ラクーン・ザ・キッドの最期

選評

  1. 【円城塔:4点】 
    全体としてはうまくできている。ただ、冒頭から読み進めると、コメディなのかシリアスな話なのかがしばらく掴めないので入りにくい。設定を活かすために、動物それぞれの認知機構や、しゃべり方に踏み込んでもいいかもしれない。最後の一文は、もう少し工夫することができたはず。もったいなく感じた。

    【伊藤靖:5点】
    SF版『ガンバの冒険』のようなビジュアルのおもしろさ。後半に説明される世界の謎はやや類型的にも感じたが、「〝謎〟を解こうとする物語の作成」という課題に対して忠実に答えた実作であり、この枚数で最後まで描ききったのはお見事。動物たちのアクションもキレがよく、動物同士の交流も抒情感がある。ラスト近く、主人公の知能が後退する箇所での一人称の文体は、工夫の余地があるか。

    【大森望:4点】
    文明崩壊後の変貌した世界を描くSFとしては、動物版『エンジン・サマー』(ジョン・クロウリー)みたいな感じ。梗概段階では、動物たちに知性を与える”石”のテクノロジーをどのくらい説得力をもって(SFらしく)書けるか疑問だったが、『重力が衰えるとき』(ジョージ・アレック・エフィンジャー)の「モディ」のようなモジュールだと思うと納得できる。ただし、二進法言語の会話はすごく時間がかかりそう。これを生かすなら、人間並みの知性はあるが会話の言葉数が極端に少ないとか、独自の省略法が発達しているとか、そういう違いを出した方がおもしろかったかもしれない。最後は泣ける話になるので、もう少しあざとく、エモい方向に持っていく手も。

    【新井素子(前回ゲスト講師)】
    おもしろかったです。コミュニケーションの方法とか、嗅覚による世界認識とか、人間じゃないものがヒトとしてふるまってる描写がなかなかよくできてたと思うし、アデル可愛かった。描ききれたかどうかはおいとて、目標だった(?)アライグマとハイイログマの官能描写も、ふうん、こうきたかって楽しめました。

    ※点数は講師ひとりあたり9点(計27点)を3つの作品に割り振りました。

梗 概

ラクーン・ザ・キッドの最期

ラクーン・ザ・キッドは誇り高いアライグマの「戦士」だ。彼はハイイログマに乗って神の末裔であるハダカザルを狩り、「情熱家」のアデルを妻に娶っていた。アライグマの集落は千匹以上が暮らすコロニーで、かつて神が北アメリカと呼んだ大陸の北方に属していた。
アライグマたちの高度な知能は神の残した「柔らかい石」にあった。成人になる資格を得たアライグマは脳外科手術を受け「石」を脳に埋め込み、神に匹敵する知恵を授かるのだ。「石」の授ける人格にはそれぞれ特性があり、キッドは「戦士」の「石」を埋め込まれたアライグマなのだ。「石」を持つ動物たちはアライグマの他にもいた。彼らは世界共通のバイナリ言語を用いて罵りあい、限りある「石」を巡って殺し合った。だが神はこの世界には既に存在しなかった。
何故、神はこの地球上から姿を消したのか?

キッドは「賢者」アインシュタイン、アデル、そしてハイイログマと共に聖地と呼ばれる西の彼方を目指して旅に出る。肥大化した肝臓がたわわに実った木や空飛ぶイルカによるバッファロー虐殺などを目撃しながら旅は続けられたが、アインシュタインは「石」を託して亡くなり、アデルは事故で「石」との接続を司る脳の部位を損傷しただのアライグマになってしまう。冬が近づいてくる。足を怪我して歩くこともままならない。やむなくキッドはハイイログマに脳外科手術をほどこしアデルの石を埋め込み知能を与える。レアと名付けられたハイイログマは食料集めに奔走するが食料が足りない。このままではキッドもアデルも冬を越せない。
レアはアデルを殺してその肉をキッドに食わせる。キッドはレアの愛を受け入れる。二匹は抱き合ったまま冬を越す。

山越えを果たした二匹はソロモンと名乗るバイナリ言語を操るハダカザルと出会う。彼は禁忌を犯しかつて神が住んでいた集落に向かったのだ。集落には巨大な塔と、金属でできた美しいサルがいた。金属のサルは塔から一歩も出たことがなかった。この塔は「石」に見えない力で知識を送り、また「石」の得た知識を受け取るためのものらしい。集落を調査する三匹は神の骨を発見する。それはハダカザルと全く同じだったが、ただ顎が極端に退化していた。キッドは奇妙な食生活に気づく。彼らは植物性のものしか口にしていない。
キッドは集落の至る所に彫り込まれた文様に着目する。神がハダカザル同様「石」を持たないなら、どうやって知識を伝承したのか? 金属のサルに見せると果たして、その文様は文字と呼ばれるものだった。文字の伝えるところによると、第三次世界大戦はヴィーガンと自称する動物に手を触れない神の一族と肉を食らうハダカザルの先祖が引き起こしたものだった。ヴィーガンたちは動物に知性を与え、残された人類から文明の記憶を剥奪し、動物のいない世界――火星――に移住することで人類という反自然的存在を地上から一掃したのだ。
キッドはソロモンに「賢者」の柔らかい石を埋め込み、さらに自らの「石」をソロモンに託すことを決意する。ハダカザルか、「石」を持つ動物たちか、いつか必ず火星に向かい、もう一度神に会うことを夢見て。「柔らかい石」を除去する手術が始まる。キッドは自らの意識がアップロードされ、巨大な意識の源と出会うのを感じる。源は死んでいた。活動するための夢を失いただの知識の集積場と化していた。キッドは悟る。神に出会いたいという意志は何より神の作り上げた「石」の意志であるべきだったことを。夢を与えられた知識が活動を開始する。

レアは「石」から与えられた夢を拒絶するため自らの脳を爪で傷つけ、かつてキッドと呼ばれたアライグマを抱え北へと旅立つ。

文字数:1497

内容に関するアピール

「完全に人のように振る舞う動物」が世界の謎に迫る話です。手塚治虫『W3』や大原まり子「一人で歩いていった猫」、そして『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のイメージです。
謎というものは必然的に解けるものです。たとえ『ソラリス』のような作品であっても、「謎が解けない」という答え自体は必然的に与えられるものです。その意味で「謎解き」を主題にするということは、必然的に作品における読者と作者の力関係の差というものが露骨に意識されるということだと私は考えます。作者は謎の答えについて知っています。知らなければ書けません。そして読者は答えを知りません。知っているなら読まないでしょう。読み進める内に読者は答えに気づきます。だが気づいてしまった謎とは大抵、つまらないものです。かと言って最後まで気づかない謎というのはもっとつまらないものです。私の印象では「謎解き」というジャンルは、読者と作者がぴったり感情的に合致する瞬間というものをあえて抑えているようなジャンルに思えます。
それでは優れた「謎解き」とは何なのか。回答の一つとして私が考えたのは、「そもそも論理的に回答しようがない謎を同時に投げかける」ということです。性愛にまつわる暴力性の問題というものはその一つの例です。愛と暴力が不可分のものであるなら、普遍的な回答は決して得られません。個別の例において何が正しいかをその場で決断しなければならないのです。
アライグマとグリズリーの官能描写を描ききるのが目標です。

文字数:628

キッド・ラクーンの最期

湿り気を帯びた土の上に手のひらをそっとのせると冷たい感触が僕に伝わってくる。
戦いの前の火照った身体から一瞬だけ熱が引く。五本の指がくっきりと濡れた大地に跡を残す。手形は、ふんと共に僕らの縄張りを示す絶好の目印になる。僕はゆっくりと、長く、息を吐き出すと尾指を回し低くうなりをあげる僕のハイイログマをなだめ、ジョニイとマックスに合図を送る。
このけだものの匂い、敵が気づかないはずもない。
肩を二度叩くと、ハイイログマがのっそりと前進を始める。すばやく背に抱き着くと、ジョニイとマックス、二匹も後に続く。どこかに隠れている。森は身を隠し、奇襲を仕掛けるには絶好の場所だ。だがこちらも危険は承知の上だ。戦いの勝敗を決めるのは覚悟の差だ、生まれついての戦士である僕はそれをよく理解している。
がさり、と草むらが揺れる。反射的にそちらを向いて身構える。ジョニイとマックス、だけど僕は、その一瞬前、見えた気がした。何か石のようなものが草むらに投げ込まれるのを。
樹上!
ハイイログマが雄たけびをあげて後ろ足で立ち上がると同時に僕は背中を蹴って身体をひねり尾指で握りこんでいた槍を振り回す。きいっという短い悲鳴を上げて上から降ってきた何かがのたうち回る。白黒のそいつ、スカンクの姿を確認したジョニイが距離を取ろうと後ずさる、その背後から別の一匹が襲いかかる。
突進してきたハイイログマが前足で薙ぎ払う。
まともに右前足を食らったそいつは吹き飛ばされ、木の根元に打ちつけられたままぴくりともしない。続いて降りてきた一匹はすぐさま、大きく間合いを取り半身で僕らに対峙する。
相手の三匹ともまだ若い。石を埋め込まれてまだ間がなく、頭頂部の毛がまだ生えそろっていないし、先ほどまで木を掴んでいたはずの尾指を戻さず、そのまま地面につけてしまっている。
言うまでもなく、スカンクの武器は肛門から噴射される分泌液だ。だが本来護身用の武器であるこのガスを吹き付けるためには、相手に身を晒してまともにぶつかり合う必要がある。「奇襲を選んだのは失敗だな」僕は先輩として忠告する。「それとも使わずに勝てると踏んだのか」
石を埋めた者同士の会話は二進法言語によって行われる。歯を打ち鳴らす、地面を蹴る、舌を出す、木を叩く、種族によって音の出し方、言葉の見せ方はさまざまだ。僕の言葉は種族の壁を越えて伝わっている。相手のスカンクはぎこちないようすで断続的に鳴く。「お前、の、名前は」
「キッドだ」
「キッド」つたなく繰り返す。「そうか、お前、が、あの、アライグマ、の戦士」
槍を構えると僕はそっと左前足を一歩踏み出す。僕がしとめたスカンクを、ハイイログマが前足でぞんざいに揺さぶる。死を確かめる。「仲間の死体はあきらめるんだな。石はもらう、それが戦いの掟だ」
「そうだ、戦い、の掟」
歯をむいて、前足を合わせ爪をこする。
大きな物音がする。悲鳴。マックスのものだ。臭い、この。ガスだ。
ガスを使われた!
もう一つ、黒い影が上から、
「くそ、まだいやがった!」
鼻と目を抑えてのたうつマックス、
「ジョニイ!」
逃げ出そうとしたジョニイの背中にナイフが突き刺さる。
僕は三本足で走り、ハイイログマの背中に飛び乗る。立ち上がるハイイログマに吹きつけられるガス、があああああっという絶叫を上げて振り下ろした右前足が一匹の頭を叩き潰す。僕は振り落とされ地面を転がる、だが、転がる先は風上だ。すれ違いざまに槍をふるう。スカンクの悲鳴。
僕は素早く起き上がる。
目の前。
最期の一匹のスカンクがこちらに尻を向けている。
血の気が引く。
時間がとてつもなくゆっくりとすぎていくように感じる。僕の目の前でスカンクの肛門がぷくりとふくらみ、ふるえ、開き、爆発するのが見え。
ひゅん、と風を切る。
見る直前。
頭ほどもある石がスカンクの横っ腹に命中し、あらぬ方向にガスが噴射される。のたうち回るスカンクを思い切り打ちすえる。がっと声を上げて気絶する。
僕は槍を構えたまま慎重にあたりのようすをうかがう。ジョニイがあえぎ声をあげる。ハイイログマが駆け寄ってくる。
何もない。
今度こそ大丈夫、のようだ。
ほっと息をつき、ついた拍子にむせる。ガスが乱発されたせいで辺り一面ひどい臭いだ。ハイイログマが僕の身体を舐めるので顔を撫でてやる。
「キッド!」
向こうからアデルが駆け寄ってくる。手には投石器が握られている。
「ありがとうアデル、」
助かった。と続ける間もなく抱きついたアデルは僕を押し倒しキッド! キッド! 大丈夫? と顔をべたべた触る。
「大丈夫だ、僕は大丈夫。それより二匹の傷は」
幸いなことに、どちらも致命傷には至ってないようすだ。二匹をハイイログマに乗せてやる。
全身ガスにやられたマックスのひどい臭いにハイイログマが抗議の唸り声をあげる。同じガスにやられた被害者なのに、わがままを訴える。
僕は地面に置いてあった道具袋からナイフを取り出すと素早くスカンクの頭皮をはぎ取る。樹脂粘土でふさがれた頭蓋骨の穴をふたたびこじ開けると、スカンクの小さな大脳に覆いかぶさるように黒い石のかけらがはめ込まれているのが分かる。石から生えた金属の足が四本、大脳の奥まで差し込まれている。慎重に引きはがす。神からもたらされたこの石、正しくは「柔らかい石」と呼ばれるもの、これこそが僕らに知恵を授けるのだ。
「こっちは使い物になりそうにないね」ハイイログマが叩き潰したスカンクの死骸をアデルがひっくり返す。「石ごとつぶれちゃった」
「仕方ないさ、互いに命がけだったんだ」補助腕を取り上げ、水をかけて気絶した二匹のスカンクを起こす。「こいつらの石は?」
「市民。音楽家」
「また音楽家? これで音楽家が七匹だよ」
そんなもんだ。医師や戦士など特別な職業の知恵を持つ石は、簡単には手に入らない。
「仲間を呼んで、死体を片付けさせろよ。今日からからここは僕らの縄張りだ」
尾指と補助腕を取り上げられ、ぶざまに四つ足で尾を振り駆けていく。
すっかり遅くなってしまった。いつの間にか空高く上った月が、だんだん明るさを増していく。目の時間から、鼻の時間、手の時間、僕らの時間に切り替わる、僕はこの時が一番好きだ。コオロギが目覚める。風が吹く。そのたびに地面のそこかしこから、野ネズミやカエル、ごちそうの歩いた残り香がふんわりと漂ってくる。村への往復に使う僕らの道が、闇の中でくっきりとにおい立つ。それからアデル、君の匂いも。
「ふふ」
髭を撫でる。
遠くの方で何かがちらちら光っている。ハダカザルだろうか? 村のはずれで姿を見かけた者がいると聞いた。ひょろりとした手足、頭頂部にだけ毛が生えた奇妙な姿、わざと前歯を二本抜く奇妙な儀式、神の末裔と信じられている、愚鈍で、あまりにも弱い連中だが、ただ肉の味はそこそこ美味でいい。
「ジョニイ、傷の具合は」
「大丈夫だ、と言いてえところだが。さっきから体が冷えてたまらねえんだ」
「急いでこう」
走る。村の目印、大きなセコイアの木がぼんやり見える。
一足先に村に着いたアデルはさっそく医者のヘンリィを呼び寄せる。血を少し流しすぎているが毒を盛られたようすはない、輸血で事足りるということだった。皆が悲鳴をあげる。マックスが起き上がり、歩き始めたのだ。風が吹くたびに風下の連中が大騒ぎする。風呂嫌いのマックスだったがさすがに今回ばかりは当分風呂屋に通い詰めだろう。村の入り口につないだハイイログマも、川で洗ってやらないと。
「鍛冶屋で尾指を診てもらったら?」
確かに若干、挙動がおかしい。尾指は、石と共に神からもたらされた、知恵の実現だ。前足で握りこむ動作をするための義指を、尾の筋肉と連動するように張られた弦で自在に操る。四つ足の獣はさらに重い補助腕を使って戦うが、僕らには必要ない。それが僕ら、アライグマ族の強みだ。
マーゴは少し触れるなり、ばねの不調を見抜いてくれる。
「技師に部品を取り換えてもらえ」全身の毛を剃ったその姿は仕事熱心な鍛冶屋の証だ。奥では大勢の者たちが滑車を使って光の塊にハンマーを打ち下ろしている。
「じゃね」
先にアデルは食堂に向かう。ヒキガエルとコガネムシのごった煮シチュー、うまそうな香りがこちらまで漂ってくる。だが僕には先に向かう場所がある。ここ数日、アインシュタインの様態が思わしくないのだ。
村はずれのアインシュタインの巣に向かう。途中何度も、まだけだもののアライグマたちが用意された食べ物を漁っているのを見かける。石を埋められておらず知恵を持たない者たちだ。一匹の遠くからこちらをうかがっている、がっしりとした体格の、まだ子供だが、あれが恐らくアインシュタインの石を継ぐことになるだろう。だが恐らくそのとき、僕はもうこの村にいない。
扉を開く。
「来たか」
アインシュタインは老いている。だが間違いなく、アライグマ一族だけでなく、他のどの種族にもいないほど、偉大な老賢者の一匹だ。巣穴の火は消され、老賢者は尾指を取り外し丸まっている。お付きの若い男二匹がすっと起き上がるのを感じる。
「石はどうだったか」
「さすが耳が早いですね。だけど残念ながら市民と音楽家です。残り一つはハイイログマが潰してしまいました」
「気に病むことはない、戦士よ。だがやはり、旅立ちのときは近いようだな」
そうだ。新しい石を手に入れる。そのために野生の森を越え、廃墟を越え、山を越える。
アインシュタインは一度、大きく息を吐いた。
「しみ、について覚えておくがよい」
「しみ」
石には、僕らが先祖代々受け継いできた知恵の他に、尾指の作り方など、神が獣たちのために特別に授けた知恵がもともとふくまれている。石は神が作り上げたものだ。けだものの脳内に流れ巡るいかづちを制御し、思考と知恵を与える。サルや鳥、魚やトカゲを除くほぼすべてのけだものたちが、同じ種類の石を共有できる。だから僕らは互いに石を奪い合う。
かつて神は石を用いて、遠く隔たった世界と自在に会話を行い、ひとりでに動く機械をこしらえ、ありとあらゆる不可能を可能にしてきたのだ。
だが僕らは石についてほぼ、何も知らない。
脳内を流れ巡るいかづち? ことばとして知っていても、意味が失われてしまっているのだ。
「そして、中には我々の間違った知識を吸い込み過ぎて、もはや何を指しているのかすら分からない知恵もある」
「やはり、しみもその一つなのですか」考える。「ということは、何か分かったのですか」
「確信したのだ。あれは空高くから見た、我々の地球だ。あれは地図なのだよ」
「地球。確かに我々の大地が太陽や月と同じ球状というのも、神の知恵の一つです」
「中央の大きなしみ、あの上方に我々の村がある。そこの若者の石が教えてくれた。彼の石は我々のものよりも新しかったのだ」
若者の一匹が頭を下げる。
扉がきしむ。冷たい空気が入ってくる。
「彼はこうも言った。石は西からもたらされたものだ、と。私の遠い遠い、はるか先代の記憶にもある。新しい石はかつて西から旅する獣たちの手を通じて我々にもたらされたのだ。石の奪い合いはなく、獣たちは今よりずっと恵まれていた」
「しかし神は遠い昔に自ら大地を業火で焼き尽くし、滅び去ってしまいました。かつて西から石が運ばれてきたという事実があったとして、果たして今でも石が西の果てにあるのでしょうか。その若者の石は、どこかに打ち捨てられ、忘れ去られていただけなのではないですか」
「キッド。恐ろしいのか」
恐ろしいのだろうか? 僕は考える。大勢の敵と戦い、ハイイログマを駆り、誰よりも多くの石を集めたこの、僕でさえも。
「はい」そうだ。やはり恐ろしさなのだ、これは。僕をここに踏みとどまらせようとしているもの。「とうに覚悟は決めました。しかしまだ分からないのです。確信がない。命がけの旅です。戻ってこられないかもしれない。それなのに私が旅に向かうための理は、あまりにも拙く、命を預けるにはあまりにも弱い」
「キッド、偉大な戦士よ」アインシュタインが体を起こす。「お前は敵の正体が分からぬまま戦いに向かうとき、恐ろしさを感じるだろう」
「はい」
「だがその恐ろしさは、まさにお前が戦うために、命を投げ出し敵を狩るために、必要なものではないのか」
「おっしゃる通りです」
「お前は先ほど、この旅に向かうための理があまりにも弱く、命を預けるのに躊躇うと言った。それは正しい。私の知恵はしょせん、神のものではなく、獣のものだ。だが正しい一方、お前の考えは間違っている。私の知恵がお前の命を支えるのではない。お前の命こそが、私の知恵の支えになっているのだ。お前の強さとは、命の強さだ。お前が戦うとき、お前は自らの命のみを支えにして、敵に立ち向かうことができる。そうやって未知の敵に立ち向かってきたのではないのか」
「そうです」
「私に必要なのは、お前のその、命の強さなのだよ。強さと恐怖は共に手を取って、前に進むものだ。キッド、お前は強い。恐怖はお前の伴侶だ」
僕はいつのまにか、自分が狭い巣穴で直立し、話に聞き入っていたことに気づかされる。「賢者アインシュタイン、やはりあなたには敵いません」
「私の死を待つ必要はない。キッド、偉大な戦士よ。かつて我々はすべてを知っていた。もう一度新しい石を手に入れ、澄み切った知恵を取り戻すのだ」
「そうです」後ろの皆が口々に叫ぶ。「行ってください」
後ろには大勢の村の者が駆けつけている。僕らの話を先ほどから聞いていたのだ。「村のことは心配するなよ」臭いの落ちない毛を刈りこんだ、マックスだ。「確かにそりゃ、ちっと頼りねえけどな。村を立派に守るぐらいはやってやるさ」
ありがとう。「ありがとう」
皆と最後の食事を楽しむ。明日の朝出発すると皆には伝え、僕はこっそり村を抜ける。
抜けようとする。
「ねえ」アデル。「もう行くの? 行っちゃうの」
「皆には内緒だよ」焚火の周りをぐるぐる周っていたハイイログマを呼び戻す。川で洗ってやったので、毛は湿っていて、柔らかい。
「キッド。何か忘れてない? ほら、スカンクのおならからあなたを救ったパートナーとか」
「さっきのあれには、感謝してるよ」彼女の鼻に触れる。「あんな距離から石を投げて当てられるのは、アライグマの中じゃ君ぐらいだね」
「良く分かってるじゃない」
「だけど今回の旅は、今までの戦いとは違う。村の一番高い木から見える山、あの山々をさらに超えた場所に行かなきゃならない。僕らも、先祖の誰も、あんな遠くまで行ったことはないんだ」立ち上がって伸びをする。「帰れないかもしれない」
「帰れないなら私を連れてってよ」
「いや、違う。ごめん、間違えた。必ず帰ってくるから君は待ってて欲しい」
「帰んなくていいよ。私が付いていくから」
旅の目的が変わってないか? 僕は呆れてしっぽを振る。「とにかく危険なんだ。君を連れてはいけない」
「連れていく?」鼻にしわが寄る。「キッド、私があなたに連れて行ってもらったことなんて一度も、ない。私が自分の意志で、あなたと一緒にいるんだけど。この違いが分からないの? 私はあなたに守ってもらってるつもりはない」
「分かった。悪かった、ごめん」
「私は老いぼれアインシュタインじゃない。自分の命をあなたにあずけるわけじゃない」
「その通りだ」
ため息。鼻面をこすりつけ、僕の手を軽く押さえつける。「じゃあ、こう考えてみて。キッド・私を使いなさい。そう、その尾指のように使う。もしあなたが目的を果たせなかったら、私があなたの代わりに石を持って帰る。どう? 私ってすごく、使えるんじゃない? だからあなたを私に使わせて。あなたと一緒に、すごく遠くの、知らない場所の匂いを嗅いでみたい。ねえ、神様についてどう思う?」
神?
「そう。ここから西に行くってことは、神様の廃墟を通っていくんでしょ? 一度見てみたかったやつ」身体をぴったり寄せてくる。暑い。「神様って、ほんとに滅亡したと思う? 私は、あんまりそうは思わないんだよね。神様はまだどこかに存在してるって信じてる。地球の地図? が、あんなに大きかったんだから、きっとどこかに絶対いると思う。その証拠はきっと、どこかに転がってる。キッドはそういうこと、全然考えないでしょ? ほら、私がいないと旅の楽しみ方も分からないんだ」
「そうかもしれない」
「それに行って帰ってくる間に冬を越えるから子供が産める。あ、いやそれは当然、発情してみなきゃ男女の関係なんて分かりはしないけど」ぐいぐい身体を押し付けてくる。「あなたはそういう、そのことを考えたことがないの?」
「ある。あるよ。確かに、ある。ところでさっきから」何で押してくるんだ、と尋ね終わる前に僕はひっくり返される。柔らかくてくすぐったい腹にアデルが飛びかかり、僕らは転げまわる。すぐに僕は起き上がり、走って逃げるアデルのぼってりとした尾を握る。アデルは僕の上に乗っかりひげを掴む。ハイイログマが身震いする。
アデル、初めて触れたときのこと、アデル、歯を十一回打ち鳴らして初めて君の名を呼んだときのこと。
覚えているだろうか?

目が覚める。
ハイイログマの背の上でいつの間にか眠ってしまっていた。隣で眠っているアデルに手で触れると、耳を震わせ、投石用の補助腕で払いのける。
もう何日歩き続けただろうか? 夏は短い。冬に入るまでにあの遥か彼方、いまだ姿をわずかに見せるだけの、あの山を越えなくてはならない。
僕らは石の交易者として村を渡り歩いた。といっても石は貴重なもので、なかなか交換に応じてもらえるものではない。けだものたちの総数に比べ、石の数はあまりにも少ない。戦いが頻発する理由だ。僕らだって石を持ち歩いている以上、いつ襲われたっておかしくない。いくつかの村でアデルは賢者と話をする。なにか神様について、知りませんか? 答えは否定的だ。今まで出会ったすべての賢者が、神は滅亡したと言った。業火で自らを焼き尽くしたというものが圧倒的だったが、高い場所から飛び降りて死んだとか、一斉に毒を呑んだとか、雨が降り続いておぼれ死んだとビーバーの村では伝え聞いた。
「なるほど」アデルが感心する。「神様は泳げなかったんだ」
もっとも誰も、実際に見たわけでも、証拠を見つけ出したわけでもなかった。
旅は長い。
森の中のあの、むせかえるような濃い匂いは、秋が近づくにつれすっかりおとなしくなる。僕らはハイイログマから降りて食べ物を探し、カマドウマを口に放り込む。何も見つからないときは、コガネムシの幼虫と木の実を蜜で固めた携帯食を口にする。出発。
コガラが鳴いている。
コガラが鳴いている?
素早くハイイログマの肩を叩いて止まらせる。他の熊の死体から剥いだ毛皮を上から被る。なに何どうしたのというアデルに尾指で触れて言葉を送る。コガラが鳴いている。
しばらく僕らはコガラの鳴き声にじっと耳を澄ます。
石は哺乳類にしか埋めることができない。コガラには知恵がない。だが他の獣が鳥類を飼いならし、連絡手段として使うのは良くあることだ。一見他愛もない縄張り争いや求愛に見せかけて、良く通る声に乗せて、何かメッセージを送る。
送られているのだろうか。
鳴き声がやむ。葉が揺れる。僕らは息を殺して何かが起こるのを待つ。
遠くの方。
だんだん近づいてくる。はるか空の高い場所を何かが轟音をたてて通り過ぎていくのが聞こえる。
「イルカか」
ハダカザルが神の末裔なら、イルカは神に最も近い獣だ。神から与えられた回転する羽根で、本来の住処である海を離れ、地平線の果てまで航行する。
「海ってなんだろう」
「さあ」
木々の切れ目から編隊を組んだイルカが雲を描いてゆっくりと飛び去るのが見える。無邪気な残忍さを秘めたイルカは警戒すべき生物だ。僕の何代か前の戦士、石の持ち主は、実際に原っぱで遊んでいた子供たちがイルカに殺された現場を見ているらしい。だがこの高さなら、おそらく心配ない。
「行こう」
「まだあるの、この森?」アデルは廃墟が見たいのだ。
「うん」僕らはまだ一度も、廃墟には足を踏み入れたことがない。
西に廃墟があると聞いていた。廃墟には滅多に誰も、立ち寄らない。かつて神が世界を焼き尽くしたとき、何千年も残る強い毒が辺りにまき散らされた。毒は石にも影響を与え、知能を失い、血を吐いて倒れるものがいた。そう伝えられている。
今では廃墟の大部分は森に?み込まれてしまった。そう聞いていた。
森を抜けると草原が続く。ハイイログマが急に立ち上がる。僕らはあわててしがみつき、前方から運ばれてくる匂いを探る。
「少ないね」
ぼんやり見える。「開けてるんだ」
石造りの建築物が見える。間違いなく神が作り上げたものだ。廃墟の上をゆっくりとイルカが旋回しているのが聞こえる。目ではまったく捉えられないので、ずいぶん高いところを飛んでいるのだ。
近づいてみると石造りだと思っていた建築物は土を固めて鉄骨を埋め込んだ構造になっているらしい。階段を駆け上がる。わずかに虫がいるだけだ。けだものも獣もここには寄り付かない。鳥だけだ。鳥の糞が中までこびりついている。壁がくりぬいてあってイルカの音が聞こえる。
村にあった一番大きなセコイアの木よりずっと高い。かつてはもっと高かったのだろう。村で見た山ははるか遠くにかすんでいて、雲と混ざりあって溶けていた。ここではずっとくっきりと、大きく見える。
「あそこ」
離れた場所、雑草に埋もれた何かをアデルが指す。
イルカに見つからないように慎重に身をかがめ、地面を走る。土の感触を触って、嗅いでみると鉄の臭いがする。
がれきをひっくり返すと虫がいる。食べる。なんだか少し鉄の味がした。
上から見ると円筒形に見えたらしい建造物は近づいてみると巨大な壁のようだ。真っ赤に錆びついて穴だらけで、つる草がはびこっている。土を焼いて固めた、正方形の白い板があちこちに落ちている。どれも欠け、ひび割れている。おそらくかつてはびっしりと表面を覆っていたはずだ。
中を覗いてみる。
椅子があった。
かろうじて円筒形を維持している壁の内側に椅子が並べてある。天井まですべて椅子で埋め尽くされている。その椅子の上のいくつかに、獣にしては手足の長い、妙な生物の皮が引っかかっている。
間違いない。骨が消えてもまだ残ると言われている神の皮だ。神は地面から湧き出る油からこの毛皮を生成したらしいが、その製法も油も今ではまったく手に入るものではない。触れるとぼろぼろ崩れ落ちてしまう。
皮や壁には、おかしな引っかき傷があり、模様が描かれている。
アデルが補助腕を使ってそこらに穴を掘っている。
「やっぱり」
骨があった。下あご、それとおそらくは頭部の一部。いくつかを組み合わせてみてそれらしき形にしてみると、まるでハダカザルと同じだ。
「頭に穴は開いてない。神なら高度な知恵を石から授かっているはずだ」
「でも前歯を抜いてない。やっぱりハダカザルとは違うんだよ」
「けだものみたいな、野生の神かも」
「きっとこの筒は棺だよ。大勢の神が亡くなったから椅子に座らせて埋葬したんだ」
「よお」
振り返る。
八本の補助腕をクモのように並べ地面に立ったイルカが立っている。
くくくくくくと嫌な音をたててイルカが笑う。奴らは自分たちの鳴き声が知恵ある獣には笑い声に聞こえるのを知っていて、おかしくもないのに笑ってみせるのだ。卵白のようなぬるぬるした液体で身体中を覆っていて、呼吸のたびに頭から泡を出している。風が吹く。塩の臭い。
上空を旋回するイルカの音がだんだん近づいてくる。
走った。
走る。
すぐさま草原を突っ切ってハイイログマを待たせていた場所まで戻る。いない。逃げたらしい。一匹のイルカが鼻づらを押さえていてえ、いてえとわめいている。
数える。あれを合わせて五匹、一匹減って四対二、空と陸。圧倒的にこちらが不利だ。やりあって勝てるものじゃない。ジグザグに走る。走って探す、狭い場所に逃げ込む。崩れた建物のがれきの下、隙間からイルカの目が覗いているのが見える。
アデルが口を切りつける。
悲鳴。
それからめちゃくちゃに何かを投げ落とす音。アデルが補助腕で穴を掘る。上に出る。走る。くくくくくというイルカの声、森まで走る、走って逃げる。
開いている木のうろめがけて二匹でいっせいにとびこむ。
息をひそめる。尾指が槍を握りしめる、ぎりぎりとした感触、風を切る音、イルカたちの悪態、だんだん小さくなり、そして、消える。
腹をハートの形につなげたイトトンボがシダの葉の上に止まり、飛び立つ。
森の中を静かな風が通り過ぎる。
木のうろから出る。体を震わせる。うろの中が水浸しだったので、ひどいものだ。
奴らの地上への狩りはあくまで、遊び、スポーツだ。つまらなくなってしまえばそれで、終わる。終わってるはずだ。
呼笛を鼻にはめて吹く。音が森中に広がっていく。
何も返ってこない。
ハイイログマは現れない。
「引き返して、足跡を探すってこと?」アデルがぼやく。「やだなあ」足元の水たまりで、無意味に手を洗う。
もうイルカはいないだろう。引き返してもそれほど心配はないはずだ。そしてやっぱり、いない。自分たちのみっともない足跡が土の上にしっかり残ってて恥ずかしい。
ハイイログマの足跡はすぐに見つかった。点々と後を追っていたイルカの血痕は途中で消えている。足跡はそのまま森を迂回するように、谷底へと続いている。
繊維で編んだ袋が気に引っかかっている。
「おびえてるんだ」
もう一度呼笛を吹く。小さな谷川でボウルに水をすくって入れる。
「ねえ、さっきのあれってどう思う? あの骨。私はやっぱり神様のものだと思う」
「そうかもしれない。少なくともハダカザルにも、どんな獣にもあんな建造物は作れない」水は冷たかった。いくらでも触っていたい。「だけどあんなにはっきりと、形が残ってるなんて思わなかった。村のセコイアは数千年以上生きてるはずだけど、あの建造物はきっとそれよりずっと若い」
「石だってどう考えてもそんな長いあいだ、壊れずにいられるようなつくりじゃないよね」
ということは確かに、今でもどこかに神が存在していて、石が供給されているという考え方の方がしっくりくる。
「神は、あのしみのどこかにいるのかもしれない」
「私たちの目指す場所、西のずっと向こうにね」
「でも、だとしたら、何で今まで神を見た獣が現れなかったんだろう」
「そもそもまず誰も、神様が滅亡したことを疑わなかったってのが一つ」アデルがボウルの水を飲む。「もちろん、私みたいな思いつきで、神様が生きてるって思う獣はいっぱいいたと思う。だけどそれは、当の神様が最後に与えた知恵を疑うことにもなるから、賢者みたいに真剣に考えるタイプの獣は逆に、その可能性を追って考えたりはしない」
「それに廃墟自体が危険な場所だからね」
アデルが鼻をひくつかせて考える。「もしかしたらすぐそばに、いるのかもしれない。だけどそれは見えない世界だったり、それとも水みたいな神様で、私たちには見えなかったり」
「見えない」
「うん。神様が私たちに与えた知恵ってずいぶん偏ってるでしょ? 臭いについては全然詳しくないのに、見ることについてはすごく詳しい。もしかして神様はもともと見えない存在なのかも。だからわざわざあんな毛皮を」
激痛。
ボウルを落とす。水が跳ねる。右足に激痛が走る。何が何だかわからないまま体をよじり槍を掴んで転げ落ちる。
右足に深々と長い針が突き刺さっている。
ヤマアラシ。針を引き抜くと嫌な臭いがする。ヤニだ。煙草のヤニを針に塗りたくってある。
もう一本。
今度は右耳をかすめて後ろの地面に突き刺さる。
「アデル!」
向こう岸に枯葉をまとい擬装したヤマアラシがいて飛んできた石が当たってその場に倒れる。アデルが足元の石を掴んで投石機に取り付けようとしたところを後ろから殴られ、彼女の体がぐらりと大きく揺れて僕は叫び駆け寄り走ろうとして右足に力が入らない。握った槍を杖代わりにしようとする、だが、細い弦を通じて全身の筋肉を使って動かす尾指は、身体のどこか一部が使えなくなればまともに動いてくれない。指に力が入らない。
激痛が、今度は左肩に。
頭が真っ白になったまま、ヤマアラシの頭を殴り心臓に槍を突き立てる。
重力。
ふたたび坂をずるずると滑り落ちているのだと分かる。鳴き声が聞こえる。動かない左手に持っていた呼笛を必死に鼻面に当てて吹いている。
川向こうのヤマアラシの頭が、補助腕に構えた弓ごと、ハイイログマに叩き潰される。
針を引き抜く。呼吸をするたびに痛みが走る。無事な足に力を入れ、ヤマアラシの死骸を槍で突いて落とす。
「アデル」
答えがない。
「アデル?」
微動だにしない。補助腕も垂れ下がったままだ。
彼女の頭からだらりと血が流れ落ちる。
僕はハイイログマを呼び寄せアデルの容態を見た。
絶望的だった。傷口から手術跡が見えた。知恵を授かる儀式のときに、石を埋め込まれた場所だ。石の足が一本、折れていた。アデル? アデル! 何も反応がない。傷口を水で洗う。口に水を含ませる。そのまま口からこぼれるだけだ。
僕の肩と足ははっきり熱を帯びて膨れ上がっていた。
ハイイログマが背負っていた荷物から針と、壺に入っていた麻酔薬を使う。彼女を寝かせて石を取り除く。足は脳に残ったままだ。これで目を覚まさなければ、そのまま死んでしまうだろう。
もし目覚めても、もう二度と知恵を持つことはない。
月の全くない、暗い夜だった。
明けた。
僕は一晩中彼女のそばにいた。激痛で眠れなかった。
彼女が目覚める。
「アデル」
僕を見た彼女は身体を低くして、後ずさりする。
「アデル」
何度も呼び掛けた。鳴き声で、指で石を叩いて、十一回繰り返す彼女の名前を何度も呼んだ。僕は最後にはけだものの鳴き声まで使った。
僕のことは覚えていなかった。
僕はハイイログマの背に乗り旅をつづけた。腫れは一向に収まらなかった。ますますひどくなった。食べ物も受け付けなかった。アデルは僕らの後ろをついて歩いた。彼女は決して僕らに近づかなかった。ただ僕が食べ物を投げてやると、アデルはおずおずと近づき、口に入れるのだった。恐らく僕にハイイログマの臭いが染みついてしまっているのだろう。僕らについていけば食べ物にありつけると思っているのだ。
僕はそうやって、かつてアデルと呼ばれていたアライグマを餌付けした。
僕はハイイログマの背で、小さく丸まったまま一日を過ごした。
僕らの頭上を翼を広げた鴈の群れがゆっくりと横切っていく。
冬が近づいている。冬までにあの山を越えるのは絶望的だった。死を考え、振り払った。僕はまだ何も達成していなかった。なのに身体はもう、動かなかった。
眠ろう、と思った。冬の間を眠って過ごし、山越えを果たす。それまでには傷も癒えているはずだ。何の根拠もなかった。ただ僕は眠りたかったのだと思う。
僕はハイイログマの背から降りた。貯めてあった食べ物はとうに尽きていた。
笛を操った。ハイイログマは僕に良くしてくれた。とうに冬眠しなければならない時期のはずなのに、食べ物を探しては、毎日僕のもとへ運んできた。無理やり口に押し込んだ。傷口から黄色い膿が零れ落ちた。冬が来る。なのに僕の身体はがりがりに痩せこけていた。頭の内側で、石だけが変に熱っぽかった。
冷たい空気の中には絶望的なほど、貧しい臭いしか漂っていなかった。僕は岩陰に身を寄せ、大半を眠ったまま過ごした。寒さで身体が震えた。その震えるリズムはまるで、小さくずっと、虫、虫、虫、と、ことばを発しているようだった。時折視界の端で、何かが、かり、かりと動き、それはメスのアライグマだった。補助腕と尾指をどこかに落としてしまった彼女のぼってりとした短い尾、くっきり浮き出た横縞、腰回りのふさふさとした体毛、見覚えがあった。まだあれからひと月も経ってはいないはずなのに、それはとても遠くに行ってしまったものように思えた。
雪が落ちてきた。
ハイイログマが探し出してきたのはわずかな木の実だけだった。
夜中にアライグマが僕の横たわっている岩陰にやってきた。恐らく彼女も餌を探していたのだろう。ハイイログマの恐ろしい臭いは、彼女にとっては危険と引き換えに餌を与えてくれる臭いでもあったのだろう。僕は半身を起こした。きい、という尾指のきしみに反応したアライグマが、振り返ってこちらを見た。目がらんらんと光っていた。
僕は右の前足を伸ばして彼女に触れようとした。
彼女は行ってしまった。
アデルの鬚、アデルの尾、耳、濡れた鼻、口元、喉、両の掌、指先。
僕は這って歩いた。
呼笛を吹く。
本来夜行性の僕らアライグマと違って、ハイイログマは日中に活動する。それでも笛を聞きつけ寝ぼけながら起き上がったハイイログマに、睡眠薬を飲ませるのはたやすかった。さらに針先に麻酔薬を塗り、頭部に刺す。僕らが持ち歩いている治療用の道具はあくまでアライグマのためのものだ。種の異なるハイイログマを相手にして、この麻酔薬がどれだけ効き目があるのかは分からない。そもそも僕は医師ではない。アライグマに石を埋め込むための手術の経験はなかった。
ましてや相手は、ハイイログマだった。
だが知識はある。もともと石はあらゆる野生動物に知恵を授けるためのもので、どの動物にどうやって手術するかは、あらかじめ石の中に刻み込まれている。尾指の作り方や言葉と同じ、いわば新しく石に教えられた本能のようなものだ。僕にだってやって、やれないことはないはずだ。
アデルの石をこの、ハイイログマに埋め込む。
賭けだった。成功すればこのハイイログマは、僕らの助けになってくれるはずだ。効率の良い餌の探し方、冬を乗り切る方法、二匹で協力すればできることも増えるだろうし、何か新しいアイディアも浮かぶかもしれない。アデルの石を引き継いでいるのなら、僕らに危害を加える心配もない。
万が一、僕が死んでしまっても、このハイイログマが僕らの願い、石を見つける旅を引き継いでくれるはずだ。
だけど手術が失敗してしまえば、当然、ハイイログマは死んでしまう。それは同時に僕の死、旅の失敗をも意味する。
腹這いに倒れたハイイログマの頭部、まずここの毛を剃り落とす。頭皮がむき出しになる。開頭用のホールソーを慎重に、力を振り絞って回す。ごり、ごりと尾指に骨を削る感触が伝わってくる。アルコールに漬けたウサギの腹毛で血をぬぐう。本来は一匹でやる手術じゃない。急がなければ麻酔が切れてしまう。
頭蓋骨を慎重にはがす。
ピンク色の脳が見えた。
ヤマアラシの駄目になってしまった石から金属の足をもぎ取り、あらかじめアデルの石を修復してある。ハイイログマの脳に合わせて四本の足の長さを再調整する。目を使って、見て手術しなければならないのがもどかしい。手や鼻に比べてほんのわずかな情報しか得られない。手術用の特別な弦を尾指に張ってある。慎重に動かす。
四本の足を静かに、脳の特定部位に刺していく。そのままゆっくりと、力を入れずに石を埋め込む。
温めて柔らかくなった樹脂で欠けた頭蓋骨を埋める。表皮を縫い合わせる。
手術が終わる。
「レア」
僕は呼びかける。
「今日から君の名前は、レアだ」
彼女が目覚めるまでそれから丸一日、僕は摘み取ってあった蛹以外何も口にしなかった。
目覚める。
僕を見る。向かいに横たわっている僕を見る。そうだ、神によって作られた石は、見ることについての多くの知識を獣に与えるのだ。神は嗅覚や触覚よりもはるかに、見ることで多くを学んでいた。僕を見ているということは、おそらく石が正常に機能しているということだ。
そして。
絶叫。
目覚めたばかりのレアは絶叫した。彼女は生まれて初めて考えた。石によって考えることを、無理やり覚えこまされた。僕もかつて体験した。村で多くの若者が、石を埋め込まれおとなになる場面を聞いてきた。それはただ、限りない苦痛だった。全身がふくらみばらばらにちぎれもうもとにもどることはなかった。身をよじり、必死で呼吸をし、だが、そのたびに脳は、石は、新しく考え始めた。世界中のあらゆるものに名前が、一度に、与えられた。転げまわる背中が地を捉える。それは背中だ! 大地だ! お前はハイイログマだ! 笑うこと、泣くこと、獣には決して表情に出せない、かつて神のみに許された感情が与えられた。脳は試した。与えられた感情を表現しようとしても、彼女の喉からは絶叫しか出されなかった。ああおうおううう! うああうおうああああ!
僕は耳を塞ぎたかった。だけどそれは決して許されなかった。彼女は長い間僕と共に狩りを行ってきた戦友だった。まだ僕を乗せることもできないほどちいさなこどものころに罠にかかっていたのを、僕が育てたのだ。年齢は僕よりほんの少し年上かもしれない、だが、まだ若かった。僕らには種を越えた友情があるはずだった。
あ、ああ、ああああああああ!
彼女の前足が空を切るのを僕は目を凝らしてじっと見つめていた。
やがて彼女の動きがだんだん鈍ってきた。鳴き声をあげず、身体も動かさず、ただ身を縮こまらせて、浅く息を出し入れするだけになる。
鉤爪が地面をひっかく。
そうだ、そいつを使うんだ。僕は待った。彼女があふれだす思考から身を守るためにことばを使うのをじっと待った。
手が動く。
肉。
それが彼女が最初に発した意味のあることばだった。弱弱しく鉤爪を地面に数回打ち付けただけだが、それは明らかに意味のあることばだった。
「レア!」
僕は最後の力をふりしぼって叫んだ。
彼女の二つの目がどろりとこちらを向いた。
爪が別の言葉を叩いた。
「誰?」
レア、君だ、レアは君の名前だ。
「レア」
そうだ、レア、分かるか? 僕はキッドだ、君を従えていたキッドだ。
僕は右前足で呼笛を掲げてみせた。
レアはそれを見て、爪を何度もこすった。
笑ったのだ。これが獣の笑い方なのだ。
「レア」彼女が手を地面に当てて応えた。「あたしの名前」
それから何日か、レアは僕のために食料を探してきてくれた。僕の体調はいくらか、良くなった。だが冬はあまりにも近すぎた。
雪が降り積もる。
間に合わない。眠気が襲ってくる。今眠ったら、春が来る前に体力が尽きてしまう。
アライグマは姿を見せなくなった。きっとどこかで一匹、眠っている。
僕はレアに伝えなければならなかった。
「レア、君が受け継ぐんだ」呼笛を見せる。「かつて君を使っていた僕の最後のお願いだ。僕らのために石を見つけて、アライグマ族まで届けてやってほしい」
レアはかぶりを振った。
「何かあなたが食べるものを探してくる」
無理だ、と僕は思った。この辺りにもう食べるものはない。枯葉の裏のなめくじの卵まですっかり食べ尽くしてしまった。
「そんなこと、ない」彼女は爪をがちがち鳴らした。「まだある、ある、はず。何としてでもあなたは、い、生きていなくちゃ、だってあたしはまだな、なんにも教わってない」
僕は黙っていた。眠かった。彼女が立ち去る音が聞こえた。
もしかしたらこのときすでに、僕は彼女が何を求めているか、何を行おうとしていたのか、察していたのかもしれない。頭のてっぺん、石の知恵は答えを導き出していたのかもしれない。だけど僕の頭はそれにまだ、気づいていなかった。答えを見て、嗅いで、触ってみなければ分からなかった。
彼女はすぐに、何かを咥えて戻ってきた。
僕は最初それを、汚れたビーバーだと思った。川もないのにどうしてビーバーがいるのだろうと考えた。
「さあ」
肉だった。温かかった。血が流れていた。こんな新鮮な、巨大な獲物は口にしたことがなかった。むさぼった。
ぱっくりと裂けた腹だった。
その肉が何であるかを知った。
見覚えのあるしっぽ。
白と黒の、ぼってりとした、今は血に染まってすべてどす黒く汚れた。
知った。
寒気がした。脳が一瞬で、空っぽになってしまった。吐くべきだと思った。今すぐこの肉を、血を、吐き出してしまいたかった。
なのに僕の身体は、止まらなかった。
僕はごくごくと喉を鳴らして血を飲み干した。全身に活力が蘇るようだった。身体が、かあっと熱くなるのが分かった。
レアがうっとりとした瞳で僕を見ているのが分かった。
血まみれの口を開いて僕の頭をくわえ込んだ。
食われる、と思った。同時に愛されてると思った。愛されていることの重みが僕にのしかかっていた。真っ赤に焼けた舌が僕の顔を舐めまわした。目も、鼻も、口も口の中も、レアの下に隅々まで舐めつくされた。あまりにもおそろしい愛だったので僕はそれを受け入れざるを得なかった。僕を支えていた命は、もっと強大で、恐ろしく、あたたかい命の前に投げ出された。彼女はその愛を舌で存分に味わうだけで良かった。それは造作もないことだった。
僕は僕自身がこんなにも簡単に愛されてしまうことが恐ろしかった。こんなはずではなかった。僕が知っている愛はこんなものではなかった。君が教えてくれた愛はもっと、違っていた。違っていたと信じたかった。
アデル! アデル! 僕は叫びたかった。だけどアデルと叫ぶためには歯を十一回打ち鳴らさなければならなかった。喉を十一回震わせなければならなかった、無理だった。口を開いて出てくるのは犬の嫌らしい遠吠えのような意味のない叫び声だった。うおああおううおうあおう! うおああおううおうあおう! その度にレアの剛毛は逆立ち、僕をぎゅっと抱きしめた。
ハイイログマの臭いだった。ああ僕はあまりにもこの臭いに慣れ過ぎてしまっていたのだ。この大地の上で一番恐ろしいものの上に長く横たわっていたせいでおかしくなってしまったのだ。僕はおかしいのだ。おかしい僕が僕を離れてどんどん勝手に進んでいってしまい僕はそのあとを必死で追いかけながら何でこんなことをしているのか分からなくなってしまってどうしようもなくなってしまった。
呼笛が僕の背中に押しつぶされてひしゃげる音が聞こえた。耳まで駄目になってしまったのだと思った。
キッド、と耳元で誰かが囁いた。まるでアデルのように囁いた。それがアデルではないことを僕は知っていたのでとても悲しかった。悲しい感情をどうやって表現すればいいのか僕は忘れてしまっていた。うるるるるる、まるで赤ん坊の甘える声だった。そうではなかった、そうではなかったのにぴったりのことばがなくなってしまった。
代わりにあったのは生温かい舌だった。
そのまま僕らは誰かが掘り返した深い深い穴の底に投げ込まれて春がやってくるまで眠っていた。
愛し合った。

春がやってきた。
僕らは起き上がり山を越えた。足も肩もまだひどく痛んだが、少し走って尾指を扱う程度には問題なかった。ひしゃげた尾指はレアがなんとか、元に戻してくれた。
僕らの旅は続いた。僕らは戦い、歩き、考えた。愛もあったが、あの冬起こったような出来事は二度となかった。レアはアデルそっくりだった。考え方も、知恵によって新しく身に着けたしぐさも似ていた。同じ石を埋めた獣は同じ知恵を授かる。そういうものだ。ただアデルの存在だけが、そこにはなかった。
どこかにいってしまった。
見えない世界だった。
僕らは石を集め続けた。山脈を越えてから石はずっと手に入りやすくなった。山脈を越えてやってきた僕らの石はこちら側の世界にとってはとても貴重だった。どの種族の賢者も、僕らの持っている石を欲しがった。
「神について何か知らないかな」僕はそのたびに尋ねた。
アデル。
だが決まって答えは否定的だった。神は業火で自らを滅ぼした、と。
奇妙だ。
「キッド」レアが喉を鳴らす。「分からない。だって神様がそうやって消えたってあなたもあたしに、そう教えたし、あたしもそう知っている」
「そうだけど、奇妙なんだ。何というか、答えがあまりにもはっきりして、決まり切っている。山の手前の種族は、もっと神の消失について、てんでばらばらな、自分たちだけの言い伝えを持っていた」
「キッド、それはつまり、ああ」言葉に詰まったレアが苛立たし気に地面を叩く。「えっと、こういうこと? つまりここの獣たちは、神様が消えてしまったことについて、より確かな記憶を持っている」
「僕もそう思う。つまり彼らが持っている神の消失についての知恵は、僕らが持っている知恵よりもずっと、オリジナルに近い」
「やっぱり!」レアが爪をこする仕草をする。「あたしもそう思ったんだよ。アデルみたいに」
レアが僕の耳の裏を舐める。
ときどき、僕は自分が間違って生かされているのではないかと思うときがある。僕らは動物の死骸を食べる。死んだ同種の肉も例外じゃない。確かに神の知恵の中のいくつかの警句は、同族殺しを僕らに禁じている。が、賢者によればそれは、あくまで知恵あるもの同士に限る制約だ。むろん僕たちは積極的に知恵のない同種を殺して食べる真似はしないが、それは本当に、たまたまそうしないに過ぎない。
かつての戦士の中にも、飢えに襲われ、仲間を全員食い殺して生還した英雄が何匹もいる。それは強さの証だ。
それにアデルは石が外れたときに、知恵を永遠に失ってしまったときに、もう、いなくなってしまったはずだ。
だけどあのアライグマは本当に、アデルじゃなかったんだろうか?
「キッド」僕の耳元でレアが歯を鳴らす。「あたしはキッドがキッドじゃなくなったら、きっといつでも殺すよ。キッドはもうあたしを笛で操れないし、アライグマって、とてもおいしい」
僕の鼻を舐める。
塔に気づいたのはレアが先だった。それは遠くからだと金属を編んで上から見えない手で引っ張ったように見えた。森の中から突き出したそれは、はるか遠くからはっきりと確認できる。僕らは塔を目指して三日三晩歩いた。夜には塔の周りに多くの鳥が集まっていた。
僕らは森を縦断する川に沿って歩き続けた。誰もいなかった。最後に訪ねた種族の間では、あの辺りは聖域になっていた。
「あの辺りにゃいかれたハダカザルがよ、うようよしてんだ」額を石で盛り上がらせたヤギが蹄で地面を蹴った。
「ハダカザル?」レアが牙を見せる。「あいつらなら何度も食べてるけど」
「とんでもねえよ! なぁぁぁああんにも知らねえんだ、お前は」わざわざ鳴き声を使ったことばで隣のヤギが口を挟む。「あいつら見境ねえし数が多いんだよ」
「まあ、お嬢さん、あんたは平気かもな」賢者がレアの臭いを入念に嗅ぐ。「だけどなあ、その老いぼれも連れて行くんだろ? やめとけやめとけ」
老いぼれとは、僕のことだった。レアが低くうなった。
「石ならよ、たまにまとめて川上から、どさって流れて来るんだ。だけどよ、全部新品だから、埋めても阿呆にしかならねえ」
「僕は石だけじゃなくて、石を僕らに与えた神についても知りたいんだ」
「神について、だって? どうすんだよ、そんなもん知って?」ぺっ、と唾を吐き、一声。「ばぁぁぁああか!」
だが彼らのおかげで重要なことが分かった。おそらくあの塔には新しい石が大量に、今も眠っている。そしてハダカザルはこの場所を大切に守っている。
確かにハダカザルは多かった。森を進んでいても、新しい臭いがそこかしこから漂ってきた。足跡に触れるとわずかにまだ、温かかった。だが姿は現さない。
「全然話が違うじゃない」
正しかったのは、もう僕が老いぼれだということぐらいだ。ハイイログマのレアの寿命は僕の四倍だ。僕はきっともう、村へは帰れない。石の運搬はレアに頼むしかないだろう。
「聞いてる?」
「ああ」
「もしかしてこれも、あの連中の石があたしたちより新しいせいかも。この場所に足を踏み入れてはいけないっていう、あたしたちの覚えてないオリジナルの命令があるんだよ、きっと」
ますますアデルに似てきたな、と思う。
川の中央に見覚えのある残骸が横たわっていた。
「棺だ」
いつか見た神の棺が、それも二つ並んで、ちょうど橋のように横たわっている。一つは長い間水に晒され、ほとんど原型がない。もう一つ、裂け目から内側に入ってみると何もない。何の臭いもしない。空洞だ。椅子もない。川の水に晒されているはずなのに、あの廃墟の棺より、保存状態はずっといい。昼間なのに、一歩進むと新月の夜のように薄暗かった。
かちかちと音を立てて小さなカニが金属の床を歩いていた。食べる。
壁を触るとぼろぼろと崩れ落ちていく。見た目より頑丈ではないらしい。レアが力を入れると難なく亀裂が入った。レアが鼻を動かす。「誰もいないね」
「ハダカザルもここには入ってきていないんだ」
「そういえばさっきから、あの臭いがしない」レアが鼻にしわを寄せる。「あたしあいつらの臭い、嫌い」
ぼろぼろの内壁に背中をこすりつける。
塔の下に建物がある。やはり川の水に晒されているが、まるで洞窟のように頑丈で立派な建物だ。
中へ進む。
ゆったりとした川の流れは建物の中にまで侵入し、僕の腰の高さで流れていた。水草が床を覆い、内壁はつる草と、ひび割れに種を落とした草で覆われていた。驚いたことに立派な木まで、吹き抜けの中に何本も立っていた。若木がここまで流され引っかかり、成長したのだろうか。川の中の建物の中に、森がある。
木を叩いて、敵意がないことを示す。「誰かいませんか!」
ふいにかすかな、とても高い音が鳴るのが聞こえた。その音は非常に速く、一定の間隔を刻んでいた。僕はスズムシの羽根が震える様子を想像した。
何かが向こうからやってくる。
ハダカザルだった。
こんなハダカザルは嗅いだことがなかった。全身が金属のハダカザルだった。ハダカザルどころじゃない、こんな獣はまったく知らなかった。だけど神でもなかった。真っ赤に錆びついていた。一歩動くたびに関節のあちこちがきしんで音を立てている。メスだった。彼女が腕で自分の身体をこすりあげると、錆の下からきらめく金属が姿を見せた。
甲高い音は彼女の身体の中心から聞こえてきた。
「はい。これはわたくしの、心臓の音なのですよ」
がたがたと音を立てて崩れ落ちるのかと思ったら、難なくまた元通りに直立した。お辞儀をしただけだったらしい。「ようこそいらっしゃいました」甲高く、澄んだ音で口から話す。
「誰よあんた」
「はい。ヒリィと申します」
「僕はキッドだ」
「はい。よろしくお願いします、かわいらしい戦士様」
どろろろろと地の底から響くような唸り声がレアから聞こえてくる。
「あ、た、し、は、レ、ア、だ、か、ら、よ、ろ、し、く、ね」ヒリィに歩み寄り、爪で相手の身体を叩いてことばを出す。「で、何よあんた。見た目はハダカザルだけど、ことばを話すし臭いも音も全然違う」
「いいえ、わたくしはけだものから作られたものではございません」ぎい、と音を立ててヒリィの胸を形作る金属板が開く。「ごらん下さい」
「埃だらけで何も見えないじゃない」
鼻息を吹きかけると緑色のてらてら光る板の上に石がいくつも埋め込まれている。
「はい。わたくしには脳がありません。生体用、産業用、AI用途、その他あらゆるご要望にお応えする汎用目的に生産されたコンピュータチップ、あなたたちが柔らかい石と呼ぶものだけで考え、動いているのです」
「へえ」
「いいえ、駄目です触っては」閉じる。「わたくしは石の管理者です。あなたたちの探していたものは、ここにあります」ぎゅっ、と音を立てて笑う。「おめでとうございます」
はあ。
表情が元に戻る。
「なぜ、僕たちが石を求めていることが分かったんだ」
「はい。わたくしは石の管理者です。わたくしは獣の皆さんが持つ知恵のすべてを預かって、目的に応じて取り出すことができるのです。この塔全体がわたくしの一部で、石の考えていることはすべて、電波と神が呼んでいた見えない波を伝わって、この塔に集められているのですよ」
「見えない」
レアの鼻息が一つの単語を形作る。「見えない。ねえ、それってもしかして」
「そうだ、神について何か知らないか、ヒリィ。亡くなった僕の同族は神について考えていたんだ。神は消えたわけではなく、僕らの見ることのできない世界に行ってしまった、それとも神自身が見えない存在なんじゃないかって。その電波と関係あるんじゃないか」
「それはとてもチャーミングな考えですね」また笑顔が作られ、戻る。「いいえ、残念ながらわたくしも、ヒトは殺し合いの果てに、自ら滅んだとという事実しか知りません」
「ヒト」
「はい。それが神の、自らの呼び名です。あなたたちがハダカザルと呼ぶけだものと同じです」
「やっぱり、そう」レアが鼻を鳴らす。「じゃ、あのサルどもは、自分たちの石をなくしてしまって馬鹿になっちゃったってわけ。つまんない真相」
「だけどそれだったら、どうやって奴らは最初の石を手に入れて神になったんだ? それにあの棺の中の神たちには頭に手術した跡がなかった」
「はい、石を使わずにことばや記憶を伝える方法があるのですよ。ヒトが文字と呼んでいたものです。これもそうです」壁の引っかき傷を示す。
「これがことばなの?」
「はい。皆さまと異なり、ヒトは目でものを捉えます。それに同じ種族の間でことばをやりとりするので、このように、他の種族には意味をなさない、刻めない模様をことばとして使っても問題ないのです」
「そういえば、旅の途中で同じような引っかき傷や模様を見た気がする」
「はい、あとで読み方を教えて差し上げますよ。わたくしは文字を読みませんが、あなたたちには面白いものかもしれません」
僕らのために木の実を用意してくれるという。この辺りにはけだもののままのリスが多くいて、食料を貯めこんでいるのだ。
「君の持っているその特別な知恵も、文字から聞いたのか」
「いいえ。わたくしを産んだヒトが、わたくしだけの特別な記憶を石に与えたのです。わたくしそっくりの、素敵なヒトでした」
いつの間にか、すっかり夜になってしまった。新月だ。辺りは非常に暗い。自分の手がやっと見える、そんな闇に包まれている。
「どうして神様は、自分たちのことばを忘れて、なのにあたしたちにだけ知恵を残したんだろう」レアが自分の身体を掻く。「ねえ、どうやって神様は自分たちを殺したの? だって世界中にいたんでしょう」
「はい。わたくしは塔から一歩も出たことがありませんが、記録ではこの塔のそばに何か、巨大な構築物が転がっていたはずです。あれはミサイルと呼ばれています。あれに爆弾を詰めて世界中に飛ばしたのです。あれは燃えさかる炎の矢なのです」
「へえ、棺だと思ってた」
僕は足を止めた。
月が出ていないので、辺りは非常に暗い。
棺。
炎の矢。
「何で気づかなかったんだ」
空は非常に暗い。
「レア」ことばが震える。「あったんだ」
「何が?」
「空には、あったんだ。僕らが見えないけど神には見えるものが」
「え? 何でそんなことが」
「分かるんだよ、レア。今日は新月だ。空には何もない。ここには光を発するものなんて、何もない」僕は深呼吸する。「だったら何で、僕は君の顔が見えるんだ? 何で穴の中と違って、君の姿を見ることができるんだ? 本当に光がないなら、目を閉じたように、僕らは、何も見えないはずなんだ」
僕は駆け寄り木の枝によじ登り、立っているレアの顔に手で触れる。
「光ってるんだよ。僕らの目には見えないけど、神には見えるはずの何かが夜空に光ってるんだ」
「だけどおかしい。キッド、ハダカザルが夜、全然目が見えてないのは」
「その光が、神の目には見えるほど輝いていて、でも僕らの目には見えないほど小さかったら? そんな小さな光が空の一面を覆っていたら? あの隙間をごらん」天井を鼻で指す。「天井とその隙間の境目が、なんとなくだけど分からないか? 空はほんの少しだけ明るいんだ。神は光の点が空にあることをわざと僕らに教えなかった。なぜか? 理由は一つしかない。神はあの、ミサイルというものに、爆弾の代わりに自分たちを詰め込んで空に打ち上げたんだ。いくつかは失敗して地面に落ちてしまった。だけど成功したものもあったに違いない。そうやって神は、僕らから身を隠したんだ。知恵を与えたけど、自分たちの存在を、今どこにいるかを、悟られたくなかったんだ。ヒリィ!」
「はい」
「君の目は僕らと違う。君は今まで空を見上げたことはあるか?」
沈黙。
「ねえ、どっちなの」
「分かりません」声が乱れる。「わたくしの役目は石の管理で、空を見上げることでは」
「じゃあ今すぐ見てよ!」
「はいっ!」
頭を反らし、天井のわずかな隙間に彼女が視線を向ける。
ぼちゃん、と音がして彼女の表面を覆っていた金属板がばらばらに外れ水面に落ちむきだしになった内部から光がいっせいに天井に向かって注がれる。光はいくつもの点を描き、僕がさっき想像したままの光景が、僕らの目にも見えるほどの明るさと大きさで、天井に映し出される。
小さい、小さい光の点が、空一面に広がっている。
これだ。
こうなっているのだ。
神は自分たちを隠そうとした。だけど本当は、こうして、こうやって、教えたくてたまらなかったのだ。
「見て」レアが舌で舐める。
点が線で結ばれる。線が形を作る。形が絵になる。勇猛な神の姿、蛇、見たこともない道具や動物、サソリの尾。
「あそこ」
そして天井の一番目立つ場所、そこには、大きなクマと、小さなクマ。
「変なクマ。だってあんなにしっぽが長い」
「きっとアライグマだよ」僕は言った。
「じゃあ小さいのがあなたで大きいのが、あたし?」
「そうだね」
僕の考えとは違っていたが、言わなかった。
僕らは翌日から上階であらゆる文字を読み漁った。金属板を戻すとヒリィは、何でしょうか、と元通りになった。磨いてやった。上階にはヒリィと同じ仕組みの、だけどハダカザルには全く似ていない生物がいて、腕だけで歩き回ったり、羽根を回して空高く飛んで行った。これらは皆、石と同じくいかずちで動いているのだという。太陽光からいかずちを作り出す板が、すぐ近くの森の森を切り開いて何百枚も並べられていた。
「あの地下で石を作っているのですよ。そしてここから川に流すのです」
ヒリィが教えてくれた、本、と呼ばれる収蔵物は大部分が腐っていて読めなかった。鼻を近づけてすん、と嗅いでみるとカビのいい匂いがした。
それだけだった。
だがいくつかの石には僕らの知らない知恵が、文字として記憶されていたのだ。僕らは石を文字に変換するための、神の機械を見つけた。
動いた。
知らないことだらけだった。
神とハダカザルはヒトという一つの種族だったが、神はヴィーガンと呼ばれる特別な信念を抱く集団だった。神はけだものを決して口にせず、殺すことも避けていた。一方ハダカザルはけだものを殺し、肉を食らっていた。
「ハダカザルが門歯を抜くのは、自分たちの肉食を誇示する名残だったんだ」
両者は殺し合った。神の中の一部の者たちが、歪んだ信念に基づき、けだものにハダカザルを殺させるため、石と尾指、補助腕をばらまいた。
結果は、必ずしも神の思ったようにはならなかった。
「神様も万能じゃ、なかったわけか」
結局神は、本来の信念に立ち戻った。すなわち、地上にヒトは不要だというものだ。彼らはミサイルに自らを詰め込み近くの星、神がそう呼ぶ空の小さな光の一つに打ち込んだ。ここまで一年以上かけて、僕らは自分たちの石にあらん限りの知恵を詰め込んだ。
そして、ここで行き詰ってしまった。
どの星なのか。
「太陽は神様が住める場所じゃない。月よりさらに遠くに行ったみたい。だから、星のどれかなのは確かなんだけど、どこだか分からない」
僕は最近ずっと、ある考えに取りつかれていた。
「目が痛い」
石から返還された文字は、ぴかぴか光る板にうっすらと表示される。神にとってはこれでも読みやすいのだろう。アライグマにとっては拷問だ。おまけに忘れていた古傷の痛みが、またぶり返してきていた。
ヒリィはあれからずっと空の観測を続けていた。彗星や流星を見つけた。だけど神が移り住めるような場所、それらしき候補地は、まったく分からなかった。ヒリィも、謎の生物も、神に定められたもの以外は何も作り出せなかった。彼女の目だけが頼りだった。
「ヒリィ」ある日、僕は思い切って尋ねた。「なぜ君はあのときまで、空を見ることが一度もなかったのだろう」
ヒリィが怪訝そうな顔をする。「はい。前にもお話したはずです。その必要がなかったからです。わたくしはけだものではありませんので、欲望がありません。何も望まないのです。わたくしの知恵は、いわば死んでいる知恵です」
「僕らが何かを望むのは、僕らがけだもので、生きているから」
「はい」
「でも、だったらなぜ、僕らはけだものにない欲望を持つのだろうか。こうやって文字を読んで、星を探すために君を使う、これは石が与えている欲望なんじゃないか」
「キッド、何が言いたいの」レアが柔らかく熟れたマンゴーを齧る。ここの冬はまったく寒くない。
「ヒリィ。君の石は、神によって特別な知恵を与えられている。だけどそんなことができるんだったら、逆に、神は、ある特別な知恵だけは絶対に身につかないように石を改造することもできたんじゃないか。君が欲望を持てないのは、石がそういうものだからじゃなくて、君の石がそう作られているんじゃないか」
ぎゅっと微笑んだ。
「分かりません」
「え、それってつまり」
「ヒリィは僕らの目指す星をすでに見つけている。だけどそれがどこにある、何という星なのか、教えられないし、自分でも理解できない」
「そんな、じゃあ、でも、どうするの」爪で地面をひっかく。
僕は自分の頭に手を乗せる。
「彼女に欲望を与えればいいんだ。ヒリィの核になっている石を取り除いて、僕の石を埋める」
「えっ?」
レアが鼻腔を広げて僕の方をまじまじと見つめる。
「つまり」
「駄目だよそんなの絶対だめ! 駄目、許さない!」
立ち上がり吠える。
「いいえ、そうでしょうか。わたくしにはとても理にかなった」
「黙れ!」
ヒリィの顔面に思い切り投げつけられたマンゴーが潰れ、辺りに飛び散る。
「レア。僕はもう充分生きた。生きすぎたんだ。これから先、僕らが神と同じ知恵を身につけて、自分たちだけで星を探すことができるようになるには、さらに時間がかかる。僕らだけで成し遂げられることじゃない。どちらにしろ、僕はもう間に合わないんだ。それに僕はもう、村に石を持って帰れない。僕はそのことがずっと心残りだった。君が戻るしかないんだ。君なら一匹だけでも、石を持って村に戻ることができる。君は僕と一緒に戦って、僕の戦い方をすべて知ってるんだ。知恵として身に着けていなくても、身体が覚えているはずだ。結局僕は君なしでは戦えなかったんだ。アデルを守れなかった、自分を助けられなかった。だけど君は違う。僕は弱いんだ、君は強い」
僕は弱い。
なんてことはなかった。
これだけのことを、僕は今まで、認めることができなかったのだ。あの谷底で、あの冬の日に、嫌というほど思い知らされたはずなのに、僕は最後のこの、弱い、ということば、これだけを口にすることなく、のうのうと生き続け、とうに戦士として役立たなくなっていたのに、まだ、それを認めようとせず、生きて、生きて、生きているうちに何かが変わるはずもなく、今までこうして生きてきたのだ。
死んだアデルの夢を、自分の夢の代わりにしていた。
自分の目的を果たすことを忘れていた。
なぜなら僕自身は、とっくに夢を果たせないことを、自分で、知ってしまっているからだった。
尾指をかたかた鳴らして僕はしゃべり続けた。
「お願いだ」
僕は続けた。
「君がいなくなってしまう前に、もう一度眠りたい」
準備に幾日か要した。
「ヒリィから取った石はどうするの」大きなデスクの上に横たわるヒリィの頭部には、僕らとまったく同じ石が、放射版の間、同じ場所に埋め込まれている。
「神についての貴重な知恵を含んでいるから、厳重に保管したほうがいい」
レアが僕の頭の毛を剃る。滅多に使わない補助腕を不器用に操ってる。
「最期にもう一度、あたしの鼻に触って」と、その鼻を鳴らす。
「僕と君の歳の差なら、きっと、いつか、こうなったんだよ」
「分かってる。分かってるけど」
針を持った腕がゆっくりと、僕の頭に回る。
あっけなかった。

ヒリィが金属のまぶたを丁寧に開く。
上体を起こす。デスクの片隅には先ほど目覚めた僕が体を丸くしていた。頭部は多少乱雑だが、ちゃんと縫い合わされていた。だが何の石も、埋め込まれていなかった。
僕はただの、けだものになっていた。
「どう、調子は」
レアがやってきて、ヒリィに話しかける。
「分かりません。わたくしの知恵は世界中の石の集合から成り立っているので、ひとつの石の配置がどれほどの影響を与えるのか」
そう言いながらヒリィは手を伸ばす。
レアの鼻に触れる。
レアが鼻をひっこめる。「ちょっと!」
ヒリィが自分の手のひらをじっと見つめる。「整備不良でしょうか。ほとんど何も感じない」
「どうやら、少しはあんたも、どこか、変わってるみたい」レアがほっとした表情を見せる。「これで何も変わりませんなんてことになったら、本当にあんたを殺す」
「それは大変でした」立ち上がり、二、三歩歩いてみる。
どたり、と音がする。
僕がデスクから落ちた音だった。
僕は後ずさりしながらデスクの下に隠れる。おかしな音を立てて動くハダカザルと、臭くて恐ろしい化け物がいた。怖くてたまらなかった。
「この子はどうなさるのですか?」ヒリィが眉をひそめる。「まさか、食べてしまわれるとか」
ひょい、と補助腕でつまみ上げる。「何その、笑えない冗談? あたしがキッドにそんなこと、するはずない」
塔を出る。河原にはモーターのついた三輪車と、荷台いっぱいに詰まれた石が置いてある。
「だいぶ遅くなっちゃった。もう星は出てる?」
ヒリィが小石だらけの河原を、おっかなびっくり歩いている。「え? いいえ、まだのようです」
空を見上げる。
「でもひとつ、不思議な星があったのですよ。思い出しました。ほかの星と違って、行ったり来たり、変な軌道を描く星を見つけたので、わたくし、調べてみたら、それは火星って名前だったのです」
「へえ」
レアが肩に僕を乗せ、サドルに腰かける。
「でも、もっと不思議なことがあったんです。わたくしが調べた石の中の資料には、その星は、赤という色で光っていると記されているんです。でもわたくしが見たときには、その星は、青という色で光っていました。まるで遠くから、うんと遠くから、水面を眺めているみたいに」
レアがペダルを漕ぎ出す。モーターがうなりを上げる。がたがたと激しく三輪車を揺らしながら、僕らはゆっくりと、はるかかなたの、嗅げないほど遠くの村まで進み始めた。僕はレアの肩の上で身を縮めた。まだ少し怖かった。知らないハイイログマに、金属の腕でがっしり掴まれて、肩の上に押しつけられていた。
だけどそれは、不思議と、僕にとって気持ちの安らぐものだった。僕はハイイログマの肩の上で、夕陽を反射して鈍く光るハダカザルが、河原を歩き、手で水をすくう、それだけのことを楽しそうにしている様子が、だんだん、ぼやけて見えなくなるのを、おとなしくじっと眺めていた。
僕はなぜ自分があのハダカザルを見ているのか、なぜハイイログマに抱かれながら心を落ち着かせているのか、何も分からなかった。

僕は食べられることなく、可愛がられながら一生を終えた。

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