おむかえの距離

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梗 概

おむかえの距離

 中国の死生観は他の国と比べても独特だ。生きている間の善行悪行が死後に報われるのは他の地域と同様だが、四千年もの長い官僚支配の影響から、中国では死後も魂たちは官吏、つまり公務員として働く。日本でもおなじみの閻魔大王は、死後の裁判で生前の行いに応じた仕事を魂たちに割り振るとのこと。

 李長征は上海の人で、若くして亡くなった天文学者だった。

 死後の裁判では閻魔大王に生前の仕事を認められ、紫金山の天文台で暦を作る仕事を与えられた。

 ある日、いつものように長征が暦を書いていると、従僕の宝艏が閻魔大王の訪問を告げた。

 突然の訪問に驚きつつ応対すると、閻魔大王は命令書を長征に渡した。先日死去した善良な男を北京の新知事とすることに決まり、死没地まで迎えの行列を遣わせる。ついては李長征を行列の指揮官に任命する。これは長征にしかできない役目だという。

 軍人や音楽家でも無い自分に、なぜこんな大役を任せるのか、長征は分からなかったが、閻魔大王におだてられ、命令書を受理してしまう。命令書を開くと、新知事の死没地は月面基地と記されていた。

 冥界の北京新知事の迎えともなれば、楽隊と護衛の兵士、雑事含め官吏たちを合わせて四千人にのぼる大行列を指揮しなくてはならない。一介の学者である長征には手に余る大事業だ。しかも迎えに行くのは月である。

 長征の従僕である宝艏は、姿こそ少年だが、何百年も冥界で務めてきた有能な官吏だ。宝艏の手腕で行列の準備は整いつつあったが、それでも長征は悩んでいた。

 冥界の行列は雲に乗って行進する。雲の速さは一日一万里(約五千六百キロメートル)と決められている。地球上なら十分な速さだが、今回の目的地は月。一日一万里の雲で行くと、片道六十八日はかかる。そのうえ、月の地球に対する公転速度は一日に約二十万里なので、雲で月に着陸するのは不可能に思える。

 そこで宝艏に、雲を一日一万里よりも速くできないか聞くと、行進には威厳を保つ適度な速さがあり、着陸も問題ないと言う。片道二ヶ月の旅とは長すぎると言っても、宝艏は旅とはそんなものですよと首をかしげ、数世紀の認識差に長征はうなる。一秒で十万八千里を飛ぶ孫悟空の雲に乗せてもらえないかと聞くと、斉天大聖様の雲は速いが荒馬のようなもので、新知事を乗せるにはふさわしくない。月面に西洋人が教会を、日本人が神社を建てたそうだから、それらの連絡通路を使わせてもらおうと提案すると、他国の冥界の力を借りては、中華の威信に関わると却下される。

 長征の説得は役に立たず、お迎えの行列は整ってしまう。彼らを乗せた雲は北京の道教寺院から出現して、にぎやかな音楽を奏でながら空へと舞い上がる。

 長征の指揮棒に従い、雲は成層圏を抜けて暗い宇宙空間へと進む。呼吸できることに長征がホッとしていると、護衛の兵士たちが星々の間に鹿を見つけて狩りに駆け出す。兵士たちは鹿を仕留めて餃子作りをはじめ、煮炊きの煙が“上”へと昇り、風に吹かれてたなびく。楽隊の音楽は真空の宇宙空間に響き渡り、他国の天使や神々が見物にやって来る。物理学の知識と目の前の光景の齟齬に長征はのどを掻き毟り、その横で宝艏は天の川に糸を垂らして魚を釣り上げる。星屑がはじける鹿の餃子と魚の姿揚げは大変美味で、長征は冥界の物理法則に抗うのをあきらめる。

 雲間から“下”を眺めると、雲が地球からどれほど離れても、中国大陸が常に足元に見えている。楽隊は休むことなく音楽を奏で続け、兵士たちは鹿や山鳥の狩りに精を出し、二ヶ月に及ぶ旅程を経て、雲は月軌道へと至る。

 長征は月面への着陸のために雲を加速させようとするが、一日一万里の速度制限は解けず、月は雲の二十倍の速度で迫る。このままでは月面に衝突すると慌てる長征に、宝艏は指揮棒を月に向けて振れば良いと進言する。そのとおりにすると、雲は底面をくるりと月に向け、下降を始める。

 雲は無事に月面基地に到着する。見上げると、地球は少し自転して、中国ではなく大西洋あたりが見えている。

 新知事は、面倒を見に来ていた仙人たちと談笑しており、長征の到着を喜ぶ。

 迎えの行列の常として、生前世話になった人の夢枕に立たなくてはならない。親は上海に、無二の親友が火星の基地で働いていると新知事は言う。それを聞き、宝艏が青ざめる。

 一日一万里の雲では、火星まで最低でも片道三十四年かかる。月までの迎えの行列では予算も時間も足りず、しかし新知事ゆかりの人物の夢枕に立てなければ、お迎えの行列は失敗である。役目を失敗した官吏の今後は真っ暗だ。

 宝艏たち官吏はざわつくが、長征は自分が編纂した暦を確かめると、新知事を乗せて雲を出発させる。

 月面から上昇し、長征が明るい星に向けて指揮棒を振ると、雲は恐ろしい速さで進み始める。月も地球も遥か後方に飛び去り、何をしたのかと尋ねる宝艏に、長征は暦を見せる。

 月の軌道近くでも、雲は常に中国の真上にあった。雲が月軌道にいるとき、地球の自転に逆らって中国を足元に留めるには、一日に四百万里の速度を出さなければいけない。つまり、雲は一日一万里しか進めないが、それは“足元”にした地面に対しての速度であり、逆に言えば足元にした惑星がどれだけ離れていても、雲は自転と同じ周期でその惑星をまわる。

 この雲の性質を利用する。いま地球と火星は木星と等距離に位置している。九時間で自転する木星を雲にとっての“足元”とすれば、地球から火星に向けて、一日百三十億里の速さで雲を動かせる。

 そう宝艏に説明しているうち、四十分ほどで雲は火星へと到着した。

 

 無事、新知事は親友の夢枕に立ち、北京の知事となったことを報告できた。

 長征は暦を駆使して、火星から二日とかからず行列を中国まで帰還させた。

 一日一万里の決まりを破った事が冥界の議会で問題になったが、閻魔大王はそれを許し、役目を全うした長征に褒美を与えたという。

文字数:2418

内容に関するアピール

スキットを課題にされたので、対話は異なる認識を持つもの同士の、世界観のすり合わせだと、仮に定義しました。

そしてSF的な視点……異なる物理法則に身を置いている個体間のコミュニケーションを描こうと思い、組み立てたら、中国の死後の世界が舞台になりました。

現代の物理学(古典物理学)で宇宙を認識している主人公が、神話の世界の常識で宇宙を認識する登場人物たちに翻弄される姿を描きます。

文字数:187

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おむかえの距離

おむかえの距離

 

 晴れた中秋の夜、季節を問わずに咲く桃の花が、紫金山の天文台を包み込んでいた。

 穏やかな風が金色の彫刻や朱色の柱の廊下を通りぬけ、望遠鏡のある観測所を甘い香りで満たしている。紫金山天文台の望遠鏡は、崑崙山の水晶を削り出した屈折鏡を備え、鋼玉製の精密な赤道義に乗せられている。巨大な望遠鏡は、筒を朱で塗られ、金銀で彫刻された竜や十二神将で飾り立てられている。

 道服を着た技官たちが忙しく立ち回って、その巨大な望遠鏡を操作する。夜空の惑星を望遠鏡が捉えるたびに、観測主任が座標を読みあげる。

「荧惑、方位七十四点三六六、高度十二点九二四」

 観測所の技官全員が、主任の叫んだ火星の座標を繰り返して斉唱する中、静かに観測を見守る人がいた。

 三十代の半ばの男、紫金山天文台局長、姓は李、名は長征。字は無い。長征は、ごく最近死んだ人物である。観測員よりも上等な緑色の道服を着ているが、短く刈った髪に楕円の眼鏡をかけた現代人の顔つきには、あまり似合っていない。惑星の座標が読みあげられるたび、長征も自分の手帳に値を記録するが、竹墨に紙を巻いて糊で固めた鉛筆もどきを使うのは、毛筆に慣れていないためだった。

「次は歳星の座標をお願いします」

 長征が言うと、号令係が「目標変更! 歳星!」と叫び、観測員一同が繰り返し、大仰な仕掛けを動かして望遠鏡を木星へと向ける。

 木星に照準が合う前に、先ほど観測した火星の座標を、先月の値の下に書き加える。

 長征が竹鉛筆の尻でこめかみを掻いていると、観測所の入り口から少年の声が響いた。

「李局長はいらっしゃいますか!?」

 声をかけたのは補佐官の宝艏だった。

見た目は十歳そこそこだが、この少年官吏は、冥籍に入ったばかりの長征に、死後の世界の人物は見た目と能力がまったく一致しない事を毎日のように見せ付ける。その幼い容姿は、中華天界の財務を管理する尚書省の重職を歴任した文官にはとても見えないが、黄色の道服の着こなしや、落ち着いた立ち居振る舞いは、職務に忠実な高級官僚のものだった。

 その宝艏少年が、少々あわてた様子だった。そもそも観測所には滅多に顔を出さないのだ。

「どうしたんだい?」

 長征が尋ねると、宝艏は拱手して道服の袖をそろえ、報告した。

「閻魔大王様がお越しです」

 

 長征は惑星の観測を技官たちにまかせ、宝艏を連れて廊下を急ぐ。

「大王様の用件は?」

「わかりません。突然いらして、局長に会いたいと仰いました」

「こんな夜中にか?」

「なにか火急の事なのでしょう。いいですか、絶対に安請け合いなどなさらぬよう……」

桃の花の香りに満ちた夜の廊下に、二種類の足音を響かせ、宝艏は布冠についた銀鈴も鳴らす。

天文台の局長室には、赤顔に黒ひげをたくわえた、地獄絵に書かれたとおりの、閻魔大王その人が待っていた。廊下の桃の花の香りは、閻魔大王の焼けた金属の吐息にかき消さている。

長征は慣れない手つきながら、拱手して一拝する。

「臣、李長征。ただいま参りました」

「おお、職務中に突然すまんな」

 閻魔大王は、覗き込んでいた太陽系儀から熊のような巨体を起こした。長征が作った、太陽を中心とした惑星の現在位置を正確に示す仕掛けである。

「貴官の部屋は新しい物、珍しい物が多いな。ぜひ一度、ご教授願いたいものだ」

「恐れ入ります」

 賓客の来訪だというのに、閻魔大王には飲み物のひとつも出されていなかった。

「何のご用意もいたしませんで、失礼しました。ただいま宴席を設けますゆえ……」

 長征がそう言うと、閻魔大王は部屋が揺れるような大声で笑った。

「貴官も随分と官吏の心得が染み付いたものだ。しかし、そこの宝艏が客への粗相をするかね? もてなしは要らんと、わしが言ったのだよ」

たしかに宝艏は、お偉方への接待で失礼をはたらいた事がない。拱手のまま袖から目配せすると、少年官吏は視線でうなずいた。

「わしも今日は“お使い”でな。そうそう酒や茶を楽しんでいる場合ではないのだ」

「と、仰いますと。どのようなご用向きでしょうか?」

 閻魔大王はまたも笑った。

「そうそう、単刀直入。それでいいのだ。こんな夜遅くに参ったのも、会議が紛糾したからでな。決まった事を早速貴官に伝えねばならなかったが、貴官は夜に望遠鏡を使うだろう。ならば明朝より今夜のうちにと、こうして直接参った次第だ」

 閻魔大王はのしのしと長征に歩み寄った。

「用件というのはだな。幽州、北京出身の王篤徳という男が居る。両親に孝を尽くし、兄弟友人への信に厚く、先祖への礼の香は絶やすことなく、人はもとより獣虫草花にすら仁をもって接し、約束を違えたこと一度もなく、そしてよく学問を修めた、まさに五徳を体現した、まれに見る善人でな。その男が昨日、冥籍に入った」

関羽のような黒ひげをしごきながら、閻魔大王は続けた。

「これほどの聖君に、こちらでの相応しい仕事はないかと調べると、ちょうど王の故郷、幽州の州長の任期が切れる。そこで王篤徳を新州長に任命すると、天帝の御前会議で決まったのだ」

「それはそれは、大変おめでたい事でございます」

 天帝。生前の長征には、絶対君主がどういうものか良く分からなかった。死後も自分が所属する官僚組織の頂点とは知っていたが、天帝という単語を聞く機会もほとんどなく、いろいろな意味で長征にとっては雲の上の存在である。天帝の御前会議で身の振りようを思いやられるほどの人物、王篤徳に、長征はわずかばかりの羨ましさを覚えたが、それよりも遥かに、めでたく祝いたい気持ちが勝った。

 幼い頃に聞いた、良い行いをした人が、死後に報われる昔話のように、善良な人物が大切に天界へと迎えられるのは、長征も嬉しく思える。

長征の心を見通してか、閻魔大王も満面の笑みを浮かべた。

「そう、めでたい事なのだ。祝い事ゆえ、新州長を迎えるときには、没地までお迎えの行進を差し向ける事になっておる。祭りのような賑やかな音楽を奏で、護衛の兵を引き連れ、往復の行進をするわけだ。規模こそ違うが、お迎えについては貴官も憶えておるだろう?」

 生前の長征が宇宙物理学の研究室でひっくり返ったとき。叩かれた油虫のように床で痙攣する自分を見下ろしながら、臨死体験とはこういうものか、などとぼんやり思っていた。

そこに、突然声をかけられた。五人の官吏が十人の武官と道士を連れ、三拝しつつ、丁寧な物言いで長征に死を告げた。死神にしては役人じみていたが、西洋の鎌を持った恐ろしい死神とは違い、中華らしいと言えばらしい。肉体に戻れないかとお決まりの駄々をこねてみたが、当然、願いは聞き入れられなかった。そのまま閻魔大王の前まで連れて行かれ、裁判を受け、天文台の局長を拝命して現在に至る。

「たいていの人間のお迎えは官吏が二人だけだ。貴官のお迎えも、一万人に一人ほどの、特別扱いだったのだよ。そして、王篤徳のお迎えの行進は桁が違う。予算の規模からしても、楽団三千人、兵士三千人、輜重が三千両は下らないだろう。そこで、だ」

 閻魔大王は袖から円筒に丸めた美しい紙を出した。その紙を見て、長征の後ろに控えていた宝艏が息を飲んだ。茂みから跳び出してきた飛蝗に驚いた女の子のような声だった。宝艏は拱手したまま這いつくばり、おでこを床に押し当てた。

 その紙は、虹と月の光を漉き揚げたように美しかった。宝艏の反応からしてよほどの物だろう。閻魔大王と宝艏を幾度か見比べていると、うずくまっている宝艏が小声で言った。

「局長、ひざまずいてください。わたしと同じように」

 なにやら分からないが、長征も宝艏にならって、おかしな格好でうずくまる。床の掃除が行き届いているので汚いとは思わないが、おでこが冷たい。

 長征が稽首の姿勢になるのを待ち、閻魔大王は虹月色の紙を広げた。

「天帝陛下のお言葉である」

 

『朕は、幽州新州長王篤徳の迎えを差し向けるにあたり、この一大事業を遂行しうる者として、紫金山天文台、局長、李長征を、左のとおり迎接游行の指揮官に任命する。李長征には、迎接游行に関する一切の権限を与える。万官合作し、王篤徳新州長を迎えるべし。  

天帝』

 

「以上、申し渡す。わしも、貴官ならやり遂げられると思っておるよ」

 閻魔大王は虹月の紙を再び丸め、長征に差し出した。宝艏が後ろから

「手を上げて受け取ってください。頭より下にさげてはいけません」

 とささやき、長征はそのとおりにした。手元で見る天帝の命令書は、自ら光を発して輝き、絹のように滑らかなさわり心地で、厚手の紙を巻いているのに重さを感じなかった。

「そして宝艏よ、厳密に言えば、これは天文台の局長補佐官の職能ではないが、李局長が役目を果たせるよう、万事補佐して差し上げろ。よいな?」

 宝艏は稽首したまま答えた。

「仰せのようにいたします。陛下の御命令をお手伝いできるのは、文官の誉れでございます」

 閻魔大王は満足げにうなずいた。

「お迎えから帰ったら、ぜひとも話を聞かせてくれ。貴官らにとって、珍しい物が多く見られるだろう」

 美しい命令書を手にして半ば放心する長征と、床で震える宝艏の肩を大きな手でやさしく叩き、閻魔大王は帰って行った。

 

「もう、動いても良いかな?」

 宝艏に聞いても返事がない。

少年官吏は床におでこを押し付けたまま声を殺して泣いていた。

「まさか、このわたしが、天帝陛下のお仕事に関われるなんて……」

普段の冷静ぶりからは想像もつかないほどの泣きようだが、こうしてうずくまって泣くのは、普段よりも姿相応に見える。

 長征は功名心のある男ではない。生前に研究者をしていたのも、学業で名を上げてやろうという野心ではなく、純粋に宇宙の不思議を知りたいからだった。死後の天文台の勤務も、星の運行を記録するのは天界の暦を作るための重要な仕事だったし、人界では作りえない高精度の水晶望遠鏡を作り、超新星や中性子星を観測して天界の暦を四百年ぶりに改良した。しかし、それらの実績を官吏としての出世に使おうとは思わない。ともかく長征は欲のない男だった。それでも、天帝直々に指名されれば、自分の仕事が認められた充足感と高揚感を覚える。根っからの官吏である宝艏が、使い物にならないほど感激してしまうのも分かる。

普段の命令書もそうだが、天帝の御命とあらば、なおさら拒否など出来ない。そして受け取ったからには、感動しているのではなく、詳細を確認しなければ。

長征は机に虹月色の紙を広げた。天帝の命令文は、惚れ惚れするほど美しく読みやすい楷書体で、左下の署名と同じ字体だった。現代人の長征が読みやすいよう、天帝陛下ご自身が字体を選ばれたのだろう。整った文字が、濃緑に輝く墨で書かれていた。

問題はその後、命令書の詳細部分が読めないのだ。

おそらく天帝直属の高級官僚が書いたものだろう。筆使いは整っているが、三千年前の青銅器や碑文に彫られている象形文字だ。長征にとっては文字と言うより図の連続でしかない。

「宝艏。おい、宝艏。こっちに来てくれ。字体が古くて私には読めないんだ」

床で肩を震わせていた少年官吏はようよう立ち上がり、広げた命令書を見て、また涙を流す。泣くたびに拭うので、黄色い道服の袖口が濡れて茶色く染まっていた。

「ああぁ、天帝陛下の御召し紙を、こんなに近くで見られる日が来るとは思いませんでした。この事を、お父様とお母様にお知らせしたら、いったいどれほどお喜びになるでしょう」

 感動のため息をもらし、宝艏は命令書の詳細部分を読み始めた。

「たしかに古い文字です。日常業務の書類は楷書体に統一せよと、お達しがありますが、こちらは天帝陛下のご命令を示す特別な書類ですから、あえて夏石文字で書かれています」

 詳細部分の字体は古く、宝艏も少々手こずっていたが、一度書類を読む姿勢になれば、先ほどまでの感動の嵐におぼれる事はない。

「ええと、お迎えの行列を整え、一週間以内に出発せよ。楽団三千人以上、兵士三千人以上、他行進に必要な人員を乗せ、大型雲の使用を許可する。雲の最高速度は一日一万里。予算は……おや?」

 宝艏が首をかしげると、布冠についた銀鈴が鳴る。

「どうかしたかい?」

「予算が多すぎます。こんな額では、たとえ中華の外、どこの国に行くにしても百往復はできますよ。もしくは行進の人数を百倍にできます」

「天帝陛下の命令書に、まさか間違いも無いだろう」

「食事のたびに宴会を開くのは新知事のお迎えですから当然ですけど、それでも多すぎます。確認しておかないと……」

 しばらく悩んでいたが、宝艏はともかく読み進める。

「ここからここまでは、お迎えの行進をする際の指揮権についてです。後ほど訳してお渡ししますので、あらためてご確認ください。そして、ええと。お迎えに行く人物は、王篤徳、享年三十四歳。没地……」

 そこまで読んで、宝艏は目を覆い、ため息をついた。

 しかし、先ほどまでの感動のため息ではなく、涙があふれているわけでもない。

「そういうことですか」

「なにか、おかしな事でもあったのかい?」

「お迎えの行進を指揮するなら。こう申し上げては失礼ですが、武官や音楽家など、李局長よりも適した方がいらっしゃるはずです」

 少年官吏に馬鹿にされているようだが、あたりまえのことだ。いまだに死後の世界の役人として板についていない、しかも行進などとは無関係な仕事をしている長征に、一万人の行進を指揮させる理由は、閻魔大王の口からも天帝陛下の言葉からも伝えられていない。

「天帝陛下が局長をご指名された理由、この字は、月を意味します」

「ふむ……ふむ?」

「没地、月面静海竪穴基地。我々が目指すのは、月です」

 

 

 よく晴れた秋の朝。庭園の桃が季節を問わず、局長室も甘い匂いが満ちる。

昨晩、命令書を受け取り、仕事が決まれば行動が速い宝艏である。

 書類が増えるからと局長室に会議用の大きな机を運び込み、赤い反物に金墨で「幽州新州長迎接游行秘書所」と大書きして扉の横に掲げた。

長征が局長の椅子に掛け、昨晩の観測結果をまとめていると、腕を振るう宝艏が見える。

 閻魔大王や四海の龍神、北方の熊神や泰山老人など、巨体の御歴々でもかがまずに通れるよう、天界の建物は全体的に作りが大きい。局長室の扉も、人界の城門ほどもある。その巨大な扉の桟にこするほど、山と積んだ車を牛に曳かせて、宝艏に書類が届けられる。滝のように汗を流す牛をなだめながら、牛飼いの事務員が机に書類の山を移し、宝艏はそれらの紙の束を、あるものは確認し、あるものは算盤を使い、次々と処理する。処理が終わった書類は再び車に積まれ、牛は鳴き声と干草のにおいを残して扉を通り抜けていく。

そうして書類が積まれた牛車が、五分おきにやって来る。毎回、牛の模様や牛飼いの制服が違うから、別の部署からの書類なのだろう。牛車の一杯の書類を次々と片付ける宝艏は、大机の前に座ったまま、功夫の達人のように手を動かしている。あまりにもすばやく動かすので、顔や手の数が増えているように見える。

「局長、こちらの確認と印をお願いします」

 二十歩ほど離れて座る宝艏が腕を延ばし、機材購入の書類を渡してきた。

「う、うむ」

 長征がもたもたと書類を読むあいだ、宝艏の小さな手だけが机の端で待っている。印と署名をして渡すと「ありがとうございます」と声がして、しゅるるんと戻っていく。

武勇で有名な托塔李天王の哪吒太子は、戦うときに顔を三つ、腕を六本に増やし、それぞれの手に異なった武器を持つという。だから宝艏が筆を同時に四本、算盤を五つはじき、さらに何本もの腕で書類を掲げ、それぞれ別の顔で確認していても、それは天界では普通の事なのだろう。

しばらくすると、また小さな手が伸びてきて、書類の確認と印を頼まれる。それを数度繰り返した。

長征は長征とて、昨晩の観測結果から異なる座標系での惑星の位置を算出し、次に天文台の予算案を整理して、午前の職務時間を無為にしている訳ではない。だが、嵐のように猛烈な仕事量をこなす宝艏を見ていると、なんだか自分が怠けているような気分になってしまう。実際、お迎えの行進の段取りは宝艏にまかせきりなのだ。

そこで長征は、命令書の訳を読み、いくつか計算を済ませた。

「これ、宝艏」書類に夢中なのか、返事がない。

「小宝」やはり返事がない。

「宝宝」と呼ぶと、顔がひとつこちらを向いて、じとりと返事した。

「なんでしょう?」

「そろそろお昼だから、休憩にしないかい?」

宝艏の顔が外に向けられた。太陽は天頂に昇り、まもなくお昼の鐘が鳴るだろう。

「すぐにこちらを終えます。そしたら、お昼にいたしましょう」

局長室の反対側に押しやられた、補佐官机に宝艏の手が伸びて、呼鈴を鳴らした。部屋にやって来た女給に、顔のひとつで昼餉を申しつけた。女給がまったく動じていないから、やはり宝艏の姿は天界ではよくある事なのだろう。

 

昼食は爆炒蝦と牛肉湯だったので、湯に麺を入れてもらった。宝艏は硬めに炊いた粥を注文した。宝艏曰く、効率の良い業務は効率の良い休憩があってこそ、だそうで、官吏の権利である昼の休憩は時間一杯とる質だ。

局長室の片隅に追いやられた応接セットで、いつもの姿に戻った宝艏は頬を揉んだり小さな手をすり合わせたりしていた。いつも食事は宝艏が給仕してくれるが、今日は一緒に食べることにした。誰が見ても忙しい今の宝艏に昼食の世話をさせるわけにもいかないし、何より聞きたい事がある。

「雲を速くできないか、ですか?」

高温で仕上げられた蝦をほおばりながら、宝艏は答えた。

「そう。雲の速さは一日一万里。地球と月の距離は、およそ六十八万里だから、地球の大きさを一万里とすると、単純に片道六十七日かかってしまう。それに、月は一ヶ月で半径六十八万里の円軌道をまわるから、地球に対する月の公転速度は一日におよそ十五万里だ」

 天井に視線をやり、宝艏は暗算した。

「そうですね」

「となれば、一日一万里の雲では、月の運動に追いつけない。走る馬車を老人が追いかけるようなもので、月面に着陸できないだろう」

「問題ありませんよ」

 湯をすすりながら、事も無げに宝艏は言った。

「雲で月の通り道まで行き、昇ってくる月を待つのです」

「月を待つ?」

「はい。走ってくる馬車を待って、飛び乗るようにします」

 ううむ、なるほど、着陸は無事できると。

しかし片道六十七日は長すぎる。美国の宇宙船が四日で行った旅路を、二ヶ月かけるのは業腹である。ならば。

「孫悟空の觔斗雲に乗せてもらえないかな? ひと飛び十万八千里というから、月まであっという間に行けるだろう」

「それはなりません」

 宝艏はれんげで粥をすくった。

「斉天大聖様のお雲は確かに速いです。大聖様は護衛として誰より心強いでしょう。ですが楽団を乗せられるほど、お雲は大きくありません。それに、行進には主賓の威厳を保つのにふさわしい乗り物と、ふさわしい速度があるのです。貴い方が乗るのは輿です。大聖様のお雲は、人界で言えば、駿馬のようなものです。行進で主賓が馬に二人乗りして、全速力で駆け抜けたりしないでしょう?」

たしかに行進で貴人が乗るのは人足に担がせる輿、今なら天蓋のない自動車だろう。孫悟空の雲は、今の人界で言えば大型自動二輪の後ろに主賓を乗せて走り抜けるようなものか。新知事の行進というより若者の暴走だ。

一日一万里の速度が行進に相当するなら、雲の速度を上げるのもおかしいだろう。人界の行進で、楽団が演奏しながら全力疾走するのは、ちょっと想像できない。

雲の速度も上げられない。ならば。

「地上のお迎えの行進をするときは、竜脈地脈に乗って、一瞬で万里を進む事もあるだろう?」

「ええ。速く移動するのではなく、異なった場所を短い通路で繋ぐのです」

「道教寺院を通り道にすれば、美国や欧州までも簡単に行き来できるとか」

「そうですね。よその国で冥籍入りされた方をお迎えに行くときは、孔子様や関帝様にお願いをして、各地の華人街の廟を通らせていただきます」

「外国のお迎えでも、そうして寺院を通り道にするだろうか?」

 もぐもぐと粥を噛み、宝艏は少し考えた。

「砂漠の経典の方々は、あまり速さにはこだわりませんから、どこでも飛んで行きますが、たまに礼拝所を使うそうです。天竺では寺院のすとぅぱという塔で、倭国では鳥居という朱塗りの門で各地をつないでいるとか」

「そう、そこでさ」

 長征は紙の束を渡した。

「回教徒の月でのお祈りの作法を指示した布告と、倭国の社が完成したという新聞だよ」

「人界の物ですか。ふむふむ」

 阿拉伯語と日本語で書かれたものを、宝艏は苦もなく読む。

「つまりだね、月の基地にも他の国の寺院があるんだ。そこを通らせてもらえば」

「なりません」

 湯の牛肉を噛みながら、宝艏はぴしゃりと言った。

「だめかい?」

「だめです。他国の天界の助けを借りては、中華天界の威信に関わります」

 少し怒ったのか、宝艏は目を閉じて、蝦をもぐもぐとやる。

「月に中華の寺院は無いんだよ。基地は官製だからなあ」

「それは……仕方のない事です」

 雲の速度は上げられない。寺院の近道も使えない。となれば、やはり雲に乗って片道六十七日かけねばならない。

 長征は腕を組んでしまう。

「なんとかできないものかね」

「何か問題がございますか?」

「六十七日だよ。往復で百と三十四日もかかる。宇宙旅行とはいえ、近場の月までだ。ちょっと時間をかけすぎだろう」

 宇宙旅行をするのに宇宙船の速度は上げられず、寺院を繋ぐ空間歪曲法は他国の力を借りるため、中華の誇りで却下される。もはや愚痴でしかなかったが、長征はぼやいた。

「旅は、そのくらい時間のかかるものではありませんか?」

 当然とも言いたげな宝艏の口調に、長征は固まってしまった。

 自分の足や馬で歩いた時代の人には、旅で数ヶ月かかるのは当たり前。地球の裏側まで飛行機で一日の時代を生きた長征からすれば、気の長い話である。

 それに、寿命というもののない天界人と、命に限りのある人間の、時間感覚のずれは埋めようがない。死という終わりのない彼らは、いくら時間がかかっても気にしないのだ。

冥籍に入って間もない長征が、まだ天界の感覚に慣れないのは仕方ないが、時間についての二重の認識の差を埋めるのは、まだまだかかりそうだ。

長征の牛肉麺は、すっかり伸びてしまった。

冷めた昼食を長征がすすっていると、局長室の扉が三度叩かれた。席を立って宝艏が対応に行き、書面を手に戻ってきた。

「行進の準備が整いました。明日にでも出発できます」

「そうか。外套が必要かな? お空の上は寒いだろ?」

 すべてをあきらめた長征は、空虚な声でつぶやいた。

「今お召しの道服で十分です。荷物のご用意もお任せください」

 よく煎じた茶を飲みながら、宝艏は言った。

 

 翌朝、宝艏はいつもより少し早く長征を起こしに来た。

朝食を済ませ、留守にする間の天体観測を技官に指示して、そろそろ十時になる頃。

「雲が到着しました」と宝艏が告げた。

 天文台の前庭に、野球場ほどもある金色の雲が浮かび、地面の石畳には様々な楽器を携えた楽団と、完全に武装した兵士たちが縦横に整列していた。さらにその奥には、楽士でも兵士でもない官吏たちが横長に整列している。

 宝艏が名簿を示した。

「天帝陛下の宮廷楽団より菊花隊三千八百八十八名、玄天上帝様の北方守護軍より黒龍旅団、三千八百八十八名。他官吏五千四十名。準備整いましてございます。出発のお言葉を」

「う、うむ」

命令を受けたからにはやり遂げねばならないのが官吏の辛いところである。それが突然降って湧いた大部隊の指揮であっても、だ。

 そして、こうした立場では、敬語を使わないように気をつけなければならない。天文台に配属されてすぐ、先任の技官に敬語を使ってしまい、宝艏にたしなめられたものだ。それでも、整列した楽団や兵士の方形から一歩出てひざまずく、楽団隊長の美青年や、旅団長の髭面の武人に、命令口調で物を言うのは相当勇気が要る。彼らの気迫は物凄く、普段会ったなら、長征は間違いなく敬語を使ってしまうだろう。

 勘弁してくれ。と長征は思った。

「急な召集に応じてくれて感謝する。天帝陛下の御楽団に導かれ、玄天陛下の精鋭諸君に守られるのは、心強い限りだ。長い旅になるが、万事よろしく頼む」

 胸を張って声を出したが、どうしても声が上ずってしまう。

 長征の挨拶を受け、楽隊の美青年と髭面の武人が「指揮官閣下に、礼」と、声を合わせて号令すると、一万二千八百十六人の官吏たちが一斉に拱手する。

 本当に、勘弁してくれ。長征は手を振ってこたえた。

 

 天文台の前庭に浮かぶ金色の雲は、丈の長い芝生の上に、羽毛布団を敷いたような踏み心地だった。とても柔らかく、しかし立ってよろけるような事はない。宝艏によると、太白老人、つまり金星を司る大仙人から借り受けた最上級の雲らしい。雲の中央には小高くなっている部分があり、頂上には三十六人が担ぐ輿が、金と宝玉の装飾を輝かせている。輿の周りに楽隊が整列し、その外側に各種官吏が、最外周を軍人たちがぐるりと取り囲む。長征は宝艏と共に、雲の舳先に立った。

 宝艏は袖をごそごそやって、捻じ曲がった、いかにも仙人が持っていそうな杖を取り出し、長征に手渡した。

「なんだい? これ」

「雲を操る指揮杖です。まずは人界に出ますので、天文台の正門に向かいましょう」

 紫金山天文台には、砦だった頃の石造りの城門がそのまま残っている。長征が杖を振るうと、金色の雲はゆっくりと移動を始めた。音もなく、上に乗っているのに動き始めた感覚もない。

 宝艏が何かもにょもにょと唱えると、正門の向こう側の風景が変わった。

歴青で舗装された、人界の道路が見える。

「さあ、あちらへ行きましょう」

 長征は戸惑った。正門はそれなりに立派だが、一万人を乗せてまだ余裕のある巨大な雲はさすがに通れそうにない。

「大丈夫です。伸びますから」

 なんだか分からないが、宝艏がそう言うならと、長征は門に向けて杖を振るった。すると金色の雲は、綿菓子の一部をつまんで引き抜くように、細く長く形を変えて、長征たちの乗る舳先から、天文台の正門に吸い込まれていった。

 

 北京の摩天楼にほど近く、大都市の中で静かな風情をたたえた白雲観は、道教の一大派閥である全真教龍門派の総本山である。広大な境内には神々を祀った御殿が立ち並び、古木が茂り、池は清水を湛え、参拝者の供える香煙は途絶えることはない。

大通りに南面した牌楼は、四本の朱塗りの柱に三本の梁を渡して三つ並んだ門となり、七つの屋根を乗せ、極彩色で飾り立てた荘厳な建築物で、この寺院を訪れた観光客が必ず写真をとる場所になっている。

 よく晴れた秋の昼前。白雲観の牌楼の三つ並んだ門のうち、中央門の空間がまばゆく光った。直後、仙人たちを乗せた金色の雲が湧き上がり、空へと細く伸び上がった。その場に居合わせた参拝者は腰を抜かし、あるいは逃げ、あるいは伏して拝み始めた。仙人を乗せた雲の流れはしばらく続き、最後尾が通り抜けると門の輝きは消えていった。

 人界に現れた金色の雲は、地上から十階ほどの高さに浮かび、蛇のような細さから、雲らしい丸い形にまとまっていく。首都北京の空は少し埃っぽかったが、晴れた西の空には下限の月がうっすらと浮かぶ。

 雲が形を整えるのを見守る長征に、楽団の隊長がやって来た。

「李指揮官。演奏を始めてもよろしいでしょうか?」

 歌うような良い声で尋ねられ、長征は恐縮しながらうなずく。

「かしこまりました」

 拱手して青年は振り返り、手を上げると、三千人の楽団が一斉に演奏を始めた。銅鑼が鳴り、笙が吹かれ、琴が弾かれ、加えて楽団の合唱。天地を揺らすような轟音の、内臓にびりびりと響く大音量だが、不思議な事に、痛みを与えたり会話を妨げるなど、耳を困らせはしない。人界では隋以前に失われた古い音色だが、その調子は弾むように軽妙かつ力強く、まさに行進曲らしい音楽だった。

通りには、大口を開けて立ち尽くす若者や、伏して拝む老人がいる一方、地上近くでこれほどの音を上げる金色の雲に、まったく気づかない通行人も多い。水平にあたりを見渡せば、聳え立つ高層建築群の中からも、硝子越しにこちらを眺める人々の姿がある。

下弦の月は西の空だが、雲は一日一万里しか進まない。まずはともかく月の軌道に向かわなくては。長征が杖の先でとんとんと叩いてやると、雲は天頂よりもわずかに南を目指す。

金色の雲は五色の光を放ち、天上の調べを響かせながら、北京の高層建築をかすめて、ゆっくり空へと昇っていった。

 

一日一万里進む雲で真上に昇れば、地球の大気圏を抜けるのに、そう時間はかからない。金色の雲は白い雲の間を通り抜け、青い散乱光を放っていた空は、徐々に暗い星空へと変わる。真昼の太陽光を受けて地平線は青白く輝き、足元に等しく広がっていた大地が、丸みを帯びた地球の姿となってくる。

あたりは遮る大気のない満天の星空。高度は人工衛星の低軌道を超えつつある。雲のふちから見下ろせば、先ほど出発した北京の街がはるか真下に見える。長征は深呼吸し、平常と変わりなく息ができることに安堵した。ともかく、酸素は供給されているらしい。

安心して雲の上を見渡すと、にぎやかに演奏を続ける楽団の、さらに向こう側、雲の船尾で煙が立ち上っていた。

「宝艏、あの煙は何だ?」

「そろそろお昼ですから、料理人たちが炊事をしているのでしょう」

「すい……じ? 薪を燃やしているのか!?」

「炊きつけの薪のようです。炭火になれば煙も治まります。料理人は腕利きを揃えましたから、味は保証いたします」

 そうではない。そうではないのだ。

 雲は足の遅い宇宙船のようなものだと思っていたが、どうも様子が違うらしい。宇宙空間で薪を燃やして飯を炊くとして、どこから酸素が供給されているのか、そもそも雲と宇宙空間の境目はどこにあるのか。頭を抱える長征の疑問をあざ笑うかのように、船尾からの煙は、空気のない宇宙空間を、まっすぐ“上”へと、どこまでも昇っていく。

 長征が唸っているうちに昼の鐘が鳴り、楽団は一部を残して演奏を止めた。いくらかの人数が昼食にふさわしい優雅な曲を続けるようだ。兵士たちは交代で休憩をとるらしく、半数が立哨を続けている。

「局長、こちらへどうぞ」

 長征が立っていた舳先のすぐ側、雲がちょうど食卓のように、円盤状に盛り上げられていた。椅子にちょうど良い大きさの雲の盛り上がりもある。宝艏にうながされて座れば、ふかふかして実に心地が良い。

 給仕たちが大きな布を持ってきて被せると、柔らかな雲の円盤は、叩けば音が鳴るほどしっかりとした食卓になった。次いで大皿に盛られた料理が運ばれる。山陸海の食材に料理人が腕を振るった、炒め物、蒸し物、揚げ物など三十六品。粥に炒飯、蒸したての饅頭。目にも鮮やかな水果の盛り合わせ。どれも素晴らしい美味で、長征は疑問も忘れて舌鼓を打った。

しかし、いくらなんでも豪華すぎる。それに量も多い。この食卓についているのは長征だけなのに、料理は百人分ほどありそうだ。宝艏はいつものように給仕に立ってくれたが、横に雲の椅子をこしらえて一緒に食事をしろと命じた。

「これでいいのですよ。うん、美味しい」

 肉団子を頬張りながら宝艏は言った。

「しかし、無駄過ぎないか?」

「中華の豊かさを他の国に示す意味もありますから。中華に限らず、神々はこうした示威がお好きなのです」

「そんなものかねえ」

 楽員や兵士の食卓を眺めても、どうやら長征たちと同じく豪華な料理を食べているようだ。宝艏曰く、立ち回っている給仕たちですら、昼の仕事を終え次第、同様の食事をするらしい。

過分な料理をもったいなく思い、長征はついつい食べすぎて、腹がはちきれそうになった。宝艏が淹れてくれた、良い香りのするいつものお茶を飲むと、満足感はそのままに苦しさだけが治まる。給仕が皿と布を下げ、宝艏が雲の食卓を撫でると、円盤状の盛り上がりは、まわりの雲と同じ、床の高さに引っ込んだ。

 

 昼食を終えると、楽団は再びにぎやかな行進曲を始めた。

雲が地上から離れると、空の扱いは海で言うところの公海に似てくるらしい。地上近くの空は中国の神仙の領分だが、地球からこうも離れると、各国の神使や精霊たちが通りかかる。

楽団のにぎやかな演奏を聞きつけて、背中に翼を生やした基督教の少年や、頭に布を巻いた精霊たちが光の粒を散らしながら、船の周りで遊ぶ海豚のように曲芸飛行を披露する。ほぼ真空の宇宙空間で、どうやって音が伝わるのか、長征にはおよそ理解できない現象だが、ともかく、美しい光景だった。

太陽と共に西を目指すという、馬に戦車を曳かせた青年神。燃え盛る大剣を携え、幾対もの翼を背負った大天使。蛇の鱗と羽毛の鎧を着た色白の巨人。各地の神話に登場する天空の神仙が、突然聞こえ始めた大音声に、なんだなんだと見物に来て、雲に併走しながら中華の音楽に酔いしれる。聴衆が増えて楽団は意気を増し、一層音色を響かせた。

そうしてしばらくすると、今度は護衛の兵士たちがざわつき始めた。まさか異国の神々が海賊のように襲ってくることもあるまいと、特に気にしなかったが、舳先で雲を見張る長征のところに、兵士をまとめる髭面の武人がやって来た。

「李指揮官! 同行する各国の方々に、我らの矛と弓の冴えをお見せしとう存じます」

 なんだか物騒な事を言いだしたぞ。と、長征は思った。

「矛と弓の冴えとは、いったい何をするのかね?」

 まさか、武器で聴衆を追い払うのではないだろう。

「先ほど見張りの者が、星々の間に鹿を見つけてございます」

「鹿!?」

 翼を生やし雲に乗った神々が見物に来るのは、もういい。あきらめた。空なら鳥もいるだろう。しかし鹿がどうして宇宙にいるのか。何を食べているのか? 草木が生えているのか? そもそもどうやって走るんだ?

「左様でございます。鹿です。他にも兎や鴨を見つけた者もございます。狩りをしてもよろしいでしょうか?」

「なるほど、狩りか」

 武器の冴えと言うから、何か物騒な事をたくらんでいるかと思ったが。

「ええと。その鹿は、狩っても良いものなのかい?」

 宝艏にお伺いを立てる。

「他国の山や海や空で、勝手に狩りをすれば問題になりますが、これほど空高く昇れば、誰の物でもありません。獲物はそれこそ星の数ほど居りますから、獲り尽くすということもありません。たしか、軍では訓練のため、このように遠出して空高くの獣を狩るとか」

「はい。空の獣は足が速く、それを追うのは、大変よい演習にございます」

 演習と言われれば、納得できる。

北極星を司る玄天上帝の精鋭ならば、護衛に不足はない。しかし、借り受けたその精鋭を、月までの往復四ヶ月も警備として単に立たせておくのは申し訳ない。楽隊は演奏できて楽しいだろうが、立ちぼうけの兵士たちは体も鈍るし退屈だろう。狩りは兵士たちの、ちょうど良い訓練になりそうだ。それと気になるのは。

「狩るのはいいとして、狩った獣をどうする?」

「獣を捌いて料理するのも、戦場の兵士の勤めでございます。お許しいただけるなら、皆様の夕餉に献上しとう存じます」

 きちんと食べるのか。それなら。

長征が許可すると、武人は足早に陣へと戻った。程なくして、千人ほどの兵士たちがそれぞれ一人乗りの雲を呼び出し、各々の得物を光らせて飛んでいった。

 

しばらく楽隊の音色がにぎやかに続き、聞き惚れる各国の神や精霊が行き来していた。

すると、長征の視界に星が流れた。奇妙な流れ星はくるくると方向を変え、一転こちらへ、金色の雲へと飛んできた。光がにわかに強くなり、まばゆさに目をしかめた長征の横に、気づくと鹿が立っていた。とくに光っているわけでもなく、角が水晶だったり、毛皮が虹色だったりもしない、中国のどこの山にでもいるような、日本に行った観光客が寺院の前で煎餅を食わせたり地図を食べられたりするような、至って平凡な鹿である。

野生動物の無表情で、鹿は雲の上を見渡し、数秒留まって、再び光となって星空へと駆けていった。鹿の流れ星を追い、尾を曳く雲を駆る兵士の一団が、風切り音をうならせて、金色の雲をかすめ飛んでいく。

今までいったいどこに隠れていたのか、鳥や獣は逃げ回り、雲に乗った精鋭たちがびゅんびゅんと追いまわす。音楽に聞き入っていた異国の狩猟神の数柱も、槍を持ち、あるいは弓に弦を張って狩りに加わった。楽隊の行進曲だけが響いていた宇宙空間は、とたんに騒がしくなった。

地球近くの宇宙空間には、それはもう沢山の鳥や獣がいるらしい。長征の理解を遥かに超えた事態に、軽い頭痛を覚えながら、副官の宝艏を探すと、少年官吏は雲のふちに腰掛けていた。長征も隣に座る。

「なんだか、すごいことになってしまったね」

「良いではありませんか。皆、楽しんでいます」

「そうかもしれないが、なぜ宇宙に動物がいるんだ」

 無駄な抵抗と思いながらぼやく。それでも、天文台で仕事を手伝ってくれている宝艏なら、自然科学と目の前の光景の齟齬に悩む、長征の気持ちを分かってくれるだろう。

 しかし宝艏は当然のように言った。

「天空にも野山があれば、海も川もありますよ」

「うみ、かわ……?」

不吉な予感がして、よく見れば、宝艏はどこから出したのか、長い竹竿を水平に構えていた。しなって下がる竿の先から伸びた糸が、たわみながら雲の進む“上へ”と伸びている。

 念のため、確認しておこう。

「それは、何をしているんだい?」

「ご覧のとおり、釣りです」

 糸の伸びている方には、天の川が光の帯となっている。

「ん? むむむ?」

 長征が唸ると、宝艏の布冠についた銀鈴が鳴った。

釣竿が上へとしなり、宝艏は立ちって竿を引き下げる。天の川が水面のように波打ち、金色の雲の上に、ぼてっと魚が落ちてきた。

悲鳴交じりの声を上げ、長征は喉をかきむしる。

 魚を抱きかかえ、宝艏は歓喜の声を上げた。

「大物ですよ、局長!」

「宝艏よ、おまえもか!」

 裏切られた天文台局長の嘆きが、音楽と共に真空の宇宙に響き渡った。

 

二時間ほどで宝艏は六匹の魚を天の川から釣り上げ、狩りに出ていた兵士たちも戻ってきて獲物を長征の前に山積みした。

 鹿に野兎、鴨に雉。まだ温かさの残る狩りの成果から赤い血が滴り落ち、金色の雲の表面で玉になっている。さきほど雲を踏んで行った鹿のような、流れる星を捕まえるのに、どれほどの技量が要るのか、長征には想像も出来ない。

「なるほど。さすがは玄天上帝の精鋭諸君だ」

「お褒めに預かり光栄至極に存じます。して、いかが料理いたしましょう?」

 いやはや、宇宙で鹿追いを見せられ、もう胸が一杯なのだが。頭痛もするし。

 しかし無碍にするわけにもいかず、科学者としての興味もあった。

「任せよう。普段、諸君らが獲物で作る料理を、私も食べてみたい」

 長征がそう言うと、武人は髭を膨らませて笑顔になった。

「さすれば、叩いて餃子にいたします」

 武人は深々と礼をして、部下たちに獲物を担がせ、陣に戻っていった。

「それで、お前はこの魚をどうするんだい?」

「もちろん、よいしょっと」

 宝艏は釣竿を胴服の袖に仕舞い、まな板と包丁を取り出した。

「お料理いたします。天の川の魚は揚げると絶品ですよ」

 雲のふちにまな板を置いて、宝艏は魚の鱗を落とす。ぱらぱらと落ちる鱗が、星屑となって消えていく。その下に、昼から夜の影に入りつつある北京市の明かりがともり始めていた。

 あたりが星空で時間が分からなかったが、もう夕餉の時間なのか。

雲の小山に置かれた輿の方では、青年が楽隊を踊るように指揮している。行進曲は休むことなくにぎやかに続き、狩りの成果を持っていった兵士たちは、めいめいの場所で火をおこしている。どこかから集めてきたのだろう薪が燃え盛り、青銅の鼎には湯が煮立っていた。

 仕留めた獣の皮を剥ぎ、血を抜いて、臓腑と骨と肉を分け、厚い刃の包丁でよく叩いてひき肉にする。警備に当たっている者意外は、全員料理をしているようで、あの髭面の武人までもが、真剣な表情で餃子の皮にひき肉の餡をつめている。鎧は分厚く黒い札甲を銀糸で合わせ、龍の刻まれた大刀と十人引きの強弓で北方の空を守る屈強な兵士たちが、指先を小麦粉の白に染めて餃子をこねているのは、なんだか笑いを誘う光景だった。しかし、戦地でこそ食事は重要だと言われているように、料理番を軽んじたり、食事を部下任せにせず、ああして一緒に餃子を包む髭面のような人物こそ、精鋭を率いる資質があるのだろう。などと長征は考え、少しだけあの輪に加わりたかったが、やめておいた。

まあ、まだ初日だしな。

 魚の下処理をすませた宝艏は、袖から出した鼎に油を注いだ。宝艏が息を吹くと、薪もないのに、鼎の足元に火が燃え上がる。大ぶりの魚はぶつ切りにし、手ごろな大きさの魚は尾頭付きで、表面に粉をまぶして叩き、煮立った油に放り込む。油の中で魚は細かなあぶくを吹き、泡がはじけるたびに小さな流星が鼎から飛び出す。盛大に光が吹き上がる鼎の前で、宝艏は体を左右に銀鈴を鳴らしながら、袖から出した菜箸で油の中に魚を泳がせる。

「どうかな?」と、菜箸でぶつ切りを油から引き上げると、きつね色になった衣のすき間から、煙と光がほとばしる。手首を返して確認し、油に戻す。

「あと、ちょっと」

長征は不安を覚えつつ、夕食の時間を告げる鐘の音を聞いた。

 

 給仕たちが雲の食卓をこしらえに来たので、宝艏に声をかけたが。

「もう少しで揚がりますからー」と、鼎から動こうとしない。

 食卓に布が敷かれ、椅子も用意されたので長征が座ると、給仕たちより先に髭面の武人が料理を持って来た。

「さあさあ、お召し上がりくだされ」

 抱えるような椀に湯が満たされ、餃子が肩寄せ合ってみっしりと詰まっていた。

 湯と餃子を取り椀に掬い取り、まずは一口、れんげで湯をすする。

「ほう」と、声が漏れた。

「鹿の骨で取った出汁でございます。いかがでしょうか」

 先ほどまで空を駆け回っていた獣の力強さに、どこか芽吹き始めた新緑の気配もある。野趣あふれるというのは、この湯の事だろうが、決して嫌な臭いではない。鹿骨の出汁は薄い塩味のかろやかさを損なわず、そしてしっかりとした味わいがあった。

「なるほど、これは……」すぐに餃子も食べてみる。

 腰のある厚い皮は湯の出汁を吸い、ぷりぷりとした歯ごたえを噛み切ると、肉汁と餡が溢れ出す。牛や羊、もしくは山羊に似て、しかし家畜のどれとも違う。肉の旨みと脂の甘みは濃厚だが、後味には夜空の爽やかさが残る。長征が生前や天界で食べたことのある、他のどんな肉よりも、この餃子は。

「美味い!」

 武人は拱手して微笑んだ。

 長征の手は止まらず、みっつ、いつつと餃子を食べていると、宝艏が皿を差し出した。

「こちらもどうぞ」

 尾頭付きの、魚の丸ごと揚げが大皿に乗っていた。

切り身の方が来るかと思っていたが。こうして近くで見ると、深海魚のような姿をしている。粉をはたかれて揚げられ、きつね色の衣の下、針のような牙の並んだ妙に大きな口を、うらめしそうに開けていた。

「おなかのあたりをですね。そのまま。少しだけ、かじってお召し上がりください」

 頭と尾をつまんで持ち上げようとしたが、揚げたてで熱く、さわれない。

皿に顔を近づけて、魚の腹に食らいつくと、思ったよりも多く頬張ってしまった。

初冬の氷や霜柱を思わせる、薄い衣と皮が口中で鳴る。身と皮の間の脂は、わずかに瓜が香り、ほぐれる白身は海の魚というより、川魚の風情がある。

なるほど、天の川の魚はこういう味なのか。噛むほどに旨味が増し、飲み込むのが惜しいほどだ。

そのまま、ひと口目をもぐもぐしていると、なんだか魚が膨らむように思えた。

いやこれは、炭酸水で口をゆすいだように泡立っているのだ。と分かり、泡の気を逃がすつもりで、口先を細く開けると、光る湯気が濛々と立ち昇った。逃げ道を見つけたためか、魚から溢れる光気は勢いを増し、大口を開けないと逃がせないほどになった。

「んががが、あごごご」

さらに光気はのどを通って鼻へ抜け、いつしか星も混じりだす。口と鼻から迸る光の勢いは、長征をのけぞらせるほどだった。首がのけぞり、光気の奔流は、たっぷり十秒ほど続き、光と流星の噴水となっていた長征は、その間息もできなかった。

「局長、大丈夫ですか?」

 宝艏がおずおずと声をかける。

口中の揚げ物がようやく落ち着き、長征は二度三度噛んで飲み込む。

「これは美味いな、宝艏」

「でしょう!」

 魚の揚げ物としても絶品だった。そして光が口と鼻から抜けていく感覚は味ではなく、酒や煙草のような嗜好品にも似た、しかし酩酊とは異なる、独特な爽快感があった。

「あまり口に沢山含みますと、大変なことになってしまいますから、こうして」

 宝艏は別の皿に盛られていた切り身の揚げ物を取り、親指の先ほどかじった。もぐもぐしていると、宝艏の小さな鼻から、線香の煙のような光気と、粟粒のような流星がいくつか飛んでゆく。

なるほど、塩気のある漬物や、強い酒のように、少しずつ食べる料理なのだ。

宝艏の作法にならって魚を食べる。

そうそう、忘れてはいけない。

餃子を持ってきて、給仕のように立っていた武人に長征は椅子をすすめた。

「あなたもどうだ。一緒に食べようじゃないか」

「ありがとうございます。ご相伴に預かります」

 隣の雲に腰掛けて、武人は切り身の揚げ物を丸ごと放り込んだ。

 武人が長征のひと口目よりずっと長く、口から光を吐き出していると、楽隊の青年が酒をもって来た。

「魚の光が見えたので伺いました。私もご一緒していいでしょうか? この葡萄酒が、とても良く合うんです」

 そうして長征たちが、餃子と魚と酒をかわるがわる楽しんでいると、給仕たちが昼にも増して豪華な食事を並べ、兵士が仕留めた兎や鳥の串が焼きあがる。

兵士たちに混じって狩りをしていた異国の神々も宴席に加わった。たとえば羅馬の狩猟神は魚醤で仕上げた野牛の釜焼き、南海の航海神は大鯛と芭蕉の湯など、皆自信ありげに持ちより、互いに極上の美味を称えあった。

 

 地球から月への片道六十七日は、だいたいこのように過ぎていった。

 長征は雲の速度を正しく保ち、曲の演奏は一度も途切れず、狩りを眺めて釣りをして、三度の食事は宴会となり、眠るときは雲の上で横になった。

 音楽を聞きながらご馳走を食べ、普段は会わない相手と交流する。

つまりこれは祭りなんだと、長征は思った。

実際、長征はこの旅を楽しんでいる。生前とそれほど変わらない天体観測の日々を離れ、いかにも神仙らしい人たちと寝食を共にして、不思議な現象を身近に感じるうちに、長征の心境に変化が訪れていた。

どれほど受け入れがたい現象であっても、生前に親しんだ物理法則と異なるからと、むやみに混乱したり拒否するのは、いやしくも天文学という科学を志した者として、あまりに見苦しくはないだろうか。興味深い現象があるならば、注意深く観測し、考察し、どのような法則があるか見出すのが、科学者のあるべき姿だ。

宇宙空間に響く音は、電磁気的な作用が関係しているのか?

鹿や鳥や魚が居るなら、流体や大地を仮定してはどうだろう? 

宝艏は、あの小さな袖の中にどうやって二人分の雑多な旅荷物を収めているのか? 

などなど、気になる現象をあげればきりがない。

ともあれ、まず長征が注目したのは、自分たちの乗る金色の雲についてだった。飛ぶ仕組みや材料に注目し始めたら際限ないが、長征は雲を理解する手がかりになりそうな、ある矛盾に気づいていた。

北京を出発してから六十七日の間、一日一万里の速度で上昇し、雲は月着陸の待機位置に達した。北京上空六十七万里。実際には北京の直上ではなく、月軌道を目指して若干南に傾いて上昇したため、長征が雲のふちから顔を出すと、雲のちょうど真下、青い地球の真ん中には婆罗洲が位置している。婆罗洲の北に、出発地の北京が見える。

当然ながら、地球から遠ざかるほど地球は小さく見えるようになる。毎日見える地球の大きさを竹鉛筆で手帳に記録し、一日に雲が進む距離を測ってみると、きちんと一万里だった。制限速度以上が出ないかと試してみたが、雲には何の変化もなかった。金色の雲は馬鹿正直に速度を守っているはずなのだ。

長征は考え込んだ。

北京を出発して以来、雲は延々と上昇のみを続けてきたため、いつも雲の直下には北京が位置していた。長征は、それがどうにも腑に落ちない。

北京からこの雲を観測すれば、毎日一万里ずつ上昇して行くように見えただろう。六十七万里で上昇を止めれば、この雲が空の同じ場所にずっと留まるように見える。そこまではいい。

では、もし自分が他の星、金星や火星など他の惑星や太陽から、地球と金色の雲を観測したらどうなるか。他の星から眺めたときの雲の運動は、地球との距離を六十七万里に保ちながら、一日一回、地球の周りを一周する。

雲の運動は、地球からの距離六十七万里の円軌道となり、その円周は四百二十七万里。雲は地球の自転に合わせて周回するので、軌道上を人工衛星のように一日四百二十七万里の速度で運動しているのだ。一日一万里の制限速度を、あまりにも超えすぎている。

しかしながら、天界の官吏も、この雲の性質を知らず知らずに利用していた。

出発前に月への飛行について問い詰めたとき「一日十五万里進む月には、一日一万里の雲では追いつけないはず」という長征の疑問に「雲で月の通り道まで行き、昇ってくる月を待つ」と宝艏は答えた。

たしかに地上から見れば、月の軌道で止まっている雲が、東から昇ってきたお月様を待ち構えるように見えるだろう。しかし他の惑星や太陽から見れば、一日十五万里を進む月に、一日四百二十七万里を進む金色の雲が着陸する。のろのろ動く月に、月の三十倍の速度をもつ雲が突っ込んでいくように見える。追いつけて当然、というわけだ。

どうやらこの雲の速度制限は、北京や地球のように、基準とした地点から見て一日一万里ということらしい。他の星から見て異様な速度になっても問題なく、そして基準に設定できるのは地球だけではないようだ。雲が月に着陸すれば、雲は地球に対して月と同じ、一日十五万里で運動することになり、速度制限を破ってしまう。宝艏曰く「走ってくる馬車を待って、飛び乗るように」すれば、雲は自然と、基準を月面にするのだろう。

なんの役に立つかも分からないが、そうして雲の性質を理解できた手ごたえは、不思議な現象に狼狽するだけだった長征にとって、科学者としての矜持を自ら確認する良い機会だった。

 

 いよいよ月面への着陸である。

「指揮杖をしっかりと持って、月に降りたつよう、雲に念じてください」

 宝艏の指示に、東から迫る月をにらみつける。

着陸予定時刻は二十三時。夕方には杏子の種のように小さく見えていた月は、大盆ほどになった。地球での月齢は満月の頃だが、軌道で着陸を期する雲からは、地球から見えない裏面を、表面と半々にこちらに向けた、半月に見える。

雲は舳先を月に向け、長征が指揮杖で雲のふちを叩くと、雲は地球から見ても移動を始めたのだろう、月がより速く迫ってくるように見えた。

もはや月は丸みを帯びた天体ではなく、景色の半分を占める大地となり、雲の舳先の向こうに、壁のようにそそり立っている。

白く輝く月の、わずかに灰色に染まった静の海に向け、雲は月との相対速度一日四百万里で下降を続ける。みるみるうちに、月輪のしわは山脈となり、白い輝きは砂漠になり、灰色の部分は荒野となり、遠くからは見えなかった月の大地の細かな形状が、手に取るように見えてくる。

雲は速度を落とさず、舳先をまっすぐ月に向け、月面の岩にぶつかる瞬間、それまで地球に向けていた底面をくるりと月の大地に向けて、その場でふわりと安定した。

「なかなか肝が冷えるな」

 長征の思い描いたとおりに雲は動いてくれたが、実際やると、ずいぶん恐ろしかった。

「太白様にお貸しいただいた、かしこい雲ですから、我々を危ない目にはあわせませんよ」

「この雲は生きているのかい?」

「草木や岩も、心を持つでしょう?」

また研究対象が増えてしまったと、竹鉛筆で手帳に記録する。

 

月面は白く乾いた砂漠のような、とても寂しい場所だった。粉っぽい砂に覆われた岩だけがどこまでも続き、楽隊の曲も静寂に飲み込まれていくようだった。

輝く満月の、東の端の方に着陸したので、太陽は西の方に傾いて見える。月には光を散乱する大気がないため、太陽が地面を明るく照らしているのに、空は暗く、夜空の星が見える。地球は下弦の月のように細く輝いて太陽に寄り添い、夜の部分に、胡麻を散らしたような都市の明かりが見える。

雲は月面の岩すれすれに浮かび、その場に留まる。月面の雲は、もはや地球から見た一日一万里の制約から抜け出している。もっとも、今度は月面で一日一万里の制限があるようだが。

「さて、どこに向かうか」

 静の海の、溶岩洞窟跡を利用して作られた月面の地下基地を目指し、長征は雲を月に着陸させた。一日四百万里の相対速度で、軌道上から目的地に直接着陸するのは難しいため、まずは月面に着陸し、それから王篤徳の没地を目指そうという段取りだった。

 雲の高度を少し上げて、あたりを見渡すが、砂漠ばかりで何もない。

もう少し高度を増して、高いところから探して見るか。と、長征が思っていると、宝艏が袖を引いた。

「何か聞こえます」

 長征は合図して、楽隊に演奏を止めてもらうと、たしかに遠くで祭囃子が聞こえる。

 ためしに太鼓を強く叩いてもらうと、しばらくして向こうも叩き返す。音の反射でないのは、音色の違いから明白だった。ついで、笙と弓だけの演奏をさせると、あちらは笙と弓以外の楽器を鳴らしてひとつの曲を奏でだした。

 指揮をしていた楽団長が「あちらの方角から聞こえてきます」と腕を延ばして示した。

 長征は高度をそのままに雲を進める。

音楽はいよいよ大きくなり、やがて地平線の彼方で花火が揚がった。

 

 月面にあいた巨大な穴は、かつて月ができて間もない頃、溶けていた表面が徐々に冷え固まり、最後に残った溶岩が流れ抜けて出来た物だという。真空や放射線に脆弱な人界の人間たちは、宇宙への足がかりとするため、月の大地の洞窟に基地を作っていた。

 月面、静の海の竪穴基地のほど近く、常に西の空に故郷の青い地球を望む小高い山が、祭りのような盛況を見せていた。

 金色の雲で上空から眺めるその様は、新年の祝いか、重陽の市か。顔つきも服装も異なる様々な人たちが、屋台で食事を買い求め、方々で楽器をかき鳴らす。

「どうやら、あの山の頂のようです」

 宝艏が示した場所に雲を差し向けると、地上の皆々が雲を仰ぎ見て手を振ってくる。

 賑わいの中心である山の頂上に、小さな土饅頭があった。月面で惜しくも命を落とした同僚を、せめて故郷の見える場所に弔ってやろうと、月面基地の人々は考えたのだろう。その土饅頭の上に、宇宙開拓者の常として、頭を丸く剃り上げた、見ようによっては僧形の人物が腰掛けていた。

 ゆったりとした道服に身を包み、その振る舞いは落ち着いて、仕草は水の流れるがごとく、手には紙と筆を持つ。その男の書き物を覗き込むようにして、髭を延ばした中華の仙人や、諸肌を脱いだ白髪の老人、琵琶を抱える天竺の女神、扇を持った日本の貴人、瓶を携えた菩薩、白百合の花を持つ天使らが、朗らかに談笑している。その周りでは、帯を締めた白兎たちが、語り合う神々に、薬湯や菓子を捧げていた。

 長征は雲を頂の側に寄せ、山の斜面へと降り立った。宝艏もそれに続く。

 すると、蛙の頭をした中華の女神がやってきて拱手した。

「ようこそお越しくださいました」

 宝艏が答える。

「嫦娥よ、王篤徳のお世話をきちんと果たしたようだな。しかし、この祭りのような様はどうした?」

 蛙頭の嫦娥は、げこげこと喉を鳴らした。

「篤徳先生はこの場所から動けませんゆえ、私の宮殿から食事を運ばせておりました。学者や道士とのお話を望まれましたので、月に住む仙人にお願いしたところ、不世出の賢人がこの地に葬られたと聞きつけた各地の月の神が、こうして訪ねて来られるのでございます」

「それで人が集まって、この盛況か。いやあ、すごいなあ」

 あたりを見渡し、長征は頭を掻いた。嫦娥も喉を鳴らす。

「篤徳先生のお人柄のなせるわざですわ。さあ、先生がお待ちです」

 嫦娥が下がると、土饅頭の上に王篤徳がひざまずいていた。土饅頭を取り囲んでいた神々は数歩下がり、先ほどまでの喧騒は静まって、音楽も止み、月の空気は静寂に、そして緊張感を湛えていた。

 長征が歩み寄ると、王篤徳は深々と礼をした。長征も拱手する。

「紫金山天文台局長、李長征でございます。おむかえに参りました」

「はい」

 姿勢を保ったまま、篤徳は低く落ち着いた声で答えた。

袖から任命書を取り出し、長征は雲の上で宝艏相手に何度も練習したように読み上げる。

「任命書。幽州出身、王篤徳。冥籍に入られた貴君を、その善行に鑑み、幽州の州長に任命する。九華山裁判所、閻魔大王」

「謹んでお受けいたします」

 任命書を篤徳は礼して受け取り、立ち上がって土饅頭から一歩踏み出した。

 静寂を守っていた観衆が一気に湧き立ち、万雷の拍手に口笛が鳴る。金色の雲の上と月面の楽隊たちが、祝賀の曲をはじめた。

 没地の制約から自由になった篤徳は、あらためて長征に拱手した。

「お迎えいただき、まことにありがとうございます」

「王州長、敬語はもががが……」

宝艏の口を覆って黙らせた。たしかに州長となった篤徳の方が、長征らよりも官位はずっと上なのだが、長幼の序を守る善人に、いきなり偉ぶれというのも酷な話だ。長征は宝艏を抑えつつ、篤徳に答える。

「長いことお待たせいたしました。早速帰路に向かいますが、その前に。州長へのご就任を報告されたい方はいらっしゃいますか?」

「五年前に亡くなった、祖父と祖母に会う事は叶いますでしょうか?」

 もごもごしていた宝艏を離してやると、もう口調を注意することはあきらめたようだ。少年官吏も拱手して答える。

「冥籍入りされているご親戚は、幽州での就任式にご招待いたします。報告と申しましたのは、州長などの要職に就かれた方は、ご存命の方々の夢枕に、就任のご挨拶に立つのが慣わしなのです」

「おお! でしたら、ぜひ両親に伝えとうございます。それと、一番の親友に」

 長征は尋ねた。

「ご両親はどちらにお住まいですか?」

「二人とも北京に居ります」

 まさに、お迎えの行進の帰り道である。

「ご友人はどちらにお住まいでしょうか?」

 篤徳はにこやかに答えた。

「火星の基地で、観測員をしております」

 金色の雲からの演奏が、ぴたりと止んだ。それにつられて月面からの演奏も止まり、観衆の神々もざわつき始める。宝艏は青い顔を隠せず、王篤徳に拱手し、金色の雲へと足早に戻っていった。

「もしや彼も……亡くなっておりますか?」

 篤徳は不安げに尋ねたが、長征の覚えている限りでは、篤徳の身近に、冥籍に入る人は居なかったはずだ。懸念は別のことだと長征も分かっているが、とりあえずとぼけた。

「いえ、お元気のはずです」

 少しして再び金色の雲から演奏が始まり、あたりも賑やかさを取り戻す。

雲から王州長を乗せる輿が降ろされたので、長征は乗るようにうながし、輿と一緒に雲に戻った。

 

王篤徳を乗せた輿は、雲中央の小高い場所に向かい、長征は舳先で雲を出発させる準備をしていた。捻じ曲がった桃の木の杖を持ち、いつでも出発できる体制だ。

雲の上は相変わらず天上の音楽を奏でていたが、立ち回る官吏たちの様子が、いつもよりも忙しげだった。よく見れば、楽隊の指揮をしているのは副指揮者のようで、兵士たちの配置換えをしているのも、髭面の武人ではなく副官のようだ。

雲の首脳陣はどこにいったのかと見渡せば、雲の端、すみのほうで話している様子だった。長征もそちらに向かう。

宝艏に楽団と兵士の隊長、それに各官吏のまとめ役が、新州長を迎えた輪から離れて重い調子で話し合っていた。

「宝艏」

 長征が声をかけると、青い顔をしていた宝艏は、その場に伏して泣き出した。

「申し訳ございません! わたしの失策でございます」

「火星のご友人のことか」

「はい」

 雲の首脳陣も、悲痛な面持ちだった。宝艏は鼻を鳴らす。

「州長の就任式は三ヶ月後。この帰り道で、地上のどこにでもご挨拶に伺えます。ですが、まさか荧惑とは」

「確かに遠いな。少なくとも、およそ一億里だ」

「はい。一日一万里の雲では、どのように急がせても、片道二十七年かかります。それほどの期間、州長が官房を留守にするわけには参りません。ですが、ご友人への夢枕の礼を、新州長に欠かさせるなど、官吏としてあるまじき失策にございます」

 声を詰まらせ、肩を震わせる宝艏を見て、武人が続けた。

「それゆえ、何か案はないかと話しておりましたが、どうにも……」

「州長の乗り物の格としてこの雲に劣らず、しかも足の速い雲などは無いのかい?」

「天蓬元帥の戦雲をお借りできれば、我ら全員を乗せて往復四年ほどで済みましょうが、州長の就任式には間に合いません。それに、各国の天界を刺激してしまいます。通行を認められても、万一間違いがあれば戦になりかねません」

「それはまずいな」

 正攻法は無理か。

 袖で涙をぬぐいながら宝艏は言った。

「かくなる上は、斉天大聖様におすがりするか、欧羅巴か倭国の天界に、寺院の通行許可を求めるほかございません」

「しかし、孫悟空の雲は行進に合わず、他国の力を借りたら、中華天界の威信を貶めてしまうのだろう」

 手元の雲を見つめ、宝艏は声を搾り出した。

「それでも、王州長に、夢枕の礼を欠かさせることに比べれば……」

 宝艏が黙ると、官吏たちは次善策を検討し始めた。

州長にふさわしい乗り物を駿馬たる觔斗雲に替えるのと、他国の寺院に通行を求めるのでは、どちらが行進の格に関わるか。あまりに行進の格を貶めてしまうと、罷免、あるいは罪に問われるかもしれない。

長征は思案をめぐらし、手帳をめくる。そして、雲の性質に思い至った。

「宝艏、聞きたい事がある」

「……なんでしょう」

 肩を抱いて起き上がらせ、長征は尋ねた。

「この雲は、一日一万里しか飛べない。だが、いま月にいる我々は、一日十五万里で地球、大地の周りを回っている。一日一万里の速度を超えているが、お咎めなどはあるのだろうか?」

 何を言っているのだこの長官は、と表情に浮かべて、宝艏は答えた。

「他の星にいるなら、その星の速さで雲が動くのは当然の事です。お咎めなどありましょうか?」

 雲の性質を使って、速度を出しても問題が無いならば。

「よし。出発するぞ」

 腰が抜けた宝艏を立たせ、官吏たちに持ち場に戻るよう指示し、長征は舳先へ向った。

 

 長征は杖を振るい、金色の雲を月面から離陸させた。

 月の神々は王篤徳との別れを惜しみ、ある者は手を振り、あるいは雲に併走して見送った。

 楽隊の音楽に合わせ、雲はぐんぐんと高度を増し、やがて月の大地は輝く円盤に変わる。まだ雲の“足場”をそのままにしているので、月は雲から静止して見える。まだ、この雲は“月の雲”なのだ。

 月から十分に距離をとり、長征が地球に向けて杖を振ると、雲は地球に舳先を向ける。“地球の雲”となった金色の雲は、地球の自転に合わせて運動をはじめ、およそ一日四百万里の速度になる。すると月は雲に対して運動をはじめ、ゆっくり遠ざかっていくように見える。

 長征は練習として、地球と月に何度も杖を振り、“月の雲”にしたり“地球の雲”にしたりすることで、雲がその速度や振る舞いを変える事を確認した。杖を振るたびに、雲はくりんくりんと方向を変えるため、月や地球や太陽が行ったり来たりして、天帝楽団の演奏すら、少々乱れるほどだった。

「いったい何をしてるんですか!」

 涙目で宝艏が怒鳴る。

「こんな事をしている場合ではないのです。なんとか策を見つけなければ……」

 雲をぐりぐりと動かせば、遊んでいるように見えてしまうのは仕方ない。長征は宝艏をなだめた。

「宝艏、この雲はかしこい雲だと言ったね。さきほど月への着陸で見せてもらったが、どんな速さで星に向かっても、きちんと着地してくれるだろうか?」

 一瞬、言葉に詰まり、しかし宝艏はうなずいた。

「はい。太白様のお雲です。どんな速さでも、きちんと着地してくれるはずです」

 長征は手帳を取り出し、紫金山天文台で記録した、各惑星の位置を確かめた。惑星の座標を頼りに、星空を見渡せば、太陽の横手に赤く光る火星が、振り返れば茶色に光る惑星が見える。

 長征は杖を握り締め、茶色の星に向けて振るった。

 しかし、何も起こらなかった。杖を向けたまま、長征の額に汗が流れ落ちる。

 永遠とも思える数秒が経ち、長征が杖を向けた意図をようやく悟ったのか、金色の雲は、底面をくるりと茶色の星に向け、舳先を赤い火星に向けた。

そして地球と月は、恐ろしい速さで雲の後方へと飛び去った。

 まばたきする間に地球と月は輝く点となり、離れていた二つの点の間も縮まって、すぐに見分けがつかなくなった。天の星々の配置はゆがみ、目指す火星や、その周りに見える恒星は青に、船の後ろに見える星は赤に、その色さえ変わった。金色の雲が、異常な速度で運動しているのは明白だった。

「いったい、何をされたのですか?」

 不動のはずの星座さえ歪む、まさに天変を目にし、宝艏は長征に尋ねた。

「実際に動くという確信は、なかったんだけどね」

長征が振り返ると、王篤徳も輿から降りて舳先へと来ていた。

感激のあまり拱手して、王篤徳は言った。

「李先生、まさかこの目で星虹が見られるとは思いませんでした」

「光速の三割ほどですから、完全な星虹とは言えませんが。それでも進行方向の星は青っぽくなっておりますよ」

 篤徳を舳先に招き、星の色合いの変化を眺めさせる。

「おお、光波長の短縮が、これほど見えるものなのですね。どうやって、このような速度を得られたのですか?」

 篤徳の横に立つ宝艏も、繰り返しうなずくので、布冠の銀鈴がちりちりと鳴る。

 長征は軽く咳ばらいした。

「この雲は、生前の我々が親しんだ物理とは、まったく異なる法則で運動します。基本は一日一万里、すなわち日速五千六百公理の速度しか出せません。しかしそれ以外に、どれほど地表から離れても、星の自転と同期し、基準とした地表から見て、常に空の一点に留まる性質があるのです」

 篤徳は唇に拳を当てて考えた。

「一日一万里というのは、基準とした星から見ての制限なのですね。雲が惑星表面から離れても、同じ地点の直上を保つなら、自転と距離に比例しただけの速さを得ることが出来るはずです」

「そうです。そして……」

 長征は篤徳と宝艏を雲のふちに招いた。

「私はさきほど、雲の運動の基準を木星、天界で言うところの歳星に設定しました。いまこの雲は、木星のとある表面の、真上を保つように運動しているはずです」

「木星の自転周期は九時間、木星と太陽の距離は、五点六天文単位、雲と木星の距離もおよそそのくらいと仮定しまして……なるほど、光速の三割ほどですね」

 長征は手帳に記した惑星の座標を篤徳に示した。

「そしてこの時期は、ちょうど木星地球間の距離と、木星火星間の距離が等しくなっています。木星の赤道傾斜角を加味しますと、南緯三度ほどの場所を基準にすれば」

「なるほど! ちょうど地球から火星への軌道になるのですね」

「あ、あの……」

 長征と篤徳が話し込んでいると、宝艏はおずおずと尋ねた。

「歳星を地面とみなし、地面に合わせて動く雲の性質で、この速さを得ているのですか?」

「そのとおりだよ、宝艏」

「どのくらいの速さなのでしょう?」

「そうだな、ざっと……」

 長征はついと上を見た。

「一日百三十億里だ」

 息を呑んだ宝艏の鈴が鳴る。

光の点だった火星が、にわかに大きくなったかと思う間もなく。

かしこい金色の雲は移動しながら底面を火星に向け。

宇宙空間を飛んでいた雲は、光速の三割という超高速で大気圏に突入し。

乗組員一同が瞬きする間に、雲は火星の赤い大地の上に浮かんでいた。

 

火星の開拓基地で、中国人の張朋は、荒れた日々を送っていた。

二ヶ月ほど前、学生時代から共に学び競い合ってきた無二の親友、王篤徳が月の基地で死んだと報せを受けたのだ。

火星の開拓に来て、もう五年は会っていない。忙しくて連絡もあまりしていなかった。しかし、張の知る限り、篤徳ほど真面目な良い奴はいない。そんなあいつが夢半ばで死んでしまうなんて、やはりこの世には、神や仏など居やしないのだ。

何をやってもどうせ人は死に、死んだら何も残らない。そんな厭世観に蝕まれ、ここしばらくは、農業試験で収穫した穀物から作った、酷い味の密造酒をかっ食らい、昼も夜もなく、寝転がってばかりいた。

その日も張は、昼から酔って眠っていた。

すると、どこかから呼ぶ声があった。

「なんだよ、うるせえな」

 懐かしい声に目を覚ますと、枕元に月で死んだはずの王篤徳が立っていた。

 皇帝のような立派な着物、宝石のついた冠をかぶってはいるが、間違い無く篤徳だった。

「篤徳、お前、死んだんじゃなかったのか!?」

 照れくさそうに笑うしぐさも、昔のままだ。

「そう。死んでしまったんだが。生きていた頃の行いを評価されてね。死後の世界の、北京の知事をすることになった。今日は、その挨拶に来たんだよ」

「そうか。まあお前なら、知事にでもなるだろう」

 篤徳の後ろには、大昔の鎧を着込んだ兵たちや、柔らかな羽衣を着た楽団、多くの仙人たちがつき従っている。傍らには、眼鏡をかけた景気の悪そうな顔立ちの緑色の服の男と、泣き腫らした目の黄色い服を着た子供が立っていた。

「挨拶か。もう会えないのか?」

「先に行くだけさ。まあお前の寿命は、あと五十年はあるそうだがな」

豪勢な音楽が鳴り、篤徳の足元から金色の雲が湧き上がった。

「待てよ、もう行っちまうのかよ!」

「お前が善い事をするなら、向こうで会えるさ」

「待て! おい!」

 去り行く親友の着物を掴もうと、張朋は叫んだ。

「篤徳!」

 手を宙に伸ばし、張朋は目覚めた。

 あいつ、すごい格好をしていたな。と、思い出すと、自然と笑いがあふれてくる。

 口を覆った手のひらに、伸びた髭の感触がした。

にやけ顔のまま起き上がり、張朋は髭を剃りに、洗面台へと歩いていった。

 

 地球の月軌道近傍、静寂の宇宙空間に、突如金色の雲が現れた。

 火星を出発してからおよそ九時間。木星の自転一回分乗り、光速の三割で地球圏に突入した金色の雲は、適当な場所で一日一万里の速度に戻った。

 さすがに慣れたようで、楽隊は変わらず行進曲を奏でている。

 そろそろ食事の時間なのか、船尾では煙が上がり始めた。

「他の惑星を使えば、一瞬で北京に帰れるが、どうだい?」

 宝艏に尋ねると、少年官吏は布冠の鈴を鳴らして答えた。

「すべての指揮権は李局長にありますが……」

 言いづらそうに続けた。

「あまり早く到着したり、予算を使いきらないと、少々困った事になります」

「なるほどな」

 苦笑いして長征は地球に向け、杖を振るった。

雲は一日一万里の速度でゆっくりと、地球に向けて降下をはじめる。

「よろしいのですか?」

「なあに、のんびり行くさ」

 死んだ長征に、どうせ時間はたっぷりあるのだ。

 復路の二ヶ月、六十七万里。

 楽隊は天上の調べを真空の宇宙に響かせ、兵士は狩りで武具の冴えを見せ、雲は中華の威信を示す適切な速さで、おむかえの距離を行進していった。

 

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