梗 概
ペットアイドル
アパレルメーカーに勤めている藤井京子が帰宅して最初にすることは、家で待っていたペットに、今日の出来事を聞いてもらうことだった。
「あたしはあの部長が大嫌いだ」京子は吐き捨てるように言った。「あいつ影でコソコソ話しやがって、マジでクソ。おい、おまえに喋ってんだぞっ」
「にゃあ」
話しかけられたペットは目を覚まし、怪訝な顔をしている。
京子はネコの首にチェックのリボンを巻きなおした。金属のワイヤーが入った切れないリボンだ。
2084年の日本では、遺伝子工学のおかげでペットの知能を人間並みに引き上げることができるようになり、様々な知能ペットが販売されていた。新卒5年目の京子は、それまで飼っていた天然ネコが死んでしまったので、ボーナスをはたいて念願の知能ペットを手に入れた。体長30cmくらいのマンチカンで、名は垂水と言う。
京子は週末のたびに、人型アンドロイドの頭に乗った垂水と一緒に外出して、お店に入ったり、食事したりした。街はペットとデートしたり談笑したりする人々であふれていた。ペットが乗るアンドロイドは人間と区別がつかないほど精巧にできていたので、頭乗りペットは愛玩動物にも、彼氏や彼女にもなる便利な存在として人気だった。
銀座のレストランで京子は垂水に言った。「また部長のヤツがあたしのケツをさわったんだよ。マジ一家を皆殺しにしてえ」
「そんな、できもしないこと言うんじゃねえよ」
垂水にたしなめられた京子は、肩をすくめた。「でもおまえはこうやって話し相手になってくれるからいいよ。前のネコは張り合いがなくってさ」
「どんな猫だったんだ」垂水が京子に訊いた。
「しばらく一緒にいたけど、あんまり覚えてない。人の話も聞いてんだか、いないんだか、よくわかんないし。ある日起きたら、冷たくなってた。動物って死ぬとき、痛みにのたうち回ったりしないんだよ」京子はビールグラスを掴んで、ぐっと飲み干した。「それより聞いてよ。会社に入ってきた今年の新人、使えないんだよ最悪」
猫は犬のように朝晩の散歩が必要ない。犬の飼い主には散歩仲間がいるものだが、京子は家にいる時間はずっと垂水と話している。趣味もなく、会社以外のコミュニティを持たない京子の話は、いつも会社のことだった。
ある日、垂水は猫風邪をひいて、くしゃみと鼻水に悩まされていた。それでも深夜2時位まで京子の話に付き合ったあと、小さくつぶやいた。「いいかげん仕事の話なんか、聞きたくねえんだよ…」垂水は続けた。「あんたのことはもう何も聞きたくないんだ」
突然のことに、京子は目を大きく見開いた。「あたしがキライってこと?」
「いや、そうじゃない。けど夫婦だって、家で会社の話ばっかりしないぜ」
京子は肩を震わせた。
「あたしがね、彼氏作らないの、なぜかわかってる? おまえがいればいいんだからね。おまえのことこんなに思ってるんだよ。何が不足なんだよ」
「そんなこと、おれには関係ない。あんたに買ってもらってから、ろくなことがなかった」垂水は台所に立って、魚肉をひと舐めし、すぐに戻ってきた。「何でもいいけど、あんまりおれにすがらないでくれ」
「あたしが何か、おまえに嫌なことしたわけ?」
垂水は答えなかった。ずいぶん前から、垂水は京子と過ごす日々にあきあきしていた。他人を貶めることで精神のバランスをとるような女の聞き役は、もうまっぴらだった。
京子が仕事に出かけている間、毎日家で動画を眺めていた垂水には夢があった。アイドルになって、三万人の大観衆を魅了するのだ。彼はダンスサークルに入っている女子大生の青木あずさを見つけ、頭に乗る契約をする。目指すのは、あずさがアンドロイドとして踊り、垂水が軽妙トークを繰り広げるペットアイドル。
垂水は京子に内緒で、あずさとの濃密な時間を過ごしはじめる。
一ヶ月後、垂水たちはオーディションで優勝し、メジャーデビューを果たした。垂水は初のペットアイドルとして活動を始め、確かな地位を得ることになる。ツアーの打ち上げの後、勢いであずさと一晩過ごした垂水は、京子の留守宅に帰ってきた。ガランとしたリビングでテレビをつけると、自分が出演した番組が流れていた。
「あずさのダンスはさすがだなあ」
「あずさって名前なの?」いないと思っていた京子が後ろに立っていた。面食らった垂水は答えた。「あ、ああ、アンドロイドにも名前があったほうがいいかなと思ってさ。ありふれた名前だろ」
久しぶりに垂水は京子の膝に抱かれた。
「もうそろそろ、アイドルやめたらどう」京子が言った。
「あんたのペットに戻れっていうのかよ」
「なけなしの金でおまえを買ったのはあたしだ。ゆうべはどこにいたんだよ」
「金なら、おれのギャラは全部あんたのもんだ。おれはペットなんだから」
「金の問題じゃない、気持ちの問題」
「もう愚痴を聞くのは嫌なんだ。そんな話ばかり聞いてると、あんたの毒にあてられて気持ち悪くなる」
「うるせえっ、この野郎。あたしはおまえの主人なんだ。あたしのやることに、ケチばっかつけやがって、気に食わないんだよっ」
もう京子とは一緒に住めない。垂水は家を出て、あずさの家に向かった。俺はあずさとアイドルを続けるんだ。みんなのペットになるんだ。そう思いながら扉を開けると、あずさが仰向けに首を絞められて死んでいた。
垂水は死体に近づいて、顔をなでてみた。夜が更け、垂水はぐったりしたあずさを抱いて、涙を流してしくしく泣いた。死体の横に、チェックのリボンが落ちていた。
文字数:2251
内容に関するアピール
面倒な人間関係から距離を置き、いつでも精算可能なペットと暮らす人々が増えている。人が精神のバランスを保つために、ペットの役割は大きい。
スピーカーにさえ話しかけるようになった我々は、未来のペットにもっと濃密なコミュニケーションを求めるようになるだろう。やがて彼らが人と会話できるレベルの知性を獲得したとき、人とペットの関係は変わるだろうか?
垂水は、京子を癒やし、話し相手になるために買われたペットである。しかし、話し相手になる程度に人間性を獲得したペットにはまた別のペットが必要だ。垂水は面倒な人間関係から離れ、自分の夢を実現するために女子大生に乗ることにした。垂水にとって、あずさはアンドロイドと同じガワに過ぎなかったが、やがて自分の体の一部のように感じるようになっていく。
それは不倫だ。垂水とあずさがお互い欠かせないパートナーとなったとき、京子はそんなペットの存在を認められない。
文字数:395
知能ペット
暗い住宅街を30分以上歩き続けて、女子大の正門を通り過ぎ、「刀剣」という古物商の物騒な看板が見えてきたら、我が家はすぐそこだ。まだ週初めの月曜日だと言うのに、深夜1時をまわってしまった。どこからか犬の遠吠えが聞こえてくる。
本当にこのところ、ついてないことばっかりで嫌になる。残業して、終電3つ前の各駅停車に乗ったのに、快速停車駅でサラリーマンが車内で騒ぎ出し、電車が運転を見合わせてしまったのだ。正確には、酒に酔ったサラリーマンと彼の連れのアンドロイドが電車内で言い争いになり、アンドロイドを殴ったサラリーマンが駅のホームに引きずり出されて、ホームの反対側に転げ落ちて通過電車にはねられたんだ。はねられた死体は、跡形もないほどバラバラになったらしい。
あたしが最寄り駅に着いた時には、西口改札はシャッターで閉鎖されていて、駅員が乗客を中央改札に誘導していた。駅ビル前のタクシー乗り場は50メートル以上の列ができていて、亡霊のように立っている帰宅者たちを見たら、思わずため息が出た。いまから列に並んで待つ元気はないから、とりあえず早く家に辿り着こうと、歩いて帰ることにしたんだ。
夕方降った通り雨のせいで湿った道路を、延々と歩いている間、あたしは会社の出来事を反芻していた。今日は会社で腹の立つことがあったんだ。今、思い出してもムカムカする。というのも、午前中にあった30人ほどの幹部を集めた社内会議で、上司からお茶出しを命じられたからだ。あたしはこの会社で働き始めて、もうかれこれ10年になる。アパレルメーカーと言うこともあって、社内の男女比はほぼ半々で、社内の倫理委員会でも毎年セクハラ研修が行われているのに、未だに女性だという理由でメイド役をやらされる。もちろん自分で給仕なんかしたくないので、コーヒーとお菓子を持ち込んで、サーブしてくれるカフェ会社に依頼することにした。自分がしたことといったら時間前に担当者を受付まで迎えに行き、提供するタイミングを伝えただけだ。だって私の専門はお茶出しじゃないし、会社もそのつもりで私を採用したわけでもないだろう。こういう仕事こそ、社内を歩き回って、郵便物の配達や伝票を回収しているアンドロイドにやらせればいいんだ。もしかして、あたしはそういうアンドロイドと同程度だと思われてるんだろうか…。会議の間じゅう、そんなことばかり頭の中を巡って、イライラしっぱなしだった。だから会議の中身は全く覚えていない。そもそも、同僚と一緒に企画プレゼンを頼まれていたはずなのに、同僚が一人でやるからと、お茶出し係に変更されたのだ。思い切って命じた上司に理由を尋ねてみた。
「女性の方が気が効くし、いいかなぁと思って…」
あまりのことに唖然とするしかなかった。未だにこんなコトを言われるなんて本当にくやしい。こういう上司から業務命令を受けなきゃいけないなんて、うんざりだ。いったい何年我慢すれば、こういう物言いをされなくなるのだろう。イライラが募ると、仕事の能率も下がってしまう。そんなわけで、明日の資料作りに深夜までかかってしまい、家路を急いでいたら、今度はサラリーマンの転落事故に遭遇したんだ。この世からオッサンが絶滅したらどんなに素敵だろう。
あたしは家の扉を開け、Tシャツに着替えてメイクを落としてから、垂水を抱いて、その綿毛のような体に顔を擦りつけた。垂水というのは、飼っている猫の名前である。ペットには、人間らしい名前をつけるのが最近の流行だ。これからゆっくり作りおきのパスタを食べながら、今日の出来事を聞いてもらうんだ。あたしは眠りこけているスコティッシュフォールドの垂水に言った。
「あたしはあの上司が大嫌いだ。あいつ、あたしを何だと思ってんだよ、ろくに仕事も出来ないくせに、マジでクソ。おい、おまえに喋ってんだぞっ」
「にゃあ」
垂水は目を覚まし、怪訝な顔をしてこっちを見つめている。
「おまえに言ってもわかんないよな。ただの猫だし」
あたしは垂水の首にぶら下がっているチェックのリボンを巻きなおした。金属のワイヤーが入った切れないリボンだ。
垂水が死んだのは、バジルの香りが混じった蒸し暑い風が、網戸から吹き込んでくる夏のまっさかりだった。「さよなら」と、あたしは垂水を抱き上げて言った。何度も何度もその言葉を繰り返しながら強く抱きしめたので、体に手形の凹みがついてしまった。結局、最後まであたしになつかない猫だった。
その後すぐに垂水の遺体を焼却場の受付に運んで処分してもらい、新しいペットを手に入れるために、ペットショップに立ち寄った。実は去年から新しいペット用に積み立てをはじめていた。ボーナスは丸ごと貯金に回したから、計画より早く100万円が貯まり、それを頭金にして念願の知能ペットを購入することにしたんだ。
2037年の日本では、遺伝子工学のおかげでペットの知能を人間並みに引き上げることができるようになり、様々な知能ペットが販売されていた。人間はペットに癒しを求めるものだが、それは人間側の一方的な思い込みに過ぎない。もともとペットは、食べ物をくれるから打ち解けたり甘ったれたりするだけで、主人のことなんか何とも思ってやしないものだ。その証拠に、一人暮らしの主人が心臓発作か何かで倒れてしまって食べ物がなくなると、猫や犬は主人を食べるという。
しかしそんな殺伐とした主人とペットの関係も、言葉でコミュニケーションできるようになると変わるらしい。2030年頃に最初に登場した知能ペットは、アンドロイドと同じような会話しかできなかったけれど、それでもペットが話すと言うだけで業界に衝撃を与えた。知能ペットの魅力が口コミで知れ渡ると、数多くのベンチャー企業が知能ペット開発にしのぎを削るようになり、無駄に最新技術が投入されて、その知能はあっという間に人間の成人レベルに到達したんだ。主人がつらい時や苦しい時に話し相手になってくれるペットは、時に家族以上の存在になるらしい。愛玩動物にも、彼氏や彼女にも、時には親にもなる便利な存在として、知能ペットの人気はうなぎ登りだった。
あたしは天然猫の垂水と暮らしている間も、そんなニュースを見ながら、知能ペットを飼いたい気持ちに駆られていたんだ。知能ペットを飼ってる人を見かけると、うらやみたい気持ちでいっぱいになった。垂水の折れ曲がった耳は可愛くて大のお気に入りだったけれど、知能ペット情報を集めながら、次に飼うのはダックスフンドのような短足の猫、マンチカンがいいかなと想像を膨らませていた。だから垂水が死んですぐにペットショップに予約を入れたんだ。そしたら3日もしないうちに、片方の耳が茶色で、もう片方が白い子猫があたしのものになった。目はくりくりとして、潤んだその瞳にあたしの顔が映っている。名は宮尾にするつもりだ。
あたしは週末のたびに、宮尾と一緒に外出して、お店に入ったり、食事したりした。ちょうど三ヶ月前のテレビ番組で、アンドロイドの後頭部を取り外し、そこにペットを乗せるアイデアが紹介されて、ペットとのお出かけはブームになりはじめていた。渋谷や表参道でも、アンドロイドの頭に乗ったペットと、デートしたり談笑している人々を見かけることが多くなった。もちろん、あたしもアンドロイドの素体を買って宮尾を乗せてみた。中古の素体は価格もリーズナブルで、これさえあればペットに汚れた道路を歩かせなくて済むし、ペットと同じ目線で、同じように車や電車に乗り、椅子に座ってお茶することができる。頭に乗った宮尾は上手にアンドロイドを操った。素体に、年代物のクリスティアーノ・ロナルドモデルを選んだからだろうか。あるいは、あたしが若い頃のジェニファー・ローレンスにそっくりだからだろうか、あたしと宮尾が二人で街を歩いていると、街行く人々があたし達を振り返る。最初は筋肉の動きを見せたくてアンドロイドの上半身を裸にして連れ歩こうかと思ったけれど、さすがに下品だと考え直してタンクトップを着せている。20年以上前のモデルにも関らず、年々進化するAI技術にキャッチアップできるよう頭脳部分は取り外しが簡単で便利。まあ、どうせペットが操縦するんだから、正直AIの性能なんかどうでもよくって、大事なのは体や顔の美しさなんだけど。特にこのモデルはイケメンな上に、足の筋肉が盛り上がっていて、下半身の形ならどんな型にも負けない。あたしたちは、絶世の美男美女カップルというわけだ。
あたしはデートのために予約した銀座のレストランで宮尾に言った。
「また部長のヤツがあたしのケツをさわったんだよ」
「まあ、その容姿じゃ仕方ねえかもな」と、宮尾は言った。
「マジあの一家を皆殺しにしてえ」
「そんな、できもしないこと言うんじゃねえよ」
タンクトップの生地から美しい筋肉が浮き出した宮尾にたしなめられて、あたしは思わず肩をすくめた。
「でもおまえはこうやって話し相手になってくれるからいいよ。前のネコは張り合いがなくってさ」
「そいつはどんな猫だったんだ」
「10年くらい一緒にいたけど、もうあんまり覚えてない。今考えるとつまんないやつだった。あたしの話も聞いてんだかいないんだか、よくわかんないし」
「おれが来る前に死んだって言ってたな」
「ある日起きたら、冷たくなってた。動物って死ぬとき、痛みにのたうち回ったりしないんだよ」
あたしはビールグラスを掴んで、ぐっと飲み干した。
「それより聞いてよ。会社に入ってきた今年の新人、使えないんだよ最悪!」
猫は犬のように朝晩の散歩が必要ない。犬の飼い主には散歩仲間がいるものだが、あたしは家にいる時間はずっと宮尾と話している。プライベートで他人と付きあうことはほとんどないし、これといった趣味もないから、話すことといったらどうしたって会社のことになってしまう。毎日眠くなるまで、何時間もソファーに座って宮尾を撫でながら、会社で起きた出来事を語り明かすのが日課だった。週末は街に出てデート気分を味わうんだけど、やっぱり愚痴が多くなってしまう。
「あんたも大変なんだな」
「あいつら何にも知らないんだよ。そのくせに情報を集めようって気がないから、いつまでもろくな仕事ができないんだ。どうしてあんなズブの素人を入社させるんだろうな」
「さあ、そういうことは何ともいえない」
「相手の気持ちになって考えられないの。気が回んないっていうか」
「ああ」
宮尾は生返事をした。これはもう眠いって合図だ。その証拠に目がショボショボしている。今日のところはそろそろ終わりにして、帰ってベッドに入ることにしよう。
次の朝起きてみると、宮尾はくしゃみと鼻水に悩まされていた。このところ熱帯夜続きで、一晩中クーラーをかけていたから、猫風邪をひいたに違いない。かわいそうだが、あたしは今日も会社に行かなきゃならない。体を抱き寄せてみたが、宮尾は「おれは大丈夫だ」と強がっている。あたしは宮尾が寂しくないようにと、テレビをつけっぱなしにして玄関の扉を閉めた。
その日は宮尾の風邪の具合が心配で、定時に会社を出た。夕暮れの住宅街は色味が抜けてグレーに染まり、冷えた空気が通り抜けている。家に着くと、相変わらず鼻水を垂らした宮尾が待っていた。
「暑いな、この部屋は」あたしは言った。
「けどクーラーは苦手なんだよ」
「気分はどうだ」
「もう大丈夫。ずいぶんいい」
宮尾はあたしのほうをじっと見つめながらきいた。
「なあ、トウェンティ・ネバーンってグループ知ってる?」
「なんて言った?」
あたしは台所でやかんを火にかけながらきいた。宮尾に温かい紅茶でも入れてあげるんだ。
「トウェンティ・ネバーンだよ。今日、テレビに出てた。クイーンズゲート事務所に所属してる」
「なんだ、アイドルか」
「アイドルだけど、ダンスがヤバイんだ」
今考えると、あれは宮尾がアイドルにハマるきっかけだった。その日から、宮尾はトウェンティ・ネバーンについての情報を集め、配信をチェックし、自分の小遣いからグッズを買い揃えはじめた。最初の頃は少しぐらいの浪費は大目に見ていたが、あいつは真剣だった。
一週間が経ち、台風が接近して不安定な天気が続いていた。気圧が変化すると、なぜか気分も沈みがちになる。宮尾もよくため息をつくようになった。そろそろアイドル情報にも飽きてきたのかもしれない。
「何か、嫌なことでもあったのか?」
「あんたはライブとか行かねえのか?」
「いかないね」
「やっぱりな…だと思った」
「失礼な言い方だな。あたしだってライブくらい行ったことあるぞ。15年くらい前にA席が取れたんで喜んでいったら、ステージの最前列の左端でよく見えなかったことがある。それが最後。最初に座席のブロックを確認しておかなかったのがまずかった」
宮尾はあきれたというように首を振った。
「見えるとか見えないじゃなくってさ、同じ空気を吸ってるってのが大事なんだよ。おれも一回、行ってみたいんだ」
「タオルでも振り回しにか」
「そうだ」
ふたりは顔を見合わせて、桃フレーバーの紅茶をすすった。最近買ったばかりの新味だ。
「そんなに熱をあげたって、アイドルは振り向いてなんかくれないんだから、あんまり本気にならないほうがいいぞ」
「そんなことわかってる。付きあいたいとかそういうことじゃなくてさ、ダンスを見てると燃えて来るんだよ。一緒に舞台に立ってるような気分になる。きっと生で見たらスゲーと思うんだ」
「そんな妄想のために、ずいぶんのめり込んでるよな。金もずいぶんつぎ込んだんだろ」
「こんな楽しいこと、他にはめったにないぞ」
「最近、そのことばっかり考えてるみたいだし」
「そう、そのために生きてるようなもんだね」
「まったく、頭のおかしいヤツだな」
宮尾はしばらく黙ってから、口を開いた。
「頭がおかしいんじゃなくて、おれだってやりたいことがあるんだよ」
また意識高そうなこと言い出した。おまえのやりたいことなんかに誰も興味はないぜって口に出しそうになる。
「やりたいことって言えばさ、今日、人事に異動希望を出したんだよ。アメリカ支社の。おまえも行きたい?」
会社話を始めると、宮尾はいきなりうなだれてしまった。
「いや、英語が喋れないから無理」
「英語なんか必要ないって。あたしと話してればいいんだから」
「あんた、一緒にいたい彼氏とかいないのか? おれはペットだぞ」
「カリフォルニアだよ。すっきりと晴れた青い空に、パームツリーに白い砂浜だ。彼氏なんか必要ないだろ」
「恋愛とか興味ないのかよ」
「そういうことに熱心な新人はいるけどね。男を狙ってる結婚目的の女。見たらすぐわかる。ヨダレ垂らしてるから。そういう女に限って、将来性のない男と結婚して、会社を辞めて、子供産んで、パートして子供の塾代を稼ぐことになるんだよ」
「社内恋愛もいいと思うけどな。それで会社を辞めたっていいだろ。会社以外の生きがいが見つかるんなら」
「そんなの見つかるわけないじゃん。生きがいなんか、そう簡単に見つかったりしないもんだよ」
「あんたも、そうなのか?」
「そうだな、おまえはどうなんだよ」
「おれはペットだ。ペットにそういうものは求められてない」
「そりゃ、気楽でいいな」
「ストレスから無縁で、気楽に生きてるペットを見ていたいって主人も多いんだぞ」
あたしは敢えてつっかかるような口ぶりで答えた。
「そういう人の気持ちはよくわかんない」
「じゃあ、あんたはどうしておれを買ったんだ?」
「頭のいい人が好きなんだよ。あたし、見かけは美しいって言われるけど、バカだから」
あたしの言葉に、宮尾は同意しなかった。本当にペットが主人よりも賢かったらどうしようって考えていたのかもしれない。でもあたしは本当にそう思っていたんだ。人間でもペットでも、尊敬できないやつと一緒にいてもつまらないんだ。頭のいい人間は買えないけれど、頭のいいペットなら金で買える。そんなペットと話していれば、いつかあたしの生きがいってやつが見つかるかもしれない。だってあいつらは頭がいいんだ。生きてるだけの値打ちがわかるまで、今の仕事を続けていくつもりだ。
「そういえば、会社の敷地にパームツリーがあるんだけど、あれってココナッツの実なるのかな?」
あたしたちは深夜2時くらいまで無駄話をしていた。窓から外を眺めると、澄んだ夜空にまぶしい月が輝いていた。遠くのマンションの窓が反射して輝いている。
「最近のビルってガラスで出来てるじゃん。あれって紫外線カットしてんのかな。あたしの席は窓際だからさあ」
そのとき突然、宮尾は小さくつぶやいたんだ。
「いいかげん会社の話なんか、聞きたくねえんだよ…」宮尾は続けた。「わるいけど、あんたのことはもうあんまり聞きたくないんだ」
突然のことに、あたしは驚いては目を大きく見開き、しばらくふたりの間に沈黙が訪れた。
「あたしがキライってこと?」
「いや、そうじゃない。けど夫婦だって、家で会社の話ばっかりしないもんだぜ」
「あたしたちは夫婦じゃない。あたしが話したいんだから、いいじゃないか。ペットは黙って聞いてるもんだぞ」
「おれは普通のペットじゃない」
「そう、頭がよくって、生意気なペットだ」
「毎日、同じようなことばかり聞いて飽きたってだけだよ」
まったく、とんでもないペットだ。あたしはつい興奮して言い返した。
「あたしがね、彼氏作らないの、なぜかわかってる? おまえがいればいいんだからね。おまえのことこんなに思ってるんだよ。何が不足なんだよ」
宮尾は体を震わせてから、目をすがめて言った。
「そんなこと、おれには関係ない。あんたに買ってもらってから、ろくなことがなかった」
それから不意に立ち上がって台所に向かい、魚肉をひと舐めして、すぐに戻ってきた。
「何でもいいけど、あんまりおれにすがらないでくれ」
なんてことをぬかすんだ。
「あたしが何か、おまえに嫌なことしたわけ?」
宮尾は答えなかった。そのかわり、ずいぶん前からあたしと過ごす日々にあきあきしていたと言った。そんなことを聞かされて、どこからともなく悲しみがこみ上げてきた。
「他人を貶めることで精神のバランスをとるような女の聞き役は、もうまっぴらなんだよ」
そう言われた後のことは、よく覚えていない。「うるせえ、黙れっ」って叫んだような気もするし、もっと口汚くののしって、ベッドに向かったのかもしれない。いったいこれから宮尾との関係はどうなるのか、見当もつかない。
垂水を殺したのはあたしだ。
生き物を殺すのはなかなか大変な仕事だった。ワイヤー入りのリボンで思い切り首を絞めたけど、ペットのくせに抵抗して爪を立てて引っ掻いてきたので、あたしの腕にミミズ腫れができてしまった。頭にきて垂水の首をひっつかんで、壁に投げつけた。よろよろと起き上がろうとした垂水の頭を、蹴りあげた。ぐったりした垂水に「本当に悪いね」といいながら、首にかかったワイヤーで体を宙吊りにして、上下に激しく揺すってみた。垂水は観念したらしく、力が抜けてだらんと体が伸び切った。目尻に涙が溜まっていたが、そのまま1分くらいそのままにして、「悪かったな」とふたたびつぶやいた。
あたしはずっと垂水に癒やしてもらっていた。でも知能ペットに浮気をしたんだ。垂水はちっとも悪くないし、なにもかも気まぐれなあたしが悪いんだけど、そんなあたしが主人になったのが垂水の不幸だった。愛がなくなったら、主人がペットと一緒に暮らす意味なんかない。育てる気のなくなった子猫を捨てる人間は多いけれど、それは卑怯なやり方だと思う。自分の手を汚すわけでも、他人に渡すでもなく、ペットを殺しておいて、自分からは見えないどこか知らないところで幸せに暮らしていることを妄想してるなんてタチが悪い。
垂水を殺して、知能ペットの宮尾を買ったけど、あいつは頭がいいのであたしの話はつまらないらしい。ただ宮尾にはまだローンも残っているし、そう簡単に手放す訳にはいかない。しばらく冷却期間をおいて、関係をやり直したほうがよさそうだ。宮尾も同じように思ったのか、翌日トウェンティ・ネバーンのコンサートに行こうとあたしを誘ってきた。でもあたしはチケットを買ってあげて、一人で行かせたんだ。あたしが、ペットの生きがいなんかに付きあって、嬉しいわけないじゃないか。
それ以降、宮尾は毎週末になるとひとりでコンサートに出かけたり、コンサートで知り合った友達とバーベキューや釣り、テニスに出かけていった。そのたびに、その日のイベントを撮影した動画を送りつけてきた。動画を見る限り、宮尾はとても楽しそうで、満ち足りているようだった。それどころか、あいつは平日の夜に開かれる社会人向けのセミナーや勉強会まで探し出してきて、教養を深めるのだと夜遅くまで帰ってこなかった。来る日も来る日も、あたしのことなどちっとも見てくれなかった。主人を慰めてこそペットってもんだ。好きっていうのは、興味を示すってことだ。なのにあいつは、自分だけ楽しんでいた。それでも毎晩、宮尾はあたしの家に帰ってきた。ペットは人権が認められていないから、主人の所有物ってことになっている。関係を完全に壊すことは、あたしにもあいつにも得にならない。管理者がいないペットは、廃棄処分されるからだ。
天皇誕生日の振替休日に、あたしは女子大まで散歩に行こうと言い出した。宮尾は久しぶりに家でのんびりしていたし、このまま家の中でなんとなくいやな思いをしているのも気詰まりだった。それであたしは、ちょうどオープンキャンパスをやっている女子大に宮尾を連れていったんだ。あいつも、あたしを放ったらかして自分ばかり遊んでいたから、少しは申し訳ないと思ったんだろう、黙ってあたしに付いてきた。
キャンパス内は、道路からの照り返しで溶けるような暑さだったが、制服を着た高校生とその親たちであふれていた。あたしたちも群集の流れに乗って、構内ツアーをしながら、学生食堂で無料のカレーを食べ、学生が作っているかき氷を手に入れて、体育館前のベンチに腰を下ろした。
「こうしてふたりで出かけたのは久しぶりな気がする」
あたしは、かき氷にスプーンを突っ込みながら宮尾に言った。最初に宮尾が我が家に来たときのことは、今でもよく覚えている。ふわふわの毛で覆われた宮尾は、まだ立ち上がることができずに、はいはいをしていた。指で頭を撫でてやると泣き止んで、両腕であたしの指にしがみついてきた。あたしの両手の中にすっぽりと抱えられてると安心したんだろう、その体から緊張が消えて、眠りに落ちていったんだ。あのころは、とにかく健康で早く大きくなるようにと、そのことばかり考えていた。しかし、全てはもう過ぎてしまったことだ。あたしは宮尾を見つめながら口を開いた。
「おまえほど頭がよかったら、大学にも入れるんだろうな」
宮尾は赤いシロップのかかった氷を混ぜながら答えた。
「ペットが大学に入って、どんな意味があるんだよ」
「でも入りたい人間がこんなにいるんだぞ」
「ペットは最初から仕事が決まってるから必要ない」
「入りたくないのか?」
「ないね」
宮尾は自分のことについてなんでも答えを持っているようだった。ふと気がつくと、体育館のほうからアップテンポなダンスミュージックが流れてきていた。宮尾は氷を口に運びながら、首をまわして音の聞こえてくる方を凝視している。その視線の先では、Tシャツとジャージ姿の5人の女子大生が、体育館のガラス扉に自分たちの姿を映しながら踊っていた。そのキレのある身のこなしは素人目にも上級者だとわかった。そういえば、この女子大はダンス部が有名だと聞いたことがある。
「ヒップホップダンスかな」
「カッコいいな」
「おまえの好きなグループも踊るんだよな」
「あれはブレイキンだけどね」
宮尾はそう言って口をつぐんだ。あたしと宮尾は彼女たちの踊りをしばらく眺めていた。そのうちに中央で踊っていた学生が踊るのを中断して振り返った。切れ長の黒目がちの瞳に、ストレートヘアが風になびいている。彼女は汗拭きタオルを首にかけ、足元においてあったペットボトルを掴んで2,3口飲み込んでから、うなじに流れた汗をふき取った。宮尾が前に乗り出して、彼女を凝視しているのはすぐにわかった。いくつもの星がきらめいているような目のきれいな学生だった。
「おい、何見てるんだよ」
宮尾の耳には、あたしの声は届いていない。宮尾は顔を少し傾げたままじっとしていた。相変わらず、軽快なリズムとラップが響いている。女子大生たちは、狂ったように体を動かし続けていた。
あたしは家に帰ってきた。なぜか不意に物悲しくなって、宮尾をおいて一人で帰ってきた。久しぶりに水入らずで過ごそうと思っていたのに、宮尾はあたしより興味を惹くものに釘付けになっていた。
夜7時を過ぎて帰宅した宮尾に話を聞いたら、あれからその女子大生に声をかけ、意気投合してお茶を飲んできたのだと言う。彼女はエグザという大学のストリートダンスサークルに所属していて、近々開催されるコンテストで披露するダンスを練習していたらしい。宮尾はいつになくハイテンションで、その上饒舌だった。
「いやあ、驚いた。なんてこった」
「いったい何だよ」
あたしはいつものように急須にお茶を淹れながらきいた。
「コンテストだよ。優勝すると、メジャーデビューできるかもしれないんだってさ」
宮尾は神経が高ぶったのか、ぶるっと身震いした。たしかに昔から芸能事務所は、オーディションやコンテストで新人タレント発掘をやるものだ。全国レベルのコンテストであれば、将来性ある才能を求める事務所もあるだろう。
「そうなんだあ」
窓がガタガタと吹き付けた風に鳴ったので、あたしは立ち上がってサッシの鍵を閉め、席に戻って話を続けた。
「でも出場者を集めるための、ただの宣伝文句かもしれから、真に受けないほうがいいぞ」
「いや、それが優勝すると、どうやらクイーンズゲート事務所に所属できるらしいんだ」
「クイーンズゲート?」
「そう、トウェンティ・ネバーンがいる事務所だよ」
宮尾は自慢げにあたしに言った。
「あんたが好きなグループの?」
「そうさ。ネバーンは最高さ。キレキレのダンスがね。見たことあるだろ」
「ないよ」
「見てるだけで体が動いてくるぞ。自分の体に力がみなぎってくる」
「まあ、そりゃいいけどさ、どうしておまえがそんなに興奮してんだよ。そのグループが会場に来るわけじゃないだろ」
「うん、来ない」
「じゃあ、おまえと何の関係もないじゃないか」
「まだ言ってなかったな…いいかい、あの女子学生はグループのリーダーなんだ。彼女たちは、去年も一昨年もファイナリストになってるんだってさ。今年はダンスのレベルは今までで一番高いから、いけるんじゃないかって。ただ、優勝にはまだ足りないものがあるって言うんだよ。オリジナルでインパクトのあるアイデアが欲しいんだって」
「企画を提案でもしたっていうのか?」
「おれがメンバーに入る」
宮尾は力強く答えた。そんなこと言わないほうがよかったが、いつもの癖で否定してしまった。
「いったい、何言ってるんだよ。そんなことできる訳ないじゃないか」
「別にダンサーの一人として出るわけじゃない。おれはペットだ。女子大生の頭に乗って一緒に踊るんだよ。スゲーだろ」
宮尾のやつ、熱に浮かされて、何を言っているのかわからなくなっているのかもしれない…。いや、頭の回る宮尾のことだ、これはおそらく、遠まわしにあたしとデートするのはもう辞めたいって言ってるんだ。まったく性格の悪いやつだ。
「そうか、あたしのアンドロイドじゃなく、女子大生に乗るっていうんだな」
「ダンスコンテストまでの間だよ。女子大生と知能ペットとの共演って面白いだろ。事務所の人にもウケると思うんだよ。ただ肝心なのはやっぱりダンスだ。だからそれまでの間、猛練習することにした」
「その間帰ってこないってことか」
「いや、帰ってはくる。でもこれから毎日、日が暮れるまでは練習だ」
宮尾はまばたきもせずに、あたしの目を覗き込んできた。その目の奥には、強い決意の炎が燃えていた。
「まあ、勝手にすればいい。あたしはなんだか吐き気がしてきた」
そのとき、あたしは虚をつかれて間抜けな顔をしていたんだと思う。全身からは力が抜けていくようだった。くそっ、ペットのくせにあいつ、何を言ってやがるんだ。とにかく、宮尾は女子大生をつかまえて、一緒にアイドルを目指すことにしたって言うんだ。
それからというもの、宮尾は毎日授業が終わる夕方になると、女子大に出かけていった。家にいる間はずっと音楽を流し続け、鏡の前で動きを繰り返した。あたしは、それ以上は何も言わなかった。
ダンスコンテストは、一ヶ月後の日曜日だった。会場は世田谷区にある大学の記念講堂で、宮尾は早起きして6時に家を出て行った。一応、あたしも応援に行くと言ったけれど、いや、実際に記念講堂の前まで行ったのだけれど、扉の前に突っ立ったまま、中に入ることはできなかった。しかめ面で、コンテストの看板をじっと見つめ、決勝が終わって観客がぞろぞろと出てくるまで、会場の外で待っていた。あたしはペットに相手にしてもらいたいのに、そのペットは勝手に自分の目標に向かって邁進していて、その応援に来ているなんてバカみたいじゃないか。結局、女子大生も宮尾も、あたしが待っていた正門に姿を見せなかった。きっと、関係者出入口から出ていったんだろう。
その日は深夜2時を過ぎても宮尾は帰ってこなかった。あたしはライトを消し、タオルケットを被ってソファーに横になった。クッションを頭の後ろにまわして深呼吸したら、そのまま眠り込んでしまった。何時間かして、窓の外がほんのり明るくなってくるのを感じた。そろそろ太陽が登ってくる。また今日もぎらぎらと灼熱の太陽が照りつける暑い一日になりそうだ。あたしは朝日が昇りきらないうちに、家の前の雑草を抜こうと、玄関の扉を開けて外に出た。家の外にいれば、万が一宮尾が帰ってきたら、いち早く見つけることができる。今年の春、建物の白い塀に沿って宮尾が好きだという玉すだれを植えたんだけれど、雑草に埋もれてしまっていた。せっかく白とピンクの花が咲いても、これでは台無しだ。小一時間雑草抜きをやったら、頭がフラフラしてきたので、その場で目をつぶって立ち上がり、塀にもたれかかった。あたしは小声でつぶやいた。
「きっとそういうことなんだな。あたしのところから出て行くんだな」
軍手もせずに抜いていたので、緑色になった指先から、いやな草のにおいがした。爪には泥が入り、むき出しだった足首は蚊に刺されてボコボコになっている。こうなったら宮尾としっかり話さなきゃいけない。もう今日は会社に行く気がしない。体中が暑苦しくて、水の中にいるように息苦しくなってきた。あたしの周囲から空気がなくなってしまったようだ。玄関に座りこみ、片手を胸に当ててゆっくりと深呼吸した。
「ちっ、なんであたしだけがこんな苦しい思いをしなきゃならないんだよ」
あたしは台所に行って、フライパンで軽く焼いたマフィンを口にくわえ、クーラーを効かせた自分の部屋でベッドに倒れこんだ。
どのくらい経ったろう。目が覚めると、あたりはしんとして、物音ひとつしなかった。窓から外を眺めてみると、ビルの上に大きな月が浮かんでいる。目覚まし時計を取り上げると、7時をまわっていた。そのときようやく、玄関の鍵が開く音がして、足音をたてないように宮尾が入ってきた。あいつは静かにあたしの寝室の前を通り過ぎ、薄暗いリビングに行ってテレビをつけた。しばらくして、勇ましいダンスコンテストのタイトルコールが聞こえてきた。今日の中継の様子を見直そうとしているんだろう。あたしも一緒に見ようと音を立てずに起き上がり、息を潜めてリビングに向かった。猫のくせに、宮尾はあたしの気配を感じていないらしい。部屋に足を踏み入れる直前に、宮尾のつぶやきの声がした。
「あずさのダンスはさすがだなあ」
あたしは扉の影に立って、小さく叫んだ。
「あずさって名前なの?」
あたしの声を聞いて、宮尾は一瞬体が浮かび上がるほど面食らった様子だった。
「あ、ああ、ありふれた名前だろ」
宮尾の声は、明らかに震えていた。
「あずさとのダンスはうまくいったの?」
「ああ、勝った」
その時、大通りを救急車がサイレンを鳴らしながら走っていった。宮尾は、自分を落ち着かせるように言い直した。
「勝ったんだ。スゲー、拍手だった」
そのしゃべりっぷりは、慌ててなにかを繕っているようだった。あたしは、宮尾の本音を見通せないかと、その瞳をじっと見つめた。よく見ると、宮尾の瞳孔が開いている。恐怖を感じたり、それに対して攻撃をしようとする時に、猫の瞳孔は開くそうだ。何か助けを求めているのか? あるいはあたしを攻撃しようと考えているのか? 宮尾は続けて言った。
「大きい拍手で、なかなかやまなかった」
宮尾が家に来たばかりの頃はキトンブルーともいう青空のような目をしていた。今では、緑に近いヘーゼル色で、本当に惚れ惚れするようなきれいな目なんだ。その目を見ていると、吸い込まれてしまいそうになる。あたしはダイニングにある革製の椅子に腰掛けなおし、手招きをした。宮尾は少し落ち着きを取り戻したようで、アンドロイドの頭から降りて、あたしの膝の上にやってきた。久しぶりに、あたしは宮尾を抱いたんだ。
「もうそろそろ、アイドルやめたらどう」あたしは言った。
「聞いてなかったのか? 勝ったんだ、優勝したんだよ。それでさ、コンテストの後、クイーンズゲート事務所に連れてってもらったんだ」
宮尾の声はいちだんと高くなった。
「麻布にあるガラス張りのビルだよ。エレベーターを降りると机が並んでいて、それで事務室に入っていったら、トウェンティ・ネバーンのユウコがキャビネットに肘をついて話してたんだ。普通にそこに立ってたんだぞ」
「おまえ…」
あたしは宮尾を遮った。
「すっかりアイドルになるつもりなんだな」
「だって、ダンスコンテストで優勝したんだぜ」
「それはおまえじゃなくて、その女子大生のサークルがだろ」
「おれもメンバーだ」
「おまえ、バカだな。女子大生は思い出づくりでやってるんだよ。就活でいい会社に入るためにやってるの。内定が出たら、そこでダンスサークルから卒業するの」
「そんなことない。あずさもスゲー喜んでいた。それに、どっちみちアイドルグループはいつかは解散するもんだ。最初から解散のことなんか考えてたら活動できない」
「いいから傷つかないうちに帰ってこい」
幸運は長続きしない。わざわざ面倒なことをどうして背負い込もうとするんだろう。もう引っ返して来ればいいじゃないか。
「あんたのペットに戻れっていうのかよ」宮尾は不満そうに言った。「おれはあきらめるなんてごめんだ。あんたにはわからないだろうけど」
あたしは更にきいた。
「なけなしの金でおまえを買ったのはあたしだ。ゆうべはどこにいたんだよ」
「金が心配なら、おれのギャラは全部あんたのものになる。おれはペットなんだから」
「金の問題じゃない、気持ちの問題だ」
「そうやって、いつだってあんたは自分の気持ちを押し付けてくる。会社の上司の話を聞いたら、あんた、癇癪持ちだそうじゃないか。気に食わないことがあって、怒りに身を任せて、どうせ前のペットもあんたが殺したんだろう」
ふざけたペットだ。
「うるせえ、知ったような口を利くんじゃない。おまえにあたしの気持ちがわかるもんか」
「何度も言うけど、愚痴を聞くのは嫌なんだよ。あんたはいっつも、他人が何かをしてくれないって、そんなことばっかり言ってる。そんな話ばかり聞いてると、あんたの毒にあてられて気持ち悪くなる。おれは自分が楽しいことをやりたいんだ。あんたも好きなことをやればいいじゃないか」
「そんなもの、あったらとっくにやってるよ。おまえはあたしを楽しませるペットなんだぞ」
「そりゃあ、あんたの思い込みだ。おれはあんたのペットじゃなく、みんなのペットになるんだ」
「お前はあたしのものだ」
「もういい」宮尾は言った。「もうこんなところにはいられない。おれはあずさとアイドルをやることにしたんだ」
宮尾はあたしを見下している。あたしは毎日会社に行って、生きるために仕事してる。ケツをさわるクソ野郎が乗ってる電車に乗り、クソ野郎の業務命令に従って、誰でもできる仕事をやりながら、貴重な時間を浪費してる。そりゃいつも胸糞が悪いことだらけだ。それなのに、なんで会社の話ばっかりするんだって、上から目線で責めるんだ。そもそも、どいつも会社で仕事するために生まれたようなもんじゃないか。あたしは宮尾に吐き捨てるように叫んだんだ。
「うるせえっ、この野郎。あたしはおまえの主人なんだ。あたしのやることに、ケチばっかつけやがって、気に食わねえんだよっ」
宮尾は黙って自分の部屋に戻り、スーツケースに荷物を積めだした。家を出ていって、あずさの家にでも転がり込むつもりに違いない。もう二度と帰ってくることはないだろう。ゆうべも宮尾があずさの家にいたことはわかってる。コンテスト会場に行った後、あたしは宮尾のリボンの位置情報を追って、あずさの家を見つけたからだ。
あたしは宮尾を残して家を飛び出すと、あずさの家に向かった。元通りのあたしたちの暮らしを取り戻そうと思っていた。こんなふうになったのは、あたしがお人好しで、宮尾に好きにさせすぎたからかもしれない。あいつの本性なんて、全然わかってなかった。にっこり笑ってあたしの話を聞いてくれているんだと思っていたら、実はちっとも話なんか聞かずに、自分の生きがいってやつのために、他の女に乗ったんだ。だから、もう一度、あたしだけの宮尾になってもらう。それでも、あたしを無視するようなら、ペットはもういらない。
あたしはアンドロイドだ。主人が電車のホームから落っこちて、突然あたしはひとりで生きていかなきゃならなくなった。それでもなんとか生きてこれたのも、主人があたしの頭をアップグレードしておいてくれたからだ。あたしはそこらの低能なアンドロイドとは違うんだ。でもアップグレードが済んだ頃から、あたしみたいな美女が、あんな貧相なサラリーマンの下僕だなんておかしいと思うようになった。それまでは、主人に言われたことは何でも守ってたのに、主人はあたしの言い分など何にも聞いてくれないことに気づいたんだ。主人がいなくなって、あたしは自由になったけど、今度は何をすればいいのかよくわからなくなってしまった。それまでと同じように会社に行くことは出来たけれど、会社にいく理由なんかなかった。だから頭のいいペットに目的を教えてもらおうと思ったのに、あいつはそんなことは教えられないというんだ。あたしを愛しても、見守ってもくれないくせに、自分だけはちゃっかりやりたいことを見つけて楽しんでいる。あたしは頭のいい人が好きなんだ。頭のいい人は、あたしが楽しいって感じることを知ってるんだと思う。なのになぜあたしじゃなくて、あの女と付き合ってるんだ。あたしだって、愛するだけじゃなく、愛されたいんだ。
明日になったら、宮尾は冷たくなったあずさを見ることになる。夜が更け、宮尾はぐったりしたあずさを抱いて、涙を流してしくしく泣くだろう。宮尾のために、チェックのリボンはくれてやろう。垂水も宮尾も、あたしをないがしろにするやつは許せない。
あずさは大学から徒歩15分ほどの、5階建てマンションの3階に住んでいた。あたしが宮尾の主人だと紹介すると、あずさは家に入れてくれた。素直でやさしい女の子だった。でも、殺したほうが世のためだ。あたしは垂水にしたのと同じようにワイヤー入りのリボンを持って、後ろからあずさを押し倒して首筋を締め上げた。こいつがいなくなれば、宮尾はあたしのところに帰ってくるしかない。
「あたしのペットをたらしこみやがって、このクソ女。宮尾はみんなのペットじゃない、あたしのペットなんだ」
そう叫んだ瞬間、後頭部に強い衝撃を受けて、あたしは転倒した。すぐに起き上がろうとしたけれど、腕も足もまったく力が入らない。声も出ない。ちくしょう、運動中枢がやられたに違いない。目の前にあるダンスの練習用の全身鏡に、倒れたあたし自身が写っていた。かろうじて左目の瞼だけ動かすことができた。あたしの後頭部は潰れて、青い汁が漏れ出しているようだった。
「まだ、意識があるのか?」
宮尾の声がした。しばらくすると、宮尾が乗ったアンドロイドが鏡に写り込み、かがんであたしの瞳を覗き込んできた。どうやら後頭部を蹴られたらしい。宮尾はアンドロイドの頭からふわりと飛び降りて、あたしの目の前に立った。
「聞こえてるか?」宮尾は繰り返した。「おい、聞こえるのか?」
あたしは左目を一回、瞬きした。ああ、聞こえるさ。まだ意識はある。宮尾は鼻先を近づけてきて、フンフンと臭いを嗅いだ。その息が、顔の近くに感じられた。
「残念だけど、コンテストの日につけられてたのは気付いてた。あんたは自分のことバカだって言ってたけど、そんなことないよ。あんたは必死にやっていた。突然、主人を失ったあんたにはどうしようもなかったんだ。アンドロイドに自分の目的を設定する機能はついていない。どっちかというと、おれもあんたには同情しかないよ」
このペットめ、あたしを哀れんでるつもりなのか。
「でもね、やりたいことがなければ、無理に苦しい人生を生きなくてもいいんだよ」
そう言うと、宮尾は再びアンドロイドの頭に飛び乗った。鏡に写った自分の顔を見ていると、胸の奥にしまっておいた感情が湧き出してきた。あたしの心の内を誰かに慰めてほしかった。そうでなければ不安と恐れで押しつぶされそうだった。あたしの左目から大粒の涙が溢れ、汗ばんだ頬を流れ落ちた。まつ毛の間から、宮尾の開いた瞳孔を睨みつけた。あたしの心臓はもう動いていなかった。しだいに視野が暗くなっていくのがわかった。
「あんたは悲しいんだね。でも心配しなくていい。どっちみち、あなたの悲しみはあんた以外の人には伝わらない。さよなら」
あたしは歯をぐっとくいしばった。アンドロイドはハンマーを振り上げて、あたしの頭部を叩き潰した。
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