梗 概
言葉にできない
「わたしのクチを返して。わたしの顔の真ん中に付いていたわたしだけの言葉をしゃべっていたわたしのクチを返して」
「あれはもうあたしだけのものだ」
カナ子のクチビル細胞は切りとられた。”静かな検閲”が普通となった社会。自分の欲望を満たすことは否定されなかったが「会社」に逆らうものは抑圧された。
違う世界に行きたがっていたカナ子の友人も相手にするものがいなくなり、引きこもったあげく河原で死んだ。
「ごめんね気がついてあげられなくて」
「そんなの嘘よ」
「そうかな」
「ちょっとでも違いはじめるとみんな恐ろしい勢いで気づくの。好ましい違いだったらただあざ笑うし、いやな違いだったら排除にかかる」
「そうかな」
クチビル細胞を持った人間は、自分の心の中の情景を、他者の心に投影することが出来た。他者の抱え込んでいる嫌悪感・憎悪を吹き出させることが出来た。
「会社」は、クチビル細胞を持った人間に社員を扇動され、本社を占拠されたことがあった。それ以来「会社」は、クチビル細胞を持った人間を探し、切りとり、その後の人間は精神病院の患者として表には出さなかった。
カナ子には大それた想いはなかった。自分がクチビル細胞を持っていることは薄々感じていたが、それを人に話すことはなかった。しかし彼女に接近してきた男によって見破られ、捕らえられ、カナ子の細胞は切りとられた。
切りとられたあと、カナ子は自分の持っていた力が惜しくなった。自分が出来たこと、見えていたものが見えなくなると悔しくて仕方がなくなった。その衝動は、クチビル細胞が自らを生き残らせるために作り上げたエネルギーだったのか。カナ子は自分の細胞を取り返す決意をする。
切りとられたクチビル細胞は、調整され「会社」の雇われインフルエンサーに植え付けられていた。「会社」は彼ら・彼女らを使って自らへの共感を高めていた。
カナ子は、自分にわずかに残っていたクチビル細胞の力を使って病院を脱出した。顔を変え、新しい個人情報を手に入れ、カナ子は「会社」に潜り込んだ。彼女の細胞を植え付けられたインフルエンサーのマネージャーとなった。
新しい企画の発表会の日、ステージ裏のインフルエンサーの楽屋にインタビュアーがきた。男は実はカナ子を追っていた「会社」の人間だった。彼はカナ子の正体を暴き、殺そうとする。カナ子は彼から自分を守ったが、深手を負う。カナ子は細胞を取り戻すことをあきらめ、発表会の直後のインフルエンサーを殺す。憎悪のイメージが、会場にいた人々とそれをネットで見ていた人たちに送り込まれる。
「アンタの中にあたしを放り込んで、アンタをあたしで満たして、引き裂く」
「バラバラに、バラバラになってく。左腕が遠くに飛ばされて。それから右足。右足のあとから、体が流れていって……バラバラになって……あたしが……宇宙の外側にはみ出したみたい……」
「寒いか?」
「でも、あたたかい」
「壊れな」
文字数:1204
内容に関するアピール
直接的な肉体の接触が減る中で、発せられた言葉だけが抽象物として飛び交い、狙いもしていないのにお互いを傷つけている。このようなイメージをSFらしく対象化して書きたいと思いました。”カナ子”という主人公の名前は、アングラ演劇から引っ張ってきました。イメージとして古い言葉を使いながら、新しい用語を織り交ぜて、不安定な現在を面白がることを望みます。設定として風呂敷をひろげましたが、登場人物の皮膚感覚に密着した、小さい物語にしたいと思います。
文字数:220