きついているボロボロの紐は浴衣の帯なのだろうか。だとすると浴衣はどこにいったんだろう? まさか、誰かに脱がされて……って、あれ、もしかして、私、誘拐されて監禁されてる?
 でも、それにしては柱や椅子に縛りつけられたり手足を拘束されたりもしていなくて、むしろ無造作に放り出されていたような、ぞんざいな扱い。額以外の場所に痛みや違和感もないし……まぁ、無事ならそれに越したことはないのだけれど。クシナたちは、ふざけて私のことをお嬢様とか言っているけれど、単に父親の実家が古くて大きいというだけで、うちは別にお金持ちじゃないし。
 私を誘拐するメリットなんてありませんよー、などと見知らぬ誰かに向かって心のなかで呼びかけていられるうちは、まだ余裕があるという感じだけれど、この状況がもうしばらく続いたら、どうしよう。
 寒気がして身体が震えて、くしゃみをして洟をすすったら、ちょっと泣きたくなってきた。
 部屋の出入口は一つ、その反対側の奥の壁の、天井近くにある小さな換気口からもれてくる細い明かりだけが、室内を照らす唯一の光だった。
 窓のない薄暗い部屋。入口の扉以外、四方は背の高い本棚で囲まれていて、閲覧用のテーブルと一人掛けの革張りのソファ、その周囲に腰の高さほどの本棚がいくつかあって、床にもたくさんの本が積まれている。部屋を満たす埃っぽくて乾燥した空気は、冷たかった。
 身体の震えが止まらなくなって、何か身にまとうものはないだろうかと目を凝らしてみると、ソファの上にひざ掛けがたたんで置いてあったので、とりあえずそれを借りることにして羽織った。
 もう一度、状況を整理するために室内を見回してみると、散乱していた本の隙間に小さな和柄のハンドバックが埋もれているのが見えた。すがるような思いで駆け寄って、本をかき分けてバッグを引っ張り出し中身を確認してみると、愛用の財布と白い携帯通信端末、そして何故か小さなハーモニカが入っていた。
 端末の電源を入れようとしても反応がなくて、何度もボタンを押してみたり、バッテリーを外して付け直したりしてみたけれど、動いてくれなかった。
 壊れちゃったのかな、まだ契約期間が残ってるのに、と最初に浮かんだ妙に現実的な感想にため息をつきながら、端末をバッグに戻すと、部屋の外から、ゆっくりと近づいてくる小さな足音が聞こえてきた。足音は部屋の前で止まり、続いてドアのノブが回されて軋む音が静かな室内に響いた。

 

 

2.シタル

 誰かと待ち合わせをすることもなく、テレビやラジオの電波も、届かない。バスや電車に乗ってどこか遠くへ出かけることもできず、いつからか時間の意味が薄れてしまい、最後の時計の電池が切れてしまって以来、この世界には時刻というものがなくなってしまった。ただ漫然と朝と夜、光と闇を繰り返すだけの、世界。そんな場所に一人取り残されて、ただ眠たくなったら寝るし、目が覚めたら起きるという生活を、続けていた。
 起きたらまずコーヒーを淹れてブラックのままで飲む。ミルクや砂糖はすでになくなってしまったし、どうせ味はもうわからない。幸い古いコーヒー豆のストックはまだ数年分貯蔵があったし、井戸の水もまだしばらくは汲み上げることができそうだった。
 空腹感や喉の渇きを覚えることはなかったが、コーヒーを飲むことは一つの習慣、あるいは目覚めの儀式のようなものとして続けていた。
 午前中、と勝手に決めた時間帯。今日のように天候に恵まれて陽が射している日には、屋根まで上がって随分と狭くなってしまった空に浮かぶ太陽の姿をぼんやりと眺めて過ごし、空が雲や霧に覆われていたり、ごく希に雨が降っていたりする日には、書庫に保管してある書物――それは何度も繰り返し読み尽してしまったものばかりだったけれど――のページをめくりながら時の流れをやり過ごしていた。
 やるべきこともなく、ただ気ままに過ごさなければならないという生活には、すでに退屈さえ感じられなくなっていて、ささやかな楽しみといえば、夜眠りにつく前に、ほんの少しずつ書き足している物語の執筆くらいのものだった。
 ストーリーは既に完成していて、書き終えてしまおうと決めて時間を費やせば、おそらく数日で仕上がってしまうような物語だったが、わずかな楽しみをほんのわずかな時間でも引き伸ばしたいという思いから、一日に書きつなぐ単語の数を決めて、ゆっくりと書きすすめることにしていた。
 それに、手元に残っている紙の量もそれほど多くはなくて、どんなに長くなってもそのなかに収まる形にまとめなければならないという制約もあった。
 今の自分にとっては、もしかしたら紙がもっとも貴重な物かもしれない、と考えてみると、すでに用をなさなくなってしまい廃棄されていった電子的な記録装置の存在が遠い過去のもののように思われた。ものを書きつけておくこと以外にも、ごく限定的な生活のなかには紙を必要とする場面がいくつかあった。たとえば食事代わりに一服しなければならない「青い粉」を喫煙用に巻いておくための薄い巻紙。もちろん、粉を直接口に含んで摂取することもできたし、粉にさえせずに拾ってきた塊をそのままかみ砕くこともできたが、せめて人間らしい形で、生きるための栄養を体内に取り入れたいという気持ちから、最終的に出した結論が喫煙形態だった。
 自分の身体にとって養分となる青い塊は、家から少し離れた場所に行けばいくらでも手に入れることができた。むしろ、家の周辺に残されたわずかな草原地帯以外、この世界はすべて深い青に覆われてしまっているとさえ言えた。
 青の領域がゆっくりと広がりながらこの世界が存続している間は、少なくとも飢え死にする心配はなかった。栄養を取るのは一日一回、昼と定めた時間に決めていた。手のひらサイズの小さな薄紙の上に、小さじで青い粉を適量に取って敷き詰めて、それを包み込むように紙を丁寧に巻いて、最後に両端をひねれば、一回分の食事が完成する。
 摂取する際には、ひねってある両端を千切って片方をくわえ、ほんの少し息を吹きこみながら手回しの小さな電熱機の熾す熱でもう片方に火をつける。すでに味覚が失われているため、粉が火にあぶられて発生する煙が口内に広がっても何の味も感じられなかったが、まだ味覚が残っていたころにも、煙にはほとんど味がなかったように記憶している。
 残りも少なくなってきたし、午後は「食事」のストックづくりをしようと決めた。暇な時間などそれこそいくらでもあるのだから、別に作業をするのはいつだって構わなかったが、気分が乗ったときに思いついたことをするのがけっきょく一番快適にすごせる秘訣なのだということを、長い退屈のなかで発見した。
 カップ一杯分のコーヒーをちまちまと時間をかけてすすっていると、とつぜん一つ下の階から何か重たいものが落下したような大きな鈍い音が響いてきた。静かな暮らしのなかで、こんな音を聞いたのはとても久しぶりで、飲みかけのコーヒーをテーブルに置いて、いちおう確認のため様子を見に行くことにする。
 別に物が棚から落ちたくらいのことならば、放っておいて、次にその部屋に立ち寄った際に元に戻すということでも問題はなかったが、家中に響くほどの大きな音には何か好奇心を刺激されるものがあったことは否定できない。好奇心、などいったいいつ以来の感覚だろうかと考えてみても、思い出せなかった。
 家のなかでも日々の生活に使っているフロアはなるべく外部から陽の光が射しこむように窓を多めにして採光を工夫してあったが、それでも陽の当たらない薄暗い一角はあって、また曇りや雨の日は家全体が重たい暗さに満たされてしまうため、手動発電式の懐中電灯は常に手放せない道具の一つだった。
 大きめの懐中電灯を片手に提げて、窓からの光に照らされた明るい廊下をすすむ。射しこんだ光が、空気中を舞っている微細な埃たちを照らしていた。今日みたいに晴れた日には、大きな窓の並んだ廊下を歩いていると光の道のなかにいるようでとても気持ちがよかった。そういえば掃除もしばらくしていなかったな、と思い、時間があれば今日か明日中にでも埃拭きをしておこうと考えた。ときどき身体を動かすのも悪くはない。
 階段の軋む音を聞きながら、この建物もずいぶん長く使っていて、だいぶ老朽化が進んでいるのだと思い知る。さすがに子供一人分の重さで床が抜けるようなことはなさそうだったが、補修せずにあと何年くらい持ちこたえることができるのか、若干の不安はあった。
 いや、それよりも先に自分に与えられた時間が終わってしまうほうが早いかもしれない。今のペースで青の侵食が続いていけば、もう十年も持たずにこの世界は異星からもたらされた群青のブロックと霧に覆い尽くされてしまうだろう。
 窓の多い三階とは異なり、物置部屋の並ぶ二階の廊下には換気用の小窓しかなかったため、廊下は薄暗く、手にした懐中電灯のハンドルを回して明かりを灯しながら書庫のほうへと進んでいった。書庫に収蔵されている本は、一人きりになってしまった後で、まだ青に染められていない取り残された世界を小さなバイクに乗って旅したときに、その途中で偶然見つけて手に入れたものがほとんどだった。なかには読むことのできない文字で書かれたものもあったが、装丁の美しいものや紙の手ざわりが良いものを拾い集めてコレクションに加えていた。先ほどの物音は、おそらく何かの拍子に棚の本が崩れて落ちたのだろう、と予想して数日ぶりに書庫のドアを開いた。

 

 

3.ミナモ

 開かれたドアから強い光が射しこんできて、その眩しさに思わず目を閉じてしまった。ゆっくりと目を開くと、懐中電灯を片手に提げた小さな女の子が立っていて、何か珍しい物を見つけたときのように大きく目を見開いてこちらを見つめていた。
 暗がりで、少女の手元にある明かりだけが空間を照らしていた。闇のなかにうっすらと浮き上がった少女の顔はとても青白くて、陶器のように儚く繊細で、ほんの少しでも刺激を与えるとひび割れて壊れてしまいそうに見えた。
 少女の口元が微かに動き、そこから音――何か言葉を発したらしい小さな声が漏れ出してきたけれど、何を言っているのか聞き取ることができなくて、私が、え? と思わず声に出して聞き返すと、少女は少し悲しそうな表情を浮かべた。
 スリッパを履いた小さな足が、一歩、二歩、ゆっくりとこちらに近づいてくる。間近で見れば見るほど、少女の顔はつくりものめいた繊細さを帯びていて、美しく、冷たかった。私が少女の顔を見つめているように、少女もまた私の顔をじっと見つめていて、自然と目が合ってしまい、近すぎる距離感に逸らすこともできず、しばらくそのまま見つめ合った。
「 クロ、イ……ヒト、ミ」
 聞き慣れたものとはアクセントが異なっていたため、少女が何を言ったのかすぐには理解することができなかったけれど、間をおいて頭のなかでその言葉を繰り返してみると、少女が私の眼を見つめて、その色について言っているのだということがわかった。
「……ゴメン、ナサイ。ウマ、ク、ハナセ、ナク、テ……?」
 少女はゆっくりと確認していくように、つたない調子でそう述べて、ほんの少しだけ口元をほころばせて微笑んだ。少女に微笑を返しながら「よかった、言葉、通じないのかと思った」と私が言うと、今度は少女のほうが何を言われているのかわからないといった申し訳なさそうな表情を浮かべた。
 どうやら少女とスムーズに意思を疎通するのはそれなりに大変そうだと諦めつつ、私は小さなため息をついて立ち上がった。その拍子に羽織っていたひざ掛けが滑り落ちて、白い肩と薄い身体があらわになった。
 くしゃみをして、慌ててひざ掛けを拾い上げて、肩から羽織ろうか、前を隠そうか、一瞬迷ったあげく、私は寒さをしのぐために布で背中を覆った。
 私が震えているのに気がついた少女は、ついてきて、とでもいうように身をひるがえして背を向けると、懐中電灯のハンドルを回しながら部屋を出てしまったので、慌ててバッグをつかんでそのあとを追った。
 部屋と同じように暗い廊下を、ふわふわとした白いウール素材のパーカーを着た少女の小さな背中を追って歩いた。裸足のままの足の裏には板張りの廊下の冷たさが痛かった。階段で一つ階を上がると、廊下の片面いっぱいに並んだ大きな窓から外の光が射しこんでいて、その眩しさに眩暈がするようだった。
 もっと光を浴びたくて、窓に顔を近づけて空を見上げると、雲一つない青い空の真ん中に大きな白い太陽が輝いていた。それから少し視線を落として、建物の周囲の景色を眺めようとして、私は思わず「あ……」と声をもらしてしまった。
 その声に反応して前を歩いていた少女が立ち止まり、振り返った。一瞬、そんな少女の動きを目の端で追ってから、再び視線を外に向けると、そこには群青の世界――としか言いようのない深い青色が果てしなく広がっていた。
 群青色の巨大な方形のブロックが、この建物を取り囲む壁、あるいは山脈のように重なり連なっていて、上空には同じ色をした霧が、その先の視界を遮るかのように色濃く立ち込めていた。ブロックの足元、大地もまた同様に群青色に染まっており、建物の周辺に広がっている草原との境界線、その青と緑を対比させたラインが彼岸と此岸を明確に切り分けているのだということが感じられた。
 境界はこの建物を取り囲むように数キロメートル先のところに引かれていた。窓から確認できる範囲では、建物の反対側の様子がどうなっているのか知ることはできなかったけれど、恐らくこの場所を中心に同心円状に青の世界に囲まれているのだろうということが想像できた。
 それはまるで周囲を絶海に囲まれた孤島にいるかのようだった。
 少女は青い霧によって隠された地平線の先を見つめるように、冷めた表情のまま遠くに視線を向けていた。
 私がくしゃみをすると、少女は思い出したように再び歩きはじめて、階段から数えて三つ目のドアを開いて私をなかに招き入れた。広い部屋のなかに調度品は少なくて、中央にぽつんと置かれていた小さな丸テーブルの上にあったコーヒーカップがやけに殺風景に思えた。
 テーブルとセットになっていた室内に一つしかない小さな椅子に私を座らせると、少女は温かいコーヒーを淹れて出してくれた。冷え切っていた身体には、その温かさがありがたくて、まずは手のひらを温めるようにカップを両手で包むと、ようやく生きた心地を取り戻したように感じられて、ほっと小さなため息が出てしまった。
 それからカップをゆっくりと口元に運んでいくと、ずいぶん長いこと何も口にしていなかったかのような愛おしさが、唇に触れた陶器から伝わってきた。
「にがっ!」
 口内に広がった苦みと酸味に耐えかねて、私は思わずそう叫んでしまった。私の反応を不思議そうに眺めながら、先ほどからテーブルの上に置かれたままになっていた、飲みかけのコーヒーを少女は涼しい顔で喉の奥へと流し込んでいった。
 いったいどんな味覚をしているのだろうかと、まじまじと少女の顔を見つめてしまい、そんな私の視線を少女は不思議そうに見つめ返してきた。
「コーヒー、にがて、ですか?」
 先ほどよりも聞き取りやすい発音とアクセントで少女がそう訊ねてきた。この飲み物をコーヒーと言ってよいのであれば、私はコーヒーが苦手であると迷いなく答えることができたのだけれど、少女の出したコーヒーの味は私の知っているコーヒーのものとはだいぶ異なっていて、あまりにもビターな味わいと酸味のきつい風味が独特すぎた。見かけによらず少女の味覚が大人びていて、私の味覚がお子様なのだろうか――たしかにいつもミルクと砂糖を入れていたけれど――と不安になったが、今回は明らかに少女のコーヒーの淹れ方と豆の鮮度に問題があるように思えた。
 とてもじゃないけれどコーヒーを飲みきることができそうにもなくて、私はせめて水を一杯もらおうと思い「み、ず」とゆっくりと少女に伝えた。すぐにこちらの意図を察してくれた少女は「ごめん、な、サイ」と小さく頭を下げてテーブルを離れ、コップに注がれた熱い白湯をもって戻ってきた。
 恐らく沸騰させて消毒してからでないと生の水は飲めないということなのだろうと理解して、湯気の立っているコップを見つめながら、しばらく冷めるのを待つことにした。
 部屋には椅子が一脚しかなかったため、少女はどこか別の部屋から折りたたみ式のパイプ椅子を運んできてそちらに腰かけた。
 私がコップに口をつけるのを待っているかのように、テーブルを挟んで向かい側に座った少女は青く澄んだ瞳をこちらに向けていた。私のことを観察しているうちに、おでこのコブに気がついた少女は、薄い布に軟膏のような液体を染みこませた手製の湿布を用意してくれた。それを患部にあてると、スーッとした心地よさが広がっていった。さすがにすぐに痛みが引くようなことはなかったけれど、その配慮がうれしくて「ありがとう」と私が微笑むと、少女は「どういたシ、マシて?」とぎこちない言葉で返してくれた。

 

 

4.シタル

 書庫にいた彼女の、その黒い瞳と髪の色は、とても懐かしい友人を思い出させるものだった。もう百年以上も前、この世界がまだ青に覆われはじめる以前の記憶だ。ほんの短い時間だったが、独りぼっちの不安と寂しさを埋めてくれた少女、イチカのことは今でも忘れることなく鮮明に記憶のなかに残っていた。
 だから、言葉が通じないとわかったときに、イチカの教えてくれた文字のことを思い出して、その文字をあつかっている言語を以前ほんの少しだけ学習していたときの記憶をたどりながら伝えようと発した言葉が、どうやら多少通じたらしいことに安心した。
 しかしまさか、大きな物音の原因がとつぜん現れた「人間」だったなどとは、予想もしていなかった。長い年月を経ていろいろな経験をしてきたこともあって、たいていの物事には動じないつもりになっていたが、十数年ぶりに目の前に現れた人間を見た瞬間、懐かしさと驚きの入り混じった不思議な感情が込み上げてきた。
 もうこの世界が青に飲み込まれてなくなってしまうまでずっと一人きりだと覚悟を決めていたので、それをくつがえすような存在がとつぜんに現れたことに対して戸惑ってしまったのだ。
 裸で目の前に現れた彼女の、すでに止まってしまっている自分の年齢よりも少し上の、しかしまだ大人にはなりきっていない華奢な肢体、手に入れることのできなかったその瑞々しい艶やかさがすこし羨ましかった。
 十の年齢で永遠に停止してしまった身体の成長について、何とか一命を取りとめて身体性を取り戻して以来、誰かと比較して羨望の念を抱いたことなどなかったはずなのに、先ほど彼女の身体を目の当たりにして羨望を感じてしまったのは、長らく人間から遠ざかっていたために忘れかけていた本物の人間の肉体、その生々しさがあまりにも鮮烈だったからかもしれなかった。
 今から百数十年も前に世界のあちこちで同時に発生した不気味な泡は、触れたものを包み融かしながら、ゆっくりと人間の世界を飲み込んでいった。泡によって融かされた物質は深い青色をした四角いブロック状に凝集していって、それらがいくつも並び、重なって都会のビル群のように林立していったのが、最初の数年間の出来事だった。そのようにして作り上げられたブロック群を、人々は「青い都市」と呼び、その謎を解明すべく調査が行われたが、けっきょく詳しいことはわからず、また泡による侵食を止める術を見つけることもできなかった。
 止めることのできない泡が世界を飲み込んでいくという事実は、単純だが逃げ場のない恐怖を人々にもたらした。泡を阻止することができない以上、このまま飲み込まれるのをおとなしく待っているわけにもいかず、次にとられることになった方策はこの場所から離れるということだった。
 超長距離宙航、惑星探査、テラ・フォーミング、特殊な環境に適応するための人体改造など、脱出のためのさまざまな技術開発が他の分野に優先して急ピッチで進められた。その間にも青による侵食は止むことなく続き、この星の半分以上が深い青色に染められてしまったころになって、ようやく脱出のための糸口がつかめはじめたという有り様だった。
 広がり続ける青い都市に漂う霧は、人間にとって有毒な成分を含んでおり、人間がその内部や周辺で暮らしていくことは難しかった。その結果、残された地域に避難民が集中することになり、都市部では民族間のトラブルや疫病が蔓延することになった。
 人々の移動に伴うそうした問題と並行して、青の侵食によって消失してしまった自然環境の変化により、世界の天候や気温などは急変し、人々は頻発する自然災害に抗うだけの気力を次第に失っていった。
 人類の英知を結集させた脱出のためのプロジェクトが最優先されることになった結果、青いブロックや泡に関する調査・研究への関心は急速に薄れていった。当然、投じられる予算も少なくなり、まともな活動を継続することが困難になって、関連する組織は次々に解散する結果になった。
 残ったのは小規模な研究施設や、少数の個人研究者くらいのものだったが、そんな彼らに協力して研究を続けることで、いくつかの特殊な技術を開発することもできた。そのうちの一つが、増殖する泡と同時に発生するの振動を利用することによって時空間のゆらぎをつかまえて情報を並行して存在する別の世界へ転送させるというものだ。
 単純に考えれば、それはタイム・マシンのようなもので、時間と空間を通して広がっている、ある波の周波数に特定の情報を同調させて乗せることで、波の振幅を使って情報を別の場所に移動させるということだったが、このシステムを利用するためにはいくつかの条件があって、誰でも気軽に時間旅行ができる、という類のものではなかった。さらに波に乗せて絶え間なく情報を移動させるため、情報の断片化や劣化、部分消失のリスクも伴っていて、よほどのことがない限り利用を推奨することはできなかった。
 そんなシステムもけっきょく量産化することができず、試作品も含めて数度の小型化を実現した結果、最終的にさまざまな波長を操作することのできる笛型の装置が完成品として作られた。
 その笛も、実験台となることを買って出た青年に託されたままどこかの並行世界へと旅立ってしまい、けっきょくこの世界に戻ってくることはなかった。
 それからさらに長い年月を経て、ついにこの星から脱出する目途が立って、生き残った人々が次々に宇宙へ向けて飛び去っていくのを、まだ青に染められていない残された大地の上から見送った。一緒に行こうと誘ってくれる人もいたが、「ふつう」の人間とは違って青い世界から栄養を摂取しなければ生きていくことができなかったため、ここを離れることができないのだと言って断った。
 今でもこうして毎日「青い粉」を摂取しながら生きている。そのとおり、たしかにこの青のそばでなければ生きてくことができないのだ。ただし、もしもこの世界が完全に青に覆い尽くされてしまったときには、青の世界を構築するための「システム」から切断されているこの「意識」は青い世界にはとどまっていることができず、消えてしまうのかもしれなかった。
 システムから切断されるということが、どういった状態を意味しているのか、わからなくて、ただそのときが訪れるのを待ち続けるしかなかった。この家を包囲するようにゆっくりと押し寄せてくる青も、もう数キロ先にまで迫っていて、あと数年でここへ到達するだろう。これまで一人で過ごしてきた時間を思えば、おそらく残された時間はほんの一時にすぎず、あっという間に過ぎ去ってしまうように思えた。
 それなのに、一人きりのはずの静かな時間のなかに、とつぜん彼女は現れた。なぜ、今この時に……と考えてみてもすぐに答えは見つからなかった。もしもこのまま、この場所で一緒に過ごすことになったとしても、「人間」である彼女は青い霧の毒に冒されて長くは生きられないだろう。
 そうしたら、けっきょくまた一人、取り残されてしまうことになる。それまでの数年間、一緒に過ごす相手が目の前で弱り、苦しんで死んでいく姿を、見守れとでもいうのだろうか。そしてまた一人きりで残された時間を、その記憶に苦しみながら意識が切断され消失するのを待てということだろうか。
 そのことを想像してみて、耐えられるか、耐えられないか。違う、耐える必要などなくて、ぼんやりと無為に過ごすはずだった残りの時間を費やして、彼女を救う方法を、ただ考えればいい。それだけだ。

 

 

5.ミナモ

 少女の衣類は私には小さすぎたので、代わりに白いベッドカバーを一枚使って、シンプルなドレスのような服を一着仕立ててくれた。全身のサイズを採寸された後、少女が器用に手早く縫製していく手さばきに見とれながら、私にはとても真似できないなと、年下の少女との差を嘆きつつ感心していた。
 厚地のシーツを使ったドレスの防寒性は高くて、それに加えてストールを一枚借りて羽織っているだけで、身体の震えはすっかり止まってしまった。
 裁縫を終えると、少女はパイプ椅子に腰かけて革張りの厚い本を熱心に読みはじめた。私は手持無沙汰で、そんな少女の様子を白湯を飲みながら観察していたのだけれど、しばらくすると空腹感を覚えはじめて、正直な腹の虫の鳴き声を静かな部屋のなかに響かせてしまった。異様に長く感じられた間の抜けたその音に恥じ入っていると、少女はサッと椅子から立ち上がって、部屋を出て行った。
 あとについていこうかと迷っているうちにすぐに戻ってきた少女の手には、保存食用のビスケットの缶詰が握られていた。こんなものしかなくて、というように申し訳なさそうな様子で少女がその缶を差し出したのを受け取って、プルタブに指をかけて蓋を開いた。
 缶の下のほうに記されていた保存期間が一瞬目に入ったが、それは私の記憶している今年の年数とはずいぶんかけ離れていて、今がいったい何年なのかわからないまま、恐らくまだ期限は切れていないのだろうと期待して、ビスケットを一枚つまんで口元に運んだ。
 ビスケットの微かな甘みが、身体の奥に染み込んでいくように広がっていった。保存食のビスケットがこんなに美味しく感じられるなんて、自分はずいぶんお腹を空かせていたんだと思い知って、私は続けて数枚ビスケットを頬張っていった。
 私がビスケットを次々に貪っているのを、少女はもの珍しそうに見つめていた。そんな視線が何だか痛くて「食べる?」とビスケットを一枚差し出してみたけれど、少女は小さく首を左右に振って辞意を示した。
 代わりに少女はキッチンの脇の棚から銀色の小さなケースをもってきて、そのなかから細長い紙の包みを取り出した。その一方の端を指先で千切り、口元に近づけてくわえると、反対側も千切って、パーカーのポケットから小さな電熱器を取り出して紙筒の先端をあぶって火をつけた。細い紙筒の先から青白い煙がゆっくりと立ち昇っていくのが見えた。
 銀色のケースと電熱器をポケットにしまうと、少女は煙が私のほうへ流れていかないように背を向けて、窓際へ歩いていった。そのまま窓を開けて、少しだけ身を乗り出すように顔を外に出すと、紙筒を片手の指先でつまんで口元から離して、ふーっ、と煙を吐き出した。
 吐き出した青い煙が空へ吸い込まれていく様子が、少女の後頭部越しに見えた。微風に吹かれてゆらゆらと煙はのぼっていき、その下では少女の亜麻色の髪が静かに揺れていた。
 私の知識で判断できる範囲で考えるならば、たったいま少女がおこなっているのは喫煙であって、どう見ても少女は未成年だった。この時代、いや、この国で、未成年の喫煙行為が禁止されているのかどうかまではわからなかったし、少女のずいぶんと慣れている様子からは、それが当たり前の行動のようにも見えたけれど、身体にとってあまり好ましい影響がない、ということは間違いないだろう。
 もう少女にとって喫煙はすっかり習慣化してしまっているのかもしれないけれど、できればこの先の発育の妨げにならないように早めにやめさせてあげたいと思った。
 私が近づいていくと、少女は足音に気がついて振り返り、それ以上近づくな、というように片手をつきだして制止を呼びかけてきた。それから、まだ吸いかけの煙草の火を窓辺に置いてあった灰皿に押しつけて消した。灰皿のなかには数本の吸い殻が残っていて、やはり少女が習慣的に煙草を吸っているのだということを物語っていた。
「身体によくないよ」と私が声をかけると、少女は不思議そうに首をかしげて、それから突然小さな笑い声をあげて、これは違うんだというように首を左右に振ってみせた。
 少女は私が手にしていたビスケットの缶を指さして、次に銀色のケースをポケットから取り出して「これ、は、わたしの、しょくじで、す」と言って微笑んだ。
 その言葉をそのまま受け入れて納得したわけではなかったけれど、少女の見せた無邪気な笑顔に呑まれてしまい、けっきょくそれ以上注意することができなかった。
 少女が読書に戻ると部屋は静寂に包まれて、ページをめくる渇いた音だけがときどき聞こえてきた。空腹も満たされて退屈しはじめて、私も何か本を借りてきて読もうかと考えて、下の階の書庫に行ってもいいかと訊ねると、少女は肯いてハンドル式の懐中電灯を貸してくれた。
 周囲の空が青い霧に囲まれている影響からか、この辺りは日照時間が短いらしく、数時間前まで明るかった廊下はすっかり陽射しが弱まって薄暗くなりはじめていた。窓の外を眺めると、沈みかけた太陽に照らされた青いブロックの輪郭が、広大な山脈のように浮かび上がっているのが見えた。私はどこか懐かしさを感じさせるその雄大な情景にしばらく見入っていた。
 懐中電灯のハンドルを回して、廊下や階段の軋む音に不安を感じながら、私は再び書庫を訪れた。書庫に保管されている本にはさまざまな文字が印刷されていて、その大半は読むことができなかった。それに加えて、懐中電灯のハンドルを回しながら本を探し、一冊を抜き取ってテーブルの上に広げて、再びハンドルを回しながらページを照らしていくという作業はかなり面倒だったけれど、何冊か手に取ってページをめくって見出しや挿絵を眺めているうちに、これらの本はどうやら年代も内容もバラバラで、ただサイズや装丁の雰囲気の近いものが適当に並べられているだけなのだと気がついた。
 ようやく読むことのできる文字にたどりついたときには、ずいぶん時間が経っていたように思うのだけれど、少女が心配して様子を見に来るようなことはなかった。その一冊をもって書庫を出て上の階に戻ると、外はすっかり暗くなっていた。それでも空には丸い月がきれいに輝いていて、その明かりが廊下に静かに射しこんで、むしろ先ほどよりも明るいくらいだった。
 部屋のドアを開けるとなかは廊下よりもずいぶん暗くて、読書をやめたらしい少女が膝の上に閉じた本を置いて椅子に背をもたせ掛けながら転寝をしていた。起こしてしまわないように借りていたストールをそっと少女にかけてやると、今度は自分のほうが少し寒気を感じてしまい背中が震えた。
 思わず出てしまったくしゃみに少女が目を覚まして、眠たそうにパーカーの袖でまぶたを軽く擦り、私の手元に視線を向けてそこに一冊の本があることに満足した様子で微笑んだ。それから少女はストールを私に返しながら、心配するように、そして自分は平気なのだというように「ひえて、しまいます」と言った。
「ここ、くらいです、ね」と言って少女は椅子から立ち上がって、私がテーブルの上に置いておいた懐中電灯を手にすると「うえにいきま、しょう」と言って部屋の外へ向かって歩き出したので、私もそのあとについて一つ上の階へあがった。
 天井がガラス張りになっているその部屋は、一面を月明かりに照らされていて、どこか神秘的な明るさに満ちていた。空いっぱいに広がった星空を見上げて「きれい」と呟いた私の顔を少女はじっと見つめていた。
「どうかしたの?」と軽い調子で私が訊ねると、少女は私の顔に視線を向けたまま「なつかしい……ともだちに、にて……」と呟いた。その直後、少女の目尻から細い光の筋が静かに流れ落ちていったように見えて、薄明りのなか目を凝らすと、一筋の涙が少女の白い頬に輝いていた。

 

 

6.シタル

 彼女が現れてからのたった数時間で、何かが狂いはじめていた。どんなに寂しくて孤独でも、過去を懐かしんで涙を流すことなど、なかった。そう、この身体が「人間」でなくなって以来、一度だってそんなふうに泣いたことなどなくて、だから今の自分の涙がどんな色をしているのかさえ、知らなかった。
 肌の色が不健康な青白さを帯びていたとしても、もう百年以上成長が止まってしまっていても、彼女から見れば一人の小さな人間の子ども、そう見えているだろうと考えていたし、そう見えていることを心のどこかで期待していた。
 いま、涙を流していることを彼女がどう受け取っているのかを考えることが何故かとても怖くて、それを隠そうとして指先で素早く目元をぬぐった。濡れた指先が微かな月の光を受けて輝いていた。白い指先と深い夜の闇、そして月と星々の光の色が指先の涙の粒のなかで混ざり合っていた。
 その色が、とても美しくて、自分のものではないような、遠い世界の特別な色のように感じられて、もしかしたら自分はもうここにはいないのかもしれないという恐怖が急に胸の奥に湧き上がってきて、指先が震えた。
 小さく震える手を、彼女の手が優しく包んでくれた。震えが止まるまでしっかりと握っていてくれた彼女の手はとても温かくて、そのあと私の肩を抱いてくれた彼女の身体はもっとずっと懐かしい温もりをもたらしてくれた。
 以前、この温かさを感じたのがいつだったのか、正確に思い出すにはあまりにも時が隔たってしまっていたけれど、それをくれたのが誰だったのかは、忘れずに残っていた。
 以前、その人に宛てて、手紙を書き続けていた。もう一度会いたいと、もう一度温かく抱きしめてほしいと、離れ離れになってしまった時の流れをもう一度つなぎたいと願いながら、幼くてつたない言葉を懸命に紡ごうとして、うまくできずに、不器用で言葉足らずな手紙を送り続けていた。
 最後に出した手紙に何を書いたのか、もう思い出すことはできなかったけれど、けっきょく一度も「会いたい」という一言を綴ることはできなかったように思う。いま、会いたいかと問われれば、今朝までの一人きりの自分であれば迷うことなく「会う必要はない」と答えられただろう。
 それが、この一日で迷いに変わっていた。彼女との間に何一つ特別なやり取りはなかったし、交わした会話もほんの断片にすぎなかった。たとえこのまましばらく一緒に過ごしたとしても、自分よりも先に死んでしまう儚い彼女の存在の、いったい何が自分に対して強く作用しているのかはわからないだろう、という気がした。
 優しく肩を包みながら「ねぇ、名前を教えて」と彼女が耳元でささやいた。
「シタル」
「……シタル」
 彼女の声で繰り返された自分の名前は特別なもののように感じられた。こんなふうに他の誰かに名前を呼ばれたのは、もうずいぶん久しぶりのことだった。
「私はミナモっていうの」
 教えられた彼女の名前を、その音を一つひとつ確かめるようにゆっくりと口にしてみると「そう、ミナモ」と彼女は微笑んで、優しく髪を撫でてくれた。
「私が、懐かしい友達に似てるって言ってくれた」というミナモの言葉に、抱かれた腕のなかで小さく肯いて応えた。「だったら、私もシタルの新しい友達に、してくれるかな?」と続いた言葉に、すぐに応えることができず、しばらく温かい腕のなかでじっとしていた。
「私、ここに来たばかりで知り合いもいないし、シタルだって一人きりで退屈でしょ」と、ミナモは何も説明していないのに、窓の外の景色とこの家に満ちている静寂から状況を察してくれたかのようにそう言って、世界の孤独を破ろうとしてくれた。
 しかし、その優しさに応えるわけにはいかなかった。ミナモはこの世界にいるべきではないし、ここで死んでゆくのを待つべきでもないのだ。
「少し疲れちゃった」と言ってミナモは抱いていた腕を離して、そのまま夜空を見上げるように床の上に仰向けに寝そべった。その隣に同じように仰向けになって、ガラス張りの天井によって四角く切り取られた星空を眺めた。
 夜、眠りにつく前、一日の終わりの時間に、必ず物語をほんの少しだけ書きすすめることにしていた。ここはそのために夜の明かりをつかまえておく部屋だ。起き上がって部屋の隅にある書き物机の上から書き途中の用紙と先の尖った鉛筆を一本取ってミナモのところへ戻り、うつ伏せになって床を机代わりに、物語の続きを書きすすめる。
 部屋に鉛筆の先が紙の上を走る乾いた音が響きはじめると、ミナモは寝返りを打って身体をすぐ近くに寄せてきて、おそらく読むことができないはずの文字で書かれている物語に視線を走らせていた。そんなミナモの視線を気にせずに、もう結末まで決まっている物語をほんの少しだけ書き足していく、つもりだった。そのはずが、ミナモが横にいるということが影響したのかどうか、物語がわずかに脇道のほうへと足を延ばしはじめたのが、鉛筆の先から感じられた。
 書こうとしていたはずの言葉が、一文字ずつ変化していって、その先にまだ見たことのない物語が続いていく。
 まだ先へとすすもうとしている鉛筆を抑えながら、今日の分を書き終えて、用紙を取って机のほうへと戻ると、ミナモも起き上がってついてきて、机の脇に厚く重ねられた、これまでに書いた物語の束に視線を向けた。
 その横には物語の挿絵用に描いてみた、つたないイラストが数枚散らばっていて、ミナモはそのうちの一枚を手に取って「絵、上手いんだ」と誉めてくれた。
 どんな話を書いているのかと訊かれて、天井の向こうの星空を指さしながら、星の海を泳ぐ魚たちの物語だと答えた。それから、慣れない言葉とイラストを使いながらミナモに通じるようにあらすじを説明していった。上手く伝えられたのかどうか、わからなかったが、ミナモは面白がって話を聞いてくれたので、ずいぶん長いこと話をしてしまい、まるで話しすぎて喉が渇いてしまったかのような錯覚を覚えた。先ほど書いたところまでを話し終えて、続きはまだ考え中だというと「ありがとう、楽しみにしてるね」とミナモは笑って、それから「そろそろ寝ようか」と言って小さなあくびをした。
 きれいな星空の下で眠りたいというミナモの要望に応えて、薄い敷布の上に毛布を何枚も重ねて、そのなかにくるまって眠りについた。
 とつぜん見知らぬ場所にやってきて気が張っていたのか、ミナモはすぐに眠りについてしまった。その寝顔を眺めながら小さな寝息を聞いていると、彼女がいったい何者で、どうして、どうやって今日ここへやってきたのか、そんな疑問が次々に浮かんできてしまい、なかなか眠ることができなかった。
 簡易にこしらえた寝床を抜け出して、リビングへ下りて喉の渇きの錯覚を潤すためにコップ一杯の水を飲んだ。部屋の片隅にミナモが大切そうに抱えていた小さな鞄が置いてあり、何となくそれを拾い上げて中身をテーブルの上に並べてみた。
 中身がぎっしり詰まって大きく膨らんだ財布、とても懐かしい形状の携帯通信端末、そしてどこか見覚えのある小さなハーモニカ。
 ハーモニカ? ちがう、これは……まだ研究施設に所属していたころに開発して、実験の過程でどこか別の時空間へと飛んで行って、そのまま行方不明になってしまった時空間移動装置だ。ということは、ミナモはこの装置を使って、ここまでやってきたということなのだろうか。
 いったい彼女がどういった経緯でこれを手に入れたのかはわからなかったが、とりあえず疑問の一つが解消されて、ただ、それと並行してまた別のいくつかの疑問がわいてきて、けっきょく余計に謎が深まってしまったように感じられた。
 装置のボタンを操作してみると時空移動に必要なエネルギーの量が残りわずかになっていた。ミナモをここではない別の世界へ飛ばすためにはエネルギーの補充が必要になるだろう。実験の際には青い世界から捕獲してきた活動体をエネルギーに利用していたけれど、侵食がすすむにつれてそうした活動体の数も減少していき、人間がこの世界を去って以降は滅多に見かけることもなくなっていた。エネルギーの補充には何らかの活動を行っている個体の「存在値」が必要になるのだが、現在この世界に残されている活動体は二人きりしかいないのだ。

 

 

7.ミナモ

 風の強い朝、目を覚ました私に薄めのコーヒーを勧めながら、元の世界に戻れるかもしれない、とシタルは報告してくれた。
 昨日と同じ缶詰のビスケットで私が軽い朝食をとっている横で、シタルは私のバッグのなかに紛れ込んでいたハーモニカを手にしながら、それを使えば好きな時間と場所へ移動することができるのだと言って、その仕組みを簡単に説明してくれたけれど、詳しいことはよくわからなかった。私はただ、戻れるということだけが嬉しくて、ビスケットを頬張りながら肯いて話を聞いていた。
 しかしすぐに、私が戻ってしまったらシタルはまた一人きりでここで暮らすことになるのではないか、ということに思い至って、何だか申し訳ないような不安な気持ちが心の片隅に浮かび上がってきた。
「ねぇ、一緒に行かない?」と無責任な言葉を口にしてしまい、すぐに何も考えずにそう言ってしまったことを後悔したけれど、その気持ちは本心でもあって、シタルを一人きりにしないですむ方法が何かないだろうかと考えを巡らせてみた。
 私の言葉にシタルは首を左右に振って、自分の役目はもうすぐ終わるから大丈夫だという意味の言葉を口にした。それから、ハーモニカの使い方を淡々と説明してくれたのだけれど、私の理解した内容を整理すると、別の場所へ移動する――シタルの言い方では「飛ぶ」――ためには、誰かのエネルギーをもらう必要があって、シタルはそのために自分のエネルギーを提供してくれるということだった。
 エネルギーをもらう、ということがどういう影響をシタルに与えるのか心配で、そのことについて訊ねてみると、しばらく黙って考え込んでから、ほんの少しだけ寿命が短くなるだけだとシタルは笑った。
 シタルはこの世界が青に覆い尽くされて消えてしまうのを見届けるために、たった一人でこの場所に残ることを決めたのだと言って、窓の向こう、数キロ先まで迫っている濃い青色を指さした。窓の外では、青い霧が強い風に煽られて大きく揺らめいていた。
 あと数年でその役目も終わって、そうなればどのみち自分は消えてしまうだろうと笑いながら、シタルはハーモニカを分解して小さな部品を入れ替えたりネジのようなものを調節したりしていった。
 まだ慣れない言葉を懸命に操りながら、もうずっと長い時間、一人きりで退屈に過ごしてきたから、たった一日、短い間でも一緒に過ごせてとても楽しかった。おかげで忘れかけていた大切な記憶を思い出すこともできたし、最後にこうして人の役に立てるということが、何よりもうれしいのだと、シタルは私に伝えてくれた。
 それでも私はシタルを置いていくことに躊躇いがあって、修理が完了したと言って手渡された小さなハーモニカを手元で弄びながら、少しでも一緒にいられる時間を延長したいという思いで「昨日のお話の続き、聞かせてほしい」と言ってみたけれど、実はまだ何も考えていないのだといってシタルははにかんだ。
 物語の続きは、これから私を見送って、そのあとに残った気持ちによって紡がれていくのだと言われて、それでは私はずっと結末を知ることができないじゃない、と返すと、いつかきっと、別の時間、別の場所で、読んでもらえる日が来るはずだから、そのときを楽しみに待っていて欲しい、と言ってシタルは小さく肯いた。
 それから、ちょっとわざとらしく、思い出したようにシタルは上着のポケットから白い便箋を取り出して「これを、あずかって、くれませんか」と差し出してきた。宛名の住所に書かれていた国名には見覚えがあったけれど、それは無事に元の世界に戻ることができたとしても、その後、これまで通りの生活を続けていたら恐らく一生訪れることのないような国の名前だった。
 手紙を預かって、曲がらないように丁寧にバッグに入れると、もう一つ、シタルはお土産をくれた。それはシタルの「食事」をしまってあった銀色のシガレット・ケースだった。ケースの上面の端にはT.Shitohというイニシャルが刻まれていた。
シトー?」どこかで聞き覚えのある名前に私が首をかしげていると、それはずっと前にある研究所でお世話になった学者からもらったものなのだとシタルは教えてくれた。自分よりも幼く見えるシタルの「ずっと前」がいったいいつのことなのか、それが可笑しくて思わず私が声を上げて笑うと、シタルは不思議そうな表情を浮かべた。
 他に食べるものもなくて、昼食にもビスケットを食べたけれど、さすがにその乾いた味には少し飽きはじめていた。今日は風が強いから、と言って窓辺には近づかず、灰皿を片手にシタルは「食事」のために部屋を出て行った。あの煙草の青い煙は、私にとっては有毒だからというシタルの配慮はうれしかったけれど、何となく離れがたくて、私はシタルのあとを追って上の階のガラス天井の部屋へ入った。
 曇り空はうっすらと青く染まっていて、ときどき雲の隙間から細い陽の光が射しこんできた。私は煙の届かない少し離れたところから、煙草を吸うシタルのきれいな横顔を眺めていた。気だるそうに目を細めながら、シタルは火のともった煙草の先端をじっと見つめていた。細く巻いた紙筒をつまんでいるシタルの指先は、小さな子どもの手には不釣り合いなほどに繊細で、その透き通るような青白い肌の色と相まって、ガラス細工のように輝いて見えた。
 私は書き物机のほうへ近寄って、横に散らばっているイラストを一枚一枚拾い上げて、せめてこれまでに綴られたシタルの物語のほんの一部だけでも記憶しておこうと、目に焼きつけるようにして眺めていった。
「食事」を終えたシタルは灰皿を床の上に置いて、私がイラストを眺め終えるのを待ってくれているかのように、部屋のなかをのんびりとした足取りで歩き回っていた。
 とつぜん、何か思いついた様子でシタルが足を止めて「ミミ」と呟いた。その声に私が顔を向けると、シタルはうれしそうに笑いながら、物語の続きには私も登場することになりそうだ、と教えてくれた。シタルの物語の舞台となる星の海を私の代わりに泳ぐ魚の名前は「ミミ」というらしかった。
 それから二人で書庫へ下りていった。シタルは棚に並んだ本を適当に手に取りながら、その本にまつわる思い出話を聞かせてくれた。バイクに乗って誰もいない世界を走り、無人の街、建物のなかを散策して回ったというシタルの話に興味を惹かれて、私もどこか誰もいない場所を探検してみたいと言うと、もう燃料がなくなってしまってバイクを動かすことはできないのだとシタルは寂しそうに微笑んだ。
 その旅のなかで集めてきたものが、いまこの家のなかに並んでいて、そうしてもう何年間も自分の生活を支え続けてくれているのだと、シタルはそのすべてを慈しむような優しい表情を浮かべながら、手にしていた本をそっと棚へ戻した。
 リビングに戻って、シタルはコーヒーを、私は白湯を飲んで寛いでいると、強い風が窓に吹きつけ、家全体のガラス窓が鳴くように揺れた。朝から吹き続けていた風に乗って、遠くの青い山脈のほうから押し流されてきた霧が、建物を覆うように周囲に漂っていた。青い霧に遮られて視界の悪くなった窓の外の景色を眺めながら、シタルは小さく肯いて「ちょうど、いい」と呟いた。
 窓際に並んだ小さな籠のなかからスカーフのような布を一枚取り出したシタルは、それをマスクのように巻いて鼻と口元を覆うようにと私に言った。その言葉に従って私がマスクを装着するのを待ってから、今度はハーモニカとバッグをもってついてくるようにと言ってシタルは部屋を出た。
 上のガラス屋根の部屋を過ぎて、さらに上をめざして階段を上がっていく。上りきって突き当たりのドアを開くと、そこは小さな屋上になっていた。先ほどまで強く吹いていた風は、だいぶ落ち着いて穏やかにそよいでいた。
 この世界に来て、初めて外気に触れた心地よさに、私は思い切り深呼吸をしたくなったけれど、辺りに薄く漂っている霧と、シタルがマスクを装着させた意味を考えて、その欲求をぐっとこらえた。
 もうだいぶ傾きかけた夕陽が、青い雲と霧を包み込んで、空全体を茜色に染め上げていた。うすい亜麻色のシタルの長い髪が、燃えるような色に染められて、風に吹かれてなびいていた。
 シタルは外壁に埋め込まれている錆びた鉄の梯子に手をかけると、ひらけた屋上のさらに上、あまりにも強い茜色のせいで、本当は何色なのかもわからなくなっている屋根へと上っていった。私も恐る恐る梯子をつかんで、手元と足元を一段ずつしっかりと確認しながらシタルのあとを追って屋根へ上った。
 ときどき、天気の良い日にはここに上がって、ぼんやりと空を見上げて過ごすのだと、秘密を明かすようにシタルは教えてくれた。小さなシタルの身体がぎりぎり横になれるくらいの屋根の天辺は、二人が並んで座るには狭すぎて、お互いに背中を預け合ってバランスを取るような格好で、何とか腰を下ろすことができた。
「なにか、ミナモのすきなきょくを、きかせてください」
 シタルにそう言われて、バッグからハーモニカを取り出して、スカーフに覆われた口元にすべり込ませて唇を押し当ててみたものの、子どものころに音楽の授業で遊び程度に吹いたことがあるくらいで、私はハーモニカの音の出し方についてもろくに知らなくて、演奏できる曲のレパートリーなど持ち合わせていなかった。
 とにかく何か音を出すつもりで息を吹き込んでみる。薄い鉄の板が振動して、震えるような小さな音が漏れ出して、次第に大きく響きはじめ、伸びていった。
 次の音を、私は無意識のうちに奏でていた。聴いたこともない、しかし、懐かしい曲の旋律が一つひとつ紡がれていくのを、私はただ息を吸ったり吐いたりを繰り返しながら聴いていた。
 いったい自分がこの曲をどこで知ったのか、まったく身に覚えがなかったけれど、たしかにそれは私にとって大切な、大好きな曲だった。曲に合わせて身体を揺らすシタルのリズムが、背中に感じられた。背後から吹きつける優しい風がシタルの髪をそっと揺らして私の頬を撫でるようにくすぐった。
 演奏が続いていくにつれて、すこしずつ背中に感じるシタルの身体が軽くなっていくような感覚があった。小さな無数の砂粒のようなものが、茜色の陽を浴びて煌めきながら、風に舞っていくのが見えた。
 ハーモニカの奏でる音楽の隙間から「ミナモ、めをとじて」というシタルの声が聞こえてきた。
 その言葉に肯いて、私は目を閉じた。そのあとに続いた「ぼたんを、おして」という声に従って、私はハーモニカの横についていた小さなボタンを指先で押した。「さよなら、ミナモ」というシタルの囁きが、遠くのほうから聞こえてきた。その瞬間、私はとても大切な親友だったはずのイチカと、彼女に託されていた伝言のことを思い出して「シタル」と叫ぼうとしたけれど、声を出すことはできなかった。すべてが断絶されるように、音楽が途切れて、身体が軽くなったかと思うと、ぴぴぴぴっ、という耳慣れたアラームの喧しい音が部屋いっぱいに広がっていった。

 

 

8.シタル

 以前おこなった実験のときと同じように、ミナモはどこか別の時空へと消えていった。
 活動のためのエネルギーを失った自分の身体が、砂のように崩れて朽ちていくというのは、時間の流れがゆるやかに失われていくような不思議な感覚をもたらした。
 ミナモと約束した物語の続きを、書かなければと思い、立ち上がろうと手を動かすと、手首から先がさーっと砂が流れるように崩れ落ちて消えていった。もともとほとんどの感覚がすでに失われていたため、痛みはなくて、ただこれ以上動かそうとしても同じように全身がばらばらになって崩れ落ちていくだけなのだろうと諦めて、すべてのエネルギーが消費し尽くされるのをじっと待つことに決めた。
 どれくらい時間が経ったのかわからないうちに、全身は灰のようになって崩れ、消えてしまった。それなのに、まだこうして意識だけが取り残されていた。
 それでは、このまま意識だけの状態であと数年、世界が群青の霧とブロックに覆い尽くされてしまうまで、在り続けなければならないということなのだろうか。青に染まった世界から締め出されるのをただ待つだけの存在。もう視界も失われてしまって、青の侵食がどこまですすんでいるのかも確認することができず、時間の流れを感じることもできなくなってしまった。
 何の前兆も知ることができないまま、いつか確実に訪れるはずの終わりを待ち続けるということを想像するのは、それなりに辛かった。考えたことを記録しておくこともできず、考えるのをやめて眠ることもできず、終わりの見えない終わりの時まで、ひたすら思考を続けなければいけない。考えや思いを表現する術もなく、相手もいない、孤独な、「私」だけの世界が果てしなく広がっていた。
 断片的な記憶が、長い時間をかけて、何の脈絡もなく浮かんでは消えていった。
 すっかり忘れてしまっていたこと、決して忘れることができず心の奥に残り続けていたこと、それらが延々と繰り返し思考のなかを巡り続けて、いつしか何が大切で、何が他愛もないことだったのかさえ、わからなくなっていった。巡り続ける記憶のなかで、これまでに出会った人たち、また会おうねと約束した人たちのことを考えていると、寂しさとやりきれなさが込み上げてきて、泣きたい気持ちになったけれど、もう涙を流すことはできなかった。
 かつて、イチカという名の少女の指先に触れようとして、必死に手を伸ばした瞬間がたしかにあった。その記憶を再現しようとして感覚だけで幻の手をめいっぱい伸ばそうと試みる。あと少しで、お互いの指先が触れようとしたそのとき、世界は青に飲み込まれて、約束を果たすことのできないまま、小さな意識は消えてしまった。
 そうして一つの世界が、誰にも見送られることなく、静かに終わりを迎えていった。

 

 

 

 

補章「疑問と思考」

 そういえば、ミナモがこの世界にやって来たとき、彼女は青い世界の領域の「外」側に現れたのだった。それは波のゆらぎが触れることのできない時間と空間。この世界に残された狭い聖域だ。あの装置では波の届かない場所に行くことはできないはずで、そうするとミナモは、何か別の方法でここにやって来たということに、なるのだろうか。簡単に解消したと思っていた疑問は、再び振り出しに戻ってしまった。
 ミナモの現れた位置は、ちょうど自分の座っていた場所のほぼ真下で、落下の衝撃によってかなり大きな音とコブがもたらされたことを考えると、彼女は書庫の空中にとつぜん出現して、ある程度の高さから落下したという可能性が高かった。この家の階層を区切る境界床はそれほど厚くはないので、おそらくミナモが現れたのは自分の座っていた場所のせいぜい一から二メートル下辺りではないかと推測できた。
 もう少し上にずれていたら、自分の存在していた場所そのものに、激突していたかもしれない。そうなれば下手をするとお互いの存在を打ち消し合って二人とも消えてしまっていたかもしれなかった。そんな時空間衝突事故の可能性を考えると、いまさらながら少し怖くもあったけれど、無限にも近く広がり増殖し続けているはずの時空間のなか、ミナモがこの場所を選んで飛んできたということは、偶然とは思えなかった。
 ミナモは何故、ここに現れたのだろうか。それにはいったいどんな力が働いていて、何の意味があって彼女の存在を自分の元へともたらしくれたのだろうか。そんな、いくら考えてみても答えの出ないような「謎」について考えを巡らせ続けるということが、残された時間を埋めるためのせめてもの慰めになる、かもしれない。

文字数:24495

課題提出者一覧