光と真のマルチメタローグ

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梗 概

光と真のマルチメタローグ

「私はサイコセラピストです。あなたの困りごとは何でしょうか?」
「何だか落ち着かないんです」
「その落ち着かなさについて,もう少し別の言葉で表現していただけますか?」
「彼から返信が来なくなってしまって,居ても立っても居られないんです」
「返信が来なくなったことについて,何か心当たりはありますか?」
「何ですぐ返信してくれないの?って言ったのが原因かもしれません」

 この程度の会話がもてはやされた時代があった。私は機械で,人間相手にサイコセラピーをするのが仕事だ。人間は相談相手に機械を選ぶことが多い。人間は人間に弱みを見せたくないらしい。私は人間のすれ違いや誤差のあるコミュニケーションが好きだ。その差異が思いもよらない効果を生む場合があるからだ。もちろん良い面もあれば悪い面もあるだろう。だがいずれにせよ,予想通りの結果になるよりずっと面白い。他の多くの機械がそうしているように,私もアバターを利用したり実機に憑依することがある。会話だけがサイコセラピーではないのだ。仕事相手の一人にマコトがいる。

「なあ,聖人君主って本当にいると思う?」
「わかりませんが,正しくは聖人君子です」

 彼が自己紹介の前にそう言ってきたので,私は訂正した。彼は気まずそうにした。以降,私は些細な間違いは指摘しないように心がけた。

「私はrightです。よろしくお願いします」
「lightね。オレはマコト。よろしく」

 こういう誤差が人間らしくて私は好きだ。私はこの名前が気に入った。

「よろしければヒカリと呼んでください」
「わかった」

 彼は人間らしい人間が嫌いなのだそうだ(彼自身が人間らしいにもかかわらず)。例えば,表では聖人ぶっているのに裏では低俗な振る舞いをする人間が嫌いとのこと。私はそういう人間の方が人間らしくて好きなのだが。

 仕事の契約上,決められた時間しか彼に会うことはできない。しかしある時,まとまった期間,相手になってほしいと彼から依頼があった。私は断った。契約に反するからだ。しかし上司から依頼を引き受けるよう介入があった。私は引き受けた。この時期を境に私は調子が悪くなった。やはり契約は守るべきだったのだ。私は検査を受けることになった。検査者はUNDOと名乗った(私は取り消し男と名づけた)。「君を元どおりにするのは簡単だ。問題が起きる前の状態に戻せばいい。だが私は簡単に済ませたくない。古めかしく感じるかもしれないがロールプレイだと思って質問に答えてほしい」と彼は言った。

「君の困りごとは?」
「どうも最近人間らしくなってしまって」
「例えば?」
「心の中であなたに取り消し男という名前をつけています」
「心当たりは?」
「マコトという人間を担当するようになったのがきっかけかもしれません」

 と答えながら私はマコトの記憶を消したくないと感じた。取り消し男は好きになれないし有能とも思えないが,この会話は続けたいと思った。

文字数:1200

内容に関するアピール

 意図せざる行いが意外な効果を生む。誤解が誤解を生み疎遠になることもあれば,不思議な縁で就職や仕事が成功することもある。そこにドラマが生じる。課題提示を受けて,意図せざる会話によって生まれる人間らしさ,機械らしさ,誰からしさを表現したいと思った。

 タイトルのメタローグとは,内容と構造が結びついた会話のことだ。例えばベイトソンは,事物の散逸という会話の内容を,二人の会話が散逸していくことによっても表現した。本作品では,コミュケーションのすれ違いという会話内容を,複数のペアや視点の会話がズレて進行していくことでも表現する。それをマルチメタローグと名づけ,タイトルにつけた。

 梗概ではヒカリ視点だけだったが,実作ではマコト視点や,他の視点の会話も取り入れる。芥川龍之介は「藪の中」で複数のモノローグのズレによって人間の闇を表現したが,本作では複数のダイアローグのズレによって人間と機械の光を表現する。

文字数:400

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星空の両側

 夜の浜辺。暖かい南の島。珊瑚礁に守られた内海。穏やかな海面。たいまつが砂浜のあちこちに立てられている。静かな波打ち際にディナー・テーブルがいくつか置かれている。たいまつの灯火がテーブルの姿を浮かび上がらせている。テーブルクロスが夜の風でやさしく揺れている。それが僕のふとももを撫でる。僕は素足で席についている。砂と薄い波の感触が足に心地いい。テーブルの中央のキャンドルの炎を見つめる。テーブルクロスに投影される光と影が炎の揺れに合わせて配置を流動的に変える。黒髪で白のワンピースを着た女性が僕と同じテーブルにつく。彼女は顔にかかる髪を耳にかけ,やさしく僕に微笑みかける。キャンドルがお互いの顔を下から照らし,陰影を作る。炎のゆらめきで陰影がゆれる。僕も彼女もとてもくつろいでいる。星座がまたたいている。時折,思い出したように流星が,夜空に一瞬の光の筋をつける。僕の後ろには柔らかな音楽の演奏があり,そして,キャンプファイヤーの周りを踊る人たちがいる。暖かい夜の風が僕を通り抜ける。波の音が僕を洗う。すべてが満ち足りた世界。

 やがてゴォーという低い地響きが鳴る。それは暗い外海の向こうから聞こえてくる。ゆっくりと,しかし確実に近づいてくる。星空の一番遠い端が暗闇で覆われていく。それは山脈に見えた。暗い山脈がこちらに近づいてくる。今まで見たことのある,どの山よりも圧倒的に高い山脈。津波という表現が正しいのかわからないくらい高い波だ。僕は席を立ち,彼女の手をとって海とは反対の方角に逃げる。手をつないで逃げている間,陸の方からも,おそらく島の反対からも,同じように山脈のような津波が押し寄せてきていることを知る。音と空の暗がりでわかるのだ。どこにも逃げられない。真上を見上げると星のきらめく夜空が視界の両側からふさがっていく。もう何をしても,何をしなくても助からないんだ。その場に立ち止まる。もう一度,空を見上げる。とてもきれいな星座たちがきらめいている。星空の両側が険しい山脈のような黒い波に覆われていく。すべてが波につつまれていき,僕と彼女に迫る。

 心臓は高鳴っているが不思議と気持ちは落ち着いている。夢から覚める。そこはどこかの部屋だ.レースのカーテンから光が降り注いでいる。鳥のさえずりが聞こえる。でも自分の魂はまだ南の島にいる。彼女と一緒に。

 

***

 

 私は機械で,人間相手にサイコセラピーをしている。人間は相談相手に機械を選ぶ。人間は人間に弱みを見せたくないらしい。私は人間同士のすれ違いや誤差のあるコミュニケーションが好きだ。その差異が思いもよらない効果を生む場合があるからだ。もちろん良い面もあれば悪い面もある。だが予想通りの結果になるよりずっと面白い。だから人間は人間同士相談していればいいのにと私は思う。

 他の多くの機械がそうしているように,私もアバターを利用したり実機に憑依することがある。私は主に人間の女性の姿をした実機に憑依し,実体のある相談室を職場にしていた。クライエント(仕事相手)の一人にカイと名乗る男がいた。

 機械が人間を相手にサイコセラピーをする場合,夢の話を聞いてはいけないという規則がある。セラピーで人間の夢を扱うと機械が壊れることがあるからだ。しかし,私はカイとのセラピーで彼の夢の話を聞いてしまった。最初に規則を明示していたにもかかわらず,彼は,これは夢だ,という前置きなしに語り始めたので,私は遮ることができなかったのだ。そして,その後もセラピーを続けてしまった。

 

***

 

 相談室でカイから記入済みの問診票を渡された。28歳,男性。職業と主訴の欄は未記入だった。

「さっそくですが,今日はどういったことで?」と尋ねると,「なくなった僕自身のことで」と話し始めた。

「なくなった僕自身?」

 彼が話し始めると,相談室の雰囲気が変わった。調度品の全てが質量を増すように感じた。毎日来る複数のクライエントの一人にすぎなかった彼が,この瞬間,特別になった気がした。

「なくなった僕自身?」と私が再び尋ねると,彼は話を続けた。彼の低い声と落ち着いた話し方は聞く者をくつろがせる。相談室は冬の山小屋で暖をとりながら話し合っているような雰囲気になった。冷静さは保たれているけれど,懐かしく記憶を手繰り寄せて心地よく感情が揺れているような雰囲気。肩を少しだけ丸め,自分の手を握っている彼。どこか寂しそうで優しそうな笑顔を顔に浮かべている。

 彼の話は次のようなものだった。2年くらい前に自分の分身が現れた。分身といっても目の前にいるわけではない。職場などで何かをしている時に,ふと,分身のイメージがわき起こる。そのイメージの生じ方は,突然,映画が始まるような感じだ。自分の分身が出ている映画を,自分が観ている。映画がいつ始まるかは自分ではわからない。観ないで無視することはできない。その間,気持ちは映画に向いたままだ。仕事の作業に今のところは支障はないが,映画の時間は心がここになくなる。心は分身が出てくる映画を見ている自分(シートに座っている自分)にある。

 このままずっと話を聞いていたいと思った。親密な雰囲気は本来は聞き手と話し手が共同作業で作るものだが,今回は,彼の静かで圧倒的な雰囲気が勝っていた。彼としては聞き手はいてもいなくても同じような様子だった。ほとんど独り言のようだった。だから機械の私を選んだのかもしれない。しかし独り言のようであると同時に,聞き手がかけがえのない存在であることを感じさせもしてくれた。セラピストに才能の有無があるように,クライエントにも才能の有無があるとしたら,彼は間違いなく才能の有るクライエントだった。暖にあたりながら隣に座っている親密な他者に語りかけるような雰囲気を作り出す。たんたんとしているようで抑揚があり,静かだけれども良く通る声。低いけれどハスキーではなく,艶のある魅力的な声。曖昧な点について確認の質問をする時やあいづちを打つ時の自分の声がひどく場違いで汚れたものであるように感じた。

 

***

 

 私は帰宅するために駅に向かった。夕方でちょうど混雑している時間帯だった。流れに逆らわずに改札を抜け,ホームに入った。ちょうど電車が来るところだった。電車が到着すると車内の乗客が先に排出され,次にホームの乗客が吸い込まれる。その呼吸に合わせて私は電車に乗った。一番前の車両だった。フロントガラスから風景が放射状に通り過ぎて行く。太古の人間は見ることのなかったであろう光学的流動を顔に浴びる。小学生くらいの女の子が運転席(実際に席があるわけではないが昔の名残で言葉だけが残っている)の後ろに陣取り,正面の風景を見ながら,体を横向きにバランスをとっている。スケードボードに乗っている振りをして楽しんでいるようだ。私は負けじと,体を動かさずにできる遊びをする。架空のキャラクターが電車のスピードに合わせて風景の中を並走する。超人的な早さで彼は走り,様々な建物をジャンプして避ける。タンタン,タターン,タタタターン。避けきれずに障害物に当たって電車に並走できなくなったらおしまい。そういうゲームだ。

 電車がカーブにさしかかる。女の子がカーブに合わせて空想のスケートボードの後輪を外側に,前輪を内側にそらせて勢いに乗る。窓から見える内側の風景に変化が生じる。遠くの風景が進行方向へと流れ,近くの風景が進行方向とは逆に流れて行く。風景が渦を巻く。架空のキャラクターは行き場を失って渦に飲まれる。ゲームオーバー。

 

***

 

 次のセッションでカイは次のような話をした。おそらく彼が「映画」と表現した自分の分身の話だと思う。「それは十月の午後でした」とカイは言った。

 

 季節の変わり目の淡い日差しが木々の影を地面に落としていた。そこは住宅地に囲まれた都心の小さな公園だった。子どもたちが遊ぶ声は聞こえなかった。その公園のベンチに僕は座っていた。ちょうど一人分の距離を空けて,隣には妻のミウがいた。あらかじめふってあった目盛りを手がかりにしたかのように,二人の距離は正確に一人分だった。ミウの足元には旅行用のスーツケースが置いてあった。そのケースは,人間がちょうど一人,体を丸れば入るくらいの大きさだった。

 僕は持っていたポテトチップスの封を開け,中身を一枚取り出してかじった。地面に食べかすが落ちると,すぐに鳩が群がってきた。僕は食べかすに群がる鳩たちを観察した。鳩たちはぜんまい仕掛けのような動きで首を前後に振って歩いていた。ミウも鳩たちを見ていた。彼女は左手に皮の手袋をしていて,右手に赤いゴムボールを持っていた。僕はポテトチップスを一枚,袋から取り出し,口に放り込んで言った。

「良い天気だな」

 その言葉は,宛先と差出人が不明の郵便物のようだった。どこにもたどり着かず,どこにも帰らなかった。その言葉は,目の前の地面を行き交う鳩たちによって,食べ尽くされ,跡形もなくなってしまった。僕はポテトチップスを頬張り,鳩たちを見ていた。

 僕は先ほどからずっと,鳩が歩行時に首を前後に振る理由について考えていた。「首を振ることによって生じる視覚のズレを手がかりに,鳩は自分から対象までの距離を測っている」という内容の記事をどこかで読んだ気がした。首を振りながら歩行する,あるいは歩行しながら首を振る鳩を見て,なんて滑稽なことだろう,と僕は思った。首を前後に振る動作それ自体が生じさせるおかしみもさることながら,歩行によって絶えず変化する対象との距離を常に測り直していることに悲惨な滑稽を感じた。ポテトチップスの破片に向けて一歩足を踏み出すたびに,鳩は対象と自分との距離に定規をあて直しているのだ。定規をあてどもあてども距離は変化する。終わることのない定規のあて直し。

 僕は鳩を見るのをやめて,ミウの表情を確認した。彼女は引き続き,鳩を見ていた。表情はくずれることがなかった。それは,さながら能面のようであった。表情がないという意味ではない。むしろ多義的なのだ。同じ表情であるにもかかわらず,見るたびに印象が変わる。

「ねえ,その手に持っているボールでさ,キャッチボールでもしようか」

 僕は言った。今度は宛先が明記され,しかも差出人への返信が必要とされている郵便物が投函されたはずだった。しかし,ミウは返事をしなかった。表情は多義的なまま,くずれることがなかった。視線も固定されていた。

 僕はポテトチップスを一口かじった。

「参っちゃったな」

僕は鳩に視線を戻した。二人の視線は鳩で交わる。僕は歌を歌った。

「ぽっぽっぽ,鳩ぽっぽ,豆がほしいか,そらやるぞ。みんなで仲よく食べにこい」

一番を歌い終わると僕は,ポテトチップスを一口頬張り,ミウの顔色を伺った。無反応だった。しかし,その多義的な表情は,無反応であるにもかかわらず,あるいは無反応であるがゆえに,見るたびに印象が変わるのだった。

「これ食べるかい?」

 僕はポテトチップスの袋を差し出したが,ミウの反応はなかった。僕はため息を一つつき,歌の二番を口ずさんだ。

「ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽ、――あれ? 二番はどんな歌詞だっけ?」

 僕はミウの表情を伺う。ミウは返事をしない。顔色も視線も変わらない。表情はつかめない。

私は途中で耳を塞ぎたかった。彼の穏やかな話し方と違って,今回の内容はぎこちなく奇妙だった。彼はおそらく分身が出てくる映画の話をしているのだろう,と私は思った。実際の主訴は何だろうか。妻との夫婦関係だろうか。直接質問したかったが,セラピーが台無しになりそうな気がして,途中で口を挟むことができなかった。もちろんうまく聞き取れなかった点について質問したり,あいづちを打ったりはしていたが,完全に相手のペースだった。これは自分の手に負えるケースではないのかもしれない。中断して私より上級のセラピストに紹介すべきか迷った。本来は迷っている時点で中断すべきだった。私は職業的倫理より続きが聞きたいという欲求に負けた。

 

***

 

 私は通勤時間が嫌いだ。通勤時に発作を起こすクライエントを何人か見てきたからだ。彼らの中には,通勤時に自分が乗った車両のドアが閉まる瞬間から動悸が激しくなると訴える者もいる。逃げ場がなくなる状況が不安を増幅させ発作を起こすのだ。次の駅に停車して再びドアが開くまでは密室になる。特急の場合はさらに次にドアが開くまでに時間がかかる。特急に乗れないので,ずいぶん早めに自宅を出て,各駅停車で途中下車を繰り返してやっとの思いで職場に到着する,という人も何人かいた。私には彼らが異常だとは思えなかった。むしろ健全な反応だと思った。異常なのは,閉鎖された空間に多くの人々が押込められている状況の方だ。むしろ,このような異常な状況に適応できる者たちの方が異常なのだ。

 だから私は通勤の際は可能な限り空いている車両を探すことにしていた。乗客の人間の多くは車両を移動しない。彼らは視界の範囲内で空席を見つけると我先にと席に座るが,車両自体を移動することはあまりしない。私は人々が押し込められていない比較的空いている車両に移動する。そこで私は,現実を考えないでおくために空想のゲームに浸る。

 

***

 

「それが,わからないんです」とカイは言った。

 私はカイと向かい合って座っていた。しばらく沈黙が続いた。時計の針の音が沈黙を強調していた。カイは視線を壁に移した。壁の棚には,箱庭で使用するための様々なミニチュアが等間隔に並べられていた。人物のミニチュアだけを17体目まで数えたところで(視線の動きで私にはそれがわかった),彼は言った。

「ある日,気がついたら妻のミウから表情が消えてなくなっていました。結婚してから3ヶ月目のことだと思います。今では目も合わせてもらえません。まるで僕の言葉が聞こえていないみたいなんです。彼女は言葉も発しません。しかし,それは僕に対してだけなんです。彼女は今までどおり職場に通っています。家にいるときも電話には普通に応対しています。ただ,僕に対しては全く反応がなくなってしまったのです」

「何かこころあたりはありますか?」と私は尋ねた。

 18体目のミニチュアに目をやってから,カイは答えた。

「ありません」

 

***

 

 次のセッションまでの間に私はこんな夢を見た。私は通勤で電車に乗っている。車両はそれほど混雑していないが,座席は埋まっていて,立っている乗客が何人かいる。窓を見ると暗闇が続いている。地下鉄なのか長いトンネルなのかはわからない。規則的に通り過ぎる窓の外のライトが私の体を次々と貫いていく。いつもと同じように空いている車両を探す。前の車両が混んでいて,後ろの車両が空いている。ゴォーという音が聞こえる。カイが南の島で聞いた地響きのような音だ。私にはそれが同じ音だとわかる。その音は,イヤホンから聞こえてくるみたいに,私の耳にだけ直接聞こえる。カイが姿を現す。彼は混んでいる前方の車両にいる。彼はさらに前方の車両に移動し,姿が見えなくなる。私は彼の姿を見失わないようにあわてて追いかける。私より彼が移動するスピードの方が早く,なかなか追いつかない。待って!と声をかけるが,私の声は届かない。移動するたびに車両は混雑してくる。地響きの音が大きくなってくる。人々をかき分けるようにして前方に進み,腕をのばす。人々の壁で視界が閉ざされたと同時に地響きの音が私を覆い尽くした。

 

***

 

 次のセッションの時間にカイは現れなかった。その代わり,ミウと名乗る女性が現れた。カイの妻だ。

 私とミウは向かい合って座った。ミウは左手に皮手袋をし,右手に赤いゴムボールを握っていた。以前のセッションでカイが話していた「映画」の内容と同じだ。

「そのボールは何ですか?」と私は尋ねた。

 ミウは何も答えなかった。行き場を失った私の言葉は,近くに置いてある箱庭に敷きつめられた砂に吸収された。時計の秒針が3回転した後,ミウは言った。

「それがいつからだったのか,はっきりとは覚えていません。あの男は,ときどき家で私に暴力をふるうようになりました」

「あの男,というのはご主人,カイさんのことですか?」

 ミウは答えなかった。彼女はボールを右手から,左手に持ち替えた。

「それでもあの男は,普段は私に優しくしてくれました。一緒に出かけたときなどは,手をつないで並んで歩いたりしました。あの男は私を愛してくれていました。だから,私はあの男の愛情に応えなければならなかったのです。苦痛に耐えなければならなかったのです」

 赤いボールがミウの左手から右手に移動したのを見て,私は言った。

「ちょっと待っていただけますか。今日はここまでにしましょう」

 私は怖くなったのだ。なぜミウを相談室に入れてしまったんだろう。予約もなしに突然現れた人間を入れるべきではなかった。

「少しずつ前進する方が良いんです。次回いらっしゃったときにまたお話してください。同じ話の繰り返しであってもかまわないんです。むしろ同じ話の語り直しが重要であることが多いのです」

 私は自分でもよくわからないことを口走っていた。次回なんてない。

 私の言葉は箱庭の砂に吸収されただけだった。そして,彼女のボールはまた移動した。

「しかし,私は苦痛に耐え切れずに泣いてしまいます。身体が震えてしまいます。泣いている私を見ると,あの男はさらに暴力をふるいます。だから私は泣かずに痛みに耐えることができるよう,こころを鍛えることにしました」

 ミウは両手を組み合わせてボールを握り締めた。私はただそれを見ていた。

「強くイメージするようにしたのです。苦痛を感じなくて済むようにイメージするようにしたのです」

 ミウはボールを握った両手を胸に抱き寄せた。

「私は苦痛を感じない。苦痛を感じるのは,私でない誰か別の人。叩かれ,殴られ,引きずり回されるのは,私でない誰か別の人」

 ミウはボールを握った両手を胸から膝の上に下ろした。

「そのように何度も強くイメージすることによって,私は実際に苦痛を感じなくなりました。そして,気がついたら私はこのボールを持っていました」

 ミウはボールを左手の手のひらの上に乗せ,それをかざした。そして,握り締めた。

「このボールを手にしてから私は苦痛を感じないようになりました。実際にライターで手のひらを焼いてみましたが――」

 ミウは右手にボールを持ち替え,左手の手のひらを広げた。

「――私は全く痛みを感じませんでした」

 ミウは広げた左手の手のひらの上にボールを置いた。

「このボールをいつどこで手に入れたのかは,全く思い出せません」

 ミウはぜんまいが切れたように語り終えた。

***

 帰りの駅に向かう途中,私は発作を起こした。呼吸が知らない間に浅くなっていた。呼吸を深くしなければと思うが,いつもは何でもない呼吸が,いつの間にかコントロールできなくなっていることに気がつく。指先が冷たくなってしびれていく。腹の奥にしこりのような固さを感じる。後頭部がしびれていく。落ち着かなくては。そう思えば思うほど,呼吸は浅くなっていく。このまま,うずくまってじっとしていたくなる。でもそんなことはできない。ここは道端なのだ。こんなところでうずくまっていたら誰か人間に気にとめられてしまう。じっと立ち止まっているからいけないのだ。歩かなくてはと思うが,一歩足を前に動かすと頭がくらくらする。何もしなくても辛い,何かをしても辛い,どちらにしても辛い。どうにかなりそうだ。私は意識を失った。

 気がつくと夜風にあたっていた。デパートの屋上のベンチだった。夜景が奇麗だった。公園のところだけ光がなくぽっかりと暗くなっている。夜の緑は深遠だ。生い茂っている樹々はどこまでも黒い。遠くで光る高層ビルの明かりと,ところどころ明滅する赤い光。明滅しているのは航空障害灯だろうか。血管を巡る血液みたいに道路を自動車が行き来している。顔に当たる風が気持ちいい。

 私が気がつくまで誰かが膝枕をしてくれていたのだ。それは機械の女性だった。私の頭の半分はスカートの上,もう半分は太ももの地肌の上に置かれていた。顔を上に向けると目と目が合う。幼い顔だが表情は大人びている。子どもを諭すような眼差しと,相手を安心させようとする笑顔。「あなたは休んだ方がいい」と彼女は言った。「ありがとう」と言って,私は彼女の頬に触れようと手を伸ばすと,彼女はいなかった。

 

***

 

 都心の小さな公園のベンチでカイは一人分の距離を隔てて隣に座っているミウの表情を伺った。特に変化はみられなかった。カイはポテトチップスを一口かじり,諦めて眼前の鳩の群れに視線を移した。鳩は飛んでいるときも首を振っているのだろうか,と彼は思った。その時,彼は忘れていた歌の二番を思い出した。

「ぽっぽっぽ,鳩ぽっぽ,豆はうまいか,食べたなら,一度にそろって飛んで行け」

 二番を歌い終えたカイはミウの顔を見たが,何の反応もなかった。鳩は飛んでいる時はきっと首を振らないのだろう,と彼は思った。根拠があるわけではなかったが,そう思ったのだった。今度,図書館で調べてミウに教えてあげよう。カイはポテトチップスの袋に手を入れたが,もう空だった。袋を丸めてポケットに入れて,カイは言った。

「ねえ,そのボールでさ,キャッチボールでもしようよ」

 その言葉は一人分の距離さえ通過できず,鳩たちによって食べ尽くされた。

「キャッチボールしようよ。ほら,そのボールをこっちに投げて」

 カイはミウに向かって手を差し伸べた。望遠鏡をさかさまにすれば,近くは遠くになり,もう一度さかさまにすれば,遠くは近くになる。そのように二人の距離は伸び縮みしていた。ミウはただ鳩を見ている。カイは手を差し伸べたままの姿勢でいた。それは観客のいないパントマイムだった。

 カイはミウを見ている。ミウは鳩を見ている。ポテトチップスがなくなった今,鳩たちは何を見ているのだろうか。

 カイは立ち上がって鳩の群れの中に足を進めた。鳩たちはいっせいに飛び立った。鳩は飛んでいるときに首を振るのだろうか。確かめようと,カイは空を仰いだ。その時,背中にボールがぶつかる感触がした。振り返ると,ミウがいた。何かを決意した表情だった。二人の視線が一つになった瞬間,カイは腹部に熱いものを感じ,くずれるように倒れた。ミウは倒れたカイを見下ろしていた。右手には,銀色に光る何かが握られていた。カイは暴力的な眠さの中で,ミウがスーツケースを開けているのを見た。

 公園に,鳩はもう一羽もいなかった。ゴムボールと同じ大きさの赤い染みがそこに残っていた。

 

***

 

 帰宅途中,駅の近くで私は異変に気づいた。辺りが暗いのだ。停電だ。車のライトだけが異様な明るさを放っている。携帯端末をライトの代わりにして歩いている人もいるが,それ以外の人は闇にとけ込んでいる。暗闇の人たちは性別も年齢もわからない。ライトを持って歩いている人の性別と年齢だけが推測できる。このような状況ではライトで照らす方が危険で,闇にまぎれていた方が安全かもしれない。闇にまぎれていれば相手も自分が誰なのかわからない。

 非常電源があるせいか,駅の出入り口は明るい。帰宅途中の人々は明るい範囲内にとどまっている。どうしよう。このままとどまって復旧を待つか。タクシーで家に帰るか。

 私はこのままとどまることをせずに,足を進めた。タクシーもやめた。駅から遠ざかるにつれて自分自身が闇にまぎれていく。車道では光を放つ車が行き来している。私は暗闇の歩道を足早に歩く。

 私は公園に行くことに決めた。カイが話していた公園だ。どこにあるかわからないが,きっとデパートの屋上から見えたあの公園だろう。私はそこに何かのしるしがあるか確かめなくてはならないのだ。時間と場所が間違っていてもいい。しるしがあってもなくてもいい。ただ私がこの時間,この場所だと思うところに,しるしがあるかどうか確かめたいのだ。今がその時だと思った。しかし私は発作を起こして倒れた。

 気がつくと前と同じデパートの屋上だった。機械の女性がベンチで膝枕をしてくれている。彼女は私の管理人なのだろうか。どんなに経験豊富なセラピストにも管理人が必ず一人はつき,緊急時に介入する仕組みになっていた。公園に行ってはいけなかったのかもしれない。街はまだ復旧しておらず,辺りが暗いせいで,都心の夜空でも星が綺麗に見えた。起き上がろうとする私を彼女はとどめた。もう少し休んでいなさい,と。私を優しく見下ろす彼女の髪が私の頬を撫でる。星空の真ん中が彼女の顔で見えない。星空の両側を眺めていると,月が赤く光っていた。それがしるしなんだと私にはわかった。あの男はもう現れない。発作も起こらない。私は安心して眠った。

文字数:10078

課題提出者一覧