ファーストブレイク

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梗 概

ファーストブレイク

ロムは空想の世界よりも外へ出かけるのが好きだった。

両親に外では脱ぐなと固く禁じられた超硬質ガラス製のナビゲータを被り、ロムはひさしぶりの街へ出る。はたから見ると7才の少女の頭部が銀色の球にすり替わったような印象を与えるが、街の子供たちはみんなこうして外出する。

街には危険がいっぱいで、子供には触れさせたくないものがたくさんある。昔は目に見えなかった外気中の塵埃やカビの量も可視化されており、高い空気清浄度を保つ各家庭の窓画面から毎日確認された。ナビゲータは有害な対象を識別し、子供にもわかりやすいARビジョンで周囲に出現する危険物の存在を警告する。鋭い牙をもつ小型の魔物も、じつは感染症の疑いがある野良猫だったりする。

街の外れまで歩くロムにナビゲータが話しかける。あまり遠くへ行くと帰りが遅くなるので、そろそろ引き返すよう注意勧告をする。ロムはナビと話せるのが外出時の楽しみだったが、この日は自分が子供扱いされているようで嫌気が差した。

自分がついているかぎり、君はまだ子供なのだというナビの声を遮るように、ロムは自宅の近所では見かけない有刺鉄線のフェンスを見つけて近寄っていく。

鉄線の奥の広場では、いかにも恐ろしい5人の宇宙怪人たちが奇声を発していた。そのうちのひとりがロムに接近する。ナビが慌てて危険を警告するが、ロムは逃げようとしない。

ロムは自分が危険物に声をかけるなんて想像したこともなかった。恐怖と好奇心に揺られながらはじめて挨拶をしてみる。

彼らはロムを遊び場に迎え入れた。身寄りをなくし、住民から登録を抹消された子供たちにとって、最先端の児童教育を施された住宅街の子供の声を聞いたのははじめてだった。

ロムは両親に内緒で何度もその公園に通い、彼らの生活を知る。ナビは何度も止めたが、ロムはその都度ナビの無理解を責めた。

ある日、事実を知った両親とロムは口論になる。反対を押し切って公園へむかうと、宇宙怪人のひとりがみんなに囲まれて倒れていた。フェンスをよじ登ろうとして頭から落ちたらしい。ナビがロムに病院の場所を伝える。病院を知らない彼らに説明している時間はない。

走るロムを宇宙怪人たちが追いかける。はたから見ると少女が必死で逃げているようで、すぐに近隣住民から通報が入った。

病院に到着しても扉は開かない。いくら交渉しても宇宙怪人は患者にはなれなかった。頭部を損傷した宇宙怪人はまもなく背負われながら息絶えた。彼はロムにはじめて話しかけた危険物だった。

ロムは銀色の球にかけられたロックを、ナビに解除するよう頼む。ナビはロムの意思を汲み取ってそれに応じる。もう子供じゃないから心配するなと別れを告げる。

不純物だらけの外気が体内に流れ込み、はじめて宇宙怪人たちの素顔を見た。

ロムはナビゲータの縁を手で握り、渾身の力で病院のガラス戸に投げつける。割れた破片で彼女の頬が切れ、はじめて血が流れた。

文字数:1197

内容に関するアピール

物語上重要な会話は、主に以下の場面で展開する予定です。
主人公が宇宙怪人と遭遇し、死の危険すら感じながらファーストコンタクトを試みる場面、
両親に咎められた主人公が、いかに彼らの行動が人間に似ているかを語る場面、
病院に門前払いされた彼らが人間であることを、自分の目で見て確かめたいとナビゲータを説得する場面。

主人公側の視点に偏らないよう、宇宙怪人側から見た主人公や、街の様子も工夫して描きたいと思います。

文字数:200

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揺りかごの外から

拳大の鉛球が内臓を押しのけてうごめくような下腹部の鈍痛とともに、隼人は目を覚ました。球面の壁に表示された時刻を見ると深夜3時24分。また中途半端な時間に起きてしまった。骨ばった腰のあたりを手でさすりながら、隼人は自身の老いた手足が入院前に比べて格段に痩せ細っているのをあらためて実感した。いまさら脂肪や贅肉に対する喪失感などはないものの、いまだはっきりと告げられていない自身の病名と、その進行度合への不安が遠くのほうに漠然とあり、近くには劇的に軽量化した全身の違和感と、この安眠を妨げる不穏な痛みがあった。

隼人はプラネタリウムのようなドーム型をした特別個室の天井を見つめ、かすかに廊下のほうから聞こえてくる物音にしばらく耳を澄ませたあと、思い切ってナースコールを押した。若く丸みを帯びた看護師の上半身が、ちょうど顔の向かいにある天井に映し出された。

「牧田さん、どうしました?」看護師の宮地は映像がつながるのにすこし遅れてこちらに目線を合わせ、間延びした声で話しかけてきた。昼間に遭遇するときと変わらない事務的な口調が、隼人にナースコールを押したことをいささか後悔させた。

現在の隼人の状態を宮地はすでに把握しきっている。そのことは隼人自身もこれまでの入院生活からなんとなく察していた。彼の枕元に埋め込まれた機器は患者の脈拍だけでなく、いま感じている痛みから痒みまでを細かく数値化し、定期的にナースステーションまで新鮮な情報を届けている。隼人は宮地の質問に意味のないことを感じると、自分がナースコールを押したのもまたさほど意味のないことのように思えてしかたなかった。

「あの、痛いです」隼人はこけた頬を震わせながら、寝起きの呂律がまわらない口調で静かに言った。

「だいじょうぶ? 眠れそうかな?」

「ああ、はい」隼人は自分の身体に尋ねる間もなく返事をしたが、宮地に対する申し訳なさから目線を逸らしていた。わざわざ看護師を呼び出したのだから、もうすこし激しめの苦痛に悶えるふりでもすればいいのに、そんな嘘はたやすく見破られるとわかってしまっている自分に嫌気が差した。

「明日からは楽になるからね。おやすみなさい」

隼人が挨拶を返しかけたところで宮地の姿は消え、天井は元の白い球面に戻った。

明日から楽になるとは、いったいどういうことだろう? と隼人は思った。鎮痛剤として医療用麻薬か何かを投与されていることは明らかだが、いまの言葉はどことなくそれまでとは違う何かを指すようでもある。安らかな眠りにつくイメージから、隼人は自らの死を連想した。まさか病院側の陰謀によって殺されはしないだろうかと、ふつうに考えればありえない可能性も、この日は頭が勝手に実現しそうな場面を想像しはじめた。

 

翌日の晩、娘の紫衣が夫とともに病院を訪れた。紫衣たちはやや重い足どりで隼人の担当医が待つ部屋のドアの前に立つと、予想外に明るい声色の返事をもって中に通された。

「どうぞ、座ってください」担当医の神宮は机に向かって今朝方運んできた荷物を開けながら、いつものように夫妻を部屋の中央にある背の低いテーブルを囲むソファに誘導した。彼は箱から中身を取り出してテーブルに置くと、自身もソファに腰かけてから正面を見て言った。「先月お伝えしたとおり、年内が山場でしょう」

紫衣が口を開くよりもわずかに早く、夫の利啓が尋ねた。「それは……何ですか?」

「ヒプノスです」神宮はテーブルに置いた白い双眼鏡のような装置を手に取って言った。「隼人さんは最近、また夜間に鈍痛を訴えてはじめています。新たに鎮痛剤を投与してもいいのですが、手軽により充実した生活を送っていただくにはこの方法がいいでしょう」

利啓はその名を聞いて、この最先端の医療機器に関する記事を数年前にニュースサイトで見かけたことを思い出したが、詳細は覚えていなかった。かろうじて思い出せるのは、すくなくともこれが患者に催眠を施す装置だということだ。

紫衣が尋ねる。「これを使うと、薬がなくても痛みが消えるんですか?」

「従来の緩和ケアとは根本的に違います。ヒプノスは患者さんの自己催眠を補助するための医療器具なので」神宮はヒプノスを利啓に手渡して言った。「身体の倦怠感や痛みが軽減するだけでなく、精神的にも質の高い安定をもたらすでしょう」

「父が自分で、自分に催眠をかけるということですか?」紫衣が訊いた。

「そういうことです」神宮は医師としての自分がなせる最大限の誠意を眼差しに込めて紫衣の目を見た。「このヒプノスは隼人さんの意識に合わせて調整を施すので、無理なく催眠に入ることができます。ご高齢なので社会志向度数は平均よりもやや低めかと思いますが、ヒプノスならまったく問題ありません」

紫衣は自分の父が催眠術にかかる様子を想像した。毎日のように病院まで足を運んだ疲れのせいか、あまり現実感がなかったが、深く息を吸って必死に頭をはたらかせ、はじめて聞く言葉の説明を求めるように繰り返した。「社会志向度数……?」

「ある価値観に基づく利害計算によって行動を決定する傾向の度合いです。人間は日常生活の内部にいるとき、与えられた価値観をもとに行動の結果を利益か損害のいずれかにふり分けて予測し、つねに他と比較してより高い利益を追求します。この行動原理の適用される範囲が、その人にとっての日常生活を規定しているわけです。社会志向度数はその範囲の広さを示す指標でもあります」

「つまり、その数値が高いほど催眠にはかかりにくい?」と利啓。

「いいえ、逆です。たしかに催眠術といえば味覚が変わったり動物に変身したりと、一般的にはどこか非日常的な営みのように思われているでしょう。ですが、まさにそうした通俗的なイメージこそが催眠自体を神秘化することにより、法外な精神的利益をもたらす幻想体験を自らつくりあげているのです」神宮としては事前に十分な理解を得ておきたかったので、なるべく言葉を重ねるようにして説明した。「もちろん催眠術に懐疑的な人はたくさんいます。しかし、そもそも人が何かを疑うのはそこに根拠がないからです。裏を返せば、あるべき根拠として別の価値を信じているということです。ならばその人がより強く信じている価値に基づいてイメージを構成してあげればいい。いずれにせよ、何らかの価値観に基づく社会志向度数が高く、日常生活に深く適合している人ほど、催眠状態に近いと言われています」

彼はあらかじめ用意しておいた資料を夫妻に見えるようテーブルに置いた。「ヒプノスは2077年に厚生労働省薬事・食品衛生審議会で国内の製造販売が承認され、先進医療としてすでに数多くの医療機関で成果を上げています。ご安心ください。けっして洗脳を施すわけではありません」

「洗脳とはどう違うのでしょう?」利啓が訊いた。

「導入用のシナリオ、つまり体験される内容は、隼人さんご自身の脳波から作成したプロファイルに基づいて自動的に構成されます。嗜好の属性、催眠に対する価値判断、断片的な過去の記憶などですね。とはいえ、これは傾向を分類しただけの抽象的なデータにすぎないので、あとはご本人の想像次第ということになります。ヒプノスはあくまで、患者さんが自ら幻想をつくりだすのをサポートし、病室を離れてより充実した余生を過ごしていただくための補助器具というわけです」

しばらく間を置き、説明を聞いて疲弊した様子の紫衣が小声で呟いた。「それで父が苦痛から解放されるなら……」

利啓は何か言おうと思ったが、うまい言葉が見つからなかった。彼はこの場における自分の役割を見失いかけていた。大昔であれば疑似科学として見向きもされないような、この最先端医療器具とやらを義父に使用させるか否か、どう考えてもこの場合、最終的な決定権は妻のほうにあった。テーブルに出された同意書をぼんやりと眺めながら、おそらくは年内に最期の別れを控えた父娘の関係に、自分がむやみに介入することに強い抵抗感を覚えた。ただ傍観者として近くにいることだけが、自分のなせる最大限の誠意のように思われた。

 

張りのあるバレーボールの内側に閉じ込められたような真っ白の空間。その中央にひとつだけ置かれたベッドの上で、隼人が仰向けに横たわっている。紫衣にはこの珍妙な光景に対する新鮮さもすでに失われて久しかった。「どう?」といつもどおりに素っ気ない言葉をかけると、隼人がかすかに漏らした掠れ声と表情の変化で応じたが、そこから会話に発展することはなかった。

紫衣と利啓に続いて神宮が病室に入ってくる。トレイに乗せたヒプノスはその使用が決まってから30分ほどで隼人専用の装置に調整されていた。

紫衣は連日繰り返す面会によって、すでに父親へかける言葉もなくなりかけていた。沈黙と手持ち無沙汰を避けるために、職場での些細な出来事を語り聞かせたところで、病床の患者とは何の関係もない事実報告にしかならなかった。天井を見つめるばかりの父親に向けた長い独白。知らない登場人物ばかりの退屈な話を延々と聞かされた患者が、いったい何の利を得るというのだろう。紫衣は毎夜の帰り道で自分を責めるように問いかけていた。

「牧田さん、誕生日プレゼントを持ってきましたよ」神宮が紫衣と利啓の前に進み出て言った。「まだ3日早いですが、ぜひお受け取りください」

隼人は一瞬、神宮の言葉をうまく呑み込めなかったが、壁面の時刻の上に表示されていた日付を2週間ぶりに直視し、すぐに自分の誕生日が迫っていることに気づく。90歳。自分でも想定外の長寿となった。

隼人は2001年の11月に東京で生まれた。世紀明けの変化に富む世の中の空気を肌で感じながら幼少期を過ごしてきた。カメラを搭載した携帯電話やインターネットが人々の生活に浸透しはじめ、花や目や涙や地球について歌う英語まじりのポップソングが世間を賑わせていた。当時の実家にはまだ家庭用テレビがあり、外国のビルに衝突する飛行機の映像を幼い隼人の目に何度も焼きつけた。そんな21世紀の幕開けとともに生まれ、現在は生まれてはじめての世紀末を病院のベッドで迎えている。

隼人は口を開けたままヒプノスを横目で見た。「先生、それは……?」

「苦痛を軽減する装置です」神宮がヒプノスを隼人に手渡しながら言った。「これで今夜は楽に眠れるでしょう」

隼人はその得体のしれない物体を指先で撫でながら全体の形を確かめた。見た目以上に重さが感じられないが、どう見てもただの双眼鏡にしか見えなかった。

「ここから景色を覗くことで、牧田さんの見たいものだけが見えるようになり、身体の感覚を意識から除外してくれます。これは正真正銘の医療用器具ですから、どれだけ覗いていても問題ありません。痛みや不安に耐えかねたときに使ってみてください」

神宮が隼人に電源の場所や詳しい操作方法を説明していく。90歳間近の老人とはいえ、幼い頃から電波や回線の起こす多彩な現象によって日常生活を枠づけられてきた世代である。記憶力こそ落ちているものの、理解するのは容易だった。

利啓はその様子を見ながら、神宮が「催眠」という言葉を一度も口にしていないことに気づいていた。患者本人の強く信じるものを目の前に実現させる自己催眠装置。おそらく作成したプロファイルからは催眠の効果を強く信じる傾向は見られなかったのだろう。ならば、義父はいったい何の価値観によって催眠の恩恵を受けることができるのか。利啓はもしも自分の場合だったらどうなるだろうと想像しながら横目で紫衣の顔を見た。

隼人の見たいもの、隼人が強く信じている価値とは何なのか。そのことについてぼんやりと考えていたのは紫衣も同じだった。とくに見舞いにくる友人がいるわけでもない。視力も低下し、指先も器用に使うことはできない。この先、退屈な入院生活に縛られて旅立つくらいならいっそ催眠でも何でもかかって楽しい時間を過ごしてくれればそれでいい。紫衣はこれまでに重ねた面会の時間をふりかえって強くそう思った。

9年前に妻の美玲が突然の脳梗塞で亡くなってから、隼人は独りで神奈川にある紫衣の実家に暮らしていた。以前のように山登りに出かけることもなくなり、ヒビ割れた骨董品のようなタブレットに長年インストールしていたゲームアプリも開かなくなった。高齢者向けの生活サポートサービスや自動家電の充実した現在では、独居老人が生きていくのに人の手を借りる必要もなく、紫衣には父親のもとを訪ねる理由がずっと見つからないままでいた。

ある日、隼人は数週間前から続く便秘と食欲不振がいよいよ心配になり、躊躇しながらもひさしぶりに紫衣に電話をかけた。紫衣は夕方になってから実家に帰り、居間のソファに横たわる父親の姿を見てすぐに救急隊を呼んだ。病院で余命を知らされたのは、その日の夜のことだった。

 

隼人はベッドのリクライニングを操作して上体を起こし、ヒプノスのレンズを両目の前にかざしてみた。わずかに明度が落ちて歪んだ病室の風景が奥のほうで丸まっている。レンズ周りを囲む特殊樹脂のフレームを軽く押しつけたまま、側面のダイヤルを回して顔に固定する。この操作は老眼鏡やルーペと同じなので慣れていた。

電源を入れると視界の歪みが消え、普段よりもやや明瞭に、病室の風景が目の前に広がった。ゆっくり周囲を見回すが、気づけば自分以外に人の姿はない。ついさっきまで近くにいた3人は、外へ出ていってしまったのだろうか……?

次の瞬間、隼人はこれまでに味わったことのない奇妙な感覚に陥った。病室の入口に意識を向けたそのとき、入口のドアがゆるやかな速度でこちらに迫ってきたのだ。なめらかなズームアップ映像。いや、違う。動いていたのは自分のほうだ。隼人は首がろくろ首のように伸びていく様子を想像したが、首への違和感はまったくなかった。それどころか、気づけば目のまばたきもなく、舌が歯に触れる感覚もなく、肌に擦れる衣服の質感も、股間の痒みも、一切を感じなくなっていることに気づいた。あれほど毎晩苦しめられてきた鈍痛や倦怠感さえ微塵も残ってはいない。後ろをふりかえると、空っぽのベッドの上にはしわくちゃの掛布団と枕だけが無造作に置かれているだけだった。

「なんてことだ……うっひょう!」

身体が軽くなったどころの騒ぎではない。消えてしまったのだ。隼人はどこにも存在しない純粋な視点以外の何ものでもなくなり、人工的に極限まで集中を高められた意識によって、手足も骨も内臓も見事に世界からシャットアウトされている。病室内を意のままに飛びまわり、天井の下に広がる丸い空間を数秒かけて縦に旋回してみた。「いやっほう!」

舞い上がる気分をさらに鼓舞するために喜びの声を発してみたつもりだったが、音が壁から物理的に反響することはなかった。若返った感覚とも違う、生まれ変わったというわけでもない。隼人はしばらく自分が年老いた入院患者であることも忘れ、羽化したばかりのセミのように、ひたすら躍動の限界に挑み続けた。

「きもてぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」

 

紫衣は眠ったように催眠を体験する隼人の横顔を、まばたきするのも忘れるほどじっと眺めていた。この9年間、父は何を思いながら毎日を過ごしてきたのか、どんな生活を送っていたのか、自分でもあきれるほど何も知らなかった。母の葬儀を終えたあとには何かにつけて頻繁に顔を出していたはずが、娘の進路や仕事の悩みに追われるうちにその機会も減り、やがていつしか父のことなど気にも留めなくなっていった。ベッドに忘れ去られたように力の抜けた隼人の左手を、そっと包むように握ってその重さを確かめる。不意に喉の奥で声がつまった。

利啓は神宮がそっと病室を抜けるのを見ると、後に続いて廊下に出た。神宮は外に出るやいなやトレイを脇に抱えて広い歩幅で歩き出していた。

「あれじゃあ、まるで植物状態ですね」利啓は神宮の斜め後ろに追いついて言った。「苦痛から解放されているあいだは、ろくに会話もできないわけですか」

「ご本人のためと思ってください」神宮は体を半分ほど利啓のほうに向けた。「肉体的な苦痛なら薬でいくらでも消すことができます。ですが、ずっと病室のベッドの上にいるばかりの生活は想像以上に苦しいものです。まして隼人さんは学生の頃からSNSやスマートフォンを利用してきた世代、生活とコンテンツの利用はもはや切り離せません。残念ながらご家族との会話だけでは、漠然とした不安や恐怖といった精神的な負担を拭い去ることはできないのです。ただでさえ、ふつうの食事すらできない状態なのですから」

「催眠にかかっていれば、何でも食べられるとでも?」

「ええ、ご本人の想像次第では」

「そんなのただの気休めでしょう?」

「気休めで満足しなければ、ご本人の意志でいつでも戻ることができます」

利啓は自分たちの無力さを遠まわしに責められているようで、反発するようにヒプノスへの疑いを強めていたが、同時にヒプノスで実現可能な体験のリアリティについて、自分が詳しく知りたがっていることにも気づいていた。「そんなに現実と区別がつかないものなんですか? 催眠というのは」

神宮はわずかに目線を逸らした。「区別はつきませんよ。そもそも、最初から区別なんてありませんからね」

「……どういうことです?」

 

隼人は自宅にいた。ちょうどリビングのソファに座った状態の目の高さで、正面にある棚の中段に並んだ、色褪せた紙製の料理雑誌を眺めていた。いまは座っているわけではないが、60年近く、毎日のように見てきた光景だった。ヒプノスの提供する各場面は利用者の記憶に基づいて構成されている。逆に言えば、本人の記憶にないものは見ることができない。何か月も家に帰っていなかった隼人が、病室に続いて自宅にその視点を移すのは、催眠のシナリオとしてもごく自然な流れだった。気分も落ち着き、身体のない状態にも慣れてきた。というよりは、生理的な感覚の記憶が薄れてくるにつれて、気分そのものが失われているようだった。

ドアの隙間を抜けて廊下に出る。玄関前の広間の奥に寝室があった。部屋の面積のほとんどを占めるクイーンベッドの端に、黄ばんだ枕がひとつだけ置かれていた。奥の隅に設えられた小さな仏壇では、チップとデールの大きな頬に挟まれた70歳の美玲が微笑んでいる。隼人は自分に残された記憶の濃度を確かめるように四方八方を見回した。寝室を出てすぐにトイレがあり、廊下を進んで左にある洗面所の鏡も覗いてみたが、何も映っていなかった。そのまま進んだ突きあたりのドアは台所につながっている。この9年間、隼人は台所に5分以上いたためしがない。そのためか、近づいて調理器具の詳細などを確かめることもできなかった。冷蔵庫と自動調理機の色と場所さえかすかにわかる程度だ。

しかし、何より彼をもどかしくさせたのは、台所の中央に美玲が立っていることだった。身体が失われているせいか、隼人には特に驚きも動揺もなく、ただ目の前を見つめるしかなかった。美玲は遺影に写っていた服装と表情そのままで、下半身はぼやけている。記憶が入れ替わり、不意に美玲が若い頃の姿に変化すると、ますます不明瞭な領域が広がった。

これ以上動けないと察した隼人は場面を元の病室に転換した。天井を見上げながら、身体の向きに合わせてゆっくりとベッドに接近する。この動作によってヒプノスの催眠は解除され、彼の目の前にはレンズ越しの歪んだ視界が戻ってきた。目元に付着したヒプノスを剥がして枕元に置き、時刻を確認すると6時25分。すでに横の壁の電子カーテンが白色から透過状態に変化しており、足元に朝日が差し込んでいた。隼人は自身の痩せ細った脚に触れ、あらためてまじまじと観察した。持ち上げてみると想像よりもはるかに重く、牢獄に閉じ込められたような気分がふたたび戻ってきた。

 

オーディションの不合格通知が喜宇のもとに届いた。もう何度目かは数えたくないが、もはや日常的な行事と化しているのでそれほど気分も落ち込まなくなっていた。喜宇は不合格のメッセージを消去し、エナジードリンクを一口飲んでから会場に向かった。

喜宇は人前で演技をするのが苦手だったが、理由があってある劇団の主催するワークショップに参加することを決めた。いまどき劇場公演などというものを活動の中心にしている団体は全国に数えるほどしかない。この劇団もそのひとつだ。そもそも演劇の公演を開催できる劇場自体が大小問わず、30年ほど前から激減していた。にもかかわらず、いまだに仲間内だけでほかの誰に知られることもなく活動を続ける気持ちが、喜宇には理解できなかった。

劇場の代わりに出現したのは、都市の一部が再開発によってその姿を変えた芸能街だ。現在はまだ都心部と地方都市のいくつかに点在しているだけの状況だが、いずれは全国を覆うほどにまで拡大すると予想されている。この街には文字通り、芸能活動をする人々の8割以上が生活している。というより、一般には芸能街に住むこと自体が、この時代においては芸能活動として認識されていた。入居するには各芸能街が時期をずらして毎年開催するオーディションに合格することが必須条件だ。何らかのメディアで自身を公に発信した実績があればいくらか有利とされてはいるものの、基本的には年齢経験問わず誰でもエントリーすることができる。入居すれば私生活のほとんどが様々な媒体を通して公開されるにもかかわらず、住人はただ好きなときに好きなことをしているだけで暮らしていけるとあって、その倍率は毎度5千倍を超えていた。

喜宇は芸能街にあこがれていた。小学校時代の夏休みに祖父母に連れられて、西新宿にある芸能街ララバイタウンのゲートをくぐったのが最初の思い出だ。自宅でヴァーチャルに体験するのとはワケが違う、本物の出会いがそこにあった。まるで一緒に住んでいるかのように街の住人の生活配信を毎日見守っていた喜宇は、ララバイタウンの敷地内でお気に入りの人物を見かけただけで宙に浮くような心地がした。とはいえ、じつは相手が誰であろうと、詳細な情報を十分に把握してから現実で対面することさえできれば、自分は自動的に感動できてしまうのではないかとも、頭の片隅では秘かに思っていた。

ワークショップの会場である区民館の多目的室。喜宇がドアを開けると複数の視線を感じた。主催者の李済が中央に立ち、床に円く並んで座った参加者全員を見下ろすような格好で話をはじめていた。遅れてやってきた喜宇は、輪から外れた場所に胡坐をかいて座った。李済は横目で彼女のほうをそれとなく見た。

「芸能街に入るには、まず何よりオーディションで審査員の目を引かなくてはどうしようもない。では、そこで求められているのはいったい何か? ずばり……存在感だ」

「何言ってんだこいつ?」喜宇は小声でつぶやいた。ほかの参加者はほぼ全員が同時に首を縦に振っている。この李済典則の名前を喜宇は聞いたこともなかったが、彼は芸能街に登録されているほんものの住人だった。喜宇がこのワークショップに見出した利用価値もそこにある。彼女が参加したのはあくまで芸能街に関する有力な情報を引き出せるかもしれないからであり、住人の肩書を盾にして語られる主観的な精神論に興味はなかった。

「ぼくが見てきたオーディション合格者はみんな、凄まじいまでの存在感があった」李済は厚い胸板を反らせて回想するように言った。「存在感とは何か? それは、つまりこういうことだ」

そう言うと、彼は唐突に床に寝そべった。参加者たちが見守る円陣の中央で、手足を直角に折り曲げ、赤ん坊が泣くのを真似ておぎゃあおぎゃあと手足をばたつかせてわめいた。そして10秒ほど経ってからぴたりと泣くのをやめ、参加者全員の顔を舐めるように見回してから言った。「わかるな?」

「わからねえよ」喜宇は小声でつぶやきながら、ポケットに入っていた白い糸くずを足元に捨てた。

「いまのは赤ん坊の泣き真似。ぼくは泣く赤ん坊を演じたわけだ。ここにはそう、赤ん坊という名の役がある」李済は息を整えるようにゆっくり話しはじめた。「役に存在感はない。役はただの役だ。動作を模倣し、発声を再現し、台詞を話し、舞台からはみ出ないように動く。それが役だ。役はぼくたち人間にとって必要不可欠なものだが、もし役だけになってしまったら、舞台は空っぽになってしまうよね?」

喜宇は軽く舌打ちした。ただでさえこのあと東池袋芸能街のオーディションが控えているのに、自分に縁のない演劇にまつわる説教話にこれ以上耳を傾けたくはなかった。

「誰もいない舞台を眺めていても、かつて上演されていた物語を思い出すことはできる。記憶による再生。それが人間のすごいところだ。役は空間を切り分け、ぼくらにすばらしい別世界を見せてくれるのだ」李済は参加者の輪の外に顔を向け、喜宇のほうを見た。「だが、芸能街のオーディションで求められているのはほかでもない、存在感だ。存在感はどこにあると思う? 君?」

喜宇は李済を上目に睨んでからすぐに顔を下に向けた。「……知りません」

「ぼくと君のあいださ」

喜宇は反射的に床に唾を吐いて立ち去りたくなった。しかし同時に、先ほどまでの李済の話を頭ではそれなりに理解している自分がいた。この話がどんな方向に行きつくのかをわずかながらも気にしているようで、その場を動こうとはしなかった。

「ぼくと君たちとのあいだには共通することがたくさんある。みんなもともと赤ん坊だったし、第一に同じ人間だ。でも、それらはどれもただの役だ。君たちの圧倒的な存在感を引き出すのは演出家に配られたどの役でもない。役の関係が織りなす舞台の外から注意深く現象を捉え、その現象を起こして共演者とのあいだに共鳴させる、誰からも教わることのできない君たちだけの……技術だ」

李済はそう言うと、深く吸い込んだ息を震える叫び声に変えて会場全体に放出した。しゃっくりの要領で横隔膜を調整し、自分自身への集中によって身体の各部位を与えられた役割から解放した。人間が生まれてからしばらくして、いつしか誰もが発することをやめてしまう、あの全身全霊を賭けた産声が大音量で響きわたる。先ほどとは明らかに異質の、高低入り混じる音の波が空間を支配する。突然の不可解な現象を前にして参加者たちは身をこわばらせた。李済は床の上をのたうち回る格好で、イソギンチャクのように手足を四方八方にうねらせていた。

喜宇は最初、自分の身体に何が起きているのかわからなかった。体内の横隔膜は李済の声と動きと連動しているかのように上下に弾み、彼女は胸の奥から震えた無音の叫び声が自動的に湧き上がってくるのを感じた。喜宇自身としては、何の予告もなしにふたたび奇怪な動作をはじめたこの主催者に向けては、努めて冷淡なまなざしを保持しているつもりでいたが、そこにいるのが李済典則本人であるという確信はすでに過去の記憶に基づくものでしかなかった。同様に、これは人間の赤ん坊ですらないように思えた。喜宇が直感的に思い浮かべた言葉によれば、この空間に突然あらわれた得体のしれない魔物である。次の瞬間には何をしでかすかわからない。目を離した隙にどこかへ行ってしまうかもしれない。誰のものでもなく、どこにも属さないその存在感のかたまりを、喜宇はかつてのオーディション審査員と同様、不意に手元にとどめておきたくなった。魔物という言葉を反射的にあてがったのもそのためかもしれない。喜宇はいつのまにか、彼がまぎれもなく芸能街の住人であることを不思議なほど疑わなくなっていた。

 

ワークショップの終わりに李済は、参加者に合格祈願のエールを送った。喜宇はほかの参加者が会議室から出ていくのを眺めながら、東池袋のオーディションに行くかどうかを迷っていた。気がかりになっているのは母方の祖父の容態である。中学生のときに祖母が亡くなって以来、祖父の存在はやがてそれこそ演劇の役として設定された続柄のように、喜宇にとっては頭の片隅に記録されているだけのものになっていた。にもかかわらず、いまになって祖父、いや牧田隼人というひとりの人間の現状が妙に気になるのだった。心配というよりはむしろ好奇心に近いのかもしれない、と喜宇は思った。大事なオーディションの機会を逃してまで見舞いに行く価値があるのかはわからなかったが、喜宇はそんなことを勢いで決断してしまう普段と違った自分の行動に惚れそうになりながら、思いつきに身を任せて、ひさしぶりに母親に電話をかけてみた。

「もしもしママ? じいちゃんまだ生きてる?」

 

利啓は神宮の言葉の意味が理解できないわけではなかった。現実と催眠にそもそも区別はない。両者がイコールで結ばれるとすれば、利啓自身も催眠にかかっているということになるだろう。

「先ほど説明したとおりですよ」と神宮は言った。「催眠とは、人が価値を見出した何かを強く信じている状態のことです。人が生活するうえでもっとも強く信じているものは何でしょう。現実の世界ではありませんか?」

「じゃあ、誰もが催眠にかかっていることになるじゃないか……」

「そう、しかもその催眠はとても強力です。現実への信頼は、半世紀以上も前にインターネットを通してその存在が前提化されるまでに至りました。人々が現実を疑わないのはその根拠となる情報に困らないからです。むしろ根拠さえ見つかれば、たとえそれが現実でなかろうと、現実として信じ続けることができる。いくつかのアカウントやWebサイトのあいだを手元の端末で素早く移動できるようになり、人々は多様な角度からブラウジングすることで、実体のない現実への信頼を強化し、その内部に引きこもってきたのです」

「内部というと……?」

「演劇の舞台にたとえるとわかりやすいかもしれません。劇場も舞台もないのに、俳優たちが街中でずっと登場人物の生活を演じ続けているとしたらどうでしょう?」

「私は台詞をしゃべっているつもりはありませんけど」利啓はやや早口で返したが、そう言い切れる自信はあまりなかった。

「この病院の看護師型AIも同じように考えていると思います。もっとも、宮地さんはナースコールに応答する専門ですがね」

利啓はシャツの裾を強く握った。彼は神宮に話しかけた目的すら見失いかけていた。ヒプノスに対する疑いが、自分自身への疑いとして返ってきたのだ。父親の最期に立ち会う紫衣の夫として、自分の立ち位置を探しているつもりだったが、立ち位置だけでは何も動かないことに気づいた。「だとしたら、私がやっていることはいったい……」

「何も気に病む必要はありません。台詞を話しているというなら誰もがそうなのですから。いまの隼人さんとあなたは違います。その違いこそが、あなたにとって重要なのではないでしょうか」

利啓は眠ったように催眠を体験する隼人の姿を思い浮かべた。「そうか。だから私は病室を抜け出して、神宮先生に話しかけた」

「ええ、まさに」

「仮にいまの私が催眠状態だとしても、それはヒプノス使用時とはまったくの別物……」

「おっしゃるとおり。ヒプノスはブラウザであると同時にプログラマでもある。患者さんが、ご自身の脳内メモリに残されたデータの検索と閲覧に集中できるよう、意識にプログラミングを施すわけです。途中でうっかり席を立ちたくならないように……」

 

神宮と別れた利啓は、病室までの廊下を引き返しながら自分の足どりを確かめていた。おそらくもう自分の足では歩けない義父にとって、ヒプノスは思い出の地を訪れる遊覧船でもあるのだ。義父が残された時間をどう過ごすか、考えてもしかたがない。現実か、思い出か。紫衣は、どっちを望んでいるのだろう。

病室のドアを開けると、紫衣は椅子に座っていた。隼人はヒプノスに両目を覆われたまま、ベッドの上で動く気配すらない。利啓はトイレから帰ってきたふりをして、紫衣に声をかけた。「今夜は、もう帰ろう」

「……結局、あまり話せなかったな」と紫衣。

「ああ。でも、もし治ったら……、」と利啓はつぶやいた。治ることなどまずありえないだろう。それは十分に理解していた。なぜそんなことを声に出したのかは自分でもわからなかったが、慰めのつもりでないことは確かだった。もしかすると紫衣には滑稽に聞こえたかもしれないが、ほんのわずかな可能性がないわけでもない。いや、これは可能性の問題ではないのだ。神宮の話によれば、人は根拠を与えられることで疑うことをやめるという。根拠は与えられたものである以上、真偽の判定を伴わざるをえない。ならば信じるも騙されるも表裏一体、それは根拠の真偽によって決まる。告知された余命も、完治の可能性もそのひとつだ。でも、ほんとうにそれだけか? と利啓は思った。人間に備わった信頼という能力は、逆にどこからも根拠を与えられていない対象にこそ、強くはたらくのではないだろうか。現に自分はいま、あたかも何の事情も知らないかのように義父の完治さえ確信している。それは予測への期待でも倫理的な態度でもなく、ただ生理的にそうあってほしいという、未来の自分自身への信頼なのだ。「治ったら、いくらでも話せるよ」

 

皮脂、汗、尿瓶、消毒液の臭い、喉にからんだ痰、倦怠感、疼痛――拷問のように肉体にかかる不快な重圧をこれでもかと記憶に焼きつけてから、ヒプノスを装着して解放感を味わう。このルーティンを隼人は連日にわたって繰り返していた。

「きもてぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」

待てよ、ほんとうに気持ちいいのか? と隼人は不意に思った。事実、彼が感じている解放感は一種の錯覚だ。ヒプノスが身体から意識を逸らしてからしばらくのあいだ、生理的な感覚の記憶が一時的に仮構した現象にすぎない。思うままに室内を動きまわる視点となった隼人は、それまでの慣習から反射的に快感の喜びを意味する台詞を想起することによって、あたかもそうした状態にあるかのように自ら暗示をかけていたのである。

現に、意識的に手足の関節を曲げ、腰を揺らし、顔の各パーツそれぞれの動きを入念に確かめてからヒプノスを使うと、身体の残像のようなものがわずかに長く意識の内にとどまった。この残像を使えば何か食べることができるかもしれない、と隼人は考えた。固形の物体を咀嚼して飲み込むという、懐かしさすら覚える一連の動作をパントマイムのように再現する。箸を使うのは難しそうなので、ひさしぶりの食事は想像しやすく手で持てるおにぎりに決めた。隼人は手のひらに乗った三角形のおにぎりのイメージを、祈るような気持ちで心の中に浮かび上がらせた。

おにぎりのイメージが完璧になったところで催眠の世界に突入だ。隼人はふたたび視点に変化したが、たしかに最初の頃とは比べものにならないほどの身体感覚が残っていた。口の中の感触は完璧で、身体は上半身だけでベッドの上に浮いていた。残像の両手を前に出して皿をつくり、その上におにぎりを出現させる。「さあ出でよ、おにぎり」

 

何も出てこなかった。よく考えてみれば、何もない場所から絵に描いたようなおにぎりがいきなり登場するわけがないのだ。隼人は諦めかけたものの、咄嗟に妙案を思いついた。

自宅付近の大通りに急いで場面を移した隼人は、周囲に7つあるセブンイレブンのうち、もっとも頻繁に通っていた旧式の有人店舗に突入した。レジに店員がマネキンのように立っているが、首から上は激しくぼやけている。商品のジャンルによって見えるものと見えないものがあるが、幸いおにぎりコーナーは鮮明だ。かすかに残された半透明な手でシーチキンマヨネーズのおにぎりを長年の夢のように掴み取る。隼人はすぐさまその場で食べようとしたが、ここで思わぬ事態が発生した。

包装を開くのがとてつもなく難しい。隼人は記憶を必死に手繰り寄せながら、手の向きや指の動きを丁寧に再現する。手順1までは問題ない。だが手順2と手順3があまりに難攻不落だった。ビニルの端を左右に引くと、どうしてもおにぎり本体のイメージが崩れてしまう。これは包装用ビニルとその間に挟まれた海苔の位置関係を、隼人が正確に把握していなかったために引き起こされた現象だった。

「くそ! もういい!」隼人はふたつに分かれたラベルのあいだから覗く艶やかな海苔の表面に向かって勢いよく齧りついた。だが、咄嗟の行動に対して瞬時に想像が追いつくものではない。おにぎりは形状を失って床に落下しながら見えなくなり、すでに彼の両手はおろか口の感触までもが跡形もなく消え去っていた。

 

病室に戻ってヒプノスを外した隼人はしばらく呆然としていた。ああ、おにぎり、おにぎり、と吐息が漏れたような声でつぶやきながら窓の外の夕焼けを眺めた。

そのとき、入口のドアが開いて誰かが入ってきた。腰のあたりまで伸びるストレートな黒髪を揺らし、白無垢とモッズコートを合体させたような服装の若い女が静かに接近してくる。隼人はぎょっとして身動きが取れなくなった。「誰? な、何?」

「じいちゃん元気?」喜宇は昼間から噛み続けている永久ガムをベッド脇のダストホールに吐き捨てて言った。

隼人の頭の奥でほこりを被っていた記憶が、その言葉をきっかけにしてじわじわと色味を増していった。「喜宇ちゃんかい?」

「うん、……元気?」喜宇はほかに言うべきことがないか探してはみたが、これといって何も見つからなかった。おそらくこの人は元気ではない。それは病室のドアを開けた瞬間に察知していた。医者にはもう打つ手がないと言われたことを母から聞いてはいたが、9年前に会ったときにはふっくらと丸みを帯びていた祖父の面影は、跡形もなく消えていた。喜宇は自分がこのミイラのような病人と面会する根拠がすでに、かつては「祖父」と「孫」だったという関係の記憶以外には何もないことを、ここにきてはじめて実感した。得体のしれない老体の近くへゆっくりと歩み寄り、平静を装うためにガムを吐き捨て、そして半年ぶりくらいに再会した孫を演じつつ、おそるおそる声をかけたのだった。

隼人が言った。「元気だよ。たぶんもうすぐ死ぬけどね」

「え、まじで? いつ頃?」反射的に素早く返答したはいいが、喜宇は平静を装いすぎたことを後悔した。

「……いつ頃かなあ」隼人は交わされる言葉の内容を気にしてはいなかった。最後に会ったときは中学生だった孫の激変ぶりにも驚いてはいたが、それもどうでもよかった。そこにいるのが喜宇を装った偽物ではないと、何の根拠もなく確信している自分が不思議でならなかった。

「あ、そうだ」次の言葉に困った喜宇は、何も知らずにバッグからコンビニのおにぎりを取り出した。しかも三角形のやつだ。「これ食べる?」

隼人は一瞬、視界が急に明瞭になったように感じた。「どうしたの、これ……?」

「お昼に食べようかと思ってたんだけど、忘れちゃったからあげる」

「……ありがとう。とてもうれしいよ」隼人は受け取ったおにぎりの包装を、震える指で注意深く開きながら、その構造を記憶に焼きつけ、ビニルの折りたたみ方までも細かく確認していく。そして、あたかも当然のようにおにぎり本体を喜宇に渡した。「はい」

「え、食べないの!?」喜宇は危うくおにぎりを床に落としそうになった。

「その明太子おにぎりは喜宇ちゃんが食べていいよ。じいちゃんはこれからシーチキンマヨネーズを食べてくるから、ちょっと待っててね」隼人は急いでヒプノスを装着し、後頭部を枕に乗せた。

喜宇は祖父の目元を覆う双眼鏡のような装置をじっと見ていた。催眠に入った祖父は動かなくなり、喜宇はどうしていいかわからなくなった。天井へ向けられたレンズをそっと覗き込んでみると、こちらを凝視する祖父の瞳が見えた。

2分ほど経って隼人が戻ると、おにぎりを食べ終わった喜宇はヒプノスを指さして尋ねた。「それがヒプノス?」

「お、よく知っているね」隼人は満足そうに笑みを浮かべて言った。

「ママから聞いたよ。そっか、食事はもうできないんだね」

「できたよ」隼人は言った。「おにぎりも食べられるし、家にだって帰れるんだ」

ヒプノスは本人の記憶に残っているものを再現するらしい。喜宇は祖父が見た目によらない上機嫌な口ぶりで話すので、気になったことを尋ねてみた。「ばあちゃんには会えたの?」

隼人はかすれた声を漏らして笑った。「家にいたけどね。動かなかったよ」

喜宇は隼人に合わせて笑いながら頷いた。そしておもむろにもう一度バッグを開け、眼鏡ケースから愛用のVRグラスを取り出し、15年前に西新宿のララバイタウンで撮影した祖父母の写真を立体化して空中に表示した。「ほら」

「すごいね、何これ。どうなっているの?」隼人はVRグラスの正面部分から出る光線によって模られた、15年前の自分と美玲の胴体に手をかざしてみた。

その様子を見て、喜宇が言った。「じいちゃん、もう一回だけヒプノスをつけて」

「ん、どうしてだい?」

「いいからウチに戻って。試してみたいことがあるんだ」

 

隼人がふたたびヒプノスで催眠に入るのを見届けると、喜宇はVRグラスを装着した。

芸能街の住人が配信している動画は様々なジャンルに分かれている。視聴者の心身をリラックスさせる目的で製作された眠気を誘う動画は、約60年前まではASMRなどとカテゴライズされ、一部の視聴者から絶大な人気を集めていた。就寝から意識を逸らす多種多様なコンテンツに囲まれた現代社会では、人を眠りに誘うための方法論は近年ますます多くの動画製作者によって考案され、睡眠導入というジャンルは秘かに独自の発展を遂げていた。数ある睡眠導入法の中でもとりわけ有名なのが、李済典則による「客席化」である。

喜宇はワークショップの後に李済からこの話を聞いていた。ある舞台に配された役同士が、観客の関心を寄せつけない閉鎖的なやりとりを続けていると、次第に観客は観客としての役割を失い、客席に同化するというものである。観客はそこに並べられた椅子同然に無視されることで、意識が身体から離脱してしまう。他人が作業をする傍らでつい眠ってしまう原因もこれにあたるだろう。離脱した意識は別の所属先を求めてさまよいはじめるのだが、このとき、当人が自らきわめて強固なイメージをもって新たな所属先となる舞台を用意してやれば、意識はそこに役として適合する。客席化による睡眠導入は催眠にも応用可能というわけだ。

「面白いことをやろうとしているね」喜宇の背後から神宮が声をかけた。喜宇はVRグラスを慌てて外して後ろをふりかえる。壁面に白衣を着た男の顔が映っていた。

「それはVRグラスだろう? 君のやろうとしていることはわかるよ。被催眠の鍵となる社会志向度数を引き上げるには、君自身が何より強く信じるものへの信頼を強めることだ。ヒプノスなしで自己催眠をかけるのはきわめて難しい。まして、おそらく君がやろうとしていることは、ほとんど不可能に近いチャレンジだろう。けど、がんばって。成功を祈るよ」それだけ言い残して、神宮は壁面から消えた。

喜宇は芸能街のアプリで李済典則を検索し、もっとも睡眠導入効果が高いと勧められた動画を再生した。真っ白の映像が頭の動きに合わせて動く。これはただの動画ではない。映っているのは、いま喜宇がいるこの病室の風景だ。事実、これは自動的に起動されたVRグラスのカメラが映す彼女の視界そのものだった。ひとつだけ違うのはその音。視点を向けた先の環境音がクリアに増幅され、骨伝導を通じて喜宇の頭に響いてくる。かすかな空調の音、廊下の物音、そして何より隼人の心音と呼吸音が生々しく脳内に反響する。自分の意識を置き去りにして進行する二種類のリズムに挟まれることで、やがて喜宇の身体を眠気が襲う。まるで胎児に戻ったようなまどろみの中、喜宇は李済にならって横隔膜の位置を調整し、隼人の呼吸に自分の息を合わせながら、心音のリズムが同期するのを待った。彼女がひたすら思い浮かべる舞台は、幼い頃に夏休みの数日を過ごした母の実家、その玄関から廊下を進んだ先のドアを開けたところにあった。生前の祖母が趣味の研究に没頭していた魅惑のアミューズメントスペースである。

 

隼人は喜宇に言われたとおりに自宅へ帰ってきた。身体感覚はだいぶ残るようになっており、洗面所の鏡に映る自分の姿を確認することができた。前回よりもいくらか鮮明に廊下やリビングの細部が見える。床の感触やわずかな部屋の臭いも感じられるほどになっていた。ドアノブに手をかけて、台所に入る。美玲はすこしだけ若返っていた。喜宇を連れて芸能街へ出かけたあの日のままの姿である。多少ぼやけてはいるものの、室内なのに靴を履いた足元までがちゃんと形になっていた。

隼人が美玲のほうに一歩踏み出したそのとき、美玲の右手がかすかに隼人のいる方向へ動きだした。それに連動するように表情も変化し、口元を歪ませながら頬の筋肉を上下させている。なぜ美玲が動いているのかは不明だが、その行動の理由が隼人にはよくわかった。彼もまた催眠状態において想像上の肉体から声を発したことはないからだ。美玲は何かを話そうとしている。彼女を真似るようにして隼人も口を動かす。息を吸う感覚を思い出し、息を吐く感覚を思い出し、喉が震える感触を思い出し、唇と舌の動きを思い出し、吐息まじりに漏れたような小さな声を発した。「み……美玲」

「あ……」美玲もかすかに声のようなものを発しながら、どうにか笑顔をつくろうとしていた。目元を震わせながらも、隼人の顔に視線を合わせている。右手を前に伸ばすが、なかなか思うように近づくことはできなかった。隼人も隼人で必死に左手を伸ばしてはいたが、動くものに触れるにはおにぎりを食べるとき以上の解像度が求められることを実感するしかなかった。

 

娘が見舞いに行くとのことで、すこし遅れて病室に到着した紫衣は、隼人のベッドの脇へうつ伏せにもたれかかって居眠りをする喜宇の姿を発見した。なぜVRグラスをつけているのかはわからないが、自ら見舞いに行くと告げてきた娘の言葉がほんとうだったと知って、ほほえましい気分になった。紫衣はもしかすると自分が、隼人の娘であることの義務感から病院へ足を運んでいたのかもしれないと思っていた。それを隼人がどれほど悟っていたのかは定かでないが、すくなくとも孫娘とひさしぶりに対面できたことのほうが、彼にとってはいい思い出になったのではないかという気がした。いまはただこのふたりを見守ることが、自分に示せる最大限の誠意なのかもしれない。紫衣はそう思いながらそっと喜宇の右手を取り、催眠中の隼人の左手の上に重ねた。

 

喜宇は祖母になり切った自分自身を想像しながら、異物感にまみれた身体の右手に該当する箇所を懸命に伸ばしていた。祖父母のために、ふたりへの信頼をもって喜宇は役を演じることに集中した。じいちゃんはきっとばあちゃんに会いたいはず、会って、一言でもいいから話がしたいはず。孫娘として、最後にどうにかそれを実現させてあげたいと願った。

次の瞬間、喜宇は隼人の左手が急激に鮮明になるのを目の当たりにした。美玲の右手は吸い寄せられるように前方へと進み、喜宇が身体の動作に想像を追いつかせる間もなく、ふたつの手は両者による想像の中心でゆるやかに接触した。

隼人は美玲の右手を捉える視点の解像度が急激に上がると同時に、それが当時の美玲よりもはるかに若い人間の手であることが見て取れた。触れた瞬間に感じたのは、何よりもその小ささであり、滑り抜けるような質感であり、柔らかさであり、その表面を撫でる自身の黒ずんだ指先であり、骨と皮だけの腕であり、全身を縛るような倦怠感であり、そして内臓の隙間を鉛球がうごめくような下腹部の鈍痛だった。

これでいいのだ、と隼人は触れた手を握りながら思った。いまの自分はもう何者でもない。夫でも父でも祖父でもなく、家に帰る必要もなかったのだ。すべての役割を終えて、ただここに存在しているにすぎないのだと気づいた。やがてヒプノスが意識の集中を保てなくなり、各臓器も徐々にその役目を終える。ぼやけていく視界の中で、隼人がただひとつできることといえば、すぐ近くで自分の手に触れている誰かに、かろうじて自身のメモリに最後まで残されていた言葉を口に出すことくらいだった。

「喜宇ちゃん、来てくれたんだね」

隼人の言葉と握られた手の感触により、喜宇は自分がすでに祖母の姿でなくなっていることに気づいた。見上げると祖父の姿はすでに消え、台所の風景が歪んで真っ白の空間に戻っていこうとしていた。喜宇はようやくいまの言葉が自分に向けられていた意味がわかり、慌てて返事を叫ぼうとしたが、もう祖母の口も顔もなくなっていた。純粋な視点となった喜宇は、病室の天井を見上げながら自分の身体に向かってゆっくりと降りていく。祖父はきっと、誰かが近くにいるだけで十分だったのだ。ひさしぶりの会話が途切れても、次の言葉が見つからなくても。ただそこにある自分自身を信頼していれば、それでよかったのだ。

 

喜宇が目を覚ますと、病室の端に置かれた椅子に座っていた。VRグラスの動画はまだ再生されており、ベッドの周りを数人が囲んでいるのが見えた。医師と看護師の声が響く中、かすかにゆるやかな心音が聞こえる。はっと気づき、急いで近づこうとして、ドアから駆け込んできた利啓にぶつかりそうになった。喜宇はよろめきながら、先ほどの返事を返そうと叫ぼうとしたが、言葉にならない声が漏れるばかりで、自分の口の使い方が一時的にわからなくなっていることに気づいた。そのうち心音は聞こえなくなり、顔からVRグラスを剥がして投げ捨てると、ベッドの前で崩れた顔の紫衣が喜宇のほうをふりかえった。

喜宇はしばらく立ち止まり、向かいにある白い壁を見つめながら深く息を吸い込んだ。しゃっくりの要領で横隔膜を調整し、精密な身体への集中によって、彼女はこの場にいる誰の孫でも娘でもなくなった。そして、全身全霊を賭けたあの産声を病室中に響かせる自分自身を、いまたしかにここで起きている現象として、ほほえましく見守っていた。

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