ダルメシアンとおばあさん

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梗 概

ダルメシアンとおばあさん

自転車を二人乗りするおじさんとおばさんカップルがいた。おじさんが前でゆっくりと自転車を漕ぎ、後ろでママチャリの荷台に乙女座りをするおばさんがタバコを吸っていた。暗闇の口元で光る火が赤い。おじさんが少し顔を後ろに向けて声を掛ける。

「今日は月が大き過ぎて、空からはみ出しているよ。」

「本当ね。夜からこぼれ落ちているわ」

おばさんは、そう言って、たばこをもう一度吸い込む。

道の左手側は、広い小学校の暗闇が広がっていて、建物が重なっている奥行きがわからない。暗闇の中の遠近風景になっている。月はひっそりとその裏手に落ちた様にみえた。

 

翌日、暑さが照り付けて、アスファルトの真っ直ぐのびた先の道の上が歪んで見える。両脇に並ぶ住宅地の家々は、痩せた影しか作らない。路地に小さいお婆さんが大きなダルメシアンを連れて立っていた。2人は、お婆さんが小さいサイズである事と、ダルメシアンが大きいサイズである事で、丁度同じくらいの大きさだった。そのダルメシアンは適当な家の軒先にある防火用の赤いバケツに入った水を、凄い勢いで飲んでいる。暑さに負けて、ダルメシアンが首をもたげて水を飲んでいる長い間、お婆さんはたゆんだ紐を手に握って待っていた。あんまり必死な様子をみていると、段々とダルメシアンが犬に見えなくなってきた。蛙に変えられた王子みたいに、どこか人間の様に思えてくる。反対に、涼し気な木綿のワンピースを着た無表情な顔のお婆さんが、人ではなくて人のマスクを被った宇宙人か何かの様に思えてきた。

そして、実際のところ、姿を変えられた人間がダルメシアンで、お婆さんは宇宙人だった。

昨晩、地球に到着した宇宙人は、「ある目的」のために、地球上を支配している水と植物という二大勢力の知能調査をしにやって来た。そしてそのために、地球上で地味そうなわりに、独自の進化で比較的宇宙人と同じ系統の知能を持ち、小回りのきく体をした「人間」という生物に変身したのだった。人間は水や植物に大胆にも近づいて生活する習性もある。そのため、人間に変身すれば、自分が宇宙人であることを、水や植物に気付かれることなく接近し、対象物を調査する事が出来ると考えたのだった。

宇宙人は現地調達の補助員として、犬を連れて歩く事を思い立った。どうせなら、自分が変身する人間に詳しい方がいいと思い、人間を犬に変身させた。お婆ちゃんっ子だったこともあり、犬に変えられたサトシは、死んだ婆ちゃんに似た宇宙人の調査にしぶしぶ協力する事にした。サトシは宇宙人のよって、水と植物の知られざる一面を発見する。宇宙人もサトシの力を借りて、「目的」のための情報収集を行う。

そして、その目的とは、宇宙人が自分の星に帰り、仲間と共に獲得した「水」と「植物」の知能とそれらの姿へ変身によって、自分たちの住む惑星を支配する事だった。

文字数:1169

内容に関するアピール

①スキットが意味を持たなくなる方法を考える。スキット=挨拶=記号。物語の中のルールとタイミングで繰り返されるスキットは、物語の中だけで機能する挨拶になる。読者には内容的深い意味はなく、それがきっかけの短い連作的文章効果を生む。(冒頭:月についての会話)

②スキットを翻訳と考える。スキット=言葉=知性という構図は、言葉を知性とする人間に機能する。しかし、言葉=知性とは必ずしも言い切れない。知性の系統を言葉以外で持っている場合、それはどういう知性であり、それを言葉に翻訳する方法を考える(できれば擬人化ではなく。課題)。(水、植物との会話)

③スキット本来の重要性に立ち返る。魅力的なスキット=魅力的なキャラクター(性格や特徴)をいかに膨らませるか。魅力とは、人間性を掘り下げて描く事。(登場人物:宇宙人やサトシの会話)

課題への取り組みとして、上記の事を考えて物語を作成します。

文字数:387

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進花史

0.プロローグ

七十二候の小暑、今年は7月7日に当たる。ハスの花はその頃、寺や公園の池などの水辺で盛んに咲き始める。まだ夜が明ける前の早朝の池に浮かぶのは、色が紅色でも白色でも、透き通るよう質感を持ち、先だけ尖った形をする大きな花びら、その花びらが幾重にも重なる中心の黄色い花托に多少のグロテスクさを添える事で存在感を増す雌蕊、雄蕊の発する甘い香りだった。それらの造形が合わさって水中から伸びた細長い茎の上で、ハスと呼ばれる花の様々な段階をつくる。まだ固く閉じられたままの最初の鋭い膨らみである蕾、その日のうちに次第に広がっていく時間の経過を携えた咲きかけの花、全てが開き切ってしまった結果としての花、いくつもの花が水面の世界に並んでいる。そこに丸い大きな緑色の葉が覆い茂り、共に揺れる花を1つ1つ隠す様にして、隠しきれずにいる。背景としての葉は、花が持つ浮遊感をより強調していた。そういったハスの花の美しさは、昔から人間に様々な幻影を生み出し、その最たるものが極楽浄土だった。

しかし、ハスは種としての生存範囲を地球上から宇宙空間へと広げるため、密かに進化をし続けていた。その進化とは、人知れず地球上にやって来ている宇宙人に対して、人間の想像力以上の、さらに強烈な幻覚をもたらす科学的作用を生み出し、宇宙人をその幻覚の虜にする事だった。「雄弁」という花言葉を持つハスは、宇宙人たちの脳に対して言葉を持たずに巧みに語りかけ、幻想の夢を見させる。感覚を刺激し、感情を高揚させ、みた事のない場所へ連れていき、体験した事のない快楽を味わう事が出来る。

依存性のあるその幻覚効果の罠に陥った宇宙人は、どうしてもハスの花を自分の星に持ち帰り、繁殖させたいと思い立つ。ハスの花の思惑通りに、そのような宇宙人は毎年夏になると多く地球にやって来た。そして多くの宇宙人が、ハスの花を自分の惑星に持ち帰り、ハスの種は生存範囲を広げていった。しかし、とある惑星ペーパー星の宇宙人カルタにとって、ハスを手に入れるためには、クリアすべき重大な問題があった。カルタは極度に水に弱い性質を持ち、生存の危機に関わるからだった。そのため、水に生息するハスの花をどのように入に手れ、持ち帰るかが問題だった。

 

 

1.7月6日夜

月夜の晩に住宅街の路地で、自転車を二人乗りするおじさんとおばさんカップルがいた。おじさんが前でゆっくりと自転車を漕ぎ、後ろでママチャリの荷台に乙女座りをするおばさんがタバコを吸っていた。暗闇の口元で光る火が赤い。おじさんが少し顔を後ろに向けて声を掛ける。

「今日は月が大き過ぎて、空からはみ出しているよ。」

「本当ね。夜からこぼれ落ちているわ」

おばさんは、そう言って、たばこをもう一度吸い込む。

道の右手側は、手前の民家の平屋が並んでいる。その屋根の後ろに建つアパートは、2階から4階部分の並んだ大きな窓が見えていて、窓の色がどれも違う。その向こう側のさらに大通りを超えた奥に見えているマンションは、オレンジ色のエントランスの光が縦に規則正しく並んでいる。内側の照明の具合とカーテンの色とが混ざってピンク色だったり、カーテンも灯りも点いていない部屋は中の闇が映って黒だったり、カーテンがあるけれど電気がついていない部屋は白だったりする。その向こう側さらに大通り超えた向うに見えているマンションは、オレンジ色のエントランスの光が縦に規則正しく並んでいる。

道の左手側は、広い小学校の暗闇が広がっていて、建物が重なっている奥行きがわからない。暗闇の中の遠近風景になっている。月はひっそりとその裏手に落ちた。

 

 

2.7月7日昼:ダルメシアンとお婆さん

翌日の昼間、同じ路地では暑さが照り付けていた。アスファルトの真っ直ぐのびた先の道の上が歪んで見える。両脇に並ぶ住宅地の家々は、痩せた影しか作らない。路地に小さいお婆さんが大きなダルメシアンを連れて立っていた。2人は、お婆さんが小さいサイズである事と、ダルメシアンが大きいサイズである事で、丁度同じくらいの大きさだった。そのダルメシアンは適当な家の軒先にある防火用の赤いバケツに入った水を、凄い勢いで飲んでいる。暑さに負けて、ダルメシアンが首をもたげて水を飲んでいる長い間、お婆さんはたゆんだ紐を手に握って待っていた。あんまり必死な様子をみていると、段々とダルメシアンが犬に見えなくなってきた。蛙に変えられた王子みたいに、どこか人間の様に思えてくる。反対に、涼し気な木綿のワンピースを着た無表情な顔のお婆さんが、人ではなくて人のマスクを被った何かの様に思えてくる。

 

 

3.7月6日夜:ペーパー星宇宙人、カルタ

昨晩、カルタは地球に到着した。円盤型の宇宙船は遥か宇宙を漂い、ようやく目的の星の大気圏に突入する。その際、少しだけ円盤が焦げた。燃えたという事は、酸素がある証拠だ。やはり酸素を生み出す植物が、生物の99%を支配するだけの事はある。間違いなく地球に到達したのだ。そしてここは通称、水の惑星と呼ばれる星だ。少し燃えた所で全く問題がない。すぐに火を消すことが出来る。なぜなら地球上の7割は、海と言う巨大な水の塊で覆われているからだ。現に、円盤は早速、小さな海に着水した。「ジュ」と音を立てる。しかし、カルタはそれどころではない。水が苦手なカルタは、海ではなく陸地に円盤船の着地点を設定したはずだった。カルタは焦ると共に、不思議に思う。この海は、海にしては小さすぎ、水面は四角すぎるからだ。ひとまず落ち着いて、もう一度円盤外部の周りの様子を見回す。すると、すぐ傍に広い平らな砂地の地面が広がっている。どうやら少し着陸地点がずれていたようだった。円盤船は平らな地面に無事二度目の着地をした。

カルタは扉を開けて外に出た。一年ぶりに地上に降り立つ。地球上、略して地上だ。先程円盤が着水した海の方へ行ってみる。宇宙人はフェンス越しに、恐る恐る小さな海の水面を眺める。夜の薄暗い影の中で、水面は月の白い光の波を何本も重ねる。そこに、反射光で四角く水面を切り取って浮かぶA4の紙が浮かぶ。円盤の着水時に発生した風によって、コンクリートの壁から剥がれ落ちたものだった。その紙には、「プール開き」と書かれていた。

 

 

4.7月6日夜/7日昼:ダルメシアン

ダルメシアンはバケツの水をひたすら飲んでいた最中に、突然咳き込み出した。その途端、ハッと、我に返った。暑さに負けて無心で飲んだけれど、一度気が付くと、バケツの水はとても不味い。太陽に熱せられた水は生ぬるく、埃だけでなく小さな虫の死骸までが微妙に浮かんでいる。虫の死骸が喉に引っかかって、咳き込んだのだった。自分はどうしてこんな水を飲むことになっているのだろうか、とダルメシアンは考える。暑さと寝起きの朦朧さで頭の中にかかっていた霧が、時間と共に徐々に晴れてきて、空白だった記憶が少しずつ戻ってくる。

まず、昨日7月6日は深夜に放送されるサッカーのワールドカップの試合だけを楽しみに、仕事から帰って来た。それは4年に一度訪れる、連日の楽しみだった。少し仮眠を取ってから、準備万端にいよいよ試合を見るために、テレビを点けた。試合開始までにはまだ少し時間があった。ベランダに干しっぱなしで忘れていた、洗濯物があることを思い出す。取り込むために、窓を開けた。すると、意外にも外から涼しい風が吹いて来た。これなら、クーラーを停めて、このまま窓を開けて夜の風を通してもいいくらいだと思う。ベランダから家の前の小学校をみると、グラウンドにひょろひょろと黄色い光が落ちていくのが見えた。誰かどこかの若者が試合前の盛り上がった気分で、打ち上げ花火でもしているのかもしれない。この日のこの深夜に起きている人の多くは、自分と同じサッカーファンも多いだろう。これから始まる試合を楽しみにして起きている。熱い夜だ。洗濯物を取り込んでから、蚊が入る前に網戸を締めた。外から夏の夜の心地良い風が入ってくる。

 試合を見ていると、急にめまいがした。ゲームに夢中で、ビールはまだ1本しか飲んでいない。だから、酔った訳ではないはずだ。そのまま耳鳴りのような不協和音が鳴りだすと共に、目の前のテレビ画面が青い顔をし始める。さっきまで映っていた緑のグラウンドや盛んに動く人影は、閃光の奥の背景になり、さらに黄色い横の筋が入って画面全体がざらつく。そうかと思えば、テレビは口から白い玉をぽこぽこと吐きだして、床に転げ落ちてきた。朦朧としている頭で見ると、テレビから出て来たばかりの白い玉は、手のひらサイズより少し大きい。べたべたとして、唾液まみれのような白い玉で、持ち上げる気分にはなれない。床が汚れていくのが気になりつつも、どこか冷静にそう思いながら、目の前のテレビを観続ける。テレビは玉を吐きだした後も青い画面を延々と光らせながら、次に聞いた事のない音を立てはじめる。頭の朦朧さは強烈な頭痛に変化していく。挙句の果て、記憶の走馬燈が駆け出しはじめた。と、そう思った瞬間、目の前がパッと真っ暗になった。

そして、次に気が付いた時は、明るく眩しい太陽の下、猛烈な暑さに耐えかねた体が無意識の内に、バケツの水を飲んでいたのだ。何をしているのだろう、と改めて我に返った。昨夜のサッカーの試合の結果も思い出せない。けれど、それどころではない。まず、自分の置かれている現状を整理しようと思い、辺りを見渡す。よく見慣れた風景だ。場所は家の近所の路地である。通勤経路でもある。ふと、さっきまで顔を突っ込んでいたバケツを見る。底に残った水を見て、とても驚く。水面に映っているはずの、見慣れた自分の顔がどこにもない。代わりにバケツの水面に映るのは、大きく見開いた丸い目を持つダルメシアンだった。思わず二度見してしまった。確認した姿は、やはりダルメシアンだった。驚きで気絶しそうになる。けれど、寸での所で踏み止まる。深呼吸をしてから、顔をあげて辺りを見回す。そして、ぐるりと見回す首を隣に立つ存在に気付き、またもや二度見する。隣には4年前に死んだはずのお婆ちゃんが立っていた。そして、自分に向かって優しく「サトシ」と呼ぶ声が聴こえた。懐かしい、以前と変わらないお婆ちゃんの声だった。「お婆ちゃん!」とサトシの方も思わず声が出た。そのつもりだった。けれど、サトシの耳に実際に響いて来たのは「ワン!」と言う音だった。

 

 

5.7月6日夜:再び宇宙人カルタ

カルタは円盤船を広い敷地の片隅の人気のない場所に移動させた。木が覆い茂っている辺りだ。以前、他の星の宇宙人が、帰りに見つけるのが簡単にみつかる様に、宇宙船をあまりに大胆な場所に置いたままにしていると、それを見つけた人間によって、宇宙船を取り上げられた話を聞いたからだ。帰る手段をなくしたその宇宙人は、しばらく地球に留まるはめになったという。人間たちは得体の知れない物体が突如出現したことは大きな話題になった。人間たちは興味深く熱心に宇宙船を調べ上げ、宇宙人が地球にやって来たのかもしれないという所まで突き止めていた。しかし、飽きやすい人間たちは、ある程度騒いだあとは、この話はたまに話題にのぼるぐらいで、だんだんと噂話となり、とうとう誰も話題にしなくなった。しかし、このままその宇宙人が人間に見つかっていたら、どうなったかわからない。

宇宙船を取り上げられた宇宙人はその時の旅を、全くもってバッドトリップだったと振り返る。しかし、その宇宙人は、運が悪い様で、運が良かった。自分の星に帰る事が出来たからだ。同じ方面に帰る宇宙人がたまたまいて、その宇宙船に同乗させてもらった。この時期、ハスの花の幻覚作用を求めて、地球にやってくる宇宙人はそれなりに多い。だけど、そうは言っても、広い地球上で他の宇宙人との出会いは稀な事であり、しかもその宇宙人が、かなり広い宇宙で同方向に帰る親切な人だったというのは、宝くじに当たったに等しい。

そういうわけで、宇宙船をなくして、自分の星に帰れる保証はどこにもない。きちんと見つからない場所に隠しておく。こういった来訪先の星に関する数少ない情報は、旅好きな宇宙人ネットワーク網space network salonを通して得られ、実際にとても重宝する。そしてこの話の場合、宇宙人が地球に来ている事が人間に見つかると、宇宙人は地球に来づらくなるので注意しろという戒めでもある。

この出来事の重要な点は、カルタにとって二つの側面がある。一つは既に述べた通り、人間には要注意という事だ。宇宙人であることが見つかると厄介である。そしてもう一つは、自分たちに似た知能を持つ人間は利用価値があるという事だ。カルタはハスの花の採取で、水の問題をクリアするため、人間を利用する計画を企てた。

計画を実行するために必要なのは、手頃な人間を1人見つける事だった。高かったり低かったりする石の箱である建物の中に、人間が住んでいる。石の箱が積み重なったマンションの部屋を、中にいる人間に見つからない様、外からそっと中を覗く。電気が消えている真っ暗な部屋は何も見えず、人間のいる気配もない。電気の点いた明るい部屋を覗いていく。複数の人間がいる部屋には用がない。薄明りのついた部屋に1人の人間が横たわっていると思っていると、よく見ると重なった2人の人間だったりもした。たまに部屋の前に人間の上半分だか下半分だかの形をした、抜け殻が揺れている時がある。いくつも並んだ抜け殻は、とても気持ちが悪いので、この場合も避けていく。慎重に部屋を覗いていくと、1人だけの人間がいる部屋があったりもした。しかし、透明の固い石で出来た窓ガラスが固く閉まっていて、中に入れない部屋が多かった。

 ようやくカルタは、窓が開いた部屋に人間1人が住む、理想的なターゲットを見つけた。人間は中で、テレビという光る箱を見ているところだった。

カルタの計画では、対象となる人間の意識の中から、その人間と親しい人物になりすまして近寄り、ハス採取の協力を仰ぐというものだった。宇宙人はそれぞれの惑星で特徴があり、ペーパー星人は波長を操るのが得意だった。

カルタは早速、そっと部屋に忍び込み、超音波に似た波長を発して、目の前の人間の脳の意識を引き出す作業を始める。人間の意識の層は何重にも重なる。意識は上の方から比較的新しく鮮明な意識で、下の方は古いフィルムの様に不鮮明で見辛くなる。けれど、古くても残っている意識は、それだけ大事なモノだった。比較的新しい意識に何度も登場するのは、黒いブチのある大きな犬で、これが何匹も何匹も重なって出て来る。しかし、すぐに犬の層は消え去り、どんどんと入れ替わり立ち代わり様々な人間が登場する。しかしその中で、何度も登場する人間があった。その人間が登場する意識は、とても温かく好意的な意識だった。かなり初期の意識までさかのぼっても、その人間は登場する。カルタはその人物になりすますことにした。意識をさかのぼるうちに、対象の人間についての幾つかの基本情報も得る事が出来た。彼の名前は「サトシ」という。そして、カルタが成りすまそうとしているのは、「お婆ちゃん」と呼ばれる人物だった。カルタは「お婆ちゃん」になりすますために、今度は、自分に反射する光の波長を調整した。そうする事によって、カルタはどの人間から見ても「お婆ちゃん」になった。

しかし、カルタがお婆ちゃんになりすまして、準備が整った所で、倒れたサトシはなかなか起きなかった。意識を探っていく作業は、サトシの脳への負担が相当大きかったらしく、そのまま夜が明けてしまった。朝方のハスの花が咲く頃になっても全くサトシは起きない。カルタはせっかく地球にいるので、早くハスの花の元に行きたくて仕方がなかった。サトシを放っておいて、自分だけハスの花の所へ遊びに行った場合、戻って来た時に、サトシがいなくなってしまうと、折角の計画が台無しになる。しかし、サトシを一緒に連れていくにしても、眠ったままの人間を連れて歩くのを、他の人間に見つかると厄介な気がする。

カルタは思案した挙句、自分だけでなく、更にサトシの姿も犬に変えてしまう事を思い付いた。さっきの意識の上澄みの方にあった黒いブチのある白い犬だ。カルタは事前の調査で、人間はよく犬という生物と一緒に歩く習性がある事も知っていた。しかも、犬はことのほか、人間に従順の様だ。これで問題はひとまず解決した。

そして、カルタは「お婆ちゃん」に、サトシは「ダルメシアン」になった。

 

 

6.7月7日早朝:再びダルメシアン(サトシ)とお婆さん(カルタ)

カルタはサトシを連れて、ハスの花の元へ出かけようと部屋の外に出た。しかし、犬になった所で眠っているサトシを移動させるには、やはり本人の意識がない為に、重くてちっとも前に進まなかった。首に縄を付けて、引いたり押したりしながら、夢遊病者の様に、少しずつしか前に歩かず、一向に進まない。日が昇り切った所で、マンションの階段を降り切っただけだった。それから先もどんどんと太陽が空を登って行くけれど、2人の移動距離はマンションから数十メートル離れただけだった。

朝の間は意外に多くの人が道を通って行った。特に、大きな人間、大人よりも、小さな人間、子どもが次から次へと通って行く。それには、カルタも気が気でなかった。なぜなら、実際、大人はカルタとサトシの方を見ないか、もしくは見てみぬふりをする。しかし、小さな子供達は2人を興味深々にじっくりと眺めながら、無邪気そうに大きな声で、カルタとサトシに向かっていちいち色々な事を言ってくる事が多かったからだ。

「あ、ダルメシアンだ。この犬がたくさん出て来るアニメ、この間観たよ。」

こういうような事をいう子どもが多かった。この犬は人間の間で有名な何かの物語の、人気のキャラクターであるらしい。

「あのお婆さん小さいのに、大きな犬を連れているよ。同じ大きさだ。すごいね。強いんだね」

これをいう子ども何人かいた。犬と人間のサイズが少々アンバランスらしい。カルタは細かな調整が下手だった。

「ワンちゃん、ちょっと疲れてそう。水飲んだら元気になるかな」

そう言って、その辺にあった赤い容器に入った水を、わざわざ持って来る子どももいた。鋭い子どもだ。よたよたとした動きに、中の水がこぼれている。水などを持って来て、何とも余計な事をする子どもがいるものだと、カルタは不快になった。

しかし、人通りが多かったのも、朝の一定の時間範囲の間だけだった。それに、誰もカルタが宇宙人であるという事に気が付いた人間は1人もいなかったことが、何よりもカルタを安心させた。

 

更に時間が経つにつれて、太陽は照り付ける暑さを増していった。カルタは暑くても問題はなかったが、サトシがだんだんと心配になってくる様子だった。暑さのせいで、無い意識の上に、朦朧としている様だった。さっき子どもが持って来た赤い容器の中の水を飲めば、サトシも元気になり、目を覚ますかもしれない。試しにカルタはサトシに水を飲ませてみた。すると、サトシはようやく意識を取り戻したのだった。

「ワン!(お婆ちゃん!)」

「サトシ。やっと目が覚めたね。」

「ワンワワンワン(どうしてお婆ちゃんがここにいるんだ?)」

カルタは人間のしゃべる言葉は文法があるので理解出来るが、サトシがしゃべるイヌ語は、出鱈目で何を言っているのかわからない。波長で変えているのは視覚的な効果だけなので、サトシはしゃべるのは普通に喋れるはずなのだが。しかし、寝起きのせいか、パニックのせいか、サトシは自分を犬だと身心ともに思い込んでしまっているようだ。目が覚めたサトシは、もう犬である必要がなくなったので、カルタはサトシの視覚波長の補正効果を解いた。

「ワンワワンワン、ワワワワワン(お婆ちゃん、俺、なぜか犬の格好をしているんだ。自分でも自分がどうなっているのかわからないのに、お婆ちゃんは俺がサトシだって、わかってくれるのか。)」

サトシはそう言いながら、嬉しさと懐かしさが込み上げてきた。サトシは子どもの頃から同居していたお婆ちゃんにたくさん遊んでもらった。いわゆるお婆ちゃん子だ。4年前に死んだはずのお婆ちゃんが、再び目の前にいる事や、自分が犬の姿だろうとどんな格好をしていようとも、お婆ちゃんは自分をサトシだとわかってくれる事が、なによりとても嬉しかった。

「サトシ、君はもう犬ではなくなったよ。だから普通に喋ってくれ。それから、実はサトシ、君に手伝って欲しい事があるんだ。」

サトシはお婆ちゃんにそう言われて、慌ててもう一度バケツの中を覗いてみた。するとそこには普段の見慣れた顔があった。念のため、3度くらい見直したが、もうそこに映っている姿は犬ではなかった。

サトシはますます自分が置かれた状況がどうなっているのかわからない。水の不味さは目が覚める程、現実だったけれど、もしかするとこれはまだ夢の中なのかもしれない、とサトシは考えたりもした。とにかく、死んだはずの大好きだったお婆ちゃんが、再び目の前にいて、何か自分の力が借りたいと言って戻って来ている。

「俺に手伝ってほしい事って何?出来る事なら何でもするよ。」

「ハスの花ってあるだろう?そのハスの花を採るのを手伝って欲しいんだ。」

天国に一番似合う花が、ハスの花だ。お婆ちゃんが天国へ行くには、ハスの花を持って行く必要があって、それを採りに戻って来たのかもしれない。サトシはそうお婆ちゃんの話を解釈した。お婆ちゃんは死んで4年も経つ。なのに、まだ一度も天国に行っていないのだろうか。それなら早くハスの花を持たせて、天国に行ってもらいたい。それに、わざわざサトシに助けを求めに来てくれたのだ。手伝わない理由はどこにもない。

「お婆ちゃん、俺手伝うよ。」

「本当?手伝ってくれる?サトシ、ありがとう。」

無表情だったけれど、お婆ちゃんは昔と同じ声で嬉しそうにそう言ったのがサトシには嬉しかった。

「だけど、ハスの花はどこに採りにいけばいいんだろう」

サトシの協力を得られる事が決まって、カルタはとても嬉しかった。一安心だ。そして、サトシのこの問いに、張り切って答える。

「とりあえず、ここから一番近い寺に行ってみよう。もしかするとまだ咲いているハスの花があるかもしれない。」

「一番近い寺なら、うちの墓がある寺だね」

 

7.7月7日午後3時:寺;サトシとカルタ(もしくはお婆ちゃん)

サトシたちが寺に着くとすでに午後3時を回っていた。一年のうちでも一番暑い時期の、日中で一番暑い時間帯だった。夏の暑さの最盛期は7月に不意を突いてやって来る。木陰はあるけれど、まったく涼しさを感じない。熱を持った空気がどこまでも漂っている。

一方、蝉の最盛期は7月を越えて8月にやって来る。境内に並ぶ大きな木々の枝に、より鬱蒼と青い葉を茂らせている。それぞれの木が抱えている枝には、いくつも蝉をぶら下げていて、ほうぼうで鳴く。これから夏が深まるにつれて、蝉はさらに数が増えていき、重なる声の厚みが幾重にも増していく。

サトシは久しぶりにお婆ちゃんと一緒に墓参りに行く感じがとても懐かしかった。昔は8月のお盆の季節に毎年墓参りにいった。サトシが小さい頃は、お婆ちゃんに連れてもらって墓参りにやって来た。お墓参りの後は、いつもお婆ちゃんと一緒に美味しいものを食べに行ったのも楽しかった。だけど、大学を出て就職をして実家から1人暮らしをはじめてからは、墓参りに行かなくなっていた。最後にお墓に来たのは、大学4回生の時に、お婆ちゃんが死んだ時に納骨の時だった。その死んだお婆ちゃんと墓参りに来るのも、妙な感じがした。お墓参りに行かなくなったのは、環境が変わったり、仕事が忙しくなったりしたのが原因の様な気がしていたけれど、なんとなく楽しかった家族の出来事を、自分1人だけでなぞるのが嫌だったからの様な気もしてきた。

そうはいうものの、お婆ちゃんは寺に着くなり、サトシを置いてすぐに境内の池の方へ行ってしまった。自分のお墓へ行くのは、やはり気が引けるのかもしれない。

カルタは目的である、境内の池のハスの花は、しっかりともう閉じていた。もしくは、大きな葉に、はらはらとこぼれたピンク色の花びらと黄色くて細い雄蕊が乗っかって、すっかりと花が終わった散蓮華になっていた。これでは池はただの池だった。暑さで藻が増えた白緑色の水に赤い鯉の影が映り、岩の上に亀が首を延ばしてあくびをしている。つられてカルタも、もらいあくびを1つした。

サトシが墓参りを終えて、池にいるお婆ちゃんのところに戻ってくると、お婆ちゃんはとても気を落としているようだった。池を見るとお婆ちゃんが求めているハスの花が咲いてなかったので、きっとそのせいだろう。

お婆ちゃんがとても落ち込んでいるのを見て、サトシはなんとか励まそうと考えた。ふと墓地の方を見ると、「中村家之墓」と書かれている墓石があった。他よりも少し大きくて立派な灰色の墓石だった。

「そうだお婆ちゃん、かき氷を食べに行こうよ。こう暑いと、かき氷が美味しいよ。中村軒はここから少し遠いけど、近くにどこかかき氷屋さんがあるはずだよ。俺、お婆ちゃんが死んだ時は、まだ学生だったけど、今もう働いてるから、お婆ちゃんに美味しいかき氷をご馳走するよ。」

サトシが小さかった頃は、実家の冷凍庫にはスーパーで買ってきたアイスやかき氷のパックがいつも入っていて、3時頃になるとそれを出してきておやつに食べた。サトシはいつも自分の分のアイスと、お婆ちゃんの分のみぞれのかき氷を出してきて、スプーンを2つ用意した。全く同じものを、反対にお婆ちゃんが用意する事もあった。そうやって、よく2人でアイスとかき氷を一緒に食べた。はじめは冷凍庫から出したばかりのアイスは、カチコチでなかなか食べるのが進まない。だけど、スプーンを突き刺しながら食べて行くと、夏の暑さですぐにアイスは柔らかくなっていく。そうなると、サトシは必死になって、パクパクとアイスを口に運ぶのに忙しくなる。サトシが食べている間、お婆ちゃんは隣でみぞれのかき氷をずっとおなじペースでたべるので、お婆ちゃんのみぞれはいつも半分ぐらいが溶けて、最後はただの甘い水になってしまった。

カルタははじめ、かき氷がなにかわからなかったけれど、サトシが話す思い出話を聞きながら、かき氷が冷たく凍らせた水である事を知る。水を体に取り込むなんて、カルタは想像しただけで寒くなった。

「サトシ、せっかくだけど、かき氷はまた今度でいいよ。」

「遠慮しなくていいよ、お婆ちゃん。」

「なんというか、かき氷は、今はあまり好きでなくなったようだ。」

お婆ちゃんは本当に、かき氷をあまり好きではないような素振りで言った。それを聞いたサトシは、少しショックだった。お婆ちゃんは死んでから好みが変わったらしい。

 

 

8.7月7日午後8時:レンタカー

カルタはサトシの運転するクルマという乗り物に乗っている。これはとても便利だ。これが地球の表面をたくさん走っているのは、よく見かけていた。中に人間が乗っていて、主に海以外を移動するのに使われている様だった。人間の乗り物なので、まさか自分が乗るとは、カルタは思っていなかった。しかしこの乗り物は自分が乗っている円盤宇宙船と比べると、背中にもたれる座り心地から、室温、音楽が鳴る空間、移動する速さ、移動とともに透明の窓から流れていく景色、どれもが快適で魅力的でとても気持ちがよく、とても気に入った。窓から流れていく景色は、夜になって外はすっかりと暗くなっている。建物や車がたくさん走る通りから、あまり人のない、田んぼが続く道を走ると、さらに辺りは暗くなった。夜は全ての物が隠れてしまう様に暗くなった。カルタの住むペーパー星では、こんなにも暗くなる事はない。サトシはどうしても、車に「お婆ちゃん」を乗せたかったようだ。車はさらに暗闇の奥へと向かって走る。

 サトシは墓地で落ち込むお婆ちゃんを見て、どうしてもお婆ちゃんに元気になって喜んでもらいたいと思った。そこで、ハスの花が大量に自生している場所に、車で連れて行ってあげる事を思い付いたのだった。ハスは寺や神社の境内の池やお堀に植えられている以外にも、湖や池などで自生しているものが多い。ハスは勝手に生えているので、自由奔放に葉を広げて花を咲かせる。サトシは思い付くと早速レンタカーを借りた。時間はまだ十分にある。

 

 

8.7月7日午後10時:宿

サトシは車を走らせて、目的の湖畔までもう少しという辺りまで着くと、道の脇にある古い木造の建物を見つけた。看板には、「ハス見舟出します」と書かれている。幸いなことに、この時間まだ中の明かりが点いているので、サトシは断られるのを覚悟で、インターホンを鳴らす。中から「はぁい」という返事が聞こえて来ると、少ししてから、中からおばさんが出て来た。

「夜分にすみません。看板にハス見舟出します、と書いてあったものですから。」というと、おばさんは明るく気さくな感じで「はいはい、明日の早朝に用意できますよ。」という。車でここまで来た事を伝えると、ハスの池まではもうすぐそこなので、見に行く時間まで上がって休んでいたらいいと計らってくれる。

「舟は午前3時頃から出せますが、何時ごろにされますか」とおばさんは言う。ハスの開花は9時頃には終わってしまうけれど、開花の初めは夜中から咲くものもあるらしい。一番よく咲く見ごろの時間は、蜜蜂が花粉を運ぶ7時とか8時頃になるので、早朝にはたくさんの花が咲き揃うようだ。サトシはお婆ちゃんに、3時は早すぎるかと相談したところ、お婆ちゃんは目を輝かせて、「3時でもいいので早く観たい」という。「それじゃあ」と言って、3時に起こしてもらう様にお願いをして、船でハスの花を見に行く事になった。サトシは車の運転だけでなく、今日は1日疲れた気がしたので、上がらせてもらい、休憩室になっている畳の上で、置いてあった座布団を二つ折りの枕にして寝転ぶと、すぐに寝息を立てはじめた。

サトシはしばらくすると、カタカタと言う音が聴こえてくるので目が覚めた。お婆ちゃんもいつの間にか寝てしまった様で、隣でぐっすりと眠っている。宿のおばさんがタオルを掛けてくれたようだった。音はずっと聞こえて来るので、ついでにトイレでも行こうと思い、廊下に出てみる。音がする方に向かって行くと、まだ明かりの付いている部屋があった。部屋には旗織機があって、女の人が旗を織っている所だった。

「今日は月が大き過ぎて、空からはみ出していますね。」

サトシはそう言われて、開いている窓の外を見る。

「本当ですね。夜からこぼれ落ちています」

女の人の顔はさっきのおばさんにそっくりで、それを随分と若くしたものだったので、娘さんだろうと、サトシは思った。

「何を織っているのですか」とサトシが聞くと、娘さんは「座布団を織っています。」と言う。娘さんの話を聞くと、織機にのせた経糸には蓮糸が使われ、緯糸には蜘蛛の糸がつかわれているという事だった。サトシがはじめて聞いた蓮糸とは、蓮の茎や葉からとれる繊維を使って作られた糸だそうで、蓮がたくさん採れるこの辺りの名産品らしい。独特の風合いに、とても肌触りがよい。けれど蓮糸を撚るためには、大量のハスがいるため、かなり希少なものになるという。1m織るのに11000本の蓮がいる。それで、足りない分の緯糸に、蜘蛛の糸を使っているという事だった。なぜなら、最初は知り合いのために落語の高座用の座布団を1枚だけ作るつもりだったのに、その話を聞いたオキャクサマから頼まれて、急に明日の晩までに宴会用の50枚の座布団も作らないといけなくなったからだそうだ。そのせいで、休日返上で仕事をしているらしい。

「50枚作る作業は大変ですね」とサトシが言うと、

「まあ1500年程しているので、慣れていますから」と娘さんはいい、1枚目の落語用の座布団は、全部蓮糸で作ったことや、落語家はとても筋がよくて、今度それに座って話す寄席に招待してくれていて、今日の代休に聞きに行くのが楽しみだという話など、よく喋ってくれて楽しかった。

喋っているとまた急に眠たくなってきたので、サトシは「それじゃあ、おやすみなさい」と言ってまた部屋に戻って、横になって寝た。

 

10.7月8日午前3時:船着場

サトシが寝ている間、カルタはずっと起きていた。もうすぐハスの花を見に行く事になるのだ。近いという事なので、このままこっそりと1人で見に行ってもいいものだけれど、この辺りは真っ暗すぎるので、うっかり池に落ちてしまうと大変だ。いつもはそれが怖いので、街中の明るい寺の池やお堀のハスを楽しんでいたけれど、今日はもっとたくさんのハスの生えている所に連れていってくれるらしい。変装が功を奏しているらしく、サトシはとても「お婆さん」思いのいい奴だ。サトシがいたら安心だし、何より、サトシはハスを採るのを手伝ってもくれるという。それから、舟というやつにも乗せてくれるらしい。きっと車みたいにハスがよく見える快適な乗り物なのだろう。

サトシは宿のおばさんに3時丁度に起こされた。一緒に寝ていたはずのお婆ちゃんの方をみると、すでにもう起きていて、とても張り切っている。よっぽどハスの花が楽しみらしい。舟を頼んで良かった、とサトシは思った。船頭はおばさんの旦那さんがしてくれるという。おじさんはもう外で待って準備をしていた。おじさんはよくしゃべる人で噺がとても上手かった。

ハスの池まですぐ近くと聞いていたけれど、歩きながらの道中、おじさんがたくさんハスのことを教えてくれる程には、かなり遠かった。ハスの花は4日間咲き、開いた花の色が毎日変わってしまうこと、2日目は真夜中から開花しはじめて、朝7時から9時ごろまで満開が続き、香りも強く、昆虫も多くやってくること。また、ハスは2億年前の恐竜時代からの古い植物であること、約1万2千年前の地層から蓮の果托や葉片などが発見されたこと、幾度と洪水になって消滅したように見えても、また時間が経てば数年後に綺麗な花を咲かせることなど、ハス見舟は江戸時代の頃からすでに往来しているらしい。しかし、蜂による品種の雑交が盛んにおこなわれるので、100あった原種は当時の三分の一しか残っておらず、しかし、3倍に品種は増えた。

 

ハスの自生する池に繋がる川の上流に、船着場はあった。船着場には、木造の舟が一艘あった。暗過ぎてよく見えないけれども、舟はかなり使い込んであり、雨風に晒されて、いい風に言えば、とても風情があるな、とサトシは思った。みんなでさっそく乗り込むという段になり、思いがけずお婆さんは悲鳴をあげた。

「これに乗るのですか?」

カルタは思わず驚いた。舟というものは、ただの木製の板が水の上に剥きだしで置いてあり、浮かんだものだった。水の浮力だけを利用した、原始的な乗り物に、どうやって乗るというのだろう。しかも、乗った所で剥き出しのボディに、ずぐにも水がバシャバシャと飛んできそうだ。とても危険すぎる。

「大丈夫、ハス池まではすぐ着きますから。」

「そうではなくて、こんなの水に落ちてしまうじゃないですか。」

「古い舟に見えますが、昔の船大工の仕事は今の機械が造る舟より丁寧で、信頼がおけますよ。この船は、一度に10人は乗っこともあります。お酒を飲んだり、七輪で魚を焼いたりしながら、大宴会です。綺麗なハスを観ながら、ハスの葉や華を器にお酒を呑むのです。お酒はとても進みます。大そう酔っ払って、どんちゃん騒いでも誰も船から落ちた事はありません。とにかく2人や3人、人が大人しく乗っているぐらいでは、沈む事はもちろんありませんから、安心してください。」

おじさんがそう言うのを聞いて、サトシも少し抱えていた不安が解消した。けれど、お婆ちゃんはぞうではないようだった。

「お婆ちゃん、大丈夫だよ。折角ここまで来たんだから、舟に乗ってみようよ」

「舟からだと、とても近くでハスの花が見られますよ。かなり広大にハスの花が咲いているので、この世のものとも思えないくらい綺麗ですよ、お婆さん」

たくさんのハスを間近で見られるのは、カルタにとって願ってもないことだ。しかし、水が恐ろしいのでどうしようもない。

「舟の真ん中あたりに乗っていたらいいんですよ。」

船頭さんが言う様に、舟の真ん中であれば、なんとか気もまぎれて大丈夫かもしれない。ハスの誘惑に負けて、カルタは決心した。

「それじゃあ、舟の一番真ん中に乗せてもらいましょう」

「よし来た」

船頭のおじさんは先に船に乗り、お婆ちゃんを抱えて船に乗せてくれた。それから、サトシも乗り込んで、いざハス見船は水路へ向かって出発した。

 

11.7月8日早朝:ハス見船

舟は始め、葦原をどんどんと川を下って行く。まだ暗いため、辺りはよく見えないけれど、周りの様子が少しずつ変化している事は、闇を漂ってくる香りによって、知らされる。見えないことで濃度を増す甘い香りは、手を伸ばせばすぐに届く距離まで近寄っている。いつの間にか、すっかりとハスの生育地に入り込んでいた。薄明が闇の空を僅かずつ浸色していく。前方に突然現れたハスの華が、闇をそこだけ深紅に染め抜いて満開に浮かんでいる。美しさに1つ気が付いてしまうと、すぐにそれは1つが2つになり、3つ、4つと、そして目の前の風景に写り込む。とうとうハスの花の美しさを数える切りがなくなってしまった。それは個体と群集の対比の美しさでもあった。

 

サトシは今いるのが現実なのか、わからない様な気になって来た。死んだはずのお婆ちゃんも、目の前の景色も、どれも本当である証拠も夢である確証もない。

 

闇は次第に、赤から白、白から黄へと、色の広がりが現れてくる。時間の経過により闇が空から白くほどけてきているからだった。あたり遠くまで一面が、ハスで覆われた湖は、驚く程見事だ。時間の重なりは空の色を変えていった。夜が明けていきながら、どの花も重なる花びらにうつろいと影を持って、刻々と開花していく世界は、ひとところに止まる瞬間がなかった。

 

 カルタはハスの花の幻覚作用によりとても幸せな気分だった。ハスの花1つ1つに、挨拶をしたい気分になっていた。池の水が怖いという気持ちは、もはや完全にマヒしてしまっていた。カルタは無意識に少しでも近くでハスを観たいと思い、身を乗り出す様にハスを観てみている。そして、ハスの花に思わず手を伸ばした瞬間だった。

 

「ボンッ!」

 

音と共に、一瞬の白い火花が光った後には、四角い箱の胴体の人型のロボットが横たわっていた。僅かに白い煙が揺らいでいる。

 

サトシと船頭のおじさんは、静かな幻想的な景色の中で突然起きた衝撃音の方を見てから、その次に二人は顔を見合わせた。お婆さんはどこにもいなくなっていた。そして、代わりに変なロボットが寝転んでいる。どうしてそこにそんなものがあるのかわからない。

 

カルタは意識を取り戻したと同時に、見ていた幻覚もどこかにとんでいってしまっていた。そして、周りのサトシと船頭さんがカルタを見つめながら驚いている顔で、自分に何が起こったのかをすぐに思い出した。カルタの伸ばした手を伝って、ハスの花が抱えていた朝露が、雫になって上からカルタに降り注いだのだった。カルタのロボットの様にみえる身体は、高圧電気の自家発電で動く生命体であり、水は少量でも電子回路のショートの原因となる。そのため、カルタは水を恐れていたのだった。

幸いにも、朝露の雫程度の僅かな量の水だったので、大きな怪我には至らず、すぐに自己回復装置が作動した。

「君はいったい誰だ?」

サトシの質問に、逃げも隠れもできない水の上にいる状況に、カルタは覚悟を決めて、事の経緯を説明した。カルタがペーパー星から来た宇宙人で、ハスの花をどうしても自分の星に植えたいと思ったが、水が苦手な体質の為、サトシを騙して協力者になってもらおうと思い、お婆ちゃんの姿になりすましていた事をすっかり全部サトシに話した。その間も日は静かに昇っていく。

「つまり、お婆さんは君だったというわけだ。」カルタの話を聞いて、サトシは思い返してみると、見た目はお婆ちゃんでしかなかったけれど、しゃべり方は感情豊かに喋るお婆ちゃんではなく、今喋っているカルタと同じで淡々と喋っていた。ところどころ話が噛みあわない原因もわかった。

「申し訳ない」とカルタはサトシにだましていた事を謝った。

明るくなりハス池がよく見えると同時に、乗っている舟の様子もよく見えた。年季の入った舟の材質は、風化して灰色に近い色で、かなりボロボロの舟だった。カルタは船頭のおじさんにも、爆発で舟の底を少し焦がしてしまった事を詫びた。

カルタが謝っている姿を見ながら、サトシは目の前に広がる景色につられて、悟った様な気分になった。

 

話を聞いていた船頭のおじさんは、カルタとサトシにそれぞれ丸い実を渡した。カルタに渡した実は、黒い蓮子だった。

「これを持って帰るといい。ハスの種子です。地層調査で出土した2000年前も昔のハスの種が、現代で発芽が成功したことがありました。花を持って帰っても、枯れてしまうだけですよ。ハスは、水の中にある蓮根か、この種子で増やします。ハスの花の中心にある花托の中に出来る実が、成熟したものです。星に帰ったら、これを植えてみてください。」

サトシに渡した実は翡翠色の蓮子だった。

「蓮の実は昔子どもだった頃は、これをハスの池からとってきて、おやつに食べていました。翡翠色をした皮を剥くと、中は白いクリーム色をしていてコクのある甘味とスパイスのような苦みがして美味しかったものです。お婆さんもひょっとしたら、あの世のどこかでこれを食べているかもしれません。」

サトシはもらった蓮子を食べてみた。おじさんが言う様に、甘くて少し苦かった。誰かとの大切な思い出を食べると、こういう味がするのかもしれないと思った。

 

三人を乗せたハス見船は、ゆっくりと移動した。ハスの池は刻一刻と常に変化する。明るさを手に入れた景色は、ハスの花を遠く一面まで続く遠近法に置き換えた。船にあたって返っていく波紋の精密な形は、水面に奥行を生み出す。カルタの正体を明かした朝露は、花や葉に付いた透明の玉になって、蒸発する寸前まで朝日に照らされて輝いている。花と花の間を行き交う蜜蜂たちが、明るさの一部になって動いている。

 

 

12.7月8日夜

夜7時の小学校横の路地で、母親と男の子が喋る会話が聞こえて来る。自転車を走らす親子の二人乗りは、補助椅子に座る幼児が母親に言う。

「ねえお母さん、今日は月が大き過ぎて、空からはみ出しているよ。」

「そうねぇ。大きなお月さんが夜からこぼれ落ちてるね。」

「もうお化けの運動会が始まってる時間だね」

「そうねぇ」

「お母さん、今からお化けの運動会見に行こうよ」

「そうねぇ。でも今日の晩御飯はハンバーグだから、運動会はまた今度にしない?」

「ハンバーグ?そうだね、じゃあ早く帰ろう。お化けの運動会は今度にいこうね。」

「そうねぇ」

「ハンバーグにあんな感じの目玉焼きが乗せてあったらいいな。」

小学校の校舎の裏の木の影から、円盤がひっそりと宇宙に向かって出発する。

 

13.エピローグ

ハスの種を持ち帰ったカルタは、早速自分の星にそれを植えた。水のないカルタのペーパー星でもハスは芽吹き、環境に適したペーパー星産のハスの花が咲いた。電気生命体の生育するペーパー星では、電気でピカピカと点滅しながら光る、派手な電飾タイプのハスの花へと独自の進化を遂げていった。

この進化のプロセスは、地球上に現生しているハス自体が、宇宙からの外来種だった事を証明していた。地球にやって来て、自生していったハスは、水が多い地球に適応した種へと進化したのだった。ハスの花の特徴である幻覚作用効果は、宇宙人である人間にはすでに慢性的に作用していた。それは想像と呼ばれた。

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