梗 概
人の身には過ぎたる願い
ザバイカリエ大聖堂につとめる下級輔祭ワシリィの仕事は、貧しい者の願いを拾いあげ神に届けるという報いの少ない雑事であった。このたび彼が聖堂前に集う群衆のなかに認めたのは、シルカ川の砂金取りという休みすら与えられぬ過酷な仕事で腰が曲がってしまったひとりの少年。ワシリィはその願いを聞くため、身をかがめ口元に耳を寄せた。
「――休みが欲しいと思うんだ」
喧騒のなかで微かに聞こえたのは、想像を絶した願い。
そのようなものを主に届けるための聖体礼儀(神と人を結ぶ祈りの儀式)は『マホフの祈祷書』にも記されていない。こうなっては直訴しかないと覚悟を決めたワシリィは、少年を伴ってザバイカリエ大聖堂――神の奇跡と人の欲望によって作り出された史上最大の建物――の門をくぐった。
ザバイカリエ大聖堂は、17世紀初頭に亜使徒聖マホフによって建てられた、全体がクーポル型をしており内部は鱗片のような重層構造を持つという、巨大な玉ねぎを象ったかのような建造物である。
ここで願ったことは、すべて神に聞き届けられ奇跡として顕れる。主がマホフの夢枕に立って聖堂の建隆を命じたところ、なかなか行動に移さないのに業を煮やし、ついそんな約束をしてしまったのだと伝えられている。
だが、主が叶えるのはマホフが聖体礼儀を通じて届けた願いだけであり、他の者の祈りでは奇跡は起こらなかった。そこで二代目の主任司祭が、マホフが行った典礼の手順を一冊の祈祷書にまとめた。その書物に則って祈りを捧げたところ、奇跡を再現することができるようになった。
主が聞き遂げる願いを拡張させたのが、三代目主任司祭のイシドルである。天才神学者であった彼は、今でいうところのリバースエンジニアリング的手法によって『マホフの祈祷書』の解析を試みた。祭祀を途中で止めたり、聖歌の一節を改変して、生じる奇跡の不具合を観察することにより、神と人とを結ぶ祈りの構造を明らかにしていった。
それをきっかけに、多様な願いを神に届けられるようになった聖体礼儀は複雑化・大規模化していき、祈りの場である聖堂も凄まじい勢いで増築されていったのである。
さて、ワシリィと少年が目指したのは最も神に近い場所とされている第一礼拝堂であった。(一般的な願いは、聖堂の周縁部にある800番台の礼拝堂群で祈られる。)第一礼拝堂とは、マホフが神に示された地にあった粗末な庵。聖堂はそこを覆うようにして造られ、時代を追うごとに逐次増築されていった。もはや、第一礼拝堂の場所を知るものは誰もいない。
ワシリィと少年は、自らの足が赴くがままに大聖堂の中心を目指した。聖堂は階層が深くなるにつれ迷宮のように入り組んでいく。ふたりは祭壇に捧げられた乾ききったパンを齧り、各層を隔てるイコノスタスを何枚となく潜りぬけ、ひたすら第一礼拝堂を目指した。
様々な試練を超え、とうとう二人は目的の庵へと入る。
「さあ、そなたの願いを主に届けるが良い」
ワシリィが傍らの少年に語りかけようとすると、そこには誰もいなかった。もしかするとその願いは、もとより自らの裡にあったのか。ワシリィはかつて聞いたはずの少年の言葉を思い返す。
「神様だって――休みが欲しいと思うんだ。川底をさらうみたいに人間の願いを拾い続けていたら嫌になるよね。だから」
その途方もない願いを、ワシリィは告げる。「主よ、どうか人の願いに耳を傾けることなかれ」
だが、いくら待てども何も起こらなかった。
ワシリィが失望を抱えて庵の外に出ると――そこは何もないツンドラの荒野であった。
願いは叶えられた。大聖堂は、奇跡と欲望によって鱗片が積み重ねられていく前の、ただの庵に戻ったのである。
職場を失ったワシリィもまた、労働から開放されたことになる。失業者となった彼は大きな開放感と同じくらいの不安を抱え、凍てついた大地にその一歩を踏み出した。
文字数:1592
内容に関するアピール
◯一神教において、神と人とは意思を交わすことはできません。できた人は、もはや人というカテゴリから外れた存在。人ならざるものを中心に据えてはファンタジーになります。
◯『神は沈黙せず』では、コミュニケーションの不可能性によって神の存在を際立たせていました。神と人は直接意思を交わすことができず、科学の仲介によってその存在が明らかになります。
この小説では、それとは異なったアプローチで神を捉えたいと考えました。コミュニケーションを「可能」にするものを描写することにより、神の輪郭を浮かび上がらせようという狙いです。
◯現実世界においても、人が神に意思を届ける手段がひとつだけあります。それは「祈り」と呼ばれています。(もっともこの小説のように、神に願いごとをするのは正しい祈りの態度ではないのですが。)神が応えたならば「奇跡」として顕れます。
奇跡が常態化されている世界であれば、神の存在が証明されたことになると考え、このような梗概としました。
◯なお、奇跡が必ず起こるのであれば、祈りは単なる労働となります。この小説のもうひとつのテーマは過重労働からの解放です。健康に優先される仕事などないのですから。
文字数:496
人の身には過ぎたる願い
SF創作講座事務局よりお知らせ(2018.6.25)
本作品は公募新人賞への応募のため、公開を停止しております。
文字数:55